本当に唐突だし、まったくもってどうでもいいコトなんだけど。 俺の好きな言葉は『ご飯』だ。 もしくは『昨日のご飯、何食べた?』でもいい。 俺はなによりもご飯が好きだ。あったかくて美味しくて、おまけになんだか幸せになれる気がする。 あ、ご飯だけじゃなくて、おやつも好きだが。 本当にどうでもいいコトだけど。 ご飯は俺に幸せを運んでくれる一番の素敵アイテムなんだ。今のところ。 『あらあら、そうなんだぁ』 うん。ほんとに。 『そんなあなたには、超豪華な幸せのカタマリをプレゼントです〜』 『まずは黒毛和牛フィレ肉にトリュフ風味のソース』 『もしもお魚気分って感じなら、鯛のブレゼはいかがかしら? それともエビなんかがお好み?』 ちょっと、何ですかこれは。ホントに豪華じゃないですか。 なんなんですか一体……ていうか、これ全部俺に? 『もっちろんでぇす。あれもこれもそれもぜーんぶ!』 『ええ、全部ぜーんぶ、召し上がれ。晶くん』 あれ? 俺名乗ったっけ? 『ううん。晶くんの名前知ってるのなんて、あたりまえじゃない』 『だって……ねえ』 『ね、晶くん』 『晶くーん』 『ほーら、晶くーん』 ……え? なに? ちょっとまって、まだ何も食べてないし…… ちょっとまってほんとに! お、俺のご飯っ!! 「ほらー晶くん、もう朝だぞー?」 「ほらほら、もうこんな時間だよ」 「ちょ、超豪華なご飯は? 夢のバニーさんは?」 「寝ぼけてる晶くんもかわいらしいものだと父さんは思うけど、バニーさんはここにはいないなあ」 「……」 そうだよな。夢だよな。そして朝だよな。 バニーさんが起こしにきてくれる朝なんて、どこの世界にあるんだよ。 現実はこうだよな。起こしにくるのは、父・茂樹43歳だ。 「ってか、今日祝日じゃないか」 「うん。だけどね、久々にこんな時間に父さんと晶くんが揃ってるんだから、一緒に食べようじゃないか。さあ、朝ご飯の時間だ!」 「ちなみにまだ何も作ってないんだけどね」 「……それはつまり、俺に作れってこと?」 「うーん、そうしてくれると父さん助かるなあってこと」 「……はあ」 「晶くん、これ怒ってるってことかな。すごーく怒ってるって感じがするんだが……」 「そうじゃなくて」 テーブルの上に並んだのは、トーストと目玉焼きと、オレンジジュース。 さすがにこれじゃあんまりだ、と置いてみたバナナ各一本が余計に寂しさを誘っている。 かなり悲しい朝ご飯の図だ。 「冷蔵庫に何もなかったんだって。だいたい今日が非番なんて聞いてなかったんだけど」 「そうなんだよ〜。事件が予想外に早く片付いたのと、父さんの管轄じゃなくなったのでね。ちょっとだけお休みもらえたんだ」 「そんなんで大丈夫なの? 警察」 「たぶん」 「たぶんって……ほんとに大丈夫なのかな」 にこにこしながらトーストをかじる、この父の姿。 あまりにも刑事なんて職業に似合わない。実の息子の俺でも、信じがたい事実のひとつだ。 「そんなことより!! わざわざ晶くんがお休みの日に、こんな朝から起こしたのにはわけがあるんだ……実はね」 「なに? 俺宛の手紙?」 ちょっと分厚い封筒の中身は、パンフレットと一枚の手紙だった。 「『私立鳳繚蘭学園』入学案内……?」 まるで観光パンフレットみたいな、広大な海と緑。 だけどそこにあったのは『学園』の文字だった。 なんで俺にこんなものが来るんだ? 「晶くん、それってなんの手紙だったんだい?」 「……」 あらゆる方面に対し、才能が秀でている者を集めた巨大学園都市『〈私立鳳繚蘭学園〉《しりつおおとりりょうらんがくえん》』。 全寮制の学園内には様々な研究施設や病院などがあり、それぞれ最新の機器が導入されている。 将来を担う優秀な人材が、安心してのびのびと自由に才能を伸ばせる場所―― 「ってさ……これ間違って届いたんじゃない?」 「でもほらさ、封筒にはちゃんと晶くんの名前が書いてあるよ」 「だってこれ、明らかに俺の人生と違うルートの話なんだけど」 「自分のこと、そんな風に思ってるのかい?」 「そんな風にっていうか……ん?」 「まだ何か入って……た?」 封筒からこぼれたのは、一枚のカード。 拾い上げてみると――それは俺の名前の刻印された学生証だった。 「入学許可証……この者、『私立鳳繚蘭学園』の生徒として入学を許可する。特別入学待遇者としての控除は裏面に記す……親父、何か手続きとかした?」 「いーや、まったくもってこれっぽちも」 「なんかキモチワルイな……ってうん?」 カードの裏面。特別ナントカの控除ってやつが、そこにずらりと並んでいた。 学費及び寮費の免除。特別研究施設使用の許可。学園内食堂のフリーパス。 ……ん? 食堂のフリーパス? 「ちょ、パンフレット! パンフレットもっかい見せて!!」 「……晶くん?」 「晶くんどうしたの!? 父さんの知ってる晶くんと違う目になってるよ!」 「フリーパスってことは、朝も昼も夜も思いっきり食べても大丈夫ってことか」 「しょ、晶くん? 父さんは無視かい?」 「親父!」 「は、はい」 「俺、行ってみる」 「ま、待ちなさい晶くん。そんな……よく確かめもせずにいくのかい?」 「とりあえず行ってみる」 「晶くん、ごめん。こんな超お金持ち学校、ちょっと父さん的には厳しいんだ……」 「いや、なんかカバンひとつでどーんと来いって書いてあるみたいだし……ってああ!!」 よーく見てみると、小さく日付が書いてあった。 入学手続き期限――明日じゃないか! 「あ、実はねそれ1週間前にポストに入ってて、ポケットに押し込んだままで張り込みいっちゃってね。だから急いで晶くんを起こしたんだよ」 「バ、バカ親父ッー!!」 バッグには、とりあえず必要そうな物を詰め込んだ。 地図に記された『私立鳳繚蘭学園』までは、今日の夕方あたりには着けるだろう。 行き方も調べたし、だいたいこんなでっかい島が目的地なんだ。 迷うはずもない。 「晶くん……ほんとに行くのかい?」 「いってきまーす」 「そんな軽い挨拶だけ!? 可愛い一人息子が全寮制の遠〜い学校に行くんだよ! もうちょっとなんていうかこう……」 「親父が1週間あの封筒を持ってたおかげで、その時間はない」 「……っく」 「はいはい、いってきまーす……うわっ」 「晶くん、父さんは寂しいぞー寂しすぎるからせめてこれをっ!」 「な、ななんだよっ」 「父さんと晶くんの思い出の1枚だよ。これが一番お気に入りなんだ。持っていきなさい」 「は、はあ? イヤだってこんなの」 「持っていかないと、父さん無理やりついていっちゃうぞ。職権乱用して捜査令状出して……晶くんのことが心配なんだよ」 やりかねない。やりかねないな、この親父なら。 仕方ない。写真一枚持ってくだけでこの場が丸く収まるのだ。 「わかったよ……」 「危ないことがあったらすぐ電話するんだよ! 変な人に声かけられてもついていくんじゃないよ!」 「だから、わかったって!」 「うう……いってらっしゃい」 微笑む父・茂樹と俺……。 かなり微妙な写真を学生証に押し込んで、ひとまず出発だ。 「電車の時間はっと……これなら間に合いそうだな」 「あ、あ……」 「あ、っと……、『そこを歩く少年よ、君の運命が見えるー』」 「……は?」 なんだ、この娘。 俺に話しかけてきてるのか? いや、そこじゃない。こんな住宅街の真ん中というか、むしろ俺の家出て数歩の場所で何故こんな状況が? 「『類まれなる運命を持つ少年よ、気をつけなさい』」 「…………」 「『わたしには見えーる、未来が見えるのだー』」 「『今日は家から出ぬほうがよいであろう〜』あ……あっ、ああ、あの……」 「お疲れ様でしたー」 「あぅ、あ、ああ、あっ……」 「……それ、台本。見えてるよ」 「ああぅ……『この先には不幸がまちうけているであろう〜』あっあぁ……」 よし。さっそく親父の言いつけを守ろう。 変な人に声をかけられても、ついていくんじゃないって言われたばっかりだからな。 「あっ、あー……あっ」 「さ、行こっと」 「あぅう……」 「ふー、着いた着いた。やっぱ遠いなあ」 振り返ると、長い長い橋がまっすぐ伸びている。 無人バスがあったから助かったけど、歩いたらどれ位かかるだろうっていうほど、長かった。 この橋が、島と外部との唯一の交通手段みたいだ。 孤立した島か。殺人事件なんかに巻き込まれる状況っぽいな。 ……ないだろうけど。 「ふーん、やっぱ……お金持ち学校って感じだな」 林みたいになってる道の先にある、大きな建物。 きっとあれが校舎なんだろうな。 俺の知ってる『校舎』のイメージとはかなりかけ離れてる。 「ん?」 「……花火、大会?」 「おお! まさに神の使い!!」 「ひ、ひいい!」 「勇者よ、これを託そう」 「いや、え!? ゆうしゃ??」 「頼んだぞっ」 いきなりギュっと捕まれた手のひらの上に、小さなプラスチックがころんと転がり落ちた。 「は、はあ!?」 名前すらわからない、謎の男……たぶんここの学園の生徒なんだろうけど。 ほんの一瞬たりとも俺の話を聞くつもりはなさそうだ。 「選ばれし勇者よ……俺が徹夜で作ったこのデータを守ってくれ!」 「はぁ? ていうか、あんた、だ……」 「そうかありがとう、よろしく!」 「いやいやいや、ありがとうじゃなくて」 「健闘を祈る――っ!」 「いたたた……ああ、もう最悪だ」 なんなんだ、一体。 いきなり変なもの渡されるわ、思いっきり突き飛ばされるわって、どうなってるんだこの島は。 玄関前では謎の占い師。 この島に着いたとたん、謎の、そして強引なヤツ。 謎だらけすぎる。 「ま、まだ来るの!?」 「うん。確かにこっち」 「ね、何か見つかった?」 「アレの物と思える体温反応が、帯を描いている……」 「ってことは、逃げたのね! もう!! どこいったのよ!!」 「あっち……時間とアレの運動能力からして、距離は100メートル程度」 「了解、行こうっ」 「うん。でも……」 「早く行かないと見失いそう。ほんっと、逃げるのだけは天才的なんだから」 「わかった。あ、左後方に反応あり。予想外に近い」 「ほんと!? あっ!! あそこよっ!!」 「え、ええ……? なんなの今のは」 体温反応とかそんなこと言ってたけど、さっきの男は本気で追われてたってことなのか? 俺の手の中には、さっき手渡されたプラスチックの何か――USBメモリだろうか。 それが握られている。 「と、いうことは」 狙われるのか、俺が。 入ってそうそう――ていうか! まだどこにも着いてないのに! 待ち受けていた不幸っていうのは、これなのか? 「それは……嫌すぎる! でも食堂タダだし……食堂……どこなんだろう」 「え?」 思わず握り締めてしまった手の中に、紙の感触があった。 USBメモリらしきものに、小さなメモがくっついている。 「なんだこれ」 『選ばれし勇者よ、この伝説のカードと橋にあるいにしえの機械を融合させ、太陽のボタン押せば、そなたの望む美しきあらたな道が開けるであろう』 「……?」 『平たく言うと、橋にあった機械につっこんでね。素敵なことが起こるよ♪』 「……」 『ほんとに素敵な事だから! この先進むには必要な事だから! 信じて!』 どうしよう。 無視した方がいい気もするし、無視したら余計にひどくなるような気もする。 やるべきか、やらざるべきか。 でもひとつだけ明らかなことは……食堂はこの先にしかないってことだ。 「……はあ」 一応やってみるか。 素敵なこと、ってのは大したことないかもしれないけど。 橋先には、確かに何かを認識するための装置がある。 この謎のUSBメモリがちょうどささりそうな穴もある。 「お、ちゃんと認識してる」 次はボタン。ボタンを押せって書いてたけど。 「どれなんだ?」 色も違う、形も違う、数個のボタンが並んでる。 太陽のボタンとかなんとかあったけど、太陽っぽいものはない。 このシチュエーションはあれじゃないか。爆弾処理で赤か青か、どっちを切るのかってぷるぷる震えるあれ。 しかも赤か青の二択でもない。 恐ろしいことに5つもボタンが並んでいる。 「やめておこ」 だいたい新たな道って、目の前にあるし。 石の門とかそういうのがガツンと閉まってるならわかるけど、どう考えても島中心に向かう道はまっすぐ伸びてる。 「これ……抜いておいたほうがいいよな」 「あ!! だ、だめーっ!! あぶなぁああいっ!」 「えっ?」 「……あっ」 「――っ!!」 「うわぁあああ、ええええっ!?」 およそ日常ではあまり耳にしないような轟音と共に、体が宙へと吹き飛ばされる。 ば、爆発!? これ爆発したのか!? 特に変わった事は何もしてないはずだ。 あえて言うならボタンをうっかり押してしまったくらい。 まさかそれが悪かったのか!? 俺はそんなに悪いボタンを押したとでも言うのか? ああいや、そんなことよりも。 俺はどこまで吹っ飛ばされるのだろう。 明らかにこんな事を考えている場合じゃないのだけど、今はこうするしかどうしようも無いというか。 体の自由はきかないし、見えるのは空と花火ばかり。 きっと俺がボタンに触ってから、何もかもがほんの一瞬のことだったに違いない。 ………これ、死ぬかもしれんのではなかろうか。 まだ、食べ放題どころか食堂にだって辿り着いてないのに……? それはあんまりだ。食堂が目当てで来たっていうのに、食堂に入る前に死ぬなんて。 ――神様、あんまりじゃないですか? 空に向かって文句のひとつも言ってやりたい。 そう思って、少しだけ目線を上にあげようとすると…… ―――眩しい! 突然、目の前に光があふれだす。 もしかすると、他の花火に引火したのかもしれない。 真っ白で何も見えなかった。 眩しさに頭をくらくらさせていると、突然大きな影が視界を遮った。 大きな何かがこちらに近づいてくる。 ――ああ。俺は死ぬのか? ――もしくはもう死んだのか? 明らかに空を飛んでた。 鮮やかな色の花火が一瞬、視界をかすめた。 そしていまは真っ暗……。 「つんつん」 ……ん? 「……つんつん、つんつんつん」 「うぅう」 誰だ? 誰だ俺をつんつん突いてるのは。 と、声に出そうとしたけど無理だった。 「つんつん……もしもーし、もしもーし」 「……あぁ」 手も足もうまく動かせない。 地面に思いっきり叩きつけられたんだろうか。 その割には、痛みはないんだけど……動けない。 「大丈夫ですかー? もしもーし」 「……あ……う……」 パンツだった。 目の前にしゃがんでる女の子、そしてパンツ。 もしも俺が今、死に瀕しているというのならば。 最期に見るものはパンツということか。 「……っく」 「あれ? どこか痛いんですかー? もしもーし」 ええい、ただの白い布のくせに! シンプル・イズ・ザ・ベストの如き白いパンツのくせに! ふわっと入った淡い影が、目線をはずすという選択肢を消しやがる。 「……??」 ……もしかしたら、死ぬかもしれないんだし。 見ておこう。 ふわっとしてるし。ふわっと。 「もしかして、お腹すいてるのかな? えと、えーっと、今何か持ってたかな」 「うう……」 「えっと……えと、いまおやつ持ってたかな……あ、あれはさっき食べちゃった」 「……」 「ねえ、もしかして動けない?」 「……」 そうだ、と言いたくても声が出ない。 なんだかこの子、本気で心配してくれてるみたいだ。 あ……でも、道端に動けない人がいたら、普通に心配するよな。 そんな子のパンツを見てるなんて俺、ひどいな。 ひどい。見るのはやめておこう。 だけどこれが最期かもしれない。 不運な事故に巻き込まれて運命つきる俺への、神様からのオマケかもしれない。 ……オマケなら、いいかな。見てても。 「――えいっ」 「いててっ! あ! しゃべれた」 「ご、ごめんなさいっ! ほっぺつねったら、ちゃんと目が覚めるかなって思って。ていうか……大丈夫?」 「だ、大丈夫って、何が?」 「だって、こんな場所でひっくり返ってたから」 「……あ」 そうだ。そうだった。 あれは何だったんだろう? 確か……橋のたもとにあった、変な機械のボタンを押した。 押したというか、誰かの叫び声に振り返った時に誤って触れてしまったんだけど。 「ば、爆発っ!」 「わわわっ」 「……俺、生きてる?」 「た、たぶん……生きてると思うな、わたしは」 「だ、だよな!?」 手を握ったり開いたり、問題なく動いた。 指先にも地面の砂っぽい手触りがあった。 「良かった死んでない! 最期の光景がパンツじゃ……はっ!」 「!!」 「あ……」 しまった。 ばれちゃった。 「きゃあ!」 「あっ! ごごご、ごめんなさい!! つい!」 「い、痛かった……」 「で、でも! 見えた!? 見てた!? ぱ、ぱ……ぱ……」 「………いや、まあ、うう……」 「やっぱり見えてたの!? や、やだやだっ」 「……」 「ご、ごめんなさい! た、たんこぶできちゃったよね!?」 「いや、俺もその……ごめん」 「あ……う、うん」 危ない危ない。 この子、パンツ見られると凶暴化するんだろうか。 もしくは俺が知らないだけで、すべての女子はパンツによって凶暴化するのか? 今度からは生死の境にいようとも、誘惑に負けず潔く目を閉じよう。 もしくは閉じるふりだけでもしておくべきだ。 「あの、えっと、あなたは誰なのかな?」 漂う微妙な空気をなぎはらうような質問だ。 ていっても、真っ当な質問だよな。 ここの制服を着ているわけでもない誰かが、茂みの中で倒れてたんだから。 「あ、ああ……えっと、名前は葛木晶で……今日ここに転校してきたんだ」 「転校生!?」 「わたし、稲羽結衣と申す者ですっ!」 「なっ!?」 「わたしも転校生なんだ〜。1週間前にここに来たの。おそろいだねっ」 「え、ああ……ま、そうだな」 「そっかー、うんうん、ちょっとどきどきするよね。転校って。それにここ、すっごく有名な学園だし、うまくなじめるかなって思っちゃうでしょ?」 「うん、俺もそれは思うな」 「ちっちゃい頃からエスカレーター式で優秀って子ばっかりなんだろうなあって、ほんと不安だった。でもね、結構みんな良い人ばっかりだよ!」 「へえ」 「や、大丈夫。ていうかちょっとホッとした」 自分と同じような感覚の、普通の女の子。 あのパンフレットから想像してた学園の生徒とは違って……ホッとした。 ものすごいお嬢様やお坊ちゃま、ってのばっかりだったら、さすがに息苦しそうだしな。 「そういえば、葛木くんはどうして平日のこんな時間に来たの?」 「え? 今日は休日じゃ……え? 今日、何日? 23日じゃないの?」 「24日だよ。昨日は確かにお休みだったけど……」 うっ……。俺、一日中ここで気絶していたのか…。 確かこの学園への入学手続き期限は24日。じゃあギリギリ間に合うよな…よかった。 「あのさ、転校の手続きってどうすればいいの? 今日中にしないといけないんだけど…」 「あまね、ちゃん?」 「うん。ここで最初にできた友達で、それに〈繚蘭会〉《りょうらんかい》のメンバーなんだ〜。そういう手続きのこともわかってると思うよ?」 「りょうらんかい……」 ずいぶんと仰々しい響きが出てきた。 さすがにお金持ち学校。何をするかわからないけど、すごそうな名前だ。 「あ、いたいた。天音ちゃーん」 「まさかここに、こんな仕掛けをしておくなんて……まったく」 「――無駄なことを」 「天音ちゃーん」 「あ、結衣。お疲れさま!」 「くるりちゃんもいる! ちょうど良かった」 「――?」 「天音ちゃんに、くるりちゃん。二人とも繚蘭会なんだよ」 「あ……ど、どうも」 りょうらんかい。 紹介された二人を見てると、なんだかイメージと違った。 見たところ同い年くらいだし、制服着てるし……ここの生徒なんだろう。 「りょうらんかい……なんなんだろう……」 「結衣、この人――誰?」 「えっと」 「葛木晶くんって言うんだって! わたしと同じ、転校生」 「……転校生?」 「……」 「あれれ?」 何だろう。明らかに不審げな視線だ。 しかも二方向から、違ったテイストの不審さを投げかけられてる。 また、なのか? 俺の行き先には、また何やら暗雲が……? 「……こほん、私は繚蘭会会長を務めてます。繚蘭会とは学園内の式典の運営や、予算・会計・生徒たちの管理などを担当しています」 「へ、へえ。大変そうだな」 「わ、わわわっ」 「な、な!?」 「私達が把握していない転校生なんているはずがないのです!!」 「……不審人物」 「……俺?」 くるり、と呼ばれてる子が俺を指差す。 スローモーションだった。 さっき会ったばかりの転校生仲間も、繚蘭会を名乗った子も、ゆっくりと。 ゆっくりと、きっつい視線を、俺に向けた。 「結衣! 今すぐ離れて!!」 「最低でも1メートルの距離は必要」 「え? えええ〜!?」 「ちょ、ちょっと待て! 待って!! 違うから!」 あの爆発でカバンが吹っ飛ばされてなくて助かった。 入学許可証――俺の名前やら血液型やらまでもが書いてある書類とカード。 この紙切れたちが、俺をこの場で唯一怪しくない者にしてくれるはずだ。 「こ、これ見て! ちゃんと入学許可って書いてあるだろ?」 「……これは!」 ニセモノじゃありませんように。 ニセモノだったら、俺のせいじゃないってどうやって説明しよう? 思わずぷるぷる震えそうになった。 目の前では繚蘭会長は首をかしげてうなっている。 「見て。このレベル複製は不可能よね、くるり」 「うん。まさか誰かが繚蘭会に無断で迎え入れた……?」 二人の眉間のシワが、グッと深くなる。 どうやらあの許可証はニセモノではなさそうだけど――。 「あ、なんだか危険じゃなくなったみたいだよ、よかったね!」 「そ、そうなの? なんか別の意味で深刻そうなんだけど、繚蘭会の人たち……」 「ちょっとあなた! 一緒に来てくれるかしら」 「え? ど、どこへ」 「私たちが案内しますから」 「……」 「ちょ、ちょっと」 「よかった。やっぱり手続きのこと、天音ちゃんたちならわかるんだよね。じゃあ、これからも転校生同士よろしくね〜!」 「早く」 「え? ちょっと? ほんとどこいくの?」 「本当に……どういうことなのかしら……」 「な、なあ。何か変だったのか、俺の入学許可証!」 「こんなことって、今まであった?」 「ワタシの知る限り、データなし」 「だよね、ううーん」 「無視ですか!」 ガッツリ俺の手を引っ張ってるくせに、俺の質問も存在も眼中になしといったところだ。 どんどん校舎の中に入っていってるけど、向かっている場所はどこなんだろう。 疾走する俺と繚蘭会のふたりという図に、他の生徒たちの視線も痛い。 ――何がいけなかったんだろ。 ――やっぱりあの日に家から出るなという予言が的中したのか? いや、まてよ。 ……あの、伝説の勇者がどうとか言ってたヤツに絡まれてからだ。 元凶はあれだ。あの強引で人の話を聞かないうえに、自分の話は押し通すヤツに会ったせいだ。 「でもそれって……今と同じ状況じゃ……」 「天音、前」 「ちょうど良かった!」 「はぁ、やっぱりおふたり並ぶとまるで絵画みたいね」 「ねえねえ、あなたはどちらのファン?」 「そんな……どちらなんて、選べないわよ。はぁ……」 空気が変わるというのは、これか。 絶対に俺の周りでは漂っていない、おそらく高原に咲く真っ白な花を揺らしている高貴な風。 そんな空気をまとって歩いているのは、絵に描いたようなお嬢様だった。 「ふふふ、おもしろい……本当にそんなことあったの?」 「ええ。全く困ったものよ。でもあんなに正反対の性格だからこそ、案外うまくいってるのかもしれないわね」 「そんなものなのかな」 「そうじゃないと、説明がつかない仲だわ……ふふ」 「桜子!」 「……あら、ずいぶんお急ぎみたいよ」 「天音さん、どうしたの?」 俺を引っ張る繚蘭会長は、高貴な風に臆することなく、この二人に駆け寄っていく。 まばらに歩いている他の生徒たちの視線がやや痛い。 痛いけれど、ここで逃げると俺はもっと不審者になってしまいそうだ。 「はぁ、はぁ、ふう。ねえ桜子、最近転校生が来るって予定なんてあった?」 「転校生? 結衣さんではなく?」 「ええ。結衣より後にやってくる予定で」 「あの……さ、話がまったく読めてこないんだけど」 「これ、転校生らしい。でも繚蘭会では把握していない」 こ、これ呼ばわりって――本気で歓迎されてないな。 あの入学許可証はくるりって子が持ってるし、これからどうなるんだ、俺。 「茉百合さんは何か知ってますか?」 「いいえ、私もそういった事は聞いていませんわ」 「生徒会も把握していない……」 ますます周りの空気の深刻濃度があがってゆく。 七割で『これは手違いでした』って話になりそうな流れだ。 ああ、それならせめて――。 せめてあのパンフレットに載っていた、超豪華な食堂に一度だけでも行ってみたかった。 「あの、あなた……転校生さん、ですか?」 「一応。そのつもりで来たんだけどね……はぁ」 「あ……あの、今から変なこと言いますね。どこかで会いました?」 「え? どこかで会った?」 桜子さんと呼ばれてる、その子。 ふわふわした髪が陽に透けて、なんだか今にも消えてしまいそうな感じがした。 残念ながら、そんな妖精みたいなお嬢様は俺の記憶のどこにもいなかった。 「うーん、人違いじゃないかな」 「……なんだか初めて会った気がしなくて。やっぱり変ですよね、そんなこと言うの」 「ふふふ、桜子」 「……?」 「それ、前に来た転校生にも言ったじゃない。今読んでいる本に、そんな場面があったの?」 「もう、そんなじゃないの! なんていうか、胸の中でもやもやっとしてるような不思議な感じがしたの。ほんとよ?」 「はいはい、怒らないの」 「もお〜。ほんとにそう思ったんです!」 「ふふふ」 「――とにかく」 突然のお嬢様空間に飲み込まれてる場合じゃない。 繚蘭会長の厳しい目が俺を映しこんでいる。 「繚蘭会メンバーは誰も知らないみたいだし、仕方ない……やはり生徒会に確認しにいきます」 「あ、繚蘭会って生徒会の別名じゃないんだ」 なんとなく生徒会っぽいなって思ってたけど、違うのか。 ここにはややこしい組織がたくさんあるのか? 今度はどんな仰々しい名前なんだろう。 そして俺はどうなっちゃうんだろう。 ああ……朝食、手を抜くんじゃなかった。 「あっ! 茉百合さん、桜子さん、お疲れ様で〜す!」 「こんにちは、ぐみちゃん」 「八重野くん、天音ちゃんが確認したいことがあるそうよ」 「確認したいこと?」 「ええ、彼は転校生らしいのですが……繚蘭会ではデータを把握してません」 「――それはおかしい、繚蘭会が把握していないとはありえないことだ」 「じーっ」 「……」 俺をビシッとまっすぐ見つめる視線がまたもや痛い。 ひとりは冷たく、もうひとりは好奇心だらけだ。 「ねねね、くるりん。これって謎の転校生ってことだよね?」 「今はその状態。この許可証も限りなく本物に近いから」 「わー! 謎の転校生! すごいすごい! もしかして探偵とかかな……」 たぶん、たぶんだけど、二人は俺に聞こえないように話してるつもりなんだろう。 「あの、聞こえてるけど」 「はわ、き、聞こえてましたっ!? わ、わわ忘れてくださいっ! 探偵さんって秘密にしとかなきゃいけないんですよね!!」 「いやいや、探偵じゃないから」 「はい! そういうことにしておきますっ!!」 ……もういいや、そういうことで。 しかし、さっきくるりって子が言ってたな。 限りなく本物に近い、入学許可証って。 俺がここに入れるかどうかの儚い希望は、それしかない。 裏面に特別入学待遇がある――夢の学園内食堂のフリーパスがそこにあるんだ。 「それ、返してくれない?」 「確認がとれるまで、不許可です」 「……はあ」 もう、ため息しか出ないな。 「この件について、生徒会側では何か聞いていますか?」 「いや、聞いてないな」 「でも入学許可証はきちんとあるんです」 「その様子だと、白鷺さんも知らないということか?」 「ええ、だからこうして来たってわけなの」 「……では、他に考えられることは……」 「『誰か』が生徒会や繚蘭会には知らせず、勝手にこの学園に転校生を呼んだ」 「………そうだな」 なんだろう、この空気。 この異様に威圧感のある男が、生徒会長なのか? 生徒会の一員であるらしい、茉百合さんという人と同時に出た深いため息は、何を意味してるんだ? 「確認しないとね。彼、今どこにいるの?」 「あいつなら病院に検査に行っている。昨日の騒動の顛末、白鷺さんも知っているだろう?」 「昨日の花火でも騒ぎを起こしたばっかりなのに、今度は勝手に転校生って!!」 「あ、天音ちゃん!?」 「もー! どうしていつもこう勝手ばっかりするのかな」 「もういいです! この転校生は繚蘭会が面倒みます!!」 「えっ!?」 「……ほう」 「だって……だって、ぜーったいあれのせいなんだからっ」 「じゃあ、じゃあいろいろ準備しないといけないわね」 「天音がそう言うなら、する」 「そんなわけだから――行くわよ!」 「は、はい!?」 どこへ? そんな問いかけなど、通じるはずもない。 本日二度目だ。 どこへ行くかも教えてもらえず、俺はただひたすら引っ張られ続けた。 ………… …… 「……どういうことかしら? 本当に皇くんがやったと思う?」 「さあな、だが問題になるぞ。俺たちも知らないという事は、学園理事会も知らない可能性が高い」 「……そうね」 「このままだとあの転校生――審議会にかけられて、下手をすればいきなり退学扱いになるかもしれない」 「ええ。でも本当にどうなってるのかしらね」 「ひとつ質問があるんですけど……いいかしら?」 「あ、お、俺に?」 「はい。どうしてこんな中途半端な時間にやってこられたの?」 「それが……花火の爆発に巻き込まれて……」 「はい?」 「とりあえず! この繚蘭会があなたをなんとかします!」 「あ、あれ? いいの? それ結局本物だったの?」 「……さあ」 「とにかく制服とか、教科書とか、手続きしてもらうからついてきて」 「う、うん」 にこにことした、お嬢様その二の女の子。 ぷりぷりとさっきから怒りっぱなしの繚蘭会長。 それから、ずいぶんと冷たい目でずっと俺をにらんでる子。 大丈夫なんだろうか。 どの子に頼っても不安だ。 「はあ……腹へった……」 『私立鳳繚蘭学園』と書かれた四角い箱。 ぱこん、と小気味いい音とともに開け、その中から出てきた制服に袖を通す。 やっぱりおろしたての服を着るのは、気分が良かった。 「え、ま、回るの?」 こくこくと無邪気にうなずかれては仕方ない。 恥ずかしながらも、俺はその場でくるっと回転した。 「うんうん。くるりさん、袖もズボン丈もあってますよね」 「誤差なし。基本的な運動にも差し支えないゆとりもある。いいと思う」 「よく似合ってると思います」 「ど、どうも……」 制服とはいえ、女の子ふたりの前で回転したうえにほめられるなんて、嬉しいよりも恥ずかしい。 ちょっと消えたくなってきた。 「おかえりなさい。くるりさんすごいの、制服のサイズぴったりの選んできたのよ」 「エレクトリックエナジー18号で測定したから、誤差はあっても数ミリ」 「こっちも用意できたわ。はい、これ」 繚蘭会長たる彼女が手渡してきたのは、液晶パネルとボタンがついた何かだった。 携帯ゲーム機みたいだけど、そんなものをここで渡されるわけないはず。 「これ……なに?」 「ここ、学園内だけじゃなく島全体が携帯電話禁止なのよ。その代わりにこれで連絡取りあえるの。使ってみて」 「あ、ああ」 「ここにいる人は全員この端末を持ってるの。ちなみにこれは鳳繚蘭学園生徒仕様ね」 「ふーん」 とりあえず電源を入れてみると、ディスプレイには何も映らない。 「これ、動かないんだけど」 「入学許可証を貸してちょうだい」 「え……?」 「いいから! 貸しなさいっ」 有無を言わさない雰囲気だ。しかし俺には彼女の希望をかなえる術はない。 許可証は、あのちびっこいくせに冷徹な目のあの子に取られたままだ。 「俺は持ってないんですけど」 「はい? まさか無くしたの? それはすごく困る事なのよ!」 ため息をつきつつ、俺はななめ横を指差した。 「これ。確認が必要」 「くるりが持ってくれてたのね、ありがとう」 なんだ、俺は怒られっぱなしなのか。 ま、いいけど……何するんだろう。 入学許可証を例の機械にスキャンさせると、何もなかったディスプレイに文字が浮かび上がった。 適当にボタンを押していると、例の入学許可証と同じような項目が液晶に映し出された。 もちろん俺の顔写真もそこにある。 「データは正常に転送されてる。つまり、偽者の可能性は限りなく低い……」 「そのようね」 「……??」 何がどう変わったのかわからないが、疑いはなんだか晴れたようだ。 そのせいなのか、繚蘭会長はビシビシと俺に例の機械の使い方を教えてくれた。 「個人の入学許可証のデータもインプットされたわ。あとはあなたがこれを使いこなせるようになることね」 「……うん、それがメール機能。携帯電話みたいに通話はできないけど、これで十分やりとりできるはずよ。で、こっちが……」 「ちょ、ちょっとまって」 「学園内やクラス単位、各グループ単位での連絡がとりあえるの。逆にこれを無くすと大変だからね?」 「使いこなせるかな」 「すごーい生徒手帳って感じで、慣れると便利ですよ」 「むぅ……手帳じゃないけど……」 持っていても軽いし、確かに手帳みたいだ。 制服も着たし、この『すごい生徒手帳みたいな機械』ももらった。 ようやく、晴れて俺は立派な転校生になれた。 「なんか制服とか手続きとか、いろいろありがとな。えっと……」 改めてお礼を言おうと思って、はっと気づいた。 名前、何だったっけ。 聞いてたはずなのに、俺はすっかり忘れていた。 めくるめく怒涛の展開に、頭の中で複数の名前が混ざり合ってしまってる。 おろおろと揺れる心の内をひた隠してみたけど、この挙動不審さはすぐにばれてしまったらしい。 「すっかり忘れちゃってた。自己紹介、まだでしたね」 「私は水無瀬桜子。天音さんたちと一緒に繚蘭会のお手伝いしてます。よろしくお願いしますね」 「あ、は、はい」 思わずこっちが緊張してしまうほど、水無瀬桜子のお辞儀は優雅だった。 名前からも仕草からも、お嬢様の香りが沸き立っている。 繚蘭会という仰々しい呼び名も、水無瀬桜子という舌をかみそうな名前も、まったく疑問を感じさせない存在だ。 「あ……もしかしたら。呼びにくいなって思ってます?」 「い、いや、そういうんじゃなくて」 「名前が四文字って、あまりなくて……さくら、だったら良かったかなあっていつも思っちゃうんです」 なんだろう、ちょっとズレてる気がしてならない。 だけど彼女は本気で自分の名前の呼びにくさを気にしているようだった。 「えっと、じゃ、じゃあその……水無瀬ってフツーに呼んでも大丈夫でしょうか」 「はい、大丈夫です」 良かった。 お嬢様っていう感じの割には、案外気さくなのかもしれない。 この無礼者がと、レースのついた扇子で叩かれる妄想は広がらずにすんだ。 もっとも水無瀬がそんなことするようには見えないけど、見えないからこそありえる事だってある。 結局、なかったんだけど。 「皇天音です、いろいろあったけどよろしくお願いします」 「皇かあ。また珍しいなま――」 「やめて!!」 「は、はい!?」 「な、なに? ど、どうしたの!?」 何がどうスイッチオンになったのかわからないが、勢いよく天に向かったつま先が、俺に照準を合わせた事だけはわかる。 苗字に何か呪いでもかけられているんだろうか。 呼ばれたぶんだけ、髪の毛がクルクルはねてしまうとか。 見たところそうでもなさそうだが、怒られるのはイヤだ。 「ど、どうすれば……あ、繚蘭会長だったよな。だから……会長とか?」 「それもダメ!」 「な、なに!? じゃあいっそまったく関係ない名前で呼べっていうのか? マチコとか」 「マチコ!? どうして私がマチコ? 私ってマチコってイメージなの?」 「ごめん、いま適当に言ってみた」 「ふふふ、ふたりともおもしろいなあ」 「も、もういいから! 天音で結構よ」 「わかった。それでいいならそう呼ぶから」 天音は自己紹介するたびにこんなやり取りしてるんだろうか。 ぷーぷー膨れた頬を見ても、他の繚蘭会のふたりはまったく気にしてない。 おもしろいからたまに苗字で呼んでみようかとも思ったところで、俺は自分の立場を思い出した。 このおろしたての制服の用意も、ややこしい手続きもすべて繚蘭会のメンバー、主に会長たる天音がやってくれた事だ。 ともすればそれらを全て没収されかねない。やっぱり気をつけないと。 「……」 「今、考えてることなんだけど」 「え、いやごめん、あの、ちゃんと感謝してるから、その」 「……?」 じっと下から見上げてくる視線。 人智をこえた力を秘めて、俺の考えてることを読み取っているのかと思ってしまった。 そんなわけないな。おそらく。ないない。 「考えてることは、ワタシは初めて会ったかということ」 「俺と……あんたが?」 「九条くるり。初めて会った?」 「いや、初めてだと思う」 「了解。初めまして――繚蘭会メンバーの九条くるりです。下級生です。ひとつお願いがあります。髪の毛を採取させてください」 「さ、さいしゅ?」 「そして届かないのでしゃがんでください」 九条はくいくいと手を上下に振り、俺にしゃがめとせがんでいる。 自己紹介と、髪の毛の採取。 どんな思考回路をもってして、このふたつを問題なくつなぐ事ができようか。 「い、いやいや、ちょっと何? 繚蘭会ってほんとは何してるの!?」 「ふふ、大丈夫ですよー。くるりちゃん、そういう研究してるだけですから」 「け、研究?」 「届きません。しゃがんでください、できるだけ早く」 「……??」 仕方ない。疑問は頭上を飛び交っているが、しゃがまざるをえない。 そう思ってややひざを曲げた瞬間だった。 「いてっ!」 「……ありがとう」 「ありがとって何!? ちょ、髪の毛! なんでビンにつめてるの!?」 返事はない。 髪の毛は小さなガラスビンに入れられ、九条の胸ポケットに収まってしまった。 「ちょっと研究って、おいおい」 「大丈夫、大丈夫〜。くるりちゃんはとっても賢くていい子ですからー」 答えになってない。 賢いってのはわかるが、行き過ぎれば危険だ。そして九条はその『危険な方』に入ってる気がするが―― 「天音さん、あれやってもいいかな? ほら、この画面でいろいろ見られるの」 だめだ、一瞬にして話題変更だ。 九条は何もなかったように、おまけに俺の存在を無視するように、自分の携帯通信機エレクトリックなんとかをいじりだしている。 「ああ、これね。ちょうどいいわ、転校生君にこの学園のことを紹介しましょうか」 そう言いながら、天音が机の上に手をおいた。 「おわわっ!」 机の天板が開くと、大きなディスプレイが姿を現した。 未来だ。これは未来の装置だ。 俺の生活していた世界にこれはない。秘密基地か悪の組織以外にはないと思われるモノだ。 「いちいち驚くのね」 「フツー驚くだろ! 机がガッと開いてこんなことになったら!」 「楽しいですよね、これ」 「楽しいっていうか……はあ」 「さて、じゃあ説明するわ。『〈鳳繚蘭学園〉《おおとりりょうらんがくえん》』に入学するということは、基本的にこの島内で生活することなのよ」 「うん」 「校舎、それから講堂……ここでは様々な行事を行います。他にはグラウンド、運動施設、食堂や購買部など基本的な学園生活はすべて学園内でできます」 「食堂……」 「生活面では寮が中心ね。寮ではいろいろ分かれてるから気をつけてください」 「他にはショッピングモール、庭園などもあり、休日や放課後は自由に使用することが可能です」 「それから、病院もすごく充実してるから、体を壊しても安心して診てもらえるの」 「そう、ここの病院は優秀な医師とレベルの高い治療が受けられる事でも有名です。ここを見てちょうだい」 「こんなところかなぁ。もっとあったような気もするね」 「まあね、ここは広いから……どう? わかりにくかった?」 「い、いいや、ありがとう。なんかほんと……広いんだな、ここ」 クルクル変わる画面にちょっとめまいがした事は黙っていよう。 校舎と寮だけでも果てしなく広そうだが、大丈夫かな。 とりあえず食堂の場所だけは覚えておかないと。 「……そうだ。できたらその……そろそろ荷物とか置きたいなっていうか、俺はどこに落ち着けばいいんでしょうか」 よーく考えてみれば、家を出てからずっとバタバタ走りまわってた。 休んでるというのはあの気絶中のみだ。 そろそろゆっくりゴロンとひっくり返りたいと思っても良いはずだ。 なんて小さな望み。 特別ナントカ入学生なのに、こんなに控えめでいいのかと思うフシもあるけど、欲張っちゃいけない。 しかし、目の前に立つ3人は、今までで一番危険な表情になっていた。 「……あ」 「うっかりしてたかも」 「うっかり?」 「残念だけど、データは正しく、部屋は空きなし」 自分の携帯通信機から顔をあげた九条が、ぽつんとそう言った。 「ええええっ!?」 「やっぱり……この転入はイレギュラーなんだわ。おかしいものこんな事」 「ちょ、ちょっとまたその流れ!?」 全寮制なのに部屋がないとは! それは困る。非常に困る。全員が寮に入るから全寮制なんだろう? 特別な待遇っていうのは、俺の想像とは真逆の悲しい特別さなんだろうか? 屋根裏部屋で悲しく天井を見上げる、俺。 友人はその屋根にはっている小さなクモの一家だ。 そのクモの一家に名前をつけなければ……と悲観的になっているところに、水無瀬の声がぽーんと響いた。 「お部屋なら、大丈夫」 「大丈夫なの!?」 「えっ? 一般男子寮はいますべてうまってるはずよ。ほら、この通りに」 天音がもう一度液晶を覗き込んだ。 俺もこっそり見てみたが、寮の部屋番号らしき数字の下にはびっしりと名前が並んでいた。 「ないわ」 「なし」 「やっぱり屋根裏なのか!」 「ううん、そっちじゃないの。こっちこっち」 水無瀬の指先が、ぽんっとキーボードを叩く。 画面には、さっきと同じように部屋の番号や配置図みたいなものが表示された。 ただ違ったのは、ひとつひとつの部屋が少しばかり広いのと、名前がない場所……たぶん空き部屋なんだろう。それがあった事だった。 「ね? ここでどうかなぁ」 にこにこと微笑む水無瀬につられて、俺も思わずこくりとうなずいてしまった。 「だめよ桜子! だってそこ繚蘭会専用の……女子寮じゃない!」 「なにっ!?」 「規約違反」 「でも、マックスさんはいるわ」 「そ、そうだけど! だけどそれは特別な状況だし、ほら……」 「今回も特別な状況下だと思うの。繚蘭会の指導のもとできちんと管理できるし、マックスさんもいるからきっと大丈夫かなって。だめかなあ」 「……」 九条と天音は、ううむと考えこんでいる。 そりゃ考えるだろう。女子寮は女子がいるから女子寮なのだ。 俺がそこに入るのは掟破りもいいところだ。自然界に反してる。 だけど、先客がいるようなことを水無瀬は言っていた。 それも俺と同じ、男の。もしかして留学生とかかな? 「マックスって、どんなやつ?」 「とってもおもしろいですよ。それに友達を大切にして、結構皆に頼られてるんじゃないかなぁって、私は思います」 「へえ……なんかいいヤツそうだな」 さっきの生徒会にいた、威圧感たっぷりの生徒だったらどうしようと思ったけど。 水無瀬の口ぶりからはそんな感じはしなかった。 「マックスさんと一緒のお部屋なら、きっと大丈夫だよ。ね? 天音さん。どうかなぁ」 「うーん、まあ……ある意味安心っていうか、無茶はできないでしょうね。彼と一緒なら」 「……むぅ」 「くるりちゃんはマックスさんが頼りになること、一番知ってるでしょ?」 「う……ん」 「じゃあ、決まり、かな?」 「……あくまでも緊急措置という形でね」 「……」 水無瀬以外は、なんだか微妙そうな顔のままうなずいた。 俺も女子寮に部屋をもつというのはやや心苦しいけど、先客がいるならいいんじゃないかと思う。 もしもの場合、ひとりなら変態だと殴られるかもしれないが、ふたりなら土下座程度ですむかもしれないし。 できれば、土下座も避けたいところだけど。 「それでは、葛木さんは繚蘭会専用女子寮のお部屋を使ってくださいね」 「……基本的に女子寮なんだから、目立った行動や間違いを犯さないように。わかった!?」 「わ、わかりました」 最新施設らしく、部屋の鍵はカードキーだった。 ともかくゆっくり落ち着きたい。 「女子ばっかりの女子寮……か」 「はあ……しかし腹へった」 突然目の前を横切ったのは、黄色の四角い箱。 特別栄養食品『ケロリーメイト』だった。 投げたのは――九条。 俺にくれるってんだろうか? 「ありが……」 「監視してるから」 「えっ? な、なに?」 「……」 ――また謎の呟きか。 同じ部屋になるっていうヤツが、まともでいいヤツでありますように……。 「……ん?」 今日から俺の部屋となる場所へやってきたけど、室内はしんとしていた。 人の気配はかけらもない。 「誰もいないのか?」 ベッドはふたつあるし、片方の机の上には数冊の本が置かれている。 とりあえず空いてるっぽい方のベッドに、俺は深く腰掛けた。 「あー疲れた」 荷物を置いて、ほっと息をはく。 長かった。謎の爆発、入学許可証を巡る攻防、クセのあるこの学園の生徒たち。 いろいろあったけど……まあいいか。 明日は食堂に行ってみよう。絶対に。 「あー、もうだめだ、俺の電源が切れそう」 俺の胃はグウグウ鳴るだけでなく、ややねじれるような動きを始めた。 食べるものは――『ケロリーメイト』のみ。 選択肢はない。俺の晩御飯はこの特別栄養食で決定だ。 「はあ……空しい晩ご飯だな……」 「ん? んん? 停電か?」 「ちょ! ま、待っ! ななななに!?」 「う、うわあああ」 「やあっ!」 「えっえっ、えええええ!?」 「オレの名はマックス! 話は聞いてるぜ! 新しいルームメイトだな! よろしく!!」 「えっ、ちょ、ロ、ロ、ロボット――!?」 本当に唐突だった。 俺の好きな言葉は『ご飯』だ。 もしくは『昨日のご飯、何食べた?』でもいい。 俺はなによりもご飯が好きだ。あったかくて美味しくて、おまけになんだか幸せになれる気がする。 あ、ご飯だけじゃなくて、おやつも好きだが。 だから俺は、ここに来たわけで――。 『そうそう、そうでしたよねぇ』 うん。そうだよ。食堂フリーパスってそうそう無いよな。 『そんなあなたには、超豪華な幸せのカタマリをプレゼントです〜』 『こちらは某王室御用達のチョコレート。極秘ですけど、この味のせいで100年も戦いが続いたという……』 「いやそれは嘘でしょ」 『嘘かどうかは、食べてからのお楽しみ! それともこちらの高級和菓子はいかがかしら? 選ばれし職人が最高級の素材で作り上げました! 一日10個限定!』 ちょっと、何ですかこれは。ホントに豪華じゃないですか。 なんなんですか一体……ていうか、これ全部俺に? 『もっちろんでぇす。あれもこれもそれもぜーんぶ!』 『ええ、全部ぜーんぶ、おまけに食べ放題。さあ、召し上がれ』 そうだ。俺はようやくたどり着いたんだ。 食べ放題の島に――。 「ありがとうございます! 今度こそいただきます!」 『今度こそ? あらら? おかしいですねえ』 「えっ?」 『だって……ねえ、決まりごとがあるじゃないですか』 「えっ? えっえっ?」 『ねえ。デザートはコースの最後でしょう?』 「ま、まま待って」 『もしかして』 『もしかしてまだオードブルも済ませてないの?』 「ちが、ちがちが――待って!」 『そこから先は完全なる女子寮。立ち入り禁止。立ち入れば、黒こげ』 「ちょ、な、なななに? ビーム!? 光線!?」 『……』 「ま! 待って! いやあの、俺はただご飯食べたいだけなんだけど――」 『……ちっ』 「えぇええ……またもやケロリーメイト!」 「って、いない!?」 「あ、あああ……食べ放題が……食べ放題が消えてゆく……」 目を開けると、そこにはもうチョコレートもケーキもマカロンもなかった。 やたら高い天井。何かをつかむように突き上げられた自分の腕が空しい。 ああ、そうだ。ここは繚蘭会寮の中の一室だ。 「……ググゥ、グウグウ」 「え、ちょ、なに!? まだ夢続行中!?」 「むぎ……グゥグゥ」 ここは俺のベッドだよな。 「……んくーんくー」 このやたらと金属めいた丸いやつは、一体何なんだ。 ――繚蘭会女子寮にいるただひとりの男子生徒と紹介されたルームメイト。 水無瀬は確かにそう言っていた。 「男子でも生徒でもないじゃん……こいつロボじゃん……」 「……お」 「…………」 「ふぁ〜、もう朝か。おはよう、ルームメイト! さあて今日も一日頑張るか!」 「あぁ……夢じゃないのか……」 「なんだなんだ? よく眠れなかったか?」 「いやそうじゃなく――ていうか、ここ俺のベッドだよな」 「ん? すまんすまん。ま、細かいことは気にするな!」 「……細かいことなのか?」 まったくどういうことなんだ。 なんなんだこの明らかに金属で出来ている丸い物体は。 今思い出してもあれはおかしかった。 自分の部屋だという場所の扉を開け、一息ついたとたんに…… 「……いやいやいや。ない。この音は日常生活上にはない」 「んっんんっんん〜」 「一体何なんだよ……」 「……はあ」 謎すぎるルームメイトに急かされて、俺はまだぱりぱりとした新しい制服に袖を通した。 この感触だけが、俺が転校生なんだって思い出させてくれる。 「よっし準備完了したな。忘れ物はないか? 行くぞ!」 「……うーい」 「うわあああ」 「お、大丈夫か??」 「光った! ていうか何かが俺を狙ってた!」 「よし。動作に問題なし」 「――!」 九条が廊下の隅からこっそりこっちを覗いていた。 あの夢は正夢だったってことか。 「ちょ、ちょっと今ビーム! ビームが俺を!」 「簡易版とはいえ、侮ると痛いと思う前に消えるから」 「いやいやいや、消えるって何!? 登校できないじゃん! 取り外して!」 「……」 「そこ! 迷わない! あぶ、危ないじゃんこれ!」 「……」 「マミィ、このままじゃオレも部屋から出られないー」 「……ちっ」 無事に、ではないけれど。 九条にはあの理不尽なビームは外してもらった。 あんなものがあったら、おちおち廊下も歩けない。 むしろ、今いるこの場所にも何か仕掛けてあるんじゃないかと思ってしまう。 いや、それよりも。 「……」 ビームよりも威力のありそうな、九条のキツイ視線。 これはどんなビームよりも効果てきめんだと思う。 「おはようございます」 「おはよう」 「おはよー、今日も気持ちいい朝だなっ」 「お、おはよう……」 「んー? 元気ないですねぇ。寝不足ですか?」 「いや、まあ……いろんなことがありすぎて」 「困ったことがあったら、私たち繚蘭会や、マックスさんに遠慮なく相談してくださいね。ねっ、マックスさん」 「おうよ!」 いや、主にそのルームメイトがまず俺の疑問点なんだが。 なんだろう。 九条はわかる、九条は。 あいつは間違いなくこのロボットと会話している。 しかし水無瀬も天音も、このロボットに対して普通に接している。 ここがおかしいのか……。 俺がおかしいのか……。 「さ、おしゃべりはここまでにして――行きましょ。初日から遅刻では、あなたを預かった私たち繚蘭会の責が問われるから絶対ダメなんだから」 「はーい」 「あいよ〜」 ああ、やっぱり溶け込んでる。 ロボットが日常の中に溶け込んでる。 むしろ俺がここでは異端なモノなんだ。 覚悟しよう。 これが普通の光景なんだと……うん。 先を歩く繚蘭会3人組の背中を見ながら、俺はようやく初登校の日を迎えることになった。 よく晴れ上がった空の、転校生日和な朝だ。そんなのあるのか知らないけど。 気持ちいい空気。ふわふわ揺れてるスカート。 だけどそのどれもが、奇妙なことにやや歪んでいた。 何故なら……昨日から俺が食べたものはケロリーメイト通算五本だからだ。 「ああ……だめだ眩しい。目がくらむ……」 「だろ! オレのこのボディの光沢! 球形というフォルムで最も輝く設計になってんだぜ!」 「いや、そうじゃなくて……」 「んっ! どうしたんだ晶! 顔色が悪いぞっ!」 「……てか、お前なんで俺の名前知ってんの?」 「ちょっと右手出せ! それからオレの名前はマックスだ。ルームメイトなんだからお前とか言うなよなー。晶の名前はマミィから連絡が来た時から知ってるぜ」 「マミィ?」 「……うん、うんうんうん」 「ちょ、何してんの?」 マックスは俺の手に触れながら、やたらとウンウン頷いている。 だけでなく、微かな機械音がメタリックなボディからもれている。 「あの……おま、じゃなかった。マックス、何してんのさ」 「よっしゃ、スキャン終了。心拍数・血圧ともに問題なし。しかし血糖値がやや低いな。腹がすいてるのか、ルームメイト」 「うん……だから腹へったって言おうと思ってたんだって……って! スキャン終了って何!?」 「ああ! オレのスキャン機能は全世界最高峰だからな」 「心拍数血圧脳波だけでなく、血液の状態を汗から検知できるんだ。注射嫌いの皆さんに愛される機能だとオレは思う!」 「ど、どういう仕組みなんだよ。すごい機能だな」 「お……おいおいおいおい! 照れるな〜。やっぱあれか、晶もAB型の血が騒ぐか! 統計的にAB型は好奇心旺盛だからなわかる?」 「オレ的にはこの機能が一番こう、これから世の中に役立つっていうかさ。わかってくれて嬉しいよ!」 「うわ、血液型までわかんのか。ひとり病院かよ、お前……じゃない、マックス」 「そんなにほめるなってばよ! も、お前、今から俺の親友だわ! ルームメイトで親友! 最高だよな!」 「ちょ、今、お前って言わなかったか?」 「……28号、お腹すいた」 「了解!」 「くるり、ちゃんと朝食食べてこなかったの?」 「計算したらあと70カロリー足りなかった。だからお腹すいた気がするの」 「……なの」 あ、朝ごはん……危険だ。危険な言葉だ。 その言葉だけで胃がグウグウ鳴り出した。 今日こそは、今日こそは食堂にたどり着こう。 「おっといけねえ。親友、なんだか腹ペコみたいだな。腹ペコにはやっぱりコレ!」 「…………」 また『ケロリーメイト』か。 しかも何だか生暖かい……。 「しらねーのか親友、通はちょっと温めて食べるんだぜ、それ」 「……初耳」 「――っ!!」 「ちょっと、これは一体……何事?」 「わあ〜、すごいですねぇ」 「ずいぶんと盛大だな、こりゃ」 いやいや、違う。 『どういうこと』とか、『これは一体』などという言葉ではすませられない。 「悪い冗談」 ああ、それが一番当たってる。 「なんだ、これ」 誰もが通る校舎の入り口に、垂れ幕。 しかも中途半端に俺の名前に書き換えられてある。 明らかに異様な雰囲気に、生徒達がざわざわと集まっていてちょっとしたお祭り状態だ。 人ごみの中にいた稲羽が俺たちに気付いてこちらに駆け寄ってくる。 いやこれは本当に悪い冗談だ。 なんという、とってつけた感の大きい歓迎垂れ幕なんだ……。 それで歓迎される方の身にもなってほしい。 「ぱんぱかぱーん! よくやってきた勇者よ……じゃなくて、俺が勝手に呼んだらしい転校生くん!」 「は、はぁ?!」 「俺は転校生大歓迎生徒会長皇奏龍! 早速だけど歓迎イベント開始してしまうぞ!」 い、いまこの人生徒会長って言ったか? しかも勝手に呼んだとか……ああ、状況がさっぱりわからない。 「て、いうか俺に何かヘンなものを押し付けていったヤツじゃないか!」 「…………」 「あんたのせいで俺は大変な目にあったんだぞ!」 「ん〜。なんのことかわかんない!」 ……ああ、ダメだ。ものすごい勢いでしらばっくれられた。 「待ってください!」 「えー」 「こんなイベントするなんて、繚蘭会は聞いてませんけど! ちゃんと許可を取ってもらわないと困ります!!」 「いやー、イベントとかじゃないですよ。ただの顔見せですよ、新しい転校生はどんなんかなーって思って。ね? みんなそう思うよね」 「はい! 興味津々であります!」 「ね? ほらー。やっぱさぁ、エンターティナーな俺としては皆の喜ぶことをしたいなと。ま、そんなこの気持ちがこのような形になりました!」 「の、望んでないし、エンターティナーってなんなんですか! もう! だめです! 不許可です!」 「あうぅ……俺、怒られてる? 怒られてる?」 「か、会長、大丈夫です! ぐみは怒ってませーん!」 夢じゃないうえに、ますます傷口は広がっている。 だめだ。この自己主張の嵐の中で引いてはいけない。 一歩でも引いたら負けだ。 何にかはわからないが、確実に何かに負けてしまう。 「え、えーと、あの、現実的な問題として……あの、俺が一番ダメージ受けてるんだけど。あの垂れ幕に」 「うふふ、名前ちゃんと書いてありますねぇ」 「いや、あの、だから」 「ちゃんと……ちゃんと? 天音、あれ、繚蘭会備品ナンバー132。が、改造してある」 「え! ほんとだわ。なんなんですかこれ! ていうかあの垂れ幕、私たちが結衣の歓迎の時に作ったやつじゃないですか! いつの間に持ち出したのっ!?」 「んー、昨日の夜にこっそりかな?」 「……それってドロボ」 「――なんでいつもそんな勝手なことするの!!」 「うわーん、怒られてる、怒ってるよー」 「怒るとか怒らないとかじゃなくて、モラルの問題でしょっ! もおぉ、あと勝手に呼んだってどういうこと!? ちゃーんとはっきりくっきり説明して――」 「ごめんなさいね、天音ちゃん。そのことは後でゆっくり説明します」 「あ、あの」 「だから落ち着いて、落ち着いて、ね?」 「話がややこしくなってきたな。すまない。もっと簡潔にしようと思っていたのだが……はあ」 「えー。そんなのつまんないじゃん」 「十分楽しくなさったじゃない?」 にっこりと1ミリも笑顔を崩さずに垂れ幕を指差すのは、水無瀬と並ぶ気高きお嬢様。 やっぱりその笑顔のすごみの破壊力は強いみたいだ。 何かを言いたげだった会長が、きゅっとその身を縮ませた。 「垂れ幕はきちんとお返ししますわ。後でちゃーんと会長に外してきてもらいますから。ね?」 「……は、はい」 「でも私たち生徒会の自己紹介はしておきたかったの。それは会長と同じ気持ちなの」 「は、はあ。じゃ、じゃあお願い……します」 「ええ、それでは――」 「ね? 俺間違ってなかったでしょ? じゃあやっぱ会長だし、俺が一番に自己紹介だよねー。うわ、何から話そう」 「も、もう何からでもいいと思います! 会長のキラキラさはどこからでもわかりますから!」 「いやー、ははは。どうしようかなー、じゃあ俺の魅力がどれだけ皆を幸せにしたかの話からだな! やばいな〜授業終わるまでに語りきれるかな〜無理っ!」 「す、すごいです! 会長のすごいところたくさんすぎ! ぱちぱちぱち〜」 「あ、また会長が何かやってるよ」 「ほんとだー、いつも元気だよねぇ。無駄に」 「……なあ、稲羽が転校してきた時もこうだったのか?」 「う、うーん、ちょっと違うかな?」 「ぐみが簡単に説明しますと、会長はなんでも完璧にやりこなすし、すーっごく楽しい気持ちにさせてくれるし、ぐみのクラスメイトもいっつも会長の話してますよーう」 「……へ、へえ」 「いや! さすが我が生徒会・書記、早河恵くん! よくまとまってた! だが俺の魅力はやっぱりまとめきれないものなのだ!」 「はいっ! まとめきれませんっ」 ……どうしよう、ここは頷いておくべきなのか。 ていうか、この一種異様なテンションを皆が普通に受け入れているってことは。 これが彼の普通ってやつなのか。 疲れないのかな。 「まあ、8割嘘だと思って聞いておくといい」 「……え?」 「もしくは妄想だ」 「うわーん……ほんとだよう、信じてよう」 「はっ、八重野副会長よ」 「うわぁ、やっぱりかっこいい……先輩」 「さ、ここからは簡潔にいこうか」 さすがというか。 あの会長を抑えきれる力があるんだろうな、と思わせる空気をまとってる。 俺たちを囲んでいたギャラリーの空気をも、一瞬にして切り替えてしまった。 「八重野蛍。最上級生で、副会長をしている。繚蘭会と生徒会はともに協力しあわねばならないものだから、よろしく……」 「とか言いながら、ラスボス一歩前で裏切る感じの仲間ポジションな!」 「は、はい?」 「なんていうか暗い過去を超えるために一緒に冒険しにいったくせに、最後に病気の妹を助ける秘宝がどうのこうのでガツンと仲間を裏切るの」 「今まであげたレベルはあれですか、仇で返すんですかって――」 「言わなかったか? 物事は簡潔に運ぶのが良いと」 「……見ての通り、とんだドSです」 「お前、もう黙ってろ」 「はい……」 「あら、八重野くんもういいの?」 「他にもう言うべきことはないからな」 「そう、じゃあ私の番ね」 きゅっと足をそろえて、俺のまっすぐ正面に立つ姿。 長い髪が揺れて、それだけでも眩しい。 「はあ……やっぱりなんだかすごいなぁ、どきどきするんだよね、茉百合さんにまっすぐ見られると」 「え? 女の子でもそうなの?」 「うん、どきどきするー」 「へえ、そんなもんなのか……わっ」 稲羽の言うことは間違いではなかった。 いつの間にかできていたギャラリー。しかもそのほとんどが女の子だ。 彼女たちの眼差しはキラキラと輝いていた。 なんだろうこれ。目の中にハートが飛んでるならわかるけど、違う。星だ、星。 「八重野くんと共に生徒会副会長を務めています、白鷺茉百合です。よろしくね。そうそう、なんてお呼びするのが良いかしら?」 「俺? あ、葛木でも晶でも、どっちでもいい……です」 「――……」 「あれ? あの、どうかした……」 「うーん、そうね……晶くんと呼んでもいいかしら? 私、年上ですしね」 「はい、かまいま――って」 「あら、ダメかしら?」 「い、いやいやいや、ダメとかでなくちょっとびっくりしたっていうか」 俺だけじゃない。 周りの、さっきまで目の中に星をキラキラさせてた子たちがささやいている。 ――いきなり茉百合様に下の名前で呼んでもらえるなんて……! ――なにこの人!! 「ええええ、俺が悪い流れになってる!」 「ダメじゃなかったら、そう呼びますね。よろしく」 「えーなになに、まゆりちゃん、晶くんの事気に入ったのー?」 「ええ、そうかもね」 「良かったねえ、しょーくん」 「ちょっとなにげにあんたもその呼び方ですか!?」 「うわーん、俺だけあんたですよ! この扱いの差は何? 僕のことも知って、もっと知って仲良くして〜」 なんとなく、この生徒会の力関係がわかってきたような気がする。 特にこの会長とやらの扱いは、今知っておかないといけない。 一瞬でもひるんだら、間違いなく恐ろしいペースに巻き込まれるんだきっと……。 「いかん、あと5分だ。5分でチャイムが鳴る。解散しよう」 「ええ〜、まだ5分もあるじゃん。これからって感じなのにぃ」 「もう5分しかない、だろう」 「じゃあ今日だけタイム10分くらいずらそ! そうしよ〜っと」 「……」 無言かつ、一瞬だった。 居合い抜きといっても過言ではないだろう。 副会長はあの会長のポケットから携帯ゲーム機を抜き取って―― 「はっ」 容赦なく、投げた。 迷いも何もないフォームだ。 ゲーム機は弧を描きながら空を舞った。 「わあああ! 俺の愛機がああ!」 「……よし」 「さて。お騒がせしました。皆さん急いで教室に向かって下さいね。あと5分なんですから」 あの、派手な上に心に傷を盛大につけてくれる歓迎を乗り越えて、俺たちはやっと校舎の中へとたどりついた。 幸いにしてチャイムまでの残り時間はまだ少しだけあった。 だけど、ゆっくり優雅に廊下を歩くほどの余裕はない。 「……まったく。無駄は嫌」 「はあ。ほんとにもう、もう……」 天音はあの会長がとことん苦手なのか。 まだ授業は一時間も始まってないというのに、すっかり疲れきっていた。 「大丈夫か、天音。栄養足りてる?」 「ありがとマックス。だめだめ、頭を切り替えなきゃ、うん。さ、遅刻しないように急ぎましょ」 「そうね、ちょっと急ぎ足で行けば大丈夫かな」 「桜子、そっちは間に合いそう?」 「きっと平気よ」 「え? 水無瀬は別のクラスなんだ」 「はい、残念ながらここでお別れです。皆一緒のクラスだったら良かったのにね」 「ワタシもここからはひとり」 「そっか。そうだよな」 昨日からのドタバタがずっと続いてるせいか、こうして廊下で別れるってあたりまえの事がなんだか不思議だ。 九条にいたっては下級生のはず。 教室が違ってあたりまえだ。 「それじゃ、急いで走っちゃダメよ」 「ふふ、大丈夫」 柔らかい笑顔だった。 ふわふわとした、混ぜに混ぜまくった卵で作るオムレツみたいな。 って、やばいやばい。どんなに優雅な笑顔の前でも、時間は決して止まっちゃくれない。 やや急ぎ足で、水無瀬と九条は連れ立って廊下の向こうへと消えていった。 「で、俺は――そういえば、俺ってどこに行けばいいの?」 「そうだ。天音ちゃん、葛木くんはどこのクラスなのー?」 「えええええええ!?」 「うわーうわー! すごい偶然だよね! 一緒のクラスかあ。なんか嬉しいな」 「偶然というよりも、必然性のほうが高いんだけどね。繚蘭会がきちんとサポートするって決めたんだから」 同じクラスか。 誰も知らない教室に放り込まれるよりかは、幾分かましだな。 稲羽はなんだか話しやすいし、天音は今はなんだかカリカリしてるけど、良いヤツそうだ。 出だしでつまづきまくったぶん、これからはのんびり且つ楽しい学園生活が送りたい。 別に膝枕で弁当というところまでは望まない。 できるだけ美味しい昼食を、腹いっぱい食べて、そしてなんだか笑える話などを交わしたい。 贅沢だろうか、この妄想は。 「ちなみにオレも同じクラスだ!」 「え、お前も!?」 「ちょ、データ操作ってなに? ちょっと何それ――」 「わわわ、急ご急ごっ」 チャイムとほとんど同時に、俺たちは教室の中にすべりこんだ。 先に自分たちの席へ向かった稲羽や天音の後ろをついてゆくと、なんだか周りがざわめいている。 その原因は――俺? 「あれ、転校生?」 「そういえば、今朝見たよ。あの会長がさー、歓迎とか言ってたけど、このクラスだったんだ」 「忘れてた。俺、転校生だったんだ」 「あ、そうだった。なんだかもうずーっと一緒みたいな気分になっちゃってた」 「俺もだよ。なんか緊張感ないっていうかさ……バタバタしてたからかな」 「そうかもー。ほんと、つい昨日のことなんだよね。葛木くんと初めて会ったのって」 転校生って、もっとこう――先生と一緒にやってきて、朝のホームルームで自己紹介とかして。 しんと静まったクラスメイトの面々の前にずんと立ちはだかって話題にのぼる。 そういう流れだと思っていた。 しまった、転校生といえば気をつけなければならないのはズボンのチャック。 あれがいきなり半開でもしていたら、この場所での俺の人生は終わってしまう。 大丈夫だろうか。 今さらながら、大丈夫だろうか……。 「何ぼーっとしてんだよ親友! こっちこっち」 「あ、うん。うわー本気で隣の席なのか?」 「あったりめーよ! オレは嘘はつかない主義なんだぜ」 「おはようございます」 「……??」 イヤに室内に響く低い声の先にいたのは、眼鏡をかけた男。 扉を開けたと同時に、その目はぐるりと教室を見渡している。 『おはよう』なんて爽やかさたっぷりのはずの言葉とは裏腹に、にらみ付けるような眼差しだ。 「…………」 「……??」 なんだこの嫌な空気は。 眼鏡の奥の目がじとじととこっちを見ているうえに、この男、無言だ。 「あの」 「担任の氷川だ。転校生の葛木とは君か」 「あ、はい。そうです」 やはり担任か。 なんだかちょっと感じ悪いな。 人を見た目で判断しちゃいけないんだろうけどさ。 「今から入るクラスに何か言うことはあるか?」 「えっと、いや、特に……」 「ないのか」 「あ、強いて言えば」 「何だ、言ってみなさい」 「早く昼休みにならないかなーと思います。おなかすいた……」 「…………」 「あ、あの?」 「もういい、席につきなさい。ホームルームを始める。今週はとくに予定の変更などはなく――」 やっぱり苦手だな、この人。 まあいいや。 天音の言った通り、転校生としてこのクラスに入るってのはクリアしたらしい。 後は―― そうそう、昼休み。 食べ放題の時間を楽しみに待とう。 ざわめく教室。 椅子の引く音、立ち上がって、歩き出してゆく大勢の足音。 これだ。これだこれだこれだ。 待ちに待った――昼休みだ! 「よっしゃああああ!」 「えっ、な、なに? どうしたの?」 「いや、昼休みだろ? みんな昼ご飯行くんだろ?」 「え、ええ。そうだけど……??」 「これこれ! 食堂フリーパス!!」 びしっと見せたのは、例の学生証。 裏面には『学食無料』の文字だ。しかも無期限。 「食べ放題! すごいよな、これ」 「ああ……それじゃ、今日は食堂に行く?」 「もちろん。あ、ごめん、場所わかんないから案内してほしいんだ」 「うん! 行く行くー!」 「マックスくんも一緒に行かない?」 「残念、オレちょっとマミィの所に行かなきゃいけねーんだ」 「おうよ」 天音と稲羽の後ろをてくてく歩き、校舎の狭間を抜けていく。 もう心はその段階から踊っていた。 おまけに視界に入ってきた建物――おそらくあそこが食堂だろう。 想像のきっちり10倍は豪華だったので、俺は思わずぷるぷる震えてしまった。 「…………」 「はい。ここがこの学園内で総合的に使われている食堂ね。他にも寮内に――って」 「うわああ、すっげー!!」 「ちょっと聞いてないの!?」 「天音ちゃん、わたしたちも行こうっか」 「……みんな、ほんっとにお腹すいてるのね」 「ああああ! うまそうだー!! 幸せだー!!」 「ね、ねえ。本当に全部食べるの?」 「もっちろん。これだよ! これが幸せってやつだよおおお!」 「ちょっと人格変わってない?」 「……」 「ああもう! うまい。やっぱすごいな、この学園。学食ってレベルじゃないよこれ」 「そ、そう……褒めてもらえて嬉しいわ……」 「ん! もぐもぐ……ああ、うまい」 「…………」 「んぐ、もぐもぐ、ううう! うまー!」 「……あうぅ」 「もぐぐ……ん?」 「……あ」 「あれ? 稲羽どうしたの? 腹いたいの?」 「へ? ぜ、全然! 全然痛くないよ」 「ならいいんだけど、さっきからヘンな顔してるからさ」 「へ、ヘン!? 天音ちゃん、わたしの顔ヘン!?」 「う、うーん。ヘンって感じじゃないと思うけど? ちょっとぼーっとしてるなとは感じたけれど」 「そ、そうそう。ちょっと考えごと」 「そうなんだー、あ、こっちのから揚げももらっていい?」 「……どうぞ。お好きなだけ」 「んじゃ、いっただきまーす」 「あの、葛木くん」 「なに?」 「す、すごいね、いっぱい食べるんだね」 「ああ」 「ここのお皿のも、全部食べられるの?」 「当然」 「…………」 「……? えっと、稲羽も食べる? もしかしてまだお腹すいてたとか」 「食べない! 食べないよ!!」 「葛木くん、女の子はそんなに食べられません!」 「はわ、ううう……」 「ごめんごめん。あ、残ったのも全部俺が片付けられるから!」 「……ほんっとすごい食べっぷりね」 「ふわああ、食べた食べたー! やっぱここに来て良かったー!」 「……うぅ、おいしそだった……」 「葛木くんって、ご飯を目の前にすると人格変わるのね」 「え? 変わらないよ。ただご飯が好きなだけなんだよ」 「う、うぅうう」 「そ、そう……ご飯好きなんだ、ね」 「もぐもぐ……ん?」 「あれ、ねえねえ天音ちゃん。あっちあっちほら――お」 「あ、あ、あああああ!!」 「パンパカパーン! 天音! 天音! 天音の記念日のお祝いにやってきたよー! こんなところにいたのかあ」 「会長、クラッカーもっといりましたかねえ」 「………………」 なんだなんだ!? 明らかにテンションの壁が立ちはだかってる。 ズンズン沈んでゆく天音と、どこまでもハイテンションな会長。 おまけに会長が両手に掲げてるのは…… てるのは…… 「う、うわ……ほかほかだ」 「う、うん……ほこほこだね」 「天音! ほらほら見てくれこの艶やかな炊き上がりを!」 「すーっごくすーっごく美味しいお赤飯でーす」 「うわー! すげーうまそー!!」 「おおお、美味しそうですねえ! いいにおーい!」 「…………」 「あれ? あれれ? 天音は覚えてないの? こんな大事な記念日を忘れるってダメだなあ、もう」 「…………ば」 「天音。いつか愛する人のために、自分の体を大事にするんだよ? なんていったって、女の子はデリケートに出来て――」 「ばかああああ!」 「ええっ!? い、いきなりカカト落とし!?」 「ばか! ばか! お兄ちゃんのばかああああ!」 「えええええええ!? お、お兄ちゃん!?」 「うん。お兄ちゃん」 「誰が、誰の、お兄ちゃん!?」 「あ……ああ! そっか!」 そうだったんだ。 だからだったのか、昨日のあの態度は。 『す、皇って呼ぶのはやめて! ナシ! ダメ! すごくイヤ! あああもうっ!』 確かにちょっとわかるかもしれない。 皇と呼ばれるたびに、兄の姿が鮮烈に脳裏を駆け巡るとしたら、それはかなり疲れる。 俺だったら即気絶だ。 そう思うと、天音はあの兄を持っていながら、なんと立派に育ったんだろう。 出会って二日だが、感心せざるをえない。 「うわーん、蹴られた。まじで蹴られたー!」 「今すぐ帰って! 帰って! もう一度言うけど、帰ってちょうだい!!」 「ぐす……こんなにも心の底からお祝いしたい気持ちでいっぱいなのに……ぐすぐす」 「いーらーなーいーっ!!」 「おおぅ、ぐす……帰るべきか、帰るべきなのかな……僕……」 「だから帰ってってば!!」 「か、会長、まってくださーい! あ、お赤飯温かいうちにどうぞー!」 「はあ、はあ、はあ……」 「あ……ご、ごめんなさい……ちょっと取り乱して……」 「ううん! あのねあのね! このごはん食べてもいいかな?」 「え? ええ?」 「ちょ、稲羽も!? 俺も今それ言おうと思ってたんだ!」 「……」 「だってまだ時間あるし、せっかくほかほかなんだし」 「う、うんうん! うんうんうん!!」 「……どうぞ」 「わあい♪ いただきまーす!」 「いただきまっす!」 「ん、おいひぃ、ふわふわのお赤飯〜! おいしいよお」 「ほんと、良い炊き加減だよな」 「うん、すっごく良い感じなの。天音ちゃん、ありがとねー!!」 「そ、そう……良かったわ……はあ」 「あ、そういえばさ。なんで会長、赤飯持ってきたの?」 「――!!」 「え?」 「――もおおお!」 「えええええ!? なんで俺ぇええ!?」 「放課後だー!」 「放課後だねー」 「うん。放課後だ。てかなんか早かったなー、今日」 転校1日目、なんとか無事に乗り越えられた。 たぶん、無事に。 昨日があんまりにも激動すぎた。 今日こそはっていうか、これからはこんな平穏無事な学園生活を送りたい。 こんなささいな願いはないだろうってくらい、平穏でいいから。 「ん?」 まだ授業を終えてすぐなのに、天音は早々とカバンに荷物をつめこんでいた。 「よし、おしまい!」 「あ? 今日も忙しいの?」 「うん、そうなの。ちょっとね。じゃあ、また明日ね」 「天音ちゃん、ばいばーい」 「おう! またなー」 「ずいぶん早く行っちゃうんだな」 「天音は繚蘭会だからな。転校生が来ると仕事が増えるらしいぜ」 「そういえば、前から思ってたんだけど……聞いていい?」 「ん?」 「どうしてここには、生徒会と繚蘭会のふたつがあるの?」 「そうそう。いまいちよくわからないんだけど」 「どっちも必要だからあるんだぜー」 「んー。生徒会はそのまんま、生徒会だよ。学園の行事を取り仕切ったりするのが仕事だぜ」 「繚蘭会は予算や学園施設の管理とかをしてるんだってよ。晶と結衣みたいな転校生の管理もしてるらしいぜ」 「そっか、私が来た後に葛木くんも来たから、それで天音ちゃんは忙しいんだ」 「へえ……繚蘭会はなんだか大変そうだな」 「晶はイレギュラーな転校生らしいからな! なんか大変なんじゃねーのか」 だから昨日、あれだけ疑われてたのか。 なんとなくだけど、理由がわかった。 謎の転校生って、そりゃ管理する側からしたら面倒このうえない。 そりゃ、それならあれだけ疑われるし、繚蘭会も忙しくなるってもんだろう。 「まあ、オレも詳しいことはよく知らねーんだけどな!」 「えええー、そうなの? すっごく詳しそうに見えた」 「他のジャンルなら詳しいから、他の質問してくれ!」 「なんだそれ」 『ただ今より繚蘭学園臨時審議会を行います、生徒会、繚蘭会、および2-Cの葛木晶はただちに大会議室まで来るように』 「え……?」 「あれー、葛木くんも? どうしてだろ」 「なんで俺まで?」 臨時審議会とか言ってたな。 またもや俺の行く末、暗雲がたちこめてきたような気がする。 「俺、どうなるんだろう。なんか、行くのすっごい怖いんだけど」 「うーん。でも、名指しで呼び出されてるから、行かないといけないよね」 「そうだよなあ」 「そーですよねー……はあ。行くか」 「失礼します。晶くんはいるかしら?」 「あ、はい! って、ど、どうしたんですか」 「まだ校内がよくわかっていないと思って、迎えに来たのよ」 茉百合さんが目の前でにっこり微笑んでくれて、すごく親切なのはよくわかる。 わかるんだけどー……。 なんていうか、またもや周りの視線が痛い気がする。 「ま、茉百合様がわざわざ直接迎えに来るなんて」 「茉百合様のお優しい心づかい、素晴らしいわ!」 「あの、ほんとすみません。ほんとに。ていうか、むしろ俺、死ぬ気で大会議室探しますから」 「ふふふ、おもしろいこと仰るのね。いいのよ、これも生徒会の仕事のひとつですもの」 「あの、はい! はーい!! 質問していいですか?」 「はい、どうぞ」 「えっと……どうして葛木くんも呼び出されたんですか?」 「そうだそうだ。オレたちもそこが気になってるんだけど、茉百合さん理由知ってる?」 「審議会の議題がおそらく彼の転入に関することだからだと思うけれど……」 「そ、それで俺まで」 「あの……葛木くん、このまま学校辞めさせられたりなんてないですよね?」 「え!? や、辞めさせ!?」 でも、そうだよなあ。審議会ってことは、そういう可能性もあるってことだ。 だけど……来たばっかりだって言うのに、それはないよなあ。 「なにー! 晶が辞めさせられるー!?」 「いや、まだ決まってないからな」 「折角ルームメイトができたんだぞ! 辞めさせられてたまるかー!!」 「わたしだって、せっかくの転校生仲間いなくなっちゃうの、やだもん」 「ちょ、お前ら落ち着け落ち着け、むしろ本気でピンチなの俺じゃん」 ぷんぷんと頬を膨らます稲羽と、なんかほんのり煙が出てる――ような気がする怒り気味のマックスを抑えつつ、俺は茉百合さんの方を見た。 「大丈夫。私たち生徒会もなんとかできるよう善処するわ。もちろん繚蘭会の皆も同意見でしょう」 「本当か?」 「茉百合さん……」 「ええ。一度受け入れた転校生を、すぐに辞めさせるなんて良くないわ」 「良かったあ……! そうですよね、せっかくみんなと友達になれたんだもん!!」 「ええ。だから、そろそろ行きましょう。あんまり遅くなっては印象も良くないでしょうしね」 「わかりました」 茉百合さんもこう言ってくれてるし、行かないわけにもいかない。 運命っていうか、これから先の俺の学園生活っていうか、そんなものたち全部ひっくるめて、ここはふたつの生徒会にまかせるしかない。 「じゃあ、行ってくる」 「うん!」 「辞めさせられるなんてことになったら、オレは怒るからな!! 出すぞビーム!」 「それは困るわ。マックスくん、心配しなくても大丈夫。ね?」 「おう! 頼むぞ」 「頑張ってねー」 「失礼します」 「……失礼します」 茉百合さんに続き、俺が会議室に入った時には、もう生徒会も繚蘭会のメンバーもみんなそろって席についていた。 「ここにどうぞ」 「は……はあ。ありがとう……ございます」 俺もすすめられるがまま座ったけど、やけに緊張してしまう。 当たり前だけど、皆いつもよりもなんだか真面目な顔だし。 おまけに、たぶんこの学園の中で一番えらそうな人たちもこっちをじっと見てるし。 「はじめまして葛木くん。私は学園長の菅原です」 「あ、はい……は、はじめまして」 「理事長の皇千羽耶です」 「すめらぎ……?」 ってことは、天音や会長の親戚なんだろうか。 そっと天音の方を見てみると、確かに顔立ちは似てるかもしれない。 「さて、早速で申し訳ないのですが、あなたがどういう経緯でこの学園に来ることになったのか、教えていただきたいの」 理事長たちだけでなく、ここにいる全員の視線が俺の顔に集中した。 「よくわかりません、ただ、突然封筒が送られてきたんです。この学園への入学についての書類一式が……」 「残念だがその封筒とやらに関しては、私たちでは把握できていない。と、いうことは――だ」 「…………」 「これはやはり噂になっている通り、生徒会が勝手に転入生を呼び入れたというのは本当なのですかね」 「ほんとうでーす」 「それは問題じゃないかね? ここは知っての通り全寮制だ。身元不明の者を受け入れるのはあまりに危険だ」 「個人の特性と才能を伸ばす――それが我が校のモットーじゃなかったですか」 「問題をすりかえるつもりかね?」 「……皇くん。私たちは生徒ひとりひとりを大事に預かっている立場なの。彼……葛木くんを責めているわけでもなんでもないわ」 「……」 「この学園のことは私たちと、あなたがたふたつの執行部が全て把握していなければいけません。議論をするために集まったのではありませんよ」 さっきから話されているのは俺のことばかりだ。 なのに、ずっと他人事みたいにしか聞こえない。 しんと静まってしまった会議室の中、通った声を出したのは八重野先輩だった。 「理事長。葛木晶の手元にどうやってそれが渡ったのかは、いまのところ俺たちにはわかりません。ですが、彼が入学許可証と学生証を持っていることは事実です」 「ええ」 「そのどちらも、生徒会・繚蘭会ともどもニセモノではないと確認しました」 「偽造や複製することはほぼ不可能だったわよね、くるりちゃん」 「は、はいっ! どっちも不可能……です」 いつもはそっけない九条も、こんな場では慌てることがあるみたいだ。 「……天音、本当だよ」 「わかってるわ。理事長、この学生証に関しては私も……繚蘭会会長として、きちんと確認しました。本物です」 「偽造は不可能。本物の学生証を持っているということは、すでに学園も繚蘭会も入学を承認しているということになります」 「だが、しかし」 「学生証は、すごく精巧、だから、だからニセモノは作れないです! ほんとに」 「それは理事の皆様も、ご存知のはずです」 「……ええ、わかっているわ」 再び重い空気が会議室の中を満たしていく。 俺だけが蚊帳の外って感じだけど、この会議の議題は俺なんだよな。 本当にどうなるんだろう。 やっぱり退学ってことになるのかな……。 「もちろん、俺たちも十分な注意をはらって対応します。今回の件は一度俺たち生徒会に任せてもらえませんか」 「えっ?」 「入学の際に作成する個人データは、例の花火時の事件で誤って消去されてしまいましたが」 「あーそうだったんだ」 「……この件に関しては生徒会が責任をもって新しく調査・作成します。もちろんそちらでの審議も進めていただいてかまいません」 「わかりました」 「後日きちんとした調査結果と書類を出してもらい、もう一度考えましょう」 「……葛木さん、よかったです! なんだか大丈夫そう」 「あ、ああ。なんか大丈夫そうなのかな」 「ですが、もし不備があったり審査が通らないような事があったら、即刻退学扱いですよ」 「え、た、たた退学?」 「異論はありますか」 「いいえ、ありません」 「同じく、異論はありません」 「繚蘭会も生徒会と同意見ということで良いですか?」 理事長の言葉に天音は一瞬ひるんだ後、頷いた。 水無瀬も九条もそれに続く。 「では、これを理事会の結論とします」 理事長は小さく頷いた後、会議室を後にした。 やや困り顔だった学園長も続いて出てゆく。 そして扉の閉まる音とともに、会議室の空気がいっきにゆるんだ。 「あああああ、疲れたあああああ」 「ちょっと! なんか俺すっごい危険な立場にいませんか!?」 「えー。まあ、困難が大きければ大きいほど、レベルもぐんとあがるよー」 「レベルあがるまえに、追放されたら終わりじゃないですか」 「ちょ、ちょっと! なんて無責任!」 「大丈夫。さっき八重野くんも言ったとおり、万事ぬかりなく進めるわ。それが私たちの仕事だから」 「は、はあ……」 「私たち繚蘭会もがんばります! ね、くるりさん、天音さん」 「……う」 「ええ、もちろん」 「ありがとう。たのもしいわ、皆さん。頑張りましょうね」 「はーい!」 「お前――ほんとだろうな」 「うわーん、返事しただけで怒られるの? 俺」 「はあ……大丈夫かしら。大丈夫よね、茉百合さんと八重野先輩がいるから……はあ」 「ほ、ほんと――頼むよ」 深くため息をつきながら、俺と繚蘭会の面々は会議室を後にした。 生徒会の皆は何か話しあうようで、そのまま残っているみたいだ。 「あの様子だと、学園サイドは納得できてないわね」 「でも偽造は不可能。絶対。ワタシ、そこは保証する」 「そうよねえ」 「審議会の皆さん、いまのところ葛木さんがここにいてもいいって感じでしたよ」 「ずっとだと、いいんだけどなぁ」 「ああ、良かった――天音、天音、ちょっとこちらへいらっしゃい」 「――!!」 「あれ……天音、なんか呼ばれてるぞ」 「ご、ごめん! ちょっと、さ、さ先、いってて」 「……天音?」 「天音、今度よかったらお食事会を開こうかと思ってるのよ、お話していたあの人と――」 「そんな急に!!」 「前からゆっくり話したかったのよ」 「今は繚蘭会が忙しいから、私それどころじゃないの!」 「天音。学業もだけど、自分の将来のこともきちんと考えてほしいのよ」 「その話は、また今度!」 「なあ、さっきから気になってたんだけど、理事長って天音の親戚のひと?」 「理事長は、天音さんのお母様なの」 「お、お、おかあさま!? いや、確かに似てるけどさ」 俺はもう一度、天音と話している理事長の姿に目をやった。 なんか、こんな大きな娘がいるようには見えない。 理事長って聞いてなければ、どこかのお嬢さんといわれてもおかしくない。 「いやあ、お母さんか……びっくりした」 「…………」 「じゃあ、私もう行くからね」 「……」 「んーんー」 「くるりちゃん」 「はいっ!」 「研究の方はどう? 足りないものなんかはないかしら?」 「大丈夫! 大丈夫だよ。あの、また新しい論文も考えたから、来てほしいな……」 「ええ、ぜひ。それじゃあお勉強、頑張ってね」 「はい! 頑張る!」 ……これもまた、びっくりだ。 九条の顔が輝いていた。 っていうか、にこにこ笑ってた。 ない。これはない。 夢でも見てたんだろうか。 「……なに」 「あ、もとに戻ってる」 「……ちっ」 「えええええ、舌打ちかよ」 なんだ、この態度の差は。 やっぱりさっきのは夢だったんだろうか。 「はあ……もうなんでこう、いろんなことに悩まされなきゃいけないんだろ」 「どうしたの、天音さん」 「んー……ちょっとね。ややこしい話。ずっと前からされてるんだけど」 こっちはこっちで、なんだかどっと疲れた様子だ。 「あの言ってもいいかな。怒る?」 「なに? 怒るか怒らないかは、聞いてみないとわからないけど」 「天音ってなんかあれだよな。もっとお嬢様かと思ってたけど……いや、実際お嬢様なんだろうけど」 「はい?」 「なんか、苦労人っぽいよな」 「〜〜〜〜〜っ」 やばい。 これは言わなければよかったスイッチを押してしまったかもしれない。 「仕方ないじゃない!! 問題が山積みすぎるの!! もおお!」 「天音さん、落ち着いて、落ち着いて……」 「わあああ! かかとおとしはもう勘弁してー!」 「天音、パンツ見える」 「もおおおっ!! 知らないっ!!」 「ごめんなさいいい!!」 繚蘭会のメンバーと別れ、会議室から戻ってくると、校舎の中はやけにがらんとしていた。 みんな寮に帰ったり、部活かなんかしてるんだろうか。 「あー……疲れた……なんか今日疲れた……」 頭がずしんと重い気がしてならない。 なんだかどっと疲れることが重なってるせいに違いない。 「おう! 帰ってきたか親友!」 「んー? あれ、何? ふたりとも待ってたの?」 「疲れた。なんつーか、精神的にどっと疲れたな」 「そういう時は糖分だな、糖分! 疲れた頭に効くぞ!」 稲羽のほうを向いて、そう言ってみた。 もしかしたら稲羽のポケットは魔法のポケットかもしれない。 いや、別に魔法じゃなくてもいい。 カバンの中に何か……ビスケットとかあったらいいのにな……。 「え、あ、あ、甘いものなんて、持ってないよ。そんないつも持ってるわけないもんっ!」 「うう……それは残念」 「第3食堂だったら、放課後もいろいろ販売してるぞ?」 「今日みんなでお昼食べたおっきなとこだよ。場所ってもう覚えたかな」 頭の中でここから食堂までの道を思い出してみる。 大きなガラス張りの建物だったな。 ここからの行き方も、なんとか覚えてる。 「うん、大丈夫そうだ」 そう答えると、稲羽はほっとした顔つきをした後、胸の前でパンっと両手を合わせた。 「ごめん! もっといろいろ案内しようって思ってたけど、ちょっと用事ができちゃった……」 「あ、それで待っててくれたの? ありがと。いいよいいよ、今日はまだ1日めだし」 「そっか、そうだよね。まだ1日めなんだよね」 「ほんと長い1日だよな、今日」 「あはは、転校1日めだもん。わたしもそうだったよ」 「わわ! わたしもちょっと……ごめんね」 「んー、それじゃーな」 「オレも天音に呼び出しくらったから、帰るの遅くなっちまう! 寂しくて泣いたりすんなよーっ」 「するかっ!」 稲羽とマックスが出て行った後、俺もやっと椅子から立ち上がった。 やっぱり足が重い。 早急に甘いものが必要だ。 むしろ甘くなくてもいい。ご飯でもいい。 「第3食堂ってあっちだったよな」 「しょーくんさん」 「でっかい屋根とテラスがあったから、あれだ」 「しょーくんさん、しょーくんさん」 「てか、このフリーパスっておやつとかもいけるのかな」 「葛木しょーくんさんっ!!」 「……え?」 「葛木しょーくんさん! お迎えにあがりましたー」 「しょ、しょーくんさん?」 「えっ? 人間違い? じゃ、ないですよね」 「あ、うん。葛木晶、だけど……」 「はあ〜、よかった。なかなかこっち向いてくれないから間違ったかと思ったじゃないですかあ。さ、来てくださーい」 「え?」 このちっさい子は――確か生徒会の中にいたな。 「えーとえーっと、名前…」 「もいっかい挨拶しときます! 生徒会書記・早河恵です! ぐみちゃんって呼ばれてて、ぐみもソレ、気に入ってます!」 腕をガシリと掴んだかと思うと、早河恵は問答無用に俺を引っ張りだした。 そういえば、さっきお迎えって言ってたな。 「早河さんあのさ」 「ぐみちゃんです。ぜひそう呼んでくださいっ」 「ぐ……ぐみちゃん? あの、どこ行くつもりなの?」 「生徒会室です」 嫌な予感がする。 激しく、嫌な予感がする。 ここは振り切って逃げてしまうべきか。 なんだか頭がクラクラしてきたし。 「あ、きちんとご案内しますから、しょーくんさんはこれでも食べててくださいっ」 「……う」 何の疑いもなくまっすぐこっちを見るぐみちゃんが、俺の前にあのお菓子をつきだしてくる。 「うまいですよ!」 「あ、ありがと……」 逃げられない。 こんなまっすぐな目で見られたら逃げられない。 ひとまず例のお菓子をくわえつつ、俺はなすがまま――生徒会室へ引き連れられていった。 「ただいま戻りましたー!!」 「おかえりなさい、ぐみちゃん」 「どーも」 さっき会ったばっかりなのにな。 変なタイミングのせいか、どうも居心地悪い。 「何度もお呼びたてしてごめんなさい」 「や、別にいーですけど…何ですか?」 「個人データ入力に必要だ」 何がですかと聞く前に、俺の目の前に紙束がばさりと置かれた。 1枚2枚じゃない。下手すると、ノート1冊ぶんくらいの量だ。 「え、これ全部?」 「必要最小限には絞ってある」 ほとんどがマルバツで答える形式だけど―― 健康診断みたいな項目から、まるで心理テストのような質問まである。 「少し面倒だけど、よろしく頼みます。これも審議会にきちんとした書類を提出するためなの」 「わかりました、ここでやっていいんですか」 「ああ、かまわない」 俺が渡された書類の束に目を通しはじめると、八重野先輩は自分の机に戻った。 茉百合さんも、いつもの優雅な仕草のまま何かの書類に目を通している。 「……?」 ただひとり、この人だけは遊んでいた。 生徒会長。やっぱりというべきか、会長は遊んでる。 座り心地の良さそうなソファに座って、必死に携帯ゲーム機を握っている。 「んんん〜、ふんふふ〜、おっ! やった! よしよしアイテムゲット」 何やってるんだろう、この人。 本当に仕事してないな。 ぐるりと生徒会室を見渡すと、副会長のふたりがてきぱきと仕事をこなしている。 頼りなさそうなぐみちゃんですら、パソコンに向かうと別人のように手早く作業してる。 結果としてこの場所に最も似つかわしくないのは、この会長だ。 「ふう〜」 ゲーム機を置いた瞬間、会長の表情がぐっと引き締まった。 ひと遊びしたから、これから仕事でもするかって感じなのかな。 「……チェックを始めるか」 もしかして。 真面目モードの会長は、八重野先輩や茉百合さんをしのぐような能力の持ち主だったりして。 「……」 「……」 「ちょ!!」 「うーん、あと少しかな…あと少ぉうしでキレイにむけ――」 「指のささくれチェックかよ!!」 今わかった。期待とか予想は無駄だ。 この人は本当に何もしないんだ。 真剣な顔して指のささくれチェックする男なのだ。 「えええええ!?」 「わぁああ! 会長のお手が! 大事なお手がぁああ!」 あまりの絶叫に驚いたのか、副会長のふたりまで凍りついたような顔してる。 指先からちょっぴり血が出ているだけだった。 さっきの俺のツッコミで、ささくれがちょっと深くめくれただけ…だよな。 「ちょ、ちょっとさ、大げさすぎるだろ」 「デリケートなんだ! 俺はデリケートなんだよおお、特に指先がああ! あぐあぐ……痛い…」 「わわわ、ぐ、ぐみに出来ることはないですか? 会長のために、ぐみにできることはー!」 もう一度よーく見てみたけれど、血はすでに止まっていた。 茉百合さんと八重野先輩の方を見ると、なんだか安心と呆れがいりまじった顔でふたりともため息をついている。 ぐみちゃんが騒いでいるのは――いつものことのようだ。 「しょーくん、保健室にある絆創膏とってきて」 「はい!?」 「あれが一番早く治るんだ。キズナオ〜ル。早くとってきて」 「うわ、嘘くさっ! ていうか…なんで俺が」 「だって俺、ケガ人だしぃ〜」 「……まだ場所もよくわかってないのに……」 「仕方ない、あの手段でいくか」 呆れている俺の言葉など100%無視だ。 会長はいきなりマジックを取り出すと、何かを書き始めた。 「ほい」 これは……。 これはあの画面じゃないか。 ロールプレイングでよくみるあの……。 「さあ、勇者よ……保健室に行き絆創膏を取ってきてくれたまえ」 「じゃ、『はい』でいいですよ、もう」 「え? 素直にいいえって選んでもいいんだよ〜」 「……じゃ、『いいえ』」 「……じゃ、『いいえ』」 「おお勇者よ、そんな事を言わずに引き受けておくれ」 「って、それがやりたかっただけだろ、あんた!」 「ううう……こんなことでもしてなきゃ、痛みに耐えられないのよ……ううう」 「えぐえぐ、か、かいちょ……かくなる上は、ぐみが! ぐみが取って参ります!」 「あーもういいってば。俺が行けばいいんだろ?」 こくこくと、会長はしつこいほどに頭を縦にふった。 まったく何としてでも俺をこき使いたいのか。 その通りになるのも癪だけど、これ以上不毛なやりとりを交わすのも嫌だ。 「おお勇者よ! 褒美に俺のおやつのポッチーを1本与えよう〜」 「うわ、1本て。王様っぽい話し方のわりにケチだな。やっぱり却下却下、そんなんじゃ行きません」 「……10本」 「あのねえ、さっき1本だったじゃん。んで、今は10本じゃん。行かないと0本だよ? 0だったら10のほうが嬉しくない?」 「くっ……」 「わかったよ。保健室の場所は?」 「隣の校舎の廊下をまっすぐいって突き当たり、右側です〜」 「いってらっしゃ〜い」 「……行っちゃったわ」 「まさか本当に行くとは――不憫だ」 「なんだ、彼は食いしん坊万歳なのか」 「かかか会長〜! お手は大丈夫ですかあ! えぐ、えぐえぐ、痛いですか〜」 「あ。も、全然大丈夫」 「よかったー! よかったですうう!」 「……不憫だな」 「ええ、本当に……」 「失礼しまーっす、って、あれ?」 保健室はしんと静まり返っていて、誰の姿も無かった。 先生はいないみたいだ。 どうしたらいいのかな。絆創膏とか、どこにあるのか全然わからないし…。 「…………」 周りを見渡してみると、ベッドに一人の女の子が座っている。 あの子に聞いてみたら何かわかるだろうか? 俺の事はまったく気にしていない様子だけど、話しかけても大丈夫だろうか。 「あのーもしもーし」 「……」 「もしもし? 起きてる……よね?」 「はうわうわわわっ!?」 「ちょっと聞きたいことがあるんだけど――」 「ひっ、あっあの、え? えっ? えええっ!?」 「あ、ご、ごめん!」 しまった、ちょっと悪いことしたな。 振り返った女の子は、今にも飛び上がりそうな勢いで驚いてる。 そう、まるで幽霊でも見たみたいに。 「えーと、あのさ、絆創膏があるとこ知らない?」 「や、あのあの、ひゃああっ」 「えええええ!?」 「はうぅ……あう…たた、たすけ……」 パンツ全開だ。すごく真っ白だ。 いやいや、今はそんな場合じゃなく。 隙間にぽっこりはまってしまってる。 スカートは無残にまくれあがってるし。 すごい勢いで、お尻が俺の方を向いてる。 ふんわりしたなだらかで小ぶりな曲線。 いやいやいや。 お尻とかじゃなく! 助けないと!! 「ちょ、だ、だ、大丈夫!?」 「う、ううう……と、取れな……」 「ちょっと待って、こっちから引っ張るし」 「ひゃん」 「うわわわわー! ご、ごめん!!」 引っ張りあげようと手を伸ばした瞬間だ。 身じろぎした彼女のふとももに思いっきり触ってしまった。 「うぅ……」 やけに冷たくて、ぷるぷるしてる。 一瞬だったけど指先にはっきり残った感触。 いやいやいや。違う。 早く助けないと。 何よりこんなパンツ全開状態を続けてるなんて、女の子としてはいかん! いかんだろう! 助けてあげないと!! 「う、う、動かないで! ほんと動かないでな! 引っ張るから」 「はうう、は、はいぃ……」 「ん、手をこっちに伸ばして、はい」 「ふあぁ!」 「け、怪我なかった? 思いっきり落っこちてたけど」 こくこくこく。 言葉で返事する代わりとばかりに、彼女はぶんぶんと頭を縦にふった。 「そ、そっか。それなら良かった」 「あ、あの……」 「あ、そーだ。忘れるとこだった。あのさ、絆創膏あるとこって知らない?」 「ば、ばばんそ、こ? えっと、あの」 「ええっと、なんだっけかな。キズナオ〜ルとかそんなふざけた名前のなんだけど」 ぱたぱたぱた。 俺の言葉が終わる前に彼女は駆け出し、棚の一角を指差した。 その先には薬箱が置いてある。 「そこにあるの?」 こくこくこく。 返事のかわりに、また頷いている。 ちょっと変わった子だな。 恥ずかしがりなんだろうか。 いや、さっきパンツ全開だったもんな。恥ずかしいか、そりゃ。 「ありがと、探してみるよ」 棚から薬箱を取って、ふたを開けてみる。 消毒液やコットン、テープなんかが乱雑に入っていた。 ここで使うっていうより、外で何かあった時のために持っていくものみたいだ。 「んー、コレは違うな」 絆創膏の絵が描いてある箱はあったけど、名前が違った。 別にどれでも良さそうだけど、あの会長のことだ。 違う、ちゃんと取ってこいって言われるに違いない。 「……」 「これか? あったあった、よし」 探していたものは、薬箱の底に転がっていた。 「これ探してたんだ。ありがと、見つかった」 「あ……は、はぃ……」 「それじゃ、休んでたとこ邪魔してごめんな」 ごめん、ともう一度胸元で手を合わせてみたけど、女の子は相変わらずきょとんとしていた。 探すのに時間がかかってしまった。 とっとと戻らないと、またあの会長の文句を聞かされそうだ。 急ごう。 「……」 「ただいま。絆創膏取ってきたんですけど――あれ?」 生徒会室に戻ると、やけにしんとしていた。 茉百合さんや八重野先輩たち、つまり真面目に作業をしている人たちが誰もいなくなっていた。 会長だけが、相変わらず暇そうにソファで足をぶらぶらさせている。 「あ、みんな? なんか資料がどうこうって出ていっちゃった♪」 「そうなんですか。んじゃ、はいこれ」 「よし、ちゃんと『キズナオ〜ル』だな。もーこれがないとダメなんだよねえ」 そんなに言うなら、ポケットにでも入れとけばいいのに。永遠に。 もうちょっとで出そうになった言葉を、ノドのあたりで無理やり飲み込んだ。 ふんふんと鼻歌を歌いながら絆創膏を巻く会長。 その姿を見ているうちに、俺はハッと気づいた。 すごくシンプルかつ、俺の立場をゆるがす質問。 そういえば……この人が俺をこの学園に呼んだんだっけ。 「あのさ。すっごい最初に聞いておくべきだったと思うんだけど――結局、なんで俺をこの学校に呼んだんです?」 「……は?」 「俺呼んでないもん」 「は!? じゃあなんで嘘を!? さっきの審議会で、まるで自分が――」 「まあまあ。生徒会のおかげで退学にならずに済んだんだし、万事良し!」 「はいい!?」 「それにしても…いやーまさに、謎の転校生ってやつだね、君! かっこいいね!」 ぽんぽん。 明るく叩かれた肩が、やけに重い。 ちょっと待て。 じゃあ……。 じゃあ俺はなんでここにいるんだ!? 一体なんでなんだ!? 「う、うう……」 ……熱い。 ものすごく、熱い。 「あ、あちぃ……」 これ絶対に俺が発してる熱じゃない。 違う。人間としてこの熱は無理だ。無理。 おまけに体がずしんと重い。 「なんだ……」 「ぐーぐー」 「あ!」 「ぐーぐーぐー……ギリギリギリギリ!」 「……」 お前はロボットではないのか。その体は金属ではないのか。 何故いびきをかいて寝るのか。おまけに歯ぎしりまでしてやがる。 いや、そんな事実より。 どうしてこうも俺にぴったりくっついて寝てるのか。 この熱はマックスの体から発生していた。 「ギリギリギリ! ……ぐーー」 「おい、マックス」 「ぐーーーぐーーー」 「マックス、起きろよ」 「ぐーー……んあ?」 「起きたか?」 「あ……。おー! もう朝か、早いなー!」 「早いなじゃなくて。どうしてまた俺の隣にいるんだよ」 「あ? あー! そういえば、こっちは晶のベッドだな!」 「前もそうだっただろ」 「うーん……熱源の方に引き寄せられるのかもなー」 「熱源……? 俺のことか?」 「ああ! どうも寝てる時はうまく体がコントロールができねーな!」 ということは。 これから毎日こうやって目が覚めるんだろうか。 嫌だ。できたらそれは避けたい。 熱いし、鬱陶しいし、ロボットとはいえこいつは男だ。 「ま、いーじゃねーか!」 「よくねー!」 「そんな照れるなって。男同士だろ?」 「だから余計に!」 「そんなことより、早く準備して行こうぜ!」 「……はあ」 結局、生徒会や繚蘭会のおかげで退学は免れたわけだけど……。 俺をこの学園に呼んだのは、生徒会長ではなかったらしい。 俺は本当に、なんでここにいるんだろう。 あの入学許可証は偽物じゃないらしいけど、じゃあ誰が? 「なあなあ、ネクタイ歪んでないか?」 「ネクタイ?? って、うわ! 今気づいた」 「こう、角度がまっすぐじゃないと収まりつかねーんだわ」 きゅっきゅと、マックスはメタリックな腕で器用にそれをなおしていた。 それっていうか。 ネクタイ……つけてたのか。 「制服はきっちり着こなしたほうが一番カッコイーと思う主義なんだ、オレは」 「ほー。ていうか制服ってネクタイだけじゃん」 「なんだとう!」 「……」 「あれ?」 「あ……」 「んー?」 確か、昨日保健室で会った子だ。 絆創膏の場所教えてくれた、親切で無口でベッドから転げ落ちたりした子。 今日は何にもハマってないらしい。良かった。 「おはよう」 「え!!」 「昨日、助かったよ」 「あ……」 こくこくこくこく。 反応は昨日と同じく、やたらと小刻みな頷きだ。 これってもしかして、この子の会話方法なのかもしれない。 そういう美学で生きてるのかもしれない。 嫌な感じはしないし、ま、いいか。 「おーい、教室いかないのかぁー」 「それじゃ」 こくこくこく。 今度はちょっと明るいこくこくだった。 「知り合いか?」 「昨日、保健室で会ったんだ」 「ふーん、あれだな。ケロリーメイト十本位食べなきゃなって感じの子だったな」 「はい?」 「なんつーか、細いっていうか、貧血っぽいっていうか、ほらあれだよ! 栄養が足りてないやつ。やっぱそういう時にはケロリーメイトが一番だぜ? 一本でなんと…」 「……」 「あれ?」 なんだ、あの子も同じクラスだったのか。 さっき別の方向へ向かって歩いてた気がしたんだけど、いつの間に教室に来たんだろ。 「あ……」 きょろきょろと周りを見渡したあと、そっと席についた。 俺の近くの、昨日空いていた席だ。 あの席はあの子のだったんだ。 「ふたりとも、おはよーございます!」 「おはよう」 「おはよう!」 「……? 葛木くん、どうかしたの? なんかボーっとしてる」 「いや、ちょっと」 「ん? なになに?」 「なあ、あの子ってうちのクラスだったか?」 「あの子?」 「誰だ?」 「あの子だよ」 さっきの子が座った席を指さすと、稲羽とマックスもそっちを見た。 ちょこんと、夜店のヒヨコみたいに小さくなって座ってる。 「―――!」 「あれー、ホントだ。でも、私は知らないなあ……」 「んー。確かあそこの席は、長いこと病欠してるなんとかってやつの席だったはずだぞ」 「なんとかって……」 「長いこといなかったから忘れたんだよ!」 「おいおい、ロボットが忘れたってそれはいいのか?」 「そんなのいーんだよ! それだけ人間に近い優秀な機能ってことなんだよ! それより、あの子あそこに座ってるってことは、病気が治ったってことだな!」 「そっか! そうだよね! うわーなんかそれってお祝いしなきゃ。なにしよ、なにしよっ!」 「よし! まずは親交を深めて友達になろーぜ!!」 「あ?」 「ねえねえ、葛木君! 君、すごいらしいね!」 「え? な、何が?」 キラキラしながら立ち上がった稲羽とマックスの間をぬって、別のクラスメイトが話しかけてきた。 名前は……なんだっけ? まだ覚えられないや。 「あれ、知らないの? すっごく噂になってるんだよ」 「噂?」 「噂って……なんだろー?」 「晶、なんかやったのか? なんだよ親友なんだから困ったコトがある時は相談しろってあれほど言っただろう!」 「やってない! やってないし、そんなこと言ってないぞお前!」 「言わなくても通じるだろ! 親友なんだから」 「それは無理!」 しまった。 マックスと言い争ってる場合じゃない。 気づけば、俺の周りを囲むクラスメイトはさっきの一人だけじゃない。 好奇心旺盛な目がいくつも俺を映していた。 「ちょ、なななな、なに?」 「いや、葛木君って『生徒会長が呼んだ謎の転校生! 生徒会の最終兵器!!』なんでしょ?」 「はああああああ!?」 「うわー! 葛木くんすごーい!!」 「最終兵器!? なんか超かっこいいな、その機能見せろよー! オレに隠すことないだろ!」 な、なんだそりゃ。 なんだ謎の転校生に、生徒会の最終兵器って。 全然、意味がわかんねー! 「ねー! なんだかすごいね。最終ってことは超強いってことなのかな?」 「あったりまえだろ? 最終ってことはおそらく秘密兵器だからな! すごくねーワケねーよ! お前やっぱ、超かっこいいわ!!」 「ちょっと待て待て! なんも疑問に思わないのかこの流れに!」 「ううん」 ダメだ。最終兵器という噂が流れてるコトが疑問とは思えないのか。 いや、それは置いておこう。 生徒会の最終兵器。 生徒会長が呼んだ……生徒会長が……。 ……なんだかイヤな予感がする。 「葛木くん! ちょっとこっちへ来てちょうだい!」 「は、はい!?」 「あ、天音ちゃんだ。おはよー」 「おーっす!」 「な、なんでしょうか」 なんでいきなり怒ってるみたいなんだろう。 俺、何もしてないよなあ。 いや、でも……イヤな予感が当たりそうな気がしてきた……。 「どういうこと? あなた、もしかして裏でアイツと繋がってるわけ?」 「は、はい!? アイツって誰? えっ?」 「どうどうどう、天音ちゃん。なんの話?」 「ちょっと結衣、馬じゃないんだからそのなだめ方は却下。話というのは噂よ、噂。葛木くんの」 「なんだ? 晶が最終兵器ってやつか? かっこいいよなー!」 「そうよ、それ! どういうことなの? 説明して」 「説明してと言われても……俺にも何がなんだか」 「何がなんだか? はい?」 「さっき他のやつから聞いたばっかりだよ。俺にも全然意味がわからない」 嘘は言ってないんだけど……もしかして信用されてないのかなあ。 「……また、アイツが妙な噂を流したのね」 「え? なに?」 「そ、そうです」 「もう……やっぱりそういうことね! アイツよ。生徒会長。こんなことするのはアイツしかいないわ」 ああ。 やっぱりだ。またあの人の名前が出てきちゃったよ。 何のつもりだろう。昨日は自分は呼んでないって言ってたのに……。 もしかして、俺の知らないところで巨大な何かが動いているんじゃないだろうか。 こういうのって、やっぱり俺がはっきり本人に確かめるほうがいいんだろうか。 だけどあの生徒会長のことだ。一筋縄でいくワケがない。 どうしようか。 「わかった、何だかややこしくなる前に自分で聞きにいく」 「えっ? どういうこと?」 「後で生徒会に行って、直接聞いてみるよ。噂のこと」 この世のすべての揉め事を片付けなきゃいけない神様。 見たことないけど、天音は朝っぱらからそんな疲れた顔だった。 何だかちょっとかわいそうになるな。あの兄の妹ってのは。 「や、もうそういうの気にしてないから」 「でも! あんな意味不明の噂流されて大迷惑でしょ!?」 「だってさ俺、最終兵器でも秘密兵器でもないし。むしろ生徒会にも入ってないし」 「わわわ、チャイム鳴っちゃった! さっきの子にドーナツでお祝いしようと思ってたのにぃ」 「おうぉぅ、晶! 早く席つけよ」 「……みんなすぐ忘れるよ」 「……はあ。そうなのかしら」 この世のすべての揉め事に翻弄される神様。 見たことないけど、天音は朝っぱらからそんな疲れた顔だった。 何だかちょっとかわいそうになるな。あの兄の妹ってのは。 まあ、忘れるのが一番だ。 生徒会の最終兵器……忘れよう。そんな単語はなし。なかった。 どうかクラスメイトたちの記憶から素早く消えますように。 午前の授業が終わってやっと昼休みだ。 いつもならここでお昼ご飯だけど……そういうわけにはいかない。 あの噂を流した張本人に、どういうことなのか聞きに行かねばならない。 天音とも約束したし。 「おーい、晶。食堂行こうぜー」 「お昼ご飯♪ お昼ご飯ですよ〜ん」 「ごめん。ちょっと用事!」 「えええ!?」 「なんだよう、昼飯食べねーのかよう」 昼食……食堂……。 心の底から『やっぱやめようかな』と思った俺がいた。 だけど問題は先延ばしにすればするほど悪化するんだ。 「昼飯は食べたい。だけど……俺、今かなり重要な選択上にいるかもしれない」 「あ……ありがと。じゃあ、ちょっと行ってくる」 「失礼します!」 「お昼休みも優雅に生徒会長! ランチタイム奏龍です。よく来たな生徒会の最終兵器。待ってたぞ」 「……どこからどう説明してもらいましょうか」 「まあまあ、落ち着きたまえ」 全力で回転しながら思いっきり拳をうちこみたい。 会って数秒でそう思わせるこの人のこの才能、なんと呼べばいいのだろうか。 ……鬱陶しい。ああそれだ。 「来てしまったか……」 「本当にこういう作戦をたてるのはお上手なのね、皇くんは」 「こういうのだけだがな」 「え?」 ずらりと、生徒会勢ぞろい。 会長にばっかり気を取られてたから気づかなかった。 生徒会のメンバーって昼休みはみんなここに揃ってるんだろうか? いやでも……さっき。 「来てしまったかって……え? 今なんかそう聞こえてきた気が……」 「言ったな」 「ぴんぽーん。そういうわけで俺の作戦大成功。そういうわけで君は今から本当に生徒会の最終兵器というわけだ」 「と、いうわけだ!?」 八重野先輩のほうを見ると、眉間にぐっとシワが寄っていた。 「ハメられた!?」 「もー人聞き悪いなあ。ああいう噂を流しておいたら、晶くん来るかなって思っただけ。作戦大成功〜」 「……それを通常、ハメるというんでは」 会長はにこにこ笑うばっかりで、自分のやったことに悪びれることはないようだ。 いや、むしろ悪いとか、一ミリも思ってないはずだ。 ……話題を変えよう。 そうだ、俺はこのことを聞くために生徒会室に来たんだ。 「生徒会長に聞きたいことがあります!」 「うん。なんだい?」 「生徒会の最終兵器ってなんですか」 「最終のへーきだよ」 「それじゃあ説明になってないです」 「そうかー。じゃあ、わかりやすく言った方がいい?」 「なんと! 葛木晶くんは今日から生徒会の一員になることになりましたー」 「わー! すごいでーす!」 「え……?」 なんだそれ。なんでいきなりそうなるんだ。 もしかして、それが噂で聞いた最終兵器の正体? でも、いきなり生徒会なんて言われてもピンとこないし、意味もわからない。 大体、この生徒会に俺が入る意味なんてないだろうし……どういうことなんだろう。 「あれ? 不満そうだね」 「最終兵器とかそれ以前に! いきなりなんなんですか! 意味が! 意味がわかりません!」 「せっかくだから。もう入っちゃいなよー。ていうかもう入ってるんだけどね」 「ちょっと待って! はっきり言って何のためにですか。何の役にも立たないですよ、俺」 「おお勇者よ。君は自分の運命をわかっていない……」 「――はい? ともかく、勝手に何もかも決めないでください」 「仕方ないなー。今なら特別におやつもつけてあげよう!」 「……おやつ!?」 おやつ! ……甘美な響きだ。 生徒会に入ると、おやつを出してくれるってことか? それって毎日? いや、毎日じゃないよな。そんな都合のいいことなんてなさそうだし。 「しかも、このおやつは毎日でーす!」 「ま、毎日!!」 毎日おやつが出してもらえる生徒会! すごい! 生徒会は毎日そんなにステキなことが!! おやつが毎日出るなら、それなら……いいかなあ。 「お? 返事がないってことは、オッケーなのかな」 「……」 素直に『はい』って答えるのはイヤだ。 だがしかし。おやつは是非、毎日食べたい。 おやつ。おやつか。どんなものが出るんだろ。 毎日食堂に買いに行かなくていいんだよな。 おやつ……。 「それでは、しょーくんは今日から生徒会の仲間です!」 「よろしくお願いしまーす!」 「晶くん? ぼんやりしてるけど大丈夫?」 「いいのか、お前」 「は、はい……」 「はい、しょーくんさん。生徒会へようこそです!」 「ふおおおお!!」 どさっと音をたてて、様々な種類のお菓子が俺の目の前に山を作った。 これが全部俺のものなのか。 なんて天国。 とてもじゃないけど食べきれない。 なんて天国なんだ。 「……おやつに釣られたのかしら」 「そうなんだろうな」 ………………。 …………。 ……。 俺の天国、色とりどりのおやつたちはあまりに多く、いっきにすべてを切り崩すのは無謀すぎる。 残りはポケットに押し込んでおこう。 満足満足――とここで帰るわけにはいかない。 このおやつ天国と引き換えに俺は生徒会に入ったんだ。 「ところで、俺は生徒会に入ってなにをするんですか? そもそも、生徒会の仕事自体なんだかよくわからないんですけど」 「いーところに気が付いたねー。しょーくんの役職は、生徒会パ…いや、生徒会なんでもお助け委員とかかな!」 「ちょっと! 今、パシリって言おうとしたでしょ」 「違う! パルプ○テだ!」 絶対にパシリって言おうとした。 間違いなく、この人は俺をいいように使うつもりだ。 ヤバイ! 俺、危うくおやつで騙されるところだったのかもしれない!! 「騙されないぞー。あんたにはもう騙されないからな!」 「でももう食べたじゃん」 「あああ! しまったー!!」 「はーっはっはっはっ! だまされたか!!」 「って、やっぱりだましてたのかー!!」 「わーわー、暴力反対!!」 「いい加減、彼をからかうのはやめないか奏龍。話がすすまない」 「そうよ、ちゃんと説明しなければ納得できなくて当然でしょう」 「え……? 納得ってことは……」 茉百合さんと、八重野先輩の顔をじっと見る。 ふたりとも嘘をつくタイプではなさそうだし、生徒会に入ってほしいって話は本気みたいだ。 何かわけってあるんだろうか。 昨日の審議会の件もあるからかもしれない。 おやつも出るし……このふたりなら信頼できそうだし。 「わかりました、入ります」 「ありがとう。じゃあ、きちんとした役職名をつけておかないとね」 「あんな名前で生徒会に所属するための手続きを行って、それがすんなり通るわけがない」 「えええー、いい名前だと思ったのにな」 「なんにも考えてなかったんですか」 会長はぺろっと舌を出していた。 ムショウに腹立たしい。 あやうくもう一度飛び掛りそうになった衝動を抑えるため、さっきポケットにおしこんだキャンディをひとつ口の中に放り込む。 まさか……こんな時の為におやつを支給されたんじゃ…。 「どんな名前がいいんですかねえ?」 「そうだな……特別援助委員という形にしてみてはどうだ? 提案と手続きもそれならしやすいし、なんとでも説明できる」 「というわけで、今日から晶くんは私たちと同じく生徒会メンバーね」 「はあ、何ていうか…よろしくお願いします」 とりあえずの挨拶。 それを終えると、茉百合さんと八重野先輩はそれぞれの自分の席に戻り仕事を始めた。 パソコンを使ってるその様は、ふたりともまるでどこかの会社のやり手社員みたいだ。 何より驚いたのは、ぐみちゃん。 頼りなさそうな印象はすっかりない。 むしろキーボードを叩く様子はここにいる誰よりも速い。 「すごいな……」 素直にそう言ってしまえる。 やっぱりこのすごい学園のトップなんだな、この人たち。 そんな所に俺がいて、本当にいいんだろうか……。 「んー、あれ? なんかこのクッションのもふもふ具合変わってない?」 「……」 「ねーねー、中身変えたりした? もっともふもふしてないといやなんだよー」 なんか、この人なんにもやってなくないか? さっきから話も仕事も進めてるのは、八重野先輩と茉百合さんだけじゃないか。 「もー、すっごい重要なことなのにさあ。ねーしょーくん。大事だよねえ。もふもふは。ちょっといい具合のやつ探してくんない?」 「あのお」 「どうしたの?」 「これって結局、パシリっていう形になってないですかね」 「違うわ、皇くんのお守りよ」 「え!?」 「お守りじゃないよ! 遊び相手だ!」 「どっちも同じですよ!」 「とっても光栄な役職です!」 「それに、お前が奏龍の相手をしてくれていれば、俺たちは仕事に集中することができる」 「……えーっと、それって生け贄ってことですか」 「なんだ、はっきりそう言ってやっても良かったのか?」 「一応、傷つかない言葉は選んでみたつもりだったのだけど……」 「……いや、もういいです」 「まあ、これからよろしくと言うことだ!」 「よろしくお願いしまーーす!」 さっき俺が生徒会に入ってほしいって言われた時の、ふたりの顔が真剣だったのはこのせいか。 そうだよな。 何か意味がないと、あんなに切れ者っぽいふたりが、突然転校生を生徒会に入れるなんていうわけがない。 俺、もしかして振り回されてる? ああ、落ち着こう。 そうだ、あめ玉。ポケットの中にあったはず。 とりあえずそれを口に放り込んで、落ち着くとするか。 「よし、それじゃあ昼寝してくるー」 「はーい! おやすみなさいです!」 「昼寝って……」 「それじゃあ、おやすみ〜」 嘘かと思ったけど、会長は本当に生徒会室から出て行ってしまった。 誰も止めるわけでなく、当たり前の光景って感じだ。 パソコンや書類を見つめる八重野先輩のほうが、よっぽど生徒会長らしい。 「あの人は生徒会で一体なんの仕事をしてるんだ?」 「会長はそこにいてくださるだけでよいのです!」 「えーと……それって、なにもしてないってことじゃないかな……?」 「それでよいのです!!」 「い、いいのか!?」 ますますわからなくなってきた。 さて。 これから俺はどうしよう……か。 ここにいてもやる事なさそうだし、おやつだけじゃ腹もふくれない。 食堂を覗いてから教室に戻ろうかな。 「あのー、やること今なさそうだし、ちょっと腹もすいたので戻っていいですか」 「ああ、構わないが」 「そうですね。会長もいませんしー、あとの手続きはぐみたちにお任せしてくださいっ」 「はあ。なんかよくわかんないけど…まあ、よろしく」 「……」 「じゃ、失礼します」 「では、またな」 「さよーならー」 結局、なんだったんだろ。 文句を言いに行ったつもりなのに、例の最終兵器話が現実味を帯びてきた気がする。 特別なんとか委員。 俺はホントに普通の、何か秀でてるとか、どっかの御曹司とかでもない。 あんなすごい人たちの集まりみたいな生徒会に入ったところで、何ができるっていうんだ? そう思うと、やっぱパシリってやつかな。 「はあ……ま、いっか」 やめよう。 たぶん考えて思いつくような答えじゃない。 そんな気がするんだよな。 あの会長が絡んでくると、余計に。 「おやつもあるしな」 そうだそうだ。おやつは脳を活性化させる。 悩んでる脳に栄養補給しなければ――。 「もぐもぐ……あ、これうまいな」 「ふふふ。歩きながら食べるのはお行儀悪いですよ、晶くん」 「――え?」 「茉百合さん」 「ごめんなさいね、急にこんなことになって」 「いえ、別に茉百合さんが謝ることじゃないと思いますけど……」 「でも、私も生徒会の一員だから」 「はあ」 「どうしてって顔しているわね」 「そ、そりゃ……何もかもいきなりだし、俺がなんで生徒会に入るって話になったのかも意味わからないし」 「気まぐれだと思うかしら」 ……はい。 そう答えそうになるのを抑えて、茉百合さんの顔を見た。 俺、声に出してなかったよな。さっきの。 茉百合さんは、俺が言いたかった『はい』を見透かしたように微笑んでいる。 「気まぐれに……見えるわよね、あの人のことだもの。ふふ、でも本当にね、そうじゃないの」 「ど、どうして茉百合さんが、俺を生徒会に?」 「理由は――あなたをこの学園に呼んだのが誰なのか、まだよくわかっていないことなの」 俺をこの学園に呼んだのは、誰か? 俺はてっきり、あの人……生徒会長だと思っていた。 だけど、会長自身だけじゃなく、茉百合さんまでもがそうじゃないと言っている。 茉百合さんまでふざけて嘘をつくようには思えない。 そして結局は疑問は元に戻ってきてしまう。 じゃあ、誰が? これじゃ俺は、本当に『謎の転校生』になってしまう。 表向きは生徒会が呼んだ転校生ってコトになってるけれど。 「だからなるべく私たちのそばにいてもらった方が、何かあった時に助けてあげやすいのよ」 「……何かあった時に」 「そう。もっとも、皇くんは本当に自分の遊び相手にするつもりかもしれないけどね」 「ああ……」 確かに。 まだ会ってわずか数日の俺にも、それはわかった。 あの会長はそう考えてる可能性大だ。 しかし本当にどこまでも何もしないんだろうか、生徒会長なのに。 副会長の八重野先輩も、茉百合さんも、そんなこと許しそうには見えないのにな。 「そういうわけだから、気を悪くしないでね」 「はい。あの、わざわざありがとうございます」 「いいえ、いいのよ。きちんと伝えられたから良かったわ」 「なんかちょっと、安心っていうか……ああ、でもホントにあの会長の遊び相手は困るなあ……」 「あ! そうだった!」 「それじゃあね」 「はい! じゃあ、失礼します!」 優雅な角度と仕草で、茉百合さんは手をふってくれた。 俺はもう一度だけ短く会釈してから、残り少ない昼休みの中を走り出した。 やる事は何もなさそうだけど――もう少しここにいようかな。 しかし腹へった。 やっぱりおやつだけじゃ足りないな。 「……はあ」 「……ふふ、お腹が空いたって顔ね。何かあったかしら」 「あ、お昼ごはんになりそうなものなら、パンありますよ! パン」 ぐみちゃんが手にしていたのは、なんだかやけに可愛らしい動物の形をした菓子パンだった。 「なんかやけに可愛いな。これ、俺が全部食べちゃっていいの?」 「いいですよう。会長がいーっぱい買ってきたんですけど、じいっと眺めてたらもうお腹いっぱいって!」 うわ、これって会長セレクトなのか。 おまけに眺めてお腹いっぱいって、何て勝手な……。 かわいそうに。俺が責任をもって全部食ってやろう。 「俺、どうなるんですかね」 「そんなに心配しなくても大丈夫よ、私たちもサポートしますから」 「ほんとですか! そっか。それなら安心かも」 「失礼しますっ!! 会長、どういうことなの!! 葛木くんの話聞いたけど、どうするつもりなのおっ!」 「――げほほ!?」 「残念、入れ違いだったな」 「えっ? あ、また……もう! 絶対肝心な時にはいないんだからっ!!」 突然、生徒会室に駆け込んできたのは天音だった。 俺の姿を見つけると、つかつかと歩み寄ってきた。 「葛木くん。それでうちの……じゃない、生徒会長は何て言ったの?」 「あー、えっといろいろあって……生徒会に入ることになった」 「せ、生徒会に? あなたが?」 「特別援助委員よ」 「そうそう、それ。なんかそういうのになったみたい。俺」 「なによそれ……ああ、もう何だか昨日よりもややこしくなってる」 「ね、ちゃんと考えた? だいたい葛木くんは今微妙な立場なのに、そんなのいいの?」 天音の言いたいことはわかる。 やめた方がいいって、そういう意味なんだろう。 「う、うん。いいかなーって思うん…だけど」 もう話は進んじゃってるし、なんといっても。 ――おやつの話は捨てがたい。 とは言いづらいな。 「だめかな」 「はあ……自分でそう言うなら仕方ないけど……でも、でも……」 「……?」 「絶対そうよね…こんなややこしい話にするのって、絶対…あのせい……」 天音はがっくりと肩を落として、ぽそぽそとつぶやいていた。 どうも納得がいっていない様子だ。 気持ちはわかるけど……なんとかなる、つもりなんだけどな。 「あのさ、天音……」 「忘れ物したー。俺のお気に入りのハンドクリームどこだっけー」 まったく間の悪い――そうとしか言えない嫌なタイミングだった。 天音の頭の中に浮かんでいた『あのせい』の元が戻ってきた。 思いっきり能天気な声なんか出しながら。 天音の方を見ると、思ったとおり。 ぷるぷると震える肩が、言葉にならない怒りを教えてくれた。 「あー、天音どうしたの?」 「説明してください! 葛木くんのこと聞きましたよ、また何か企んでるんでしょっ!」 「またまたそんな事いって〜。なんだい今日はイライラする日なのかい? おなかいたいの?」 「〜〜〜〜〜っ!!」 「わあああああああ」 「ちょ、ちょっとこっちこないでくださ、わああああ!」 あ……危なかった。 俺の背中に回りこんだ会長を狙って振り下ろされた天音のかかと。 わずか数センチの差で、俺の頬をかすめていった。 もちろん会長には直撃だ。 「う……ううう……」 「はあ、はあ、はあ」 顔をあげると、天音はまだ唇をぎゅっとかんで怒っている様子だ。 ここは何も言わないでおこう。 俺まで蹴られそうだし。 思いっきりパンツが見えてたことは……あと、俺がしっかりそれを目撃していたことはバレてないみたい。 そっと、そっとこの悲惨な現場から離れるのが吉だ。 「うわーん、ひどいよなあ! しょーくん……俺、鼻血出てないか? 見てみて!」 「出てません、ていうか自業自得だろ? また余計なこと言って」 「あ、鼻血出てたのは君のほうだったか」 「うそっ!?」 「なんて嘘だよーん。うちの大事な妹のパンツしっかり見てたくせに、鼻血ひとつ出さないとは。なかなかやるな?」 「――っ!!」 「ち、ちが、ちが、ちょっと待っ……」 「死なばもろともー!!」 「うわああああ!」 やっぱり……やっぱりすぐにここから立ち去るべきだった……。 ああ……。 …………。 ……。 午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。 そのとたんに教室の中がざわつくのは、どんな学園でも共通みたいだ。 前にいたところより女の子が多いせいか、飛び交う声はトーンが高いけど。 「うーん…お腹すいたな」 うっかりあの生徒会長につかまってしまう前に、どこかへ行こう。 せっかくだから、ちょっと回り道しながら食堂まで行ってみようかな。 確かここからだと、中庭みたいな所を通って食堂に出るはずだ。 天気もいいし、人も多そうだ。 一度ゆっくり歩いてみたかったんだよな。 「よし、決まり!」 昼休みの中庭は予想通りの様子だった。 本を読んたり、ベンチに座っておしゃべりしたり、バドミントンをしてる子なんかも。 それにしても広い中庭だ。 ちょっとした公園なんか目じゃない広さだ。 「あれ……?」 「……」 あそこに座って本を読んでるのは、水無瀬? 遠目に見ても、わかる。 ちょっとふわって光ってるっていうか、ただそこに座ってるだけなのに特別な感じ。 なんだかそんな風に思えてしまう光景だ。 「ひとり、なのかな」 「……」 「水無瀬、ひとりで昼ごはん?」 「あ、葛木さん」 水無瀬が視線をあげる。 眩しそうな目をしたあと、ちょっと驚いた顔で俺を見上げていた。 「はい。まゆちゃ――茉百合さんは生徒会の用事で。いつもは一緒にお昼だけど」 「そっかー。だよなあ、女の子って昼は誰かと食べるって感じだもんな」 「葛木さんもお昼ですか?」 「うん、今から食堂行こうかなと思ってたんだけさ。ちょっと回り道してきた」 水無瀬が座ってる場所は、ちょうど木陰になっていた。 ふわふわした髪を、日差しが柔らかく透かしてる。 「じゃあ、お昼まだなんですね。ちょうど良かった!」 「ちょうど?」 そう言うと、水無瀬はそばにあった紙袋をそっと差し出してきた。 開けてみると、サンドイッチやクロワッサン、他にもいろんな種類のパンが詰め込まれていた。 「これ、全部、水無瀬が食べるの?」 「ちょうど新しいパンが出てたから、なんだか楽しくなっていっぱい買っちゃって……ちょっと困ったなぁって思ってたんです」 そ、そうだよな。 これを全部ほおばる水無瀬はちょっと予想できない。 「よかったら、どうぞ」 「えっ! これ全部くれるの? ほんとにっ? いいの!?」 「はい。ここのパン、おいしいですよ」 「うわああ! ありがとー! んじゃちょっと飲み物買ってくる」 こういうのってなんて言うんだっけ? 残りモノには福がある? いや、違う。 急がばまわれ? それも違うな。 まあなんでもいい。 回り道してきてラッキーだった。 「うふふ、葛木さん、こけないように気をつけてくださいねー」 「さ、桜子さんに話しかけるなんて、大胆! しかも今日は茉百合様も一緒じゃないのに」 「本を読んでらっしゃったのに…誰なのかしらあの人、見たことある?」 「ううん、ないない。もしかしてあれって噂の……」 「…………え?」 食堂から中庭へと戻ってくる途中に感じた、不思議な視線。 立ち止まって振り返ると、数人の女の子たちがぱっと目をそらした。 「なんだったんだろ、今の。俺のこと話してた?」 「……」 もしもさっきの会話が俺の事だとしたら。 俺、ちょっと無神経だったんだろうか。 水無瀬が本を読んでるところを、邪魔しちゃったのかもしれない。 今までもこうやって、静かな時間を水無瀬は過ごしていたんだろうか。 もしそうなら、急に話しかけるのは悪かったかな。 「あのさ、もしかして俺、本を読む邪魔しちゃったかな」 「え? どうして?」 「いや、なんかそんな気がしたから」 「全然そんなことないですよ」 「それなら良かった」 俺の考えすぎだったのかな。 でも、あの不思議な視線――俺のことをちょっとだけ睨んでるような、そんな感じのもの。 それは、まだ俺の背中に向けられてる。 気にしすぎ、なのかな。 「ふふふ」 「え、なに?」 「ごめんなさい。葛木さんが声をかけてくれたのが嬉しいんです」 「そう? だってひとりだったし、たまたま通ったし。でも水無瀬って人気あるみたいだから――」 「いいえ。どうしてなのか、皆さん私に声をかけてくださらないんです……」 水無瀬は笑顔だった。 はじめて会ったときのような、柔らかな。 でも、どことなく寂しそうだった。 もしかして、茉百合さんがいない時の水無瀬は、さっきみたいにいつもひとりで本を読んでたんだろうか。 決して嫌われてるわけじゃない。 むしろ、水無瀬に憧れてるような子も多いと思う。 転校したての俺でもそれはわかることなのに。 だから、なんだろうか。 「私は皆さんとお話をしてみたいんですけど……どうしてなんでしょうねえ」 「……」 おっとりしてそうで、優しそうで。 でも、どこかピンと張り詰めたような気品がある。 それは水無瀬が今まで生きてきた中で育ったものなんだろう。 だけど水無瀬のそんな所が、どこか声をかけにくい空気を作ってしまってるのかもしれない。 俺だって、転校初日のあの騒動がなければ、声はかけにくかった気がする。 でも。 でもそれじゃ、寂しいよな。 「自分から声をかければいいのかもしれないですけど、なんだか声をかけてはいけないのかなあっていう気もして」 「そんなことはないよ」 「……本当に? 迷惑に思ったり、されないかな」 「俺はそんな風に思わないし」 「……ありがとう。ありがとう葛木さん。嬉しい」 「そ、そんな顔しなくても」 まるで今にも泣き出しそうに潤んだ瞳に、俺は思わず目をそらした。 だけど水無瀬は泣いてるわけじゃなく。 びっくりするくらい、嬉しそうに微笑んでいた。 「だって、今までこんな風に言ってくれる人はいなかったんです」 「そ、そっか…ほんとに、もっと気軽に声かけたらいいと思うよ。水無瀬、皆に好かれてるんだし」 今度は目を大きく見開いて、びっくりした顔。 それから、恥ずかしげにぶんぶんと子供みたいに顔を横に振った。 水無瀬は自分がいろんな人から憧れの眼差しで見られてることに、全く気づいてなかったんだろう。 「声をかける練習をしないと……だめ。恥ずかしいです」 「練習? いや、フツーに」 「だめです。だって、あまり自分から声をかけたことがないんですもの」 「ははは」 こうやって話し出してみると、心配なさそうだ。 声をかけることさえできたら、きっと誰だってすぐ仲良くなれる。 「すぐできるようになるって」 「じゃあ、じゃあまず! これから葛木さんを見かけたら声をかけます! 練習!」 「え? お、俺から?」 「……はい」 そんな風に言われると、断れるわけない。 まあ、断る理由もないんだけど。 水無瀬の隣に座って、俺は譲ってもらったパンにかじりついた。 水無瀬はまた笑って、手元にあった本を閉じた。 読書の邪魔をしちゃったかな――。 それはもう、言わないでおこう。 …………。 ……。 「もう昼休み、終わりなんだ…そろそろ教室に戻らないと」 予鈴が鳴り響くと、中庭にいた生徒たちはみんな校舎の中へと戻っていく。 俺も水無瀬も立ち上がり、校舎へと歩き出した。 「お話ししてると、時間がたつのあっという間なんですね」 「うん、俺もそう思う」 「今度はもっとゆっくりお話してください。約束ですよ」 「わかった。俺が水無瀬を見つけた時も声をかけるから」 「はい!」 水無瀬のクラスは、俺の戻る教室とは逆方向だ。 本をぎゅっと胸元に持って、水無瀬はくるっと俺の方を向いた。 「それじゃあ葛木さん、また……」 小さく手をふってから、水無瀬は自分の教室の方へと歩き出した。 「あー、お腹いっぱいだ」 幸福なランチタイム。 これに勝る幸せなんて、そうそうない。 満腹になったうえに、食べたものは皆美味しかった。 この幸せがこれからも続くなんて、俺ってすごく運がいいかもしれない。 まあ……初日のアクシデントは忘れることにしよう。 「しょーくーん! 葛木晶くーーん!」 「げっ!」 「おお! いたいた!!」 勢いよく扉が開くと同時に、能天気に俺を呼ぶ声。 忘れたくても忘れようがない。俺が大変な目に合うことになった張本人の声なんだから。 なんだってこの人がここに!! 「な、なんですか」 「昼休み終了前に、君への嬉しいお知らせでーす」 「聞きたくないんですけど……」 「パスの使用は禁止です」 「はあ……」 パスってなんだ、パスって。 それを使える時がいつか来るとでも言うんだろうか。 ここにいる間は絶対に使えないような気がするけどさ。 「じゃあ聞きますけど、なんですか」 「君、今日から生徒会特別援助委員会ってことになったから!」 「はあ? と、特別援助委員会?」 なんだそれ。そんなの聞いたことないぞ。 大体、あの生徒会に特別援助なんていらない気がする。 絶対にこんなの体のいい建前な気がする。 「そう。だから、呼び出したらすぐに来るように」 「……」 「おやつがつきます」 「えっ! は、はい?」 「おぉよし、いい返事だ! 頑張ってくれたまえ!」 「あ…いや、あの…」 多分これ、拒否権とかないんだろうな。 俺がここに残れるようにしてくれたのは、生徒会の人たちだ。 だからそこに所属することになるのは自然な流れ……なのかなあ。 「……」 いや、ちょっと違う気もする。 このキラキラと異様に輝く目は、何か悪いことを企んでいるに違いない。 「じゃ、そういうことで!」 「え、ちょ、ちょっと、俺は何すれば」 「あ、また説明するわ。まー簡単簡単! じゃーねー、ばいばーい」 幸せな昼休みだったのに、一気にその幸せがどっかに行っちゃった気分だよ。 ある意味すごい才能の持ち主だ、生徒会長……。 とても嫌な才能の……。 …おやつ……本当につけてくれるのかな。 「晶、昼休みだぜー! 昼休み」 「言わなくてもわかってるよ」 「葛木くんはなにか用事あるの?」 「いや、別にないよ。腹へったし食堂行こうかなって思ってた」 生徒会室には行かないことにしたし、用事なんてないしな。 強いて言えば……お腹が減ったくらいだ。 「じゃあ、一緒に行こうよ。わたしもご飯食べようと思ってた」 「よぉーし! それじゃあ、3人で行こうぜ!」 「お前も行くの?」 「あったりめーだろー」 「一緒の方が楽しいもんね、いこいこ」 「ま、それもそうか」 「レッツゴーだ!!」 ロボットが食堂にどんな用事があるんだろう。 いや、その辺はあんまり考えないことにしよう。 いびきや歯ぎしりまでするヤツなんだ。 無駄に高性能なのかもしれない。うん。 食堂。 もう、いるだけで幸せな気持ちになる。 注文したらご飯が出てくる。なんてすごい場所だろう。 しかも、ここの食堂のご飯はおいしい。 おまけにタダ!! こんなに嬉しいことはない! 「葛木くんは幸せそうな顔してご飯食べるね」 「え? そ、そうかな?」 「うん! すーっごく。ご飯をおいしく食べられるのって、いいことだよね」 「そうだな! 俺もそう思う!!」 そうそう。ご飯をおいしく、楽しい気持ちで食べられるのは最高にいいことだ。 稲羽わかってるなあ。 「みんな揃ってるのはいいもんだよな!」 「そうだな」 まあ、たとえ隣に座ってるのがロボットだとしても。 やっぱり友達と一緒ってのはいい。 「あー、そういえば前から気になってたの」 「なんだ?」 「ん?」 稲羽の視線がマックスの背中の方に向かってる。 背中――なんかあったか? 「あのね、背中……ドアがついてるでしょ」 「ドア? ……あ、ホントだ」 マックスの背中をよく見ると、確かにドアがついていた。 なんだこれ? 今まで気づかなかったぞ。 なんでこんな所にドアがついてるんだろ。 「わたしずっと気になってたんだ。どうして、ドアがついてるのかなーって」 「おお! いいトコに目をつけたなあ」 「なになに?」 「ふっふ〜ん! 晶、ちょっと開けてみろよ」 「え? 開くのかこれ」 本当に開くのか? まあ、本人が言ってるんだし……これ、引っ張ってみたら開くのかな。 「む!?」 ドアの中は空洞になっていて、微妙な温度だった。 ぬるいというか、なんというか……。 でも、何も入ってない。 なんだこれ。 「どうなってるの?」 「いや、別に何も入ってないみたい」 「そうなんだー」 「バッカ野郎、説明はここらからだよ。よぉ〜く聞けよう」 「うん! よーく聞く聞く!」 「これはな、保温室になってるんだぜ!」 「保温室?」 「おうよ! たいやきとか入れとくと、食べるのにちょーどいい、最適な温度にしてくれるんだぜ。すっげーだろ!!」 「た、たたたいやき!? すごい!」 「おお!!! なんだそれ! 超すげー!」 たいやきを最適な温度に保つのって大変なんだぞ。 冷たいと固くなるし、熱すぎるとフニャフニャになってしまう。 熱すぎず、冷めすぎず、ちょうどいい温度っていうのが結構難しいんだ。 「そ、それってたいやきだけじゃなくて、他のでも……たとえば、たこやきとかでもそうなのか?」 「あったりめーよ。オレの機能をなめんなよ! ちなみに冷たい方もいけっからな!」 「すごい……」 「うん! すごいねえ……」 マックスにこんなすごい機能があったなんて知らなかった。 その機能があれば、いつでもご飯を最適な温度で食べることができるじゃないか。すごい……すごすぎる! 今日、初めてこいつをすごいと思った気がするな。 いや、すごいなんてもんじゃない。これは素晴らしい! 「ふふん! オレのこのすっげー機能が理解できるんだから、ふたりもすげーぜ」 「だってそれ、めちゃくちゃすごいし、便利な機能じゃないか!」 「うんうん! いつでもご飯ほかほかー!」 「そうなのか。もったいないなあ」 「ホントだねえ。マックスくんのほんっとに素敵な所なのにな」 「あはは、もうお前等がわかってくれただけでじゅーぶんさ!!」 マックスはずいぶん満足そうにしてる。 なんとなく憎めないヤツだな。 ちょっと強引な所もあるけど、いいヤツだってことはだんだんわかってきた。 「お、そうだ! オレから結衣にも質問だ」 「え? なーに?」 「晶が生徒会の最終兵器ならさ、結衣はなんなんだよ?」 「え? わ、わたしは、普通だよ。特別じゃないし、普通の」 「そういえばここって、優秀なトコなんだよな。稲羽はよく中途入学してくる気になったな」 「えっと、それは……しょ、しょく……食堂が……なんて……」 「なんだ? わかんねーぞ」 なんか顔が真っ赤だなあ。それに恥ずかしそうだし。 「なんだー? もしかしてなんかヒミツがあんのかー?!」 「ち、ちちちち違うよ! 違うから! そんなのないもんっ! 女の子にはひみつのひとつやふたつ、全然ないんだもんね!!」 「なんでそんなに慌ててんの?」 「なななにも! あわ、あああわ、あ、慌ててなどおりませぬぞ!」 「そ、そうかな」 「うむ! うむうむ、ない、ないでござりますー!!」 「……慌ててると思うけど」 今度は口元を押さえて、頭をぶんぶんと横に振った。 どう見ても慌ててるように見えたけど、なんでだろう。 何かおかしな事って言ったかな。 「そっかー。まあ、結衣は女の子なんだから最終兵器はないよな!」 「お前、自分で聞いといてそれはないだろ」 「まあ、気にすんなー。フランクに会話をして親友との交流を深めようってことだからさ!」 「そ、そうだよね! お話してもっと仲良くならないとね!」 「そういうわけさ!!」 「まあ、仲良くなるということについては同感だ」 「そ、それより早く食べちゃおう。昼休み終わるよ」 「お! そうだった」 「いっぱい食えよー!」 話してる間に結構時間が過ぎちゃったかもな。 ご飯を残すなんてもったいないことはできないし、たくさん食べたいから急がないと。 「あー! お腹いっぱいだー!」 うまい昼食。 これに勝る幸せなんて、そうそうない。 満腹になったうえに、食べたものは皆美味しかった。 おまけに、タダ。 この幸せがこれからも続くなんて、俺ってすごく運がいいかもしれない。 まあ……初日のアクシデントは忘れることにしよう。 「しょーくーん! 葛木晶くーーん!」 「げっ!」 「おお! いたいた!!」 勢いよく扉が開くと同時に、能天気に俺を呼ぶ声。 忘れたくても忘れようがない。俺が大変な目に合うことになった張本人の声なんだから。 なんだってこの人がここに!! 「な、なんですか」 「昼休み終了前に、君への嬉しいお知らせでーす」 「聞きたくないんですけど……」 「パスの使用は禁止です」 「はあ……」 パスってなんだ、パスって。 それを使える時がいつか来るとでも言うんだろうか。 ここにいる間は絶対に使えないような気がするけどさ。 「じゃあ聞きますけど、なんですか」 「君、今日から生徒会特別援助委員会ってことになったから!」 「はあ? と、特別援助委員会?」 なんだそれ。そんなの聞いたことないぞ。 大体、あの生徒会に特別援助なんていらない気がする。 絶対にこんなの体のいい建前な気がする。 「そう。だから、呼び出したらすぐに来るように」 「……」 「おやつがつきます」 「えっ! は、はい?」 「おぉよし、いい返事だ! 頑張ってくれたまえ!」 「あ…いや、あの…」 多分これ、拒否権とかないんだろうな。 俺がここに残れるようにしてくれたのは、生徒会の人たちだ。 だからそこに所属することになるのは自然な流れ……なのかなあ。 「……」 いや、ちょっと違う気もする。 このキラキラと異様に輝く目は、何か悪いことを企んでいるに違いない。 「じゃ、そういうことで!」 「え、ちょ、ちょっと、俺は何すれば」 「あ、また説明するわ。まー簡単簡単! じゃーねー、ばいばーい」 幸せな昼休みだったのに、一気にその幸せがどっかに行っちゃった気分だよ。 ある意味すごい才能の持ち主だ、生徒会長……。 とても嫌な才能の……。 …おやつ……本当につけてくれるのかな。 「今日も一日、無事終わったぜ〜!」 最後の授業が終わり、マックスが大きく伸びをする。 こういうところ、やっぱりやたら人間くさい。よくできてるよなあ、ロボなのに……。 「あん? どーした親友?」 「いや何でも」 『ただ今より学園予算会議を行います、関係者は各資料を揃えた上で大会議室にお集まり下さい』 「予算会議よ。各部や委員会の後期からの予算について話し合うの」 「なんだか難しそうだねー。天音ちゃん、行くの?」 「ええ。繚蘭会は予算部門も担当してるから、もちろん行くわ」 そういう天音は、早々に自分の荷物をまとめ終えていた。 予算って、やっぱり大事な会議なんだろうな。 ふと心配になってきた。関係者の中に俺は入ってたりするんだろうか。 「あのさ、天音。俺って、行かなくていいの?」 「え?」 「いや、俺も生徒会なんたら委員とかになったみたいなんだけど……行った方がいい?」 「えっ、晶、いつのまにそんな重要役職についてんだよ! オレにも相談しろよ!」 「え? そうなの? 葛木くん、すごいね! まだ転校してきたばかりなのに!」 「……あぁ…」 天音は思い出したようにため息をついた。 「生徒会特別援助委員、でしょ? さっきくるりから連絡があって、繚蘭会にも申請が来てたって……」 「ああ、それそれ」 「なんだかすっごいやり手な感じだね!」 ……おやつに釣られただけなんだけどなあ。 とは、とても言えないので黙っておこう。 「予算会議は繚蘭会と予算委員会の会議だから、生徒会は出席しなくていいのよ」 「あ、そうなんだ。よかった」 「それより……本当にいいの? あの生徒会長に関わると、ほんっとーにオモチャにされるかもしれないのよ?」 「え……あ、ああ…」 「はぁ……」 天音は最後まで俺のことを気にしながら、教室から出て行った。 なんだかずいぶん心配してくれてるみたいだ。 おやつにつられたなんて動機は、申し訳なさ過ぎて心の奥底にポイっと投げておこう。 「ん?」 天音が慌てて出ていったのにつられるみたいに、何人かが席を立って出て行く。 もしかしたら予算会議ってやつに関係してるんだろうか。 あっという間に、教室はしんと静かになっていた。 「なんだ、今日はやけにみんな急いでんなー」 「みんな、きっと部活とか、研究会とかに行くんだよ」 「稲羽は部活入ってないの?」 「いーじゃねーか、何も入ってないから、こーやって放課後だらだら喋れるんだからよ!」 「ああぁぁあっ!!」 「何?! いきなり?」 突然叫び声をあげた稲羽に、俺もマックスも一瞬で固まってしまった。 「忘れてたっ! お祝いしなきゃ!!」 「何の?」 「あの子の! 元気になったお祝い!」 稲羽がばっと振り向いた。 その視線の先にある、教室のはしっこの席。 他に誰もいなくなった教室で、あの子はただずっとそこに座っていたんだろうか。 俺たちの視線が集まると、びくんと体を震わせた。 「そーいや自己紹介もまだだったよな! いけねーいけねー! オレとしたことがとんだ礼儀知らずだったぜ!」 「………」 稲羽は、やや怯えた様子の彼女のもとに元気よく近づいていくと、ぺこりと頭を下げた。 「わたし、稲羽結衣と申しまして、一週間前に転校してきたばかりのものですっ」 「おぉぉ、なんかかっこいーぞ結衣! オレはマックスだ! よろしくな!」 「………」 こくこく。 まだ表情からは怯えが消えていなかったが、彼女はしっかりと頷いた。 「あ、俺は、葛木晶です。よろしく」 「……あ…あの……。すずの……雪代、すずの…です」 「すずのちゃん…。あ、すずのちゃんって呼んでもいい……かな?」 こくこくこく。 俺やマックスの方も見ながら、すずのは頷いた。 「すずのは何の病気だったんだー?」 「え……?」 「病気って?」 「あっそうか。長いこと病気で欠席してたんだよね? 大丈夫?」 「……あ、はい…」 稲羽の言葉に、ようやくふわっとした笑みが、すずのの唇のはしに浮かぶ。 俺もマックスもその表情にちょっと安心した。 そして、ゆっくりと笑顔が広がってゆく。 小さな花が陽光をあびて開いていくみたいな、そんな嬉しそうな顔。 会ったばかりなのに、なんとなくほっとするような不思議な気持ちになってしまう。 「そういえば…この前保健室にいたのは、具合悪かったの?」 「えっそーなの、ど、どどどうしよう?!」 「…ひゃわっ」 「わわああぁっ!」 「はふっ」 元気です、と勢いよく立ち上がったのは良かった。 そこまでは。 「はあ……びっくりしたよ」 勢いをつけすぎたすずのは、思いっきり後ろへコケるところだった。 稲羽が予想外に素早く腕を伸ばしていたから大丈夫だったけど。 「危なかったぁー…」 「…本当に大丈夫か…??」 「おいおい、また病院に逆戻りじゃあシャレんなんねーぞー!?」 「…はい、大丈夫、です!」 「ほんと、気をつけてな」 こくこくこく! すずのの頷きはさっきよりも力強くなっていた。 俺や稲羽たちの心配顔も吹き飛ばすような勢いの、笑顔。 誰かと話をするのが嬉しくてたまらないといった様子だった。 やっぱり、久しぶりに学校に出てきたからなのかな? そういう意味では、俺や稲羽のような転校生と立場は同じなのかもしれないな。 「お? メールだ。…オレんじゃねーな。晶のか?」 「え…? 俺??」 ごそごそとポケットを探り、ここに来た時にもらった携帯端末を取り出してみた。 使い方がまだちゃんとわかっていないので、恐る恐る確かめてみる。 「――うぐ」 『しょーくんへ さっそく急用なんだ! 急いで生徒会室まで来てほしいな! 生徒会長より』 「……………」 あの生徒会長から、早速の呼び出しか。 どうする俺…。 急用って書いてあるけど、本当か? どうにも信じられないんだけどな……。 「……」 行かないと行かないでうるさいんだろう。 だけど、きっと行ったら行ったでうるさいはずだ。 どうする、俺。 …………。 ……。 やっぱり行った方がいいかな。 後々面倒になるのも嫌だし―― 「俺、ちょっと生徒会室に行って来る」 「お? 呼び出しか? 大変だな」 「行きたくないけど…行かない方が面倒になりそうだしな…はあ」 「な、なんだなんだ、よくわかんねーけど、頑張れ。な?」 「がんばれー! わたしも応援するよっ」 「はは、ありがとな。じゃあ、行って来る。すずのもまたな」 「……は、はい」 「失礼します」 「おぉぉ! 来たぞ! よし! よく来たしょーくん!」 「こんにちは。しょーくんさん!」 「本当に来たのか」 「晶くんは素直ね」 なんか……いろいろな返答が。 もしかして、バカ正直に来なくても良かったのか? いや、でもそんなのわからないし……。 しかし、なんで呼び出されたんだろう。 「まあ、来たのなら奏龍の相手を頼む」 「……はい?」 ドドーンと目の前に差し出されたのは、生徒会長がいつも持ってる携帯ゲーム機だ。 それがなんだって言うんだろう。初仕事って言われてこれじゃあ、全然意味がわからない。 「はい? じゃない。持って持って」 会長が無理やり俺の手にゲーム機を持たせる。 画面をよく見るとパズルゲームが途中で放置されてある状態になっていた。 「なにこれ」 「大問題なんだよ、それが」 「はい?」 「難しいんだよねえ。だから、そこから先になっかなか進めなくてさー」 「つまり……このゲームのここが難しくて先に進めないから、俺にクリアしろってことですか?」 「すばらしいっ! しょーくんは理解力が高くて助かるなー」 「……」 よく画面を見てみたけど、これって相当難しいんじゃないのか? こんなのクリアできる気がしないぞ……。そもそも、ここまで来るのも大変なんじゃないのか。 「よろしく!」 「よろしくって……むう……」 じーーーーっと画面を見てみるけど……本当に難しいなこれ。 こんなのどうやってクリアすればいいんだろう。大体、俺って自力だとここまで進めるかもわかんないぞ。 「しょーくん、クリアできそー?」 「……」 「俺、そのゲームすっごく好きなんだよねー」 「………」 「だから早く先が見てみたいんだけど」 「…………」 「でも、そのパズル難しすぎてさ、カンじゃ解けそうになくって…」 「……ちょっと黙ってください」 「はい」 「……」 「頼りにしてるんだよぉ」 「だから黙っててくださいって」 「はーい」 この人は黙ってるってことができないんだろうか。 まあ、集中してもクリアできないような気がするんだけど……でも、横でなにか言われると……。 「しょーくん、しょーくん」 「はい?!」 「ちょっとトイレ行ってくる」 「いちいち報告しなくていいです!」 「はぁーい」 人が真剣に考えてるのに気楽だなあ、あの人は。 まあ、これでちょっとは集中できるか。……クリアできるかどうかはわからないけど。 まあでも、これが仕事だって言うんだから一応やるか…。 「……うーん」 「晶くん、大丈夫?」 「あ、茉百合さん……」 「皇くんは、相変わらず人に頼りっきりね」 「あの……」 「仕方ないわねえ」 「あ……」 「ちょっと見せてくれるかしら?」 茉百合さんが隣に座って、一緒に画面をのぞきこんでくれてる。 小さな画面をふたりで見てるから、すごく距離が近い。 なんだろうこれ……なんか、ちょっとドキドキするぞ。 「今、どうなっているの?」 「え、えっと……これが動かせなくて…」 「ああ、これを下のくずかごに移動させたいのね」 「はい…」 「うーん、これは……」 近くで見ると、茉百合さんってほんとうに顔のパーツがきれいで整ってる。 ゲームのことが一瞬で頭の中からふっとんでしまった。緊張でつい声が裏返ってしまう。 「は、はい」 「あ、こうかしら」 「おお……」 「それで、これをこうすればいいのね」 「茉百合さん、すごいですね」 俺がすごく悩んでいた問題を、茉百合さんはちょっと見ただけでスラスラ解き始めた。しかも全然間違ってないみたいだ。 本当にすごいなあ、茉百合さんは……。 「うん。これでクリア」 「おおおお!」 「はい、おしまい」 「ありがとうございます」 「いいのよ。無理言って来てもらってるんだから。でも、皇くんには内緒ね」 「はい!」 茉百合さんが横からすっと離れ席に戻っていった。 ちょっと名残惜しいと思ってしまうのは、やっぱり俺が男の子だからだろうか。 「たっだいまー」 「おかえりなさいです!」 「しょーくん、どうなったどうなった?」 「おおおぉ!!!」 俺の手からゲーム機を受け取った生徒会長は画面を見ると、ステージをクリアしていることを確認して喜びの表情を浮かべていた。 それはもう、喜びすぎているんじゃないかと感じるほどの嬉しさの表情だ。 「す、す、すごい、しょーくん! なんだ君は! 天才か!」 「いや、まあ……」 茉百合さんに手伝ってもらったなんてことは言わないでおこう。クリアしてもらった時に内緒って約束したし。 「これでようやく先に進めるぞー!」 「会長良かったですねー! おめでとうございます!」 「うんうん! ゲームは先に進んだし、これから先の予定も楽しみだしねー!」 「これから先の予定?」 「ふふ〜ん。防災訓練とかかなー。もう予算通っちゃったから、やりたい放題だもんねー」 なんだか会長がすごく楽しそうだ。 こういう時は、なんだか嫌な予感しかしない。ていうか、わずかの経験だけど、嫌な予感がして当然のような気もする。 「しょーくんも色々楽しみにしておくといいよー! 君ははじめてだろ、我が生徒会主催のイベントは!」 「楽しみって……」 防災訓練のなにを楽しみにしろって言うんだろうか……。 そもそも、防災訓練って楽しむものじゃないと思うんだよなあ。絶対になにか嫌な予感がする……。 「で、俺の仕事はもう終わり、って事でいいんですか?」 「ええっ、なに、終わりって言ったら帰っちゃうの?」 「うん」 「じゃあ終わりじゃない! まだ終わらないぞ! 俺と一緒にエンディングを見ようじゃないか!」 「何時間かかるんだよ!」 「明日の朝には…」 「先に帰らせてもらいます」 「おかえりですか? さようならです、しょーくんさん!」 「またな」 「さようなら」 「はい。失礼します」 「あっちょっと、しょーくん、しょーくーん! つめたーい!」 初仕事、会長のゲームを代わりにクリアすることって…。 こんなのが本当に仕事でいいのか? いや、よくないんだろうなあ。 天音が知ったらすごく怒る気がする……うん。 …とっとと帰ろう。 「あ!」 「ん? あ、水無瀬、こんにちは」 「はい、こんにちは」 「今から帰るのか?」 「はい。葛木さんも?」 「ええ、まあ」 「私も今から帰るんですけれど、あの」 「はい」 「良かったら一緒に帰りませんか?」 「え? 一緒に?」 「はい。どうせ帰る場所は同じですし、葛木さんはまだ慣れていないかなと思ったんですけど……」 「あ……」 そういうことか。水無瀬はなんて優しいんだろう。そりゃ、他の生徒から優しくてすてきな人だなんて言われるよな。 「なにかご予定でもありましたか?」 「いや、ないです。一緒に帰るだけです」 「じゃあ」 「はい」 なんだか、偶然にも水無瀬と一緒に帰ることになってしまった。 この場に他の生徒がいれば、また羨ましいだとかなんとか色々言われていたのだろうか。 ……多分、言われるんだろうなあ。でも、今はふたりだけだし、そういうのは気にせずに帰ることにしよう。 「ふふふ。こうやって誰かと帰るなんてあんまりないから、ちょっとだけ嬉しいです」 「そうですか?」 「はい」 水無瀬は俺を見つめて本当に嬉しそうに微笑んでいた。 こんな些細なことでも嬉しくなって、こうやって微笑むことのできる水無瀬って、なんだかとても……かわいい人だな。 出会って数日の人に言うことじゃないのかもしれないけど。 「……」 行かないと行かないでうるさいんだろう。 だけど、きっと行ったら行ったでうるさいはずだ。 どうする、俺。 さっきのメッセージを見る限り、会長から直接っぽい。 生徒会で何か急用ができたようには思えなかった。 本当にできてたとしても、俺が役にたつって事もなさそうだしな。 「どうした?」 「なにかあったのー?」 「いいや、なんでもない」 「でも、それって呼び出し連絡じゃねーの?」 「あれ? そうなんだ。行かなくて大丈夫かな」 「……大丈夫。大丈夫にしておこう!!」 「そっかー! んじゃいいな!」 「大丈夫なら、大丈夫だよね、うん」 「あ、でも……ここまで来られたら、それはそれで嫌だから、俺先に帰ってる」 「そうか? 俺も一緒に帰ってやろーか?」 「いや、お前がいると賑やかになるからいい」 なんだなんだ!? マックスのやつ、急に寂しそうな顔をしてる。 ただの丸と四角が組み合わさっただけの表情のくせに、気になるじゃないか。 「や、あのな、賑やかなのがイヤとかでなく! 諸事情でこっそり帰りたいんだ」 「お……おう。そうだったんだな……おう」 「それじゃあ、俺先に帰ってる」 「うん。またねー」 「もし生徒会の人が来たら、適当にごまかしといて」 「……よ、よろしく」 今、一瞬ものすごく不安になったけど……多分、大丈夫だろう。 きっとマックスも親友の俺のためにごまかしておいてくれる。そうに違いない。 まだちょっとへこんでるのが気になるけど。 「じゃ、また明日」 「ばいばーい」 「お、おう、気をつけてなー」 「すずのも、またな!」 「……は、はい」 教室を飛び出して、なるべく生徒会室じゃない方向へ。 そう思いながら校舎から出てみたものの―― 「ここからだと、寮はあっちの方向だったよな」 なんとなく道のりは覚えてる。 ちょっと学園内を探索してみたいなって気もする。 けど。あの会長のことだ。 どこから飛び出てくるかなんてわからない。 「まさか発信機とかは…ついてないだろうな」 例の携帯端末を見つめる。 機能的な生徒手帳っていうよりも、携帯ゲーム機みたいな形のそれ。 メールや検索、いろんな機能がついてるんだから、こっそり発信機がついててもおかしくない。 「ま、見つかったらその時はその時だ」 少なくとも今は見つかっていない。 やっぱり今日はこのまま帰ってしまおう。 なんだかんだと、また慌ただしい一日になってしまった。 結局遠回りしたせいで、正門前までたどりついた時にはもう日が傾いていた。 「ほんっと、会長のせいで振り回されるな」 「――葛木さん」 「えっ?」 「葛木さん、いまお帰り?」 振り返ると、水無瀬がいた。 「あ、水無瀬。うん。今帰りなんだ」 「そうですか。じゃあ、一緒に帰りません?」 水無瀬の声が夕暮れの空気の中に響いた。 「あ……水無瀬先輩!」 「うそ、茉百合先輩以外の人とも、お帰りになるんだ」 たぶん、後輩だと思われる子たちの声が俺にも聞こえた。 水無瀬にもきっと聞こえてただろう。 だけど。 「えっと、その」 水無瀬は少しも気にしていないように、にこにこと足を踏み出した。 「葛木さんを見かけたから、さっそく声をかけてみました」 「あっ!」 「……練習」 今日の昼休みのこと。 自分から声をかけてみようって、水無瀬が言ってた。 俺のことを見かけたら、声かけますって――言ってたな。 「ありがと」 「迷惑なんて、そんなワケないよ」 「本当に? そう、良かったあ」 もう周りのことは、気にしない。 そう思ってくれてたらいいんだけど。 人気者なのはいいことだけど、水無瀬みたいに寂しい思いするのはよくないよな。 「寮までの道、ちゃんと覚えてるかやっぱり不安だし」 「ふふふ、そうなんですか? じゃあやっぱり一緒に帰らないと」 「――ん、助かる」 こくん、と頷いた水無瀬が、俺の隣に並んだ。 それから、ゆっくりと歩きだす。 「ねえ、葛木さん」 「はい?」 「新しい場所で新しい生活をするのって、とても大変ですよね。慣れるまで」 あれ――と、ちょっとした疑問が胸の奥にわいた。 確かここはエスカレーター式の学園だ。 お嬢様ってイメージの水無瀬は、ずっとここの生徒なんだろうって思ってたけど、違うのかな。 「水無瀬も転校生?」 「そう、なんだ」 「あんまり緊張とか、しません?」 「あー、普通はするんだろうけどなあ」 蘇る記憶のほとんどが、怒涛すぎる。 まだ2日だ。なんて濃い2日だったんだ。 緊張する暇なんてゼロだったな。 「私は、しました。今さっき声をかけるのも、すごくね」 「ほんとに? そんな感じじゃなかったよ」 「そうでした? ふふ、なら良かったぁ、嬉しい」 ふわりと風がふいて、水無瀬の髪がなだらかに波打った。 「着いた! 葛木さん、道は覚えられました?」 「うん。たぶん大丈夫」 寮の前まで来ると、水無瀬はほっと息をついて顔をあげた。 お嬢様って思われてるから、皆が壁を作ってる。 だから水無瀬はちょっと、寂しいって思ってる。 俺はそう感じたけど、ほんとは違うのかも。 転校生みたいに――って言ってた。 水無瀬はなんとなく、まだそんな気持ちが残っているのかも。 もしかしたら見当違いな思いかもしれないけど。 「あ、そうそう!」 「……?」 「あはは、そうだよな。うん、わかった」 「それじゃあ、またお夕食の時に」 「うん、じゃあ」 たぶん、後輩だと思われる子たちの声が俺にも聞こえた。 水無瀬にもきっと聞こえてただろう。 水無瀬はちょっと顔を赤くすると、足早に俺のそばまでやってきた。 「あの、たまたま葛木さんをお見かけして、そのまだ葛木さんは転校生ですから――」 「う、うん」 「一緒に帰った方が迷わないかと思って」 まっすぐこっちを向いてそう言われて、俺の方がびっくりした。 「わー! 水無瀬先輩ってやっぱりすっごく優しいんだ」 「ほんとだね、ああ〜いいなあ、水無瀬先輩に送ってもらうなんて……」 「ちょ、と、とりあえず」 「……?」 「う、うん。帰ろう」 今度は俺の方が恥ずかしい。 なんていうか、俺のことを言われてるワケじゃないんだけど。 「あっ、葛木さんそっちじゃないですよ!」 「えっ? ほ、ほんと?」 「ふふ、やっぱり声かけてよかった。こっちですよ」 ――何、混乱してんだよ。 そう自分に言ってしまってから、俺はその理由に気づいた。 水無瀬がこんなふうに声かけてくるなんて思わなかったから。 お嬢様っぽくて、いや、実際そうだよな。 こんな風に気さくに声かける感じだなんて思わない。 だから、あのさっきの女の子たちも騒いでたんだろうな。 「新しい場所で新しい生活をするのって、とても大変ですよね。慣れるまで」 あれ――と、ちょっとした疑問が胸の奥にわいた。 確かここはエスカレーター式の学園だ。 なんとなく、水無瀬はずっとここの生徒なんだろうって思ってたけど、違うのかな。 「水無瀬も転校生?」 「そう、なんだ」 「あんまり緊張とか、しません?」 「あー、普通はするんだろうけどなあ」 蘇る記憶のほとんどが、怒涛すぎる。 まだ2日だ。なんて濃い2日だったんだ。 緊張する暇なんてゼロだったな。 「私は、しました。今さっき声をかけるのも、すごくね」 「ほんとに? そんな感じじゃなかったよ」 「そうでした? ふふ、なら良かったぁ、嬉しい」 ふわりと風がふいて、水無瀬の髪がなだらかに波打った。 「着いた! 葛木さん、道は覚えられました?」 「うん。たぶん大丈夫」 「それじゃあ、またお夕食の時に」 「うん、じゃあ」 やっと一日が終わった……はず。 繚蘭会寮の中にまで戻ってくれば、あの会長の魔の手ももはや伸びてこないだろう。 たぶん。 そう願いたい。 「――ん?」 「よし」 「ん? んんん?」 「……ここもよし」 廊下を蛇行しながら歩いてるのは、九条だった。 何だろう、あれ。 手元には細い銀色の工具のようなものを持っていた。 廊下に並ぶドアや天井、床をきょろきょろと見回している。 「なんだ、これ」 「よし、よしよし」 九条が通り過ぎた後の廊下――そこには謎の物体が存在していた。 メタリックな小さな球体から、にょきっと足が出てる。 気味の悪い昆虫みたいなメカが廊下の隅々に落ちている。 「き、きもちわる……」 「な、これ、カメラ!?」 俺が声をあげたとたん、球体の上部がぱくんと開いてレンズが見えた。 いや、俺のことを見ていた。 「……見た?」 「み、見たっていうか、な、なにこれ!?」 「……対侵入者用監視メカ2号」 「は、はい?」 「……ぽち」 「ええええええええ!?」 九条がポケットの中で何かのスイッチを押したのは明白だ。 まさか、でもこんなことできるのか? 俺は何度もまばたきしたが、結果は同じだ。 消えてる。 さっきまでそこにあったいくつもの『監視メカ』が姿を消していたのだ。 どこかに隠れたんじゃなく、まるでいきなり透明になったような…… 「よし」 「ちょ、なんで? なんで!?」 「監視対象の動きを完全に把握するには、一番有効だから」 「いや、そうじゃなくて! どうやって消えたのコレ」 「……」 「無視ですか!」 「お前がうるさいから外した」 「えっ?」 九条が指差したのは俺とマックスの部屋の扉だった。 今朝そこにあったビームがない。 どうやら撤去されたようだ。 「本来なら警告もなし。だけど天音がそれはダメって言うから教える」 「な、なに……?」 「新しい警備システム。各部屋の前に設置したから。監視システムにひっかかったら――」 「ひっかかったら……?」 「黒こげ」 ――これは本気だ。 脅しじゃない。 さっきの姿を消したメカの本気度は高い。 「わ、わわわかった。でも廊下歩くとか、それぐらいで黒こげは勘弁してくれ」 「……」 返事なしかよ。 本当に大丈夫なんだろうか。 この場所だけが安らげる場所だと思っていたのに…。 黒こげだけは本当に勘弁してほしいな。 「ああ、疲れた……昨日と同じじゃないか……はあ」 もうこのまま眠ってしまおうかな。 あ、だめだ。 なんだか腹へってきた。 そうだ、今日こそちゃんと夜ご飯食べたいな。 ああ神様、贅沢はいいません。 白いご飯でいいです。 あと、できたら美味しい煮物なんかも―― 「たっだいまーん。お、晶!! なんだぐったりして。腹へったのか!」 「あたり……なんか食いモン持ってる?」 「こら、ダメだぞー! もうすぐ夕食の時間だからな! おやつはダメだ」 「お前……なんだよそれ……ロボのくせに」 「なんだとー!!」 ああ、すきっ腹には効きすぎる、ロボの――。 いや、これ言っちゃダメなんだな。 マックスの体当たりは、俺の疲労を数倍にしてくれた。 「……はあ」 「ごちそうさま」 「ごちそうさまでした」 「ごちそーさまでした! ああ、うまかったー」 「……」 この繚蘭会寮での夕食は今日で2日めだ。 談話室に来ると、今日もまた豪華でおいしそうな料理が並んでいた。 もちろん、見た目だけじゃなく食べても美味しい。 「ああ…毎日こんなの食べられるのか…俺、ここに来て良かった」 「ほんとに美味しそうに食べるんですね。見ていて楽しい」 「楽しい? そんなものかな?」 「はい。ご飯を美味しそうにたくさん食べる姿って、楽しいですよ」 そんなものかな。 確かに、テーブルに並んだ大皿から一番多く取り分けてたのは俺だ。 女の子ってやっぱり、そんなに食べないものなんだな。 もしくは俺が食いすぎたせいで、みんな遠慮してるとか――。 そうじゃなきゃ、いいんだけど。 「あのさ、ここの寮に入ってる生徒って全員こんなうまいご飯食べられるの?」 「ええ。でも食材をケータリングしてもらって自分で作る人もいるわ」 「ほんとに!? なんかすごいなあ」 「食堂以外も島内にレストランがあるから、そこへ行く時もありますよ」 「おおお……なんて贅沢なんだ……」 なんだこの幸せは。 そりゃ今まで行ってた所にも学食はあった。 だけど、だいたい2週間もたてば全メニューは制覇できてしまう。 夕食は近所のスーパーを巡り巡っていた日々を思い出すと、涙が出てくる。 この幸せ。夢だったらどうしよう。 目が覚めたらどうしよう。 パチパチと頬を叩いたら、俺はいつもの自分の部屋にいて、また遅刻ぎりぎりで―― 「ちょ、ちょっと葛木くん? なななに自分の顔叩いてるの?」 「ん?」 何か小さな袋が落ちたような音。 机の下を覗き込んでみると、やはり白い紙の薬袋がぽつりと落ちていた。 距離が近かったので拾ってみる。多分水無瀬のものだろう。 「はいよ」 「ありがとう、葛木さん」 水無瀬は薬袋から慣れた手つきで何個かのカプセルを取り出すと、近くにあったグラスの水で飲み干した。 なんだろう、風邪でもひいてるのかな? と思っていると、横から猛烈なスピードで九条の姿が消えた。 「今、覗いてた」 「ええええ? 何? ちょ、後頭部にチャキって何あててるの!?」 「やはり危険。わずかなスキも逃さず覗こうとする。男は」 「や、やめやめて! 覗いてなんかない!」 「……嘘つき」 「わ、わああああ」 「くるりさん、くるりさん、大丈夫よ」 「危険だった」 「だって……たぶんここにしゃがんでも」 「ちょ、さ、桜子! 何してるの!?」 「ほら、見えない」 「……むー」 後頭部の硬い感触がようやく去ってくれた。 どうやら納得して、当てていた何かを下げてくれたらしい。 「た、助かった……」 「桜子! き、急にびっくりするじゃない!」 「ふふふ、ごめんね」 「今回は見逃す」 「見逃すって、ほんっとに何も見てないし」 「規律は必要。そうでしょ、天音」 「まあ…確かにここは女子寮だし、葛木くんがいるのは特例だから……」 九条はびしりと俺を指差すと、続けた。 「食事は7時に食べる。危険性を考えてできれば全員で」 「危険って……」 「それから風呂」 風呂? そういえば、ここは寮ごとに浴場がある――ってパンフレットに載ってた気がする。 「男のお前は風呂は11時以降。以上」 「じ、11時!? 遅すぎないか?」 「反論は認めない」 「……」 まあ、仕方ないか。 ここは女子寮だしな。 部屋にシャワーもついてるから、さほど困るってわけじゃないし。 しかし九条にはどうも信用されてないな。 あんな恐ろしいメカを仕掛けられて、一体何ができるっていうんだ。 女子寮ってもっとなんだかふわふわしてて、いい匂いとかしてそうとか思っていた俺が甘かった。 まあ、このうまいご飯のためなら、多少の窮屈さは耐えよう。 「おうおう、戻ったぞお〜!」 「おかえり」 「マックス、どこにいってたの?」 「いやさ、マミィの忘れものを取りにちょっとな」 そう言うとマックスは何かを取り出した。 ぱっと見てみると、それはミキサーだった。 ただ、大きさが想像と違う――コップくらいの小さなものだ。 「ありがと」 うわっ。ミキサーの中に、明らかに変な色合いの飲み物が出来ていく。 「う、うわわ。な、なあ水無瀬、あれって何?」 「あれ? ええ、くるりさんいつも飲むの。足りない栄養素を計算して作ったミックスジュースですって」 「ふ、ふーん」 「……ごくごくごく」 九条は表情ひとつ変えずに、そのあやしい飲み物を全部飲み干していた。 ――大丈夫なのか。ちょっと飲むのを躊躇してしまう色だけど。 「そうだ、葛木くん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 「……?」 「あなた、生徒会の一員になったわよね」 「まあ、成り行き上……なった」 「何か聞いてない?」 「防災訓練のこと。今度の訓練は生徒会が主体で行うことになってるの」 天音の声色が変わった。 むしろ、空気が変わったといっても過言ではない。 天音の握りこぶしがぷるぷると震えるのが見えた。 「うんうん」 「ほんっとーに何も聞いてない?」 「あ、ああ……だって俺、今日生徒会になったばっかだし」 「はあぁ。そうよね。ごめん、でも何か怪しいことがあったら教えてちょうだい。絶対余計なことしでかすに決まってるんだから」 妹にここまで言われるとは……一体今までどんなことをやってきたんだ。 まあ、ここへ来てわずか2日の俺でも、あの人がとんでもないってコトは身にしみてわかるけど。 「でも、なんとなく楽しいかも。そわそわしちゃうっていう感じかな」 「だめだめ! 訓練は真面目にやらなきゃ意味ないじゃない」 「……同意。会長は嫌い」 「はあ…頭が痛いわね」 天音は頬づえをつきつつ、深いため息を吐き出した。 繚蘭会の会長としての立場と、あの兄の妹という立場のダブルな重圧。 想像してみると、その深い気苦労に涙が出そうだ。 「なによ」 「い…いや、なんか大変そうだなあと思って」 「本当その通りよ……はぁ」 またため息。天音って一体、一日に何回兄のことでため息をつくのだろうか…。 余計なお世話かもしれないが、天音の今後がちょっと心配になってしまった。 晩ご飯が終わり、部屋に戻って明日の準備や出された課題なんかを片付けていると、時間はあっというまに過ぎていった。 「よし、11時過ぎてるな」 九条から提示された、俺が風呂に入ってもいい時間。 シャワーは部屋についてるからいつでも浴びれるけど、やっぱり一日の疲れは湯船でしっかり取りたい。 「マックス、風呂入ってくるよ」 「おう、行ってこーい!」 「そういえばここの風呂って……」 繚蘭会寮にいる女の子たちが使ってる場所なんだよな。 女の子もやっぱ、広いお風呂で疲れを取りたいって思うもんなんだろうか。 そうだろうな。 じゃあ、やっぱここの風呂使って、湯船につかることもあるだろう。 「……」 いや。別に一緒に入るわけじゃないし。 でも一緒の風呂は使ってるんだよな。 いやいやいや。 そんなことでドキドキしてどうする俺。 一緒の寮なんだから、当たり前だ。当たり前のこと。 いやいや。 なーんーだーけーどーなー! 意識するなっていう方が無理だ。無理! 多分無理。 大体、女子寮にいるっていう時点で色々意識しないってことが無理だ! もしかしてこれは幸せなことなのだろうか。 これがいわゆる、役得ってやつか? 「……ふう」 なんか妙なことを考えてしまいそうだから、早く入って早く出よう。 きっとそれがいい。 「……」 「……」 「……く」 「……」 今、目の前でなにが起こっている? あれ? 俺、なにしてるんだっけ。 あれ??? 「えっと……」 ここは風呂だ。 風呂なんだから、目の前の九条が裸なのは当然だ。 俺が風呂に入っていい時間は11時からってことで、さっき自分の部屋では11時を回っていたのは確認した。 でもって、九条から言われたんだ。11時以降は風呂入っていいって。 でも、ここに九条がいるってことは……あれ? 「ご、ごめんなさい」 「……」 待て。でも待て。 さっきの九条は俺のことを見ても、きゃーともわーとも言わなかったよな。 ということは、あれは幻? 女子寮の風呂だーってドキドキしていた俺が作り上げた幻想が目の前に? あんなことを考えていたから、きっと見なくてもいい物を、俺の脳髄が勝手に作り上げたのかもしれない。 そうだよなー。 そんな都合よく裸の女の子が風呂に入ってるわけないよな。 ああ、でもどうせ幻想だったら知ってる子じゃなくて、全然別のおねーさんとかにしてくれないかなあ。 よりによって九条はない。 幻だとしても、俺が殺される。九条ならありえなくない。 「……いや、幻にしてはリアルだっただろ」 ごくり、とノドが鳴る。 背中の向こうにある浴室のドアからは、物音ひとつしない。 本当に九条がいたとしたら、この沈黙はある意味気持ち悪い。 ……確かめるしか、ないよな。 「えーっと」 「死ね」 「ふん!!」 「ぎゃー!!! ぎゃああああ!!! 目が! 目があああ!!!」 今! 今、目の中に指が思いっきり! すごい勢いで! 指が細いせいか、すごい勢いで入って来た! 「っていうかなんだこれ! ぎゃー!!」 幻じゃなかった! リアルだ! これは現実だ! 現実の九条が全裸で俺の目をバーンだ! 俺の脳髄はまともだったけど、目が! 目が痛い! 死ぬ! 本気で死ぬ! 「うるさい」 「痛い! 痛いって! ホント痛い、痛いです!!」 「あんた最後。だからちゃんと片付けろ」 「わ、わか……わかった、わかったけど……痛い、痛いよ……」 「今日のはわざとじゃないようだからその程度」 「今度やったら本気で死なす!」 「痛い……いた……ううう……」 もしかして……今のは、俺に対する警告なんだろうか。 女子が風呂に入っているところに遭遇すると、こんなに恐ろしいことが待っているなんて知らなかった……。 うう……でも、ちゃんと時間守ったのに……痛い。 「こ、今度から……服脱ぐ前に確かめよう……」 「はああ……」 「おう! おかえり!!」 「うん」 まったく散々な目に合った。 風呂に入って疲れを取るつもりが、余計に疲れた。 でも、あれは本当に俺が悪かったんだろうか……ちゃんと11時はすぎてたのに。 悪くないような気もするけど、抗議したらしたで九条に殺される気がする。 今度こそ、本気で。 「目……痛かったな……」 ……これ以上考えるのはやめとこう。 「なーなー、晶」 「なんだよ」 「オレさ、風呂って入ったことねーんだわ」 「あ、そうなの?」 「特殊コーティングでいつもピカピカだからな! それに定期メンテナンスのたびにチェックもしてもらってるから風呂入る必要ねーんだ」 「お前の体は便利だなあ」 「でな、そんなオレに風呂について教えてくれ! どうなんだ、風呂って?」 「……」 「どうなんだよ?」 「風呂は……」 「おう!」 「怖いところだ……」 「……なに!?」 「恐ろしい……恐ろしかった……」 「そうかあ……恐ろしいのか……知らなかったな」 「……ああ、本当に」 「…ん?」 突然、廊下の方からベルが鳴り響いてきた。 なんだか懐かしい感じのする音だけど……。 電話だ。携帯とかじゃない、昔ながらの電話のベル。 「誰だろ、こんな時間に電話なんて」 ベル音はやがて鳴り止んだ。 話し声はしないし、誰も受話器を取らなかったみたいだ。 「電話? あの音は電話の音なのか? 聞いたことないぞ」 「……じゃ、今のは何だったんだ」 「わ、わかんねーな」 「……」 「……」 さっきまでとは違う意味の恐怖で、一瞬、背筋を寒気が駆け抜けた。 確かに、廊下には電話なんてどこにも置いてなかった気がする。 何なんだ、一体。 マックスも同じ気持ちなのか、黙り込んでしまっている。 「よし。今日はもう寝よう。その方がいいと俺の中の誰かが言ってる!」 「そ、そーだな! もう遅いし、寝るか! それが一番だ」 きっと気のせいだったんだ。そうに違いない。 あまり気にせず、もう忘れよう。そして寝よう。 もっと明日のことを考えるべきだな、うん。 明日の朝ごはんと昼ごはん。あとちょっと早いけど夜ごはん。 そんなこととか考えよう。うん。 「……あー…」 寝起きの耳に聞こえる、鳥の鳴き声が気持ちいい。 そういえば今日は休みだったよな。 もうちょっと寝てても問題ないという事だ。 眠いよな……うん、眠い。 「んー…もうちょっと寝よ」 「すーすーすー」 「……んーあ?」 誰だろう…。 誰か来たのかな。 寝ぼけた頭のまま、布団から這い出る。 一体誰なんだろう。 マックスはいないのか……? 「はーい」 「………」 「……なに? どうしたの?」 「あ……あ、あの、寝てたの?」 「うん」 「もう、昼」 「え、ああ、そうだったの?」 「くすくす、葛木さんはいつもお昼までお休みなんですか?」 「ん、そうでもないと思うけど…疲れてたのかな」 「本当に起きたてなんですね、パジャマのままですし、ねぐせついちゃってますよ」 「だらしない」 「あのね、とりあえず、その、起こしちゃったのなら、ごめんなさい」 「いいよ別に? ところで、みんな揃ってどうしたの」 「まだ朝食も食べてないわよね?」 「うん。そういやおなかすいたな…」 「よかった! これからみんなで楽しくお昼ご飯を食べつつ、葛木さんの歓迎会をしようと思うんです!」 「え?」 「歓迎会をしようって、桜子が言って聞かないの」 「…ふん」 俺の、歓迎会? あんまり歓迎はされてない気がしてたけど……いいのか? 「あれ? そういえばマックスは?」 「動作テスト中」 「あ、そうなんだ」 マックスはやっぱりどこか出かけてるみたいだ。 あいつがいてくれたらなら、歓迎会だって聞いたとたんに背中を思いっきり押してくれただろう。 「とりあえず……談話室で待ってるから。その、来てくれるかしら」 「わかった」 歓迎会か……。 手早く着替えてる自分が一瞬うきうきしていることに気づいてしまった。 ほんのちょっと不安だったけど、歓迎会をしてくれるなんて言われるとやっぱり嬉しいな。 「……」 「………」 談話室までやって来ると、九条が歓迎会という言葉とは程遠い雰囲気で迎えてくれた。 豪華なご飯が並んでいるわけでもない。 何もないテーブルの前で、九条だけがぽつんと座っている。 あれ、俺、これから歓迎されるんだよね……。 あれ……? 「あの、天音と水無瀬は?」 「天音は出かけた。桜子は昼食準備」 「そ、そうですか」 「………そこに」 「……あ、はい」 椅子を指差されたので、おとなしくそこに座る。 すると、九条はそのままスタスタと部屋から出ていってしまった。 「ええ?! ど、どこに?!」 「桜子の手伝い」 「あ、そうですか……」 そして、談話室に一人残される俺。 これから歓迎会を催してもらうはずの俺。 「………」 孤独だった。 しんとした談話室。 さっきまでの妙なわくわく感が余計に孤独を際立たせてる。 「…うぅ、いいのか、俺ここにいて…」 「おぉ、天音!」 危なかった。 あまりに孤独でいたたまれない空気が、俺をまるっと飲み込む寸前だった。 頭の先まで飲まれたら、きっと今日一日立ち直れないところだったろう。 救いの主は天音だ。 しかも、新しい仲間まで連れてやってきてくれた。 「あ、おはよう葛木くん〜!」 「稲羽? おはよう」 「歓迎会するんだよね? おめでとうございます!」 「あ、ど、どーも。あれ、でも何で?」 「辞書を返しに来てくれる事になってたんだけど、迷ったってメールが来てね。慌てて迎えに行ったのよ」 「だってここって、広いし色々な専用寮とかがあって複雑なんだもん……ごめんね」 「いいわよ。まだ来て一週間だものね。それでせっかくだから結衣も一緒にお昼を食べないかって連れてきたんだけど」 そう言うと、天音はきょろきょろと部屋を見回す。 「桜子とくるりは?」 「なんか、昼飯の準備だって」 「あぁ、頼んでたケータリングを受け取りに行ってくれたのかな」 「これからみんなでお昼ごはんー! お昼ごはん、お昼ごはん♪」 「い、稲羽? なんかやけに嬉しそうだな」 「――はっ!! こ…こ、これしきの事で、嬉しくは! あっでもみんなでご飯を食べるのは嬉しいよ?!」 「う、うん。何慌ててるの?」 「あああ慌ててなどおらぬですよ?!」 「慌ててるだろそれ…」 「問題発生」 突然、九条が渋い顔をして入ってきた。 後ろからは、水無瀬が申し訳なさそうにとぼとぼと歩いてくる。 「どうしたの? くるり」 「自炊用だった」 「えっ? じゃあ…野菜とか、肉とかがそのまま来たって事?」 こくり、と水無瀬が頷く。 「葛木さんのために、色んな料理をいっぱいお願いしたつもりだったのですけど……間違って食材として頼んでしまったみたいです」 「どうする? 天音」 「うーん……。仕方ないわね、食材は返却させてもらって、みんなで食堂に行く…とか」 「この時間帯の食堂は、極めて混雑してる」 「そうですよね…。ちょうどお昼時ですものね…」 みんなが困ったように顔を見合わせる。 そうか、ごはんがないのか……。 がっくりきてるのは俺だけじゃなかった。 水無瀬なんか、今にも泣きそうだ。 ごはんがない……悲しいことだ。 あ、いやでも、材料はあるんだよな? 「あのさ、材料あるんだったら、俺が作るよ」 「えっ、だって、葛木くんの歓迎会なのよ? 歓迎される本人に作らせるのはあんまりだわ」 「そうですよ、私たちが頑張りますから」 「天音たちは料理できるの?」 「うっ……でも、調理実習はしたことあるし、料理の本があれば…」 「何事も挑戦ですし、やる気あります!」 「でも今、料理の本、ない」 「ほらな。俺が作るのが一番早いよ」 「でも…」 「まあ、半ば無理やり女子寮に入れてもらった身だし……感謝の気持ちって事で」 「葛木くん……」 「あ、わたしもわたしもー!」 「……いいの? 何か手伝える事は…」 「あーいいって。家じゃ普通にしてた事だし。みんな談話室で待っててくれれば」 「ふーん」 九条がいち早く、談話室の椅子にどすんと座った。 それに付き従うように、他の子たちもそろそろと座る。 「どんなお料理が出てくるのか、楽しみですね」 「…そうね」 「じゃあ、ちょっとだけ待っててくれな」 「はぁぁぁーい!」 稲羽からの異様に元気のいい返事に、やる気も出るってもんだ。 さて、みんな待ってるし、とっとと作らないとな。 とりあえず手早く出来てそれなりにおいしいもの、という感じで作ればいいか。 「お待たせしましたー」 「わああぁぁーい! 葛木くんが来たよー! ごはんを持ってきたよー!」 「結衣、そんなにはしゃがなくても…」 テーブルに戻ったとたん、稲羽のキラキラした視線がとびこんできた。 こんな風に心待ちにされてるのって、ちょっと気持ちいいな。 それに、何よりやっと朝ごはんにありつけるし。 「よいしょっと」 俺は手に持った鍋を談話室の大きなテーブルに置いた。 鍋の中にはさっき届いた食材を適当な大きさに切って、ぶち込んで煮込んだだけ、という至極シンプルでわかりやすい料理が入っている。 料理っぽい言い方をすればごった煮。 見た目があまり良くないのは自覚している。 ちなみに、俺が作れる料理の中でも、割と好評な一品。 まあ、親父にだけど。 「さてと、これをみんなで……ん?」 「……?」 「……う」 「これは――」 「ん? あれれ?」 あ、あれ?? こんな顔されるなんて思ってなかったんだけどな。 なんで……なんだろう。 「変じゃないよな、稲羽!」 「うーん、食べてみたらわかると思う!」 「食べてみたら!?」 「いっただきまーす」 「え? え? ほんとに?」 「なんか懐かしい味がするような気がするんだよね〜」 「……懐かしい……それって古いって意味?」 「違う! 違うから!! 意味間違ってる!」 「おかしくないよ……な」 「やっぱりわたしは美味しいと思う! 見た目はちょっとどきどきしちゃうけど!」 「そ、そうなんだ…見た目……でも味には自信あるからさ」 「もぐもぐぐ、うんうん! ごはんがいーっぱい欲しくなっちゃう感じする! 美味しいよ」 「ふふふ、私たちもいただきましょう」 「そうね、いただきます」 「……ます」 「ちょ、ちょっと!」 九条はポケットから出したカメラみたいなものを、いきなり俺の料理に向けた。 「塩分7%、糖分12%……炭化部分ややあり。科学的な成分比率から見ると美しくない」 「確かに見た目はちょっとアレだけどさ、食べてみって」 「……う」 「ケロリーメイトばっかよりかはいいと思うぞ」 「ケロリーメイトをバカにするな」 「いや、あれはあれでいいのかもだけどさ。あったかいご飯はいいんだって。なんか幸せな気分になるし」 「……メンタル的な部分の解析」 本当に渋々といった顔をしながら、くるりは鍋の中に箸をつっこんだ。 まだほかほかと湯気があがってるし、味にだって自信はあるのに――。 「どうよ」 「嫌悪」 「ええ!?」 「とまではいかない。食べる」 「ふふふ、良かったですね、葛木さん。私たちもいただきましょうか」 「天音、正直に言ってみてくれ! なんで皆がそんな顔するのか!」 「えっ、わ、私に聞くの!?」 「いや、だって天音ってそういうのストレートに言ってくれそうだし」 「どういう意味よ、それ」 「そ、そのままの意味です……」 天音はきっと唇を結んだ後、俺の顔をまっすぐ見た。 「わかったわ。それじゃあ私の意見をストレートに言うわよ」 「……う、うん」 ごくりと息を呑んでしまう。 水無瀬も稲羽も同じように黙ってしまって、まるで推理ドラマの犯人解明みたいな空気だ。 起こってるのは殺人事件ではなく、俺の手料理披露なんだけど。 「その、第一印象があまりよろしくないと思うわ」 「……あ」 「確かに少々独創的ですね」 「う、うん、それは認める。ちょっと見た目悪いけど、味は確かだから!」 「そうね、料理は見た目だけではないから――いただいてからでないと正しい評価はできないわね」 「そうだろ!? だろ? 食べてみて!」 「うん、お腹もすいてきたし食べよう」 「いただきます」 「いただきます」 「……ます」 「なんか……おかしいのかな、俺の料理」 「いいえ! そんなことありません」 「えっ?」 「あの、今私が少しばかり驚いてたのは、お料理でこんな色彩を出せることに関してなの」 「は、はい?」 「たとえばこの…お芋の部分とこちらの野菜の部分は色彩学でいうと、あまり相性はよくない取り合わせです」 「し、し、色彩学?」 「おまけにこのにんじんの紅色は、差し色としては不向きなの。だけどこのミックスを全体的に野性的なイメージで生命力に溢れていると感じました」 「野性的……生命力……」 「確かにインパクトあるわね、今まであまり見たことないっていうか」 これって褒められてるのかな。 なんかちょっと違うような――ま、いいか。 「ま、まあ、見た目はともかくさ、味には自信あるから。ともかく食べてみてよ」 「ええ、もちろん。いただきます」 「いっただきまーす♪」 「そうね。いただきます」 「……ます」 一人が箸をつけると、他の三人もおそるおそるながら俺の鍋に手を伸ばした。 「あ…おいしい」 「本当! なんだか食べた事のない味ですけど、とってもおいしいです!」 「……ふん」 一口食べると、全員が表情をほころばせた。 そのまま次々に食べはじめてくれる。 あやうく自分の舌を信じられなくなりそうになったけど、みんなの反応を見ると安心してよさそうだ。 「はぁ、よかったー」 「うんうんー! おいしいよー! 幸せだよー! ね、おかわりしてもいい?」 「あぁ、ごはんならそっちに」 「わぁーい!」 「結衣、あんまり食べ過ぎたらお腹壊すわよ?」 「それはいっぱい食べないといけないですね」 「だ、だよねー?」 「ま、とりあえず喜んでもらえたみたいでよかった」 「とりあえずじゃないですよ。すごく、です!」 「ええ。葛木くん、凄いわ。こんなに短時間でちゃんと料理が出来るなんて。…おいしいし」 「葛木くんはすごいし、えらいー! んぐもぐ…おいしいー!」 「う、うん。ありがとう」 さすがに女の子たちからこれだけ褒められると、むずがゆいというか、こそばゆいというか…。 何だかそわそわしてしまうな。 照れ隠しにごはんを口にかき込もうとしたら、いつのまにかお茶碗は空になっていた。 「俺もおかわりしよ」 お茶碗にごはんを入れようと立ち上がろうとした。 したその時だった。 「よそってやるぜ! 親友!」 「ぅわあぁぁああっ?!?!」 にょきっという音が聞こえた。 間違いなく、そんな音がした。俺の脳内だけかもしれないが、絶対にした。 「うるさい」 「な、何っ?!」 「マックスさん?」 「はぐはぐ、もぐもぐもふ」 「なんだよなんだよー? そんな怯えた顔すんなよ晶よぉ!」 「食事中銀色の飛行体に下から突然出てこられたら、誰だって怯えるわっ!」 突然テーブルの下からあの丸いフォルムが顔を出したんだ。 お茶碗を落とさなかっただけ俺がほめられてもいいレベルのはずなのに…… 「ちょっ、銀色飛行体って、ほめすぎなんじゃね?! 照れるわー!」 「ほめてねぇ!!」 「んぐんぐ…もぐもぐもぐ」 「ほら、んなことより茶碗貸せよー。オレがよそってやるって!」 「は、はぁ…。マックス、ごはんもよそえるの」 「あったりめーだろーが!」 マックスは俺からお茶碗をひったくると、大事そうに抱えて炊飯器まで持って行く。 何でも出来るんだなあ……。 あの手でどうやってお茶碗持ってるのか不可解だけど。 「待たせたな! スペシャルふりかけも付けといたぜ!」 「………」 マックスが持って返ってきたご飯の上には……。 「……え?」 メタリックな、銀色の粉がかかっていた。 「こ、これ、何がかかってるの?!」 「スペシャルふりかけ」 「ごはんを粗末にするなぁぁぁー!」 「してねぇよ! 失礼だな! カルシウムたっぷりなんだぜ!?」 「カルシウムじゃない、これはカルシウムの色じゃなーい!!」 「もぐもぐもぐ、はぐんぐ」 「ちょっと……白米の上にかけるには、びっくりする色ですね」 「………」 「ほらほらー早く食えよー晶ー。うまいんだぜー?」 「うっ」 明らかに食べ物としてはアウトな色合いだ。 しかし目の前に、湯気をあげる温かいご飯があるのだ。 これをむげにポイすることなど……俺には。 ご飯を愛する俺にはできない。 明らかに食べてはいけない銀色具合。 頭の中でダメだというサイレンは鳴り響いていた。 だがしかし。 「くっ…がんばれ…俺……はぐ」 ぐっと目を閉じて、ひと口頬張ってみると―― 「………ん。あれ。カレーの味がする」 不思議だった。 ただの銀色の粉なのに、何故かカレーの味がした。 おまけに後からやってくるマイルドな辛さが、本格派テイストだ。 「だろーっ?!」 「ちょ、ちょっと葛木くん、本当に大丈夫なの?!」 「大丈夫。それ、28号の人工味覚を鍛えるためのテスト用味覚パウダー」 「そうなんですか。じゃあ私も、少しだけ食べてみようかな……」 「やめた方がいい。辛さの限界のテスト用だから」 「へ?」 「説明書に書いてた。『人体に害はありませんが、辛さのショックで半日くらい寝込むことはあります』」 「ダメじゃないそんなの!!」 「本当に半日寝込むのか、興味あって」 人体実験じゃん、それ! と、つっこもうと思ったその時には、手遅れだった。 「…………」 「葛木さん?! あ、あの、目がなんかうつろに…葛木さん、しっかりして!」 「………カ…カレ……すご……から…」 後からくるマイルドな辛さ……どころじゃない。 マイルドを通り越して、口の中がかなり激しく燃えてる。 無理だ、無理だ! これは無理だ―――っ!! 「から! からっ! みみみ、みず、うう……」 「か、葛木くんー?!」 「うぉぉぉ、晶〜?! 晶がそんなに辛いの弱かったとは?! すまん! すまんかった!」 「あああっ! 無理無理! なんか……あれ……目の前が……ああ……」 「目をあけてくれ、親友よぉぉぉお!!」 「ほっとけば治る」 「えぇっ、でも葛木くんがいなかったら、この鍋の残りどうす…」 「……あれ? 随分減ってる…」 「本当ですね、これなら私たちで全部食べられるかも?」 「……いつの間に?」 「さ、さあー! みんなで頑張って残り、食べきっちゃおう〜!」 「は、はい! せっかく葛木さんが作ってくれたんですからね!」 「う、うん……おかしいなあ…」 結局。 マックスのありがたい心遣いのおかげで、俺は楽しい食事の席からフェードアウトさせられてしまった。 もう絶対、メタリックなものを食べたりなんかしない…。 人間の本能には従うべきだったんだ。 それを学んだ俺が目を覚ましたのは、真夜中だった。 「すーすー」 「ぐーぐーぐー……ぎりぎりぎりぎり!」 「ぬ……?」 「ぎりぎりぎり……ぐー」 なんか音がしたけど、アラームの音じゃないっぽい。 でも、なんだっけ? 聞いたことある音なのは間違いない。 あれ、なんだったかなあ。 「あ、そうだ」 例の端末のメール着信音だ。 でも今、朝だよな。おまけに日曜だよな。 こんな朝から誰がメールなんかを送って来たんだ? 大体、俺にメールを出す人なんて……ああ。 ひとり、嫌な人を思い出した。 「あった」 やっぱり、メール着信のお知らせが表示されてるな。 ……すごく嫌な予感しかしない。 しかし読まないでいても、きっと文句を言いに来るだろう。 運が悪ければ、この部屋まで。 「……」 ドアの方をじっと見つめてみる。 その向こう側に、嫌な予感の相手が立っているような気がしてならない。 ――仕方ない。読もう。 「……」 『しょーくん江』 『今日は朝から生徒会のお仕事だよー。今から5分以内に生徒会室まで来れたら、豪華なお昼をご馳走しよう! さあ、生徒会室へ、レッツゴー!!』 『生徒会長より』 文面から会長の能天気さが伝わってくるようだった。 しかし……豪華お昼ご飯とは! 人の足元見やがって、あの生徒会長め! 「5分以内……」 メール着信時間がちょっと前だから、今から準備をして超ダッシュすれば間に合う。 豪華お昼ご飯のため。 そう、その為だ。 生徒会長の為じゃない。 「よし」 「今日も気持ちのいい朝だな、晶!」 「……? あれー? おーい、晶! どこ行きやがったんだー?」 「あれ?」 「……」 「お? 天音、九条」 「あ、か、葛木くん!? なななんで?」 ふたりとも起きたばっかりなんだろうか。 天音は俺のこと見つけると、何故かバタバタと両手を上下させていた。 九条はいつものように……いや、いつもよりもっと無表情。 「……うー。早い。ばたばたするな」 「あー、ごめん。ちょっと用事で急いでるから」 「……用事?」 「用事って、なんの? 朝ごはんも食べないで?」 「えーっと……」 ここで生徒会長に呼び出されたって言うと、ふたりとも嫌そうな顔をするんだろうか。 おまけに天音はすっごく怒るかもしれない。 そうなると5分以内に生徒会室に行くっていうのは無理になって、そうなると豪華お昼ご飯はなしになって……それは非常に困る!  「大事な用事なんだ! ごめん、俺急ぐから!!」 「怪しい」 「……またあいつが何か企んでるのかしら」 「失礼します!!!」 勢いよく生徒会室の中に飛び込むと、目の前にいきなりぐみちゃんが現れた。 「おはよーございますですー! しょーくんさん! 間に合いましたよ!」 手にしていたのはストップウォッチ。 にこにこしながら俺の目の前にかざしてくれた。 部屋の中を見渡すと、何故か茉百合さんだけがいない。 八重野先輩はいつもの如く、静かな面持ちでパソコンに向かっている。 「おおー! すごいぞしょーくん、4分58秒でのご到着だ! 豪華お昼ご飯ゲット!!」 「やった!!」 よっし! すごいぞ俺! 頑張った俺!  これで豪華お昼ご飯が食べられる!! 会長の言う豪華ってどれくらい豪華なんだろう。 俺が食べたことのない料理なのかなあ。 楽しみだなあ。 「さー。そんなしょーくんに、今日はとってもやりがいのあるお仕事です」 「し、仕事? なんですか?」 「はい、そこに置いてあるのね。それが仕事の中身です」 「え?」 「しょーくんさん、これどーぞ!」 にこにこしながらぐみちゃんが俺に手渡したのは、ノリだった。 形はよくある、グーっと押したら出てくるタイプのノリ。 しかし大きさが尋常じゃない。間違いなくカバンに入らない。 重さも大きさも、ペットボトルくらいだ。 「……これは」 「君が持っているのはノリ。そこにあるのはダンボール。知らない?」 「そんなの見ればわかりますよ。そうじゃなくて」 生徒会長の顔がすごくニコニコしている。 いや、これはニコニコなんてもんじゃない。ニヤニヤって表現の方があっている気がする。 俺の中の何かが言った。 会長が楽しそうにしているってことは。 なんだか面倒な事をふっかけられる可能性が高いということだ。 「今、思いっきり防災訓練って言いかけたじゃないですか!」 「いやいやいや、まだ秘密♪」 「奏龍、ここで作業されると邪魔だ。他の部屋でやってくれ」 「は、はあ……」 なんだかよくわからない。 しかし、豪華お昼ご飯だ。 豪華お昼ご飯が食べられるんだから、とりあえずついて行っておこう。 「あ、そうそう。ダンボール、そっちのもね」 「へ?」 「こっちでーす!」 言われて指さされた方を見てみると、そこには3つのダンボールが置いてあった。 ということは、合計4つ。 しまった……これは早まったかもしれない。 俺はやはりこの人に騙されたのか? 「あの、こんなのひとりで運べませんが」 「あ、そうなの? 仕方ないなー」 「はい! それでは、ぐみがお手伝いします!!」 「ああ……なんといういじらしさ! しょーくん聞いた、今の。こんなか弱い女の子がダンボールを運ぶなんて言ってるんだよ……うぅう」 「…………」 「ありがとうございまーーす!! ぐみ全然平気でーす」 「こんなに細くて小さな手にダンボール持たせるなんて! しょーくんがそんなダメな男とは思わなかったぞ!」 「いや、だから。生徒会長が手伝ってくださいよ」 「何を言う! 俺はゲーム機よりも重い物は持たない主義だ! 何故なら、深窓の令息だからな!」 「はああ……」 「はい! ぐみがその分持つから、生徒会長はそれでよいのです!」 「うわああん、その心意気だけで僕は! 僕は涙が出ちゃうぞ! だって生徒会長だから!!」 「うわああん、か、会長ー!」 だめだ。話がすすまない。 それにしても、ぐみちゃんは何故こんなにも会長を崇拝してるんだろう。 呪いか? 代々ぐみちゃん家に続く呪いとかなのか? 無体な生徒会長に仕えなければならぬ、悲しい呪い……。 って、そんなのあるわけないか。 「あー、もうわかりました。2回に分けて俺が運ぶから」 「うう…なんてお優しいんでしょう、しょーくんさん。さすが秘密へーきです。せめてノリはぐみが持ちますね」 「それでは、別の教室にレッツゴーだ!」 「はーい、ごーごーでーす」 「……はあ」 「はーい、ここだよー」 「到着でーす」 「はあ……ここ、ですか」 「さて、それじゃあ箱の中身をどうぞー」 「開ければいいんですね」 「……な?」 ダンボールの中いっぱいに詰まっていたもの。 それは見覚えのある形だった。 だけど、完成形ではない。 針金で作られた輪。下のほうは棒状になってるそれ。 夜店で金魚すくいとかに使われるアレだ。 ただ、紙が貼ってない。このままじゃ金魚がすくえない、ただの輪っかだ。 「これねー、正式名称『ポイ』っていうんですよ」 「え、そうなの? それは初めて知った」 「今日のしょーくんのお仕事は、それを作ることです!」 「頑張ってください! 説明書もここにあります! あ、これぐみが作ったんですよう。わかりやすくできたと思います!」 説明書とやらは、図解入りで確かにわかりやすかった。 っていっても、この輪っか……ポイに紙を貼るだけだけど。 「いやいやいや……これって防災訓練と何の関係があるんですか!?」 「しーっ! しいーっ!!」 「はい?」 「ん? 防災訓練って何のこと? 俺そんなこといったっけ?」 「――ほんっとにあんたって人は」 腹の中から湧き上がる怒りを、どこに持っていけばいいのか。 絶対に、今俺の背後からは炎があがっているはずだ。 しかも黒いのが。 「は! まあま、とりあえずこれでも食いたまえ! うまいぞ!」 口の中に広がる、この味は……懐かしくもあり、昨日も食べた気もするあのお菓子だ。 「もぐぐ……い、いきなり突っ込まないでください! ちっとも味わえないじゃん」 「晶くん、忘れては困る! その仕事が終われば、豪華お昼ご飯!」 「は! 豪華お昼ご飯!!」 そうだ。豪華お昼ご飯だった。 が、頑張らないといけない……んだけど、ひとりでこれ全部作るの? お昼までに終わるの? 終わらなかったら俺のお昼ご飯はどうなるんだろう。 大量の『未完成ポイ』がつまっているダンボールを目の前にすると、一瞬目の前が暗くなった。 どうしよう。 ――今、何時だろう。 あとどれくらいで出来るか、簡単にでもいいから頭の中で考えてみないと。 「……ん?」 ちょうど時間を調べようと、携帯端末を手にした瞬間だ。 メールを知らせる着信音が鳴った。 「誰だろう?」 『どうしてさっき、言わなかったの!?』 唐突で、そしてたった1行で終わってる文章。 何だか背中がざわざわする。 送信者の名前を見ると――天音だった。 「聞いたわよ、生徒会室に向かったって! どーせまた会長のつまらない企みに巻き込まれたんでしょっ!!」 ものすごい勢いで駆け込んできたのは、天音だった。 おまけにその後ろには、おろおろした稲羽までくっついていた。 「あま、天音ちゃん、そんな決めつけちゃダメだよう、ほんとに重要な用事かもしれないのに…」 「…………」 ごめん、稲羽。 何だかわからないけど、稲羽のフォローは間違っている。天音が正解だ。 隠しようもない、ダンボールいっぱいの『ポイ』。 これを一体どうやって、重要な用事と説明できようか。 「――……」 「あ〜天音! なんだやっぱり妹センサーで僕のとこ来てくれたの?」 「はあ!? い・も・う・と・センサー!?」 「いやあ、お兄ちゃんが忙しくなるとセンサーがぴぴっと反応して、どんなに遠くからでも助けにきて…」 「ひゃあああ」 ああ、この人はどうして自ら火に油を注いでしまうんだろう。 天音の強烈なキックでひっくり返った会長はひとまず置いておくとして。 あれを食らわない為に俺が何をすべきかを、考えるべきだ。 「あ、あのな……これには深いワケがあって……」 「それがそうにもいかない、深いワケがあって……」 豪華お昼ご飯のため――とは言えないよな。 ここは黙っておく方がいいと、俺の本能が注意した。 「ねえ、このダンボールの中身って何なのかな?」 ナイスタイミングだ、稲羽! 思わずそう唸ってしまいそうになるタイミングで、稲羽が話題を変えてくれた。 「そ、そう。これを作るのを手伝ってくれって言われたんだ。こう、ぐるっと紙を貼っていくだけなんだけど」 「こ、これ全部!? 葛木くんひとりで?」 「に、なるんだろうな」 山積みのダンボールを見ると、俺もため息をつきたくなった。 ぶっ倒れてる会長と、心配げにその周りをぐるぐるしてるぐみちゃん。 どうあっても、俺の手助けをしてくれそうにはなかった。 「やっぱり無理難題じゃない。一体何に使うつもりなのかしら、こんなモノ」 「金魚すくい大会? それにしてもいっぱいすぎるね」 「そんな行事の予定はないわ」 防災訓練――とか言ってたのは、どうなんだろう。 なんだか秘密めいた感じだったから黙っておくべきだろうか。 その前に、防災訓練とこの『ポイ』の関係性がわからないんだけど。 「あのね、わたしこれから特に予定ないから手伝ってもいいけど、どうかな?」 「ほんとに!? それは助かる!」 「天音ちゃんはどうかなあ」 「私? べ、別に今日は予定ないけど」 やっぱりあの兄の妹というのは、辛く厳しく、そして何かを悟ってしまう立場なのだろうか。 「……手伝うわ。こんな量ひとりでなんとかできるモノじゃないでしょっ」 「ありがと!」 これは純粋に嬉しかった。 豪華お昼ご飯がかかってるから…だけじゃなく、本当に。 ひとりでこれを黙々と作るなんて、きっと途中で逃げ出したくなる。 巻き込む形になってしまったけど、稲羽と天音は強い味方だ。 「それじゃ始めましょ」 「了解〜♪」 「かいちょ、会長ー! 目を開けてくださぁい!」 目を覚ました会長が、顔をあげてその場でニコニコと笑った。 あれだけのキックを喰らってもこの笑顔。 ある意味王様だ。そして態度も王様だ。手伝う気などこれっぽっちもない。 「……手伝う気ないんでしょ」 「ううう、もう俺の味方はぐみちゃんだけなのか……う、裏切りものめー」 「何が裏切りものよっ!」 「ご、ごめんなさい」 「ひ、ひいいい」 「早河、各部活への定例会議の書類を作る。生徒会室へ戻ってくれるか」 「はーい」 「はぁあい」 「お前はいらん」 「あーあ」 唯一の味方、ぐみちゃんを失った会長は、うるうると涙を浮かべた目で俺たちの方を振り返る。 「うわあああん、俺会長だよね? だよね?」 「じ、自分が悪いんでしょ! く、くっつかないでちょうだいっ! もおお!」 会長は天音の同情をひこうとしているが、どうにも一方通行だ。 軽めとはいえ、またもや天音のキックを食らっていた。 「そういえば、天音はなんで俺が生徒会に呼び出されたってわかったんだろ」 「あー、それはね。天音ちゃんとたまたま食堂の近くで会った時に聞かれたの」 「聞かれた?」 「朝早くから葛木くんがでかけたけど、何だったんだろうって」 「あー、廊下で会っちゃったからな。でも稲羽はどうして俺が生徒会に行ったって知ってたんだ?」 「それも偶然。葛木くんが生徒会室に入ってくとこ見たの。なんだかごめんね、ややこしくなっちゃった」 なんとなく、想像がついた。 稲羽から俺が生徒会室に向かったって聞いた天音が、みるみるうちに表情を変えて走りだす姿が。 きっと稲羽はそんな天音の後ろを、おろおろしながら追っかけてきたんだろう。 「はいはい。ここにノリを塗って紙を貼り付けて、余った部分を切り取る。それだけでしょ」 「って、まだ1個目でしょお! お兄ちゃん不器用すぎっ!!」 「そんな事言ったって……俺こんな細かいこと……無理」 「ゲームはちまちまやってるくせに! はいもう一度最初から!」 「天音〜、せめて分担しようよお。作りやすいやつを見つける係りするからさ〜」 「また楽しようとしてっ! 私はそんな手には乗らないからねっ」 「ううう、ぐすぐす」 ついに根負けしたのか、会長はしゅんとなるとポイ作りを始めた。 集中しだすと案外その手さばきは早い。 天音もその向かいでポイを作りだした。 けど、会長が何か言い出そうとすると今にも噛み付きそうな勢いでにらんでる。 「あはは。なんかいいなあ、天音ちゃんたちみたいなの」 「え!? いいか!? どこをどう見てもよくないだろ」 「そっかなあ。なんかケンカばっかしてるけど、きっと本当は仲良しさんだよ」 「ねえ、葛木くんは兄弟っている?」 「いや、俺はひとりっこ」 「そっかー。じゃあわたしと一緒だね」 「だからかな? お兄ちゃんってちょっと憧れるんだー。葛木くんはそういうのない?」 「……あれはいらないな」 少なくとも、会長の姿を見ている限りあの『お兄ちゃん』はいらない。 いや、どんなのであっても兄はいらんな。兄は。 「あは、それは葛木くんが男の子だからかもね」 「まー、そうなのかもな。でも女の子はみんなそうなのか? おにーちゃん欲しいって」 「んー……やっぱりちょっとだけ、わたしが特別なのかも」 「特別?」 「双子のお兄ちゃん、いるはずだったから」 「えっ?」 どくん、と胸が鳴った。 稲羽はさらっと言って、にこにこ微笑んでるけど。 何故だろう、胸が痛かった。 「なーんて、まあいたらいたできっとケンカしちゃうんだろうな」 「あああ! これ全部反対になってる! もお、全部やりなおしじゃない」 「えー、もういいじゃん。そんなに変わりないよお〜」 「だって説明書にこう書いてあるでしょ!」 「天音ちゃーん! わたしたちのも合ってるか見てみてー!」 「はーい」 「この人数でやると、おしゃべりしてても進むの早いね」 「あ、ほんとだ」 俺と稲羽の前にも、できあがったポイが山を作っている。 天音と会長もなんだかんだ言いながら数をこなしてくれたおかげか、ひとつめのダンボールは残りわずかになっていた。 「すんげー助かるよ、思ってたより何倍も早くすみそう」 「そう? じゃあ残りもちゃっちゃとやっつけちゃいましょ」 「はーい!」 「そこ! さぼらない!」 「は…はい……」 こうして、ふたつめのダンボールが開いた。 このペースだと、昼すぎには十分終わりそうだ。 偶然だったけど、天音や稲羽が手伝いに来てくれて、本当に助かった。 会長……は頼んでも無理だろう。 せめてぐみちゃん手伝ってくれないかな。 助けを求めるようにぐみちゃんの方を見てみると――。 「早河、各部活への定例会議の書類を作る。生徒会室へ戻ってくれるか」 「あ、はーい」 「ああ……」 頼みの綱のぐみちゃんは去っていってしまった。 残ったのは、俺と――会長。 あとダンボール4箱。 「………」 「………」 「じ、じゃ、がんばって!」 「やっぱりな! やっぱり絶対手伝ってくれないと思った!」 叫んでみても、誰にも届くわけがない。 「……はあ」 どのくらいで終わるというのは、忘れておこう。 こういうのは黙々とやるのが一番だ。 「よーし、やるかー」 …………。 ………。 ……。 「……辛い」 延々と『ポイ』が視界に入る。 紙を貼り付けた完成『ポイ』と、針金だけの未完成『ポイ』。 右から左へと流れてゆく『ポイ』の流れに飲みこまれてしまいそうだ。 単純作業ということは、同じ動きがずっと続くということだ。 それはわかっていた。 誰もいないというのに、思わず叫びたくなってしまう。 「誰かたすけてー!!」 「はいっ」 「助けに来ましたよ、葛木さん!」 「あぁ、皇くんたら本当に晶くん一人に押し付けちゃったのね」 「水無瀬、茉百合さん!」 天使だ。 完全に天使だ。 その背中がうっすら輝いてるのは、俺の目のせいなのか? それともこの延々と続く『ポイ』地獄のせいで幻覚でも見てるのか? ぶんぶんと頭をふってみたけど、やっぱり目の前には水無瀬と茉百合さんがいた。 二人とも優雅な笑顔を浮かべながら、俺の横に座ってくれる。 「どうしたんですか? あの、仕事は…いいんですか?」 「いいの、今日は私はお休みをもらっていたから。学校には少し寄っただけだったのだけれど」 「そしたら、葛木さんがここで一人で作業しているって聞いたので、何かお手伝い出来ればと」 「そうね。三人でやればすぐに終わるでしょう」 「え、でもいいのかな……二人に手伝わせるなんて…」 「今日は待ち時間が少なかったから、時間が余っているんです。葛木さんのお役に立てるなら、有効な時間の使い方だと思いますよ!」 「桜子もこう言っている事ですし、遠慮しなくていいのよ」 「本当ですか? ありがとうございます…うぅ」 「もともとは私たちの仕事ですもの。そんなに感激されると恐縮してしまうわね」 微笑みながら言った茉百合さんに頭を下げた後、水無瀬の姿が視界に入った。 水無瀬はダンボールいっぱいの紙と枠を見つめている。 なんだか、その目がきらきらしている気がした。 もしかして、楽しそうだと思っているんだろうか。 「この紙を、こっちに貼ればいいんですよね?」 「あ、えっと、裏表あるので気をつけて」 「こっちが表よ、桜子。この説明書に書いてあるわ」 「あ、ほんとだ」 ふたりはダンボールに入っていた説明書を一緒に覗き込む。 ふんふんと頷きながら説明書を読む水無瀬。 その水無瀬にいろいろと説明してあげる茉百合さん。 なんだか、とても自然に仲良しだ。 「うん、この量だったら、三人で手早くやればすぐに終わりそうね」 「そうね、頑張りましょ」 「いやもう、俺は話し相手が来てくれただけでも、すごく嬉しいです!」 「そうなんですか?」 「そうですよ……一人だけで単純作業していると気がめいるっていうか」 「話しながらだと、気がまぎれますものね」 「あぁ、葛木さんの言うことはなんだかわかる気がします。私もお喋りしながらだと楽しいですし」 「ふふ、桜子、手はちゃんと動かして下さいね」 「もう、動かしてますよ。まゆちゃんは時々いじわる言うんだから」 「意地悪じゃないわよ、桜子はお喋りに夢中になるといつも手が止まるじゃない?」 「む〜」 ああ、これが女の子同士のやり取りなんだ。 きっとふたりはいつもこうやって話してるんだろうな。 なんだか、ふたりの仲の良さを盗み見してるみたいな気分だけど、自然と顔が緩んでしまう。 「あ、もう、葛木さんまで! まゆちゃんのせいよ?」 「くすくす…」 「あ、いやあの! ふたりって本当に仲良しなんだなーと思って。小さい頃から友達だったんですか?」 「いいえ、そこまで小さい頃からというわけではないのよ。確か4年くらい前だったかしら?」 「そうだね。懐かしいね」 「ええ」 水無瀬が懐かしそうに微笑む。 そして、茉百合さんはそれを優しく見守っていた。 ああ、ふたりはやっぱり特別な友達なんだ。 目の前の表情を見ていると、それがすごくよくわかる。 「………なんかいいな、そういうの」 「そうですか?」 「うん、ほら男と違ってさ、女の子の仲良しふたり組ってさ……」 「ほらほら、二人とも。手が止まっているわよ」 「わわっ」 「あ、すいません」 注意されて、俺と水無瀬は慌てて作業を再開させた。 ふっと、水無瀬の顔を見てみると、向こうも俺を見ていた。 思わず笑いあってから、俺たちは手を動かす。 あれ、そういえば確か……。 「茉百合さんって、俺や桜子よりひとつ上の学年ですよね」 「ええ、そうよ」 「あ、じゃあ二人って、学校で知り合ったわけじゃないんじゃ……」 「え? 葛木さんすごい! どうしてわかったの?」 「いや、水無瀬が茉百合さんのこと、『まゆちゃん』って呼んでるから……もしかしてそうかなーって」 「晶くんはなかなか鋭いのね。確かに学内では、上の学年の先輩をそういう風には呼ばないと思うわ」 「私だって、たくさん人がいる前では茉百合さんって呼んでます」 「時々、気が抜けている時があるけれどね」 「だって今でもまゆちゃんって呼んでいる時の方が多いんだもの」 水無瀬も茉百合さんも、どっちもいつもと違う。 水無瀬はいつもより子供っぽく見えるし、茉百合さんはなんだろう、近寄りがたい何かが水無瀬の前では消えてしまう。 やっぱりこういうのって、女の子同士の仲のよさなんだな。 まるで姉妹みたいだ。 「あ、これで一個目のダンボールは終わりだ」 「残りは三つですね、頑張りましょう!」 「桜子、大丈夫? 疲れていない?」 「全然大丈夫ですよ。じゃ、私次のダンボールを持ってきます!」 「あぁ、いいよいいよ! 俺が持ってくるって」 「わぁ、残りはまだまだいっぱいありますね」 「そうね。皇くんも大変な仕事を作ってくれたものだわ。仕方のない人ね」 「これ、何に使うのかなぁ? また何か楽しい行事をするのかしら? なんだか楽しみ!」 「桜子は皇くんのやるイベント、好きよね」 「だって楽しいんですもの」 「桜子のその、何でも楽しく受け止められる所はとってもいいと思うけれど。無理はしちゃだめよ?」 「うん、わかってる」 ふたりが喋っていると空気がとても和やかになってく。 見ているだけで心があったかくなるみたいな、そんな気持ちにさせてくれるような。 このふたりのファンだって、周りで見ている女の子たちがたくさんいるけど。 その子たちも、こんな気持ちになっているのかもしれないな。 「……よし」 このペースだと、昼すぎには十分終わりそうだ。 「時間が気になります? お昼には間に合うんじゃないかしら?」 「あ、はい。二人のおかげです。本当にありがとうございます」 「どういたしまして」 水無瀬も茉百合さんもにこにこしながら、新しいダンボールをあけてくれた。 二人が手伝いに来てくれて、本当に助かった。 「……ん?」 何か、今物音がしたような―― 「ぐみちゃん、机こうやって合わせたほうが作業しやすいよね」 「そうですね、作業スペースは大きいほうがいいですよねぇ」 会長とぐみちゃんが机をガタガタと動かしているけど、その音じゃない。 誰かが廊下を通ったのとも違う。 何だろう。強いていえば、誰かがジャンプしたような音だろうか。 「なあ、今なんか音しなかった?」 後ろめたいことでもあるのか、会長は顔色を青くして廊下を覗きにいった。 「副会長いらっしゃいましたぁ?」 「ううん。ていうか、誰もいないよ……誰も……」 「なんだ、気のせいか」 「……あの……あの」 「ん?」 「ぐみ、フィクションで呪いとか殺人とか落ち武者の祟りとかはとってもスキなんですけど……」 「落ち武者?」 「え、えええ!? ぐ、ぐみちゃん?」 何かがぐみちゃんのスイッチを押してしまったようだ。 手にしていたノリを放り投げて、恐るべきスピードで駆け出していった。 残ったのは、俺と……会長。 あとダンボール4箱。 「ああうあう、じゃ、じゃあ俺もー! しょーくん頑張ってー!」 「…………」 やっぱり手伝ってくれる気は全くないんだな。 まあ、会長がいても邪魔になるだけだろう。 大量の未完成『ポイ』。 これをひとりで仕上げるのか。 昼までに終わるだろうか――いや、無理だろうな。 せめて昼すぎと言える時間までには終わらせたい。 そうじゃなきゃ、腹へりすぎで気絶してしまいそうだ。 「……はあ」 どのくらいで終わるというのは、忘れておこう。 こういうのは黙々とやるのが一番だ。 「よーし、やるかー」 …………。 ………。 ……。 「……辛い」 延々と『ポイ』が視界に入る。 紙を貼り付けた完成『ポイ』と、針金だけの未完成『ポイ』。 右から左へと流れてゆく『ポイ』の流れに飲みこまれてしまいそうだ。 単純作業ということは、同じ動きがずっと続くということだ。 それはわかっていた。 わかっていなかったのは、同じ動きがずっと続くことが、これほどまで苦痛を伴うということだった。 「……」 「えっ?」 「……」 「うあああ、びっくりしたー!」 「ひゃ、へ!?」 「ご、ごめん、いきなり後ろに立ってるもんだから――」 「ひゃぁあああ」 「え、あの、どうしたの?」 悲鳴をあげるのは俺の方のはずだ。 物音ひとつたてずに、そっと後ろに立たれてたんだから。 「ええええ!?」 ためらいない直進だった。 それはもう、ほんの一瞬の迷いもなく。 思いっきり壁にぶつかっていた。 「あ、ううう……」 「ちょ、だだ、大丈夫?」 「は、はひ……」 「えっと、すずの…だったよな」 「――っ!!」 どうしたんだろ。 どこか打ち所悪かったんじゃないだろうな。 やたらとキラキラした目をしてるけど…… 「ほんと、大丈夫?」 「はははい! 大丈夫れす」 「うん、それなら良かった」 だけど、どうしてこのすずのはこの教室に来たんだろう。 間違って入ってきたのかな。 頭をなでながら立っていたすずのは、ふっと俺の手元に視線を落とした。 「…………」 「……」 「……ふ」 「ふ?」 「……ふしぎなもの」 「あ、これのこと?」 延々と作りつづけている『ポイ』を見つめて、すずのは頷いた。 「これは『ポイ』っていって、金魚すくいとかに使うやつ」 「きんぎょすくい?」 「え? 金魚すくい、知らない?」 こくこく。 また大きな頷きだけの返事。 金魚すくいを知らないなんて、もしかしてずっと外国にいたりしたのか? 「ほら縁日…お祭りとかでやってるやつだよ。水槽に金魚がぶわーっと泳いでるのを、こいつでガッとすくうの」 「ぶわーっで、ガッと……」 「ま、今回は金魚すくいで使う感じじゃなさそうなんだけどな」 ああ、まだまだ残りは多い。 延々と続けていても、終わらないんじゃないかって思えてくる。 思わず深いため息をついた時、目の前の椅子にすずのが座った。 「……?」 「これと、これ」 すずのはそれがまるで珍しいものみたいに、恐る恐るノリとハサミを手にした。 「これを使って、作るんですか」 「うん、そうだけど。手伝ってくれるのか?」 「は、はい……だめですか」 「いや、そんなことない! すっごい助かる!」 本当にいいのかな。 間違ってこの教室に来ただけかもしれないのに、こんな作業に付き合わせるなんて。 そう心配する間もなく、すずのは真剣なまなざしで『ポイ』作りを始めた。 作り方はどうやら俺のやり方を見て覚えたようだ。 「これで、あってますか」 「うん、完璧。ありがとな」 「……はい」 ………………。 …………。 ……。 右へ左へ、再びポイを作り続けて半時間。 ついに1箱ぶんの『完成ポイ』ができあがった。 「よっし! やっと1箱終わったよ。やっぱふたりだと早くなるな」 「ほ、ほんとですか? それならうれしい……」 「残りはどれくらいですか?」 「あれですね」 俺がダンボールのある方を指差したとたん、すずのがくるりと身を翻した。 自分でそのダンボールを取りに行こうとしたんだろう。 「あ、運ぶのは俺がやるから――」 「ええええ!?」 またもや、すずのは直進していった。 机なんか見えてないかのように、飛び込んでいった。 あたりまえだけど、すずのは腰のあたりを思いっきり机にぶつけて転んでいる。 さっき頭を打ったばかりなのに、大丈夫なのか。 「ちょ、だ、大丈夫か?」 「あいた……ううう」 「立てる?」 「うう…、は、はい。たちます…」 ぷるぷる震えながら、すずのは立ち上がった。 よっぽど痛かったのか涙をいっぱい溜めている。 「ダンボール運ぶのは俺やるから、座ってて」 「すみません」 すずのはちょこんともとの椅子に腰掛けた。 涙を指先でぬぐってから、机の上のノリやハサミを手にしだした。 「大丈夫なのか? 無理しなくていいよ」 ぷるぷる。 頭を横に振ったすずのは、ハサミを持った手をぎゅっと胸元に引き寄せた。 「いいえ、やります」 「でも」 「やりたいです。お手伝い」 「それは助かるけど、無理すんなよ」 「はい、しませんです」 にこっと笑うすずのは、再び『ポイ』を手にした。 紙を切って針金の輪っかに紙をはりつけて。 さっきまでと同じ単純作業だった。 だけどなんだか楽しい気分になったのは何故だろう。 「ぬりぬり…っと。ここはちょっとずつちょきっと……」 「なんか早くなってきたよな、作るの」 「ほんとですか、ふふ、上手になったのかな」 「俺もそんな気がする。あと半分か、頑張らないとな」 「はい」 やっぱりふたりでやるのはいいもんだ。 できあがってゆくスピードもだけど、なんだか時間がたつのが苦じゃなくなった。 なんかちょっと不思議な感じだな。 「あー腹いっぱいだ!」 無事に『ポイ』作りを終え、約束の豪華弁当にもありつけた。 時間は昼をちょっと過ぎてしまったけど、空腹はもうどこかへ飛んでいってしまった。 「やっぱお腹が空いてるときに食べるご飯はうまいなあ」 仕事は終わったし。お腹はいっぱいになったし。 後は帰って昼寝でもすれば完璧な休日ってところかな。 「……でね、それって屋台っていうんだよ」 「屋台? 初めて聞きましたわ。じゃあわたくしが見たあの不思議な食べ物は……?」 「ああ、あれは『たいやき』。お祭りとかでもよく売ってるの。すっごい美味しいんだって」 「たいやき?」 「そうなのね」 「うん、3時になったらいただきましょっか」 「………たいやき」 休日でも、部活で学校に出てきている生徒はいるらしい。 いや、そんなことよりも大事なのはたいやきだ。 たいやきのような屋台ものは、売っている屋台が来ないと食べられない。言わば期間限定商品だ。 それはぜひどこにあるか聞いておかねば! 「ちょっと待って! その屋台―――っ!」 「うそっ!?」 たいやきと焦りと階段の角度が、最悪のタイミングで重なりあってしまった。 こういう時は何故かやけにスローモーションで…… 思いっきり階段を踏み外している自分の足がばっちり見えた。 「…っ!!」 ゆっくりと体が傾く。 ま、まずい、これは…自分ではどうしようもないかも。 つまり、落ちる――!!! ここから階段を転げ落ちたら、相当痛いに違いない。 これはちょっと……やばいんじゃないだろうか。 あ、何だろうこれ。 これってまさか、走馬灯? 空が見える、周りに橋が見える。俺がさっきまでいた階段じゃない。 これ…どこだ? 眩しさに目を閉じようとしたら、突然大きな影が視界を遮った。 大きな何かがこちらに近づいてくる。 『――大丈夫、わたしが必ず助けるから……!』 人だ。 大きく見えたのは羽根のようなものが広がっているからだった。 そして、その人は俺に手を差し伸べてくれている。 ゆっくりと手を伸ばす。 その手を、誰かがしっかりと掴んでくれた。 『大丈夫、だから――』 誰なんだろう…? 後ろが眩しくて、顔がよく見えない。 だけど何故か、覚えていた。 その手はすごく柔らかくて、俺をしっかりと掴んでくれていることを。 「――誰だ?!」 「……あの」 「あ、あ、あれ? あっ……」 絶対に落ちた――と思ってたのに。 俺はさっきと同じ階段の上に立っていた。 手を見ると、すずのがしっかりと握り締めてくれている。 「だい……じょぶ?」 「あ! もしかして、すずのが助けてくれた?」 すずのは控えめにこくこくと頷いた。 こんな細い腕で、よく引き戻してくれたものだ。 「……引き戻して?」 ふと足元に視線を落とす。 俺はしっかりと、階段の踊り場に立っている。 じゃあ、さっきのはなんだったんだろう。 ……白昼夢? 「……っ」 「あ、ちょっと待っ――」 「いったたたたた」 「えっ?」 すずのが走っていった先で、稲羽が床に尻もちをついていた。 うずくまる稲羽を、すずのが慌てて起そうとしている。 「い、稲羽! 大丈夫か?」 結衣はすずのに軽く笑いかけると、元気よく立ち上がった。 大げさに手を振って、なんでもないというポーズをとってみせる。 そして、そのまま慌てて廊下の先へ走って行ってしまった。 「たーいーやーきーぃぃ〜!」 …………たいやき? 「なんだ、稲羽もかよ」 俺も走って追いかけようとしたんだ。 さっき話してた誰かに屋台の場所とか聞いて、そこへ行って、それから…… そう思っているのに、足が動かなかった。 「……」 さっきのは、本当に夢だったんだろうか。 自分の両手をまじまじと見つめてみる。 誰かに手を握ってもらった感触は、確かに夢じゃなかった。 でもそれはさっきの、階段の上ですずのに握られた時の記憶じゃない。 そうだ、あれは、花火が爆発した時のことだ―――。 誰かが俺の手を握ってくれた。 『大丈夫』と言って微笑んでくれた。 あのとき、俺、誰かに助けられたんだ……? 一体、誰に助けられたんだろう。 何だかそれが、とても大事な事のようで無性に気になってしかたなかった。 「あ、あの……」 「あ!」 「大丈夫、ですか…? あの……」 あまりに呆然としていた俺を心配したのか、すずのが泣きそうな顔でこちらを見ている。 そんなに長い間、ぼーっとつっ立っていたのだろうか。 「あ、う、うん。大丈夫」 答えると、ようやくすずのは安心したようにこくこくと頷いた。 なんだかおかしな気分だ。 俺はすごく気になっているのに、夢の中のような事で現実だったのかどうかもわからない。 この手に残る感触も、さっきすずのに引き戻してもらった時のものってだけかもしれない。 そんな不確かな事なのに……。 「あの、さっきは本当にありがとな」 こくこくこく。 良かったとばかりに強く頷いてくれたすずのに別れを告げて、俺はそのまま寮に戻ることにした。 でも、本当に、なんだったんだろう……。 あまり深く考えても無駄だとは思う。 だけど、その日は一日中、顔もわからない誰かのことが頭から離れなかった。 「……なさい、起きなさい、はやく!」 「葛木さーん、目を覚ましてくださーい」 ……ん? なんだろう。この声はマックスじゃないよな。 「起きろ」 女の子の声。 間違いなく、女の子の声だ。 ああ、ここは女子寮だったっけ。 女の子に起こしてもらうなんて、なんか恥ずかしいな……でも。 ちょと嬉しいかもって…… あれ? 誰が? どうして? 「意識レベルが低い。仕方ない……」 「外したか」 「……」 「おはようございます」 「――えっ?」 ここに来て初めて女の子に起こしてもらった……なんて喜んでる場合じゃない。 視界がおかしい。 おかしいっていうか、世界が反転している? どうなってるんだ? なんだか体も動かないみたいだけど―― 「えええええええ!?」 ほんのちょっとだけ動く首を巡らせてみると、俺は両手両足を縛られたうえに、逆さまにされていた。 この状態をなんていうのかだけは知っている。 逆さづりだ。 でも、なんで? 「俺いま何? どーなってるの?」 「正直に話しなさい」 「ちょ、なんのこと? てか、何でこんな格好に……」 「問答無用」 「うわああ、ちょっと待て待て待て!」 「あの、俺は今何故こんなことになってて、何でみんな怒ってるの!?」 「しらばっくれるのね」 「……見苦しい」 「ち、ちが、違う、意味わかんない! 何が起こってるの!?」 「ねえ、天音さん。もしかしたら無意識でなさったことなのかも」 「無意識に!?」 「ますます危険。粛清」 「ちょっと待って待って待ってー!! 説明してくれー!」 精一杯の抵抗をしても、手足がグルグル巻きになってる俺はほんの数センチしか動けない。 逃げられないんだ……いや、逃げる理由もわからないけど。 「あのですね、くるりさんの下着が今朝から見当たらないんですって」 「は、はい!?」 「外に干してあったのよね」 「うん」 「え? そ、それと俺がこんなことになってるのと、どんな関係が――」 「お前だ」 「……!?」 「お前しかいない。下着泥棒」 「下着泥棒お!? 待て待て待て! 知らないって! 俺じゃない」 ようやくこの状況が理解できた。 九条は完全に俺のことを疑ってる。というか、もう犯人と決め付けられてる。 そのせいで逆さづりにされてる……のか。 「容疑者がそもそもお前しかいない」 「ちがっ! あ、風で! 風で飛ばされたとかじゃないのか!?」 「もちろんその可能性も考えたわ」 「一応、そういった場所はみんなで探したんですけど……ね」 「……えっ?」 「結果、お前が犯人」 「本当に信じられないわ……まさかこんなことが起こるなんて」 「でも、どうしてなんでしょうね」 だめだ。 話の方向がもう俺が犯人という流れになっている。 どうすれば……どうすればいいんだ。 このままじゃ俺はこのまま、こんな恥ずかしい格好のまま、あの恐ろしい熱光線に焼き尽くされてしまう。 おまけに下着泥棒なんて恥ずかしい濡れ衣で…… いやだ。そんなのはいやだ……。 誰かわかってくれよ……。 「……」 「天音ぇ……」 「軽蔑したわ!!!」 「えーー」 「本当にそんなことする男の人がいるなんて信じられなかったけど、まさかこんな身近にいたなんて!!」 「いや、だから俺やってな……」 「見損なったわ! 最低! こんなことする人だなんて思わなかった!」 「聞いてくださぁーい」 「男の人なんて、きっとみんなそうなんだわ! もう男なんて信じられない!!」 だめだ。全然俺の話を聞いてくれてない。 俺の意見というか、むしろ俺の存在まで否定されてる気がする……。 しかも聞く気が全く感じられないし、多分聞いてくれても俺の意見は頭っから否定される気がする。いや、気がするんじゃなくて、間違いなくそうなるな。 「多少能天気ですぐ騙されそうで、いつもごはんのことばっかり考えててちょっと変なひとって思ってたけど――」 「えええ、変なひとって思ってたの!?」 「礼儀や品性を疑ったことはなかったわ! ああ、私のバカ! バカ!」 「おーい。天音さーん」 「私の名前を呼ばないでよ! あなたみたいな人に呼ばれたくないわ!!」 「いや、あのさー」 「ああもう! どうして寮に入るのを許しちゃったんだろう! やっぱり本当はだめだったんだわ!!!」 「そこまで行くの?」 「素直にくるりの言うことを聞いておけば良かった」 ああ、だめだ……。 逆さまの視界の中の天音は、ますます怒ってる。 むしろ自分の言葉で自分をヒートアップさせてる気がする。 俺の言葉なんてもうまったく聞こえてないんだろうな。 聞こえたとしても、ますます火に油を注ぐことになる予感がする。 ああ……なんだかクラクラしてきた……。 「……」 「……」 水無瀬なら、きっとわかってくれる! ……ような気がするんだけど、甘かったか。 じっと俺を見つめて首を傾げてるけれど、やっぱり疑われてるのかな。 「葛木さん、質問です」 「は、はい」 「下着欲しかったんですよね? お店で買うのはダメですか?」 「へ?」 「あ、やっぱりそういう場所は、ひとりだと恥ずかしいですか?」 「いや、あのー。水無瀬さーん」 「だったら私が一緒に行ってあげます!」 「ち、違う、ほんっとそういう話じゃなくって」 ズレてる、完璧にズレてる。 水無瀬の頭の中の俺は、下着を欲しているようだ。 違う。断じて違う。 誤解なんだ最初っから――と言いたかったけど、頭がクラクラしてきた。 「だから、下着はくるりさんに返してあげてくださいね。やっぱり自分のものって愛着がありますから」 「ち、ちがっ……」 うわ、すっごい微笑んでる。 普通の状態ならちょっとどきっとしてしまうような、天使みたいな微笑。 ああ、でも。 今の俺には別の意味で天使かもしれない……。 頭に血がのぼってきて、もうダメだ。 視界がぐらぐらしはじめた……ああ……。 「く、九条……」 「……」 「ひ!」 怖い……九条の目が怖い。 この目は人を見る目じゃない。まるで俺を物かなにか……いや、物ならば、もっとまともな目で見てもらえているだろう。 そうだ、今の俺は九条の中では物ですらない。 見ているだけでも嫌悪するような虫を見るような目。あの目はそうとしか思えない! 「所詮はただのオスか」 「は、はいいい?」 「寮に招き入れてやった恩も忘れてこの仕打ち……!」 「ぎゃー!!!! 熱い熱い!!」 九条の髪飾りが生き物のように動き出して、そこからビームが噴出した。 しかも致命傷を与えるような強烈なのじゃない。 じわじわと痛めつけるような地味にきくやつだ。 完全に地獄だ。 これを地獄といわずして何といおうか。 「黙れケダモノ!」 「ぎゃー!!! あつっ! あつ! さっきより熱っ!」 「黙って返せば、このくらいで許してやる」 「か、返せって、俺盗ってないし!!!」 「呆れた大嘘つきだな!」 「ぎゃーーー!!!!!」 「盗んだことを正直に話せばまだマシなものを、そんな嘘をつくとは……!」 「言い訳無用」 「熱い! 熱っ! 死ぬ! 死ぬから! やめてえええ!!」 俺の言葉なんてもうまったく届かない。 いや、たとえ聞いてもらえたとしても、ますます火に油を注ぐことになる予感がする。 ああ……なんだか意識が遠のいてきた……。 さようなら俺の人生……。 「ほんとに……」 だめだ。このままじゃ永遠に誤解が解けない。 「ほんとに俺じゃ……」 「もう言いたいことはないわね?」 そして俺は、この誤解が解けることなく、情けない格好のままで短い生涯を強引に終わらされてしまうんだ。 「葛木さん……素直になった方が……」 「だから、俺は……」 「問答無用」 ああ! もう!! 誰でもいいから俺を助けてくれ! どうにかしてこの場から俺を解き放ってくれ!! 「これ以上の言い訳は認めないわよ! 悪と無駄口は許さないから!!」 「ちょー! 俺、悪扱い!?」 「覚悟しなさい!!!」 天音が強く拳を握り、ばっと足をあげて構えた。 ぎりぎりと音がしそうなほど高くあげられたかかとから、オーラが見えた。 なんだあれは。怒りのオーラか? いやいやいや! そんなことを冷静に見ている場合じゃない! なんとかしないと本当に死ぬ! このままじゃ、俺が即死してしまう! 「ほんとに聞いてくれ! 俺じゃないんだー!」 「はああああ……」 振り上げられた足を勢いよく天音が振り下ろそうとした。 「ひい!!」 もうだめだ。 さようなら、俺の短い人生。 できれば死ぬ時はお腹いっぱいが良かったよ……。 だがしかし。 天音の足が俺に届くよりも先に、窓の方から能天気な声が聞こえてきた。 「おー、みんな揃ってどうしたんだー? なんかもめてんのか? 理由は知らねえが、ケンカはいけねえぜ!」 「ま、マックス……?」 「おう! いやあ、気持ちよく目覚めて、外を見たらすげーいい天気だからよ、思わず散歩に行っちまった!!」 「……………」 「天気がいい日はいーことあるよな! いい感じの頭部カバーも拾っちまったぜ!」 「……」 「……」 「……」 「あれ? なんだ、みんなどーした?」 「だから……俺……言ったじゃん……」 最後の力をふりしぼり、俺はそう言った。 「た、た、大変! 葛木さん!? し、しっかりしてください」 「28号。救出準備」 「ご、ごめんなさいぃ……」 「はあああ……」 今朝は散々な目に合った。 あそこでマックスが戻って来なかったら、今ごろどうなっていたんだろう。 やっぱり、俺の人生はあそこで終わっていたんだろうか。 いや、終わっていなかったとしても病院送りくらいにはなって、そのまま退学なんてことに……。 考えるだけで恐ろしい。 「……」 ちらりと天音の方を見たけど、なんだか申し訳なさそうにうつむいたままだった。 「おはよう、葛木くん」 「……おはよ」 「あれ、どうしたの? 元気なさそうだね。何かあったの?」 「んー、いや、ちょっとね……はぁ」 説明するにはあまりに悲劇的で、あとちょっと惨めだ。 余計な事は言わないようにしよう。 「なんでもない」 もう今朝のことは忘れてしまおう。 「あれ?」 授業の準備をしようとカバンを開いた時だった。 ……ない。 やっぱり、1時限目の授業に使う教科書がない。 「あ…っ……あ〜〜〜…教科書、忘れた……」 もしかして、朝のどたばたのせいで忘れたのかもしれない。 ああ……今日は散々だ。 「おいおいどーしたよ晶? 忘れモンか? いっけねーな! テキストならオレが見せてやるよ!」 「見せてって、お前いつも教科書持ってないだろ…」 「あったりめーよ! なんせ教科書のデータは全部入力されてっからな! いつでも頭の中にあるんだぜ!」 「頭の中? それってどうやって見られるの?」 「――ってそっかー! じゃあ見せらんねーじゃん!! そんな! オレの高性能がアダに! マミィー!」 「あーあ、もういいよ…」 「葛木くん、あのよかったら、わたしの教科書見る?」 「え…いいの?」 「うん。机、こうやってくっつけたらいいよ!」 言いながら、稲羽が机をくっつけてきた。 隣あわせに座ってから、稲羽は教科書を机の上に置いてくれた。 「ありがとう」 稲羽は突然恥ずかしそうにうつむいてしまった。 なんだろう、何かあったのかな。 あ、もしかしたら、あんまりくっつくと恥ずかしい……か。 「あ、机くっつけるのとかやっぱ、ヘンだよな。子供じゃあるまいし」 困ったように言いながら、稲羽は頭を抱える。 何がなんだか、わからないけど……どうしたのかな。 「あ、あのね。わたしの教科書ヘンかもしれないけど気にしないで!」 「ヘン?」 何がヘンなんだろうと思った瞬間。 稲羽が教科書を俺に差し出した。 「………なに?」 受け取った教科書をぱらぱらと開いてみた。 ページをめくっても変わったところはない。 でも、ひとつ気づいた事があった。 「………え」 教科書に載っている作品には、最後に著者の写真がある。 その写真のほぼ全てに、ちょんまげの落書きがあった。 「なんでちょんまげ?」 「違うのっ! 似合うかなって思ったらつい! つい出来心で!!」 真っ赤になった稲羽が頭を抱えていた。 相当恥ずかしいらしい。 しかし落書きとはいえ、なかなか上手だった。 ただのちょんまげではない。その写真にあわせてバリエーションがあるのだ。 「………気持ちはわからないでもない。この人、似合ってるよな」 「えっ!!」 「こうも立派に似合うとなあ、もう何も言えないっていうか……あ」 思わずシャーペンを取り出し、ちょんまげが落書きされている写真にひげを追加した。 うん。我ながらよくできている。 殿様って感じだ。 「よし」 「ふおあぁぁ!! す、すごくお殿様っぽいヒゲが!」 「それ、何かが足りないと思ってたの! ヒゲだったんだね?! ヒゲだったんだ!」 「なんだよなんだよー? 二人して盛り上がっちまってよー」 「いや、この人殿様だよねって話」 稲羽の教科書を見せながら言ってみる。 しかしマックスの反応は薄かった。 「え? 殿様じゃない?」 「葛木くんがすごく殿様にしてくれたんだよ! あぁ、ここ剃れたらなあ、完璧にお殿様になるのに」 「そ、剃るのかよ?」 「なんか本格的だな。稲羽、殿様好きなの?」 「うぬっ、そ、そんなことないー! ただの、ただの落書きだから、はいっ!」 慌てたように稲羽は教科書を閉じた。 せっかくの殿様コレクションだったのに。 「なんだよ、もー終わりかー?!」 「まあ、もうすぐチャイムなるから。今日はこのページは関係ない授業だし」 「……はぁ」 「ん?」 隣を見てみると、稲羽は教科書をそっと開いていた。 開かれたページを見てみると、さっき落書きした部分だ。 なんだか名残惜しそうに見えるのはどうしてだろう。 「稲羽って面白いなあ」 「へっ?」 「あぁ、なんでもないなんでもない」 落書きのこととか、もうちょっと話してみたかったんだけどな。 もう授業が始まってしまうのが残念だ。 「じゃあ、教科書、よろしくお願いします」 「あっはい、わかりました!」 「はぁー……」 やっと放課後になった。 今日一日、疲れ果てるようなことばっかりだ。 起床直後から、ほぼすべての精神力とか根性とかプライドとか、ありとあらゆるポイントを使い果たした。 もうだめだ状態。 もう、なーんにも考えられません状態だ。 昨日は現実なのか夢なのかわからない、俺を助けてくれた誰かの事をずっと考えてたけど、そんなのも全部ふっとんでしまった。 「なんだか葛木くん、今日は元気なかったね」 「うん……そうだな…おなかすいた」 「わたしもー」 「ケロリーメイト食う?」 「なんか、もっとちゃんとしたのがいい……」 「なっ、ケロリーメイトがちゃんとしてないとでも?! ちゃんとカロリーもあるじゃねぇか!」 「あ、あの……」 すると、天音がおそるおそる稲羽に近づいてくる。 ちらっと俺の方を見たが、すぐに申し訳なさげに目をそらしてしまった。 今日は朝からずっとこうだ。 まあ、気まずいのはわかるんだけど……。 俺のほうも天音のカカトに若干の恐怖が残っているので、ありがたいといえばありがたい。 「どうしたの? 天音ちゃん」 「あのね、結衣、ちょっと…」 「なになに?」 天音に袖を引かれ、教壇の方に行った稲羽はなにやらひそひそと、内緒話をしている。 あ、稲羽がちょっと赤くなった。 女の子同士の秘密のお話とかいうやつなのかな。 こういう時ってやっぱ、目とかそらした方がいいかな。 「………いーなー。晶! オレらもああいうトークをしようぜ!」 「でも、別に顔赤くするような話題なんてないだろ」 「があああぁぁぁーん! なんてこった…! 赤面する話題がないと、親友とのささやかな内緒話もできねーとは!」 「いらない。そんなのぜーんぜんいらない」 マックスと話してるうちに、ふたりの内緒話は終わったらしい。 稲羽の後ろにくっついて、天音も一緒にそばにやってきた。 「あれ? どうしたんだ?」 「あのね、葛木くんに話があるの」 「………」 「ほら、ね? 天音ちゃん」 「う、うん」 「………」 「……あの、朝は…その」 「…あの、私たちが悪くて……」 「……だから…」 「天音ちゃんね、葛木くんにお詫びをしたいんだって!」 「え、そうなの?!」 よかった。正直、びびっていた。 もしかして、朝の時にパンツ見えてたのがバレて、また蹴られるのではないかと思ってしまった。 もちろん蹴られないんなら、それに越したことはないよな。 「そう…なの」 「それでね、これから一緒にlimelightに行こうよって」 「……うん」 「らいむ…らいと??」 「ケーキと紅茶の専門店」 「うわっ、九条?! いつの間に」 「一応、謝りにきた」 え、九条までわざわざ謝りに来てくれたのか? 「どうでもいいけど」 「どうでもいいのか……」 そうだよな。九条はそうだ。 俺のことは本気でどうでもいい口調だ。 なんか一気に脱力してしまった。 「え、で、なんだっけ。どこに行くって?」 「あのっ、limelight……っていう、ケーキ屋なんだけど。その、ご馳走……するから」 「ごちそう?! 俺にケーキを食べさせてくれるってこと?!」 「そうだよ。みんなで一緒にケーキ食べにいきましょー!」 「行くー! おなかすいたし!」 「……うん」 「じゃあ、さっそく行こうよ! あそこのケーキおいしいんだよ〜!」 縛り上げられた体は、正直ちょっぴりまだぎしぎし言ってるけど……。 ケーキ食べさせてくれるんなら、ま、いっか。 結衣が天音の手を引いて、元気に歩き出す。 俺も慌てて荷物を持ってその後を追った。 「今日はおふたり、どうしたのかしら」 「さっきからずっと、教室の前で立ち止まってらっしゃるけど…」 廊下に出ると、何故か教室の前にちょっとした人だかりが出来ている。 「あれれ? どうしたのかな??」 「あぁ、ほら桜子。もう晶くんたち、出てきてしまったわよ」 茉百合さんの声にあわせて、人だかりがざざっと道を開ける。 そこの中心に立っていたのは、申し訳なさそうな顔でふるふると震えてる水無瀬だった。 「…………」 「桜子……」 「………」 「……わ、私…」 「………」 水無瀬は、何かを言いたげに一歩踏み出したが、そのまま黙り込んでしまう。 すると、横から茉百合さんが出てきて、水無瀬の肩にそっと手を添える。 「……なかなか言い出せないみたいだから、私が言うわね…」 「今朝、晶くんにとても酷い事をしてしまって、だからお詫びがしたいんですって」 「…ごめんなさい……!」 勢いよく水無瀬が頭を下げた。 それを見て、周りの生徒達が一斉にざわめき始める。 「あ、いやあの…えっと」 「――じゃあ桜子ちゃんも一緒にケーキを食べにいこう!」 「えっ…?」 「そ、そうだな! ケーキ食べにいこう! それでいいよ!」 「茉百合さんも一緒にどうでしょう!」 「…うん…」 ケーキ屋に行く人数がどんどん膨れ上がるが、まあ大勢で食べた方がおいしいもんな。 俺はそういうのは嫌いじゃないし。 「話ついた?」 「マミィ〜! なーなーなー、明日のメンテナンスさー、どーにかならないのかよー?」 「ならない」 「うぇー…」 人間だけじゃなくって、ロボットまで連れていくっぽいけど。 まあ、いいか。別に暴れるわけでもないし。 どんなケーキをご馳走してもらえるんだろ、楽しみだ! 「お、おおおおおお!」 目の前に並んでいるのは、たくさんのケーキ。 定番のいちごショートから始まり、ガトーショコラ、モンブラン、ミルフィーユ、チーズケーキ、パイにタルト、ティラミス、プリン……。 それこそ、店にある全種類が並んでいるんじゃないのかってくらい、俺の目の前にたくさんのケーキが置いてある。 「あ、あの。遠慮しないで食べてね」 「しない! 食べる!!」 ここで遠慮なんかするもんか。 こんなにも美味しそうなのに、遠慮なんかしたらこのケーキたちに失礼だ。 こいつ等はきっと、おいしく食べてくれる俺みたいなのに会うために、きっと今日という日を待っていた。 大丈夫だ、安心してくれ。俺が責任もっておいしくいただく! 「天音ちゃん、わたしたちも食べていいの?」 「うん……」 「桜子もそろそろ元気を出して」 「……ええ」 「くるりちゃんも食べるんでしょ」 「ん? 食べる」 「いただきまーーす!」 「じゃあ、わたしもいただきます」 「おいしい! すっごいおいしい!!」 稲羽の言葉に、俺は大きく頷いた。 本当にほっぺたが落ちてしまわないか心配になってしまう。 って言っても、過言じゃない。美味しい。 「私も同じく謝ります。ごめんなさい」 「……」 目の前に並ぶケーキに手もつけず、天音と水無瀬がぺこんと頭を下げた。 「あ、あの、うん…もういいよ。誤解とけたんだし」 今朝のことを思い出すと、俺の方が逆に恥ずかしくなってしまった。 確かにひどい朝だった。 だけど、こうして誤解も解けたし、何より美味しいものがある。 幸せ度数でいうと、プラスマイナスゼロって感じじゃないだろうか。 うん。そうしておこう。 「ていうか、皆食べないの? いらないなら俺もらっちゃうよー」 「えっ、い、いいなあ…」 「た、食べるわよ、もちろん」 「……もぐもぐもぐ」 「うん。……ぱく」 「私もいただきます」 「おいしい」 さすがに茉百合さんと水無瀬がケーキを食べる様子は、優雅だった。 水無瀬は小さく切ったケーキをぱくんと頬張ると、にこにこ笑っている。 あんまり嬉しそうな笑顔だったから、俺は思わず食べかけのクリームを落っことしてしまった。 「晶くん、どうかした?」 「いや、水無瀬なんだか嬉しそうだなーって思って。ケーキ好きなの?」 「うふふ。それもあるけど……私、こうやってみんなでケーキを食べたりしたことないの。それが嬉しくて」 「そうなんだ。女の子ってこういう風にケーキ屋に来るの多いと思ってた」 「実はあんまりないんです。おいしいものは、みんなで食べるともっとおいしくなるんですね」 「そうだよ! わたしもぜーったいそう思う! ねえ、またみんなで来たいね」 「ええ、なかなか素敵なお味ですものね」 みんなケーキを口にしながら、にこにこだ。 もちろん、俺も。 こんなに美味しいうえに、ケーキの種類が多い。 今日一日ですべて食べるっていうのはさすがに無理だろう。 食べられるものなら、店ごと食べてしまいたいくらい美味しい。 ただひとつの問題は男ひとりでここに来るのは心が痛むという点だ。 もしも稲羽たちがここへ来ようと相談している所を見かけたら、すかさず一緒につれていってもらおうと俺は心に誓った。 「28号。これも」 「了解。もぐぐ、うん、うんうん」 「この飲み物についてはどう?」 「これな! ごくごく。ほうほう……ほほう…もぐもぐもぐ」 ふと横を見た時だった。 九条がマックスの前にケーキやお茶を差し出しては、ひたすら食べるってのを繰り返してる。 「さっきからやけに無言だな」 いつもなら美味しいとか、この味はどうとか、評論しそうなものなんだが。 「おう……分析中は集中しないとな」 「分析?」 「どう、28号。ワタシは気に入ったけど」 「マミィ、ここの紅茶とケーキはかなりハイレベルだ。絶妙なバランス加減だな」 「そう。なら良かった。ワタシの感覚に間違いはないのね」 「えー! そんなことまでわかるの? すごいね!」 「マックスさんはとっても優秀なんですね」 「ふっふっふ。28号は精密に作られてるから、あたりまえだけど」 「オレをなめんなよー。超かっこいいんだから、なんだってわかるんだぜ!」 「お前ってすごいんだなあ……」 ケーキをむしゃむしゃ食べてるだけ、と思ってたのに。 いや、よく考えればいつも空中を浮いてるし、ロボットとは思えない人間くささがあるし、本当にすごい機能なんだ。 毎日毎日近くにいたせいか、すっかりそんな驚きは薄れていたけど。 「この味を作れるやつは、そうそういねーな。ここのパティシエは一流に違いねえ! ちょっと話聞いてくるわ!」 「えっ!?」 「ちょ、ちょっとマックス!?」 誰の声も耳に届いてないように、マックスは一目散に店の奥へと飛んでいってしまった。 「大丈夫なのか?」 「本当にここのお味が気に入ったんでしょうね」 「それはわかるけど……大丈夫かな」 「大丈夫、28号にはきちんと礼儀も仕込んであるから」 確かに、マックスは無茶なところはあるけど、礼儀がなってないって事はないよな。 それはここにいる全員がわかっている。 わかっているものの、やっぱり皆どこか不安げにマックスの消えていった厨房の方を見つめていた。 …………。 ……。 「お、おおおおい! 大変だよ……大変なんだ!」 「どうしたの?」 「閉店しちゃうらしいぜ、この店」 「ええええええ!?」 「えええ!? な、なんでだ?」 「ここのお店って、ケーキ作りはじいさんがひとりでやってるんだってよ……でも最近ちょっと体を悪くしたんだってさ」 「……だから閉店しちゃうのね」 「あの、ケーキ作りのお弟子さんとかはいらっしゃらないの?」 マックスは残念そうに頭を横にふった。 その返事に、水無瀬だけでなく天音も稲羽も、茉百合さんまでも同じようにため息をついた。 「残念だな、こんなに美味しいのに」 「とても良いお店なのに、本当に残念ね」 「そうだね。もっと食べたいもん。並んでるケーキ、みんな素敵だもん」 「でも、閉店までにはまだ少し時間があるわ。また来ましょうよ」 「そうだな、うん。来たい」 「私もご一緒したいです」 「うん! またみんなで来よう。だってその方が美味しいし楽しいもん」 「みんなって、ワタシも?」 「もちろん入ってるよ♪」 「よっしオレも! なんならあのじいさん手伝いたいぜ」 マックスがメタリックな腕をぐっと振り上げた。 不思議なことに、それは力強い握りこぶしに見えた。 それは俺だけじゃなくて、天音や水無瀬や稲羽たちもそうだったみたいだ。 思わずみんな笑ってる。 「また来ような」 「ええ、もちろん! みんなでね」 「みんなで!」 こんなに美味しいケーキが食べられて、笑いあって、ちょっと幸せな気分になれるんだ。 なくなってしまうのは寂しいけど、それまでの間にできるだけこの気分を味わいたい。 ケーキが美味しかったからだけじゃない。 この場所にみんなで来れることが楽しいから――俺は本当にそう感じていた。 「ん……」 うるさいな。 なんだっけ、この音。えーっと。 あ、目覚ましのアラームか……止めなきゃ。 寝ぼけた頭でアラームを止めて、ようやく違和感に気付いた。 「あれ……?」 マックスがいない。 いつも、熱かったり重かったりで目が覚めるから、最近はアラームが鳴る前に起きてしまうんだけど。 マックスはどこに行ったんだろ。 「うーん?」 ぐるりと部屋の中を見渡しても、いない。 「まさか!?」 一応ベッドの下も覗いてみたが、やっぱりいない。 こんな朝早くからどこに行ったんだろう? 「あ……」 机の上に紙が置いてある。 ……なんか、すごく上手い字だ。 『オレの親友・晶へ 今日はひとりで教室まで行っといてくれ。ていうか、今日だけはオレの事、忘れてくれ…。マックス』 「……」 なんだこの手紙。 あいつロボットなのになんで紙で伝言を残すんだ……。 なんだかわからないけど、ひとりで先に行っとけってことか。 妙にせつなげなのが気になると言えば気になるけど…今日は珍しく静かに行けそうだ。 のんびりしすぎたせいか、教室についたのはチャイムが鳴るギリギリの時間だった。 ほとんどの生徒がもう席についている。 「おはよう葛木くん、今日は随分遅かったわね」 「ああ、マックスがいなくてのんびりしてたらギリギリになってさ」 「は、はふう!! 間に合った! よかったぁ…!」 「ああ、おはよう稲羽」 「あ、うん、おはよぅ…」 「どうしたの結衣? なんか元気ない?」 「う、うぅぅん! 大丈夫!」 「遅刻ギリギリだな」 稲羽は息を整えながら、慌ただしく席についた。 「あれ? そういえば……」 教室の中にマックスがいない。どこに行ったんだろう。 あいつは遅刻なんてしない。 人間なら風邪とか、ケガとか考えられるけど……ロボだからな。 騒がしいやつだけど、いないといないでやけに気になってしまう。 「ん?」 「……」 「あれ……?」 誰だろう? 見たことない女の子だった。 もしかして同じクラスの子かな? 教室に入ってくるってことは、そうだよな。 でも、なんだかすごく表情が暗いというか……気分でも悪いのかな。 「はああああ」 あれ? なんかこっち来るけど、なんでだろう。 え? なんで俺の隣の席に座るんだ? まるで当たり前みたいに座ったけど、そこはマックスの席だ。 もしかして、他の教室と間違ってるのかな。 見覚えのない子だし…転校生、とか? 「あ、あのお……」 「……」 「そ、そこの席ってさ」 「なに?」 「な、なんでもないです」 そこは別のやつの席なんです。 なんて言いにくい雰囲気だった。 マックスが来たらきたで――なんとかするだろう、うん。 「あ……」 チャイムが鳴ってしまった。 どうしたんだろう、マックス。 あいつに限って、無断欠席なんて無いと思うんだけどなあ。 そういうとこ、きっちりしてるし。ロボだけど。 結局、マックスが来ないまま授業が終わってしまった…。 隣の席の子もそのままだし、みんなも何も言わない。 どうなってるんだろう。 何か俺にだけわからないなにかがあるのか!? 「はああああ」 「……あ」 「あっ……危ない!」 「ぬ!!??!」 「……」 お、重い……! お、女の子ってこんな重いのか? 見た目こんなに軽そうなのに、この重さって一体なんなんだ? 絶対口に出してはいけないことだ。 しかしこのだけど異様なまでの重量感。 「……くっ」 もうちょっとで言ってしまいそうだった。 だけど彼女、見るからに気分悪そうだし、そのせいでふらついたんだろうし…なるべく平気そうにふるまわないと。 「だ、大丈夫?」 重さは気のせいじゃない。 俺の腕はぷるぷると震えだしていた。 「……うん」 「あの、気分が悪いようなら保健室とか行く?」 平常心。平常心を保つんだ。 しかしこんなに華奢な体格なのに……何故? 「……」 「辛い時に無理とかしない方がいいし、ひとりで立てるか?」 「……お」 「お?」 「お前もかあぁぁぁぁー!!!」 「は!?」 「お前もかよ! お前までオレを女扱いするのかー!!」 「え? あ、あの……な、なに?」 「なんだよなんだよ! そんなにオレの格好がおかしいかよ! ああ、そうか、わかった! おかしかったら笑いやがれこんちくしょー!!」 「ちょ、ちょっと待って。全然意味がわからない!」 なんだ? なんなんだ! 何をいきなり怒ってるんだ? それに格好がおかしいってどういうことなんだ? まあ……確かに体重は重かったけど。 「見損なったぜ! お前だけはどんなことがあってもオレの親友だと思ってたのによう!」 「え! ちょ、ちょっと待て!」 「うるせーやい! ばかやろーい!!!」 「だ、だから……」 「どうせ本当はオレなんか親友だと迷惑だとか思ってやがるんだろう! だからそんな扱いしやがるんだ! 晶のあほぉぉぉ!!」 ちょっと待て、ちょっと待て! この口調とテンション。俺はこれを知っている。 知ってるっていうか、毎日ものすごく身近なやつから聞いてる気がする。 というか、今俺の名前呼んだし! こんな風に俺を呼ぶやつはこの学園に来てからひとりしか会ってない! 「ほら笑え! オレのこと笑いやがれこの野郎!!!」 「あ、あのお……つかぬことをお聞きしますが」 「なんだよ!」 「お前………もしかして、マックス?」 「他に誰に見えるって言いやがるんだよぉぉ!」 「少なくともマックスには見えない」 「……」 「………」 「うぅ……わかってらぁ……わかってるよぉ…いつものカッコイイボディじゃねーもんな…」 「葛木くん! あきらくんの事、知らなかったの?」 「うううぅぅ、ツヤツヤのがいいよー、光沢ないとかっこよくねーよーぉ」 「ご、ごめんなさい。何も知らないなんて思わなかったから」 「あ、あの稲羽、天音、この子って……」 「うん……マックスよ。てっきり本人が説明してるとばかり思ってたわ」 「知らない! 全然知らない!!」 「そうだったんだー。あきらくん、普通に隣に座ってたから、葛木くんも知ってるんだと思ってた」 「あ、あきらくん…?」 「マックスっていうのはコードネームなのよ。生徒としての本当の名前は、『電堂あきら』って言うから」 「だから女の子の時は、あきらくんって呼んでるんだよ」 「オレは女の子じゃねーやいぃ!!」 「そ、そうなのか」 ……こんなにかわいいのに、喋り方とテンションはマックスのなのか。 ものすごい違和感というかなんと言うか……。 おまけに本人はなんだかすっごい不本意そうだ。 嫌ならいつもの姿でいればいいのに、何がどうなってるんだ? 「でも、そんなに嫌なんだったら、何で女の子の格好なんかしてるんだ?」 「うるせー。オレだって好きでこんな格好してるわけじゃねーんだからな!!」 「そうだね、あきらくんの時は不機嫌だもんね」 「仕方ねーんだよ。月に何度かはいつもの超かっこいいボディのメンテナンスが必要なんだからさ」 「その間、マックスを眠らせとくわけにはいかないんだって。理由はよく知らないんだけど」 「んで、メンテナンス中はこんな体なんだよ。ったく、こんなツヤも照り返しもねーボディになんか入りたくねーのに」 なるほど……。 あのボディのかっこよさは俺には理解できないけど、マックスは相当気に入ってたみたいだもんなあ。 ……それなのに、こんな体じゃ確かに不満だろう。 それにしても、なんで女の子なんだろう……男の子じゃダメだったんだろうか。 「こんなんじゃなんにもやる気でねーぜ…」 「その姿の時はいつもそう言ってるわね。でも、今日1日だけのことじゃない」 「ふーんだ! 嫌なもんは嫌なんだよ!」 「わたしはその姿でもいいと思うけどなー」 「よくねー!」 「……あ! てことは、今日の防災訓練もその格好か」 「そうだぜ。はぁぁ。せっかくよー楽しみにしてたのによー! 台無しだぁぁー!」 「…………」 どうなるんだろう。防災訓練。 なんか、マックスは女の子になっちゃったし、謎の準備はさせられたし、嫌な予感しかしない……。 俺は無事、防災訓練を乗り切る事が出来るのか? いや……やっぱり嫌な予感しか……しないな。 はあ。 「ああ、今日はもう散々な1日だったわ」 天音が深いため息をついた。 俺もそこには同意したい。 バトルロイヤル水鉄砲という名の防災訓練、楽しかったけど体力は思いっきり削られた。 「ああ、腹へったな」 「ふふ、お夕食まで少し時間ありますからね。大丈夫?」 「大丈夫……かなあ」 それはちょっと不安だった。 あの大騒ぎのイベントが終わってから、それぞれの教室に戻り短いホームルームがあった。 それから授業はなく、生徒たちはみんな自分の寮の部屋へと戻ることになった。 俺も天音と、同じ寮の水無瀬と一緒に帰路についてる。 くるりとあきらは、何故かばたばたと先に帰っていったみたいだけど…… 「ねえ、葛木さん。秋休みの間はご実家に戻るつもり?」 「えっ? 秋休み?」 「あら? 聞いてなかったかしら? 明日は終業式で、明後日から13日まで秋休みなのよ」 「もしも帰省するなら届けを出してもらわないといけないんだけど」 「ていうか、秋休みって何?」 天音も水無瀬もきょとんとして、こっちを見ている。 俺、もしかして変なこと聞いたのか? 「うちの学園は2学期制なのよ。もしかして知らなかった?」 「うん。知らなかった」 「まだまだ珍しいですものね。普通は夏休みまでが1学期、冬休みまでが2学期、その後が3学期でしょう?」 「2学期制だと、明後日から始まる秋休みを境にして、1学期2学期ってわかれるんです」 うんうん、と頷きながら、頭の中でカレンダーをめくってみた。 ひとつの学期が長くなるのか……今までとどう変わってくるんだろう。 「まあ、秋休みは各クラブが繚蘭祭の準備をするから、ほとんどの生徒が帰省しないわ」 「そうよね。準備に念をいれるところは、学校にも出てきていろいろやるから……」 「そうなんだ」 それじゃ、ほとんどいつもと変わらないって感じなんだな。 「ひとまず、葛木くんは帰省なしでも大丈夫? 帰るなら許可が出るのに少し時間かかるから」 「うん、別にいいかな。親父が家にいるってわけでもないし」 休暇の連絡は聞いてないし、また事件なんかがあったら家を空けるだろうしな。 準備も面倒だから、ゆっくりここで休もう。 「ふふ、私もその気持ちちょっとだけわかります」 「それは俺も同意だな」 あきら状態のマックスは部屋には戻ってこれない、みたいな事を言っていた。 今日は部屋でのびのびできるぞ。 「あ、いたいたみんなーっ!」 「あれ、稲羽……どうしたんだ?」 「ふーっ、ふーっ、はあああ」 ゼイゼイと肩を大きく揺らしながら、稲羽は何故かまっすぐ俺たちの方を見ていた。 「あのね、みんなと仲良くしていきたいし、秘密は嫌なの!」 「え? なんの話? なんか深刻な話なのか?」 あまりに真剣な稲羽の眼差しに、思わずごくりと息を呑んでしまった。 秘密って何だろう? まさかマックスみたいに実はロボでしたってのじゃないだろうな。 「うん。すっごく迷ったけど……聞いてくれる?」 水無瀬もこくこくと頷き、胸元でぎゅっと握りこぶしを作っていた。 「天音ちゃんに相談して、やっぱりちゃんと向き合おうって思ったの」 「……うん」 「わたし……わたしね!」 「……う、うん」 「すっごくご飯が好きなのお!」 「……??」 「え?」 一瞬、時間が止まった。確実に止まった。 水無瀬の方を見ると、頭の上にちょこんとはてなマークが見えた。 確かにご飯が好きだとは防災訓練中に聞いたけど…。 稲羽、天音に相談したんだ。それで決死の告白というわけか。 「結衣。それじゃみんなわからないわよ…」 「え、えっと、そうか…あの、あのね!」 「わたし、いつもお腹すいてるの! だからもう我慢しない! お腹いっぱい食べることにする!」 「今まで我慢してたんですって」 「そうだったんですか! 我慢することなんてないのに…」 「ほらね!」 「うん! ありがとう天音ちゃん、桜子ちゃん!」 なんだか女の子同士ですっごくまとまったけど、いい感じだ。 うん、良かった。 もちろん、俺も同じ。 「結衣。それじゃちょっと通じないわよ」 「え? な、なんで?」 「ご飯が好きなのは、わかったけど……それをどうして隠してたとかそういう所が問題だと思うの」 「そ、そっか。わかった。えっとね」 それから稲羽は顔を真っ赤にしながら、語りだした。 「前の学校で、友達と遊びに行ったとき、お昼にお店入って……」 「いつもと同じように食べてただけだったんだけど、そうしたら近くにいた人に、男の子に間違われて……『彼氏さん、凄い食べっぷりですねえ』って」 「それで、みんなに笑われたの……ついたあだ名がハラペコ王子。次の日にはそれ学校中に知れ渡ってて…」 「だからここに来たとき、決心したの! もうハラペコ王子は卒業しよう、食べる量は普通の女の子ぐらいにしようって…」 「でもそれだと、すごく…おなか、すいちゃうんだよね…」 恥ずかしそうに、うつむいたままで言う稲羽は、本当に小さく見えた。 食べっぷりで男に間違われるなんて、さすがにショックだったんだろうな…。 「こんなの、女の子っぽくないよね? こんな腹ペコなんて」 「いや、稲羽ってフツーに女の子だし……誰も間違わないよ、男になんて」 稲羽がぱっと顔をあげた。 まだ顔は赤いけど、びっくりしたような大きな目とか、きゅっと結んだ唇とか、どこからどうみてもちゃんと女の子だ。 「それに腹ペコで何が悪い! 美味しいものを目の前にして我慢って方がきっと良くないぞ」 「ほら言ったでしょ!」 「う、うん……よかったあ」 「わたし、もう我慢しない! お腹いっぱい食べることにする!」 「そうですね! ご飯をいっぱい食べられるのって、健康的で素敵だと思うの!」 「ありがとう、そういうのって初めて言われたよお」 「それに結衣さんがご飯を美味しそうに食べてる顔って、すっごく幸せそう。私は好きよ、そういうひと」 「きゃっ」 なんだか女の子同士ですっごくまとまったけど、いい感じだ。 うん、良かった。 稲羽がそんなことで悩んでたなんて知らなかったけど…… 女の子にとってはやっぱりそういうの、悩みになるんだな。 俺は腹ペコ万歳だ。 「あ……あの……」 「はわ、わわわわ」 「す、すずのか……びっくりした」 「びっくりさせてしまってごめんなさい」 「いや、大丈夫。もう大丈夫――どうしたの?」 「ちょっと聞きたいんです、あの晶さんは……晶さんは秋休みの間、実家に帰るんですか?」 「俺? いや、帰らないよ。秋休みって皆あんまり実家に帰ったりしないみたいだし」 「そうなんですか」 「すずのは?」 「……??」 「晶さんと一緒です」 「そっか。うん。そうだよな〜2週間もないしな」 「じゃ、じゃあ、それだけですっ」 「……?」 「あ〜。やーっと夜ご飯だあ! ああ腹減った」 談話室へ降りてくると、もう食事が運ばれていた。 ますます胃が活発になってしまう、いい匂いが部屋中に充満している。 俺以外の皆もすでに揃っていて――あれ? ちょこんと椅子に掛けているのは稲羽だった。 さっき天音たちと一緒にこの寮へ帰ってきたけど、一般女子寮には帰らなかったのか。 「今日は稲羽もここでご飯?」 「うんとね、お呼ばれしちゃいました♪」 「結衣さんが美味しそうに食べてるところ見ると、なんだか嬉しいんですもの」 「まあ、なんていうか、勇気を出した結衣のお祝いって意味もあってね」 「おお! だからこんなに豪華なんだな!!」 いつもより、豪華な盛り付けの料理たち。 そういえば量も多い気がする。 それにつられて思わずテーブルの方に乗り出した時だった。 「……不衛生」 有無を言わせず、九条が髪飾りのビーム兵器を起動させる。 「ひ、ひい! ごめんなさいっ」 「……」 「あれ、そういえばマックス…ていうかあきらは?」 「ワタシの部屋で充電中。それが何か?」 「いや、別に、聞いてみただけ……」 「ちょっと残念ね。みんなでそろってお祝いしたかったのに」 「よろしくって言ってた」 「さーってと。みんな早く席について食べましょう」 「いっただきまーす」 稲羽の一番でっかい『いただきます』とともに、夕食が始まった。 大きなボウルに盛られたサラダや、それぞれに切り分けられたメインの肉料理。 どれもこれも美味しそうで、俺もニコニコしてしまう。 「どうぞ、遠慮なさらずにね」 「うん! 食べる食べる!」 「まだこっちにもあるわよ、ほら」 天音がフタを開けた鍋には、スープが入っていた。 まだ温かな湯気がほわんと舞い上がる。 「おおお、すごいいい匂いだ……」 「うん、いい匂いだね……いい匂い……」 「はい、どうぞ」 うっとりとしてる俺と稲羽の皿に、水無瀬がスープをいれてくれた。 この至れり尽くせり感。 他にどんな幸せがあるっていうんだ。 「ありがと、いただきまーすっ!」 「はあ、おいしい。幸せだ…」 「もぐもぐ、うん、おいしい! 桜子ちゃんも食べてみて!」 「ええ。もちろん」 「やっぱりお腹いっぱい食べる方がいいわよね」 「うんうん! もう我慢しなーい」 「嬉しそう……いまシナプスがどんな反応なのか調べてみたい」 「なになに? シナモン?」 「なんでもない」 「あのね、みんな…ありがとね」 「……?」 「だってすっごく楽しいもん。ご飯いっぱい食べてもヘンって思われないし、美味しいし!」 「うん。それは良かったと思う」 「ほんとさ、もうそんな事気にするなよ?」 「うん……うん! ありがと、晶くん!」 「げほっ!? しょっしょ?」 稲羽の口から出てきたその言葉。 言葉っていうか、俺の名前に、思わずふきだしてしまった。 「わ! わわわわわ! ごごごめんなさい!」 「や、べ、別にあの、謝らなくても」 「あの、まち、間違って! あの、マックスくんがずっと名前で呼んでて、それがうつっちゃって」 「う、うん。わかった」 「ふふふ、おかしいの、ふたりとも」 「えっえっ?」 「おかしい?」 「別に名前で呼んでもいいんじゃない? 葛木くんはどうなの? 嫌?」 そんなわけない、と俺は思いっきり頭を横に振った。 「ほら、嫌じゃないみたいよ」 「……ふーん」 「いいのかな、晶くんって呼んでも」 「う、うん。なんでも別にいいよ、ほんと」 「そ、そっか……よかった。じゃあ今日から晶くんでお願いしまする!」 「る? るってなんだ?」 「はっ、なんでもない……なんでもないよ」 「ねえ、葛木さん」 「え?」 「私も晶さんってお呼びしていいですか? せっかくなので……」 「う、うん、いいけど」 「よかった! じゃあお返しに私の事は、桜子って呼んでくださいね」 「ええ?!」 「さ、桜子?!」 「いけませんか? でも、天音さんの事は晶さん、天音って呼んでらっしゃいますし」 「そうだよね、いけなくないよね! あっそうだ! じゃわたしも結衣呼びで!」 「え、え…」 「ちょっと二人とも。葛木くん、戸惑ってるじゃない」 「葛木くんではありませぬぞ、天音ちゃん! 晶くん!」 「あ。う。私はいいのよ、だからね、葛木くんが困ってるって」 「いや、そこまで困ってるわけじゃ、びっくりはしたけど」 「晶さんもこうおっしゃってますよ、天音さん」 「うぅ、まあ、本人がいいのなら、いいんだけどね……」 「さあ、食べよ食べよ!」 稲羽はぺろっと舌を出してから、またスプーンを勇ましく構えた。 その食べっぷりを見てると俺も負けてはいられない。 よし、食おう。 「ああ、おいしい。今日はなんだかいつもより美味しく感じてしまうわ」 「感覚はその時の環境で左右されるのか」 「くるりはどう?」 「ワタシはいつもと同じく、おいしい」 「ふふ、じゃあ良かった。ごはんが美味しいのは一番だもの」 こくこく、と頷いてみると、隣に座った結衣も同じように頭をふっていた。 「はは、そこまで一緒になるなよ」 「だ、だってわたしもそう! って思ったから」 やはり同じ腹ペコ同士、何か通じるものでもあるのだろうか。 そんな俺たちの様子を見て、天音や桜子は再びにこにこしてる。 うん、やっぱりこういう食事はいいもんだ。 時計に目をやると、午後11時を示していた。 俺が風呂に入ってもいい時間だ。 「よし…時間はきちんと確認」 今度はあの時みたいにならないぞ。 服を脱ぐ前に脱衣所の中の確認からだ。 自分以外の服を見つけたら……。 その時は外で待てばいい。 こっそりと、まるで何もなかった事のように、脱衣所から脱出だ。 よし、問題ない。 行くぞ。 そういえば、ここの風呂は随分豪華だよな。 他の寮もこんなもんなんだろうか。 いや、普通は違うよなあ……。 「……んにゅ」 「あ、九条…? だ、大丈夫か?」 「……あ」 「えーっと……」 「お風呂?」 「え?」 「今から入る? お風呂」 「あ、うん。時間になったから」 「………うぷ」 あれ、どうしたんだろう。なんだか様子がおかしい。 もしかして、時間間違ったかな。 いや、そんな事ない。 部屋でちゃんと確認してから来たぞ。 「……どのくらい?」 「え、何が?」 「どのくらいで出て来る。お風呂。何分かかる」 「あ、ああ。そういう事か」 「何秒?」 「いや、何秒って言われても……」 あれ? もしかして、九条のやつ風呂入りたいのかな…。 そうでなきゃ、時間なんて聞かないよな。 この前だって、最後だから片付けとけって言われたし。 「もしかして、入りたいの?」 「たいの」 小さく、こくりと九条が頷いた。 なるほど、それで時間とか聞いたわけだ。 俺が入る時間だってのはわかってるみたいだけど…。 だとしたら、どうしたんだろう。 「また研究が行きづまったから……う…お風呂……」 「……」 「いつも、お風呂……充電」 「あの、先に入る?」 「……」 「ちゃんと片付けたら、夜遅く入ってもいいんだよな?」 「片付けるなら」 「ああ、じゃあ後で入るからいい」 「あ……」 別に片付けくらいいいし。 それくらい大した事じゃない。 それに、俺は半分居候みたいな感じで繚蘭会寮にいるしな。 これくらいやっておかないと。 「ああ、でも。もし、なんだったら出た後に教えてくれると助かる」 「……善処します」 「はい」 頷いてから俺は九条に背中を向けた。 連絡が来る事を期待して、部屋に戻ろう。 多分、メールか何かで連絡してくれるだろう……多分。 「はああ、いい風呂だった」 結局、風呂に入って部屋に戻ってこれたのはずいぶん遅い時間になってしまった。 九条も一応メールはくれたから、前みたいに鉢合わせになることはなかった。 時間が遅くなったのは……別にかまわないって感じなんだろうか。 「しかし……」 ついさっき見た、九条の様子。 まるでゾンビのごとく、ふらふらと風呂にひきつけられていた。 九条って、そんなに風呂好きなんだろうか。 なんとなく、意外な組み合わせだ。 まあ、とにかく鉢合わせだけには気をつけないとな。 1日の終わりのほっこりタイムだ。 また目潰しをくらっちゃ、やってらんない。 いよいよ、問題の防災訓練の時間がやってきてしまった。 俺たちはクラスごとに別々の集合場所に集まり、スタートの合図であるチャイムが鳴るのを待っている。 「――それで、生徒会生け贄委員さん」 「……援助委員です、繚蘭会会長様」 これでもかとばかりに温かなジト目を、惜しげもなく俺に注いでくれている天音。その視線が実に痛い。 ……いや、その理由がわかりすぎる程によくわかるからきついなあ。 「今日は確か、防災訓練のはずだったわよね?」 「……だったと思います」 「なら、これは何?」 天音の手の中には、なぜかカラフルなプラスチック製の子供用玩具。 「水鉄砲かと。しかもタンク付きの割と本格的なやつ」 「ふっふっふっふっふ。血がたぎるぜぇ……この銃を向けられた獲物がどんな怯えた顔をするのかよぉ……」 「危険なこと言わないで、銃じゃありません、ただの水鉄砲でしょ! 怯えたりもしないしそんなこと私が許しません」 「って、違う!! なんでこんなものが防災訓練で渡されたのかを聞いてるのよ!」 「っていうか、むしろ俺に教えてくれ! 俺が一番叫びたいんだ! これが防災訓練かよ!」 俺は叫び返すと、改めて周囲を見回した。 大勢の生徒達が、頭に金魚すくいのポイを二つつけ、チャイムを待っている。 バトルロイヤル水鉄砲と名付けられた、防災訓練のふりをしたまったく防災訓練になっていない競技。 その始まりの合図を。 「準備してる時から謎だったんだよなあ。これ、何に使うのか……」 頭のポイをいとおしそうに撫でながら、俺は溜息をつく。 あの辛く苦しい内職が、まさかこんな繋がりを見せるとは。 「そうだよね。どうせ準備するならケロリーメイトとか、携帯食料とかがよかった…」 「おお、それは名案。食べられるって素晴らしい」 「言っておくけど、防災訓練には非常用食料の食べ方、なんて入ってないから」 「たまにはそんな訓練があってもいいのに…」 「まったくだっ!」 「あなたたちねえ……まあどーせいつも通りアイツの無責任かつ突発的な思いつきなんだろうけど」 「こんなめちゃくちゃな防災訓練、他の生徒が納得しないわよ……」 「そうか? どいつもこいつも、みんな滅茶苦茶やる気になってるぜ」 あ、ほんとだ。みんなすんごい目を輝かせてる。ギラギラだ。 「……な、なんで?」 「えっと……勝ったら大清掃免除なんだよね、確か」 「大清掃…って?」 「この島、年に一回住人全員で掃除する日があるんだよ。夕方まで掃除させられてなかなかハードなんだぜ〜」 「このイベントで勝ったら、参加しなくてもOKって事にしてもらえるんだって」 ありえない、と呟く天音に、稲羽は始まる前に手渡されたしおりを取り出した。 『みんなで楽しむ防災訓練のし・お・り♪ 生徒会長がおしえちゃう七つのポイント』 やたらと可愛らしい丸文字で書かれた表紙の文字を見ただけで頭が痛くなるのはこの際スルーしよう。 「なるほど、餌付きか…」 そして俺も、そのしおりを取り出すともう一度ルールを確認する。 1:命は二つ。頭のポイに二つとも穴を開けられたら失格。速やかに教室に戻ること。 2:ポイに穴を開けられるのは配給された水鉄砲から放たれた水のみ。それ以外の攻撃によって穴を開けた場合、反則とする。 3:水鉄砲の発砲が出来るのは屋外のみ。 4:失格になっていない者の校舎内への避難は可。ただし十分以内に校舎から出ない場合失格とする。 5:チーム分けは各学年混合のクラス別とする。 6:制限時間は一時間。残っていた人数の最も多いチームの優勝とする。 7:優勝チームには来る学園大イベント、地獄の島内大清掃の参加を免除とする。 追記:公平を期すため、八重野蛍には二つのハンデを課すものとする。 ハンデ1:八重野蛍の命は一つ。 ハンデ2:八重野蛍の行動時間は三十分。始まってから三十分経つまでは一切の行動を禁止する。 「……なあ、八重野先輩、ちょっとハンデ厳しすぎないか? ありえないレベルだろう、これ」 「妥当だな。いや、むしろそれでも足りないくらいだ。あの人は産まれる時代を間違えた」 「世紀末なら救世主にも覇王にもなれただろうに」 ただ者じゃないのはわかっていたが、そこまでか。どういう伝説残してるんだ、あの先輩は……。 「ちなみに、副会長はBチームだからな、オレ達とは敵同士だぜ」 「チーム分けってクラス別なんだよな? という事はえっと…」 「……くるりとぐみちゃん、茉百合さんはAチーム。桜子と、八重野先輩とあのバカはBチームよ」 「んで、オレらCチームはこのメンバーだな! 気合入れてがんばろーぜ、親友!」 俺をまっすぐに見ながらそう言う美少女を見て、ふと思う。 「朝より随分元気になったな」 「あぁー…いつもの体じゃねえのはブルーだけどな、オレこーゆーバトルっぽいのすっげー好きなんだぜ!」 「……本当にマックスなんだな…あ、いや、今はあきらか。この顔でマックスは無いな、うん」 「どーいう意味だよ!!」 「でも、随分準備の手際がいいよね。このしおり1つとってもだけど凄いよ」 「まったく、あのダメダメ生徒会長は……来るべき災害に備えるための大切な訓練を、こんな遊びみたいにっ」 「ふふん、燃えるじゃねーか。相変わらず粋なイベント用意してくれやがるぜ、あの生徒会長」 「遊びじゃないのよ、防災訓練は。いざという時迅速に行動して、少しでも多くの命を繋ぎ止めるための……」 「じゃあ、天音は参加しねーのか?」 「……」 「ま、まあ、学校行事というなら真面目に参加しないわけにはいかないし……」 「やるからには全力で勝ちにいくわよ。それにアイツをおもいっっっきり叩きのめすいいチャンスだし……」 「おおおお、天音が、天音がやる気に満ちているっ。正確にいうなら殺る気に満ちている!」 「あ、始まるぞ」 あきらの言葉に俺達は顔を上げた。まっすぐに時計のある校舎の方へと視線を送る。 そして学園内すべてになり響く開始の合図。 「まあ、始まったからには勝たないとつまらないよな」 「当たり前よ。一位以外は全部ただの負け犬。勝ってなんぼよ」 内容がどうあれ、これも立派な学園行事。やるからには全力で参加しないといけないだろう。 「とりあえず、ここに固まっていても仕方ないわ。戦力を分散しすぎるのは愚かだけれど、敵は二チーム。挟撃される可能性もある」 「そうだな。籠城するにも後詰めの部隊があってこそだ。ここはいくつかの部隊に分けよう」 一つ目は、当然ながら倒さなければ敵は減らない。攻撃中心の部隊。 二つ目は、この拠点を守る部隊。 ここが奪われようものなら水の補給が難しくなる。金のないセレブはただの金食い虫と同様に、弾のない鉄砲はただのゴミ。 安全に水を補給するためにも、この拠点は守り通さないとならないだろう。 そして最後の三つ目。臨機応変、独自の考えで自由に動く独立部隊。 作戦は重要だけれど、その通りに動くだけでは先読みされればひとたまりもない。だからこそ、相手にとって計算外となるだろう部隊を作っておく。 今分けるとすればこんなところだろう。あとは、状況に応じて変更させていけばいい。 「誰をどう分けるかだけど、天音とあきらはやっぱり攻撃部隊?」 「そうね。こういうばかげたイベントを考える悪の権化を、根本的にしつけしなおさないといけないし」 「たりめーよ! ちまちま守り続けるなんて、なんのロマンも感じねえ!」 「それじゃあ、わたしはここを守ってるね。天音ちゃんも、あきらくんもいなくなったら手薄になっちゃうし」 「そうだな。ぜひ頼む」 「それじゃあ、葛木くん、あなたはどうするの?」 「え、俺か?」 今決まってるのは、稲羽が拠点防衛、天音とあきらが攻撃、か。俺が加わるとすれば……。 「そうだな、俺は……」 「俺はここを守ってるよ。水の補給を考えたら、拠点が狙われる可能性は結構高いしな。なんで、攻撃の方は任せた。一人でも多く減らしてきてくれよ」 「わかったわ。戦果を期待して待っててね」 「あっはっはっは。このカラダにされてる鬱憤を、今日は思いっきりはらせそうだぜ!」 「二、三人くらい生徒がいなくなったって構わねーよな、大勢いるんだしっ」 「構うに決まってるでしょっ! もし一人でもいなくなったら、くるりに言って、元の体に戻れなくしてもらうわよ!」 「うわわー、こんなふにょふにょパーツついてる体は勘弁ーっ」 「人前で自分の胸を揉むな! 女の子が!」 「オレは女じゃねー!!」 「ああ、任された。そっちこそ頼んだぜ、倒しに行って倒されて帰ってこないでくれよ」 天音とあきら、二人は色々と言い争いながらも、他数名のアタックチームを引き連れ、やる気満々で去っていった。 なんだかんだ言ってもあの二人のことだ、それなりの戦果は上げてきてくれるだろう。むしろやりすぎないことを祈るのみだ。 「ま、そのためにも俺達がこの拠点をしっかり守らないとな」 気合をいれようと隣にいる稲羽に声をかけると…。 「……はあ……」 めっちゃくちゃ疲れた溜息が返ってきた。 「お、おい、稲羽? どうした、その疲れ切った顔は。いつもの元気はどこ行った?」 「え? な、何? どうかした?」 俺の呼びかけに、今の今まで寝てましたみたいな反応で応える稲羽。 「いや、どうかしたのか聞きたいのはこっちなんだけど」 「あ、ご、ごめんなさい」 「謝る必要はないけど。でも本当に大丈夫か? 体調悪いとか」 なるほど。確かに拠点防衛なんて大役をいきなり任されれば、普通緊張もするよな。 「まあ、出来れば誰にも来て欲しくないよなあ。そんな本気で動いたりしたら腹減るし」 そんな俺の意見に、稲羽は全力でうんうんと頷いた。 「そうだよね。お腹へるもんねっ!」 反応するのそこ? 「でも、みんなと一緒に頑張る行事だし。わたしも元気出さないと」 むん、と可愛らしく気合いを入れて、笑う稲羽。元々顔立ちはいいだけに、こういう仕草はよく似合う。 「よし。それじゃあ、天音達が戻ってくるまで頑張るか」 そう互いに改めて気合いをいれたところで…。 ぼて、っと目の前に女の子が落ちてきた。 「な、なんだ!? これはもしかして、誰もが夢見るという伝説のイベント! 空から可愛い女の子が落ちてきたパターン!?」 「……葛木くんも夢見てるの……?」 「あー、いや、俺じゃなくてそのー……俺の友達の友達が……」 恥ずかしいから、その澄んだ瞳で見るのは勘弁して下さい。ほんと胸に突き刺さるんで。 「あ痛たたたぁ……うううう、まさか木から足を滑らせて落ちるとは」 したたかに打ち付けたのか、お尻をさすりながら、どうにか立ち上がる女の子。どうやら目の前の木の上に隠れていたらしい。いつの間に。 「っていうか、ぐみちゃん!?」 「なんと、しょーくんさん!? これはまずいです。まさか奇襲をかける前に、敵陣地のど真ん中で気付かれるとは!」 「ここはくるりんだけでもなんとか逃げて下さい!!」 「九条も一緒なのか!?」 慌てて見上げたその先。ぐみちゃんが落ちてきたのと同じ木の上に、呆れたように溜息をついているツインテールの姿があった。 「ああー! くるりんの存在まで! しょーくんさん、意外にあなどれませんね!」 「バカにされてるのかな、俺」 「ぐみちゃんだし、本気でほめてるんだと思うよ」 そう言われましても、なんか納得できない。 「これはぐみがぐみであるがこそだから。この際スルーしてもらえると助かる」 木の上から恐る恐る下りてきながら言う九条。ここは素直に空気を読むのが正解か。 「九条とぐみちゃんか。奇襲をかけるつもりだったみたいだけど残念だな」 そんな俺の声を聞いて、ぐみちゃんはまるでどこぞの魔法少女のようにビシィッ、とポーズを決めた。 「Cチームの拠点は、この、特攻美少女Aチームがいただきます!!」 「いや、もうちょっと捻ろうよ、せめて!!」 「…………」 「ぐみは奇襲戦法の達人ですよ! さっそく奇襲にやってまいりました!」 「奇襲戦法、失敗してるけどな。最初の一歩から」 「……しょーくんさんはいじわるです」 「ですが、このぐみも会長の懐刀と呼ばれた女! ここで簡単にやられるわけにはいきません! くるりん!」 正直呼ばれてもまったく嬉しくない称号を口にしつつ、ぐみちゃんはどこに隠していたのか、その武器、水鉄砲を抜いた。九条もすかさず続く。 「まずい、稲羽よけろ!」 稲羽を、押し倒すようにして地面に伏せさせる。同時に、ぐみちゃんと九条、二人の銃から無数の水弾が乱射された。 「きゃあぁっ!」 「うわあっ!」 そして拠点内で始まる乱戦。すかさずこちらの防衛隊が応戦を始めるが、さすがはぐみちゃん。こちらの攻撃をかわしながらも、怯むことなく引き金を引き続ける。 そして九条も、決して身体能力は高くないが、絶妙のサポートでぐみちゃんのスキを埋めている。この二人ならではのコンビネーションだ。 「さすがにたった二人で奇襲しかけてくるだけのことはあるか!」 いきなり強敵が来たものだ。とはいえ、相手はたった二人。それで簡単に拠点を落とされるほど俺達も抜けてはいない。 「いくぞ、稲羽!」 「う、うん!」 稲羽と共に起き上がり、その乱戦に参加する俺達。これであっさり逃げられたら、天音とあきらに何を言われるかわからない。 苦戦しながらも、二人を確実に追い詰めていく。 「だめです、くるりん! 思ってた以上に防御が厚いです!」 「残念。葛木を信じてたのに。裏切り者」 「どういう意味だ!」 「しょーくんさんなら、うっかりさんやって、オウンゴールしてくれるかと大期待してましたー」 「本気で意味説明されても!」 俺の全力で放った攻撃が、ぐみちゃんのポイの一つに命中する。それを受け、九条の表情がわずかに変わった」 「ぐみ。残念だけどここは……」 「りょーかいなのです! 全力で逃げましょう!」 くるりと背を向け、脱兎の如く逃げ出す九条とぐみちゃん。その引き際は見事としか言いようがない。 とはいえ、ここまで拠点を荒らされて見逃していいものか。間違いなくAチームのキーパーソンになる二人。ここで全力でしとめてしまった方がいいかもしれない。 けれど気になる点が一つ。あそこまで潔い逃げ方が出来るなら、最初から逃げていてもよかったはずだ。それが今頃になってやっと逃げ出した。 つまり、なんらかの罠を仕掛けている、という可能性も捨てきれない。 ぐみちゃんの命を一つ削ったというだけでもそれなりの戦果ではある。どうするか。 そうだな。ここはやっぱり、無理をしないでおこう。 「いいの、葛木くん? くるりちゃんも、ぐみちゃんも逃げていっちゃうよ?」 「ああ、深追いは無しだ。俺達の役目はあくまでもここを守ることだしな」 「そっか。うん、そうだね」 とりあえず終わった最初の戦闘に、あちらこちらから安堵の息がこぼれる。多少の被害はあったけど、奇襲だったことを考えれば悪い結果じゃない。 「けど、あれで奇襲が終わったとは言い切れないしなあ。少し周囲を偵察しておいた方がよさそうだ」 さっきみたいな油断は、もう無しにしないと。 俺は稲羽に軽く声をかけると、そのまま偵察へと出て行った。 敵の主力がたった二人でやってきたこのチャンス、逃す手はない。今この場にいる戦力のすべてを使って、間違いなく潰しておくべきだ。 「みんな、今なら数的にこっちが圧倒的に有利だ。一気に仕留めよう!」 「行けるか、稲羽?」 「う、うん、大丈夫っ」 その言葉に少しばかり無理が感じられたけれど、それでも躊躇無く答えてくれた稲羽をいまは信じることにしよう。 俺達は、その手に水鉄砲を構えると、大慌てで逃げていく二人の後ろを全速力で追っていった。 「攻撃は最大の防御って言うしな。俺も攻撃に参加する」 「さすがだぜマイフレンズ! 一緒にこの鳳繚蘭を血で赤く染めようぜ!」 「いやそこ、水鉄砲に赤いインク入れるなよ」 「篭城は援軍があってこその策。それを望めないこの決戦では攻撃に重点を置くべきだし、いい判断だと思う」 「それに、十分間は校舎に避難していいルールがある以上、実質五十分の戦いだしな。早いうちに数を減らさないと逃げられるし」 のんびり戦ってたら全員校舎に逃げられてゲームオーバー、なんていうのも冗談でなくありかねないから困る。 そうならないためにも、攻撃要員を増やして早めに決着をつける必要がある。 「それじゃあ結衣、ここは頼むわね。私達の帰ってくる場所、ちゃんと守っておいてよ」 「う、うん。任せておいて……」 「体調でも悪いのか、稲羽? なんか様子が」 「なんだ、あの日か? これだから女ってのは」 「あなたも女の子でしょっ!」 「オレは女じゃねーっ!!」 女の子だったとしても中身はマックス。女の子でなかったとしてもあの外見。神様。あなたはどこまで残酷な仕打ちを我々にお与えになるのでしょうか。 「天音、あきら、無事か?」 「へ、たりめーだ。あの程度の連中にやられるほど落ちぶれちゃいねーよ」 「葛木くんこそやられたりしてないでしょうね」 拠点を離れて早々に出会った敵の集団。俺達Cチームの攻撃チームは、被害もほとんど無く無事勝利を手に入れた。 あきらと天音は、さすがに言うだけのことはある。敵が偵察が目的だったとはいえ、こちらがほとんど無傷なのはこの二人の活躍によるものだ。 「二人ともさすがだな」 「晶こそ中々だったぜ。さすが俺の親友。俺の背中を預けただけのことはあるな」 「いつの間に預かったのかは知らないが、素直に褒められておくよ」 「そうね。思ってた以上だったわ。これなら結構いけそうね」 「あ、ああ、任せてくれ」 可愛い女の子に笑顔で褒められて鼓舞しない男はいない。ああ、俺も結構単純だなあ。 「それじゃあこの勢いのまま、次の獲物を探すとしよーぜ」 「ああ、そうだな」 そう答えた瞬間だった。 「桜子さんに愛をー!」 「桜子さんに命をー!」 「桜子さんにすべてをー!」 奇声を上げながら、十数人の生徒達が脇道から飛び出してくる。 「わぁぁっ」 「一発当たっちまったあ!」 「きゃああっ」 完全な奇襲だった。その生徒達から放たれた水弾が、油断しきっていた俺達に容赦なく襲い掛かる。 「な、なんだ、こいつらあーっ!?」 「そんなの今の聞けば一発でわかるでしょっ!」 「いや、わかるのはわかるけど、否定したい何かってあるだろ」 「それ激しく同意したいけど、今は受け入れるしかないの! ここで受け入れられなきゃ、あれに敗北したという重い二文字を背負うことになるわけ!」 「そ、それは断固としてゴメンこうむりたい!」 「あの、皆さんごめんなさい。本当にごめんなさい…」 あまりに怪しすぎる生徒達のその奥に、水無瀬がペコペコと頭を下げながら姿を見せる。 「でも、これは私に与えられたお仕事なんです、チームの皆さんのために頑張らなきゃいけないんです!」 「桜子さんに勝利をー!」 「桜子さんに名誉をー!」 「桜子さんを私にー!」 今どさくさ紛れになんか言ったのいたぞ! いいのか親衛隊! くそっ。想定外の攻撃にこっちはバラバラだ。ここはみんなが落ち着くまで俺達でどうにか持ちこたえるしかない! 「あ、あきら! ここはどうにか迎え撃……」 「あっはっはー!! オレに殺られる奴は桜子ファンだ! 桜子を守ってオレに殺られる奴はよく訓練された桜子ファンだ!」 「ホント鳳繚蘭は地獄だぜー! フゥハハハー!!」 「と、とっくに壊れてらっしゃるー!!」 バーサーカーよろしく、銃を乱射しながら特攻していくあきら。なんて無茶な! 「そうでもないわよ。この親衛隊は桜子を中心に集まってる。なら、桜子さえ倒してしまえば」 「そうか、それで一発逆転! なら俺達も!」 頷き合い、全力であきらの後に続く俺と天音。親衛隊はこの際無視だ。 「はっはっはっはー! その首とったぞ、桜子ー!!」 「きゃあぁっ!」 「桜子さん、危ない!!」 やった。確実にそう思ったあきらの攻撃を、自らを盾として防ぐ親衛隊A。くっ、さすがによく調教されている! 「なら、これでどう!」 「きゃあんっ!」 「桜子さんはやらせーん!!」 「待ておい! 今の動き重力無視してなかったか!?」 さ、さすがというべきか。恐るべき親衛隊……。 「今度こそ!」 「やあぁんっ!」 「桜子さん、バンザーイ!!」 三度盾となる親衛隊。なんて連中だ。まるで宗教だぞ、これ。 「死ね死ね死ね死ね死ねー! 死にやがれーい!」 もはや狂った砲台と化したあきらの連続射撃。けれども、一発たりとも当たりはしない。親衛隊が盾となり、すべてを防ぐ。 「じ、冗談じゃないぞおい!」 「さ、さすがにとんでもないわね……」 なんだか倒せる気がまったくしないぞ。ここは逃げた方が賢いか。 「桜子自身の運動能力はほとんど皆無よ。その取り巻きも、桜子を守ることを優先してるからまともには動けない」 ここは押し切るべきだ、と天音が俺を見る。確かに、そう考えれば今倒してしまうべきかもしれない。親衛隊だって人数に限りはある。 だが、ここであまり時間を食いすぎるわけにもいかない。他のチームに挟まれる可能性もあるし、いくら防衛隊を残してあるとはいえ、拠点の様子も気にかかる。 ここはどうするべきか……。 あまり追い詰めると逆にこっちがピンチになりそうな予感がするし、ここはやっぱり無理をしないでおこう。 「人間、引き際が肝心だー!」 そう叫ぶと、俺は天音の手を有無を言わさず引っ張ると退却しはじめた。 それを見てあわててあきらも俺に続く。 本体である桜子のスピードの問題か、親衛隊は俺たちを追ってくることはなかった。 それでも、まだ油断は出来ない。 一旦全員で最初の拠点に戻る前に、俺は一人、偵察へと出て行くことにした。 「あまり大勢で行動すると他のチームに動きを読まれかねないし、俺は一人で動くよ」 「そうね、少人数の方が動きやすいし葛木くんには合ってるかも」 「それじゃあオレ達は大暴れさせてもらうんで、あとは任せたぜ」 「ああ。ここの守りは稲羽、頼む」 「う、うん。みんな頑張ってきてね」 俺達は残る稲羽に頷いて答えると、それぞれの役目に従い拠点を後にした。 さて、独立部隊といっても、まずは何をするかだけれど。 「まずはやっぱり状況把握だよな」 他のチームがどういう動きをしているのか。これがわからずに闇雲に動いても危険なだけだ。 「ここは一旦校舎に逃げて、上からみんなの動きを見てみよう」 校舎内は安全地帯。中に入りさえすれば、十分間は安全に情報が集められる。今の俺にとっては最善だろう。 俺は迷う事なく昇降口へとその足を向けた。 が、その瞬間、閃きにも似た予感が脳裏を走った。その予感の内容を頭で理解するよりも早く、体が勝手に動く。 「……今の、かわさなかったら直撃でしたね。射撃とか得意だったりするんですか?」 我ながらよくかわせたもんだと自らの野生の勘を心中で褒めながら、俺はその敵を見た。 「ふふ、ただの偶然よ。撃った私が一番びっくり」 いたずらの見つかった子供みたいに、可愛らしく笑いながら言う茉百合さん。普段の凛々しい姿とは違うその笑顔に、ちょっと見とれてしまった。 「晶くんこそ凄いわよね。今のタイミングでかわしちゃうんですもの」 「身体能力は、決して低くは無いけれど常人よりちょっと上くらい、って印象だったんだけど違うのかしら」 「いや、全然間違ってないですよ。平凡そのものな人間なんで」 「偶然ですよ、ほんとただの偶然」 言えない。空腹だったから普段より鋭敏だったんですなんて……。 にしても茉百合さんがここにいたのは偶然じゃないよな。始まったらきっと誰かが状況把握のために校舎に向かうって読んでたんだ。さすがとしか言いようがない。 そんな俺の考えを裏付けるように、茉百合さんはいつも通りの余裕ある微笑みを俺に向けた。 「ふふ、晶くんたら正直者ね」 「でも、そういう偶然を呼び寄せる意外性こそが、いざという時の勝敗を分けるのも事実なのよね」 「本当にごめんなさい。始まって早々だけれど、晶くんにはここでリタイアしてもらうわ」 そして水鉄砲を構える茉百合さん。そこにはいつもと同じだけれど、確かにいつもと違う茉百合さんがいた。 「さあ、晶くんはいったいどこまで頑張れるのかしら」 な、なんでしょう。この野生の熊でも相手にしてるかのようなピリピリと肌刺す寒気は。 「あ、あの、茉百合さん……ですよね? 俺の知ってる……」 「さあどうかしら♪ 晶くんの知ってる『まゆり』さんを、私は知りませんから」 やばい、このままじゃ一方的に蹂躙される…気がする。 この窮地を脱する手段は二つ。全力で逃げるか、それとも全力で戦うかっ。 さあ俺、今この一瞬で考えろ悩んでいる暇はないっ。どっちにするっ。 ダメだ、一対一じゃあこの人にはきっと勝てない。ここは一旦引こう。 「茉百合さん」 「あら、なあに?」 「ここは逃げさせていただきまーす!!」 茉百合さんに考える暇すら与えずに、俺は全速力でそこから逃げ出した。 「潔いのね、本当に」 後ろから、そんな感心するかのような声が聞こえた気がしたけれど、それを確かめる余裕なんて、当然ない。 このまま他の誰にも見つからないよう注意しながら、拠点の方へ戻るとしよう。 「待て! ぐみちゃん、九条!」 「待てと言われて待つ人間がいたとしたら、それは待てと言われて待った人間としてきっと歴史に残る」 「はい。そんな不名誉な名の残し方、あってはなりませんっ。せめて待てと言われて悩んだ程度にとどめたいと思います!」 「いや、悩むなよそこで!」 ほとんど悩むことなく追いかけたせいか、幸い二人にはすぐに追いついた。 特に、ぐみちゃんと違って九条の身体能力は決して高くない、というのが大きい。そのために、ぐみちゃんも全力で走れていないようだ。 とはいえ、全力でないぶん多少余裕があるのか、時折背後に向かって攻撃してくるのが結構やっかいだったりする。それもかなり正確な射撃で。 が、そんな追いかけっこは唐突に終わりを遂げた。 九条が、いきなりお約束とばかりに足をすべらせる。そして、どこぞの少年漫画のような芸術的顔面溝掘りを披露しつつ、ど派手に転倒した。 「い、いたそぉ……」 「いや、確かに痛そうだけどさあ、同時に余裕もありそうじゃないか?」 更に言うなら芸術的でもある。バナナの皮でうひゃあと転ぶシーンなんて、後にも先にも見ることはないだろう。 「ぐみ……私はもうダメ。私のことは構わず逃げて……」 「そんな! ぐみ、くるりんを置いてなんて行けるわけない!」 そして目の前で繰り広げられる感動的なシーン。 「お願いだから、逃げて。私の体は、ここで野蛮な獣の手によって二度と人前に出ることも出来ないくらいに汚されてしまう」 「だけど、ぐみが逃げてくれれば、私の心は救われる。私の心は常にぐみと共にあるから、心だけは清らかなままでいられる」 「だから、お願い。逃げて。私の心を、心だけは清らかなままでいさせて」 「くるりん……わかりました! 逃げます、もう二度と振り返らずに!」 「大丈夫です! くるりんは……くるりんはずっと清らかなままだから! ぐみが、ぐみがきっと守りますから!」 「さあ、しょーくんさんっ。くるりんの純潔、このぐみから奪えるものなら奪ってみてください!!」 流れる涙をキラキラと陽光に反射させながら、ぐみちゃんは本当に振り返ることなく走り去っていった。 「……」 「……」 「……」 「……」 「あー……うん。とりあえず突っ込むと負けな気がするからいいや。とりあえず九条、リタイアしてくれな」 まるで会長を相手にしているような頭痛を必死で堪え、俺は水鉄砲を構える。 この疲れる流れをスルー出来るなんて、この数日間で俺も鍛えられたんだなあ。しみじみ。 「酷いよ葛木くん! 女の子にとって一番大切なものを、そんな自分の欲望のためだけに!」 「って、今の流れのどこをどう読んだらそう繋がりますか稲羽さーんっ」 「ね、ねえ、葛木くん、いくらなんでも、これはちょっとまずいんじゃあ」 「あ、ああ。確かに九条は可愛いと思うけど、こんな無理やりはなあ……」 「酷い、葛木くん! 女の子をなんだと思ってるのよ!」 「なんで俺が出来てるのにお前らが出来なーい!! 頼むから、スルーという選択肢をみんなの選択肢の中に入れてくれ!」 俺がそんな人間社会で生きる難しさを肌で感じている一方で…。 「にやりんぐ」 悪魔が、酷く危険な笑みを浮かべた。 「え?」 九条の言葉が響いた瞬間、周囲の草むらの中から複数の機械が浮かび上がる。その先端に装着されているのは……。 「水鉄砲!?」 いかん! これは、機械工学好きならば誰もが一度は夢見るという、遠隔操作攻撃用兵器! 「スプラッシュ分隊、殲滅!!」 スプラッシュ、そう呼ばれた機械が一斉に動き出す。それはまさしく目にもとまらぬ速さで動き、その水鉄砲から一ミリのズレもない正確な攻撃を繰り出していった。 「稲羽!」 「きゃあっ」 考えるよりも早く体が動く。俺は稲羽をその場から押しのけると素早く横に飛んだ。同時に、俺と稲羽のポイのあった場所を、複数の水弾が通過していく。 「くそっ。罠だったのか。最初から、この場所におびき寄せるための」 気付いたところで時既に遅し、だった。高速で動き、正確な攻撃を放つ機械軍団により、こっちの仲間は一人、また一人と数を減らしていく。 「〈見敵必殺〉《さーちあんどですとろい》! 〈見敵必殺〉《さーちあんどですとろい》!」 「待ておいっ。なんでそんな機械にまで水鉄砲ついてるんだよっ。ありなのか、それ!」 「ルールはよく読むべき。水鉄砲の使用数は特に規定されていない。一人で何丁使っても問題無し」 「それ、項目が無いんじゃなくて、わざわざ書かなくともわかるだろうって省略されてただけじゃあっ」 「作ったのが会長でも?」 「ごめん。そんな判断出来るわけないよな」 「葛木くん、即答!? しかも土下座!?」 いやだって、あの会長だし。 「当然。なのでこれはルールの穴をついた正当な手段。恨むなら、ルール制定をしたバカを恨むように」 「くそうっ。正論すぎてツッコミ入れるところがまるでないっ」 「で、でもどうするの葛木くんっ。このままじゃ全滅しちゃうっ」 稲羽の言う通りだ。このオールレンジ攻撃をかわし続けるのはまず不可能。なんらかの手段をうたないと。 とはいえ、こんな状況でうてる手なんか限られてる。今うてる中で最善の手とすれば……一つだっ。 「ここは、死中に活を求める!」 俺は水鉄砲を両手で構えると、真っ直ぐ九条に向かって走り出した。こうなったらもう、九条を直接倒して機械を止めるしかない。 確かに、この機械軍団は恐ろしい兵器だ。けれど、九条自身の身体能力は決して高くない。機械が他の生徒を狙ってる今ならやれる! 「甘いですよ、しょーくんさんっ」 「なに!?」 突然響く覚えのある声。と同時、九条と俺との間に人影が割って入る。すかさず撃ち出される水弾の嵐に、俺は慌てて退いた。 「ぐみちゃんかっ」 「くるりんのある所、ぐみの姿あり! くるりんを倒したければ、まずはこのぐみを」 「わかったよ、ぐみちゃん!」 「って、ま、待った待った待って下さいぷりーずうぇいと!! せめて口上が終わるまでー!」 そう言いつつも、俺の攻撃のすべてをかわしきるぐみちゃん。さすがにあなどれないな、この子は。 「あ、危なかったです。残されたポイまで穴開きになってしまうところでした。直訳するとリタイアです」 「むしろそうなってほしかったんだけどなあ」 「すべてを見通した会長の、偉大なルールに基づき考案されたこの計画に穴はありません!」 「やっぱり会長は偉大です。しっかり読んで考えさえすれば、こんなにも無限の可能性が広がるルールを考案するなんて!」 「いや、どーせめんどくさくて細かいとこまで考えなかっただけだから」 「か、会長は偉大なんですよ!? そんな低いレベルの行為するはずないじゃないですかあ!」 やっぱ会長のやりそうな行為ってレベル低いんだなあ。妙に納得だ。 「残念だけど、それだけは同意しかねる」 「あううう、くるりんまでもぉ」 「こ、こうなったら、このぐみ自身の力で会長の偉大さを証明します! ぐみ達Aチームが勝つことで、会長の作ったルールの偉大さを思い知らせるのです!」 「ち、ちょっと待った! それ俺達凄いプレッシャー! 負ける=会長が偉大って、それ絶対負けられない!」 「いいのか、九条! あの会長を偉大にしても!」 「……正直言って、今ほど負けたいと思った勝負はなかった……だけどここはぐみのため、血の涙を流しても勝つ」 ガシイッ! と腕を絡ませ勝利を宣言する二人。そして、ぐみちゃんと九条の兵器軍団の猛攻が始まった。 機械軍団による攻撃に確実に減っていく俺達Cチームの仲間達。だがそれをとめようにも、その身体能力を全開にし、ぐみちゃんが俺達の前に立ちはだかる。 その攻守揃った絶妙なチームワークの前に、俺達は手も足も出せない。自分の身をどうにか守る。それで精一杯だった。 「これで決まりですっ」 「いや、本気で冗談になってないな、これ!」 気が付けば、他の仲間はみなやられていた。Cチームにはもう俺と稲羽、二人しか残っていない。 「観念しろ。今ならまだ、さらし者の刑で済ませてやる」 すんでないだろそれ、っとツッコミを入れそうになるものの、どのみちこのままじゃあそうなるのは間違いない。 「どうですか、この状況。これこそ会長がルールに残したメッセージ。ぐみに勝て! という意思表示なんです!」 「ないない」 「絶対ない」 「そ、即答!? くるりんまでも!? 会長なんですよ、それくらいあって当然じゃないですかあ!」 「だからこそないよ」 「物理法則がねじ曲がってもない」 「うううう……会長は本当に偉大な人なのに……」 「ぐ、ぐみちゃん…そんなに落ち込まなくても…」 ガックリと項垂れるぐみちゃん。これはチャンスだ。 圧倒的な状況に、九条もぐみちゃんも完全に気が緩んでいる。正直逆転するのは難しいけれど、逃げることならなんとかなりそうだ。 とはいえ、さすがに二人揃って、となると難しい。俺が囮になって稲羽を逃がすか、断固として二人で逃げるか。一か八かだけれどどっちをとる、俺! そうだな。やっぱり誰かが犠牲になって、なんて中途半端はだめだ。ここは二人とも生き残らないと。それこそが王道! ぐみちゃんがへこたれてる今、なんとかそれを利用できれば……。 「あー、あんな所に偉大な会長がー!!」 「なんとー! 偉大な会長はよく訓練された会長です! どこですか!?」 「って、これ効くのかよ!」 ……ぐみちゃん、君って子は……。 「なんて、呆れつつ感動している場合じゃない! 今だ、稲羽!」 「あ、う、うん!」 稲羽の手を掴み、一緒に逃げ出す俺。稲羽も気付き、同じくすぐに自力で走り出す。 「ぐみ、二人が逃げる!」 二人も慌てて俺達を追いかけ始めるがもう遅い。ぐみちゃんが現実にいるはずのない偉大な会長を捜している間に、俺達はどうにかその場から逃げ出していった。 「ま、まさか本当に逃げられるとは思ってなかった……」 周囲に誰もいないことを確認し、俺は樹に寄りかかる。今回ばかりは本気で会長に感謝しておこう。五分間くらい。 「でもまあ、今日の俺達は本当についてる。結構いけそう……だ?」 同じく樹に寄りかかりながら呼吸を整えている稲羽に語りかけようとして、少し様子がおかしいのに気が付いた。 俯き、ただぼーっと地面を見つめている稲羽。視線も、どこか虚ろに見える。 「稲羽、大丈夫か? どこか体調でも悪いんじゃ……」 慌てて両手を振り回し、元気をアピールし始める稲羽。当然そんなもの、虚勢にしか見えない。 「……とりあえず、少し休んだ方がいいだろ。一旦校舎に入るぞ」 「か、葛木くん?」 俺は稲羽の手を強引に取ると、校舎へと向かって引っ張っていった。 「……とりあえず、今のところは大丈夫そうだな……」 周囲の様子を、木の上から草むらの中まで注意深く探りながら、俺は拠点の周辺を歩いていく。 やっぱりそれなりの人員が集まっている拠点を落とすには、敵もそれなりの数がいるだろうし。それだけの数なら、見つからずに動くのもそんな簡単じゃないはずだ。 改めて周囲を見回してみるものの、やはりそこに敵チームらしき存在は見当たらない。 「よし。とりあえず周辺は大丈夫そうだし、戻るとしよう」 そう決め引き返そうとしたところで、不意にとある姿が視界の端に映った気がした。 「あれ?」 その姿には覚えがあった。俺はまさか、と慌てて視線を送る。 そこにはぽつんと、一人たたずむ姿があった。 「あれは……会長?」 段差に座り、一心不乱に携帯ゲーム機と向かい合っているそれは、誰がどう見ても会長でしかありえない。 というか、こんなイベント中に、こういうふざけた態度を取っている人間。この学園には他にいない。 この人は、よりにもよって自分が決めたこのイベントで何をやっているのだろう。正直ふつふつと湧き上がってくる怒りがあるが、それ以上に…。 「……チャンス」 ついつい口元に浮かんでしまう怪しい笑みが押さえられない。 俺はCチーム。そして会長はBチーム。誰がどう考えても明らかな敵だ。倒していい存在だ。 そもそもぶちのめさないといけない相手だ。多少やり過ぎてもみんな見て見ぬフリをしてくれることは間違いない。 しかもなんという無防備。さすがにあれなら俺一人でも問題ない。 これぞまさに千載一遇のチャンス。ネギしょった鴨だ。 「……けど、さすがに怪しいな」 いくらあの会長とはいえ、こんなリアルファイトのど真ん中で、あそこまで無防備な姿をさらすだろうか。 ……まあ、会長ならさらしかねないからまた怖いんだけれど。 ここはやはり……。 いや、とりあえず今はみんなと合流して情報を伝えることを優先に考えよう。こうしてゲームをしている分には無害だし。 ……個人的には後ろから百トンハンマーあたりを振り下ろしてみたいところだけど。 俺は多少引かれる後ろ髪を振り払いつつ、そっとその場を後にした。 「数だったらこっちも負けてない。ここは全力で戦うべきだ」 「あっはっは、今日を桜子団最期の日にしてやるぜーっ」 俺の呼びかけに、真っ先にあきらが反応した。周囲の親衛隊には目もくれず、ただ桜子を狙って連射する。 「きゃあぁっ」 可愛らしい悲鳴を上げ、身を竦める桜子。が、そんな桜子を守るように、さっきと同様、桜子親衛隊が壁になる。 「もらったあっ」 そして、その隙を見逃すような天音じゃない。飛び出してきたその親衛隊達を、すかさず倒していく。 そんな天音の後を追うように銃を撃つ俺。鉄壁の壁といえども限りはある。ここにいる俺達で波状攻撃をしかければ、いつかは尽きる。 その作戦は的中した。無限に湧き出るかのように見えた親衛隊も、ようやくその数を目に見えて減らし始める。 「今ならいける!」 「任せろお!」 「悪く思わないでね、桜子!」 多少強引に突撃をかける俺達。水無瀬はBチーム。ここでこの恐ろしい集団を倒せたことは、間違いなくCチームを勝利へと近づけたはずだ。 「だ、駄目えぇぇ!」 が、不意に上がった声がそのすべてを覆す。 「な、なんだ?」 「桜子さんにこれ以上銃を向けるなんて、あたしには出来ないいいっ!」 チームメイトAは桜子親衛隊Aにクラスチェンジした!! 「って、はいぃ!?」 「ち、ちょっと待って! 何よそれ!?」 「ごめんねみんな……でもわかって! 時には他の何を捨てても守らなければいけないものがあるの!」 「いや、待ておい。わかれって、それどんな強制!? いくらなんでもそんなん無理すぎる!」 「元チームメイトAよ! わかる、わかるぞ、わかりすぎるぞ! 桜子さん! 一時であれあなたに銃を向けてしまった愚かな俺をお許し下さい!」 チームメイトBが桜子親衛隊Bにクラスチェンジした!! 「無理じゃなかったー!?」 「私も続くわ元チームメイトA・B!!」 チームメイトCが桜子親衛隊Cにクラスチェンジした!! 「へっ、何を今更っ。こいつで終わりだ!」 「桜子さん、危ない!!」 桜子親衛隊Aが桜子を守った。桜子親衛隊Aにポイ二つ分のダメージ。桜子親衛隊Aは致命傷を受けた。 「な、なんだとぉ!?」 かつてチームメイトだったはずの生徒が取ったその行動に、俺達は思わず目を丸くする。 そしてゆっくりと崩れ落ちたその体を、水無瀬が慌てて抱き上げた。 「だ、だめですそんな! 私のためにチームの皆さんを裏切るなんて……」 「いえ、いいんです桜子さん……あたしの命は、あなたの命です。あなたが生きてくれればあたし達も……」 「ど、どうか、最後まで、生きて……」 「だ、だめです! お願い!」 親衛隊Aの手を、力強く握りしめる水無瀬。親衛隊Aは、澄んだ青空みたいな爽やかな笑顔を浮かべ、静かにその生を終えた。 「って、待ておい!」 「なんだこの三流ドラマ!」 「親衛隊Aーーーーーーー!!」 「俺は……俺はお前を誇りに思う! 安心しろ。桜子さんはきっと俺達が守ってみせる!」 「あなたの命、決して無駄にはしない!」 「俺もだ!」 チームメイトDが桜子親衛隊Dにクラスチェンジした!! 「私も!」 チームメイトEが桜子親衛隊Eにクラスチェンジした!! 「私だって!!」 チームメイトFが桜子親衛隊Fにクラスチェンジした!! 「な、何、これ……」 チームメイト大勢が桜子親衛隊大勢にクラスチェンジした!! いったいどれだけの水無瀬親衛隊がこのクラスにはいたというのだろう。次々にクラスチェンジし、水無瀬の盾として飛び出していくチームメイトだった者達。 「は、はははは……はは……」 「こ、こいつはちょっとやばくないか……?」 「ごめんなさい葛木さんっ。でも皆さん、きっと悪気はないんです。許してあげてください」 ぺこぺこと俺達に向かって頭を下げ続ける水無瀬。いや、これもう悪気がどうとかいう問題じゃないです。 まあ、クラスチェンジする気持ちはわかるけど……水無瀬可愛いし。 「や、やっぱりだめです。皆さんのお気持ち、凄く嬉しいです。でも、だからこそ、皆さんのチームのために戦って下さい」 「私、一人でも頑張りますから!」 さすがに今の状況がありえないとわかっているのだろう。水無瀬は必死に親衛隊を元に戻そうと説得に入る。 「桜子さん、俺達のために……なんとお優しい……」 「俺は、桜子さんのためなら死ねるぞおおおお!!」 「俺達もだあああああああ!!」 「あの……あの…うう、どうしてこうなっちゃうんでしょう…」 「アイドルって本当に大変なんだなあ……」 感動にむせび泣く信者連中と、通じない自分の思いに涙するアイドル。さすがに、ちょっと同情したくなってしまった。 「同情してる場合じゃないぜ、晶!」 「そうね、今なら!」 今がチャンスと目を光らせ、銃を構えるあきらと天音。親衛隊が感動のあまり立ち尽くしている今、水無瀬は完全な無防備。盾はない。 二人の人差し指が、同時に引き金を引いた。そしてそのまま連射する。 「きゃああっ!!」 「危ない、水無瀬ぇ!」 俺は、そんな水無瀬を守るべく飛び出していた。 「って、ちょっとお!」 「待て、おい!」 「あれ?」 二人の水鉄砲から放たれた無数の水弾は、一切の容赦無く、無慈悲な現実となって俺のポイを両方とも貫いていった……。 「なにやってんのよ、あんたーっ!!」 「……すいません。いやほんと、つい……」 いや、だってなんかかわいそうでさあ……。 そうだ。やるしかない。 相手は『あの』茉百合さんだ、簡単に逃がしてもらえるとは思えない。ならここは漢らしく、正面からぶつかるべきだ。 まあ、相手はそれでも女の子。ちょっと申し訳なくも思うけれど。 「申し訳ないですけれど、茉百合さん、ここでリタイアして下さい!」 出来るだけ手加減はしますから、と心の中で謝りながら俺は水鉄砲を構える。 このまま牽制で数発撃って、一気に距離を詰める。それでまず終わりに出来るはず。茉百合さん相手にあまり手荒なマネはしたくない。 が、茉百合さんはそれを流れるような動作でかわすと…。 「ごめんなさいね」 カウンターとばかりに、まるでマシンガンみたいな速度で無数の弾を撃ち返してくる。 「え?」 まるで車に轢かれたカエルみたいな声が出た。 咄嗟に思い切り横に飛んだおかげでなんとかポイは無事だったものの、それはただ運がよかっただけ。はっきり言えば、偶然だ。 「な、な、な、なんですか、今の攻撃!」 「ふふっ、私こう見えても、体を動かすことは結構得意なのよ」 いつも通り爽やかに微笑みながら言う茉百合さん。容姿端麗、頭脳明晰、性格温厚……で、よりにもよって運動神経抜群ですか!? こ、この人揺るぎない! 「晶くんも、遠慮はいらないわ。全力で遊びましょう」 すみません。僕、今までの人生の中で、これほどまでに楽しそうな笑顔を見たことありません。 「それじゃあ、いくわね」 言葉と同時に、茉百合さんの体が視界から消える。どうやら横に跳んだらしい。とどまってたら確実にやられる。俺は慌てて走り出す。 茉百合さんの姿を追って、俺は走りながら周囲を見回すが、なんという機動力。目が追いつかない。 そして撃ち出されるのは西部時代の保安官も真っ青な連射攻撃。一瞬でも気を抜けば、あっという間にポイは二つとも破られる。 「これ、能力値が最初から違いすぎますってーっ」 そう叫びながらも必死にかわし続けるものの、そろそろ限界だ。頭の中がこんがらがってわけわからなくなってきてる。 そしてついに、俺は足をつまづかせる。どうにか転ばずにはすんだものの、その硬直時間は致命的だった。 「ごめんなさいね」 茉百合さんの銃口が、俺へと向けられているのがわかる。そしてその細く綺麗な指が、引き金にかけられているのも。俺は覚悟を決めた。 「あぶなぃぃぃー!」 が、その瞬間、茉百合さんのスカートが思い切り捲れ上がる。 「え?」 「え?」 「す、すずの!?」 突如として割り込んできたすずのの突進によって捲り上げられた、茉百合さんのスカート。 そのスラリとした長い足が、そして何よりもその中心にあるものが、俺の視界に晒されかけ…。 「っ!」 俺を撃つことを忘れ、慌てて両手でスカートを押さえる茉百合さん。さすがに動きが俊敏、ギリギリの所でスカートの中身を守りきった。 茉百合さん、ニーハイソックスかと思ってたら、ストッキングだったんですね…。 「な、何!? 風!?」 周りを見渡して慌てる茉百合さん。初めて目の当たりにするその光景に、思わず見入ってしまいそうになるが、早く、と訴えるすずのの目が、俺を正気に戻した。 「茉百合さん、すみません!」 俺は銃をその手に茉百合さんのもとへと駆け寄ると、狙いを定めて引き金を引く。 茉百合さんのポイは、二つとも破れ落ちた。 「はぁ……負けちゃったわね。まさかここで、あんな風のいたずらがくるなんて。運も実力のうちかしら…」 「い、いやあ、ただの偶然ですよ、ほんと」 俺の勝利を呼び込んでくれたすずのへと、俺は目をやる。 すずのはいつのまにか校舎の影に隠れてて、小さなガッツポーズで俺を祝福してくれていた。 「でも、あまり鼻の下を伸ばしてるのはほめられないわよ。…見てたでしょ」 「い、いやその……あれは不慮の事故ということで……それに肝心なとこは…」 「まぁいいわ。私の不注意もあるものね」 「た、助かります……」 茉百合さんのファンの多さは身に染みてわかってるからな。万一広まりでもしたら、命が大ピンチだ。 「それじゃあ、私は敗者らしく教室に戻るわね。こうなったら応援してるから、頑張って」 言うと、茉百合さんは校舎の中へと向けて立ち去っていった。負けても爽やかな人だなあ……。 「でも、ありがとうな、すずの。おかげで助かった」 まだ隠れているすずのに話しかけると、ようやくそろりと出てきてくれる。 「わ…わたしも、晶さんと同じチームですから」 チームの一人として勝利に貢献出来たことが余程嬉しいのか、すずのはニッコリと笑った。 うん、その通りだ。ちょっと卑怯だったかなとも思ったけど、すずのだってCチームの一員。だったら何もおかしくない。チームの勝利に貢献しただけだ。 でも、あれ…? ポイはつけてないのかな? それだったら、もしかしてルール違反にならないのだろうか? 「あのさ、ポイは…」 ばたんっ。 「って、すずの!? いきなり倒れるな、おい! 大丈夫か!?」 「す、すみませぇん。ちょっとふらふらしちゃって……目が回って……」 「平気か? なんなら保健室に……」 「そうですね……保健室で休ませてもらいます……」 「あ、わたし一人で大丈夫ですから…。お邪魔するわけにはいきませんから」 「いや、でも……」 「それじゃあ、頑張って下さいね」 すずのは俺の言葉を遮るように言うと、まだ少しフラフラとしながらも、保健室のある校舎へと向かって歩いていった。 ……そうだな。ここはすずのの分も頑張って、Cチームを勝たせよう。 すずののおかげで茉百合さんを倒せた。これは本当に大きい。みんなと合流して報告しておこう。 ……にしても茉百合さん…… すごくドキドキしました。 「あれ?」 真っ直ぐ水飲み場へと向かう最中で、面白い姿をそこに見つける。 段差に座り、ただひたすらに携帯ゲーム機との戦いを繰り広げる一人のバ……会長の姿。 「あの人、自分で始めたイベントにも参加せず何やってんだ……」 思わず後ろからフライングクロスチョップで飛び込みたくなる衝動を、どうにか抑え込んだ。 「いくら会長でも、あそこまで無防備っていうのはちょっと気にかかる……罠、っぽいよなあ」 まあ、あの会長だし。問答無用で本当にゲームやってるだけって可能性も低くない。 どちらにせよ、俺一人で行動するのはちょっと危険だ。 まずはみんなと合流して、それから考えよう。 今の茉百合さんは俺の知っている茉百合さんじゃない。まさに一流の中の一流。 そんな相手に背を向けて無事でいられる保証なんてどこにもない。 ここは逃げるよりも、勝負だ! 「それじゃあ茉百合さん、申し訳ないですけれど、ここでリタイアしてもらいます!」 俺は叫びながら、茉百合さんめがけて数発の水弾を撃ち放った。的に当たらなくとも牽制になればいい。その間に距離をつめて……。 だがそんな俺の考えを、茉百合さんは軽く打ち砕いた。 慌てることもなく軽く横にさけると、涼しげに笑う。ダメだ、牽制にもなってない。 「それじゃあ、いくわね」 瞬間、カチン、とどこかでスイッチの入ったような音が聞こえた気がした。 そして、怒濤のように撃ち放たれる茉百合さんの水弾。西部時代の保安官を思わせるような早撃ちに、俺は思わず悲鳴を上げていた。 「うふふ。普通の男子よりもちょっぴり身体能力の高い女の子もいるのよ?」 「これはちょっぴりじゃないでしょー!!」 必死に逃げる俺を、それを上回る動きで追い詰め、攻撃してくる茉百合さん。どんなに逃げても、どこに逃げても、一向に距離が開いてくれない。 かといってこちらの攻撃はさらりとかわされ、お返しとばかりのカウンター攻撃でさらに追い詰められるの繰り返し。 お、俺は今、いったい何と戦っているというんだ。 こんなの到底勝てる気がしない。逃がしてももらえそうにない。 「茉百合さんが深窓の令嬢。そんな風に思っていた時期が俺にもありました……」 「これでも、実は結構おてんばさんなのよ」 うふ、と可愛らしく笑う茉百合さん。いつまでも見惚れていたくなる、そんな魅力的な表情を見れたことがせめてもの救いか。 茉百合さんの銃の照準が、ピタリと俺に向けられた……。 その先は……言うまでもない。 俺は、稲羽をかばうようにして前に出る。 「葛木くん?」 「二人ともやられる必要はない。ここは俺が押さえるから、稲羽はその隙に逃げて天音達に報告してくれ。あの機械は、情報無しで挑むには危険すぎる」 「で、でもっ」 俺の言うことを否定しようとして、けれど結局言葉に出来ない。稲羽も、あの部隊がどれだけ危険かわかっているんだろう。 悔しそうな顔を浮かべ、それでも、それが今一番正しい手段だと悟り頷いた。 「葛木くん……この戦いが終わったら、一緒に学食に行って葛木くんの大好きなごはんを食べよう」 「待って、それ思いっきり俺の死亡フラグ!!」 こんな場面できっちり相手の死亡フラグ立ててくとは、稲羽、恐ろしい子! 「それじゃあ、任せたぞ!」 「うん! 思いっきり学食で大好きなごはんを食べよう!」 「そこ強調!?」 俺はたった一人の相棒を構えると、正面に向かって駆けだした。同時に稲羽も反対側へ、拠点目指して走り出す。 「いくぞ、九条、ぐみちゃん!」 そして九条とぐみちゃん、二人の意識をわざと名前を呼ぶことで俺へと向けた。当然攻撃も忘れない。 「くるりん! ゆいちゃんさんが!」 「逃がさない。スプラッシュ分隊!」 九条の号令の下、動き始める水鉄砲機械軍団。多少なりとも時間は稼いだ。あとは稲羽がなんとか自力で逃げてくれることを祈るのみだ。 が、次の瞬間…。 「葛木に早河、それから九条か」 不意に響いたそのたった一言が、戦場の時間を止めた。 「い、今の声、まさか……」 「早すぎる。三十分は動けないはず……」 言いながら慌てて時計を見た九条は、そこで珍しくも悔しそうに表情を歪ませた。 「三十三分経過……しまった。予想以上に葛木に粘られた……」 響いた声には当然俺も覚えがあった。そのあまりの性能に、二つのハンデを持たされた人。 振り返ったそこに…。 「八重野先輩!」 そこに、予想通りの男の姿があった。 俺達と同じ水鉄砲を右手にぶら下げ、いつも通りの冷静そのものな顔で、そこに立っている。 確かに二つあるポイの一個には紙がはられてない。 「本当に、副会長……どうしよう、くるりん……」 「出来れば準備がちゃんと整うまでは戦いたくない。逃げたいところだけど……」 そこに立っている。ただそれだけのことなのに、それだけで充分だった。ただそれだけで、俺達は完全に威圧されてしまっている。 そのまま八重野先輩は、状況を確認するように周囲をぐるりと見回した。 「三人か」 確認は終わった。そう確かめるように紡がれた、いつも通りの声。どうやらドサクサに紛れて、稲羽は上手く逃げられたみたいだ。 「お前達にはすまんが、好都合だ。三十分しかないんでな、固まってくれていた方がいい」 「全滅させるには、少しばかり時間が短いんでな」 今、さらりととんでもないこと言ったぞ、この人。 「簡単にはやられない……」 九条の言葉に合わせて、周囲の機械兵器がすべて八重野先輩へと向いた。そのまま流れるように動き、取り囲む。 「なるほど、奏龍の作った穴だらけのルールの隙を突いたようだが甘いな」 だが八重野先輩は表情一つ変えずに言うと、次の瞬間、その手を閃くように動かした。 何やら鈍い、けれどもあからさまに嫌な予感のする音が響く。 「スプラッシュ三号!?」 九条の機械の一体が、煙を上げながら地面に落ちた。 「機械は機械。水による攻撃しか認められていない人間とは違って、直接攻撃が許される」 その手のひらでいくつかの石ころを弄んでいる八重野先輩。その言葉に、九条の顔色が瞬時に変わる。 「いや、えらく簡単にいいますけど、あれ、速度とかも相当異常……」 九条の号令に従い、一斉に動き始めるスプラッシュ分隊。人には到底叶わない速度と動きで、八重野先輩を攻め立てる。 が、全方位から放たれるその攻撃を、八重野先輩は易々と見切り、かわしていった。その腕が閃くその度に、鋼鉄の機械が一つ、また一つと撃墜されていく。 こ、この人本当に人間か!? 「しょーくんさん! 手を組みましょう!」 その圧倒的な状況に、ぐみちゃんが慌てて俺の手を取り言った。 「手を?」 「副会長のスペックはご覧の通りです。一人鉄人です。ワンマンアーミーです! 一騎当千です!」 「あのまま放置しておけば、本当に三十分でA・Cチームは壊滅させられます! ここは手を組み、共闘してあの放射能怪獣を倒しましょう!」 確かに、あんな凶悪戦士を放置しておけば、本気でどうなるかわからない。この二人と共闘すれば可能性はあるが…。 水のみ場に戻ると、天音やあきら達が戻ってきていた。稲羽の姿もちゃんとある。 「葛木くん、無事だったんだ。よかった、お疲れ様」 「稲羽こそ無事でなにより。みんなもお疲れ、どうだった?」 「とりあえず少しだけれど、A・B両チームとも交戦してきたわ。それなりに戦果は挙げてきた」 「はっはっは、視界に入る奴一人残さず狩ってやったぜ! 敵味方構わずな!」 「構えよ!」 美少女ボディーバージョンのせいか、いつも以上に壊れてるなこいつ。まあ、アタッカーとしてはかなり期待出来そうだけど。 ……その分、俺らの方が注意しないとオウンゴール連発しそうだ。 「それで、葛木くんの方は?」 「多少の手に汗握るハプニングはあったけど、なんとか生き延びた。で、少し偵察してきたんだけど、その途中……」 「なにいっ、まさか逃げてきたのか晶! お前それでも男か!? 真ん中に、たぎる男の象徴ついてんのか!?」 「……その姿でそういうこと言われると凄く萎えるからお願い、やめて……」 姿だけなら美少女なんだよなあ、姿だけなら……。 「とりあえずこの男女状態あきらくんは放っておいて、話しを続けましょう。途中にどうしたの?」 「てめえこら天音! だれが男女だ! せめて女男と言え、バッキャロー!」 ……その程度で済む問題なのか……。 「そ、そうだな。で、こっち戻ってくる途中に、いつも通りにゲームに夢中になってる会長を見つけた」 「獲りに行くわよ」 「いや、何をだよ。ゲーム? ただまあ、あまりに無防備すぎてさ、やっぱり罠じゃないかって思うんだよな」 「いいえ、首を獲りに」 「直球かよ! 天音は会長が絡むと過激になるなあ」 「そうか? 俺は天音に賛成だぜ。逃げてばかりじゃ勝利は掴めねえしな。大体罠って言ってもあの会長だぜ。ゲームに夢中になってんのはいつも通りだろ」 「あきらくんの言う通りよ。そもそもアイツに、罠なんて高等な行動がとれるはずないわ!」 「あ、それ俺の生涯の中でも一、二を争うくらいに凄い説得力」 確かに、あの会長が自ら罠を張るとは考えにくい。そんなのめんどくさい、もしくはやっといて、で終わらせる人だ。 「なに、どうしても不安だっていうなら、固まって行動すればいい。伏兵がいても逆に食い破っちまえばいいんだよ」 「そうね。ゲームの内容が内容なだけに、しかけられる罠なんかたかが知れてるし、正面から破ってしまえばいいのよ」 言ってることは間違ってない気もするんだけど、会長関わってるだけに天音の意見は鵜呑みにしにくいんだよなあ。 「稲羽はどう思う?」 「え、わ、わたし?」 突然振られたせいか、稲羽は驚いたように声を上げた。やっぱりちょっとぼーっとしていたみたいだ。 「やっぱり元気ないな。本当に大丈夫か? 体調悪いんじゃないのか?」 「う、ううん。全然大丈夫だよ、ほんとにほら」 「誰がどう見ても大丈夫には見えないけど」 「体調良くないならここにいると危険だな。少し校舎にでも行って休むか?」 「そうね、誰かについていってもらうといいわ。葛木くん、行ける?」 「おいおい、会長退治はどうするんだ?」 「う……でも結衣も心配だし……まあ、アレの件は居場所聞ければ私が息の根止めてくるから」 「私は本当に大丈夫だから。みんなで会長さんのところ行ってきていいよ」 うーん。確かに稲羽も心配だし、会長も天音のブレーキ役が必要な気がする。どっちを優先するか。 「一人じゃ心配だし、俺は稲羽に付き添うよ」 俺がそう言うと、天音は笑顔で頷いた。 そして、何人かの生徒とあきらを連れてそのまま駆け出していく。 「じゃあ、俺たちは教室に行くか」 残った稲羽は、少し申し訳なさそうに頷いた。 「……そうだな。じゃあ天音についていくことにする。…心配だし」 俺がそう言うと、天音は何故心配されるのかわからないって顔をした。 いつ暴走するかわからないから、と言ったら蹴られそうなので黙っておく。 稲羽のことは、他のクラスメイトにでも頼んで付き添ってもらおう。 そうだ。こんな千載一遇のチャンス、そうそう訪れるものじゃない。無謀な突撃は問題外だが、慎重になりすぎてせっかくのチャンスを逃すのは単なる臆病だ。 「ふふふ……覚悟しろよ…日頃の仕返し……いやいや違う、これもチームの勝利のためだ」 普段のあまりに勤勉な会長の姿が脳裏に浮かぶ。それだけで会長に対する忠誠心がうずうずと動き出す。 「大丈夫、骨は下水道に流してあげます」 舌なめずりをしながら、草むらに隠れ近づいていく俺。 あの会長をぶちのめす。その甘美な響きが俺の体全体を支配し、今までの人生の中ですらなかった昂揚感が指の先まで満ちていた。 いける。今ならきっといける。そんな自信が、いつもの何倍にも自分の力を高めている。体が軽い。思うがままに動かせる。 ここだっ。会長の目の前。飛び出せばほんの数歩で射程に捉えられる絶好の位置。俺は銃を構えると改めて会長の位置を確認し…。 「もらったあぁぁぁっ!!」 全身を駆け巡るこの歓喜。指先どころか髪の毛一本の先に至るまで、葛木晶であるすべてが喜びに打ち震えていた。 「覚悟っ!!」 肺の中の空気をすべて吐き出し、溢れる思いをたった一つの言葉に代える。振り向いた会長が驚きの顔を浮かべるのがスローモーションのように視界に映った。 俺は狙いを会長に定めると、今その万感の思いを込めて―― 視界に映る顔が敗北の涙にまみれるのを想像しながら―― 会心の笑顔で、引き金を、引いた―― はずだった。 「あれ?」 視界にはなぜかスレスレの地面。 「敗北の涙にまみれた哀れな負け犬の顔は?」 ぱちくりとまばたき三回。 視界にはやっぱりスレスレの地面。 「く……ぶっふうぅーーー!!!!」 明らかに知っている声が、頭の上から聞こえた。 「くくく…わはははははははは!! すごい! すごい落ちっぷり! あははは!!」 「そんな芸術的に落とし穴にハマれるなんて、しょーくんは天才! あははははは!」 上から浴びせられる馬鹿笑いに、俺はやっと状況を把握した。つまりは、やっぱり罠だったということだ。 落とし穴。あまりにも原始的で効果的で屈辱的な仕掛けに、俺は見事はまってしまったらしい。 く、屈辱すぎるっ! 「いや…頑張って作った甲斐があったなぁ〜! こんな見事に引っかかってくれるなんて!」 「……普段は何もしないくせに、こういう嫌がらせに関しては率先して働くんだな……」 地面から、頭だけがひょっこり出ているこの状況。フグの毒に当たったわけでもあるまいし、こんな状況永遠にないと思ってました。つーか深いだろ、これ! 「あー涙出てきた! そんな目して見上げないで! ふふふふふ、顔だけ出して…くくくくく…ぷっ…」 「ひひひひ、おなかイタイ!! しょーくんは俺を笑い殺す気か!! あはははははははははっ」 駄目だこの人。根本的に何かが駄目だ。 「ほんっっっっっっっっっとに、いらないことにしか頑張らないんだな……」 「ぷくく…ところで、敗北の涙にまみれた負け犬ってなに? 俺、そんなにしょーくんに恨みもたれてたかなぁ?」 「まあ、今まさに笑いの涙にまみれてるけどね…くっくっくっく……」 「滅相もございません。というかこの状況で他に何を言えと…」 「うんうん。しょーくんのそういう所、俺は大好きだよ〜。というわけでご・褒・美♪」 「…ぶっ!」 会長は俺に水鉄砲を向けると容赦無く引き金を引いた。ぴゅっぴゅと吹き出す水が、俺の顔を直撃する。 「うわっ、ちょっと何ふざけてるんですか! わざと狙い外してるだろ!」 「だってー、せっかくの獲物だしぃ。すぐに倒しちゃったらつまんない。そーれぴゅっぴゅぴゅっぴゅ〜」 実に楽しげに、俺の顔へと水をかけ続ける会長。くくう、なんて屈辱。この人は悪魔だ! 鬼だ! 会長だ! 「やー、素敵な姿だね、しょーくん! こんな顔だけ地面から生えてる状態で水かけられて。頭から芽でも出てきそう! るんるーん♪」 「あっ……っと、危うくポイにかかっちゃうとこだった、あぶないあぶない〜! あははは!」 駄目だ。この人やっぱりバカだ。バカというか、むしろアホだ。会長だ。 このままじゃあ、いつか会長にも飽きがくる。そうすればすぐにでもリタイア確定だ。どうにかこの落とし穴から脱出しないと。 腕は……駄目だ。腕どころか足も体も全身が動けない。自力脱出は不可能だ。だとすれば、どうする。誰の力を借りればいい……。 「その提案、乗った!」 さすがに、あんな化け物を一人で倒せると思うほどバカじゃない。ここは素直に協力しあって、この最大の難関を倒しておくべきだろう。 「九条、ぐみちゃん、包囲するぞ!」 「わかった」 「はい、しょーくんさん!」 正面から三人で立ち向かっても一瞬でやられるだけ。ここは包囲して、三方向から同時に攻める。 機械相手と違い、こちらは人間だ。水鉄砲の水以外での攻撃は認められていない。さっきまでのような対応は出来ないはず。 「なるほど、一時的に手を組んだか。まあ、敵の敵は味方というしな。この場合は正しい判断だ」 だが八重野先輩は、この状況においても眉一つ動かさず、余裕綽々といった態度で俺達を見回す。 「だが、少し遅かったな。九条の機械がもう少し多くあるうちだったらまだ違ったとは思うが」 この短時間の間に、九条のスプラッシュ分隊は半減していた。本当にどこの世界の改造人間だこの人は。 俺達三人に囲まれながらもまるで動じていない八重野先輩。正直、三人+スプラッシュ分隊で囲んでもあまり勝てる気がしない。だが、それでもやるしかない。 この人相手に受け身じゃ絶対無理だな。ここは先手必勝! 「九条、ぐみちゃん!」 叫ぶと同時に走り出す俺。二人もすぐに反応し動き出す。三人からの同時攻撃。これで倒せなくても体勢さえ崩せれば、その先にチャンスは生まれるはず。 八重野先輩のライフは一つだけ。たった一回だけでもチャンスがあれば勝てる可能性はある。 「狙いを絞らせないよう動き回りながらの同時攻撃。これが必殺、下手なてっぽも数撃ちゃあたる戦法です!」 「他に手がないので当たって砕けろ戦法です」 「お願いだからもう少しだけでも捻って!」 間違ってないだけになんか辛いー。 だが八重野先輩は、そんな俺達の攻撃を易々とかわしていく。 「まずは、残しておくと一番厄介そうな葛木、お前からリタイアしてもらう」 しかもカウンター攻撃のおまけ付き。それをかわせたのは、ただの運としか言いようがない。 だが運も実力のうち。かわされると思っていなかったのか、八重野先輩の動きが、わずかに驚きで鈍くなる。そのスキを見逃す俺達じゃない。 体勢の崩れている俺に変わって、九条とぐみちゃん、二人が背後から攻撃をかける。 勝った。この瞬間の俺達は間違いなくそう確信していた。が、そんな俺達をあざ笑うかのように、八重野先輩はありえない動きを見せる。 後ろから撃たれた二発の弾を、まるで背中に目でもあるような動きでかわす八重野先輩。そして振り向きざまに二発の水弾を撃ち放った。 それは正確無比に、九条の二つのポイを撃ち抜いていく。 「くるりん!?」 「順番は狂ったが、まず一人だな」 「本当に、ターミネーターみたいな人だな……」 あの状態からの完全回避。そして反撃。あれでだめならどういう状況でならこの人を倒せるのか。懸命に手段を探すものの、見つかるはずもない。 「くるりんをよくも! です!」 「駄目だ、ぐみちゃん!」 目の前で九条をやられたことに逆上し、敵討ちとばかりに突撃していくぐみちゃん。慌てて引き留めようとするものの、俺の声が届くはずもない。 その直線的な攻撃を八重野先輩は軽々とかわすと、お返しとばかりに引き金を引いた。 「これであと一人」 あっという間に二人を片付け、俺へと向き直る八重野先輩。駄目だ、分かってはいたけど絶対駄目だ。レベルが根本的に違いすぎる。 「ぐみちゃん? あの人本当に人間!?」 「た、多分違うと思いますー!」 「あれが人間だというのなら、こっちは虫ケラ以下」 「随分と酷い言われようだな」 そんな俺達の会話に、さすがに苦笑する八重野先輩。大丈夫です先輩。あなたは間違いなく人外ですから。あとで認定証差し上げます。 瞬殺だけはされないように、なんとか距離を取りながら銃を構える。 とにかく粘るしかない。粘り続ければ増援が来てくれるかもしれないし、少なくともこの人を引きつけておければ、チームの勝利も大分近づくはずだ。 「いくぞ」 「……出来ればこないで下さい」 「そんな冗談がまだ言えるか。中々楽しませてもらえそうだな」 いえ、本気の本気で本心です。 そんな俺の思いも通じるわけはなく、八重野先輩が動く。とにかくよけろ。何も考えなくていい、いいからよけろ俺! 野生の猛獣を思わせる突進。どうにか反応し横へと飛ぶが、わずかに遅かった。八重野先輩からの攻撃が俺のポイの片方を貫く。 一発だけでもかわせたのは儲けものだろう。 「ただではやられませんっ!」 少しでも苦戦させないと。銃口を八重野先輩へと向け、必死に引き金を引く。が、水が出ない。 なんど引き金を引こうとも結果は同じ。カシュ、カシュ、と手応えのない反応が返ってくるだけ。 「うそ! ここで弾切れ!?」 考えてみれば九条やぐみちゃん達相手から連戦だ。こんな小さな銃にそこまで大量の水が入るはずもない。 「すまんが、そこで見逃してやるほどお人好しじゃないぞ、俺も」 背筋が凍った。どこまでも冷静な最終通告。あまりの出来事に動きの止っていた俺に、八重野先輩の銃口が、音も無く向けられる。 やられるっ。 どうやら時間稼ぎすらも出来なかったらしい。圧倒的な力の差に絶望に似た感情を抱きつつ、俺は悔しさに八重野先輩を睨み付けた。 が、その銃口からは、いつまで経っても何も出てこない。 「……どうやら、お前は本当に悪運が強いようだな」 「え……?」 どこか愉快そうに言いながら、水鉄砲を上に向ける八重野先輩。そのまま引き金を引くものの、そこから水は出なかった。 「水切れだ。補充に戻る」 そして先輩は振り返ると、あっさりその場を立ち去っていった。 あまりに潔すぎるその行動に、何が起こったのかが理解できない。それから少しして、八重野先輩の姿が本当に消えたことを改めて認識し、俺はその場に座り込んだ。 「助かった、のか……」 八重野先輩。ただ者でないとはわかっていたけれど、まさか人間じゃないとは思っていなかった……。 どうやらここに来るまでにも、そこそこの人数を潰してきたんだろう。三分程度の間に。本当に、どういう反則性能だ。 「うううう、ここで副会長に出会ってしまうなんて想定外です」 「野良犬に噛まれたと思って忘れるしかない。あとは時間が解決してくれる」 ガックリと項垂れるぐみちゃんと、それを慰める九条。残念だが二人はリタイアだ。 狙われる順番が一つ違えば俺がこうなっていた。そう考えると自分の悪運の強さに本当にビックリだ。 「俺も戻ろう……」 とにかく水を補充しないことにはただの的だ。俺は途中他のチームと出会わないよう祈りながら、水飲み場へと足を向けた。 「ぐみちゃんには悪いけど、拒否させてもらう」 いくら相手がBチームの八重野先輩とはいえ、ぐみちゃんや九条も敵のチームだ。共闘なんて出来るわけがない。 「ええええ! なんでですか! しょーくんさん、考え直して下さい! 敵は一人で全滅宣言した人ですよ!」 「確かに八重野先輩が異常なのはよくわかるけど、俺も男だからね。正面から勝負してみたくなっちゃうんだよ」 「それに、あの九条のスプラッシュ分隊を相手にしたあととなれば、それなりの疲弊もしてるはず。なら俺にだって可能性はあるはずだ」 「……それ、正面からなんですか……」 「……戦う時はちゃんと正面から挑むので…」 いや、それくらいのハンデは下さい。男の子でも無理なもんは無理なんで。 「というわけだから、出来るだけ九条には頑張ってもらって……」 「って、あれ?」 応援しようと二人の戦いに目をやれば、その戦いは既に終了していた。 「十二機のスプラッシュが全滅……わずか三分で……」 「は、早すぎるだろ、これ! 俺らのチーム、壊滅させた兵器だぞ!?」 「もう終わりのようだな」 しかもこの人、まったく疲弊してない!? 「えーと……もしかして俺、選択肢間違えた……?」 「どうしたんですかー。正面から挑むんじゃないんですかー」 いや、さすがにこれは想定外すぎるというか……この防災訓練、バランス悪すぎないか、おい!? 「時間が無い、続けていくぞ」 そして告げられる最終通告。それは、もう逃げられないという意味を持っていた。 「男の方が残しておくと厄介だからな。潔く死んでもらうぞ、葛木」 「ええ!? まっさきに俺からですか!?」 「無論だ」 そんな無慈悲な言葉のもと、目の前の改造人間は容赦無く銃の引き金を引いた。 「保健室でなくて平気か?」 適当に、空いてる席に座らせた稲羽に確認してみる。 「う、うん。本当に体調が悪いとかじゃないから……」 確かに、稲羽は元気が無いとはいえども顔色も悪くないし、ここに来る足取りもしっかりとしていた。 「ちょっとごめん」 「うーん、額も特に熱くないし、熱があるってわけでもないみたいだな」 「でも、今日の稲羽、明らかに変だぞ。いつもみたいな元気さないし」 「本当に大丈夫か? きついなら正直に……あー、女の子特有の、とかいうんだったら別に言わなくていいからな、うん」 言ってる途中でその可能性に行き当たり、慌てて顔を逸らす俺。そ、そうだよなー。稲羽女の子だし、言えない理由の一つや二つくらいあるよなあ。 稲羽は俺の言葉の意味に気付いたらしい。両手を小さく振りながら必死の違うアピールを見せる。 そして、諦めたのか、そのまま恥ずかしそうにうつむくと、呟くように言った。 「あ、あの……今日、朝ご飯食べ損ねて……お昼もそんなに食べれなくて…おなか、すいちゃって……」 「動いたら余計おなかがすくというか……」 「あぁー…、それは辛いよな。確かに、それなら元気もでないか」 なるほど納得だ。 空腹のあの辛さ。体の底から何かが奪われていくような、あの絶望感。 うん、それはきつい。 理由を聞き、うんうんと頷く俺を、けれど稲羽はキョトンと不思議そうな顔で見上げていた。 「えっと……俺、何か変なこと言った?」 「……おかしくない、かな」 「何が?」 「だ、だって、あの……女の子がこんな理由……」 「いや、腹が減るのは生きてるなら当然のことだろ。男も女も関係ないし。三大欲求の名は伊達じゃないぞ」 そもそも人間は、食べなきゃ元気が出ない構造になってるんだし。 けれど稲羽は、小さく首を振ると、俺の言葉を否定した。 「わたし、おなか減るのが普通じゃないというか、よ、欲求が強すぎるというか…たべものがだいすきというか…」 「別に俺だって大好きだけど…ごはんは死ぬほど食べるし」 「だって葛木くんは男の子だからいっぱい食べるのは普通だけど! わ、わたし…」 「前の学校で、友達と遊びに行ったとき、お昼にお店入って……」 「いつもと同じように食べてただけだったんだけど、そうしたら近くにいた人に、男の子に間違われて……『彼氏さん、凄い食べっぷりですねえ』って」 「それで、みんなに笑われたの……ついたあだ名がハラペコ王子。次の日にはそれ学校中に知れ渡ってて…」 「だからここに来たとき、決心したの! もうハラペコ王子は卒業しよう、食べる量は普通の女の子ぐらいにしようって…」 「でもそれだと、すごく…おなか、すいちゃうんだよね…」 恥ずかしそうに、うつむいたままで言う稲羽は、本当に小さく見えた。 食べっぷりで男に間違われるなんて、さすがにショックだったんだろうな…。 けれど、今の稲羽を見て、同じように勘違いする奴がいるとは思えないんだけど。 「でも、さすがに今は男と間違えられたりしないだろ。稲羽は普通にかわいいし」 学園の男子生徒の誰もが思ってるだろう当り前のことを、やっぱり当たり前に言う。 その瞬間、ぼんっ、と音を立てて稲羽の顔が真っ赤になった。 「か、かわいい?」 「うん。俺はそう思うけど」 「そうだな。そう考えると、この学園凄いな。かわいい子いっぱいだ。でも、稲羽だって同じくらいかわいいよ」 「そ、そう……かな……ありがと……」 真っ赤になったまま、うつむく稲羽。さっきまでのうつむきとは、ちょっと態度が違う。 「ああ、そうだ。ちょっと待ってて……」 確かあったはず。そう思いながら俺はズボンのポケットを探る。そして思った通り、それはあった。 「ほら。あまり足しにはならないかもしれないけど、とりあえず」 いざという時のための携帯用おやつ。小さいけれどカロリーも高めでそれなりに満足感も得られる、素敵なやつだ。 「え……でも悪いよ。わたしが食べちゃったら葛木くんが」 「俺は朝も昼もお腹いっぱい食べてるから、まだ多少は大丈夫だよ」 拒否は認めない、とばかりに、俺は笑いながら稲羽にそれを差し出した。そんな俺の気持ちを汲み取ってくれたのか、稲羽は素直に受け取ってくれる。 「……ありがとう」 稲羽は丁寧に包み紙をはがすと、女の子らしく口に運んだ。そしてニッコリと、いつも通りの笑顔を浮かべる。 「うん、おいしい」 「だろ。それ、俺のお勧めの一品だぞ」 「うん、今度お店で探してみる。これでこのイベントが終わるまで、わたし頑張れそう!」 「俺も、今の本当においしそうに食べる稲羽の顔見たら、頑張ろうって気になった」 「あ、あはは……恥ずかしいけど、そう言ってくれたの、嬉しい」 「稲羽とだったら、なんでも本当においしく食べられそうだな」 「わたしも、葛木くんとだったら楽しく食べられそう」 「うん。それじゃあ、このイベント終わったら、一緒にご飯食べに行こう!」 「それで二人でおもいっきり、おいしそうな顔しながら、お腹いっぱいになるまでご飯食べようっ」 「いいな、それ」 「よしっ。それじゃあ、ご飯をもっとおいしく食べるためにも、後半戦頑張らねば!」 稲羽は小さくガッツポーズをとると、立ち上がった。どうやらいつもの元気を取り戻してくれたらしい。 うん。やっぱり稲羽はこうでないといけない。 俺達は、そのまま教室の出口へと向かっていった。 「でも、それだけ食べるのが好きってことは、稲羽が転校してきた理由ってもしかして……」 不意に気になって、何気なく尋ねてみる。それはもしかしたら、俺と同じなんじゃないだろうか。 が、稲羽は、またも恥ずかしそうに視線をそらせてしまう。そして体をモジモジとさせながら言った。 「あ、あの、ね。すっごくバカっぽい理由なの……」 「ここのご飯、食べ放題じゃない……」 「……好きなだけ食べられるから?」 「ほ、ほら、ね。すっっっっっごくバカっぽい理由でしょ!」 ズズイ、っと耳まで赤い顔を寄せて、その理由を否定する稲羽。い、いや、それは……。 「そ、そうだな。転校理由がそれっていうのは……で、でもさあ、結構かわいい感じもする理由じゃないか?」 「そ、そんなことないよっ。絶対変だよ、こんな理由。他の人に言ったら笑われちゃう。葛木くんだからだよ、笑わないでくれるの」 「そ、そうかなあ……」 顔を真っ赤にして言ってくる稲羽に、乾いた笑いを浮かべながら答える俺。 「わたしも、もっと葛木くん見習ってしっかりしなくちゃっ。同じ転校生として恥ずかしいもんね」 「あ、あははは……」 い、言えない! 今更絶対言えない! 同じ理由だなんて! 俺、なにか凄い勘違いされちゃってる!? 「それじゃあ、あとちょっと頑張ろう!」 「お、お-っ!」 俺は額を流れる汗を隠しつつ、元気を取り戻した稲羽と一緒にみんなのいる水のみ場へと戻っていった。 ここは変にかっこつけてる場合じゃない。というか、こんな格好でかっこつけてもより恥ずかしい。 ここは素直に誰かの助けを期待しよう。 頭を下げることは決して恥なんかじゃない! あいつなら、あいつならきっと必ず確実に来てくれる。そう、高らかにこう叫べば! 「会長がー!! 天音とのめくるめく嬉し恥ずかし兄妹ライフをハートマーク付きで語っていますー!」 「やめろばかああああああああああ!!」 「……ほ、ほんと早いなー」 「天音ー! お兄ちゃんの勝利の瞬間を祝いに来てくれたんだね、さすがマイシスター!」 「って、疑問にも思わないのか、こいつは!」 ポジティブシンキングって言葉はあるけど、ここまでくると何か特殊な病気なんじゃないかって思っちゃうよな、やっぱり。 そんな会長の言葉に、天音は嫌悪感バリバリな顔を向ける。 「そんなわけないでしょう! だいたい何の勝利よ」 「もちろんこれだぁぁ! みよー!」 「あああ、さらさないで、さらさないでお願いー! 見ないで、こんな俺を見ないでー!!」 頭を下げることは恥じゃない……この格好を見られることが恥でしたー! くすん。 「ほーらほーら」 「そこで水かけないで下さい、顔にー!」 「……葛木くん、何やってるの?」 「いやもう、現状の通り……」 「やー、俺のしかけた罠にはまったんだよ! それも今までもこれからも、半永久的にないような芸術的な形で!」 「……葛木くん……」 「面目ないです、はい……」 「でもまあ、おかげで引導を渡すチャンスが出来たわけだし、感謝するわ。あなたの犠牲、忘れないから」 「いえ、まだポイはどっちも無傷なんで、助けていただければ……」 「覚悟しなさい、生徒会長!」 「いやあ、ここまで妹に追われるというのも兄冥利に尽きるなあ。ドキドキするよ!」 向けられる銃口に、あくまでマイペースな会長。この人、凄いのかバカなのかどっちなんだ? 「やーっと追いついたぜ、天音っ」 「天音ちゃん、足速すぎるよお」 「あきらくん、結衣、遅いわよ」 そして、このタイミングで現れる援軍二人。おお、頼もしいぞ、マイフレンズ! 「覚悟しな。三対一で、勝ち目はないぜ」 「いやあの、俺を助けてくれれば四対一……」 「いやあ、RPGなんかだと実に燃えるシチュエーションだね」 「でもさすがに不利なのでここは先手必勝かと思います! とやっ!」 と笑った瞬間、会長は不意打ちのような勢いで、天音達へと向けて引き金を引いた。 「あれ?」 が、何も起こらない。どれだけ引き金を引こうとも、カシュ、カシュ、と寂しい音だけが響き渡る。 「弾切れみたいね。葛木くん相手に遊びすぎたんじゃない? 今度こそ本当に、覚悟してもらおうかしら」 「辞世の句はもう読みました?」 「あ、天音ちゃん。笑顔が輝いてるよ……」 「へへ、いい顔してるじゃねーか天音。それこそ戦いの中で生きる熱き漢達の顔だぜ」 「何を言うか! 天音はこの俺の可愛い可愛い妹だぞ! いくら漢らしくても女の子だ!」 ぶちん、という音が周囲一帯に響いた気がした。 「ま、待って天音! お兄ちゃんをそんな責め立ててどうする! 美しい兄妹愛は!?」 「そんなもの、近所の犬の餌にしました!」 その犬、腹壊したんじゃないかなあ、かわいそうに。 「もらったぜ会長!」 あきらの攻撃を咄嗟の横っ飛びでかわす会長。そのまま銃口をあきらへと向け、そして思い出す。その銃にはもう水が入っていない。 「さ、さすがに大ピンチかなぁ……うーん…」 珍しく弱気な会長の声。包囲を狭めていく三人を前に、ジリジリと後ろへと下がっていく。そして…。 「よし、天音! お兄ちゃんの背中を追っておいで!!」 そのままダッシュで逃げ出した。 「まだ逃げるなんて、往生際が悪いわよ!!」 「へっ、逃がしてたまるかよ!」 「こういう勝負は最後まで生き延びた者が勝ちなんだよ!」 慌てて追いかけようとする二人を尻目に校舎の中へと飛び込もうとする会長。 「ごめんなさいね、皇くん」 が、そんな会長の行く手を塞ぐように、校舎の窓から一人の女性が颯爽と飛び出した。 「茉百合さん!!」 「うげっ、まゆりちゃん!」 「申し訳ないけど、これも別チームの運命。便乗させてもらうわね」 いつも通りの気品ある笑顔を浮かべ、その銃を会長へと向ける茉百合さん。 「台所の悪魔並のしぶとさも、これでおしまいよ!」 「今度こそ決まりだな」 「ごめんなさい会長さん」 そして、そのまま会長を包囲しようと囲んでいく我がCチームの三人。 どうやら、あの会長もやっと年貢の納め時みたいだ。 この状況になれば、さすがに助けを求めちゃってもいいかなあ、と思っちゃう俺です。 とはいえ、今助けを呼べば、誰か一人が挟み撃ちから抜けちゃうわけで、多少のスキを作ってしまうことにもなりかねない。どうする? 今は耐えよう。なんだかんだいっても勝負の最中。ここはそんなに奥まった場所でもないし校舎からだって丸見えだ。 だれかが気付いてくれても不思議はない。 会長を倒す絶好のチャンスとなれば、みんな捨て置かないだろう。 だから今は我慢だ。必ず助けが来る、そう信じてこの屈辱に耐えるんだ葛木晶! 「きゅぽーん」 「って、何マジック取り出してるんですか、会長!」 「しょーくんは、『肉』『にく』『中』『米』『口にも出来ない恥ずかしいマーク』のどれがスキ?」 「ああ、そこ! だから本当にマジックやめいいっ!」 無理です! こんな屈辱耐えられません! 「ヘルプ! どなたかヘルプミイ!」 そう叫んだ時だった。 「はーい。承りました」 その、澄んだ歌声のような声が聞こえたのは。 そして目の前にある校舎の窓から、艶やかな黒髪をなびかせながら、一人の女性が現れる。 「茉百合さん!!」 「だめよ、皇くん。あんまり下級生をいじめちゃ」 「うぅ、よりにもよってまゆりちゃんとはね。ついてないなあ俺も」 さすがの会長も、目の前に降り立ったその姿に逃げ腰になる。 何しろマジックを出してたせいで、銃は地面に放り出したままだ。正面からの勝負では勝ち目がないことをわかっているんだろう。 ……自業自得だけど、ほんとバカだな。 「それじゃあ、ごめんなさいね皇くん。これも勝負だから」 「だねえ。これも勝負だし」 そして放たれる茉百合さんの連続攻撃。慌てて逃げる会長だが、その一発が会長のポイに一つ穴を開ける。 「うわわわわわわわあ!」 すかさず追撃をしようとする茉百合さんだが、ここは会長を褒めるべきだろうか。 恐らくはもしもの場合も考えてあったんだろう。茉百合さんが出てきたものとは別の窓から、校舎の中へと飛び込んだ。 「セーフ! セーフ!」 「残念。しとめ損ねちゃった」 「いやあ、やっぱりまゆりちゃんは厳しいなあ。悪いけど、このまま逃げさせてもらうよ」 「しょーくんにイタズラ書き出来なかったのは残念だけど、それじゃあ二人とも、ばっはっは〜い」 そして会長は、校舎の中を走ってこの場から逃げていった。 「ほんとに、逃げ足は速い人だなあ……」 「本当よね。でもまあ、一つは命中させたからよしとしましょう」 「にしても、ありがとうございます。本当に助かりました」 「あら、私たち別チームなのよ?」 「え?」 その細い指をあごに当て、首を傾げるようにして言う茉百合さん。いやあのちょっと……まじですか? 一瞬で顔色の変わった俺を見て、その心中を察したのだろう。茉百合さんはくすくすと楽しそうに笑い出した。そして俺の目の前にしゃがみこむ。 じ、冗談ですか……本当に心臓に悪いなあ、茉百合さんの冗談は……。 愉快そうに笑いながら言う茉百合さん。男として、この人には見られたくなかったなあ、やっぱり……。 と悲しんだところで不意に気がついた。この体勢、実は何気に天国!? スカート姿の茉百合さんが、地面スレスレに頭のある俺の前にしゃがみこみ。それはすなわち、スカートの中身が見えかけてしまったりするということで……。 あっ、でも幸せの薄い布は絶妙に足でガードして……さすがだ、茉百合さん。 「晶くん。あなたも男の子だから、そういうのに喜んじゃう気持ちは理解出来なくもないけど。でもほめられたものでもないわよね?」 うあああああ! 視線が読まれてた!? 「ごめんなさいね。私達、別チームなのよ」 「え、いや、あの、その、じ、冗談でなしですかあ!?」 素敵な笑顔のもとに放たれた茉百合さんの攻撃は、俺の命を二つとも、いともたやすく奪っていった……。 ここは会長の力を借りよう。うまく言いくるめて助けてもらうしかない。 考えるんだ。会長が喜んで欲しがりそうなもの……俺は持ってるか? いや、この際持ってないものでもいい、この穴から抜け出しさえすれば何とでもなる! 「と、取引しましょう!」 「んー? なにいきなり? どうしたの?」 「俺は、兄に対する素直な気持ちをつづった天音のメールを持っているっ!」 「なっ……なにぃ!?」 すまん、天音っ。このピンチを切り抜けるため、今ひとときだけ許してくれっ。 「それはそれは感動する内容なので今すぐ会長に読ませてあげたいけど、今のままでは端末が取り出せません」 「ということで取引しましょう。俺をここから出してくれれば、そのメール読ませてやってもいい!」 「くぅ、きたないぞしょーくん! 天音の心を売って自分が助かろうなどとは! あーでも気になる! すごい気になる!」 よし、何だかんだ言いつつもしっかり引っかかりかけてる! 「それ…最初、どんなこと書いてた? ちょーっとだけ、ちょっとだけでも…」 「『葛木くん、今日は兄が迷惑をかけてごめんなさい。でもね、私…』 あとは、見てからのお楽しみで」 「うおぉぉおぉイヤな所で切りやがってー!!」 ちなみに続きは『でもね、私、生徒会に入るのはもう少しよく考えてからの方がいいと思う』なんだけど。 きたっ! さあ、問題は助けられてからどう逃げるかだけど……。 「―――でもその前に、いっぺん死んでおいて♪」 「あれ?」 一瞬の躊躇もなく引かれた会長の銃の引き金。それは今までのおふざけとは違い、情け容赦無く俺のポイを引き裂いた。二つとも。 愕然とする俺に、会長は爽やかに言い切った。 「穴からは助けるよー、穴からはねー! ね、俺、約束守るいい子でしょ」 「どこがだあぁぁ!」 確かにここから出してとしか言ってなかったけど……。 それを逆手にとられて会長の屁理屈にひっかかったのかと思うと、何だかとてもショックな俺でした。 「な、なんとか戻ってこれた……」 本当に、まだ生き残ってるのが嘘みたいだ。なんといっても、ただ運がよかっただけ、だもんな。八重野先輩……出来ればもう会いたくないもんだ。 「葛木くん! よかった、無事だったぁ」 俺の姿を見つけた稲羽が、本当に嬉しそうに駆け寄ってきてくれる。 「稲羽こそ、よかった。無事に辿り着けてたんだな」 「うん。丁度戻ってくる途中のみんなと合流できて。でも凄いね、葛木くん。なんだか奇跡の生還って感じだよ」 稲羽は、俺の頭に残っているボロボロのポイを見て驚嘆の声を上げた。 「いや、本当に運がよかっただけだよ。助かったことがまだ信じられないくらいだ」 そんな俺達の会話を聞きつけたのか、あきらがやってくる。 「無事だったか晶。さすがマイ親友だ」 「まあな。それであきら、天音は?」 「会長と相打ちでやられた。だが、いさぎよい、まさに漢らしい死に様だったぜ」 「うおう! 誰だいったい! この体だったからいいものの、いつものナイスボディだったら傷ついてたぞ!」 「えーと……天音ちゃんみたい。校舎の窓から体出して怒ってる」 「漢とはどういうことよ、漢とは!!」 「……どういう耳してるんだ、あいつは」 そもそも、こっちの体の方が傷ついたら怖い気がするんだけれどどうだろう。 そんな俺達の会話を聞きつけたのか、武器に水を補給していたあきらがやってくる。 「おぉーい、晶〜!」 あきらは、結衣の元気な姿を見るとよかったとでも言いたげににっこりと笑った。 「今、状況はどうなってるんだ?」 「えーっと、残り時間約十五分ってところで、Aチームは全滅しちゃったみたい」 端末を見ながら、稲羽が状況を説明してくれる。現在生き残ってる人間の数がリアルタイムで確認出来るので、非常に便利だ。 「ああ。ぐみちゃんと九条のリタイアが効いてるな。中心だっただろうし」 「Bチームはまだ残ってるけど、Cチームの方が人数多いね。うん、私たちのチームが一番だよ」 「まじかっ。凄いな、本当に優勝出来るかも」 「…って、なんだこれ?!」 俺が突然声をあげたので、結衣たちも慌てて端末を覗き込む。 「どうした、あきら?」 端末を見ながら突然声色を変えたあきらに、俺も慌てて端末を覗き込む。 「な、なにこれ? Cチームの人数がどんどん減ってく……」 まさにリアルタイムで、Cチームの残り人数が減っていく。その速度は尋常じゃない。こんなことを出来そうな存在、俺は一人しか知らない。 「八重野先輩だ……水を補給し直して、ハンデという名の檻から解き放たれたあの野獣が、再び獲物を狩りはじめたんだ」 「迂闊だったな。たしかにあの副会長が相手じゃあ、茉百合さんでも……」 「このままじゃあ、Bチームに人数追いつかれちゃう!」 「まずいな。この速さで削られたら、ゲーム終了まで到底もたねーぞ」 かといって、あの人相手に逃げ切れるとも思えない。なら……。 「やるしかないな」 「挑むのか?」 「ああ。このままじゃあどのみち俺達の負けだ。八重野先輩を倒すしか勝ち目はない」 「いいねえ、こういう分の悪い賭けは嫌いじゃないぜ」 「まあ、悪いどころかむしろまったく無いってのがポイントだな」 それでもやはり挑むしかない。どんな手段を使ってでも八重野先輩を倒すこと。それが俺達に残された勝つための最後の手。 「問題は、八重野先輩が今どこにいるか、だけど……」 ボヤボヤしてると、こっちが八重野先輩を見つける前に逆転不可能な数字にまでやられかねない。 「それなら多分、昇降口の周辺じゃないかな。残り時間を校舎に逃げようって考えてる人多いはずだし」 「なるほどねえ。そうやって逃げてきた生徒を待ち伏せして倒してるわけか」 「う……残り十分になったら校舎に全員で逃げればいいって思ってたんだけどなあ」 実行してたら、俺達も今頃やられてたかもしれないのか。 「つまり、晶の浅はかな考えはとっくに読まれてたというわけか」 「お、俺のせいじゃないぞ! 向こうが俺よりちょびっとだけ上手だっただけだ!」 「……その差はすっごく広そうだよなー」 くっ。そこで溜息をつくか…。 結論を最初に言えば、稲羽の考えは見事当たっていた。残り時間を見て、慌てて校舎へと向かってくる生徒達を、八重野先輩がほとんど一方的に打ち倒していく。 Cチームの面々も当然抵抗はするのだが、さすがは八重野先輩。根本的に何かが違う。基本的な性能が違いすぎる。 その光景は、もう戦闘じゃない。ただの虐殺だ。 「とはいえ、あのラスボスキャラに正面から挑んで勝てるわけがないんだよな」 「さすがのオレも、その意見には賛成せざるを得ない」 「それじゃあ、どうするの?」 「そうだなあ……」 「ここにいたの?」 「ああ、間違いない。この段差に座って一心不乱にゲームやってた」 結局、稲羽の付き添いは別の女子に頼み、俺は天音やあきら達と一緒に会長退治へとやってきた。けれど、どうやら少し遅かったみたいだ。 「それじゃあ、もう移動しちまったってことか? くそっ、せっかく来たのにハズレかよっ。オレは今、モーレツに欲求不満!!」 ゲームオーバーにでもなって、さっさと移動してしまったのか、そこに会長の姿はもう無かった。くそ、てっきりゲーム上手いのかと思ったらこれかよ。 「油断しないで。さっきのが葛木くんに姿を見せるのが目的の罠だとしたら、まだ近くにいるわよ」 「あ、そうか」 天音の言葉に俺達は慌てて周囲を見回す。確かに、これが罠だとすれば、その可能性は充分にある。 「はっはっは、こっちだよ〜。そーれ捕まえてごら〜ん♪」 「これは、俺の所までたどり着いてみせろという会長の試練なんですねー! わかります!」 「この防災訓練を利用してまで、ぐみを育てようというそのお心遣い。やっぱり会長は凄いです! ぐみは、ぐみはそのお気持ちに必ず応えてみせます!」 「だから待ってくださ〜い!!」 「いいから黙ってバカイチョウはバカイチョウらしくバカイチョウとして捕まれ。それがこの島の平和のため」 「らんらんら〜ん♪」 どこか微妙な空気を残し、目の前を駆け抜けてく三人の男女。 「……」 「……」 「……」 「……えーと……」 「会長、だよな、今の」 あまりの唐突な状況に、思わず俺達は立ち尽くす、が…。 「らんららら〜ん♪」 「さすが会長です、余裕めいているのに全然追いつけませんー!」 「屈辱。屈辱っ。屈辱!」 再び戻って来る三人。相変わらず鼻歌なんか口にしつつ逃げる会長を、ぐみちゃんと九条が必死になって追いかけていた。 「おや、天音じゃないかぁ! こんなところで会えるなんて、運命だね! とってもとっても嬉しいよ〜!」 その場に立ち尽くす俺達に気付いた会長は、天音に向かって陽気に手を振ってみせる。 「ま、待て天音、落ち着け! 気持ちはわかるがここで飛び出したら思うつぼだ!」 「止めないで! アレのお葬式に参加できるなら、ここで息絶えても私は本望!!」 「でも、ここで息絶えたら会長の葬式に参加できなくなるぞ!」 「あああああああ! なに、この矛盾!」 「これが私に対する天の仕打ち!? あの男と血縁関係にしただけではあきたらずこの仕打ち!」 「会長スイッチの入った天音は相変わらず人間変わるのな。で、どうすんだ? 会長行っちまうぞ」 「あ、天音〜! もし最後まで生き残れたらご褒美にお兄ちゃん今夜天音の部屋に泊まりにいっちゃってもいいかなぁ?」 「私の中で抹殺が可決!! 満場一致よ!」 「……」 「天音、行っちゃったなあ」 「へ、天音のあの熱い魂、オレは嫌いじゃないぜ」 「ここはあの熱い漢の魂を受け取って、オレらも会長を叩くべきだ! いくぞ晶! みんな!」 確かに、元々罠を覚悟の上で会長退治に来たんだ。ここはみんなで追うべきだろう。 さて、俺はどう追う? こういう時こそ周囲への警戒を忘れないようにしないとまずい。あきらに引っ張ってもらって、俺は殿を務めよう。 「いくぞみんな!」 意気揚々と天音と会長を追いかけていく我が精鋭達。俺は周囲に気を配りながら、その後ろを追いかけていった。 ここは先頭に立ってみんなを引っ張るべきだ。俺はそう決めると、全力で走り出す。 「みんな、晶に遅れを取るんじゃねーぞ!」 さすがにわかってるな、あきらは。背後で聞こえた声に頼もしさを感じつつ、俺は天音達を追って真っ直ぐに走って行った。 そうだな。この状態ならもう問題ないだろう。ここは素直に助けてもらおう。 「おーい、誰か一人でいいから、俺も掘り出してもらえませんかあ」 「あ、そうだね、ごめんなさい」 俺の救援依頼に反応して、稲羽が小走りでこちらへとやってきてくれる。 が、その瞬間を狙っていたかのように…。 「スキあり! 普段よりRPGで鍛えたエンカウントからの逃亡をご覧あれ!」 稲羽が離れて出来たスペース目指し、全速力で会長が走り出す。 「あーもう! ゴキブリなんかより、よっぽどしぶとい!!」 慌ててその後を追おうとする天音だが、会長の姿はすでに見えなくなっていた。 「なんて、逃げ足だ……」 「えっと……すごいね、ほんと……」 「あの人、サバイバルとかだけは本気で強そうだな……」 なんとか稲羽に助けられた俺は、会長の消えた先を唖然と眺めながら、ただ呟く。 「普段はともかく、皇くんのこういうところは本気で評価しちゃうわね」 茉百合さんは、頬に手の平を当て、呆れているのか感心しているのかわからない顔で言った。 確かにこういう会長の能力は、どう考えればいいのかわからない。有能なのか無能なのか、あまりに計りかねる。 「けれど俺はそれ以上に、こっちに銃口向けてるあなたがわかりません!」 ピッタリと俺のポイへと合わされた茉百合さんの照準。さすがにちょっと冗談に思えない。 「だって、ああなった皇くんはちょっと厄介だもの。だったら、今狙うべき敵チームは晶くんたちCチームじゃない?」 「さっき便乗させてもらうわね、とか言ったの、茉百合さんですよね!?」 「生きるっていうことは不条理な選択肢の連続なのよ。ごめんなさいね」 「なんて眩しい笑顔で言わないで下さい! あーもう、なんでお兄ちゃんと関わるとこうなるの!」 「いやあの、そもそも俺のせいですよね。本当にすみません…」 「わかって言ってるのかなー? 天音」 「えーと……の、のおこめんとでお願いします」 「本当にごめんなさいね。でも、これもバトルロイヤル方式のたどる必然的な運命なの」 まるで説得力のないセリフを、なんでも説得されてしまいそうな素敵な笑顔で言い放ち、容赦なく引き金を引く茉百合さん。 その銃口から、俺を敗北へと誘う水弾が、連続的に撃ち放たれる。 が、その間に天音が強引に体を挟んだ。数発の水弾が、その頭の的に二つとも穴を開ける。 「天音!?」 「私はいいから、早く茉百合さんを!」 そんな天音の声に弾かれるように、あきらと稲羽が動いた。すかさず銃撃戦が始まり、茉百合さんも慌てて距離を取る。 そして俺も、慌てて周囲を見回し銃を探す。落とし穴に落ちた時点で自分の水鉄砲は失った。誰のものでもいいから、代わりの銃が必要だ。 そして運良く。わずか数メートル先に落ちているそれを見つける。 「させないっ!」 俺の行動に気付いたのか、茉百合さんが慌てて俺を狙い打つ。が、そこにあきらと稲羽の援護が入った。ナイスだ二人共! カシュ! 「え!? 今のって……これ、さっきの会長のか!」 どうやら逃げる時に会長が落としていったものらしい。水切れだ。あのバカイチョウ! よりにもよって、こんなぬか喜びさせるようなものを!! 「こういうのもナイスフォローっていうのかしらね。皇くんに少しだけ感謝」 その状況に俺はもう戦力外と見たか、茉百合さんはとりあえず前方の二人へと意識を向けた。 が、その瞬間―― 「葛木くん!」 天音が大声で俺を呼ぶ。そして、その手に持っていた銃を、俺へと向けて放り投げた。俺はそれを空中でキャッチすると、迷わずに銃口を向ける。 俺に攻撃手段が無いと判断した直後の、本当に一瞬の油断。だがその油断が勝敗を分けた。 俺の手から放たれたその数発の水弾は、茉百合さんの頭の的を二つとも貫いていた。 「は、はは……当たってくれた……」 「やったわね、葛木くん」 ペタンと、その場に座り込む俺に、天音が笑いかけてくれる。 「いや、天音のおかげだ。ありがとな」 本当に、俺一人だったら絶対どうしようもなかった相手で。あそこで天音がいなかったらどうなってたことか。 「やりやがったな、晶! 大金星だぜ!」 「葛木くん!」 そして大喜びで駆け寄ってきてくれる二人。この二人の援護のおかげだな。俺が最後狙われなかったの。 「まさか、本当にやられちゃうとは思ってなかったわ」 そんな俺に、茉百合さんも爽やかに笑ってくれた。まあちょっとだけ悔しそうな感じがしたけど、それは気のせいということにしておこう。 「これでAチームの勝ちはほとんど無くなっちゃったかしらね」 「ゲーム終了まであと三十分。頑張ってね」 茉百合さんはそう微笑んで、校舎の中へと去っていった。 「それじゃあ、あとは頼んだわよ」 天音もリタイアになってしまった以上は、校舎の中での待機になる。戦力的に結構痛いけれど、彼女の分まで俺が頑張らないとな。 「うん、任せて!」 「へへ。宇宙船に乗ったつもりで待っててくれ」 「おまえそれ微妙すぎだよ……」 俺達は校舎へと向かった天音を見送ると、補給のために拠点へと向かっていった。 そうだ。助けてもらうのは会長を倒した後でいい。ここは我慢して、会長を完全挟み撃ちしてもらおう。 「なんていうか、凄く絶体絶命な気分が……」 「気分じゃなくて、現実なのよ。いいから素直にやられておくといいと思うわよ」 「はっはっは、この生徒会長皇奏龍! ただでやられるほど弱いと思うかね、皆の衆!」 「心の底から思ってる」 「実際弱いだろ」 「怖いので、これで終わっちゃって下さいっ」 「そうね。何かされる前に倒してしまいましょ」 「え、嘘、いやだからちょっと待ってええぇ!!」 四人の精鋭による情け容赦のない集中砲水の前に、悪の権化は滅んだ。これできっと、この防災訓練も平和になることだろう。 「ふん。さっさと校舎の中に戻って反省してなさい」 「本当に、勝負の世界って非情よね」 そんな言葉とは裏腹に、楽しげに笑っている茉百合さん。この人もさすがだなあ。 でもまあ、これでやっとこの恥ずかしい状況から解放してもらえそうだ。 「おーい誰かあ……」 そう助けを呼ぼうとした刹那― 「なんだ、もうやられたのか奏龍」 不意に聞こえたその声に、その場にいる全員が振り返った。 「なるほど、白鷺さんと遭遇したわけか、合点がいった。ついてなかったな」 そしてそこに立つ一人の男子生徒の姿に、慌てて身構える。 「ほんとついてなかったよ。しょーくんが落とし穴にハマった時は、今日の運勢は最高って思ったんだけどなぁ」 「お前の事だ、どうせ遊んでいたんだろう。さっさとリタイアさせて離れればよかったものを」 これだけの相手を前にして、まるで焦りもしていない八重野先輩。その足取りには、むしろ余裕すら感じられる。 「ちょっと悪業退治に熱くなりすぎたかしらね。もう三十分経ってることに気付かないなんて」 「どうやら二段構えの罠だったみたいだな。会長を囮に、副会長でとどめか」 「八重野先輩、強そう……」 学園公認で、わざわざ強力なハンデを二つも課せられた八重野先輩。その力が解き放たれたなら、いったいどれほどのものなのか。 普段のこの人を見てきた身からすれば、正直あまり戦いたくない。 「私にとってはラッキーだったわね。皇くんを挟み撃ちできたし」 そして、そんな八重野先輩の前に、一歩進み出る茉百合さん。 そう微笑みながら、八重野先輩と真っ直ぐに向き合う。八重野先輩もそれに応えるように、いつものふてぶてしい表情のまま、茉百合さんを見た。 これは、ある意味頂上決戦なんじゃないだろうか。二人の間に広がる張り詰めた空気に、俺も唾を飲む。 「出来ればさけたかったけど、やっぱり優勝するためには八重野くんを倒さないといけないみたいね」 「最大の壁が一番最初に来るとは思ってなかったが、こういうのも面白いな」 それは、まさに西部劇の決闘のようだった。 互いに向かい合ったまま、銃を持つ手をダランと下げ、合図となる何かを待つ。 その空気を読んだのか、会長が近くにある石を拾い上げると、放り投げた。軽い放物線を描きながら飛んだそれが、妙にゆっくりと落ちていく。 そして、静まり返ったその空間の中で、地面に到達した。 茉百合さんと八重野先輩、二人の腕が同時に、まさに目にも留まらぬ速さで動く。 次の瞬間、茉百合さんの二つのポイは、どちらも大きな穴が開いていた。 そして八重野先輩のポイは、咄嗟に首を傾けかわしたのだろう。無事なままだった。 「はあ…やっぱり、八重野くん相手じゃ無理ね」 予想通りとばかりの微笑を浮かべ、茉百合さんは肩をすくめる。 「いや、白鷺さんこそさすがだ。危うく命中させられるところだった」 「命中しなかったもの、意味ないわ」 「八重野くんは一つ、私は二つ。そんなハンデももらってこれだものね」 正直、あまりのハイレベルさに言葉も出ない。二人の手の動き、まったく目で追えなかったぞ。 それは俺だけでなく天音達も同じなんだろう。三人とも呆然と立ち尽くしたままだ。 「とりあえず、これで最大の難関は突破したわけだな」 そんな八重野先輩のセリフに、妙に嫌な予感がした。 「勝負だし、逃げなかった以上は仕方ないわよね」 そんな茉百合さんのセリフに、妙に諦めを感じた。 「悪く思うなよ」 八重野先輩の銃口が、静かに天音達へと向けられる。 「あ」 その瞬間、ようやく俺達は気がついた。 次は自分達の番なんだということに……。 「正面から挑んでもあれは無理だ。カードゲームで製作者専用に作られたインチキカード出されるようなものだろ」 「なんでここは八重野先輩の弾切れを待って、正々堂々と正面から挑む!」 「正々堂々と……??」 「勝負は勝ってこそ華ってもんよ。正々堂々なら文句はねえ」 「正々堂々なんだ……」 俺達は正面から堂々と八重野先輩を倒すため、近くの草むらへと身を隠した。 懸命に逃げようとするCチームのメンバーを、容赦無く打ち倒していく八重野先輩。かなり心苦しいが、それでも今ここで出て行くわけにはいかない。 ここで出て、それで俺達が負けてしまえばそれこそBチームの勝利が決まってしまう。ここは必死に自分を抑えなければいけない。 逃げながらも必死に撃ち返し、粘ろうとするCチーム。その一人一人が確実に八重野先輩に水を消費させていく。それは、チーム戦ならではのもの。 そしてその犠牲は、やがて確実に一つの機会を作り出す。 なんとか逃げようと必死に走るCチームの生徒へと向けられる、八重野先輩の銃口。だが、その引き金を先輩が引いた瞬間、それは空っぽな音を立てた。 「また水切れか。かなり戦ったからな、仕方ない。一度戻って補充をしてくるか」 残念そうに、銃を下ろす八重野先輩。 「八重野先輩、その命もらったあ!」 その待望の瞬間に、俺達は全力で飛び出した。 「なに!?」 さすがの八重野先輩も、今の自分の不利を悟っているのか、その顔色がわずかに変わる。 「はっはー、弾切れなのは分かってるんだ! 手も足も出せないままに、正々堂々正面から挑むオレらに敗北しちまいなあ!」 「やっぱり正々堂々なんだ……」 その奇襲をそれでもかわしきるあたり、この人のイカサマぶりがよくわかる。 「だけど、防戦一方でいつまで保ちますか!」 耐えに耐えてようやく掴んだこのチャンス、無駄になんてするはずがない。俺達は三人で八重野先輩を完全に包囲した。 勝った! 確かな自信を胸に、俺はとどめの一撃を撃ち放つ。 が、その刹那、目の前にいたはずの八重野先輩の姿が消えた。 「え?」 二人の言葉が届いた瞬間、目の前に八重野先輩の姿が現れる。 「あ、あの一瞬で懐に入り込まれた!?」 「すまんが、状況が状況だ。多少手荒なのは我慢してもらおう」 「え?」 俺は、反射的に後ろに跳んだ。が、それを狙っていたのか、八重野先輩の手から、弾切れとなった、もはや役立たずの銃が投げつけられる。 咄嗟に的を庇おうと前へと回した俺の両腕を、再び距離を詰めた八重野先輩が掴んだ。そしてその銃を、俺自身へと向けさせる。 そのまま銃口から放たれた水弾が、寸分の狂いもなく俺の的に穴を開けていった。 「まぢ、ですか……?」 あまりのことに、呆然と呟く俺。八重野先輩はすかさず、そんな俺の手から銃を奪い取った。 その銃口は、稲羽とあきら、残された二人へと容赦なく向けられる。 この規格外の副会長を止められるものは、もういなかった……。 「正面から挑むのは無理だ。けれど、強引な策で挑んでも効果ない気がする。ここはチームワークによる奇襲でいこう」 そんな俺の意見に、稲羽もあきらも力強く頷いてくれた。大丈夫だ、このメンバーならきっと勝てる。 「俺と稲羽の二人で、左右から奇襲をかける。八重野先輩の意識が俺達に完全に向いたところで、あきらはその後ろから突撃してくれ」 「オレがとどめ役か。いいねえ、たぎってくるぜ。よくぞ男に生まれけりってな」 「今は女の子なんだけど」 「オ・レ・は『男』だあ!」 ……多分すべての男子生徒が悔しがってるだろうなあ。あきらの中身。 「それじゃあ、行くぞ」 「葛木くん、頑張ろう! わたしも一生懸命サポートする」 「うん、頼むよ。俺ひとりじゃ勝負にもなんない」 俺と稲羽は、あきらにすべてを託すと、八重野先輩へと向かって飛び出していった。 突撃地点から八重野先輩のもとまで遮蔽物は無いに等しい。だからこそ左右からの突撃。気付かれるのを一秒でも遅らせるために、声も出さない。 「なるほど、両側からきたか」 が、さすがは八重野先輩。まだ半分も距離をつめられていないのに、俺と稲羽、両方に気付く。 すかさず銃を構える八重野先輩に、俺達はジグサグに動いて少しでも照準をはずしながら、攻撃しつつ近づいていく。 当然、こちらの攻撃が当たるとは思っていない。正攻法の攻撃が通じるなら、もっと楽にCチームは勝てていただろう。 俺と稲羽は、こっちの動きを読んだかのように放たれる八重野先輩の攻撃からどうにかポイを守り通す。ここでやられては、陽動にもならない。 「八重野先輩、覚悟ぉ!」 「当たって下さい!」 両サイドからの必死の連射。当たらなくてもいい。目的は、八重野先輩の意識を少しでも俺達に向けさせること。 というか、まったくもって当たる気がしませんっ。 「チート反対! バランスの取り直しを目的としたデバッグ期間の延長を求めます!」 「すまんが、それだと発売日に間に合わん」 二対一でもほとんど勝負になっていない。それも、こっちが遊ばれているのに近いのだからシャレにならない。 ただ、それでも俺達は食い下がる。あきらの突撃出来るチャンスを、どうにか作り出すために。 俺と稲羽、二人の力で食い下がる。 八重野先輩の照準が俺へと向けば稲羽が背後から狙い撃ち、稲羽へと向けば俺が撃つ。こちらの攻撃を当てられなくとも、互いがかわせる隙を作る。 この期に及んで、俺と稲羽の息は完璧にシンクロしていた。 互いを守り、生かす。そのためのチームワーク。俺達は一言も発することなく、互いの行動を信じ続けた。 「まさかここまで粘るか……」 さすがの八重野先輩の動きに、焦りが見え始める。当然だ。このままここで足止めをくらえば、自動でBチームの敗北が決まる。 「ここは、どちらか一人を倒すことに搾る!」 きた! 心の中でガッツポーズ。多少の無理をしながらも、俺を倒すことに集中し、稲羽へと完全に背中を向ける八重野先輩。 自分の身体能力の高さを知っているからこその行動。この人なら、それでも確かにかわせてしまうのかもしれない。 けれど、この状況で予想外の行動に対しては、どこまで反応出来るだろう。 「やっと出番が来たぜ!!」 あきらが待ちくたびれたとばかりに、全力で飛び出してくる。 「な!?」 さすがの八重野先輩でも、これには対処が遅れた。確認のため振り返ろうとするそこに、もう一手をくわえてやる。 「こっちを忘れてますよ!」 正面にいる俺からの攻撃。この状況で、それでもかわしきる八重野先輩。それも充分ありえないけれど、構わない。 「これが本命か!」 さすがの八重野先輩も、その表情を悔しげに歪める。俺達の勝ちだ。 が、誰もがそう確信するだろうその状況で、八重野先輩はラスボスとしてのプライドか、最後の抵抗を見せる。 ありえない超反応。無理やりに体を捻りながら、あきらへとその照準を向けようとする。 「えええっ!?」 「これでもダメ!?」 まさか、と叫ぶ俺達。けれど… 「へへっ! このオレが親友の信頼を裏切るわけにはいかねえだろ! とっておきの最終兵器、くらいやがれ!」 「ブースターオーン!」 その掛け声と共に、あきらの体が光り輝いた。 「ブースター!?」 突然のスピードアップ。それも人間の限界をたやすく越えたその加速に、さすがの八重野先輩もついていけない。 八重野先輩の銃口は目標を見失い、放たれた水弾は何もない空へと向かう。 そして、満を持して放たれたあきらの一撃は――。 見事八重野先輩のポイを撃ち抜いていた。 「やった、のか……?」 「やった、の……?」 その結果を未だに信じられず、顔を見合わせる俺と稲羽。けれどそんな俺達の前で、八重野先輩は地面に座り込んだ。 「やられた、な。見事だ」 「ブースター。確かメンテナンス一回につき一度だけの特殊機能だったな。前に九条が自慢げに語ってたが……まさか、ここで使ってくるとは」 「やったな、あきら!」 「あきらくん凄い!!」 見事期待に応えてくれたあきらに、俺達は飛びかかる。最強の敵、ラスボス八重野先輩を、俺達は今、確かに倒したんだ! 「へへっ、お前達が頑張ってくれたおかげだぜ。まさに友情の勝利ってやつだ!」 時間はもうほとんど残ってない。端末で確認すれば、ギリギリ二人差で俺達CチームがBチームを上回ってる。 危なかった。本当に危なかった。あと少し動くのが遅れてたら、八重野先輩によって俺達は負けていただろう。 「…あの……おめでとうございます」 「え?」 背後からかけられた声に振り返れば、そこに水無瀬が立っていた。 「水無瀬か」 「はい。まさか八重野さんが負けるなんて思っていませんでした。みなさん凄かったです」 「はは、ありがとう。いや、みんなで頑張った結果だよ」 「葛木くんも、あきらくんもかっこよかったんだよ」 「晶と結衣の必死の戦いが、オレの必殺の瞬間を作ってくれたのよ」 「……はい?」 「……え?」 「……なんだ?」 「えいっ」 かけ声と共に水無瀬の手から放たれた水が、俺達のポイにあっさり穴を開ける。 そして鳴り響く終了の鐘。 「あ……あたった…?」 「水無瀬はまだリタイアしていないからな。もちろん有効だ」 「……うそおっ!!」 慌てて端末を確認する。そこには、ついさっきより丁度三人分減ったCチームの数字があった。 「ど、どういうことだ?」 「さっきはわたしたちが二人多かったんだけど、そこから三人減ったわけだから……」 「わぁ、今日初めて当てることができました!」 「あ、みなさん、ごめんなさい。本当にごめんなさい」 ペコペコと、まるで水飲み鳥みたいに頭を下げ続ける水無瀬。 「ラスボス、こっちでしたか……」 バトルロイヤル水鉄砲こと防災訓練、終了。 勝者、Bチーム……。 「ふっふっふっふ。これで終わりよ、生徒会長!」 俺が辿り着いた時、そこはもうクライマックスだった。Cチームの面々に追い詰められた会長に、ニヤリと笑って銃口を向ける天音。 「おせーぞ晶。こっちはもう終わるところだ」 「みたいだな」 その状況に安堵しつつ、俺は周囲を見回した。 ……あれ。何か足りなくないか? 今、俺の目に映っている光景。その光景の中に、本来なら無ければならないはずのものがない。そんな違和感がある。 逃げる会長。それを見て追っていった天音。更にそれを追った俺達Cチーム……。 「おい天音、九条とぐみちゃんはどうした?」 そうだ。最初に会長を追っていたはずの二人。その姿がどこにも見当たらない。 「え?」 「あ……」 俺の言葉に、そういえば、と周囲を見回す天音。同時に会長の表情があからさまに変わった。ということは…… 「―――罠だぁ!」 叫び、慌てて周囲を見回すと、そこに一人の男の姿が映る。 「八重野先輩!!」 「気付いたか。やるな、葛木」 恐らく俺達を一カ所に集めて、背後から奇襲するつもりだったんだろう。木の後ろから、その姿を現す八重野先輩。 すかさず、その手に握った銃を連射するが、こっちもみんなその存在に気付いてる。 「きゃあっ」 数人がやられはするものの仕方ない。この人に奇襲を受けていたら間違いなく全滅だ。大半がかわしきれただけでもよしとするべきだろう。 「くっ、いつの間にか三十分経ってる……謀ったわね!」 「いやあ、大変だったんだよ〜、三十分間は逃げまくらないといけないし、人は集めないといけないし。まあ、途中休憩したりしてたけど」 「あとはまあ、時間を確認してたら蛍を待ってるのがバレるから、鼻歌で時間計ってたんだけどね」 あれで計ってたって……この人、他人をバカにすることに関してだけは本当に有能なんだな。 「九条とぐみちゃんは、それに騙されて八重野先輩にもうやられたわけか……」 「ビビる必要はないぜ晶! こっちは奇襲でもなければ人数で遙かに勝ってるんだ。むしろ返り討ちよ!」 「そうね。葛木くんのおかげで奇襲もかわしたし、今度はこっちの番よっ」 「そうだな。勝負だ、八重野先輩!!」 「手加減はせんぞ、葛木」 「あれ? えーと……俺は?」 「勝負だ、副会長!」 「勝負です、八重野先輩!」 「あまねぇ! お兄ちゃんは、お前をそんな冷たい子に育てた覚えはありませんよ!!」 「きゃあっ。この、ドサクサ紛れに抱きつこうとするな! ばか、ばか、ばかああああああ!!」 「恥ずかしがらなくてもいい! これが兄妹のスキンシップというものさ!」 「えっと、助けた方がいいのか?」 「むしろ巻き込まれる方が危険じゃねーか?」 くんずほぐれつ天音に抱きつこうとする会長を、全力の物理攻撃で否定する天音。 「悪いが、これも勝負なんでな。スキを見せたからには狙わせてもらう」 「!! 逃げろ、天音!」 しまった。あまりの状況にすっかり忘れていたけれど、こんなものに惑わされるような八重野先輩じゃなかった。 容赦無くその銃口を天音へと向け、引き金を引く八重野先輩。 「!!」 天音の両目が大きく見開かれた。会長に絡まれたままでかわせるような攻撃じゃない。会長、まさかこれを狙って……。 「あぶなーいっ!!」 けれど、そんな俺の想像を会長の予想外の行動が吹き飛ばす。迫り来るその水弾から、会長は自らを盾にして天音を守った。 「お、お兄ちゃん!?」 「大丈夫か、天音」 驚きに唖然とする天音に、微笑みかける会長。頭に付いているポイは、今の攻撃で二つとも破れていた。失格だ。 「な、なんで……私を……」 「可愛い妹を守るのは兄として当然のことだろう。そこにどんな理由がいる」 天音に向けられるその顔は、今までとは違っていた。お祭り好きで役立たずの会長の顔ではなく、大切な妹を体を張って守った兄の顔。 「お兄、ちゃん……」 天音は、今確かに、その兄としての優しさに触れていた。自然と瞳が潤み、声が震える。 「さあ天音、お兄ちゃんがここを押えているうちに早く逃げるんだ!!」 「って、こら抱きつくなあ!! こらっ、そこは! や、やめっ!」 「このおぉっ!!」 「下品な漢字使うなぁ! いい加減離れなさいよばかああああ!!」 「あああああっ、実の妹にこんなびしょびしょにされるなんてぇっ」 「あー……やっぱりバカイチョウ、だったな」 「実は仲いいんじゃないかって思えるようになってきたんだけどさあ、どうかなあ」 いつの間にやらいつも通りの顔に戻り、力いっぱい抱きついてくる会長に、天音はやはりいつも通りに切れた。 「……はあ……さすがに付き合ってられん」 「あ」 「あ」 「あ」 海よりも深い溜息をつきつつ放たれた八重野先輩の攻撃。それは実にあっさりと、天音のポイを二つとも貫いていった。 「ああ、なんてことだ。せっかくこの兄が体を張って守ったっていうのに……」 さすがに放送するには危険すぎるその兄妹関係からとりあえず目を離し、俺達は再び八重野先輩へと目をやった。 その目は真剣そのもの。少しでも気を抜けば、この首筋に食らいついてきそうな目で、俺とあきらを睨んでいる。 この人の中では、いまこの場で注意すべきは俺達二人、ということか。まったくもって、ありがたいやら悲しいやら。 「身体能力じゃあ到底敵いそうにない。ここは一斉に襲いかかろう」 「ちょっと癪だが仕方ねーな。副会長相手じゃ分が悪すぎる」 その距離を保ちつつ、銃を構える俺達Cチーム。ここでこの人を倒せれば、俺達のチームの勝ちはほぼ確定だろう。 「質より量か。賢明だな」 そして、そんな俺達を侮ることなく睨み続ける八重野先輩。くそっ。侮ってくれればスキも生まれるのに。 「行くぞ、晶!」 「おお!」 あきらのかけ声を合図に、一斉に動き出すCチーム。全方向からの一斉射撃だ、かわせるはずがない。 が、八重野先輩はそんな俺の考えをあっさり覆す。その場で身を低くかがめると、タイミングを見てポイをかばいながら前に飛び込み前転。すべてをかわし切った。 そして、当然のごとく返ってくる逆襲。そこから先はほとんど勝負とは言えなかった。 人とは思えない動きでこちらの攻撃を感知し、かわし切る八重野先輩。回避と同時に放たれるカウンターは精密射撃のような正確さでこちらの人数を減らしていく。 気がつけば、五分も経たないうちに、Cチームはほとんど壊滅状態となっていた。 「あ、ありえねえぞ、さすがに……」 「あの人本当に人間か……?」 出来ればここで違う、という返答がほしいところだ。 「お前達はよく粘った。もっと手早く終わらせるつもりだったからな。充分誇っていいぞ」 残っているのはもう俺とあきらの二人だけ。しかもどっちもポイの一つは開通済みだ。 「こうなったら仕方ねえ、最後の手段だ……晶、後は頼んだぜ」 「おい、何をするつもりだ」 「オレだからこそのとっておきがあるのよ。一度きりだけどな」 「だから、頼んだぜ。Cチームに勝利を」 「あきら……わかった。約束だ」 ニヤリと笑うあきらは、すべての覚悟を決めた熱い目をしていた。そんなあきらに応えるべく、俺もはっきりとそこで頷き返す。 「副会長の次の攻撃に合わせてオレが飛び込む。あとはオレを信じて副会長を真っ直ぐ攻めろ」 「任せろ。必ず当てる」 手にした銃の感触を改めて確かめ、俺は八重野先輩にすべての神経を向けた。隣ではあきらが、飛び込むタイミングを窺っている。 睨み合う俺達と八重野先輩。八重野先輩の腕が上がり、その銃口が俺達に向けられる。それは俺とあきら、いったいどっちに向けられているものなのか。 「ここまでだな」 「は?」 「なに!?」 八重野先輩は唐突にそう言うと、銃を下ろした。 「水切れだ。この状態で、何か企んでいるらしいお前達を相手にするのは骨が折れそうだ。一度補充に戻る」 そしてあっさりと背中を向けて歩き出す。無防備なはずのその背中だが、なぜか攻撃をくわえようという気にはなれなかった。 弾切れだとわかっているのに、攻撃した瞬間こちらが食われる。そんな気がしてならない。 「な、なんなんだ今の!? オ、オレの覚悟は!? 潔すぎないか、おい!」 あまりといえばあまりの急展開に、さすがに憤るあきら。まあ、見せ場潰されたわけだしなー。 でもまあ、とりあえず助かったことは間違いないようだ。なんか納得いかないが。 「くそう! 最初から最後まで完全に手の平の上かよ!」 「みたいだな……俺達の今日の運勢、どうやら最高だったらしい」 まるでスキのないその背中が遠ざかっていくのを眺めながら、俺達はその場にガックリと座り込んだ。 「ほんと、シャレになってないぞあの人……」 「天音、無事か!?」 やっと追いついたその背中に、まずは存在を教えるように声をかける。 「当然。あの元凶を滅ぼすまで、私に敗北は無いわ」 「うわ、しょーくんまで登場か。これはさすがにまいっちゃったなあ」 「ふっふっふっふ。これで終わりよ、生徒会長!」 ニヤリと笑って銃口を向ける天音。元の顔立ちがいいだけに、こういう顔も結構決まるなあ、天音は。 そんなことを考えながら周囲を見回し、そこでふと疑問が湧いた。この場に無ければいけないものが、何か足りない。そんな疑問が。 そういえば、なんで会長は逃げていた? 天音に追われてじゃなくて、その前に……。 そして俺は、やっと気付く。その疑問の正体に。 ――ぐみちゃんと九条がいない! 「お、おい、天音。何かおかしい……」 「はっはっはっはぁ! 騎兵隊見参だあ! 晶、天音! 生きてるだろうなあ!」 天音を呼びかける俺の声を掻き消す、あきらの声。それに続いて現れるチームメイト達に背中を押され、天音は周囲を見ることもなくその引き金を引く。 「その首、もらったわ!」 撃ち出された水弾が、そのポイを綺麗に撃ち抜いた。 「え……?」 天音のポイを。 その場にいた誰もが、言葉を失った。 圧倒的有利にいたはずの俺達。すでに弾切れ状態の会長を追い詰め、その的へと向けられた天音の銃口。そこにあったのは、俺達の完全な勝利。 にも関わらず、天音のポイに二つとも穴が空いている。 「すまんな。これも勝負だ」 「な!?」 背後から聞こえた声に振り向けば、そこに立つ八重野先輩の姿。その手に握られた銃がすかさず閃き、完全に気を抜いていたCチームのポイを次々に撃ち抜いていく。 「やべえ、ハメられた!!」 「そ、そんな……だって八重野先輩はハンデで……えええ! もう三十分過ぎてる!?」 「――っ!! 謀ったわね!」 「天音はよい妹だったが、チーム分けがいけないのだよ……」 「ごめんよ天音! お兄ちゃんを許しておくれー!」 「誰が許すかー!!」 そんな心温まる兄妹の交流の一方で、俺は理解していた。ぐみちゃんと九条も、既にこうしてこの人の餌食になったんだ、と。 「みんな逃げろ!」 叫び、慌てて散開しようとする俺達。だが時は既に遅すぎた。 「これでCチームはほぼ壊滅だな」 確実に人類を超越した動きで視界から消える八重野先輩。解き放たれた戦士を止められるものなんて、ここには誰もいなかった……。 「天音がやられた!?」 水飲み場へと戻った俺達は、その話を聞いて耳を疑った。 身体能力、という点でいうなら、天音は間違いなくうちのチームのエースだ。それが、こんな簡単に……。 「立派な最後だったぜ、まさに漢と呼ぶにふさわしい」 その目頭をハンカチでそっと押さえ、あきらは言った。 ……涙出るのか、お前。 しかし、まさかここで天音がリタイアしてしまうとは……。 話を聞けば、会長と刺し違えたらしいから決してただやられたってわけじゃなさそうだけど…。 「まあ、相手が悪かった。会長を追い詰めたところで、茉百合さんとバッタリ出会っちまってな。そのまま三つ巴の大混戦」 「結果、会長、茉百合さん、天音、と各チームそれぞれが倒れる痛み分けよ」 「そうか。さすが天音だな、決してタダではやられない……」 「茉百合さん倒せたのは大きいよね。Aチームのエースだし」 エースを失ったのは俺達も一緒だが、チーム全体の面子を比べてみれば、間違いなく俺達の方が有利だ。天音、お前の死は無駄にはしないぞ。 「よかった……なんとか戻ってこれたな。茉百合さんに狙われた時はどうなることかと思ったけど」 未だ健在だった拠点でチームメイト達とどうにか合流。俺達は久しぶりに安堵の息を吐いた。 「天音ちゃんに感謝しないとだね」 「まったくだ。でっかい借り作っちゃったなあ」 「けどまあ、茉百合さんを倒せたのはでっかいぜ。Aチームのポイントゲッターだ」 もし茉百合さんが生き残っていたら、うちのチームのメンバーも相当数を減らされたことだろう。それを阻止できたのは限りなく大きい。 「時間もあと十五分くらいしかないし、状況どうなってるんだろ」 「そうだな、ちょっと確認するか」 俺は各自渡されている端末を覗き込んだ。 うちのCチームも結構な被害は出ているみたいだな。特に天音の撃墜がでかいけど、それでも俺とあきら、それに稲羽がまだ健在。 「うわあ。結構頑張ってるね、わたしたち」 茉百合さんがリタイアしたこともあってか、Aチームはほとんど壊滅状態だった。 そして俺達Cチームは…… 「おお、すげえじゃねえかオレ達っ」 Bチームを押さえて、トップの座に座っていた。 「凄いな。このまま行けるんじゃないか、俺達」 そう確信めいて言った瞬間―― 「な、なんだ!?」 その数字が急激に減った。 「今、ガクンって減ったよね?」 「お、おい、また減ったぞっ」 信じられない速度で減り始めるCチームの人数。いくらなんでもこんなことを出来そうな人間なんて……。 「多分、副会長だな、こりゃあ。すっかり忘れてたぜ、あのリーサルウェポン」 「副会長って、八重野先輩か?」 「ああ。奴は人間じゃねえ。オレ達とは根本的に次元の違う存在だ」 「いや、お前、ロボじゃん…」 確かに気になってはいた。個人でありながら、二つものかなり大きなハンデを背負わされた存在。 つまりはそれだけの理由があるということ。生徒会での様子からしても相当なものだった。 「まさか、ここまでとは……」 「どうする? このままじゃ逆転されちゃうよ」 「どう見ても、終了までもたねえな、これは」 八重野先輩による猛攻。それをこのまま放置すれば間違いなく俺達の負けだ。どうするか。 八重野先輩は、比較的簡単に見つかった。 この時間帯での急激な生き残りの減少。この広い学園内、走り回るには時間的にも無理がある。 となれば、恐らくは待ち伏せ。そしてこの時間帯に確実に生徒が訪れる場所となれば、ここしかない。 十分間は隠れられるというルールを利用し、残り時間をこの中で潰そうと逃げ込む生徒は決して少なくないだろう。 「で、どうするんだ? 正面からいくのか?」 「無理に勝負を挑んでもこっちが不利だ。ここは攻めないでこの場所で迎え撃とう」 「でも、それだと八重野先輩がここに来てくれないといけないんだよね。こんなにたくさんのCチームがいる場所に」 「大丈夫。今のところはまだこっちのが数は多いんだ。このままみんながここにいれば、Bチームを勝たせるためにも八重野先輩はここを攻めなくちゃならなくなる」 「いい考えじゃねーか。Bチームが焦って全員で攻めて来たとしても、これだけの人数がいれば対応出来るしな」 「ああ。だからみんな、これから終了まで移動しないように」 八重野先輩がどんなに凄くても、これだけの数を相手には出来ないだろう。ここまでやったんだ。この勝負、俺達Cチームが絶対に勝たせてもらう。 「さあ八重野先輩、来るならどうぞ!」 「副会長が来たぞー!!」 「って、もう来たのか!?」 「凄い、葛木くんっ。八重野先輩、本当に来たよ」 「いやあ、あの人も結構外さねえなあ……」 「と、とりあえず行こう!」 八重野先輩、実は結構サービス精神旺盛な人なのかもなあ……。俺はそんなことを思いつつ、その場から駆け出した。 辿り着いた最前線は、まさに死屍累々状態だった。 「な、なんだこりゃあ!?」 「こ、これ、八重野先輩が一人で!?」 そのあまりにありえない光景に、俺は思わず言葉を失う。 圧倒的だった。圧倒的に、八重野先輩が押していた。Cチームの残りの戦力すべてを敵にして。 ポイを二つとも破られ、その場にがっくりと座り込むCチームのメンバー。しかもそれが、リアルタイムで増産されていく。 「来たか、葛木」 俺の姿に気付き、いつもと同じ気楽な挨拶をかけてくる八重野先輩。あ、またCチーム落とされた。 「へっ。この数相手にいつまでもつよ!」 「無論、最後までだ」 その言葉と同時に、八重野先輩のギアが、また一段上がる。 ありったけのCチームメンバーの攻撃をことごとくかわしながら、その正確な射撃で次々にこちらの数を減らしていく八重野先輩。 「これが八重野先輩の実力……いや、本気でCチーム全員相手に出来るだろこれ!」 俺は改めて思い知った。 何故この人に、あんなハンデが二つも必要だったのか。断言するけども、あれでも足りん!! 失敗した……まさか八重野先輩がこれほどまでに多人数を相手に出来るとは。 むしろ、少数精鋭でゲリラ戦とかしかけるべきだった。これじゃあ、放流直後の釣り堀だ。 せめて少しでもいいから、八重野先輩の戦ってるところを見られていれば……。 「おいおい、何落ち込んでやがる。勝負はまだついてないんだぜ?」 「そうだよ、葛木くん。ここで頑張って八重野先輩倒しちゃえば、わたし達の勝ちだよ」 「あきら、稲羽……」 笑顔で俺を励まそうとしてくれる友人達。その瞳には、嘘偽りのない友情があった。 「そうか……うん、そうだよな! ここで八重野先輩を倒せばまさに計画通り!」 その友情が、限りなく落ち込みかけていた俺に、再び力と勇気をくれる。そうだ、まだ終わってなんかいないんだ。 「そういうことだ、いこうぜ親友!」 「頑張ろう、葛木くん!」 「ああ、行くぞみんな!」 それぞれの銃を手に、八重野先輩へと向かっていく俺達。大丈夫、このメンバーでなら俺達はきっと勝てる! 勝って、優勝をこの手の中に!! 「俺達の、勝ちだあ!」 …………。 ……。 …。 やっぱり無理でした。 「……なんだ、この空間……?」 ええと、オレは確か、バトルロイヤル水鉄砲で負けて……目を覚ましたら、謎の空間……。 「ちゃららっちゃっちゃっちゃっちゃ〜ん♪」 キョロキョロと周囲を見回す俺の目の前に、やたらと聞き覚えのある音を口ずさみながら、いきなり会長が現れる。 「会長? あの、ここは……」 「おお、しょーくんよ、死んでしまうとはなさけない」 「それ違う! 今のファンファーレ、絶対違う! ていうか、それが言いたかっただけだろ、あんた!」 「いやいや、何を言うんだい、しょーくん。せっかく復活させてあげようと思ってやってきた俺を捕まえて」 「復活?」 「そうそう。ここは復活の館。一度だけ復活が出来るのさ。いわゆる救済措置ってやつです」 「そんなチャンスがあったんだ……」 「まあね。これくらいはしないと、バランスの悪いクソゲーだって言われちゃうだろ、ユーザーに」 「誰に向かって言ってるのかはわかりませんが、言いたいことはよくわかりました」 「話が早くて助かるよ」 「それじゃあ、高らかなファンファーレと共にみんなの元に戻るといいぞ〜」 「じゃかじゃかじゃかじゃかじゃかじゃかじゃかじゃかじゃ〜じゃっ」 「うあああ! それ、頭の中で明確に音になった! むしろ復活できませんて、そのSE!」 「優勝は、Bチームでーす! おめでとうBチームのみなさーん!」 壇上に立った会長の満面の笑顔と共に、防災訓練という名のサバイバルゲームの結果は告げられた。 「みんな、そんなに気をたてなくても…」 防災訓練という名前をつけ、ただ強引に始まったこの大イベント。 終わってみれば、ただただ圧倒的なまでの八重野先輩の恐ろしさを思い知らされただけだった。 なんといっても、たった一人で残っていたA・Cチームを壊滅……。 「化け物にもほどがあるだろ、普通……」 あれだけのハンデを受けながら、三十分で残ったチームを壊滅……それなりに減ってはいたと思うけれど、そこまで少なくもなかったはず。 「いやあ、みんなお疲れ様! 今日は大変有意義な訓練ができましたね!」 壇上に立ったままこぼれる、白く輝く歯を見せながらの会長の爽やかな笑顔。 「み、みんな…」 まさに400%のシンクロを見せる俺達。今だからこそ思う。このチームワークで挑んでいれば、八重野先輩だって!! だが、どんなに悔しもうとも、時間は戻らない。俺達は負けたんだ。 「他のチームのみんな、ごめんねー。まさか、ハンデ持ちのほたるちゃんが全滅させてしまうとは思いませんでした!」 あの会長のチームに…… 「って、やっぱ納得できないぞちくしょーう!!」 バトルロイヤル水鉄砲こと防災訓練、完全終了……。 勝者、Bチーム……。 「……ん」 体に感じる、ずっしり重い感覚。 いつも通りのこの感じが何かなんて、考えなくても、もうわかる。 そうだ。マックスが乗ってるんだ。 「あれ……」 でも、なんだかおかしくないだろうか。 ずっしりと重い感覚は変わらない。 それなのに、触れる感触がいつもと少し違う。 なんと言うか……いつもみたいに、硬くない。 それに異様な熱さも感じられない。 どうしてなんだろう? マックスなのに。 「…………なっ!?」 「すーすー」 「ちょ、ちょっと! な、なっ!?」 「すーすーすー」 何が起こっているのかわからない。 っていうか、わかるはずがない。 いつものベッドで目を覚ましたら、隣で裸の女の子が眠っている。 目が覚めてこんな状況だなんて、誰が想像できる。 「ああ! いや、あの、落ち着け俺!」 そうだ、これは全裸の女の子だけど、中身はマックス。 あのメタリックでまるっこい、ピカピカボディのマックス……。 頭の中でマックスの姿を思い出してみよう。 ピカピカのあの体だ。 いつも隣にいて、妙に生真面目で俺に馴れ馴れしい……。 「すーすー……んぅ……」 「はい! 無理!!」 中身がマックスだなんて、この状況で思えるか! かわいい子がこうやって無防備に寝てるのに、マックスだなんて思えるわけがない。 「……あ」 よく見たら胸が大きい。 さっき、なんだか柔らかい感触があった気がしたけど、もしかしたらこれが俺の体に……。 「そうじゃなくて!!!」 いや、違う! そういうんじゃなくて! そういう意味で見てるんじゃなくて! 「落ち着……」 「んんー……うー……」 なんか肌とかも綺麗だなあ。 こうして寝てるとこだけを見ると、本当に普通の人間みたいな……。 いや、裸を見てる場合じゃなくて! 裸……。 「すーすー……ぎりぎりぎりぎり!!」 ち、違う違う! そんな事考えてる場合じゃない。 確か昨日、あきらは九条の部屋に行ったはずだ。 夜、部屋に一度戻ってきたものの、女の子なんだからとか言われて不満そうに九条について行ってた。 それなのに、どうしてここに……。 「うーん、うー……こ、この体は嫌だぁああ」 夢でも見ているのか、あきらが辛そうに寝言を口にしていた。 眉間に寄ったしわは深く、よっぽど嫌な夢を見ているようだ。 「……」 夢の中でも、この体を嫌がってるんだろうか。 本人が言うほど悪くないと思うんだけどな……。 よく見たらかわいいし。 胸、大きいし。 その割に手足は細いし。 「って、何考えてるんだ!!」 「い、嫌だああ……」 こんな状態で、いつまでも寝られてるとすごく困る。 現実問題として、自分の体が反応してしまうから困る。 こんなことあきらに知られたら大変だ。 いろんな意味で大変だ。 おまけに九条になんか報告されたら――おしまいだ。 「お、おい! マ…あきら」 「うーん、うーん」 「いい加減起きろ、こら!」 「はあ……」 「おー。おはよう……」 「お、おはようじゃない!」 「……」 目覚めたあきらが俺を見つめている。 寝起きのせいかぼんやりしてる目は、ちょっとだけ潤んでいた。 女の子ってみんな目が覚める時こんな感じなんだろうか……って、これはマックスだ。落ち着け。 落ち着くんだ。 まずは目の前の疑問点をひとつずつ解明するんだ。 「な、なんでお前ここにいるんだよ!」 「あー?」 「昨日、九条の部屋に行ったんじゃないのか?」 「部屋が変わると寝られねーんだよ。だから、マミィが寝てから戻って来た! 寝られねーと調子悪くなるからな」 ロボットとしてその理由はどうかと思う。 でも、論点はそこじゃない。 「だからってその姿で隣に寝るな!」 「いつもとなんも変わらねーじゃんか」 「お、大違いだ!」 寝起きでまだ何も着てないし、裸だし! 俺は一体、どこを見て話せばいいのか。 視点がさっきから定まらないのに、あきらはそんな俺をまるで気にもかけていない。 「別にこんな体、ピカピカでもないし、超すげえ機能とかついてないし……」 「そういう問題じゃない!!」 「いーとこなしだよ」 「お前はそうでも、俺にとっては……!」 「なんだよ」 だめだ。この言い争いは不毛だ。 だいたいこいつは男だったはず。なのに何故わからない。 いや、実は女なのか? だって今目の前にいるあきらはふわふわの柔らかな体。 だからわかんないのか? 裸の女の子が、俺の横にいるっていう非常事態が!! 「だめだ。落ち着け俺……落ち着け……いま言うべきことを考えろ」 半眼になって、俺はあきらと向かい合った。 「あきら、起きたんなら着替え……」 「しかし、やーっと朝か! 1日長かったなあ!!」 「いいから服を……」 「この体じゃあ、色々不便なんだよな」 「あきらくん、服を着なさい」 「今日はなんと! あのカッチョイイ姿に戻れるだけじゃないんだぜえ!」 「服を……」 「お・ま・け・に! 新しいパーツを用意してくれてるって、マミィが言ってたんだー!!」 「服を着ろ!!!」 「な、なんだよ!」 「そんな格好で目の前ではしゃがれると、どこ見ていいかわかんないんだよ!」 「なんだよ! オレを女扱いする気かー!!」 「中身はマックスでも、その体でうろうろされると困るの!」 「なんだよ! 服着ればいいんだろ、服着れば!」 渋々といった感じで、あきらはやっと服を着始めた。 まったく中身がマックスとは言え、裸ばっかり見せられては困る。 俺だって理性の限界があるっていうか、朝だし。 無理だし。理性だけじゃいろいろと。 「はあ。相変わらずこの格好で制服は窮屈だぜ。スカートだしよー…」 「あれ、制服?」 「おう。マミィの研究スケジュールの予定で今日の昼休みに元に戻るんだ」 「そうなんだ」 「はあ……それまでは……我慢だな」 「……」 「んじゃ、オレ先に行くから。マミィが起きる前に部屋戻らないとな! 勝手に抜け出したから」 「あ、ああ」 マックス……じゃないか。あの体の時は『あきら』だっけ。 いくら自分の体が嫌いだからって、もうちょっと自覚してほしいよな。 あんなにぷるぷるした胸目の前に晒されたら――いや、思い出すのはだめだ。 「落ち着け落ち着け、俺。忘れろ」 平常心だ。平常心。 「お、やべ、俺もそろそろ用意しないと」 「はあ、やっと昼休みか」 「……はあ」 こうやってるところは、本当体弱そうな女の子にしか見えないんだよな。 中身は相変わらずのマックスなんだけど。 こうしてずっと黙ってるまんまなら、いいのに。 って、ダメダメだ。何考えてるんだ、俺は。 「う、うわー…いっきに崩れた」 「ん? なんだ? 何か壊れたのか?」 「いや、なんでもない、なんでも」 「そうそう! 朝にマミィん所戻った時に聞いたんだけどな」 「この体で晶ん所にいても大丈夫な何かを開発してくれたんだって!」 「……なんだそれ」 「ナノマシンっていう超ちっちぇ機械があってな。それを注射で打ち込むと、この体のオレを見ても何も感じなくなるんだってよ! すげーだろ」 「ふーん。って、あれ。ちょっと待てよ……」 『この体』っていうのは――女の子の体だよな。 それを見ても何も感じなくなるって……それって……。 「それを晶に打つと、なんかいろいろ解決するんだってマミィがうれしそーに言ってた♪」 「ちょっとまてまて、それってヤバイだろ? お前に対してだけじゃない感じなんだろ?」 「んじゃ、マミィんとこいってくる! そん時さっき言ってたやつもらってくるよ」 「い、いいって! いいってそれは……」 「遠慮すんなよ! 注射っていってもチクってするだけだぞー。んじゃ! すぐ戻ってくるから!」 「え、ちょ、ちょっとまって! おい!」 俺の声などまったく耳に入っていない様子で、あきらはうきうきと駆け出していった。 さっきの話って、つまり……女の子の体を見てもなんとも思わなくなってしまうってことだよな。 それは、それは困る!! どうしよう――どうすればいい!? ……とにかく逃げよう。 いつも俺が昼休みに行かない所が狙い目だ。 女の子にドキドキするというこの男心だけは死守せねば! とりあえず、手始めに購買で食料を購入した。 食堂はだめだ、俺の行動パターンとして間違いなく見つかる。 どこかでこっそり隠れて食べよう。 「葛木くん!」 「ちょ、ちょっと来て!」 「へ? あ、天音? な、なんだなんだ」 会議室の並ぶ人の少ない方へと逃げてきた俺は、突然天音に呼び止められた。 随分声が焦ってる気がするけど……。 「天音……」 「私、秋休み中は彼の勉強の面倒を見るって約束してるの!」 「そうよね? 葛木くん」 「……うん」 いきなり手を引っ張られて、いきなり目の前に現れた理事長の前で、いきなりのこの話だ。 まったくわけがわからない。 わからないけど、天音のすがるような視線に負けてしまった。 「そうだったの。でも、一日くらいなら時間がとれない…?」 「無理よ、繚蘭会の業務もあるもの。繚蘭祭も近いし。とにかく、行けないわ」 「……ねえ天音。もちろん強制はしないけれど、将来のためにいろんな方と交流を持つことは大事なことよ?」 「それは、わかってるけど……」 「………??」 うわ、俺…ここにいていいのかな。 ほんの一瞬聞いただけでも、すごく込み入った話のようだってわかる。 だからといって、じゃあ僕はこれで、なんて立ち去れるような雰囲気でもない。 「今すぐ結婚を前提に、なんて言わないからせめてお会いするだけでも……」 「――なんで私ばっかりなの!?」 「え?」 「どうしてお兄ちゃんには、そういう話をしないのよ!」 「……それは…」 「おかしいじゃない! お兄ちゃんは長男なんだから! そっちの方が大事に決まってるでしょ!」 「――奏龍にはもう、決まった婚約相手がいるのよ」 「ええっ?!!?」 「ええええええぇえ?! はっ、あ、ご、ごめんなさい」 天音以上の奇声をあげてしまい、二人の視線がびしばしと俺に向けられた。 いやだってあの会長と婚約とか、そんな奇特な人いるんだ!? と、言いそうになったのを俺は必死に飲み込んだ。 「ふふ…いいんですよ、葛木くん。あの子、一言も周りには言っていないみたいだから。それは驚くわよね」 「わ、私も知らないわよ! そんなの?! 本当に?!」 「ええ」 「お母さん、それ騙されてるんじゃないの!? ああもう、いい! 本人に聞くから一緒に来て!」 天音は理事長の手をとると、ずんずん歩きだした。 生徒会室の方向だ。 「あ、あのえーっと……」 俺は別についていく必要はなさそうなんだけど…。 あの会長と婚約する人って、一体どんな人なんだか気になってしょうがない。 天音も、俺がついていくのは当たり前、みたいな顔してるし、いいかな。 うん、とりあえず行ってみよう。 「ちょっと生徒会長に聞きたい事があるんですけどっ!」 「わぁ、あま――」 「――これは理事長、どうされましたか? わざわざ生徒会室までお越しになるなんて」 「違うのよ奏龍、今日は理事長として来たのではなくて……」 「知らないうちに婚約の相手ってどういうことよー?! 私知らないわよ!!」 「…婚約の相手? 何の話?」 「あ、天音、落ち着け。それじゃ伝わらないよ」 「おや葛木くん。君もいたのか」 「ごめんなさい、あなたの婚約者の話をしたら、天音が本人にって聞かなくて」 「ああ、そのことでしたか。確かに僕にはすでに将来を誓った相手がいますが、天音にはまだ報告していなかったから……」 ……なんか、会長いつもと違う。 いまだかつて見た事のない、壮絶なネコをかぶってらっしゃる。 ちょっと寒気までするぞ。 理事長の前だから、なのか? それにしてもあまりにも違いすぎる。 「どこの誰、それ?! お兄ちゃん、いもしない婚約者でお母さんを騙してるんじゃないの!」 「そんな馬鹿な。天音、この僕が母さんを騙すわけがないだろう?」 「そうよ天音。それに、奏龍の婚約相手はちゃんと今ここにいるじゃないの」 「はぁあぁ?!」 天音と共にまた叫びそうになるのを必死に我慢しながら、俺も生徒会室を見回した。 会長の壮大なネコかぶりと、天音の剣幕におされて気づかなかったけど――生徒会のメンバーはいつものようにそこにいた。 「い、今ここにいるって……え?」 八重野先輩。 茉百合さん。 ぐみちゃん。 いつものメンバーだ。 あれ? 答えはこの中にあるっていう……ことなのか? 「……あまり大事にはしたくなかったのだけど」 「嘘だぁぁッーーー!!!」 「ははは、葛木くん、嘘じゃないよ」 「いや、嘘だ! 絶対嘘だ!」 「そうよ! 嘘に決まってるわ! ま、ま、茉百合さんがそんなバカな真似、するわけないもの!」 「本当よ」 「う、嘘だと言って下さい!! お願いします!!」 「…そんな泣きそうな顔をしなくても。でも本当の事だから…」 「天音も葛木くんも、納得して頂けたかな?」 「決まった相手がいるのなら、私が口を挟む必要もないでしょう? わかってくれたかしら、天音」 「わ、わ、わかんないわ!! 全然わかんないわよー!」 「天音……母さんをあまり困らせてはいけないよ」 「っお兄ちゃん! どうせ何かまた隠れて根回ししたんでしょっ!! いっつもお母さんの前ではいい子のフリするんだから!」 「ひどいよ天音、それじゃあまるで僕が悪い事をしているみたいじゃないか」 「………」 だめだ。だめだこれは。 いつもの会長を知っている俺としては、あまりのネコのかぶりようにもう言葉がでない。 「とっとにかく、お母さんは騙されてるの! お兄ちゃんに騙されてるのよ!!」 「……そんな事はないと思うのだけど。ねえ奏龍」 「ええ、もちろん。全て本当の事だよ、天音。白鷺さんもああ言っている事だし」 「よくもそんなデタラメをー! この卑怯者っ!」 「ああ、天音、少し落ち着いて……。とにかく、あまり生徒会の邪魔をしてはよくないわ、出ましょう?」 「お、お母さん! だって…」 「お仕事中、ごめんなさい。それじゃあ失礼します」 「……ええ。お気をつけて」 天音と理事長が連れ立って生徒会室から出て行ってしまった。 これ以上ついていくのもどうかと思って、俺は追いかけなかった。 「…………」 会長はしばらく黙ったままで、二人が出て行ったドアを見つめている。 もしかして、いや、まさかとは思うけど。 もしかしていつものは演技で、本当は……。 「ふにゃーつかれたー」 ――戻った! 戻っちゃった! ソファにだらーんと座る姿は、すっかりいつもの会長だった。 さっきまでのよく出来たいかにも生徒会長らしい人の余韻はどこにも残っていない。 「あの、どういう事なんですかっ! 茉百合さんと、会長が婚約って…!!」 「あー。んー。どうもこうも」 「全然わかんねぇ!」 「はぁー。口裏合わせてもらってるだけだよ。安心した? あ〜ん〜し〜ん〜した〜?」 「………さっきまですごくまともそうだったのに…」 「なんだよしょーくん、まともそうとか失礼な」 「会長ってさあ」 「んー?」 「マザコン?」 俺の言葉に、会長はちょっと複雑そうに口を尖らせた。 すごく不本意な様子だが、あの態度はどう考えても理事長を強烈に意識しているとしか思えない。 「………だって、放ってても安心てイメージつけといた方がやりやすいんだもん、色々と」 それにしたって、本性すぐにバレそうなもんだけどな。 何か気が抜けたら、ようやく自分のお腹がペコペコだったという事を思い出した。 「はぁ、俺、帰る。昼ごはん食べないと」 「あれー? もう行っちゃうの?」 生徒会室を出ると、廊下にはまだ天音と理事長の姿があった。 ふたりはまだ廊下で話を続けてたみたいだ。 「ううぅぅ、納得できない…!」 「天音……」 「わ、私、お昼ごはん食べなきゃいけないから、繚蘭会室に戻るわ」 「ええ、わかったわ。……また今度、さっきの話の続きをしましょうね?」 「うん…」 もはや抵抗する気力も失せたようで、天音はとぼとぼ歩いていった。 俺も同じく、ぐうぐうと鳴きだしはじめていた腹の虫をなだめながら、とぼとぼ食堂へ向かった。 ここは生徒会にかくまってもらう事にしよう。 まさかマックスも俺が会長の所に助けてもらいに行くとは思わないだろう。 あんまり気は進まないけど……。 とりあえず、手始めに購買で食料を購入し、生徒会室に向かった。 「あの、茉百合様、よろしかったらこれを……」 「えっ? 私にいただけるの?」 「はいっ、あの、私たちが授業で作ったものなので、つたないものなのですが」 「いいえ、とても素敵な花束だわ。ありがとうございます」 「喜んでいただければ嬉しいです!」 聞こえて来た声の方を見てみると、茉百合さんが花束をもらっているところだった。 なんだかすごい、物語の中のような場面を見た気分だ。 花束を渡した女の子は、受け取ってもらっただけで嬉しそうだ。 さすがに茉百合さんは人気あるんだなあ。 「それでは、失礼しますね」 「はいっ、お仕事頑張ってください」 花束を渡した女の子に頭を下げ、茉百合さんは生徒会室へと入ってゆく。 その後ろ姿ですら、下級生の女の子たちからうっとりとした視線を浴びていた。 「失礼しまーす」 「あら、晶くん。どうしたの?」 中に入ると、茉百合さんは花瓶に花を活けていた手を止める。 部屋の中には他に誰もいなくて、とても静かだった。 「あれ? 会長は? 八重野先輩は?」 「今日はまだ来ていないみたいね」 「よかった……あの、ちょっとかくまってもらえませんかね」 「ここに? いいけれど、皇くんに見つかったら逆にまずいことにならないかしら」 言いながら茉百合さんはしばらく考えていた。 やっぱり、ここじゃ無理かな。 だとしたら、他の場所に行かなくちゃ。 「あぁ、でもちょうどいいのかもしれないわね。晶くんにはしなきゃいけないお話があるし」 「え…?」 「ふふ、それは後のお楽しみで」 楽しそうに言った茉百合さんは、途中で止まっていた手を動かして花を活け終わらせた。 「……できた」 「きれいですね。茉百合さんほんとに人気あるんですね、花束もらうなんて」 「そうかしら。もちろん皆さんのお気持ちには感謝しているけれど……」 じっと、茉百合さんは花を見つめていた。 きれいな花ばかりだ。 生き生きとしていて、ふわっと良い香りが漂ってくる。 きっとあの女の子たちが、茉百合さんのことを思いながら丁寧に選んだ花なんだろう。 茉百合さんもそれをわかっていて、花瓶に丁寧に活けたと思う。 ほんの一本も傷つかないように活けていたのは、俺にだってわかる。 けれど。 それを見る茉百合さんの微笑みは、どこか寂しそうな気がした。 どうしてなんだろう。 こんなにきれいな花なのに。 「茉百合さん?」 「はい?」 「いや、あの。何ていうか。どうかしたんですか?」 「え? どうして?」 「なんだか、いつもと違うような気がしたから。俺の気のせいかも、だけど」 「………あぁ」 いつも優しく微笑んでいる時とは全然違う。 なんだろう、うまくいえないけれど…何かが遠いみたいな感じだ。 俺が今まで見たことのない茉百合さんだ。 「私、本当はあまり花が好きじゃないの。だから……」 「え? そうなんですか?」 「花は美しいわ。でも、今はこんなに綺麗に咲いていても、いつかは枯れてしまうでしょう?」 「それを見るのがね、何だか辛くて」 花を見つめながらそういう茉百合さんは、本当にせつなそうだった。 「いつか枯れるからこそ、今の美しさを楽しめるというのはわかっているのだけど、やっぱりね」 「そうですね、やっぱりしおれた花を見ると、ちょっと悲しいですね」 「ええ……」 「………」 なんだか、さみしい形で会話が途切れてしまった。 ……どうしよう。 なんか話した方がいいんだろうけど、何を話せばいいのか。 何かないかな。 今、俺が話せるのは……買って来たパンの事くらい? あ、そうだ。パン。パンがあるじゃないか。 「あの! パン! パン食べませんか?」 「えっ?」 「お昼ごはん。俺、パン買ってきたから、一緒に」 「晶くんのパンを? 私が食べるの?」 あ、そうか。 茉百合さんはきっと、いつもちゃんとしたお昼ごはんを食べてるんだろうな。 こんな事、急に言われたら驚くよな。 「すいません、茉百合さんはパンとか、食べませんか……食べませんよね」 「ふふふ、食べますよ。そうじゃないの、晶くんから食べ物を取り上げるのは何だか申し訳ない気がして」 「そ、それは大丈夫です、多めに買ってあるんで!」 「それじゃあ、お言葉に甘えてひとつ頂いてもいいかしら?」 「はい。どれでもいいですよ」 「ありがとう。じゃあそのサンドイッチを頂けるかしら」 「ひとつだけでいいです? サンドイッチこっちにもありますし、菓子パンも……」 「まあ、晶くん。私、そんなに多く食べられませんわよ」 「あ、はい、すいません」 「ふふふふ」 茉百合さんは俺のすぐそばで、口元を押さえて笑っていた。 うん。これは俺の知ってる茉百合さん。 いつも通りの雰囲気に戻って、なんとなく安心した。 「そういえば、かくまうって誰から逃げていらしたの?」 「…あ、ああ……マックスからです」 「え? どうして?」 「いやそれは…」 女の子を見ても、なんとも思わなくなる薬を打たれそうになっていました。 なんて事はさすがに言えそうにないよなあ。 「私には話しにくいこと? まあ、男の子同士ですものね。いろいろあるのはわかります」 「うう、お察しの通りです……」 「じゃあ皇くんか八重野くんに相談してみる?」 「か、会長は……遠慮しときます」 「ふふふ、でしょうね。私もやめた方がいいと思うわ。彼、なんでも面白がるもの」 「うーん、でもだからと言ってあんな話を八重野先輩にするのもどうなのかなあ……」 「晶くんがそこまで困っていると、何だか気になってきてしまうわね」 「ううぅ」 しまった、これじゃあ気にしてくださいって言ってるようなもんじゃないか。 ああ、どうしたらいいんだろうか! 「あ、ごめんなさい。大丈夫、もう聞きませんから」 微笑みながら言った茉百合さんは、サンドイッチを食べていた。 もうこれ以上聞きませんってのは本当で、茉百合さんはその後も他愛ない話に相槌をうってくれた。 ほんのひとつ違いなだけなのに、茉百合さんはすごく大人びて見えるときがある。 こうやって話をつっこみすぎないこととかも……なんでだろう。 「……ん? なんだ来ていたのか」 「あっれ〜、今日は珍しくタイミングいいね。ちょうど放送で呼び出そうとしてたところなんだよ」 「あら、遅かったわね、二人とも。ぐみちゃんは?」 「早河なら、放送室だ」 『生徒会・繚蘭会の皆さんに連絡です。大至急、生徒会室に集合してください』 「……ほんとだ。呼び出してる」 「繚蘭会の皆さんも?」 「そそ、来てもらわないと困るの。ちょっとね〜いろいろ伝えたいことがあって〜」 なんだろう。 ものすごおおおく、嫌な予感しかしない。 生徒会だけじゃなくて、繚蘭会のみんなも集まるなんて。 「やーっとこのボディに戻れたぜ。あーのびのびできる」 「お! 晶、もう来てたのか。なんだよ、そんな感激するなよ〜」 「じゃ、なくて! なんとかナノマシンとか俺にアレするとか! いやだ、いやだーっ!」 「あ、あれな……悪い! マミィの研究室からストップかかったんで開発中止したんだってー」 「へ? じゃ、じゃあ無いんだな? あの恐ろしい何かは」 「おう。残念無念」 「……よかった、ほんっとによかった」 「こんにちは〜」 「……ふう。急いだから疲れた」 「急な会議ってどういうことですか? いま放送を聞いたので来たんですけど」 「ただいま戻りましたー! みなさん今日はちょー重要な発表があるんですー」 「重要?」 「あの……わたしにもなんでかメールがきて……」 「はいはーい、ゆいちゃんさんもこちらにどーぞ♪」 生徒会室にどんどんと人が集まっていた。 この人数だと、結衣とマックスもいる事実に違和感を抱く暇すらないな。 というか、ふたりはなんでいるんだろう。繚蘭会でも生徒会でもないはずなんだけど。 「じゃあ、これで全員揃ったという事になるな」 これ、教室でじっとしていた方がいいのかもなあ。 食堂に行ったら速攻で捕まりそうな気がするしなあ。 あーでも、マックスがそのまま帰ってきちゃったら、どうしたらいいんだろうか。 「ううう……どこに行っても危険な気がする…」 「晶くん! どうしたの? お昼ごはん行かないの?」 「うん……」 「あれ? ……熱でもありますか? 気分悪いでするか?」 「違うんだけど、いやお腹はすいてるんだけど、ごはんは食べたいんだけど、食堂以外の目立たないところに行きたいというか」 「そうなんだ、じゃあちょうどよかった!」 「ちょうど?」 「今日、桜子ちゃんとちょっといい感じの約束してるの!」 「晶くんも一緒においでよ!」 「桜子と? どこで?」 「中庭で待ち合わせしてる」 中庭……。 それなら昼休みにはあまり行かない場所だし、見つからないかな。 いいかもしれない。 「でも、いいの? 桜子と一緒のとこに割り込んで」 「いーよいーよ! きっと桜子ちゃんも喜んでくれるよ〜。むふふふ〜」 「うーん。じゃあ、一緒に行く。ありがと」 「礼にはおよびませぬ!」 「……結衣って、ときどき面白いしゃべり方するよな」 購買で適当にパンを買い、俺と結衣は中庭にやって来た。 どこにいても目立つ桜子の姿は、すぐに見つける事が出来た。 「桜子ちゃーん! お待たせしましたー!」 「あ、結衣さん」 「おじゃまします」 「晶さん? どうされたんですか?」 「晶くんもね、一緒に連れてきちゃった! きっと晶くんも食べたいだろうなって思ったから!」 「え、えっと、何の話?」 「あのねあのね、桜子ちゃん、今日お菓子を作ってきてくれてるの!」 「お菓子?! それは素晴らしい!」 「あの、そんなに大げさなものではないんですけれど」 「私、limelightのケーキにすごく感動してしまって。それで私もお菓子を作ってみたいなあと思ったんです」 「それで、それ、俺も食べていいの?!」 「そんなことないよ、味見どんと来い!」 「そうだ、味見最高だ! いくらでも利用してくれ!」 恥ずかしそうな桜子は、手にしていた包みを広げた。 その中には透明な袋に包まれたお菓子が見えた。 あれは……クッキーかな。 「わあああぁー。クッキーだぁああ〜。食べていい? 食べていい?」 「あっ、でも先に昼食を食べないとダメですよ」 「そうだな。おやつはデザートだよな」 「いただきます」 そうして、俺たち3人で手を合わせて、ごはんを食べ始めた。 ぱぱっと買ったパンだったけど、こうしてにこにこ顔の女の子と一緒に食べると美味しさ倍増だ。 「んー、うまい。こっちのも開けてっと……ん?」 ふと気付くと、桜子が興味深そうに俺の方を覗き込んでいた。 「晶さんのお昼ごはんは、サンドイッチとパンですか? わぁ、いっぱい食べられるんですね」 「うん、お腹すいてるから、いつも」 「武士は食わねど高楊枝ですよ、晶くん!」 「それ、お腹すいても我慢しろって事だろ」 「いつでもお腹いっぱいの気分でいなさい、って事ですよ」 「武士は凄いよねえ。お腹すいてても、お腹いっぱいのフリができるんだよ。すごいなあお侍さん、かっこいいなあ」 「いや、ただのやせ我慢だろ」 「でも、お侍さんはかっこいいですよね」 「桜子ちゃんっ!!! ――本当にっ?!」 何故、結衣は桜子のお侍さんはかっこいい発言に食いついているのだろう。 しかも、すごい勢いだ。 見ていて驚くほどに。 「あ、はい。かっこいいと思いますよ。私、結構時代劇とか見るので」 「えっ、そうなの」 「はああう?! あ、『暴れん坊老中』は?! 見てた?!」 「あ、はい、知ってますよ。私、田沼さんが好きなんです」 「わあああぁぁーっ!」 嬉しそうに言った結衣が桜子の方へとずずずいっと近づく。 さっきの勢いのまま、目の色が変わった。 「桜子ちゃん、田沼老中?! 私、水野老中!!!」 「結衣さん、正統派なんですね。確かに水野さんは、暴れん坊老中の中核でいらっしゃるから」 「わああああ!!」 「な、何興奮してんだ?」 「わぁん嬉しい! こんなお嬢様ばっかりのとこで、こんな話出来るなんて思わなかったよお!」 「桜子ちゃん本当に暴れん坊老中見てるんだもんー!! でなきゃ田沼さんなんてスッと出るはずないもんー!」 「はい。テレビでよく見ています。結衣さんは時代劇、お好きなの?」 「好きなの!! いつかちょんまげつけてみたいって思うくらい、好きなの!!」 「ちょんまげを? それは素敵な夢ですね〜」 「桜子ちゃーん!」 そ、そうか。 好きだったんだ、ちょんまげ。 俺はよくしらないけど……。 「ちょんまげ……、自分の頭につけたいとか?」 「うん」 すごい! 今、なんの戸惑いもなく答えた! これは本物だ!! 「かっこいいですね! ちょんまげ!」 「かっこいいよね?! ちょんまげ!」 「かっこいいです! ちょんまげ!」 「なんだこの会話!」 女の子ふたりでする会話とは思えない。 だけど今、結衣と桜子はすごく盛り上がっている。 ……ちょんまげで盛り上がっている。 もしかして、女の子って普通はこういう会話で、こうやって盛り上がっているようなものなんだろうか。 いや、絶対違うよなあ。 このふたりだけだよなあ。 「結衣さんは、どうして時代劇がお好きになったの?」 「あっ、あのね! わたしのお父さん、時代劇によく出てるんだ。それで」 「えっ、結衣のお父さんって、俳優さんなのか?!」 「まあ、どんな役をやってらっしゃるんですか?」 「そんな大きな役じゃないけど、いつも悪いお代官様とか、悪いちりめん問屋とかだよ」 「悪役俳優さんですか! わぁ、一度お会いしてみたいです!」 「なんか凄いなあ……テレビの中って、別物だもんな」 「そうですね。でも結衣さんのお父様は、おうちではきっと優しいんですよ、ね?」 「うん! 優しいよー! 顔は怖いけどね、おふざけにも付き合ってくれるし、お寿司屋さんに連れてってくれるしー!」 「お……お寿司屋に行くことが優しいの?」 結衣って、そんなに寿司、好きだったっけ……? そういうイメージないんだけどな。 「だ、だって、そこのお寿司屋さん……」 俺と桜子を結衣が見つめて、手招きをした。 思わずそちらに近づくと、結衣はそっと声を潜める。 「―――時価なの」 「なんだとーーーーーー!!」 「えっ?」 なんという贅沢! それはシャンデリアがついた家のごとく贅沢だ! くっそー! すごいな! すごいとしか言いようがない!! 「それ、あれか?! 皿に乗って出てこない寿司か?!」 「そうなの! 板っぽいの!!」 「なんて羨ましい!! 結衣、うらやましい! いいな! 時価! 庶民の憧れ!」 「?? お寿司って、お皿に乗っているとダメなのですか?」 「桜子はお皿に乗ってる寿司、食べたことなさそうだよな……」 「あ、ごめんなさい。私お寿司自体を食べたことがなくって……」 「そうではないんですけれど。生魚が食べられない体質なんです」 「えっ」 「そ、そんな……」 がっくりと肩を落として結衣がうなだれる。 見るからに元気をなくした姿は力ない。 「ごめんなさいぃ、わたし浅はかでした……うぅ桜子ちゃん」 「いいんですよ、結衣さん。ねえ、お寿司ってどんな味ですか? 私にも教えてください」 「桜子ちゃん……」 「どんな味か、って言われると結構難しいな……」 「………うううぅぅ…」 「あ、あの私、お二人を困らせているでしょうか……」 「ううぅぅぅ…」 「困ってるというか、どう表現していいかわからんというか。ああ! 自分のことばの能力が低いのがうらめしい!」 「あの、難しいようでしたら他のお話を」 「プリンだーー!!!」 「えっ?」 「プリンを買ってこよ! それでしょうゆをかけるの! そしたら、ウニの味になるんだよ!」 「そ、そうだったのですか!」 寿司の話から、いきなりとんでもないとこに飛んで行ったな。 確かにそういう話は聞いた事があるけど……。 それでいいのか? まあ、ウニも確かに寿司のネタであるのだが。 「これで桜子ちゃんも一人前のウニを食べた人になれるよ!」 「わぁ、ありがとうございます結衣さん! ウニが食べられるなんて、夢みたいです!」 「………」 疑問は残るけど、桜子が喜んでるから、まあいいかな。 ……いいって事にしとこう。 しかし、このふたりは仲いいなあ。 桜子も茉百合さんとは別の仲良さって感じだ。 食いつきがいいというか、なんというのか。 「……ん」 ぼんやりとそんな事を考えていると、中庭の人の中に光るものが見えた気がした。 なんだろう。 不自然にやたら光っている気がする。 「っ!!」 まさか! あの不自然にキラキラ光ってるのはマックスか!? ヤバイぞ。そうだとしたら、ここにいると見つかる。 「晶くん? どうしたの?」 「あのクッキーの味見でしたら、今から……」 慌てて立ち上がると結衣と桜子に見上げられた。 そうだ、お昼ごはんを食べた後は桜子のクッキーの味見をするつもりだったんだ! クッキー。 食べたい。 桜子のクッキー食べたい……でも! 「わああん!! ごめん! また後で!」 「へ?」 「クッキーたべたかったぁー!!」 「行っちゃったよ……」 「突然どうされたんでしょう……?」 「はぁー。なんか、昼ごはん…もうちょっと食べたかった」 こうやって昼休み中、マックスから逃げていればどうにかなるかと思っていたけど。 よく考えたら午後からどうしたらいいんだろ。 どのみちどっかで顔を合わせることは避けられない。 ああ、どうしよう。 『生徒会・繚蘭会の皆さんに連絡です。大至急、生徒会室に集合してください』 「生徒会……?」 大至急って言葉がやけに耳に残る。 やっぱり、俺も行ったほうがいいのかな。生徒会だし。 「間違ってれば戻ればいいか」 俺は急いで校舎内に戻り、生徒会室へと向かった。 「よう、晶! やーっとこのボディに戻れたぜ。あーのびのびできる」 「なんだよ、そんな感激するなよ〜」 「じゃ、なくて! なんとかナノマシンとか俺にアレするとか! いやだ、いやだーっ!」 「あ、あれな……悪い! マミィの研究室からストップかかったんで開発中止したんだってー」 「へ? じゃ、じゃあ無いんだな? あの恐ろしい何かは」 「おう。残念無念」 「……よかった、ほんっとによかった」 これで一安心だ。 胸をなでおろしつつ、俺は生徒会室に入った。 「お待ちしておりましたー!」 「はあ……」 そこには既に俺以外の全員のメンバーが揃っていた。 生徒会と繚蘭会のメンバーがずらり。 綺麗に並んでいる姿は、壮観という他ない。 「じゃあ、これで全員揃ったという事になるな」 「おうよ!」 「はーい」 「え? 結衣も? そういえばふたりとも、なんでいんの?」 能天気に返事をするマックスと結衣の声に思わず驚く。 マックス、後ろからついて部屋に入ってきてたのか。いつの間に。 ふたりは生徒会でも繚蘭会でもないはずだけど…。 「マミィのお呼びだったからな!」 「なんか、一緒にってメールが来たから」 「ああ、そう……」 「お話を先に進めても構わないかしら?」 「あ、はい! すいません!」 「お話というのは、なんですか?」 桜子の言葉をきっかけに、室内がしーんと静まりかえった。 そんな中で全員の視線が会長に集まってゆく。 一体、何を言い出すつもりなんだ? 「しょーくんさあ、なんか得意な事とかないの?」 「はい!?」 「ほら、例えば走るのがすっごい早いとか、ケガをしてもすぐ治るとかー」 「え? あ、あの、なんでいきなりそんな事を?」 「なんでもいいよ。何かないのかね?」 「な、なんかって言われても……」 俺の得意な事って……。 腹ペコ? いや違う。それは得意なことじゃない。 何もない…のかな。普通。 いや、普通っていいよな。それが取り柄ってやつでいいんじゃないか? 「えーっと、フツーとか、そういう感じ?」 「ひとつもないの?」 じっと俺を見つめる会長の目は、いまだかつてない真剣なものだった。 もしかしてこれは、すごく大事な事なのか? 会長のあまりの真剣さに驚いてるのは俺だけじゃない。 他の面々も息を呑むような眼差しでこっちを見ている。 だがしかし。 そんなに見られても、得意なことが今すぐできるわけない。 「な、ないですよ、そんなの。それより、なんで急にそんな事を聞くんですか」 「前に審議会があったときに、後日きちんとした書類を提出してもらうって言われてたんだけど」 「そういえば……」 「あれ、今日中なんだよね!」 「え」 「それ提出しないと退学なんだよね!」 「ええええええええ!!!!!」 今日? 今日中に退学!? どうしてそんな大事な事をいきなり言うんだこの人は! 「今日中ってどういう事よ! どうして、ちゃんとしてあげないの!」 「あ、あの、それってもしかして晶さんは……」 「あ……」 得意な事がないって答えちゃったら――。 それはつまり、俺は退学って事? 特技もなにもない、平凡な生徒はこの学園にいりません。 退学してくださいって事、なのか? 「晶くん、どうなっちゃうんですか?」 「どうって……みんなの考えてる通り、かなぁ……」 や、やっぱり、俺は退学になるのか! せっかく、ここでの生活にも慣れて来たのに……。 ああ……学食美味しかったなあ。 こんな事になるならもっと食べておけば良かった。 まだ全メニュー制覇もしてないのに、こんな事になるなんて思わなかった。 あれだけ食べても全部無料であの美味しさ。 思えば天国だった。 でも、それも今日で終わるのか。 なんてことだ。昼ごはん、やっぱり学食に行っとくんだった。 「ちょっと! なんとかしなさいよ! あんたのせいでしょ!!」 「あの、なんとかなりませんか? 晶さん、とってもいい方なんです!」 「そうだよ、晶くんが退学なんて……」 それに、みんなともせっかく仲良くなれたのに。 思えば、こんなに女の子と仲良くなる事なんて今までなかったな。 ちょっとだけ幸せな時間を過ごせた。 そう思えばいいのかもしれない。 「ごめんね。しょーくん……短い間だったけど、楽しかったよ」 「………」 わざとらしく涙なんか浮かべながら、生徒会長が俺を見ている。 というか、それだったらもっと早く言ってくれればいいのに! いや、でもこの人が悪いんじゃない……。 特技ひとつすら持っていない俺が……。 「ちょっと待って! 私もう一回お母さんに頼んでみるから!」 「ああ、残念だけど天音、それは公私混同というものだよ」 「……くっ!」 「……まゆちゃん! 何とかしてあげられないんですか?!」 「………はぁ」 「皇くん、そろそろ意地悪はやめてあげなさい」 「へ?」 桜子に詰め寄られたからか、茉百合さんは少し困ったように微笑みながら、生徒会長を見つめている。 生徒会長はそんな茉百合さんを見て、まるでいたずらっ子みたいな表情をした。 いたずらがバレたけれど、まだ怒られてませんみたいな、そんな表情。 「え〜。俺もうちょっと悲しい別れのシーンを続けたかったのにー」 「趣味が悪いぞ。やられる方の身にもなってやれ」 「なに? どういう事?」 「まゆ……茉百合さん?」 「みんなも安心して。彼は退学にはなりません」 「それどころか、是非この学園に残ってくれとのことだ。条件付きだがな」 「え? あ、あの、それってどういう……」 どうしてそんな事になったんだ? 何がなんだかわからない。 俺が残れる理由が、俺自身一番わからない。 どうして『是非』なんて事になってるんだろう。 「毎月、ちょっとした検査をさせて欲しいそうよ。それがこの学園にあなたが残る条件」 「検査って、俺の体の?」 「ええ。でも、決して難しい検査ではなくて、本当にちょっとしたものよ」 「なんでそんな」 「そんなに難しく考える必要はない。お前の体が、少し特殊だというだけの話だ」 特殊……? 俺の体がなんだって言うんだろう。まさか何かヘンなのか? 「え! そ、それって大問題なんじゃ」 「そうでもないだろう。遺伝子レベルで珍しいというだけで、その他に変わった部分はないのだからな」 「はあ……そういうもんでしょうか」 すごく大事な話をサラっとされた気がする。 でも、八重野先輩はいつも通りの冷静な表情だ。 そんな表情を見ていると、さっきの事は、本当になんでもない事のような気がした。 「で? しょーくんはどうするの? 毎月検査を受けて、ここに残るって事でいいのかな」 「そ、そりゃもちろん!」 ここに残れるのなら、検査を受けるくらいはどうって事ない。 それに、たったそれだけで学食無料!! だったらこっちから検査をお願いしたいくらいだ。 「じゃあ、そういう事で! おめでとーございまーす!」 「あのそれじゃあ、晶さんはこれからもこの学園の生徒でいられるの?」 「ええ、そういう事ね」 「よかったー! どうなるかと思ったよぉ」 「もう! そういう事ならはっきりそうだって言えばいいのに」 「でも、ちょっとスリルあったでしょ、ハラハラドキドキしたでしょ?」 「そんなものはいらないの!」 「じゃあ、ずっとオレのルームメイトで親友って事だな!」 「それは喜んでいいのかわからないけどな……」 「良かったですねー、あきらちゃん!」 「おう! ダディ!!」 喜ぶマックスの頭をぐみちゃんが撫でる。 するとマックスは、やけに嬉しそうに返事をした。 それはまるで、九条に返事をする時のようなニュアンス。 これって、どういう事なんだろう。 「なあ、ダディって?」 「ぐみは28号の人工知能開発に協力してくれたから」 「はーい! そうなのです!!」 「マミィは俺の自慢のボディ、ダディは俺のすっげー頭脳の生みの親だからな!!」 「へえ! すごいんだなあ、ぐみちゃんって!!」 「ありがとうございますー!」 「そんなの当たり前」 「ふふふ〜」 自慢げにぐみちゃんの話をする九条。 そして嬉しそうに笑うぐみちゃん。 たったこれだけで、ふたりの仲がいいって事がわかった。 マックスを間に挟んで並び立つ、背の低いふたり。 こんな姿だけを見てると、このふたりがマックスを作ったなんて思えないなあ。 「さてさてー!! ここからが本題でーす!」 「え? 本題って、俺の事じゃなくて?」 「それだったら、わざわざこんなに大勢呼び出さないよ。自意識過剰だなあ、しょーくんは」 「ああ、そうですか……」 「いいから、早く本題を話して」 「なんでしょうね。ちょっと楽しみです」 「うん!」 みんなの視線が生徒会長に集中する。 それをわざわざ確認してから、生徒会長はポーズをつけながら話し始める。 まるで、ちょっとした演説みたいだ。 「しょーくんもめでたく退学を免れたということで…」 「お祝いついでにこの学園にやって来た二人の転校生と生徒会・繚蘭会の親交をもっと深めるイベントをしたいと思います!」 「え、どういうことですか?」 「わたし、もうみんなとは仲良しですけど」 「えっ?? 何よ、海水浴って?!」 「わあ。楽しそうですねえ」 「はーい! ぐみは大賛成ですー!!」 「……本気?」 「いや、海水浴って、今10月ですよ」 「大丈夫! この島、ちょっとした常夏リゾートって感じだから!」 「常夏って……だからって本当に明日行くんですか?」 「海だからさ〜当然〜女の子達の水着姿とか〜見られるよ〜?」 「え……」 そ、そうか。 海だから当然、みんな水着になるんだよな。 ここにいるみんなが水着になる……。 水着姿の女の子たちと海に…………。 それは……なんていうか…幸せじゃないだろうか……。 「よし! しょーくんは賛成らしいので決定!」 「え!? ちょ、ちょっと! 俺、別にそんな事は何も! あの!」 「何も言うな、俺にはわかるぞ」 「な、何がなんですか!」 何がわかるって言うんだ。 俺が考えてた事か? って! 別にやましい事なんか考えてない。 水着の女の子と海とか楽しそうだなーとか、そういうのは普通の反応だろう! 「こうなったら何を言っても無駄だろう」 「……はい」 「ふふふ。それじゃあ、明日はみんなで海水浴ね」 「海水浴! こんな大人数でいけるなんて、とっても楽しみですね」 「もう! すぐ勝手に決めちゃうんだから」 「でも、わたしもちょっと楽しみかも。みんなと遊びに行けるのも嬉しいかな」 「くるりんも行きますよね?」 「行ってもいいけど」 「じゃー決定です!」 「マミィ! オレもオレも!!」 「わかった」 「待ち合わせ時間とかは後ほどメールで一斉送信って事でー」 「それじゃあ、今日はこれで解散でいいのかしら?」 「オッケー」 「だそうよ。みんな、お疲れ様でした」 なんだか一瞬で決定してしまったのだが、よかったのかな…。 まあ、海とか、水着とかは、どちらかというと歓迎なんだけど。 あの会長の海に行こう発言から、半時ほどたった。 生徒会のメンバーはまだ生徒会室で話しあってるようだ。 繚蘭会の天音や桜子、九条もまた放送で呼び出されて寮のほうに先に戻っていった。 そんなこんなで、残ったのは一般生徒の結衣と、マックス。 中途半端な生徒会の一員の俺。 この3人で、夕焼け色の廊下をほてほてと歩いていた。 「それにしても、この時期に海水浴か」 「本当に泳げるのかな」 「どうなんだろうな」 「いいじゃねーか! 楽しそうなんだし。水中用パーツ、マミィが用意してくれればいいなー!」 「お前、本当に楽しそうだな」 「当ったり前じゃねーの!」 ウキウキと楽しそうに答えるマックスの声が廊下に響く。 人の少ない廊下に聞こえる声は、いつもより大きく感じられた。 「あれ……」 「どうした?」 「あれって……」 「ん?」 「すずのだな」 すっと結衣が指差した方に視線を向ける。 するとそこには、すずのの姿があった。 それは、かなり変だった。 「こう……すりすりーって……」 俺たちに気付いていないすずのは、教室のドアに体をすり寄せていた。 手のひらはドアを撫でて、時々頭もこすり付けている。 どう見てもやっぱり、その姿は変だった。 「うーん……」 体をすり寄せるのをやめたすずのは、じっとドアを見つめる。 また何かをしようとしているんだろうとはわかるけど。 でも、何をするつもりだ? 「よし。うん。だいじょぶ。今度はだいじょぶ」 小さく頷いたすずのはドアから離れると、深く息を吸い込む。 そして深呼吸を終えると、何かを決意したような表情になった。 なんだかちょっと嫌な予感がする。 もしかして―― 「えーい!」 「あ、危ないっ!」 小さく声を出したすずのは、まっすぐ走り出した。 目の前のドアに向かって。 そんな事をすればどうなるのか。 その答は小さな子供にだってわかるものだ。 わからないはずがない。 「きゃ!」 当たり前のようにすずのは教室のドアにぶつかった。 かなり大きな音が響いていた。 きっとものすごい勢いでぶつかったんだ。 「……ううう」 ドアにぶつかった衝撃ですずのは跳ね飛ばされて、その場にぺたんと座り込んだ。 「……またしっぱい」 「すずの!」 「はっ!!」 「おーい。大丈夫かー?」 座り込んだままのすずのと視線を合わせるため、俺たちもしゃがみこむ。 俺たちに驚いたのか、打ち所が悪かったのか、すずのの視線は定まっていなかった。 俺を見て、結衣を見て、マックスを見て……。 その視線は落ち着きなく動いている。 「いきなりどうしたんだ。危ないじゃないか」 「あー。おでこ赤くなってるよ、痛くない?」 「あ、あの……あの……」 「すずの……?」 3人で顔を覗き込むと、すずのの表情が変わった。 困ったような、泣き出しそうな、そんな表情。 表情だけじゃない。 顔色もみるみる悪くなっていく。 一体、どうしたっていうんだろう。 「どうしたの? すずのちゃん」 「わ、私……私、その……」 言葉を口にしようと唇を動かす。 けれど、声が震えて言葉にできない。 すずのは必死で俺たちに何かを伝えようとしていた。 けれどそれは言葉にできなかった。 代わりに瞳が一気に潤んで涙が浮かび上がってくる。 「お、おい。どうしたんだよ」 「すずのー」 「だ、騙すつもりはなかったんです……」 「え? 騙すってなに……?」 瞳いっぱいに涙をためてすずのが小さく体を震わせる。 ぎゅっと手のひらを握って下を向く小さな姿。 まるで自分が悪いみたいな、そんな錯覚を起こしそうになる。 「わ、私は人間じゃなかったのです」 「は?」 「ど、ど、どどういう事?」 「私……幽霊だったんです」 「は?」 「え?」 「幽霊?」 突然の事に意味が全くわからなかった。 でも、すずのの目は真剣だ。 嘘をついているようには見えない。 だからって、幽霊だって言葉を信じろなんて難しいけど。 「でも、わたしにはちゃんと足が見えてるよ」 「オレだってそうだぜ」 「うん。俺にも……ていうかさ」 「ひゃっ」 ぽんぽん。 すずのの頭をなでてみる。 間違いなく、そこには柔らかい髪の感触があった。 「触れるし。幽霊ってもっとスカーってなってない?」 「でも、今まで誰にも見えた事ないんです。晶さんたちが初めてなんです」 「う、うーん」 やっぱり、すずのが幽霊だなんて信じられない。 そりゃ、ちょっと頼りない感じはするけれど、目の前にいるのは普通の女の子のすずのだ。 「あの。ちょっと教室の中、見ててください」 すずのは突然立ち上がって、一番近くの教室へとずんずん歩きだした。 「わ、な、なんかわたしたちがヘンな人みたいだよ」 「う、うん」 言われた通りに教室の中を覗きこんだ俺たちに、不思議そうな視線が向けられた。 数人の生徒たちは、放課後の教室で楽しげに会話していたみたいだ。 それをいきなり、違うクラスの俺たちが覗きこんだんだから、それは仕方ない。 だけど。 「あれ?」 「なんかおかしくねーか」 ふたりも気づいたようだ。 教室の中に入っていったすずのに、誰も視線を向けていない。 「……だよな」 視線を向けないどころじゃなかった。 すずのは教室に残っている生徒たちの目の前に立ったり、顔をのぞきこんだりしている。 それなのに、誰もすずのに気付いていないようだった。 「あれって、すずのの姿が見えてないって事……?」 「そ、そうみたいだね……」 すずのはトトトっと教室から出ると、廊下にいる俺たちの前に立った。 恥ずかしそうなのと、悲しそうなのが混じったような顔。 うつむいたまま、すずのは小さな声で言った。 「あの、こ、こういうことなんです……」 「見えてなかったよね」 「ああ、でもオレたちには見えてる」 こくこくこく。 すずのが頭を振る。 信じられないような事だけど、さっきの教室の様子を見ていたら、信じるしかない。 「やっぱり……壁をすり抜ける練習、見られたら終わりですよね」 「え、さっきの練習だったんだ!?」 「ほんとに? どーんてぶつかったから、びっくりしたんだよ」 「は、はい……失敗です……」 ドアに思いっきり走っていったのは、すり抜けの練習だったのか。 確かに幽霊だったらすーっといけそうだ。 だけどどう見てもそうは見えなかったけど――それを本人に言うのはやめておこう。 絶対ぷるぷると震えて悲しげな顔しそうだ。 「……うーん」 「あの、気持ち悪い…ですよね。幽霊とか、いやですよね…」 「えっと、ちょっとビックリした!」 「え?」 「でも、こうして話してる時は今までと一緒だよね! だってすずのちゃんはここにいるもん」 「で、でも」 「だから大丈夫だよ!」 「結衣さん」 「なーなー、つまりあれだな」 「はい?」 「すずのにはステルス機能がついてるって事だな!」 「す、ステルス機能」 「ああ! 姿が見えなくなるっていう、すっげー機能だ」 「でも、俺たちには見えてるよ……」 「いいなー! オレも欲しいぜ! メカなら誰もが憧れる機能なんだぜ!」 「そ、そうなんですか」 「おう! すずののすは、ステルスのすだったんだな!」 「いや、だから……」 「カッコイイじゃねーか!!」 ステルス機能って、それじゃ幽霊じゃなくて高性能ロボになってしまうじゃないか。 って言いそうになったが、ややこしい話になりそうなのでやめておこう。 マックスのロボ談義は長いからな。 「う…うう……み、みな、みなさん……あ、ありが……」 すずのはまたぷるぷる震えながら、俺たちの方を見上げていた。 こんな泣き虫の幽霊、見たことない。 いや、幽霊自体もないんだけど。 こんなんじゃない気がするな。 「やあ、まあ……俺たちには見えてるし、幽霊だろうとそうでなかろうと、すずのはすずのだから」 「うんうん! そうだよ」 「みなさん…ありがとです」 「今まで誰にも見えてなかったのが、俺たちには見える。こりゃラッキーくらいに思えばいいんじゃないかな」 「そうだよ。それに、何か力になれるかもしれないし!」 「い、いいんですか。ぐす、わ、わた、私……そんなの」 「いいんじゃないのかな。別に困る事もないし」 「そうだよね、別にないよね」 「オレ達、友達だろ!!」 「晶さん! 結衣さん! マックスさん!」 「じゃあ、今まで通り、お友達だよ」 「は、はいっ、お友達です」 頷いたすずのの表情は少し明るくなっていた。 ちょっとは元気になったらしいとわかって安心だ。 「明日からも会えるよね?」 「はい、会えます、会いたいですっ」 「良かった!」 「お? ふたりとも、そろそろ寮に戻った方がいいかも」 「もうそんな時間か?」 「おう! オレのアラームは正確だからな」 「大変だー! 帰らないとご飯の時間かも!」 「あの、それじゃあ私は保健室に」 「え? 保健室?」 「もしかして、保健室に何か恨みが!?」 恨みって、どうしてそういう方向に持っていくのか。 案の定、すずのも困っているみたいだ。 眉毛をちょっと八の字にしてじっと結衣を見ている。 「いえ、恨みとかは……特に……私、気付いたら幽霊だったので」 「えっと……」 結衣の言葉に、少し戸惑った様子を見せるすずの。 本当に何も覚えていないみたいだった。 記憶喪失の幽霊、といったところだろうか……。 「じゃあ、保健室がすきなのかな?」 「ではなくて、ただ単に寝に……」 「寝に!?」 「寝に?! すずのちゃん保健室で寝てたの?!」 「はい。他に行く場所もないので」 幽霊がひとりで保健室で寝ている……。 怪談話だとしたら、これほど良くできた話はないな。 問題は、その幽霊がすずのだってところくらいで。 でも、いくらなんでもひとりでってのは危なくないか。 たとえ幽霊だとしても、すずのがひとりってなんだか安心できないな。 「ダメだめ! ダメだよ!」 「え?」 「女の子がひとりで保健室で寝てるなんて良くない!」 「そうそう、俺も今そう思ってた」 「でも、私、幽霊ですから……」 「幽霊でも、なんでも! 女の子ひとりはダメ! 危ないし寂しいし」 「でも……」 「ねえ、今日から私の部屋においでよ」 「え……」 「他の人に見えないなら一緒に来ても大丈夫。見つからないよ」 「そりゃそうだな」 「結衣、頭いーなー!」 「ふふっ!」 嬉しそうに結衣が笑っている。 でも、すずのはその表情を見て戸惑っていた。 本当に自分が一緒に行ってもいいのか? 言葉には出していないのに、その戸惑いが充分よくわかる。 そんな戸惑いは結衣にもわかったらしい。 すずのを見つめ、結衣はそっと自分の手を差し出した。 「ね? 一緒に行こうよ」 「い、いいんですか?」 「うん!」 「あ、ありがとうございます……!」 大きく頷いた結衣を見て、すずのは声を震わせて下を向いた。 でも、誰もその顔を覗き込まなかった。 すずのがどんな表情をしているのかなんて、すぐわかる。 震えている声と体が、それを教えてくれている。 「遅くならないうちに行こう」 「は、はい」 「俺たちも急ぐぞー」 「当然だ!」 下を向いたままのすずのの手を取って、結衣が走り出した。 俺とマックスも慌ててそれを追いかける。 すずのは結衣に手を引かれたまま、自分の足で走り続けている。 俺たち3人分の足音と、マックスの飛行音が廊下に響いている。 幽霊って足がないっていうのは嘘なんだろうか。 やっぱり、すずのが幽霊だなんて思えないなあ……。 十月二日。学園はスケジュール通り、今日から秋休みに入った。 まあ、二週間という短い休み。それほど羽目を外したりするには少々物足りない休みだけれど、それでも息抜きは充分に可能だ。 俺達生徒会と繚蘭会メンバーは当初の予定に従い―― 「海だーっ」 予定通り、島内の海へと、遊びにやってきていた。 「うーーーーーーみーーーーーーーーーーーー!!」 「うーーーーーーみーーーーーーーーーーーー!! はい、くるりんもっ」 「うーみー」 「天気にも恵まれたし、よかったわね」 「はい、潮風が気持ちいいです」 「多少季節は外れても、やっぱり海に来ると気分がはずむものよね」 「少しくらい外れていた方が、混雑もなくていい」 「どうだ〜! 俺の提案通りに来てよかっただろう〜! さー泳ぐぞ〜! 遊ぶぞー!」 「はいっ会長〜! さすが会長ですっ! ここまで予見しておられたとは!」 「あの、ところで、なんでぐみちゃんと九条は……その水着なの?」 他の女の子達がそれぞれ可愛い水着を着ている中、二人だけは何故かスクール水着。 「何か問題でも?」 「しょーくんさんご存知ないですか〜? これは機能的アーンド実用的なすばらしい水着なのでーす!」 「いや、まあ…知ってますけどね……」 見上げる空は、まるで今日のために用意してあったかのように晴れ渡っていた。 季節的にも少し寒いんじゃないかと思ったのだけれど、南よりなこの島の位置と降り注ぐ日差しの強さのおかげで、充分泳げそうだ。 繰り返される波の音。これを聞くだけでワクワクとしてくるのは、この『海』という場所がもたらす特殊な力だろう。 目の前に広がる大海原を前にして、誰もが心躍らせ、その顔を輝かせていた。 その澄んだ青い水のように、素直に童心へと帰り、ただ心からはしゃいでいた。 「はあ……」 まあ、ただ一人を除いては。 「えーと、九条? あいつ、なんであのままなの?」 「あの体の性能チェック。海でどこまで動けるかは重要な項目だから」 「よく考えてみたら丁度いい機会なので、色々と調べてみることにした」 「不憫な奴……まあ、男として言わせてもらえば、こっちのが嬉しいけど」 「うううう……本当なら男の血潮が熱くたぎる大海原だってのに、なんでこんな……」 一人荷物置き場のすみっこにしゃがみこむと、砂浜に野の字書いたりしてしょげてしまう。 いや、すなおに『の』書けよ。 「ほら、元気出せよ」 「ガンバ、だよあきらくん」 本気で落ち込んでるその背中に声をかける。こういうイベントでこいつがこうだと、どうにも調子が狂うからなあ。 「うううう。くそぉ。せっかく、すっごいかっこいい水中用クリアパーツとか用意したのに……」 「ま、まあほら、これで今回色々調べられればさ、その結果を利用した凄いパーツ作ってもらえるかもしれないって」 「気休めはよしてくれ……今日という青春の1ページは、やっぱり今日にしかないんだよ……」 「で、でもほら、その体にしかできないことだっていっぱいあるし」 「なんだとお! オレのあのかっちょいい水中モードを差し置いて、何が出来るってんだよ!!」 「え、えーとその……」 結衣はあきらの体を見回しながら必死にその先を考える。が、その視線が唐突に一点で止まった。 「お、おっきい……」 「何?」 女性にとっての象徴。男性にとっての夢袋。その上半身に作られた、神による奇跡造型。二つの膨らみ。 結衣はその瞳に憧れの色を浮かべると、ズズイッ、と詰め寄った。 「あの、あきらくん。ちょっと触ってみてもいい?」 「な、なんだ? いや、別に構わねーけど」 そして遠慮なくふにふにする。な、なんという……いや、羨ましくなんて……羨ま……羨ましいなあ。 こういう時、女の子はいいなあと思う。 「うわあ、柔らかーい」 「いや、結衣。そんな熱心に揉みしだいてないでだなあ、そもそも、あきらを励ますんじゃなかったのか?」 「あ、えへへぇ。おっきくて柔らかそうで、おいしそうだったからつい」 「でかかろうが柔らかかろうがうまそうだろうが無意味だ、そんなん!」 「こんなの腕を動かすにも邪魔なだけじゃねーか。何がいいんだよ、こんなパーツ。そう思うだろ晶も」 「い、いやあ、ほら……大きさはともかく、胸はいいものだと思うなあ」 なんといっても夢袋。大きかろうと小さかろうと、男にとっての何か眩いものが詰まっているのは間違いない。 「ガーーーン!!」 「し、晶、お前までが……」 あ、野の字書くのが早くなった。 「これはまあ、時間に解決してもらうしかなさそうだなあ」 「そうだね。でもまあ、海だし。きっとすぐ元気になるよあきらくんも!」 俺達は根拠のない希望を語ると、とりあえずあきらを一人にしてやることにした。 「まあ悪いけれども、俺達はこの青い海を満喫させてもらおう」 「うん、そうだね」 俺達は言って、目の前にある偉大な自然へと目をやった。 「そういえば、すずのは…??」 「水の多い所は行けません、って、わたしの部屋でお留守番してる」 「そうなのか……。残念だな」 やっぱり自縛霊なのかな……。 ふと不吉なことを考えてしまったが、やめとこう。 今、この青い海を満喫させてもらおうと思ったばかりだ。 「あら? 晶さん、その腕……?」 「え?」 不意に横から桜子が顔を出す。そして、本気で心配するような顔で、俺の腕を覗き込んでいた。 俺はなんのことだろうと少し考えて、ああ、と気付く。 「この注射痕?」 「あ、はい。すごいいっぱいありますけど、どこか悪かったりするんですか?」 「いや、子供の頃のやつだよ。俺もほとんど覚えてないんだけどさ、どうも相当病弱だったらしいんだよ、俺」 「で、母さんと一緒に病院を渡り歩いてたみたいで……なんか、病院っていうよりは何かの施設っぽいとこだったような記憶がうっすらとはあるんだけどね」 「色々と検査みたいなのもたくさん受けてたっぽいし」 「それって、もう大丈夫なの?」 「ああ、今ではもうまったく。なので今日も一日全開で遊ぶぞ! 心配してくれてありがとうな、桜子」 「ううん。もう大丈夫なら、よかった。病気やケガってつらいもの」 「そうだな。あんま覚えてないけど、健康でいられるありがたみはよくわかる気がするよ」 「ところで、他のみんなは?」 「とっくに海に突撃しました」 「……やっぱり、海はみんなを解放的にさせるなあ」 「それじゃあ、私たちも行きましょうか」 「そうだな」 時期が時期なせいか、他には誰もいないし、荷物に関してはたまに気を配ってさえいれば問題ないだろう。 「とりあえず、俺は泳ぐかな」 キラキラと眩しい光を反射する海面。穏やかな波が、さっきから俺を呼んでいるような気がする。 俺は軽い体操で体を動かすと、海へと向かって駆けだした。 「じゃあわたし砂トンネル作るー」 「トンネルって……結衣は結構子供っぽいこと好きよね」 「ああ、ほら、何も考えないで掘ってたら崩れるじゃない。もうちょっと全体のバランスを考えて掘らないと」 「ほら、こうよ、こう」 「うわあ、天音ちゃんうま〜い」 「それじゃあ私も、砂で何か素敵なオブジェでも」 「ああ、ほら桜子も。まずは土台をきっちり作らないとすぐ崩れるわよ」 波打ち際で早々に芸術家モードに入る女性陣。 ……なんだかんだいいつつ、天音も楽しんでるよなあ。 「ふう。さすがに一時間も海に入りっぱなしだと疲れるなあ」 浮力を失い、疲労を背負った体は、いつも以上に重く感じる。俺は足を引きずるようにしながら砂浜へと上がった。 さすがに水分が欲しい。その上で少し休んでから、また一泳ぎしに出よう。 「みんなは、まだ泳いでるのかな?」 さっきまでは何人か周囲で泳いでるのを見かけたんだけど、いつの間にやら上がってしまっていたらしい。 軽く砂浜を見回すと、茉百合さんとあきらがボールを持って歩いているのが見えた。ビーチバレーでもやるのかな。 そして九条とぐみちゃんも波打ち際にいるのが見える。砂遊びをしているみたいだな。 どうするかな。他のみんなを捜してみるか、それともビーチバレーに混ざるか。 「海って、なんかやたらと童心に返りたくなるよなあ」 大量の砂が何かを目覚めさせるのか、砂浜で作る山には、何か大きなロマンを感じる。 「よし、二人の所に行ってみるか」 俺は自らのロマンを求めて、九条とぐみちゃんのもとへと歩いていった。 近づいてみると、二人は砂浜に四つん這いになりつつ、熱心に何かを作っている。 しかし、さっきまでは普通にミーハー気分で見てたけど、こうして見ると、思ってた以上に危険な代物だな、スク水って。 まあ、この二人だからこそ似合っているんだと思うけれど。もしこれが桜子だったりしたら……ダメだダメだ。かなり危険な妄想になってしまう。特に胸のあたり。 俺は自分を支配しかけた妄想を振り払うと、今目の前にいる二人へと声をかけた。 「二人とも、どんなロマンに挑戦してるんだ? トンネルか? 城か? ああ、砂絵描いてるのか」 二人の年下美少女が砂浜に描く夢。 なんか素敵そうだよな。俺は二人の間から砂へと視線を落とす。 「……」 「……あのさあ、何、それ?」 砂浜に描かれた年下美少女の描く夢は、俺にはちんぷんかんぷんでした。 「はい。しょーくんさんには逆立ちしようが鼻でピーナツ食べようがお尻から手を突っ込んで奥歯ガタガタ言わせても到底意味の分からない数式です」 「意訳すれば、バカにはわからない数式」 二人は、最初からそういう質問が来るのをわかっていました、といいたげな顔で俺を見る。 「いやあの、意訳していただかなくともさすがにわかります……」 「というか、なんで砂浜でそんな数式なんか書いてるんだ?」 「ロマンです!」 「ロマンだから」 ……いや、そういう答えでちゃったら、うん。もう何も言えないや。 「数式は芸術です! この一見複雑怪奇そのものの記号が、その法則に従い一つずつ解いてくうちに、やがて綻び、一本の線へと変わっていく」 「凄く痛快」 「はい、痛快です! そして爽快です! なんといっても答えは常に一つ。数式は決して裏切りません!」 「国語でよくある問題。作者は何を言いたかったのか。ワタシは、それで本当に正しいのか、作者本人に聞いてみたい」 「ああ、それは俺も同感。あれ、絶対問題作った人間が勝手に決めつけてるよな」 「問題制作者の意図一つで人生を変えられるのはごめんだ」 「しょーくんさんも参加しますか? めくるめく数式の世界は誰であろうと拒みません!」 「数式が拒まなくても葛木の脳みそが拒むと思うけど」 「ちなみに、今の会話で一番言いたかったのは、葛木には十年経っても理解不可能だということ」 「いや、十年なんて単語、どこにも出てきませんでしたよねえ……」 それでも、間違ってないのが自分でわかっちゃうのが悔しいぞこいつ。 「ダメですよ、くるりん。いくら常に一つの真実であっても、言葉は選びませんと」 「それ、とどめ刺しに来てるよね、ぐみちゃん……」 「いえいえ、そんなことはまったくありません!」 「ぐみ、無意識だから怖い」 「ちなみに、数学の中には解けば懸賞金がもらえる問題もあるんですよ。その額、なんと100万ドル! 一億円ですね」 「い、一億!? 問題一つ解いて!?」 「はい。それくらい奥の深い世界だということです」 「……問題一つで一億かあ。ちなみに、どんな問題なんだい、それ」 いくら難しいとはいえ、所詮は人間の考えたもの。ぐみちゃんも言っていた通り、答えは一つしかないんだ。 「……サラリーマンの生涯賃金とか予想するの……?」 「え、何今の」 「……あの、さすがにそこまでベタでくるとは思っていませんでした」 「問題外。葛木に数学は向いてないから帰れ」 「失礼な。だったら俺には何が向いてるっていうんだ」 「家庭科。主に試食役」 「……どっちも即答ありがとうございました……」 向いていない俺は、素直にその場を後にした。 あれ? 俺、海に泳ぎに来てたんじゃなかったっけか? 「えーと、天音は……」 改めて砂浜を見回して見る。天音のことだ。大人しくしているタイプでもないし、見つけやすいと思うんだけど……って、ほらいた。 天音は、荷物置場のすぐ脇で、何かをいじっているようだった。 「休んでるようにも見えないし、あいつ何やってるんだ?」 まあ、直接聞いてみるのが一番か。俺は天音のいる荷物置場へと向かって歩き出す。 そして、少し近づいたところで理解した。 「ゴムボート膨らましてるのか?」 「ええ。ただ泳ぐだけっていうのもつまらないし疲れるから、ちょっとボートで沖に行ってみようかなって」 天音は足で空気ポンプを踏みつけながら言う。 なるほど。確かに泳ぐのは体力もいるからな。休憩がてら、それも楽しいかもしれない。 「俺も一緒に行っていい?」 「いいわよ、丁度二人乗りだし。ただし、男の子なんだから漕いでよね」 「ああ、それくらいならどんと来いだ」 まずは空気ポンプを踏む役を交代からかな。 穏やかな波は、ゴムボートで沖に向かうには実にありがたかった。 俺と天音。二人を載せたボートは、途中で止まることなく順調に進んでいく。 「へえ、結構上手いのね」 そんな俺のオールさばきを興味深げに眺めながら、天音は感心した風に言った。 「いや、これだけ波が穏やかなら誰でも漕げるよ。やってみる?」 「いいの?」 「別に難しいものでもないし。二つのオールをテンポ良く動かしてれば、それだけで進むよ」 俺は天音にオールの柄を差し出すと、軽く笑ってみせる。 「そ、そう? ならちょっとチャレンジしてみようかな」 天音はちょっと嬉しそうに言うと、恥ずかしそうに身を伸ばし、オールを受け取ろうとする。 が、慣れない水上でいきなり動いたせいか、思い切りバランスを崩した。 そのまま海へと落っこちそうになる天音の体を、俺は慌てて捕まえ引き寄せる。 「ほら、危ないぞ」 「あ、ありがとう……」 状況的に仕方ないとはいえ、抱きしめた天音の身体は思っていた以上に小さかった。 俺の腕にすっぽりと収まってしまうその体は、やっぱり俺達とは違った女の子の体であることを意識させる。 抱きしめる腕に、陽の温かさをたっぷりと含んだ温もりと、その柔らかさとが伝わってくる。 「ゴムボートって、結構揺れるのね……」 赤らんだ顔で、恥ずかしさを誤魔化すように言う天音。その態度が、妙に女の子らしく見えるのは、この状況のせいだろうか。 俺は気恥ずかしくなってきて、つい顔をそらせてしまう。 「そうみたいだな」 「ご、ごめんね、あの、すぐどくから」 「あ、いや、うん。俺は結構役得っていうか、ほら、水着一枚しか着てない状態って、ほとんど裸も一緒だし…」 「え……」 しまった、と思った時には遅かった。今の状況を改めて確認したのか、天音の顔が驚きに変わる。 「は、離れなさいよ、このエッチ!」 「うわあ! だから危ないから! こんな体勢で暴れたら、そ、それこそ!」 照れ隠しに暴れまくる天音を懸命に抑えようとするものの、それが逆効果となり、天音はより激しく暴れ出す。 それでもどうにかバランスを取ろうとするものの、恥ずかしさに我を忘れた天音は、もう抑えようがない。 「え? あ、きゃああっ!」 俺達を乗せたまま、ゴムボートが大きく横に回転した。 土台が回転してしまえば、乗っていた俺達に抗う術はない。激しい水しぶきを上げながら、俺達の身体はものの見事に海の中へと落っこちた。 「ぷはぁっ!」 俺は海面へと顔を出すと、まずは全開で空気を求める。まだそれほど沖に到達していなかったのが幸いしたな。 そして裏返ったボートに掴まりつつ、俺はその手にしっかり握っていた天音の手を力一杯に引き上げた。 「けほっ、けほっ」 「ほら、大丈夫か。ボート、ひっくり返ってはいるけど、掴まるくらいは大丈夫だから」 「あ、ありがと……」 すっかり疲労しきった天音の身体を、そのままボートにしがみつかせる。 「だから言っただろ、危ないって」 「ごめんなさい……」 苦笑しながらの俺の言葉に、思い切りシュンとなってしまったその姿が妙に可愛らしい。 いつもの気の強い姿とは別人の、まるで小動物みたいだ。 「いや、天音ってさあ、可愛いよなー」 「え……」 俺の言葉が聞こえていないのか、硬直していた天音の顔が突然、ぼん、と赤くなる。 「な、ななな何、を……こんな所で……」 その顔を見られるのが恥ずかしいのか、顔をそらして逃げだす天音。 「な、な何言ってるか、わかんない! こんなとこで! い、い、い、いきなり!!」 「え、あ、う、うん。ごめん」 「わ、わ、私暴れてボートひっくり返したのよ?! 海に落ちたのよ?!」 「う、うん。無事でよかったな」 「……!!」 「ひいっ」 「か、帰るわよ! 陸まで戻るの!」 「は、はい……あの、怒らないで…」 「怒ってません!!」 「俺が水着一枚で嬉しいとか言ったから……」 「いーから! もういいから!」 顔はそむけて見えないけど、声音はそこまで怒ってはいないように聞こえた。 ……照れ隠ししているだけなのかな? まあ、蹴られなかったらそれでいいか。 しばらく黙っていると、天音もようやく落ち着いてきたらしい。 「……あの、じゃあ陸まで戻るか」 「ええ。うん。うん。戻りましょう」 まだ赤らんだままの顔で頷く天音。俺達は二人寄り添うようにしながら、陸へと向かってボートを押し始めた。 「桜子は……」 あの大人しい美少女の姿を求めて、俺は砂浜を見回した。派手に動く子じゃないし、どこかで休んでると思うんだけど……っと、よし正解。 桜子は、荷物置場のシートに座り、ビーチバレーに勤しむみんなを楽しそうに見つめていた。一緒に結衣と天音の姿も見える。 天音は……なんだ荷物漁って何か探してるのか? まあいいや。俺も休もうと思ってたところだしちょっと場所を借りよう。 俺は荷物置場へと向かって足を動かした。 「晶さん、お疲れ様です。今まで泳いでたんですか?」 さすがに疲れが少し表に出ているらしい。桜子は、戻って来た俺の歩き方を見てまずそう言った。 「海なんて久しぶりだからね。ちょっと張り切っちゃった」 自分でもここまで疲れるほど泳ぐことになるとは思っていなかった。人間休息は大事だよなあ。 「ほんと、あまり無理はしない方がいいわよ。海は危ないんだから」 「いや、天音も危ないだろ」 「誰が危ないのよ!」 「だってすぐ蹴るし…」 「はあ……まったくもう、問題をすりかえるんだから」 今の悪いの俺!? 「でも、疲れたら休むのは大切だよね。それと、いっぱいのお菓子。甘い物は疲れた体にいいんだよね」 「お砂糖! すなわちドーナツ! ドーナツはやっぱり凄いでする!」 なぜそこで砂糖からドーナツにいきなり飛ぶのかなあ。 もっと甘いものは他にいくらでもあるだろうに。まあ、ドーナツおいしいけど。 「そこですぐドーナツにいくあたり、結衣らしいわ」 「ほっこりする」 「ええ!? どうしてそこで意気投合!?」 「くす。三人とも、本当に息がピッタリですね。晶さんが転校してきてから、まだそれほど日も経ってないのに」 「そ、そう…?」 「そうだね。わたしも晶くん、他人だって気がしないもん。ずっと昔からのお友達みたいな感じで」 「まあ、一緒にいて気は楽、かな」 そう言えば、俺ってここに来てからまだ二週間程度なんだよな。 色々ありすぎて全然そんな気しないけど。 「まあいいわ。とりあえずオイル見つかったわよ、結衣。塗ってあげるから横になって」 「はーい。ありがとう、天音ちゃん」 「日焼け止めか?」 「うん。海に入って落ちちゃったから、塗り直してもらおうと思って」 シートの上に横になり、ブラのヒモを普通に外す結衣。 いや、ここに男がいることをもう少し認識してほしいんだけど。俺は慌てて後ろを向いた。 「やっぱり、日焼け止めは必要ですよね」 そんな結衣と天音の様子を見ながら桜子が言う。 「まあ、真夏と比べれば弱いと言っても、これだけの日差しだし。男はともかく、女の子は塗っておいた方がいいかもな」 俺の返答に桜子は少し考えると、離れた場所でビーチバレーをやっている面子へと目をやった。そしてまた俺へと振り返る。 「晶さんは、ビーチバレーに参加しないの?」 「普段ならしてもいいんだけど、さすがに今はそれほどの体力無し。少しのんびりするよ」 「あ、でしたら」 桜子はラッキー、とばかりに両手をぽん、と合わせると、そのまま俺に背中を向けた。 「もしよかったら、サンオイル、塗ってもらえませんか?」 「え、お、俺が?」 「はい。自分でやると、背中の方とかムラになっちゃうし」 信頼しきった友人としての笑顔を向ける桜子。 俺が男として見られてない証なのかなこれ、ちょっと悲しい気もする。 「ええと、本当に俺でいいの?」 「桜子がいいって言ってるんだから、やってあげればいいじゃない」 予想外の天音の賛同。いや、真っ先に反対すると思ったんだけど。 「ただし、ここには私も結衣もいるんだから、変なことしたらわかってるわよね……」 納得。いや、元々する気もないから睨むのやめてくれ。 「あの、やっぱりご迷惑です? 実は日焼け止めアレルギーだとか……」 「いえいえいえいえ、滅相もない! いや、桜子が問題ないというなら、その、喜んで塗らせていただきますっ」 「ありがとうございます」 今この頭上で輝く太陽なんかよりも遙かに眩しい笑顔で、桜子は俺に言った。 「そ、それじゃあこれ少しもらうぞ」 俺は天音から日焼け止めクリームを受け取ると、それを手にすくう。 水着に覆われていない、白いスベスベとした桜子の背中。男なら誰だってこの肌に触れる事を夢見るだろう。そこに、そっと手を伸ばす。 「あは。少し冷たく感じますね」 触れた瞬間、ピクッと小さく震えたその体に少し慌ててしまう。 桜子の肌は思っていた以上にスベスベで白く、シミ一つ見つからない。こうして触れているだけで、色々と暴走してしまいそうになる自分を俺は必死に押さえつけた。 天音も結衣も桜子も女の子だからわからないかもしれないけど。 俺だって男の子なんだぞ! いろいろ考える事はあるんだ! ――そんな感情が手を伝って桜子に気付かれてしまわないよう祈りつつ手を動かしていった。 丹念に、ゆっくりと動く俺の手に、オイルが伸ばされ、広がっていく。桜子はそんな俺の手の動きを楽しんでいるように、始終微笑んだままだった。 天国のようで地獄のような複雑な時間。横にいる天音と結衣の視線が微妙に痛い気もするけれど。 「えっと、こんなもんで大丈夫かな……」 あまり長く続けていると、こっちの頭が色々といっぱいになりそうだ。背中全体に塗れたのを確認すると、俺は手を離す。 この後ろ髪を引かれるような思いは俺の本音なんだろうけど、やっぱりガマンするところはしないとな。 「はい、ありがとうございます」 桜子は、塗り始める時とまったく同じ笑顔を返してくれた。よかった。この笑顔を崩さずにすんで本当によかった。 「よし、こっちも丁度おしまい。それじゃあ、海に繰り出しましょうか」 「って、あれ? なんで俺引っ張られてるんだ?」 「だって、結衣と桜子はどっちも日焼け止め塗っちゃったもの」 「いや、俺は休憩しに……」 「充分したでしょ。一人で泳ぐのもちょっと寂しいし、観念して付き合いなさい」 「いってらっしゃーい」 「二人とも楽しんできてね」 おかしい。女の子というものはどうしてこういう時だけとんでもない力を発揮するんだろう。一応反発しているはずの俺の体を容赦無く引きずる天音。 これはもう、諦めるしかないか。俺は昼時まで休めないであろう事を覚悟した……。 どうやら茉百合さんとあきらは、ビーチバレーに参加する人間を捜しているようだ。会長と八重野先輩は……どこにも見当たらないな。 それじゃあ、せっかくだし俺も参加させてもらうとしよう。 っと、その前に水分くらいは取らせてもらおう。俺は荷物置場へと足を向けた。 「天音? 何やってるんだ?」 そこには、一人ゴムボートと格闘をしている天音と、それを応援している結衣と桜子の姿があった。 「見ての通りよ、ゴムボートに空気いれてるの。泳いでばかりなのも疲れるし」 「でも天音ちゃん、泳いでる時より疲れてるみたいで……あの、やっぱり手伝う?」 「大丈夫よ! 一人で出来ますから」 「晶さんは、もしかしてずっと泳いでたの?」 「まあね。でもまあ、さすがに一旦休憩。水分補給したら、今度はビーチバレーに行こうかと」 「何それ。休憩になってないじゃない」 さすがに呆れた顔で言う天音。まあ、ごもっともだとは思うけど仕方ない。 「いや、俺も普通に休むつもりだったんだけど、見てたらなんか燃えてきて」 「せっかくだし、天音もどうだ? 結衣も桜子も。せっかくの海だし、じっとしてるよりはみんなで騒いだ方が楽しいと思うぞ」 「……そうね。水の中ばかりが海じゃないか。二人はどうする?」 「そうだね。ちょっと運動した方が、お腹が空いてお昼もおいしく食べられそうかも」 「それでは、私は審判で参加させてもらいます。一人でいても寂しいですし」 「よし、それじゃあ勝負だ天音。負けたらジュース一本!」 「いいわね、乗ったわその勝負。ジュースごちそうさま」 「ねえ桜子ちゃん、わたしどっちと組んだ方がジュースもらえると思う?」 俺達はそれぞれ胸に勝利を確信しつつ、茉百合さん達の元へと向かった。 「晶くん、いくよっ」 結衣の手によって上がったトスは、高さ、角度共に申し分ない。俺は全身のバネを使って跳び上がると、まさしく会心のアタックを打ち下ろす。 「きゃあっ!」 「くうっ、届かねえ! いつもの体なら!」 「いや、そっちのが余計届かないだろ」 俺は誰もが思っただろうツッコミをいれると、結衣とハイタッチ。これで20-17。次を決めれば俺達の勝ちだ。 「ビーチバレーはお得意みたいね、晶くん」 「茉百合さん。いえ、なんか今日は調子いい日みたいです。体のキレがいい」 「晶さん、かっこいいです」 「うん、晶くんすごいよー!」 美少女二人にこんな声をかけられて気合いが入らないはずがない。あと一点。俺は気を引き締めて相手コートを見やる。 「ふん。勝負はまだ決まったわけじゃないわっ」 まあ、こちらの美少女には睨まれてるわけなんですけれども。 「いっくよー」 結衣のサーブ。綺麗な弧を描いて相手コートに入るそれを、天音がしっかりと受け止める。 そして素早くボールの下へと入り込むあきら。 それは絶妙なトスとなって、天音の頭上に浮かんだ。天音は助走をつけて高く跳び上がり、その背で引き絞った弓矢を思わせる弧を描く。 「食らえぇ!」 まずい。あの体勢から放たれるアタックにどれだけの威力があるのかは容易に想像できる。それをどうやって防ぐか。考えている時間はない、今決めろ、俺! 天音の渾身のアタック。だが、遅い。俺の体はすでに空中にある。 指先までピンと伸ばされた二本の腕。俺は全身を使って、迫り来るボールを防ぐべく立ち向かった。 そして、玉砕した。 当たって砕けろって、本当に砕けたら意味ないよなぁ…。 薄れゆく意識の中で俺は、そんな当たり前のことを改めて自分に言い聞かせていた……。 …………。 ……。 …。 「う……」 ぼんやりとした意識の中、視界が白く広がっていく。 その白い画面の向こうから、優しげな何かが俺の顔にそっと触れた。 「気が付いた……?」 「え……」 優しくも心配げなその声には覚えがある。と同時に、頭の下に、何か柔らかなものが敷かれていることにも気が付いた。 これって、まさか……。 心の奥でそう訝しむと同時、俺の意識が一気に目覚める。 そこには、茉百合さんの心配そうに陰った顔があった。 さらに言うなら、その二つの膨らみが、やっぱり目の前にあった。どうやら膝枕をされているらしい。 「あ、あの、その……なんで、茉百合さんが……?」 見てはまずい、そう頭の中では理解しているものの、こうして顔を見上げていると、どうしても二つの丘も目に入ってしまう。 普段と違い下から見上げるそれは、想像以上の迫力で俺に迫ってくる。 「動かないで。晶くん、ビーチバレーで天音ちゃんのアタックを、思いっきり顔で受けちゃったのよ」 「天音の……?」 そう言葉にしてみて、俺はやっと思い出し始める。そうだ、天音の渾身のアタックを……。 「あのアタックに正面から挑んだまではかっこよかったわよ、晶くん」 「まさか、顔で受けるとは思わなかったけど」 その光景を思い出したのか、茉百合さんは小さく笑った。 「いや、俺もその、まさか顔面ブロックになるとは……あ、すみません。いつまでもこの体勢まずいですよね。今、起きます」 「こら」 慌てて起き上がろうとした俺の額を、茉百合さんがぺしっと叩く。 「目が覚めたとはいえ、ついさっきまで気絶してたのよ。いきなり起き上がって、また何かあったらどうするの」 「天音ちゃんに正面から挑んだ名誉の負傷だもの。大サービスよ。もうしばらく、ここで休んでなさい」 言って、優しく俺の額を撫でてくれる茉百合さん。俺は母親に怒られた子供みたいに、はい、と素直に頷いていた。 頭の下にある茉百合さんの太ももの感触。他の生徒に見られたらちょっと怖いことになるだろうけれど、ここは役得としてもう少しこのままでいさせてもらおう。 「ちなみにさっきのゲーム。天音ちゃんのアタックを晶くんが見事に防いで、晶くんたちの勝利」 「ただ天音ちゃん、リベンジするんだって張り切ってるから、元気になったら覚悟しておいた方がいいわよ」 「げ……」 いかにも楽しげに言う茉百合さん。天音、結構負けず嫌いだから、絶対手を抜いてくれないだろうなあ……。 俺が二度目の顔面ブロックによって、再度茉百合さんの膝枕を味わうことになるのは、また別の話である。 天音の渾身のアタック。俺はその着弾点を見極め、レシーブの体勢で待ち構える。 猛烈な勢いで飛んでくるビーチボール。だがそれも、コースを読まれては意味がない。 はずだった。 「嘘……」 天音の全力で放たれたそれは、俺の予想を遙かに超えていた。俺が予想していた着弾点より更に上。 つまりは、俺の顔目がけて全力で飛んでくる。 知覚の限界を超え、スローモーションのように迫ってくるボールが、まるで俺の結末を表しているようだ。 って、ちょっと待て! これは思い切りバッドエンドフラグでは!? ボールが近づいてくるのは分かるのに、体がそれに合わせて動いてくれない。 これはなんて拷問!? が、不意にそのボールが消えた。いや、見えなくなった。いきなり、俺とボールの間に入ったその人影によって。 結衣だ。結衣が飛んでくるボールをレシーブしようと、俺の前へと無理に入り込んだ。それが俺を守ろうとしての行為なのは間違いない。 結衣はキッとボールを正面から睨み付け、そして―― 顔面にボールの直撃を受け吹き飛んだ。 「……」 「……えーと……」 こんな時、どんな顔すればいいのかわかりません。 と、とりあえずここは、結衣の無事を確認だ! 「お、おい、結衣!? 大丈夫かおい!?」 俺は結衣のもとへと駆け寄ると慌てて抱き起こす。 「ちょっと結衣!? 生きてる!?」 同じく結衣を心配したみんなが駆け寄ってくる。 「結衣、生きてるなら返事をしろ!」 「はら、ほろ、ひれ、はれえ……」 「な、なんて古典的な気絶をする奴だ……」 「なんか、これはこれで結衣らしいわね……」 「なぜかしら。完全に目を回してるんだけど、それがすごく幸せそうにも見えるのは……」 なんていうか、すこぶる同意。いや、守られた身で言うのもはばかられますが。 ……でもなんだろう、幸せそうだ。ああそうか、このグルグル回ってる目、もしかして。 「意外にドーナツの夢でも見てるかもしれないぞ」 「ど、どおなつ……どおなつたくさん……まわってるぅ……」 「期待通りの反応をする子よね……」 「たまには外してくれてもいいと思うんだけどな……」 やっぱり幸せそうだよなあ。 いや、守ってもらえて本当に感謝してます、結衣さん。 「疲れた……ほんと限界……」 さすがにちょっとはしゃぎすぎた。俺達は昼を前に、一旦全員で休憩に入った。 「たっだいまー」 「今戻った」 そして、そのタイミングを見計らっていたかのように、会長と八重野先輩が姿を見せる。 そういえば、午前中二人の姿を全然見なかったな。 「会長、八重野先輩。どこ行ってたんですか?」 「ああ、ちょっと釣りにな。奥の方に行っていた」 「みんなのお昼ご飯、獲れたかしら?」 「いやあ、大漁も大漁。すんごい獲れたよー」 「お前は一匹も獲ってないだろう」 本当に大漁の魚が入ったクーラーボックスを、ドサッと地面に置く八重野先輩。そこには確かに、俺達全員のお昼を賄えそうなくらいの魚が入っている。 「うわあ、本当にいっぱい! さすがは八重野先輩」 「あっはっは。その程度で褒めるのは早すぎるんじゃないかな、天音。それで満足しちゃうようじゃあ、俺の獲物を見たら腰抜かしちゃうよ」 「あー、腰抜けた抜けた。はい、これで満足でしょ」 「ちょっ、何?! その最初からあなたには期待してませんって目!」 「ああ、いいだろう。いいともさ! ならば皆、遠からんものは音に聞け! 近くば寄って目にも見よ!」 「じゃっじゃ〜ん! 俺の獲物、初公開〜!!」 会長は、さんざん煽るだけ煽ると、持っていたバケツの中からそれを取り出し両手でかかげた。 「……どっからどう見てもやたらと巨大なヒトデに見えるのは、私の目が悪いのかしら……」 「大丈夫です、天音さん。私もそう見えるもの」 「な、なあ、ヒトデって食べられるのか?」 「う〜ん……あれだけ大きかったら食べるところあると思う!」 「そうか! そうだよな、未知の食感だよな!」 「ちょっと、食べられるわけないでしょ! いくらなんでも食べるもの選びなさいよ!」 「いやでも、カニだってエビだってウニだってナマコだって、外見からは到底食べられそうに見えないし。ヒトデだって……」 「だったらとっくに先人たちがメニューに残してるわよ! まったく、このハラペコブラザーズは……」 あー、言われてみれば確かに。くそう、ヒトデは食べられないのかあっ。あんなに大きいのに! 「さっすが会長ですっ! そんなおっきなヒトデ、普通は獲れません!」 「でしょでしょ、だよねー。俺頑張っちゃったよ。自重しろだよね」 「むしろ、普通放置」 「扱いに困るだけだものね」 「うーん。何かおいしい食べ方とかないのかなあ。きっとあると思うんだけどなあ」 「なんでそこまでしてヒトデを食べようと思えるのかがわからないわ……」 「ええ!? 賞賛無し!? だってヒトデかっこいいじゃん。ヒトデだよヒトデ。星形! すんげえいけてるじゃん!?」 「そうだな、ではお前の昼食はそのヒトデにするか」 「ヒトデなんて形だけです、星形なだけです。食べるならやっぱり魚型がいいですーっ。本当は一匹も捕れなかっただけなんです、くやしかったんですー!!」 本気で泣くくらいなら最初から素直になっておけばいいのになあ。 「ちくしょう、オレも行けばよかったぜ。そうすればこのオレのサンダーアタックで!」 「いや、それ禁止だから」 下手すれば死人出るぞおい。 「じ、じゃあ、必殺のポイズンブレス……」 「それ魚が食えなくなるだろ、毒で」 こいつと食材集めにいくのは本気でやめておこう……。 「とりあえず、もう昼だ。適当に調理するぞ」 「えっあの、八重野先輩、お魚の処理できるんですか?」 「バーベキューだしな。適当にさばく程度なら問題ない」 この人、どこまで高スペックなんだ、ほんとに。嫁のもらい手引く手数多だろうなあ。 「だったら、昼の準備、俺も手伝います。一応料理はそこそこやってますから」 とはいえ、黙って見ているだけというのもなんだし、俺も手伝わせてもらおう。 八重野先輩の包丁さばきは実に見事だった。普通に料理人としてもやっていけそうな腕前で、次々と捕ってきた魚をさばいていく先輩。 俺は、そんな先輩を素直に賞賛しつつ、野菜や肉を切ってはざるに乗せていく。 「ねえ、晶くん。これ、どうやって調理すればいいかなあ」 そんな俺を隣で手伝いながら、結衣はその問題に正面から挑んでいた。 「うーん。やっぱり丸焼きでいいのかなあ。塩コショウで」 「骨とかあるのかな」 「ないんじゃないか? 裏返ったりするし」 「そっか。それじゃあ、さばいたりする必要もなさそうだよね。やっぱり丸焼きかなあ」 「けど、もしかしたら刺身なんかも……」 「あなたたち、何を真剣に議論してるのよ……」 「いや、会長の獲ってきたこのヒトデ。どういう調理法があるかなって」 「海産物だし、頑張ればきっといけると思うんだよね」 「あーもう、素直に諦めなさい!!」 「あ、おい、何をする!」 天音はヒトデを奪い取ると、そのまま全力全開で海の方へと放り投げる。 「こんなもの食べちゃいけません!」 それは綺麗な放物線を描くと、ぽちゃり、と海の中へ帰っていった。この距離を届かせるか、天音……。 「ああっ、俺の獲ってきたヒトデ……」 会長。あなたはそんなところで暇してないで何か手伝いなさい。 「ちなみに、一部のヒトデは卵巣の部分が食べられる。もっとも、季節が限られるから、今は無理」 「なんでもウニやカニミソみたいな味がするらしい。調理法は、お湯で茹で上げるだけ」 「以上、雑学でした」 「ウニ……」 「カニミソ……」 「……あなたたち、今の季節は無理って言葉、聞いてないでしょ……」 当然ながら、俺達は聞いていませんでした。 「まったく。もういいから二人はヒトデでも探してきなさい。私たちはバーベキュー食べてるから」 「わ、わたしバーベキューも大好きだよっ」 「バーベキュー最高だよな!」 ビックリするくらいに冷たいジト目で見られながら、俺と結衣は大喜びでテーブルへと走っていった。 「さて、気が付いてみればもう秋休み。しょーくんとゆいちゃんが転校してから随分と経ったわけだけれど」 バーベキューの肉をぐみちゃんと全力で奪い合いをしていると、不意に会長が、そんな嫌な予感バリバリの言葉を発した。 「そろそろ、俺達ももう少し二人のことを理解するべきじゃないかと思うんだ!」 「俺達は会長のことを充分理解しましたんで、結構です」 「ががーん!!」 「わかってない! しょーくんまったくわかってないよ! 君が俺の何を知っているっていうの!? さあお言い! おっしゃってご覧なさい!!」 「責任感のない責任者」 「これ以上ない解答だな」 「簡潔にして明快です。晶くん、あなたに教えることはもう何もないわね」 「うそっ、今の正解!?」 「その自由さこそが、会長のカリスマです! 常に誰にも囚われることがないからこそ、会長は人を感動させる会長でいられるわけです!」 「ぐみちゃん、自由と無責任は別物よ」 容赦のない天音の一言に、俺達はうんうんと頷いていた。 「あの、すみません。普通のお水、ありませんか?」 「ああ、ごめんなさい。こっちに用意してあるわ」 桜子の求めに応じ、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す茉百合さん。 「あれ? 桜子ちゃん、何飲んでるの?」 「あ、お薬です。私、それほど体が強くないので飲まなきゃいけないんです」 「でも、随分と量が多くないか?」 「昔からなので、慣れちゃいました」 薬の量って、慣れるものなのかなあ。 「桜子ちゃん凄いなあ。わたしなんかこんなにいっぱい、一度に飲むのムリだよ」 「そうかなあ? コツがわかればすぐにできますよ」 「えっ、どんなコツ? それでおいしくない薬がおいしくなったりしないかな?」 なんにでも素直に感心できる結衣のこういうところはやっぱり長所だけど、いくらなんでもそれは無理だろう……。 「あ、そういえば、結衣さんてちょんまげがお好きなんですよね」 「じゃあ、ちょんまげの事を考えながらお薬を飲んだら、おいしくない味を忘れられるかも?」 「はあ?」 なんか薬の飲み方として衝撃的なやり方が出てきたが、周囲はそれよりちょんまげという言葉自体に引っかかったらしい。 「ちょんまげって、あのちょんまげ?」 「時代劇などで使用されている、あれ、なのかしら……」 「な、なんというユニークかつ斬新な好みでしょう!」 「理解できない……」 「ちょんまげか! いいなあ、あれかっこいいよな! オレもほしいぞ!」 「うちの学園は個性的な人間が多いが、そんな髪型が好きという人間は初めてだな」 「―――ちょんまげって食べられたっけ?」 すっかりちょんまげだけが話の先に行ってしまってる。 本当は時代劇が好きで、それでちょんまげも好きなんだ、って言われればわかるんだろうけど…。 こればかりは、会長の疑問が凄くまともに思えるから怖い。 何故だ。なんでちょんまげなんだ、結衣……。 あ、そういや前に教科書にちょんまげ書いてたっけ?? あれ、好きだったから…なのか? 「だ、だってだって、や、やっぱり日本人って感じがしない?」 「ちょんまげだよ? お侍さんだよ? かっこよくない?」 「日本刀を振り回して、押し寄せる悪人たちを斬って斬って斬って斬って!」 「わかる、わかるぜその気持ち! いいよなあ、日本刀。かっちょいいよなあ、日本刀。タダの武器としてでなく、芸術品だぜ。惚れるよなあ、振ってみたいよなあ」 「そうだよねっ、かっこいいよねっ。でもあれって、ちょんまげつけたお侍さんだからこそ似合うんだと思うんだ」 「やっぱり、これからの時代はちょんまげを大切にしなきゃいけないでする!」 「おいしそうだからとは思ってないの?」 「あ、ちくわみたいでおいしそうだなあとは思う」 「最終的にはやっぱりそこにいくのね……」 「なんか、ホッとしました」 「あ……」 「ち、違うよ!? 本当にかっこいいんだよ、ちょんまげ! そりゃあおいしそうだけど、かっこよくもあるんだよ!?」 必死に否定と肯定とを繰り返す結衣。でもまあ、こういう態度を見てるだけで充分わかる。 理由はともかく、本気で好きなんだな、ちょんまげ。 それから昼食が終わるまでの間、結衣による『ちょんまげと侍と時代劇』というステージが繰り広げられた。 それを語る結衣の姿は、ドーナツについてを語る時のように輝いていた……。 「バーベキュー、おいしかったよねー」 満面の笑みで言いながら、みんなの使った紙皿や割り箸をゴミ袋へと捨てていく結衣。確かに、味も量も充分満足できるものだった。 別に高い材料とか使っていたわけじゃないけれど、やっぱり場所と状況っていうのは、料理をおいしく食べるための調味料だと思う。 「午後は何をしましょうか」 「サメ捕ろうぜ、サメ! オレのスーパーエレクトリッガーパンチが火を噴くからよう!」 「あきら、お前、俺達に恨みあったりするんじゃないよな?」 「でも、サメっていったらフカヒレだよね。中華料理だよ、中華っ」 「はっ、そうか。電気ショックくらいなら、頑張ればガマンできるかなあ……」 「あの、さすがに無理だと思うわよ……?」 みんなで片付けをしながら、午後の予定を和やかに話し合う。 他のみんなも洗い物なんかをしながら、色々と話し合っているみたいだった。 そんな中、ゴミ袋を捨てに行く途中、少し珍しい光景に俺は興味を引かれ足を止める。 「……あの……ちょっといい?」 天音が、驚くことに片付けをちゃんとやっているらしい会長へと、自分から声をかけていた。 会長からの暑苦しいアプローチはよく見ていたけれど、天音からというのは珍しい。 「………」 妙に怖気づいたような顔をしているのが、やたらと印象に残った。 「……話があるんだけど」 「わぁぁ! 天音が俺に話があるなんて?! なになに、お兄ちゃんなんでもしっかり聞くぞ!?」 「あ、あのね……」 天音は何か言いかけて、何度も躊躇する。 いつも物事をはっきり言う天音には、珍しい態度だ。 「…私、その、お兄ちゃんに……確かめた…」 「――わかった!!」 「えっ…?」 「天音がそんな真面目そうに相談したいことは何か――さくっと兄の愛で言い当ててみせようじゃないか!」 「さては好きな人が出来たな? 出来ちゃったんだなー!」 「ち、違うわよ!」 「で、ではまさか告る前にふられてしまった?! それともまままままさか、いろいろすっ飛ばして妊娠しちゃったとかー?!」 「そっち方面の出来ちゃったなのか?! あぁそんな! 俺この歳でおじさまになってしまう! あっでもちょっといいかも、おじさまも!」 「ちっがーーーう!!! なんでそうなるのっ!」 「なんでって、天音が珍しく真剣な顔をしてるから! そんなの何かしら嬉し恥ずかしな出来事が?! って思っちゃうに決まってるじゃないかっ!」 「わぁぁぁ、蹴られる〜! 緊急避難〜!」 会長は高く振り上げられた足に、慌ててその場から退散してしまった。 相変わらず逃げ足が速い……。 「……はあ」 一人その場に残されて、呆れたように溜息をつく天音。 その表情にはいつものような、ただ会長に対して怒っているだけではない、どこか寂しそうな影が落ちている。 最愛の妹があんな真剣な顔で話しかけているのに、どこまでいい加減なんだろう、あの人は……。 明らかに落胆している天音に、さすがに少し心配になる。 黙っていられなくて、つい声をかけた。 「天音? どうかしたのか?」 「あ、う、うん。ごめん」 「いいよ…」 天音は、やっぱり暗いままの顔を上げると俺を見る。 「ねえ、葛木くん……」 そして何かにすがるような声で言った。 「いつまでも昔のことにこだわってるのって、やっぱりよくないのかな……」 が、次の瞬間、自分の言った言葉に気付いたのか、慌てて両手を振って否定する。 「ご、ごめんなさい。今の、聞かなかったことにして……」 何を言おうとしたのかはわからないけれど、それは天音にとって多分大切なことだったんだな。 自分らしからぬ発言に顔を赤らめ、そらしてしまう天音。その姿に、俺は声をかけてやらずにはいられなかった。 だから、笑顔で言ってやる。当たり前だと伝わるように。 「こだわってもいいんじゃないのかな。こだわりたいって思うくらいに大切な事があったなら」 俺が回答したことが余程予想外のことだったのか、天音は明らかに驚いた顔で俺を見ていた。 が、すぐに正気に返ると、やはり顔をそらせてしまう。 「……葛木くん」 「うん?」 「ありがと」 そしてそれだけ言うと、天音はそそくさと俺に背を向け行ってしまった。俺はその背を見送りならがら、呆れるように苦笑する。 去り際に一瞬だけ見えた天音の笑顔。どうやらそれを見られたくなかったらしい。 「別に恥ずかしがらなくていいのに」 太陽は一度傾き始めてしまうと、急激に沈む速度を上げる。世界が完全に茜色に染まった頃、俺達は帰る準備を始めた。 真夏と比べて短くなった昼の時間。もう少し遊んでいたい、という思いは強かったけれども、夜になれば急激に気温は下がる。俺達はそこで後ろ髪を断ち切った。 「楽しかったよね」 「そうね。海水浴なんて、久しぶりに楽しんだわ」 「まさかこの季節に海で泳げるなんて思ってもなかったよ」 パラソルやクーラーボックス。そういった荷物を手に持ちながら、俺達は砂浜を陸地に向けて歩いていく。 「でも、これでおしまいと思うと寂しいですよね」 「ですです。一日が四十八時間あればと、切に思うのです」 「一日が延びれば、結局は歳が半分になるだけ。意味ない」 「いや、そこでそんな現実を突き付けられても」 「へっ。次こそはオレのかっこいい水中用パーツでギュンギュンかっとばしてやるぜ」 「あら、夜はこれからよ。今日を思い出にしてしまうには、ちょっと早いんじゃないかしら」 「そうそう。こんな簡単にイベントを終わらせてしまうような淡泊人間に育てた覚え、俺はないよ」 「お前はもう少し淡泊になれ」 「こういうときは楽しんだもの勝ちだよー、蛍。むしろ大人しい方が失礼というものさ!」 今この瞬間だけは、会長の言うことも正しいと思ってしまった自分にちょっと鬱。 「それでは、生徒会と愉快な繚蘭会合同秋の海水浴。夜の部へと進もうじゃないか!」 全員俺と同じ事を考えていたのか、会長の言葉に頷くみんなの顔は、どこか引きつっていた。 みんなで手分けした夕食は、様々な伝説・隠し味に青春の苦み付、をみんなの心に植え付けて終わった。 料理をできる人間とできない人間はしっかり把握しておこう。俺は心に刻んだよ。今月の学園の目標は、ぜひとも『味見をしよう』で行きたいと思います。 そして今、俺達はこの砂浜の上の陸地に集まっていた。 奥にあるテーブルを囲みつつ、様々な話に華を咲かせる。 普段からよく話をしているメンバーではあるけれど、こういう状況での会話というのはやっぱりどこか特別だ。 「なーなー、鳳繚蘭学園恒例の七不思議を知ってるか?」 「ちょっと待ちなさい。恒例って何」 「へっへっへ。この日のためにオレが調べた、出来たてほやほやだぜ!」 「えーと、そういうものって普通は昔からあるものじゃないのか? 今作るものじゃないような……」 「七不思議とて弱肉強食、競争社会。牙を研がなきゃ日々蹴落とされていくものだぜ」 「おぉぉあきらちゃん凄いです! まさに七不思議! ミステリーに匹敵する奥の深さです!」 「そ、そうなんだ……」 素直に目を輝かせられるぐみちゃんが凄いのか、それとも俺や天音の感性が古いのか、どっちなんだろう……。 「それでそれで? この学園の七不思議って何があるの!?」 「って、会長まで知らないんですか!?」 「皇くんどころか、生徒会の誰一人も知らないわよ」 「七不思議というものがあったということ自体、初耳だ」 あきらの奴、どこから持ってきたんだいったい……。 「ひっひっひひー。んじゃいくぜー。まずは一つ目、蛇の這う数学教諭室だ!」 「深夜の数学教諭室。その部屋の中から、時折、不気味な蛇の這うような音が聞こえてくるという……」 「おっと、ここでペットに蛇を飼ってる教員が、なんてフライングは勘弁だぜ。それくらいは当然ながら確認済みだ」 「その話なら、私も聞いたことあります。丁度その時、中に氷川先生がいらっしゃったらしいんですけど、先生は何も見ていなかったし、音も聞こえなかったって……」 「………」 「み、ミステリーです! かのシャーロックホームズ先生が解決した有名なミステリー小説の事件のようです!」 「死体が残っていれば完璧だった」 いや、死体があったら七不思議どころじゃなくなるだろ。 しかし深夜に蛇がいたら、それは怖いなあ……。 「そして二つ目、こいつはまあよくある話、定番だな。誰もいないはずの音楽室から響くピアノの音」 「……え」 「深夜、電気もついておらず、誰も残っていないはずの音楽室」 「一見何の異変も感じられないその場所にいざ近づいてみると、中からピアノの演奏が聴こえてくるという……」 「それは確かに定番だな。七不思議っぽい」 「だが、定番故に気になるものがある。あの部屋はそれなりの防音設備があるからな、実際の演奏レベルの音量でもなければ、外に音が漏れたりはしない」 「でも、ピアノ弾くのに電気もつけないなんて、普通ないよね天音ちゃん」 「そ、そうよね…………」 なんだろう。天音の奴、やけに挙動不審みたいだけど……何かあるのか? 「そして三つ目。こいつは保健室での話だ」 「擁護教員がベッドのカーテンを開けたまま保健室を留守にした。だが戻ってくると、それがいつの間にか閉まっていたらしい」 「自分がいないうちに生徒が来たのかと思い、そっとカーテンを開けてみた。だが、そこには誰の姿も見えない」 「教員は、自分がうっかり閉めていったのかと思い、再び開け、そのままにしておいた」 「だが、それからしばらくして振り返ってみると、そのカーテンはいつの間にやらまた閉まっていた……」 「それ、不思議ですねえ……」 「な、なんか本物っぽくない……?」 「おお、怖いのかい天音。さあ、お兄ちゃんの胸はいつでも空いてるよー」 「あら天音ちゃん。そんなに強く裾を握られたら皺になっちゃう」 「これが信頼の差だ、諦めろ奏龍」 今の七不思議、保健室って……いや、まさかとは思うんだけれど……。 結衣の方へチラリと目をやれば、やはり同じことを考えているのか乾いた笑みを浮かべていた。 ま、まあ、そうだとすれば、実際に幽霊が閉めてるわけだし間違ってないのかなあ。後で真実を聞いてみよう。 「そして四つ目。減っていくメニュー。食堂のメニューが、日中気付かないうちに少なくなっているという……」 「な、なに? みんな……」 一斉に注がれた視線に、思わず顔を引きつらせる俺と結衣。 「い、いや違うって! 俺達じゃないって!」 「ち、違うよ、絶対違うから!」 「結衣と葛木くんでないとすると……」 「本当に本物……」 みんなの顔が一瞬で青ざめた。 いやいやいやいや、俺と結衣、どういう見られ方してるんですか! まあ、これもやっぱり幽霊の仕業、なんだろうなあ……。 すずの、お腹へってたのかなあ。お前、いったい……。 「で、でもあの、今のが本当だとしたら、幽霊さんってどういう風に接したらいいのかなあ」 「やっぱり、成仏とかさせてあげた方が幸せなのかなあ……」 「ゆ…結衣……?」 「結衣さん、幽霊に会った事があるんですか……?」 「まるで友達みたいに話しているけど、そういうお知り合いがいる、とか……?」 まさか、という顔で結衣を見る桜子と茉百合さん。結衣は、しまった、という顔をすると、慌てて首を振って否定する。 「ま、まさかそんなわけありませぬよ!」 「ま、まあ、結衣らしい質問だよな、今の」 とりあえずここは援護しておこう。 「ほら、あきら、五つ目いこう、五つ目!」 これもまたすずの関係のような気はするんだけれども……。 まあ、幽霊なんだし、七不思議に引き出されるのは仕方がないんだろうけど。 「オーケーだぜ晶。では引き続き五つ目……」 「あ、あー、そうそう! 私もうお風呂入らないと。結衣、行きましょ!」 「え? あ、天音ちゃん?」 天音は、あきらの言葉を塞ぐようにいきなり立ち上がると、そのまま結衣の手を取り、ズンズンと歩いていってしまう。 有無を言わせぬその行為に、俺達は唖然とその背中を見送った。 「……あからさまに逃げた、な」 天音一人、必死に怖いのをガマンしてる感じだったもんなあ。 風呂に無理やり結衣を連れて行くくらい限界だったんだろう。 「おいおい、七不思議はあと三つあんだぜー?」 「でも、私たちだけで聞くというのも、ちょっと寂しいかも」 「そうね、七不思議のお話は今日はこれでおしまい、にしておきましょうか」 「なら、ワタシもお風呂。ぐみは?」 「ぐみは、もう少しここにいまーす」 「わかった」 天音と違い、九条は特にお供を必要にすることもなく、一人風呂へと向かって歩いていった。 「ま、残念だけど仕方ねーな。こういう場だ、誰かかけたら面白くねーよ」 「残念だなあ。かなり興味深かったんだけれど」 「お前が興味あるのは、今の七不思議を利用してどんな悪戯を仕掛けるか、だろう」 「ぎくうっ!」 「まったくわかりやすい奴だな、お前は……」 今の四カ所には会長が何か仕掛ける可能性が高いな。今後訪れる時は注意しよう……。 「でも、あきらちゃんどこから持ってきたんですか? 今の七不思議」 「七不思議なんて大抵の学園には付きものだし、適当に探してればぶつかるんじゃないの?」 「ありえません!」 「ミステリーは、ひっそりと隠れているからミステリーなんです! 恐ろしいからこそ口を噤む! 恐ろしいからこそ広められない! それが真の七不思議です!」 「それにたやすくぶつかるなど、偶然出会った女性をひったくりから助けてフラグを立てる! 並にありえません!」 「え、俺その経験あるけど……」 がたん、と小さな音を立てて、あきらとぐみちゃんが席を立った。そして俺の両脇に立つと、逃がさない、といわんばかりに肩を掴む。 「えーと……何? これ……」 「さあ、話してもらおうか、しょーくん。いったいいつ、どこで、どんな女の子とギャルゲー主人公のような嬉し恥ずかしお素敵フラグを立てたのかなあ」 「いや、なんですか、その顔。獲物を見つけた肉食獣みたいな。なんとか言って下さいよ、茉百合さんっ」 「にこにこ」 「……さ、桜子?」 「わくわく」 「や、八重野先輩!!」 「まあ、こういう場だ。そういった話も場を盛り上げる要素としては否定できん」 さ、最後の砦まで!? 「べ、別に大して面白い話でもないですよ。前の学園にいた頃、たまたま目の前でひったくりにあった女の人がいて」 「で、そのひったくり犯がこっちにバイクで走ってきたので、つい持っていたキャベツを投げつけて」 全部偶然だったんだけど、やたらと感謝されたよなあ、あの時は。 かなり急いでいたみたいで、名前だけ聞かれてすぐに立ち去って行ったけど……。 「それでそれで、その人はいったいどのような女の人で? やっぱり美少女ですか?」 「い、いや、普通に四十前後くらいの、上品そうな奥様っていうか」 「おおぉぉ人妻?! 美人だった?!」 「いや、顔はよく……サングラスに帽子を深くかぶってたから……ああ、でも高そうな服着てたかな」 ズイ、っと顔を寄せ、期待に目を輝かせるぐみちゃんに、とりあえず説明する。とはいえ、別にこれといったものは何もないと思うんだけど。 「なるほど。つまりその助けたマダムが非常に高貴な存在で、その娘とぜひ結婚を、と行くわけだなー! まさにシンデレラボーイだな!」 「晶さん、おめでとうございます」 「いや、そんなのないから、絶対に」 「……そうとは言えないかもしれないわよ」 「は?」 一番予想外の人から出た肯定のセリフに、思わずまぬけな声が出た。 「少なくとも、その人が高貴な人であった可能性はあるし、特別なコネを知らないうちに使ってくれていたかもしれない」 「なるほど。そのコネがこの学園への強引な入学、だとすれば色々とつじつまも合うな。まあ、多少強引ではあるが」 「いや、あの、それってどういう……?」 「ははー、なるほどねえ。つまり、謎の転校生の後ろには、謎のあしながおじさんがいるわけだね。あ、いやこの場合はおばさん?」 「しょーくんさん、凄いです! さすがはフラグブレイカーです!」 「いや、壊してどうするっ」 俺の意思などもはやどこにもなく、勝手に盛り上がる面々。こうなっては、もはや会長あたりが飽きて何も言わなくなるのを待つしかない。 この短い期間で、俺はそれを充分に思い知った。 「まったく……」 疲れたように溜息をつく俺。が、不意におかしな音が鳴っているのに気が付いた。 ……電話? 俺はみんなを見回すものの、誰も反応している気配はない。 この周辺に電話なんて……公衆電話すら見当たらないし……。 どこから聞こえるんだろう。不気味に思いながら音の発生先を探っていると、それは唐突に切れた。まるで、もう諦めた、といいたげに。 「……あの、今何か、電話の音とか聞こえませんでしたか……?」 「電話? いいえ、何も。気のせいじゃないかしら」 「気のせい、ですか。そうですね、多分そうかも……」 誰も反応してないし、八重野先輩がいる以上、誰かのいたずら、とも思えない。やっぱり気のせいだったのかな。 「よーし! ではこれから、しょーくんの婚約者となるであろう貴婦人の娘について語り合うぞー!!」 「いや、だからいませんて、そんなの!」 心から楽しそうにはしゃぐ会長に、電話の件は一瞬で俺の頭の中から消え去った。 どうやらこの人が飽きてくれるまでは、まだ相当な時間がいるらしい。くそう、なんで俺も、早々に風呂に逃げなかったんだろう。 俺は少しでも早くこの話題が飽きられることを神に祈りながら、みんなからの質問責めを必死にやり過ごしていった……。 「おっしゃーっ! 今夜は男同士で朝まで語り合おうぜー!!」 「気分は修学旅行だよな! 何から話す!? やっぱり男女関係か!? 女体の神秘についてか!?」 「今夜は朝までハイテンションだぜー!!」 まるで飽きるそぶりを見せない会長を、風呂から上がった天音が一撃で仕留めてくれたことにより、場はようやくお開きとなった。 そして、今日はこのまま男女分かれてのバンガローでの宿泊。まさに修学旅行気分だ。 「はいはい、そうねハイテンションでいましょうね。女同士で」 「お、おい待て! 俺は男同士の一夜をっ」 「そうね、男同士の一夜ね。でも、今日のあなたは男じゃないから」 すまない、あきら。俺も男として、今のお前と一緒に寝るのが怖い。 恐らくそっちで簀巻き状態だとは思うが、耐えてくれ。 某、子牛の売られていくBGMと共に遠ざかるあきらと天音。俺は、その伸ばされた手を忘れない。そう、きっと今夜くらいは。 「やー、今日は疲れたしねえ。死ぬほど寝ちゃうぞー」 「そのまま本当に目覚めなければ、俺や白鷺さんも相当楽になるんだがな」 そして俺達は、男組のバンガローへと入ると、疲れのためか即座に眠りに落ちた……。 「…………さい……」 「んぅ……?」 「……しない……ごめ……」 声が聞こえる。静まりかえった部屋の中、まだ朝陽の気配はない。つまりはまだ夜。 そんな部屋の中、誰かの声が聞こえる。 「……なさい……ごめ……」 俺はゆっくりと体を起こすと、暗闇の中声の主を捜した。 「…うぅうぅ、ごめんなさい…ごめんなさい」 「…か、会長……?」 どうやら寝言のようだ。怒られる夢でも見ているのか、うんうん唸りながら、しきりに謝り続けている。 この人、夢の中まで悪さしてるんだな……。 「ごめ……」 横から容赦のない一撃が、会長の額に叩き込まれた。その体が大きくビクン、と震える。 「うるさいぞ」 やたらと響く会長の寝言に、八重野先輩も目を覚ましたらしい。 一発で黙らせてくれたのはさすがとしか言いようがないなあ。 「すまん葛木、起こしてしまったか」 「あ、いえ、八重野先輩のせいでは…」 「こいつ、寝癖が悪くてな。今日は大丈夫かと思っていたんだが……」 「あの、ところで生きてますか? 会長……さっきからピクリともしないんですけど…」 「残念ながら死んではいないようだが。おい、奏龍」 いきなり起こされて不機嫌なのか、八重野先輩は有無を言わさず会長の耳を引っ張りあげた。 「あいたたたたた」 「起きたか」 「…………んー」 ようやく目を覚ましたのか、目をこすりながら会長がゆっくり起き上がる。 「うう………うううぅ。なんかおでこが痛い」 「お前がぶつぶつ寝言を言ったせいで、葛木まで起こしてしまったぞ」 「………」 会長はまだよくわかっていないのかキョロキョロと室内を見回すと…。 「…ああ、うん、怖い夢見てた……い、いっぱい土下座させられて、反省〜…みたいな…」 「……はあ……悪夢だ……」 そう言って再び布団に横になった。まるで駄々をこねてる小学生の如く頭からがばっと布団をかぶる。 「悪夢見たから寝る」 「おい…」 「………」 「まったく、人騒がせなやつだ。俺は寝直すぞ」 「あ、はい。お休みなさい」 怒っている方がばからしいと思ったのか、八重野先輩は嘆息すると自分の布団の中へと戻っていった。 「俺も寝直すかなあ……」 そう呟いてみるものの、なぜだろうまったく眠くならない。 中途半端に起こされたせいなのか、それとも会長への呆れのせいか。 なんにせよ、このままボーッとしていても眠れそうにない。 「軽く外でも散歩してくるかなあ……」 時計を見ると、まだそこまで遅い時間でもない。 夜の海。その空気を吸ってくるのも悪くなさそうだ。俺はそう決めると、八重野先輩を起こさないよう気をつけて、バンガローから外に出て行った。 「夜の海ってのも、なかなかいいものだな」 蒸し暑くもないし、寒くもない。 海岸にはちょうどいい涼しい風がふいていた。 ぶらぶら歩くには一番な感じだ。 「あれ…?」 ちょうど海岸へと下りる石段のあたり。 誰もいないと思っていたけど、そこに人影があった。 こんな時間に、誰だろう? 俺と同じようにぶらぶらと夜風にあたりにきたのかな? 「……………」 「……か、わ」 「い、い……」 「………」 「………〜〜っ!」 「……はぁ」 そこにいたのは、天音だった。 指先で砂浜をぐりぐりしている。 何か文字でも書いてるのか? とりあえず……そばにいってもみよう。 「なにやってんの?」 「ひゃああぁぁぁぁあーっ!!!」 「な、なに?!?!」 声をかけたとたん、天音は砂浜を思いっきりかき回した。 「なんでもないっ! なんでもないいいい!」 「砂に何か書いてた?」 「何も書いてないっ! 書いてないいいいい!!」 「えっ?」 どうしたんだろう? 天音はくるっと後ろを向いて座り込んでしまった。 何か俺、すごく邪魔なことしちゃったんだろうか。 さっき砂浜に書いてたのって、何か大切なことだったのかな。 何だったのかって聞ける雰囲気ではないけど―― 「あ、えっと…」 「…………ぅぅ」 「俺も座っていい?」 「いいけどっ! 隣には座らないでよ!」 「は、はい」 「……っ…」 俺の背中の向こう。 とん、と天音の背中が。当たった 俺よりもとても小さくて柔らかな背中だ。 だけど俺がそこに座った瞬間、天音の体が硬くなった。 背中ごしに感じた、天音の緊張。 ずっと黙ったままだった。 「…………」 「あのさあ」 「な、なにっ?!」 「眠れないの? 俺もなんとなく寝つきが悪くって、出てきちゃったんだけど」 「そ、そう」 「私は、別に。眠れないとか、そんなじゃないから。ちょっと、夜の海もいいかなって思っただけよ」 「静かでいいよなあ。波の音って気持ちよくって」 「…うん、そうね」 やっぱり、どこか不機嫌そうな感じの声だった。 顔を見ることができないから、本当のところどうなのかはわからないけれど。 やっぱり俺、まずいところを見てしまったんだろうか。 「………」 「………」 何か言い出したほうがいいのかな。 頭の中がだんだんと白くなってゆく。 気まずい。 こんなにそばにいるのに、いつもよりもずっと気まずい。 「………見たの?」 「は、はいっ?」 「だから! さっき、何を書いてたか! 見たのか見てないのかどっちなの!」 「あ、いや、何か書いてたのかなーって程度しか…天音、すぐにぐしゃぐしゃーってしてただろ?」 「……そう」 「――あの、悪かったかな」 「いい」 「そう?」 「うん」 「なら、いいけど」 「うん」 「………」 「………」 ふたたび、沈黙がやってきた。 いつもの天音なら、なんだか気を遣って何か話しを続けようとしてくれる。 今日の天音は……どうしたんだろう。 「あっ」 「な、なにっ?」 「もしかして、体調悪いのか?」 「え…?」 「いや、何か、いつもと違うっていうか」 「っ!」 天音の体が、びくんと震えた。 「ちっ、ち、違わないわよ! 別に!」 「そう? 大丈夫なの?」 「大丈夫よ!」 「なら、いいけど」 「うん」 「……なんか、まあ。その」 「何」 「元気出せよ」 「………」 「はぁ。………うん」 「天音?」 「わかってる、大丈夫よ」 「うん。…あの、もう遅いからさ、そろそろ戻った方がいいかも」 「……うん。でも、私は……もうちょっとだけ、ここにいるわ」 「そっか」 「葛木くんは、帰っていいわよ」 「いや、もうちょっといるよ」 「……そ」 今日、昼間にはしゃぎすぎたのかもしれないな。 天音って、周りの人にとても気を遣う子みたいだから。 何ができるってわけじゃないけど、もうちょっとだけどそばにいよう。 それから、特別な会話は何もなかったけれど――俺と天音はふたり、背中合わせに座ったまま、しばらくぼんやりと星を見上げた。 「夜の海ってのも、なかなかいいものだな」 蒸し暑くもないし、寒くもない。 海岸にはちょうどいい涼しい風がふいていた。 ぶらぶら歩くには一番な感じだ。 「あれ…?」 ちょうど海岸へと下りる石段のあたり。 誰もいないと思っていたけど、そこに人影があった。 こんな時間に、誰だろう? 俺と同じようにぶらぶらと夜風にあたりにきたのかな? 「………」 「……あ」 「…ちっ」 思い切り高らかに、舌打ちが聞こえてきた。 暗いなかでもはっきりわかる。 九条は相変わらずの無表情で俺を見ていた。 「こんな夜中に何してる」 「あ、いや、散歩です」 「何故」 「いや、ちょっと目が覚めちゃって、気分転換に」 「ふーん」 「ちょっ!!」 「やましい事を考えてない?」 「なんでビーム用意しながら言うの?! 考えてない! 考えてないよ!」 「女子バンガローに忍び込もうとか」 「いや、それだったらこっちには来ないだろ!」 「……ふん」 「……はぁ、よかった」 海岸で黒こげになるって展開は避けられそうだ。 ひと安心して、俺も石段に腰を下ろした。 「何で座るの」 「……い、いや、立ち話もどうなのかと思って」 「……」 「あのさ、九条は、どうしてこんな時間に?」 「別に」 「うぅ。どうすればいいんだ」 「何が」 「いや、どうすれば会話が成り立つのかと……」 「今、してる」 「そうなんですけどね…」 そうか、九条の中では成立してるんだ。 単語が飛びかってるだけっぽいんだけど…まあそれでもいいんだけど。 「あ、あのさ、九条も何となく起きちゃったりしたの?」 「まあ」 「あんまり寝つきよくないの?」 「いつもはいい」 「今日はよくなかったんだ」 「そう」 ちらりと九条の顔を見てみると、ふっと海岸の方を見ていた。 それなりに今日のこと、楽しんでたのかな。 「やっぱり昼間楽しかったから、興奮が冷めてないとか?」 「寝具がいつもと違うから」 「あ、そ、そう……楽しくはなかったですか……」 「楽しくはあった」 「あ、そうなんだ。よかった」 「なんで?」 「いや、みんな楽しいほうがさ、いいだろ。やっぱり」 なんだかやけにほっとしてしまう。 九条って、こうやってみんなで遊びに来るの嫌な方かなって思ってたけど、案外そうでもないんだな。 「ふーん」 「水着にしか興味ないのかと思ってた」 「なんだそれ!」 「水着に興味ないのなら、男としては異常」 「………」 興味ないってのは、ない。 正直いって、やっぱうきうきしていた俺がいる。 だって女の子が、普段は制服を着てるところしか見た事ない子が、水着なんだし。 海で水着で、肌面積が通常時7割増しなんだ。 うきうきしないわけがないだろう! ……って正直に宣言したら、やっぱ怒られるのかな。 「あるの?」 「………ちょっとは…」 「ふーん」 あ、よかった。 怒られない……みたいだな。 もう少し何か話そうかなと思っていると、九条がおもむろに立ち上がった。 「もう戻る。天音が心配するから」 「あ、うん。じゃ俺も戻るよ」 「………」 「ちょ、ま、また!」 「そのまま女子バンガローに入ろうとか?」 「考えてない! 考えてない!」 信じていない目だった。 ビームがちりちりと光っている。 これはやばい。やばい何かをチャージしてる感じだ。 「わかった! 離れて歩く! それでいいだろ? 先に九条が戻って、ドアに鍵かけたらいいじゃないか」 九条はしばらく俺をにらんだ後、納得したのかこくんと頷いた。 どきどきしながらビームの様子を伺っていたけど、どうやら俺を狙うことは諦めたようだ。 くるっと方向転換すると、九条はまっすぐバンガローへと走っていった。 「はあ。良かった……」 その後ろ姿がだいぶ離れてから、俺もゆっくりと戻ることにした。 「夜の海ってのも、なかなかいいものだな」 蒸し暑くもないし、寒くもない。 海岸にはちょうどいい涼しい風がふいていた。 ぶらぶら歩くには一番な感じだ。 「あれ…?」 ちょうど海岸へと下りる石段のあたり。 誰もいないと思っていたけど、そこに人影があった。 こんな時間に、誰だろう? 俺と同じようにぶらぶらと夜風にあたりにきたのかな? 「あ……」 さあっと風が吹いた時に、その人が誰かわかった。 長い黒髪が風になびいてる。 「茉百合さん」 茉百合さんはぼんやりと海を見つめているようだった。 俺がここに立っていることには気づいていないみたいだ。 どうしよう、声かけていいのかな。 ちょっと迷ったけど―― 「あの、茉百合さん」 「あっ……晶くん」 茉百合さんはゆっくりと振り向いてくれた。 「どうしたの、こんな時間に。皇くんに追い出されちゃった?」 「いや、ちょっと目が覚めちゃって。散歩です」 「そうだったの。私と同じね」 「茉百合さんもですか?」 「ええ。何となく、目が覚めてしまって……」 そう言うと、茉百合さんはほんの少しだけ腰を浮かせて座る位置をずらした。 茉百合さんがとんとん、と空いたその場所に触れる。 「あっ」 「よかったら、お座りになる?」 「え、あ、はい。ありがとうございます」 言われた通りに、俺は茉百合さんの横に腰掛けた。 さすがにぴったり横に座るのはなんとなく…恥ずかしい。 ほんの少しだけ離れて、それから茉百合さんの顔のほうを見てみた。 「今日一日、とても楽しかったからかしら、ね」 「え?」 「目が覚めてしまった理由。名残惜しかったのかもしれないわ」 「そうですねー。楽しかったですね! まあ晩ご飯はひどい目にあいましたけど……」 「ふふふ」 茉百合さんは笑いながら、海の向こうを見つめていた。 「夜の海も、静かでいいですね」 「そうね。でも、どことなく、寂しい気もするわ」 「さみしい…?」 「何となくね。静か過ぎるからかしら」 「昼間はあんなに賑やかだったのに……誰もいなくなったら、こんなに静かになってしまうのね」 「まあ、会長とかマックスとか、結衣がいたらすぐにぎやかになりますからね」 「そうよね。でもにぎやかなのは、楽しくていいじゃない」 「……もしかして、防災訓練のときもそんな感じでオッケーだしちゃったんですか」 「えぇ、水鉄砲で撃ち合いをするって聞いたときはちょっとびっくりしてしまったけれど」 「普通、ないですよね」 「ふふふふ、そうね、無いわね」 「無いです!」 「でもそういうのも、面白そうじゃない?」 茉百合さんの笑みが、ちょっとだけいたずらっ子みたいだった。 茉百合さんってすごく真面目なんだけど、時々こんな顔するんだよな。 まあ、だからあんな企画通っちゃうんだろけど。 「まあ……確かに、面白かったかも、ですけど」 「喜んでいただいたのなら、よかったわ」 「そういう楽しい時間は、今だけしか味わえないかもしれないから。大切にするべきだと思うの」 「少なくとも……今の私にとっては、とても大切なものなのよ」 「………」 あれ? 茉百合さんの横顔が、何故か本当に――ちょっと寂しそうだった。 決して悲しげな顔じゃないし、口元にはまだ微笑みだって残っているのに。 なんでそんな風に感じたんだろう、俺。 「茉百合さん」 「何でしょう?」 「あの……」 こちらを見た茉百合さんの顔はもう、いつもどおりの笑顔だった。 さみしそうに見えたのは、俺の気のせいだったんだろうか。 「なんか、その」 「どうしたの?」 「俺が、何かにぎやかな事しましょうか!」 「えっ?」 「いや、茉百合さんが静かなの寂しいんなら、ちょっとくらい騒いだ方がいいのかなって」 「こんな夜中に?」 「うっ……そうですよね…確かに迷惑かも」 「それじゃあ皇くんと一緒になっちゃうわよ」 「ううっ、それはイヤだあ」 「ふふ、気持ちだけ、受け取っておきますわ」 「はい……」 ふたりっきりになると、なんだか俺、空回りしてる気がする。 しょんぼりと下を向くと、ふたりの間に茉百合さんの手が見えた。 細くて長い指、きれいで柔らかそうな手だった。 「………」 「それに、静かなのも嫌いじゃないのよ……私」 「心が落ち着くから」 すごく、すごく優しい声音。 いつもの茉百合さん――だと思う。 すぐそばに茉百合さんはいる。 だけど。 なんだろう。透明だけど決して開かないドアがそこにあるみたいな感覚だ。 まるで、ここから先には入ってこないでって言われたような気がしてならない。 「晶くん?」 「あ、はい。大丈夫です」 「それならよかった」 茉百合さんはにこやかに微笑んで、俺を見ていた。 大きな目の中に、俺が映ってる。 教室で、校舎の中で、いつも見ている茉百合さんがそこにいる。 ――なんだったんろう、さっきの感覚。 「それじゃあ、私はそろそろ戻ります」 「あの、送りましょうか?」 「大丈夫よ、近いから。それじゃあおやすみなさい」 「……はい。おやすみなさい」 立ち上がった茉百合さんは、砂をはらってからゆっくり歩み出してゆく。 その背中がずいぶん遠くになるまで、俺はそのまま石段に腰掛けていた。 蒸し暑くもないし、寒くもない。 海岸にはちょうどいい涼しい風がふいていた。 ぶらぶら歩くには一番な感じだ。 そう思いながらバンガローを出たとたん――桜子がそこにいた。 「晶さん!」 「桜子? え? なんで?」 「なんだか眠れなくて、一人で散歩していたんです。晶さんは?」 「あ、ああ。俺もそんな感じ」 「本当ですか? よかった!」 「何が?」 「なんとなく、会えるかもって思ってました! 予感が当たってよかったです!」 桜子が俺の腕をとり、そっと引き寄せた。 「えっ」 「一緒にお散歩でもどうですか? 私、素敵な場所を知ってるんです!」 「う、うん」 急に腕をとられて、引っ張られて――。 桜子はにこにことしてる。いつもの桜子だ。 だけど俺は、やけにどきどきしていた。 桜子と俺がやってきたのは、海岸へと続くほんの少し小高い場所だった。 砂浜へと続く小さな階段の前へたどりつくと、桜子がそこを指差した。 「はい晶さん、ここに座ってください」 「あ、はい」 「お隣、失礼しますね」 「…!」 桜子がすとんと横に座った。 それも、もうすぐ近く。 かすかに温かい体温が感じられるほどに、近い。 いいのかな、こんなに近くて……。 「どうかされました?」 「え、いや何でも。いいのかな」 「何がですか?」 「いや……何でも…」 離れよう、とも言えないし。 このままでいいの、とも聞けないし。 ……いいか。 「ここって、海がよく見えるのな」 「はい。海に遊びに来たとき、ここでよくまゆちゃんと一緒にお喋りしてました」 「そうなんだ」 「静かで波の音もよく聞こえるし、風が気持ちいいですよね」 波の音はそんなに大きくはなかったけれど、心地よいリズムで打ち寄せてくる。 さっと吹いてくる風が、桜子の髪をふわふわ揺らしていた。 「なんか、落ち着くよな。こういうのって」 「はい」 「昼間あんなに騒いでたのに、嘘みたいだなあ」 「そうですね。でもお昼も、とっても楽しかったですよ。バーベキューも美味しかったですし」 「なんだかたくさんの楽しい事がいっぱいで、どうしていいかわからないくらい」 「大丈夫? ちょっと疲れてない?」 「晶さんったらまゆちゃんみたいな事言うんだから」 「茉百合さんだって、心配してるんだよ」 「そうですね……うん、それはわかってるの」 「だけど、大丈夫ですから! あんまり心配しないでって、まゆちゃんにも言わなきゃ」 「俺は茉百合さんが心配するのも、何となくわかる気がするけどなあ」 「どうしてですか?」 「だって、桜子ってこーう、まっすぐ過ぎるとこがあるから」 「前しか見てなくて、足元の石につまづいてこけそう、みたいな」 「えぇっ、私、そんな風に……。わかりました、石には気をつけます!」 「いや、石に気を付けろって言ったんじゃないんだよ?」 「え? じゃあ、どういう意味でしょう」 「うーん」 あんまり一生懸命すぎるのもよくない――って言えばいいのかな。 いや、そんなことないか。 何にでも一生懸命なとこが、桜子のいいところな気もするし。 なんて言おう。 「??」 「あーそうだ。えっとさ、時々、物事を一から考え直すっていうか」 「何をですか?」 「えーっと、物事全部?」 「ええっ、それは難しそう……晶さん、凄いなぁ」 「え? 何で?」 「だって、晶さんは物事を一から考え直す事ができるんでしょう?」 「いやそんなの、俺も出来ないけど」 「えっ」 「ははは、そっか、それはないよな」 「もう! 晶さん、まゆちゃんみたいにいじわるするんだから!」 「してないよ、ごめんごめん」 「ふふふ」 桜子はぷうっと頬を膨らましたあと、はじけるように微笑んだ。 すごく楽しそうだ。 「桜子?」 「晶さんと一緒にいると、私、すごく楽しい」 「あはは、良かった。そう言ってもらえると俺も嬉しい、ありがとな」 「お礼を言うのは私の方です。私………」 なんて言ったらいいのかわからず、ただありがとうと伝えてしまった。 そんな俺を、桜子は本当に嬉しそうに見つめてくれた。 なんだろう、くすぐったい。 胸の奥がくすぐったい感じがする。 「あの……さ」 「あっ」 桜子の視線がふっと地面の方へと落ちた。 そして素早く立ちあがると、階段の下に落ちていた何かを拾ってきた。 「どうしたの?」 「これ、落ちてたから」 桜子の手の中には、小さなピンク色の貝殻がある。 こんなところまで飛ばされてきたんだろうか。 それとも誰かが落としたんだろうか。 桜子の手のひらの上で輝くそれを、しばらくふたりで見つめていた。 「サクラ貝です。…これ、晶さんにあげます」 「え、うん」 「とても好きなんです。私と同じ名前で、すごく綺麗な色をしているから」 「そんな好きなのに、いいの? 俺がもらって……」 「いいの。お礼だから」 「ありがとう」 桜子は満足そうに、にこにこと笑った。 小さな贈り物を壊してしまわないように、そっとハンカチの間につつみこむ。 桜子と同じ名前の、可愛らしい贈り物。 大事にしよう。 柔らかな桜子の肩が触れた場所が、ふわりと温かかった。 「やっぱり夜食は必要だよなー」 蒸し暑くもないし、寒くもない。 海岸にはちょうどいい涼しい風がふいていた。 もちろん空腹対策用に、おやつも持ってきてある。 準備はオッケーだ。 「夜の海でも見ながら、おやつ……なんかいいな」 ちょうど海岸へと下りる石段のあたり。 あのへんに座って食べよう。 「あれ?」 誰もいないと思っていたけど、そこに人影があった。 こんな時間に、誰だろう? 俺と同じようにぶらぶらと夜風にあたりにきたのかな? 「あっ!」 「あ、晶くんだ! こんばんは」 「こんばんは。どうしたんだ?」 「それが……」 「おなかすいて、目が覚めちゃったの……」 「でも誰も何も持ってなくって、気分転換に散歩を」 「なんだー、俺と同じじゃん。じゃあコレ食べようよ」 持っていたお菓子を掲げると、結衣の目がキラリンと輝いた。 そしてキラキラな目のまま、お菓子を持つ俺の腕に飛びついてきた。 「食べるーーーーー!!!!」 「おわわっ」 「晶くん、好きー!!!」 「好きなのはおやつだろ」 「晶くんも好きー!!」 「はいはい、じゃどっかで座ろうな」 「おおせのままにー!」 「わあぁぁあい! おやつだよおやつだよー!」 海が目の前に広がる石段に、ふたりで腰をおろす。 結衣が一段だけ上に座ったから、いつもと違って視線がほんの少し高い。 宝物のように両手でお菓子を持って、結衣はにこにこしていた。 「こんな夜中に食べて、結衣はいいのか?」 「今日はいいんだよ、いっぱい泳いだもんね」 「そうだよな、泳ぐとおなかすくよな」 「でもこんな夜におやつ食べるなんて、初めてかも! なんかいけない事してる気分〜」 「じゃあ食べない?」 「食べますもちろん!」 「わぁー、晶くんはおやつのセンスがいいね!」 「なに、おやつのセンスって」 袋から出したお菓子をあけていると、結衣はますますにこにこしてきた。 「えへへへ〜。これもこれもこれも、わたしの好きなのばっかり!」 「ただの好みじゃないか!」 「晶くんはどういう基準でおやつ選んで買ってるの?」 「いや、俺もただの好み。あと値段安いのな」 スナックを一個つまんで、ぽいっと口の中に放り込む。 結衣も同じようにチョコレートの包みに手を伸ばしていた。 「安くていっぱい入ってるやつがいいんだよね!」 「そうそう。でも時々、どうしてもこれだけはーってのは、ちょっと割高でも買っちゃうんだよな」 「そうだよねぇ。このチョコレートなんか、普通のよりちょっぴり高いもんね」 「そうそう! でもそれおいしいんだよな……負けるんだよな誘惑に…」 コンビニの一番上の棚に乗ってるそれ。 最近発売された、本物志向の味ってやつだ。 「わたしもこれ好きなの、すごく好きなの! まろやかなんだよね、すっごく!」 「じゃあ一個どうぞ」 「わぁーい。えへへへへ〜。おいしー。幸せ〜」 「はい、晶くんも一本どうぞ」 結衣が持っていたスナックを、俺の目の前に差し出してくれた。 「どうも。もぐもぐ…」 「って、このおやつ全部晶くんのなんだけどね。えへへ」 「気にしなくてもいいよ、そんなの。はい」 「うん、ありがたく頂きまする。…んぐ、おいしいよー! あまいー!」 ああ、やっぱり結衣って食べてるとき幸せそうだな。 そんな結衣の顔を見てると、なんだか不思議そうに首を傾げられた。 もしかして、結衣も同じこと考えてるんだろうか。 うん。確かに美味しいものを食べてる時は幸せだ。 「海来て遊んで楽しいし! 夜中におやつ食べれて幸せだし! 今日はいい事ばっかりだね!」 「そうだな。楽しかった!」 「来年の夏、またみんなで来たいね」 「そのときは結衣も夜食用意しといた方がいいな。そして、俺にめぐんでくれ」 「わかった、そのときは気合入れて用意する!」 結衣はぐっと握りこぶしをつくって、高く振り上げた。 「わたしの好きな、ありとあらゆるお菓子をつめこむ! サンタさんの袋みたいに!」 「で、夜中抜け出すの? その袋持って」 「そう! サンタクロースだよね、お菓子の!」 「で、俺のとこにお菓子持ってきてくれるわけだ。サンタさんが」 「そうですよ、お持ちいたすぞ!」 「それは楽しみだな〜。来年の夏が楽しみだ……」 「うん、楽しみ!」 そう言った後、結衣はふっと手を止めた。 それからほんの一瞬海の方を眺めて――俺の顔の方を見た。 「……ん?」 「わたし、最初は全寮制の学校に来るの、ちょっと心配だったけど――」 「来てよかったなあ。楽しいし、面白いし。みんな優しいし」 「晶くんとも会えたし!」 「お、おおっ」 結衣の手が突然伸びてきて、思いっきり俺の手を握った。 ぶんぶんと上下する、固い握手に思わず笑ってしまう。 「うん、そうだな。俺も来てよかった」 「ほんと? それならよかったよー!」 なんだろう、これ。 結衣と喋ってると、なんだかほっとする。 安心するというか、気分がいいっていうか。 なんだろう。楽しいとかおもしろいとかとはまた違うんだよな。 もちろんそれもあるんだけど。 「それじゃ、そろそろ戻るね。おやつ分けてくれて、ほんとにありがと!」 「もう腹へってさ迷い出るなよ」 「はは、じゃあおやすみ」 「はあいー、おやすみなさいー」 結衣の背中を見送ってから、俺も立ち上がった。 広い海を前に、思いっきり伸びをする。 なんだか体中が軽くなったような気分だった。 長いような短いような1日。 チープだけどそんな表現がよく似合った1日が終わり、俺は部屋に戻って来た。 マックス…というか、あきらは女の子の体のままなので、九条の部屋だ。 本人は不満そうだったけれど、正直助かった。 あいつはあの体でいる事に無自覚すぎるんだ。 「ふう」 荷物を置いてベッドに座る。 なんだか、体にどっと疲れが襲って来るような感覚。 そのまま眠ってしまいたい気分だ。 「ふわあああ……」 大きなあくびと一緒にますます体が重くなってきた。 そういえば、色々あって疲れたな。 別に今日はやる事もないし。 ベッドの柔らかさが気持ちよくて幸せだ。 この幸せは、ご飯を食べている時の幸せに似ている。 ちょっとだけ、眠ってもしまおうかな。 マックスもいないし、静かだ。 眠るにはとってもいい状況じゃないか。 …………。 ……。 「ご飯ですよー!!」 「え?」 突然聞こえた大きな音。 驚いてベッドから飛び起きると、目の前に結衣の姿があった。 片手にフライパンを、片手におたまを持っている。 さっきの音の原因はこれか。 結衣がフライパンをおたまで打ち鳴らしていたらしい。 いや、問題の本質はそこじゃない。 間違いなくそこじゃない。 「な、なにしてんの?」 「え? ご飯の時間だよ! ご飯の時間だから迎えに来たんでーす♪」 「いや、あの。うん、ありがとう」 「ご飯は一緒に食べると美味しいもんね!」 「そうだよな。ひとりで食べるより、みんなと一緒だよな」 「ねー! ほら、起きたなら一緒に行こう」 「いや、そうじゃなくて!」 そうじゃない。 なんで、結衣がここにいるのかって事だ。 あんまりにも普通に、当たり前に起こされた。 あんまりにも当たり前っぽい。 まるで、ずっとこうしてこの部屋にいたみたいな錯覚をしてしまう。 「え? どうしたの?」 「なんで、ここにいんの?」 「あの閉店するって言ってたケーキ屋さん、覚えてる?」 「ああ、うん。えっと、確か〈limelight〉《ライムライト》…」 「昨日の晩に話し合って、その『limelight』を繚蘭会で再開させる事になったんだ」 「え?! そうなんだ」 「うん。私もそれのお手伝いがしたいって思ったの」 確かにlimelightが閉店になるって聞いた時、みんな惜しんでたもんな。 俺もあんなに美味しいケーキ出す店がなくなるのは悲しいし。 「そっか……うん、あそこ美味しかったもんな。なくなるのはちょっと悲しい」 「そうだよね! でね、天音ちゃんにそう伝えたら、繚蘭会に入って手伝うのがいいって言ってくれたから」 「それじゃあ、結衣も繚蘭会に?」 「はーい! 入りました!」 嬉しそうに、おたまを持った方の手をあげて結衣が答える。 本当に嬉しそうで、その笑顔はキラキラしていた。 「すずのちゃんも一緒に来たんだよ」 「えっ!? 大丈夫なのか? だってすずのは……」 「うん…最初はすずのちゃんも遠慮してたんだけど、やっぱり一緒の方がいいと思ったから」 「そうだよな……いつもひとりだったから」 「それでね、やっぱり、すずのちゃんが見えてるのはわたしたちだけみたい」 「え、そうなの? 天音とか…桜子や、九条にも見えないのか?」 「うん。一緒にここに来たときに、誰も気づかなかったの。すずのちゃんのこと」 「そうか……」 すずのの姿が俺たちにしか見えないのは、何とかカバーしないとな。 結衣もそれはわかってるみたいで、うんうんと力強く頷いている。 「それはそれとしてさ」 「うん。どうしたの? おなか減った?」 「いや、おなかは減ってるけど……」 「わたしもおなかペコペコ〜!」 「そうじゃなくてさ。あの起こし方はなに?」 「あ、これ?」 手に持ったフライパンとおたまを持ち上げて結衣が笑う。 それは、やけに楽しそうな笑顔。 こういうのやってみたかったんだ。 なんて事を言い出しそうな表情。 「部屋まで来たら晶くん寝てたんだ」 「うん。ちょっと疲れてたのかも」 「だから、起こさなきゃーって思ったんだけど。どうやって起こそうかなって思って」 「で、そういうの、やってみたかったとか?」 「えー! なんでわかったの? 晶くんすごい!」 「その表情見たらすぐにわかるよ」 「あはは。そっかー」 「でも、すぐに起きられたでしょ」 「まあ、確かに。かなり賑やかだったけどね」 「うん! それじゃあ、ご飯食べに行こうよ」 「わかった」 ベッドから立ち上がってのびをする。 思いっきり体を伸ばすと、全身から音がしそうな感じだ。 ちょっと寝すぎたのかもしれない。 「それじゃあ、いこいこー! 出発♪」 片手に持ったおたまを突き出してから、結衣が歩き出した。 空腹でちょっぴりへこんだような気がするおなかをさすりながら、俺はその後ろを歩く。 「はー。おなか減ったー」 「ご飯〜! ご飯〜!」 今日のご飯はなんだろうなあ。 そういや、マックス戻って来なかったのかな? 九条の部屋に行ってたりするんだろうか。 もういつもの体に戻ったんだろうか。 ま、いっか。とにかくご飯だ。 談話室に来ると繚蘭会のメンバーが揃っていた。 華やかって言葉はきっと、こういう時に使うんだろうな。 最近、そういう事が俺にもわかって来た。 「晶くん連れて来たよー」 「おなか減った」 「わたしもー! ごはんごは〜ん〜♪」 「あなたたち、相変わらずおなか減らしてるのね」 「ふふふ。おなかが減るのは元気だからですよ」 部屋の中をぐるりと見渡すと、隅っこの方にすずのがいた。 視線を投げると、こくこくと頷いてくれる。 あれ? でも、なんか丸っこいのが足りない。 「なあ、マックスは?」 「部屋にいる。充電中」 「あ、そうなんだ」 という事は、今この場ですずのが見えるのは俺と結衣だけか。 他のみんなには気付かれないように気をつけないと。 まあ、見えないんだから何事もないとは思うけど……。 マックスが充電中でいないのは良かったかもしれない。 迂闊に声をかけたらみんな怖がるだろうしな。 「なんかあるのか?」 「黙って聞いてて! 今日からこの繚蘭会にメンバーが増えます」 「稲羽結衣。繚蘭会の新メンバー」 「はい!」 「結衣さん、これからよろしくお願いします」 「こちらこそ、お願いします」 結衣がぺこりと頭を下げると、天音たちが拍手する。 つられて俺も拍手をした。 数人だけの、小さな音の拍手。 けれどそれは、新しいメンバーを歓迎するための拍手だ。 「歓迎会とか本当はしたかったんだけど……ちゃんとできなくてゴメンね」 「え! い、いいよ、そんなのー」 「そう? せめてご飯はちょっと豪華にしてみたんだけど」 「ご飯が豪華! ホント!?」 「う、うん」 「すごーい! すごいすごい! それって天国だよ、ものすごい事だよ! ねえ、晶くん!」 「ああ! ご飯が豪華なんて、ご飯だけでも嬉しいのに、それがさらに豪華とか!」 「そ、そういうもの?」 「そういうものだよ! ありがとう天音ちゃん!!」 「そ、そう。喜んでくれてるんなら、嬉しい」 「うん!」 「ふふふ。結衣さん、とっても嬉しそう。それに晶さんも」 「そりゃ、嬉しい! ご飯が豪華! すばらしい!!」 ご飯が豪華なのはいい。 それ以外になにが必要なんだって話だ。 こうやって、美味しいご飯が食べられる。 それだけでも天国だと思ってるのに、さらに豪華とか……。 「あの、それからご飯の前にお話があるんです」 「そう。大事な話」 「あ、あれだね!」 「あれ?」 「閉店することになっていたlimelightを、繚蘭会で再開させようと思います!」 「うん」 「ああ、なんかさっき結衣も言ってた。でも、なんで急に?」 「私が、頼んだんです。みんなで力をあわせてお店ができないかって…」 「桜子が?」 「はい。先日皆さんとご一緒したとき、すごく嬉しくて、また食べたい、また来たいと思いましたから」 そういえば、桜子はあの時すごく喜んでたっけ。 こんな風にみんなでケーキ食べた事ないって。 茉百合さんもそんな桜子を見て嬉しそうだったし……。 またみんなで行きたい、一緒においしいケーキを食べたいって気持ちはよくわかる。 「私もあそこのケーキ好きだから、閉店しちゃうのは寂しいって思ってたしね」 「でも、あの店ってケーキ作ってる人が体調悪かったんじゃ……」 「何も問題ない。28号がいるから」 「へ? マックスが? あの、それはどういう……」 マックスがいると、どうして大丈夫なんだろう。 あいつは確かにすごいロボットだ。それは認めるけど…。 でも、それとお店のケーキと、どう関係があるんだろう。 食べ物に関する機能って、背中についてる保温庫機能くらいしか……。 いや、あれは関係ないのか? 「28号には、調べた食べ物を分析して完璧に再現できる機能がある」 「そういえば、limelightに行ったとき、ケーキを調べてたね」 「そういえば」 「その機能があれば、あのケーキも寸分違わず完璧に再現できる」 「マジで!? すげー!!」 「すごいねー!」 「ふふん」 ちょっと自慢げな表情の九条。 俺たちをチラッと見てからまた口を開く。 マックスの機能の事を話す時はなんだか楽しそうだ。 もしかして、マックスの機能を自慢したいんだろうか。 だから、お店の再開にも乗り気だとか? 九条の事だから、あり得そうだな。 「それに、28号の人工知能は職人としての誇りもきっちり持てる」 「それって、ぐみちゃんが作ったのよね?」 「そう。ぐみの作った人工知能と28号の学習能力があるからこそ可能」 「という事は、お店のメインであるケーキをマックスが作る事は可能ってわけだな」 「そういう事。そう説明してた」 「メインのケーキはそのまま作ってもらうけど、それだけじゃなくて新しいメニューも考えるつもりよ」 「新しいメニュー? ケーキだけじゃダメなんだ」 「はい。limelightをもう1度開店させるだけじゃなくて、新しいlimelightにできればいいなあと思うんです」 「へえ。なんかすごいなあ」 「うん、すごいよねー! なんだか、すっごいワクワクする」 「そういうのって、人手が多い方がいいでしょう。そう思ってたら、結衣も手伝うって言ってくれたの」 「だって、楽しそうだよ! ケーキはとっても美味しかったし!」 「業務を手伝ってくれるということで、繚蘭会に入ってもらいました。もちろん今日からこの寮で一緒よ」 「賑やかになって嬉しいです」 なるほど、そういうわけなのか。 「それでね!」 「え?」 天音は突然、ビシっと俺を指さした。 人差し指の先が俺の鼻先に届く。 そのまま、ちょんと小突かれてしまいそうな距離。 その距離を少し離すと、天音は指をおろした。 「葛木くんは生徒会だけど、ここの寮にいるんだから、時々お店の準備手伝ってもらえないかな」 「え? 俺も」 「そう。人手は多い方がいいし、男の子がいれば助かるし」 「えっと。手伝ってくれたら、ケーキの割引券あげるから」 「じゃあ、やる!」 ケーキ割引! それならやらない理由はない。 むしろこっちからお願いして手伝う! あの美味しいケーキが割引……! これは頑張るしかない!! 「ありがとう、生徒会の方には、時々葛木くんを借りますってこちらから頼んでおくわ」 「この件、生徒会は絡んでないの?」 「ええ。でも茉百合さんに話したら、なんだかとっても喜んでくれました」 「そっか」 桜子は本当に嬉しそうに笑っている。 その時の茉百合さんの顔を思い出してるみたいだ。 茉百合さんは、桜子が何かするのが嬉しいのかな。 でも、待てよ。 茉百合さんが桜子から話を聞いたって事は……。 自動的に生徒会長にも伝わるって事なんじゃないだろうか。 それって間違いなく……。 「はあ……」 「あ……」 俺と桜子のやり取りを聞いていた天音がため息を吐く。 その表情は暗い。 と言うよりも、何かを諦めている。そんな感じ。 何を考えているのか……。 多分、俺がさっき考えたような事なんだろう。 「……多分、私たち今、同じ事考えてると思うわよ」 「そうかもな……はあ」 「どうかしたの?」 「ううん。なんでもない! 今は考えないことにする!」 「そうそう」 「なんとなくわかる」 「はあ……」 「え、えーっと……ご飯! ご飯にしよーよ! ね!!」 「そうだな! おなかがいっぱいになる元気になる!」 「そうね。ご飯にしましょう」 「うん」 「はい!」 その晩は、みんなで夕食を食べながら新しいlimelightについてじっくり話し合った。 しばらくは事務手続きとアイデア出しが続くとのことで、俺がちゃんと手伝えるのはもうちょっと先になりそうだ。 それまではおとなしく課題やら何やらを消化していくことにするか。 ――『秋休み』というのは、俺にとっては何だか不思議なフレーズだ。 今までそんなものが存在するとは思いもしなかったからなあ。 なんにしろ、休日が増えるのはいい事だ。 いい事なんだけど……。 「うーん……」 それなりに長い休暇には、それなりの課題とかも出されるわけで。 「わからん」 「なんだよ晶? さっきからなに唸ってんだ??」 「いや、数学の課題が全然わかんないの」 「あー。おなかすいた……」 何をするんだろうと見つめる。 すると、マックスから電子音が聞こえた。 どうやらいつもの如くネットか何かに接続しているらしい。 なんかしてくれるみたいだな。 なんだろう。裏技だろうか。答えをどっかから持ってきてくれるとか。 「よし検索完了! 晶よー、今すぐ制服に着替えて数学教諭室に行くといいぜ!」 「……へ? なんで??」 「今日は補習で数学の氷川が来てんだ、わかんねーとこは教師に聞くのが一番だぜ?」 「…………」 「どーしたよ晶? いきなり机に突っ伏しちまって」 「いや、言うことがあまりにもまっとうすぎて……真面目だな…おまえ」 「おーよ、とにかく行ってこいよ! 勉強は理解できない部分の放置が一番よくねーからな!」 「…はぁ…」 確かにその通りだが、乗り気になれない。 それなのに、マックスは俺を強引に制服に着替えさせると部屋を追い出した。 ほんと、どこまで真面目なんだろう、ロボなのに。 仕方ないか……行こう。 「……おなかすいたなぁ…」 今にも泣き出しそうなおなかの虫を押さえつけて廊下を歩く。 いつもより、廊下が寂しげに感じられるのはどうしてだろう。やっぱ生徒がいないからかな。 「えーっと、ここかな」 「失礼しまーす」 「……」 「………」 扉を開けると、意味のわからない状況が俺を出迎えてくれた。 氷川先生が、自分のネクタイで自分の足を縛っている。 ……なんだこれ。 「……」 「………」 「……いや、これは」 「……あ、いいです、失礼しました」 「ま、待てッ!!!」 うわっ、痛そう。 そりゃ、足縛ったまま慌てて立ち上がろうとしたら転倒するよな。 さすがに気の毒というか、とても見てられなくてとっさに氷川を助け起こしてしまった。 「あの、大丈夫ですか…」 「か、葛木、お前は誤解をしている」 「はぁ、まあ、いろいろ、人それぞれですよね」 「だから違うと言っている!」 氷川はあたふたしながら自分の足を縛りつけたネクタイを外そうとしている。 いや、まさかこういう趣味の先生だったとは、思わなかったけど。 「思い違いをするな。私は決して自分を縛っていたわけではない」 ……じゃあ何を縛っていたというんだろうか。空気とかか。 「――お前のような、学内の要注意人物を拘束するときのための訓練をしていたのだ!」 「はぁ。練習してたんですか。先生努力家なんですね」 「………」 「じゃ、俺はこれで」 「待て。……こうなれば、まず手始めに貴様で練習の成果を試させてもらう」 言うなり氷川先生はドアの方へと移動して鍵をかけた。 あれ、いつの間にネクタイ外したんだろう。 「あ、ネクタイ外せたんですか、よかったですね」 「そんな口を聞いていられるのも今のうちだ! さぁ、どんなお仕置きをしてやろうか…」 「フッ、フフフフ…フフフフフフ……」 氷川先生は手に握り締めたネクタイをゆらゆらと揺らしている。 そして、楽しそうな表情を浮かべて俺を見つめている。 でもなあ……。 お仕置きって言われても、俺、別に何もしてないし。 なんか理不尽だ。 おなかもすいたし。 「そんなに挑発的な顔をするな。どうやら自分の立場がわかっていないらしいな」 「………」 「観念しなさい、まずはこのネクタイで」 あまりにもしつこいので、思わず目の前で揺れていたネクタイを引っつかんでいた。 そのまま持っているのも何なので、ネクタイをポイっとほうり投げる。 「な!」 投げたネクタイは、きれいにソファの下へと滑って行く。 ああ、見事に飛んでいった。 「貴様、なんという事をっ!!」 「いや、まあ、とっさに」 「ネクタイが無ければ縛れないだろうが!」 「縛らなきゃいいんじゃないですか」 「あんな所に投げたら、ほこりまみれになるだろうが!」 「洗濯すればいいんじゃないですかね」 「!!!」 氷川はなんだか随分ショックを受けたみたいに立ち尽くしている。 これ以上いてもややこしい事になるだけだ。あと疲れる。早く帰ろう。 俺は氷川の横を通り、ドアに手をかけた。 「フ…フフ、さっき鍵をかけたのを忘れたか馬鹿め!」 「はぁ」 「お前はこの私から、逃れられないのだよ!」 「でもこれ、ただの内鍵ですよね」 「失礼します。あ、別に誰にも何も言いませんのでご心配なく」 「あっ……」 「……ちょっ……………あっ…ちょ……」 「あー…どうしようかなぁ」 まったく手付かずの数学の課題……どうするべきか。 あの先生と顔をあわせるのはもう嫌だしな。何か疲れるし。 「晶さん」 「ん?」 「こんにちは。偶然ね」 「どうしたんですか? なんだか顔色悪いような…」 「えっ、ほ、ほんと!?」 「ほんのすこし、ね。どうされたのかしら」 「実はさ、課題でちょっとわからないところあってさ」 ため息まじりで、俺は持っていたノートを開いた。 桜子がそっと覗いてくる。 こんな問題もわからないのって顔されたら恥ずかしいな。 「もしかして、晶さんが前いた学校と教科範囲が違うのかな」 「確かにそうかも…ここの授業は少し専門的なジャンルもやりますから」 「そうなのか! はあ…俺、いきなり頭悪くなったのかと焦ったよ」 「ふ……ふふふ、本当におもしろいことおっしゃるのね」 茉百合さんと桜子は顔を見合わせて笑ってる。 しかし焦っていたのは本当だ。 やっぱりこの学園、授業も結構レベル高いんだな。 「はは、いつもみたいに呼びなよ」 「ふふふ、ですって」 「……はい。まゆちゃんって教えるのすごく上手なんだよ」 「そうなんだ。でも桜子って勉強できそうなのに、休みの日までやってるなんてえらいのな」 「できないわけじゃないのよ。いろいろと応用をしているの」 「あ、ああ……そうだよな。うん。やっぱここの生徒はすごいな、みんな」 「えっ!?」 「いいよね、まゆちゃん」 「ええ、もちろん。課題に必要なものは、今全部お持ち?」 ノートに教科書、あと課題のテキスト。 必要なものは全部持ってきていたから、すぐにでも課題にとりかかれる。 「大丈夫です」 「それならこのまま部屋に向かいましょう。いつも私の部屋でやってるから」 「茉百合さんの部屋で? って、俺も行っていいんですか!?」 「かまわないけれど…晶くんが嫌なら別の場所でも」 「や、やや、嫌とかじゃなくて」 「それじゃあ、いつものように私の部屋で。行きましょうか」 「はーい」 案内された茉百合さんの部屋は、まるで別世界のようだった。 今まで、寮にしては自分の部屋はかなり綺麗で豪華だとは思っていたけど、ここと比べると全然違う。 「うわっ凄いこの部屋、グランドピアノ置いてある…ピアノ弾けるんですか?」 「弾けないの、インテリアなのよ」 「インテリア!?」 インテリアでグランドピアノって……一体。 ここに来てから、大抵のものがすごいなと感じてたけど。 こういうのって何て言うんだっけ。 ……上流階級? だったっけ。いや違うかな? 「こら。晶くん、勉強会でしょう」 「は、はい」 茉百合さんに促されて、俺はテーブルに向かった。 桜子はもう教科書を開いて、早速問題にとりかかっている。 「私はほとんど復習だから、晶さんのお勉強をメインにしましょ?」 「え? いいの?」 「そうね。きっとその方が効率がいいわ」 「はい、わからないところってどこですか?」 何だか翻弄されてるような……。 まあ、いっか。 俺は言われたとおり、課題のテキストとノートを開いた。 「これこれ、この問題なんだけど――」 「ふんふん。ちょっと見てもいいかしら」 「これは解き方に少々アレンジが必要な式ね」 ふたりとも問題を目にしたとたん、いろいろ考えだしたようだ。 やっぱり、俺とは違って頭いいんだ。 「そうね、まゆちゃん。これはこの部分が引っかけよね?」 「ええ、桜子も一度引っかかったところね」 「もー、だってこれってすっごくわかりにくい引っかけなんだもん」 桜子と茉百合さん。 ふたりっきりの時ってこんな感じなんだよな。 生徒会でのやりとりとか、他の子たちと一緒の時とはやっぱりちょっと違う。 ……って、そんなことに関心を抱いてる場合じゃない。 「この問題、やっぱり解き方にコツとかあるのかな」 「あっ、ごめんなさい……私みたい」 ちょうど茉百合さんに問いかけたと同時だった。 桜子は慌てて自分の携帯端末を取り出した。 「まゆちゃん、天音さんから呼び出しなの。せっかくお勉強会始めたばかりなのにごめんね」 「繚蘭会関連のことなのかしら?」 「たぶん、そうかな」 「わかったわ、気をつけて戻ってね」 「はーい。晶さんも、お勉強がんばってね!」 「うん、ありがと」 「なんだか大変だな」 「繚蘭会は私たち生徒会とは違って、いろいろな管轄があるから……」 桜子が出て行った後のドアを見つめて、茉百合さんはほんの少し寂しそうだった。 「慌てて走っていったけど、大丈夫かしら」 「……なんだか」 「えっ?」 「まるで桜子のお母さんみたいな感じ」 「……本当?」 「ごめん、本当にそう思っちゃいました」 「心配なのは心配だけど……そんな感じかしら。気づかなかった」 ちょっと恥ずかしそうな顔。 茉百合さんがそんな表情を見せるのはあんまり無いから、俺はなんとなく申し訳ないような、嬉しいような気分になってしまった。 「質問の途中じゃなかったかしら」 「あ、そうだった……えっと、この問題の解き方のコツを教えてほしいんです」 「ええ、わかったわ。これは少し視点を変えると解きやすくなるの」 茉百合さんが少しだけ体勢を変えたから、俺との距離がふっと近くなった。 ほんのわずかだけど、いい香りがする。 これは、部屋の中の香りなんだろうか。 だけど茉百合さんが少し傾くたびに、ふわりと空気が変わる気がする。 「ここの式をここに用いてみましょうか。ほら、ここ……」 「あ、はい」 「これは自分でしてみてくださる?」 「ここの計算か……式はこれで……」 教えてもらった通りに、ノートの上に式を展開してみた。 確かにひとりでやっていた時よりも簡単に解ける。 いくつかの数字を書き出した時、俺はふっと手を止めて顔をあげた。 「……?」 「……あ」 驚いた。 深い色の瞳が、思ったよりもそばにあって、俺を映していた。 式を書いている間もずっと、茉百合さんは俺をずっと見ていたらしい。 「わからなくなった?」 「いえ、大丈夫……です」 シャーペンを走らせてる指先をじっと見られているのかも。 そう思うと、ただの課題なのに緊張する。 間違ったら消しゴムで消せばいいだけなのに、それすら罪深いとさえ思わせる。 と、言うと大げさか。 でもそれぐらい、俺の心臓は嫌に早く鼓動を打っていた。 「もう少しね……」 「この解を用いて考えたら……あ、そうか」 「そう。ご名答。後はほら、もうここを埋めるだけ」 「――あっ」 指先のほのかなピンクがさっと視界に入る。 急に伸びてきた茉百合さんの手が、俺のノートをとんとん、と鳴らした。 「ごめんなさい、余計だったかしら」 「あ、違う、違います。ちょっとびっくりした」 「……そうなの? それじゃあ、驚かせてごめんなさい」 「あはは、どっちでもべつに謝らなくていいですよ」 「ふふふ、じゃあさっきのは取り消し」 その後も、茉百合さんは実に明解にわかりやすく、いくつかの問題を教えてくれた。 気付けば課題のノートがみるみるうちに埋まっている。 「おおー! なんかすっごい進んだ!」 「茉百合さん、いろいろ教えてくれてありがとうー」 「いいえ、でも疲れたでしょ?」 「え? いやそんなことは……」 そう言いつつも、確かに一旦手を止めてみると、少し疲れちゃったかなとも思う。 「晶くんはすごくわかりやすいんだから、そういうこと」 「えっ? いや、うーん。すみません」 「ふふふ、それじゃあ最後にお茶を入れましょう。桜子と一緒の時もいつもそうしてるの」 茉百合さんはにっこりと微笑むと、机の上の細かなものをさっと片付け、席を立った。 部屋の向こうから、食器の音がかちゃかちゃと聞こえてくる。 課題を教えてもらった上に、お茶まで出してもらえるなんて。 なんて贅沢なんだろう。今日はいい日だったんだなあ。 茉百合さんのいれてくれたお茶は、今まで飲んだことのない、ほのかな甘い味の紅茶だった。 俺がそれを飲んでいる間に、茉百合さんは本棚に向かっていた。 俺の勉強ばっかり見てもらって、結局茉百合さんは何もできなかったんだよな。 そう思うと、ちょっと申し訳ない。 「……あれ?」 再び部屋の中をぐるりと見渡した時だった。 「あれ? 確か茉百合さんって……」 それはちょっとした疑問だった。 大きな窓の向こうのテラスにあったある物。 何でもない、鉢植えだ。 名前はわからないけど、花が咲いている。 何でもない、テラスにあっても何の疑問も感じないはずのものなのに―― 「茉百合さんって、花嫌いじゃなかったっけ?」 聞いてみようか……どうでもいいことだけど。 「晶くん」 「わっ! は、はい」 「そのお茶、いかがかしら? 先日取り寄せたばかりなの」 「え、お、お茶? ああ……おいしいです、何の味なんですか」 「白桃がほんのり入っているものなの。珍しいでしょ?」 「白桃……か、だからちょっと甘いんだ」 「甘みが苦手ではなくて良かったわ」 茉百合さんはにっこり微笑んで、優雅にカップを口元に運んだ。 結局、あの花の鉢植えのことは聞きそびれてしまった。 まあ、でも……そんなに気にすることはないか。 まだほんのり温かいカップをテーブルに置いて、俺はもう一度お礼をいった。 「茉百合さん、ありがとうございました」 「またわからないところがあったら、遠慮なく仰ってね」 「ほんとに!?」 「ええ、人に教えるのも楽しいものなのよ?」 「助かります」 茉百合さんはほんの少し体を上下させた。 まるで映画の中の貴婦人みたいな仕草だった。 それが滑稽にならないところが、茉百合さんのすごいところだろう。 「それじゃ、失礼します」 とにかく課題もわからなかった事も解決したし、一安心だ。 軽く頭を下げてから、俺は部屋へと戻ることにした。 茉百合さんのいれてくれたお茶は、今まで飲んだことのない、ほのかな甘い味の紅茶だった。 まだほんのり温かいカップをテーブルに置いて、俺はもう一度お礼をいった。 「茉百合さん、ありがとうございました」 「またわからないところがあったら、遠慮なく仰ってね」 「ほんとに!?」 「ええ、人に教えるのも楽しいものなのよ?」 「助かります」 茉百合さんは笑っているのを隠すように、口元に手をあてながら肩を小さく上下させた。 どんな仕草も上品だな。 「それじゃ、失礼します」 とにかく課題もわからなかった事も解決したし、一安心だ。 茉百合さんに軽く頭を下げてから、俺は部屋へと戻ることにした。 「ノートに少し書いてもいいですか?」 「うん」 「コツはですね、こういう風に考えるんじゃなくて……」 すらすらと、桜子がノートに式を書いていく。 すごくきれいな字だった。 なんだか、それだけで少しわかりやすくなった気がして不思議だ。 「こちらの数字を、こう……」 「ああ、そっちなんだ」 「はい、この先はわかります?」 「ん、何とか。……こうかな?」 「そうそう、晶さんお上手ですよ」 にこにこと微笑みながら、桜子が褒めてくれる。 なんだかくすぐったい。 でも、こういうのもちょっといいな。 「なんかこうやって教えられてると、桜子って年上のお姉さんみたい」 「え? そうですか?」 「うん、なんとなく」 俺がうなずくと、桜子は嬉しそうな表情で茉百合さんを見つめた。 「私、お姉さんみたいだって!」 「あら、嬉しいの? 桜子にそんなにお姉さん願望があるとは思わなかったわ」 「だって、私、弟も妹もいないんですもの。まゆちゃんは年上だし……」 「茉百合さんは桜子といると、なんかお母さんみたい」 「えっ……」 「おかあさん?」 茉百合さんの表情が変わる。 しまった。これは、まずい事を言ったかもしれない。 なんか、違う方向に話をもってった方が……。 「――ぷっ、ふふふふっ! 晶くんはときどき本当に面白い事を言うわね」 「………すみません。あの、いや、茉百合さんって落ち着いているから。頼もしいっていうか」 「はい、わかってます、すみません……」 「でもまゆちゃんといると、安心するんだよね」 「そういう意味では、晶さんがお母さんって言うのもわかる気もするなあ」 「安心するのはいいけれど、早く問題の続きをした方がいいと思いますわよ」 「あっ、はい!」 「じゃあ晶さん、次の問題をしてみて下さい。この数字に気をつけて」 「これ? わかった……」 そうだ、今は雑談している時じゃなかったな。 早く問題を解いて、これを終わらせなくちゃ。 「えーっと」 俺が問題を解くのに苦労していると、桜子がわかりやすく教えてくれた。 茉百合さんはそんな様子を見守って、それから時々、的確な指示をくれたりもした。 ふたりとも、教え方がすごくうまい。 基本的に頭いいんだろうけど、人に教えるのもきっと上手なんだろうな。 でも時々――ふっと気にかかる事があった。 「…………」 「晶さん? どうしたの?」 「………え、いや。うん大丈夫」 俺の気のせいなんだろうか。 いつも優しげに桜子を見つめる茉百合さんの顔。 時々、ほんの一瞬だけど複雑そうな――なんだろう。 悲しげ、とまではいかない。でもにこにこ嬉しそうじゃない。 そんな複雑な表情をするのが、気になってしまった。 もしかして、ふたりだけの空間に俺は邪魔になっているとか? いや。やっぱり考えすぎだよな。 「これでだいたいの問題は解けたかしら?」 「晶さん、頑張りました」 「うん。二人ともありがとうございます」 「少し疲れたわよね。お茶を入れてくるから、二人とも待っていてくださいな」 優しく言った茉百合さんは立ち上がり、お茶をいれに行った。 桜子とふたりで残される。 少し離れた位置で、茉百合さんがお茶を入れてくれる音が聞こえていた。 「まゆちゃんの入れてくれるお茶って、すごく美味しいんですよ」 「そうなんだ」 楽しそうな桜子。 でも、俺にはさっきの茉百合さんの表情が気になっていた。 少しせつなそうな、何て言っていいのかわからないあの表情。 「……あのさ」 「はい?」 「俺、あの……邪魔じゃなかったかな」 「え?」 「桜子と茉百合さんの邪魔しちゃったんじゃないかなって、ちょっと心配になってさ」 「…う、うーん。あの、茉百合さんが、桜子と俺を見ながら時々浮かなさそうな顔してた気がして」 「もちろん俺の気のせいかもしれないんだけど!」 「………」 俺の言葉に桜子が戸惑ったようだった。 やっぱり、何かあるのかな。 「ううん、違うの……」 「……まゆちゃんは私のこと、たくさんたくさん知ってるから……」 「………?」 たくさん知っている? それって、どういうことなんだろう。 聞いてみてもいいんだろうか。桜子は困らないだろうか。 次の言葉をためらっているうちに、茉百合さんがお盆にティーカップを乗せて戻ってきた。 「お待たせしました。このお茶は、先日取り寄せたばかりのものなのよ」 「あ、茉百合さん」 「わぁ、本当。甘い、いいにおいがするね」 「ええ。白桃がほんのり入っているものなの。珍しいでしょ?」 「さぁ冷めないうちにどうぞ」 「ありがとうございます、いただきます」 茉百合さんのいれてくれたお茶から、ほんのりと甘い香りが漂っていた。 なんだか温かい気持ちになれるような、そんな香り。 さっきのことは――。 「……」 あんまり軽々しく聞かない方がいいのかも。 ふたりを見てると、なんだかそんな気がする。 今聞いてしまったら、きっとこの和やかな空気を壊してしまう。 聞かないでおこう。きっと、それがいい。 茉百合さんのいれてくれたお茶をゆっくりと楽しんでから、俺と桜子は一緒に寮に帰った。 う〜ん……困ったな。 誰かに勉強を教えてもらえればいいんだろうけど――。 繚蘭会のみんなは多分limelight再開の準備をしてるよな。 生徒会の人たちもいつも忙しそうだし…。 まあ、会長は間違いなく何もしてないだろうけど。 いや、だめだ。会長はだめだ。 「仕方ないな、ひとりでやるか」 とりあえず、部屋に戻ろう。 …………。 ……。 「はあ。だめだ、眠い」 部屋に戻ったのはいいけど……。 机に向かってテキストを広げていると眠くなるのは何故だろう。 こう、ダメだとはわかってても、眠気が……。 「……むぅ」 なんか、まぶたが重い。 おも……。 「わ、わあああ!」 「いててて」 いきなり部屋に響き渡った轟音。 ……の正体は、マックスだった。 ベッドのすみっこで転がってるマックスは、額の部分をなでている。 「うっかりだぜ」 「今すんごい音したぞ。びっくりした……って、あれ?」 「ち、ちがうちがう! え、うそ! もうこんな時間?」 マックスの騒ぎで一瞬気づかなかったが、部屋の中に差し込んでくる陽光はもう赤く染まっていた。 いつの間に夕方になったんだ? 机の上のノートは真っ白だ。 「はあ、良かった。思いっきりぶつかったから凹んでたかと思ったよ……はあ」 「あああ……何もできなかった……」 マックスが笑うので、俺は自分の頬をそっとなでてみた。 確かにうっすらミゾができてる。 きっとこれはシャーペンの跡だ。 机につっぷして寝てたって証拠だな……。 「ああ、もういいや……課題のことは記憶から消そう。そうしよう」 「ただいまーっと。ん?」 茉百合さんの部屋から戻ってきた俺の目に映ったのは、不思議な光景だった。 不思議っていうか。 マックスがこんな時間に寝てるなんて今までなかったよな。 「ぐーぐぐー」 「疲れてるのかな……いや、まてこいつロボだ」 「ぐぐ……ぐっ」 ごろごろとベッドの上で揺れながら寝てる姿は、どう見ても疲れてうたた寝しているようだ。 あんまり高性能なのも考えものだな。 ロボとして。 「さてと、課題もできたし俺もちょっと休もうかな」 マックスの気持ち良さそうなうたた寝を見ていると、俺もちょっと横になりたくなってきた。 まだ晩ご飯までは時間もあるから、そうしよう。 「わ、わあああ!」 「いててて」 いきなり部屋に響き渡った轟音。 ……の正体は、マックスだった。 ベッドのすみっこで転がってるマックスは、額の部分をなでている。 「うっかりだぜ」 「今すんごい音したぞ。びっくりした」 「背中側から落ちたよな、ちょっと後ろむいてみ?」 「うわああ、どうしよう、凹んでたらどうしよう……」 くるっと振り向いたマックスの背中。 見た目にも手で触ってみても、なだらかな曲線は変わりなかった。 さすがというか、丈夫だな。 「大丈夫だよ」 「はあ、良かった。思いっきりぶつかったから凹んでたかと思ったよ……はあ」 「お? 晶、お前の方にメールきてるぞ」 「俺のほうか。誰からだろ」 「――うっ」 届いたメールを確認すると、そこには見たくない名前があった。 無視しようとすれば、できない事もない。 でも、そうすれば面倒な事になる。 「はあ」 仕方ない。 面倒事しか書いてないことはわかってる。 ため息と一緒に受信メールを開くと、そこには能天気な文章が並んでいた。 『しょーくんへ。これは生徒会メンバー全員への呼び出しだよー。というわけで! 至急、生徒会室まで来たまえ!生徒会長より』 生徒会メンバーって事は他のみんなもだろうか。 それなら何故、個別にメールを送るんだろ。 一斉配信にすればいいのに――まさか罠とかじゃないだろうな。 「ん? もう1通?」 『疑ってる? 疑ってる? ちゃーんと来てよね! 待ってるから。できるだけ早くしないと、おやつなくなっちゃうぞ♪ 来ないともっと大変なことになっちゃうぞ♪』 会長のこの人をいらつかせる絶妙のタイミング。 もしも才能だとしたら、天才レベルだ。 これは行かなければ、より一層いらつくことになりそうだな。 「んぉ? どうしたんだ」 「生徒会室行って来る」 「呼び出しかー?」 「うん。ちょっと行って来るよ」 「おう! じゃーなー」 「お待ちしてましたー!」 「ご苦労!」 「いらっしゃい、晶くん。これから会議をするみたいよ」 「会議……ですか?」 何を会議するのだろう。 そう思いながら首を傾げていると、八重野先輩が眉間にしわを寄せて生徒会長を見つめた。 「なんだ。用件は教えていないのか?」 「来てから言えばいいかなーと思って」 「――そうだろうな、お前のことだから」 いつもの事だと思ったのだろうか。 それとも諦めているのだろうか。 八重野先輩はそれ以上何も言わなかった。 「では、始めていいか?」 「オッケ〜」 「はいです!」 「ええ」 「はーい」 特に資料も何も用意されていない机の上。 一度だけ視線を落としてから、八重野先輩は話し出した。 「島内大清掃の日という行事については知っているか?」 どうやら俺のために一から説明してくれるようだ。 ありがたいと思いつつ、ちょっと怖い。 「えっと、みんなで掃除する日でしたっけ」 「ええ、そうよ。毎年、生徒みんなで島全体を掃除するの」 「んで、その時に、こっそりなんかやりたいなーと思ってるんだよね」 「……何かって、なんですか」 「具体的にはない! だからみんなで会議!!」 「はあ」 「会長らしいわよね」 勢いだけの何も考えてなさそうな答え。 確かにそれは生徒会長らしい。 八重野先輩は『いつものこと』という具合で腕を組んでいるし、茉百合さんにいたってはこの無茶な会議を楽しんでいる風にすら見える。 こんな場所に呼び出された俺。 思わず会長をにらみつけてしまいそうだ。 「熱くなんて見つめてない! 何かって、普通に掃除したらいいじゃないか」 「いやだ! そんなのおもしろくないじゃないか!!」 「……はあ」 「ねー、まゆりちゃんは何かない? ガツンとくる何か」 「なにか……うーん。難しい問題ね」 「お前こそ、何かないのか」 「何かあったら会議を開いてないね」 「……はあ」 「さあ! 誰か!! 降りて来いナイスアイデア!」 勝手に呼び出して何か考えろとは何様だ。 いや、生徒会長様ではあるけど。 「うーん……うーん……何か何か何かでてこーい」 どう考えても、無理のある会議だ。 それなのにぐみちゃんは、頭をふるふる振りながら一生懸命考えている。 真面目なのか、生徒会長を慕っているからなのか……。 正直、ぐみちゃんが会長を尊敬する理由がわからない。 九条と同じく何かの研究で特待生らしいけど、やっぱり天才すぎるとどこか理解不能な何かを抱えてしまうものなのか。 アイデアよりもそっちの方が気になって、頭の中をグルグル駆け回ってしまう。 「一生懸命考えてくれて、ぐみちゃんはえらいなー」 「はい! ありがとうございます!」 「ほら、しょーくんも何かないの」 「え、何かって……」 「食べ放題的な何かとか」 「えー!」 「やるんだったら、そういうのがいいな。ていうか、おやつは……」 「さすが、ハラペコ君だ。でも、そういうんじゃない!」 「もうわかんないよ! あとおやつ!」 「もっと血湧き肉踊るような、スリリングなやつだ! それが思いつかなければおやつはなし!」 「……」 両手を広げてことさら大げさに会長は言う。 でも、いきなりそんな事言われても困る。 大体、俺はそういうのはなくていい。 おなかも減るし。 それに、おなかが減ると気分が滅入る。 やっぱり、やるなら食べ放題的な何かの方がいいな……。 「生徒全員でできる、そんな感じの……こう! なんか!!」 「無茶を言うな」 「何かないかなあ」 能天気にそう言いながら、会長は室内をぐるりと見回した。 「そういえば、ひとつ失念していましたわ。繚蘭会長からも指摘があったのだけど……」 「ん? うちの天音が何かいった? 生徒会に入りたいとか?」 「そんなわけないだろ」 「ええ、予算の話。この間の防災訓練で生徒会予算をかなり割いてしまったの。天音ちゃんから予算バランスについて質問があったのよ」 「……む、むむむ」 「確かにその通りだな」 そういえば、あの時も大がかりな事をしてたからなあ。 予算の枠っていうのは決まってるものだろうし、勝手なイベントばかりはしてられないんじゃないだろうか。 って、ここで俺が心配する事じゃないかもしれないけど。 「でも! 大変な事の後には、なんか楽しい事があった方がいいに決まってるじゃないか!」 「それはお前の考えではないのか」 「そんな事ないよー! みんなそうだって!」 「そのみんなと言うのは、どのみんなだ」 会長と八重野先輩の言い争いが始まってしまった。 こうなると俺が入り込む余地もない。 茉百合さんも肩をちょっとだけ上げて、困った笑みを浮かべていた。 「ぐみちゃん、この予算バランスだと今回のイベントに使えるのはいくらぐらいが妥当かしら」 「そうですねえ」 心配そうに会長を見ていたぐみちゃんだったけど、計算は相変わらず速い。 差し出されたグラフを見つめながら、ほんの一瞬思案したとたん答えが出てきた。 「このぐらいしか出せません」 「……そう。そうよね、これぐらいよね」 「むしろ会長っていうのは、みんなの意見を総意してるってことだろ? わかんないの?」 「お前のいうみんなも、お前という個人もまったくあてにならん事だけはわかるな」 「ふたりとも、少し落ち着きましょう」 「俺は落ち着いているが?」 「みんなはみんなだよー! ねえ、しょーくん」 「え! ええ!?」 そこで俺に振るのか! 俺なのか!? 会長が俺に話を振ったものだから、その場にいる全員の視線がこちらに集まった。 「……そうだな。奏龍、葛木がお前のいう『みんな』のひとりなのか? どうなんだ?」 「も、もちろんそうだよ。ね! 楽しいこと好きでしょ? んで、やっぱ頑張った後はご褒美とかほしいもんね?」 「確かに、皇くんと八重野くん以外の意見も聞いてみたいかもしれないわ」 「わくわく」 「う、うーん」 確かに楽しいほうがいいし、ご褒美があったほうがやる気が出る。 それはそうなんだけどな……あくまで普通に考えた場合。 「葛木の意見はどうなんだ」 「確かに…何かがんばった後においしいものとかあったら嬉しいです」 「ほらー! ほらほら! ね!!」 「一般生徒としても、その方が頑張れるというか……あ、あの変なこととかじゃなくて、フツー」 「ほーらみろ! 俺の言った通りでしょー」 「あくまでも普通に楽しみ、普通に何かを与えられる方がいいということだな」 うんうん、と大げさに頭をふってみる。 会長に賛同したって思われるのは何か嫌だから、なるべく大げさに。 「まあ、お前以外の口から聞くと納得いくな、奏龍」 「どういう意味だよ……」 「そのままの意味だが」 「まあまあ、ふたりとも。晶くんの意見も聞けたのだから」 「ご褒美はいいですよねー!」 なんか、俺の意見でまとまった、て事でいいのか? 八重野先輩にじろりと見られた時は、いやにドキドキするわ、手に汗握るわだった。 こんな緊張する会議はもう二度と出たくない。 でもま、八重野先輩もとりあえず納得してるみたいだし。 素直に答えて良かったのかな。 「お!!! ひらめいた!」 「何が浮かんだのかしら」 「知りたいですー!」 「ちょいちょい」 俺以外の3人に視線を向けて生徒会長が手招きをする。 これは俺は来るなという事なんだろうなあ。 まあ、めんどくさそうだからいいんだけど。 「あのねえ……」 「わー!」 「ふむ……」 「なるほど」 「それでぇ……」 ああ、でも……。 目の前で仲間はずれにされてるみたいで寂しい! 一体、何の話をしてるんだろう。 「あのお……」 「で、こう……」 「はいです! 予算バランスも頑張ります」 「その範囲ならまあ、いいだろう」 「ふふふっ」 「あのですねえ……」 「はい、終了!」 「えー!!! 俺、聞かせてもらえないんですか」 「わかってないなー。しょーくんには、当日の楽しみを取っておいてあげるんだよ!」 それは生徒会のメンバーとしてどうなんだろうか。 俺も一応入ってるんだけどな…いや、なんか、そういうのはいいか……。 「……じゃあ、俺もう帰っていい?」 「いいよー! お疲れさん!!」 「はあ。お疲れ様でした」 「協力ありがとう〜」 笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振りながら生徒会長が俺を見送ってくれる。 結局俺がいなくても終わったんじゃないのか、この会議。 今さら言っても仕方ないけど……あっ! 「おやつ!」 「おっと、忘れてた。今日はこれね〜」 「え〜」 ぱさりと落ちてきたのは、いつものあれだ。 明太子味。 明太子味。 同じ味が2本。これは嫌がらせに違いない。 「んじゃ、さよーならあ」 「……はあ」 生徒会室を出ると、もう日が沈んでいた。 まったくもって無謀で無茶な会議にずいぶん時間を奪われてしまった…… 「ん……」 これは――ピアノの音? 聞いた事のない曲だったけど、とてもキレイな旋律が流れてる。 だけど、耳にした瞬間、ある事がふっと頭に浮かんだ。 海に行った時にマックスが言っていた怪談の事だ。 もしかして、あれって本当だったんだろうか……。 「…………」 怖いわけじゃない。 でも、聞こえて来るのは事実。 音のする方に向かえば正体がわかるんだろうか……? 「こっち、からだな」 音を頼りにしてたどりついた場所は、音楽室だった。当たり前といえば当たり前だが。 中からははっきりとピアノの音が聴こえてくる。 でも、あまりにもはっきり聴こえすぎなような…… もしかしてこれ、誰かが普通に弾いてるだけじゃないのか? 「……よし。覗いてみよう」 そっと見るだけなら、万が一幽霊でも気づかれないだろう。たぶん。 「……」 音楽室をのぞくと、そこには天音がいた。 真剣な表情でピアノを弾く天音。 その眼差しは、俺が見た事がないものだ。 なんだ……。 音楽室のピアノって、天音が弾いてたのか。 怪談でもなんでもないじゃないか。 「……」 それにしても、天音ってピアノが弾けたんだな。 意外だけど……すごく上手い。 何を思って、あんなに真剣に弾いているんだろう。 ピアノの事なんてよくわからないけど、この音色はきれいだと素直に思える。 天音の指先が鍵盤を叩き、きれいな音色が奏でられ続ける。 どうしてあんなに指が動くんだろう。 なめらかな指先は、まるで鍵盤を優しくなでているように見えた。 俺の知っている天音なのに。 そこにいるのは間違いなく天音なのに。 真剣にピアノを弾く天音の姿は、知らない誰かみたいで、不思議だった。 「……あ!」 「あ……」 ふっと天音が顔をあげた。 同時にピアノの音が鳴り止む。 ほんのわずかのしんとした静寂の後。 いつもの天音が、いつもの顔で、声をはりあげた。 「あ、あのね! 葛木くん、これはえっと!!」 「天音ってピアノ弾けるんだな」 「えっと……うん……」 「すごいんだな、こんなふうにキレイに弾けるなんて――」 「黙ってて!!!」 「え?」 俺が口を開くよりも先に、天音が口を開く。 それは俺にしゃべるなと言っているようにも思えた。 どうして? なんて口を挟む隙さえ見当たらない。 「私がここでピアノを弾いてたの、誰にも黙ってて!」 「……えっと」 「お願い!」 必死の表情で天音が俺に手を合わせる。 あんなにうまいのに、どうしてなんだろう。 でも、こんなに必死になられたら嫌だとも言えない。 もちろん、言うつもりもないんだけど。 「別に、言わないけど」 「良かった……。ありがとう」 「うん」 「……理由とか、聞かないんだね」 「聞いて教えてくれるの?」 「………言わないけどさ」 「じゃ、いいじゃん」 「そうね」 そう答えた瞬間、天音の表情がいつもの見慣れた表情に戻った。 ほんの少し、安心した。 「それにしても、天音がピアノ弾けるとか意外だ」 「な、なによ。意外って」 「でも、すごいなーって思って聴いてた」 「え……!」 「ピアノの事とかよく知らないけど、うまいなーって思ったよ」 「ほ、ホント?」 「うん。意外だと思ったけど」 「い、意外は余計なの!」 「そっか、余計なんだ」 「あたりまえでしょ」 照れているのか、怒っているのか、天音の顔は真っ赤だ。 こういうとこは素直だなあと思う。 「私、もう少しピアノ弾いてから帰るから」 「大丈夫? もう暗いし、ここ人あんまり来ないみたいだけど」 実際、怪談として噂が流れるほどだからな。 学園内とはいえ、暗くなってきたのに女の子ひとりで大丈夫なんだろうか。 「もう慣れちゃったし、平気。それにここじゃないと、弾けないから」 「そっか。じゃあ俺、先に寮に戻ってるな。帰り気をつけろよ」 「うん、ありがとう。それからさっきはごめんね、大きな声出しちゃって」 「別に気にしてないよ。んじゃ、またな」 さっきと同じ曲だった。 楽譜も読めないし、音階もわからないけど、ひとつも間違ってない。 きっと、そうだろう。 やっぱり、うまいなあ。 もしも俺がもうちょっとピアノの事を知っていたら、もっと上手にこの音色のことを褒められたかな。 天音は何故か隠したがってるみたいだけど。 ま、いいや。 邪魔になるかもしれないから、早く寮に戻ろう。 ぼんやりと寮の前に戻って来る。 しかし俺、何のために会議に行ったんだろう。 生徒会で役に立ったとは思えないんだけどなあ……。 まあ、あれでよかったと思い込んでおいた方がいいのかな。 「なんか、妙に疲れた」 深く息を吐くと、余計に疲れる気がした。 こういう時は、さっさと部屋に戻ろう。 絶対にそれがいい。 「な!?」 さっさと部屋に戻ろうと思った瞬間、寮の中から大きな音が聞こえた。 なんだ、あの音? あんなに大きな音が出る事、何かあったか!? 「そもそも、お前が言い出すことはいつも、お前自身がやりたい事だろう」 「それでも生徒には好評だから、繚蘭会だって予算回してくれるんだろー!」 「好評な結果になるように、俺たちが調整しているんだろうが」 「じゃあ今回は調整してくれなくっていいですよー!」 「ほう。お前予算の話をしている最中に、よくそんな事が言えるな」 「う、うぐっ…」 バサっと音を立てて、八重野先輩が生徒会長の顔に予算のグラフを押し付けていた。 さすがにあれはどうかと思う。 ……んだけど、いつもああだから、こういう対応になっちゃうんだろうなあ。 「書いてある単語の意味すら理解できんやつが、一人で何をどうするつもりだ」 「うっ…お、教えてもらうよ、ぐみちゃんに!」 「教えてもらう? すでに三回ほど、説明したはずだがな。それすら忘れているようでは、話にならん」 「う……!」 「少しはまともにものを考えろ。自分が泣いて頼む立場だというのがわからんのか」 「二人とも、少し落ち着いて……」 「う、う……いちいち言うことが陰険だぞ! このサド! ドサド!」 「仮にそうだとして、このサディスト相手に散々挑発行為を繰り返すお前は何だ? ドマゾか?」 「あぁ、納得がいったぞ。道理でいつも殴られるような行動をとるわけだ。学習能力ゼロかと思っていたが、わざとだったのか」 「………ぐ…ぐぐ…」 「わああぁぁん!! 蛍のあほおおぉぉー!」 八重野先輩を大声で罵倒しながら、会長は生徒会室から飛び出して行った。 もう足音も聞こえない。 随分、遠くまで行っちゃったみたいだ。 「あぁ……行っちゃったわ」 「か、かいちょおおぉ! 待ってくださーい! 大丈夫です! ぐみもう一回説明しますからぁあー!」 出て行った会長を追って、ぐみちゃんも走り出し、生徒会室を出て行った。 ぐみちゃん……君って子は、どこまでいい子なんだ。 あんな生徒会長のために。 「八重野くん。今日は少し、言い過ぎなんじゃない?」 「……時折灸を据えておかねば、増長させるからな」 そんな風に言いつつ、八重野先輩は立ち上がっていた。 あれ? もしかして迎えに行くつもりなのかな。 あれだけ怒ってたのに。 「だが、わざわざ休日に出てきている葛木には申し訳がない。すぐ連れて戻る」 やっぱり、出て行っちゃった。 え……っと、俺は一体どうすれば。 こう、残されてとっても居心地が悪いみたいな。 「ごめんなさいね。皇くんが戻ってくるまで、少し待っていてくださるかしら?」 「あ…は、はい」 「ありがとう。しばらく、二人でお話して待っていましょうか」 あ、そうか! 他に誰もいなくなった生徒会室を見回して、ようやくこの状況に気付く。 茉百合さんとふたりきりになったんだ。ど、どうしよう。 改めて状況を把握すると、なんかドキドキしてきた。 「どんな話をしたらいいんでしょう」 「すみません…」 「謝らなくてもいいのに。そうね……晶くんは、今繚蘭会寮にいるのよね? 繚蘭会のメンバーとはもうちゃんと仲良くなった?」 「え、ええまあ…。仲良くというか……まあなんとか…」 ……廊下に監視ロボットとか設置されてるけど。 「女子寮に住むのは、何かと大変じゃないかしら」 「そう、ですね…」 確かに下着泥棒に間違えられたり、とんでもない目にあったりはしたけど。 それでも可愛い女の子たちと一緒の建物で暮らすというのは、結構楽しいし嬉しい、なんて思ってはいる。 「それとも、女の子ばかりの寮はやっぱり嬉しい? 男の子ですものね」 「う、いやそれはあの」 「ふふっ、ちょっと意地悪な質問だったかしら」 「う、嬉しいことは嬉しいですけど、やっぱり」 「……そう。晶くんは正直なのね」 優しく微笑みを浮かべている茉百合さんに見つめられている。 正直、照れる。 こんなきれいな人にこんな近くで、じっと見られるなんて、今までなかったもんな。 「それに。本当に……普通の、男の子に見えるわ」 「え?」 「あぁ、悪い意味じゃないのよ。ほら……皇くんも八重野くんも、あまり一般的とは言えないというか…ちょっと特殊なタイプじゃない?」 「でも晶くんは、至って普通の男の子だから……。みんなちょっとは意識しているんじゃないかしら?」 「意識?」 「そうよ。男の子がいるんだ、って意識」 それは、俺が女の子の中にいるって思ってる意識と一緒なのかな。 そういう事なのかなあ。 でも、なんか違うような……。 「まあ、さすがにみんな男の子だって意識はあると思いますが……一人には完全に野獣だと思われてますし」 「ふふふふ。それはなかなか大変そう」 「私も天音ちゃんに頼んで、繚蘭会寮に入ってみようかしら。楽しそう」 「えっ! 茉百合さんが?!」 「いけない?」 「いいいいいけなくないですけどっ!」 そ、それって茉百合さんのパジャマ姿とか、寝起きでおはようって挨拶できちゃうとか、そんな事なのかな。 うわ! なんか、それって…う、嬉しいけど恥ずかしい感じが! 「ほらね、晶くん、反応が普通の男の子らしいわ」 「もしかしてからかわれたんですか、俺……」 「ごめんなさいね、からかったつもりはないのだけれど……なんだか、ほっとしちゃうから」 「ほっと……しますかね?」 「ええ。だって、皇くんや八重野くんならこんな反応してくれないわよ」 「そう言われても…」 「私が普通の女の子だったら、もっと何か違ったかもしれないわね……」 「…えっ……??」 今、一瞬……茉百合さんが見た事のないような寂しそうな顔をしていた気がして。 思わず声をあげてしまう。 でも、不思議そうにこちらを見る茉百合さんは、いつもの通りの表情だった。 見間違え……だったのか? 「晶くん、一緒に住んでいるならなおさら、女の子には気を遣ってあげなきゃだめよ」 「あ、はい…」 「どうしたの?」 「え。いえ……」 今の、何だったんだろう。 俺の気のせいだったのかな……。 「たっだいまー! ねー聞いてまゆりちゃん! 俺すっごいいい案思いついたよー!」 「あら、お帰りなさい」 「待たせたな、葛木」 「ただいま帰りましたのですー!」 なんか、戻って来た生徒会長がもう立ち直ってる。 何があったんだ。 あれだけ八重野先輩を罵倒していたのに、あれだけぐみちゃんが心配していたのに、何があったんだ。 3人とも、なんだか和やかに帰って来てるし。 おかげで一気に生徒会室が賑やかになったぞ。 「さっき電撃的に、神が降りてきたよ。イベントの神! バトルロイヤルの神!」 「予算は大丈夫そうなの?」 「戻ってくる間ざっと計算しましたけど、大丈夫そうなのです。カバーしきれると思います」 「そう。ぐみちゃんが言うのなら、大丈夫でしょうね。それで、八重野くんの方は説得できたのかしら」 「…はぁ。まあ、出来るところまでは自分で準備するそうだ」 なんだか八重野先輩が疲れてるっぽいな。 これって、生徒会長が説得できたというよりも、八重野先輩が折れたって事なのかも。 「そうなの。それは楽しみね」 「あのー。それで、結局何をやる事になったんですか」 「おぉ、しょーくんよ! 君にはヒミツだ!」 「なんでだよ!?」 「わかってないなー。しょーくんには、当日の楽しみを取っておいてあげるんだよ!」 それは生徒会のメンバーとしてどうなんだろうか。 俺も一応入ってるんだけどな…いや、なんか、そういうのはいいか……。 「……じゃあ、俺もう帰っていい?」 「いいよー! お疲れさん!!」 「はあ。お疲れ様でした」 「協力ありがとう〜」 笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振りながら生徒会長が俺を見送ってくれる。 結局俺がいなくても終わったんじゃないのか、この会議。 今さら言っても仕方ないけど……あっ! 「おやつ!」 「おっと、忘れてた。今日はこれね〜」 「え〜」 ぱさりと落ちてきたのは、いつものあれだ。 明太子味。 明太子味。 同じ味が2本。これは嫌がらせに違いない。 「んじゃ、さよーならあ」 「……はあ」 生徒会室を出ると、もう日が沈んでいた。 まったくもって無謀で無茶な会議にずいぶん時間を奪われてしまった…… ぼんやりと寮の前に戻って来る。 しかし俺、何のために会議に行ったんだろう。 生徒会で役に立ったとは思えないんだけどなあ……。 まあ、あれでよかったと思い込んでおいた方がいいのかな。 「なんか、妙に疲れた」 深く息を吐くと、余計に疲れる気がした。 こういう時は、さっさと部屋に戻ろう。 絶対にそれがいい。 「な!?」 さっさと部屋に戻ろうと思った瞬間、寮の中から大きな音が聞こえた。 なんだ、あの音? あんなに大きな音が出る事、何かあったか!? 何にも考えないで、ベッドの上でごろごろ。 布団の感触が気持ちいい。 もうずっとこうしてたいくらいだ。 「はあ、こういう時間は必要だよな、うん」 何度かころころと寝返りをうつと、ベッドの脇にいたマックスと目が合った。 「なーなー、晶」 「んー?」 「お前、ちゃんと勉強してるのか?」 「うん、まあ……。それなりにね」 「ホントかよー」 「ホントだよ」 「勉強はちゃんとしなきゃダメだぜ」 「わかってる」 「それならいいけどさ」 「……お前、本当に真面目だな」 「当然だろー」 マックスは本当に真面目だ。模範的な生徒だ。 思わず感心してしまうほど。 これってこういう設定だからなんだろうか? それとも学習してこうなったんだろうか? 「な!?」 「なんだー?」 突然聞こえた、大きな音。 何かにぶつかって、それがひっくり返ったような音。 寮の中でこんな音が聞こえたなんて、今までにない。 何か起こったのか? それとも誰かが転んだのか? 誰かが、転んだ? この寮にいて転ぶ可能性があるのって……。 「俺、ちょっと見て来る」 「オレも行くかー?」 「え……」 「だって、すっげー音だったぞ」 もしも、俺の考えが当たっていたら。 そうしたら、マックスがいるとちょっと困るかもしれない。 そうすると、他に誰かがその場にいた時ににごまかすのが大変になるかもしれない。 だったら、ここにいてもらった方がいい気がする。 「い、いや、いい! もしかしたら、九条が来るかもしれないから、マックスはここにいてくれ」 「そうか? わかった」 「じゃ、ちょっと行って来る」 「あ……!」 「あ、あう……」 「すずの!」 部屋の中に転がっているのは、すずのだけじゃなかった。 椅子やらクッションやらがすずのを中心に倒れている。 よっぽど豪快にひっくり返ったんだろうか。 そりゃ、談話室の外まで音が聞こえるはずだ。 「う、うぅぅ」 「大丈夫か? すずの、すずの! 聞こえるか?」 「は、はいー。だ、大丈夫……はふはふ」 「全然大丈夫そうじゃないぞ」 「はいー。じゃなかった、たぶん大丈夫ですー」 「た、多分って」 やっぱり大丈夫じゃない。 こけた時に頭打ったんじゃないだろうか。 頭の上にひよこでも飛んでそうな具合に、目をまわしてる。 手を差し伸べてすずのを助け起こす。 すずのはまだふらふらしていた。どこかに座らせてあげた方がいいかもしれない。 「無理に立たないでいいから、とりあえず座ってて」 「は、はい……うぅ」 頷いたすずのは、頭を押さえながらそばにあった椅子に座った。 どこか具合が悪かったらどうしよう。 そうだとしたら、こういう時ってどこに相談すればいい? あ、そうか。 マックスには体の様子が見えるんだったよな。 なら、マックスに診てもらえばいい。 何かあったら俺の部屋まで連れて行こう。 それにしても、ここに最初に来たのが俺でよかった。 もし、他に誰かが来てたら、何が起こったのかって思うに決まってる。 誰もいない部屋で、いろんなものが崩れ落ちたようにしか見えない――だろうな。 「やっぱり俺と結衣とマックスにしか、見えないのかな」 そっと振り返ってみると、すずのはやっぱり頭を抱えたままだった。 「どうしたのかな?」 「――ふう」 椅子を片付けようとすると、結衣たちがやって来た。 俺の部屋まで音が聞こえたんだから、みんなの部屋にも聞こえていて当然だ。 「晶くん、あの、これって……えっと」 結衣は部屋の隅でぴよぴよしているすずのを見て驚いている。 そして何があったのか、大体の事は察してくれたらしい。 でも、すずのの姿が見えていない桜子と九条は困ったような、驚いたようなそんな顔だった。 「不可解」 「なんだか大変な事に……」 「え、えーと! これは、その!」 「えと、えーと!」 「俺! 俺がやりました! ごめんなさい!」 「え? 晶さんが……?」 ふ、不自然だっただろうか!? でもこれ以外にどう説明すればいいかわからない。 ――俺が来た時にこうなっていた。 なんて答えちゃったら、それじゃあ、どうしてこうなったんだって事になる。 それこそ幽霊がいるとか、そんな話になってしまう。 だめだ、ややこしくなる。絶対にややこしくなる。 「そ、そーなんだー! 晶くんがやっちゃったんだねー」 「そ、そーなんだ! こう、豪快にドーン! って転んで、バーン! って椅子に! そしたらガシャーンって」 「すごく大変そうなことに……大丈夫? ケガはしていない?」 「だ、大丈夫。ケガはないから。本当、ちょっと転んだだけなんだ」 「も、もー! ドジだなあ、晶くんはー」 「あはははー。いや、ホントそうだよな。ごめんごめん」 「いい迷惑」 「か、片付けはちゃんとするから」 「そんなの当たり前」 「はい」 九条の言葉が痛い。 おまけに表情も冷たい。 でも、詳しい説明なんてできないしな。 すずの、まだ部屋の隅で頭を押さえてるみたいだけど、大丈夫なんだろうか……。 「片付け、ちゃんとやっとくから戻ってくれていいよ」 「手伝わなくても、平気?」 「うん。俺がやったから」 「桜子、結衣、行こ。手伝う必要ないから」 「あの、でも……私」 「あ、大丈夫。これくらいすぐ片付けられるし、な、なあ結衣」 「そ、そうだよねー。じゃあ、い、行こうー。ね!」 結衣に押されて、桜子も渋々部屋を後にした。 「そ、それじゃ。晶くん、がんばってー」 「おうー」 ちらりとこちらを向いた結衣。 その表情は、後で戻って来るからって言ってるみたいな気がした。 多分、すずのを心配しているんだろう。 「はあ」 3人が自分の部屋に戻ってくれたおかげで、少し安心した。 「そうだ、すずの!」 「……うぅう」 「すずの、大丈夫か?」 「晶さん……」 頭を押さえていたすずのが、そっと頭から手を離した。 それから、ゆっくりと視線を俺に向ける。 顔色は……あまり良くない。 やっぱり、打ち所が悪くて痛みがあるんだろうか。 「痛みは? 気持ち悪いとか、そういうのは?」 もしも、頭の中……。 脳に何かあったら、その時はどうすればいいんだろう。 そうなっていたら、その時はマックスに頼るだけじゃダメかもしれない。 でも、どうやってすずのの事を診てもらえばいい? 「私……」 「うん」 「……あっ!」 「え?」 不安そうにじっとしていたすずのが、突然立ち上がった。 俺はしゃがんだまま、すずのを見上げる。 「な、なに?」 「あのあの……あれ」 すずのは不安そうに辺りを見渡している。 何かを探してるみたいだけど――大事なものでも落としたんだろうか? 「何か探してる? このへんめちゃくちゃになってるけど、何か落とした?」 「何か……思い出しそう……かも」 「え!? 何かって?」 「ええと……」 「すずの?」 俺も立ち上がり、すずののそばへと寄った。 何かを思い出すような、考えるようなその表情。 一体、すずのは何を思い出そうとしているんだろう。 思い出して、何がわかるんだろう。 「ええと、えと……幽霊としての、記憶とか……?」 「それって、死んだ時の記憶って事か?」 「そうかも……。なんだか、ぼんやり頭に」 「すずのちゃん、晶くん」 「あ、結衣」 部屋に戻ったはずの結衣が戻って来た。 桜子と九条がいないところを見ると、ふたりは素直に部屋に戻ってくれたみたいだ。 だから結衣も戻って来れたんだろう。 「あれ……。すずのちゃん?」 「頭にぼんやり何かが……」 「死んだ時の記憶、思い出しそうだって。もしかしたら、さっき頭を打ったせいなのかも」 「そ、そうなの? 頭打ったって、大丈夫なの?」 「はい。もう一度、頭を打てばはっきり思い出す……かも」 「え!?」 「そ、それは」 「やってみます!」 「ちょっと! すずの、まてまて」 「だめぇえええ!!」 すずのは力強く頷き、走り出そうとした。 それは間違いなく、椅子に頭をぶつけようとするためだ。 いくらなんでも、それは無茶すぎる! もう一度激しくぶつかったら、今度こそケガするかもしれない。 そう思った瞬間、俺より早く結衣が動いていた。 結衣は、頭をぶつけるために走り出そうとしたすずのを後ろから抱きしめる。 後ろから抱きしめられて、思わずすずのは立ち止まって振り返る。 そんなすずのを、結衣はじっと見つめる。 ふたりはお互いの顔を見つめて、それぞれ困ったような表情をしていた。 「幽霊になった時の記憶なんて、思い出さなくていいよ!」 「で、でも」 「だって、忘れちゃうくらいなんだよ。きっと辛い記憶だと思うから……」 「結衣……」 「う、打ち首獄門とか、切腹とか……!」 「え、ええっ! ごくもん?」 「うわーんどうしよう、釜茹でだったら嫌だよねえ。でも、でも、うわああん」 「ゆ、結衣さん結衣さん、泣かないでください」 「…………」 そこでそういう発想になるのが結衣なんだなあ……。 すずのを心配して言ってるのはわかるけど、さすがにそれはどうだろうとちょっと思う。 だいたいそんな江戸時代仕様な幽霊が、なんで制服着てここにいるんだ。 まあ幽霊だし、可能性ゼロっていうわけではないけども。 「そんなの思い出さなくていいよぉ、いいよぉ!! 怖いよ!」 「で、ででででも、私いつまでも成仏できない、かもしれませんよ……」 「まだ成仏しなくていいじゃない! せめて私達が卒業するまでは一緒にいようよ!」 幽霊に成仏しなくていいって言うのはどうなんだろう。 でも、俺もできれば、まだすずのと一緒にいたいかな。 せっかく仲良くなったんだし。 「ね! 晶くんもそうだよね?」 「うん。そんなに急いで、痛そうな方法取らなくてもさ……」 「結衣さん、晶さん……えぐ、えぐ、ありがとう…ございます」 じっと見つめていると、すずのは泣き出しそうだった。 俺と結衣を交互に見つめて、それから困ったように視線をさまよわせる。 俺たちが側にいないとダメなんじゃないのか? そんな風に思わされる仕種と表情。 これってなんだろう。 あ、思い出したかも。 ちょっと季節はずれだけど、縁日で売ってるヒヨコだ。 俺が助けてやらなきゃって思ってしまうような、ぷるぷる震えてるあれだ。 「もうちょっと一緒にいようよ」 「うん。なんか、痛くなさそうな方法も考えるから」 「い、いいんですか? 迷惑になるかもしれないです」 「絶対そんな事ないから!」 「うん」 「あ!」 「すずのっ」 勢いよく頷いたすずの。 そのまま前のめりに転びそうだったけれど、俺と結衣で慌てて支えてあげる。 「はうぅ、ごめんなさい」 すると、恥ずかしそうに顔をあげる。 でもすぐに、嬉しそうにすずのは微笑んだ。 「ふたりとも、ありがとうございます」 「うん。じゃあさ、とりあえず……」 「とりあえず?」 「3人でここ片付けるか」 「うん。そうだね」 「はい」 結衣に手伝ってもらって、ようやく豪快に散らかった談話室を片付け終わった。 片付けに疲れたのか、部屋に戻るとすぐに眠気が襲ってきた。 起きていようかと少し迷ったけれど、結局負けてそのまますぐに眠る事にした。 「……んん」 喉の渇きで目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。 窓の外も同じように暗い。 まだ真夜中みたいだ。 「すーすー……ぎりぎりぎりぎり!」 「……」 マックスはまだ自分のベッドで寝ている。 まだ俺のベッドまで来てないって事は、これから深夜にかけて転がってくるんだろうか。 できればやめてもらいたい。 と思っても仕方ないんだろうけど……。 「ぎりぎりぎりぎり!!」 相変わらずマックスからは、すごい歯ぎしりが聞こえる。 というか、こいつの体のどこから音がしているんだろう。 そもそも、多分歯がないよな。 「…………」 長方形の黒い空間。そこがマックスの口だ。 覗いてみたい。そこに何があるのか知ってみたい。 だけど――本気で歯が並んでいたら。 「う、それは怖い…」 やめようやめよう。 そうだ、喉が乾いてたんだっけ。 水、飲みに行こう。 真っ暗な廊下を歩き、談話室の前を通りかかる。 その時ふっと頭に浮かんだのは、すずのの姿。 ずいぶんひどく頭を打っていたみたいだったけど、大丈夫なんだろうか。 もしまだ痛みがあるなら、やっぱり医者に診てもらったほうがいいんじゃないか。 でも、誰にも見えないすずのは、普通には診てもらえないよなあ…。 「…………」 「え……」 何の音だろう。 聞いた事のない音だ。 もしかして、またすずのがいるのか? また音が聞こえる……。 誰か、いるのかな? 「…………」 そっと部屋の中を見てみると、九条の姿があった。 何か機械を手に持って、熱心に部屋の中を調べている。 部屋の中央を調べ、隅を調べ、また中央を調べ……。 何をしてるんだろう。 「……九条」 「……ん」 声をかけると、九条が機械の動きを止めて振り返る。 その表情は真剣そのものだった。 「何、してるの?」 「お前こそこんな時間に何してる」 「俺は、喉が渇いたから……」 「そう。ただそれだけの目的なら移動の件は許す。なに立ち止まってるの?」 「いや、通りかかったら変な音がしたから」 「変な音?」 「多分、それ。九条が手に持ってるやつからしてた音だと思う」 「……」 俺が指差した先にあるその機械を、九条はじっと見つめた。 すぐにそれから視線を外すと、今度はまた俺を見つめる。 「わからない?」 「わ、わかるわけないだろ!」 「……」 とてつもなく深く面倒くさそうなため息をついた九条。 このまま無視されるのかと思ったが、意外なことに手に持った機械を止めてくれる。 「最近、変な物音が聞こえたり、椅子などが倒れたりする事が多い」 「え……!」 「それの調査」 「ちょ、調査……?」 「そう。不可解な事は調べておかないと……幽霊が出る寮なんて、非常識な事を言い出される前に」 「そ、そっか」 あぁ、それ……すずのの事だろうな……。 まあ、あれだけ派手な音が出たり椅子が倒れたりすれば、誰かがおかしいと思うのは当たり前かもしれない。 「で、でも、もしも本当に幽霊だったら?」 「ありえない」 「え?」 「幽霊だろうと、なんだろうと、科学で調査する事が必要」 「……」 「本物の幽霊ならば、それを更に調査するための研究をする」 「そうじゃなかったら?」 「他に何か原因があるということ」 「九条は信じないの? 幽霊とか、そういう超常現象的なのは」 「ワタシが信じるのは科学。科学で証明できないのは、まだ解明されていないというだけ」 「ふーん」 幽霊を信じてとかじゃなくて、あくまでも研究としてなんだな。 あとは、寮長としての勤めってとこか。 こういうとこは真面目なんだな。 「喉、渇いてるんじゃないの?」 「あ、そうだった!」 「早く行けば」 「うん、そうする。じゃ、おやすみ」 「……ふん」 部屋から出て行こうとする前に、九条は背中を向けた。 その手のひらの中から、また機械の音が聞こえる。 あれで、いつかすずのの姿が見えるようになったりするんだろうか。 そうしたら、九条も幽霊の存在を信じるんだろうか。 なんだか、そんな事を考えたら少しおかしかった。 豪快に散らかった談話室を片付け終わり、やっと部屋に戻ってこれた。 かなり派手にいろんな物が転がっていたから時間がかかったけど、結衣が途中から来てくれたからずいぶん助かった。 まあ、時間はかかったけど、片付いたからいいか……。 「あの、晶さん」 「……あれ? 桜子」 名前を呼ばれて振り返ると桜子がいた。 少し不安そう……というか、心配そうな表情をしているけれど、どうしたんだろう。 「どうかした?」 「あの、さっき転んだみたいだったけど……大丈夫なのかなと思って」 「ああ、その事か。大丈夫だよ、あのくらい」 実際に転んだのはすずのだしなあ……。 でも、正直には言えない。 ウソつくのはちょっと悪いと思うけど、仕方ないか。 「でも、すごく大きな音がしたし、部屋も大変な事になってたから……」 「大丈夫! あのくらいでケガしたりしないから」 「本当に?」 「うん。本当に」 「本当にケガはしてないんですね?」 「本当だって。見てみる?」 「はい!」 「え! ちょ、ちょっと……」 冗談で言ったつもりだった。 それなのに、桜子は真剣に俺の体を見ている。 顔を見て、首筋を見て、腕を見て、脚を見て。 遠慮なく見つめられると、本気で恥ずかしくなってきた。 「……うーんうーん」 全身を見終わった桜子は顔をあげて俺を見た。 その表情は、これだけじゃわからないと俺に伝えている。 「あ、あのさ」 「晶さん、本当にケガはないんですね」 「ないよ。えーっと、腕だって、ほら!」 袖をまくって腕を見せる。 すると、桜子はその腕に手のひらで触れた。 「あの、ちょっと……」 「どこにも……?」 「う、うん」 ぺたぺたと、桜子の白い手が俺の腕に触れる。 何度も何度も、ケガがない事を確かめるために。 たったそれだけだ。 それだけなのに、指先の柔らかい感触が触れるたび、どきどきしてしまう。 「あのさ、だ、大丈夫だから」 「うん。良かった。本当にない」 「……あ」 そう言うと、桜子は安心したように息を吐いて腕から手を離す。 その感覚が、ほんの少し寂しいと感じてる俺がいた。 「安心しました」 「うん、大丈夫だから、うん。そんな心配しなくていいよ…」 「ダメです、心配しちゃいますよ。でもほんとに何もなくて良かった」 桜子の表情は本当に安心したと心から思っているようだった。 どうして、そんなに心配するんだろう。 微笑む桜子の顔を見ると、そっちの方が不思議だった。 女の子ってそういう感じなんだろうか。 「ごめんなさい。私、おせっかいでしたよね」 「や、そんなじゃない! おせっかいとか思ってないよ。ただ」 「ただ?」 「なんか不思議だった。どうしてそんなに心配するのかなって」 「え?」 「心配、しちゃいますよ?」 「心配されたりするの、嫌…だったりしますか」 「ううん、それはない。やっぱ嬉しいしさ、そういうの」 「ふふふ、なら良かった」 桜子のふわふわした笑顔の前では、なんだか調子が狂う。 でも嬉しかったのは本当だった。 ぺたぺたと体を触られるのは恥ずかしかったけれど――。 「本当に良かった。晶さんにケガがなくて」 ふっと俯いた桜子の頬に、まつげの影が落ちていた。 廊下の電気のせいなのか、それとも夜になって暗くなったせいなのか、桜子の顔がいつもよりも白く見えた。 どきん、と胸の奥で音がする。 こういうのを、心配してしまうっていうんだろか。 「繚蘭祭も近いから、ケガやお風邪に気をつけないとですよ」 「うん、そうだよな」 顔をあげた桜子は、いつもの感じだ。 やっぱりさっきのは光の加減だったんだろう。 「桜子もだよ。俺なんかよりよっぽど気をつけなくちゃ」 「……はい。ありがとう、晶さん」 微笑んだ桜子は一歩下がってから、小さく手をふった。 「それじゃあ、戻ります。おやすみなさい、晶さん」 「あ……おやすみ」 桜子の言うとおり、繚蘭祭も近いんだ。 体力も気力も十分にしておかないとな。 桜子の後ろ姿を見送った後、俺も伸びをしながら部屋へと戻った。 結衣に手伝ってもらって、ようやく豪快に散らかった談話室を片付け終わった。 片付けに疲れたのか、部屋に戻るとすぐに眠気が襲ってきた。 起きていようかと少し迷ったけれど、結局負けてそのまますぐに眠る事にした。 「……さん」 「……」 「……さん。晶さん……」 体がかすかに揺れている。 ゆさゆさと、少しだけ誰かに揺すられているような揺れ方。 声が聞こえる。 か細くて小さな声。 その声が俺の体を揺らしている……? 「晶さん……晶さん……」 「あ……れ……?」 「あの……」 ゆっくりと目を開くと、横にすずのがいた。 ここ……俺の部屋だよな? わざわざ結衣の部屋を抜け出して、ここまで来たのか? 「すずの?」 「ご、ごめんなさい……ごめんなさい…」 「いや、うん。いいよ……」 ぼんやりと起き上がり、じっとすずのを見つめる。 随分と不安そうで、小さな体が更に小さく見えた気がした。 「どうかした?」 「あの……ちょ、ちょっと不安で、落ち着かなくて、眠れなくて……」 「そっか」 「ひとりだとなんだか怖いというか、あの……心細くて……いつもはそうじゃないですけど」 幽霊にも怖いものがあるんだなあ。 なんて言ったらすずのはどう思うんだろう。 でも、なんだか不思議な感じだ。 こうしてると普通の女の子にしか見えないけどなあ。 「結衣さんも起こしてみたんですけど、ぐっすり眠っていて起きてくれなかったのです…」 「それで俺のとこに来たんだな」 「は、はい。晶さんも寝てたのに、ごめんなさい……」 「ううん、いいよ。すずのが見えるのは、俺たちだけなんだし」 「晶さん……」 「さっき、不安って言ってたけど……何か気になる事でもあるのか?」 「あの……」 「話くらいは聞けるかなって思ってさ」 「……」 「あ、言いたくないならいいから」 「いいよ」 もじもじと、すずのがうつむく。 話してもいいのか迷っているような、そんな素振り。 わざわざ部屋まで来て、俺を起こしてしまうくらいの不安があったんなら。 何とかしてあげたいと思うのは当たり前じゃないだろうか。 「あの、私……」 「うん」 「思い出さなくちゃって…思ってるんです」 「さっきの? 死んだ時の事?」 「はい……。何かを思い出せそうで、でも思い出せないのがもどかしくて……」 記憶がないっていう状態は、どういう状態なんだろう。 そうなった事がない俺にはわからない。 すずのは俺たちにわからない不安を多分、ずっと抱えているんだ。 「ちゃんと思い出したいとは思うんです……でも……」 「でも?」 「……なんだか怖くて…」 俯いたすずのが自分の手をぎゅっと握る。 小さな姿がまた小さく見えた。 どんなに不安がっているのか。 どんなに怖いと思っているのか。 たったそれだけの仕種で伝わる気がした。 「思い出したら、今のままじゃいられなくなるかもって……」 「どうして、そんな風に思うんだ」 「だってきっと、今の私と、記憶を思い出した私は違う気がするんです……理由は、わからないけど」 「そんな事ない。すずのは、すずのだ」 「でも……思い出したら、一緒にいられなくなるかもしれないです」 「……」 結衣が言った事を思い出した。 もうちょっと一緒にいようよ。 そう。俺も結衣も、少しでも長くすずのにここにいて欲しいと思っている。 ちゃんと思い出した方がいい気もするけど、すずのがいなくなってしまうのは……。 やっぱり寂しいと思う。 「私、まだもう少し、晶さんと結衣さんとマックスさんと一緒にいたいです……」 「でも、ちゃんと思い出さなきゃって……」 「どっちもあるから、不安なのか」 「はい」 「……きっと、大丈夫だよ」 「晶さん?」 「きっと、まだ思い出せないって事は、もうちょっと俺たちと一緒にいていいって事だと思うよ。だから、大丈夫な気がするんだ」 「……」 「やっぱり、不安かな」 「そ、そんな事ないです」 「本当?」 「はい。そうですよね…一緒にいて、いいんですよね…」 ほんの少しだけ、すずのが微笑んだ。 少しくらいは力になれたのかな? だといいんだけど。 「ちょっとだけ……安心しました」 「そっか。良かった」 「ちゃんと寝られそうです」 「うん……もう戻る?」 「はい」 「部屋まで一緒に行かなくて大丈夫?」 「はい。ひとりでも平気です」 「うん。じゃあ、おやすみ」 「おやすみなさい、晶さん」 すずの、ゆっくり寝られるといいんだけど……。 そういえば、幽霊も寝るんだな。なんだか不思議だ。 生きている時の習慣、というものなのだろうか。 それに、結衣のご飯を毎日こっそりもらっているみたいだし。 本当に俺たちからすると、普通の女の子と何も変わらないんだけどなあ……。 しばらくドアの方を見つめて聞き耳をたてていたが、やがて廊下からすずのの足音が聞こえなくなった。 無事に部屋に帰ったんだろう。 安心して、俺はもう一度布団に戻った。 豪快に散らかった談話室を片付け終わり、やっと部屋に戻ってこれた。 かなり派手にいろんな物が転がっていたから時間がかかったけど、結衣が途中から来てくれたからずいぶん助かった。 「ただいま〜」 「お? おかえりー」 「あー、大変だったよ」 「なんだったんだー?」 肩や手についたホコリをはたく俺を見て、マックスが不思議そうな顔をしている。 「すずのが転んで、部屋の中がぐっちゃぐちゃになってたんだ」 「そうだったんだ、すずの大丈夫なのか? ケガしてねーか?」 「うーん。たぶんな、大丈夫って言ってたけど」 思い浮かんだのは、頭を抱えていたすずのの姿。 ずいぶん強く打っていたみたいだけど、それよりもすずのは何かを思い出しそうな事を気にしていた。 あれって結局なんだったんだろう。 自分が幽霊になった時のことって、覚えてるもんなんだろうか。 それってやっぱり死んだ時のことだよな。 「なあマックス、人が死ぬ時ってやっぱりすっごいピンチなことだよな」 「なんだよ急に。お前まさか変なこと考えてるんじゃ…悩みがあったらこの親友に語れよ! 聞くよオレは!」 「違う違う! 俺が死ぬとかそんなじゃなくて! 例えばの話」 「だよなー……うん、でも辛いことだよな」 「たぶん。そうじゃないかなーって思うな」 俺がそんな事を聞いたせいで、マックスまでも眉をよせて考えだしてしまった。 やっぱりそういうのって、思い出さないほうがいいんだろうか。 それとも、思い出したほうがすずのの為なのか。 「……」 そういえば、すずのがこの学園の制服を着ている事とか関係あるんだろうか。 でも、思い出してすずのがいなくなったり苦しむくらいなら、結衣が言ったみたいに思い出さなくてもいいのかもな。 「あれ?」 「はいはーい」 「あれー。結衣じゃねーか。どうしたんだこんな時間に」 「あの、えっと……入ってもいい?」 「おう! いいぜ、入れはいれ」 「うん。急にごめんね。お邪魔しまーす」 部屋の中に入ってきた結衣は、どこかしら落ち着きがなかった。 こんな時間に女の子が部屋に来るなんて、俺のほうもちょっと戸惑ってしまう。 とにかくどこかに座ってもらわないと―― 「まあ、オレのベッドにでも座れよ!」 「あ、ありがとう」 「……」 マックスは自分のベッドから俺のベッドの方へ、ぴょんと飛んできた。 空いたベッドに結衣が座る。 なんだかいつもの元気がなく、何かを話そうとしては俯いてしまう。 「あ、あのさあ、オレはいない方がいい話か!? それなら出ていくぞ。遠慮なく言ってくれ」 「う、ううん、そういうんじゃないの! マックスくんにもいててほしい」 「お…おう。それならいる」 「晶くん、あのね」 「うん」 結衣はこくん、と頷いてから話し始めた。 「さっき、すずのちゃんに言ったことなんだけど……」 「あ……」 結衣が考えていたのは、さっき俺が考えていたことと同じだった。 ほんの少し驚きながら、俺は結衣の顔を見た。 「それは……」 「なんの話だー?」 「さっきの事なんだけどな」 すずのがこけていたこと、それからすずのが何かを思い出しそうになったこと。 俺はマックスに、さっき談話室であった事を話した。 「ふむふむ」 「でも、わたし……すずのちゃんに思い出さなくてもいいって言っちゃって」 そこまで話して、結衣は再びうつむいた。 自分が言った言葉が正しかったのか、悪かったのか、それがわからないと悩んでいるんだろう。 でも、あの時に結衣が伝えたかったことの意味はわかる。 「思い出す事って、すずのちゃんにとっては大事な事かもしれないのに……」 「結衣にとってさ、すずのは大事な友達なんだよな。ほんとに」 「うん。もちろん大事なお友達だよ」 「……うん」 「本当の事を思い出さないほうがいいっていうのは、すずのが苦しむかもしれないって気持ちがあったからだって…俺は感じた」 「……晶くん」 「結衣が言いたかった事、俺にはわかったから」 「うん」 「それは多分、すずのにも伝わってるんじゃないかって思うんだ」 こくりと小さく、結衣が頷く。 表情がほんの少しだけ明るくなった。 俺の言いたい事、ちゃんと伝わったかな。 うまく言えたかわからないけど、大丈夫かな。 「なあなあ、オレ思うんだけどさ。晶にもわかったなら、ちゃんとすずのにも伝わってるって!」 「そうかな。うん…ありがとう」 マックスのいつもと変わらない声。 結衣はぱっと笑顔になった。 よかった、と本当にそう思える。 やっぱり笑顔の方がいい。なんだかほっとしてしまう。 「マックス、お前いいとこあるな」 「親友だぜ! 当たり前だろー」 「ははは。そうだった」 「本当にふたりは仲良しだね」 「あったりめーよ! でもな、結衣とも親友だ!」 「えっ、ほんと!? いいの?」 マックスは思いっきり大きく頷いた。 すごくおせっかいで、言いたいことはまっすぐ言って、たまに余計なことまでしちゃうマックス。 でも、今はそれが嬉しい。 ふたりだけだったら、もしかしたら結衣はこうして微笑んでなかったかもしれないもんな。 「晶くん、ありがとう」 「え? なんで」 「だって、私が言いたかった事、わかるって言ってくれたから」 「それは……俺も同じこと考えてたんだ。ちょっと」 「そうなんだ!? 同じこと考えてたなんて、ちょっとびっくり」 「うん、俺もびっくりした」 同じタイミングで、笑い出す。 なんだか照れくさくて、俺はちょっとだけ顔をそらしてしまった。 なんだろ、これ。 「なーなー」 「な、なんだよ」 「結衣、そろそろ帰った方が良くないか? 結構遅い時間だぞ」 「あ! そうだね」 「そうだ。いつまでもいると、九条が怒るかも…危険だ、それはほんっと危険だ」 マックスも一緒とは言え、こんな時間に女の子が部屋に来ていたなんて知られたらきっと怒られる。 それはとても困る。 それに、怒られるだけじゃない可能性がとても高い。 本当にそれは困る。ビームどころじゃないよな。 「じゃあ、わたし行くね。晶くん、マックスくん、ホントにありがとう」 「うん、気をつけて部屋まで戻れよ」 「大丈夫だよ。それじゃあ、おやすみ」 「おやすみ」 「おやすみなー」 結衣が戻った後の部屋。 俺とマックスはほんの一瞬黙ったあと、ベッドにばたんと倒れこんだ。 「なー晶。女の子ってさ」 「ん?」 「なんかいろいろ、難しいよな」 「うん、それは同感」 結衣は元気になってくれたかな。 俺もマックスも、自分の思ってることを伝えるのは上手だって思えないし、気の利いたこともいえない。 明日も元気で、いつもの結衣に戻ってくれたらいいんだけど。 繚蘭祭も近いから、体力も気力も十分にしておかないとな。 授業に追いつくための勉強会と、limelightの開店準備。 秋休みの間、毎日毎日、必死にそのふたつを繰り返していた。 それこそ、他の事を考える余裕があまりなかったくらい。 勉強会をしていたおかげで、勉強の方は何とかクリアできそうな感じだ。 これもひとえに、繚蘭会のみんなとマックスのおかげだ。 準備もあるのに……悪かったかなあ。 お礼ってわけじゃないけど、みんなに力になってもらったぶん結果を出さないと。 limelightの方も準備は着々と進んでいる。 こっちもみんなの頑張りのおかげで、もうすぐ無事開店できそうだ。 「うん?」 『しょーくんへ 君に頼みたい事がある! 忙しくなかったら生徒会室まで来てネ。生徒会長より』 「……」 メールの内容はいつも通り。 でも、いつもと違って『絶対来い』みたいなニュアンスはない。 忙しくなかったら――って、それじゃあ。 limelightの準備で忙しい繚蘭会のみんなを手伝いに行っても、怒られたりしないって事かな。 だけどあの生徒会長のことだ。 行かなかったら後で何か言われるって場合もある。 さて、どうしよう。 やっぱり、limelightの開店準備を手伝うことにしよう。繚蘭会のみんなには、勉強を教えてもらった恩もある。 会長には今日は無理ですって返信しとけば、別に大丈夫かな。 「よし」 メールも返信したし、limelightの方に行ってみよう。 まあ、俺一応生徒会の一員なんだし、こちらの方に行っておくか。 そうと決めたら、早めに行動した方がいい。 端末を持って、制服に着替えたらすぐに生徒会室に向かおう。 「こんにちはー」 limelightまでやって来ると、みんなが開店準備の為に揃っていた。でも、今日は店内の準備という感じじゃないみたいだ。 ここ2日ほどちゃんと手伝いに来れてなかったけど、もう店の中はすっかり整っている。 今から開店しても十分だってくらいだった。 なんだか感動するな。まあ、俺は脇でちょっと手伝っただけなんだけども。 「晶さん、今日はこちらでいいんですか?」 「もう勉強はいいの?」 「うん、みんなに習ったおかげで助かった」 「……」 視線をめぐらせると、店内にはこっそりとすずのの姿もあった。 でも、あんまりそっちは意識しないようにしないとな。 結衣もそう思っているらしく、時々すずのの方へ視線だけを向けて微笑んだりしていた。 「今日は何するの? 店の中はもう整ってるみたいだし……」 「今日はね、接客練習を中心にするつもりよ」 「やった事ないから、練習しないといけないよね。ああ、どきどきするな」 「私たち、みんな初めてですから」 「なるほど」 確かに、みんなこういうアルバイトはした事なさそうだ。 そういう俺もだけど――。 たぶん自分で作ったんだろう、マニュアルらしきものを天音が持っていた。 「くるりさんも、もうすぐ来ますよ。マックスさんも一緒ですって」 「お待たせ」 「………」 タイミング良くやってきたのは九条だった。 その後ろに立っていたのはマックス…なんだけど、女の子ボディだった。 「今日はあきらくんの方なのね」 「様々なデータから分析すると、このボディの方が有利。そういう結果だった」 「うん! かわいいもんねー。わたし、あきらちゃん好きだよ〜」 「くん! せめてあきらくんと呼べ! オレは男なんだよぉおー!」 「あ、い、いつものままの方がいいんだね」 「まったく……このボディよりいつもの方が絶対高性能なのにようー! なんでわかってくんねーんだよー!」 どうもあきらは不満そうだけど……やっぱりロボットに接客されるよりは、女の子の方がいいよなあ。 俺だってそう思う。 「それじゃ、始めましょ! さあ厳しくいくわよ」 「そうだ、お客さんの役は、晶さんがやってくださいね」 「え、俺が?」 「あ、それがいいー! よーし頑張るよーん」 「……ふう」 「決定ね。それじゃあ葛木くん。ちゃんとできているかきちんと見ていてちょうだい」 「わ、わかったよ」 普通にお客さんみたいに座ってればいいのかな。 席に座ってちらりとみんなを見ると、ちょっと緊張しているみたいな表情だった。 なんだろう、いつもと違ってちょっと初々しくて可愛い。 「それじゃあ、私から。葛木くん、注文から始めて!」 「へーい。……えっと、すいませーん」 「はい! いらっしゃいませ!!」 「えっとー、あ、注文だよな。これと、このお茶と……」 メニューを指差しながら注文すると、天音はさらさらとメモを取っていった。 それから一旦厨房へと引っ込むと、今度はお盆にカップとお皿を乗せて戻ってくる。 「お待たせいたしました」 丁寧にテーブルに置かれたのは、何もない皿とカップだった。 「あれ、空っぽ…」 「はいはーい! わたしがやるーっ!」 もしかして、これ全員分やるのかなあ。 ……結構大変かもしれない。 だけどこれもlimelight開店のため。 みんなのためだから、頑張るか。どっちかというと、俺は楽な役だし。 「はい。これで全員練習おしまい。なかなか良かったと思うけど、葛木くんはどうだった?」 「うん、良かったと思うよ」 少しぎこちない所があったとしても、みんなそれなりに接客はできていた。 天音も結衣も桜子も。 九条も無愛想ながら言葉はちゃんとしていた。これはちょっと意外。 でも、問題は……。 「すいませーん」 「……はい」 「うわ! テンションひくっ!!」 「うるせー。なんだよ!」 「あきらくん、その態度はだめよ」 「そうだよ。晶くんはお客さんなんだから」 「だーって! 嫌なんだもん、この体やだもー!!」 やっぱり、いつものボディじゃないあきらは、テンションが低かった。 おまけに店員としての態度は最悪だ。 あまりの態度に、こっそり様子を見ているすずのもくすくす笑っている。 「注文決まったなら早く言えー」 「28号。その対応は不合格」 「マミィまでー!!」 「がんばってください! 応援してますっ!」 「もーやだよおーーー」 「うーん。ケーキ作りは完璧なのにねー」 「はあ。ウェイトレスとしては落第ね……」 「まあ、そうだなあ」 せめてもうちょっと喋り方が可愛ければなあ…。 まあ、本人がこの体を嫌っているんだから、仕方ないのか。 「でも、みんなはちゃんとできてたよ、すぐ開店しても大丈夫だと思う」 「本当!?」 「うん。合格点」 「だってー! 良かったね、天音ちゃん」 「再開計画、うまく行きそうで良かったな」 頷きながら答える桜子の目が、少し潤んでいる気がした。 もしかして、泣いてるのか? 「桜子……?」 桜子は慌てて涙をぬぐうと、にこりと顔をあげた。 「私、こういうアルバイトのようなことは初めてなんです」 ああ、桜子ってお嬢様って感じだもんな。 確かに感極まってしまうほど嬉しいのかもしれない。 「なになに? 言っていって♪」 「私、すごくおすすめのメニューがあって、ここで出せないかなあって……小さい頃からずっと、お母さんが作ってくれたの」 「それって、どんなの?」 「ハニーティーです。はちみつが入っていて、甘くて、ほんわかしちゃいます」 「甘そう〜! おいしそー! はちみつ〜!」 「せっかくの再開だし、新しいメニューの追加はいいかもな」 「そうだね! スペシャルメニューとか欲しいよね!」 「こう、ケーキとケーキを合体させて、更にクリームをいっぱい乗せて、結衣スペシャル!! とか」 「わぁそれ、とってもおいしそうです」 「いいなあ、それはいい。ボリュームたっぷりだし」 確かにケーキを合体させて大きくして、更に生クリームが増えるとかすごい。 食べ応えがありそうだし、美味しい物が合体して更に美味しくなるに違いない。 「パフェを合体させて大きくするのは? バナナパフェとイチゴパフェを合体させて、チョコクリームをいっぱいかけるとか!」 「すごい!!!!」 想像だけでおなかが減ってくる。 これはすごいスペシャルメニューになるに違いない。 というか食べたくなってきた。何かしら甘いものが。 「あなたたちねえ……その想像力には参ったけど、とりあえずよだれを拭きなさい」 「あ、あうう」 「は、はい」 どうやら、気付かないうちによだれを流していたらしい。俺と結衣はあわてて口元を拭った。 ちょっと恥ずかしい……。 「さっきから聞いてたけど……」 「いいでしょ! スペシャルメニュー!」 「最高だよな!!!」 「だーーめ! だめです! 却下!」 「ええーー」 「桜子のハニーティーはともかく、そんなものすごいメニュー食べられるのはあなたたちだけでしょ!」 「ううう。でも、女の子ってみんなで食べたりするし」 「ともかく。もし実現化したいならきちんと考えて企画すること! それからマックスと相談ね」 「はーい」 スペシャルメニューは却下されてしまった……。 でも、ちゃんとしたメニューなら追加してもらえるんだろうか。 ちゃんとしたメニューって、なんだろうなあ。 「こんにちは」 「こんにちはーです!」 「あ、茉百合さん、ぐみちゃん」 「まゆちゃん!」 色々考えていると、入り口から茉百合さんとぐみちゃんが顔をのぞかせていた。 ふたりは少し心配そうに、でも興味深そうに店内を見ている。 「お邪魔しても大丈夫かしら?」 「ええ、もちろん!」 「わーい! ありがとうございますー」 「いらっしゃい」 「はいです! くるりん」 店内に入ったふたりは、まじまじと室内を見つめる。 穏やかな表情を浮かべたふたりだけど、なんだかワクワクしているようにも見える。 「あ! せっかくだから、ケーキ食べますか?」 「え、いいの?」 「はい! 私たち以外の人にも試食してもらいたいですし」 「28号が以前と寸分違わぬ味を再現している」 「さすがはあきらちゃんですー!」 「……うん…」 「それじゃあ、ふたりはお客さんですね」 「どうぞ、こちらの席に座ってくださーい」 「ふふふ、ありがとう」 「はーい」 桜子と結衣に勧められて、茉百合さんとぐみちゃんが席に座った。 これはさっきの接客練習の成果を出せるな。 「28号、ケーキの用意を」 「はーーい」 「じゃあ、結衣と桜子は注文を受けてくれる?」 「わかった! ほんとのお客さんと思ってやるよー!」 なんだか本当にカフェみたいだ。 さっきまでは練習だったけど、今は本番さながらってとこかな。 「なんだかんだ言ってたけど、うまく行ってるな」 「そうね。計画通り……ううん、それ以上にいい感じかも」 桜子と結衣は、さっき俺相手にやっていた事を、今度は茉百合さんとぐみちゃんにやっている。 注文を聞くのも、それを確認するのも忘れていない。 対応も丁寧だし、笑顔もちゃんと作れてる。 本物のウェイトレスみたいだ。 「でも、やっとここまで来れたって気分だわ」 「うん」 「ありがとう」 「何が?」 「葛木くんも手伝ってくれたから」 言われた言葉の意味が理解できなくて、思わず天音を見つめる。 別にそんな大した事なんてしてないのに。 「別に俺は何もしてないよ。みんな頑張ったからだろ」 「だから、そのみんなの中に、葛木くんもいるんでしょ。だから、ありがとう」 「あ……うん。まあ、まだまだこれからだけどさ」 「そうね。まだまだ頑張らなくっちゃ!」 小さく頷いて天音が前を見た。 それは一見、店内を見ているようだったけど、そうではなくて明日を見ているような。 なんだか、そんな気がした。 この、limelightがこれからどうなるのか、少し楽しみだ。 「ケーキ、用意できた」 「うわあ! 美味しそう」 「はいはい。ちゃんと運んでね」 「はい、そーっと、倒さないように……」 あきらの用意したケーキを桜子と結衣が運んでいく。 結衣のケーキを見ている目が『食べたい』と主張している。 その気持ちはよくわかる。 俺も早くケーキ食べたい。 いつになったら食べられるかなあ……余らないのかなあ…。 「お待たせしましたー」 「まあ、美味しそう」 「すごいすごい! なんだか踊っちゃいたくなるほど可愛いケーキですー!」 「うふふ。ゆっくり味わって食べて下さいね」 「ええ、そうするわ」 「いただきまーーす」 茉百合さんもぐみちゃんも嬉しそうだ。 ぐみちゃんも、以前のlimelightを知ってるのかな。 だとしたら、味がちゃんと再現されていたら驚くだろうな。 「なあ、九条」 「…なに?」 「あきらっていうか、マックスって、すごいなあ」 「……ふん」 返事は冷たいけど、なんか嬉しそうだな。 九条って普段は何考えてるかわからないけど、マックスの話の時は嬉しそうな気がする。 ん……? なんか、ちょっと落ち着きがないような……。 「……」 「九条、どうかした?」 「お風呂」 「え?」 「いつもならお風呂に入ってる」 「ああ……」 いつも風呂の中で色々考えたりしてるのかな。 そんで、今はちょうどその時間だと。 「帰ったら入る」 「そうだな、それがいい」 「覗いたら殺す」 「しないって!!!」 「……どうだか」 いまだに信用されてないなあ俺……。 やっぱり、最初の風呂場遭遇がまずかったのか。 「……ん?」 「……」 茉百合さんが、桜子の事を嬉しそうに見ている。 いつも気にしていたから、こうしているのが嬉しいんだろうな。 でも、なんだか……。 「……ふぅ」 それがどこか、寂しそうにも見える気がした。 「茉百合さん?」 「どうしたの? 晶くん」 「いや、あの……茉百合さん、ちょっと元気ないのかなあって」 「あ……俺の勘違いかもしれないです」 「いいえ。心配してくれてありがとう、晶くん」 茉百合さんの視線の先には、天音と結衣と話す桜子がいる。 楽しそうに話して、微笑んで……。 茉百合さん、桜子の事が何か気になるのかな……? 「まーゆりさーん!」 「あら、なんだか嬉しそうね。どうしたの?」 「さっき食べたケーキの感動を伝えたくって厨房にいったら、クッキーもらっちゃいましたあ♪」 「あ、しょーくんさんにもあげましょ」 「ほんと!? ありがと!」 「あ、そーだ。ぐみちゃん。会長はこないだろうな!」 ぐみちゃんは、店内の掛け時計をちらりと見てから答えてくれた。 「会長ですか? 会長ならこの時間は絶対いらっしゃらないです。尊いお昼寝のお時間ですから」 「また昼寝かよ。茉百合さん、あの人、もしかして毎日昼寝してるんですか?」 「……彼の取り柄ってそれくらいだから、仕方ないわよ」 「えっ?」 「な、な、なんだいきなり!?」 慌てて音のした座席の近くに行ってみる。 すると、あきらと結衣の二人が、床に転がっていた。 「ちげーよ、あれあれ。すずのが危なかったんだってば」 なるべく他のみんなにはわからないように、視線をあげた。 転んだあきらと結衣のすぐそばに立っているのは、すずの。 何かしようとして、よろめいたんだろうか。 ぷるぷる震えながら、握っていたテーブルクロスが少しだけななめになっていた。 「ちょ、ちょっと大丈夫!?」 「お、おー! 大丈夫! あ、俺が起こしてやるし、うん、まっかせてー」 「ごめ……ごめんなさい……」 「し、しー! すずのちゃんはケガなかった?」 こくこくこく。 すずのはぷるぷると今にも泣きそうになりながら頷く。 「あっ…やっべ」 「なんだ、どした?」 「ここ破れてる」 「ちょ、あきら! その持ち方はいかん!」 あきらはスカートの裾を持ち上げるとその内側を見ていた。 白い脚がすらっとのびて、大変目の毒だ……。 「あきらくん座って座って! わたしが見てみるから。……あー。フリルが破れちゃってる」 「おっ、マジでか!? やった!!!」 「なんで喜ぶんだよ」 「制服これしかねーんだよ! これで男もんの制服をオーダーできるだろ! スカートとおさらばだぜ!」 「大丈夫。わたしが直してあげるよ。こっちに来て」 「ええええぇー」 あきらとすずのをつれて、一番奥の座席に移動する。 天音や桜子たちはまだ、茉百合さんとぐみちゃんと話をしているみたいだった。 席に座った結衣は制服のポケットから裁縫セットを取り出した。 携帯用の小さいものだ。いつも持ち歩いてるのかな? こういうの持ち歩いてるのって、なんだか女の子っぽいなあ。 「っとーう!」 結衣は、手慣れた様子でするりと針に糸を通した。 そのあまりにも見事な技に思わず見とれてしまう。 もしかすると、結衣ってこういうのが得意なんだろうか。 裁縫が得意なんて、何だか意外だぞ! 糸を通した針を手にした結衣は、スカートを持ち上げてフリルを縫い上げ始める。 「えっとぉ、これをこうしてぇ……こう…」 「……」 「……」 「……」 なんというか……。 個性的……独創的…芸術的………。 いや、ヘタだな。 糸通しをあまりにもきれいにやったから、裁縫も上手いのかと思ったけど……結衣の縫った後はガタガタだ。 「………なあ、代わろうか?」 「え! 大丈夫だよ!」 「いや、だってさあ」 「結衣、縫うってこういうもんなのか? オレの知ってるのとすげー違うんだけど…」 「えええええ!!!!」 「縫い目がなんかこう。えーっと。音でいうならガタガタガタって感じだ!」 「う、うう……す、すずのちゃんもそう思う?」 「あ、あの……えっと」 「やっぱりそうなんだ。うん…実はお裁縫ね、あんまり良い成績じゃない…」 答えなかったすずのを見て、それだけで言いたい事がわかってしまったらしい。 結衣ががっくり肩を落とし、すずのが申し訳なさそうに小さく震える。 「やっぱ、代わろうか?」 「うう……はい」 フリルを縫いかけの針を受け取り、続きを縫い始める。 いくらなんでも、結衣よりはマシにできるだろう。 ボタンつけくらいはしてたし、このくらいはどうって事ない。 「……」 「……」 「……」 「こうやって、こう……な、よしよし」 「なあ、晶」 「なに?」 「お前の縫い目もガタガタガタいってるぞ」 「なっ、何を!」 「……」 言い返そうとした俺の目に、すずのがじっと俺が縫ったフリルを見つめている姿が見えた。 そうか、やっぱりこれ……ヘタか…。 結衣とまったく同じポーズでがっくりと肩を落とす俺。 「でも、糸通しはうまいもん!」 「俺も昔から、針に糸を通すのだけは得意だったんだけど……そういや縫うのは親父だったな、いつも」 「ほんと? わたしと同じだね!」 「まあ、うん。縫うのはね……とりあえず」 「う、うん…えへへー」 なんだか、結衣と俺の中に同じような暖かさが生まれた気がした。 針を通すのだけが上手くてもいいじゃないか。 それができるだけ立派なのだ。 うん、それでいい。 「あれ、すずのちゃん?」 「ん?」 突然、結衣が何かに気付いたようにすずのに声をかけた。 そちらに視線を向けると、すずのは針が刺さったままの制服をじっと見つめていた。 さっきも見ていたようだけど、まさかあれからずっと見ていたんだろうか。 「どうかしたの?」 「あの……これ…」 「これ、なんだか見覚えがある気がするんです……」 「これって、針?」 「は、針にっ!?」 「……針に…なんでしょうか…?」 すずの自身もよくわかっていないみたいだ。 でも、制服には今、針とガタガタの縫い目以外に何もないよなあ。 「ひゃっ!!」 「ダメだよ! そんな怖い事、思い出しちゃだめだよー!」 「ひゃ! わ、わっ! あ、あの! ああ!!」 結衣はどうやら、何か恐ろしい想像をしたらしい。 必死ですずのの頭をつかむと、それを左右に振り始めた。 それは思い出すなという意味でやっているのだろうか。 だとしても、それはやりすぎではないのだろうか。 「あ、あわわわわ! ゆ、結衣さん! ゆ、結衣さぁん!!!」 「痛い! 針痛い! そんなの思い出さなくていいからああ!!!」 「あ、あああわわわ! や、やめ……やめて、くだ……あううう!」 「こらこら! やりすぎ! やりすぎ!!!」 「はっ!!!」 「は、う……う、ううう…」 俺が止めると結衣は我に返ったらしい。 しかし、すずのが大変な事に! こ、これはやたら動かさない方がいいのかな。 「すずの、とりあえず座っとけよ。な?」 「は、はひ……」 椅子に座ったすずのを見つめる。 頭の中がまだ揺れるらしく、ゆらりゆらりと軽く揺れている。 やっぱり、しばらくこのままがいいかも。 「おーい、ふたりともー! ガタってしててもいいから、これ早くなんとかしてくれよー」 「あ! 途中だった! ごめん、全部終わらせるね」 「……あーあ。結局またスカートかよ…」 結衣はあきらの制服を最後まで直してしまうつもりみたいだ。 ガタガタ修復だけど、直ってないより多分マシだろう。 その後、茉百合さんたちにも協力してもらい、何度か接客練習を繰り返して今日の活動は終了、ということになった。 「おぉぉよーこそ、しょーくん! 来てくれたんだぁ! やさしー!」 「こんにちはーです!」 「こんにちは、晶くん」 「本当に来たのか」 「はあ、あの、こんにちは」 生徒会室にはみんなが揃っていた。 もしかして、俺って本当に来なくても良かったんだろうか。 それなら繚蘭会の方に行けば良かったかな…。 「さて! 素直に来てくれたしょーくんには、お願いがあるのだよ!」 「お願いって、いつもの雑用でしょ」 「ち、違うぞ! 雑用ではなくて、えーとだなあ……」 言い訳をするために会長は言葉を探す。 そんな言葉探さなくても、雑用だって言えばいいのに。 そうやって変な理由をつけるから呆れるんだけどなあ。 「俺たちの仕事をスムーズに進めるためのサポートだ」 「そうそう、それそれ!」 「別になんでもいいですけどね……」 八重野先輩が口を出したらそれ以上何も言えない。 実際、俺が雑用をする事で生徒会長以外の作業がスムーズに進むのなら、何も問題はないんだから。 そう思わないとやってられないぞ。 「で、俺は何をすればいいんですか?」 「少し大変かもしれないけど、いいかしら?」 「へ?」 「じゃじゃーん! これです!」 申し訳なさそうに茉百合さんが言う。 そしてぐみちゃんが、何かを取り出した。 「なに……これ?」 ぐみちゃんが手にしていたのは、白い三角巾だった。 でも、普通の三角巾じゃない。 その三角巾の中央には○(マル)で囲まれた『ゾ』という字が書かれている。 なんだこれ? ゾって何? 何に使うんだ。 「しょーくんさんには、これを作ってもらいますー」 「へ?」 「たくさん必要みたいだから、数が多くて大変かもしれないけど……大丈夫?」 心配そうに言った茉百合さんの視線が動く。 その視線の先は会長の後ろ。 「げ……」 そして、会長の背後にはダンボール箱が置いてあった。 多分、中身は全部この三角巾…ということだろう。会話の流れ的に。 よく見ると、ダンボールの側には黒いマジックも大量にある。 「もちろん俺も手伝うよ。さあがんばろー!」 「まあ、文句言ってもやらされるだろうしね……」 「ぐみもお手伝いした方がいいのでしょうか〜??」 「かまわん、奏龍が自分一人でやると言ったんだからな」 「ひとりじゃないよ! しょーくんも一緒にだよ!」 びしっと指をさしながら会長が八重野先輩に答えた。 呆れて怒りすら湧かない。 「業務が終わってから手伝えばいいんじゃないかしら? 私も手伝うわよ」 「あっそーですね! じゃがんばってお仕事終わらせちゃいまーす!」 それに比べてこの二人は本当に優しいなあ。 何気ない思いやりがこんなに嬉しいなんて…。 「……」 三角巾に延々と、延々と、マジックで字を書いていく。 しかも○(マル)に囲まれた『ゾ』って字を。 自分が何をしているのか全くわからない。 これについて説明もされていないので、本気でわからない。 「あの、これ、何なんですか」 「んー。ほみつー」 「………」 秘密って言いたかったのかな。 返事もまともに出来ないのか、この人。 八重野先輩は俺たちとは別の作業に集中していて無言。 生徒会長は珍しく作業を真剣にやっていて、会話らしい会話はほとんどない。 ぐみちゃんと茉百合さんも早々に仕事を終わらせ、こちらの作業を手伝ってくれているが、やはり無言。 この状況は、もしや新手の嫌がらせなんじゃないだろうか。 そんな事を思ってしまう程、生徒会室の中は静かだ。 「ふああああ〜〜」 「ん?」 静かな部屋の中に、大きなあくびの声が響く。 あくびの主に視線を向けると、会長が眠そうに目をこすっていた。 ……なに、この嫌な予感。 目をこすりながら立ち上がった会長は、あくびをかみ殺して歩き始める。 「ごめんしょーくん。俺、リタイア」 「はあああ?!」 「会長、もしやそろそろお眠りになられるのですかー?」 「んー。じゃ〜ね〜」 「はーい! いってらっしゃいです!」 「……」 ぐみちゃんに見送られ、会長は部屋を出て行った。 まさか本当に出て行くとは思わずに驚く。 でも、ぐみちゃんだけじゃなくて、茉百合さんも八重野先輩も当たり前みたいに作業を続けていた。 そういえば前にもこうやって、昼寝〜って出て行ってたなあの人。 これ……もしかして……。 「あのー、茉百合さん」 「あ、いえ。そうじゃないんですけど……あの人って、もしかして毎日昼寝してるんですか?」 「ああ。皇くんのこと? ええ、そうよ」 「い、いいんですか? 生徒会長がそんなんで……」 「でも、彼の取り柄ってそれくらいだから、仕方ないわよ」 「はあ……」 いつもの微笑みを浮かべて茉百合さんが答えてくれる。 昼寝をする事が取り柄で、それが許される。 全然意味がわからない。 それに茉百合さんやぐみちゃんはともかく、八重野先輩もそれを咎めない。 もしかして、何か約束事でもしているのかな。昼寝は絶対邪魔しない、みたいな。 「はー。いいなー」 「え?」 「ぐみも一緒にお昼寝に行きたいですー」 「そうか」 もしかして、ぐみちゃんちょっと疲れてるかな。 茉百合さんもそうだけど、さっきからずっと手伝ってもらってるし……。 俺が頼まれた用事なのに、ふたりに手伝ってもらいっぱなしなのも悪いよな。 「あの、ぐみちゃん。疲れてるなら休憩してくれていいよ」 「え?」 「茉百合さんも。ふたりには、ずっと手伝ってもらってるし」 「でも、まだ終わってないですよ」 「残りもまだそれなりにあるみたいだけれど……」 「でもこれ、俺が頼まれた事だし。ふたりとも休憩してください」 「いいんですか?」 「でも……」 「いいですから。あ、そうだ! じゃあ俺の代わりにlimelightの様子を見に行くとか。みんな頑張ってたし」 今日は手伝いに行けてないから、そっちも気になってたしな。 茉百合さんとぐみちゃんが行けば、みんなも喜ぶだろう。 それにこれなら、休憩っていうのとはまた違う。 だから気兼ねなく手を休めてもらえる気がする。 「本当にいいの?」 「はい。休憩っていうより、様子を見に行くっていう事で」 「いいんじゃないのか」 「え?」 今までずっと黙っていた八重野先輩が口を開く。 そして、作業の手を止めてこちらを見つめていた。 「生徒会として様子を見に行く。れっきとした仕事だ」 「そう……ね。じゃあ、そういう理由にさせてもらうわ」 微笑みながら茉百合さんが頷いてくれた。 俺と八重野先輩の言葉に納得してくれたみたいだった。 「それじゃあ、行きましょうか? ぐみちゃん」 「いーんですか?」 「いいのよ。生徒会として、limelightの様子を見に行くから……表向きはね」 「わかりましたー!」 まだ残りがあるって言っても、ひとりでできない事もない量だ。 特に問題ないだろう。 「え……」 ……電話の音? これって、前にも聞いた事があるような…。 「あの……」 「どうかしたのか?」 「電話、なってないですか?」 「固定電話のことですか? なってませんよ?」 「い、いや、そうじゃなくて、誰かの携帯電話が……」 「何を言ってるの晶くん。ここは携帯電話禁止よ」 「だから、みんなが連絡用の携帯端末常備なんですよー」 「そう……だよね」 「……」 だったら、どうして聞こえるんだろう。 まさか、みんなにはこれ、聞こえてないのか?? あれ……。音が消えた。 やっぱり、俺の聞き間違いだったんだろうか。 「……大丈夫? 晶くんこそ、疲れているんじゃないの?」 「だ、大丈夫ですって!」 「やっぱり、残った方がいいですかー?」 「そんな事ないない! ほら、行ってくれて大丈夫ですから」 「……わかったわ。疲れたのなら、すぐに連絡を入れてね」 「はい」 「それじゃあ、行ってきまーす!」 「うん。行ってらっしゃい」 ふたりが生徒会室の外に出て、八重野先輩とふたりで残される。 小さく息を吐いて、周りを見てみる。 何もない。もちろん電話もない。 八重野先輩しかいない。 「やるのは今、そこに出ている分だけでいいぞ」 「え?」 「残りは奏龍にやらせる。それが終わったら、部屋に戻れ。多分お前も疲れているんだろう」 「はい……」 八重野先輩はほんの少しの間、俺に視線を向けていた。 でも、すぐに何かを考えるような表情を浮かべて、作業に戻った。 作業中の八重野先輩はもう何も言わない。 また、部屋の中が静かになる。 耳を澄ましてみるけれど、電話の音はやっぱり聞こえない。 聞こえて来るのは、遠くから届く生徒の声だけ。 さっきの電話……なんだったんだろう。 女性陣は用事があるとの事だったので、俺は一足先にlimelightから帰ってきた。 limelightの開店準備は思ったよりずっと進んでたなあ。もう明日にでも開店できるんじゃないだろうか。 謎の作業を終え、俺はようやく自分の部屋に戻ってこれた。 途中で帰っていいと言ってくれた八重野先輩には感謝だ。 limelightの方はどうだったのかな。順調なんだろうか。 「あああ、疲れたー」 思わず、そのままの状態でぱったりとベッドに倒れる。 体全体に伝わるふかふかが気持ちいい。 ああ、やっぱりベッドとか布団はいいな。 ご飯の次くらいにいいものかもしれない。 「はああー」 なんだか、このまま眠れそうだなあ。 でも、寝ちゃダメだよなあ。やっぱり。 でも、このふかふかは気持ちいいなあ……。 寝ちゃおうかなあ……まだ夕方だけど。 「limelightの様子を見に行った」 「そうなんだー。じゃ俺もー」 「待て。お前、今回は自分で出来る事はやると言っただろうが」 「げっ」 「きちんとやる事をやってからにしろ」 「ぶーぶーぶー」 「文句言ってないでさっさとやれ」 「わかりましたよー…ちょっとは手伝ってくれてもいーのにー…」 「……手伝ってやってもいいぞ」 「えっ、ホント?」 「その代わり、お前も俺の仕事を手伝え」 「え。な、何を?」 「葛木の書類作成だ。理事会が転入を了承したとはいえ、書類はきちんと作っておかねばならないからな」 「えぇぇー…俺、ややこしいこと苦手なの知ってるだろー…?」 「そんなややこしい事は頼まん。葛木が前にいた学校からメールで成績証明書等のデータを転送してもらっている。それを印刷してくれ」 「早く座れ」 「はいはい…もー…お前さぁー、まだこのソフトと相性悪いの?」 「あぁ。だが、ここでは皆これを使っているからな」 「きっとほたるちゃんったらなんか変な電磁波でも出してんだよ〜メールソフトが怯えてるんだ〜」 「……あのな」 「……………あれ」 「どうした?」 「……蛍、問い合わせ先……間違えたんじゃないの?」 「まさか。問い合わせたのは白鷺さんだぞ。間違えるわけがない」 「ちょっと、こっちに来て。これ見て」 「…これは……どういうことだ?」 『当校にはそのような生徒の在籍記録はありませんでした』 パソコンのディスプレイに表示されたのは、そんな短い文章だった。 「limelightの様子を見に行った」 「そうなんだー。じゃ俺もー」 「待て。お前、今回は自分で出来る事はやると言っただろうが」 「げっ」 「きちんとやる事をやってからにしろ」 「ぶーぶーぶー」 「文句言ってないでさっさとやれ」 「わかりましたよー…ちょっとは手伝ってくれてもいーのにー…」 「……手伝ってやってもいいぞ」 「えっホント?」 「その代わり、お前も俺の仕事を手伝え」 「え。な、何を?」 「葛木の書類作成だ。理事会が転入を了承したとはいえ、書類はきちんと作っておかねばならないからな」 「えぇぇー…俺、ややこしいこと苦手なの知ってるだろー…?」 「そんなややこしい事は頼まん。葛木が前にいた学校からメールで成績証明書等のデータを転送してもらっている。それを印刷してくれ」 「何だ」 「ぷふっ。お前相変わらずメールの神に嫌われてるんだ? かっわいそー」 「………」 「きっとほたるちゃんったらなんか変な電磁波でも出してんだよ〜メールソフトが怯えてるんだ〜」 「やるのか、やらんのか、どっちだ」 「えー。どうしよっかなー。久々に蛍のクラッシュ芸見たい気もするしなー」 「………わかった。お前、責任とれよ」 「え。なに。自分でやるの? やるの? 大丈夫〜?」 「…………」 「………」 「…………」 「ぷははははははは!!! すんげえ文字化けした!!! すっごい! もうこれは才能としか言えない!」 「……だからわざわざ頼んだんだろうが!」 「いやすごい芸だな! ほんと! くっくっく…おもしろぉー!!」 「はぁ。再送してくれるように、また要請しておかねば」 「あははははははは! でもそれお前が出したらまた文字化けすんでしょ! ひひひひ!」 「携帯端末の時だって大変だったもんね、お前から来たメール、『ぴGYA』って! ぴぎゃって! ぷー! だめ! 死ぬー!」 「…奏龍、お前……今ここに白鷺さんと早河がいないという事の意味がわかっているのか?」 「ぷ…はふっ」 「俺を止めてくれる人間は、誰もいないんだぞ?」 「…………あ、はい…すみませんでした」 「再送要請のメール……、後でお前が出しておけよ」 「はい……」 ぼんやりとまぶたを開いて目を開ける。 気持ちよくうたた寝していたみたいだけど、今の…ノックの音? 「はーい?」 部屋の扉がノックされ、扉を開く。 そこに立っていたのは結衣だった。いつの間に寮へ戻ってきてたんだろう。 そんなに長い間寝てたのかな、俺。 「あのね、晶くんにお客さん」 「お客…さん?」 「うん。談話室で待ってくれてるよ」 「あー。わかった。じゃ、すぐ行く」 「うん」 「ありがとうなー」 「ううん」 わざわざ部屋まで呼びに来てくれるなんて、いい子だなあ。 でも、俺にお客さんって誰だろう。 全然心当たりがないんだけど……。 一応女子寮であるここの談話室まで入って来るって事は、女の子なのかな? だとしたら余計に心当たりがない。 ……それもなんか悲しいけど。 「あ、れ……?」 談話室までやって来た俺は驚いた。 何故なら、そこにいたのは普段この寮には絶対いない人だから。 「茉百合さん」 「あ……」 俺に気付いた茉百合さんが視線を向ける。 でも、ちょっとした違和感があった。 それがどうしてかはすぐにわかった。 茉百合さんが、いつもの微笑みを浮かべていなかったから。 「お客さんって茉百合さんですか?」 「ええ、そうなの。驚かせちゃったかしら」 「え、いえ」 「……」 じっと、茉百合さんが俺を見つめる。 顔に何かついているのだろうか? そんな風に考えもしたけれど、そうじゃない気がした。 なんだか、茉百合さんの表情が真剣そうに見えるのはどうしてなんだろう。 「茉百合さん?」 「あ……なんでもないのよ」 そう言って茉百合さんはいつもの微笑みを浮かべる。 けれど、その後すぐにまた黙って俺を見つめた。 「えっと……」 「ああ、ごめんなさい。落し物を拾ったから。晶くんの…だと思って」 「落し物ですか」 「ええ。はい、これ」 「あ……」 茉百合さんが差し出したのは学生証だった。 それを受け取り、中を開くと俺の名前が書いてある。 恥ずかしい俺と親父の写真まではさまってるし。まごう事なき俺の学生証だ。 「あー! あ、あの、すいません。うわー、どこで落としたんだろう……」 「ふふふ」 どこで落としたのか全く記憶にない。 大事な物なのに、ダメだなあ俺。 それにしても、わざわざこれを届けに来てくれたんだ…。 次に会った時にでも良かったのになあ。 「大事な物なのだから、もう落としてはだめよ?」 「は、はい。ありがとうございます」 「……」 また、茉百合さんが俺を見つめる。 どうして、今日に限ってそんなに見られるんだろう。 何か理由があるんだろうか。 なんだかドキドキしてきた。 俺、顔赤くなってないかな……。 「それじゃあ、また明日ね」 「あ、あっ、はい」 「さようなら、晶くん」 「……」 そう言った茉百合さんが俺に背を向けて去って行く。 振り返った瞬間、長い黒髪がなびいた。 背を向ける一瞬、茉百合さんがまた、俺に視線を向けた気がした。 けれど、その視線はすぐに外される。 なんか、茉百合さんいつもとちょっと違ってた? 気のせいかな……。 凄く見つめられて、舞い上がってるのかもしれない。 俺はぺちぺちと頬を叩いて、気を引き締めた。 limelightの開店準備。いろいろ教えてもらってる勉強のこと。 そして、後期になるとすぐに始まるこの学園の文化祭……繚蘭祭のこと。 ……なんだか忙しくなってくるし、しっかりしないと。 「晶! おおおい晶ぉおお!」 大きなマックスの声が聞こえる。 耳元で聞こえるような、そうじゃないような……。 とにかく大きな声。 「起きろよー、起っきろよーん」 「……うん?」 ぼんやりとまぶたを開いて目を開ける。 視界いっぱいに広がったのは、メタリックな輝きだった。 「もう夜だぜ」 「え!? よ、夜!? うっわ、どんだけ寝てたんだ俺……」 「まったくだな」 「っていうか、おまえ、マックスに戻ったの? 早いな」 「あったりめーだろ! 用がねーのにあんなボディにいつまでも入ってられるかっつーの!」 いつの間に寝ていたんだろう。 昼過ぎからベッドでごろごろしていたのは覚えていたけど。 うっかりしすぎた。 でもこのベッド、ふかふかで気持ちいいんだよな……。 「あ……」 腹の奥で、思いっきり胃が鳴った。 「……腹、減った」 「もうすぐ、晩ご飯じゃないのか?」 「あー。そうか、もうそんな時間だもんな」 「晶はおなか減ってばっかりだな」 「お前なー! 人間っていうのは、そういうもんなんだよ」 「そういうもんかなあ。マミィのデータで調べてみたけど、晶はちょっと腹へり率高いぞ」 「だってお腹すくんだもーん、ああ…腹減った」 今日の晩ご飯はなんだろう。 考えれば考えるほど腹は減ってしまう。 だめだ、他のこと考えよう。 limelightの開店準備。いろいろ教えてもらってる勉強のこと。 そして、後期になるとすぐに始まるこの学園の文化祭……繚蘭祭のこと。 ……なんだか忙しくなってきたよな。 それにしても、やっぱり腹減った。 「えー、そーいうわけでー、只今より毎年恒例『島内大清掃』を行いまーす!」 会長の発言と同時、周囲から一斉にブーイングの嵐が巻き起こる。 今日は前もって言われていた通り、この島内すべてを余すところ無く綺麗に磨き上げる島内大清掃の日。 先月の防災訓練の勝利チーム以外は全員強制参加。この広い島を徹底的に綺麗にするとなると、その労力はどれほどのものか。 みんなが防災訓練に必死だった理由がよくわかるなあ。 「おーっと、みんな元気いっぱいやる気いっぱいで羨ましいぞお。俺なんて、勝利チームだったせいで参加したくても出来ないのに」 「そうか、それはよかった。生徒会メンバーは強制的に参加確定だ」 「え、うそ!?」 「期待に応えられてなによりだ」 「ちょっ、それじゃああの日の俺の頑張りは!? 輝きは!?」 「よかったな。それらはすべて、青春の一ページという名前のアルバムに登録された」 「やだ! 絶対やだ! 俺は拒否するよ! だって俺、生徒会長だもーん!!」 「残念だがお前に拒否権はない。掃除と同時に人生からも逃げ出したいというなら、試す価値はあるかもしれんがな」 「会長、おめでとうございまーす!!」 会長の魂の叫びと同時、生徒一同による祝福の嵐が巻き起こる。 当然俺も、空気を読んで参加させていただきました。心の底からおめでとうございます、会長。 「あ、ありえないいいいいい!!」 そんな心温まる光景をみんなの青春の一ページに登録し、大清掃は無事終了した。 そして、夜。本日のメインイベントがやってくる。 昼間、八重野先輩の見張りのもと泣きながら掃除をしていた人と同一人物とは思えないほどの笑顔が、そこで輝いていた。 「これより、大清掃参加者の、大清掃参加者による、大清掃参加者のための、特別企画」 「『夜の校舎でビックリ肝試し! ゾンビにならないで♪』を始めまーすっ」 「…………」 「どうした葛木。呆れるべきか蔑むべきか迷っているような顔をして」 「いえ、色々とツッコミたいことは無限にあるんですけれど、それに関しては『会長だから』の一言で答えを出すことにしました」 「どうやらお前もあいつとの付き合い方を覚えてきたらしい。何よりだ」 こんな心から嬉しくない褒め言葉がこの世界に存在してたんだということを、俺は初めて知りました。 「本当に、どうしてこう遊ぶ企画に関してだけは率先して動くんでしょうね」 「他に何も考えてないからだろう」 「……八重野先輩、もう本当に悲しくなるほど色々なものを諦めてるんですね……」 「気にするな。お前もすぐに慣れる」 表情一つ変えることなく言い残し、その場を立ち去っていく八重野先輩。これが会長と同じ場所に立つということなんだと、俺は改めて思い知らされた。 「勘弁してほしいなあ……」 これ一つで寿命が十年くらい縮んだかな、と思えるほどに深い溜息をついたところで、前から茉百合さんがやってくるのが見えた。 「どうしたの、晶くん。あんまり溜息ついてばかりいると、皇くんみたいになっちゃうわよ」 「そういうセリフの一つ一つに、みんなの会長への信頼が溢れていて感動しますよ」 「もちろん。みんな信頼してるもの、皇くんのこと。もちろん、特定の方向にだけど」 「はい、ゼッケンシール。背中に貼っておいてね」 茉百合さんは楽しそうに笑うと、一枚のシールを俺に渡し去っていった。 そこには一言、字が書いてある。 『生きています』 「……なんか、死にたくなってきました……」 誰だ、このシールデザインしたの。 やがて、会長が脇に下がると、交替で壇上に氷川が立つ。氷川はマイクが入っていることを軽く叩いて確認すると、生徒達に向かって胸を張りつつ言った。 「ただいまより、ゲームの説明を行う。三秒以内で静まれない者は前に出なさい。追試を贈って差し上げよう」 三秒どころか一瞬で世界が静まった。 「まったく、なぜこの私がこんなくだらない遊びの説明をしなければならないのか。あまりの理不尽さに、次の試験の難易度を2ランクほど上げてしまいそうだ」 そう言いつつも、どこか楽しそうなのは気のせいだろうか。 「基本ルールは簡単だ。全員、先ほど配られたゼッケンシールを背中につけ、校舎のそれぞれの入り口から同時に出発」 「途中現れるゾンビという名の人生の落伍者から逃げつつ、二時間生き残りたまえ。生き残った者にはなんらかの賞品が用意されているとのことだ」 「無論、ゾンビによって捕まったものは更なる人生の落伍者としての烙印を押されることになるだろう。更なる負け犬を求めて校内を彷徨うといい」 「ただし、ゾンビは全員三十キロの重りを着用。また、階段を使っての上下移動は不可。エレベーターを使うこと」 「携帯端末による生存者同士の連絡は取り合っても構わない。もっとも、それが参加者にとってプラスになるかは、その者次第だろうがな」 「以上だ。今の説明で理解できなかった者は前にでなさい。お仕置きです」 ニヤリ、と妙に楽しい笑みを浮かべ、ネクタイを握る氷川。あ、相変わらずな先生だなあ。 氷川は、誰も前に出ない生徒達を、どこか物足りなさそうな目で見つめながら壇上から降りる。それと入れ替わるように、今度は茉百合さんが上がった。 「それではみなさん、ただいまより生徒会企画『ゾンビ肝試し』、開始致します。全員、割り振られた校舎入り口へと移動して下さい」 合図とは思えない優雅な言葉を発する茉百合さん。それと同時に、生徒達が一斉に動き出す。 校舎という閉鎖空間で行われる二時間ものサバイバルレース。どう考えてもまともには終わってくれそうにない戦いは、今火蓋を切った。 ……まともに終わってほしいなあ。 「夜の校舎って初めて来たけど、思ってたよりも暗いんだなあ」 視界を照らす明かりは、窓から降り注ぐ月明かりと小さな非常灯のみ。みんなどこかに隠れているのか、物音も無くシンと静まりかえっていた。 「悲鳴も聞こえないし……やっぱり、競争じゃなくて生き残るのが目的だからか。みんなどこかに逃げ込んだみたいだ」 暗闇の中、周囲を見回してみるけれど、やっぱり何も見当たらない。 「とりあえず、ここでこうしていても始まらないな。適当に歩いてみるか」 まずは状況を把握するのが先決だ。 この肝試しで俺がやるべき事は……。 背中のゼッケンシールを守りつつ、ゾンビ役の生徒から二時間逃げ回ればいいんだよな。 もしゾンビに捕まってしまった生徒は、新たなゾンビとして校内を徘徊する事になる。 という事はどんどんとゾンビの人数が増えていくってことだ。 ……序盤より、むしろ後半の方が問題だな。 「でも、ゾンビ役、ちゃんと見分けつくようになってるんだろうなあ」 生き残ってるフリして紛れ込まれたりしたら、とてもじゃないが手の打ちようがない。 「ゾンビAが現れた!」 「ゾンビBが現れた!」 「どうする!?」 「……」 ……えーと、このタイミングって狙ってたのか? 噂をするにもほどがある、というタイミングで現れた二人組に、一瞬言葉を失ってしまった。 よく見れば、二人とも頭に三角巾をつけている。 その真ん中には、まるで平安時代のように曲がりくねった真っ黒な文字が記されていた。 多分会長直筆なんだろうけど……あれ、もしかして『ゾ』? なんだろう、身につけているだけでゾンビとは別のものに憑かれそうなこの魔寄せ。なるほど、これなら確かに間違いようがない。安心だ。 その真ん中には、見覚えのある○(マル)で囲まれた『ゾ』という文字。 そりゃあ、見覚えがあって当然だ。自分で書いたんだから。 身につけているだけでゾンビとは別のものに憑かれそうなこの魔寄せ。なるほど、これなら確かに間違いようがない。安心だ。 ああ、つまりは『ゾ』って、ゾンビのゾなんだな。 ―――って、ちょっと待て? つまりそれって。 「……捕まったら、それ俺も頭につけるの?」 「当然よ!」 「オレ達だけがこんな格好させられてたまるか!」 どうやら俺のセンスはちゃんと普通だったらしい。 そうだよね。あんな恥ずかしいもの、つけていたくなんかないよね。ここは嫌がって当然だよね。 「悪い。断固として拒否」 「横暴だわぁー!」 「苦しみはみんなで分かち合え!」 どうやら彼らの悲しみに触れてしまったらしい。仲間を増やそうと目の色を変えて襲ってくるゾンビ達。 今、俺に許されるのは『にげる』か『たたかう』か。さあどうしよう。 ルール上、生存者がやり返すことは禁止されていないはず。ならばたまにはこちらからの攻撃だってあっていいはずだ。 この場に銅の剣がないのは残念だけれど、ここは正面から挑んで突破する! 「勇者が現れた!」 「え?」 「な、何?」 「勇者の攻撃ー!」 俺は前方からやってくる二人のゾンビへと、タックルの体勢で突撃した! 「き、きゃあああ!」 「ゾンビは八ポイントのダメージを受けたああ!」 「低すぎるだろ、おい!」 タックル成功。その場に倒れふした二人を置き去りに、俺は走り出す。三十キロの重りは本当に尋常じゃないんだなあ。 とはいえ、とりあえず今の俺に許されるコマンドは『にげる』しかないみたいだ。さてどこに逃げる? 前方から来る以上、ここは後ろに、つまりはさっき入ってきた入り口の方に逃げるのが常套手段。 よし、回れ右だ。俺は二人のゾンビに背を向けると、ダッシュで逃げ出した。 「ああ、待てぇ、逃げるなあ!」 「卑怯者ー!」 そんな王道的罵声が聞こえるけれども気にしない。俺は真っ直ぐに入り口の方へと向かう。 「させないわよ!」 が、そんな俺を待ち構えていたように、突然現れた新たなゾンビが進行方向を塞いだ。 「げっ。なんでそんな所に!」 「入り口から伸びる左右の通路。塞ぐなら両方に決まっていますとも!」 まあ、言われてみればその通りか。片方だけ塞いだところで、もう片方から逃げるだけだもんな。 なんて、冷静に分析している場合じゃない。このままだとさっきの二人が……。 「わぁ! お手柄よゾンビC!」 「信じていたぞゾンビC!」 「って、やっぱりキター!」 なんて言ってる場合じゃない。まずいな、挟み撃ちの状態だ。どうやって逃げる……。 三十キロの重りのせいか、ゾンビの動きはすこぶる鈍い。多少引きつけてから突っ走れば、強行突破で進めそうだ。 こんな初っ端から引き下がったりしたら、入り口付近であっさり追い詰められそうだし。 ここは初志貫徹。真っ直ぐこの廊下を突き進もう。 「そう、そこで大人しく待っていて下さいね!」 「待っていてくれるなら土下座でもなんでもします!」 「いや、お前ら……」 どうやら余程重りが辛いらしい。少し走っただけで途端に息を切らせ、苦しそうに歩いて来るゾンビな二人。 少しだけかわいそうになった。 「けれど許してくれ……俺にはまだ捕まるわけにはいかない理由がある」 具体的にはその三角巾と重り地獄をゴメンこうむりたい。お腹空きそうだし。 必死にこちらへと向かってくる二人に謝罪しながら、一気に走り出した。当然ながら、その動きにゾンビはついてこれない。 「ああー! 待ってー、ずるいー!」 「君の体に赤い血は流れていないのかあ!」 流れているので逃げるんです。背後から響く声に心の中で答えつつ、俺はひたすら逃げる。 「こうなったら追うわよゾンビB!」 「もちろん! 一人楽をさせてたまるもんか!」 「重いいいいい!」 「無理! これ絶対無理!」 「なんか、本当に哀れに思えてきたな……」 とりあえず、この場は問題なく逃げ切れそうだ。とはいえ、このまま何も考えずに逃げていても埒が明かない。これからどう逃げるか、それを考えてみよう。 ここはとりあえず適当な教室に入ってやり過ごそう。俺はそう決めると後ろにダッシュ。 「逃げたわ、追ってー!」 「追ってるけど重いー!」 どうやら重りの効果は絶大のようだ。俺は角を曲がると、すかさず目の前の教室へと飛び込んだ。 これであとは、このままゾンビが通り過ぎてくれるのを祈るのみ。 静かに、ひたすらやり過ごすだけだ。 ………が 「……誰?」 先客がいたのか、誰かの声が響いた。 「え!?」 慌てて室内を見回すけれど、目が慣れていないせいか、部屋の中は真っ暗で何も見えない。恐らくはカーテンも閉められてるんだろう。 「えっと、ゾンビさんだったりしますか…?」 再び響いたその声に、俺は覚えがあった。記憶の中にあるその声と重ねてみると、やっぱり合致する。彼女のものとしか思えない。 「結衣、か?」 暗闇の向こうで、ハッとする気配がした。 「もしかして、晶くん?」 「ああ、やっぱり結衣か。こんなところに隠れてたんだな」 そこにいるのが知り合いだとわかって、さすがに緊張がほぐれる。始まったと同時に中に入って、そのまま隠れていたんだろう。カーテンを閉めたのもそのためか。 「わたしだけじゃないよ、桜子ちゃんも一緒」 「桜子も?」 「は、はい。一人だと心細かったので…」 「なるほどね。まあこんな暗闇の中じゃあ、女の子一人じゃ怖いだろうしな」 始まった早々仲間と合流できるなんてついてるな。これで上手く連携を取れれば、二時間くらいならなんとかなりそうだ。 「とりえず二人とも無事で何よりだ」 「晶くんこそ」 「こんなに早く出会えるなんて、本当に運がいいですよね私たち」 二人の方も、相手が俺ということで緊張がほぐれたのか声に明るさが感じられた。 ようやく目も慣れてきたらしい。少しずつ周囲が見えるようになっていく。 「よし、それじゃあこれからの方針を話し合い……」 って、あれ? 「ううん、話し合う必要なんてないよ」 「はい。今後の行動はもう決まっているんですから」 「あの、二人ともひょっとして……もう……?」 「頑張って、みんなを捕まえようね」 「晶さんと一緒なら、ゾンビさん役もきっと楽しいです」 美少女の笑顔にこれほどの恐怖を感じたのは、きっと後にも先にもこの時だけだろう。笑顔でにじり寄る二人の前に、俺は抵抗一つ出来なかった。 卑怯な手段だけれども、ここは一度外に出て体制を立て直させてもらおう。 俺は真っ直ぐ入り口へと足を向ける。 「ああ、そっ、そっちはっ」 「か、考え直せーっ」 「申し訳ないけれど、俺はこの道を行かせてもらう!」 自らの決めたその道を貫き、俺は校舎から闇夜の中へと飛び出した。 「失格だな」 パシーン、と両手に持ったネクタイを鳴らしながら氷川が言い切る。 「え? な、なんで……?」 「外部への脱出を認めれば、誰もがその手段を選ぶ。私はそう考えていたのだが、葛木は違うのかね」 「あ」 言われてみれば、その通り。なんでこんなこと気付かなかったんだろう、俺。 「開始から三分で失格。中々の記録を残してくれたじゃないか。私もさすがに脱帽だ」 「い、いや、だって先生、さっきルールの中で言わなかったじゃないですか」 「言われたことしか守れないなど、人間とは言わないだろう。それではプログラムされたことしか行えないロボットにすぎない」 「ああ、なるほど。これはすまなかった、私の考えが至らなかった。葛木、お前はロボットだったのだな。それならば一から十まで説明が必要だったのも仕方ない」 「ならば説明をしてやろう。残念ながらお前は失格になった。さあ、このゾンビセットを受け取るがいい」 氷川の手から、ドサッと投げられる袋。どうやらあれに、さっきの三角巾等が入っているんだろう。 ああ…。これからあれ、身に着けるのか、俺…。 「負け犬の証だ。おおっと、またもやすまないな。ロボットである葛木には、それの付け方もわからないか」 なんていうか、相変わらずだなあ、氷川も。もはやすっかり慣れてしまったそのイヤミ口調に肩をすくめる。 「さあ、額を出しなさい。三角巾を付けられない葛木のために特別に許可をしてやろう」 懐から、大きなゴム判を取り出す氷川。な、なんだあれ? 「『もっと頑張りましょう』がいいか? それとも『大変よくできました』がいいか? いや、ここは素直に『人生をやり直しましょう』でいいかもしれんな」 「な、何作って用意してるんですか、先生!」 「フフフフ……これこそが私の愛だ! 教師の愛を受けなさい、葛木!」 俺の額に印を刻もうと勢いよく迫ってくるその腕を、ひょいっとかわす。 「何?」 あまりに意気込みすぎていた氷川は、その勢いの行き場をなくし、そのまま前方へと綺麗に転んだ。どういう勢いで迫ってきてるんだ、この教師は。 「か、葛木、貴様! 私の愛をかわすとはいい度胸をしているじゃないか!」 「よかろう! ならば戦争だ! 教師と生徒の信念をかけた戦いぃ!」 「いや、あんたの信念ってなんだよ、おいっ」 まるでゾンビのごとく力いっぱいに起き上がる氷川先生。 「ぶっ!」 が、俺はその顔を見て、思い切り噴き出した。 『人生をやり直しましょう』 俺に押すはずだった印が、見事にその額へと刻まれている。 「お前には特別だ! この氷川京一郎謹製『奴隷とおよび下さいご主人様』の印をくれてやろう!!」 「せ、先生、顔! 鏡!」 「何?」 指差しながら笑う俺に、さすがにおかしい、と思ったのか、氷川は懐から携帯用の鏡を取り出すと覗き見た。そして…… 「…………葛木」 「は、はい……」 「これで勝ったと思うなよぉ!!」 全力でトイレの方へと走り去っていった。 「……」 「えーと……」 「ゾンビ役頑張ろう」 よし、攻撃は最大の防御だ。ここは無理やり強行突破。 背中のシールを取られたら負け犬決定、ということは、シールさえ取られなければいいということだ。しっかり背中をガードして走り抜けよう。 俺はスピード緩めることなく、むしろギアを最高速へと上げて突撃する。 「覚悟を決めたのね! いいわ、さあこの胸に飛び込んできてみなさいっ!」 両手を広げて俺を待ち受ける前方のゾンビ。まあ、女の子の胸にはちょっと飛び込んではみたいけど…。 「ごめんなさいっ」 丁重にお断りすると共に、ゾンビの目の前で急ブレーキ。 「へ?」 その動きにゾンビが一瞬気を奪われたところで、今度はいきなり横に跳ぶ。 「ヒィ? ヒィーッ?!」 ゾンビは、俺の動きについてこれず、その場で固まった。その隙を見逃すことなく、俺は全速力でその場を抜ける。 「わわっ。ま、待ってちょっと!」 「全力でお断り申し上げます!」 待たねばならない理由なんて髪の毛一本分の細さもない。全力で走る俺を、重りを取り付けられたゾンビが追えるはずもない。突破は無事成功したようだ。 とはいえ、このまま逃げ続けていても、他からゾンビの援軍が来たりしたらやばい。どうにかやり過ごさないと。 よし、適当な教室に隠れて、うまくやり過ごそう。 俺は急いで角を曲がると、その一番手前にある教室へと飛び込んだ。 「あれ?」 踏み込んだ先、足の裏から伝わる、このぶにゅ、とした変な感触。しかもなんかヌルッとしてる。 想定外のその感触に慌てて入った勢いを殺すこともできず、俺は思い切り足を滑らした。 我ながらビックリするほど見事な一回転。そのまま床の上に転がり落ちる。 「痛っ……な、なんだこれ!? ぬ、ぬるぬるしてる!?」 起き上がろうとするものの、周辺一帯ぬるぬるしていて、上手く立ち上がれない。何か手すりでもないと……。 「晶さん? 晶さんですよね?」 「え? さ、桜子?」 「わぁ、晶さん、ようこそいらっしゃいました〜!」 突然の声に顔を上げてみれば、暗闇の中、目の前に立ち尽くす美少女の姿があった。その笑顔は月明かりをあびて輝き、思わず戦慄すら覚えてしまう。 額についた、見覚えのある三角巾があってなお。 「も、もしかして、ここって……罠?」 恐る恐る尋ねた俺に、桜子はまばゆい笑顔をそのままに、こっくりと頷いた。 「ようこそ、夢のスライム地獄へ〜♪」 「スライムって……この床に敷き詰められてるの、まさか全部!?」 「はい、とってもぬるぬるなスライムがいっぱいで、間違って食べても大丈夫な安心設計です!」 「だ、誰だこんなの仕掛けたのー!?」 と叫んだ瞬間、一人の男の顔が浮かんだ。というかそれしか浮かびようがなかった。 目の前でニコニコと笑っている桜子。この子はなんでこんなにも楽しそうなんだろう。 ほんと、いったい何考えてるんですか……会長……。 「これで晶さんも仲間ですね♪」 その場に立つこともままならないその状況では、相手がいかに桜子といえども何もできず……俺はめでたくゾンビとなった……。 よし、とりあえずは階段の方に向かおう。階段ならいざという時他の階にも逃げられるし。 まだそれほどゾンビの数は増えていないのか、階段へと向かう途中では特に何にも遭遇することなく、無事に到着することが出来た。 「そろそろ他の誰かと合流なり連絡なりしておきたいところだな」 とりあえず、誰かにメール送ってみるか。 そう思いポケットの携帯端末へと手を伸ばしたところで、待ってたよ! とでもいいたげに端末が震え出す。 「メールの着信か。誰からだ?」 携帯を取り出し開いてみると、どうやら結衣からみたいだ。 よかった……無事だったみたいだな。 『ドーナツだよドーナツ! しあわせすぎて死んじゃう!』 「……これ、どう解釈すればいいんだ?」 結衣らしいといえば結衣らしいんだけれども……まあ、この学園内で食い物といえば、やっぱり食堂だよなあ。 「食堂、行ってみるか?」 ドーナツっていうことは、食堂だよなあ。もしかして結衣、あのあとまた食堂に戻ったのか? 大胆な……。 でも結衣がいるっていうことは、今は逆に安全なのかも。行ってみるか? 「よし、食堂方面に行ってみよう」 食堂なら色々隠れられそうな場所もありそうだし、誰かと合流できるかもしれない。 俺だったら絶対真っ先に食堂行くもんな。間違いない、この選択肢は大正解だ。 俺は自らの発想を自画自賛しつつ、周囲に気をつけながら食堂へと向かっていった。 「あー、晶くんだあ!」 「結衣か。よかったまだ無事だったんだな」 ビンゴ。食堂へと向かうその途中で、一番出会える可能性が高い人物と、見事に合流に成功した。 「よかったあ、やっと生きてる人に会えたー」 結衣は思い切り嬉しそうに笑うと、パタパタと俺の方へ駆けてくる。三角巾もないし、その軽快な動きは間違いない。結衣はまだ生きている。 「大変だったんだよ、ここまで来るの。ゾンビの人たちに追いかけられて。生きてる人、全然見つからないし」 「まあ、堂々と廊下歩いてればすぐ見つかるし、みんなどこかに隠れてるだろうからなあ」 「あ、そっか。そうだよね、歩いてたら見つかっちゃうもんね」 「……えっと、まさかとは思うけど、ひょっとして結衣、ずっと廊下歩いてた?」 「うん。時々、誰かいませんかあ、って呼びかけながら」 「……そっか。うん、そうだな、そんな素直な結衣がやっぱり結衣だと思うよ」 「えっと、褒められてる……んだよね?」 「ああ、もちろんだ」 そりゃあ追いかけられるよ、結衣……。ゾンビも仲間増やしたくて必死だろうし。 「やっぱり来たわね!」 そんな微笑ましい再会のシーンを、突如響いた声が中断させた。 「誰だ!?」 俺と結衣は、慌てて振り返る。 「あなたたちだったら、必ず食堂の近くにいると思った」 そこには、ビシィッ、と胸を張り立ち尽くす天音の姿があった。 ……三角巾付きで。 「天音、お前、あれに捕まったのか……」 「あ、天音ちゃん……」 「う、うるさいっ。どう考えたって相手の方が多いんだから仕方ないじゃないっ。多勢に無勢よ!」 暗闇の中でもわかるくらいに、天音の顔が赤くなる。やっぱり恥ずかしいんだろうなあ、あの頭巾。 「にしても、ちょっと早すぎるだろ。始まって、まだ三十分程度しか経ってないぞ?」 「うん。天音ちゃんなら、少しくらい相手が多くてもどうにかしちゃいそうだけど……」 「だ、だって、こんな暗い校舎なんて、その、怖いじゃない……」 俺達の追及に、恥ずかしそうに視線をそらしながら呟く天音。 ……なんとなくわかってしまいました。この件はこれ以上突っ込まない方が天音のためだな。 「と、とりあえず今の私はゾンビなの! 不本意とはいえ、これも学園行事。ルールの通り、全力で捕まえさせてもらうわ!」 ビシッ、と俺達を指差し、言い切る天音。うわー、これはまた開始早々やっかいな奴が敵にまわったなあ。 「ど、どうしよう晶くんっ。これ、ピンチだよね!?」 「否定したいとこだけど、できなさそうだなあ、これは」 いくら重りがあるとはいえ、相手は天音だ。しかも俺達をよく知っているだけに行動も読まれかねない。 教室の方に戻るか、食堂に逃げ込むか。今俺達にできそうなのは二つに一つか。さて、どうする。 「よし、男ならやっぱり食堂だ。俺の勘が食堂に行くべきだとさっきから大声で叫んでいる」 俺は食堂へと向かって前進を始めた。 「けど、食堂っていうだけで何か腹が減っていく気がするのが不思議だよなあ」 無理とは思うけど、食べ物置いてあったりしないかなあ。 「きゃああああ〜〜〜〜〜〜〜っ」 「な、なんだ!?」 突然、遠くの方から響いてきた悲鳴に思わず身構える。 「今の、食堂の方から、だよなぁ……?」 違ってほしい。そんな希望を抱きつつ耳を傾けると、やはり同じ方向から同じ人物のものらしい別の悲鳴が響いた。 「ドーナツうぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜っ」 「いや、いくらなんでもちょっと待て」 今の本当に悲鳴か? 間違いなくこの先……食堂の方から聞こえてきたけれど……。 なんか不安になってきたな。この先に進んで、本当に大丈夫か? さっきの悲鳴、ドーナツって……ドーナツかあ……ドーナツ……。 「大丈夫な気がしてきたぞ、うん」 「大丈夫だと思うんだけども……大丈夫であってほしいんだけれども……うううう。仕方ない、ここは我慢しておこう」 罠だったりして、ソンビの一員にされる方がよっぽど屈辱だもんな。ここは戻ろう。 後ろ髪を痛いほどの力で引っ張られながらも、俺は食堂に背を向けた。 さらば……さらば、ドーナツ!! ゾンビは階段を使っての上下移動は禁止されてるんだよな。とりあえず、すぐ避難できるように階段前で様子を見るか。 俺は新たなゾンビの集団に会わないように注意しながら、階段の方へと向かっていった。 「あ……か、葛木くん!?」 階段へと辿り着くと、俺と同じことを考えていたのか天音の姿が見えた。 「天音も、まだ無事だったみたいだな」 「当然よ。重りもつけている相手に、そんな簡単に捕まらないわ」 天音はこんなの余裕よ、と胸を張ってみせるが、その顔には明らかにホッとしたような安堵が浮かんでいた。 ただでさえ不気味な深夜の校舎。そこに女の子が一人でいたんだから、不安になって当然だろう。 「葛木くんこそ、よく無事だったわね。てっきり入り口付近でいきなり挟み込まれたりしたんじゃないかって思ってたけど」 「あ、あははは……い、いくらなんでもそれはないなあ、うん」 頬を流れるこの汗が、どうか気付かれませんように。 「ふーん……」 き、気付いてないよね。天音、やたらじっと俺の事を見ているけど。 「まあいいわ。今生き残っている。大事なのはここだし」 「お、恐れ入ります……」 「でも、問題なのはこれからよね。いくら広い学園とはいっても、生徒の大半が一度に入っている上に、ゾンビはどんどん増えていく」 「時間が経てば経つほど、隠れてるのも逃げるのも難しくなるな」 「ええ。だからこそ、どう動くのか計画を……」 「あっ、生き残り発見!」 天音の言葉を遮るように、廊下の向こうから数人のゾンビーズが姿を見せた。 「同士候補よ、おいでませっ」 「大丈夫よ、痛くないから。この恥ずかしい三角巾だって、すぐに諦めがつくもん」 「いや、それ完全に負けきってるから」 「わ、悪いけど断固として拒否させていただくわ」 やっぱり異質だよなあ、あの姿。 「なら仕方ないね、うん」 「そうだな、仕方ない」 「そうね、仕方ないわ」 「だったら力ずくだあ!」 重りの重量を必死に堪え、俺達のもとへとダッシュしてくるゾンビーズ。やばい、結構早い! 「逃げましょう、葛木くん!」 「賛成!」 となると、あとはどう逃げるかだが……二人で普通に逃げるんじゃあ追い込まれてしまうかも。 考えられるのは、目の前のエレベーターか、階段、それかバラバラに逃げることで撹乱、ってところか。さて、どれでいこう。 「さすがにちょっとゾンビの数が多い。ここはそれぞれバラバラに逃げて撹乱しよう」 「わ、わかった。それじゃあ、頑張って無事でいてね!」 「ああ、また後で」 俺達は再会を約束するとそれぞれ同時に逃げ出した。天音が階段を上り、俺は廊下を反対方向へと走っていく。 このまま廊下にいたってすぐ見つかる。教室だ。 俺は角を曲がると同時に、一番手前にある教室の中へと飛び込んだ。 廊下と同じ、月明かりに照らされた室内。銀色の照明に浮かび上がる室内には、誰の姿も見当たらない。 俺は廊下から見えないようにしゃがみこむと、音を立てないように注意しながら先に隠れている奴がいないかそっと調べていく。 机の下、教卓裏、掃除用具入れ、その他死角になりそうなすべての場所。そのどこにも人影はない。どうやらここにいるのは俺だけみたいだ。 「……ふう…ようやく一息つけるか…」 俺はホッと安堵すると、廊下側の壁に背を預け座り込む。 さすがに最後までここに隠れている、というわけにはいかないだろうけれど、少しくらいは休んでいてもいいだろう。 いきなりの携帯端末の振動に、思わず声を上げてしまう。俺は慌てて口を塞ぎつつ、端末を取り出した。 どうやら外に声は漏れなかったらしい、誰かがやってくる気配は感じない。 俺は胸を撫で下ろしつつ、端末を開いた。メールが一通届いている。 「………桜子からだ」 『晶さん、ご無事ですか? 私は元気です。今、晶さんの席の所にいます』 よかった。桜子はまだ無事なんだ。 といっても、桜子だからなあ…。 ただでさえ目立つ子だし、放っとくとすぐに捕まりそうな気がする……。 と考えたところで、不意に気がついた。 もしかしてこれは、俺に自分の席まで来てくれって事なのかな? メールのどこにも来てくれ、とは書いていないけれど…。 でも桜子の事だから、必要以上に気を遣って書けなかったなんて事もある。 「やっぱり、女の子だもんな、夜の学校は怖いよな…」 心細そうに俺の席に一人座っている、桜子の姿を想像した。 これは、行ってあげた方がいいんだろうな。多分。 立ち上がろうとして、ふと思いついた。 「……なんで桜子が俺の席知ってるんだ?」 いや、確かに天音から聞いたりしてる可能性はあるから、一概におかしいとも言えないんだけど。 でもこのタイミングで……それはどうなんだ? 「誰かの罠……」 なんらかの手段で桜子を騙ってる奴がいるとしたら……。 「うん、これは罠だ、偽者だ、間違いない、そんな気がする」 教室にはゾンビが罠をしかけて待っているに違いない。俺は携帯端末を閉じると、再びポケットへとしまいこんだ。 とはいえ、こういう手口があることを考えると、一箇所にジッとしてるのも危険だな。情報が入らなさすぎる。 もう少し動いて、状況を把握しておいた方がよさそうだ。 俺は立ち上がると、廊下の様子を窺い、そっと教室を出た。 「……これは、いったいどういうことだ……」 食堂へと足を踏み入れた瞬間、俺はその光景におののいた。 テーブルの上に置かれたトレイ。その中に大量につまれたドーナツの山。そして極めつけは、そこに立てられた小さな看板。 『ドーナツ食べ放題コーナー。肝試しに疲れた皆さん、ご自由にどうぞ』 「こ、これは確かに幸せすぎる……」 これか? これなのか、結衣。お前が俺に知らせようとしたことは。 ああ、だとすれば本当に、よくぞ知らせてくれた……。 俺はこぼれそうになる涙をグッと堪えると、大きく深呼吸。 「いっただきまーーーーーす!!」 そして全力で飛びついた。 「ほんと、ばか」 その瞬間、不意に横から伸びた手が、俺の背中からゼッケンシールをベリッとはがす。 「はい?」 何が起きたのかわからない。 その想定外の状況に、俺はいきなり現れた少女の顔をよく眺める。ドーナツ食べながら。 九条だ。うん、こうしてマジマジと見ると、こいつも結構可愛いんだよなあ……で、頭には変な文字の書かれた三角巾……。 「あの、九条さん? もしかしてあなた……」 「こんなくだらない手に本当に引っかかるとは思わなかった。この…」 「低・能」 九条の攻撃。俺は9999のダメージを受けた。俺はもう立ち直れない。 「もっとも、こんなワナを本当にしかけるワタシも同類」 「さっさとこの三角巾と重りつけろ。狩りの時間だ」 九条の手からヒラヒラと舞い降りる一枚の布。それは紛れもなく……。 「俺、負け犬なんですね……」 あのメールじゃあさすがに動けない。ここはほっとこう。 俺は携帯端末を閉じると、再びポケットへとしまいこんだ。さて、これからどう動くかな……。 「って、またかっ」 続けざまに届いたメールに、俺は慌ててもう一度端末を取り出した。 「しかも結衣からだし…」 またドーナツ関連だったりしたら、その魅力に俺は耐えられるだろうか。 そんな恐怖を抱きつつ、俺はメールを開いた。 『晶くん、置いてくなんてひどい……』 「……。いや、さっき以上にわけわからないし……」 何か怨念めいたものすら感じるんですけど、これ。 「さっきのと合わせて考えると、食堂の方まで来て、ってことなんだろうなあ……」 でも、何か変だな。早くおいでよ、とか、待ってるよ、とかならわかるけど、置いていくってなんだ? 「なんか、誰かが無理に呼び寄せようとしてるって気もするんだけど……」 とはいえ、食べ物を前にして気が動転している、とも考えられる。 なんといっても相手は結衣だ。俺自身、よく動転することがあるから分かる。 食堂に行くべきか、それとも偽者と決め付けて放置するべきか、さてどうしよう。 「よし決めた。放置だ。このメールは偽者。うん、偽者っていったら偽者なんだい」 俺は携帯を閉じると、ポケットの中へとねじ込んだ。 でもまあ、今後もこういうことがあるかもしれないと考えると、もう少し判断するための情報が欲しいな。 「じっとしていても見つかるだけだし、少し様子を窺ってみるか」 俺は周囲の様子を確認しながら、廊下を歩き出した。 「結衣、ここは一旦教室の方へ引き返すぞ。いくら天音でも、あの重りをつけて追い続けるのは無理だろ」 「う、うん、そうだね。天音ちゃんには悪いけど、ここは逃げ切らないと」 「というわけだ、許せ天音!」 「ごめんな、天音ちゃん!」 俺達は同時に手を合わせ謝罪をすると、そのままダッシュでもと来た道を戻り出す。 「ああ、こら待ちなさい!!」 「ぅあ、天音ちゃん、凄い!」 男でもすぐに力尽きるほどの重りをつけながら、全力を振り絞り俺達を追ってくる天音。 ど、どういう体力してるんだあいつ!? 「お、おい無理するな! 夜はまだ長いんだぞ!」 「長いから追っかけてるのよ! こんなとこにこれ以上一人でなんていたくないのぉ!」 えらく個人的な理由を並べ立てつつ、必死の形相で走る天音。そ、そんなに怖いのか? 「結衣! こうなったら階段だ! 全力で逃げるぞ!」 こうなったら、少しでも振り切って、どこかの階段でも上がってしまうしかない。俺達は教室の前を通り抜け… 「猫神家!」 「な、ななななななんだあ!?」 「きゃあきゃあきゃあきゃあ!!」 「いやあ! おかあさーん!!」 いきなり教室から現れた謎のマスクマンに、すっかり取り乱し俺に抱きつく結衣と天音。 いや、通常時なら凄い役得なんだけど、この状況じゃあせっかくの温もりも!! 「うわあ、なんか予想以上の惨劇になっちゃいましたね」 「そっ、その声、ぐみちゃんか!」 「はい。すけひよぐみちゃんです♪」 「わかった、わかったからアップはやめて!」 「わ、わたしなんて食べてもおいしくないですぅ!」 「やだやだ、来ないでえ!」 「お、おい二人とも、いいかげんに気づけ! ぐみちゃんだって!」 「や、やっぱり、食べるならおいしいものが一番かとお!」 「うえええええ〜〜〜ん! もうやだよう〜〜〜」 力いっぱいに抱きつかれ、どうにも動けそうにない。これは天国なのか地獄なのか……。 「学園の男子が見たら、しょーくんさん、とっても羨ましがられると思います!」 「そんな状況とはちょっと違う!」 「でもまあ、これはこれでチャンスですので、いただいちゃいますね」 ぐみちゃんはマスクの下で楽しそうに笑ったようだ。そのまま手を伸ばすと、俺のゼッケンをベリッと剥がす。 「え?」 「ぐみ、実はゾンビだったりしましたー」 そんな楽しそうな声と共に脱いだマスクの下、そこには絶望の三角巾が確かにあった。 「うそぉ……」 「こうなったら、このまま食堂の方に走って振り切ろう」 「そうだね。食堂になら、きっと立場逆転できそうなすっごい食べ物があるよ!」 「……とりあえず賛成してもらえたようで何よりだ。いくぞ!」 「ああ、こら、待ちなさい!」 同時に走り出す俺達を、天音が慌てて追いかけてくる。いくら天音といえども、あの重りをつけたままじゃあ、さすがに限度が…… 「こ、これくらいでえ!」 げ、限度が…… 「こ、こんな所で一人にされるのはやぁぁぁー!」 「限度があるだろ、おい!!」 これ、男でも動きが鈍るほどの重りだろ!? な、なんていう執念! 「あ、天音ちゃん凄い!」 「負けるな! ここまで来たら全力で逃げきれぇ!」 必死な形相で追いかけてくる天音と、必死な形相で逃げる俺達。どこの世界のネコとネズミの競争だこれは! 「結衣、曲がり角だ! あの先には階段があったはず!」 「そっか、ゾンビは階段のぼれないんだもんね!」 俺達は曲がり角へと向かって全力疾走…… 全力疾走にギアを上げようとした瞬間、不気味な発光物が目の前に出現する。それはまるで、空中に浮かぶ大きな瞳のような……。 「ひぐっ!?」 隣で、結衣が思い切り息を呑んだのが聞こえた。それはそのまま結衣の感情を揺さぶり… 「きゃあああああああああ!!」 悲鳴となって解き放たれる。 「ぷひっ!」 そして、その悲鳴に驚いたように、発光物が奇妙な音を漏らした。 「な、なんだ、今の!?」 ま、まさか本当に幽霊とかいうんじゃ……。 その不気味な状況に、俺の思考は完全に止まっていた。まるで何かに魅入られでもしたように、真っ直ぐ発光物へと吸い寄せられていく。 暗闇の中で輝く、巨大な二つの目。まるで別世界から召還された何かが、俺達を呼び寄せようとしている。そんな……。 そんな……。 俺達はそのままの勢いで発光物へと激突すると、思い切り床の上でもんどりうった。 「痛っ……」 「はう〜」 「むきゅぅ……」 「って、九条!?」 俺達と絡まるように、床の上に転がっている物体。それは紛れも無い九条その人だった。 あ、髪留めが光ってる。ひょっとして、さっきの発光物ってこれか? 「なんていうか、幽霊の正体見たり、だなあ」 わかってみればなんということはないその正体に、俺はホッと胸を撫で下ろした。 「ふっふっふっふっふっふ……」 「……えーと、今なんか聞きなれた笑い声がしたような……」 ぎぎぎぎ、と錆びた歯車のような動きで、俺はそっと振り返る。そこには… 「お〜い〜つ〜い〜た〜」 幽霊よりも怖そうな顔をしたゾンビが、ニタァっと笑っていた。 「こ……これはまた、お早いお着きで……」 ………。 ……。 ―――スタートしてから結構な時間が経った気がする。 そろそろ状況も色々と動いてる頃だと思うんだよな。とにかく情報を集めなければ。 「ゾンビ役も最初より増えてるだろうし、気を引き締めていこう」 俺は頬を両手で軽くパン、と叩くと、周囲の気配を探りながら廊下を進んでいく。 「ひいいーっ!」 突然、廊下の先から男子のものらしい悲鳴が響き渡った。 「ゾンビに追われてるのか!?」 助けるべきか、それとも逃げるべきか。そもそもゾンビはどれくらいの数いるのか。 いくつかの予測をもとに八つほどの行動パターンを頭に描く。 いざという時にはすぐに動けるよう警戒しながら、俺は更に先へと進んでいった。 「た、たすけてーっ!!」 「やっぱりゾンビか!?」 「あんたのためじゃないんだからねーっ!!」 「……は?」 「光沢バンザーイ!!」 「……な、なんだあ?」 「くやしい……でも抵抗できないっ」 「イヤアアアアアアーーーーッ」 こ、この先でいったい何が起こってるっていうんだ!? 何がどうなってるのかもうさっぱり、な状況に、さすがに足が止まる。 どうやらもう、みんな滅茶苦茶な状況のようだ。 「情報収集とか、無理だろこれ……」 ある意味この学園のイベントに相応しいともいえるこの状況…。 さて、俺はここからどうするべきだろう。 少なくとも、今のままこの廊下を進むのはあまりに危険な気がする。色々な意味で。 とりあえず、適当な階段から上の階に上るか、念のため近くの教室に隠れて様子を窺うべきか。さあ、どうする。 「さあ、どこだドーナツ!!」 あの香ばしさと甘さとサクッとした食感とを思いっきり想像しながら、俺は食堂へと突入した。 他と同じ、どこまでも暗い室内は月明かりによって照らされ、わずかな視界を保っている。 「誰もいない……?」 キョロキョロと注意深く室内の様子を窺う。人影らしきものはどこにも見えない。 「おかしいな、さっきの悲鳴は誰の……」 あの悲鳴で駆けつけたゾンビから慌てて逃げ出した……にしては、ここに来る途中そんな気配も物音もなかったしなあ。 俺は改めて食堂内を見回してみる。俺をゾンビか何かと思って、隠れてる可能性も高い。 というか、そもそもドーナツはどこだ。 「って、なんだ、あれ?」 食堂のど真ん中、白いシーツを被った物体が、いかにも怪しいです、と自己主張をしている。 さっきは人影ばかりを探してたから見逃したけど、こうしてちゃんと見てみれば、ここまで怪しい物体もない。 「もしかして、あの下にドーナツが……」 いや、待て。待つんだ俺。ああ見えて実はその下にゾンビが隠れている、という可能性も……。 けど、あの下にドーナツがあるというのなら、いかないわけにはいかぬっ。どうする……どうする俺! 「……そうだな。あれがドーナツだとするなら、もっと香ばしい匂いが充満しててもおかしくない。あれはさすがに怪しすぎる」 ここは素直に戻るとしよう。俺は自分のカンに従って、食堂を後にした。 そうだ、おいしいものを食べるには、まずは勇気だ。 多くの勇者がその勇気を示したからこそ、今あんなにも多くの食材が世界にはあるんだ。 この程度のことで勇気を示せなかったら、それこそ世界の食べ物に申し訳が立たない。 「俺は近づく! そしてあのシーツを取って、香ばしい菓子を食べる! おなかすいたし!」 俺は正面からシーツへと近づくと、静かにそれをめくり上げた。 「……」 「……」 「……えーと……シーツの下には香ばしい九条……?」 「ちっ…」 そこには、床にしゃがみこんだ九条の姿があった。 「お前、そこでいったい何を……」 見たところ、まだゾンビにもなってないみたいだ。罠、ということはないだろう。 「これなら誰も近づいてこないし、見つからない」 「いや、確かに一見しただけじゃあ見つからないだろうけれどさあ……」 でも、逆の意味でバレバレじゃないかあ? これは。 それを素直に言うべきか言わざるべきか、どちらが親切だろうと頭の中で戦っていると、九条が冷たい目でこちらを見た。 「……こんな肝試しの最中に、いかにもオバケが潜んでいるような物体に近づこうとするバカはいない」 ……俺は近づいた上に、めくりあげてしまったバカって事ですか…。 そのとき、廊下の方で足音らしきものが響くのが聞こえた。 「誰か来た」 「うっ、まずい!」 その瞬間、俺も九条と一緒に、そのシーツの中へと潜り込んでいた。 「……なんで葛木まで入る」 「こんないきなりで、他の隠れ場所なんて……」 「…ちっ」 勢いよく開いたドアの音に、俺と九条は慌てて口を塞いだ。こうなってしまったら仕方ない。不安だらけではあるけれど、なんとかここで耐えるとしよう。 明らかに誰かが食堂へと入ってきた。静まりかえった部屋の中に、小さな足音がやたらと大きく響く。 「………」 「………」 暗い食堂に響く足音は、まるで心臓に突き立つ氷の刃みたいに冷たく尖って聞こえた。 足音はそのまま遠ざかることもなく、ゆっくりと響き続ける。まるで食堂内を、巡回しているようだ。いや、実際にしているのかもしれない。 それとも、単純に隠れられる場所を探しているのか。 相手が生き残りなのか、ゾンビなのかもわからない。 「……中々出て行かないな……」 「予想外。このままだと、この足音を追って他の誰かが来るかも」 確かにそれはまずい。暗闇は、妙に音を響かせる。 だれかが近くを通りかかれば聞こえるかもしれないし、歩き回っているのが生き残りなら、ゾンビ役がその姿を見つけるかもしれない。 ここは動く時かもしれない。俺と九条、二人でいきなり驚かせば、仮に相手がゾンビ役だったとしてもさすがに逃げ出すだろう。 とはいえ、それで悲鳴でも上げられたらやっぱり厄介だ。動くべきか動かざるべきか、どっちを選ぶべきだろう。 ラッキーだ! 丁度エレベーターが来ている。ここは一気に上の階に行ってしまおう。 「天音、エレベーターだ、行くぞ!」 「わかった!」 必死に歯を食いしばり、わらわらとやってくるゾンビーズ。オレ達はその追撃をかわし、エレベーターの中へと飛び込んだ。 「わたし達を一人にしないでえええっ!」 懸命に手を伸ばすゾンビ達。けれどその手は届くことなく、非情にも俺達を乗せたエレベーターは扉を閉じた。 「いや、三人だったし」 「突っ込むところ、そこなんだ……」 冷静な天音のツッコミと共に、エレベータがゆっくりと上に登っていく。 ゾンビは階段の使用は禁止のはず。これで一時的にでもゾンビを撒くことができそうだ。 「な、なに!?」 そう天音が叫ぶが早いか… 唐突に電気が消えた。同時にエレベーターもその動きを止める。 「停電か?」 暗闇の中、誰かの手が俺の服を引っ張るのが感じられる。 「天音?」 「い、一時的な停電よね、これ? ま、まままさか本当に何か出たとか……」 服を引っ張っているその手から、小さな震えが伝わってくる。こういうところはやっぱり女の子だな…。 ここは、俺がしっかりしないと。 「すぐ戻るよ。エレベーター止めたら、ゾンビの連中だって他の階にいけなくなるんだ」 「今頃は大慌てで、先生あたりが電源見に行ってるよ」 「そ、そうよね。うん、このままで困るの私たちだけじゃあ……」 ずりっ……ずりっ……。 不意に、何かが這いずっているような音が聞こえた。 「な、なにっ!? 今の音!?」 今にも叫び出しそうな様子で、天音が俺にしがみついてくる。俺はそんな天音を安心させるようにしっかりと抱きしめると、耳に神経を集中する。 ずりっ……ずりっ……ずりっ……。 「な、なななな、何か、いる……っ」 静かに、けれど確実に聞こえる不気味な音。目も少しずつだが慣れつつある。俺は狭い箱の中を見回すけれど、動いているものは何もない。 ずりっ……ずりっ……ずりっ……ずりっ……。 「あ、あ、あ、あ、あ、葛木、くん……」 「大丈夫、大丈夫だ……」 今にも心臓が飛び出しそうなくらいの緊張の中、俺は自分に天音の前で無様な姿を見せるつもりか、と言い聞かせ、必死に耐える。 普段はちょっと今一だけれど、こういう時くらいは頼れるところを見せてもいいと思うんだ。なんたって、俺は男の子なんだし。 ずりっ……。 響いていた音が、急に止まった。 俺にしがみつく天音の手に力がこもる。普段なら天音の体温と柔らかさに何か感じるところだけれど、さすがに今はそれもない。 俺は天音をギュッと抱きしめながら、何が起きても対応できるよう、周囲に神経を張り巡らせた。 …………。 ……。 …。 さあ、いつ来るっ。 「猫神家っ!」 「いやあ、こないで! おかーさぁぁーん!!」 突然上から現れた不気味なマスクマン。こ、これはさすがに心臓に悪すぎる! 「あれ? なんか、予想を遙かに上回る状況に」 「ま、まさかぐみちゃん!?」 「はい、すけひよぐみちゃんです。上の通気口より参上しましたっ」 「ストップ! ストーップ! お願いだから、そのマスク外してっ」 「お気に召しませんですか? かなりお気に入りなんですけど」 「そんなん気に入るの、ぐみちゃんだけだよ……」 「そんなことありませんっ。偉大なる会長は、さきほども涙を流す程に喜んで下さいましたっ」 「しかも、感服し、自ら捕まって下さるほどの潔さ! ああ、さすがは会長です!」 あー、なんかすっごくその映像が頭に浮かんだ。あの会長、びびってあっさり捕まったな。 「って、あれ? 自ら捕まった?」 「はい、ぐみは本日ゾンビ役でーす」 「……ごめん、それってつまり俺達は……」 「はいっ。ゾンビのお仲間二人追加でーす」 こ、こんなんありですかあっ!? 「くるなこないで、やぁぁあああああー!!」 すっかり錯乱しきった天音の悲鳴を聞きながら、俺はただ天井に空いた通気口を呆然と眺めていた。 「階段はゾンビも使えないし、途中で襲われることが無いだけに一番安全だ」 「そうね、それで近くの教室にでも隠れて様子をみましょう」 俺達は頷き合うと、真っ直ぐに階段を駆け上る。下からゾンビが卑怯だぞだの、ずるいだの言ってる声が聞こえたが関係ない。これこそが人間の知恵だ。 二階の廊下へと辿り着くと、そのまま休むことなく目の前の教室へと飛び込んだ。 「階段は使えないといっても、エレベーターがあるのよね……」 「ああ。追ってこないとは限らない。しばらくここに隠れていよう」 「大声出したりしないでよ。気付かれちゃうから」 「もちろん。わかってるよ」 俺は苦笑すると、教室内を改めて調べようと振り返った。 「ふええぇえぇん……」 「ななななにっ!?」 「あ、あ! ………えっと!」 「いや、なんでもない。悪い、気のせいだった」 「ま……まったくもう。注意した矢先にそれなんだから」 「いや、本当に悪い」 呆れたように言って、空いている席に適当に座る天音。 そうか、天音にはすずのの姿は見えないんだった。気をつけよう。 「(すずの……?)」 俺は自然を装いつつすずののもとへと行くと、ヒソヒソ声で尋ねた。 「ふえぁぁ…晶さん……、よかったぁ、怖かった…ですう…」 「(なんですずのがこんな所で泣いてるんだ……?)」 「結衣さんが寮に帰ってこないので……心配して探しに来たんです…うぅ」 「そしたら、校舎で肝試しをしてるって聞いたので…」 「(え…で、校舎の中に結衣を探しにきて……怖くて泣いてたの?)」 「だってだって、こんな暗い学校の中で一人ぼっちで…なんか変な人もたくさん歩いてて…」 「(暗い学校って……いや、それ幽霊の言うセリフか)」 「幽霊でも、暗いの怖いです。一人ぼっち寂しいです…」 いや、こういう子だっていうのはわかってるんだけど、やっぱり幽霊らしくないよなあ、ほんと。 「でも、晶さんと天音さんが来てくれたおかげで勇気が出た気がします、元気も出ましたっ」 むん、と力コブを作ってみせるすずの。残念だけれどまったくコブなんて見当たらない。 「(まあ、俺もおかげで暗い気分が吹き飛んだけど)」 「(とりあえず、ゾンビ役から逃げてきたところなんだ。追いかけてきてるかもしれないから、しばらくここで隠れてよう)」 さすがに疲れた。俺はすずのに簡単に状況を説明すると、手短な椅子にそっと座る。 「あの……それじゃあ、私、ちょっと様子を見てきます」 「(え、いやいいよ。ドア開ける音とか響いたらやばいし)」 「大丈夫です……! 私、幽霊ですから…今度こそきっとお役にたってみせます…っ!」 「(待てっ。その今度こそってのが死亡フラグ並にヤバイ!)」 慌てて引きとめようとする俺だが、遅かった。すずのはいつも通りに元気に教室内を直進し… 思いっきり椅子に激突した。 「―――っ?!」 「あいたたた……うぅ……ぶつかっちゃいました…」 「な、何!? 今いきなり椅子が……ひ、ひぃ……」 「いやぁぁああーーー!!」 「きゃああーーー!!」 「こ、こら二人ともっ」 すずのの倒した椅子に悲鳴をあげる天音と、その天音の悲鳴に驚いて叫ぶすずの。二人の声は高らかに響き渡った。 い、今のはさすがにやばいんじゃあ……俺は天音の手を掴むと、慌ててドアへと走る。そして廊下へと飛び出した。 「お疲れ様でーす」 「お二人様ごあんなーい」 「お待ちしておりましたー」 ワラワラと集まってくるゾンビの集団。教室はもう、完全に包囲されている。動きが鈍いだとかそんなの関係なく、逃げられる隙はなさそうだ。 「あー……あぁ」 「ご、ごめんなさい……」 真っ赤になってうつむく天音。教室の中にいるすずのも、同じく真っ赤になってうつむいていた。 まあ、仕方ないか……。 「よし、待ってろよ桜子。今行ってやるからな」 ここからなら、俺達の教室はそんなに遠くない。俺は廊下の気配を窺い、大丈夫そうなのを確認すると教室を後にした。 それからほどなくして、俺は無事に自分の教室へと辿り着く。今のところ、ゾンビの数はまだそれほど増えてないみたいだな。 よし、それじゃあお姫様と再会といこうか。 俺は扉に手をかけると、静かに開けた。 「待ってたわ、晶さん」 俺は、自分がいかにバカであるかを魂に刻み込んだ。 「………かいちょう……」 月の明かりによって銀色に輝く教室内。実に似合いすぎると思うゾンビマークの三角巾をつけた会長の姿がそこにはあった。 「ぷっ! いやー、まさか本当に来ちゃうとは! ぷくくくくく。くっくっくっく…! もう笑うしかないよぉ!」 「………」 「期待した? 期待しちゃった? 桜子ちゃんがこっそり会いたがってるのかも、俺頼られてるのかもーなんて考えちゃった? あわよくば、とか思っちゃった?」 「いやしょーくん、君はかわいいな! 本当にかわいいよ〜! あはははは〜!」 「月しか見てない真っ暗な教室で二人きり。そこで見詰め合う男と女! 何か素敵なイベントが起こっちゃうかも! フラグたっちゃうかもー!」 「くっくっくっく、かわいそうだけどたたなかったよフラグ! 残念でした! あっはっはっはは!」 「………………」 なんだろう、この絶望感は。なんだろう、この敗北感は。 なんか、今なら天音の気持ちがすっごくよくわかる。 この人黙らせたら、国民栄誉賞とかもらえたりしないだろうか。 「やー、おめでとう、本気でおめでとうしょーくん! 桜子ちゃんとの蜜月を妄想しあえる仲間を、ぜひとも一緒に増やそうじゃないかぁ」 もはや指先一本動かす気力も俺にはなかった。目の前のアホ面を眺めながら、意識が薄れていくのをただ感じ続ける。 ああ、もうなんてバカだったんだ、俺……。穴とかはいってひきこもりたい……。 「このまま長時間居座られると厄介だ。ここは協力して追い返すべきだと思うけど、どう?」 動くべきだ。俺はそう判断すると九条に協力を求める。 九条は少し考えると… 「確かに厄介。わかった」 そう言って頷いてくれた。 足音は確実に近づいてくる。色々と調べながらなのか遅いものの、向かってくる気配は鮮明だ。 やっぱり、相手はゾンビなのかな。 俺と九条は声を押し殺しつつジッと待つ。少しでも早く追い出したいところだけれど、ここで焦ったりすればより悪くもなりかねない。 「………」 「………」 ここはガマンだ。ジッとガマン。 隣では九条も少し焦れているのが伝わってくるが、さすがにわかっているらしい。なんとか耐えてくれていた。 だがその自分との戦いもようやく終わる。うろついていた気配が、俺達に気付いたのか明らかに方向を変えた。訝しみながらも近づいてくる待望の気配。 くるぞ。俺は九条に目で合図。九条も黙って頷いた。 静かに、けれど確実に狭まる距離。向こうも、まさかこのシーツの中に本当に人間が、それも二人もいるとは思っていまい。 そして気配が、ついに俺達の前に辿り着く。 今だ!! 俺と九条は、同時にシーツをはね除けながら立ち上がった。 完璧なタイミング。これは間違いなく決まる。これでびびらないはずがない。 「バァーッ!」 「ぴゃあぁっ……!」 「……」 ほうらびびったぁっ! ただし俺達が! 目の前に立つ、リアルゾンビ。精巧に作られた……マ、マスクだよね、これ……を被り立ち塞がる、悪夢のようなその姿。 痩せこけた頬……腐って落ちた眼球……剥がれた唇に抜け落ちた歯……ただれた皮膚に露出した筋肉……そのすべてが、作り物とは思えないほどにリアルで……。 本物の腐臭を、実際に感じさせてしまうほどに緻密で……。 「ぴぁ、ぴゃ、ぴゃぴゃ……」 九条はわけのわからない言葉を発してびびりきり、俺はその場で硬直していた。 な、な、なんだこれ!? こんな小道具ありっ!? い、いや、まさか本物っ!? あの腐れ会長、生徒を実験材料にしてこんなものまで……。 嫌な汗が背中を伝わり、頭の中がただわけわからずにグルグルと回り続ける。 「せ、生存者発見ーっ!」 が、そんな俺達の心中も無視して、リアルゾンビは普通に声をあげた。 恐らくは向こうも驚いていたのだろう。だが精神的ダメージの大きさが違いすぎる。 俺達よりも遙かに早く回復したゾンビは動くに動けない俺達から、ゼッケンシールを奪い取った。 「ぴゃうぅぅぅ……」 室内に響く九条の呪文を耳に、俺は心の中でただ叫ぶ。 よ、よかった。やっぱり偽物ですよね、これ。ほんっとうに、よかった……。 いや、ここはガマンだ。すぐに近づいてこないということは、このシーツに気付いてないのかもしれない。 このまま出て行ってもらえるなら、それが一番だ。 俺は、このままやり過ごそう、と目で合図。 それを理解してくれたらしく、九条はコクリと頷いた。 一枚のシーツの中で、ジッとうずくまる俺と九条。足音はまだ出ていかない。狭い空間に、俺達のわずかな呼吸音だけが響いていた。 二人の体温で暖められた空間に、その呼吸音が少し荒くなっていくのが分かる。俺は大丈夫か、と九条に視線を向け……そこで気付いた。 「………」 ……この体勢、パンツ丸見え。 九条は気付いていないのか、足を開いたままでうずくまり続けている。 さすがにこれは申し訳ない。俺は気付かれないようにそっと視線を外した。 ま、まあ、少しくらいチラチラと見てしまうのは、男の子ということで理解してもらえれば幸いです。 で、できれば早く出て行ってくれないかなあ、入ってきた誰かさん。 こんなこと思ってるってバレたら、俺ビームで焼き殺されそうだし…。 男としての欲望を抑えつつ、息を押し殺す俺。やがてそんな祈りが通じたのか、足音が不意に止まった。そして扉が静かに開き……再び閉じる。 まだだ、焦るな。引き返してくる可能性も充分にある。もう少しだけ辛抱しろ、俺っ。 もういい? 九条が目で尋ねてくるが、あと少しだけと返すと室内の気配を探る。どうやら出てったフリをして食堂内に残っているというのはなさそうだ。 それから三分ほど待ってみたものの、戻ってくる様子はない。 「どうやらもう大丈夫みたいだな」 俺が言葉を発したのに安心したのか、さすがの九条も安堵の息を漏らす。 「ふぅ……見つからなかった」 「ああ。こんないかにもなシーツがよく見つからなかったもんだ。怪しすぎて逆に引いたかな」 「計算どおり」 「計算って……」 そう答えながら九条へと視線を送り、その場所で、つい視線を止めてしまう。 「……どこ見てる」 俺の視線の先に気付いたようだ。 九条の目が、一瞬で鋭くなったのが分かった。 「ええっと……いや、これはそのわざとというわけでは決してなくて……」 「死ね」 「わぁ! ご、ごめんなさい!! ビームは許して下さい!」 「ならでてけ」 「二人も入ってたら形でわかるっ」 「わ、わかったっ。わかりましたから、蹴るな、すね蹴るなって!」 しゃがみながらも容赦なくゲシゲシと繰り出される蹴りに、俺はシーツの中から転がり出た。そのまますねを撫でつつ立ち上がる」 とりあえず移動するとして、これからどうするか……まあ、やっぱり教室棟の方に戻るのが正解かな。 「それじゃあな。お互い頑張って生き残ろう」 ほんの一時とはいえ、あのシーツの中で共に耐えた仲だ。戦友として無事を祈ろう。 ……シーツの中で……。 ……。 「何を思い出した?」 「し、失礼しましたー!」 俺は逃げるように、食堂から廊下へと飛び出していった。 そうだな。教室に隠れて、少し様子を見るか。 さすがに緊張が限界に達してるのか、みんな混乱し始めてるみたいだし。 俺も変な悲鳴のせいでちょっと混乱してるけど……。 一番近くの教室のドアを少し開けると、中の様子を探る。 うん、特に誰かがいるとかいうことはなさそうだ。 俺は素早く教室の中へと入ると、廊下側の壁に背をつけ、座り込んだ。 「ふう………」 「なんか、結構まずいよなあ。なんか、一気にゾンビが増えそうな気配だ」 あれだけ大騒ぎしていてゾンビが集まってこないはずがない。 むしろ隠れてることに嫌気が差して、ゾンビになることを選んだんじゃないかって気もする。 こうなると、相手が本当に生き残ってるかも怪しいから、気軽に端末で連絡するわけにもいかないしなあ。 「って、誰か気軽に連絡してきた!」 慌てて端末を取り出し、相手を確認する。 送信者は……『八重野蛍』。 「……えっ? 八重野先輩?」 この状況で八重野先輩から連絡? どういうことだ? あの先輩がそう簡単にゾンビに捕まるとも思えない……というか、むしろどうやったら捕まえられるのか教えてほしいぞ。 あの水鉄砲バトルロイヤルでの人外にしか思えない活躍ぶり。あれを止めるなんて不可能だろ常識的に考えて。 そうなると、また会長が何か企んでるんじゃないだろうなあ……。 俺は警戒しつつ、書かれている内容を表示した。 『今どこにいる?』 「……簡潔すぎるだろこれ」 まあ、八重野先輩らしいといえばらしいけれど。 とはいえ、質問の意図がまったく読めない。 何をどう返せばいいんだ? これは。 八重野先輩が今の俺に求めることなんて何かあるか? その逆はあっても、俺が求められることなんて絶対ないだろ。 「となると、考えられるのは会長の企み……いや、待て待て。あの八重野先輩を会長如きが利用できるとは考えにくい」 「むしろ、ここで八重野先輩と合流できれば俺にとってかなり得なんじゃあ……」 返事を返すか、返さないか。勝負の分かれ目な気がしてきた。 どうする……。 この階はもう諦めよう。なんかもう不穏すぎる。 このまま二階に上って隠れてた方がよさそうだ。 俺は一番近くにある階段へと向かうと、そのまま上がった。 「よい……っしょ……」 「よ……い……しょ……っ」 「……えーと……」 二階に上がった瞬間、俺は言葉を失った。 目の前を、懸命に歩く桜子。額には『ゾ』のマーク。 完全に、重りの重量に負けている。いや、大の男が走れなくなるくらいだし、桜子ならこうなるよなあ。 「う……んしょっ……」 「うぅ……やっぱり、重いですこれ……」 助けてあげたいところだけど、ゾンビになってるんだよな、桜子。 やっぱり桜子じゃあ逃げ切れなかったか。 運動はもちろんだけど、素直だから隠れてるっていうのもダメだろうしなあ…。 ここは申し訳ないけれど、今のうちにこっそり先へ進ませてもらおう。 「で、でも頑張らないと……」 「あ、あうぅ……う、動けない……」 だ、だめだこりゃ。 いくらなんでもこれをほっておくことは俺には出来そうにありません。 とりあえず、ゼッケンさえとられなければ大丈夫だろう。 これだけ動きが鈍かったら、多分大丈夫だと思うし。 桜子もそんなだまし討ちみたいな真似をする子じゃないし。 「桜……」 その場にへなへなと座り込んでしまった桜子に声をかけようとした瞬間… バタンッ! と大きな音を立てて、横の教室の扉が開いた。 「え?」 「お困りですかあ!?」 「きゃあああっ!!」 な、なんだあ!? 教室の中から突然現れた黄色いマスクの物体に、思わず凍り付く俺と桜子。女生徒らしきそれは、教室からぴょこんと出ると、桜子のもとへと歩いていく。 「あ、あの……」 「お困りでしたらお手伝いしましょうか。桜子さん」 「その声……ぐみちゃん?」 「はい。ゾンビ担当早河恵、すけひよぐみで登場です」 ハキハキとしたそのしゃべりは間違いない、ぐみちゃんだ。にしてもなんという登場を……そもそもあれ、似てるかもしれないけどゾンビじゃないだろ。 「いかがでしょう! 参加者の皆さんを恐怖のどん底に突き落とせとの会長命令を受け、ぐみ、頑張ってみました!」 ……あのバ会長、相変わらずいらん命令を……。 「あ、あの、すごく驚いて心臓止まるかと思ってしまったんですけれど……そのマスクは……」 その質問を受けた瞬間、マスクの下のぐみちゃんの目が、キラッと輝いたように見えた。 「よくぞ聞いて下さいましたっ!」 訂正。間違いなく輝いていた。 「これぞ日本が誇る探偵小説の巨匠、秋姫大先生の屈指の大名作! 『猫神家の一族』に登場した『すけひよ』のマスクです!」 「そもそも『猫神家の一族』とは、昭和二十年代のとある財界の大物一族内で発生する陰惨な連続殺人事件を描いた物語で」 「もう何度も映像化されているという、まさに日本ミステリーの誇る金字塔!」 「特に湖から逆さに突き出された両足の映し出されるシーンは、一度見た人ならば誰しもが忘れられないという衝撃のシーンでした!」 「ですがこのシーン、原作の小説とは少々違うのですけれど、映像の衝撃が強すぎて、知らない方が多かったりするんですよね。残念です」 「あ、私もその原作読んだことがありますよ」 「おおおおお、本当ですか桜子さん!!」 「はい。三つの家宝を元にした見立て殺人、ですよね、確か」 「普通の殺人ではなく、見立て殺人としたその理由がまた秀逸なのですよ!」 ……なんていうか、ぐみちゃん輝いてるなあ、ほんと。 ああいうミステリー、好きなんだ…。 「ですよね、しょーくんさんっ!」 「え?、あ、はいっ」 しまった、気付かれてたか。いやまあ、こんな廊下で隠れもせずに聞いていれば普通当然なんだけど。 「晶さんもいらっしゃったんですね。よろしければご一緒にお話いかがですか」 「いや、あの……」 にこにこと癒し満載の輝かしい笑顔で俺を見る桜子。 「はい、ご一緒させていただきます……」 ダメです、すみません。さすがにこれ、拒否できそうにないです。 「では、しょーくんさんも語りましょう! 偉大なる日本本格ミステリーの行く末についてを!」 「え? いやちょっと待った、それ話大きくなってるから、絶対!」 「そんなことはありません! 本格ミステリーの崩壊は、日本の文学の崩壊です! 正しき日本を残すため、ぐみたちは今語らなければならないのです!」 「確かに、新しいものを求めるだけでは、それは奇をてらっただけであり、よいものとは言えませんね」 「そうです! だからこそミステリー界にはノックスの十戒やヴァン・ダインの二十則という戒めがあるわけです!」 徐々に熱くなっていく二人の会話。なんというかついていけないんだけれど、こういう場合俺はどうすればいいんだろう。 二人の間に挟まれて、逃げることも出来ずに立ち尽くす俺。そもそもなんでここにいるんだろう。ああそういえば、お腹すいてきたなあ……。 「あ、すみません…今気が付いたんですけど、晶さん、ゼッケンシールついてるんですね」 「うん、まあ、なんとか……」 「取っちゃっていいですか?」 「はい、どうぞ……」 「はい。ペリッと」 「……」 「あれ?」 えーっと、つまり俺は今、生存の証であるゼッケンを取られたということで? それってつまり、俺は生存していないということだから……。 「晶さん、これで私たちの仲間入りです♪」 「ようこそです、しょーくんさんっ」 「うそっ!?」 「さあ、偉大なる日本ミステリーの行く末について、今後も語り合いましょう!」 「はい。とっても楽しい時間です」 会心の笑顔を浮かべ、更なる講義を続ける二人。そんな二人の会話を聞きつつ、俺は素直に認めた。 「俺ってバカだったんだ……」 「騙されるな俺。これはきっと会長の罠だ。俺をこの場所からおびき出そうとしているに違いない!」 俺は携帯端末を閉じると、そのままポケットへとしまいこんだ。 さて、それじゃあ会長の思惑を破るためにも、このままここに隠れているとしようかな。 俺はそう決めると、廊下側の壁に座り込んだ。 ここならドアを開けられないかぎりは廊下からは見えないし、少し休んでいられそうだ。 「にしても、残り時間、あとどれくらいなんだろう」 さっきついでに時間も見ておけばよかったなあ。俺はまた携帯端末を取り出すとフタを開いた。 「きゃああああああ!!」 「な、なんだ!?」 いきなり響いた悲鳴に、俺は思わず身構える。 「た、助けてくれー!」 「い、いや……こないで……ひいいっ」 「……何が起こってるんだ、おい?」 「やだ、だめ、お願い……いやぁ……」 急に増え始めて、それも冗談とは思えない悲鳴の数々に、俺は端末の液晶を見もせずにしまうと、そっと中腰になった。 ずちゃ……ずちゃ……。 「……なんだ、この音……」 悲鳴に紛れて聞こえる、妙な水音。何かを引きずっているような気味の悪い音に俺はそっと窓から廊下を覗き込む。 ダメだ。角度的に遠くの方は見えない。 ずちゃ……ずちゃ……。 ずちゃ……ずちゃ……ずちゃ……ずちゃ……。 水音は、少しずつ大きくなっていく。確実にこちらへと近づいて来ているみたいだ。 「……やばい」 このままここにいたら、何かやばい気がする。今のうちに逃げてしまうのが勝ちかもしれない。 「出よう」 思い立ったが吉日。俺は立ち上がると素早くドアへと向かった。そして一気に開く。 「とりあえず別の階にでも逃げて……」 「……ふしゅるるるるるるるる……」 そこには、身の毛もよだつ本物のゾンビがいた。 「な、なななななあああ!?」 「生存者、発見……」 その信じがたい光景に、俺は思考と体が完全に分離していた。逃げろ、と念じはするのだけれど、体はそれに応えてくれない。 ゆっくりと伸びるゾンビの手が、そっと俺の背中のゼッケンへと向かっていく。 「……う、あ……」 それでも体は動かない。動こうとしてくれない。 そして俺は、ゾンビに、なった……。 「そうだな。あの八重野先輩を利用しての罠なんて、会長なんかにできるはずがない」 ここは素直に信じて返事を返そう。 「一階の教室に隠れています、と。これでいいか」 さっきの廊下の状況を考えると、ここに来てようやくこの肝試しも動き始めたみたいだ。 これからは、より慎重に行動した方がよさそうだ。 「と、八重野先輩からだ。返信早いな」 俺は携帯端末を開くと、さっそくメールを確認した。 「……八重野先輩、自分の教室にいるんだな」 ……3-Bの教室で待っている、ね。それじゃあ、行ってみるか。 こっそりとドアを開け、周囲の状況を確認。 相変わらず妙な悲鳴が流れてはいるみたいだけれど、こっちの方までゾンビは来ていないみたいだ。 「よし、行こう」 俺は廊下に飛び出すと、目的の教室へと向かって走り出した。 少しずつゾンビの動きも活発化してきているらしい。 にわかに騒ぎ始めている学園内をどうにか逃げ切り、俺は教室へと辿り着く。 「……八重野先輩、いますか?」 内部の様子を窺いながら、わずかにドアを開けてみた。中の様子はほかと変わらない。 暗闇の中、月明かりが室内を浮かび上がらせている。 「葛木か」 そして聞こえたその声は、紛れもない八重野先輩のものだった。俺は安堵に胸を撫で下ろしつつ、教室の中へと滑り込む。 「よかった。八重野先輩もまだ無事だったんですね」 「少しくらい数が多いとはいえ、あの動きではな。逃げるだけなら簡単だ」 他の人が言うのとでは説得力がまるで違う八重野先輩のセリフ。さすがだなあ。 「でも、いきなりメールがきたんで驚きました。どうかしたんですか?」 「いや、別に大したことではないのだがな。普段は奏龍の邪魔も多い。二人で話をするにはいい機会だと思った」 「話、ですか?」 二人で、というところに少し違和感があった。話すだけなら別にいつでも問題ないだろうに。 「率直に聞くが、葛木、前の学校のことを覚えているか?」 「前のって、ここに転校する前のですか? そりゃあまあ、まだそんなに時間が経ったわけでもないですし」 「どんな学校だった」 「どんなって、あの、急にどうかしたんですか?」 「すまんが答えてもらいたい」 普段とは少し様子が違う八重野先輩。妙に真剣なその顔に、思わず頷いてしまう。 「別に、これといった特徴のない普通の学校でしたけど……ここみたいに特別な才能持った人が集まるわけでも、設備があるわけでもないですし」 「一応偏差値的には平均よりは少し高かったですけど……ああ、それでも比較的お祭り騒ぎには理解があったんで、文化祭なんかは盛り上がりましたよ」 「まあ……ここのお祭り騒ぎには全然負けますけど」 「自宅からは近かったのか?」 「自転車で10分くらいです。近かったですよ。近いのと、あと食堂が安いのでその学校選んだんです」 「………ふむ、そうか」 「あの、前の学校が何か……」 「……お前自身はどうだ? この学園に来るまでに何か変わった事やおかしな事はなかったか?」 「えっ……おかしな、ですか……うーん、そうですねえ……」 「正直、この学校に来てからの方が何もかもおかしいんで、それ以上なんて思いもつかないですね」 二つの生徒会に、あの生徒会長。今日みたいなイベントもおかしいし、生徒達も一筋縄でいかない連中が揃ってる。 今のこれだって、生徒会の企画なんだもんなあ。嘘みたいだけど…。 ここでの生活を覚えてしまうと、今までの日常なんてなあ……。 「どんなささいな事でもいい、何かないのか」 「う〜〜ん…、変わった事って言えば……あー。親父が銃で撃たれて死にかけた事があるくらいかな」 「……銃?」 「俺の親父、刑事なんで。職業的には不思議でないのかもしれないですけど…」 「……父親の名前は?」 「茂樹です。葛木茂樹」 「そうか、それは大変だったな」 「いやー、まあ今はピンピンしてますよ、……まあ、助かったからこそこんな風に話せるんですが」 八重野先輩は、俺を品定めするように目を細めると、やがて小さく肩をすくめた。 「そうか……どうやら嘘はついていなさそうだな」 「いやあの、嘘なんかついてどうするんですか」 「そうだな、すまん。少し確認しておきたいことがあったんでな。だがよくわかった」 「はあ……俺の方はよくわかりませんが、とりあえず納得してもらえたんなら……」 何を確認するというんだろう……聞いてみたいと思ったけれど、どうにもそういう空気じゃない。 八重野先輩の妙に真剣な顔が、それを引き止める。 まあ、わかってもらえたらしいし別にいい、のかな……? 「いや、こういったことでもやるからには俺も負ける気はないからな。そのための情報が欲しい」 「そういった情報をもらえそうで生き残っていそうな者、と考えれば葛木が上位にきた。そういうわけだ」 「ああ、なるほど。確かに情報は欲しいですからね」 「葛木はずっと一階にいたのか?」 「はい、さっきまでは全体的に静かでしたけれど、ここにきて急に動き始めたみたいですよ。やたらと悲鳴が聞こえるようになってきました」 「悲鳴? 妙だな。奏龍が考えていたものは、ただゾンビ役との鬼ごっこ的なものでしかないはずだが……」 八重野先輩はしばし思案すると、なるほど、と小さく頷いた。 「どうやら、奏龍以外の人間が動いているな」 「会長以外って、なんのためにです?」 「恐らくはあのバカが途中で面倒くさくなって誰かに押し付けたんだろう。その結果、必要以上に頑張られた」 「あー、なんというか妙に納得しました。あの会長ならありそうですね」 「ああ。そうなると今までのようにはいかなくなるな。奏龍の考えなら、仕掛けるものもたかが知れてる。だが担当が代わったとなれば話は別だ」 この学園には、やたらと何かに特化した人材がいる。こういうお化け屋敷的な何かに長けた人間が担当になったとすれば、確かにまずいかも。 「俺は一度奏龍と合流する。葛木、お前はどうする。一緒に来るか?」 八重野先輩はドアへと向かうと、途中で振り向き俺に尋ねた。 このまま八重野先輩と一緒というのはすごい安心感があるんだけど、問題はもう一人の方だな。 プラスマイナスでマイナスの方が大きい気がする……。 とはいえ、このまま一人で行くというのも不安だし、どうしよう。 「それじゃあすいません、俺もご一緒させて下さい」 「わかった。なら行くぞ」 俺はスタスタと歩いていく八重野先輩の後ろについて、廊下へと出て行った。 いや、こうして後ろにいるだけで安心感があるな。さすが八重野先輩だ。 「た〜す〜け〜て〜!」 いや、こうしてその姿を見ただけで、不安感でいっぱいになるな。さすが会長だ。 廊下へと出た瞬間、その目の前を情けない顔で駆け抜けていく会長。 この人、本当に外さない人だ。マイナス方向に。 追われる人がいるのなら、当然追う人がいる。俺と八重野先輩はそっと反対方向へ視線を送ると… 「他には目をくれるな! 会長だ、会長を狙え!」 「俺らの恨み、思いしれ!」 「絶対に逃がすなあ!」 わらわらと重りにも負けずに追いかけてくる無数のゾンビーズ。 「……さすが生徒会長だな。実に人望がある」 明らかに呆れた溜息をつきつつ呟く八重野先輩。 あの人を支えることの重圧が実によくわかるシーンだ。 「とはいえ、ここでこうしていても始まらん。いくぞ葛木」 「は、はいっ」 会長を追って走り出す先輩に従い、俺も全力で廊下を走る。 ゾンビからふらふら逃げている会長に追いつくのは、それほど難しいことじゃなかった。 「まったく、お前は何をやっているんだ」 「やー、蛍も迫り来るゾンビから逃げてるの〜?」 「お前と一緒にするな。お前が逃げているから仕方なく付き添っているだけだ。で、何をした。あのゾンビの数、普通じゃあるまい」 「いや、重り身につけて必死に歩いてたからさあ、転んだら起き上がれるのかなあって疑問が湧いて後ろから」 「蹴飛ばしたんですか……」 「やあしょーくん、君もいたのか。いやあ、なかなか派手にすっ転んでくれてさあ、あまりの愉快さに、あはははは! 思い出しただけで笑える!」 「この人、本気でダメだ……」 話をしているだけでこっちがおかしくなりそうだ。 神様、なんでこんな人を生徒会長に産ませてしまったんですか。 「こいつの人としての最低さを今更話しても仕方ない。被害者への引渡しはイベント終了後にするとして、とにかく今は逃げるぞ」 「うわ、それあんまりじゃない〜? むしろイベント終わった後、俺を守ってくれよぉ」 「たった今この場で、俺が被害者の思いを背負ってもいいんだぞ……」 「う、嘘です嘘! だから襟首持ち上げるのやめてー!」 今すぐにでも引渡したくなる気持ちを必死に堪えて俺達は走っていた。 が、前方から別のゾンビ集団が姿を見せる。 「会長発見しました!」 「よーし、至急他のゾンビにも報告だ!」 「ふっふっふっふ。絶対に捕まえてやる!」 「会長、あんたどれだけのゾンビにケンカ売った!」 「だってだって、一人だけ転ばして他の人を差別するなんてよくないじゃないか! 俺はみんなに平等に愛を与えたんだよっ!」 「それ、一人転ばしたら意外に面白くって止まらなかっただけだろ」 「あはは。いや、でも女の子のゾンビには手は出さなかったよ! えらいでしょ! 優しいでしょ俺!」 「出してたら最悪だよ!」 「まあ、女子の見ている前ですっ転ばせてやったけどね! ジタバタかっこわるかったよー! あっはっはっは!」 「……頭痛がしてくる会話だな…」 後ろからゾンビ、前からもゾンビ。 なら逃げるのは横しかない。俺達は途中の分かれ道を絶妙のコーナリングで曲がると進路を変えた。 「でもどうします? このままだと完全包囲されますよ」 「ああ、ほら、あそこ。あそこ逃げよう! あの教室の中!」 俺の質問に答えるように、会長が目の前の教室を指差す。 「確かに、この状況じゃあどこかに身を隠すしかないな」 「ですね。会長の意見というところが心底不本意ですが、ここは従いましょう」 俺達は頷き合うと教室の前でストップ。 真っ暗な教室のドアを開け、そのまま中に飛び込んだ。 「えっ!?」 想像とは明らかに違った床の感触。妙にヌルッとしたその感触に、俺は思い切り足を取られた。 「な、なんだこれ? ぬるぬるしてる?」 窓から差し込む月明かりの中よく目を凝らせば、そこは見渡すかぎり一面に、不気味な何かが広がっている。 な、なんだこれ? 「大丈夫か、葛木。手を貸せ」 立とうにも、妙にツルツル滑って動けない俺を助けようと、八重野先輩が廊下から手を伸ばしてくれる。 「す、すいません」 その救いの手を、俺はありがたく握り締めた。瞬間… 「やあぁぁーっ!」 その八重野先輩の背中を、会長が力の限りに押した。 「な、何っ!?」 「会長!?」 さすがの八重野先輩も、その予想外の出来事にまったく反応できなかった。引っ張る俺の力もあって、そのまま教室へと足を踏み入れる。 そして、俺と二人、思い切り足を滑らせて一回転した。 「くっ…」 「く……くっくっくっく……」 「ひゃっはっはっはっはー! ざまぁー! スライムまみれでやんのー!!」 ス、スライム!? この床一面のやつ、スライムか!? 「奏龍! どういうつもりだ!」 「あっはっはっはっは! 今こそ長年の屈辱を晴らすときだぁ!」 「やー、情けない姿だねえ、スライムの海の中、動きの取れないほたるちゃん! おっとお、これはスクープじゃないか!」 「いえーーーい! 写真撮っちゃえ! 新聞部が高く買ってくれそうだしー!」 「貴様! 最初からわかっていてこの教室に!」 「そうですよーだ! なんといってもこの教室、俺の発案だもーん!」 「くっ、道理で随分とレベルの低い仕掛けと思ったが、納得いったぞ!」 「おーっと、いいのかなあ、そんなこと言ってえ。そのレベルの低い仕掛けに引っかかったほ・た・る・ちゃ・ん♪」 「スライムまみれで這いつくばって、いい気味だ! ざまーみろだ! 爽快だ! さいこーの気分だぁー! 日頃の恨みが吹っ飛んじゃったよー! あはははははっ!」 こ、この人は本当に……。 「日頃の恨みって、俺関係ないじゃないか!」 「いやー、しょーくんはついで」 「ついでかよ!」 「だってー、しょーくんったらホイホイ蛍とついて来るんだもん、だから一緒にスライムにまみれたいのかなーって」 「なんだその理論! 後で泣いても絶対に助けてやらないからな!」 「後で泣いてもぉ? むしろ君達は、俺に黙っていて下さいって土下座する方じゃないのかなぁ」 「こーんな罠に引っかかっちゃった君達の姿、ばらまかれちゃったら本気で恥ずかしいもんねー。あーーはっはっはっはっはっはーーー!」 「お前もな」 「え?」 いつの間にやら真後ろに立っていたゾンビの皆さん。そのキックをまともに受けて、会長がウェルカムスライム地獄。 「な、ななななななーーーーーー!?」 「バカが。調子に乗りすぎて今の状況をすっかり忘れていたようだな」 「少しでも悪いと思ってくれていたなら、教えてあげてもよかったんですけどね。ゾンビの皆さんが囲んでること」 「……」 「蛍! しょーくん! ここはみんなの力を集めてなんとか脱出の手を!」 「ふざけるな……」 「死なばもろともって言葉、知ってます……?」 「あ、あはははははははは……」 俺と八重野先輩は、バカイチョウの体をしっかりと押さえ込むと… 「どうぞ」 ゾンビの皆さんへと頷いてみせた。 この際、捕まるのは仕方ないよな。うん。 「いいいいいいやあああああああっ!!」 この悲鳴が聞けるんだもん。 「いえ、俺は俺で別に行動します。会長と一緒の方が疲れそうですし」 「なるほど、まあその通りだろうな」 「わかった。頑張れよ」 八重野先輩はそう言うと、教室を一人出て行った。 「まあ、あの人なら会長だろうがなんだろうが、どんなハンデがあってもなんとかしそうだよな」 むしろ、あの人にゾンビになられたら逃げられる自信が無い。 逆になんとしてでも生き延びてほしいものだ。 「残り時間、どれくらいだろう……」 携帯を取り出し時間を見る。スタートしてからおよそ一時間。どうにか半分は生き残れたみたいだ。 とはいえ、勝負はこれから。やっと前半戦が終わった、というところか。 「よし。それじゃあ気合を入れなおして、後半戦頑張るとするかっ」 俺は両頬を軽く叩くと、疲れ始めていた自分に気合を入れる。 ここまできたらなんとしてでも生き残ってやるぞ。 残り一時間生き残れば、豪華賞品が待っているんだ。 「さて、気合も入れなおしたところで、これからどうしようかなあ」 窓から廊下の様子を窺ってみる。 ゾンビの姿も特に見えず、落ち着いているようにも思えるけれど……。 いやでも、さっきの奇妙な悲鳴の数々。 どう考えても落ち着いてはないか。 「この暗さじゃ精神的にも結構まいるし、みんな疲れが溜まってる頃だよなあ……」 そっと、少しだけドアを開いてみる。 さっきは八重野先輩と話してたから閉めてたけど、一人ならこっちの声が漏れる心配はしないでいい。 閉め切った部屋じゃあ聞きにくい声も、これで確認できるはず。 「いやああああああっ!!」 「ええっ!?」 突然聞こえた悲鳴に、思わず声を上げてしまう。 慌てて両手で口を塞ぐと、俺は奥に引っ込み身を隠した。 な、なんか今の、妙にマジっぽくなかったか? 「や、やめろっ! く、来るなあああぁぁっ!」 まただ。おかしい。さっきまで聞こえてたのは、どこかふざけた混乱してる感じの声だったのに。 「……いつの間にやら、雰囲気が変わってる……」 遠くの方から聞こえてくる悲鳴に耳を傾ける。 これ、ただ騒いでるんじゃないな。本気で怖がってるぞ……。 この闇の向こうで、本当に何が起こってるんだ……? 廊下の奥に広がる深遠の世界。普段歩きなれているはずの場所が、今はとてつもなく不気味に感じられる。 ずちゃ……ずちゃ……。 「っ!」 なんだ、今の音……。 ずちゃ……ずちゃ……。 濡れた何かを引きずっているみたいな気味悪い音。それが遠くの方から聞こえてくる。まるで、本物のゾンビが足を引きずっているような……。 背筋を、冷たい汗が伝っていくのが感じられた。 ヤバイ。なんだかわからないけど、これはヤバイ……。 今すぐ何か行動しないと、取り返しのつかない事態になるような気がする……。 「うわあっ!」 突然震え出した携帯端末に、思わず叫ぶ。俺はまた慌てて口を塞ぐと、その場に縮こまった。 「……び、びびった……本気でびびった……」 なんてタイミングで来るんだ、このメールは……。 普段の数倍の速さで動く心臓を落ち着けさせつつ、俺はそっと端末を取り出した。 『送信者:皇天音』 「天音からか。さすがにまだ無事だったみたいだな」 『葛木くんはまだ生きてる? 色々賑やかになってきたみたいだから、今のうちに合流しませんか? 音楽室で待ってるから』 音楽室か。確かにあそこなら防音もしっかりしてるし、校舎の端にあるから見つかりにくいな。盲点だった。 うん、合流した方がよさそうだ。俺は廊下の様子を窺うと、音楽室へと向かって教室を飛び出した。 『送信者:水無瀬桜子』 「桜子からか。桜子、結構鈍いから心配だったんだけど、なんとか逃げ延びてたみたいだな」 『晶さん、お元気ですか。私は元気です』 ……いや、桜子らしいんだけどさあ……。 『私は今、教室に隠れてます。もしよかったら合流してもらえないでしょうか? 一人でいるのはちょっと心細くて……』 教室っていうことは、桜子の教室だよな。一人でいるのか……。 「そうだな、一人でいるよりは二人の方が心強いし。合流しよう」 廊下は……大丈夫だ。俺は桜子の教室に向かって飛び出していった。 『送信者:稲羽結衣』 「結衣からか。なんだかんだいっても要領いいからなあ、あいつ。上手く逃げ延びてたか」 『晶くん? お腹すいたよ〜。寂しいよ〜。今どこにいるの〜?』 ……なんか、凄い結衣らしいメールだ。 でも、確かに腹減ったなあ……一人でいるから余計に響く。 話し相手がいれば少し紛れるかもれないし、ここは合流するか。 俺は自分のいる教室をメールで送ると、結衣が来るのを待つことにした。 『送信者:皇奏龍』 「……会長からだ……」 『はいは〜い、しょーくん生きてるか〜い』 「死んだことにします」 俺は最後まで読みきることもなく、問答無用で端末を閉じた。 「って、またメールか……って、会長から!?」 『冷たいなあ、ちゃんと読んでよぉ』 ……あの人、俺の様子をどこかから監視してるんじゃないだろうな。 「あー、くそ。わかりました読みますよ。まったく……」 『というわけで、俺は今一人なんだよー。ゲーム機の充電も切れちゃってとっても寂しいのー。合流しようよー』 「だが断る、と。はい、返信完了」 「まさか、とは思うけれど……ああ、やっぱり会長からだ! あの人、絶対監視してるだろう!」 『合流しようよー。してくんないと泣いちゃうぞー! えーんえーん、ほら泣いたー。会議室で待ってるからね!』 ……これ多分、合流するまでずっと送られてくるんだろうなあ……。 「はあ……仕方ない、不安無限大だけれど、合流するかぁ……」 俺は、恐らくゾンビよりも重いであろう足を引きずりながら、この教室を後にした。 あれ? そういえば、会長、八重野先輩と合流してたんじゃなかったのか? なんで一人なんだろう……。 「うわ、なんか同時にいくつか届いてる。誰から……げ、会長からもだ……」 『しょーくーん。俺でーす。今とっても寂しくてぐすんぐすーん。会議室で待ってるよー』 ……メール一つでここまで人をイライラさせられるっていうのも、立派な才能だよなあ、本当に。 さて、他のは誰からだ? 「天音からか。さすが生き残ってたか」 『葛木くん、まだ生きてる? 大丈夫だとは思うけど、もしゾンビになってたらこの先は読まないように。信用してるからね』 『私は今、音楽室に隠れてるわ。もしよかったら合流しない?』 天音は音楽室にいるのか。なるほど、あそこなら防音もしっかりしてるし、端の方にあるから見つかりにくいな。 「えーと、次は桜子、か。一番心配だったんだけど、なんとか生き残ってたんだな」 『晶さん、こんばんわ。まだ無事でいらっしゃいますか? 私はなんとか無事でいます』 『もしよろしければ合流しませんか? 今教室に隠れているんですけれど、一人でいるのは寂しいです。お待ちしていますね』 桜子は教室か。これってやっぱり、桜子の教室だよな。 一人きりかあ、確かに不安になるよな。特に桜子だし……行ってやった方がいいのかもなあ。 「お、結衣からだ。さすがに無事だったか」 『お腹すいたよ〜。晶く〜ん、死んじゃうよ〜』 ……いきなりこれかよ。くそう、見なければよかった。俺も腹が減ってきたぞ……。 『一人でいると、空腹が辛いです。もしよかったら合流しようよ。今どこにいます?』 なるほど、確かに二人でいれば少しは空腹も紛れるかもしれないな。メールを送ってみてもいいかもしれない。 合流かあ。まあ、ずっとここに一人で隠れてるってわけにもいかないだろうし、いいかもしれないな。 問題は、誰と合流するかだけれど……。 「と…とりあえず、別の階に移動するか」 ゾンビの上下移動はエレベーターのみと限られている。 となれば、他の階への移動はそれほど頻繁じゃないはずだ。 なら、この階のゾンビが多いということは、他の階はそれほどでもない可能性が高い。 ま、まあ、各階とも大半の生徒がゾンビ化して溢れてるという可能性も低くないけど……そ、その時はその時だよな、うん。 今は行動する時だ。このままここにいたら何かやばいって俺の勘が告げている。 俺は自分にそう言い聞かせると、静かに教室を後にした。 「とりあえず、大丈夫そうだな」 曲がり角から薄暗い前方の様子を確認しつつ、俺は呟いた。 隠れられそうな場所が多いせいか、他のみんなは中央付近に集まっているみたいだ。 校舎の端の方は、まだ比較的人も少ないみたいだな。少しだけ安心しつつ角を曲がる。 と同時、目の前の教室のドアが、ゆっくりと開き始めるのが目に入った。 俺は慌てて壁に張り付くと、その様子を見る。 あの開き方からして、ゾンビではなさそうだ。廊下の様子を探り、ゾンビがいないかを調べている。そんなところだろう。 教室内の人物は、やがて安心したのか大きくドアを開けると中から姿を見せた。 「茉百合さん!」 「えっ!?」 さすがに、この状況でいきなり声をかけたのはまずかったか、茉百合さんの体がびくっ、と震えた。声もなんだかおかしかったような。 「あ、晶、くん……」 何かまずいものを見た、そんな顔をしながら、茉百合さんが一歩下がる。俺をゾンビと思っているのかもしれない。 「あ、俺まだ生きてますから。ほら、ゾンビのアレ、してませんし」 「そ、そう、ね……」 茉百合さんは改めて見直し笑いかけてくれたものの、それでもどこか歯切れの悪い返事を返す。 なんだろう、茉百合さんにしては珍しいな。 「さすが、茉百合さんもまだ無事だったみたいですね」 「え、ええ。ゾンビは基本的に動きが遅いし、上下の動きが限られてるから、それを利用して……」 うーん、本当にさすがだな。ちゃんと最初からゾンビの特性を考えて動いてたのか。俺なんて、いつもその場で考えてたのに。 「晶くんこそ……無事だったのね。よかったわ。ゾンビの数、結構増えてきてるでしょう」 「みたいですね。中央の方からは、ちょっと本気っぽい悲鳴が聞こえてきてましたよ」 その言葉に、茉百合さんが小さく震えたように見えた。 なんだろう。茉百合さん、妙にそわそわしてるようにも見えるけど……。 「あの、晶くんはどうしてここに……?」 「いえ、ただ中央の方がめちゃくちゃだったんで、こっちに逃げてきただけです。茉百合さんに会ったのは偶然ですね」 「そ、そう。偶然なのね……」 なんだろう。やっぱり何かおかしいぞ、茉百合さん。まさかとは思うけど、こういった暗闇とか肝試しとか、苦手だったり……。 「おおっ、こんな所にいたのか」 「っ!」 絶妙のタイミングで現れたゾンビに、茉百合さんは、やっぱりらしからぬ動揺を見せた。 そして、その場で固まってしまう。 ……ああ、そうなんだ。茉百合さん、気丈に振る舞ってるけど多分こういった肝試しとか、苦手なんだな。 普段がなんでもおまかせの弱点の無いスーパー美少女なだけに、こういうところはむしろ可愛らしいぞ。 「茉百合さん、逃げますよ!」 「え!? あ、はいっ」 とりあえず、このままじゃあ捕まってしまう。その細い手を取って走り出す俺。 うわ、茉百合さんの手、すべすべだ……。 「待て、こらぁ!」 そんな俺達を慌ててゾンビが追いかけだす。 けれど、ただでさえ重り分のハンデがある。先に走り出した俺達に、ついてこれるわけがない。ゾンビはすぐに見えなくなった。 俺はその先の分かれ道まで茉百合さんを引っ張ると、周囲の様子を探る。 「……もう大丈夫、みたいですね」 「……」 「茉百合さん?」 「晶くん、結構強引なのね……」 「え……ああ、す、すみませんっ。緊急だったからっ」 その頬を赤らめながら俺を見る茉百合さんに、俺は慌てて手を離した。 あんまり触り心地がいいもんだから、ずっと触ってたい衝動に駆られてたけど。 茉百合さんは、自由になった手を抱きしめるように胸元に持って行くと、居心地が悪そうに視線をそらせた。 「茉百合さんは、これからどうするんです?」 「え、私…?」 「はい。もしよかったら俺と一緒に……」 「あの、八重野くんか、桜子を捜そうと思っていたのよ」 「ああ、なるほど。八重野先輩となら心強いし、桜子はちょっと心配ですしねえ」 「あ、俺、さっきまで八重野先輩と一緒にいましたよ。合流できるように手伝いましょうか?」 「え……ううん。いいわよ、悪いもの。晶くんは晶くんでちゃんと生き残らないと……」 「状況が状況ですし、二人の方が何かと協力出来るかもじゃないですか。それに俺、一応男ですし、強行突破とか、力仕事は役に立つかと」 「そうね……でも、こういう舞台では、一人の方が生き残れる確率は高いわよ、きっと」 なんだろう。やっぱり茉百合さんにしては歯切れが悪い。 なんか、一人になりたがってるようにも見えるんだけど……。 「よーし、やっと見つけたぞ!」 「って、さっきのゾンビか!? し、しつこいっ」 まだ諦めずに追ってたのか。なんて執念だ。 「晶くん、逃げましょう」 「あ、はい。どっちに……」 「私は右に行くから、晶くんは左に」 「それじゃあ、頑張ってね。あとでまた会いましょう」 「え、ま、茉百合さん!?」 俺の返事を聞きもせず、走り出してしまう茉百合さん。 確かに、こういう執念深い相手には撹乱が有効だとは思うけど。 「なんか、ていよく追い払われたような気がするんだけど……気のせい、なのかなあ……」 「さては二手に分かれる気だな! そうはいかんぞっ!」 「って、迷わず俺に向かってくるのかよ!」 そりゃまあ、ああなれば普通は立ち止まってる人間追ってきますよね! 俺は茉百合さんのことを一旦頭から振り払うと、慌てて逃げ出した。ああいう執念深い奴は逃げ続けても追ってくる。一度どこかに隠れてやり過ごそう。 角を素早く曲がると目の前の教室のドアを少しだけ開ける。そして、その反対側の教室へと飛び込んだ。 そのまま廊下側の壁へと張り付き、体を縮こませる。 「どこだ……どこに逃げた……」 やがて廊下の方からそんな声が聞こえてきた。重い足取りでゆっくりと廊下を歩く音が響く。 「ここかあっ!?」 そして狙い通り、わずかに開いていたドアに気付いてくれたようだ。多分教室の中を覗き込んでいるんだろう。 「くそっ、違ったか。ええい、時間を無駄にした!」 やがてゾンビは吐き捨てるようにそう言うと、また重い足取りで廊下を進んでいく。 「……なんとか撒いた、かな……」 俺は安堵の息を吐くと、そのまま床に足を投げ出した。 俺は周囲の様子を窺いながら扉を開けると、音楽室へと入っていった。 「……天音、いるか?」 「あ、葛木くん。来てくれたんだ」 「俺がここに辿り着く間に捕まってたらどうしようと思ってたんだけど、よかった、まだ無事だったみたいだな」 「当たり前じゃない。そんな簡単に捕まってたまるもんですか。あの生徒会長の仕組んだイベントで」 真剣な顔をして言う天音。いやあ、わかってはいたけど、やっぱり嫌いなんだなあ、会長のこと。 「でも、安心していいと思うわよ。ここ、本当に死角みたいだから」 天音はお墨付き、と言うと、そっとカーテンを開けた。 その先に見える校庭は静まりかえり、今この校舎の中で行われていることを夢にも思っていないようだ。 そしてこの音楽室も、しっかりとした防音設備のせいで外部の音はまるで聞こえてこない。まるでこの校庭みたいに、校舎の中から切り離されているみたいだ。 「教室の外は結構めちゃくちゃになってるはずなんだけどな」 「この教室、一番奥だものね。見つかることを考えれば、奥ってあんまり行きたくないし」 「そうだよな……。俺も考えなかった」 真っ先にそれを思いつき実行した天音に、俺は尊敬の眼差しを送る。天音は誇らしげに笑うと、それを受け止めた。 「でも、こうも安全だとちょっと退屈かも」 「いや、それってすっごい贅沢なこと言ってないか?」 「それはわかってるんだけど、でもちょっと手持ち無沙汰じゃない? やっぱり」 天音はおもちゃを求める子供のように室内をキョロキョロと見回すと、ピアノでそれを止めた。そのまま楽しそうな足取りで向かっていく。 「お、おい、いいのか?」 「どうせ葛木くんにはバレてるしね」 くすりと笑いながら椅子に座ると、鍵盤の蓋を開いた。鍵盤の一つをそっと叩き、その音を確かめる。 「よし」 そして小さく気合いを入れると、そっと両手を乗せた。 静かに、ゆっくりと、天音の指から曲が紡がれていく。以前聞いたものと同じ曲。 余程弾き慣れているんだろう。その指は少しも迷うことなく、淀みもなく、定められた場所を定められた通りに叩き、そして跳ねる。 それは普段の天音同様に真っ直ぐで、それでいて繊細な指使い。天音自身を思わせる曲が、音楽室いっぱいに響き渡る。 そんな音色に浸りながら、俺はふと思ったことを口にした。 「この間の曲だ」 「うん、練習にはいつもこれを弾いてるから」 「練習じゃない曲は?」 「え……」 天音の手が止まる。驚いたように俺へと振り返ると、少しだけ考えて、また鍵盤へと向き直った。 何かを決意したように、大きく深呼吸。 そして、指が動き始める。さっきまでとはまるで違う、たどたどしい手つき。決して上手いとはいえない旋律。 だけど、綺麗だなって思った。心に直接届く、そんな曲だった。 恥ずかしいことを言わせてもらえれば、まるでこの月明かりを、そのまま音にしたような……ただ耳にしているだけで、自然と天音の姿が浮かぶ。そんな曲だった。 多分、それほど弾いたことのある曲じゃないんだろう。何度も引っかかり、何度も間違えて。それでも丁寧に演奏されるその曲に、俺は聴き惚れていた。 いつの間にやら、微笑んでいた。 「……凄く、綺麗な曲だな」 「え……」 思ったままの感想が、ついこぼれる。そんな俺の言葉に、天音は驚くと同時に指を止めた。 「あ、ごめん。邪魔した?」 謝る俺の顔を見つめたままで、天音は小さく首を振る。 「違う……違うの。むしろね、その逆」 そして顔を隠すみたいに、慌てて俺に背を向けた。そのまま、上を向く。 「今まで、この曲を弾いて褒められたこと……無かったから……」 わずかに震える声が聞こえてくる。下を向けば、今にも涙がこぼれてしまう。そんな声が。 「ごめんね……なんでもないの…………」 嬉しそうなその言葉と共に、天音はその指を目元へと持って行く。それが何を意味したのか、背中越しに見ていても分かった。 今の曲は、天音にとって、きっととても大切な曲なんだろう。 それがなんの曲なのかはわからないけれど、練習すらもほとんどできていないけど、それでも大切な曲。 「うん、決めた。褒めてくれる人がいるんだものね、もっとちゃんと練習する。ちゃんと練習して、胸を張って聴いてもらえるようになってみせるから……」 「その時は、もう一度聴いてくれる?」 くるり、と振り向き、尋ねてくる天音。 「ああ、うん」 その笑顔を見て、俺は本心からそう答えた。 天音が、この笑顔を浮かべながら響かせる音色が、曲が、俺の中で聴こえたような気がしたから。 そしてその曲は、今までに聴いた事がないほどに澄んで、すばらしいものだったから。 「なら、ここでおしまい。こんな中途半端じゃなくて、本当のこの曲を聴いてもらわないといけないから」 その時の様子を思い浮かべているのか、天音はどこか楽しげにピアノの蓋を閉じた。 「……ありがと」 「え…? 何で?」 「いいの。ありがとう」 天音の本心かららしいその言葉は、自然と俺の胸へと吸い込まれた。 何のお礼なのかもわからないのに、自然と嬉しくなってしまう。 外部からの音もない、人もこない。 窓から入り込む銀色の月明かり。 まるで誘われたように、天音が立ち上がる。 すると……。 瞬間、電話のベルが大きく響き渡った。 「え? なんだこれ?」 慌てて周囲を見回すけれど、ここは音楽室。当然ながら、どこにも電話なんて見当たらない。 「葛木くん、どうかしたの?」 「いや、電話の音が、どこで鳴ってるんだろうって……」 「電話?」 天音は、不思議そうな顔で首を傾げた。 「聞こえてるだろ。さっきからずっと鳴ってるこの音……」 そんな俺の言葉に、けれど天音は意味がわからないとばかりに首を傾げたままだった。 「もしかして、聞こえてない……?」 天音は、コクンと頷いた。 「そんな……だってこんなにリアルに……っ!!」 呟くように言いながら振り返ると、そこに電話機があった。 間違いない、今響いてる音は、この電話機が鳴らしている。 けれど、なんだこの電話機。さっきまでは間違いなく無かったはずなのに……。 「な、なあ、天音。この電話機なんだけど、さっきまで無かったよな?」 心の奥底から湧き上がってくる不気味な感情を必死に堪え、俺は天音に尋ねた。 「で……電話って、どれ……?」 言葉が、なくなった。 俺の目の前に間違いなく存在し、そして鳴り続ける電話機。 けれど、それを見ることも聞くこともできない天音。 天音が冗談を言っているようには見えない。間違いなく本気で言っている。けれど、俺の目には確かに……。 「まさか、電話の幽霊……?」 出てみるべきだろうか。いやまて、よく考えろ。 映画なんかでこういうシーン、出るなり視るなりした人間は間違いなく死んでいる。 けれども、出てみなければ何も解決しない。俺は恐る恐る、その電話機へと手を伸ばした。 が、その瞬間、時間切れとばかりに音がやむ。 そしてそれと同時に、電話機の姿がゆっくりと消えていった。 「か、葛木くん……大丈夫? 凄い汗だけど……」 「……なんだったんだ、今の……」 試しに電話機があったところに触れようとしてみるが、やっぱり何もない。俺はその空間をジッと見つめながら、小さく唾を飲み込んだ。 その時……。 「え?」 「なんだ?」 不意に流れた雑音に、俺達は同時に振り返る。 「スピーカーから聞こえたみたいだけど……校内放送?」 「いや、この状況で校内放送なんて……」 スピーカーの奥から響いた、いかにも恐ろしげなしゃがれ声に、天音が悲鳴を上げつつしゃがみ込む。 「い、今の、ゾンビの声か!?」 『まだじゃ、まだ足りぬうぅ。まだこの校舎には、生き残りが大勢おるっ』 『探せ! そして捕まえよ! 生き残りどもを探し出し、生け贄として捧げるのじゃあああぁっ!!』 「いやああぁぁっ!」 目を強くつぶり、耳まで塞ぐ天音。まさか放送まで使ってくるとは予想外だった。 『雉の鳴く夜は恐ろしい〜〜〜〜〜!!』 「い、いやいや待て待て! この放送が一番恐ろしいから!」 ただでさえ暗い校内。時間も、開始してからすでに一時間半ほどが過ぎている。 隠れている生徒達も、さすがに精神的に疲れている頃だろう。 そこに唐突に今の放送。普段の状況ならまだしも、結構な効果はありそうだ。一人でいることを怖がって飛び出す人も多そうだ。 「大丈夫か、天音。ただの脅しだよ、しっかりしろ」 少しは安心させてやらないと。 「いや、いやだよう……お化け、お化け来る……」 あ、だめだ。すごく脅しに屈してる。 しゃがみこんだままで、ぶるぶると震えている天音。元々こういうの、苦手なんだろうなあ。 「まてよ、ひょっとしてさっきの電話も……」 校舎内にいる人間を怖がらせることが目的だとすれば、原理はわからないけれど、さっきの電話もこのイベント用に誰かが仕組んだのかもしれない。 こんな校内放送まで使うんだ。あってもおかしくないな。 「みんなのとこ、行きたい……」 今にも泣き出しそうな声で言う天音。 まったく、肝試しとはいえ色々やってくれるなあ。 残り時間は三十分を切った。ゾンビ連中も最後の攻撃に出る頃だろうけれど……このままじゃあ天音が精神的にまいっちゃいそうだな。 ……ここは勝負に出てみるか。 「よし、天音。みんなと合流しよう」 「え……」 「ま、さすがに最後ともなれば全部の教室調べるだろ。だったら逃げ場のない最奥に隠れているより、みんなで正面突破だ」 少しでも安心出来るよう、ことさら明るく言ってやる。 それは多少なりとも効果があったのか、天音はコクリと頷いた。 よし、それじゃあ行こう。 「桜子、いるか……?」 電気がついているはずもない暗闇の教室。念のため中の様子を窺いながら、そっと足を踏み入れる。と同時… 「晶さんっ」 名前の通りの花びらを思い起こさせる声が、俺を呼んだ。 その声の先へと視線をやれば、教卓の裏側からぴょこんと顔を出した桜子がいる。 「よかった……来てくれたんですね……」 余程心細かったのか、桜子はとても嬉しそうに笑った。 「まあ、心配だったしさ。それに……」 「それに……?」 「ああ、いや、なんでもない。でも、ずっとここに隠れてたの?」 「いえ、最初は校舎内を色々と逃げ回ってたんです。ゾンビの皆さん、重りのせいで私でもどうにか逃げ切れたりして」 「うわ、そいつは大変だったなあ。本当に、会長ももう少し考えたイベントやればいいのに」 そんな俺の意見に、けれど桜子は首を左右に振った。 「そんなことはありませんよ。むしろ感謝してるんですから」 「私、身体があまり強くないこともあって、小さい頃からこういう体験ってしたことがなかったんです」 「だから、今日のこのイベント、こうして参加しているっていうだけで、とっても楽しいんです」 心の底から嬉しそうな笑顔で言う桜子。それはいつもの大人しい桜子とは違って、体の奥底から光が溢れているような、そんな眩しい笑顔だった。 「でも、あまり長く走ったりすると、すぐ息が切れてしまって……。逃げても逃げてもすぐに捕まっちゃいそうになって……」 「それで、ここに隠れたんですけど、そうしたら今までが賑やかで楽しかったせいか、急に一人ぼっちなんだっていうことを実感してしまって……」 「気付いたら、晶さんにメールを出しちゃってたの。ごめんなさい」 申し訳なさそうに俯く桜子。そんな桜子の姿は本当に可愛くて、自分を最初に頼ってくれたことが素直に嬉しく思える。 「桜子は、これからどうするつもりなんだ?」 「え、あ、はい」 突然の俺の質問に、桜子は少し驚いたように顔を上げた。 「その……さっきまでみたいに参加したいんですけれど、やっぱりこれ以上無理をするのは少し厳しそうで…」 「このままここにいることも考えたんですけど、それだと寂しいですし、あまり参加している意味もなくなってしまう気がして」 「俺と一緒でも?」 「だから、私、リタイアしようかなと思います」 「無理に呼んでしまってごめんなさい。とっても心強かったです」 そう言いながら見せる桜子の笑顔は、少し寂しそうだった。 本心では、もっとゾンビから逃げ回っていたい。そう思っているのがよくわかる。 「それで満足、って顔してないけど」 「それは……確かにここまで頑張って逃げたのにと思うと、それがとっても残念です……でも、私の体調的な問題ですから……」 「無理に参加しようとしても、多分すぐに捕まっちゃうと思います……」 確かに、桜子は体を動かすことが苦手みたいだから、無理に参加させても、それは逆に辛い思いをさせることになるのかもしれない。 瞬間、電話のベルが大きく響き渡った。 「え? 電話?」 なんでこんな場所で? 慌てて周囲を見回すと、目の前の机の上に、電話機が一台乗っている。 「なんでこんなところに電話機があるんだ……? 桜子が持ってきた、とかじゃないよな」 「電話機、ですか? 持ってきた覚えはないですけど……あの、どこに?」 「え?」 俺の目の前にある電話機。それは当然、桜子の目の前にもあるもので……。 「いや、ほら、ここ。机の上なんだけど……見えて、ない?」 コクリ、と桜子は頷いた。 まさかとは思うけど、俺にしか見えていないのか、これ? そもそも、これほど大きな音で鳴り響けば、周囲からゾンビの集団が駆けつけてもおかしくない。 けれどそれらしい気配はまるでしない。 「そんな……だって、こんな目の前に……」 俺は確かめるように桜子を見る。けれど桜子の目には、本当に電話機が映っていないようだった。 「まさか、電話の幽霊……?」 未だうるさいくらいに鳴り響いている電話の音。 けれどそれに反応している人は周囲に誰もいない。俺にしか見えていない。俺にしか聞こえていない。 背筋を、何か冷たいものが上っていく。 出てみるか……。 恐る恐る手を伸ばしてみるものの、寸前で止まる。こういう時、実際に出てみていい方向に転がったという話を、俺は聞いたことがない。 唐突に、音がやんだ。まるで時間切れだとでもいうように。そしてゆっくりと、電話機の姿が消えていく。 「っ!」 まさか、本当に幽霊……。 「晶さん……? あの、どうかしたの?」 「いや……その……」 なんて説明すればいいのかわからず、俺は言い淀む。 こんな肝試しの中で本物の、それも人間でない幽霊を見たなんて……。 肝試し? ああ、そうか。俺達が今やってるのは肝試しなんだよな。 だとすれば、どんな原理かはわからないけれど、人を驚かせるための仕掛けがあってもおかしくない。 なんといっても発案者はあの会長だ。人の悪さに関してはすこぶる信用がある。 「なるほど。こうやってびびらせておいて、その様子を笑おうっていう魂胆か……」 なんか、むかついてきた。よりにもよって、桜子の前でびびらせようとしてくれるなんて。 いや、もしかしたら今のは、桜子を怖がらせようとしたのかもしれない。だとしたら……。 「桜子は、この肝試し、まだ生き残りたいんだよな?」 いきなりの俺の質問に、桜子は一瞬だけ驚くものの、素直に答えてくれた。 「だったら、続けよう」 こうなったら、意地でも桜子と生き残ってやるぞ。生き残って、逆に俺達の方が会長を笑ってやる。 「つまりさ、桜子が走らなければいいんだろ?」 俺の提案に、桜子は意味が分からない、という表情で首を傾げた。そのしぐさがやっぱり可愛くて、思わず笑ってしまう。 「俺が、桜子を背負って逃げる。どっちに行くかは桜子が決めてくれればいい。これなら、桜子も一緒に楽しめるだろ」 「え……」 「そ、それなら……で、でも、私、重いですよ……?」 「桜子、そんな細い体つきで重いなんて言ったら、天音あたりに全力で蹴られるぞ」 「それに、これでも俺も男の子。桜子一人くらい背負ってもへっちゃらだ」 任せなさい、と胸を叩いてみせる。桜子はどうしようか少し悩み、やがておずおずと尋ねるように言ってきた。 「そんな事、本当にお願いしちゃっていいの、かな…?」 「ああ。一緒に最後まで楽しもう」 「……はい!」 俺の言葉に、桜子は瞳に涙を浮かべつつ、本当に嬉しそうに笑ってくれた。 「あ、あの、次の廊下を右に」 「了解、右だな!」 桜子の体は、思っていたよりも遙かに軽かった。いや、そう思えるのは、背負っているのが桜子だから、なのかもしれない。 「桜子さんを、ゆ、許さんー!!」 「桜子さん! 正気に戻って下さい! そんな男と一緒だなんて!」 予想通り、校舎内はすでにかなりの数のゾンビが徘徊していた。 少しも苦にならない桜子の小さな体を背負いながら、俺は廊下を走る。 そしてそんな俺達を、ゾンビとしてでなく、桜子親衛隊としての連中が全力で追いかける。あの重りをつけてのこの執念、さすがだよなあ。 「あの、本当に重くない?」 「大丈夫! 女の子は軽い!」 そんな俺の返答に、桜子が顔を赤らめたのが雰囲気でわかった。 触れただけで折れてしまいそうな華奢な体。その温もりと柔らかさとが、俺の背中いっぱいに広がっている。 学園の男子なら誰もが夢見るだろう、その胸の膨らみ。想像よりもずっと大きなそれが、ぎゅうっと、思い切り押し当てられている。 今のこの状況、それを冷静に見つめ直すだけで、頭の中の回線が数本焼き切れてしまいそうだ。 「見、見つけたああ!! 殺す……ぜっっっったいに! 殺す!!」 「あ、前からも……階段にっ」 その指示に従って、素早く階段へと取りつく俺。ゾンビは階段を上れない。一段抜かしで階段を上り、俺は上の階へと避難した。 「とりあえず、撒いたかな?」 周囲の気配を探ってみるが、どうやら俺達を追って、ほとんどが下の階にいるみたいだ。 「ふう。さすがに少し休憩な。ここならすぐに下の階へ避難できるし」 「はい。あ、晶さん、汗が……」 いくら秋の夜とはいっても、この閉鎖空間を全力で走ればさすがに汗も噴き出すか。桜子に言われて、俺は初めてそれに気が付いた。 「ちょっと待って下さいね」 桜子はハンカチを取り出すと、そっと俺の汗を拭い取る。 「ありがとう」 「いえ、これくらい当然……」 「生け贄だ! 生け贄がいたぞ!」 桜子の言葉すら遮って、更なるゾンビが姿を見せる。 「よーし、それじゃあもう一がんばりだ」 「ゾンビの皆さん、鬼気迫ってますよね。もうあまり生きてる人がいないんでしょうか?」 それは生存者だからでなく、桜子を背負ってるからだ、と言いそうになって、俺は苦笑した。 正直、今はそんなのどうでもいいと思ったから。 だから俺は、再び逃げ出しながら問いかける。 「でも、楽しいよなっ」 「はい、とっても! はじめの頃一人で逃げ回っていた時よりも、ずっと、ずっと楽しいです!」 すかさず、即答で返ってくるその言葉は、本当に生き生きとしていて……。 「多分、一緒にいるのが晶さんだから……」 だから、その後に続いた桜子の言葉に、思わず胸が高鳴った。 「お、俺だって、一緒がいいなって思ったから、桜子のとこ、行ったんだよ!」 「わ、私と、一緒に?」 あっ…、今のはもしかして、なんか恥ずかしかったんじゃないだろうか。 顔が真っ赤になっているのがわかる。 「い、いや、ごめん。突然こんな言い方されたら、困るよな、うん」 「……そんなこと、ないです」 その声は本当に近くから聞こえた。 背中から、じゃない。俺の耳元から。まるで囁くような声だった。 俺の首筋に、強く抱きつくように埋められた桜子の顔。甘い、桜子の香りが、女の子の香りが俺の鼻腔に届く。 「さ、桜子、さん?」 少し不安になって、尋ね返す俺。そんな俺に、桜子の声が返ってくる。 「嬉しい……」 首に回された手に、きゅっとより強く力がこもる。 「……っ」 俺は、自分の心臓の鼓動が急速に速まっていくのを止められない。 この水無瀬桜子という女の子の、今世界で一番近い距離に自分がいるんだということを、改めて認識する。 俺の背中に、桜子が、いる。 「晶さん……」 その小さな唇から俺の名前が、俺の名前だけが紡がれる。それが今、本当に心地よく感じられた。 桜子に名前を呼んでもらう。それがこんなに嬉しいなんて、俺はそれだけ桜子のことを気にしてるってことなんだろうか。 「桜子……」 何を聞こうとしているのか自分でもわからない。ただ今度は、俺の方から桜子の名前を呼びたかった。俺にその名前を呼ばせてほしかった。 「はい……」 嬉しそうな声が返ってくる。その、たった一言の声が、俺の心を大きく跳ね上げる。 ど、どうしよう。 どうしたらいいんだ。俺、何これから言えばいいの? 「今の……」 「え、なんだ?」 不意に流れた雑音に、俺は足を止めると振り返った。 「校内放送、ですか?」 「あ、ああ。そうみたいだけど、なんでこんな時に……」 話題がそれたのは良かったけど、一体なんで…? 「っ!!」 「な、なんですか、今の!?」 唐突にスピーカーから噴き出したしゃがれ声。いかにも恐ろしげなその声に、俺達は思わず身をすくませる。 『まだじゃ、まだ足りぬうぅ。まだこの校舎には、生き残りが大勢おるっ』 『探せ! そして捕まえよ! 生き残りどもを探し出し、生け贄として捧げるのじゃあああぁっ!!』 これって、ただでさえ暗闇の中で精神的に参ってる人多いだろうし、かなり効果あるんじゃないか? 桜子みたいな大人しい子なんて特に……。 「な、なあ、桜……」 「あ、晶さん、聞きましたか!? 凄い本格的ですよね! まさかこんな放送まで!」 ……。 「えーと…随分と楽しそうですね……?」 「うん。お化け屋敷みたいで、何かワクワクするの」 「お、お化け屋敷ですか……」 まあ、気持ちはわからなくもない……かあ? 「私、こういうの凄く憧れてたから。でも、私たちだけで楽しむのって何か勿体ない気がします」 すごい。 この状況で勿体ないって言葉が出てくる事がすごいよ。 「そうだ、他のみんなも呼んで、一緒に楽しみません?」 俺の背中で、弾んだ声を上げる桜子。どうやら本当に楽しいみたいだ。 「……そ、そうだな。それじゃあ、連絡してみるか」 「はい♪」 『雉の鳴く夜は恐ろしい〜〜〜〜〜!!』 更に響き渡るゾンビの声。俺はみんなにメールを打つと、桜子を背負ったままで集合場所へと足を向けた。 「えっと……晶くん、いる?」 そろそろと開いた扉から、結衣が顔を覗かせる。 「お、来たか。ゾンビ達、大丈夫だったか?」 「うん。なんか、中央の方に集まってるみたいだよ。悲鳴とか聞こえて、ちょっと怖かった」 結衣は答えながら教室に入ると、後ろ手で静かに扉を閉じた。 「結構派手にやってるみたいだな」 となると、じきに周囲の方にも広がっていきそうだな。もう少し端の方の教室に避難した方がいいかもしれない……。 「俺達も、少し遠くに隠れた方がいいな」 「そうだね、ずっとここにいたんじゃ見つかっちゃいそうだし。あ、でも、お腹空いちゃいそうだなぁ」 「いや、その理屈でいけば、ここにいたって空くから」 「そ、そうだね」 苦笑しながら言う俺に、結衣は恥ずかしそうに顔を赤くしながら言い、また扉に手をかける。 「それじゃあ、行こう」 俺達は、二人で教室を出た。 「とりあえず、俺達の教室に行こう。あそこならかなり奥の方だし、結構時間は稼げると思う」 「そうだね。階も違うから、上手くいけば最後まで……」 「きゃあああーーーーっ!」 「きゃんっ」 遠くの方からいきなり聞こえてきた悲鳴に、結衣は俺の腕に抱きついた。 ぎゅっと力強く掴んだままで、恐る恐る振り返る。 ……ずちゃ……ずちゃ……。 暗闇のずっと向こうから、妙な水音が微かに聞こえる。本当に、この音の主はいったいなんなんだろう。 「は、はううう……」 ほとんど涙目で俺を見上げる結衣。少し意外だ。結衣はこういうの大丈夫そうに思えたんだけどな。 やっぱり、この暗闇と閉鎖された空間という状況とが、想像以上にその怖さを増幅しているのかもしれない。 「そんなに怖いなら、何か食べ物のことでも考えてたらどうだ? このイベントが終わったら何を食べるかとか」 「ドーナツッ!」 「即答ですか……」 「だって、こういう大変なイベントの後は、やっぱり自分にご褒美だよ」 「ご褒美っていったらドーナツしかないよね。できたてほやほやの、甘くてふわふわのドーナツ!」 「あー、想像したらすっごく食べたくなってきちゃったよう。どうしよう晶くん」 「……ご褒美をたらふく食べてる自分を想像するってどうだ?」 「それだよ晶くんっ! ドーナツドーナツドーナツドーナツドーナツー!! …よしっ!」 さっきまでの恐怖心はどこにいったのか、うきうきと本当に嬉しそうな顔を浮かべる結衣。 心の中では、机を埋め尽くすような量のドーナツを前にしているのかもしれない。 「ほんと、幸せな奴だよなぁ」 そんな結衣の姿を見て、俺は素直に微笑んだ。 「ぐす……すん……すん……」 が、そんな明るい気分を、小さなすすり泣きのような声が一瞬で吹き飛ばす。 「な、なにっ!? 誰か泣いてるの……?」 その場に立ち止まり、キョロキョロと周囲を窺う俺達。 「うう……ぐす……ひっく……ひっく……」 「泣き声、だよな、やっぱり……」 「う、うん……それも女の子の……」 再び、俺の腕をぎゅっと掴みながら、後ろへと隠れてしまう結衣。 「ゾンビさん達、じゃない、よね……?」 「悲鳴とも違うしな。さすがにゾンビが泣いてるとは思えないけど……ゾンビから逃げ延びた女の子、とかか?」 耳を傾けてみれば、その主はかなり近くみたいだ。行ってみるか……? 念のため結衣の顔を見て確認する。結衣は怖いのだろうけれど、気にもなっているらしい。行ってみよう、と頷いてくれた。 そして俺達は、泣き声を追って、暗い廊下を慎重に進んでいく。 静かに、周囲の気配を探りながらの前進。ゾンビや他の生徒に会うこともなく、俺達はやがて、一つの教室の前に辿り着いた。 「……まさか、ここからか……?」 「わたしたちの教室……?」 俺達の当初の目的地。念のため周りを調べてはみるものの、やっぱり泣き声はこの中から聞こえてくる。 「うぇ……ひっく……すん……すん……」 「ここまで来たら、確かめるしかないよね……」 「ああ。行くぞ」 ドアに手をかけ、恐る恐る開いていく。それと同時に音量の上がる泣き声。間違いない、主はここにいる。 「誰か、いらっしゃいますかー?」 外から、そう問いかける結衣。と同時に、流れる泣き声がやんだ。 「その声、結衣さんですか!?」 「え?」 「今の声って……」 「まさか!?」 俺達は顔を見合わせると、一気に教室へと飛び込んだ。そこには…… 「結衣さーん! 晶さーん!」 「うええええーーーん! よかったですぅ! あえましたぁ!!」 本気で泣いているすずのの姿があった。 「す、すずのちゃん? なんでここに……」 「だ、だってだって、結衣さんいつまでも帰ってこないから……だから、何かあったんじゃないかって、心配で……」 涙でぐしゃぐしゃの顔で、結衣に飛びつくすずの。帰ってこない? 「……ひょっとして、この肝試しのこと知らなかったのか?」 「肝試し?」 「知らなかったんだね……」 そういえば、説明の時もまったく姿を見なかった気がするなあ。まあ、他の人には見えないわけだし、伝えてくれる人もいないよな考えてみれば。 「あー、実は……」 俺は、今行われているバカイチョウ発案のイベントについて、すずのに説明をしてやった。 最初は何ですかそれ、と呆れるものと思っていたのだけれど、予想に反してすずのの瞳が爛々と輝いていく。 「お任せ下さい!」 そして、ぽん、と自分の胸を叩いた。 「肝試しこそ、幽霊の独壇場! 幽霊が活躍するための場だと思います!」 「私なら他の人にも見えませんし、壁をすり抜ければ誰にも見つからずに偵察だってできるです」 「いや、それはそうかもだけど、すり抜け出来るのか?」 「はいっ。こういう時こそ、きっとお役に立ってみせます! こういう時のための、幽霊ですっ!」 「見てて下さい! 私の努力の結果を!」 自信満々に言い切ると、すずのは壁へと向かって走り出す。そして、跳んだ。 「お、おい、大丈夫か!? 今めちゃくちゃ鈍い音が……」 「すずのちゃん!? すずのちゃん!」 「あ、あううう……ううぅぅ」 頭を押さえつつ、瞳に涙をめいっぱいに溜めて起き上がるすずの。うわ、本気で痛そう。 「ま、まだですっ。幽霊として必要とされているのに、こんなときに壁抜けが出来ないようでは!」 「やぁっ!」 そして再び壁へと挑むすずの。 「……大丈夫……には見えないよな……」 「い、いいえ、大丈夫です! きっと、きっと壁抜けを成功させて、役に立って見せます!」 「ええいっ!」 「も、もういい! もういいから!」 「すずのちゃん、ドクターストップ! それ以上は、いくら幽霊でも死んじゃうよ!」 いや、それはどうなのかな。 「と、とにかくだ、見ているこっちの頭が痛くなりそうだからもうだめ!」 さすがにガマンできずに間に入った俺と結衣。そんな俺達の顔を見ながら、すずのは床に崩れ落ちる。 「ふえぇ……わ、わたし、きっと落ちこぼれの幽霊なんですぅ。だから壁抜け一つ出来ないんですぅ……」 いや、幽霊に落ちこぼれって……あるのか? 「そ、そんなことないよ、元気だしてよ、すずのちゃん!」 「そうだね。わたしが見たところ、張り切りすぎて、ちょっと肩に力が入りすぎてるかな。もう少しこう、力を抜くといいと思う。ふわっ、っていう感じで」 「ふわっ、ですか?」 「うん、そう。ふわっ☆」 「もっと壁と一体化するイメージで」 「ふんふん、なるほど。めもめも」 ……えーと。 結衣って、幽霊にアドバイスって、やったこと……いや結衣ならあってもおかしくない気がしてきたな。 「諦めちゃだめだよっ。諦めたらそこで終わっちゃうって、どこかの偉い人も言ってた!」 「は、はいっ。がんばりますっ!」 ……まあ、すずのが納得してるなら、これはこれでいいのかなあ。見てて微笑ましいし。 壁に頭を押しつけ、ふわっ☆ とかやってるすずのと、それを応援している結衣の姿を、俺は自然と笑顔で見守っていた。 「私……もっとがんばってみますっ」 「うん。大丈夫だよ、すずのちゃんなら絶対いけるからっ」 結衣の応援を背中に受けて、えいっ、えいっ、と更なる頑張りを見せ始めるすずの。 そんな二人の姿を見て、俺もやっぱり応援したくなってしまう。 「面倒見いいんだな、結衣は」 「え、そんなことないよ。ただ、すずのちゃんが頑張ってたから、手伝いたくなっただけで」 恥ずかしそうに前で両手を振って否定しつつ、すずのへと視線を送る結衣。 本心からそう思っているのがわかるから、俺も素直に応援したくなる。当然、二人を。 「そうだな。すずのも頑張りやさんだ」 「うん、そうだよね」 「……ところで。これからなんだけど……」 瞬間、電話のベルが大きく教室中に響き渡った。 「な、なんだいきなり?」 「電話? え? 教室に?」 「び、びっくりしましたっ」 「って、こんなの鳴ってたら見つかるぞ。どこで鳴ってるんだ?」 俺達は、慌てて教室内を見回すが、電話機なんてどこにも見当たらない。 「ど、どこから聞こえるの、これ?」 「晶さん、結衣さん、あ、あれっ!」 思い切り上ずったすずのの声に俺達は振り向いた。そして同時に息を呑んだ。 何もなかったはずの教卓の上。そこに、いつの間にやら電話機が鎮座している。 「……な、なあ、あれってさっきからあったっけ……?」 「わ、わたし知らないよ。今、初めて見た」 「私もです。ずっとここにいましたけど、あんなところに電話機なんて……」 「だ、だよなあ……」 そもそも、こんなわかりやすい場所、今まで気付かなかったはずがない。最初に教室内を見回した時に気付いていたはずだ。にも関わらず、誰も気付かなかった。 「ま、まま、まさか、電話の幽霊……?」 「ま、待て待て。そもそも生き物でもない電話の幽霊なんてあるのか?」 「ゆ、幽霊怖いですぅぅぅ!」 突如現れたその電話機に三人とも怯えつつ、俺達は誰も動けなかった。 出てみるべきだろうか。そんな好奇心はもちろん湧いたものの、体が完全に拒否している。動いてくれない。 そして、これだけの大音量で鳴り響いているのにも関わらず、誰もこの教室へとやってこようとしないのもおかしい。 この電話機、本当にここに存在しているのか……? まるで凍りついたように動けず、ただ電話機を見守る俺達。そんな俺達を諦めたかのように、それは唐突に鳴り止んだ。 そのまま、まるで幻覚だったみたいに消えていく。 「あ、晶、くん……」 「き、き、消えた…です……」 力いっぱいに俺の服を握り締めている二人。俺は頬をつねって確かめる。痛い。夢じゃない。 「本当に、なんだったんだ……?」 「な、なんだ、いきなり!?」 電話の幽霊に怯えまくっていた俺達にとって、その音は危険すぎた。 いきなりスピーカーから流れ出した雑音に、俺達は同時に顔を上げる。 「放送、ですか……?」 「いや、いくらなんでもこの状況で校内放送は……」 「でも、普通の生徒は放送室なんて勝手に入れないし、機械の使い方も……」 恐らくは校舎内全体へと流されただろう、その恐ろしげなしゃがれ声に、すずのも結衣も悲鳴を上げる。 「まさか、ゾンビが放送室占拠したのか!?」 『まだじゃ、まだ足りぬうぅ。まだこの校舎には、生き残りが大勢おるっ』 『探せ! そして捕まえよ! 生き残りどもを探し出し、生け贄として捧げるのじゃあああぁっ!!』 「は、はうぅっ! ぞ、ぞんびさんに襲われちゃいますぅ!」 「い、いやですっ。ぞんびさん怖いです……ふ、ふええぇ〜〜〜〜〜ん」 「……いや、肝試しで幽霊が泣くってどうなんだ?」 西洋お化けと東洋お化けの間には、高くて分厚い壁でもあるんだろうか……。 「とりあえず、まじめに逃げる準備した方が良さそうだな、結衣」 「晶くん! い、今の、ゾンビさん達の逆襲!?」 「ど、どうしよう、このままじゃ捕まっちゃう! そうだよ! ドーナツを、ドーナツ隠さないと!」 ……すっかり錯乱なさっておられる……。 『雉の鳴く夜は恐ろしい〜〜〜〜〜!!』 「うぇぇ〜〜〜〜〜んっ」 「ドーナツ守らないと! ドーナツだけはあ!」 「とりあえず、ここにいたままだと逃げ道なくなるし、移動した方がいいな。他のみんなと連絡とってみるか……」 みんな、まだ無事だといいんだけれど。俺は頭の中で逃走ルートを描きつつ、携帯端末を取り出した。 「………会長〜、まだ無事ですか〜」 「わぁぁあい、しょーくん! 来てくれたんだね〜! もちろん俺は無事だともぉ」 「ちっ」 「うわ、ひどっ。ひどいよしょーくん、まるで俺がもう捕まってることを期待してたみたいじゃないか」 「なんですかそれ。まるで俺が、会長が無事なことを期待してたみたいじゃないですか」 ほんと、もっと頑張ってほしいぞゾンビのみなさん。 「ううう、酷いよしょーくん。俺がこんなにも、雨に濡れた子猫みたいに可愛らしく、しょーくんがやってきてくれるのを待っていたのにぃ」 目にいっぱいの涙を溜めながら、胸元で両手を握りしめ、上目遣いで俺を見る会長。 「目薬だろそれ」 「つまんないぞー、しょーくん。そんな簡単に見破って。もっと遊んでよー」 いや、見破ったんじゃなくて信用してないだけです。こんちくしょう。 「ん、なんだ今の音?」 突然スピーカーからこぼれた雑音に、俺は思わず視線を向けた。 いかにも恐ろしげな声が、スピーカーから響き渡る。な、なんだこれ!? 「ひいいいいいいいっ!」 「なあ!?」 スピーカーからの声でなく、それに驚いた会長の悲鳴に驚いた。 「か、会長……?」 『まだじゃ、まだ足りぬうぅ。まだこの校舎には、生き残りが大勢おるっ』 「いやあああああああっ!!」 再び流れる不気味な声に、会長はその場にうずくまってしまう。 「……あの、ひょっとして会長、ビビッてます?」 「だ、だってだってだってだってえ! さっきゾンビに追っかけられたんだけど、本当に凄かったんだよっ。俺、絶対当分夢に見ちゃうよぉぉ!」 「凄かった、って、会長が用意したんじゃないんですか? このイベントの発案と責任者、会長でしょう?」 「い、いやさあ、ちょっとめんどくさくなったんで、ぐみちゃんこういうの好きだから任せてみたら……なんか想像以上に凝っちゃったみたいで……」 「俺が思ってた以上に怖くなってるんだよ! 一部のゾンビのメイクとか、凝りすぎ!」 「あんた、バカだろ……」 めんどくさくなったって時点で本当に救いないぞ、この人。 『探せ! そして捕まえよ! 生き残りどもを探し出し、生け贄として捧げるのじゃああっ!!』 「ひ、ひいいいいいい!」 「お、お願いしょーくん、一緒にいてっ!」 恥も外聞もなく、本気で手を合わせて頼んでくる会長に、さすがに俺はこめかみを押さえた。 「なんで俺なんです? 他にも人はいるでしょうに」 「もちろんみんなに出したのっ! だけど誰も来てくれないんだよお!」 ……つまり、他の人には無視されたんですね……わかります会長。 俺も今、心底思ってます。無視すればよかったなって。 「あれ? でも誰も来てくれないって八重野先輩はどうしたんです? 会長と合流するって言ってましたけど……」 「声、上ずってますよ……」 この人、間違いなく何かやったな……。 「お願いしょーくーん! 見捨てないでぇ一人にしないでぇぇ〜」 うわー、うざい! うざいぞこの人ー! 「え?」 会長を跳ね除けようとしたその瞬間、電話のベルが鳴り響いた。 会議室だし電話くらいあってもおかしくないかもだけど……このタイミングで? 「この電話って、会長宛てだったりしないでしょうね」 「…え、電話? なに?」 俺の質問に、素で返す会長。いや、何のことも何も、これだけ大音量で鳴ってるのに。 「いえ、ですからこの電話ですよ。この、やたらと大きく鳴ってるやつ。出るなら早く出て下さい。ゾンビ来ますよ」 「いや、だから何のこと? いくら俺でも、こんな肝試しの真っ最中に電話なんてかけさせないよ。怖いもん」 ……なんか、やたらと説得力あるけど……じゃあ、これっていったい。 俺は室内を見回して電話を探す。そして、机の上を見た瞬間、全身が凍りついた。 今の今まで何もなかったはずの机の上。そこに、まるでポラロイドカメラで撮った写真のように、電話機が浮かび上がってくる。 「な……なんだ、これ」 「会長……あの、今その電話機、何もないところから現れませんでした……?」 「電話機? え……え…ど、ど、どれ?」 「いや、その目の前にあるやつです、けど……ひょっとして、見えてません……?」 俺がそう言うと同時、会長の顔が一気に青ざめた。 「ゆ、幽霊だ! 電話の幽霊!! しょーくん、逃げよう! すぐ逃げよう!! これ、この肝試し本当にヤバイから!!」 「いやあの、まさか……演技とかでなく?」 机から逃げるように壁に張り付く会長の姿は、到底冗談や演技には思えない。いくらなんでもこれが演技なら、プロの役者でもやっていける。 「嘘、だろ……」 背筋を冷たい汗が落ちていく。いや、これかなりシャレにならないし……。 「いや、絶対これいたずらか何かでしょ。出たら、凄い人をバカにした声で、やーい、なんて……」 ぶんぶんと首を振って否定する会長。それを冗談と決め付け、電話へと手を伸ばす。が、取れない。俺の本能が、取ったら危険だと呼びかけてくる。 これだけの大音量が鳴り響いているのにもかかわらず、ゾンビがやってくる気配もない。 会長に聞こえていないのが本当なら、これは俺にしか聞こえていないということか? 俺は黙ってその電話機を見つめ続ける。 それから何分経っただろう。いや、実際は何秒だったのかもしれない。電話は、俺を見捨てるかのように、唐突にやんだ。 そして現れた時と同じように、ゆっくりとその場で消えていく。 冷や汗が止まらない。俺は何も無くなった机の上を、睨みつけるように凝視していた。 「ねー! ねー! 怖いでしょー!? 恐ろしいでしょう!? 俺には見えないけど、それもきっとぐみちゃんが何かやってるんだよう!!」 この様子。確かに会長が仕組んだものとは思えない。ぐみちゃんの仕業だというなら、ほんと恐ろしいな。今の、いったいどういう仕掛けなんだ。 俺はこのイベントの行く末が急に怖くなってきた。 「だから一人は危険だ! 怖いし、危ないし! お願いだから一緒にいようよぉ!」 あーくそ、どうしよう。本音を言えばもちろんほっときたいんだけど……。 「……わかりました。ただし明らかにふざけた態度取るようなら、容赦無く置いていきますんでいいですね」 仕方ない。これを解き放つよりは、まだ管理していた方がましな気がする。俺は深い深い溜息をつきつつ諦めた。 「や…やったぁ! さすがしょーくん! 俺が見込んだだけのことはあるっ! 愛してるー!」 「見込まないでも愛さないでもいいですから、抱きついてこないで下さい!」 力一杯しがみついてくる会長を必死に振りほどきながら、俺はやっぱり後悔していた。逃げるべきだったかなあ。 「それで、これからどうするつもりですか? まあ、ここなら比較的安全そうですし、それなりに隠れていられそうですけど」 声も漏れにくいし、校舎の中でも中央からは外れてるしな。 「あ、あー、いや一箇所にずっと留まるのはやばいかなって…」 「やばい……?」 猛烈に激烈に奇天烈に嫌な予感がした。そして、こういう時の予感というのは、かなりの高確率で当たるものだ。 「奏龍うううっ!!」 それを裏付けるようなグッドタイミングで、入り口のドアを蹴り上げ、八重野先輩が飛び込んでくる。 「や、八重野先輩?」 その顔は、誰がどんな角度でどう見ようとも、間違いなく本気で怒っている。むしろここまで怒った八重野先輩を、俺は初めてみた。 だがそれ以上に俺が驚いたのは…… 「や、やあ、蛍。元気だった……?」 「ああ、おかげさまでなあ……」 八重野先輩の頭についた、ゾのマーク入りの三角巾。まさか、あの八重野先輩が捕まったのか!? 「あの、八重野先輩? その三角巾……」 「葛木、お前もいたのか……まさかこのバカと組んで何かをしようというんじゃないだろうな……」 八重野先輩の声は低く、そこには本気の怒りが感じられた。これ、本気でやばいんじゃ……。 「い、いえ、会長にメールで呼ばれただけですが……」 「そうか。なら悪いことは言わん。今すぐ見捨てて立ち去れ。こいつは人を売るぞ……」 「売るって……」 どういうことですか、と俺は会長の顔を見る。会長はその頬に玉の汗を浮かべながら、わざとらしく視線をそらし、口笛なんて吹いていた。 「あんた……」 なるほど。八重野先輩が捕まった理由、よくわかりました。 「いやあ、別にそんな酷いことをしたわけじゃないよ。ただまあ、ちょっと可愛らしいイタズラを仕込んでおいた部屋に押し込んだだけで……」 「床一面スライムで埋まった部屋に、後ろから突き押すのが可愛らしいのか、お前の中では!」 「あんた何やってんだあ!!」 「い、いやほら、蛍っていつも俺のこと殴ったりするしさ、少しくらいの仕返しは……」 「貴様が殴られるような行動しかしないからだろうが!!」 そこでさすがに限界突破をしたらしい。普段冷静そのものの八重野先輩が爆発した。 「ま、待って待ってー! ほ、ほら、暴れるとイベントが潰れちゃうよ。生徒会の一員としてそれは……」 「安心しろ、イベントの邪魔はせん! あくまでゾンビ役の一人として生き残りである貴様を捕まえるだけだ!」 「もっとも、その後ゾンビ役として徘徊出来るかの保証はせんがなっ!」 机の上に跳び乗り、会長へと走る八重野先輩。さすがのバカイチョウも顔を青ざめさせると、慌てて逃げ出した。 「逃げよぉ、しょーくんっ!」 「え? あ、はい!」 「って、なんで俺まで一緒に逃げてるんですか!?」 「何言うんだい、俺としょーくんは二人で一人。一蓮托生、一心同体ってさっき誓いあったじゃないか」 「断固お断りします。素直に捕まって自らの罪を悔い改めて下さい。八重野せんぱ……」 「逃げるな貴様らあっ!!」 「嘘ぉ! 『貴様ら』って、なんですか、『ら』ってえ!!」 「あっはっはっは。やったねしょーくん! これで俺達は紛れもない戦友だよ!」 「ごめんだああ!」 まずい、八重野先輩を敵に回すのだけはなんとか……って、あれ? おかしいな、八重野先輩、今ゾンビだろ。 ってことは当然重りつけてるわけで……。 「――まさか、重りつけてこれなのかあ!?」 全力で逃げる俺達と殆ど変わらない速度で追ってくる先輩。 重りのおかげでかろうじて追いつかれないではいるが、あの人どういう身体能力してるんだよ、本当に! 「逃げるなあ! いさぎよく人生を諦めろ!」 「あはははははははは。あんなこと言ってるよしょーくん」 「あんたの蒔いた種だろーがあ!」 ダメだ、これは絶対にダメだ。とにかく逃げろ。 会長が八重野先輩に捕まり、その怒りが収まるまで逃げ続けるしかない。 でなければ、このイベントの間どころか、生命そのものがやり直しになりかねない。 「おお! 天の助け、階段はっけーん!」 その会長の言葉は、まさしく地獄へと垂らされたクモの糸のようだった。ゾンビは階段を上ってはならない。これは身体能力に関係ないルールそのものだ。 俺は、この体に残されたすべての力を振り絞り、階段へと向かう。あそこにさえ、あそこにさえ辿り着ければ俺は……。 「させん!!」 俺達の考えに気が付いたのか、八重野先輩もまた力を振り絞り、その速度を上げる。 頑張れ、頑張れ俺! このままなんとか逃げ切るんだ! もうゴール!! もうすぐゴール!! 本当に、本当にわずかの差。もし重りがあと五キロでも軽ければ追いつかれていただろう。俺と会長は、そのわずかな勝機を掴み取り、ゴールラインを通り抜けた。 「はぁ、はぁ……はあ…た、助かった……」 かろうじて辿り着いた階段の踊り場で、俺は必死に息を整える。 まじに心臓、止まるかと思った。 とりあえず、ここはこのまま逃げて……。 「…ふふふ……ひゃーっはっはっはははは!! やーいやーい、蛍ののろまー!」 「なっ!!!」 「ゾンビのほたるちゃーん、あんな勢いよく乗り込んできて、逃げられましたかー! それはちょっと恥ずかしすぎるんじゃないのー?! かっこわるーい!」 「あははははははははははははははは!!」 ……こ、このバカは……。 踊り場から偉そうに胸を張りつつ、八重野先輩を指さし笑うバカイチョウ。八重野先輩の目が、一段と細くなる。 うわぁ……なんか、怒りで湯気発してませんか……。 「おしーりぺんぺーん。来れるものなら来てごらーん。おっといけない、全生徒の模範となるべき生徒会副会長が、ルール破っちゃいけませんよねー」 だ、だめだこれ。どうしよう、ここでの判断によっては、俺の命に関わるかもしれない……。 そうだな。とてもじゃないがもうついて行けん。俺は俺で勝手に行動させてもらおう。 「やーいやーいやーい。悔しかったらこっこまでおーいでー」 会長は上から八重野先輩をバカにするのに必死で、俺には気付いていない。俺はそんな会長の後ろを通って、そっと上の階へと上っていった。 ま、あの八重野先輩があのままやられっぱなしとも思えない。せいぜい今だけ楽しんでいて下さい、会長。 さて、俺はどうするかなあ……残り時間、三十分切ってるみたいだし、ここはみんなと合流してみるか。 俺はみんなの居場所を把握するべく、携帯端末を手に取った。 階段前。この肝試しのルールから考えても、誰かと合流するならやはりここだろう。 ゾンビが自由に通ることの出来ない唯一の場所。確かに過信しすぎると自分の逃げ道を失うけれど、上下を上手く使えば見つかる確率は激減する。 「結衣、桜子、よかったまだ無事だったのね」 「天音さんこそ、無事でよかったです。結衣さんも」 「天音ちゃんも桜子ちゃんも、また会えてよかったよー!」 「はい。皆さん頑張りました」 ゾンビ軍団の動きが活発化してきている今、無事に合流出来るかどうか不安ではあったけど、俺達はなんとか合流に成功した。 メールで連絡を取ってみた時、全員まだ無事だったことに安堵しつつも少し怪しんだ。 けれどこうして再会してみると、それが杞憂だったことが普通に嬉しい。こうしてその再会を喜べるのはやっぱりいいことだ。 まあ、すずのがみんなに見えないのは仕方ないけれど。 それでもその再会を当たり前のように喜べるんだから、やっぱりすずのもいい子だよなあ。 「あの、皆さんもさっきの放送を?」 「うん。いきなり聞こえてきたんでビックリしちゃった…」 「あ、あの程度で驚くなんて、結衣もまだまだね」 「だ、だって、本当にいきなりだったし。天音ちゃんは驚かなかったの?」 「……ええ、もちろん。あのくらいなら私は全然……」 明らかに強がっているとバレバレの口調に噴き出しそうになりつつも、俺はその会話に割り込んだ。 「とりあえず、むこうも本気になったし、隠れてるよりは動いた方がいいのはメールで説明した通りだ」 「向こうは人数多いけど動きが鈍いしね。この人数なら多少の強行突破も出来るだろうし、いいと思う」 「ちょっと不安だけど、頑張ります」 「生き残ったらもらえる賞品ってなんだろうね。食堂でドーナツ食べ放題、とかだといいなあ」 「幽霊として、頑張ってお役に立ちたいですっ」 なんだかんだいいつつも、天音と結衣は戦力として申し分ないし、すずのは相手に見えないという最大の利点がある。 桜子も、ゾンビの中にファンがいれば見逃してくれるかもしれない。 残り時間は二十分を切っている。一人たりとも欠けることなく生き残ろう。 「見つけましたあっ!」 そんな俺達に突如浴びせられる声。聞き覚えのあるその声に、俺達は同時に振り返った。 「まさかこんな所に堂々と集まっているとは予想外です!」 廊下の先にいたのは、表情も髪も何もない不気味なマスクを被った何者か。目の部分に開けられた小さな穴から、爛々と輝く瞳が俺達を正面から見つめていた。 「ば、化け物!?」 「いやああああああああっ!」 「きゃんっ」 「な、何あれ!?」 「あ、あうあうあうああうあう……」 「大人しく隠れていてくれれば、人数の力で押し切れる予定だったのですが……でも、ここで見つかったのが年貢の納め時!」 「そ、その声! まさか、ぐみちゃんか!?」 「大正解です! 偉大なるミステリー界の代表選手! このすけひよぐみが、この肝試しに引導を渡すのです!」 こ、こんなマスクまで用意して。ミステリー好きにしたって、この子はどういう凝り方をしているんだ。 「に〜が〜ず〜も〜の〜か〜……」 いかにも恐ろしげな声を上げ、ずちゃずちゃと重い足を引きずり近づいてくるぐみちゃん。ここは強行突破で逃げるか。 「い、いやいやいやあ……」 ダメだ。突然の遭遇に、天音が完全に怯えきってる。ここは一旦逃げて仕切り直した方がいい。幸いにして向こうはぐみちゃん一人だけだ。 こんな時のためのこの集合場所だ。ここは素直に階段を使わせてもらおう。 「みんな、上の階へ!」 俺は天音の手を引きながら叫んだ。その声にみんなも瞬時に反応し、後ろの階段へと駆け込んでいく。 「ああ! 別の階に行くのは卑怯です! 待ってくださ〜い!」 「人数的にはそっちの方が卑怯なんだ! 悪いけど、ルールを利用させてもらうよ。天音、走れ!」 「か、葛木くぅん……」 大きな涙を浮かべた、子犬のような目で俺を見上げる天音。俺の手に何かを感じてくれたのか、きゅっ、と強く握り返してきた。そして、よたよたしながらも走り出す。 「晶くん! 天音ちゃん!」 「早くこっちに」 必死に俺達へと向かってくるぐみちゃんだったけれども間に合わない。俺達は全員、無事に階段を上りきった。 「ずるいでーす!!」 階下からそんな声が聞こえてくるものの、こればかりはまあルールですから。 「大丈夫か、天音」 「う、うん。ありがとう……」 赤らめた顔を背けつつ、恥ずかしそうに言う天音。まあ、いきなりあんなのに襲われれば、普通は誰でも怖がるというものだ。 「でも、階段で待ち合わせて正解だったよね」 「むしろ、ずっとここにいて、追われる度に他の階に行くというのはどうでしょう?」 「それだと、他の階の階段で待ち伏せされたら終わっちゃうからなあ。さすがに踊り場待機は禁止だし」 「……とりあえず、階段で待ち伏せされないように、移動した方がいいと思うわ」 まだ多少怖いのか、俺の服の裾をつまみながら天音が言う。 「そうだな。連絡がいけばすぐに他のゾンビも集まってくるだろうし……」 「あ、晶さん、あそこっ」 「え?」 珍しく慌てたように桜子が叫ぶ。何事だ、と振り向いた俺の背中を、まさしく戦慄が走った。 「目標を発見した。これより捕獲に入る」 三十キロの重りを一切苦にせず、尋常でない速さでこっちに走ってくる黒い影。 「よ、よりにもよってここで八重野先輩に見つかるか!?」 やばい、あの人だけは重りなんかないのも同じだ。 慌てて叫ぼうとするものの、既に遅い。あっという間に間合いをつめた八重野先輩は、なすすべもなくあたふたしている桜子から、まずゼッケンを奪い取っていた。 「きゃあんっ。取られちゃいましたぁ……」 「晶くん、天音ちゃん、逃げて!」 そのまま俺と天音の元へと突っ込んでくる先輩の前に、結衣が飛び込む。 「っ!」 さすがの八重野先輩も、結衣をはね除けることまでは出来ない。俺はまた天音の手を握りしめると廊下を走り出す。 「ごめん結衣!」 「ちょっと、結衣を見捨てて!?」 結衣を助けようと思わず手を伸ばす天音だが、俺は力ずくで天音を引っ張った。 ここで戻っても全滅するだけだ。心を鬼にして逃げること。 俺達が結衣の行為に応える術はこれと、イベント終了後のドーナツしかない。 食い切れないくらいのドーナツ、今度おごるからな! 「八重野先輩、結衣さんに手こずってますっ」 よし。さすがは結衣だ。先輩でも、重り付きならそう簡単に捕まえられないだろう。 前方に曲がり角が見える。天の助けだ。あそこを曲がれば八重野先輩の視界外に出られる。隠れてやり過ごすことも可能なはずだ。 天音も、今の状況を理解してくれたのだろう。結衣に対してこれ以上何を言うでもなく、黙って走ってくれる。 この犠牲を絶対に無駄にしない。俺達は胸の中で誓うと、一気に角を曲がった。 「生きている者がねたましいぃ……」 「きゃあああああああああっ!!!」 「な、な、な、なあ!?」 「たーたーりーだー……」 そこにいたのは、まるで映画のスクリーンからそのまま飛び出てきたかのような、いまにも全身の肉が崩れ落ちそうな醜い死骸。ゾンビ、だった。 「はうぅ……」 すずのの体が、ぽてん、と横に倒れた。 ずちゃずちゃと嫌な音を立てつつ、目の前のゾンビが近づいてくる。逃げろ。心がそう叫んでいるのに、体が動いてくれようとしない。 目の前に立つゾンビを前に、俺と天音はただその場に立ち尽くしていた。 「みんな、相手はぐみちゃん一人だ。このまま逃げよう!」 俺の声に、固まっていたみんながハッと顔を上げる。そう。変なマスクを被っているからって、中身はぐみちゃんだ。化け物でもなんでもない。 「天音さん、大丈夫です?」 「う、うん。もう平気。ごめんなさい」 「すずのちゃんも走れる?」 「は、はい。なんとか……」 互いを助け合い、走り出す少女達。状況が状況でなければ本当にいいシーンなんだけどな。 「あああっ! 逃げ出すなんて卑怯です! こちらは重り付きなのですから、手を抜いてくれてもいいのでは!?」 「いや、それちょっとおかしいでしょゲームとして!」 「おかしくなどないのです! それが人としての優しさだと思うのです!」 「あの、私たちも歩いた方がいいんでしょうか?」 「桜子も騙されないっ」 がっちゃがっちゃと重りの音を立てながら、必死に追ってくるぐみちゃん。が、ただでさえ女の子。その重さに耐えられるはずもなく、確実に離れていく。 「これなら逃げ切れそうですね」 「うん。あそこの角を曲がっちゃえば、また隠れられる場所あるし」 「そうだな、一旦隠れてやり過ごそう」 みんなで頷いたその瞬間… 「生け贄を発見っ!」 「うおお、生き残りじゃあ! 生き残りがおったあ!」 昔の武者のような鎧を身に着けた集団が、その角から現れる。 血の気の無い顔に、だらりと伸ばされた長い髪。それはまるで、戦争に負けた落ち武者のような……。 ぐ、ぐみちゃんの仕業か、あれ? さすがにちょっとやりすぎじゃあ……。 「ひいいいっ! な、何よあれぇぇ!?」 「お、落ち武者、ですか?」 「な、なんかすっごく怖そうだよ、あれ……」 「こ、こっちやってきますっ」 がちゃがちゃ鎧の音を立てながら、こちらへと向かってくる落ち武者の集団。やばい、このままじゃ捕まる! 「みんな、戻るぞ!?」 「で、でも後ろには……」 「ぐみちゃんさんに捕まっちゃいますよっ」 「さあ、素直に捕まりましょう、しょーくんさん!」 噂をすればなんとやら。すずのに応えるように、ぐみちゃんが後ろから追いついてくる。 「って、こっちも落ち武者ぁ!?」 いつ合流したのか、ぐみちゃんの後ろには、こちらと同じ格好の落ち武者達が、大勢従っていた。 「逃げ道はもうありませんよ」 俺達を逃がさないよう、ゆっくりと、確実に距離を狭めてくるぐみちゃん。大量の落ち武者衆に囲まれるのは、少し怖い。 「挟み撃ちなんて卑怯じゃないか、ぐみちゃん!」 「これはルールに乗っ取った正当な行動です!」 「さっきと言ってること違うよ!?」 「あ、あうううう……」 「晶さん……」 「こ、こっち来るなぁ!」 もはや逃げ道はなかった。あまりにリアルな落ち武者達が、俺達を仲間にしようと手を伸ばす。 「捕まえたぁ……」 「きゃああああーーーーっ!!」 恐ろしげなその声に、天音が限界を振り切った。そしてその声に呼応するように、すずのの体が、ぼてんっ、と真横に倒れる。 「は、はは……ははは……」 昔、映画で見たことあるようなその光景に、ただ乾いた笑いが漏れる。 俺達を求める、無数の落ち武者集団の腕。その絵は、まさに地獄絵図のようだった……。 この廊下を少し先まで走れば曲がり角がある。そこを曲がれば、死角になるはずだ。教室に隠れてやり過ごすことも可能だろう。 「みんな、逃げるぞっ」 俺は叫ぶと、視線で方向を示す。 「あ、はいっ」 「り、了解っ」 「は、はいっ」 そのまま走り出す三人。 「天音、大丈夫か。走れるか?」 「え……あ、うん……」 俺も天音の手を取ると、引っ張ってその後を追った。 「逃がしはしませんよおっ!」 いきなり走り出した俺達をぐみちゃんも慌てて追いかけるが、重りがあってはさすがに無理だ。俺達は一気に引き離すと角を曲がる。 「とりあえず、適当な教室に入ってやり過ごそう!」 俺達はあえて一つ先の教室を選ぶと、ドアを開き、その暗闇の中へと飛び込んだ。 ぶにゅる。 「え?」 足元から伝わる奇妙な感触。それは俺の知っている教室の床の感触とはあまりにかけ離れていた。 ずるり、と滑る足元。床に撒き散らされた何かに、俺は思い切り足を取られる。普通の床のつもりで侵入した俺が、それに対応できるわけもなく……。 俺は、力いっぱい足を滑らせると、そのまま床へともんどりうって転がった。そしてその上に… 「きゃあっ」 「な、何これ!?」 「きゃぁんっ!」 「は、はわわぁっ」 俺に続いて教室へと飛び込んだ女性陣が、怒涛の勢いで覆い被さってくる。 「な、なんとー!?」 「ぬ、ぬるぬる……」 「あううう……」 「むきゅう〜……」 女の子達に思い切り押し潰され、動けない俺。天国なのか地獄なのかさっぱりわからない。 「な、なんだ、これ……」 床の上に敷き詰められたぬるぬるべとべとの不気味な物体。子供の頃、なんか駄菓子屋とかで見かけたことがあるような……。 「ふっふっふ、引っかかりましたね皆さん!」 気がつけば、教室の入り口にぐみちゃんが立ち、俺達を見下ろしていた。 「って、何連れてきてるんだ!」 昔の武者の着ていた鎧に身を包んだ、いかにも危険な連中をその後ろに従えながら。 「ゾンビ部隊の中でも精鋭中の精鋭、落ち武者ダンサーズの皆さんです」 妙に生気のないその顔は、アップで見れば子供が泣き出すこと間違いなしだ。 「あうううううう……!!」 既に一人、今すぐにでも泣き出しそうな子がここにいる。 「あの、ぐみちゃん? この部屋はいったい……」 桜子の質問に、ぐみちゃんは自信ありげに胸を張った。 「会長の発案した、スライム地獄ですっ! この辺一帯の教室全部にしかけさせていただきました! さすがは会長、見事なトラップです。うるうる」 「罠にはまったとかいう以前に、会長発案ってところにすげえ腹立つな……」 「あ、あのバカ……はうう……」 「で、でも、会長さんらしい罠です……あうう……」 「見事に、みんな引っかかっちゃいましたけど……」 それを言われるととても悲しくなってくる…。 「それでは落ち武者の皆さん、生け贄を捕獲してしまってください!」 ぐみちゃんの命令に、無言のまま動き出す落ち武者達。ガチャガチャと音を立てる鎧が不気味だ。 「ぐうっ、逃げたくても、この状況じゃあ……」 ゆっくりと動く武者達が、教室の中へとその第一歩を踏み入れた。 「うおうっ!!」 床一面のスライムに、ずるり、と足を滑らす落ち武者一向。俺達と同じように全力で転ぶと、そのままズシャアーーッ、と勢いよくこちらに滑ってくる。 「って、く、来るなあ!!」 ただでさえ悲壮な落ち武者の顔が、転んだショックでより恐怖に引きつっていた。 「ひゃあああああーーーーっ!!」 全速力で近づいてくるその顔に、すずのがぽてんと気を失う。 「うぅへぇ!!」 「なんとお!!」 そして、同じく転び、滑ってくる落ち武者の集団。次々と押し寄せてくるその悪夢のような存在に、俺達はなすすべもなく悲鳴を上げていた……。 「いやあ、さすがの無敵ほたるちゃんも、ルールの前には手も足も出ませんか!」 さすがにこれ以上は八重野先輩のブレーキも効きそうにない。ここは無理にでも引き離すべきだろう。 「会長、行きますよ」 俺は会長の襟を掴むとそのまま後ろから引っ張った。 「え? いや、ちょっとしょーくん? 今、せっかくの蛍に好き勝手な事言えるタイムだよ?」 「俺は命に関わる借金を増やしたいとは思いません。このイベントが終わった後のこと、考えた方がいいですよ」 「その時は当然、誰も止める人はいませんので」 「というわけなのですみません、先輩。これの処分はまた後ででも」 「……いいだろう。その間に辞世の句でも詠ませておけ」 「ちょ、ちょっと待って!? これ、ゲーム! イベント! 終わったら綺麗に水に流して!」 当然、八重野先輩はそんな会長の叫びを聞くこともなく、黙ってその場から立ち去っていった。 俺は、自ら死刑宣告書へとサインをした会長を、無理やり引き上げながら階段を上る。 「ど、どどどどどーしよぉ、しょーくん! 殺される! 俺絶対に殺されるよ!」 「自業自得ですから勝手に殺されて下さい。遺書とか書いておいてくれると助かります」 「しょーくん、つめたーい! つめたすぎるよぉー!」 うわー、なんか八重野先輩でなくて俺が切れそうっ。 俺は昂ぶる自分を必死に抑えながら、どうにか上の階へと辿り着いた。 「ふっふっふっふ……待っていましたよお二人とも!」 「誰だ!?」 俺達を待ち構えていたらしいその声に、俺は慌てて振り返る。 「この時間まで生き残るとは、さすがは会長です! そしてしょーくんさんも!」 「……」 「………」 「ですが、その快進撃もここまでです!」 びしいっ、と勇ましく俺達を指さすぐみちゃん。けれどそんなことよりも、俺と会長の目は、その背後に釘付けだった。 「あの、ぐみちゃん……後ろのその人達、誰……?」 ぐみちゃんの後ろに立つ、大量の……落ち武者姿の皆さん。 「ぐみと愉快な落ち武者ダンサーズの皆さんです! ゾンビ部隊の精鋭中の精鋭ですよ!」 ぐみちゃんの紹介に合わせ、こくこくと頷く落ち武者ダンサーズの皆さん。真っ青な顔に、ほどけた長い髪。ご丁寧に、頭を矢が貫いている人までいる。 「い、いやまあ、確かにゾンビなのかもしれないけれどさあ……」 がちゃがちゃと鎧の音を立てながら、俺達を完全に取り囲む落ち武者一行。やばい、これ本気で気持ち悪い。 な、なんてものを従えているんだ、この子は……。 「ぐ、ぐみちゃあん。こ、こ、これはちょっと怖すぎると思うんだよね」 「はい! 会長発案のこのイベントを盛り上げるべく、ミステリー好きとして頑張りました! メイクもすべてプロ仕込みです!」 「まじで!?」 俺の質問に応えるべく、落ち武者の皆さんが一歩踏み込む。こ、怖いって、これ! 「ひ、ひいぃっ! わ、わかったからぐみちゃん! これ、ほんと怖いから、お願いやめて!」 神に祈るように両手を握りしめ、懇願する会長。今この瞬間だけは、俺も会長に賛成だ。 会長の言うことなら、ぐみちゃんも聞いてくれるのではないか…。 が、ぐみちゃんは、申し訳なさそうにかぶりを振った。 「申し訳ないのですが、尊敬する会長のお言葉と言えど、こればかりは聞けないのです……」 「これはミステリーマニアとしてのこだわりの問題。悲しいことですが、別腹なのです!」 涙を拭って言い切るぐみちゃん。その瞳には、己を鬼とし、進むべき道を決めた者の持つ輝きが宿っていた。 「そんなばかなー! ぐみちゃんが、俺を見捨てたあああああ!!」 あまりの衝撃に、その場に崩れ落ちる会長。まあ、ぐみちゃん以外の人にはとっくに見限られていたわけだけれど。 「会長、わかってください! これはぐみにとっての試練なのです! ぐみのミステリー好きの魂を裏切るわけにはいかないのです!」 「ダンサーズのみなさぁん!!」 「やっちゃってくださぁい!!」 キラキラと輝く涙をこぼしつつ、思い切り手を振りかざすぐみちゃん。その大げさな動きに合わせて、落ち武者な皆さんが動き出す。 「い、いやちょっと……ま、待ったぁ!!」 そんな俺の懇願なんて届くはずもなく、俺と会長は落ち武者集団の塊に飲み込まれていった……」 「わはははははは! やー、どんな気持ちぃ? そうやって、ただ見ているしかない負け犬の気分っていうのは! あー、おもしろーっ!!」 相変わらずの挑発を続けるバカイチョウ。それを見上げる八重野先輩の姿は、誰がどう見たって限界なわけで。 「いや、お似合いだよほたるちゃーん。そうやって何も出来ずに下から見上げる姿。ぷぷぷ!」 「勝ったこれー!! 俺は今日この肝試し、完全に蛍に勝ってるぞぉぉ! わはははははは!」 「ルールさえ……」 「おや、何かなあ? 何か言い訳があるなら聞いてあげよう」 「ルールさえ守ればいいわけだな……」 ゾクリ、ときた。 今の声、やばい。怖いとか恐ろしいとか、そんなんじゃない。ただ、やばい。 八重野先輩の姿が、その瞬間下の階から消えた。 いや、正確に言うなら、跳んだ。 「へ?」 当然、いくら八重野先輩といえど、重りをつけた今の状態でのジャンプで、ここまで辿り着くなんて出来るわけがない。 八重野先輩は手すりへと飛びつくと、その勢いと手の力で、踊り場へと、もう一度跳んだ。 う、嘘だろぉ!? この人、相変わらずどういう身体能力してるんだ! 「こ、こらこらあ! ゾンビが階段を上るのは……」 「階段を上るな、ということは、足で段差を跨ぐな、ということだろう!!」 「俺は階段など上っていない! 手すりを使い、『上の階へと跳んだ』だけだ!!」 「あぁ……なるほど……」 八重野先輩の発言に、俺はぽん、と手を打った。 「そ、そんな無茶なあぁ!」 確かに無茶だが、まあ通せなくはない理論だ。 といっても、八重野先輩にしか通せない理論だけど。 それにまあ、この人はこういうところで痛い目を見ておくべきだ。 「覚悟しろ、奏龍……」 「や……やだなあ、蛍くーん。軽い冗談じゃないか……」 目の前に降りた八重野先輩に、会長はジリジリと後ろに下がる。 が、狭い踊り場、すぐに背中が壁にぶつかった。 「生きてる人間が、ゾンビになるにはどうしたらいいか知っているか……」 「え、えーと、背中の……」 神速、という言葉がこれほど似合う動きも他にないだろう。一瞬で伸びた八重野先輩の腕が会長の体を掴む。 次の瞬間、それはぬいぐるみか何かのように空中に浮いていた。 「死ね」 受け身を取ることすら許されず、思い切り強く床に落ちた会長。あー、今の落ち方痛いだろうなあ。自業自得だけど。 「一度猿からやり直せ」 「きゅうぅ……」 ひくひくと痙攣している会長の背中からゼッケンシールを引っぺがす八重野先輩。その態度一つをとっても、怒っていることがよくわかった。 「ほんと、バカだ」 これほどまでに同情出来ない人も珍しすぎる。俺は呆れの溜息をつくと、本心から呟いた。 とりあえず、これで悪は滅んだ。八重野先輩もスッキリ……。 「あと一人……」 「……え?」 その口からこぼれた地獄の使いのような一言に、俺は思わず周囲を見回した。あと一人ということは、もう一人八重野先輩にとっての敵がいるということで……。 でも、ここにはやっぱり俺しかいないわけで……。 「嘘! 俺!? な、なんで俺まで!?」 「ついでだ。恨むならあのバカを恨め……」 「つ、ついでですかあ!? あ、ありえないいいっ!!」 もはや逃げる暇もない。八重野先輩の腕が、しっかりと俺の体を掴み取った……。 葛木晶、リタイア……。 「お腹減ったぁ……」 「あー、散々なイベントだった……」 「まったくよね……」 ようやく終わった肝試しに、俺達は心の底からの言葉をこぼす。 結果、生き残りゼロ。肝試しプロデューサーぐみちゃんの完全勝利。 俺達は、本当に最後の生き残りだったらしい。 「そうか? 晶は参加できただけいーじゃねーか! オレなんかゾンビ役に重り渡してただけなんだぜー!」 「あそこなら見つからないはずだったのに……」 「くるりさん、どこに隠れてたんですか? 一度も見かけませんでしたけど」 「最高のイベントでした。ぜひまた第二弾を企画して下さい、会長!」 「次はこいつが本物のゾンビになるかもしれんがな」 「そ、そうですね、あはは……」 会長は、イベントの途中でよせばいいのに八重野先輩をからかい、その報復を存分に浴びていた。 ほんと学習能力のない人だ。 校内にはもう誰も残っていない。閉会式の後に簡単な片付けをやっていた俺達が最後だ。 しかし通い慣れた場所も、電気を消すだけであんな違う世界になるんだなあ。エジソンって偉大だ。 「ところで、さっきからずっと気になってたんだけど、葛木くん、なんで前かがみになってるの?」 「え? いや、その、えーと……」 俺の背中には、肝試しの最後で見事に気絶したすずのが背負われている。 どうやら結衣を追って肝試しに参加していたらしいのだが、迫り来るゾンビの恐怖に耐え切れず、気絶という名の脱出。 ゾンビに驚く幽霊っていうのはどうなんだろうとは思うものの、違うものだからまあアリなんだろう。 まあ、それを言ったら幽霊なのに体重がある時点でおかしいんだよな。 もうちょっと食べた方がいいんじゃないか? っていうくらいに軽いんだけど。 でもまあ、小振りとはいえ背中に押し当てられてる膨らみの感触は素直に嬉しい。役得とさせてもらおう。 「あ、あのね、片付けの時に、ちょっと重い物持ってもらって、その時に少し腰を痛めちゃったみたいなんだ。ごめんね、晶くん」 「そうだな。腰は男の命だからな。大事にしといた方がいいぜ」 おお、ナイスフォローだ二人とも。 結衣とマックスにはすずのの姿が見えてるから、こういう時は助かる。 「そうだったんですか……。大丈夫ですか、晶さん?」 「気をつけなさいよ。腰は結構クセになるらしいから」 「痛みが引かないようなら、早めに病院へ行った方がいいかもしれないわね」 「今日は夜更かしせず、すぐに休むことだな」 「は、はい。そうします」 まあ、今日はさすがに疲れたし、このまま寮に帰ってバタンキューといこう。 「でも、ゾンビさん達の格好だとか、最後の放送だとか、結構怖かったよね」 「はい。教室にも結構色々な罠だとか仕掛けられていたの。驚いちゃった」 「ぐみ、頑張りすぎ」 「なんといっても会長より与えられた重大任務です。ミステリーファンとしても、ここは手を抜けない場所でした」 「いやあ、俺としては、もうちょっと手を抜いてもらってもよかったんだけど……」 「めんどくさいからって、ぐみちゃんに押し付けたりするからよ。まったく」 「次はもう少しバイオレンスな奴頼むぜ、ダディ」 「お前は校舎を世紀末にでもするつもりか……」 イベントの終わった安堵感からか、みんな笑顔で会話をしつつ寮への道を歩く。 が、その途中で不意に茉百合さんが手を前にかざした。 「雨……?」 その言葉に、みんなが同時に空を仰ぐ。外灯のせいで気付かなかったけれど、いつの間にやら月は雲で隠れ、見えなくなっていた。 そしてパラパラと、小さな水滴が落ちてくる。 「こりゃあ強くなるぜ。走った方が賢明だ」 「そうね、寮は目の前だし、急ぎましょう」 が、天音が言うが早いか、降り始めた雨は一気に勢いを増すと、たちまち本降りへと変わった。 「うわっ! 思いっきりふってきた!」 「急がないと風邪引いちゃう!」 俺達は慌てて走り出す。こういう時は、校舎から寮までの屋根をつけてほしいと思うなあ。 「あれ、みんながいない?」 不意に消えたみんなの気配に、俺は立ち止まると振り返った。 全員、その場に立ち尽くしている。 「……あの、どうかしましたか?」 なんだろう、みんなの視線が俺に集まってるように感じるのは気のせいだろうか。 「あ、あの、しょーくんさん……背中……」 「背中……」 「え?」 震える二人の声に、俺は思わず振り返った。 「何か……人のようなものが…」 ああ、まあ確かに背中にはすずのを背負ってるから……って、え!? 「あ、ああああああ、雨が! 雨、浮いて…ああああああわ…」 天音が、思い切り引きつった声を出しつつ、俺を震えながら指差した。 「……葛木、お前、何か…透明なものを背負っているように見えるのだが……」 八重野先輩の言葉ですべてを理解した。 雨がすずのに当たることで、そこに人型の何かがあるのが見えてるんだ。 「ほ、ほんものだああああああああああぁぁ!!」 そして会長の絶叫が、みんなの緊張のタガを吹き飛ばす。 「いやあああああ! やだ! もうやだあぁぁぁ! おかあぁさああんー!」 「ほ、ほ……ほんものはいいですー!! ほんものは許してくださぁぁいー!!」 「お、おば、おば、おば、おばけ……っ」 「え、ええ!? ほ、本当に!?」 「桜子、下がって。だ、大丈夫だから……幽霊なんて……ほ、本当にいるわけが……」 たちまち溢れかえる阿鼻叫喚の渦。 すずのが見える結衣とマックスはともかく、他の誰もが叫び、パニックになる。 あの茉百合さんまでもが引きつっているあたり相当だ。 やっぱり、話で聞いているのと、自分の目で見るんじゃ別もの、ということなんだろうけど……。 「葛木。お前はなんともないのか? 一番危なそうなのはお前なんだが……」 ああ、八重野先輩だけはどうにか冷静を保ってくれていたか。 「いえ、俺は別になんとも……」 とはいえ、いくらなんでもこれをどう説明すればいいのか……。 俺は救いを求めるように、結衣とマックスへと振り返る。 だが二人は、困ったように笑いながら、首を左右に振るだけだった。 「お、お払いだあ! その道のプロに依頼を!!」 「悪霊退散! 悪霊退散! 明日からいい子になります! お願いだから来ないでえ!」 雨が強さを増す度に、周囲のパニックもまた酷くなっていく。こういう時に俺にできることは……。 「い、いやその……」 できることは……。 「き、気のせいだあぁぁー!」 俺は大声で叫ぶと、すずのを背負ったまま全速力で走り出した。 三十六計逃げるに如かず! あとはきっと時間が解決してくれるさ! 本当にもう、なんて一日だ……。 コンティニューしますか? 「あー、散々なイベントだった……」 その後、ようやく終わった肝試しに、俺は心の底からの言葉をこぼした。 どうも今回の結果、生き残りはゼロだったらしい。 結局あのゾンビ地獄の中、誰も生き残れなかったのか。 「……はぁ。とっとと帰ろう。疲れた」 色々な事があった秋休みが終わり、遂に始業式の日がやってきた。 今日からはまた、後期の授業が始まる。 でも今日。 今日一番重要なのは、いよいよlimelightの開店日だって事だ。 午前中の始業式は、limelightの事が気になってあまり集中できなかった。 まあ、式の内容なんて、あって無いようなものだ。 それよりも、放課後に開店するlimelightの方が楽しみでしかたない。 ……俺もケーキ食べさせてもらえるかなあ。 食べられたらいいなあ。美味しかったもんなあ、あのケーキ。 それだけじゃない。 皆で頑張ったことが、ついに形になるんだからな。 昼休み開始を告げるチャイムの音とともに、結衣たちはすぐに教室を飛び出して行った。 きっと、limelightに行くんだろう。 放課後に開店だから、それまでに残っている準備を終わらせておくつもりかもしれない。 「俺にも手伝えること、ないかな」 なんだか、やけにそわそわしてしまう。 行ってみようか。 「ん?」 廊下に出ると足音が近付いて来た。 なんだろうと振り返ってみると……そこには会長がいた。 「やー。しょーくん。お元気ですかー?」 「あ、どうも……」 「どっか行くのかーい?」 「ええ、はい」 「ほほ〜う」 「なんですか」 「ううん。別に〜べっつに何にもな〜いよう」 ニコニコと楽しそうに笑っている生徒会長。 何がそんなに楽しいんだろうか。 まるで何かを企んでいる時みたいな……。 ――企む!? まさか、limelightの開店時に何かしようって考えてるとか!? 「しょーくん、今、良くない事考えたでしょ」 「は?」 「その考えは間違っているとだけ言っておこう!」 「はあ?」 「んじゃ、用事があるからまたねー」 一体、今のはなんだったんだろう……。 まあ一応注意はしつつ、あまり深く考えるのはやめよう。 あの人のこと、気にしすぎると疲れるしな……。 「か、葛木くん! よかった!」 背後から聞こえた声に振り返ると天音がいた。 どうやら走って来たようで、少し肩で息をしている。 「あれ? limelightに行ったんじゃ……」 「ちょ、ちょっとお願いがあるの! ちょっと…こっちに来て!」 「え、あ、わっ…」 俺の腕を引き、天音は歩き出した。 ぐいぐいと強く腕を引かれ、抵抗する事すらできない。 ただ、そのまま天音について行く事しかできなかった。 「ここなら、誰も来ないわよね……」 「何? どうしたんだ、一体」 「………」 何かを話し出そうと、考えている様子の天音。 何を言い出そうとしているのか全然わからない。 でも、その表情は真剣だ。 こういう時って、少し待った方がいいんだろうな。 …と思っていたら、天音は勢いよく俺に近づいた。 「ああ、さっきも言ってたよな」 「うん……あの」 「……?」 「何? 言いにくいことか?」 「う……うん……」 「まあ、きけるようなお願いならきくからさ、言ってみなよ」 「……あ、あのね」 「こ、こんやくしゃ?!」 「ごめんなさい! お願いします!」 「え、いや、なんで?」 「お礼はします! 中華料理でもフランス料理でもご馳走します!」 「えっ! ごちそう!」 「フカヒレとか、燕の巣とか、ステーキでも何でも好きなの食べていいから!」 「フカヒレ! 燕の巣!」 「……おいしいの? 燕の巣って」 「うーん、私はそこまで好きじゃないから……」 「そうなのか……まあ、いいけど、何で婚約者なんだ?」 「えっ? いいって、いいの?」 「いいよ。フリをすればいいんだろ?」 「あ…ありがと……」 「で、どうしたんだ? いきなりそんな事頼んできて。もしかして、前に理事長に何か言われてたことか?」 「うん……」 そういえば、何度か天音は、お母さんに婚約者がどうとか言われてたよな。 あの話が本格的になってきたとか、そういう事かな。 でも、その話ってついこの間だったような気がするんだけど……。 「で、どうしたんだ? いきなりそんな事頼んできて。何かあったのか?」 「うん……」 「お母さんに、お見合いしないかって言われてて……」 「はやっ」 「そうでしょ! まだそんな気ないのよ、私! だから嫌だって言ってるんだけど」 「いきなり結婚しろなんて言わないからとりあえず会ってみるだけでも、って引いてくれないの」 「私があなたの幸せを一番に考えて、この相手を選んできたのよって……」 「まあ、お母さんもお母さんなりにお前のこと考えてるんだろうけど」 「でも私我慢できなくって、つい勢いで、恋人がもういるから無理って答えちゃって……」 「あぁ…」 「そしたら、今すぐ連れて来なさいって言われちゃって……」 「もう後に引けなくなったと」 「うん。ごめんなさい……あの、こんなこと頼めるの、葛木くんしか思いつかなくて」 「いいけど。でも俺、そんなに演技とかうまくないと思うよ」 「それは、私が何とかするから」 「まあ、頑張ってみるよ」 「ありがとう! 感謝する!」 「う、うん」 「じゃあ今から一緒に会議室行ってくれる?!」 「いっ今からっ?!」 いきなりの急展開に脳がついて行けそうになかった。 でも、頭の中身を整頓する前に天音は俺の腕を引いて、また歩き出していた。 「失礼します」 「し、し、失礼します」 会議室に来ると、そこには既に理事長がいた。 椅子に座って天音を待っていたらしい理事長は、天音と俺を見て驚いたような顔をしていた。 そりゃ、驚くよなあ、俺が来たら……。 それにしても、この状況はいきなりすぎないか? 大丈夫なのか俺!? はっきり言って、誤魔化しきれる自信がない! 「……葛木くん?」 「は、はい」 「どうしてあなたが……」 「お母さん、彼が私の恋人なの」 「えっ……葛木くんが?」 ものすごおおおく、びっくりしてる。 なんだか申し訳ない気がする。 ごめんなさい、理事長。 でも、とりあえずは挨拶をしないといけないよな。 「あの、娘さんとお付き合いさせてもらっています。葛木晶です」 「か…晶くん、そんなかしこまらなくてもいいのよ」 「あ、ああ、うん」 「………」 み、見られている。 理事長にすっごい見られてる! ど、どうしよう。 これってもしかして、バレたんじゃないのか? 大丈夫なのか!? 「葛木くんは確か、今……繚蘭会寮にいるんでしたね?」 「えっあ、はい」 「天音、同じ寮にお付き合いしている人がいるというのは、少しよくないのではない?」 「だ、大丈夫よ! 私と彼は、健全なお付き合いをしているの」 「それに、繚蘭会寮の寮長はくるりよ。くるりがそういうこと、きっちりしてるのはお母さんだって知ってるでしょ」 「それはそうだけれど……」 「とにかく! これで納得してもらえたわよね」 「私には晶くんがいるんだから、他の人とお見合いなんて出来ないの」 おお! 天音がうまくまとめてくれている。さすがだ。 よし、俺はこれ以上喋らない方がいいかもしれない。 ヘタに口を出してボロを出すわけにいかないもんな。 「……そうね」 「わかってもらえてよかったわ。じゃあ、そろそろ行くね、limelightの事もあるから」 「じゃ、失礼します」 「………」 「……待って二人とも。まだ話は終わっていませんよ」 呼び止められて、俺も天音も動きが止まった。 な、なんで、まだ呼び止められるの!? さ、さっきので終わってください、理事長。 「葛木くん、あなたに聞きたいことがあります」 「な…んでしょうか…」 「どうして天音とお付き合いしようと思ったの? 天音の、どこが好きになったのか聞かせてもらえる?」 「それは」 「私は葛木くんに聞いているのよ」 「う…」 理事長の言葉を聞いて、天音があたふたしている。 まずい。すごく慌てているみたいだ。 ここは俺がちゃんと答えないといけない。 多分、ここでヘタなウソをついたら、きっとバレてしまう。 それならウソをつかず、普段感じている事を正直に言った方がいい…よな。 「……ちょっと、本人の前で言うのは気恥ずかしいですけど」 「何て言うのかな、いつも周りの事で一生懸命で、面倒見がよくって、ちょっと口がきついとこもあるけど、人のこといつも考えてて」 「いい子だなあ、ってずっと思ってました」 「………っ!」 「でも、ときどき普通の女の子っぽく振舞うこともあって、そういう所が、すごく可愛いと気付いて」 「それで、好きになりました」 「……〜〜っ」 なんか、隣で天音が真っ赤になってる。 いや、うん。俺も恥ずかしいよ天音。 まさか、こんな事を言う事になるなんて思ってなかったよ。 「………」 理事長の視線が、天音と俺を交互に見つめている。 何を考えているんだろうか。 もしかして、俺と天音が付き合っているのがウソだってわかったんだろうか。 それとも、さっきはっきり言ってしまったのがダメだったんだろうか。 「よく、わかりました」 「よかったわね、天音。天音の事を本当に思ってくれる人に会えて」 「えっ……あ、う、うん…」 「お見合いの件は忘れていいわ。ごめんなさいね」 「い、いいの……?」 「ええ、いいのよ。天音が本当に好きになった人がいるのなら、その人と幸せになるのが一番いいものね」 「お母さん…」 「葛木くんはちゃんと、天音の事を考えてくれているみたいだし……」 「なにより、天音が幸せなら、それだけで私も幸せなのよ?」 「お母さん」 「あなたは、私の大切な娘だもの……」 「ごめんなさい、私……お母さんも、私のこと考えてくれてたのに」 「だからいいのって言ったでしょう? ほら、そろそろ行かなくていいの」 「うん……ありがとう」 「ちゃんと彼の事を、大事にするのよ」 「うん」 「葛木くんもどうか、娘の事を大事にしてあげて下さい」 「わかりました」 理事長に頭を下げてから、俺は天音と会議室を出て歩き出した。 少し歩いて、会議室から離れてから天音がうつむいた。 「なんか、ちょっと悪かったな…。お母さん、私のこと考えてくれてたのに」 「そうだな。でも天音にそれが伝わったんなら、よかったんじゃないか」 「……うん」 うつむいていた顔を上げ、天音が俺を見つめて頷いた。 やっぱり、こういうとこは素直でいい子だなって思う。 「でも、これで安心してlimelightの事に集中できるようになったわ!」 「晶くんのおかげよ。ありがとう」 「うん、よかった」 「あ、あの」 「うん?」 「ああ、うん、どうぞ」 「……うん」 「さあ、放課後にはlimelightが開店するから、がんばらなきゃ!」 「ああ」 やる気になった天音の表情はすごく嬉しそうだ。 浮かべられている笑顔もキラキラしている。 なんか、良かったなって思う。 これで、limelightの事にもしっかり集中できるだろう。 放課後を楽しみにしておこう。 急いでlimelightまでやって来ると、そこにはすでに繚蘭会のメンバーが揃っていた。 「こんにちはー」 「あら葛木くん、様子見に来てくれたんだ?」 「うん。何か手伝える?」 「ありがとうございます、大体終わってるから、今は大丈夫」 「そっか。じゃあお邪魔だったかな」 「そんなことないわよ、でもそこに座っててくれる?」 「見てみて! 可愛いでしょこれ。もうちょっとで終わるから、みんなで最後まで頑張るんだ」 テーブルの上には、小さな花が飾ってあった。 いかにも女の子が好きそうな、可愛らしいものだ。お祝いって感じはすごくするな。 「そっか、こういうのやってたんだ」 「うん、せっかくのオープンだから、可愛くしたいんだ」 俺に答えながら、みんなは忙しそうに動き続けている。 でも、ひとりだけ不機嫌そうなやつがいた。 「……」 マックスだ。 しかも、あの、女の子ボディで不機嫌そうな表情をしている。 またあんな顔してお客さんの前に出るつもりなんだろうか。 あれじゃあ、せっかく来てくれたお客さんが逃げて行く気がするんだけど。 「あきら、何してんだ?」 「あー、晶! 聞いてくれよ、酷いんだぜ!!」 「何が」 「折角の開店初日なのに、マミィがオレにこっちの体でいろって言うんだぜー!」 「……まあ、そうだろうな」 「そっちの方が受けがいいから」 「マミィー!!」 「無駄口は禁止。働きなさい、28号」 「は〜い……」 やっぱり、普段のマックスよりも女の子の方がいいって事は、九条にもわかってるらしい。 そっか。わかってるのか。 確かに女の子なボディの方が、ケーキ屋らしい。 しかし九条がわかってるっていうのは、やっぱりちょっと意外だ。 「はあああ。仕方ないから頑張るかー」 「そういえば、ケーキってお前が作ってるんだよな」 「おうよ!!」 「それは準備しなくていいの?」 「あれー? 朝気付いてなかったか? 晶より早く部屋出ただろ」 「あ、うん…そういえばそうだよな」 いつもならゴロゴロ転がって、俺のそばで歯軋りしている。 それが朝の光景だった。 「てことは、朝から……?」 「これから毎日、早起きしてケーキの仕込みだぜ! 大事な事だからな!」 「お前はホント、真面目だねえ」 「朝から一緒じゃなくて寂しいと思うけど、まあコレが仕事だからな。我慢してくれよ」 「いや、寂しいとか言ってないだろ」 「せっかくケーキを作るなら、仕込みからちゃんとしとかないと意味がないからな! あのじいさんも熱く語ってたぜ!」 「いや、だから……そうじゃなくて」 「昼休みとかも準備でいない時もあるかもしれないけど、寂しがるんじゃねーぜ」 「言ってない、言ってない」 「まあ、だからって晶の事を親友だって思ってないわけじゃねーからな。むしろ、だからこそお互いの絆が深まるって言うか、気づかえるようになるって言うか……」 このままほっといても喋り続けてそうだな。 これ以上話を聞いてると、作業の邪魔になりそうだ。 もうテーブルの用意も何も完璧に近いし――。 俺にできることって、やっぱりないみたいだ。 「俺、帰るよ。もう店の準備完璧みたいだしな」 「えー、帰っちゃうの?」 「うん。なあ結衣、ちょっと変えただけなのに、店ん中…昨日までより良くなってるな」 「でしょー!! やっぱりそうだよね」 「葛木くん、放課後には来てくれるわよね?」 「もちろん! ケーキ食べたいし!!」 「はい? それだけの理由なの?」 「いや! 他にもあるけども!!」 「みんなで晶さんが来てくれるの、楽しみにしてますね」 「うん」 「……来なくていいのに」 九条の言葉がちょっと痛いが、まあこれはいつもの事だ。 気にしない方がいい。 邪魔にならないうちに教室に戻ろう。 放課後にはゆっくり来る事になるだろうしな。 それに、もしかしたら店の方の手伝いをする事にだってなるかもしれない。 そうなったらケーキどころじゃないけど……。 店がちゃんとお客さんで賑わうなら、それも悪くないな。 放課後が楽しみだ。 「あ、あのぅ……」 「えっ?」 「晶さん…」 俺に突然声をかけてきたのは、すずのだった。 昼休みの廊下は、何人もの生徒が行き来している。俺は周りに気を配りながら、小声で返事をした。 「どした? 結衣とlimelightに行ってたんじゃなかったのか?」 「あの…実はですね、さっき茉百合さんがlimelightに晶さんの事を探しにこられたので…」 「え…? limelightなら、ちょうど今から行こうと思ってたんだけど」 「入れ違いになったみたいです…」 「そうか、じゃあ一応生徒会に顔を出しておいた方がいいのかな?」 会長の呼び出しならともかく、茉百合さんが探していたのならまっとうな用事だろう。 俺は生徒会室へと足を向けた。 「失礼しますー」 「あっ! しょーくんさんですよー!」 「葛木か。……一人か? 白鷺さんには会わなかったのか?」 「茉百合さんが俺を探してるって聞いたから来たんですけど…」 「あぁ、たいした用ではないのだがな」 だったらなんだろうと思っていると、ぐみちゃんがぱたぱたと足音を立てながら俺に駆け寄って来た。 小さなぐみちゃんは、俺を見上げて真剣な表情をしている。 「しょーくんさんは、あれからご無事なのでしょうかっ?!」 「無事?? いや、別に普通ですけど……」 「おぉぉおぉ。おおぉぉぉぉ……よかったです、よかったですぅぅ」 「え、な、何…?」 「いや、奏龍や早河があまりにも怖がるものでな」 「それで俺も少し葛木の身が心配になった。それだけのことだ」 「だ、だって、ほんものですよぉ〜。ぐみはじめてみました、ほんものの幽霊!」 「………あぁ…」 そうか、この間、雨が降って来た時にすずのをみんなに見られた時の事か。 じゃあ、話ってその事なんだな。 それにしても、そんなに怖がられてるとは思わなかった。 「お前が普段どおりなのなら、それでいい。安心した」 「しょーくんさんには見えなかったのですか? 幽霊…」 「あ、うん……ぐみちゃんたちには、どんな風に見えてたの?」 「え、えぇ、そ、それ……思い出すだけでもおそろしいのですぅぅ!! 八重野副会長に聞いてくださいっ!」 そう言うとぐみちゃんは、どこからかヘッドホンを取り出した。 すっぽりとそれを装着したぐみちゃんは俺から逃げるように離れて行くと、自分の席に引きこもる。 ヘッドホンからは大音量で音楽が流されているらしい。 漏れた音がこちらにも聞こえている。 耳、悪くならないのかな。というか、そこまで聞きたくないのか…。 「聞きたいなら話すが、お前は平気なのか?」 「まあ、平気だと思います…」 だって、その幽霊って俺にとっては普通の女の子だしなあ。 まあ、普通っていうか、普通よりもちょっとドジな女の子っていうか……。 「そうだな、雨粒がお前の背中で跳ねていたというか…なにか見えないものに当たっているような感じだったな」 「お前がしていた格好のせいもあって、ちょうど何かを背負っているように見えた」 「へ、へえ…」 ええ、まあ、ちょうど背負ってましたからねー。 とは言えないですよねー。 「まあ、お前のおかげでこの数日、奏龍が怯えておとなしかったからな。俺は感謝したいくらいだ」 「いや俺、特に何もしてないので…」 と答えた瞬間、おなかが情けなくぐうっと鳴った。 ああ、そういえば、まだお昼ごはんを食べていなかった。 そりゃ、情けない音も鳴るってもんだ。 「あ、じゃあ俺、ごはん食べに行きますんで」 「ああ。わざわざ悪かったな」 「しょーくんさんお帰りですか? お気をつけて下さい…」 「う、うん」 ヘッドホンで大音量の音楽を聴いたままぐみちゃんが俺を見送ってくれた。 そんなに怖かったのかなあ……。 「あ……」 生徒会室から出て来ると、すずのが待ってくれていたらしい。 俺の姿を見かけると、駆け寄って見上げてくれる。 「すずの。もしかして俺の事、待ってたのか?」 「あ…はい、晶さん大丈夫だったですか……?」 「ああ、ふふっ、すずのの話だったよ」 「えっ…?」 驚いたような表情。なんだかちょっとかわいい。 って思ってる場合じゃないか。 お腹すいたし、とにかくお昼を食べなくちゃいけない。 携帯端末の時計で時間を確認する。 かなり時間は経っていた。 ちょっとlimelightに行くには無理な感じかも。 「すずの、昼ご飯はもう食べたか?」 俺が聞くと、すずのはふるふると小さく首を振った。 それなら、ちょうどいいや。 すずのと一緒にお昼を食べよう。 「よし、じゃあ購買でパン買って、一緒に屋上に行こう。limelightは放課後まで楽しみにしとく事にする」 すずのは、今度は首を縦にこくこくと振った。 よし、それじゃあ行こう。 購買で適当にパンを選んで買ってから屋上に来た。 ここなら、すずのを誰かに見られる心配もあんまりない。 買って来たパンをすずのにも渡し、ふたりで一緒にお昼を食べ始める。 「あのぅ……さっきの、私の話というのは、何だったんでしょうか?」 「あぁ、肝試しの時に、すずの途中で気絶しただろ? その時、俺がすずのを背負って寮に帰ったんだけど」 「えっ、そうだったのですか…! その節はありがとうございました」 慌てたようにすずのが頭を下げた。 瞬間、すずのの髪が一緒にぺこりと揺れた。 「いえいえ。で、その時に通り雨が降ってきてさ。そしたら、みんなが俺の背中に、透明な人が見えるって言うんだよ」 「ほんものだぁ! って大騒ぎになって、まあ何とか誤魔化したんだけど。それで生徒会に心配されてたみたい」 「ふ、ふぁあぁ……ご迷惑をおかけして、すみませぇん…」 「いえいえ。幽霊って、雨が降ると見えやすくなるもんなのかな?」 「そう、なのでしょうか……?」 「わかんないか」 「あっ、でも! あの、何となくなんですけど…」 「何?」 「とにかく水は危険だと何度も教えられた気がします!」 「水に近寄ってはいけない、雨の日に外に出てはいけないって…」 「それは、両親とかに言われたの?」 「う、うぅぅーん……わかりませんが、水はあぶないって思います」 「…………」 「…………うーん…」 すずのが何やら考え始めていた。 話して邪魔をするのもよくない気がして、黙っている事にする。 しばらくじっと見ていると、すずのがプルプルと小さく震え始めた。 「わ……私………もしかして…」 「…すずの?」 「…………水死なんでしょうか…」 「………」 「いや……それは…深く考えない方がいいんじゃないか…」 やばい、この話題、もうよした方がいい気がしてきた。 「あ…予鈴が鳴ってしまいました…」 「そうだな、そろそろ教室に戻らないと」 こくこくとすずのがうなずく。 俺が立ち上がると、すずのも立ち上がり、何かを思いついたような表情をした。 「あの、せめて背負ってもらったお礼に、私が扉をお開けしますっ」 「え? いや急ぐと危な」 い、言ってるそばからこれだ。 頭をぶつけたらしいすずのは、ふらふらと目を回していた。 「うわっ、大丈夫か?!」 「あうぅぅぁ……」 ああ、なんかぴよぴよしてるなあ。 痛そうだなあ。 大丈夫なのか、これ? 「すずの?」 「うぅぅ、だ、大丈夫…ですぅ……」 「だから危ないって…」 「ぁい……すみませぇん……」 「すずのは危なっかしいなあ、一人でほっといちゃいけない気がするよ……」 「あ…あぅ……あぅぅぅぅ…」 「ご、ごめんなさぃ……ご迷惑おかけして、お恥ずかしいです…」 「あ、いや、別に迷惑とは思ってないから、大丈夫だけど」 「ほ、ほんとでしょうか…?」 「うん」 「うぅ、ありがとうございます……」 ぎゅっと、すずのが俺の手を握った。 小さくて柔らかい手。 その手のひらの感触に、なんとなく恥ずかしくなる。 「晶さんはとってもお優しいです」 「う、うん……」 なんだろう。今、ちょっとドキっとした。 すずのの嬉しそうな顔を見たら、なんだかこう……。 胸の中がざわっとしたような、こそばゆいような、そんな感じになった。 「あ、あの、じゃ、教室に戻ろう。放課後になったらlimelightに行こうな」 「はい……!」 と、とりあえず今は教室に戻ろう。 いつまでも屋上にいるわけにはいかないしな。 放課後になったら、いよいよlimelightの開店だ。 待ちかねた放課後になった。 新しいlimelightの開店時間が迫ってくる。俺は急いでlimelightにやって来た。 店内は結衣たち全員が揃い、開店直前の準備に忙しそうだ。 「俺、邪魔じゃない?」 「そんな事ないから」 答える天音の手にはエプロンが持たれている。 フリルのついたその白いエプロンは、どうやら人数分あるらしい。 「それって?」 「あ、これ? ウェイトレスの制服とか用意できなかったから、これを制服代わりにしようかなと思って」 「結構かわいいよねー!」 手にしていたエプロンを天音がみんなに渡して行く。 結衣、桜子、そして天音……。 って、あれ? 人数が少なくないだろうか。 九条は? マックスは? 「あの、人数足りなくない? 九条とかは?」 「くるりさんは、あきらさんの準備があるって言ってましたよ」 「あきら……」 そうか。 マックスはいつものロボットボディではいられないのか。 確かにロボットに接客されるよりは、可愛い女の子の方がいい。 何かちょっとかわいそうな気もするけど……。本人は嫌がるだろうし。 まあ、これも店のためだ。 「準備って、昼にはもうあきらになってたのに……他に何かあるのかな」 何かさらにかわいそうな事をされる気もするけど……。 まあ、これも店のためだ。 「それじゃ、エプロン着けたら開店するわよ! 準備はいい?」 「うん」 「はい」 「甘い! あまい、あまい、あっまーーーーい!!」 さあ、みんなでがんばろう。そう思った瞬間聞こえる声。 その声が誰の声なのか、考えるまでもない。 俺と天音は思わず顔を見合わせる。 「じゃじゃーん! 天音たちのために! 兄、参上!」 いい笑顔を浮かべ、ポーズを取る生徒会長。 けど、そんな兄を見て天音が笑顔を浮かべるわけがない。 「はいはい。邪魔! 帰って!!」 「あああ! そんな、冷たい……」 「何しに来たの! こっちには何の用もないのよ」 「そんなに怒らなくてもいいじゃないかぁ……」 「そうだよ天音ちゃん。せっかく来てくれたんだからー」 「いーの! このくらい言ったってどうせ堪えてないんだから!」 「天音はお兄ちゃんに冷たいなあ…」 冷たくしたくなる気持ちもわかるというものだ。 まあ、一応心からではないとは思うんだけど……。 「ふたりとも仲良しさんですね」 「そうかな……」 「もう! 本当に何しに来たのよ」 「決まってるじゃないか! せっかく、妹たちががんばって再オープンさせた、limelightのために……」 「かっわいーい制服を用意して持って来たのだ!!」 会長は嬉しそうに言いながら、勢いよく天音の目の前に制服を取り出す。 「は……」 ひらひらと風に揺れるのは、フリルのたくさんついたワンピースと白いエプロン。 喫茶店のウエイトレスさんが身に着けていそうな、女の子なら誰もがかわいいと思うようなデザイン。 「わああぁぁ! すごーい! かわいい〜!」 「なんだか本格的です!」 「みんなのために用意して来たんだよー」 手にしたワンピースをひらひらさせながら、会長は嬉しそうだ。 結衣と桜子の目もその服を見ながらキラキラと輝いている。まあ、かわいいし、わからなくはないけど。 それと対照的に、天音一人が憮然としていた。 「ねーねー、天音ちゃん! これ、着ようよ!!」 「本物のウェイトレスさんみたい…。私も着てみたいです」 「うんうん。そういう反応は嬉しいなー」 「え、えええ……」 「心配しなくてもいいぞ! ちゃーんと、全員分あるからね!」 「用意しなくていいのに……」 「うわぁー。このエプロンもすごく可愛いよ! こんな服、初めて着るかも!」 「私もです。こういう可愛らしい服って、あまり着る機会ないですよね! すごく嬉しいです」 「う……」 天音は不満そうだったが、結衣と桜子は制服を着る気満々だ。 これはもう『ダメだ』『嫌だ』と反論できる空気じゃない。 そもそも人のいい天音がこんなに嬉しそうな二人にそんな事を言えるわけがない。 「ねえねえ、これ着ていいよね? 天音ちゃん」 「……」 「天音さん……」 「あーもう! いい、いいから! じゃあ、もう早く着替えよう! ね?」 「わーい! やったー!」 「じゃあ、あの。着替えて来ます」 「はいはい。みんなの分はこっちだよー。持って行って着替えてねー」 「会長さん、ありがとー!」 「ありがとうございます」 結衣と桜子は会長から制服を受け取っていた。 そのままふたりは着替えに行き、天音と俺が残される。 そして、そんな俺たちを会長がじっと見つめる。 「ほら、これが天音の分」 「……」 「みんな着るよ?」 「わ、わかったわよ! 着ればいいんでしょ」 「うんうん。じゃ、行ってらっしゃーい」 「もう!」 会長の手から制服をひったくった天音は、そのままみんなの向かった方へと移動して行った。 そっかー。 みんながあれを着るんだよなあ。 結構……いいんじゃないかなー。似合うと思う。さぞかし可愛いだろう。 ちょっと楽しみかもしれないぞ。 「ところで、しょーくん!」 「はい?」 「君にも制服があるよ! 着替えておいで」 「はあ? なんで俺の分も!?」 「え、なんで? どーせ手伝うつもりだったんでしょ」 「は、はあ」 確かに手が足りなさそうなら手伝うつもりではいたけど……。 「ほーら」 「……」 馴れ馴れしく肩を抱きながら、会長はいつの間にか新しい服を手にしていた。 明らかに男性用のその服。 おまけにサイズも俺にぴったりに見える。なんでだ。どこで測った。 「さあ、しょーくんも着替えよう!」 「……はいはい」 どうせ嫌がったって、なんだかんだ理由をつけて着替えさせられるだけなんだ。 だったら最初から素直に着替えておこう。 その方が何事もスムーズに進む、そんな気がする。 「みんなが着替えてるとこ行っちゃだめだよ? 男の子だから気になるのはわかるけど」 「行きませんよ!!」 「じゃ、俺はここで待ってるからね〜」 渡された制服に着替えてlimelightへ戻ると、既に他のみんなも着替えを終わらせて戻って来ていた。 さっきはいなかった九条とあきらの姿もある。 「…………」 ……ところで、どうして頭に猫耳がついているんだろうか…。 あれは新しい装備のひとつなのか? それともかわいいからつけているのか? あきらをしゃがませた九条は、その猫耳の位置をかなり慎重に調整している。 という事は、やっぱり九条が用意したのか? それにしたって、何故、今、猫耳。わからん…!! 「これで良し」 「………」 「ふたりも着替えたんだ」 「……なに、その格好」 「いや、俺の分も用意されたんで」 「ふーん」 「晶はいいよにゃー、いつも通りじゃねーかにゃん。その服だって、ビシっと着ててカッコイイにゃん」 「は!? な、なに、今の?!」 「うるさいにゃん! 好きでやってるわけにゃいにゃん!」 「28号の態度が悪いから、強制言語プログラム」 「強制……?」 「そんにゃ事言ったって、オレはいつものカッコイイ体でいたかったんだにゃんー!」 「ダメ。女の子の方がお客は喜ぶ」 「そんにゃの知ったこっちゃにゃいー!」 「28号……」 「うう!」 「ああ、なるほど……。強制的ににゃん語になるんだな」 「正解」 「やりたくてやってんじゃにゃいにゃん!」 明らかに不満そうなあきら。 でも、まあ、いつもの男言葉が笑える感じになっているので、接客態度が悪いあきらにはちょうどいいのかも。 ある一定の層にはうけるかもだし。 何しろ、見た目は可愛い女の子だからなぁ。 「今日だけだよにゃ?」 「一応ね」 「……わかったにゃ」 まあ、初日くらいはこういうサービスがあってもいいかもな。 あきらには悪いけど、おもしろいと言えばおもしろいし。 「それにしても恐ろしい事考えるな」 「28号が大人しくしていれば、こんな物用意はしなかった」 「ふーん。これって、ぐみちゃんも手伝ったの?」 「ふたりの共同開発」 「ほー」 ふたりして猫耳に言語強制プログラムを組み込んだのか。 怖いちびっこ達だ。まったくそういう風に見えないのが、余計に怖い。 「28号、向こうの準備」 「にゃーん」 「あ、なんかあったら手伝うからな」 あきらを連れて九条は厨房の方へ向かった。 ケーキとかの最終チェックをするのかな。 しかし、やっぱりこの格好でここにいるのは落ち着かない……。 「あれー! 晶くんも着替えたんだね」 「あ、うん、まあ、用意されてたから、一応」 制服の裾を気にしながら周りを見ていると、結衣と天音と桜子がやって来る。 3人とも用意された制服に着替え終わっていた。 俺より早くに準備に行ったから当然か。 「わぁ、晶さん、素敵です。とてもお似合いですよ!」 「そ、そうかな? ありがとう……」 着慣れなくて不自然な気がするんだけど……。 女の子から褒められて悪い気はしない。 「はあ〜。なんで、こんな格好」 「いいじゃないか。みんなも似合ってるし、可愛いし」 「え……!?」 「喫茶店って感じもして、すごくいいと思う」 「ま、まあ、それは確かに認めるけど……」 ワンピースの裾を持ち上げ、天音がその場でくるりと回る。 広がりながら宙を舞うフリルに少し、目を奪われた。 やっぱり、ケーキ屋っていうのはこういうのがいいかもしれない。 悔しいけど、生徒会長の持って来てくれた制服は悪くない。 女の子たちが着ているから、なおさらそう思う。 「みんなちゃんと着てくれたんだー! 似合ってる! すごくいい感じ!」 「あー。会長さん、ありがとうございます!」 「いえいえ、どういたしまして」 「ところで、この服どうやって用意したんですか……」 「あ、しょーくんもよく似合ってるよ! きっと、お星様になったお父様も、空の上から見守ってくれてるだろうなぁ〜」 「いや、うちの親父死んでないから。人の親勝手に殺すな」 「そうだったっけ?」 「そーですよ」 とんでもない事、サラっと言うなあ、この人は。 何も考えずに発言しすぎじゃないのか。 「もうすぐ開店だから、関係者以外の人は出てください」 「ああ、酷い! 俺、がんばって制服用意したのに!! もう関係者同然じゃないですか!」 「はいはい」 「天音ちゃんね、あんな事言ってるけど、ひとりで鏡の前にいた時は結構嬉しそうだったんだよ」 「あー。そうなんだ」 「うん。本当はこの服、けっこう嬉しいみたい」 「ほらー。早く出て行ってよ!」 「い、いいじゃないかぁ。もうちょっといても」 「い! や!」 「イヤって! お兄ちゃんをいやって!!」 まあ、ああやってじゃれてるとこを見ると、本気で嫌なんじゃないのかもしれないなあ。 この制服も仕方なくとは言え、素直に着てるし……。 「もうすぐ本当に開店するんですね。ドキドキします」 「うん! みんなで、がんばろー!」 「うん」 「違うよ、晶くん! こういう時は、オー! って言うんだよ!」 「へ?」 「みんなで、がんばろー! はい、オー! って」 「え?」 俺に促しながら、結衣が片腕を上げる。 拳を握りながら、腕を上に突き出す、やる気満々ですと主張するポーズ。 「おー」 戸惑っていると、結衣に続いて、桜子も同じポーズを取った。 そして俺を見てにっこり微笑む。 「晶くんも」 「お、おー」 「うん! みんなでやるぞー! オー!!」 とりあえず、軽く腕をあげてみる。 結衣はそれで納得してくれたらしい。 また更に高々と腕を突き上げてやる気を見せていた。 そして、桜子も同じようにやっていた。 天音は相変わらず、生徒会長と何か言い合っている。 九条とあきらはまだ厨房にいるらしい。 なんだか、てんでばらばらな気もするけど……。 いよいよ……新生limelightオープンだ! 新たにオープンしたlimelightの店内は、結構賑わっていた。 天音がチラシなどを作ってちゃんと新生オープンの宣伝をしていたおかげで、生徒たちが集まってきてくれたみたいだ。 席もほとんど埋まっているし、みんなもおろしたての制服で店内を忙しそうに動き回っている。 代わる代わるやって来るお客さんに、休憩する暇もない。 これは嬉しい悲鳴ってやつなんだろうな。 「晶さん、注文が入りましたー」 「はーい」 俺は主に厨房担当。 カフェのフロアには女の子がいる方がいいという理由からだが、それももっともだ。 俺だって、可愛い制服を着た女の子からケーキはもらいたいしな。 フロアの方を覗き見てみると、ウェイトレスの服を着た天音たちが慌ただしそうに動いていた。 初めての接客とはいえ、練習を何度もやっただけあってなかなか様になっている。 「チーズケーキのお客様は?」 「はい、それなら紅茶は……えっと…あ、このアップルティーがおすすめです! 美味しいですよ、すっごく」 お客さんと厨房との間の往復を何度も繰り返す。 だけど、誰も来なくってぼーっと待っているよりは何百倍もマシだよな。 自分達でここまで作り上げてきたんだから、なおさらだ。 「伝票。ちゃんと働け」 「は、働いてるってば」 「……」 一組のお客が出て行くと、すぐさま入れ替わるように新しいお客さんが入ってきた。 休む暇なんてなさそうだ。 「いらっしゃいませ! どうぞこちらへ」 「晶くーん、追加の伝票はここでもいいかなあ?」 「はいはーい」 人の流れはまだまだ絶えそうにない。俺もきっちり自分の仕事をこなさないとな。 さて、そろそろ仕事のやり方もよくわかってきたし、客足も落ち着いてきた感じだ。 ようやく一息つけるかもしれない。 そう思ってフロアを見渡す。すると、忙しかったときにはまったく気付かなかった九条の姿を見つけた。 ………。 「なあ、あれは何とかならないんだろうか?」 「えっ? なになに?」 天音に言いながら、九条に視線を向ける。 制服を着て、注文をとる姿は普通のウェイトレスに見える。 見えるんだけど……。 「ご注文繰り返します。ショートケーキとアイスティーですね」 「は、はい」 「少々お待ちください」 ぺこりと頭を下げた九条が伝票を持ってこちらにやって来る。 「注文」 「はーい」 「すいませーーん」 「はい。ただいま」 たった一言だけを伝え、伝票を置き、九条はまた注文を受けに行った。 「言葉づかいはすごく丁寧なんだけどな」 「ええ」 「恐ろしく愛想がないな」 「……反論もできないわ」 黙々と、丁寧な言葉づかいで注文を受ける九条。 無表情のウェイトレスというのは、今まで出会った事がなかったけど……。 これは結構、心に痛いものかもしれない。 ウェイトレスさんって、笑ってくれるものだと無意識で思ってるもんなあ。 「心なしか、お客さんの方が緊張してるように見えるんだけど、これは俺の気のせいかな」 「う、うう〜ん」 「……まあ、あれよりはいいと思うけど」 「え?」 俺が指差す方へ、天音も視線を向けた。 そこにはレジに立つあきらの姿があった。 当然、女の子ボディのままだ。猫耳もついてる。 「ありがとーございましたにゃー」 「………」 「にゃー!!! にゃんでオレがこんにゃ事をー!!!」 「……うう。もういやだにゃん……」 レジで会計をやっていたあきらは、お客さんがいなくなるとすぐにキレて、そして即座にヘコんでいた。 まだ、あれに比べれば……。 「ご注文確認します。コーヒーとミルクティーですね」 九条はちゃんとやってる方だと思う。 あれに比べれば……。 「少々お待ちください」 でも、もうちょっと笑った方がいいよな……。 そこだけは、まだまだ課題なのかもしれない。 これはこれで面白がっているお客もいるかもしれないけどさ……。 まあ今はそんなことより、お店の仕事に集中しなきゃいけないか。 閉店の時間までは、あとまだ少し。 「あ、茉百合さん。八重野さん」 「え?」 「来ちゃったわ、桜子」 「いらっしゃいませ」 「いらっしゃいませ」 嬉しそうに聞こえた、桜子が茉百合さんを呼ぶ声。 そちらに視線を向けると、茉百合さんと八重野先輩が来ているのが見えた。 「ふたりとも、来てくれたんですね」 「ええ…」 「あいつは悪さをしていないか?」 「え? ああ、生徒会長なら大人しく……してるのかな」 そういえば、制服を渡してからどうしてるんだろう。姿が見えない。 逆に不安な気もするけど……。 さすがに邪魔はしたりしないだろうから大丈夫かな。 「何事もないのならそれでいい。迷惑をかけていないか心配だったのでな」 「大丈夫ですよ」 「ほら、心配のしすぎ。皇くんが天音ちゃんの嫌がる事をするわけがないでしょう」 「それはそうなんだが……いや、どうだか」 ああ、なるほど。 会長がどうしているかとか、天音の心配をしてふたりは来てくれたんだ。納得した。 「うふふ。こうしてお話してちゃいけないわよね。お席に案内します」 「ええ、お願いします」 「はい」 ふたりを席に案内する桜子はなんだか特別に嬉しそうだった。 そして、それを見つめる茉百合さんもいつも以上の優しい笑顔だ。 「しっかりやっているみたいね」 「ほんと? ちゃんとできてるかな、私」 「ふふふ。桜子が失敗していないか心配していたのに、余計な事だったみたい」 「そんな! 私はみんなに助けられてばかりだから」 「ふふふ」 「あ! お話しばっかりだめよね。お客様、ご注文は?」 「後から呼んでも構わない?」 「はい! メニューはこちらになります。後ほど、お呼びください」 「はい。お願いします」 「心配しすぎていたか?」 「そうかもしれないわね。でも、それは八重野くんもね」 「――それは仕方ないだろう。あれが悪い」 「ふふふっ」 茉百合さんと八重野先輩は安心したような表情をしている。 どっちも心配していた事がたいした事じゃなかったって感じなのかな。 それにしても、茉百合さんは桜子の方を見ながらずっとにこにこしている。 桜子がウェイトレスとして働いているのが、そんなに嬉しいんだろうか。 女の子の仲良しってそういうものなのかな。 ちょっと不思議だ。 「晶さん、注文が入りましたー」 「はーい」 俺は主に厨房担当。 カフェのフロアには女の子がいる方がいいという理由からだが、それももっともだ。 俺だって、可愛い制服を着た女の子からケーキはもらいたいしな。 そうじゃなきゃ、あきらというかマックスはいつもの体だろうし。 「えっと、さっきの注文の伝票は……こっちです!」 「了解〜」 「あのー、注文いいでしょうか」 「お願いしまーす」 「あ、あの、えっと、晶さんこれが3番テーブルさんです」 「大丈夫、ぽいって置いてってくれてかまわないよ!」 「は、はい」 頷いた桜子は伝票を置いて注文をとりに行った。 少し慌てたようだったけど、その表情はとても楽しそうだ。 置いて行かれた伝票を手にして、注文を確認する。 用意するのはケーキと紅茶か。 注文された品を用意してトレイに乗せて、フロアに声をかける。 「用意できましたー」 「はーい。今、行きまーす」 「あ、天音ちゃん。わたしが行くよ」 「ありがと、結衣」 片付けの最中だった天音に声をかけ、結衣が来てくれる。 用意したトレイを手渡して、伝票を見せると注文した席がすぐにわかったらしい。 「あっちだね」 「よろしくー」 「うん!」 「それにしても……」 「ん?」 「はい、こちらは本日おすすめのケーキです」 「美味しそう! あの、あの…紅茶もいい香りがするんですけど」 「リンゴなんですよ、とっても温かくて素敵な香りですよね」 「桜子、すごい人気だなと思って」 「そうだよね。ていうか、ちょっと違うよね。ウェイトレスさんっていうよりも」 「あー…わかる、それすっごくわかる」 そう、桜子は、ウェイトレスというより、どちらかというとアイドルみたいに注目されている。 今もいろんな席で注文を受けては笑顔を浮かべていた。 生徒達は皆、普段中々話せないからか、桜子に集中して注文をお願いしているようだった。 「ご注文繰り返しますね」 伝票とお客さんの顔を交互に見ながら、桜子は注文を繰り返していた。 楽しくて仕方ない。そんな風に見えるいい笑顔で。 「でも、一番楽しそうなのは桜子ちゃんだよね」 「うん、そうだな」 桜子はこういう経験をした事がないと言っていた。 だから楽しくて仕方ないんだと思う。 でも、たくさん声をかけられてちょっと疲れるんじゃないかな。 あまり頑張りすぎて無理をしなきゃいいけど……。 そう思いつつも、人の流れはまだまだ絶えそうにない。俺もきっちり自分の仕事をこなさないとな。 さて、そろそろ仕事のやり方もよくわかってきたし、客足も落ち着いてきただろうか。 ようやく一息つけるかもしれない。 と、思ったのだがそうもうまくはいかないようだった。 「注文」 「あ、はい。置いといて」 伝票を差し出した九条はフロアに出ようとした。 でも、その前に、さっき用意し終わったばかりのトレイを見つけたらしい。 「こっちは?」 「向こうのテーブル。お願いします!」 「わかった」 小さく頷いた九条がトレイを持ってテーブルに移動する。 嫌がるかと思っていたけど、九条もみんなと同じようにフロアでテキパキ動いていた。 ちょっと予想外。 それにしても、おなか減ったな。 こんなにケーキがあるのに、食べられないんだもんな…。 そりゃ、俺は店員をしてるから当たり前なんだけど。 目の前にあるのに食べられないとか、すごくせつない…。 みんな、美味しそうにケーキ食べてるなあ。 いいなあ……。 お店が終わる頃には、ケーキ全部なくなってそうだし、今日は食べられないかもなあ。 あぁ……。 「あれ……」 今、入り口の近くで、小さな影が見えた気がした。 顔をあげてよく見てみると、その小さな影は確かに存在した。 不安そうにぴょこぴょこと動いて、店内をのぞいて、またぴょこぴょこと動き出す。 その小さな影はすずのだった。 どうやら、様子を見に来てくれたらしい。 「ははっ」 不安そうに店内を見ていたすずのだったが、入り口付近に人がやって来ると慌てる。 店から出る人にぶつからないように場所をあける。 すると、バランスを崩してフラつく。 慌ててバランスを戻して、もう一度すずのが店内に視線を向けた。 「……晶さん」 「……」 店内を見つめるすずのの視線が俺を見つけた。 目が合った瞬間、ぱあっと嬉しそうな表情になる。 小さな微笑み。なんだかこっちまで嬉しくなる。 「……」 微笑みながら、すずのは小さく手を振った。 一応、周りを軽く確認してから手を振り返し、頷いてみる。 すると、すずのもこくんと頷いた。 周囲の誰の目にも、やっぱりすずのの姿は見えていないらしい。 でも、すずのは間違いなくそこにいる。 「…………不可解」 「うっ!!」 不意に背後から声が聞こえた。 振り返ると、そこには九条がいた。 その表情はまるで、不審者を見る目だ……。 「……ふん」 「なんでもないなんでもない」 そのまま、何も言わずに九条は去って行った。 今の、見られてただろうか?! もしかすると、今まで以上に警戒されたとか? ありえる……! がっくりとうなだれそうになった。 「……あ、あの」 小さな声に視線を向けると、すずのはまだこちらを見ていた。 九条とのやり取りを見ていたのか、表情は不安そうだ。 「……はは」 「あ……良かった」 大丈夫だと伝えるために、小さく手を振る。 すずのはそれを見て安心したようにもう一度微笑んだ。 まあ……九条のことについては……あんま考えないようにしよう。 今はそんなことより、お店の仕事に集中しなきゃ。 閉店の時間までは、あとまだ少し。 大忙しだったけれど、新生limelightの初日は大成功だった。 あの店のファンはやはり多かったらしく、お客さんの入りはかなり良かった。 マックスが再現したケーキの評判も悪くなかったようだ。 新しく用意したメニューもなかなかの売れ行き。 これを大成功と言わずして、何を大成功と言うんだろう。 俺たちはみんな、自然と笑顔を浮かべたままで寮に戻っていた。 「お客さん、いっぱいだったね」 「うん。明日も忙しそう」 「明日もがんばらないといけませんね」 「これから、マックスは忙しそうだな」 「そうだねえ、でもケーキ美味しいもん。たくさん人が来てもしょうがないよ」 マックスはいつもの体に戻してもらうため、九条と先に寮に戻っているはずだった。 片付けくらいなら、ふたりがいなくても大丈夫だったし。 ふたりとも、もう自分の部屋にいるんだろうか。 「ぃやあああああああ!!!!!」 「へ!?」 「な、なに?」 「今の声って……」 「くるり?」 廊下を歩いていると、突然、大きな声が聞こえた。 その声は九条の声に聞こえた…ような気もする。 けれど、いつも聞き慣れた九条の声とは明らかに違っている。 いつも冷静な九条からは想像できない、悲鳴にも似た声。 悲鳴……? もしかして、何かあったのか!? 「なんか、ヤバくないか?」 「そ、そうかも……」 「な、何かあったのかなあ」 「くるりさんのあんな声、初めて聞きました」 「様子見に行った方が良くないか?」 「う、うん。でも……」 何があったのかはわからない。 わかるのは、何か悲鳴をあげるような状況だということだ。 確かにこんな中、部屋へ様子を見に行くのは少し怖い。 天音のその気持ちはわかる。 「と、ととりあえずだ! 俺が先に行くから、みんなは後から来て」 「わ、わかった! いざとなったら助けるから!」 「わ、わわわわたしも!」 「わ、私も!」 「いや、無理しなくていいから。怖かったら逃げてくれ」 「でも!」 「だって女の子を前にできないだろ」 「あ……ありがと」 「それじゃあ、行ってみよう、ていうかさ、ほんっとに危険な場合は俺も逃げる」 「う、うん、その方がぜったい……いい」 俺を先頭にして、みんなで九条の部屋に向かう。 ゆっくりとした足取りだけど、確実に前に進みながら。 背後にいるみんなの不安な様子がはっきり伝わる。 こんな状況だからって言うんじゃないけど、男手があって良かったかもしれない。 まあ、でも……。 九条だったら、あの万全のセキュリティシステムを使って、自分でなんとかしてるかもしれないけど。 それに、ここにはマックスもいるしな。 でも、それならあの声はなんだというんだ。 どんどん不安になってきた。早めに行った方がいいのかもしれない。 九条の部屋の前に辿り着き、扉の前に立つ。 部屋の中からは、確かに九条の声が聞こえてきた。 なんか、変な、声だけど……。 テンションがいつもと全く違うというか…。 なんだ、いったい? 「は、入ってみた方がいいよね」 「だよね」 「よし、開けるから」 「は、はい。大丈夫かしら……」 「おーい。九条……」 「な!?」 部屋に入ると、九条がばばっとこちらを見た。 その表情はいつもと全く違う。 部屋に入った俺を見ても怒る事なく、目をキラキラ輝かせてこっちまでやって来た。 「えらいー! えらい、えらい、えらい!!!」 「は、はあ!?」 「このおおお〜。えい、うりうりうり〜〜!」 「ちょ、ちょっと? 九条!?」 突然、俺の首の辺りに腕を回した九条。 強引に視線を前のめりにさせると、抱き着くような状態のままでぐりぐりと頭を撫でられる。 何が起こってるのか全然わからないぞ。 なんだ、俺、何されてるんだ?! いきなり抱き着かれて頭を撫でられるって何!? しかもなんか硬いの当たって痛いし! 全然柔らかくないし! 嬉しくない! この撫で方は嬉しくない! 「く、くるり?」 「くるりちゃーん! ううう、しっかりしてえ!」 「あの……でもなんだかくるりさん、嬉しそう」 強引に頭を撫でる九条を何とか引き剥がし、とりあえず距離を取ってみる。 これ以上なんかされるのは正直怖いし……。 「な、何があったんだよ」 「ふ・ふ・ふー!」 「な、なに……」 「実験うまくいった!!」 「実験?」 「あ。くるりさんは、確かずっと難しい研究をしてたから……成功したのね」 「でも、こんなにテンション高いくるり見るのなんて、初めてかも……」 「よ、よっぽど嬉しかった……のかなあ」 「ふふふ〜ふふふ〜、はーっはははは!」 「だー!!!」 またしても九条が強引に抱き着いて、頭をなでようとする。 なんとか天音たちの背後に逃げる俺。 九条はそれ以上追いかけては来なかったけれど、俺を見てニヤニヤ笑っているようだった。 本当になんだ、これ? 全然意味がわからないし、むしろ若干の恐怖すら覚える。 もしかして、九条はしばらくこの状態なんだろうか。 だったらすごく……嫌だ…。 一日の疲れが、なんだかどっと押し寄せてきた気がした。 「たっだいまー」 「どこに行っていたんだ? limelightに顔を出さなかったのか、祭り好きのお前が」 「あぁー。うん、開店前に一回行ったんだけど。その後はちょっと用事があってさー…」 「……用事?」 「これ」 「……何だ、これは」 「経歴調査の初回報告書」 「………そうか、葛木の件か。よく理事会抜きで調べられたな」 「あぁ。父さんに頼んだから。ほとんど丸投げだよ。もちろん、内密にはしてくれって言ったけど」 「……いいのか?」 「使えるものは何でも使いますよー。何しろここにしょーくんを呼んだのは俺ってことになってるしさ、世間的には」 「………やはりどの学校にも在籍記録はないのか」 「みたいだね」 「――肝試しの時に一度話を聞いてみたが、俺には葛木が嘘をついているようには思えんがな」 「うん。俺もそう思う」 「ほう、根拠は何だ」 「一回カマかけてみたけど、声のトーンが全然変わらなかったから」 「……なるほど、お前の耳はいいからな」 「しかし、本人が嘘をついていないとなると、この結果はどういうことだ」 「さぁ〜…。俺、こういう考えることとか推理っぽいの苦手ぇ」 「これでは、結局葛木がどうやって入学許可証を手に入れたのか、さっぱりわからんな」 「蛍はどうしたらいいと思う?」 「難しいな……」 「誰がどういう意図で彼をここに呼んだかはわからないけど…俺には今のところ何か悪意があるとは思えないんだけど」 「確かに、何か企みがあるのなら、嘘の経歴くらい用意するだろう」 「少なくともここまで簡単に不審な点をさらけ出す事はないはずだ」 「もうちょっと様子を見るってのはだめかなあ?」 「俺とお前だけでか? 少なくとも生徒だけで抱えていい問題ではないと思うがな」 「……うまく言えないんだけど、なんとなく、大丈夫だと思うんだよね…」 「お前は感覚的にものを判断し過ぎだ」 「蛍だってどこかでそう思ってるから、他には黙っててくれてるんでしょ」 「確かに、葛木自身は信用に足る人物だとは思うが…」 「正直、学園側は仮にしょーくんにどういう事情があってもさ、手放したくはないんじゃないかな」 「そうだろうな……俺も詳しくは知らんが、一部の研究チームは相当浮き足立っているらしい」 「………それにしても、理事長……いや、せめて白鷺さんくらいには話したらどうだ」 「それは……ちょっと」 「何故だ。彼女なしでは、いざという時に動きにくいぞ」 「――それ、最後のページまだ読んでないだろ」 「最後の?」 「………」 「………これは」 「まゆりちゃんにはきっと、いい思い出じゃないだろうから」 「……わかった。白鷺さんには話さずおこう」 「初回という事は、二回目の調査報告もあるんだろうな」 「うん、多分。もうちょっと詳しいやつが」 「ではその結果が届くまで、しばらく待つか」 「本人に問い詰めるにしても、もう少し事実の確認が必要だろう」 「うんうん、そんな感じでいこー。じゃーはやく晩ご飯つくってくださーい」 「お前な……」 「……ん」 カーテンから朝日が漏れ入る。 外からは鳥の鳴き声が聞こえていた。 もう朝なんだろう。わかってる、空気も音も眩しさも教えてくれる。 でも、眠い。すごく眠いんだ。 もう少しだけでいいから、眠っていたい。 頭からシーツを被って、漏れ入る光を遮る。 これで、あとほんの少しだけ眠れそうな気がした。 「……すぅ」 「……」 「すぅ……すぅ……」 「晶くーん。起きてくださーい%0」 「すう、すう……」 「晶くーん。朝だよー」 なんか、近くで声が聞こえる。 誰の声だろう。 マックスじゃないよな。 あいつ、朝はケーキの仕込みするって言ってたし……。 じゃあ、聞き間違いかなあ。 眠いからかなあ……。 「起きて、起きて。遅刻しちゃうよー%0」 「う……」 小さな手が、俺の体を揺らしている気がする。 ゆらゆらと揺れていると、余計に心地いい。 そのせいで、もっと眠くなるような……。 「しょーくーん、起きてよー」 「……眠い」 「…………」 ゆらゆらとした揺れが止まった。 今のはなんだったんだろう。 「……死ね」 「おぅわあああああ!!!」 聞き取れないほど小さな呟きの後、激しい熱と衝撃。 身の危険を感じ、慌てて目を開けて、ベッドから勢いよく飛び起きる。 自分が寝ていた場所に目をやると、そこはビームによる攻撃の跡が綺麗に残っていた。 ……ビーム!? 「……ちっ%0」 「な、な? え? 今のなに!?」 「おはよー。晶くーん%0%0」 「く、九条?」 「朝だよー。遅刻しちゃうよー」 「いや、あの……意味がわかりませんが」 「ほらほら着替えてー。一緒に行こうよー%0」 今まで見た事がないくらいのいい笑顔。 そんな笑顔を浮かべながら、九条が腕を引く。 笑顔を浮かべる女の子に、くいくいと腕を引かれる。 それが嬉しくないわけじゃない。 でも、相手は九条だ。 何かを企んでいるんじゃないのか? 何かされるんじゃないのか? そんな不安が頭をよぎる。 「ひとりで着替えられないなら、手伝ってあげるよー」 「い、いや! 着替えるから! 着替える!!」 「うんー」 慌ててベッドから立ち上がった。 かけっぱなしになっている制服に手をのばした時、九条が俺を見上げている事に気付く。 「……」 「……」 「部屋、出ないの?」 「出る」 い、今のは何だったんだろう。 何がなんだか、全然、本っ当ーーにわからない。 あれは夢だったんだろうか……。 でも、ベッドには攻撃の跡がバッチリ残っている。 「晶くん、まだですかー」 「あ! は、はい! 着替えます!!」 ぼんやりしていると、部屋の外から九条の声が聞こえた。 慌ててそれに返事をしながら、パジャマを脱ぎ始める。 制服に袖を通しながら、ふっと動きが止まった。 もしかして……九条のやつ、ずっとあれなのか? えええええええ。 それはちょっと……いや、かなり怖いぞ! 「がっこ、早くいこーね。一緒に%0%0%0」 俺、急かされてる?! 慌てて着替えのスピードを最大に早めた。なんか遅かったら殺されそうだし! 「……」 「……」 何故だろう。 何故、俺は九条と並んで歩いているんだろう。 嫌だとかそういう感情以前に、わからない。 この状況がわからない。 周りを見ると、他の生徒たちが遠巻きに俺と九条を見ている。 何かひそひそ言ってる気もするけど、あまり気にしない方がいいかもしれない。 「あれ? 晶くんとくるりちゃんだ」 「お、おはよう」 「珍しいわね、ふたりが一緒にいるなんて」 「うんー。一緒に来たから」 「え……」 「え? あ、あの、なんで……?」 「……俺にだって意味がわからないよ」 「一緒に来たかったから」 「そ、そうなんだ」 くるりの言葉を聞いて、天音も結衣も戸惑っていた。 そりゃ、当たり前だろう。 俺にだって全然意味がわからないんだから。 こんな状態になって戸惑わない人がいるなら、是非知りたい。 いや、ひとり思い当たるのはいるけど……。 「やぁー! これは我が妹とその婚約者、葛木晶くんではないー!」 「ええっ!」 って、思ってたらその人来ちゃうし! ていうか、なんで婚約者の話知ってるんだ!! 「……え」 「……」 「朝から一緒に登校かぁ、さっすが婚約者同士! ラブラブだねー二人とも! めでたいねー!」 「お……お兄ちゃ、ん……」 嬉しそうな生徒会長の言葉が聞こえたらしい。 周りにいた生徒たちも少しざわざわしてる。 しかも明らかに、九条の時とニュアンスが違う。 なんなんだ、これって。さらしものってやつか? それとも何かのお仕置きか? 「な、何言ってるんだ!?」 「えー。だって、そういう事なんだろう?」 「婚約者……」 「あ、あの、天音ちゃん? 晶くん? 婚約者って……なに?」 「ち、違うの! これはあの、そういうんじゃなくて!」 「えーと、なんて説明したらいいのか……」 「……わたし、何も知らなかった」 「だから、あのそうじゃなくて! 違うっていうか、つまりその……」 「えー。違うのー?」 「お兄ちゃんは黙って!」 「はーい」 「えっと、あのこれはなんていうかな……」 「しょーくんは天音の婚約者なのー?」 「あの、それはですね……」 「えっと、あの……」 「しょーくんは、ワタシの事を弄んだ%0」 「えええええ!!!」 「待てい!!! 何故、そうなる!」 「酷い……」 「やっるなしょーくん! 天音と婚約して、更にくるりんを弄ぶとは! うらやましいねー!」 「違うから! 全然違うから!!」 「……」 「もー! お兄ちゃんが喋るとややこしくなるんだから、何も言わないでよ!」 「いや、だってさあ……」 「くるりも変な事言わないの」 「変な事は言ってない……と思う」 「言ってるよ……」 ごちゃごちゃと言い合っているうちに無情にもチャイムの音が鳴り響いていしまう。 まったく、この状況の説明ができていないのに! でも、授業に遅れるわけにはいかなかった。 とりあえず、俺たちはみんな、慌てて教室に向かった。 せめて、簡単にでも説明したかったんだけどな……。 「……」 「……」 何故だろう。 何故、俺は九条と並んで歩いているんだろう。 嫌だとかそういう感情以前に、わからない。 この状況がわからない。 周りを見ると、他の生徒たちが遠巻きに俺と九条を見ている。 何かひそひそ言ってる気もするけど……絶対良い感じじゃない。 だめだ、気にしないでおこう。 意識を遠くに飛ばすんだ、俺。 「ねーえ、晶くん」 「は、はい!」 「顔色が悪いよー。大丈夫ー?」 「へ、平気。多分……」 それはお前が隣に並んで、無言で歩いているからだ。 どうしてそんな事をするのだ。 とは怖くて聞けない。 何を考えているのか、本当にわからなくて不安だ。 「あのね、お昼も一緒に食べようねー%0」 「え!? へ? な、なんて?」 「やーくーそーくー%0」 「は、はあ……」 なんだろう。 本当に何が目的かわからないのが怖い。 今までの九条だったら、こんなの絶対にない。 だからこそ、怖い。 何か恐ろしいことが起こっているとしか思えない。 「休み時間も会いに行っていいー?」 「はい!? ちょ、い、今なんて」 「わーい%0 じゃあ、会いに行くねー%0%0%0」 「……うう」 これはもう、俺が何を言っても、九条は自分の考えに基づいて行動をするって事なんだろう。 多分、そうなんだと思う。 そうとしか思えない。 「……」 「……」 しかし、こうやって黙って歩いてるのを見たりすると、可愛い女の子って感じなんだけどなあ。 ちょっと背も小さいし、制服も少し大きいみたいだし。 「……何?」 「え! あ、いや、別に」 「……じっと見られると恥ずかしいよー%0 もう%0 もう%0」 「そ、そうですか……」 本当にこれ、なんだろう。 全然わからないから、対処のしようがないよ。 いっそビームやミサイルで攻撃される方がいい。 いや、それもすっごく嫌なんだけど、この意味不明な怖さよりかはましだ。 「はあ……」 結局、校舎の中まで俺と九条はずっと一緒だった。 一緒だけど、会話らしい会話はない。 九条はいつもと違うテンションだし。 口を開いたと思ったら妙な事を言い出すし。 「それじゃー、お昼休みにねー%0」 「あ、うん……」 「ばいばーい%0」 手を振った九条に思わず手を振り返してしまった。 俺の手はロボットみたいな、がちがちした感じだったけど。 「…………ちっ%0」 「え!?」 「じゃーねー%0%0%0」 「ちょ、ちょっと今! ねえ!?」 一瞬、舌打ちが聞こえたような気がしたけど……。 き、気のせいかな。 いや、気のせいにしとこう。 「……はあ」 とりあえず俺も、教室に向かおう。 これは悪夢かもしれない。 教室の扉を開いたら、また朝だったりするかもしれない。 ……ああ、本当になんなんだろう。 昼休みが始まると同時に、繚蘭会のメンバーが集められた。 天音が慌てて全員を集めたためだ。 もちろん、全員がここに集められた理由は決まっている。 「あの、天音ちゃん。みんなに話って?」 「大事な話があるの!」 「大事なお話ですか」 「そう! すごく大事な話!」 「……朝の?」 「そうそう、それそれ! その話よ」 「あ……」 「あのね、晶くんが私の婚約者だっていう話の事なんだけど」 「まあ! そうだったの?」 「だーかーらー! ちゃんと聞いて」 「はい」 桜子がうなずいたのを見て、天音は小さく咳払いをした。 それから、全員をぐるっと見てから口を開き始める。 「あのね……。実はずっと前から、お母さんからお見合いの話を持ち出されてたの」 「お見合い?」 「……でも天音のこと、心配してるから」 「それはわかるんだけど……でも、私にはまだそんな気がないし、それに一度会ったらすぐに結婚の話とかを持ち出されそうで…」 「確かに、お会いしてみたら意外と仲良くなって結婚、というお話になるかもしれないですものね」 「う、うん。だから、どうにかしてお母さんにはお見合い自体を諦めてもらえないかなと思って考えたのよ」 「あ! もしかして、お見合いがつぶれるように、晶くんにウソの婚約者になってもらってるの?」 「はい、正解!」 「結衣はカンがいいな」 「なんだぁ、そうなんだ……」 「もしかしたら、すぐにウソだってバレるかなって思ったんだけど……なんとか、上手く行ったみたい」 「じゃあ、それからはお見合いの話はないの?」 「うん。今のところはね」 「良かったですね」 「……いいのかな」 「良かったのよ、お母さんだって一応納得してくれてたんだから」 「それならわたしたちにも、早く言ってくれれば良かったのに…」 「ごめん。急に決まっちゃったから誰にも言えなくて……」 「俺も黙ってればいいと思ったんだけどなあ……会長が……」 そうなんだよなあ。 今朝、会長があんな事言わなきゃ、こんな風に説明する事もなかったと思うんだよな。 ホント、ろくな事しないな、あの人は。 「もぉ、本当にごめんなさい…」 「いや、天音が謝る事じゃないだろ」 「そうだけど……」 「でも、お母さんに嘘だって知られちゃうと大変だね」 「そうですね。また、お見合いの話をされてしまうかも」 「あ……うう……」 それはその通りだった。 もしも、俺と天音の関係がウソだってバレたら……。 今度こそ、天音はお見合いをして、ヘタをすればそのまま即、結婚って事になると思う。 「大丈夫だよ! 天音ちゃん! 他の人にバレないように、わたしも協力する!」 「結衣? でも……」 「大丈夫。だって、もうお見合いだなんて、そんなのわたしも絶対に嫌だもん」 「ありがとう、結衣」 「晶くんも!」 「へ!?」 いきなり名前を出されて驚いた。 思わず、変な声が出た気がする。 というか、ここでどうして俺が……? 「他の人にバレないように、ちゃんと婚約者っぽくしないとダメなんだよ」 「は、はい」 「私も何かお手伝いできる事があればいいんだけど…」 「いいの、話を合わせてくれるだけで充分よ」 「はい。わかりました」 「くるりも! 余計な事は言わないでね」 「……了解」 一応、九条の方も納得してくれたみたいだ。 どこまで納得してくれてるのかはわからないけど……。 まあ、多分、大丈夫だろう。朝からなんか変だったけど、今は普通だし。 俺の事はともかくとして、天音の事は大事に思ってるみたいだし。 「じゃまとまったとこで、これからみんなでお昼ご飯しよーよー! おなかすいたよー!」 「お、いこういこう!」 「ふぅ、じゃあ行きましょうか。あぁ、何だかすごく疲れたわ……」 やっと話が終わって、俺たちは揃って食堂に向かう事にした。 なんか、大変な事になりそうだけど……。 こうやって、みんなが知ってくれていたら大丈夫だろう。 午前中の授業が終わり、念願の昼休み突入だ。 もちろんお腹はグウグウと鳴っている。 しかし、気になるのは九条だ。 朝からの態度は明らかにヘンだ。 いや、ヘンという言葉で片づけてはいけない気がする。 でも、だからと言ってどうすればいいのかはわからないんだけど。 とりあえずは……このまま会うの怖いかも。 「おなかすいたよー! ごっはんごはんー!」 「結衣、俺、今日ちょっと外で食べるから! その、九条が来たらごめんって言っといて」 「なんだよ晶ー? どこ行くんだよー?」 言えない。 こいつだけには絶対に言えない。 九条がなんだか怖いから、逃げ出しますなんて言えない。 何か適当に別の理由を考えよう。 「まあ、俺のご飯は適当にするからさ」 「わかった、いってらっしゃいー」 九条に会わないように教室を飛び出してから購買に行った。 適当にお昼を選んで、中庭に来てのんびり食べているけど……。 やっぱり、ごはんは誰かと食べる方がいいな。 今まで、ひとりの事の方が少なかったから、ちょっと寂しい感じがする。 それに、もし教室に九条が来てくれてたとしたら……。 ちょっと悪い事したかも。 「…あれ?」 ぼんやりとお昼を食べていると、女子生徒たちが遠くで集まっているのが見えた。 みんなどこかを見て、何か話してるみたいだけど、あの先にいるのってもしかして……。 「………」 「茉百合さんだ」 そうだ。茉百合さんと一緒にごはん食べるってのはどうだろう。 1回、聞いてみようっと。 「……あ」 「茉百合さん」 「晶くん」 茉百合さんがいつものように俺を見つめてくれる。 でも、何だろう。 微かにだけど、いつもと違う気がする。 茉百合さんはいつもの表情なのに。 いつもと同じように名前を呼んでくれているのに。 それなのに、この違和感はなんだろう。 何がいつもと違うのか、俺には説明できないけど……。 「どうしたんですか? もしかして、具合でも悪いとか」 「いえ、大丈夫よ。少し考え事をしていただけなの…。晶くんは?」 「あ、俺、今昼ごはんを食べてた最中で。茉百合さんも一人なら、一緒に食べませんか?」 「あ…ごめんなさい、あの、少し今日は食欲がないのよ」 「やっぱり具合悪いんですか?」 「いいえ、少し朝食を食べ過ぎただけよ。心配しないで」 「それじゃあ、私は生徒会室に戻るから」 「あ。はい。それじゃ」 答えた茉百合さんはその場から去って行った。 去って行く後姿はいつも通りの茉百合さんだった。 「……なんだろう」 いつも通りと言えば、いつも通りなんだけど。 さっき感じた違和感は何だったんだろうか? 具合は悪くないって言ってたけど……なんだか心配だな。 「あれ〜? しょーくんじゃん!」 「げっ」 「うわっ、なんだよその顔…。悲しいわぁ。まるで俺に会えて嬉しくないみたいじゃないか」 「嬉しくないよ」 「ひどっ!」 「俺の相手まともにしてくれるの、しょーくんだけなのにぃ!」 「うわっ、やめてくださいよ! 離れ…」 まとわりついて来る生徒会長から離れようと体を動かしていると、会長のポケットから何かが落ちたのが見えた。 「あれ、何だこれ……」 「あっ!」 ポケットから何かが落ちた事に気づいた会長の表情が、一瞬にして変わった。 これってもしかして、何か決定的なアイテムとか!? これでこの人の弱み握れるとか!? だとしたら拾っちゃえ。 「はう、それ、返して〜!」 「何か都合の悪いもんじゃないんですかー? えっと…ん?」 拾い上げたそれは、1枚のカードキーだった。 繚蘭会の寮でも、部屋の鍵はカードキーになっているから、多分これもどこかの寮のものなんだろう。 どうやら、これはスペアらしく、ご丁寧に持ち主の名前が書かれていた。 そこに書かれていた名前は―― 『白鷺茉百合』 「………」 「………あー…あの、それ…」 「……まさか、盗みまでするとは」 「違うぞっ?!」 「違わないだろ、なんで会長が茉百合さんの部屋の鍵持ってるんだよ」 「うっ、そ、それは」 「とりあえず茉百合さんに……いや八重野先輩に報告した方がいいか」 「ちょっと! だから違うって! それ、俺がまゆりちゃんからもらったんだって!」 「なんでだよ!」 「な、なんでって………」 ウソくさい。 大体、なんで茉百合さんが生徒会長に鍵をあげる必要があるんだ。 何か悪巧みしてるとしか思えない。 「やっぱり何か悪巧みしてるんだろ」 「ち〜が〜う〜って〜…」 「じゃあ納得のいく説明してみて下さい」 「うぅうぅ………隠れて昼寝するのにちょうどいいから、部屋を使わせてもらってるんだ。それだけ…」 「自分の部屋ですればいいだろ」 「うぐっ…」 ホント、この人ってウソつきだよな。 そんな理由で茉百合さんが部屋を使わせるわけがない。 大体、女の子の部屋で昼寝なんてありえない。 じっと見つめていると、会長は観念したように表情を変えた。 その表情はちょっと諦めが入っている気がした。 「…………」 な、なに? 今、この人なんて言った? う、ウソだ! なんで会長と茉百合さんが!? そ、そんなバカな事あるわけない! ありえない! 大体、茉百合さんがこんな人と婚約する理由がない!!! 「ま、またそんな事言って俺を騙そうとしてるんだろ!」 「なら本人に聞いてもらってもいいけど」 ケロリとした顔の会長。 さっきまでの、誤魔化すような態度とは全然違う。 その顔を見てると、なんだか嘘だとは思えなかった。 てことは……本当に? 婚約者って、茉百合さんと会長が? なんで? どうして? 婚約者って事は、ふたりは最終的に結婚……するの? 結婚って誰が? 会長と茉百合さんが? ……なんで? どうして? そんな事に? 「……まあ、あの、そんなショックそうにしなくても」 「………」 色々信じられない。じゃあ茉百合さんが妙に会長に優しいのも、そういう事? そうだよね……こんな、何もできない人に……。 「あ、あのね。いや、変な事考えなくていいよ。ただの口約束で、俺にもまゆりちゃんにもその気は全然ないから」 「ただその、口裏を合わせておけば、お互い家から余計な事を言われずにすむからさー」 「そうなの…?」 「そうだよ。本当にお互い本気で婚約してるつもりはないんだから」 「……」 「もー。そんな顔しなくても、心配しなくていいんだって!」 「べ、別に心配とか、そういうんじゃないですよ」 「そうなのかなー? なんか色々気にしてるっぽく見えたぞー。まゆりちゃんのこと、気になるのかなー?」 「ち、違いますよ」 「俺には隠し事をしなくてもいいんだよ?」 「気持ち悪い事を言わないでください」 「そこまで言わなくていいじゃないか」 「言いたくもなるだろ」 「ま、そういう事だから気にしないようにね!」 「だから、気になんかしてない!」 「あと、できれば他の人には秘密にしてね。色々めんどくさそうだから。じゃーね!」 「はあ……」 ひらひらと手を振りながら会長は行ってしまった。 あっちって、寮の方だっけ……。 なんで校舎に戻らないんだろう。もしかしてサボるのかな。 それにしても茉百合さん……。本当に会長と婚約してるんだろうか。 でも、口約束だって言ってたし、本気じゃないって言ってたし。 どこまで信じていいんだろう。 さっきは様子がおかしかったし、今は婚約してるって聞いて動揺して……なんか俺、茉百合さんの事ばかり気にしてるな。 ……茉百合さん、本当にどうしたんだろう。 俺、また同じ事考えてる。 ぼんやりと、そんな事を考えているうちに、昼休みはいつの間にか終わりかけていた。 昼休みって、いつもこんなに短かったかな……。 あんまり同じ事をぐるぐる考えているのもよくないな。 俺はとぼとぼと校舎まで戻った。 午前中の授業が終わり、念願の昼休み突入だ。 もちろんお腹はグウグウと鳴っている。 「晶くん、お昼なに食べるの?」 「そーだな。今日は何がいいかなあ」 「食堂のメニューはいっぱいだから、迷っちゃうよねー。いっぱい食べたいよねえ」 「うんうん。ここってホント迷う楽しさがあっていいよなあ」 「そうなんだよね! それが余計にいいんだよね!!」 「お前等はいっつもハラペコだな」 「本当、似た者同士よねー。珍しいと思うわ」 「悪いかよー」 「美味しいご飯が食べられるのは幸せなんだよ」 「そうそう。こう、ほかほかであったかいご飯が目の前にぱーってあって、どれから食べようかなーって選んでる時とか」 「わかる! すっごいわかるよ! 幸せなんだよね!」 「はいはい。わかったから、行きましょ。席が混んじゃうわ」 「それもそうだな。よっし、急ごうぜ」 昼休みの教室にやって来たのは九条だった。 今度こそは逃げられない。 授業の合間の短い休みも、実は九条はやって来ていたのだ。 教室の窓からチラチラと白衣が見えていた。 幸いだったのは、九条が普段授業を受けているらしい研究科の教室がここから遠いことだった。 チャイムの合間に間に合わず、走ってゆく後ろ姿。 休み時間のたびに見てしまった。 一体、本当に何があったというんだ。怖いよ。 「あれ、マミィだ! どうしたんだー!?」 「こんにちは! ねえね、くるりちゃんも一緒にお昼食べに行く?」 「ううんー。晶くんにお弁当作って来たからー、ふたりで一緒に食べる%0」 「な!?」 「て、手作り弁当!?」 九条の手作り弁当? 手作り? あの九条が? 普段、何か口に入れてるっていうと、ケロリーメイトしか見た事がない。 そんな九条が手作り? 何故そんな必要が、どこに?! あと、どんな弁当なのかも非常に怖いのだが。 とっても怖い。なんだろう……ぞわぞわと背中を這い登る、このたとえようの無い恐怖は。 「晶くん、食べてー%0」 「……う」 笑顔を浮かべたまま、九条は手にしていた包みを俺に差し出した。 中身は多分、弁当箱。 だけど、それを素直に受け取っていいものか……。 「あ、あの……くるりって料理できたっけ?」 「がんばってみた」 「わー、どんなのどんなの? 見せてほしいなあ」 「晶くん、いいー?」 「いや、別に俺はどっちでも……」 何故、俺に聞く? どうしてそんなにこっちを見る。 「じゃあ、見せる」 答えながら九条は弁当の包みを開く。 開かれた包みの中からは、可愛い絵の入った弁当箱。 ここまでは普通の女の子らしいものだ。 でも、なんだかこの先に普通の弁当が入っているとは思えない。 「はい%0」 「……!!」 「……く、くるり」 「これ……」 「マミィすっげーな! 超ケロリーメイト弁当だ!」 「うん%0」 開かれた弁当箱の中には、ケロリーメイトが入っていた。 というか、それ以外に何も入っていなかった。 どこからどう見ても、ケロリーメイト。 見事なまでに詰め合わせ。 「こっちはチーズで%0 こっちはチョコ%0 これはフルーツ%0 ワタシのおすすめはポテト味%0%0」 「いや、あの」 「晶くんのために、頑張って作ったのー%0」 「これ、頑張るっていうか、あの……」 「……?」 これは袋を開けて詰め込んだだけではないのか。 そりゃあ、それぞれ味は違うんだろうけど……。 だがしかし。 「食べて」 そもそも、これを弁当と言うのは無理があるのではないのか!? 言いたい事はたくさんある。 そりゃあ、いっぱいある。 でも、九条の目がそれを許してくれそうにない。 「ねっ、食べて%0」 笑ってるんだけど、なんだか目が怖い。 これは何? 本当に一体、なにプレイ!? 「晶くん、アーン%0%0%0」 「はいい!?」 九条は器用に箸でケロリーメイトをつまみ、それをまっすぐ俺に差し出していた。 つまりこれは、食らえという事か。 やっぱりそういう事なのか。 「栄養たっぷりだもんな。良かったな、晶!」 「え、えーっと……私たち、食堂行くね……」 「そ、そうだね。お昼休み終わっちゃうし」 「え! ちょ、ちょっと待って、ねえ」 天音と結衣が食堂に行ってしまおうとしている。 俺も、俺も連れて行って! 美味しいご飯を俺にも……! 「じゃ、じゃーねー」 「晶くん、くるりちゃん、また後でねー」 「うん」 「あ、の……」 「晶くん、アーン%0%0%0」 「……」 なんで、こんな事に……。 わからない。 本当にわからない。 「食べないのー?」 「……うう」 「……チッ」 「え!? い、今、ねえ!?」 「アーン%0%0%0」 舌打ちが聞こえたような……。 気のせい? 俺の気のせい? とりあえず……どうせ食堂に行けないのなら……食べた方がいいのかな。 ケロリーメイトでも、食べた方がいいよな。 うん。そうだ。そう考えよう……。 「い、いただきます」 「わーい%0 嬉しいー%0」 「う、うう」 ぐいぐいと押し付けるように、ケロリーメイトを口に運ばれた。 口に入ったケロリーメイトを噛み砕く。 ちょっとだけ、悲しい味がしたのはどうしてなんだろう。 さようなら、俺の昼休み。 俺は涙を我慢しながら、ケロリーメイトで腹をいっぱいにするほかなかった。 放課後は、すぐにみんなでlimelightに向かう。もちろん店員の仕事をこなすためだ。 今日もお客さんの入りはかなりいいようだった。 マックスの再現したケーキのおかげもあるけど、どうやらそれだけじゃない気もする。 可愛い制服の女の子がいるから。しかも一人は、学園のアイドル的存在の桜子だ。 それも大きな理由だと思うんだけど、どうなんだろう。 「葛木くん〜。お皿片付けて、洗ってもらってもいい?」 「はーい」 「あ、わたしも手伝うね」 「お、ありがとう」 みんな、注文を受けたり、フロアに紅茶やケーキを運んだりと忙しそうだ。 相変わらず俺は片付けや食器洗い、あとは厨房からケーキを出す係だった。 まあ、注文は俺が受けるより、女の子たちが受けた方が断然いいだろうから仕方ない。 他にも、俺にできる事はなるべくやるけど、ずっとこの人数だけでフロアと厨房を回すのは少し大変かもな。 とは言っても、贅沢は言えない。自分たちでやるって言ったんだから。 ああ、でも……。 まだ開店してから一回もケーキ食べてなかったなあ。 落ち着いたら食べられるかな。余ってるやつとかないのかな…。 「晶くん、ぼんやりしてどうしたの?」 「あ……」 うっかり食器を洗う手が止まっていた。 結衣に声をかけられなければ、ずっとケーキの事考えてたかもしれない。 「いや、あの。ケーキ食べたいなーと思ってた」 「わかるよその気持ちっ!」 「やっぱり?」 「うん、だって、みんなすっごく美味しそうに食べてるんだもん! わたしも食べたいよぉケーキ…」 「そうだよなー。あの時食べたケーキ、美味しかったもんなー」 「うんうんおいしかった……明日わたしの誕生日だから、奮発して買っちゃおうかなー」 「え!? 明日、誕生日なの?」 「うん」 「そうなのか。なんだか偶然だな」 「え? 何が」 「あ、いや。何か欲しいものとかあるの?」 「わたし、誕生日にケーキ1ホール食べてみたりしたいんだよねー」 「わかる! それはすっごい憧れだ!!」 「やっぱりわかってくれた! 晶くんだったら、絶対にわかってくれると思ってた!!」 「ふたりとも何してるの? あんまり片付いてないよ」 「あ、天音ちゃん」 「あ……」 天音に声をかけられて、俺たちは我に返った。 気がつくと食器はどんどんと積みあがっている……。 「話し声が聞こえるから、どうしたのかと思ったら」 「ご、ごめんなさい〜」 「ちゃんとやります! やります」 「あ、慌てなくてもいいよ。今、ちょっとお客さんいないから」 「そうなんだ」 「うん。ちょっと落ち着いたかな。だから、桜子にも休んでもらってる」 「じゃあ、今のうちに片付ける」 お客がいないなら、今のうちに全部片付けてしまおう。 いつまた、お客がどっと増えるかわからないからな。 それにしても、片付けの手が止まるほどケーキの話に夢中になっていたとは。 「ところで、何の話してたの?」 「え? あー。明日、結衣の誕生日なんだって」 「え!? そうなの?」 「そうなの。だから、ケーキ1ホール食べたいなーって話をしてたの」 「ちょ、ちょっと待って。ケーキ1ホールとか、そういうレベルの話じゃなくて。明日なんでしょ? 誕生日」 「うん」 「ちゃんとお祝いしようよ」 「えっ。いいよいいよ、そんなの別に、いいのに」 「よくない!」 天音って、いいやつだなあ。 この前の繚蘭会の新メンバー歓迎会もそうだし、今日だってそうだし……。 「え! 天音ちゃん?」 「いいやつだなあ、天音」 「う、うん。でも、いいのかなあ……」 「いいんじゃないのか」 天音が桜子とくるり、そしてマックスも呼んで来たので、繚蘭会のメンバーが揃っていた。 「というわけで、明日は結衣の誕生日なんだって!」 「まあ。それは何かお祝いをしないといけませんね」 「うん」 「なーなー! 結衣はなにがいいんだよー? なんか欲しいものねーの?」 「え、あの。わたしは特に、あの……」 「さっき、ケーキ1ホール食べたいって言ってた」 「そ、そうだけど!」 「あ! それじゃあ、みんなでケーキを作るというのはどうですか?」 「みんなで?」 「うん。ひとり、ひとつずつ作るの」 「それはいいかもな」 そうすれば、ひとつのケーキ1ホール分よりも、もっとたくさんのケーキが食べられる。 俺はそんな事をしてもらったらとても嬉しい。という事は、多分、結衣も嬉しいはずだ。 「ケーキ!? みんなで! いいの!?」 「私、作った事ないけど大丈夫かな……」 「大丈夫だって。案外簡単だぜ!」 「多分、作れる」 「じゃあ、明日はみんなでケーキ作りですね」 にこにこと微笑みながら桜子が言う。 もちろん、誰もそれに異論はない。 「明日はお店、お休みでもいいよね。お祝いしたいし」 「うん」 明日は店を休みにして、みんなで楽しくケーキ作り。 ……それはいいなあ。結衣のおこぼれ、俺ももらえないだろうか。 「よーし、その話乗ったぞー!」 「はぁあぁ!?」 「あ、会長さん」 「……ち」 「どこから入ってきたんだ……」 「ドアから! それより面白そうだねそれ! 俺も協力するよ〜!」 「一緒にケーキを作ってくださるんですか?」 「そうじゃなくて、どうせケーキを作るのなら、お店の宣伝も兼ねたらどうかなってさ」 「宣伝?」 「わぁ! なんだか楽しそう!!」 「そ、そうかしら……」 「題して! limelightの店員さんで、ケーキを作ったよ! 誰のが一番美味しいかな大会!!」 「長い! 題してない!」 相変わらず勢いとノリだけはいいんだけど、そのノリに結衣と桜子は目を輝かせている。 九条は冷静で、天音だけが不服そうだ。 「……」 「楽しそうだよ、天音ちゃん!」 「私もそう思います」 「あ! ちなみに、結衣ちゃんは明日お誕生日だから、審査委員長になるといいと思うよー!」 「本当ですか!! 全部のケーキ食べられるんですか!!!」 「もっちろんで〜す! 審査委員長ですから!」 「ふわあああああ!! ケーキがいっぱい!!!」 ああ。これはもうだめだ。 幸せそうな表情をしている結衣が考えてる事はすぐわかる。 明日、大会でケーキを食べる事で頭がいっぱいに違いない。 まあでも、そんな事言われたら俺だってああなるだろうけど。羨ましいなあ……。 「うう……く、くるり」 「宣伝活動は必要」 「……」 意外にも九条は冷静だった。 反対するかなとも思ったけど、そうでもない。 一応、limelightの事を考えてくれてるって事かな。 それとも、お客を増やしてマックスの腕をみんなに自慢したいんだろうか。 「しょーくんも審査員やったらいいよ!」 「え!!!!」 「厳正な審査が必要だからね〜」 「審査員……」 俺も明日、ケーキ食べ放題!? ケーキがおなかいっぱい……。 しかも、繚蘭会のみんなが作ってくれた手作りケーキ…! 「やる!! 審査員やる!」 「というわけで、審査委員長と審査員その1は決まり!」 「うーーーー」 「ねー天音! やっぱりみんなでお祝いした方がにぎやかでいいよ! 店のPRにもなるし!」 「もー! いいわよ! 明日、結衣のために大会を開けばいいんでしょー!」 「やったー!!!!!」 「やったあああ!!」 「はっはっはー。諸所の手続きは生徒会に任せたまえ! 立派な大会にしてみせようじゃないか!」 「変な事考えてたら、許さないから!」 「考えてないよ。お店の宣伝もちゃーんとするから!」 「……まったく」 「じゃ! 今からちょっと用意してこなきゃー!! 明日は楽しみにしててよー!」 「……ろくな事考えないんだから」 「でも、なんだか楽しそう。ドキドキしてきました」 「みんながそう言ってるから、いいけどね」 「明日の準備、しないといけないですね」 「あー。そうね。ケーキの材料とか買わなくちゃ…一回くらいは練習しなきゃだし…」 「みんながどんなケーキ作るのか楽しみだなー」 「はああああ。ケーキ。ケーキがいっぱいー」 「ちゃんとしたケーキ、作れるかなあ……」 「本とかデータベースなら、用意できる」 「本当? お願い、くるり!」 「うん」 天音と九条はふたりでレシピ検索とかするんだろうか。 このふたりが、どんなケーキを作るか想像できないなあ。 でも、明日は本当に楽しみだ。あらゆる意味で楽しみだ。 「私も明日のために、さっそくホームセンターに行かないと……」 「え!?」 今、聞き間違い? 桜子がホームセンターって言った気がするんだけど……。 俺が知っているホームセンターには、ケーキの材料は売っていなかったはずだ。 もしかすると、桜子は何かと勘違いしているんだろうか。 「あの? ケーキ作るんだよね」 「はい」 「ホームセンターで、何買うの?」 「えっと、コンパクトなのこぎりとか」 「……桜子、何作るの?」 「ケーキですけど……?」 俺を見つめて微笑む桜子の表情はきょとんとしていた。 晶さん、何を聞いているんですか? なんて言葉が聞こえてきそうなほどに、きょとんとしている。 「明日、楽しみですね」 「……そうだね」 一体、どんなケーキが出てくるんだろう。 なんだか、すごく不安になってきた。 そうだよな、繚蘭会のみんな……料理したことないんだよな……。 もしかして、浮かれている場合ではないのだろうか…。 昨日、会長の乱入で突然行うことになった手作りケーキ大会。 確かに店の宣伝を兼ねてとは言っていた。 でも、元々は結衣の誕生日だからという理由で行われるはずだったんだが……。 「レディース、エーン、ジェントルメーーーン! 待たせたな、おめーら! いよいよ始まるぜーーーー!」 「新生limelightの店員さんによる! 第一回ケーキ王選手けーーーーん!!!」 何故、こうまで大掛かりな大会になっているのだろうか。 いや、会長が関わる時点でこうなると、何故、昨日の俺は予想できなかったのだろう。 俺はただケーキが食べたいだけなのに……。 普通に食べさせてくれればそれでいいのに……。 あ、でも今からケーキ食べられるのかな。それは楽しみだ。 「というわけで、司会はこのオレ! マックスでお送りするぜ!」 マイクを手にしたマックスは、ギャラリーの前で器用にくるりと回転しながら自己紹介をする。 するとまた大きな歓声があがった。 それを聞いて満足そうに頷いたマックスは、マイクを持ち直すと大会の趣旨を説明しはじめる。 どうでもいいけど、あいつはあの手でどうやってマイクを持っているんだろう。 後で聞いたら、教えてもらえるだろうか。 「この大会は、新しく再開したlimelightの店員さんの心のこもった手作りケーキの中でどれが最も美味しく、そして新しいかを競うものだ」 「見た目、味、そして新しさやインパクト。総合的に審査し、そして最優秀ケーキを決めます!」 「というわけで、審査には審査員が必要だ!」 言いながらマックスの視線が俺たちに向けられた。 途端に、会場にいるみんなの視線も俺たちに向けられる。 「審査委員長は本日が誕生日の稲羽結衣ー! ハッピーバースデーだぜー!」 「おめでとー」 「誕生日おめでとー」 今日が結衣の誕生日だとマックスが告げる。 すると、客席のいたる所からおめでとうの声がかけられた。 「は、あわわわ! う、うん! あ、ありがとーございます!!」 席から立ち上がった結衣は、客席の辺りに視線を向けて何度も何度も頭を下げていた。 その度に客席から何度も声がかけられ、それは止まりそうにない。 「審査委員長だけでは審査はできないのでもうひとり紹介だぞー」 そしてマックスは、今度は俺を指す。 会場中の視線が、今度は結衣から俺に移った。 「生徒会のリーサルウエポン! 俺の大親友で、はらぺこブラザーズ・兄の葛木晶だー!」 俺の時にも一応、歓声はあがる。とりあえず、頭だけを下げておく。 でも、別に俺ここでケーキ食べるだけだしなあ。 なんだか変な感じがする。 「なんだよ、はらぺこブラザーズって」 「結衣がはらぺこ妹だ。ふたり揃って、はらぺこブラザーズな!」 「なんだそれ」 そういえば、さっきから気になっていたんだけど……。 どうして俺の隣にもうひとつ席があるんだろう。誰も座っていない空の席が。 まさか……生徒会長が来たりしないだろうな。 「そして! はらぺこブラザーズの他に、審査員をもうひとり!」 「え……!」 俺たちの目の前に現れたのは、紛れも無く八重野先輩だった。 いつもの表情で登場した八重野先輩は、用意されていた俺の隣の席に座る。 変わらない表情は何を考えているのかわからない。 こ、この人、ケーキとか食べるのか? 「八重野先輩も審査員なんですねー!」 「あぁ、まあな」 なんだか、こういうのの審査員をするとか意外だな……。 あ、もしかして、生徒会長に無理やり押し付けられたとか? でも、八重野先輩だったら、会長の無理やりな押しくらい、ドーンっと押し返しそうだよな。 「今日はこのオレ、マックスの司会とはらぺこトリオの審査で大会をお送りするぜー!」 「いやいや、トリオにしていいのか?」 「聞いてないし……」 俺の話を全く聞かないまま、マックスは進行を続ける。 くるんとその場で一回転したマックスは、マイクを持ち直してトップバッターを紹介しはじめた。 「エントリーナンバー1番! 水無瀬桜子さんでーす」 「桜子さんのケーキですって」 「どんなケーキが出てくるんだろうなー」 「どんなケーキなんだろうね、晶くん!」 「う、うん」 目をきらきら輝かせた結衣はすでにフォークを持っていた。 目の前には皿も置いてある。準備は万端だ。 「な、なんの音だ?」 「さあ?」 「……あれだな」 「え!?」 ごろごろという音は、搬入用のカートの音だった。 何故、そんな音が聞こえていたのか。 簡単だ。桜子が押していたから。 じゃあ、どうして桜子はそれを押していたのか……。 「わあぁあー!!!!」 「お待たせしましたー」 「おおーーっと! なんかデカイのが登場だぁー!」 「すごおおおおおい!!!」 搬入用のカートに乗っていたのは、でかい、そして真っ白な、有名なポーズの像……。 これはなんだろう。もしかしてこれがケーキなんだろうか? でも、そうは見えない。 出来栄えは見事で、本物と見間違いそうになるほどだ。 これを一日で作ったとしたらすごい。確かにすごいんだけど……。 この真っ白な像の頭に何故ちょんまげがある! わからない! 桜子の考える事はわからない!! 「これ、すっげーなー。でも、ケーキなのか桜子?」 「はい、像の中身はちゃんとスポンジケーキですよ。周りはホワイトチョコなんです」 「あー。だから白いのか」 「はい!」 こくりと頷く桜子の微笑みは輝いているようだった。 満足げ。そんな言葉がよく似合う。 しかし、俺にはこれを作ってしまうセンスがわからない。 確かにこの中にどうやってケーキを詰めたのか気になる。 ある種、奇跡のケーキなのは間違いない。 でも、やっぱりこのセンスはわからない! 「……なかなか斬新だな」 「すごいですよねー」 「あ、あの、あれ、なんで頭にちょんまげがついてるの?」 「ちょんまげが大好きな結衣さんの誕生日ですから! 結衣さんのために作りました、題して『考えるちょんまげ』です!」 「わー!!! 桜子ちゃん、ありがと、ありがとう〜!」 「はい、喜んでもらえて、私も嬉しいです!」 見た目はともかくとして、桜子が結衣を思う気持ちはわかった。 そして、結衣がそれに感激しているのもわかった。 でも、あれ……どうやって食べるんだろう。 ものすごく立派に作ってあるのはわかるし、中身はケーキだと説明してもらったけど…。 本当に食べられるのか……? 「じゃあ、切り分けますね」 「あ……」 にっこりと微笑みながら言った桜子は、カートに向かってしゃがみこんだ。 そして、立ち上がったその手に持たれていたのは、小さくて扱いやすそうなのこぎりだった。 確かにそれは、コンパクトなのこぎりだ。 昨日、桜子が言っていた通りの物だ。 こんな事に使うとは、予想できなかったけど……。 「ちょっと待ってくださいね〜」 笑顔のまま、桜子は豪快にケーキを切り分け始めた。 明らかに、普通ケーキを切っている時には出ないだろうって音がしている。 本当にあれ、食べて大丈夫な物なんだろうか。 こんなに不安しか湧いて来ないケーキは初めてだ! 「はい、みなさんどうぞ召し上がって下さい!」 俺たちの前にそれぞれ皿が置かれる。 結衣の皿の上には、ちょんまげの部分が。 俺と八重野先輩の皿には、腕の部分がドーンと。 見た目がちょっぴり……怖い。 「さー! それじゃあ、審査員のみんなにガッツリ食べてもらおうか〜!」 「はーい! いただきまーす!」 「いただきます」 「い、いただきます」 皿の上に置かれたケーキをじっと見つめる。 それは真っ白い腕だった。 血管の筋までリアルに再現してある真っ白い腕だった。 でも、断面を見てみるとそこにあるのは確かにケーキだ。 柔らかそうなスポンジと、甘そうなクリームが詰まっているし、漂う香りも甘いものだ。 でも、やっぱりこの見た目は……。 なんていうか、なまなましい……? みたいな…? 「むう……」 チラっと結衣の方を見ていると、嬉しそうにちょんまげの形をしたケーキを食べていた。 その表情は幸せそうだった。 よし……。 食べよう。思い切って食べよう。 結衣には毒見させたみたいで悪いけど、食べれるもので出来てるとはわかった。 「晶くん、美味しいよー! しかもちょんまげだようー! しあわせぇ!!」 「う、うん…」 どこが食べやすいだろう。切れた腕の部分か、指の先か……。 じっくりと見つめると、余計に食べにくい気がする。 ……よし! 考えるのはやめよう。 「はぐっ!」 考えるのをやめた俺は、置かれた腕の指部分にかぶりついた。 「はぐ……あぐ……ん!」 豪快に食べ進めてみると、ケーキは美味しかった。 見た目はちょっと……いや、かなり怖いけど、味は抜群に良かった。 手作りでこんなに美味しいケーキなんて、食べた事がないかもしれない。 「はぐはぐ……」 美味しい。 多分今の俺、はたから見たら手を食べている変な人だろうけどそんなこと関係なくなるくらい美味しい! 「見た目のインパクトも、味もかなりのものだな」 ちらりと横に視線を向けると、八重野先輩は腕の部分ではなく、指先部分をフォークで丁寧に切り分けながら食べていた。 そっか、何もそのままかぶりつかなくても、俺もそうすれば良かった。 まあでも、フォークで指先切ってる見た目もそれなりに怖い気もするけど……。 「おーっと。審査員のみんなは、美味しそうにケーキを食べてるぞ。こりゃ、相当いい味になってるかー?!」 「はああ〜! ごちそうさまでした! おいしかったよう桜子ちゃん!」 「おそまつさまでした」 「みんな、全部食べたみたいだな。というわけで、次のケーキ行くぜー」 ぺこりと頭を下げた桜子が去って行くと、マックスが次の参加者の名前を告げる。 「エントリーナンバー2番! おーっと、これは生徒会からの刺客か? 白鷺茉百合さんー」 「茉百合様!?」 「茉百合様もケーキをお作りになられたんですね!」 名前が告げられた途端、客席がざわめいた。 そりゃそうだろう。茉百合さんは、limelightの店員ではないはずの人なんだから。 だが、そんなざわめきなど気にせず、茉百合さんは手にケーキを持って、微笑みを浮かべながら現れた。 ふわふわの店員の制服まで身に着けている。 いつもとイメージが違う感じで、なんだかドキッとした。 「皇くんにこのイベントの事を教えていただきました。楽しそうだったので、私も参加させてもらっていいかしら?」 「おーよ!! 大歓迎だぜ!」 「はい。これが私のケーキよ」 茉百合さんが手にしていたケーキは、上品そうなチョコレートケーキだった。 見た目がすごくきれいで、まるでプロが作ったみたいなケーキだ。 「すごーい! お店で売ってるケーキみたいです!」 「確かに、何事もそつなくこなす、白鷺さんらしい」 「茉百合様はケーキをお作りになられても完璧なんですね〜!」 「素晴らしいです、茉百合さま〜!」 俺たちだけじゃなくて、客席からも茉百合さんを称える声が聞こえて来た。 そりゃ、こんなに完璧なケーキを見たら褒め称えたくもなる。 さっきの桜子のとは違って、こっちは本当に早く食べてみたくなる出来だ。 「久し振りに作ったから、少し不安なんだけど……」 そう言いながら茉百合さんはケーキを切り分け、俺たちの前にそっと置いてくれた。 置かれたケーキからは甘い香りが漂う。 でも、それは甘すぎない、鼻腔をほどよくくすぐる甘さ。 「いただきまーーーす!!」 迷う事なくフォークでケーキを切り分け、口に運ぶ。 「こ、これは!」 「美味しいぃぃ!」 「うん」 本当に、お店に置いてもおかしくない味だった。 いや、味だけじゃない。見た目も香りも、総合的に見ても、とても手作りのレベルじゃないぞ! 「はい! ごちそうさまです!! ありがとうございます! おいしいです〜!」 「今回もポイントは高そうだぞー。生徒会の刺客、恐るべし!」 「うん。だが、斬新さで言うと少し弱いかもしれんな」 「ふふふ……。桜子のあのケーキには敵わないわね」 確かにあのインパクトは絶大だった……。 あれを越えるとなると、巨大建造物を模したケーキを作るくらいしか、俺の頭では考えられない。 「というわけで、白鷺茉百合さんでしたー!」 「はい。それじゃあ、結果を待っているわね」 「……」 マックスに紹介された九条は、ものすごくベーシックなショートケーキを持って現れた。 あまりにも普通すぎて、少し驚くくらいだ。 あの九条が、まさかあんなに普通のケーキとは……。 「マミィのはショートケーキなんだな」 「うん。特に言う事はない」 こくりと小さく頷いたくるりは、ケーキを切り分けると結衣と八重野先輩の前にそれを置いた。 そして最後に俺の前にやって来ると、ケーキを置いてじっと見つめてくる。 「な、なに?」 「一生懸命作ったのー%0」 「そ、そう」 「うん。それだけ」 呟くように言うと、九条は背を向けてマックスの隣に並んだ。 今のは一体なんだったんだろう。あの一連のおかしな流れのヤツか? いや、もう考えない方がいいな……。 とりあえず深呼吸をして落ち着いて、ケーキを見つめる。 見た目は本当に普通だった。 生クリームがたっぷりで、いちごの乗っているショートケーキ。 香りは……。 「……ん」 なんか今……。 ケーキの匂いだけじゃない、何か別の……。 「いただきまーす!」 「いただきます」 若干、嫌な予感がしなくもない。 でもそうも言っていられない。 フォークでケーキを切って、口に運ぶ。 ケーキを運び、口を閉じて鼻から息を吸い込んだ瞬間。 それは正に、その瞬間に訪れた異変。 おかしかった。 ケーキの味と香りがおかしかった。 こんなにも、こんなにも見た目がショートケーキなのに……! 真っ赤ないちごまで乗ってるのに、どうしてこんな!! 「く、九条……九条……」 「なに?」 「カレー……。これ、カレーの味が……」 「そう。カレー」 あっさりと答えた九条の表情は冷たい。 何言ってるの? なんて言いたそう。 「だって、これ、ケーキなのにカレーって。しかも、香りもちゃんとすっごい美味しそうなカレーの!」 「ケーキとカレーの味と香りが、どこまで融合できるかの実験」 「人の誕生日にそんな実験すんなー!!」 「なんと! マミィのケーキは、見た目ショートケーキで味はカレーらしいぞ! すっげーーなーーー!」 「インパクトは……あるな……」 結衣と八重野先輩は、感想を口にしながらぱくぱくと九条のケーキカレーを食べ続けて皿が空になりかけていた。 ……ケーキと思わなければいけるんだろうか。 でも、この完璧な見た目はちょっと辛い。ギャップが…ありすぎて。 「ケーキなのかカレーなのかは、よくわかんねーけど……マミィのすっげーケーキでした!」 「じゃあ」 ぺこりと小さく頭を下げた九条は、そのまま去って行く。 俺の目の前にはケーキカレーが残されていたけど、このままにしておくのはもったいない気がした。 なるべく形を見ないようにして食べ終わると、マックスはそれを見てから最後の名前を告げる。 「ラストはこの人! limelight復活の立役者、繚蘭会会長、皇天音だー!」 「よ、よろしくお願いします」 ケーキを手にして出て来た天音は、周りを見て落ち着かない様子だった。 天音の手にしたケーキは、それこそ初めての手作りケーキという感じのもの。 なんというか……すごく女の子らしい気がする。 「天音のもショートケーキなんだな……」 「そうか、よかった……。初めて作ったの?」 「まあ、うん……。結構、上手くできたと思ったんだけどね……でも普通すぎるっていうか…」 天音が少し自信なさげに口にする。 確かに今まで出て来たケーキは普通のケーキではなかったよな……。 「それじゃあ、審査員に味見してもらおーぜ!」 「うん」 切り分けたケーキを天音が運んで来る。 目の前に置かれたそれは、やっぱり手作りって感じがした。 なんだか普通のケーキだからこそというのか、それゆえの安心感はある。 「わぁあーい! 天音ちゃんのケーキー!!!」 「素朴な感じではある。手作りという意味では、最もそれらしいんじゃないか」 「は、はい」 「いただきます!」 ケーキを口に運ぶ。 甘さもほどほど、スポンジの膨らみもまずまず。 いかにも初めて作ったケーキっぽい! でも、天音のケーキは安心できる。 さっきカレーだったからなのか、なんだかわからないけど、すごく安心できる。 俺、こういう手作りの味が凄く好きだ。 「ど、どうかな」 「美味しいよ、天音ちゃん! お母さんが作ってくれたみたい!」 「うん。美味しい」 「本当? 良かった!」 安心したように息を吐いた天音が胸を押さえる。 今まで本当に不安だったみたいだ。 そりゃまあ、あんなに幅広いケーキばかりじゃな……。 俺たちはペロリとケーキを食べ終わる。 天音はそれを見てさらに安心したようだった。 「というわけで、最後は天音でしたー!」 「ありがとうございました!」 ぺこりと天音が頭を下げる。 そのまま退場しようとしたのだが、その時、俺たちの耳に不吉な声が飛び込んで来た。 「ちょおっと待ったああああ!!!」 「いっ……」 遠くから聞こえた声は大きな影となって近付く。 そして、天音の目の前に、その声の持ち主がきれいなポーズで現れる。 「おーっと! ここで乱入者の登場だあ!」 ……まあ、言うまでもなく生徒会長なんだけど。 会長の手にはトレイが持たれ、それには蓋がしてあった。 もしかしてあれは……。 「な、何しに来たの」 「はっはっはっは! 決まっている! 俺も参加しに来たのだー!」 「わー! 会長さんもケーキを作ってくれたんですか」 「もう関わりたくない。私、もう行く……」 「さあマックス! 紹介してくれ、この俺を!!」 「おー! 乱入者は皆様ご存知、この学園の生徒会長、皇奏龍だー!!!」 突然の乱入者に会場は大盛り上がりだ。 この人、わかっていてこのタイミングで乱入したんだな……。 「え?!」 手にしていたトレイの蓋を会長が開ける。 すると、その中から白くて丸い塊が出て来た。 「おー! なんだこれ、丸いぞ! 丸いケーキか?!」 「ふっふっふっふ。これは四尺玉大福!! 山もりの大福をもちで包んだ、特大大福だー!」 「だ、大福って、ケーキじゃないじゃん…」 「……大福」 「それ、ルール変わってくるじゃねーかよー?」 「ケーキではないが、甘い物には変わりない! 食べてみたいだろ、しょーくんもゆいちゃんもさ!」 「うん! 食べてみたいー!」 「食・べ・て・みたいだろ〜? ほたるちゃんもさー」 「………」 「はい、今のは肯定でーす! ほらほら、というわけで、みんなに配るよー!」 「わあぁぁーい!」 とてもいい笑顔を浮かべながら、会長は大福を切り分けてくれた。 目の前に置かれた大福は、切り分けられた物だ。 でも、それでもかなりの大きさがある。 断面を見てみると、確かに大福が山のように詰まっていた。 あんこも綺麗だし、このおもちも美味しそう。 何よりたくさんの大福がいっぱい詰まっているという、この光景には大変ときめくものがある。 なんか、とてもいいぞ。 会長の持ってきたものというとこが気になるけど…でも大福には罪はないし。 「はぐ! ……ん! おいひい!」 「んぐ……確かに!!」 「そうでしょ〜。そうでしょ〜」 うんうんと頷く生徒会長。 これを美味しいと素直に言うのは、目の前の笑顔を見ているとかなり悔しい。 悔しいが、美味しい物は何も悪くない。 美味しいという事はすごいんだ! 「……」 「ん? 食べないのかなぁ? お腹いっぱいになっちゃった? そんなわけないよねー、甘いものだぁいすきだもんね!」 「……いらん事を言うな」 「ほたるちゃんの大好きな和菓子だよ? 食え! そして俺のケーキが一番美味しかったと投票しひれ伏すがいいさ!」 「それが狙いか。だが俺は、半端なものでは満足せんぞ」 「はーっはっはっは! 抜かりはないよ! その中身の大福は、お前が絶賛してた実家の近くの店からお取り寄せしたヤツだからなー!」 「―――それって、自分で作ってなくね?」 「それ、反則じゃないの? もぐもぐもぐ…いや、美味しい、これ、ほんと…」 「うん! すごく美味しいよねこの大福! もふもふもふ」 「これは手作りが条件の競技だ。失格だな奏龍。……うむ、うまい」 「そ、そんなあぁぁぁ!! 審査員全員美味しそうに食べてるくせにぃぃ!」 「生徒会長はルール違反で失格ー! というわけだから、審査員のみんなには会長以外のケーキの中から、1番良かったケーキを選んでもらうぜー」 「はーいわかりましたー!」 「うん」 「わかった」 結衣と八重野先輩は、マックスから渡された投票用紙にさらさらと誰かの名前を書いている。 うーん。俺は誰のケーキを選ぼうかなあ……? よし、これでいいかな。 俺は自分の意見を紙に書くと、司会であるマックスに渡した。 結局、大会で優勝したのは桜子だった。 あの『考えるちょんまげ』のケーキは、結衣と八重野先輩のどちらもが投票していた。 俺が誰に投票していたとしても、三人のうち二人の票を集めた段階で桜子の優勝は揺るぎないものだ。 まあでも、あれなら仕方ない。 正に奇跡のケーキと呼ぶにふさわしい出来だったしな……いろんな意味で。 「優勝おめでとうな桜子ー! 素晴らしいインパクトのまさに新時代ケーキだったぜ!」 「ありがとうございます。なんだか信じられない!」 「夢じゃねーぜ! 優勝した桜子のケーキは、近々limelightでも食べられるようになるから、みんなよろしくなー!」 「桜子さんのケーキが食べられるんだって」 「新しくなったlimelight、行ってみないといけないねー」 「お店でバイトもできるのかしら?」 「生徒会や繚蘭会の皆様がいらっしゃるのなら……」 客席ではギャラリーの生徒たちがそれぞれ、今回の大会の感想を口にしているみたいだ。 今度お店に行こうと話してる声も聞こえてくる。 これでお客さんが増えるんだったら、喜ばしいことだ。 できれば、これのおかげで店員のアルバイトの希望とかも増えるといいと思う。 そうしたら、俺たちが店に入れない間も開店させられるし…休日も増えるだろうし。 まあそう簡単にはいかないかもしれないけど……。 あ、でも桜子と茉百合さんもいるのがこれでわかったのか。 という事は、ふたりには悪いけど、それ目当てでバイト希望は増えるかも。 何にせよ、今回の大会は目標以上の実績をあげたみたいだ。 あれを準備してくれたのが生徒会長というのがちょっと複雑ではあるけど、まあケーキいっぱい食べられたからいいか。 どれもおいしかったし。 「ふうぅ〜おなかいっぱい〜」 ケーキをおなかいっぱい食べられて、俺は幸せだ。 こんな幸せは毎日あってもいい。 ああ、嬉しい。幸せだ。 結衣もいっぱいケーキを食べて疲れたらしく、うとうとと頭を揺らしていた。 でも、その表情は幸せそうだ。 きっと、いい夢を見ているんだろう。 わかるぞ、その気持ちは! 「しあわせだなー」 「ケーキでそんなに幸せになれるって凄いわね」 「あ。天音。ごちそうさま。えへへ」 「……だらしない顔して」 「天音のケーキ、おいしかったよ」 「食べものはおいしければいいんだよ。それに、俺、家庭的な味好き」 「……そ、そう」 「また作ってくれないかなあ」 「今日」 「え」 「誕生日なら、今日だけど」 「えええっ?!」 結衣が誕生日だって話で盛り上がってたから、なんとなく言いそびれてただけなんだけどなー。 今日が自分の誕生日だって。 でもまあ、ケーキの審査委員やらせてもらったし、ケーキいっぱい食べて充分満足だったんだけど。 「なんでもっと早く言わないの?!」 「いや、何となく言う機会がなかったというか」 「っもう! ちょっと待ってて! ここで待ってて!」 「へ?」 天音は慌てて店内から走って出て行った。 あんなフリフリの服のままで、一体どこに行くつもりなんだろう。 せめて着替えた方がよくないだろうか。 「晶く〜ん」 「あ、結衣」 「天音ちゃんどうしたの? 着替えもせずに出て行っちゃったけど……」 「さあ……どうしたんだろ…待っててって言われたけど」 「そうなんだ」 「ああ、そうだ。結衣」 「なに〜?」 「誕生日おめでとう。言うの忘れてた」 「うん、ありがと〜」 「俺、プレゼントとか何も用意してなかったんだけど、せめて晩ご飯、結衣の好きなもの作るよ」 「えっと何がいいかな、何でもいいの?」 「まあ。材料とレシピさえあれば大抵のもんは作れるんじゃないか?」 「うううー。何でもいいと言われると迷うなぁ!」 「お誕生日会って言ったら、何となく洋風のイメージだけど。ハンバーグとか……うーんでもせっかく作るなら変り種の方がいいのかな」 「ぱえりあ〜」 「ああ、パエリアいいな! パエリア作ろうか!」 「わぁーい、ぱえりあー。えび入れようえび〜! かにいれようかに〜!」 「後は貝とかかな? じゃあ食材を持ってきてもらうように頼んでおかないとな。あと鍋」 「他には何か作らないの? わくわくわく」 「そんなキラキラした目で見られたら……。何がいいんだよ」 「俺は……そうだなーうーん」 誕生日会に出て来るもので何がいいかという事で、結衣とかなり盛り上がってしまった。 やっぱ、手巻き寿司だろうとか、から揚げだろとか、色々と食べ物の話をしていると、ドアが大きく開く音が聞こえた。 「はぁ、はぁ、お待たせ!」 扉の方に目を向けると、息を切らせた天音が戻って来ていた。 随分走ったみたいだけど、大丈夫なのか? 「天音」 「天音ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」 「大丈夫よ、ちょっと急いできたから……はぁ、息が切れてるだけ」 切れた息を整えながら天音は手にしていた小さな箱を差し出した。 その箱にはかわいいラッピングが施されている。 「え…これ」 「晶くんへのプレゼントよ」 「もう、自分も誕生日なんだったらそうって、ちゃんと言ってくれないと困るじゃない」 「へえっ??」 「あ、ありがとう……開けてもいいか?」 聞いてみると、天音がこくんと頷いた。 それを確認してから、ゆっくりと箱を開け始める。 「晶くん、もしかして今日誕生日だったの?」 「ああ、うん」 「ええええ〜〜?!」 ラッピングを解き、箱を開ける。 すると、中からすごくきれいな腕時計が出てきた。 「うわっ! こ、これ……」 「……え? まずかったかな?」 「い、いや、そうじゃないけど」 まずいって事はないけど……。 なんだか、すごく高そうだ。こんなのいきなり俺がもらってもいいのかな。 すっかり忘れていたけど、天音ってやっぱりお嬢様だから、これくらいどうって事ないんだろうか…。 「あの……急だったから、そんなのしか思いつかなかったの」 「あ、ちょっとびっくりしただけだから。腕時計なんてもらったの初めてだから。ありがとう」 「でも、なんか悪いなあ。こんな立派なのもらって」 「気にする事ないのに。これくらい当たり前よ、だって一応婚約者ってことになってるんだから」 「でも、ニセの婚約者なのにここまでしなくても…」 「………!」 「そ、そうだけど。ほら、何事も形からって言うじゃ…ない」 「……天音?」 「しょうくーーん!」 「えっ?!」 そういえば、結衣のやつ、いつの間にかいなくなってた。 どこ行ってたんだ? そして、いつの間に戻って来たんだ? 弱々しく俺を呼んだ結衣の手には、小さな紙が持たれていた。 しかも、ちょっとよれよれ、ぼろぼろだ。 「お誕生日おめでとう! 晶くん! わたしだけじゃなかったんだね、言ってくれたらよかったのに!」 「あ、うん。うん?」 頷きながら、結衣は手にしていたよれよれの紙を差し出した。 受け取れって事だと思うから、とりあえずそれを受け取って中身を見た。 ちょっとよれよれになっているそれは、中にスタンプがいっぱい押してあった。 「何だこれ? スタンプカード……?」 「うん、今持ってるので、晶くんが喜んでくれそうなものって、これくらいしかなくて」 「……あっ! これ!」 「そうでーす! スタンプがいっぱいなので、モールの喫茶店のデラックスツインパフェが一回タダになりま〜す!」 「お、おおぉぉぉぉ!! デラックスツインパフェ!! いいのか?! せっかくスタンプ溜めてたのに」 「いいんだよ、晶くんの誕生日プレゼントだもん!」 「ありがとー!」 「そのかわり、ぱえりあ作ってね!」 「はは、わかってるって」 「あの、パエリアって何?」 「あ、今日の晩ご飯ねー、晶くんがぱえりあ作ってくれるんだよー! えびとか貝とかいっぱい!」 「え。晶くん、いいの? 今日誕生日なのに、ご飯作らせるなんて」 「ああ、いいよ。天音たちには昼間ケーキ食べさせてもらったし。こんな豪華な時計ももらっちゃったし」 「う、うん……」 「天音はパエリア嫌いか? 貝とかがダメ?」 「そんなことない、好き」 「ならよかった! じゃ、色々用意しなきゃいけないから先に帰るよ」 「わたしも一緒に帰るー! ごはんのお手伝いするー!」 「結衣こそ、誕生日なのに?」 「晶くんの誕生日のお手伝いするから、いいの!」 「ふふふ、何かヘンだなそれ。じゃあな、天音」 「うん」 「ばいばい、天音ちゃん〜」 「う、うん、じゃあね。晩ご飯楽しみにしてるから!」 その日の夕食はかなり豪華にしてみた。 豪華なメニューに驚かれたけど、俺も誕生日だから豪華にしてみたって言うと、みんな更に驚いていた。 でも、結衣と一緒に祝ってもらって、すごく楽しい誕生日だった。 こんなに大勢で過ごす賑やかな誕生日は久し振りだったかもしれない。 なんだか、こういうのもいいな。寮生活の醍醐味というのだろうか。 「……あれ?」 一日が終わって寮まで帰って来る。 それはいつも通りの事で、何も変わりがないはずだった。 ずっとずっと、この学園にいる間、続くものだと思っていた。 それなのに、今日だけは様子が違っていた。 「天音、九条……」 寮の前まで戻って来ると、天音と九条が揃って立っていた。 ふたりとも俺の顔を見て表情を変える。 でも、それは帰りを待っていましたって感じではなかった。 特に天音の方は、どんな言葉を口にすればいいんだろうと迷っているようにも思える。 ふたりとも、どうしたんだろう。 「どうしたんだ? ふたりとも」 「出て行け」 「え? ちょ、ちょっと、いきなり何!?」 「く、くるり! それじゃ意味がわからないから」 「えーっと?」 「……ちっ」 天音が慌てて、俺と九条の間に入る。 でも、九条は納得いかなさそうで、不満そうだ。 何がなんだかわからない。 「どういう事?」 「男子寮に空きができたらしいの」 という事は、さっきの九条の『出て行け』って言葉は、言葉どおりなんだろう。 男子寮に空きができたんだから、女子寮から出て行けと。 それならそうと、説明してくれないとわからないんだけど……。 「わかったなら出て行け」 「い、いや。出て行けって言うけど、こっちにだってそれなりに準備とかさ……」 「問題ない」 「おーーい、晶ーーっ!」 「え……」 寮の中からマックスの声が聞こえた。 そちらに視線を向けると、マックスは両手いっぱいに荷物を持って出て来るところだった。 よく見ると、それは俺の荷物のような……。 「お前、良かったなー。男子寮入れるんだってさ」 「いや、あの」 「荷物は28号にまとめさせた」 「量が多くなかったから、すぐに終わったぜー」 「そんな勝手に!」 「さすがに私たちじゃできないから」 天音の表情は穏やかなのに、邪魔者を追い出そうとしているように感じるのはどうしてなのだろう。 俺の被害妄想なのだろうか。 いや、これは喜ばしい事だ。 男子寮にちゃんと入れるのは喜ばしい。 それなのに、この寂しさはなんだろう。 しかも見送りが天音と九条のふたりだけ。 いや、それは繚蘭会の代表と寮長のふたりという事か。 でもそれにしたって……寂しくはないか。 それに最後なのに、部屋の中にまで入れないとか。 「あ、あのね! そりゃ、せっかく慣れて来たのに、また部屋を替わるのは大変だとは思うんだけど……」 「清々する」 「くるり…」 「女子寮に男子がいるなんて、理解不能」 「あの、えーと……葛木くん、あのね……」 「いや、九条の言う通りだと思うから」 確かにいつまでも女子寮にいるわけにはいかない。 男子寮が空いたなら、そっちに移動するのが普通だ。 九条が清々すると言う意味もわからなくはない。 最初、あれだけの事されたんだもんな。 でも、寂しいのは事実なわけで……。 「大丈夫だって! そんなに寂しがんなよ」 「え……?」 「オレも一緒に男子寮に行ってやるからさ!」 嬉しそうな声でマックスが言う。 多分、こいつがメカでなければ、今、非常にいい笑顔を浮かべていたのだろう。 きっと、親指を立てて自分を指したりもしていたはずだ。 いや、違う。 そういう話じゃない。 「え? だって、マックスは別に移動しなくても……」 「いいよな? マミィ」 「メンテナンスの日にちゃんと戻るなら、別にいい」 「わかった!」 「え? あ、マックスも行くの?」 「ちょっと、何勝手に決めてんだよ」 「だって、寮はふたり部屋だろ。だったら、オレも行けば即解決!」 「いや、ひとりならひとりでもいいんだろ……」 「なんと言っても、オレと晶はルームメイトで親友だからな! 一緒に行かねえわけがねーっての!!」 「いや、だからさ……」 「急にふたりもいなくなると、少し寂しくなるわね」 「そんな事ない。平気」 「うーん、でも……」 「あの、えーっと」 さっきから俺を置いたままで会話が進んでいないか!? 既にマックスも一緒に行く事が決定している。 いいのか、それで!? 「よし! いつまでもグズグズしてらんねえ。行くぜ、晶!」 「ちょ! それ俺の荷物!!」 俺が返事をする前に、マックスは勝手に俺の荷物を持って先に歩き出してしまった。 これでは追いかけずにいられない。 「ちゃんとついて来て、迷子になるなよ! マイルームメイト!!」 「待て! マックスちょっと待てー!!」 「清々した」 「あ! あー! か、葛木くん、また明日ねー」 「どこまでも一緒だぜ〜〜!」 背後から天音の声が聞こえていた。 これが男子寮へ移る時の挨拶だなんて、悲しすぎないだろうか。 そうは思っていても、俺の荷物を抱えたまま前に進んで行くマックスを追いかける脚を止める事はできなかった。 何故なら、この島で迷子になって無事に男子寮に辿り着ける自信がなかったから。 俺、一般男子寮がどこにあるかすら実は知らない事に今気付いたし。 そんな事を考えながら、俺はマックスを追いかけ続けた。 「行くぜー! 相棒ー!!」 「ルームメイトから変わってる!!」 「あっはっはっは! 細かい事は気にすんなー!」 ケーキ王選手権が大盛況で終了した後――。 俺は一人で中庭に来ていた。 あれだけ食べた後だとちょっとくらい体を動かしたくなるものだ。 というわけで、ちょっとした散歩中。 晩ご飯もおなかいっぱい、おいしく食べるんだから、おなかは減らしておかないとな。 「あれ……」 「……」 ぼんやりと中庭を歩いていると、ベンチに九条が座っているのが見えた。 手には小さな白い箱を持っている。 あんなところで、ひとりで何してるんだろう。 「九条」 「……!」 「何してるんだ?」 思わず声をかけてしまったけど、そういえば九条の様子がおかしいことを忘れていた。 しまった、俺の方から首をつっこんでどうするんだ。 「あ、えっと」 「あのねー、待ち合わせをしてるんだよー」 「え、誰と?」 「……あっ!」 「え?」 九条の視線の先に目を向ける。 すると、理事長がこちらに歩いて来る姿が見えた。 「え? 待ち合わせって、理事長?」 「お待たせ、くるりちゃん」 「ううん! 大丈夫だったよ!」 くるりの目の前にやって来た理事長がにっこり微笑む。 俺たち生徒がよく知っている、優しい微笑み。 それがいつもよりも、余計に優しく見えるのはどうしてだろう。 それに、随分くるりと親しそうだ。 「それなら良かった。……あら、葛木君もいるのね」 「は、はい。こんにちは」 「はい、こんにちは。ずっと一緒にいたの?」 「えと、たまたま会いました」 「そうなのね。くるりちゃんが男の子と一緒だったから、少し驚いたわ」 「それより、これ、これをね……」 「どうしたの?」 「ケーキ! 作ったから、食べてもらいたくて」 「作ったの? くるりちゃんが?」 「はいっ!」 ……それって、さっきのケーキか? だとしたら、きれいな見た目と反して、あのカレー味のする……。 理事長にそんなもの食べさせていいんだろうか。 「くるりちゃんが作ったものを食べるなんて、初めてじゃないかしら」 「うん。初めて作ったの」 「初めてとは思えないくらい、とてもきれいなケーキね」 「うん…ありがとう!」 褒められた九条は見たことのないような笑顔をしている。 前にも一度、こんな顔を見たことがあるけど…。九条、理事長の前ではいつもこうなのかな。 理事長はくるりが手にしているケーキを見つめて嬉しそうだ。 でも、あれを食べたらなあ……。 「それじゃあ、いただきます」 「はい!」 「……ん」 「……」 「……」 「……ん!」 ケーキを口に運んだ理事長の顔が変わる。 というか、これが普通の反応だと思う。 甘いと思っていたら、カレー味。 普通はそれを想像しない。 なんてケーキを作るんだ九条。 そして、何故、理事長に食べさせる。 「くるりちゃん、これ……カレーの味?」 「うん。ケーキとカレーの融合をね、実験してみたの」 「驚いたわ」 「うん」 「でも、くるりちゃんらしくって、面白いわね。それに、このカレーおいしいし」 口に入れたケーキを食べ終わった理事長が微笑む。 そして、また一口、二口と残ったケーキを口に運んでいた。 なんていうか、凄い。この人、出来た人だ……! おいしそうに、嬉しそうに食べる理事長。 九条はそれをにこにこしながらじっと見つめ続ける。 「ごちそうさまでした」 ぼんやりと九条を見ている間に、理事長は差し出されたケーキを食べ終わっていた。 「ありがとう、くるりちゃん。とっても美味しかった」 「よかった、喜んでもらえて!」 「また時間があったら、いつでも会いにくるわね」 「はいっ、いつでも待ってるから!」 「それじゃ、またね」 「はいっ!」 「葛木君もまた」 「あ、はい!」 にっこりと微笑みを浮かべた理事長は、最後に九条に手を振る。 九条が小さく手を振り返すと、理事長は俺たちの前から立ち去って行った。 「………あぁ」 「九条ってさ、理事長と仲がよかったんだな」 「………ん」 「仲がいいというか、恩があるから」 「え?」 「ちはや先生はワタシを施設から引き取ってこの学園に入学させてくれた」 「施設…?」 「児童施設。両親がいないから」 今、すごく重要な事をサラっと言われた気がする。 でも、九条は別に気にしてない風だし、あんまり聞くのも悪いような……。 「みんなあの人のおかげ。ここで、こうして研究ができるのも」 「そうなのか……」 「だから、その恩を返さないといけない」 「……」 恩……なんて言葉を使っているけど、本当はもっと単純で簡単なのかも。 九条にとって、理事長は大切な人。 なんか、そんな気がする。 理事長に対する九条の様子を見ているだけで、そんな事はすぐにわかる。 理事長だっていつもより優しい微笑みを浮かべていたし。 「……なに?」 「いや、何でも……」 「そう」 俺の返事には特に興味がないらしく、九条はそれ以上何も言おうとはしなかった。 「それじゃあねー。またねー。また明日の朝、起こしにいくからねー」 「ええっ、え?」 俺の返事も聞かず、背中を向けた九条はそれ以上の言葉を口にせず、すたすたと去って行った。 「……あ、あしたもですか…?」 さっきの九条はいつもの感じに戻っていたと思っていたのに……。 九条が本当に何を考えているのか、わからない…。 「ふうぅ〜おなかいっぱい〜」 ケーキおいしかったし、おなかいっぱい食べられたし、すっごい幸せだったなあ。 ああ、幸せだ……いい日だ。 ぼんやりと幸せを噛み締めていると、奥の部屋から茉百合さんが出て来た。 「あ、茉百合さん。もう着替えちゃったんですか」 「いえ、すごく似合ってましたよ」 きっぱりはっきり、そう言える。 やっぱり茉百合さんはなんでも着こなす人なんだよな。 さすがにファンクラブもできるわけだ。 「ケーキも、凄く美味しかったです。なんか本当にケーキ職人の人が作ったみたいで」 「そう、ありがとう…」 「……?」 いつもみたいに、にこやかな微笑みだった。 だけど……微笑んではいるのだけど、ぎこちない。 なんとなくそう思ってしまった。 どうしたんだろう。 最近、茉百合さんがなんだか変だ……。 気のせい…ではないと思うんだけど。 「まだみんな、帰らないのかしら」 「そうですね……遅いですね」 しきりに周りを気にしてるみたいだけど。 どうしてなんだろう。 何か気になることとかあるのかな。 「……?」 視線がわずかに泳いでいて、やっぱり、いつもと何かが違う気がする。 何が…とはやっぱりうまく言えないのだけど。 「えっ、あ、うん……」 「食べないの?」 「いや、そうじゃなくて…なんでもない。食べていいんなら、食べる」 「そうですよねー!」 「こらっ結衣! だめだって言ったでしょ! それ失敗作なんだからぁ!」 「失敗でもなんでも、ケーキはケーキです!」 「絶対おいしくないの!」 天音の言う『絶対においしくない失敗ケーキ』を挟んで、ふたりが言い合いをしてる。 お皿に乗ったケーキが、まるで取り合いをされてるみたいにあっちへこっちへと―― 「ちょ、危ないんじゃ……」 「あっ!」 予想どおりだった。 ケーキを乗せたお皿はふたりの手からすっぽ抜けて飛んでゆく。 「――っ」 予想外だったのは、それが茉百合さんの方へと飛んでいったことだ。 おまけに茉百合さんは気づいてない。 「あぶない!」 間に合った。 俺は慌てて茉百合さんの腕をつかみ、引っ張った。 皿は茉百合さんのすぐそばにあったテーブルの角で砕け散った。 「――――っ!!」 「茉百合さん?」 一瞬、信じられなかった。 茉百合さんの顔から血の気が引いている。 俺がいきなり腕を引っ張ったから? それとも自分のすぐそばで皿が割れたから? 茉百合さんはそのまま、ぺたりと床の上に座り込んでしまった。 「ご、ごめんなさい! 晶くん大丈夫?!」 「茉百合さんも!」 「大丈夫――あ、いてて」 チリチリとした痛みに腕を見てみると、うっすらと血が滲んでいた。 さっきの皿の破片がかすっていたみたいだ。 たいした傷じゃなかったけど。 「ごめんなさい……ふざけすぎたわ」 「たいしたことないよ、それより…茉百合さん、大丈夫ですか」 「…………」 茉百合さんは答えなかった。 立ち上がることも出来ないようだった。 呆然としてどこか遠いところを見ているような、そんな顔のまま、凍り付いていた。 「大丈夫ですか」 茉百合さんは俺の腕をつかんで、やっと立ち上がることができた。 「……あぁ…!」 「ま、茉百合さん?」 茉百合さんは俺の腕の傷を見て、小さく呻いた。 心配させてしまったのかな。 だけど俺の傷よりも、こんな状態の茉百合さんのほうが心配だ。 「あ、あの、大丈夫ですよ。かすっただけですし……」 「晶くん、あの、その傷の手当てもあるし、保健室に行った方がいいんじゃないかな」 「うん…。葛木くん、後片付けは私たちがしておくから。茉百合さんと一緒に行って」 「あ、うん。わかった。頼むな」 「ううん。ごめんねほんとに」 「そんなの気にしないでいいよ、大丈夫」 天音も結衣もすごくすまなさそうにしてた。 「茉百合さん、保健室行きましょう?」 「………」 俺が促すと、茉百合さんは力なく頷いた。 心配だった。こんな様子の茉百合さん、見たことない。 だけど今は、とりあえず保健室に行こう。 腕の傷は消毒すれば済むだろう。 どちらかというと、茉百合さんを休ませてあげるほうが大事だ。 「これでいいかな」 保健室で適当に消毒液を探して、絆創膏を貼っておいた。 俺の方はとりあえず、これで大丈夫だろう。 それより、茉百合さんは大丈夫かな。 あんなに顔色が悪いなんて、貧血でも起したんだろうか。 「茉百合さん、大丈夫ですか?」 「……ええ、大丈夫だから…」 「でも…」 大丈夫にはとても見えなかった。 顔色はまだ悪い。 座っているのですら、辛いようにさえ見えた。 「本当に、驚いただけだから」 「かばってくれてありがとう。先に帰ってくださっていいのよ」 「………」 何か、言ってあげたい。 でも、何を言えばいいのかわからなかった。 このまま黙って帰ることなんてできない。 俺は何もいえないまま、茉百合さんの隣に腰掛けた。 「……何?」 「いえ、あの、茉百合さんが落ち着くまで、もうちょっとここにいます」 「どうして…」 「なんか、心配だから」 「………心配しなくても、大丈夫よ…?」 茉百合さんがゆるく微笑んだ。 俺を安心させるため、なんだろうか。 その表情はやはりどこか無理をしているようだった。 とても大丈夫だなんて思えない。 「………」 「………」 沈黙が、しんと俺と茉百合さんの前に落ちてくる。 話すことすら辛くなったんだろうか。 俺には何もできないんだろうか。 ……茉百合さん、どうしたんだろう。 いろんなことが頭の中をかけめぐる。 「あの、茉百合さん」 「何かしら」 「……あの。俺の気のせいかもしれないですけど…」 「ここ一週間ほど、なんか、具合が悪いとかじゃ……?」 「いいえ。特に変わりありませんわよ。どうしてそう思うの……?」 「いつもの茉百合さんじゃない気がするっていうか……」 「なんて言ったらいいのかな」 「………」 このところ、ずっと感じていた小さな違和感。 ようやくそれを形容する言葉が思い浮かんだ。 多分これも正確な表現じゃないんだろうけど。 俺の中にある言葉の中では、それが一番近いんじゃないかな。 「なんか、すごく失礼な言い方だったらすみません」 ごくんと息を呑んでから、俺はその言葉を口にした。 「なんだか――うまく溶け込めてないっていうか」 「………」 「あ、えっと……元気がないって言った方が良かったな! ずっと気になってたんです」 「それで、その原因はさっき言ったみたいなことなのかなって意味で――」 「でもそれよりも! とにかく心配なんです、俺が勝手に一人で心配してるだけですけど」 茉百合さんは無表情のまま、ただ俺をじっと見つめていた。 ただ単に具合が悪かっただけかもしれないことを、俺は深読みしすぎた。 実はそうなのかもしれない。 とにかくなによりも一番伝えたいことは、心配ってことなんだ。 「……そう」 「茉百合さんってほら、あんまり他人に弱みを見せたくなさそうかなって……」 「まあ、これも俺が勝手に思ってるだけなのかもだけど…」 「それなら、やめることにします」 「え?」 「取り繕うのはやめるわ、はっきり言うわね」 「疲れたのよ、お前に付き合うのに」 「…………え」 「恩着せがましく付きまとわないで、煩わしい」 一瞬で茉百合さんのまとっている空気が変わった。 それはまるで、別人になりかわったような。 俺の目の前に立っているのは、茉百合さんなのか。 顔も姿かたちも声も何もかも、同じだ。 だけど何もかもが違う。 誰もよせつけない、誰も必要としない氷みたいな冷たさ。 そんな冷たい眼差しで、茉百合さんは俺を見ていた。 「なんて呆けた顔をしてるのかしら。まさか私が泣いてすがるとでも思ったの?」 「お前ごときに、そんな真似をするわけがないでしょう」 「あ……え…」 「まだ理解できないの? ……愚鈍ね」 「私はね、何の取り柄も無いつまらない男に時間を割く趣味は無いの」 「だから私にもう関わるな。はやく、消えなさい」 「………」 これって、この場に俺がいると邪魔って事……だよな? 「え、えっと……出て行けって事、でしょうか」 「そう。ようやくわかって頂いて嬉しいわ。随分時間がかかったみたいだけど」 「………」 何故――なんて疑問すら、俺の頭の中から飛んでゆく。 俺の知っている茉百合さんは、ひとかけらもそこにない。 どんなに馬鹿なことだとしても、俺はその質問を口にせざるをえなかった。 「何かしら、その浅はかな質問は?」 「……じゃ、じゃあ、あの…いつもの茉百合さんは」 「煩い」 「…!」 きっぱりと言い切った茉百合さんは俺に背中を向けて、振り返りもせずに出て行ってしまった。 「…………」 なにが。どうなってるんだ。 今の、本当に茉百合さん? 俺の知ってる茉百合さんと全然違って、でも、あれが茉百合さんで……。 じゃあ、今までの茉百合さんって……誰なんだ。 今の茉百合さんは……誰なんだ? 答えを教えてくれる人なんていない。 茉百合さんは立ち去ってしまった。 ……どうして、なんだ? ……何が起こったんだ? ここにいるのは、俺ひとり。 何も考えられなくなった頭を抱えて、立ち尽くすほかなかった。 「はぁー幸せだったな〜。またやってくれないのかな……」 ケーキ王選手権が終わった今、俺は幸せいっぱいだった。 おいしかったし、いっぱいケーキが食べられたし……。 こんなに幸せで嬉しい事はめったにないなあ。 はあ、この幸せを噛み締めながら寮に戻ろう。 ま、その前に教室に荷物取りに行かなきゃいけないんだけど。 「おっかえりーん」 「…………」 嫌なものを見てしまった……。 何故、教室に入ってすぐ会長がいるかな。 しかも俺の席に座ってるし。 おまけにすごい楽しそうに。 「何してんですか」 「何って。しょーくんを待っていたんだよう」 「何で」 「いやー実はさ、耳寄りな情報を手に入れたんで早速本人に確かめてみよっかなぁなんて思って!」 この人が言う耳寄りな情報とやらが、俺にとって有益なわけがない。 それどころか、嫌な予感しかしない。 しかもこの予感はかなり的中してしまいそうだ。 「……」 とりあえず無視だ。早くカバン持って帰ろう。 「ちょっ!!」 俺の考えを読んだのか、というほどのタイミングで会長が俺のカバンを抱え込んだ。 「ちょっと! 返してっ!!」 「質問に答えてくれるまで返しませーん!」 「何だよもう!」 「えへー。しょーくんさぁ、肝試しの時にさぁー。桜子ちゃんおんぶして逃げ回ってたってホント?」 「えっ」 肝試しの時……。 た、確かにあの時は桜子をおんぶして逃げ回ったけど。 でも、そんなの別に……そりゃ、ちょっとは桜子の体は軽いなあとか、柔らかいなあとかは思ったけどさ。 いや、うん。ちょっとなんか、いい感じにもなったけど……。 う、うう。改めて思い出すとちょっと恥ずかしい。 「あっ! 赤くなった赤くなった! わぁ、ホントだったんだ〜」 「いや、まだ何も言ってないだろ!」 「だって『俺、桜子の柔らかな身体を背負った感触、思い出しちゃった…』って顔してたぞー」 「………ぐ」 あまりにもその通り過ぎて、何も言い返せなかった。 なんでこの人はこんな時だけ、こんなに鋭いんだろう。 「そうかーおんぶしちゃったのかぁ。おめでとうございました!」 「何で祝われなきゃならんのです」 「えー。だってー。二人の関係が一歩進んだ、って事だろ? めでたい事じゃないかぁ」 嫌だ。とても嫌だ。 会長がすごくキラキラした瞳で俺を見ている。 なんかもう、すごおおおおく嫌だ。 恥ずかしいし居心地は悪いし、まず会長が俺のことを話しているのがもう嫌だ。 「か、関係って」 「やー。うーらやましーなー。学園のアイドルからのラブラブ光線ひとり占めなんてー」 「きっと君の事をねたんでシーツ噛み噛みしてるやつがこの学園にはゴマンといるはずだよ」 「………いや、別に」 「んーなになに? どーしたの? 早く桜子ちゃんに告白しちゃわないの? それともされるの待ってんの?」 「ちがいますよっ!」 「じゃあ早くしちゃいなよ〜告っちゃいなよ〜! す・き・だ・って言っちゃいなよー!」 「いやだから、そんなんじゃない!」 「じゃあどんなんだ!」 「だから、ただの友達だって!」 突然聞こえた大きな音。 驚いて、会長とふたりでそちらに視線を向けた。 その音が何だったのかはすぐにわかった。 「!!」 「………ぁ……」 「………」 もどかしげに、桜子の唇が小さく動いた。 何かを言おうとしているのだろうか。 でも、何も言えずに桜子はうつむいてしまう。 うつむいた桜子がそっと顔を上げた。 その表情は悲しそうな、切なそうな、そんな言葉がよく似合っていた気がした。 どうして……? そう思っていると、桜子は落ちたカバンを拾いもせずに走って行ってしまった。 「…………」 さっきの……聞いてたのか? でも、どうしてあんな表情で、走っていって……。 落としたカバンはどうするんだ? っていうか、今の顔は俺のせいか? な、何がどうなって……。 「あいたっ!!」 「ぼーっとするな! 早く追いかけなきゃダメだ」 「は……」 「って、あんたのせいだろーが!」 「俺のせいだろうが何だろうが、今は桜子ちゃんを優先! ほら早く!」 「いたっ、わ、わかってますよ!」 なんか、明らかに元凶のこの人に言われると腹立つけど……。 今はそこに腹立ててる場合じゃない。 桜子を追いかけないと。 何であんな顔……一体なんでだ? 「桜子!」 廊下に出て桜子を探す。 きょろきょろと見てみると、階段の方に走って行く桜子の姿が見えた。 「待って!」 「桜子、待って!」 桜子の後姿はすぐに見つかった。 でも、俺がどれだけ声をかけても足を止めてくれない。 手を伸ばせばすぐに届く距離。 ……桜子は振り向いてくれなかった。 ためらったけれど、俺は目の前の桜子の手をぎゅっと握りしめた。 「はぁ……はぁ……」 少し辛そうな、疲れたような表情。 細い肩が大きく上下していた。 多分こんなに全力疾走をしたことがないんだろう。 「……桜子」 手を離せば、またどこかへ行ってしまいそうな気がした。 きっと走れば追いつけるだろうけど。 だけど、ここで手を離したら、もうずっとそばにいられない。 そんな風に不安になってしまった。 だから俺は、桜子のそばへと歩み寄った。 「あの……待って…」 「………」 小さく、けれど確かに、桜子はこくんとうなずいてくれた。 もう、逃げ出す事はないだろうけど……でも…。 「……………」 俺は桜子に何を言ってあげればいいんだろう。 ただの友達だって、言ったけど…。 いや、うん。友達だと思ってるのは確かなんだ。 そうだ、ただのじゃなくて、大事な友達だ。 でも、友達ってことでいいのだろうか。 俺は桜子を女の子として意識はしてる…とは思うのだけど。 桜子かわいいし。背負ったときはドキドキしたし。やっぱり、守ってあげたいとは思うし。 いやだけど……。何て言っていいのか……。 さっき――さっきこのまま手を離したら、もうそばにはいられないかもって不安になったのは。 それはなんでだ? 友達だから、だけじゃない。 それって友達だからだけじゃない――からなのか? 「………」 「………」 「………」 「……私」 「え?」 「私、ただの友達なだけじゃ嫌です!」 「恋人がいいんです!」 「――っ」 桜子はそう言うと、頬を赤くしてから、また俯いた。 そして俺が次の言葉を口にする前に、桜子は走っていってしまった。 「…………」 頭の中が真っ白になっていた。 一瞬、何を言われたのかすら、わからなかった。 ゆっくりと、意識が戻ってくる。 頬を染めた、だけど悲しげな桜子の顔。 それから。 恋人。 桜子はそう言っていた。 恋人。 それは、俺のこと……なのか。 その気持ちは――さっき俺の中にあった何かと同じもの? 俺が不安だった何かを、桜子も感じていた? それは、同じだったってこと、なのか。 桜子はもういない。目の前から立ち去ってしまった。 何もできなかった。 走り出した桜子を追いかけられなかった。 走り去ってしまった桜子の足音だけが、やけに耳に残っていた。 どうにも出来ないまま、俺はただその場に立ち尽くしていた。 ケーキ王選手権が終わって、俺はマックスと寮に戻った。 ケーキは美味しかったし、いっぱい食べられたし、晩ご飯もおいしかった。 今日は最高の日だな。 「あぁ〜食った食った〜。おなかいっぱい」 「晶さー、昼間あんだけケーキ食ったのによく晩メシそんだけ食えるな」 「別腹なんだよ。ごはんはごはん! ケーキはケーキ!」 うんうんと頷きながら答える。 マックスは理解できないといった感じで俺を見ていた。 いいんだ、マックスに理解してもらえなくても。そもそもロボだし。 ぼんやりそう考えながら時計に目をやる。 時間はもう11時だ。 うん。そろそろお風呂に入れるな。 「俺、風呂行ってくる」 「おぉー、気をつけろよー!」 「あれ、電気ついてる? まさかまた九条が……」 「……あ」 「す、すずの?!」 「晶、さん…!」 「うわっもしかして、今から風呂入るとこだったのか? ごめん、あの、出直してきます!」 うわ、良かった! 九条の時みたいに裸見なくて本当に良かった。 俺に裸なんて見られたら、すずのだったら泣き出してたかもしれないし。 とにかく早く出て行こう。風呂は後で入ればいい。 すずのもその方がいいだろうし。 「ま、まって……」 出て行こうとした途端、すずのが服の裾を掴んだ。 弱々しい力に驚いて立ち止まる。 「っ、どうした?」 「ごご、ごめんなさい」 「いいけど、あの、何?」 「…………」 な、なんか、すずのが泣きそう! なんで? 俺何もしてないよね? まだ服着てるし! ど、どうしたんだ!? 「すずの? 大丈夫か?」 「…あの、あの、いつもは結衣さんとおふろ、入っているのです」 「あ、そうだよね」 「でもあの、今日はちょっとできなくて…それで、一人で……」 「う、うん」 服の裾を掴むすずのの力が強くなっていた。 なんだかこれは、離してくれそうにないんだけど……。 ちょ、ちょっと困ったな。 「それで、ひとりでお風呂に入っていたらですね、誰もいないって思われて、電気消されたりするのです…」 「えっ、それは怖いな」 俺が言うと、すずのはこくこくこくこくと何度もうなずいた。 なんだか必死な感じがする。 確かにそれは怖いと思うけど……けど…! 「え、えっと……それで、俺はあの、どうしたら…いいんでしょうか…」 「せっかくなので」 「はい、あの、外で電気を消されないように見張ってようか?」 「…せっかくなので…」 「あの、じゃ、脱衣所で待ってようか?」 「せっかくなのでっ……!」 必死に言いながらすずのが見上げた。 その瞳はものすごく必死だ。 すがるような目というのは、こういう事なのだろう。 って、冷静に思ってる場合じゃない! つまり、その…せっかくなのでって事は……。 「―――いっしょに入るとかっ!?」 「ありがとうございますぅっ!!」 礼を言ったすずのは、ようやく服を離してくれた。 その表情はすごく嬉しそうだった。 今さら、それは無理ですなんて、とても言えそうにない。 神様……。 なんですか、この状況。 どうしたらいいんですか俺。 「…………」 というわけで、すずのとお風呂に入る事になっています。 なんでしょうか、この状況は。 ありえません。 年頃の男子と女子が、一緒にお風呂なんてありえません。 俺は一体、どうすればいいのでしょうか。 どうすればいいのかも何も、何がなんだかわかりません。 たすけて。 「ぁの…晶さん……おこってますか」 「おこってない、おこってないよ」 怒るどころじゃないよ! むしろ、気を落ち着かせようと必死なんだよすずの!! 「でも、ずっと後ろを……むいてらっしゃいます」 うん。そうだね。 さっきから俺はすずのの方を全く見てないね! でもね、それはね! そっちを向くと大変な事になるかもしれないからなんだよ! 「……いや、そっち見るのはまずいと思って。目の毒というか」 「晶さん……」 「はい…」 無理です。 こんな弱々しく、すがるような声に勝てるわけがないです。 勝てる方法があるなら、是非教えて欲しいです。 覚悟決めろ、俺……。 「…………」 「あの、大丈夫ですか。毒」 「……はい…何とか…」 すずのが俺を見上げている。 その体は白くて小さかった。 幽霊だからなのかな。 でも、そんな理由じゃない気がする。 しかし、これは……。 なんか、すごい試練だ!! 「よかったです」 「は、はい」 「あのぅ、ひとりでおふろに入るの、怖かったりしないですか…?」 俺はひとりでいるよりも、むしろ今の状況が怖いです。 ―――とは、答えられません。 「俺は一人で入るの、慣れてるので……」 「体を洗ったりしていると、ふと誰かの気配を感じたりしませんか…?」 「う、うーん。気持ちはわからなくもないけど……」 「ほんとです? あの、なので、晶さんがいてくれるのが嬉しいです」 「お役に立てましたなら……」 あれ、でもこれって……。 俺は男として頼られていると喜べばいいのかな? それとも、男として見られていないと悲しめばいいのかな? なんか、一体どっちなのかもわからないぞ。 「というか、そもそもこれ結衣の代役だよな」 「え…?」 「なんでもないです」 「はい」 すずのはどう思ってるのかな。 ちょっと気になるかも。 ああ、でもそれよりも……。 すずの、やっぱり小さくて細いな。 肌の色も白いし、俺と全然違う。 そりゃ、そうだよな。女の子なんだもん。 小さいし、かわいいし。 「……いや、あの。すずのは、俺が怖くはないのかな」 「晶さんは優しいです。とっても」 「や、優しくても、時には獣になるかもしれないんだよ。頼むから気をつけてくれ」 「はいっ、気をつけます。…でも、何にですか?」 「俺に!」 「でも晶さんは優しいので、気をつけなくても」 「ああ! 伝わってない!」 どうすればいいんだ、このスルーっぷり! まったく伝わっていないどころか、危険すら感じてもらっていないじゃないか。 だめだこれ。 これは無理だ。 俺が俺をなんとかしなければいけない。 排除だ。 俺の中から、色々な欲望を排除するしかない。 でも、そんなのどうやって? なんかで気を紛らわせるか。 なんかってなんだよ……。 ああ……もう、羊でも数えてみようかな。 それしかない気がする。 「ひ、ひつじが一匹、ひつじが二匹、ひつじが三匹…」 「えっ、ひつじ……」 「ひつじが四匹、ひつじが五匹、ひつじが六匹」 「晶さん、ひつじを数えたら眠ってしまいます」 「しかし俺は数えずにはいられないんだ! ひつじが七匹、八匹九匹じゅっぴき!」 「でも、お風呂で寝てしまったら、溺れてしまいます…」 羊を数え続けていると、すずのが慌てたように近づいてきた。 やめてやめてやめて! 危ない、危ないからね! 手を! 手を近づけないでください、すずのさん!! 「あああ! わかりました! やめます!」 「そうですか…?」 「晶さん、お顔が赤いです、もしかして湯あたりしてしまったのでは」 「俺弱いんです! すぐのぼせるんです! 体洗ってきます!」 このままじゃヤバイ。 とりあえず、今は湯船から出よう。 それがいい。そうしよう。 「あの、やっぱりお隣で体を洗うのはだめでしょうか……」 「だめだめだめ! それはさすがにダメです! よろしくないです教育上!」 「そうですか……」 「と、とりあえず、あの、不安になったら呼んでくれたら、返事するから」 「晶さん」 「はい」 「ありがとございます。ちょっと、安心です……」 俺が返事をすると、すずのの声が安心したように響いた。 まあ、うん。大丈夫だ。これで大丈夫なはずだ。 なんて思っていたんだけどなあ……。 それからしばらく、俺はすずのに名前を呼ばれ、返事を続ける事になった。 「おー! どーだったよ、いい風呂だったかー?」 「………」 「おい、晶?」 「危険だった………」 「……なに!?」 「恐ろしい……恐ろしかった……」 「そうかあ……やっぱり恐ろしいのか……」 「……ああ、本当に」 昨日の夜から、桜子の事が気になってよく眠れなかった。 寮に帰ってからも、一度も顔をあわせていない。晩ご飯も俺が帰る前に早々に済ませたらしい。 ………次に桜子に会ったとき、俺は何て言えばいいんだろう。 ああ、あのときの桜子の顔がずっとぐるぐる回ってる。 「……」 そういえば、今朝は九条に付きまとわれる事がなかったな。 九条も俺の様子を察してくれたんだろうか……。 いや、それはないか。 今日は朝から九条に付きまとわれる事はなかった。 起こしにも来なかったし、寮の中で会う事もなかった。 かと言って学園で会う事もなく……。 なんだかいつもどおりの日常に戻ってしまった感じだ。 ……まあ、茉百合さんの事は……とてもいつもどおりではないわけだが…。 一体、昨日のは何だったんだろう。 一晩明けてみると、俺が一人で夢でも見てたんじゃないかという気すらしてくる。 今日は朝から九条に付きまとわれる事はなかった。 起こしにも来なかったし、寮の中で会う事もなかった。 かと言って学園で会う事もなく……。 今までが今までなだけに、逆にこの状況が怖い。 何かの前触れというか、なんというか……そんな気がしてならないのはどうしてだろう。 「……」 いや、わからない。 大体、九条がどうして俺に付きまとっていたのかがわからないんだから、考えるだけムダなんだ。 考えない方がいい……んだろうか。 「あ、マミィだ」 「なに……?」 九条はいきなり教室に入ってくると、まっすぐ俺の前へとやってきた。 「なっ」 「誤解してると面倒だから説明に来た」 「な、何を?」 「飽きた」 「はあ?」 「おまけに疲れた」 「え? な、なに? 意味がわからない」 「お前の相手をするのはもうこりごりだ」 「待て! まったく意味がわからない!」 「他に言う事はない」 最後にそれだけを宣言すると、九条は俺に背を向けた。 本当に言う事はまったくないらしく、こちらを見つめもしない。 「……な」 何が起こったのかまったくわからなかった。 どうして、こんな事になっているんだ? でも、ひとつだけ明確なことがある。 九条が俺に付きまとうのをやめるってことだ。 それも『飽きた』とか、そんな理由で。 ……って! そもそも、なんで付きまとわれてたのかが、全然わかんないのに飽きたとか!! 「なんなんだよ、ほんと……」 「なーなー。今のなんだったんだ?」 「そんなの俺にだってわかんないよ」 「なんだそれー」 教えてもらえるものなら、俺が一番知りたい。 勝手に付きまとっていたのに飽きたとか、こりごりだとか……。 どうして俺が悪いみたいな言い草になるんだ。 全然、意味がわからない。 ま、でも……。 これで終わりだって言うんなら、それはそれで良かったかも。 毎日、あんなじゃ精神的にもたないしな。 昨日の予告どおり、今朝も九条は起こしに来た。そして、一緒に登校する。 毎日規則正しくほぼまったく同じ時間にだ。 強引に部屋まで起こしに来られるし、あの強烈な攻撃で体中が焼かれるかと思ったし……。 おまけに学園に一緒に来るのも、昨日までとまったく同じ。 とは言っても、やっぱり会話らしい会話はない。 何を考えているのか全然わからない。 あまりにも昨日までと同じすぎて、逆にそれが色々気になり始めてきた。 ……九条は一体、何を考えているんだろう…。 午前の授業はあっという間に終わってしまった。 いろんなことが頭の中をかけめぐっていたけれど――もう昼休みなのか。 「あぁ、おなかすいた…」 体は正直だった。 今にも腹の虫がぐうぐうと鳴きだそうとしてる。 「晶は昼休みになったらそればっかだなー!」 「仕方ないだろ、いろいろあるんだよ…」 「それにいっぱい食べとかないと、午後の授業までもたないし」 「午後の授業はないわよ」 「へ?」 「もう、ホームルームで聞いてなかったの? 今日から繚蘭祭の準備期間に入るから、午後の授業やクラブは全部なくなるのよ」 「そ、そうなんだ。えとじゃあ、俺は」 「とりあえず、昼食を食べたら繚蘭会室に来てね。午後から打ち合わせやるから」 「え、クラスの出し物は?」 「私達は別なのよ、『繚蘭会』でひとつの教室をもらっているから」 「俺も入ってるの?」 「当たり前でしょ、繚蘭会寮にいるんだから」 「はいはーい、わたしも頑張りまーす!」 「オレもだぜー! 男手はいくらあっても足りねーからな!」 「あ、そうか。二人も一緒なのか」 「とにかく。ちゃんと忘れずに繚蘭会室に来てよ」 「わかりました」 「はぁーい!」 「それではこれから、繚蘭祭の打ち合わせを始めたいと思います」 「はぁーい! 全員揃っていまーす!」 繚蘭会室には、繚蘭会のメンバーである天音と桜子、九条と結衣が勢ぞろいしていた。 何故か、茉百合さんとぐみちゃんの姿もあるんだけど…。 桜子……。 ちらりと目をやってみるが、目が合うとすぐにそらされてしまう。 もしかして怒っているのかな。 俺が昨日追いかけたくせに何も言えなかったから。 いや、そんな事で怒るような子ではない…はずだけど。 ちゃんと話をしないと。 ちゃんと向き合って、昨日のことも、いろんなことも。 だけど、今は繚蘭祭の話だよな。 俺は頭をふって、みんなの話に集中した。 茉百合さん……。 ちらりと目をやってみる。すると、目が合った。いつものように、にっこりと微笑む。 いつもの、俺が知っている茉百合さんだ。 なんだかほっとした。 やっぱり昨日のは、夢かなんかだったんじゃないだろうか。 とりあえず、今は繚蘭祭の話だよな。 俺は頭をふって、みんなの話に集中した。 「あの、茉百合さんとぐみちゃんがいるのはどうしてなんでしょうか?」 「欠員補充のため」 「実は、ぐみとくるりんは二人で繚蘭会とは別の展示ブースをやろうと思っているのですよー!」 「え? そうなの?」 「はいっ、くるりんがずっと製作していたマッシーンがもうすぐ完成しそうなので、それを展示しようと思うのです」 「だから、繚蘭会の手伝いが出来ない」 「くるりちゃんの代わりに私が繚蘭会のお手伝いをする、というわけなの」 「だから、くるりは明日からは別行動ね。それだけ伝えておこうと思って」 「茉百合さん、生徒会は大丈夫なんですか?」 「大丈夫よ。生徒会は繚蘭祭のとき、繚蘭会みたいに何かやるわけじゃないから。それに八重野くんがいますしね」 「ありがとうございます」 「いいえ、お気遣いなく。それで、どんな事をやるのかしら?」 「ええ、それなんですけど。limelightを校舎内でやれないかと思って」 「それは素敵ですね」 「せっかくだから、繚蘭祭用の限定メニューとかを考えて、いつもとはちょっと違った感じでやれないかなって思ったんだけど」 「いいんじゃないかしら。limelightの開店で、みんなノウハウはあるわけですし、なかなか本格的なものがやれそうね」 「いいと思う。ケーキは28号にまかせればいいし」 「おぉよ!! なんでも作ってやるぜ!」 「晶くんは? どう思うかな?」 「あ、ああ。うん。いいんじゃないかな」 「よかった。意見は一致してそうね。それじゃ当日までの具体的なスケジュールなんだけど……」 「私たちだけじゃあ店員が足りなさそうだから、何人かスタッフを募集する必要がありそうね」 「出来れば今、limelightで働いている生徒がいいと思うのだけど、どうかしら?」 「そうですね、声をかけてみます」 「限定メニューはどうするの?? やっぱスペシャルなやつ?!」 「祭りだからよー! 目立つヤツでないとダメだろ!」 「うう……」 朝日が窓から漏れ入っていた。 今朝もいい天気だ。 昨日までと同じように、今日も学園は繚蘭祭の準備。 校舎内は、どこもかしこも忙しそうな生徒であふれるんだろう。 とは言っても、俺だってそのひとりなんだけど。 「…ん? メール?」 携帯端末を取り出す。届いたメールを確認すると、珍しい名前があった。 『晶さんへ』 『おはようございます。桜子です』 『実は、今日は検査のために病院に行くので、準備に参加できません。ご迷惑をおかけしますが、どうぞご了承下さい』 『明日は頑張りますので、よろしくお願いしますね』 「ああ、昨日もそんなこと言ってたっけ」 「これ、もしかして繚蘭会全員に出してるのかな。真面目だなあ……」 早く着替えて朝ごはんを食べよう。 ご飯を食べたら俺も学園に向かわないとな。 今日は繚蘭祭2日目。 昨日は内部の生徒のみだったけれど、今日は外部からのお客さんも来る日だ。 父兄や招待客がたくさん来ているらしい。 そのせいか、学園内はどこもかしこも華やかで賑やかだった。 普段の見慣れた制服だけじゃなくて、色んな人が歩いているからなんだか新鮮な感じだ。 さあ、今日も張り切って、『出張limelight』の手伝いをしないとな。 外部からのお客さんが多いなら、なおさら忙しくなるだろう。 「あ、葛木くん」 「はい?」 「まだいいわよ? 一時間ほど、自由時間だから」 「え、そうだったっけ?」 「うん、シフトはそうなってる」 「ああ、じゃあそこらへん見て回って来てもいい?」 「あ、晶さんはお出かけですか?」 「うん。ちょっと色々見てくる」 「ちゃんと帰ってきてね」 「んじゃあ、邪魔にならないうちに外出るよ」 「はーい! 行ってらっしゃい」 「……ふむぅ」 とりあえず、ざっと食べ物系を食べ歩いてみるかな。 だけど、その後はどうしよう。 一人だけだと特にする事もないし……。 「やー! しょーくんじゃないですか! なんてグッドタイミング!」 「うっ」 屋台や模擬店を一通り回って、いろいろ食べ終わった俺は上機嫌だった。さっきまで。 それなのに、なんでいきなり会長に呼び止められるんだろう。おまけに隣には八重野先輩もいる。 しかし、会長はかなり上機嫌だ。かなり笑顔。 なんだろうこれ。ひしひしと不安が襲ってくる。 「今からすっごーい面白いものが見られるから、是非一緒にきたまえよ!」 「それ、会長が面白いだけでしょ」 「違う違う! 俺だけじゃないって! しょーくん、多分びっくりすると思うよ! すっごい体験ができるよ! 感動をぜひ君と分かち合いたいな!」 「……はぁ…」 この人とふたりだけなら嫌な予感しかしないけど…。 まあ、八重野先輩も一緒なら大丈夫かな。 「暇だし、いいけど」 「やったあぁー! ありがとうしょーくん! さあ行こう〜!」 「なんで今日はそんな機嫌いいの?」 「今からすっごい楽しい事があるからだよー!」 「八重野先輩、何があるんですか?」 「いや、俺も知らん。朝からずっとこの調子だ。正直気味が悪い」 確かに、朝からずっとこうだと気味が悪いな。 うーむむむ……。 なんか酷い目にあわないといいけどなあ。 やっぱり、軽々しくいいとか言わなきゃ良かったかな。 「大丈夫大丈夫、しょーくんは何も心配することなんてないよ! はい、早く早く〜」 やっぱり、すっごい不安だ。 「はーい! 着きましたー! ではここでしばし待ちましょう〜!」 「待つって、何をですか」 「しょーくんったら、そんなにおびえなくても。大丈夫だよ〜怖いものは何も来ないよ〜」 「はぁ。奏龍、いい加減何が目的なのか言ったらどうだ」 「うふ、うふふふふふふ。すぐにわかるって」 嬉しそうに言いながら、生徒会長は正門に向かってひらひらと手を振っていた。 なんで? と思ってそちらを見てみると、がやがやとたくさんいる招待客の中から、見慣れない女の子がふたり近づいて来るのが見えた。 って、あれ、誰だろう? 「……!!! なっ…!!!」 ……え? 誰だろうと思ってると、八重野先輩の顔色が一瞬で変わった。 こんな顔、今まで見た事ないぞ!? なんだ? 誰だろうとか、八重野先輩はどうしたんだろうと考えている間に、女の子ふたりは俺たちの前にたどりついていた。 生徒会長はすごく嬉しそうだし、八重野先輩は驚いたままだし……本当、誰? 「こんにちは。お待たせしてすみません、お久しぶりです」 「こんにちは」 「やぁ、こんなところまでわざわざ来てくれてありがとう! 久しぶりだね! 撫子ちゃん!」 「なっ、な…っ!! ―――げほっ、ごほっ」 ええ!? 何、なんでむせるの!? ていうか、八重野先輩はどうしたの? それよりも、生徒会長はどうしてこんなに親しげなの? なに、これ? 状況が全然見えない! 「どうしたの兄さん、大丈夫?」 「――撫子! おまえ、ど、どうして…」 「奏龍さんが、繚蘭祭のチケットを送ってくれたから。お友達とどうぞって言われたから、すももも誘って来てみたんだけど」 じっと、髪の長い女の子と八重野先輩のやり取りを見ていた。 今、兄さんって言った? 色々考えていると、撫子と呼ばれた髪の長い女の子が俺にぺこりとお辞儀をした。 瞬間、長い髪がさらりと揺れる。 「はじめまして、八重野撫子と言います。八重野蛍の妹です」 「あの、撫子ちゃんのお友達で、秋姫すももと言います。はじめまして」 「あ。はじめまして。葛木晶です」 顔をあげた八重野先輩の妹さんを見つめてみる。 言われてみれば、確かに面影が似てなくもない。 「僕は皇奏龍でーす。ナコちゃんのお兄さんの、心の友でーす」 「………こんな騙し討ちをしておいて、誰が心の友だ!」 「ええー、ひっどーい。僕はただお兄さんをびっくりさせてあげたらどうかなーって、こっそりチケット送っただけなのにぃ」 「ごめんなさい、突然来てしまって。びっくりさせちゃったかな?」 「いや…」 心配そうに言った妹さんに、八重野先輩は視線を向けた。 その表情は、かつて見た事のない優しい笑顔だった! なんだこの顔!? 「撫子も、秋姫さんも。よく来てくれた」 と、思って見ていたら、八重野先輩がおもむろに。 ………は!? 鼻血!??!? 「―――ぶっ…!!!」 それを見た途端、生徒会長は俺の肩に顔を押し付けて必死に笑いをこらえ始めた。 そのまま、声を潜めて笑い続ける。 「くくくくく……ひっひっひっひ、出た、鼻血出た!」 「鼻血出たってあんた…」 ちらりと八重野先輩を見てみると、ハンカチで鼻血を拭っている最中だった。 まるで何もなかったみたいに……。 「兄さん、大丈夫…?」 「まだお鼻、弱いんですか?」 「ああ…見苦しくてすまない」 「くっくっくっく……見た今の! 蛍が血垂らしてるとこなんて、一生見れるかどうかだよ?!」 「み、見ましたけど…」 「あいつさ、すっっっげえシスコンなの! 妹にデレデレなの! 鼻血出すくらい!」 「いや……あんたもだろ」 「いや、なんていうか、俺なんかメじゃないのよ! でもシスコンの自覚全然ないの! 笑えるだろ?!」 「えぇ……」 なんか、これだけじゃ信じられないんだけど……。 でも、鼻血出してたしなあ。 「あの、今からケーキを食べに行こうという話になったんですけど、どうでしょうか」 「あぁケーキ! いいよね! いこーいこー! しょーくんも来るよねケーキ!」 「う、うん」 「さあいこっかお兄様〜!」 「………」 今の時間、limelightには他のみんながいるはずだった。 でも、ちょうど奥で調理の手伝いをしているらしくて姿が見えないようだ。 これって、不幸中の幸いってやつでいいんだろうか。 「ねえねえ、あの八重野先輩と一緒にいる女の子って、誰かしら?」 「妹さんですって! やっぱ綺麗よね…」 「あの一緒にいる子は? まさか彼女とかじゃないよね…」 生徒会長と八重野先輩が女の子と一緒にいる。 という事は、嫌でも注目が集まってしまう。 それはもちろん、妹さんとそのお友達にも集まるわけだ。 「………」 「……」 「すもも。大丈夫?」 「うん、大丈夫だけど……すごいね、ナコちゃんのお兄さん、学校では有名なんだね」 「うん、そうみたいだね」 「それだけじゃないって! やっぱり二人とも可愛いから注目浴びちゃうんだよー」 「へ、へっ…」 「あの、そんな…」 「ねーねー彼氏とかいるの? いないの?」 「あ、えと…あの…」 「あの、すももはいます」 「ナ、ナコちゃん!」 「へぇ! どんな人? かっこいい? 優しい?」 「………は、はい」 「撫子ちゃんは? 好きな人とか気になる人はいないの? こんなに可愛いんだから、もてるんじゃない?」 「えっ、私は…その」 「奏龍、貴様いい加減に……」 ゆらりとのびた八重野先輩の手が、会長の襟首をしっかり掴んでいた。 あれは俺が見てもわかる! 八重野先輩は会長を投げ飛ばそうとしている!! かなり本気で怒ってる! 怖い! 「撫子ちゃんのお兄さんはねー!! いっつも僕に優しくしてくれて、助かるんだー!」 「あ、そうですよね、ナコちゃんのお兄さん、いつも優しいです。ね、ナコちゃん」 「ふふ、そうだね」 「……………」 嬉しそうに妹さんが微笑んでいた。 それを見た途端、八重野先輩は小さく拳を震わせながら、その手をゆっくり下げた。 「ほんと優しいお兄様で、助かりますよ。ねえ」 「………そうだな」 こ、怖い! すごく怖い!! 八重野先輩が怒りの矛先を見失っている!! 言葉のひとつひとつに怒りのオーラが見える気がする! こ、ここは俺がなんとかしないといけない! 話題を変えればなんとかなるか!? 「あ、あのっ! ケーキのおかわり頼んでよいですかね!」 「あ、それならあのメニューをどうぞ」 「えっと、ありがとう」 「ナコちゃんも、おかわり頼まなくていいの?」 「え、私はいいよ……。まだ来たばかりだし」 「いーよいーよ遠慮することなんて! どーせお兄様が払ってくださるんですから!」 「…………」 「そ、そ、そうだよ! ここのケーキは美味しいからね! ほらこれとか凄いだろ!」 慌ててメニューを指差して話題を変える。 ここで八重野先輩を更に怒らせてはいけない! 危険だ! 「『繚蘭祭特別限定メニュー・考えるちょんまげ』……。これは、ケーキなんですか?」 「ちょんまげ……考える…? ……ほんとだ…」 「ああ、うん。これ、ケーキ…。おいしいよ……見た目はすごいけど…」 「あの、何のケーキなんですか? 何か入ってる…のかな?」 「えっとそうだな、中身はベーシックなショートケーキですよ。中身は……」 「……なかみ?」 「食べてみようかな…限定だし…すももも興味あるでしょ。一緒に食べようよ」 「え、いいの? じゃあ食べる」 「……いいのかな」 しばらく待っていると、桜子特製『考えるちょんまげ』が運ばれて来た。 きれいに輪切りにされた、大きな部分だ。 ああ、これは……。 「………これは、何の形なのかなあ?」 「うーん。ロールケーキ型ってことなのかな? あ、おいしい」 ふたりは何も知らずに和やかにケーキを食べていた。 すごく嬉しそうな表情をしている。 味はおいしいもんな。確かにあれはおいしかった。 でも、言えない。 君たちが食べているのは『考えるちょんまげ』の腹を輪切りにした部分なんだよ……と、言えるわけがない。 わかる自分もちょっと嫌だけど。 「こんなに賑やかで大きい学園祭なら、みんなも一緒に来れればよかったな」 「そうだね、でももう予定があったんだから仕方ないよ」 「じゃあ、おみやげいっぱい買って帰ろうよ。…ユキちゃんにも」 「ふふ、わかった」 「…………っ」 「どうしたの? すもも」 ふたりが窓の外を見て驚いていた。 どうしたんだろうと同じように見てみると、俺まで驚いた。 外は八重野先輩を見るために集まったギャラリーであふれていたからだ。 「八重野先輩が女の子連れてるってホントですか?!」 「うそっ! いつまでも彼女を作らないって思ってたら、学校の外に彼女がいたの?!」 「大丈夫よ、一人は妹さんらしいよ」 人がどんどん増えて行く。 やっぱり、しかも話題のほとんどは八重野先輩だ。 「…兄さん」 「……何だ?」 「ごめんなさい、なんだか迷惑だったかな? とても楽しい文化祭だと教えてもらってたから……」 「撫子。迷惑だなんてまったく思ってはいない。何も心配することはない」 とても優しく八重野先輩が言った瞬間――― 鼻血がだらっと出た。 あああああああ。 「ぶーーーーーっ!!!」 「あっ、奏龍さん、どうしたんですか? 大丈夫ですか…?」 「…っひ…ぷぷぷ…だ、だい、だいじょぶ…だいじょうぶ……っ!!」 生徒会長が噴出し、机に突っ伏して笑い出した。 ギャラリーの視線は途端にそちらに集まる。 そして八重野先輩は、その間にしずしずと鼻血を拭いていた。 本当、何事もないように鼻血拭くな。 なんかもう、色々口に出せない。なにこれ。 ぐんにょりとしていると、また生徒会長が顔を近づけてひそひそと嬉しそうに話し出す。 「っひひひ、たすけて! たすけてしょーくん! 面白すぎる! あいつデレたら鼻血出すんだよ!」 「………ま、まあ、個性的ですよね」 「妹の前で鼻血だしまくりだからさ、鼻の弱い子だと思われてんの!! ぷくくくくー!」 「………会長気付いて下さい…さっきから八重野先輩がこっちを見てます…」 「兄さん、やっぱりまだ大変なんだね」 「そうですね。あの…よかったらわたしのをどうぞ」 「いや…そんなに気を遣ってもらう必要はない」 「タイヘンですよねー! 粘膜弱くってー! はいティッシュ! 思いっきり拭いてね!」 「…………すまんな」 こわあああああああ!!! 怖い! 超怖い!! すっごい怒ってるオーラが出てる。 ていうか、怒ってる程度じゃない。あれ殺気! 間違いなく殺気だから!! 会長気づいて! お願いだからアレに気づいて! そしてもう八重野先輩をつつかないで!!! 「ね、ねえナコちゃん。そろそろ出た方がいいんじゃないかな」 「そうだね、ちょっと人が……」 「わかった。では他を回ろうか」 「はい」 出張limelightを出て、廊下に出る。 ざわざわっと人が避けていき、取り囲む人数が随分と少なくなって、やっと落ち着いた気がした。 会長は相変わらず楽しそうな顔をしているけど。 もうやだ、この人。命知らずにも程がある。 「あんまり兄妹水入らずを邪魔すると悪いから〜。俺はこのヘンで失礼しますよ! はい、ティッシュの箱あげようね! 気をつけるんだよ! 鼻に!」 「…………」 「さあ行こうかしょーくんよ!」 「は、はい」 「ありがとうございました」 「ありがとうございます」 「いえいえそれでは〜」 八重野先輩は、妹さんとお友達を連れて去って行く。 生徒会長はその姿が見えなくなるまで、ひらひらと手を振り続けていた。 「…………」 「すごいものを見てしまった……」 「あーーー!! 面白かった!!」 「会長、大丈夫なんですか。あんな怒らせて」 「大丈夫なわけあるかっ!」 「大丈夫じゃないのかよ!」 「部屋に帰るのが怖いので今日は晶くんとこに泊めてください…」 「そんなんだったらやるなよ!」 本当、この人は後先考えないんだなあ……。 今夜部屋に来ても絶対に入れてやらないでおこう。 せいぜい、八重野先輩に怒られればいいと思う。 なんか怒られるだけで済まない気もするけど、まあそれは自業自得というものだよな。 確か、九条とぐみちゃんはふたりで展示ブースをしているんだったな。 せっかくだから、そっちを見に行ってみようか。 何をしているのか、準備が忙しくて全然知らなかったし。 ちょっと興味あるな。 よし、行ってみよう。 「これはしょーくんさんではありませんか! よーこそいらっしゃませー! です」 「何しに来た」 「え、いや……」 ふたりがやっているという展示ブースに来てみると、笑顔のぐみちゃんと、無愛想な九条に出迎えられた。 対照的なふたり。 ずっとこうやってお客さんの相手をしていたんだろうか。 「あの、展示が気になって見に来たんだけど」 「それだけ?」 「いや、それ以外に来る理由が……あ…」 俺の答を聞いてもなお、九条は無愛想なままだった。 おまけに俺を放って、置いてあるマシンに向かってしゃがみ込んで何かをやり始めた。 この対応でここのブースは大丈夫なのか? 関係ないのにそんな事が気になってしまう。 いや、もういいや。ぐみちゃんと話そう。 「あの、ここのブースはふたりで何をしてるの?」 「はい! 夢のタイムマシン体験です!!」 「……え?」 「ドッキドキ! タイムマシィィン体験コォーナぁー! です!」 「いや、あの……できれば、もう少し詳しい説明を」 「あ、はい。なんと、ここにあるこのマシン!」 ババーンとぐみちゃんが1台のマシンを指差した。 それは、人ひとりが入れるくらいの大きさのマシン。というか、どっちかと言えば大道具みたいな感じだけど。 「なんとこれは、世紀の発明、タイムマシンなのです!!」 「……」 タイムマシン……というと、映画とか漫画でもよく出てくるやつだよな。 未来から現在へやって来て、過去を変えるとかそういうSFチックなやつという事でいいんだろうか。 でも、この目の前にあるやつはあんまりSFチックではないんだけど……。 「このタイムマシンは、くるりんが開発したんですよ」 「へえ、九条が……」 「はいです! これを使うと、なんと5分だけ未来に行けるのです!」 「……微妙」 「ぎゃー!!!!!」 ボソっと呟いた瞬間、背後からすさまじい攻撃が加えられた。 言うまでもなく、九条の攻撃だ。 「今、何と言った?」 「い、いいえ。何も言ってません」 「……ふん」 作業をしながらも、きっちりこっちの話を聞いてたらしい。 そうじゃなきゃ、俺が微妙なんて言ったの聞こえるわけがない。 「タイムマシンねえ……」 「しょーくんさんも体験してみますか?」 「え、いいの?」 「そのための夢のタイムマシン体験コーナーですから!」 「……」 正直、得体の知れないこのマシンの中に入るのには抵抗がある。 入って大丈夫なのかと不安にしかならない。 でも、俺を見つめるぐみちゃんの瞳がキラキラしている。 こういう期待に満ちた瞳をされると弱い。 断ると泣き出すんじゃないだろうかとすら思ってしまう。 「あの、じゃあ……お願いします」 「はーい! それじゃあ、この中に入ってください」 「はあ……」 ぐみちゃんに言われるまま、マシンの中に入る。 マシンの中は広くはない。小さな椅子があって、俺はそこに座った。 はっきり言って狭い。ひとりで入るのが精一杯だ。 「中の椅子に座ってくださいねー」 「うん、座った」 「それじゃあ、ちょっと説明しますね」 「これから、しょーくんさんは5分先の未来にタイムトラベルします。でも、特別な事は必要ないです。そのまま座っててください」 「それだけでいいの?」 「はいです。操作とかはこちらでやりますから」 「中からは操作できないんだ?」 「一応中でもできるのですけど、こっちで操作した方が安全で確実ですからねー」 「ああ、なるほど」 そりゃそうか。 わけのわからないところを触って大変な事になっちゃいけないもんな。 という事は、俺はマシンが止まるまでこうして座っていればいいって事か。 この狭い中で座ってるって、結構大変かも。 「えっと、今から5分だから……」 「……」 ぐみちゃんが時計をちらりと見た。 俺も目を向ける。 今、10時55分。 つまり、俺は5分先の未来、11時に向かうという事なのかな。 ……本当に微妙だな。 「こちらで扉を開けるまでは、無理に中から開けようとしないでくださいね」 「わかった」 「それでは、扉を閉めまーす」 「はい」 扉が閉まるとマシンの中の閉塞感が増した。 これは、閉所恐怖症だと叫び出したくなるだろうな。 しかし、狭いな。 もうちょっと広くならないんだろうか。 これじゃあ、夢のタイムマシンって感じもしない。 俺でこんなに狭いんだから、もうちょっと体格のいいやつだと入れもしないんじゃないか。 それにしても、本当にこれで未来に行けるのかな? マシンってもう動いているんだろうか。 何も起こってないような気がする。 でも、こっちから扉を開けないようにって言われたし……。 こうやって座って待ってるしかないんだよな。 「あ……」 「わー。良かった、失敗してなかったです」 「え……? あれ、終わった?」 「はい! しょーくんさんは、見事5分先の未来に到着されました! どーぞ時計をご覧下さい!」 「……あ」 ふと時計に目を向けてみると、時間は11時だった。 さっき10時55分だったから、間違いなく5分経っている。 「11時だ」 「はいっ! しょーくんさんにとっては、一瞬の時間旅行だったのです!」 「………」 「時計進めただけとかじゃなくて?」 「あっつうー!!!!!」 いぶかしげに言った途端、背後から強烈な一撃を食らった。 言うまでもなく、九条の攻撃だ。 ……そ、即座に俺の言葉に反応して攻撃をしないでください。 「失礼な事を言うな」 「むうううひどいのですしょーくんさん! ぐみたちの時計を見てくださいよう!」 ぐみちゃんが携帯端末の画面をこちらに向ける。そのデジタル表示も、確かに11時になっていた。 このタイムマシンの中で5分も過ごしていたとはとても思えないけど……でもこれ、5分先の未来に飛んだって事になるのか? なんだか、タネのすぐわかる手品でも見せられているような気分がする。 「…実感ないなあ……」 「しょーくんさん、タイムマシンを疑ってます! すごい疑いの目ですよ!」 「ちっ」 「なんのタネもしかけもありませんよ?! 奇跡の時を超えるマシンなのですよ!?」 「………」 ぐみちゃんが力説すればするほど、うさんくさく感じられるのは何故なのだろう。 本人が一生懸命なのはわかるのになあ。 「もういい、帰れ」 「く、くるりん」 「いや、まあそろそろ時間だから戻るよ」 「そうですか?」 「うん。なんか、ありがとう。貴重な経験ができたと思う……多分」 「はいですー! 満足してもらったらよかったですー!」 「さっさと行け」 「はいはい」 しかし、とことん九条は冷たいなあ。 まあ、俺の方が疑うような事を言ったのも悪いんだろうけど……。 もうちょっと、九条からタイムマシンについて話を聞いてみたかったかなあって気はするかな。 さて……。 それじゃあ、そろそろ時間も経ってしまっただろうし、戻ろうか。 一夜明け、朝を迎えた校舎。 撤収と掃除、片付け作業のため、出張limelightの教室には出展に関わったメンバー全員が揃っていた。 九条とぐみちゃんは、自分たちの展示の片付けがあるから不在。 まあ、今までと同じって事だ。 「それじゃあ、これで全員揃ったわね。撤収作業をはじめましょうか」 「ええ、ささっと終わらせちゃいましょう」 「はいっ」 「おーーーよ!」 廊下の方をちらっと見てみると、すずのが窓から覗き込んでいるのが見えた。 目が合うと、まるで『私も頑張ります』とでも言いたげに両手をあげてみせる。 あまりに一生懸命アピールしているので、俺はちょっと苦笑してしまった。 昨日は戸惑っていたけど、一晩経って、随分気持ちが落ち着いた気がする。 結衣も俺に対して、変わらない態度で接してくれている。 こうやって、変わらない笑顔を見せてくれるのは、結衣のいいところだ。 おかげで俺も、少し元気になってくる気がする。 とにかく、今日はみんなと一緒に掃除をしよう。 体を動かしていれば、余計な事は考えなくなるはずだ。 きっとそれがいい。 視線を戻して、今度は天音の姿を見つめる。 いつもと変わらない、きりっとした表情。 朝も思ったけど、一昨日よりも随分元気になってくれたみたいだった。 少し、ほっとする。 天音に沈んだ顔をされていると、みんなも心配するし、俺もつらい。 俺は天音をちゃんと支えてあげられているだろうか。 少し自信はなかったけれど、今日もしっかり天音を見ていようと思った。 片づけの最中に、ふっと桜子の事を思い出す。 今日は病院に行っていて、ここにはいない。 頭ではそれがどういう事かわかってる。 でも、やっぱりいないとわかっていると寂しいな。今すぐにでも桜子に会いたい。 ああ、こんなこと考えてる場合じゃないな。 桜子の分まで、俺がやらないと! 飾り付けをひとつひとつ丁寧に外していき、掃除をして、別の教室にあった机や椅子を戻してくる。 片付け作業はなかなかの手間だった。 「それにしても片付けも大変だ」 「この人数ですものね。余計に大変かもしれないわ」 「でも、できない事はないですよ。準備もお店もできたんですから」 「そうだよね」 「よっしゃあ、オレはみんなの3倍働くぜー!!」 マックスは相変わらず張り切ってるな。 でも、このくらい張り切ってるやつがいると、自分も頑張ろうと思える気もするか。 俺もしっかりやらないとな。 「あ、そうだ晶くん」 「あ、はい」 「申し訳ないのだけれど、ここの荷物を倉庫用の空き教室に運んでもらえないかしら? 場所はわかる?」 「大丈夫です、資材とか色々置いてある所ですよね」 「ええ。大きなものはそちらに運んで、後でまとめて引き取ってもらうことになっているの」 「わかりました。じゃあちょっと行ってきます」 茉百合さんが指差した場所には、飾り付けに使っていた大型のパネルが並んで立ててある。 数が多いので、一度に全部は無理かな。 俺はパネルを何枚かまとめると、抱えて教室を出た。 「けっこう距離あるかなあ…」 手にしたパネルはそこまで重いわけじゃない。 でも、大きさが大きさなだけに、少し運びにくい。 ひとりではちょっと苦労するかも。 ……なんて思っていると、突然、荷物が少しだけ軽くなった。 「え…?」 「…あの、お手伝いします」 振り返ると、荷物の端をすずのが持ってくれているのが見えた。 周りには他の生徒たちもいるので、はっきり返事はできない。 目配せだけをすると、すずのはこくこくうなずいた。 「はい、だいじょぶです、お手伝いします」 本当に大丈夫かなと、少し心配だったりもする。 でも、一緒だからまあ、なんとかなるか。 それに、こうやってすずのが手伝ってくれると姿勢が随分楽だ。 やっぱり人の手はありがたい。 俺はありがたく手伝ってもらうことにした。 倉庫教室には、まばらに荷物が置いてあった。 まだ午前中だから、集まってきている荷物も少ないのかもしれない。 俺はパネルを下ろし、邪魔にならないよう奥の方に立てかけておいた。 「…ふぅー」 「はふ。着きました」 「うん、すずののおかげで大分楽だったよ。ありがとう」 「お役に立てたなら、嬉しいです」 ようやく役に立ったと、すずのは嬉しそうだった。 「あの、他に何かお手伝いできないでしょうか」 「うーん。じゃあ、あと三回くらい荷物をここに持ってこなきゃいけないから、またさっきみたいにはしっこ持ってくれるか?」 こくこくこくこく! すずのは、すさまじい勢いで頷いた。 多分、幽霊である自分が何かの役に立つことが嬉しいんだと思う。 「それでははやく次のお荷物を……ひゃうっ!」 「あっ!」 急いで教室を出ようとした途端、突き出た大道具のパーツに足を取られすずのはひっくり返った。 その衝撃で、立てかけてあった別の大道具たちが、どんどんとすずのの方へと倒れてくる。 「ああああぶない!」 慌ててすずのと大道具の間に滑り込み、倒れないように必死で支える。 かなり覚悟はしてたけど、そんなに重くはなかった。 気合を入れて押し返す。なんとか大道具たちは、元の場所に戻ってくれた。 「すずの、大丈夫か?!」 「ああ……あぅ…はい…」 「よかった…」 まだあまり荷物が運び込まれていないから、俺一人でも支えきれてよかった。 これが午後だったら、もしかするともっと本格的なドミノ倒しになってしまったかもしれない。 次はすずのをこの教室に入れるのはよそう…。 ……危ないもんな。 そんな事を考えていると、ふとすずのが床にぺたりと座り込んだまま、硬直している事に気付いた。 「……すずの? 本当に大丈夫なのか?」 「………はい…」 「あの……わ…私……」 様子がおかしい。 ぎゅっと、縮こまるように頭を抱えた。 「うううっ!」 「どうした!? 頭打ったのか?!」 「……思い出しそう……私…!」 「私、何かやらなければいけない事が…あったんです……今すぐ、やらなきゃ…」 「とても、大事な事だったんです……」 「思い出さなきゃ、今すぐ思い出さなきゃ……!」 「すずの……」 「っ!!」 そのとき、突然電話のベルの音が部屋中に響いた。 これ、今までも何回か聞いたことがある気がする音だ。 「な、なんだ、また?!」 「……ぁあ…」 震えるすずのの前に、古い形の電話がすうっと現れた。 何も無いところから。 まさに、現れたとしか言いようがない。 電話のベルは鳴り続けている。 どう聞いても、音の元はこの目の前の得体の知れない電話だ。 「…………」 すずのはしばらく見つめていたが、やがてそろそろと電話の受話器に手を伸ばした。 「す、すずの?」 思わずやめろと言いかける。 だって、そんなわけのわからないものに触って、大丈夫なのか? 受話器を取ったら、何かよくない事が起きる気がしてならないんだ。 だけど、すずのは首をふった。 「わ…私……」 その震える手で、だけどしっかりと受話器はとられた。 同時にベルの音が止まる。 これ、どこかと……誰かと、繋がっているのだろうか? すずのは受話器を耳に当てもしない。 そのまま硬直していた。 「……」 「………」 と、現れた時と同じようにすうっと電話が消えていく! 「き、消えた…?!」 「……あ…」 受話器を持っていた自分の手をまじまじと見つめるすずの。 電話の影はもう、どこにもない。 まるで夢をみていたようだ。 「なんだったんだ、今の……」 「………」 「すずの、すずの?! 大丈夫か?!」 「……ぁ……はい…」 すずのは宙を見つめてぽーっとしていた。 「すずの…」 「…………」 呼んでも答えない。 何かを考え込んでいる様子だ。 大丈夫か…? なんだか、このまますずのを放っておいてはいけないと、強くそう思う。 「お手伝いに、ただいま参上つかまつりましたー」 なんとかしたい。 そう思っていると、結衣が扉を開けてやって来た。 「結衣! ちょうどよかった」 「………」 「すずのちゃん…?」 結衣が声をかけても、すずのはぼんやりしている。 まるで、その声が聞こえていないような様子。 本当に、大丈夫なんだろうか。 今までこんなことは一度もなかった。 「すずのが何かおかしいんだ。電話がかかってきて、受話器とったら消えて、それからずっとこんなで……」 「すずのちゃん? わたしだよ、結衣だよ〜。聞こえてる?」 「……ぁ、あ。はい」 やっと、呼びかけられた事に気付いたように、すずのは結衣を見つめた。 だけど、その表情はやっぱり、ぼんやりしている。 「よかった、どうしたの?」 「………あの…もう少しで……」 「もう少しで何か……思い出せそうなんです……!」 「でも…わからなくて……」 「結衣、手伝いはいいからさ、すずののそばについててあげてくれないか?」 「え…うん。でも一人だと大変じゃない?」 「これくらい大丈夫だよ。男だし」 「わかった。すずのちゃん、ここは人が来るから……隣の空き教室にいよう」 「あ……はぃ…」 ぎゅっとすずのの手を取り、結衣は部屋を出て行った。 まだぼんやりとした様子のすずのは、ふらふらとした足取りでそれについて行った。 本当に、大丈夫なのかな……。 「よし、俺はとりあえず荷物の移動だけ済ませてしまおう」 荷物の移動を終わらせたら、すずのの様子も見に行けるだろう。 まずは先にやるべき事をやってしまおう。 廊下は片づけの生徒でごった返していた。 そんな中、教室まで急ごうと走り出す。 「………」 と、前から九条が手ぶらで歩いてくるのが見えた。 あれ? どうしたんだろう。荷物を置きにくるなら、何か持っているはずなのに……。 「……葛木?」 あれ? でも、九条って展示の片づけをやっているんじゃなかったかな。 九条とぐみちゃんのブースから、こっちは割と遠いけど、荷物を置きに来たんだろうか。 いや、でも手ぶらだしなあ。 「あ、なに?」 「葛木、晶?」 「な、なんだよいきなり」 「ん、いや……。何でもない」 どうしたんだろう。今日はなんだか変な感じだ…。 いつもと違う雰囲気がするというか、いつもみたいに刺々しくないというか。 まあ、それならそれでいいか。 今は片づけを早く終わらせないと。 「そっか、じゃあな」 「待て葛木」 「ん?」 「葛木の恋人の名前は?」 「は? え?」 「いいから」 「桜子だけど……九条も知ってるだろ?」 「……そう。そうなのか」 「これから先、夢のような事が起きたとしても、信念を失わずに」 「結衣だけど……九条も知ってるだろ?」 「……そう。そうなのか」 「……やるせないな」 「天音だけど……九条も知ってるだろ?」 「……そう。そうなのか」 「それなら問題ない……今のところは」 「……? どういう意味だよ?」 「なんでもない。じゃあ……」 「う、うん…」 何を言われたのか、よくわからなかった。 九条、もしかして疲れてるのかな……? それとももしかして、今度は違う研究をしてるとか? そういえば、九条の胸元には、見慣れない名札のようなものがついている。 いつもこんなもの、つけていたっけ? 目をこらして見ると、そこには『Dr.flyer.kujo』と英語で書かれてあった。 あれ……? くるり……じゃないのか、名前? やっぱり、なんだか変な感じだ。 すずのの様子もおかしかったし……なんだか、言い知れぬ不安がこみあげてくる。 九条はそのまま、廊下の向こうへと歩いて行ってしまった。 そうだ! それどころじゃない。 急がなきゃ。 すずのの様子も見に行かなきゃいけないし。 「晶くーーんーー」 「え?」 名前を呼ばれ、振り返ると結衣が走って来るのが見えた。 「晶くん! どうしたの?」 「え? どうしたのって、何?」 「え? あれ? あの、晶くんが急いで呼んでるって……さっきくるりちゃんが…」 「俺、呼んでないけど……」 「えっ、うそ? あ、あれ?」 「………」 俺はさっきまで、ここで九条と話していた。 でも、その九条が結衣に、俺が呼んでいたって伝えたのか? なんでだ。そんな事言ってないのに。 もしかして、さっきの九条の態度が関係しているんだろうか。 「……九条は? どこで会ったんだ?」 「さっきの倉庫教室の前!」 「………」 「ちょっと気になるから戻る!」 「う、うん!」 走り出した俺と一緒に、結衣も走り出した。 どうして、こんなに不安になっているんだろう。 ドアを開けると、倉庫教室の中には誰もいなかった。 九条の姿も、勿論ない。 九条はどこに行ったんだろう? 何か倉庫に用があったんじゃないのか? だとしたら、どうしてここにはいない? 「―――すずのちゃん! すずのちゃん、どこ?!」 教室の中を見つめていると、隣の教室から結衣の声が聞こえた。 すずのを呼ぶ、少し慌てたような声。 何か、あったのか? 「結衣?!」 隣の空き教室に入ると、結衣がひとりで立っていた。 そこにいたはずの、すずのの姿はない。 「すずのちゃんがいない……ここで待っててって、言ったのに」 「どうしちゃったんだろ…」 「いなくなったのか?」 「うん…。わたし、すずのちゃんを探すよ。心配だから……」 「俺も…」 「晶くんは、片付けを手伝ってあげて。荷物、男の子でないとつらいと思うから」 「……わかった」 「あとでね!」 「ああ」 どうしたって言うんだろう。 すずのに何があったんだろう。 心配だ。 すずのも心配だけど、結衣も心配だ。 あんなに不安そうで……。 早く荷物の移動を終わらせて、俺もすずのを探そう。 ふたりで探せばきっと、すずのが見つかるはずだ。 そのためには、早く教室に戻って、まずは仕事を片付けよう。 俺は廊下を急いで戻った。 そのまま、メニューや店の内装、当日までにしなければならないことなど、いろんな事をみんなで話し合った。 何だか、色々とやることが多そうだ。 文化祭ってどこの学校でも大変なんだろうな。 まあ、天音たちがいてくれたら、ちゃんと手際よくやれるような気がするけど。 ――午後の授業も終わる時間になり、そろそろ帰ってもいいとのことだったので俺は早々に寮に戻ってきていた。 談話室でごろごろして、夜ご飯の時間が訪れるのを待つ。 これから本格的に繚蘭祭の準備が始まるのか……。 出張limelightの手伝いをする事になったけど、どうなるんだろう。 九条は展示の方でこっちにはいないんだよな。代わりに茉百合さんが来たりもしたし。 色々慌ただしくなりそうだな。 「あー……」 そっか。準備が始まるって事は、当日までそれなりに忙しくなるって事か。 いや、当日が終わるまでかな。それは、どっちでもいい。 遊びに行ったりとか、遊びに行った先でおいしい物食べたりする時間が減るのか。 うーん。それはちょっと淋しいかもしれない。 まあ、でも……寮とか食堂でご飯は食べられるし。 別にそこまで気にしなくてもいいのかな。 どうせ、一緒に遊びに行く子なんてのもいないし。 ……考えても淋しくなるけど…。 「ん?」 近付いた足音に気付いて振り返る。 すると、そこには九条が立っていた。 「あれ? 九条ももう帰ってきてたのか」 「………」 九条は俺を見つめ、じっとこちらを見ている。 何かあったのかな。 というか、俺、無意識のうちに何か致命的なことでもしただろうか。 「ど、どうしたんだ?」 「忙しくなる前というのは、統計的に見ても普段やらない事をなんとなくやってみようと思うもの」 「えーっと、なんの話でしょうか……」 「つまり、お前は今、遊びに行きたいとかデートがしたいとか思ってます」 「え? は、はい?」 「デート、してやらない事もない」 「………」 「晶くーん、デートしてあげるよー?」 「………」 「する? しない?」 「……」 「……」 「ええええええ!!!!」 答えない俺をじっと九条が見つめたまま、頭部のビーム兵器が照準を定める音が聞こえた。 これはつまり、答えなければあれが……! 「えっと、します! します!」 「します?」 「で、デートさせてください」 「よし」 「はああああ……」 「待ち合わせ場所と時間は?」 「え、えっと……」 「考えておくので、後でメール送るねー%0」 「はい」 なんでだろう。 なんで急にデートなんだろう。 別に嫌とかじゃないんだけど……なんでかさっぱりわからない。 「というわけで、明日はデートだよー%0」 「え、明日?」 「他に日はある?」 「……ありません」 「だから明日」 「はい」 「……楽しみ?」 「……」 「……」 「わー! 楽しみです! 楽しみです!!!」 「よし」 あっぶねー。 答えないとあれで攻撃されるのかよ……。 危ないっていうか……まんま脅迫だよな…。 いきなりやってきて、明日はデートとか本当に意味がわからない。 しかも、よく考えれば恐怖との隣り合わせ? 「大丈夫なんだろうか……」 こんな事で、明日が乗り切れるのか不安でたまらない。 とりあえず、後から待ち合わせ場所と時間はメールで教えてくれるみたいだし、遅れないように行く事にしよう。 遅れたら殺されそうだし…。 でも、まあ……。 別に女の子と一緒にデートというのは嫌ってわけじゃない、かな。 あ、俺、これ初デートになるのかな。 ちょっとドキドキする……かも。 そう思うと、少しだけ楽しみになってきたかも。 「ただいま」 「おなかすいたー!」 「あ。天音、ちょうどよかった。明日って出かけたりしても大丈夫かな?」 「え? 別にいいけど、明後日は繚蘭祭の準備をするからあけておいてよ。……でも、どうしたのいきなり?」 「なになに? どこに出かけるの?」 「さぁ……」 「さぁって…何にこにこしてるの?」 ……俺、そんなにニコニコしてるかな。 「晶くん?」 「なんでもない、なんでもない!」 なんだか無性に恥ずかしくなって、慌てて自分の部屋へと退散した。 も、もしかして、俺舞い上がってるのか? 「あー! 深く考えないようにしよ!」 ここは晩ご飯の事でも考えておくべきだ! 俺は、ベッドに寝転びながら落ち着かない気分で天井を見つめ続けていた。 ついにデート当日になってしまった。 待ち合わせの時間は……よし、まだ多分大丈夫だろう。 しかし、どうしていきなり九条はデートとか言い出したんだろう。 嫌とかそういうんじゃないけど……。 でも、いきなりすぎるとは思う。 それに、九条が相手で普通のデートが成立するとも思えない。 何が起こるのか予測不可能すぎて怖い。 それでもやっぱり……。 女の子とデートなんて初めてだから、どこかウキウキしてる自分がいるんだよな。 「あ……」 軽い足取りで待ち合わせ場所に到着すると、既に九条がいた。 いつもの表情でぼんやり立っている九条はジャージ姿だった。 デートにジャージ……何故だ。 普通、かわいい服を着てくるもんじゃないのか……。 いやこれは、深く考えない方がいいのかもしれない。 近くにあった時計に目をやると、待ち合わせ時間ぴったりだった。 「九条」 「あ……」 「良かった。遅れなくて」 「……何故遅れて来ない」 「……は!?」 九条の目が冷たい。 俺を見つめる視線が、まるで俺を非難しているような気がした。 何かしてしまっただろうかと思うが、何も思い当たらない。 というか、今の発言はどういう事だ。 遅れて来た方が良かったって事か? さっぱり意味がわからない。何故、遅れる必要が……。 「デートの待ち合わせは、相手が遅れて来てからが本当の勝負と教わった」 「え、えーと」 「遅れた相手をいかに咎めずに受け入れるかという勝負」 九条の表情は真剣だった。 俺をからかっているようにも見えない。 それはあれだな。 漫画とかでよくあるシチュエーションだ。 『遅れてごめーん』『ううん、待ってないよー♪』みたいな。 ………まさか…やりたかったのかな…。 「28号が教えてくれた事と違う」 「…マックスか……」 どうやら、マックスが入れ知恵したらしい。 というよりも、九条がマックスにデートについて調べさせたのかもしれない。 あいつ……何を調べてその結論に至ったんだろう…。 ……まあでも、マックスだしなあ。 「いや、あの。遅れなかったから、それはそれでいいんじゃないかな……」 「そういうもの?」 「だと思う」 「……わかったー%0 おはよー、晶くん、すてきな朝だねー%0」 「……あ、うん」 九条は、未だに時々変なテンションが入り混じってるモードのようだ。 これについてはもうあまり深く考えないようにした方がいいか…。 「えっと、どこか行くとこあるの?」 「買い物%0」 「え?」 「手とか繋いで、買い物するんだよー%0」 「ちょっと、あの……っ!!」 言うなり九条は隣に並んで、俺の手を握った。 突然の事に驚く俺を無視して、九条は握る力を強くする。 小さな手……。 その手が強く俺の手を握る。 少しだけドキっとした。 女の子から手を握られるなんて、は、初めてじゃないか? あれ、今まであったっけ。あったようななかったような。 九条はどう思っているんだろ。 そんな事が頭に浮かんで、その表情をちらりと見つめる。 「……」 でも、九条はいつも通りだった。 何も変わらない。 意識なんかしていないように見える表情。 「あの、九条これってさ」 「デートはこういうものだよー%0」 「あ、はい」 今なんとなくわかった。多分、九条の頭の中には明確なデートのビジョンがあるんだろう。 デートとは、こういう手順でこうあるべきだ! というものが。 まあ、多分マックスが教えたんだろうけどさ…。 そのプランを忠実に実践しているだけなんだな。 ひとりデートだと舞い上がってた俺、なんだか少し寂しい人かも……。 「あ、あの、買い物って、何か欲しい物あるの?」 「……ん」 「ないの?」 「特に」 「ふ、服とか見に行く?」 「服? どうして?」 「どうしてって…」 だって、ジャージだし……。 女の子の買い物に付き合うっていうのは、服とかを見に行くものなんじゃないだろうか。 俺だってよく知らないけど。 それに、九条はいつもジャージを着てる。 ちょっと可愛い服とかを見れば、そっちに興味が出たり……しないかなあ。 でも服を見てはしゃぐ九条の姿はいまいち想像できない。 「別に興味ないなら、他でも」 「じゃあ、行くー%0」 「え?」 「そういうのがデートなら、そうする%0」 「そ、そう」 「うん」 また、九条の小さな手が俺の手を強く握る。 それから、何度かその手を引かれた。 なんだろうと思ったけれど、すぐにわかった。 どちらに行けばいいのかと聞いているんだろう。 「じゃあ、行こう」 小さな手を握り返してもいいのか、わからなかった。 だからそのまま。 手を握られたままの状態で歩き出した。 そして、隣に並び手を握る九条も同じように歩き出した。 手を繋いだまま、俺と九条は買い物をしてまわった。 とは言っても、何件か店を見るだけで何も買ってないのだけど。 何か買ってあげたほうがいいのかとも思ったけど……。 「晶くーん、これ似合うかなー?」 「あ、うん、いいんじゃないかな」 「わーい、嬉しいー%0」 「買うの?」 「晶くーん、こっちはどうかなー?」 「いいと思うけど……さっきのは?」 「わーい、嬉しいー%0 これはこれはー?」 ……それ、男ものなんだけどなあ。 九条はこういうことに全く興味がないんだろうという事が、すぐにわかった。 「次はあっちにいこうよー%0」 「あ、待って待って……」 それでも、一緒に歩いているだけでもなんとなく楽しく思えるのは、やっぱり女の子と一緒だからかな。 デート中の男女が、意味もなくふたりで歩くのはどうしてだろ? なんて思っていた事が、少し理解できた気がする。 一緒にお昼も食べた。 そういえば、九条が外でケロリーメイト以外を食べるのを見たのは初めてかもしれない。 それでも、まだまだ一日は終わらない。 時間もたっぷりあるから、どこかに行こうかと思ったんだけど……。 「……ん」 「九条?」 「ふぁ……」 ほんの少し眠そうに、九条が頭をフラリと揺らす。 それから出て来る、小さなあくび。 「疲れた?」 違うと言いつつ、さらに出て来る小さなあくび。 いつも細められている目が、さらにくっつきそうになっている。 もう眠くて限界、といった様子だ。 ……もしかして、休日はいつも長い時間寝てるのかな? 今日はデートのために朝早く起きたから、調子がでないとか? 「九条」 「…んー」 「眠い?」 「……」 「あー。とりあえず、ちょっと座れるとことか行く?」 「行く」 「うん」 どこがいいだろうと思ったけれど、とりあえず時間を気にせずに座れる場所ならと公園に来た。 相変わらず、九条は眠そうだ。 握った手を引いて歩いている間も、ふらふらしていた。 「ちょっと座ろう」 「ん」 手を引くと、眠気に負けているせいか九条は素直についてくる。 なんだか、小動物的でかわいいというか……。 こんなこと思ってるのがバレたら殺されそうだけど。 誰も座っていないベンチに座らせると、九条はぼんやりした顔で宙を見つめている。 「眠いんだろ?」 「んー…」 「もしかして、休みの日はいつも昼まで寝てるの?」 「んーんー」 「??」 「寝てない」 「じゃあ早起きなのか」 「違う、寝てない」 「へ? それ、徹夜してる…ってことか?」 「ん。マシン開発の最終調整」 「ふ、ふーん」 多分、なんだかわからないけど、マシン開発ってのは九条が作ってる機械のことか。 毎日何かしてるみたいだなとは思っていたけど……。 「もう少しで完成、だから早く仕上げたい」 「それで徹夜したのか?」 「うん。時間が惜しい」 「それなら、今日だって無理しなくて良かったのに……」 「それは、デートだから」 「いや、あの……」 別にそこまで無理してデートをする必要はなかったんだけど…。 まあ確かに、俺はちょっと楽しみにしてしまっていたわけだが。 でも、目をしょぼしょぼさせてぼんやりしている九条の姿を見ると、とても申し訳ない気分になってくる。 「なんで、ワタシがここまでしてるのかわからない」 「あ、そう……」 「でも、しなきゃいけない気がした」 「………」 これ、俺に気をつかってくれてるのかな。自分ではわかってないみたいだけど。 まあ、俺にだって九条がここまでしてくれる理由はよくわからない。 何しろ、すごく喜んでいたと思ったら次の日から突然態度がおかしくなっただけだからな。 九条は何度か目を擦ると、眠気を振り払うようにベンチから立ち上がった。 「じゃ、デートの続き」 「ちょっとストップ。座って」 「……? うん、何?」 「昨日徹夜したのに、無理してデートに来たんだよな、今日」 「それが?」 「そういうの、よくないと思う」 「……デートはよくないってこと?」 「いや、そうじゃなくて。あのさ、九条がデートに誘ってくれたのはすごく嬉しいよ」 「嬉しい?」 「うん。俺のために徹夜明けで来てくれたのは、本当に嬉しい事だと思ってる」 「うん」 「でもさ、無理はしちゃだめだと思うんだ。絶対!」 「……?」 「九条が頑張ってるのはすごいと思うし、俺のために何かしてくれるのも嬉しい」 「じゃあ、別にいい」 「よくない」 「どうして? 不可解」 「睡眠時間ってすごく大事じゃないか? 別にデートはいつでも出来るだろ」 「むう…」 納得できない。 というよりも、理解できないという表情。 九条はそんな表情で俺を見つめる。 じっと、そんな九条を見つめる。 顔にはやっぱりどこか疲労が見えているような気がした。 「……無理して九条が倒れちゃったりしたら、俺が嫌なんだよ」 「………それは」 「九条はさ、倒れたりしないって思うかもしれない。でも、わかんないよ、いつ倒れちゃうかなんて」 「どうして?」 「目に見えない疲れっていうのは、体に蓄積されててだな」 「うん」 「そのまま無理してると……ふって、いきなり倒れる日が来るかもしれない」 「……倒れてから考えたらいい」 「それじゃだめな時もあるかもしれないだろ!」 感情にまかせて、少し声を荒げてしまった。 いきなりのことに、九条は驚いた顔をしてる。 「ご、ごめん。怒ってるわけじゃないんだ。……嫌なんだよ」 「……いや?」 「うん。嫌なんだ、俺。誰かが倒れるところを見るの。なんていうか、たまらない気持ちになる」 俺はなんでこんな風に声を荒げてしまったんだろう。 その時、答えがわかった。 あんまり思い出さなかった、昔の記憶だ。 「……俺の母親、過労で急に倒れて、そのままいなくなっちゃったから。多分そのせいだと思う」 「………」 九条の戸惑いが伝わってくる。 そりゃ、そうだよな。いきなりこんな話されたんだから。 だけど心配してることだけはちゃんと伝えたかった。 九条は、おぼろげながら覚えている母親と似ている気がしてならない。 顔や話し方とかじゃなく、何かにうちこんでしまうと何も見えなくなってしまうところだ。 それが自分の健康であったとしても。 「だから、もう誰か倒れるとことか見たくないんだ」 九条はただ黙って俺の話を聞いていてくれた。 「俺、九条がそんなことになったら、絶対嫌だからな」 「……ぇ」 「そんなこと簡単に倒れないとか、思うなよ。無理するのが体に悪いのは間違いないんだからな」 「だから、ちゃんと休める時には休まないとだめなんだ。わかった?」 「う……うん…」 「じゃあ、帰って寝る?」 「でも、デートの途中……」 「むむ……」 そこにはまだこだわるのか。 それを言われると、ちょっと嬉しい気持ちもあるので複雑になってしまう。 どうしたら気持ちよく納得してもらえるのか……。 「あ! じゃ、ここでちょっと寝るというのは?」 「ここで?」 「ちょっとだけデートは休憩。本格的に寝るんじゃなくてもさ、30分寝るだけでも頭はスッキリするだろ」 「確かに」 「九条は休めるし、デートとして一緒にもいられるし、これなら完璧」 「……」 「……ダメか?」 「それでいい」 「じゃあ、ゆっくりどうぞ」 「うん」 頷いた九条が目を閉じた。 じっと見つめると、まつ毛が何度か小さく揺れる。 そんなにすぐには眠れないかもしれない。 そう思ったのに、九条はすぐに規則正しい寝息を立て始めた。 「……」 どれくらい眠かったんだろう。 こんなにすぐ眠ってしまうくらいだから、相当かもしれない。 ……無理しなくても良かったのに。 九条が作ってるマシンって、どんなだろう。 こんなに頑張るくらいだから、相当すごいモノなんだろうな……。 いつか、俺にも教えてくれるかな。 「すぅ……すぅ……」 30分くらい経ったら、ちゃんと起こさないとな。 それまでは、俺もちょっとぼんやりしよう。 …………。 ………。 ……。 「……」 「すぅ、すぅ……」 「…………」 「……」 「……あ……?」 ぱちぱちと、まぶたが瞬く。 ぼんやりとした視界がはっきりする。 すると、目の前には九条の顔と、さっきと違う景色。 よく見ると、そこはもう夕方の風景だった。 ……夕方? 「あ! 九条!?」 「…っ!!!」 「あ…………」 慌てて目を覚ますと、九条が目の前にいた。 そして、驚いたように俺を見つめている。 こ、これはもしかして……つられて寝てたか、俺。 しかも、九条は俺より先に起きてたみたいだし。 「ご…ごめん、俺。30分経ったら起こすとか言ったのに」 「……別に、そんなの……」 「一緒に寝ちゃうとか、ホントごめん」 「いい……」 「え?」 「……いい」 うつむくように、九条が下を向く。 あれ、てっきり『この嘘つき!』とか言って怒られると思ったけど……。 そのままで小さく首を振る姿は、なんだかかわいかった。 年相応…という言葉とはまた違うかもしれないけど、今までのどれよりも女の子らしい仕種だ。 「あ……えっと、眠いの、もう大丈夫?」 「うん」 「そっか。あ、だからって夜中に寝ないのもよくないから」 「……うん」 「じゃあ、帰ろうか。遅くなったし。……俺のせいだけど…」 「帰る…」 「うん」 ベンチから立ち上がって大きくのびをする。 うーんと体をのばすと気持ちいい。 って、俺はいったいどのくらい寝てたんだ。 体をのばしながら深呼吸をして、それから九条を見つめる。 いきなり目が合った。九条は俺をじっと見ていたらしい。 また、おかしな奴だとでも思われてたのかなこれ……。 「じゃ、行こう」 「…ん…」 答えた九条は頷き、そのまま一人で歩き出した。 あれ? さっきまでは、歩く時には手を繋いでいたのに……。 もしかして、デートがこれで終わりって事かな。 ちょっと寂しい気もするけど……。 まあ、それはそれでいいか。 寮に戻って来るまでの帰り道。 九条はあまり何も話してくれなかった。 とは言っても、いつもあまり口数が多い方じゃない。 俺の言葉には返事をしてくれる。 だから、まあ、いつも通りって事なんだろう。 小さな顔をあげて、何回かチラチラと俺を見ていたけど、すぐに目をそらしてしまう。 やっぱり、寝たの……まずかったかな…手もつないでくれないし…。 「……」 「あーえっと……今日はありがとう」 「何が?」 「いや。デートしてくれたから」 「……ん」 「じゃあ、あの、うん。中入るのは一緒だけど、とりあえずおやすみって事で」 「……」 声には出さず、九条はこくりと小さく頷いた。 そのまま、背中を向けて小さな体が走り出す。 けれど、その小さな体はほんの少し走って立ち止まった。 どうしたのだろうと思っていると、九条はこちらに戻って来る。 「……おやすみ」 「え、あ……うん」 「またね」 「……」 それだけを伝えると、九条はまた背中を向けて走り出した。 そのまま、先に寮に入った九条の姿は見えなくなる。 今の……なんだ。 あんなの言われた事、なかったよな……。 なんかちょっと……かわいかったぞ。 よく考えたら、なにげない普通のやりとりだったのかもしれないけれど……。 九条とそんな挨拶をしたことがなかった俺は、しばらくその場で立ち尽くしていた。 「すぅ…すぅ……」 遠くから鳥の声が聞こえる。 すごく涼しくて快適で、聞こえて来る鳥の声も心地いい。 「うーん……」 もうちょっとだけ寝てたい。 ……いいよな、ちょっとくらい。 「……すぅ、すぅ」 「……」 「すーすー」 「……葛木」 「ん……」 誰かが俺を呼んでいる気がした。 それから、ゆらゆらと、体が揺れる。 それは心地よい、小さな揺れ。 そういえば、前にも似たような事があった気がする。 なんだったかなあ……。 「んー」 「葛木」 「……すぅ、すぅ」 「…………」 俺を呼ぶ声と揺れが止まる。 やっぱり、前にも似たような事があった気がする。 あれ、そういえばあの時って……。 …………。 ……。 「……」 「……あ、あれ?」 慌てて起き上がったけれど、予想していた衝撃はなかった。 ……恐怖のビーム兵器による攻撃は防げたという事か? きょろきょろと周りを見ると、ベッドの側に九条がいる。 「あ、えっと。九条」 「うん」 「起こしに来てくれたの?」 「……うん」 「そ、そう」 なんだか、いつもと何か違う。 ……以前なら、確実に今頃ビームをくらっているはずだ。 それに、いつも以上にあまり喋ってないような……。 「あ、えっと。あの、おはよう」 「うん。おはよう」 「……」 「……」 会話が止まる。 何を話せばいいのか、わからない。 この場にマックスがいれば何か話のきっかけがあったかもしれないけど……。 あいつ、ケーキの仕込みで最近は朝いないからなあ。 「あの……起こしてくれて、ありがとう」 「うん」 「えっと……」 「……」 九条がじっと俺を見つめる。 表情の変わらない九条は、いつも何を考えているか、よくわからない。 でも、なんだかこれまでと違う気がするのは何故だろう。 「あの、着替えるよ」 「わかった」 「……」 なんか、いつもと違う。 表情はいつもと同じなのに、おとなしいというか、静かというか。 なんだろう、この違和感。 でも、まあ……無害にはなってるのかな。 九条が何を考えてるかはわからないけど……。 とりあえず、着替えなくちゃな。 今日は日曜日だけど、繚蘭祭の準備で学校に来ている生徒は多い。 これだけ準備期間をしっかりとって本格的にやるとなると、当日がちょっと楽しみかも。 九条が絶妙な時間に起こしに来てくれたおかげで、俺は朝ご飯にもきちんとありつけ、余裕いっぱいで準備開始の時間を待つ事ができた。 もうちょっと感謝した方がいいな、これは。 そう思って改めてお礼を言おうとしたが、朝起こしに来てくれた後は、九条と顔をあわせる事はなかった。 もちろん、この場の手伝いにも来ていない。 多分、どこか他の場所で何か別の事をしているんだろうとは思うけど。 「……葛木くん? なんか元気ない? 朝ご飯食べた?」 「あ、うん。ちゃんと食べた。でも、ちょっとお腹減った」 「はー。結衣も同じような事言うんだもん。あなたたち、似すぎにもほどがあるわ」 「そうかなあ」 「そうよ」 「……」 ちょっとお腹減ったのもあるけど……。 やっぱり、九条の態度がちょっと違うのが気になってもいる。 ちゃんと言い聞かせたつもりだったけど、まさかまた寝てないとかそんなことではないだろうか…。 「ねえ、ホントにお腹減ってるだけ?」 「え?」 「それだけじゃないのかなーって思って……」 「いや、あの……九条って、今日は来ないの?」 「くるり? くるりなら、ぐみちゃんと展示ブースの準備をするって言ってたじゃない」 「あー…そうだっけ。展示ブース?」 「聞いてない? 開発中のマシンを展示するんだって」 「ああ、なんかもうすぐ完成とかって言ってた……」 「そう、それ」 そういえばそうだった。九条はぐみちゃんと何か展示をするんだよな。 すっかり忘れてしまっていた。 なるほど。そっちが忙しいから、ここにはいないのか。 納得いった。 「最近、頑張りすぎで気にはなってるんだけどね」 「うん」 「くるりって、あんまりそういう事は口にしないから。だから余計に心配」 「そっかー……天音っていいやつだな」 「え!? な、なに? いきなり」 「いや、そう思ったから」 「そう……」 頑張りすぎで気になる、というのは俺も同じだ。 昨日のやりとりからでも、九条があまり自分の体調を気にしていないというのはよくわかったし。 だから、ちゃんと休んで欲しいって伝えたつもりなんだけどなあ。 あのときは九条も理解してくれたと思ってはいるんだけど……でも今日の態度はおかしかったし…。 「天音ちゃーん。こっち、どうすればいいー?」 「え? あ、待って、すぐそっち行くー」 「はーい」 ぼんやり考えていると、別の場所で作業していた結衣が天音に声をかけた。 天音はそちらに返事をすると、小さく息を吐いて俺を見つめた。 「準備、頑張ろうね」 「え? あ、うん」 「じゃあ、結衣のとこ行って来る」 「わかった」 よし。とりあえず準備の手伝いをしっかりやろう。 様子がおかしい九条の事は気になるけど、もしまた無理しているようなら、寮に帰ってから言い聞かせる。 まずは今目の前の仕事をちゃんと手伝わないと。 休憩を挟みながら、limelightの準備は進んだ。 休日を一日まるまる使っての準備は、かなり順調に進んだみたいだ。 これなら繚蘭祭前にきちんと休日もとれるかもしれない、とは天音談。 まあ、休日が増えるのはありがたいことだし、俺も嬉しい。 結局、九条は自分の展示ブースにかかりっきりだったらしく、今日は1度もこっちに顔を出さなかった。 ここ数日間は、ずっと九条にまとわりつかれていたからなのか……。 九条が顔を見せない一日というのは、不思議な感じだった。 拍子抜けっていうか……。 なんだろうなあ、この感じ。 とりあえず寮に帰ったら、九条の様子を見に行こう。 寝てるか寝てないかとかちゃんと聞いて、もし寝てないようだったらまた寝かせないと。 ……俺も結構、寂しがりなのかなあ。 なんだか深く考えると悲しくなってくるので、あまり深く考えるのはやめよう……。 「……」 気付いたら、朝だった。 いつもよりも、すんなりと目が覚めていた。 いつ眠ったのかもよく覚えていない。 なんとなくベッドに入っていたら、いつのまにかそのまま寝てたみたいだ。 九条が帰ってくるのを待っていたはずなんだけど……。 結局、昨日はあれから顔を見られなかったし。 夜になったら帰ってくるかと思ったけれど、晩ご飯は外で食べてくるとのメールが天音の所に届いただけだ。 いつ帰ってきたんだろうか。まさか、帰ってきてないって事はないよな。 寝てるのかどうかも確かめられなかったし、会ってないから様子もわからない。 昨日の様子がおかしかったのは、本当に体調が悪かったから、とか……? だとしたら、ほっとけない。 「むう……」 いるかどうかはわからないけど、とりあえず九条を探してみよう。 それに、体調が悪いんだったら、ちゃんと休むように言わないと。 いや、ベッドに縛り付けてでも休ませないと。 ……それはそれで、ビームくらいそうな気もするな…。 談話室までやって来ると、そこには九条がいた。 ぼんやりした様子でケロリーメイトをかじる姿は、やっぱりいつもと違う気がする。 いつものピリピリした感じはどこにもないけれど、それが逆に、気安く声をかけることをためらわせる。 「……」 声をかけようか、それとも黙っていた方がいいのか……。 でも、やっぱり黙ってはいられない。 「九条」 「……!」 声をかけると、九条は驚いた表情で俺を見つめる。 それは、どうして声をかけるんだと言いたそうな顔で、ほんの少しだけショックだった。 いや、ショックを受けてる場合じゃない。 「九条、あのな、体調とか大丈夫なのか?」 「……」 「ほら、マシンの最終調整がどうとか言ってたし」 「…ん」 「それであの、寝てる?」 「寝てる」 あれ? じゃあ夜はちゃんと眠れてるのかな。 でも、それにしてはあんまり表情が優れないというか、いつもと違う感じがする。 「それならいいけど……ちゃんと寝てるよな? 2時間とかじゃなくて。夜はちゃんと寝たほうがいいぞ」 「……」 「あの時だって、そう言っただろ」 「……どのとき」 「デートした日」 「……!!」 「本当に大丈夫なのか? 無理してないか?」 「……」 九条が饒舌なタイプじゃないのは知ってるけど。 それでもやっぱり、答えてもらえないと不安になってくる。 どこか具合が悪いんじゃないのか。 それとも、また眠いんじゃないのか。 そんな、色んな事が頭に浮かんでしまう。 自分でも心配症すぎるかもしれないけど、どうも九条のこと……ほっとけないんだよなあ。 俺は九条がちょこんと座っている横の椅子に座り、九条の顔を覗き込んでみた。 「なあ、九条」 「……」 でも、どんなに聞いても九条は答えてくれない。 視線すら合わせてくれずに、下を見つめている。 だけど、かと思ったらチラチラこっちを見る。 ……よくわからん…。 「作ってるマシンとか、展示ブースの事も確かに大切だとは思うけど、やっぱり自分の体の事もちゃんとしないといけないと思うんだ」 「……」 「この前も言ったけど、無理して倒れたりしたら……」 「……う」 「うん?」 「…は……」 「なに?」 「……」 「やっぱり、調子悪いのか?」 「……かい」 「え?」 「不可解ー!!」 「へ……」 突然、九条は座っていた椅子から立ち上がると走り去っていった。 「………」 残された俺は何がなんだかわからない。 それこそ、こっちの方が不可解だ。 今までと全然違う反応。 今までと違う態度。 あ、でも、走れるって事は体調は悪くないって事でいいのかなあ……。 「はあ」 うーん。ここでこうしてても仕方ない…か。 色々気になるけど、とりあえず学校行く準備をしよう。 その前に朝ご飯かな。おなかが寂しいし……。 そう、寂しいのはおなかで、九条が相手にしてくれないことは寂しくなんてないぞ。うぅ。 色々ぼーっとしているうちに、あっという間に放課後になった。 出張limelightの準備を手伝うために天音についてきてはみたけど……。 やっぱり、九条の事が気になっていた。 一度気になり始めると、もう作業に手がつかない。 なんなんだ、あの態度は。 今まで俺に対して氷のような鋭い視線を向けてきてばかりだったのに。 あ、でも最近はなんだかヘンな態度になってたけど。いやにからんでくるというか。 しかし昨日と今日はそのヘンな態度もなくなってて……むしろ挙動不審というか。 うーん。わからない。 やっぱり、女の子はよくわからないぞ。 不可解と叫びたいのはこっちの方だ。 「……む」 考えていると、当然手は止まってしまう。 目の前に用意されていた飾り付けを作る仕事はさっきから、まったく進んでいない状態。 考える事をやめて手元を見つめてみる。 見つめたって仕事は進まない事くらいはわかっているんだけど。 「はあ……」 これじゃあ、何をしに来たのかわからない。 まったく手伝いになっていないぞ、俺。 「晶くん?」 「あ、うん。どうかした?」 「あの……元気ないみたいだったから」 「あー……。いや、うん。大丈夫!」 「本当に?」 「本当に!」 「疲れているなら、無理はしちゃだめだよ!」 「本当に大丈夫だから」 「何かあったら、ちゃんと言ってね」 「うん。ありがとう」 九条を心配してる俺が、こうして心配されてちゃダメだよな。 これじゃあ、九条にどうこう言えないかもしれない。 「はあ……」 「葛木くん、ちょっといい?」 「あ……。ごめん、進んでなくて」 「そうじゃなくて」 「え?」 声をかけて来た天音をじっと見つめる。 なんだか、その表情が少し険しく見える。 一瞬割り当てられた仕事が進んでいないからかと思ったが、そうじゃないって言われたよな。 じゃあ、なんだろう? 「え……な、何かって?」 「最近のくるり、すっごい変なの。最近っていうか……葛木くんと出かけた日から! もしかして出かけた先で何かあったんじゃないの?」 「……」 そうか。九条の様子が変なの、みんな気付いてたんだ……。 俺だけが心配してるんじゃないんだな。 「一体、何したのよ! 言っとくけど、変なことだったら許さないわよ!」 「いや、別に何かした覚えはないんだけど……」 「本当に?」 「うん」 「……」 「……」 本当に、あの日の事で心当たりになる事はない。 何かあるなら、むしろ俺がそれを一番知りたい。 「そう。わかったわ。葛木くんはウソつくような性格じゃないし」 「あ、ありがとう」 「でも、葛木くんが何もしてないんなら、くるり…どうしたんだろ……」 心配そうに、天音が目を伏せる。 その様子が、何だかとてもはがゆそうに見えた。 「あぁ、もう。この時期、繚蘭会の仕事からは手が離せないし……心配なのに、そばについててもあげられないなんて」 「……あのさ、天音」 「うん。なに?」 「九条とぐみちゃんの展示って、二人だけでやってるのか?」 「あ、うん。そうみたい」 「それ、準備するの、人手って足りてるのかな」 「くるりは二人いれば何とかなる、って言ってたけど」 その言葉に、しばらく考える。 そして、ひとつ思いついた。天音の心配も、俺が妙に気になって仕方ないことも、うまく解決する案を。 「あのさ。なんか心配だから、明日から九条のとこ、手伝いに行ってもいい?」 「え……」 せめて天音のかわりに、そばについててあげられないだろうか。 もしそれで、寝てなかったり、体調が悪かったりした場合は口を出せばいいんだし…。 それに、二人で展示ブースを作るのは正直きついだろう。 それで少しでもラクになるなら何かしてあげたい。 まあ、俺が気になってるだけっていうのもあるんだけど。 「あ! 今日頼まれた分は、ちゃんと終わらせるから。だめかな?」 「……」 「天音?」 「ちゃんと、くるりの事みててくれる?」 「もちろん」 「じゃあ、お願い! くるりの事は任せるから」 「ああ」 「あの子、ときどき危なっかしいとこがあるから。ちゃんと気にしてあげて。何かあったら、絶対許さないからね」 「わかってるよ」 それにしても、天音はほんといいやつだ。 でも、九条に対する態度は他の子たちとちょっと違う気がする。 友達というか、家族に対するそれみたいな……。 「なに?」 「いや、九条の事、気にしてるんだなって思って」 「うーん。小さい頃からけっこう一緒にいるからかな。私にとってくるりは、友達っていうより妹なの」 「そうなの?」 「うん。結構くるりとの付き合い、長いのよ。家にもよく来てたし。だからもう家族みたいな感じ」 「だから、妹か……」 「そうよ。だから、くるりが心配なの……人見知りする上に、あまり喋らない子だから余計にね」 「……それは俺にもなんとなくわかる」 自分達の寮に入ってきた俺を、まるで異物のごとく排除しようとしてたもんな…。 あれを人見知りと言っていいのかはよくわからないが。 おまけに、今日の朝は会話がほとんど成り立ってなかったし……。 コミュニケーション能力に問題がある、ってやつなのかな。 母さんみたいな研究者にはありがちな事だよと、昔親父が言っていた気がするけど。 まさか自分で体験する羽目になるとは思わなかった。 「九条って昔からああなの? あんま喋らないっていうか」 「うん、そう。私とかお母さんとかとは、ちゃんと喋れるんだけどね……」 「そうなんだ…」 九条はわかってるんだろうか。 天音や俺が心配しているってことを。 それとも、わかってるからこそ、何も言わないんだろうか……? 「ともかく! 明日から、くるりをお願いね」 「うん。とりあえず、今日の分をちゃんとやる」 「わかった。私も自分の仕事をするわ」 「ああ」 明日からは九条たちを手伝える事になったんだ。 今日は残った作業を全力でやってしまおう。頼まれた事を残して行きたくないしな。 すぱっと気持ちを切り替えて、俺は飾り付けの作業に戻った。 「じゃじゃじゃじゃーん〜、くるりんに嬉しいお知らせでーす」 乱雑とした展示用ブースの教室。いかにも準備中です、という感じだ。 その中で、ぐみちゃんと並んで立つ俺。 そして、目の前にいるのは九条。 「……」 「えっと……」 「喜んでください、なんとぐみたちのブースに人手が増えましたー」 「あの、今日からふたりのブースを手伝う事になりました……」 「……ぁ、え……は……?」 九条に向かってぺこりと頭を下げる。 その頭を上げると、明らかに動揺している九条の表情があった。 うーん。いつもみたいに、吐き捨てるような雰囲気ではないけど……。 「これでますます展示に力が入れられるとゆーものですよー!」 「……」 「よろしくお願いします」 「よろしくですー」 「………かぃ」 何度も口をぱくぱくと動かしていた九条。 でも、最後に小さく一言だけ何か呟いて、俺に背中を向けてしまった。 あれ、やっぱり嫌なのかな……。 でも、ぐみちゃんの喜び方を見ると来て良かったのかとも思う。 なんだか複雑……。 「ところで、あのー。一体どんな展示をするの?」 「うふふふふふー。ぐみたちが手がけるのは、なんと世界初の展示なんです! 世紀の発明です! 新世界への扉です!」 「え、せ、世界初?!」 「はい! その名も、ドッキドキ! タイムマシィィン体験コォーナぁー! です!」 「………」 「……」 「たいむ……ましん…ですか。あの、よくあるやつですか、マンガとかで」 「はいっ。よくあるやつなのです!」 「へ、へえ〜……」 「……」 わからない。 ふたりがどこまで本気なのか全然わかりません。 しかし、ぐみちゃんの表情は真剣そのもので、おまけに目もキラキラしている。 これは俺をからかっている表情じゃない! ……とりあえず、詳しい話は聞かない方向にしようかな。なんか怖いし。 「えっと……それで俺は何を手伝えばいいかな」 「えーっと」 「あ、タイムマシン関連の事が手伝えないのはもちろんわかってるから」 「はい、マシン自体はまだくるりんが最終調整中ですから、ぐみも触れないのです。じゃあ、看板とかを作ってもらっていいですか?」 「ああ、なるほど」 確かにふたりだけだと、そういったのを用意するのは手間がかかるな。 九条が展示用の看板を準備しているのも想像できないし。 「くるりんはマシンにかかりっきりになると、他の事ができなくなるのです」 「そうだね。じゃあ、俺はそういう装飾関係の事を色々やってみる事にする」 「はい。大変助かるのです。ありがとうございますー!」 にっこりと微笑みながらぐみちゃんが言ってくれる。 その表情を見ていると、やっぱり来て良かったと感じる。 でも……。 「……」 九条はさっきからずっと無言だ。 ぐみちゃんが説明をしてくれてる時に、こっちを見てはいた。 でも、俺が九条の方を見るとあからさまに視線をそらす。 なんだか落ち着きがないな………。 これまで何度も敵意は向けられてきたけれど、九条自身はいたって落ち着いてた。 やっぱり、今日の九条は今までとなんだか違う気がする。 「あのさ、九条」 「……忙しい」 「え!」 「作業する」 「あ、うん」 なんとか話ができないかと思ったけど、無駄だった。 九条はまた俺に背中を向けて部屋の隅に行ってしまう。 しゃがみこんだ九条は、なんだかわからない小型の機械をいじっていた。 「む……」 「しょーくんさん、しょーくんさん」 「え?」 どうすればいいんだろうと困っていると、ぐみちゃんが制服の裾を引いた。 そして小声で俺の名前を呼んで、耳元に唇を近づけようとする。 内緒話がしたいってことなんだろう。 「どうしたの?」 「くるりん、一昨日からちょっとヘンなのです」 「変……」 天音も同じ事言ってたな。 ……九条のやつ、みんなに心配されてるじゃないか。 でも、これってやっぱり俺と出かけた日からおかしくなってるのか? まるで俺が何かしたみたいな気になってくる。 何も…してないよな。俺。うん。何もしてない。 「いつものくるりんはメカいじりに没頭してるんです。ぐみが話しかけても、1度で気づかないくらいに」 「そんなになんだ」 「はい。でも、今はボーっとしてたり、手が止まってたり、時々一人で焦ってたりします」 「……」 「こんなくるりん、初めてなのです。何かいけないものでも食べたんでしょうか…」 「そっか……」 ぐみちゃんも初めてなんじゃあ、どうすればいいかわからないよな。 天音もぐみちゃんも、俺より九条との付き合いは長いだろう。 そのふたりがわからない事が、俺にわかるわけがない。 俺に出来ることと言えば、展示の装飾を手伝いながら、九条の様子を見てるだけくらいか。 意外と何も出来ないんだなあ、俺…。 「元に戻るんですかねえ」 「うーん……」 「ああ、もう!!」 「え!?」 「くるりん?」 突然、九条は大きな声を出して立ち上がった。 あまりに突然の事に、ぐみちゃんもぽかんと口をあけっぱなしで驚いている。 険しい表情をした九条はゆっくり近づき、じっと俺を見上げた。 いや、見るというよりは、にらみ付けると言った方が正しいかもしれない。 「迷惑」 「え……」 「く、くるりんー。どうしたんですか〜」 「お前、迷惑なの」 「なんだよ、いきなり…」 「お前がいると落ち着かないし、なんだかイライラするし、すごく集中できない」 「……な」 「くるりん〜」 「仕事が進まない。だから迷惑!」 「……」 言いたい事を言い終わったのか、九条はまた背中を向けた。 そして、さっきの機械の場所に戻るとしゃがみ込んで手を動かし始める。 部屋の中に、九条が部品をいじる音だけが聞こえていた。 その背中は、もう話しかけるなと言っている気がしてならない。 「あ、あの。しょーくんさん、あの……」 「………ごめん。ぐみちゃん」 「え!」 「九条の邪魔になるなら、俺、手伝わない方がいいよな」 「あ、あの!」 「そう、邪魔」 「……九条も、ごめん」 「……」 謝っても、九条は振り返ってくれなかった。 これって、俺は相当邪魔してたって事なんだろう。 どうして気づかなかったんだろう。 だから様子がおかしかったんじゃないのか……。 俺、鈍かったんだな。 申し訳なさがぐっとこみあげてくる。 「わかった。じゃあ、帰るよ……」 「しょーくんさーん! く、くるりん!」 「………」 あそこまで言われて、しれっとその場にいられるほど図太くはない。 でもそれで九条の仕事が進むなら……いいのかな。 ああ、天音に九条の手伝いはやっぱりムリでした、って後で謝らないと……。 「……はあ」 九条から追い出された俺は、そのままlimelightまで来た。 沈んだ心をケーキで少しでも元気にしようと思ったから。 おいしい物を食べれば元気になれる。 いつもはそうなんだから、今日もきっとそうだ。 きっと――そのはず。 「……」 目の前にはおいしそうなケーキが並べられた。 おまけにそのケーキにぴったり合う紅茶も教えてもらって一緒に頼んだ。 いつもなら、心躍る光景。 間違いなく俺が一番嬉しい光景。最も幸せになれる時間。 「いただきます」 食べ物を食べる前に必ず言う言葉。 大事な挨拶。心躍る瞬間。 手を合わせて口にしてから、フォークを手に取ってケーキを食べ始める。 口いっぱいに広がる甘さ、良い香り。 「……」 いつもならこのおいしさに頬が緩む。 あまりの幸せに涙さえ零れそうになる。 他の事は何もかも飛んでいって、ケーキのおいしさと幸せについてばかりが残る。 それなのに……今日は全然そうならない。 ケーキはとてもおいしいが、頭に浮かぶのは九条の事ばっかりだ。 今までだって、確かに邪険にされて来た。 九条の性格や女子寮に男子がいるという事を考えると仕方ないかもしれない。 でも、今日は何か違う……。 あんなに必死に、嫌がられたのは初めてだ。 なんだか、それがすごくショックだ。 「……はあ」 ケーキを食べる手を止めて、フォークを机に置く。 このまま食べ続けていても幸せになれそうにない。 もしかして……。 俺って、自分で思ってたよりも、九条の事が好きだったのかな。 ……そうだよな。 そうじゃないと、こんなにショックじゃないよな。 「はあ……」 「ん……?」 「はあ、はあ……」 「九条……?」 近付いて来た足音に顔を上げると、そこには九条がいた。 走って来たのか肩で息をしながら俺を見下ろしている。 「……もう」 「え?」 「立って」 「え、なんで?」 「いいから」 「ちょっと……」 立ち上がらない俺の手を取り、九条が腕を引く。 慌てて立ち上がると、九条は強引に俺の腕を引いて歩き出した。 それに抵抗する事すらできず、腕を引かれたまま歩き出す。 ケーキと紅茶がまだ残っている事が気になってはいたけれど、今は……。 九条がどうしたいのか、何を考えているのか、そっちの方が知りたい。 そう思って、九条の後についていった。 「あのさ、九条……」 「……」 歩き続けていた九条は、人の少ない場所まで来ると俺の手を離してこちらを振り返った。 その表情はやっぱり少し険しい気がする。 「……あの、どうしたの?」 「辛気臭い顔」 「な……」 「すごくむずむずする。やっぱり集中できない」 「な、なんで、そんな」 「側にきたと思ったら、そんな顔してどっかいなくなるし……」 いらだっているような、そうでないような……複雑な感じ。 九条は自分の言葉に自分で苛立つように、視線を斜め下に落としてしまう。 「そんな顔でいなくなられたから、余計に集中できなくなった」 「そ、それって俺のせいなのかな」 「お前のせいだろう」 「そうですか……」 「お前がいると気が散るし、ふわふわするし、全然落ち着かない。……すごい最悪」 「だ、だから帰ったじゃないか」 「だから、そんな顔でいなくなったらもっと気になって頭がいっぱいになった!」 「えっと……」 「お前以外の事が何も考えられないの! すごく、迷惑なの!」 「……う」 な、なんか。今。 俺のこと以外は考えられないって。 すごく……照れるような事を言われた気がする。 ちょっと、今のは、告白っぽかったんじゃ、ないかな。 あ。……でも、相手、九条だからなあ……。 「あ、の……」 「迷惑。すごい迷惑……」 今、俺の顔ちょっと赤くなってないかな。 多分気を抜くと、頬が緩んでいってしまうのではないだろうか。 でも、気を抜くな。相手は九条だ。 まだ告白だって決まったわけじゃないぞ。落ち着け俺。冷静になるんだ。 「いや、あのさ……九条」 「何! 早く何とかしなきゃ、作業に戻れない」 「あのさ、九条。それって、俺の事が好きで迷惑してるのか、それとも嫌いで迷惑してるのか、どっち?」 「……は?」 「いや、あの。どっちかなって」 「…………」 九条の時間が止まっているのがわかった。 多分、思いもよらない質問だったんだろう。 でも、仕方ない。さすがにこれは、聞かなきゃわからない。 もし俺の悲しい勘違いだった場合は、目もあてられないし。 「なに、それ……」 数秒の硬直を経て九条は動き出し、意味がわからないという表情を浮かべて俺を見つめた。 その反応は俺にもわからない。というか困る。 「あーえっと、俺は九条の側にいた方がいいのか、いない方がいいのか、どっち?」 「それは……」 「でないと、俺はどうしたらいいのかわからないよ」 「……」 九条の表情がまた変わる。 今度は戸惑いながらも、真剣に考えているような表情。 ほんの少し目を閉じてから、九条はまっすぐ俺を見つめて言った。 「いた方が、いないよりまし」 「……そっか、ましか」 「まし」 結局俺は一人で勘違いをしているのか、それとも……。うーん。よくわからん…。 でもまあ、とりあえずは。 いない方がいい、と答えられるよりは、期待してもいいのかも。 必死に我慢していた唇の端が、感情の波に負けて上がっていく。 「じゃあ、九条の側にいることにする」 「何、そのにやけ顔」 「うん。俺、思ってたより九条の事好きみたいだ。嬉しい」 「……!!」 思ったまま、頭に浮かんだままを口にした。 すると九条はまた時をとめて口をぱくぱくと開閉させる。 まるで池の中の鯉みたいだ。 俺より、九条の方が相当大胆な事を言った気がするんだけど。 「そろそろ、寮、帰ろうか。ぐみちゃんは? まだ教室で待ってるとか?」 「……メール、出しとく」 「一緒にいるって言ったし、帰るのも一緒でいいだろ」 「いい、けど」 小さな声で言った九条は背中を向けて歩き出した。 もしかして恥ずかしがっているのかもしれないと思うと、そんな様子が途端に可愛く見える。 「じゃあ、かえろ」 「……」 九条は答えてくれなかった。 でも、俺が隣に並んでもあっちへ行けなんて事は言わない。 だからずっと、寮に戻るまで隣を歩く事にした。 「なあ、お腹減ってない?」 「……」 「俺はお腹減った。ケーキは……まあ、いいや」 「……」 「そうだ。今日の晩ご飯の後、ケーキ食べない?」 「……気が散る」 「はーい」 寮まで戻って来る間、九条は何も言ってくれなかった。 でも、前まであった全身で俺を拒否しているようなオーラはなりをひそめている。 …ように思うのは俺の都合のいい幻想だろうか。 「あの、えっと、晩ご飯は」 「部屋戻って食べる」 「あ…うん」 「じゃあね」 「あ……」 驚くほどあっさりと、九条は部屋に戻ってしまった。 まあ、でも……いいのかな。 さっきは邪険にされなかったし。 とりあえず、ご飯食べてから部屋に戻ろう。 天音から『遅くなるので先に食事をどうぞ』というメールが来ていたので、俺は一人で手早く夕食を済ませた。 晩ご飯をお腹いっぱい食べて、部屋に戻ってベッドの上でぼんやりする。 ごろごろと転がっていると幸せな気分になる。 「ああ……」 「だらしねー声だな」 「食後の幸せを噛みしめてるんだよ」 「ふーん。どーも理解できねーなー」 マックスに理解されても少し困る。 ロボならロボらしくして頂きたい。 「ん?」 「……」 「あ、マミィだ」 突然、部屋の扉が開いたと思うと九条が立っていた。 どうしたんだろうとベッドから起き上がると、九条は俺のところまでまっすぐやって来る。 「どうしたの?」 「さっき言った」 「え、何を?」 「一緒にいるって、お前が言った」 「え…ああ、うん、言ったな、そばにいるって」 「なんで一緒にいない」 「えっ、いや、それはご飯とか……それに九条は部屋で食べるって…」 「自分が言い出したんだから、一緒にいろ」 「わ、わかりました」 こ、これは俺が悪い感じなのか? というか寮に帰ってまで適用される事柄だったのか。 いいのかな。まずいんじゃないのかな。いろいろと。 いや、寮長である九条が言ってるんだから、いいのかな。 まあ、ここにはマックスもいるしな。 「じゃあ、一緒にいるけど……俺の部屋でいいの? 談話室行く?」 「まだ作業残ってる。部屋に戻る」 「えっ……お、俺、どうすんの」 「だから、一緒」 「え、ええぇぇ?! それ俺、九条の部屋、行くの?! いいの?!」 「言ったの、お前だから」 確かにそばにいるとは言ったけど! 夜に女の子の部屋におもむくというのは、さっき俺が思ってたよりさらにいろいろとまずいんじゃないのか?! 一番そういうのに厳しかった九条が、いいのか?! 「え、えっと、いいの? 俺、九条の部屋に行っていいの?」 「いい」 「わ……わかった……行く」 湧き上がる気持ちを誤魔化すように、立ち上がって大きくのびをすると、九条が背中を向けて歩き出す。 置いていかれないように慌ててその後ろをついて行く。 「マミィんとこ行くのかー? じゃーなー」 「う、う、うん」 「なんだよ晶。何あがってんの? マミィもまたなー」 「…ん」 マックスは何事もなさそうに手をふっているが、俺にとっては今、人生の一大イベントが来てしまっている気がする。 でもこれ、前のデートの時みたいに、また俺ひとりで舞い上がってるんだろうな…。 わかってはいるのだが。そこまでうまく割り切れないというか。うん。 連れて来られた九条の部屋。 それは女の子の部屋と呼ぶにはあまりにも独特な気がした。 たくさんのコードが床を這いまわり、壁や天井にはなにやらSFに出てきそうな部品がごろごろしている。 その中でも目が行くのは、中央に置いてある奇妙な形の椅子だった。 「あれ……なに?」 「あれはエレクトリックエナジー1895号の中身。まだ調整中」 「は、はぁ」 な、なんか、女の子の部屋へ来ちゃいましたという雰囲気が一瞬にして消し飛んだな……。 一緒に部屋に戻って来た事で九条は納得したようだった。 部屋の中に置いてあったマシンの前に座ると、俺を放っておいて作業を再開しはじめた。 「勝手に座っちゃっていいの?」 「いい」 「わかった」 「そこに座ってればいい」 「はい」 マシンみたいな物には触らないようにしながらソファに座り、作業している九条の背中をじっと見つめる。 九条は時折、ちらちらとこちらを見てはまたそっぽを向いて作業に戻る。 そんなに気にしなくても、俺はちゃんといるんだけど……。 落ち着かない様子ではあったけれど、九条からは昼間のような苛立ちが消えている気がした。 もしかしてこれは、俺がそばにいるせいなのだろうか。 だとしたら少し嬉しい。 口にすれば、うぬぼれていると言われそうな気がする。 だから黙って九条の姿を見ている事にした。 放課後になり、繚蘭祭の準備に生徒達が走り回る。 俺は昨日と同じように展示ブースの教室に来ていた。 一緒にいると言う以上、もちろん、展示ブースを手伝うって事でいいよな? いいんだよな? いまいち不安だけど。 「あっ! しょーくんさん! きてくださったのですねー!」 「う、うん…」 でも、昨日ああやって出て行った手前、ぐみちゃんの前に出るのはなんとなく恥ずかしい。 「ふたりとも仲直りしたのですか?」 「えっと、まあ」 「……うん」 「良かったのですー!」 「……うん」 にこにこと笑いながら素直に言ってくれるぐみちゃん。 その素直さがなにやらこそばゆいような、恥ずかしいような。 でも、それは九条も同じっぽい。 いつもより早いスピードでこくこくと頷くと、すぐにマシンの前に座り込んで作業を始めてしまった。 「むー?」 「どうしたの?」 「くるりん、やっぱり今日もちょっとおかしいですか? いつもと違いますー」 「え!? そ、そんな事はないんじゃないかなあ」 「そうですかねえ」 「気のせい、気のせい」 「ふーむ?」 「それより、今日やるべき事を! 俺昨日も何もしてないし!」 「はいです!」 元気よく返事をしたぐみちゃんも自分の作業に戻る。 俺も展示ブースの看板をなんとかしよう。 あとは展示用パネルとか……そういうのがあればいいか。 とりあえず今は、作業に集中だ。 展示用のパネルや看板の作成もある程度進んだ。 ふっと息を吐いて手を止めた瞬間、ふと頭にある疑問が浮かんだ。 「あの、ちょっと質問があるんだけど」 「なんですか?」 「……?」 「昨日さ、タイムマシンの展示をするって教えてくれたよね」 「はい!」 「それって、どんなの? 見れるなら、俺も見てみたいなーと思って。その、やっぱりちょっと興味がある」 「くるりん、いいのですか?」 「いい」 「だそうです!」 「は、はい」 なんだろう。これからどんな壮大な話が始まるんだろうか。 予想すらできない。 ぐみちゃんの目はキラキラ輝いていて、九条もどこか嬉しそうに見える。 それだけで、ふたりがこの展示ブースにかける思いが少しわかったような気がした。 「今、くるりんが調整中のマシンがあるんです」 「ああ、昨日部屋にあったの?」 「うん」 「なんと! それを使うと5分だけ未来に行けちゃうのですー! なんというすばらしいタイムマシンでしょーか! もうタイムマシン以外の何物でもありません!」 「……」 5分だけとは……また微妙な。 嬉しいのやら嬉しくないのやら。 というか、なにかのトリックみたいな!! ……と言うと怒られるだろうから、黙っていよう。 「あの、それって、過去にはいけないの?」 「過去ですか?」 「うん。普通、タイムマシンって過去にも未来にもいけるんじゃないの?」 「……」 「……」 「あ、あれ?」 俺が聞くと、九条とぐみちゃんは無言で顔を見合わせた。 もしかすると、聞いちゃいけない事だったんだろうか。 「………過去に戻るマシンは、あると言えばある」 「あ、そうなの? じゃそれも展示したらいいんじゃないのか?」 「待ってて」 答えながら立ち上がった九条は、少し不本意そうな顔で部屋から出て行った。 「えーと……」 しばらく待っていると、九条が台車を押して戻って来た。 その台車の上には大型の四角いマシンが乗っている。 見た目はちょっとカッコイイというか、かわいいというか……あー、マックスと同じ人が作ったんだなーとすぐわかるものだ。 「これは、エレクトリックエナジー1075号、通称過去に飛んでけマシンなのでーす!」 「元1075号、だけど」 「見た目はそれっぽいな。それで過去に行けるんだ」 「うーん。まあ、行けるかもしれないというかー」 「今からやってみるから。ぐみ……」 「はいです!」 名前を呼ばれたぐみちゃんは、どこからかりんごを取り出した。 真っ赤なりんごは非常においしそうな見た目をしている。 でも、これを食べるってわけじゃなさそうだ。 九条はその間にマシンの前にしゃがみこみ、なにやらごちゃごちゃやり始めた。 「ここにりんごがありまーす! おやつに食べようと持って来たのですけど、実験に使います」 「あ、はい」 「今からこのりんごをマシンに入れて、過去のこの部屋に飛ばします」 「入れて」 「はーい」 ぐみちゃんが説明してくれている間にマシンの設定が終わったらしい。 九条はマシンの扉を開けて立ち上がる。 「りんごを入れます!」 「見てて」 りんごが入ったマシンのボタンを九条が操作する。 なんだかそれっぽい音がした。 そして一瞬、そのマシンが大きく光った。 「うわっ……」 光はすぐにおさまり、マシンは何事もなかったかのようにそこにたたずんでいる。 九条はやけに淡々とした様子でそちらに近付いて扉を開けた。 「……ふう」 「ああー」 すると、さっきりんごを置いた場所にサラサラと真っ白な砂がこぼれていた。 「え? なんだ、これ」 「失敗」 「ですねえ」 「……どういう事?」 「使った演算が安定してない証拠。だから、3回に1回は失敗して、こうなる」 「もうちょっとなのですが、これ以上は安定させられないのですー。難しいのです」 「この砂みたいな物は、過去に飛び損ねたりんごが別の物質になったもの」 「なるほど……失敗なのか。しかし、なんでりんごが砂になるんだ…」 「……ふう」 サラサラとマシンの中から零れ落ち続ける砂を見つめながら、九条がため息を吐いた。 どうしたのだろうと思っていると、ぐみちゃんがこっそり耳打ちしてくれる。 「失敗作なので、くるりんはあまり説明したくないのですよ」 「あ、なるほど」 仕組みやなんかは具体的にはわからないけど、どうせ説明されてもわからないだろうしな。 でも、危険な物だという事だけはなんとなくわかった。 「これを体験させたら大変な事になる」 「まあ、確かに」 3回に1回の割合で人が砂になったら大変だもんな。 それに、そんなものの展示を許してもらえるとも思えない。 「あれ? でも、その未来に行けるやつは大丈夫なの?」 「こっちはメカニズムがまったく違う。物体の構成を組み替えるのは諦めて、コントーション方向に切り替えた」 「ほ、ほー」 だめだ、専門的な単語を出されてもさっぱりわからないぞ。 「実験もたくさんたくさん重ねているのです。あとは調整だけなのですよねー」 「うん。本当に完成間近」 今までの、どの九条よりも満足そうな顔。 こんな九条の姿は見た事がなかった。本当にこれが大事なんだって、俺にだってすぐにわかる。 ……微妙だとか思ってしまって、悪かったな。 きっと九条は、これを完成させるために、ずっと努力を重ねてきたんだろう。 「これはくるりんの研究とアイデアと努力の結晶なのですー! すばらしいものなのです!」 「……早く完成させたい」 「ぐみはくるりんが苦労したのも、すっごく頑張ったの知ってます! 完成が待ち遠しいですよね!」 「……」 「俺は、九条がどれだけ苦労したのかとか、ぐみちゃんほどわからないけど……」 「うん?」 「すごいよな」 「……え」 「だって、タイムマシンが完成間近なんだろ。でもって、世界初なんだろ?」 「なのです!」 「……う、うん」 「もう少しなんだよな。俺にも手伝える事があるなら、なんでもするから」 「……うん」 「頑張ってマシンも展示も完成させるのですー!」 「おー!」 「……わかった」 頷いた九条がまたしゃがみ込み、マシンをいじり始めた。 その背中はなんだかそわそわしていて、それが照れているように見えて、かわいかった。 こんな事、直接言うと怒られそうだけど。 九条が頑張ってるんだから、俺も頑張ろう。 できる事は少ないけど……せめて立派な展示ブースにしてあげないとな。 ここ数日の間、放課後はずっと九条たちの展示ブースを手伝っている。 まあ、俺はのんきに看板作ってるだけなんだけどなー。 九条は最終調整とやらがうまく行ってないようで、最近はちょっとだけよろよろしている。 一応、俺の言いつけを守って寝てはいるみたいだけど。 五分だけのタイムマシン……無事に完成すればいいんだけどなあ。 「はああ……」 それにしても、一日の最後にお風呂に入るってのは気持ちいい。 もう少し早い時間に入れたらいいんだろうけど……。 ま、そこまで贅沢は言えないのもわかってる。 女子寮だもんなあ……。 「……え?」 ひとりでのんびりと浴槽につかっていると、突然、脱衣所と浴室を繋ぐ扉が開いた。 この時間に扉が開くなんてありえない。 まさかマックスが来たのかと思ったが、そこに居たのはマックス以上に驚くべき存在だった。 「……」 「……な!?」 そこにやって来たのは、ちょうど今頭の中にいた九条。 しかも、裸の。多分。湯気でよく見えないけど。 いや、そこは深く考えちゃいけないぞ。目をこらそうともしてはいけない。 恐怖の目潰し攻撃の恐ろしさを、俺はまだよく覚えている。 「………じゅ…充電…おふろ…」 これ、九条は俺がいる事にまったく気づいていない……? もしかしてこれは、ダメっぽい時の九条か? これはヤバイ……気がする。 「……あ」 「あ……」 どうしようと思っていると、九条はやっと俺に気づいた。 「………は……はぁ!」 口を大きく開けてから事態をようやく飲み込めたのであろう九条は、俺が声をかけるよりも早く慌てて背中を向けて走り出した。 「ちょっと! 危ないって!!」 「……っ!」 「あっ!!」 そのまま脱衣所まで走って行こうとした九条。 でも、慌てすぎたせいか、入り口の扉にぶつかってしまった。 「……あ!」 おまけにぶつかったせいか、扉が開かなくなってしまったらしい。 「…………ま……まずい」 こ、これは……!! 参った。すごく参ったぞ。 年頃の男女が、お風呂で閉じ込められて! しかも裸で! しかもお互い、憎からず的な関係だと俺は思っているわけで! いや、落ち着け落ち着け……。 とりあえず俺にできる事はひとつだよな。 浴槽から立ち上がり、腰にしっかりとタオルを巻く。 そのまま入り口に歩いて行くと、俺に気づいた九条が慌てたように顔を真っ赤にした。 「俺、こっち向いて目を閉じてるから」 「え……」 「風呂入りたいんだろ。入っていいから」 「でも、扉が…」 「わかってるわかってる。俺ここに立ってるから。体はさっきまで入ってたから温まってるし大丈夫」 「……う、うん」 「よし」 九条が歩く音が聞こえた。 お湯につかる事に決めたらしい。 よし、それなら目を閉じてちょっとじっとしてよう。 あーしかし。 もったいない事をしたのかなー。 いや、でもここで覗き見しようものなら、多分俺の身が危険だ。 ……さっきの九条の反応、ちょっと可愛かったよな。 なんか赤くなってたし。初めて風呂で遭遇したときとは、別人みたいだ。 「……」 気を紛らわせるために色々考えてみたけど、やっぱりちょっと寒い。 でも、仕方ない。 扉は開かないし、外には出られないし……。 今は我慢だ。 うん。 我慢しかない。 …………。 ………。 ……。 「はあ……」 九条の声が聞こえた。 その声は、さっきよりかなり落ち着いてるみたいだった。 うん。良かった……。 それにしても……寒い。 「あ……」 「だ、大丈夫」 「……」 くしゃみなんかしたら、心配させるだろうか。 でも、だからってお湯につからせてくださいとは言いにくい。 というか、言っちゃいけない気がする。 ……なんというか、俺の男としての欲望的に。 「良くない」 「え?」 「体が冷えるの、良くない」 「いや、あのそれは……」 「生物学的にこの気温差と体温の上下は風邪をひきやすくなる」 「……」 こ、これは! 俺、もしかして浴槽に入ってもいいと言われてる?! いや、それ以外ないんだろうけど……。 素直にそれに応じていいものかどうか、わからない。 でも寒いのは寒い。ここ、半分外だし……。 「……つかれば」 「あ、あの、じゃあ……」 腰に巻いたタオルが落ちないようにしっかりと押さえて、九条の方を見ないようにして浴槽に移動する。 とは言っても九条もお湯につかっているし、見ないようにする方が難しい。 でも、こう……なるべく見ないようにしよう。 それと、背中とか向けつつ……。 あと意識とかしないように……。 「……はあぁぁ」 お湯の温かさが染み渡る。 ああ、体がすごく冷えていたんだって感じだ。 「……あったかい?」 「え! あ、は、はい」 「良かった」 「あ、うん。あの……ありがとう」 「うん」 「……」 「……」 「……」 「…………」 気まずい。 非常に気まずい。 一緒に風呂に裸でいるだけでも気まずい。 それなのに、どうして一緒に湯船につかっているんだろう。 このままふたりでこうしてたら、誰かが気付いて開けに来てくれる…かなあ。 来てくれるといいなあ……。できるだけ早く…。 俺がちゃんと理性とか大事なものを保っている間に……! 「……葛木」 「な、なにっ?」 「……」 「え、ええっと……」 俺を呼んだ九条がゆっくりと移動する音が聞こえた。 いや、音だけじゃない。 お湯が動いているのがわかる。 こ、これ、こっちに近付いてきてる……? な、なんでそうなる!? いきなりすぎて、頭が混乱しそうだ。 どうして近付く必要が!? 近付かれると色々ヤバイ。 今のこの状態は相当ヤバイってこと、九条はわかってんのか?! そう思っているのに、九条はわざわざ俺の真正面にやって来た。 ま、まずいって! 目をそらさなきゃ! やられるかもしれない! また目にぶすっと! もしくは、俺の理性的なものがやられるかもしれない! しかし、悲しくも目はそらす事は出来なかった。 九条は目潰しもせずに、そこから俺をじっと見上げ、真剣な表情をしている。 意味がわからない! 全然わからない! なに、この状況!? 「いろいろ、考えた」 「はっ、へ、な、何を?」 「葛木とか、自分の事」 「う、うん」 せめて意識しないようにしよう。 なるべく九条を意識せず、透明な何かだと思って……。 そう思っても無理だった。 目の前には裸の九条がいて、俺をじっと見てる。 しかも、見たことのないような真剣な表情をして。 そんな状況なのに、九条を見ないなんて事、俺にはできそうにない。 「今までこんな風になったこと、なかったし、理解できなかった」 「う、うん」 「でも、考えれば考えるほど、自分の中に強い感情が生まれてるとしか思えない」 「あの、さ……」 「最初は体調が悪いのかとか、あと、気のせいかとか、そんな事を思った」 「……」 「でも、ワタシの中にある葛木に対する感情は、いつまでたってもなくならない」 「だから、気のせいだと思わずに真剣に考えて、答えを探すことにした」 九条が言おうとしている事の意味はなんとなくわかる。 いつも口数の少ない九条が、一生懸命に、自分の事を俺に伝えようとしている。 ああ、もっと真剣に聞かないとだめだ。 さっきまで完全に浮き足立っていた気分が少し落ち着いてきた。 「……答え、見つかった?」 「うん」 「それは、あの……俺は聞いてもいいのかな」 「聞いて」 「はい」 「いろいろ調べたけど、やっぱりこの感情は、け…懸想してるのではないかと」 「……え、け…何?」 「…………」 「……だから、葛木を……恋い慕っている、という事」 「…つまり、好きだという事」 恥ずかしそうに、けれどはっきりと、九条は好きという言葉を口にしてくれた。 その言葉を聞いて、胸がドキドキしている。 前に俺の事以外は考えられないと言われたときよりも、もっと激しく、強く。 多分、目の前の九条が裸だからとか、そういう事じゃない。 そう思ったら、自然と次の言葉が出てきた。 「……俺もです」 「……ぇ?」 「俺も九条が好きです」 「……うん…」 小さく頷いた九条の頬が赤くなった。 その表情がすごく可愛くて、やっぱり俺は間違った事を言っていないんだと思った。 九条は、本当に俺のこと……好きって思ってくれてるんだ。 「えっと、あの……名前、呼んでもいい?」 「え?」 「だ、ダメだったらいい! なんか、あの……くるりって……名前で呼びたくなった、今すごく」 「いい…」 「え!?」 「しょーだったら、名前で呼んでいい」 「あ……」 今、九条が俺の事……名前で呼んだ。 いつもとちょっと違うだけで、なんだかすごく嬉しくなった。 俺って、わかりやすい……。 「あの、ありがとう。くるり」 「うん」 また、小さく頷いたくるりが可愛い。 なんか、だめだ……。 このままこうしてるだけとか、無理かも……。 「くるり」 「ん」 「あの、えと……」 「なに…?」 「……キスしてもいいですか」 「……」 「き、聞いた方がいいかなと思って」 「………」 「いきなりすぎました。ごめんなさい……」 「いい…」 「……!」 「しても……、いい」 「う、うん」 目を閉じたくるりに顔を近付けた。 ゆっくりと唇を近付け、柔らかい感触に触れる。 「……ん」 唇が重なり合うと、くるりから小さな声が漏れた。 触れ合う柔らかい感触と、その声に鼓動が早くなる。 柔らかい感触にもっと触れたいと思う。 漏れた声をもっと聞きたいと思う。 そう思うと、自然ともっと口付けたくなる。 「……」 「あ……」 触れ合う感触を、数回繰り返す。 柔らかい唇が何度も触れる。 その度に興奮が増して行く。 頭の中がくらくらするような、痺れるような感覚。 体験した事のない感覚に、ふらふらしそうになる。 これはきっと、のぼせているからじゃない。 「……しょー…」 「うん」 薄っすらと目を開けるとくるりも目を開けていた。 視線が重なると、恥ずかしくなってしまう。 でも、これ以上もっと……触れてみたくなる。 そっと手を伸ばす。 伸ばしても、くるりは逃げも怒りもしなかった。 「あ……」 ゆっくりと手のひらを動かして、くるりの体に触れる。 小さい。けれど柔らかい感触。 唇に触れていた時よりも、体はもっと柔らかい気がする。 女の子の体がこんなに柔らかいなんて、知らなかった。 「あ、……」 「くるり、かわいい」 「んぅ」 いやいやと小さく首を振られる。 でも、そんな仕種すらもかわいいと思ってしまう。 手のひらが触れている、この柔らかい感触をもっと感じたい。 くるりのかわいい姿をもっと見たい。 声が聞きたい。そんな風に思ってしまう。 「あ、はぁ……」 それは俺の勝手な考えなのかもしれないけど…。 でも、今はその考えが止められない。 また、ゆっくりと手のひらを動かす。 くるりの体がぴくぴくと動いてそれに反応する。 「ん、ん……」 俺の手のひらの動きに反応しているのだと思うと、なんだかすごく興奮してしまう。 「あ……やだ」 「やだったら……えっと……」 やめるって言いたい。 本当は言った方がいいとは思ってる。 思ってるけど……なんか、おさまりつかない。 「しょー…?」 「……」 だめだ。名前を呼ばれるだけで嬉しい。 そう思ったらもっとしたくなる。 俺って、今すごいダメな感じがする。 でも、くるりにもっと触りたい。 「あ……」 また手のひらを動かす。 肌の上もう1度を滑らせて行くと、驚いたようにくるりが声を出した。 「はぁ、あ」 声だけじゃなくて、体が少し、震えてる? そんな様子がなんか嬉しい。 これ以上触ってもいいかもとか思ってしまう。 「……かわいい」 「あ、んっ」 手のひらが、指先が、体のパーツをひとつずつ確かめていく。 今まで触った事のない部分に辿り着くと、くるりが背中をのけぞらせる。 その奥はどうなっているんだろう。 もっと触れると、くるりはどうなるんだろう。 「あ、あ……」 声を聞くたびにもっと知りたくなる。 もっともっとと貪欲になる。 くるりがかわいくて仕方ない。 もっとかわいい姿が見てみたい……。 「しょー、だめ」 「あ……」 「だめ」 ほんの少しだけ強い口調でくるりが俺を止めた。 かわいい、かわいいと思っていた思考はそこで止められた。 俺は慌ててくるりから手を離して、そっと距離を取る。 「ご、ごめんなさい」 「……」 ちょっと調子に乗りすぎた。 好きだって言われて浮かれすぎた、俺……。 もしかして、怒らせてしまったかも。いや、普通いきなりこんな事したら、怒られるに決まってる。 「最初はこのくらいまでのはず……」 「え?」 「だから、今はだめ」 「い、今はって」 それは、今後はこの先に進む事がありますって事? って、なんか改めて言われる方が恥ずかしいような……。 ああ、でも…! やっぱりなんか、おさまりつかないような……。 もにゅもにゅする!! 「しょー」 「は、はい?」 「……」 「え、えーと……」 今はだめとか言いながら、くるりが俺の側に近付く。 肌が触れ合うくらいぴったり隣に並んで、手を握って来たり……。 「うう……」 「一緒にいるって言ったから」 「う、うん。言った」 「だから」 「うん」 今はだめなのに、自分が触るのはいいのか。 ああ、そうか。こうするだけならいいんだ……。 そうだよな、一緒にいるんだもんなあ。 ……裸だけど…。 こういうのってなんて言うんだっけ。 おあずけ。もしくは生殺しって言うんだっけか……。 もしかして、ここにいる間、ずっとこのままなのかなあ。 結局、俺が部屋に戻らない事をおかしく思ったマックスが、浴室まで来てくれた。 幸い、助けに来たのがマックスだけという事もあり、大事にはならなかった。 でも、それまでずっとくるりにくっつかれてたのは……いろんな意味で辛かった……。 生殺しって言葉を体感する日が来るなんて、思いもしなかったなぁ…。 「……」 「……」 「んー」 「しょー、しょー」 ゆらゆらと体が揺れる。 小さな手が俺を揺らしているような気がする。 「しょー」 「え、と……」 体を揺らされながら、ぼんやりと目を開ける。 すると、ぼやけた視界の中にくるりの姿が見えた。 「あれ?」 「おはよう」 「くるり……」 「うん」 「………」 昨日の今日で、ちょっとくるりの顔を見るのが照れくさい。 風呂場では、なかなか大変な事をしてしまいましたし……。 いや、せっかく起こしに来てくれたんだから、ちゃんとしないと。 もぞもぞと布団の中から起き上がる。 あれ? でも、今日って休日じゃなかったかな。 繚蘭祭の準備もまあまあ順調で、特に早く起きなくても大丈夫だったような……。 「どうかしたの?」 「約束」 「え? やくそく……」 「一緒にいてくれるって約束した」 「あ、はい……そうです」 「何回言わせるの」 言いながらくるりが頬を膨らませる。 怒っているというよりは、すねているようなその表情は、とてもかわいかった。 でも、こんな事を言ったら本当に怒られそうだ。 「ごめんごめん。今からちゃんと、ずっと一緒にいるから」 「じゃあ、いい」 「うん。あ、ちょっと着替える」 「わかった」 「……」 「……」 わかったと言いつつ、くるりは出て行かない。 いや、確かに裸も見た間柄だけど、これはいいんだろうか……。 ま、まあ、いいか。 早めに着替える事にしよう。ぱぱっと……。 「お待たせ」 「うん」 着替えを終わらせると、くるりはこくんと頷く。 これからどうしようと思っていると、くるりはすっと手に持っていた包みを俺に差し出した。 なんだろう、これって? 「なに?」 「これ、お弁当」 「え……」 「作った」 「え? だって、部屋でマシンの最終調整してたんじゃなかった?」 「……こういうの、してみたかったから」 「……」 「だめ?」 「だめじゃない! 全然だめじゃない!!」 差し出された包みを受け取る。 ずっしりとした重みが伝わって、心が小躍りする。 でも、そういえば……弁当ってこの前…。 「今度のはケロリーメイトじゃない」 「あ、そ、そう?」 「うん。しょーはいつもお腹すかせてるから、色々考えて作ってみた」 俺の考えを察したくるりが先に中身を教えてくれる。 それがなんだか嬉しかったり、くすぐったかったりした。 でも、俺のために考えて作ってくれたという言葉は嬉しくて仕方がない。 「じゃあ、一緒に食べよ」 「一緒に?」 「ご飯は好きな人と一緒に食べると、いつもよりもっとおいしくなるんだよ」 「そうなの?」 「うん。だから一緒に食べよう。今なら、ふたりだけだし」 「うん」 こくりと頷いたくるりと一緒に、ふたりで朝ご飯を食べる。 お弁当を広げて、お茶を用意して、ご飯の準備をする。 こうやって自分の部屋で好きな女の子と、朝ご飯を食べる日が来るなんて考えていなかった。 しかも、手作りのお弁当で! これって、相当幸せだよなあ。 ご飯もあるし、好きな子も一緒だし。 だめだ。 頬が緩むのを抑えられそうにない。 でも、いいよな。 「食べよう、しょー」 「うん。いただきます」 「いただきます」 手を合わせて俺が言うと、くるりもこっちを見ながら小さな声で言った。 なんだか、今日はいつも以上に朝ご飯がおいしく食べられそうな気がする。 朝ご飯を食べ終わると、くるりは自分の部屋に俺を連れて来た。 やっぱり、マシンの最終調整はまだ終わってなかったらしい。 くるりは部屋の中をあちこち見回していた。 これから何をしようかと考えているんだろうか。 「くるり」 「うん」 「今、何の作業してるんだ?」 「エレクトリックエナジー1895号の、最後の調整実験中」 「えっと、それってタイムマシン、だよな」 「……ん」 答え終わったくるりは、無造作に置いてあるようにも見えるマシンを触ったり、モニターを見たりしている。 「……」 「そこにいて」 「うん」 くるりは忙しなく、モニターとマシンの間を行き来している。 何をしているのか俺にはよくわからない。 ただ見ているだけしか出来ないんだよなあ……。 何か手伝いたいのに、何も出来ない自分がもどかしい。 「なあ、くるり」 「うん」 「俺、本当に見てるだけでいいのか?」 「どうして?」 答えながらくるりが手を止め、じっと俺を見つめる。 それは本当に不思議そうな表情だった。 「何か、できないのかなって思って……」 「大丈夫。もう充分だから」 「……」 俺の手なんかなくても、大丈夫って事なんだろうか。 まあ、確かにあんまり力にはなれないかもしれないけど……。 「しょーはもう、充分貢献してくれたから」 「え? あ、あぁ、俺が一緒にいたら、ちょっとは仕事が進むってこと?」 「違うの。しょーが居てくれたから、このマシンは完成に近付いてる。本当にしょーのおかげだと思ってて、ワタシは感謝してる。好きとか嫌いとかは関係なく」 「………う、うん…?」 よく理解できてない俺を見て、作業の手を止めたくるりがこっちに近付く。 「えっと、隣座る?」 「うん」 頷いたくるりは、ちょこんと隣に座る。 触れ合いそうなほど近付いた事で、少しだけドキドキする。 我ながら単純だと思った。 「エレクトリックエナジー1895号のことだけど」 「ああ、タイムマシン?」 「そうとも言う」 「あ、はい。どうぞ」 「うん」 もしかして、なにか難しい話が始まるのかな。 ちゃんと聞いとこう……。 「あれ、別に個人的趣味で作ってるわけじゃない」 「あ、そうなの?」 「……多少は趣味もある」 「そうか」 「ワタシが製作や研究に没頭できるのは、学園の協力があるから」 「ああ。そういえば誰かがなんとか特待生とか言ってたような…」 「費用も、人員も、材料も、全部学園が用意してくれてる。タイムマシンの製作は、学園の一大プロジェクトなの」 「そ、そうだったんだ」 まさか、そこまで大きな話だとはまったく思ってもみなかった。 それどころか、初めて話を聞いたときはトリックっぽいなあとか思っちゃったもんな……。 「…あ、あれ、でもそのプロジェクトに俺、別に何の手伝いもしてないけど…」 「しょーは、飛揚性健忘現象を防止する方法の糸口になってくれた」 「………ひ、ひよう…なに?」 「……んー」 くるりは首をひねって少し考え込んでいる。 どうやら説明するための言葉を選んでいたらしい。 「タイムマシンの仕組みって、わかる?」 「わかるわけがない」 「……瞬間的にブラックホールを人工生成して、その角運動量を増大させて時空のねじれを作る」 ブラックホールって……危険に満ちたイメージしかないんだけど、大丈夫なのかそれ。 でも多分、説明されてもイマイチ理解できない。 それなら、ここはサラっと聞いて先に進んでもらった方がいいような気がする。 「これをコントーション・ホールと呼びます」 「ここを通ることによって、同じ世界の過去にさかのぼる事や、未来に行く事ができるようになる」 「は、はぁ…」 「でも、仮想の宇宙を作成して実験を行ってみた結果、ホールを通った人間には変質が起こってしまう事がわかった」 「変質って? なんか怖いな」 「その移動した世界・時間に適応した存在になるよう、記憶の改ざんが起こってしまうの。これを飛揚性健忘現象といいます」 「え、えーと、それ、さっきも聞いた名前だ。…改ざんって、どうなるのそれ?」 「たとえば、未来から過去に来た人間は、過去に着くと未来の記憶を失ってしまい、自分は最初から過去にいた人間だと思ってしまう」 「……ああ! その時間を飛んだという事実すら忘れるってこと?」 「そう」 「なんで?」 「原因は不明。これは仮定だけど、宇宙がありえない事に対してバランスをとろうとするのかも」 「う、宇宙?!」 なんだか壮大な話になってきたけど、さっぱり実感がない。 「コントーション・ホールの生成というタイムマシンの原理は完成していたけど、記憶の改ざん、存在の変質の防止という問題の前で、研究はずっとストップしてた」 「だから、ずっと探していたの。変質に対する耐性がある遺伝子を持った人間を」 そう言われて、俺の中にある記憶が鮮やかによみがえってきた。 『了解。初めまして――繚蘭会メンバーの九条くるりです。下級生です。ひとつお願いがあります。髪の毛を採取させてください』 「あー! それで、初めて会ったとき、髪の毛……!」 「そう。色んな人のDNAを集めて実験してたの。まあそれは、プロジェクトチームの他のメンバーがやっててくれたんだけど」 「だから、ワタシはしょーに感謝してる」 「…う、うん。…うん?」 「だから、しょーがそう。耐性のある遺伝子を持ってる。新型遺伝子」 「へ…? そ、そうなの?」 「うん。ちょっとだけの耐性だけど。でも研究すれば、いずれは完全に防止できるようになると思う」 「お、俺の遺伝子で?」 「そう」 「……そ、そっか」 「でも、研究日数が足りなかった。だから、繚蘭祭に発表するマシンは5分だけしか未来に行けない」 あぁ、それで…5分という微妙な数字だったのか。 トリックっぽいと思っていたら、自分の遺伝子の耐性の限界時間だったとは……。 「でも、間違いなく未来には行ける。しょーの遺伝子のおかげ」 「そ、そっか」 「だから、ちゃんと役に立ってくれてる。見てるだけとか、じゃなくて」 「くるり……」 「繚蘭祭が終わったら、生物学専門のメンバーも増やしてもらって、もっとこの耐性について研究する」 「うん、がんばれ!」 「そしたら、過去にも未来にも飛べるタイムマシンが出来るようになる!」 「うん!」 「飛揚性健忘現象とその耐性のメカニズムがわかれば、逆転現象を引き起こせるかもしれなくって」 「自らの存在の干渉を宇宙そのものに反映させたりできるかもしれなくって」 「……う、んん????」 「存在を世界に認識させ続ける事ができるなら、コントーション・ホールを改良して分裂した他の宇宙に行くこととかも可能になるかもしれなくって」 「あーだめ。そうなると行き先が無数無限になってしまう。むむむ、もっときちんとシステムを考えないと…」 「………」 だ、だめだ。完全に入り込んじゃってる。しかも言っている事がほぼ意味不明だ。 「……別の宇宙に行く事は理論的には可能。コントーション観測装置みたいなものを作って…」 「あ、あの……」 「はっ! あ、な、なんでもない。まだ理論上だから。秘密」 秘密とか言われても、俺にはさっぱり意味がわからなかったしなあ…。 「ま、まあ、くるりの役にたててよかったよ」 「うん」 といっても、自分ではほぼ何もしてないけど……。 学食目当てに転校しただけだもんな…。 なんとなく、転校してきた日から今日までの事を思い出してみると、唐突に閃いた事があった。 「あのさ。もしかしてだけど」 「ん?」 「なんか急にくるりの態度がおかしくなったとき、あっただろ。いきなり変な喋り方になって、俺にせまってきて」 「あれって、もしかして俺の遺伝子で実験に成功したから?」 「―――!!!!」 それまで機嫌のよさそうだったくるりの顔が、一瞬にして凍りついた。 「…く、くるり?」 「……ぁ……あ…」 「そ、そ、それ、それ…あの、あの……」 「そんな、じゃ、あの……ぁ…あぐ」 あ、あれ。もしかして、聞いちゃいけなかったのかな。 ちょっと気になったから聞いただけなんだけど……。 「そ……あ……ぅ…ぁ……」 「いや、あの。やっぱいい」 「し、しょ……!」 「ごめん。きっかけなんて、どうでも良かったよな」 「……ぇ」 「俺は今、くるりが好きだし……くるりは?」 「……し、しょー、好き」 「ほら、だったら、いいよ」 「……ぅん…」 「ごめんな。この話は終わりー」 「あっ」 蒼白になって慌てている姿に、あまりにも申し訳なくなった。 思わず隣に並ぶ体を抱きしめると、くるりが小さく声を出した。 驚いたみたいだったけど、すぐに嬉しそうに体をすり寄せてくれる。 腕の中の感触が温かくて、なんだか嬉しいなと思う。 「しょー……」 「うん」 「……好き」 「知ってる。俺も好き」 「うん」 抱きしめているくるりが腕をのばす。 のばされた腕が、ぎゅっと俺に抱き着いた。 体全体が近付く。 感触だけじゃなくて、香りまで近付いた。 くるりは機械をしょっちゅういじってるのに、ちょっといい香りがする。 女の子って、みんなそんなもんなのかな。 「くるり、なんかいい匂いがする」 「え……」 「くるりの匂い、なんか好き」 「う、うん」 もぞもぞとくるりが動いて、体の距離が近くなる。 温かさが増したからか、柔らかい体の感触が気持ちいい。 「……」 「……」 「くるり」 「あ……」 抱きしめる腕の力を緩めて、じっとくるりを見つめる。 頬はほんの少し赤くなっていた。 「……いい?」 「……」 くるりは答えない。 でも、それっていいって事なのかな。 ていうか、俺が我慢できない。 くるりとキスとかしたい。 「……」 ゆっくりと顔を近づけて、頬に口付けてみた。 でも、くるりはやっぱり嫌がらない。 じゃ、いいって事なんだろうか…。 「……ん」 反対側の頬にも口付けると、小さく声が出た。 その声がかわいくて、もっと聞きたいと感じる。 もっともっと……この前みたいにくるりの声が聞きたい。 「くるり、かわいい」 「しょー」 「……かわいい」 でも、何度か頬に口付けて、そのまま唇に移動しようとした瞬間。 くるりはパっと俺から体を離してしまう。 「……!」 「え?」 驚いてじっと見つめると、くるりの顔は真っ赤だった。 だけど、何かいい事を見つけたみたいな表情。 何があったんだろう。 「名案」 「なに?」 「もうすぐ、エレクトリックエナジー1895号、完成だから」 「うん。さっきも言ってたな」 「だから、完成した時のご褒美にしてもらう」 「ご褒美に俺がキス?」 「うん。ご褒美に、……しょーからキスしてもらうの」 「……」 俺は今したいんだけど……。 ああ! でも、こんな事言い出すくるりがかわいい! こんな事言われたら、今したいなんて言えないじゃないか。 でも、かわいい! なんだこのかわいいの!! 「わ…わかった。じゃあ、それまで俺は我慢する」 「あ……」 「その代わり、くるりのマシンが完成したら、いっぱいする」 「……」 「します」 「完成したら……」 「はい」 「じゃあ、がんばる」 「がんばれ!」 こくりと頷いてくるりは立ち上がった。 そしてまた、マシンの前に移動して作業を続ける。 作業を続けるくるりの背中はさっきよりも真剣な気がした。 もう少しで完成という事と、あとはご褒美の効果なんだろうか。 いや、俺がそう思ってるだけなんだけど……。 何にしても、繚蘭祭まであまり日は残されていない。 俺も残りの展示用の作業、頑張ってとっとと終わらせないと。 それから、何日かがあっという間に過ぎていった。 展示ブースの看板や展示物の作業を毎日夜までやり続け、それなりには形になった。 後は、くるりのマシンの最終調整が終わるのを待つだけ――。 「んぅ……」 「……しょー」 「うう……」 「しょー、起きて…」 ゆらゆらと体が揺れている。 誰かの小さな手が俺を揺らしているからだ。 「しょー」 声が聞こえる。 俺を呼ぶ声だ。 俺はこの声を知っている。 というか……この声で名前を呼ばれるのが好きだ。 「しょー」 「……くるり」 「うん」 「あ……」 慌てて起き上がると、ベッドの側にくるりがいた。 いつもみたいに起こしに来てくれたみたいだけど、なんだかちょっと様子が違う。 「くるり……眠い?」 「寝てないから」 「え! な、なんで」 「いいから起きてほしい」 「え? だ、だって、あの」 「しょー、早く」 「あ、ああ。わかった」 色々気になる事はある。 でも、くるりがこんなに急かす事なんかほとんどない。 だから慌てて起き上がって着替えを手早く済ませた。 「来て」 「くるり?」 「早く早く」 「あ! は、はい」 俺の手を引いて歩き出したくるりに連れられ、わけもわからぬまま部屋を飛び出した。 連れて行かれる先はくるりの部屋らしいという事だけは、歩きながらなんとなく理解できた。 「くるり、どうした?」 「しょー!」 「え、え?」 部屋までやって来たくるりは、扉を閉めると突然、俺の体にぎゅっと抱き着いた。 いきなりすぎて意味がわからない。 くるりの小さな体を抱きしめていいのか、このままじっとしていればいいのかも、わからない。 「く、くるり? あの……」 「誰よりも先に報告するって決めてた」 「えっと」 「完成した」 「え…それって」 「エレクトリックエナジー1895号」 「タイムマシンが完成したの?」 「うん!」 「すごいぞ! くるり!」 「あ!」 タイムマシンが完成した事が嬉しかった。 くるりがそれを俺に最初に報告してくれたのが嬉しかった。 だから気が付いたら……。 俺に抱き着く、くるりの体をしっかりと抱きしめていた。 「おめでとう、くるり」 「し、しょー…」 「よかった」 「うん…」 くるりの体は小さくて柔らかい。 そんなの当たり前みたいに知っている。 でも、こんな小さな体で一生懸命がんばって、完成させて……。 くるりはなんてすごいんだろう。 改めてそんな風に思ってしまう。 さっきなんか、とても眠そうでフラフラだったのに……。 「って、くるり!」 「うん?」 抱きしめていた体を離し、くるりをじっと見つめる。 その顔には明らかに疲労の色が見えていた。 寝てないからか、少し顔色も悪い気がする。 「さっき、寝てないって……」 「徹夜で仕上げたから」 「え! じゃあ、寝なくちゃ!!」 「でも、寝る前に知って欲しかったの」 「それは嬉しいけど、無理はしないって約束しただろ」 「……」 「ちょっと寝た方がいい」 「……ぅん…」 「わかった。起きるまでずーっと一緒にいてやるから」 「絶対?」 「絶対。ウソはつかない。遅刻してもいい」 「……わかった」 「ほら、ベッドまで行こう」 「一緒に行く」 「うん」 ベッドに行くよう促すと、くるりが手を握って来た。 小さな手を握り返して、一緒にベッドまで歩く。 ふたりで一緒にベッドまで移動すると、くるりはフラリとその上に倒れ込んだ。 「くるり?」 「すごく眠い…」 「うん。眠ればいいよ」 「うん」 「ほら、隣にいるから」 「……ぅ…ん」 倒れ込んだくるりの隣に並んで、ベッドで横になる。 すると、くるりは俺にぴったり寄り添ってから目を閉じた。 「……すぅ、すぅ」 しばらくすると、すぐに規則正しい寝息が聞こえて来る。 相当眠かったんだろう。 それなのに、わざわざ俺に報告に来てくれたんだよな。 「よしよし」 「んぅ……」 眠っているくるりの髪を撫でてみた。 そうすると、くすぐったそうに微笑まれる。 ……可愛い。 「すう、すぅ……すぅ……」 なんだか、寝顔を見てたら俺まで眠くなりそうだ。 ……ああ、でも眠くてもいいか。 どうせ、起きるまで一緒にいるって言ったんだし。 遅刻決定だけど、くるりを置いて行けないし。 一緒にいるんだから……寝ても……。 「ふぁあああ」 「すぅ、すぅ……」 「おやすみ……」 眠っているくるりの頭を撫でて、おやすみと口にすると途端に眠気が襲って来た気がする。 目を閉じた途端、すぅっと意識が遠のいた。 そんな気がした時には、もう眠っていた気がする。 …………。 ………。 ……。 「……ん」 ぼんやりと目が開く。 見慣れない風景に驚いたけれど、すぐに理解できた。 ここはくるりの部屋だ。 タイムマシンが完成したって呼びに来てくれたんだ。 でも、徹夜して眠かったくるりを寝かせて、俺も隣で一緒に寝ちゃって……。 そういえば、くるりは……。 「すぅ、すぅ……」 「……」 まだ寝てるんだな。 昨日、どれだけがんばったんだろう。 寝ていいって言ってすぐ寝たんだから、ずっと起きてたのかな。 「……んんぅ」 「……」 じっと見てていいのかなと思わなくもない。 女の子の寝顔をこうやってじっくり見る事なんかないもんなあ。 いや、うん……マックスの事はカウントしないでいい。 なんか、かわいいな。 女の子はみんな、こんなかわいい顔して寝てるのかな。 それとも、くるりだからこんなにかわいいんだろうか。 「……んー」 「かわいい」 「しょぉ……」 「うん?」 「……ふふ」 「……ね、寝言?」 寝言で俺の名前呼んでくすくす笑うって。 なんだこれ! なんだこのかわいい生き物!! うっわ、ヤバイ。かわいい。 くるりすごいかわいい……。 ダメとはわかってる。 わかってるけど……! 寝顔見てたらちょっとこう、いろいろ思うわけです。 「……」 起きないから、いいよな。ぐっすりだし。 いい。いい事にしとこう。 そーっと、くるりが起きないように気をつけながらジャージをめくり上げて見る。 ……くるりはジャージの下はいつもこうなのか? というか、なぜジャージの下にすぐ素肌が出て来る。 普通、ジャージの下にはシャツとか着てるだろう。 いや、そういうのを着ないのがくるり式か? 「……」 なんて色々考えているけれど、本当に考えているのはそんな事じゃない。 今、じっくりと見ているくるりの事ばかり、頭の中でぐるぐると考え続けてしまう。 くるりの肌、白いな。 それになんかきれいだ。 こういうの普通なのかな。 他の子の事なんか知らないから、よくわからない。 でも、くるりの肌は白くてきれいだと思う。 ……もっとよく見てみたい。 「……」 俺がジャージをめくってもくるりはまだ起きない。 よっぽど眠かったんだろう。 それなのに、俺なにやってるんだろう。 でも、こんなかわいい寝顔で隣にいられたら……無理です! もっと見たい。 もっと見たいけど、さすがにこれ以上は起こしてしまうかな…。 「……ん」 「あ……!」 「……しょー? なに?」 「え、ええーと、えーと」 ヤバイ! さすがにこれは怒られる! 怒られるだけならまだしも、攻撃される!! ビームで!! 「こ、これは、あの、えーと」 「あ……」 自分の格好に気付いたくるりが少し驚いた。 そりゃ驚いて当然だと思う。 これは全部、俺が悪い。 寝てる間に脱がしてみるとか、全然ダメじゃん! 最低じゃないか!! 「ご、ごめんなさい!」 「……」 「あの、寝てるくるりがかわいくて、見てたらなんとなくこう、色々……あのですね」 「……」 「本当にごめんなさい!」 うわ、なんか俺の言い訳は全然なってない。 こんなんじゃ怒られるどころか、嫌われるかも。 でもウソなんかつけない。 くるりがかわいいなーって思ったのは本当だし。 くるりは呆れてるんだろうか。 それとも怒ってるんだろうか。 知りたいけど、俺から何か言うなんてできそうにない。 「しょー…」 「はい…反省しています…」 「いいよ」 「……え」 「しょーだったら、いいの…」 「くるり……」 「ご褒美もらうって、あの時約束したから」 「うん。キスするって約束した」 「もっと、ご褒美欲しいって言ったらダメ?」 「……」 それってつまり、その……。 キス以上って事……だよな? もっとご褒美って、この状況でそれ以上にないよな。 俺、間違ってないよな。 「……」 「……!」 オロオロと戸惑っていると、くるりが目を閉じた。 これってやっぱり、そういう事なわけで……。 ここまで来て迷うなんて、あるわけがない。 目を閉じたくるりに近付き、ゆっくりと唇を重ねる。 「ん……」 また、あの時と同じ柔らかい唇の感触。 もっともっと触れたくて、何度もキスをくり返す。 「あ……」 触れるだけのやんわりとした感触。 それでも、くるりはキスするたびに小さく声を漏らした。 漏れる声が可愛い。 もっともっと聞きたい。 その声が聞きたいと思っていたら、俺の手は勝手に動き出した。 「あ……あぁ…」 手のひらがくるりの白い肌の上をすべって行く。 すべすべとした感触。 俺の肌と全然違う感触。 女の子はきれいで、柔らかくて、かわいい。 くるりはそれを体現している気がする。 「しょー……」 「ご褒美……だから」 「うん」 ふるふると小さく震えるくるりが頷いた。 ご褒美って言葉はずるくないかと少し悩む。 本当は俺が触りたいだけだ。 でも、もしかしたら……。 ご褒美という言葉を使えば、くるりは恥ずかしがらずに俺に触れられてくれるかもしれない。 そんな事すら考えてしまう。 「あ……」 胸の上に手のひらを移動させる。 くるりの体がぴくりと震えた。 そのまま、小さな乳房を包み込むように手のひらを動かす。 小さいけれど、しっかりと柔らかな感触があった。 「あ、ああ」 もっともっとそれを確かめるように手のひらを動かした。 伝わる柔らかさに頬が緩む。 「あ、んぅ」 そして、その度にくるりが声を出す事にも頬が緩む。 そのまま、手のひらをもっと移動させる。 胸からお腹をゆっくりなぞって、そのまま下腹部へ。 「あ……しょー……」 「くすぐったい?」 「ち、違うの。そうじゃなくて…」 「うん」 じゃあ、どうして? なんて聞かない。 聞かなくてもなんとなくわかる。 多分、俺だってくるりに触られたらそうなる。 体の作りは違っても、きっと感じる事は一緒なんだ。 そう思うと少し嬉しい。 「……は! あっ」 下腹部からさらに奥へと手のひらを進ませた。 足の付け根のもっと奥、その先へと。 「ふ……あ、んっ!」 指先が脚の付け根のもっと奥、くるりの秘部へと辿り着く。 瞬間、くるりが今までより大きく震えた。 思わず指先の動きを止めてしまう。 けれど、くるりはそんな俺をじっと見つめた。 「しょー。いいよ……」 「う、うん」 「ご褒美、ちょうだい」 「わかった」 頷き、もう1度指先を動かす。 秘部の奥へと進ませると、指先に柔らかな感触。 女の子というのはどこもかしこも柔らかいのか。 そんな事を思いながら、ほんの少し指先を動かす。 奥からねっとりとした感触が、じわりとあふれ出した。 「あ、はぁ……は、あぁ……」 指先が動くと、秘部の奥からじわりと愛液が溢れる。 それに合わせてくるりは切なくて甘い声を出す。 「はぁ、は……あ、んん、ん、あ……」 ねっとりとした感触が指先を包む。 くるりの声と感触が、俺の体を興奮させていた。 もっともっと、くるりを知りたい。 こんな姿を見たい。 そう思うと、指先の動きは止まらない。 何度も何度も、柔らかな感触を確かめるように動き続ける。 「あ、んぅ! ん、ん……しょー……あ、あ」 もっと奥まで進んでもいいのか? それとも、ここまでの方がいいのか? くるりの反応を見ているだけではわからない。 けれど、自分自身はもっとくるりの姿を見たい。 そう思っている。 「くるり……」 「あ、しょー」 「え……」 緩やかに指を動かしながらくるりを呼ぶ。 すると、くるりの視線が俺の一部に集中した。 「あ! い、いや、あの」 「それ……」 くるりの視線の先には俺の股間がある。 そこがどうなっているか……少し見るだけでくるりにもわかっただろう。 今までのくるりの反応と声と感触のせいで、俺の体も反応をしていたからだ。 「えっと、あの…」 恥ずかしい。 恥ずかしくて仕方が無い。 けれど、くるりはそこから視線を外さない。 「する」 「え?」 「ワタシもしょーにする」 「く、くるり?」 「あ、あの、ちょっと……」 くるりが俺の足の間に移動して、じっと見上げる。 それがどういう体勢かなんてわかってる。 だって、くるりの目の前には今までの行為で反応してる俺の肉棒があるんだから。 「く、くるり……」 「確か、ここ……」 「……!」 何かを思い出すように言いながら、くるりの手のひらが肉棒に触れた。 それだけで体が大きく反応してしまう。 恥ずかしい。でも、そうされている事が嬉しいとも思う。 そっと、小さな手のひらが肉棒を撫でている。 たったそれだけなのに、そこはビクビクと何度も反応した。 「こうされると、嬉しい?」 「い、いや、あの。嬉しいけど……いや! そ、そうじゃなくてなんて言うか!」 「しょーも嬉しいんだ」 「う、うう……」 「いい?」 聞きながらくるりが俺の肉棒に顔を近付ける。 そのまま、そっと舌を差し出して根元から舐め上げられた。 「ん!」 「ん、んぅ」 舐められた瞬間、体と肉棒が震えた。 なんだかすごい恥ずかしい。 でも、くるりにそうされて興奮してるのがわかった。 「ん、んぅ……ん、んむ……はぁ」 くるりの舌が根元からゆっくりと先端へと移動する。 ねっとりとした、そこで感じた事のない感触が移動するたびに体が震えて息が漏れる。 「しょぉ……あ、はぁ…ん、んぅ、ちゅぅ……んん」 「くるりっ」 「あ、んぅ…ふ、はぁ、はぁ」 俺が反応している事に気付いているくるりは、それを確かめるように上目づかいで見つめながら舌を動かしていた。 肉棒の上で動く舌の感触だけじゃない。 チラチラと見つめられる視線にも俺は興奮していた。 どうされたいかとか、どうして欲しいとかじゃない。 くるりがしてくれてるから。 だから、俺はこんなに興奮して、感じてる。 「は、んぅ……」 「……んっ」 俺を見上げながら、くるりがそっと先端を咥えた。 小さな口いっぱいに咥えられると同時に、そっと吸い上げられる。 「んんぅ、んぅ、ふ……ちゅ、ちゅぅ……ちゅ、ふ…」 「あ、くるり……」 「ふぁあ……はぁ、あ、ふ、ふあ」 「……あ」 何度も口内で吸い上げ続けていたくるりが先端をそっと離す。 ほんの少し残念だと思ってしまった。 うっかり声を漏らすとくるりが微笑む。 「もういっかい」 「ちょ、ちょっと!」 「はぁ、あ、んぅ、んむぅ……」 また根元からゆっくりと舌で舐められる。 ねっとりとした感触。 けれど、それだけでは物足りないとも感じる。 そんな俺に気付かず、くるりは何度も舌を往復させる。 「はぁ、はぁ……は、あぁ、あぁ、んぅ……先の方から、とろって……んんぅ」 「んっ!」 先端から少しあふれ出した精液をくるりが弄る。 そのまま、もう一度先端を咥えて吸い上げられた。 痺れるほどの背筋の震え。 また思わず声が出る。 すると、くるりは嬉しそうに吸い上げる力を強くする。 「ん、んぅ! ん、ふ……ん、んん……んぅ、ちゅ、ふ」 「はぁ……くるり……」 「はー。はぁ……んぅ…」 強く吸い上げてるのをやめると、くるりはまた根元から先端まで舌を動かし始める。 もどかしい動きに体が震える。 もっと先を望んでいると、自分でもわかる。 「く、くるり……」 「んぅ?」 「ご、ごめん。だめ……」 「え……」 「なんか、これだけじゃもう……無理」 「それって」 「……入れていい?」 「……」 「……」 「いい…よ」 「うん」 くるりの体をベッドに寝かせる。 ほんの少しだけ腰を浮かせて脚を開かせると、目の前に秘部が晒された。 「あ……」 ほんの少し恥ずかしそうに頬を染めたくるりがかわいかった。 あんまりじっくりそこを見るのも……。 とは思うけれど、視線は自然とそちらに向いてしまう。 「……あんまり、見られたら」 「ご、ごめん!」 「うん」 「あの、じゃあ」 「……うん」 ゆっくりとくるりの体に肉棒を近づける。 小さな体の中に、本当にこれが入っていくのかと不安がないわけじゃない。 でも、くるりの中に入りたい。 もっともっと、くるり自身を感じたい。 「あの、力抜いたら、いいと思う」 「本当?」 「た、多分……わかんないけど」 「じゃあ…そうする…」 「うん」 初めてなんだから、どうするのが正しいのかなんてわからない。 でも、こういう時って力を抜いてもらった方がいいって……いうような話を聞いた事あるような気がする。 「ん、と……」 「あ……!」 肉棒の先端をくるりの秘部に近づける。 そっと触れただけで、くるりがビクリと体を震わせた。 そのまま、少しだけ擦り付けるようにしてみる。 愛液が擦れて、ぐちゅぐちゅと音がなり、くるりが声と体を震わせて反応した。 「あ、ああ……あ、あぁ……」 「もう、ちょっと……んん…」 「はぁ、あ、あ……あっ」 音を立てて軽く動かしていた先端の動きを止めた。 そのまま、その先にゆっくりと進ませる。 「……いっ! あ、んぅ!」 「……ふ」 狭くて窮屈なくるりの中に、ゆっくりと進んで行く。 けれど、まるでそこに進む事を嫌がられてるようだった。 肉棒は中々奥へと進まない。 それでも、ゆっくりと慎重に進ませて行く。 「あ、あぁ……あ、はぁぁ……」 「くるり!」 「しょー、あ、あぁ! しょー……」 ゆっくりだけど、奥へ進む。 奥へ進むたびに窮屈さは増して行き、くるりの声も苦しそうになっていく。 このまま続けちゃいけないんじゃないか。 そんな不安が増し、少し動きを止める。 「……あ。しょー?」 「大丈夫? 無理なら、俺……」 「無理じゃ、ない。へーき、だからぁ……」 「本当?」 「ほんと」 無理じゃないと言うくるりはやっぱり苦しそうに聞こえた。 でも、平気だと言ってくれる気持ちは嬉しい。 「あの、じゃあ」 「……うん」 そっとくるりの体を撫でてから、またゆっくり動き出す。 動く度にまた痛いほど締め付けられていく気がした。 「はぁ……はぁ……」 「あ、あぁ……はぁ、は……!」 ゆっくりと確実に、時間をかけてくるりの中へ進んだ。 どのくらいゆっくりだったかはわからない。 けれど、不意にそこから先に進めないという場所まで辿り着く。 「あ……」 「はぁ、はぁ……はぁ……」 「くるり」 「ん……」 名前を呼びながら顔を覗き込む。 まだ少し苦しそうな表情。 けれど、どうして動きが止まったかわかっていないようだった。 「奥まで入った」 「は、あ……うん……」 「動いても大丈夫……かな?」 「うん」 「……」 苦しそうな返事。 本当に大丈夫なのかわからない。 でも、ここで止めると嫌がりそうな気がする。 「それじゃあ」 「あ、あぅ!」 苦しそうな体を気づかいながら、ゆっくりと腰を動かしてみる。 ほんの少し動いただけなのに、ぐちゅぐちゅと愛液があふれる音が聞こえてきた。 あふれる愛液の感触と一緒に、中で締め付けられる感触。 少しずつのつもりだった動きが、一気に早くなりそうな気がする。 でも、それじゃあだめだ。 「あ、あ、ぅあ! あ、んぅ、んぅ!」 「くるり……」 くるりが慣れるくらいまでは、ちょっとずつ……。 奥に進む時と同じくらいゆっくりと腰を引いて、またゆっくりと奥まで戻って行く。 「はぁぁ、あぁ……、中ぁ……あ、あ……」 動くたびにくるりの中は俺を締め付ける。 ねっとりと絡みつくように。 かと思えば、強く噛み付くように。 動きをほんの少し変えるだけで、その中は俺への対応を変える。 まるで全部見透かされているような、そんな感触。 そんな事を考えながら、何度も何度もくるりの中に出入りする。 「あ、はぁ、ふ……」 漏れる声が、震える体が、愛しい。 もっともっと大切にしたい。 もっとくるりを感じたい。 けれど、どこまで大丈夫なのだろう。 愛しい。だから大切にしたい。 それなのに、もっと先を望む本能がある。 「しょー……あ、んぅ!」 絡みつく感触を確かめながら、肉棒を出入りさせ続ける。 溢れる愛液の音と量が増えていた。 くるりの声にも苦しさ以外のものが混じっているような気がした。 けれど、それは俺だけが感じているのかもしれない。 だからまた、ゆっくりと腰を動かして様子を確かめる。 「はぁ…あ、ふぁぅ! ん、んぁあっ」 ゆっくりとくるりの中で出入りを続ける。 絡みつくような感触は変わらない。 けれど、噛み付くような強さは少し減った気がした。 その強さが減った分、包み込むようなねっとりとした優しさが増えたような気がしてならない。 「はぁ……はぁ、あぁ……あ、んぅ……」 漏れる声にも甘くて切ないものが増えた気がした。 表情も少し変わっている気がして、その表情を見ているだけでもかわいくて仕方がない。 そんな事を考えていると、もっともっと、くるりと触れ合いたくなる。 そうするにはどうすればいいのか。 それは簡単な事かもしれない。 「くるり……抱っこしていい?」 「抱っこ?」 「うん。ぎゅーって、抱っこしたい」 恥ずかしい事を言っているなと思わなくもない。 でも、今よりももっと近くでくるりを感じたい。 離れないようにしっかりと抱きしめたい。 そう思うと言葉は自然と口から漏れていた。 「抱っこ、して。ぎゅーってして…」 「うん」 「あ……」 「くるり」 「しょー…」 くるりの体を抱き上げて、膝の上に座らせる。 正面に向かい合う状態になって、くるりを抱きしめやすくなる。 俺が腕を回して抱きしめると、くるりも嬉しそうに抱き着いて来てくれた。 お互いの体がくっつき合うから、なんだか嬉しい。 「気持ちいい」 「ん?」 「ぎゅーって、気持ちいい」 「うん。俺も」 「あ、あっ!」 抱きしめて答えながら、小さく腰を動かしてみる。 するとくるりは驚いたように声を出した。 小さなくるりの体は少し腰を動かすと、軽く浮き上がる。 浮き上がった体はすぐに元の場所に戻り、その瞬間、中にある肉棒は締め付けられる。 ちょっとこれは……いいな。 「しょー」 「うん。ゆっくりする」 「あ、あぁっ!」 しっかりとくるりを抱きしめながら、また腰を浮かす。 腰を浮かせた時に体が離れてしまわないようにしっかりと、けれど強くなりすぎないように抱きしめる。 抱きしめる腕の強さも、腰を突き上げる感触も、全部がくるりを刺激しているような気がした。 「あ、ふぁぁ、あ……ぁあ…」 しがみ付いてくる力が強くなった。 けれど、その強さすら嬉しい。 もっともっと、くるりに抱き着かれたい。 そんな思いが、突き上げる勢いを激しくする。 大きく突き上げ、奥まで届かせる。 奥に届くと締め付けられて、くるりが苦しげに声を出す。 「はぁ、はあぁぁ……あぁ、あ………」 「くるりっ」 「奥の方……あ、んぅ! しょーがぁ、あ、あっ! 奥までぇ……!」 もっと奥まで届きたい。 本当にひとつになるように、くるりをもっと感じたい。 そうなるためにどうすればいいのか……。 具体的な事なんてわからない。 だから、体を抱きしめながら、ただ腰を突き上げる。 「こんなぁ、あっん! こんなの……今まで、ない……」 「うん……! んぅ!」 「あ、ふぁ……は、あっ…だめ……こんな、んぅ!」 必死だった。 ただ、くるりを抱きしめて必死で動くだけだった。 他に何もない。何もできない。 離したくなくて、もっとくるりを感じたくて、動き続けた。 「しょぉ……しょー……! あ、あぁああっ!」 「あ、ん!」 ビクリびくりと体が大きく震えた。 瞬間、くるりの中に埋めた肉棒も大きく震えた。 そしてそのまま、くるりの中が俺の精液でいっぱいに満たされる。 どろどろと飛び出して行く感覚。 それが一気にくるりの中に広がったような気がした。 くるりも、俺にしっかりと抱き着いたまま、中いっぱいに精液を受け止めながら絶頂を迎えていた。 ビクビクと大きく震えたまま、しっかりと俺に抱き着いていたくるりは肩で息をしながらぐったりしている。 「くるり……くるり……!」 「しょー……大好き、しょー……」 「うん。俺もくるりが好き。大好き」 「しょー……しょぉ……」 しっかりと抱き着いたまま、くるりはまるでうわごとみたいに何度も俺の名前を呼んでいた。 大丈夫かなと少し心配になった。 でもやっぱり、そんなくるりがかわいいと思ってしまった。 疲れた様子のくるりをベッドに寝かせる。 随分と辛そうだったけれど、大丈夫だったのだろうか。 無理をさせてしまっていないかと不安になる。 「……大丈夫?」 「んぅ」 「よかった」 頬を真っ赤にしたままくるりの髪を撫でる。 柔らかい感触。 それだけでなんだか嬉しかった。 「でも、ちょっと疲れた」 「じゃあ、また寝ればいいよ」 「……」 俺の言葉にくるりは無言でじっと見つめる。 何が言いたいのか、それだけでわかってしまう。 「俺はくるりと一緒にいるよ」 「うん」 「学校さぼっちゃったけど…色々大丈夫?」 「平気……ぐみに頼んである…」 「そっか、よかった」 また髪を撫でる。 くるりが嬉しそうに微笑み、そっと目を閉じた。 安心したのかもしれない。 そのまま、くるりの髪を撫で続ける。 柔らかい感触がやっぱり嬉しい。 「あ! 俺、明日は生徒会に呼ばれてるから、放課後行けないかも」 「……」 「くるり?」 「すぅ……すぅ……」 「おやすみ」 「……すぅ、すぅ」 くるりの寝顔を見ていると、満ち足りた気持ちが体の真ん中から端っこまで流れていく気がする。 今日はずっとくるりの側にいよう。 絶対離れないからな。 ついに始まった、鳳繚蘭学園の繚蘭祭。 とは言っても、1日目の今日は内部公開のみだ。 色んな模擬店や展示が立ち並び、全生徒数はそんなに多くない学校のはずなのにすごく盛り上がっている。 どこもかしこも、みんなが今まで必死に準備して作り上げて来たものだ。 そんな中でも、特に注目を集めている模擬店は、繚蘭会主催の『出張limelight』だった。 何しろ、目玉になっている企画のインパクトが違う。 あのケーキ王選手権で優勝した、桜子の『考えるちょんまげ』が食べられるんだから当然だろう。 あれは……かなりの衝撃だった。 あの衝撃はちょっと普通じゃ味わえないからなあ。 まあ、ケーキはまったく問題なくおいしかったんだけど。また食べたいし。 そもそも茉百合さんと桜子がウェイトレスをしている段階で、全校生徒の注目を集めるのは必至だしな。 そんな繚蘭会の出張limelightとは離れて、くるりとぐみちゃんと俺は3人で展示コーナーにいた。 完成したタイムマシンは、くるりの部屋からこの展示コーナーに持ち込まれ、簡単な外装処理を施されている。 ……のだが、何と言うか、それが、絶妙にうさんくさい……。 「……世紀の発明なんだよな…」 もっとそれっぽいというか、かっこいい外観に出来なかったのだろうか……。 俺はくるりの部屋で中身見てるけど、中身はすごくかっこよかったのに! 「わくわくしますねー!」 「う…うん」 『ドッキドキ! 夢のタイムマシン体験!』と銘打った展示コーナー。 これ、学園が全面協力している一大プロジェクトなんだよな。くるりはそう言ってたはずだ。 なのになんだろう、この…学校の文化祭っぽい感じは! いや、学校の文化祭には間違いないんだけど! 「…………」 そして、俺の不安をたいそうあおってくれる問題がもうひとつ。 「くるりん、大丈夫? もしかしてまだ熱が…」 「…ん〜。大丈夫」 昨日というか、まあ身も蓋もない言い方をするとエッチをした後から、くるりの様子がおかしい。 なんというか、ぽやーんとしてる。 というか、はにゃーん。 みたいな。 今だって、ちらりとでも目が合うと…… 「……ふゃ〜%0」 ああ、赤くなっちゃった。 いや壮絶にかわいいんだけど…ずっとこうだからな…。大丈夫なのかな……。 不安だ……。 いや、でも置いてあるタイムマシンの機能はすごいからな。 どれくらい人が来るかはわからないけど、しっかりやらないとな。 「ところで、ぐみ……あれ、本当に飾っておくの?」 「もちろんですよ。栄光の軌跡です!」 くるりの言うあれとは、過去に飛ぶ、失敗作の方のタイムマシン。 飾っておくと雰囲気が出ると思ったので、俺とぐみちゃんで展示を決めた物だ。 けれど、くるりは失敗作を見られるのが嫌みたいで、少し不満みたいだった。 とは言っても、俺が飾ろうと言い出したら断らなかったけど。 でも、表情は未だにちょっと嫌そうだなあ。 「……はあ」 「この子たちがあるから、タイムマシンは完成したのです! 研究の経緯も見てもらえるし」 「経緯を見ても、仕方ないと思う」 「そんな事ないよ、くるりんー!!」 「そうかな」 「そうだって」 「……う……うん…」 「あのー。タイムマシン体験ってここでいいですか?」 「は! お客様なのですー!」 展示について色々話しているうちに、最初のお客さんが来た。 もしかすると、誰も来ないんじゃないかって思ってたけど、これは案外忙しくなるのかも!? 「はい! ここです!」 「ここでいいって」 「すいませ〜ん。ふたりです」 「はーい」 「くるりん、お客様です!」 「うん」 「くるり、ひとりずつじゃないと無理だよな?」 「う……うん……うん…%0」 「………」 「………」 「え、ええと、ぐみちゃん、くるりに指示を聞いてくれ。俺、横にどいてるから…」 「らじゃー!」 ようやく正気に返り、てきぱきと指示を出すくるり。 お客さんが来たから張り切っているように見える。 俺は何もしない方がいいな、これ…。 不用意に話しかけたら、またくるりの頭がシステムダウンしてしまう。 「見たか? 今の」 「見た。あきらかにハートマーク出てた」 「すげー。信じられねー…」 「……」 くるりとぐみちゃんはマシンにかかりっきりで気付いていないようだけど……。 もしかしてこのふたり、タイムマシン目当てじゃないんじゃ…。 ……俺とくるりを観察するような感じがひしひしと。 いや、考えすぎないでおこう! 「それじゃあ、どっちから?」 結局、最初のふたりが来た後に次々とお客さんが来た。 でも、誰も彼も目当てはタイムマシンって感じじゃなかった。 どちらかと言うと、今までと違うくるりを見に来ているというような……。 正直、恥ずかしくて仕方ない。 くるりはときどきすっごいぽわーっとした顔で俺を見てるし、そんな状態をじろじろ見られるし……。 そりゃかわいいし嬉しくもあるけど……さらしものだよなあ…。 「しょーくーん! ぐみちゃーん!」 「……げっ」 「わー! かいちょーですー!」 「……」 こんな状態がいつまで続くのかなと思っていると、最も来て欲しくない人が来てしまった。 会長の顔は嫌になるくらい明るかった。 なんでこんなに嬉しそうなんだ。 なんでこんなに楽しそうなんだ。 嫌な予感しかしない。 「展示の方はどうかなー?」 「はい! お客さんがいっぱいです!!」 「うんうん。そりゃー良かった。そうでしょ、そうでしょ〜」 わざわざここまで来た会長は、俺とくるりを交互に見つめる。 何が言いたいのかわかる。 すごくよくわかる。でも、わかりたくない。 「はいです! くるりんの努力の結果なのです」 「ふむ……」 ぐみちゃんがくるりの名前を出した瞬間、会長の視線がそちらに向いた。 くるりも会長に視線を向ける。 「なに?」 「いやあ、べっつにー」 「邪魔。帰って」 「酷いなあ。せっかく仕事の合間をぬって、激励に来たのに」 「不要だから」 「来てくれとは頼んでませんし」 「おぉ、ナイスコンビネーション! さっすがラッブラブカップルは違うね!」 「……ーっ!!」 「はー!?」 「……んー?」 それかー! やっぱそういう事が言いたかっただけかー! 「……ひゃ……うぅ」 あぁ、会長の目論見どおりか、くるりはもうすっかりダメダメモードに入ってしまった。 「…しょ、しょぉ……」 「お、落ち着けくるり、ここで舞い上がったら会長の思う壷だ!」 「…う、うん………%0」 「『しょ、しょぉー』だってだってー!! かーわいいー!!」 「あんたなあぁぁ! 帰れえぇぇ!!!」 「あはははははー!!」 腹の立つ笑いを残しながら、会長はひらひらと手を振って出て行った。 何が激励だ! 結局、からかいに来ただけかよ! 「あ! よくわからないですけどご訪問ありがとうございましたー!」 ぐみちゃんは律儀にそれに頭を下げていた。 何もわかっていないというのが、これほどありがたいと思った事は多分、他にない。 「……しょ…」 「まあ、あの、とりあえず、落ち着いて」 「うん……」 くるりは頷いてから、そっと俺を見上げた。 表情はとろーんとしたまま。目はちょっと潤んでるようにも見える。 …ちょっと…こんなとこで……そんな顔やめてくれ……。 俺も落ち着こう。とりあえず。 ああ……。 明日もこんな風に人が集まるのかなと思うと、すごく恥ずかしいなあ。 でも、何がきっかけでも、くるりのタイムマシンがみんなに見てもらえるなら……い、いいのかなあ。 今日も俺たちは変わらず展示ブースに集まっていた。 「今日もがんばりましょー」 「おー」 「うん……」 「昨日みたいにお客さんいっぱいだといいですね」 「そ、そうだね」 「……うん…」 ああ、ダメだ。一日たっても全く戻ってない。 くるり、さっきからこっちばっかり見てる。 ともすれば俺もぎゅーって抱きしめたくなってしまうのが困ったところだ。 だけどそんな事をすれば、くるりはもっとダメダメな状態になってしまうのは目に見えてるし…。 ……今日もがんばらないと。いろんな意味で。 タイムマシン展示コーナーは今日もそれなりの人入り。 外部のお客さんは、タイムマシンに興味を持ったりしてくれたんだけど……。 いかんせん、外面がこれだとどうしても手品ショーっぽくなってしまうというか…。 一番きちんと構造とかについて説明できるはずのくるりは、なんかヘロヘロになってるしな…。 学園内の生徒たちの方は、やっぱりどっちかというとくるりを見に来ているみたいだった。 さすがにこの状態が連日続くと恥ずかしくてどうにかなりそうだ。 でも、繚蘭祭は今日が最後だ。 明日は片付けだけなんだし、何とか乗り越えないとな。 時間が経つと、お客さんの数も減って行く。 くるりの様子を見に来る生徒の数も減ったし、随分と落ち着いたような気がする。 「もうすぐ終わっちゃいますねえ」 「そうだね」 「なんだか淋しいです」 「…ん」 「でも、ほら、くるりのマシンはみんなに見てもらえたし」 「……うん…」 「ですね!」 なんだかんだ言って、結構人は大勢来たし、ちゃんと見てくれてた人もいるし。 まあ、今回の展示は成功だって事でいいんじゃないかな。 俺の看板も役に立っていたならいいんだけど……。 あんまりそれは自信ないな。 「片付けは明日からですから、今日はゆっくり帰りましょう」 「あ、うん。そうだね」 「うん」 「お片付けも頑張るのですー」 色々慌ただしかったけど、繚蘭祭も終わり。 明日は一日、撤収と片付けだけの日になるらしいけど……うん、がんばろう。 「それでは、ぐみは生徒会室に寄りますので、お先に失礼しまーす」 「うん、お疲れ様ー。明日もがんばろう」 「じゃあね」 「はいですー!」 「……」 「……」 ぐみちゃんが行っちゃって、ふたりだけ。 何も言わなくても意識してしまう。 ここ数日間、ずっと意識しっぱなしだったしな……。 まあ、でも今は誰もいないし。ちょっとは気が楽だ。 「……帰ろうか」 「ん……帰る」 「今日も一緒にいる」 「いる…」 頬を赤らめてこくんと頷いたくるりを見つめ、俺も頷く。 簡単に明日の片付けのための準備をしてから、俺とくるりもふたりで一緒に寮に帰る事にした。 寮に戻ってからは、着替えてからくるりの部屋に行く。 なんだか当たり前みたいになってるけど……。 いや、当たり前でいいんだよな。 「……」 少し離れた場所にいるくるりは、端末をいじってさっきからメールを書いているみたいだ。 いつもこれくらいの時間になると、端末をいじってる気がするけど、あれもメールを送っていたのかな。 誰に送るんだろうと少し気になったけど、まあ…聞くほどの事でもないか。 「なあ、くるり」 「……なぁに…?」 「明日の片付けって時間かかりそう?」 「…えっと、そうでもない…。研究室にマシンを運ぶのがほとんど…」 「あ、そっか。俺は飾りつけを外したりとかの方がいいかな」 「んー……」 俺に答えながら、くるりの指先は器用に動き続けていた。 指先の早さに少し驚く。俺はあんなに早くは文字が打てない。 「くるりさ」 「うん…」 「その端末使い慣れてるって感じだな」 「…そうかなぁ?」 「だって、俺と話しながらでもそんなに早く打てるし」 「慣れれば、しょーもこれくらい…できる」 「そうかなあ?」 「でも、ワタシが話しかけてる時は端末を使わないで…ほしいな」 「なに、それ」 「……だって」 答えたくるりの頬が赤くなる。 そんな表情を見ちゃうと、くるりがどう思っているのかすぐにわかる。 「じゃ、なるべくそうならないようにします」 「うん…!」 「じゃーさー」 「え?」 端末を操作するくるりの隣に並ぶ。 少し驚いたような表情。それがまたかわいい。 「くるりも早く終わらせようよ」 「……ん、ん…」 「俺も、ちょっと寂しい」 「あ……」 顔を近づけて目を見つめる。 瞳に写る俺の顔。 くるりにはどう見えているんだろう。 できれば、端末の画面じゃなくて俺をちゃんと見て欲しい。 そんな思いがちょっと隠しきれない。 「うん」 俺が近づいた事に慌てて、また真っ赤になって。 くるりの視線は何度も俺の顔と端末を行き来しながら、くるくる動いていた。 見つめ続けると、ようやく端末を操作する指先の動きが止まる。 そのまま、くるりが端末を置いて俺に視線を向けた。 「お、お、おしまいっ」 「はい」 「しょー……!」 「おっ?」 我慢できないように、くるりが腕を広げて勢いよく抱き着いてきた。 その体をしっかりと抱きしめて、髪を撫でる。 優しい、柔らかい感触。 腕の中にすっぽりおさまると、なんだか安心した。 「は、はぁ……」 「うん?」 「展示が終わってちょっと落ち着いた」 「片付けはあるけどね」 「でも、それはすぐだから」 「うん。全部終わったら、デートとかしよう」 「うん」 「今度はちゃんとしよう」 「行きたいとことか、考える」 「じゃあ、俺も考えとく」 「うん」 ぎゅっとお互いの体を抱きしめたまま、他愛ない会話。 ああ、こういうのが幸せなんだ。 なんだろう。 俺、こんなに幸せでいいのかなーって思ってしまう。 でも、仕方ない。 俺はくるりが好きで、くるりも俺を好きなんだ。 それで、二人ともこうしていたいって思ってるんだから。 今晩もずーーっと、こうして一緒にいよう。 「うわあああああぁぁあぁぁぁっ!!!!」 落ちる! 落ちて行く! 体がどんどん落ちて行く!!! どこまでも。 どこまでも、どこまでも……! 「あ?」 「え……」 「なんだなんだっ? 晶、どした?」 「あ、あれ? マックス……」 「おう! おはよう!!」 「………お…おはよう」 なんで、俺、ここにいるんだ? ここって……寮で、俺の部屋…だよな。 「……俺、ずっとここで寝てた?」 「はぁ?? 当たり前だろーがよ」 そうだ。俺……。 くるりを探していたら、なんか高い場所まで飛んで行っちゃって、そこから落ちて……。 あれ? なんか、色々……おかしい? 「どうしたんだ? なんか顔色わりーぞ」 「いや、あの。あ……マックスがいるって事は、朝?」 「おう。今から仕込みに行こうとしてたんだ」 「あ、そんな早いのか」 「さーて行くかーなんつって思ってたら、お前がいきなり大声出して起きるからよ! ビックリしたぜ」 「うん」 そうだ。マックスは最近、朝早くからlimelightのケーキを作りに行ってる。 だから朝や放課後はいつも忙しくて、中々会えない。 そのマックスがまだいるって事は、今の時間はけっこう早朝って事だ。 …………。 ……。 「あ! あの、く、くるりは?!?」 「マミィ? マミィなら、今さっき展示ブースに行ったよ。今日、掃除の日だからな」 「……展示ブース!! きょ、今日、片付けの日?! 今って、朝?!」 「へ? ああ。だから、そう言ったじゃん」 「くるり、無事なのか?! 無事なんだよな!!」 「え? あ、ああ、うん」 つめ寄ると、マックスはかなり不思議そうに俺を見る。 そりゃ、俺にしか理由はわからないだろう。 「良かった……」 「んー?」 安心したら、ようやく人並みの冷静さが戻ってくる。 「マックス、念のためもう一度聞くけど、今日って何日?」 「11月3日だけど。でもって、繚蘭祭の後片付けをする掃除の日だぜ」 ―――やっぱり。間違いない。 俺はあの日を朝からやり直せている…みたいだ。 もしくは、寝ている間に今日一日の夢を見ていた? それだったら、とんでもない悪夢だ。 くるりがマシンに飛び込んで、砂になっちゃうなんて。 でも、どっちでもいい。 くるりがまだいてくれるなら、それでいい!! ああ、そうだ。 夢だったのかどうか、確かめる手段を思いついた。 「どした?」 「……」 制服のポケットに突っ込んだままにしていた端末を取り出す。 画面を操作するとメールが届いていた。 差出人は―――『九条くるり』 あの時と同じだ。 このメールの内容は……同じなのか? 「……!!!」 そこに書かれていたメールは、夢の中で見たメールと全く同じ内容だった。 という事は、やっぱり夢ではなかった…のか? 「晶よー! おまえそれ、気にすんなよ! 随分前のメールだからよ!」 「マックスのとこにも、届いてるのか?」 「お、おうよ。大方受取人のとこを間違って全校生徒宛に再配信しちまったんだろうぜ。マミィには珍しいミスだよな」 このメール、全校生徒へ一斉配信になってるのも一緒なんだな。 「なあ晶。だからさ、あんま気にすんなって!」 「……」 明るく元気に言うマックス。 俺を元気づけようとしてくれてるんだろう。 こいつ、やっぱいいやつだな。 ……ロボだけど。 でも、マックスが言うんなら、これを書いたのがくるりだって事は間違いないって事か……。 「マックスは、どう思った?」 「ん?」 「このメールを見てさ。やっぱり、くるりみたいな天才が、俺なんか相手にするわけないって…思ったか?」 「……」 「俺……ちょっと不安になったんだ。くるりが何を考えているのか、どう思っているのか……よくわからなくてさ」 「晶はマミィのこと、もっと知りたいのか?」 「……うん」 「………」 「オレが知ってる事は全部教えてやるよ! 晶が知りたいって言うんなら。親友だからな! 特別だぜ?」 「え……?」 「ちょっと待ってな」 「マックス、ケーキは……?」 「そんなもん、パッパッパーっとやっちめーよ。超高性能のオレをなめんなよー!」 マックスは、しばらくそのまま固まっていた。 何かのデータを呼び出しているのだろうか。電子音が引っ切り無しに聞こえてくる。 「オレがつくられたときにはさー。もちろんこの輝く人工知能は真っ白だったわけよ」 「え、あ、うん」 「で、知能の成長支援になるからってさ、マミィがな、自分のこれまでの記憶とか、思い出とかを全部データとして入力してくれたんだ」 「え…そうなのか」 「おーよ! だからよー、けっこー何でも知ってんだぜー?」 マックスはそう言いながら、ある映像を俺に見せてくれた。 「オレの中にある、マミィの一番古い姿だ」 マックスが見せてくれたデータの中にいたのは、小さな小さな……今よりも小さなくるりの姿だった。 「これ、子供の頃のくるり?」 「ああ。この頃のマミィは、児童施設にいたんだ」 「……」 「マミィの両親がどんな人かは知らない。多分、マミィも知らないんだと思う」 「マミィの子供の頃の記憶は、いつでもひとりだ……ある時期までは」 部屋の隅っこで一人座っている子供のくるりに、誰かが手を差し伸べた。 大きな手。 でも、きれいで細くて……女の人の手だ。 『どうしたの? みんなと一緒には遊ばないの? 一人で本を読むのが好きなのかしら?』 あぁ、これ、理事長だ。今よりちょっと若いみたいだけど…。 理事長は、小さなくるりの前にしゃがみこむと、優しく話しかける。 『つまらないの。本も嫌い。カンタン、つまらない』 『まあ、すごいのね。…もっと、難しい本が読んでみたい?』 『もっと難しい本があるの?』 『あるわよ。私が今いる学校には、とっても難しくて、面白い本がいっぱいあるの』 『……ホント? そこ、行ってみたい』 にっこりと笑って、理事長はくるりの手を引く。 くるりが理事長に連れられ、施設の門を出るところで映像が切り替わった。 『くるりちゃん、すごいわ、また賞をとったんですって?』 『ちはや先生! こ、これ、これ賞状だよ!』 『頑張ったくるりちゃんには、何かご褒美をあげないとね。何か好きなものとか、欲しいものとかはある?』 『ごほうび? ごほうび……んんん、んんむむむむ』 『ふふふふ、じゃあねえ。私のお家に遊びに来る、というのはどうかしら?』 『い、いく! いきたい!』 そういえば、くるりは理事長にお世話になっていたんだっけ……。 天音もくるりとは子供の頃からずっと一緒にいて、妹みたいに大事な存在だって言ってた。 「理事長はマミィを引き取って、この学園に入学させたんだ。好きな研究が好きなだけ出来て、オレを作れたのも理事長がいてくれたからなんだぜ」 「くるりにとって、理事長は本当に本当に、大切な人なんだな……」 マックスのデータの中にある、くるりの表情が変わった。 小さな眉間にしわを寄せて、どこかをにらみつけている。 『どうして! どうしてちはや先生は泣いてるの?!』 『くるりちゃん、……あのね、なんでもないのよ…心配しないで』 『見た! さっきの…あいつ、あの男がちはや先生を泣かせた! 許せない…』 『……大丈夫だから…お願いだから…なんでもないの』 『ちはや先生……』 これって……。 生徒会長の言ってた事だろうか。 旦那さんとの間に色々な事があって、くるりもそれを近くで見ていたって。 『ねえ、くるりちゃん。くるりちゃんはどうして男の子のお友達は作らないの?』 『キライだから』 『え……どうして?』 『ひどい事しかしないから』 『……くるりちゃん…。そんなこと、ないわ。それにくるりちゃんだって、いつか男の子を好きになる日がくるかもしれないでしょう?』 『そんな日、来ないよ…男なんか、最悪だもん』 『いつか来たら……ちゃんと私にも相談してね』 『どうして?』 『くるりちゃんは、ひとつの事に夢中になっちゃうと他がおきざりになっちゃう子だから』 『……だめ? 直した方がいいの?』 『違うのよ、それはいい所だと思うわ。でもね、人を深く深く好きになったら、嬉しいことだけじゃなくて傷つくこともあるの』 『きっとくるりちゃんは、そんな時……どうしていいか、わからなくなるでしょうから。一人で悩まないでほしいのよ』 『傷つくのに、どうして好きになるの? そんなの不条理だよ』 『……そうね、どうしてかしらね……』 「だいたいこんくらいかなー。オレが知ってるマミィの事は」 「あ、あぁ……ありがとう……」 「なんつーかなー。理事長が家族の事で、悩んだり苦しんだりしてるのを見て、マミィは男が嫌いになったんだってよ」 「それで、俺がここに来た時、あんなに嫌がってたのか……」 険しくなった小さなくるりの表情を思い出す。 きっと、大切で大好きな理事長を泣かせた、その男が許せなかったんだろう。 「マミィがさー。晶のことホントに好きになったんだったら、それって、マミィにとっては初めての事なんだよ」 「え…?」 「きっとどうしていいのかわかんないんだと思うんだぜ」 「それで今日は晶のこと起こしに来れなかったんじゃねーかなー。自分であんなメールばらまいた後だしさー」 「………」 「今、マミィが何を考えてるかは知らねえけど。でも、晶とのことで、すごく混乱してるんじゃねーかなー?」 「だからさー、マミィのこと怒ったりしないでやってくれよな!」 「マックス、おまえ…本当すごい」 「えっ、な、なによいきなり?! 今頃何言ってんだよー」 「……俺、くるりに会いに行く。ありがとう、マックス」 「おう、それがいいぞ」 「…本当にありがとう」 「うん」 マックスは慌てた様子で部屋を飛び出した。 でも、あいつが本気を出したらすぐにlimelightまで着くだろう。 俺も早く着替えて、くるりに会いに行こう。 早く……会いたい。 制服に着替えたし、端末も持った。 よし、行こう。 「きゃっ!」 「あっ! ごめん!!」 扉を開けると部屋に入ってこようとしていた天音とぶつかりそうになった。 そうだ、あの時と同じなら、起こしに来るのはくるりじゃなくて天音なんだ。 メールの事を、天音も知ってて……多分気を遣ってくれたんだな…。 「か、葛木くん……起きてたの?」 「うん」 「今日、片付け……」 「ごめん。くるりを探さなきゃいけないんだ」 「え、あの」 「話をしたら、そっちの片付けもちゃんと手伝うから、今は行かせて! ごめん!!」 「あ! 葛木くん!」 走り出した俺の名前を天音が呼んだ。 でも、振り返っていられなかった。 早く、くるりのところまで行かなくちゃ。 「くるり!! …あれ……?」 展示ブースの中には、誰もいなかった。 絶対にここにいると思ってたのに……。 他にどこか、くるりの行きそうな所はあるだろうか? もしかして、俺が大声で呼んだから、荷物の影に隠れた…とか? ……そんなわけないか。 ……でも。 やっぱり、一応探しておこう。 「……」 荷物の影や、マシンの中を探す。 くるりが隠れられそうな場所を……。 「うわ!!」 ほんの少しの隙間。 マシンと荷物の隙間に足を滑らせ、転んでしまった。 「……って」 まるで、あの時と同じだった。 あの時ここで、理事長とくるりが話すのを聞いて……。 そして、くるりの言葉に耐えられなくなって、俺は逃げ出した。 「………」 「くるりちゃん……」 「……!」 くるりを呼ぶ声が聞こえた。 あの声は、理事長……! まさか、あの時と同じようにふたりが来たって事なのか? 「……大丈夫なの?」 「……」 「くるりちゃん?」 「は、はい……っ!」 「……」 くるりと理事長が向かい合う。 あの時と全く同じだった。 まだ少し信じられない。俺はまた夢を見ているのだろうか? 「くるりちゃんが以前にくれたメール……間違って全校生徒に届いてしまったみたいね……」 「………はい…あの…みんな、その話してて…ごめんなさい」 「今朝から大変な噂になっているのは、私もわかっています。でも、いいのよ、そんなことは」 「せんせい…」 「大事なのは、くるりちゃんと、くるりちゃんの大切な人のことでしょう?」 「……え…」 「葛木くんの事です。あのメールじゃあ、彼、誤解してしまうわ。ちゃんと説明してあげないと」 「…あ、あの」 「天音から聞いたの。葛木くんと仲良くなったんでしょう? せっかく気持ちが通じ合ったのに、こんなことで台無しにしちゃいけないわ」 「それは……」 「もしかして、勇気が出ない? それなら、私も一緒に話してあげるから、安心して。誤解だって説明したら、きっとわかってくれるわ」 「…………」 「くるりちゃん…?」 同じだ。 あの時に聞いた会話と、全く同じ。 何も違っていない。 理事長の言葉も、くるりの返事もあの時と一緒だ。 じゃあ、この先、くるりが話す事は―――。 「……大好きな人に、嫌われるかもしれないのが怖いのね。でも勇気を出さなきゃ…」 「ちっ、違うのっ!」 「えっ?」 「あれは、あくまでデータ調査のためで、大好きとかじゃ……ない…」 「……」 こう言われるのは、わかってた。 そして、くるりが何故こんな事を言うのか……その理由も会長とマックスが教えてくれた。 だけど、本当にそうなのかな? 必死に抑えていた不安が、くるりの言葉でどんどんと揺らいでいく。 「だって! 男なんて、鈍くって、女の子の気持ちを全然わかってなくって…」 「ひどい事ばかりするし……自分の事しか考えてないし!」 「……くるりちゃん……」 「ほんとに…ほんとにひどい事ばっかり!」 「だから、そんなどうしようもない男なんて、好きになるわけない!」 「ねえ、待って」 やっぱりこれが、くるりの本心じゃないのか? 俺は、知らないうちにくるりにひどい事をしていたんじゃないのか? 続きを聞きたくない。 この先に、くるりが何を言うかもわかってる。 「だから違うの! ワタシ、好きな人なんていらないの!」 俺は荷物の隙間で、必死に耐えた。 飛び出して行きたかった。 でも、今はここで、じっとしてなきゃいけない。 どんなに辛い事を言われても、我慢しなきゃいけない。 そんな気がする。 「ちはや先生、ワタシ……」 「くるりちゃん。勘違いしないで」 「……え?」 「そんな風に気をつかわれても、私は全然嬉しくなんかないのよ?」 痛む胸を押さえてうずくまっていると、理事長の優しい声が聞こえて来た。 その声は本当に優しくて、俺だけじゃなくてくるりも驚いているようだった。 「…………あ、あの…」 「自分が愛する人に振り向いてもらえないからと言って、くるりちゃんにまで幸せを捨ててほしいなんて思っていません」 「……」 「……」 「だから、自分の大切な人の事を、そんな風に言わないで」 「ちはや先生……」 「本当はそんなこと、思っていないのでしょう……?」 理事長の手が、くるりの肩にそっと触れた。 その瞬間、くるりは小さくこくりと頷いた……。 そのまま俯いてしまったくるりを、理事長は優しく見つめる。 理事長の表情はいつだって優しい。 でも、くるりを見るその表情は今までに見た事がないくらいに優しいものだった。 「正直に、自分の気持ちを話して。約束したでしょう? ちゃんと相談するって」 「……最初は……なんとも、思ってなかったの」 「うん」 「なんでこいつが? 意味わかんないって、すごい思った」 「それで?」 「でも、研究のためだから……だから調査するだけだって、思って」 「だけど、そうじゃなくなっちゃった?」 「……うん」 「そう……」 頷いたくるりの頬が赤くなった。 それを見ていると、俺の顔まで赤くなる気がする。 そんなくるりを、理事長は優しく撫でていた。 まるで、我が子にするみたいに優しく。 手のひらの動きが本当に優しくて、くるりを大切にしているんだってよくわかる。 「なんで、こんなになったかわかんない……でも、気が付いたら頭の中がしょーでいっぱいで、他の事とか考えられなくて……」 「すっごい迷惑って思った……でも、そう思っても、しょーの事しか考えられなくなっちゃったの」 「そうね。人を好きになるって、そういうものね」 「ちはや先生も……こうだった?」 「ええ、そうよ。私だけじゃないわ、誰かを好きになったら、みんなそうなの。その人でいっぱいになるの……それが、好きという事」 「わかんない……」 「ちゃんとわかる人なんていないと思うわよ」 「しょーがいると胸がぎゅーってなるの、しょーがいると嬉しいの。ワタシ、しょーと一緒にいたい……ずっとずっと、一緒がいい……」 「うん……」 「…しょーが好き……だ、だから……あんなメール見られたら…ワタシ…」 「……」 顔が熱い。 頬だけじゃなくて、耳まで真っ赤になっているって、触らなくてもわかる。 こういう風に、隠れてくるりの本心を聞いてしまうのは卑怯だ。 だけど……。 くるりの言葉に、気持ちが昂るのを止められない。 嬉しい。くるりの気持ちが、とても嬉しい。 こんなに嬉しい事、他にあるはずがない。 くるりは、俺を嫌いじゃなかったんだ……。 良かった……。 くるりは俺を……。 「はああぁぁ……あ!?」 「……?」 「っ!?」 「あ!!」 安心して息を吐いた途端、体から力が抜けた。 そのまま、足がずるずると床の上にのび、そして……足元にあった荷物を蹴ってしまった。 「だ……誰?」 「誰かいるの?」 「……」 こ、これは出て行かないわけにはいかない……よな。 意を決して隙間から這い出る。 ここは勢いよく謝るしかない! 「ご、ごめんなさい!」 「葛木くん…?」 「しょ、しょー……!」 立ち上がると、二人の顔がよく見えた。 理事長は驚いているようだったけれど、何となく安心しているようにも見えた。 でも、くるりは―――。 俺が出て来たのを見て、驚き、赤くなっていた顔を更に赤くしてしまった。 「えっと、あの、くるり……」 「しょー……そこ、ずっと……あ……!」 「くるり……?」 「あ、あ、あぁぁ……」 「ひゃうぁうああわぁあああぁあー!!」 「え!? ちょっと、くるり!!!」 「くるりちゃん!」 真っ赤になったくるりは、ものすごい勢いで俺に背中を向けた。 そして、あっと言う間に展示ブースを飛び出して、走って逃げ出してしまう。 気持ちはわからなくもないけど! 俺だって、あんなストレートな気持ちを本人に隠れて聞かれてたのがわかったら、そりゃ逃げ出したくもなる。 「えっと、あの! すいません、追いかけます!!」 「くるりちゃんのこと、お願いします」 「はい!」 「くるり! 待ってくれよ、くるり!!」 「はぁはぁ……!」 俺の前を走るくるりは必死だった。 決して足が速いはずじゃないのに、なかなか追いつけない。 これじゃあ、あの時と一緒じゃないか? くるりの背中を追いかけて、必死で走って……! 一瞬、ぞっとする考えが頭をよぎって蒼白になる。 もしも、あの時と同じになったら……? そんなのダメだ! あの時、誰かが言っていた。 一度だけだって。 これは幸運な偶然なんだって。 だから、くるりに追いつかないといけない! 「くるり! 待って!!」 「はぁ、はぁ……はぁ……!」 「待っててば! くるり!!」 「……!」 呼びかけても答えない。 ただ、必死で走って、俺から逃げ出す。 くるりは一体、どこまで逃げるつもりなんだろう。 「あれ!?」 階段を上りきり、くるりを追って廊下に向かったはずなのに。 廊下にはくるりの姿はなかった。 い、いきなり見失ったのかよ?! 辺りを見回してみるが、くるりの小さな姿はどこにも見えない。 息を切らせてきょろきょろしている俺に、生徒たちが不審げな視線を投げてくる。 「………お、落ち着け、俺!」 くるりの身体能力はそんなに高くないはずだ。 だからいきなり俺を振り切れるほどのスピードで走れるはずがない。 何か見過ごしてる。 ふと思いついて、置いてあるベンチの影を覗き込んでみる。 「…あ」 「ぁうあああぁあぅぅぅー!!」 「ちょっと…まっ、くるりー!!」 俺と目が合うと、くるりは真っ赤になったまま、またとんでもない速さで走り出していく。 こうして走っていると、本当にあの時と同じみたいだ。 あの時の光景が頭の中に蘇りそうになる。 でも、違う。あの時とは違うはずだ。 くるりは多分、恥ずかしがってるだけだし、俺も誤解したままじゃない。 「はー、はー……!」 走って、走って、走って……。 どのくらい走ったんだろう。 気が付いたら、最初の展示ブースの近くまで戻ってきていた。 「くるり!」 これが最後だと言うように、くるりは足を速めた。 そして、教室の中に駆け込んだ。 そこは、くるりとぐみちゃんの展示ブース。 一瞬―――。 頭の中に、泣きながらマシンに飛び込むくるりの姿が浮かぶ。 そして響く轟音。まぶしい光。 さらさらと手のひらから零れる、真っ白できれいな砂―――。 「くるり!!!」 「あ!」 展示ブースに慌てて飛び込む。 くるりはまだ、そこにいた。 俺が入ってきたのを見て、右往左往している。 「良かった、くるり!」 「……うぅ」 くるりは展示ブースにそのままにされていた、タイムマシンの前に立っていた。 何度も何度も、来る人全てに説明をしていた、くるりが完成させたあのタイムマシンの前だ。 「……〜っっ!!!」 「あ!」 ホっと俺が安心していた、一瞬の隙。 その隙にくるりはタイムマシンに飛び込んでしまった。 慌てて扉に手をかける。 「ま、待って! くるり!!」 黙って見てちゃいけない。 間髪いれずに扉を開けた。 「えっ……?」 ………そこには誰もいなかった。 くるりが飛び込んだのは、ついさっきの事だ。 だけど、中には何も無い。 流れる白い砂も無い。 無人の椅子だけが、静かに佇んでいる。 「……あ!」 そうか。 タイムマシンが動作して、くるりは未来に飛んだ……ということか? 『なんと! それを使うと5分だけ未来に行けちゃうのですー! なんというすばらしいタイムマシンでしょーか! もうタイムマシン以外の何物でもありません!』 5分だけ、未来に行ける……。 今、くるりの姿はない。 という事は、このマシンはくるりを5分後の未来に運んだ……って、事でいいのかな。 タイムマシンの扉を閉じて、ぼんやり考える。 繚蘭祭の時、何人もの生徒がこの機械の中に入って行った。 そして、全員が5分経ったら、不思議そうな顔で扉を開け出てくる。 「……」 とにかく……待ってみよう。 5分経ったら、生徒たちと同じように、くるりもこの中からきょとんと出てくる…はずだ。 あの時みたいな事にはならないはずだ。 だって、あの時にくるりが飛び込んだのは、このタイムマシンじゃない。 あの時とは状況が違う。 やり直せているはずだ。 時間が経てば……くるりはこの中から出てくるはずなんだ。 くるり……。 「……」 きっと…出てきて、くれる。 そう、信じてる。 5分。 たった5分。 それが、こんなに長いと思った事は今までにない。 何度も携帯端末のデジタル時計を確かめる。 あと、ほんの数十秒…。 「………」 じっとタイムマシンを見つめるが、何の動きもない。 轟音も、光もない。 多分、5分は経ったと思う。 「……」 扉は開かない。 まさか……。 頭の中に、何度も思い出したくない光景が流れてくる。 さっきも確かめたはずだ。 あの時とは、違う…。 だから……。 「……くるり」 そっと、タイムマシンに手をのばす。 その手が震える。 情けなく震え続ける手を押さえ、タイムマシンの扉に手をかけた。 「……!」 怖い。 この扉を開けるのが、怖い……! でも、開けないと確かめられない。 震える手をなんとか押さえて、そっと扉を開けた。 「………」 中は。 やっぱり、何もなかった。 「そんな……」 全身から力が抜けて、その場に立っていられない。 くるりは……どこに…? どこに行ってしまったんだ? 「……っ?!! な、何だ?!」 たちまち、椅子の中央にまばゆい光が集まっていく。 光はやがて、小さな人型を形作り……。 「あ……」 「……」 現れた光の中には……くるりがいた。 座って、膝を抱えて……そこには、くるりの姿が間違いなくあった。 「―――くるり!!」 「きゃっ!」 「くるり! くるり!!」 「は、はうぅぁ……!!」 「良かった……良かった、くるり!」 「……は、は…し、しょー?」 俺は、くるりの体を引き寄せ強く抱きしめていた。 こうせずにはいられなかった。 くるりはまだ恥ずかしいのか少し暴れたが、もちろんどこにも逃げ出せない。 「しし、しょー! わ、わ、わわ…」 「くるり……! もう、逃げないで!」 「し……しょー…」 「頼むから、俺のそばにいてくれ!」 「……!!」 「どこにもいかないでくれ…」 「…あ………ご、ごめんなさい……」 「……いい。良かった。無事で…」 「…ワタシ……どうすればいいか、わからなくて……恥ずかしくて……」 「うん」 「顔、見てられなかった。だから、逃げて……」 「うん」 「それに、嫌われたかと思った……。しょーにあんなメールを、だから……」 「今のくるりが、あんな風に思ってないって、俺わかってるから」 「………うん…」 恥ずかしそうな声。 でも、くるりも俺に腕を回してしっかりと抱き着いてくれた。 大好きな感触。 小さいけれど柔らかくて、暖かい、俺の大好きなくるりの感触。 ああ、なんだかすごく久し振りな気がする。 ほんの少しなのに、すごく長い間こうしてなかった気がする。 この感触を、もう離したくはない。 今、心からそう思ってる。 「くるりが消えたらどうしようと思ってた。もう、二度と会えなかったらどうしようかと思ってた」 「しょー……」 「タイムマシン、完成しててよかった」 「……え?」 「だって、5分待ったら、くるりが現れたから……よかった」 「う、うん」 「くるり……、ごめんな。俺、もうくるりの気持ちを疑ったりしない。だからくるりも…俺の気持ち、信じてくれ」 「…しょーの、気持ち……」 「俺は、くるりが好きだ。くるりと一緒にいたい」 「しょー……」 「だめ?」 じっと目を見つめて聞く。 すると、くるりはふるふると小さく首を振った。 「ダメじゃない。一緒にいて欲しいの……ずっとずっと見てて欲しいの」 「うん…」 腕の力をぎゅっと強くする。 くるりが俺にしがみ付く力も強くなる。 「約束する。ずっと見てる、くるりのこと」 「うん…!」 「でないと、何しでかすか心配だし。突然タイムマシンになんか、駆け込んじゃうし」 「あ、あれは……だって、恥ずかしかったから…」 「くるりには一瞬だったかもしれないけど、俺、くるりのこと、5分間ずーっと待ってたんだぞ」 「……待ってた、の?」 「うん。待ってた……くるりが、5分飛び越えて、俺のとこに帰ってくるの」 「しょー…」 「おかえり。くるり」 「うん!」 それ以上、何も言えなかった。 くるりも、何も言わなかった。 そばにいる。 お互いの温度を近くに感じる。 それは毎日続く、あたりまえのような出来事かもしれない。 だけど。 だけどこうやって一緒にいられるあたりまえは、すごく特別なことなんだ。 おかえり。 こんなに短い言葉だけど、すごく大切なものがたくさんつまってる。 おかえり。 俺はこの先何度もこの言葉をくるりに言うだろう。 くるりもまた、俺に何度も言ってくれるだろう。 恥ずかしそうに、何気なく、時にはぶっきらぼうに。 好きなひと。一緒にいたいひと。 それは普通で、なにげなくて、あたりまえの。 特別なものなんだから。 「ん……」 ぼんやりと目が覚めた。 カーテンから朝日が差し込んでいるのが見えた。 もう朝なんだろうか。 でも、今日はまだくるりが来ていない。 もしかすると、まだ目覚めるには早い時間なのかも。 だったら、もう少し寝ていようかな……。 「ふぁああああ」 「……ん?」 「葛木くん、入っていい?」 「あれ? 天音……」 「まだ寝てたの? もー。起きてるなら、早く用意して」 「あ、うん……」 あれ…。どうして、天音が? いつもくるりが起こしに来てくれてるのに……。 「今日は繚蘭祭の片付けでみんな忙しいんだから」 「そうだった。あのさ……くるりは?」 「え……。えっと、あの、展示ブース片付けに行くって」 「そっか。色々残ってたもんな。俺も急がないと」 「う、うん。あー、あのね、葛木くん。今日はlimelightの方手伝ってくれる?」 「え? あ、もしかして、結構大変そう?」 「うん、そう…。くるりたちの方の片付けはすぐ終わるみたいだから、貸してもらえるかなーって先に交渉しといたの」 「わかった。じゃあ、今日はそっちに行くよ」 「うん、お願いね。じゃあ、あの、一緒に行こう。結衣と待ってるから」 「わかった。わざわざありがとう」 「ううん。じゃあ、後でね」 そうか、くるりは先に片付けに行ったのか。 くるりの事だから、律儀に起こしに来るのかなあと思ってたんだけど……。 あ。でも途中で一緒にいられなくなったらさみしいとか、そういう理由だったりするのかな。 今のくるりならあり得るかも……。 着替えを終わらせて談話室に行くと、天音と結衣が待っていた。 結衣の後ろにはいつものように、ちょこんとすずのがいる。 「お待たせ。ごめん、ちょっと遅くなった?」 「大丈夫よ。そんな事ないから、行きましょう」 「うん、いこうー」 「うん」 俺が頷くと、結衣の後ろですずのもこくこく頷いていた。 なんだか、こういうのは随分久し振りな感じだ。 思えば最近、ずっとくるりやぐみちゃんと一緒に繚蘭祭の準備してたからな。 そんなに懐かしくなるほど、離れていたわけじゃないのに。 なんだかずっとくるりと一緒にいた気がする。 改めてそう考えるとちょっと照れるな。 片付けの真っ最中の校内は、昨日までと同じように賑やかだった。 とは言っても昨日の賑やかさとは少し違う。 片付けっていうのも、それはそれで楽しみのひとつなのかな。 出張limelightのブースから、天音たちと一緒に椅子やテーブルを廊下に運び出す。 結構な力仕事で、確かに男手が必要と言う天音の意見はよくわかる。 なかなか手間だけど、みんなでやればすぐ終わるだろう。 すずのも俺たちを手伝おうと、こっそりついて来てくれている。 しかし……。 「……あ、あの子」 「やっぱり、おかしいと思ったのよねぇ」 さっきから、視線を感じる気がするんだけど、どうしてだろう。 みんなが俺を見てひそひそ言ってるような……。 「………?」 何かあったのかな……? 「あの九条さんが……本気で……なわけないよな」 「……うん、謎…解けた感じ」 何の話をしてるんだろう。 どうも今日の学校の雰囲気はおかしいような……何がなんだか。 「気にしない方がいいわよ」 「そ、そうそう!」 「あんなの絶対、誰かのいたずらか何かなんだから」 「そうそうそう!」 「………? 何の話?」 俺の問いに、気遣うようだった天音と結衣の表情が凍りつく。 「え!?」 「え、あの……」 「もしかして、何かあったのか? くるりの名前も聞こえた気がするけど…」 「え、えっと、それは、あの……」 いったい、何が起こってるんだ? 全然わからない。 思い起こせば、今日は朝から色々変だった。 昨日まではべったりだったのに、朝、くるりは顔を見せなかったし……。 それに、今までだって朝少し遅くなったくらいじゃ天音は俺の部屋には来なかった。 「何があったのか、教えてくれ。俺…全然わかんないよ」 「あ、あの、晶くん。携帯端末、見てないの?」 「端末? 今朝は見てない。ちょっと寝坊したから」 「……そこに、一斉配信のメールが届いてると思う……」 「メール? ちょ、ちょっと待って」 手にしていた荷物を廊下に置き、用事がない時にはポケットに突っ込んだままにしている携帯端末を取り出した。 画面を見ると確かにメール着信の表示が点滅していた。 画面を操作してメールを確認すると、そこには確かにメールが届いていた。 差出人は―――『九条くるり』……? 「……何だ、これ…?」 「あ、あのね、晶くん」 「そ、そんなの絶対に何かの間違いだから!!!」 「………」 『ちはや先生へ くるりです。今日、念願の実験結果が出ました。これで開発が飛躍的に進みそうです。 問題の遺伝子を持った人物は、同じ寮にいる葛木晶という男です。 これから簡易的に監視、調査も行ってみます。 何故あんなにつまらない男が実験に耐えうるだけの素晴らしい遺伝子を持っているのかよくわかりません。 正直、才能の無駄遣いだと思います。不可解です。 もっとマシな人物だったらどれほどよかったでしょうか。 でも、どんなに不本意だとしても、調査はきちんとやります。 その先にあるもののために、妥協はしません。 それでは、またご連絡します。 くるり』 「………」 これは……くるりが書いたメール、なのか? 宛先を見てみると、天音の言ったとおり全校生徒に一斉配信、となっている。 どうして? どういうことだ? なんで、全校生徒にこんなメールを……。 「あの、晶くん……」 「……」 「葛木くん」 気づかないうちに、端末を持つ手が震えていた。 どういう事なのかわからないけど……。 これを読むと、くるりは監視と調査のために俺に近づいてきたのだと、誰でも考えるだろう。 だから、他の生徒達も俺を見てひそひそ話をしていたんだろう。 でも、俺には、そんな風には思えない。 自分勝手な、都合のいい願望なんだろうか。でも……。 今まで、くるりと過ごして来た時間が嘘だったなんて、とても思えない。 「天音、結衣……」 「どうしたの?」 「晶くん?」 「俺、くるりに会ってちゃんと話を聞きたい」 「……でも」 「これが本当にくるりが書いたものか、本人に聞いて、確かめたい。くるりの気持ちを」 「うん……」 「だから、展示ブースの方に行っちゃだめかな?」 「……」 「行ってきなよ、晶くん!」 「結衣……」 「晶くんの言う通りだよ。くるりちゃんとお話しなきゃ、本当の事はわからないよ!!」 「結衣!」 「ちゃんと顔を見て話さなきゃ!」 「天音! いいか?」 「……うん。くるりの事、お願い」 「ありがとう! でも、この荷物くらいは運ぶから!」 「こっちは大丈夫だよ!」 「うん。なんとかするから」 「あの、でも……」 「……うん」 本当にいいんだろうかと思っていると、結衣と天音の後ろですずのも頷いてくれていた。 「じゃあ、葛木くんの分も倉庫に運ぶね」 「あ!」 「大丈夫。私の軽いし、もうそこだから」 そう言いながら、天音は俺が廊下に置いた荷物も手に持った。 本当に大丈夫だろうかと不安になる。 でも、その表情は早く行ってと言ってくれてる気がした。 「結衣。先に行くね」 「うん!」 「あ、ありがとう」 倉庫に先に入った天音の姿が見えなくなる。 結衣はすずのに視線を向けて、すずのもそっと俺に近づく。 「あの、頑張りますから」 「すずの……」 「すずのちゃんも手伝ってくれるし、こっちは大丈夫!」 「うん。あの、でも、倉庫の中、荷物多いから気をつけてな」 「大丈夫です」 「わたしもいるし!」 「うん」 「じゃあ、わたしたち片付けて来るね!」 「晶さん、行ってらっしゃい」 「よし! すずのちゃん、行くよー」 「はい」 「あの……ありがとう!」 荷物を持ったふたりも倉庫に向かった。 みんなの気持ちがとても嬉しい。 せっかく送り出してくれたんだから、俺も急ごう……。 「ふやぁぁ〜」 「えええええ!!!」 って、いきなり荷物引っくり返しましたっていう音が!? 「だ、大丈夫なのかー!?」 「だ、大丈夫ー。ちょっと転んだだけー」 「こっちは平気。だから早く行って」 「あ、うん。わかったー」 心配してる間に行けとか言われそうだし、早く展示ブースに向かおう。 くるりは、そこにいるんだろうか。 くるりに会ったら、何から話をしたらいいんだろう……。 とにかく行かなきゃ。 顔を見て話さないと、何も始まらない! 「……?」 電話の音? でも、どこから……? …………。 ……いや、それどころじゃない。 今は早く、くるりのところまで行こう。 目的の場所に近づくたびに、足取りが重くなる。 軽くなるはずもなかった。 くるりの事を思うと、足取りだけじゃなくて心も重くなる。 『これから簡易的に監視、調査も行ってみます』 メールにはそう書いてあった。 調査のために、俺に近づいてきたんだろうか。 あの態度は、全部嘘だったんだろうか。 …………。 ……そんなはずない。 例え最初はそうだったとしても、それだけのはずがない。 あの態度が、あの言葉が全部嘘だったわけがない。 「あ……」 気が付くと展示ブースの前に辿り着いていた。 いつの間にと思っていたけど、そのくらい考え事をしていたらしかった。 くるりがいるかもしれない。 そう思うと、足が止まる。 でも……会って確かめないといけない。 昨日までずっとそこにいたのに、足を踏み入れるのに勇気が必要だった。 けれど、意を決して中に入る。 「あれ……?」 でも、そこには誰もいなかった。 くるりどころか、ぐみちゃんも……。 ふたりとも来てないんだろうか。 いないだろうなんて事はわかっていた。 けれど、じっとしていられなかった。 展示ブースの隅に置かれた片付け途中の荷物。 マシンの中。 体の小さいくるりが入れそうな場所をついつい探してしまう。 どこかに隠れているんじゃないのか。 俺を待ってくれているんじゃないか。 そんな事を考えて、くるりの姿を探してしまう。 「……くるり」 「うわ!!」 ほんの少しの隙間。 マシンの影をのぞき込んだ瞬間、足を滑らせて転んでしまう。 「はあ……」 転んで座り込んだ瞬間、ため息が出た。 どんなに探してもいないのはわかってるのに、俺は何をしているんだろう。 考えがまとまらなくて、混乱しているのかもしれない。 くるりはどこにいるんだろう。 他にどこを探したらいいか、まずそれを考えなきゃ……。 「くるりちゃん……」 「……?」 今、くるりを呼ぶ声が聞こえた。 「……大丈夫なの?」 「……」 「くるりちゃん?」 「は、はい……っ!」 「……」 部屋に入ってきたくるりと理事長の雰囲気は、重苦しいものだった。 とても顔を出すことなんて出来そうにない。 いや、違う。 飛び出して、くるりに声をかけるだけの勇気がまだ持てないだけなんだ。 だからこうして、黙ってじっと隠れてしまうんだ。 「くるりちゃんが以前にくれたメール……間違って全校生徒に届いてしまったみたいね……」 「………はい…あの…みんな、その話してて…ごめんなさい」 「今朝から大変な噂になっているのは、私もわかっています。でも、いいのよ、そんなことは」 「せんせい…」 「大事なのは、くるりちゃんと、くるりちゃんの大切な人のことでしょう?」 「……え…」 「葛木くんの事です。あのメールじゃあ、彼、誤解してしまうわ。ちゃんと説明してあげないと」 「…あ、あの」 「天音から聞いたの。葛木くんと仲良くなったんでしょう? せっかく気持ちが通じ合ったのに、こんなことで台無しにしちゃいけないわ」 「それは……」 「もしかして、勇気が出ない? それなら、私も一緒に話してあげるから、安心して。誤解だって説明したら、きっとわかってくれるわ」 「…………」 「くるりちゃん…?」 理事長の言葉を聞いて、ああやっぱり誤解だったのかと安堵感がこみあげてくる。 でも、くるりは優しく話しかける理事長を前にして、黙り込んでしまった。 どうしたんだろう。 何だか様子がおかしい。 「……大好きな人に、嫌われるかもしれないのが怖いのね。でも勇気を出さなきゃ…」 「ちっ、違うのっ!」 「えっ?」 「あれは、あくまでデータ調査のためで、大好きとかじゃ……ない…」 「……」 理事長があっけにとられたように言葉を止める。 俺の思考も、停止していた。 くるりは、今…なんて言ったんだ? 「だって! 男なんて、鈍くって、女の子の気持ちを全然わかってなくって…」 「ひどい事ばかりするし……自分の事しか考えてないし!」 「……くるりちゃん……」 「ほんとに…ほんとにひどい事ばっかり!」 「だから、そんなどうしようもない男なんて、好きになるわけない!」 「ねえ、待って」 「だから違うの! ワタシ、好きな人なんていらないの!」 「ちはや先生、ワタシ……」 「もういいよ!!!!」 「……!!!」 「えっ……!?」 「くるりの気持ちはもうわかったから!! もうやめてくれ!」 「……あ、あ……」 「葛木君!」 もうこれ以上、くるりの口からつらい言葉を聞き続けることは出来なかった。 俺はその場から逃げ出した。 体中にくるりの言葉が突き刺さっていた。 胸の中が熱くて痛い。 誰かを好きになった時に感じる胸の痛さとは違う。 もっともっと辛い、苦しい痛さ。 ――全部、嘘だったのか? くるりの今までの態度も、俺との関係も。 まだ信じられない。嘘だったなんて。 くるりは間違いなく『好きな人なんていない』と言った。 でも……。 もしかしたら、俺の聞き間違いだったんじゃないかな。 だって昨日まで、くるりはあんなに俺のこと、好きだって言ってくれてた。 だから、本当は違って、何か理由があって、あんな事を言ったとか……。 そう思って、そっと立ち止まって振り返る。 もしかすると、くるりが追いかけて来てくれるんじゃないかって、そんな淡い期待があったから。 でも、くるりはいなかった。 まばらに生徒たちが歩いている廊下には、くるりの小さな姿はどこにも見えない。 「……」 やっぱり……。 追いかけて来ては、くれない。 ……俺、バカだ。 あそこまで言われて。理由があるんじゃないとか、本当にバカだ。 現実すら受け止められないのか。 「……」 走っていろんな場所を探して、やっと誰もいない場所を見つけた。 その隅で、ひとりでぼんやりと座る。 何も考えたくなかった。 こうしていても仕方ないのはわかってるけど……。 今は……少しだけ、こうしていたい。 「あっれー、先客ー?」 「……」 扉が開く音。それから能天気な声。 なんて、最悪のタイミングだ。 こんな時にこの人に会いたいわけがない。 「しょーくんもサボり? 俺もー」 「……あんたはいつもサボりだろ」 「えっ、いつもサボってるわけじゃないぞ! いつもはみんなが会長おとなしくしててって言うから!」 「……」 いつも通り無遠慮に近づいて来て、隣に座られた。 会長は何も悪くないけれど……今は、俺の方に相手をする余裕がない。 「……あれ、元気ないね」 「……」 「メールのこと?」 「……」 そうか、全校生徒にメールが行ってるという事は、会長もあのメール、見たのか。 俺が答えないと、会長はぐいぐいっと覗き込んでくる。 「なに、泣いてるの?」 「泣いてないよ!」 「しょーくんがそんなに暗い顔なんて、珍しい。おやつあげようか?」 ちらりと会長の顔を見る。 いつもならとても嬉しいはずのおやつにも、今は何の喜びも感じない。 「おやつが効かないか。これは重症だなー」 「………」 「そんなにショックだったのか。でもさあ、あれ日付とか随分前だから、今も同じ気持ちかなんてわからないだろ?」 「……そうじゃなくって」 「ん? じゃあどうしたの?」 一瞬、話すべきかどうか迷ったが、多分誰かに聞いてもらいたかったんだろう。 言葉が自然と、口をついて出てきた。 「……俺、ひどい事ばかりするから……好きになんかなるわけないって、言われた」 「え? くるりんがそんな事言ったの?」 こく、と頷く。 「何か怒らせるような事をしたとかじゃなくて? 突然言われたの?」 「いや、そうじゃなくて……くるりが理事長と話をしてるのを、偶然聞いて…」 「え……?」 「別に盗み聞きみたいな事するつもりはなかったんだけど、出るに出られなくなっちゃって……」 「その時、くるりんが理事長にそういう事を言っているのを聞いちゃったわけか?」 「うん…」 「ふぅん……」 「……」 もう一度あらためて説明してみると、どこにも希望が無い気がして、また気分が沈んできた。 俺、これからどうしたらいいんだろう……。 「あのさー、しょーくん」 「……なんですか」 「それ、二人が話しているのを聞いただけだよね? 本人に直接言われたんじゃないよね?」 「そう、ですけど……」 「だったらそれって、直接嫌いって言われたわけじゃないと思うけど」 「……でも、そんなの直接言われたのと一緒だろ」 「俺は多分違うと思うけど……ちゃんと直に話をした方がいいんじゃないかな」 「……」 確かに、くるりから直接言われたわけじゃない。 でも、くるりの口から『好きな人なんていらない』って言葉が出たのは間違いない。 そんなわけない、違う、ってくるりは何度も言っていた。 「しょーくん?」 「いやだ……」 「ん?」 「好きな子から、もういらないなんて聞きたくない…………」 膝を抱えてうつむく。 こんな顔、会長には見せたくない。 なんだよ。 俺って、やっぱり、くるりがこんなに好きなんじゃないか。 胸が痛くなるくらい。泣きたくなるくらい。 でも、くるりの気持ちはそうじゃない。 俺の事が好きだったんじゃないんだ……。 「……しょーがないなあ、しょーくんは」 「何だよ…」 うつむいたままの俺に会長が声をかける。 でも、そっちは見たくない。 それでも、そんな俺を気にしないで会長は話を続けた。 「こんなこと、あまり人に喋ったりするべきじゃないと思うけど…うちもちょっと複雑なわけでね……」 「……え?」 「こう、まあ……理事長とその旦那さんの間にも、色々な事があるわけですよ」 「……?」 「だから、夫婦の仲がですね……まあそのあまり良くないというか…うまく行ってはいないわけで…」 いきなり話がとんで、会長が何を言いたいのかよくわからない。 「どういう事…ですか?」 「端的に言うと、うちの父親はずっと他の女に夢中で、母さんはそれにとても心を痛めててさ……」 「………」 「くるりんは小さい頃からうちによく来てたし、そういう事も見て来たわけですよ。別に見せるつもりじゃなかっただろうけどさ」 「あれだけ母さんを慕ってる彼女が、それを知りつつ彼氏ができましたー! なんて笑って言えるわけないでしょ」 「そ……そう、なんですか……?」 「そうだと思うよ。きっと、ね」 会長は、少し困ったような笑みで俺を見ている。 本当…なんだろうか。 「だからさ、本人ともう一度話し合ってみた方がいい。会いに行く? 行かない?」 「………」 本当は何か理由があって、あんな事を言ったんじゃないか……。 さっき、俺も一度考えたことだ。 俺に、それを確かめるだけの……気力がまだ残っているか? 「……いや、行く」 「おー。それでこそ、男の子だなー」 立ち上がって、生徒会長を見下ろす。 顔はいつもの能天気な表情に戻っていた。 「んじゃ、行ってらっしゃい〜」 「会長は?」 「サボりって言ったじゃーん。みんなには黙っててね」 「……考えときます。じゃあ」 「じゃーねー」 座ったまま、ひらひらと手を振る会長に頭を下げる。 その頭を上げると、もう目を閉じて眠ろうとしていた。 ね、寝るのかよ。 本当だったら八重野先輩に言いつけてるとこだけど……。 今日はやめておこう。一応、恩返しはしないとな。 くるりの姿を探して、廊下を走る。 一度、展示ブースに行ってみたけれど、そこにはいなかった。 いてくれればという気持ちは少しあったけれど、あんな状態でいるわけはないか……。 くるりは一体どこにいるんだろう。 どこに行けば、くるりに会えるんだ? 寮には帰っていないみたいだけど……行くあてがわからない。 でも、探すしかない。 くるりと話をしないといけないから。 校舎内は昨日の片付けをする生徒の姿がまだ多い。 時々、俺を見てひそひそ話す姿もやっぱりあった。 でも、それを気にしてる場合じゃなかった。 くるりを見つける事が先だ。 どこにいるんだ。 どこに行けば会えるんだ。 もう一度、話をしたい。 くるりの本当の気持ちが聞きたいんだ。 くるり……。 くるりの姿を見付けられないまま、時間だけが過ぎていた。 けど、窓の外から夕焼けの光が差し込んでいなければ、俺は時間が経っていたのにも気付いていなかったと思う。 外は真っ赤だった。 赤い、赤い夕日。 窓から差し込む赤い日が、校舎全体を染める。 いつもならそれを見てきれいだと思っていたんだろう。 でも、くるりが見付からないからなんだろうか……。 この真っ赤な夕日が校舎を染め上げているのを見つめていると、何故だか無性に不安になった。 このまま、くるりと二度と会えないんじゃないか……? そんな考えが頭に浮かんでしまう。 「くるり……」 つぶやいても、もちろんくるりは返事をしてくれない。 「…………」 不意に、廊下の向こうから足音が聞こえた。 こちらに近付くような、走る音。 「………」 視線をそちらに向けると、そこには捜し求めていた姿があった。 くるりの手には、いくつものコードや部品が持たれている。 あれは何に使う物だろう。 でも、今はそんな事は関係ない。 「……くるりーっ!!」 「……っ!?」 思わず名前を呼んでいた。 やっと見つけられたんだ。 なによりもそれが嬉しかった。 「……っ!!」 けれど、俺が話しかけるより早く、くるりはそのまま走って逃げ出してしまった。 「く、くるり?!」 慌てて追いかける。 なんだか、様子が尋常じゃない気がして。 「くるり! くるり!」 「……はぁ、はぁ」 「待てよ! くるり! なんで逃げるんだ!!」 「……っ!」 くるりは一度もこちらを見ようとしない。 やっぱり、俺と話はしたくないのか? なんで……? 「さっきの……ちょっと、待てよ! くるりー!!」 「はぁ、はぁ……!」 「くるり!!!」 何度名前を呼んでもくるりは振り返ってくれない。 ただ必死に走って俺から逃げようとしていた。 決して足が速い方じゃないはずのくるりだけれど、必死に。 息が切れる。苦しいし、それだけじゃなくって、胸が痛いし、こっちが逃げ出したい。 でも、くるりの言葉で真実が聞きたい。 俺をちゃんと見つめた状態で。 お互いに向き合って、くるりの本当の気持ちを話して欲しい。 だから、痛くても、苦しくても走って、くるりに追い付かないといけないんだ。 「あ……!」 追いかけ続けると、展示ブースの前までやって来た。 くるりは、その中に入って行く。 「くるり!!!」 「……!!!」 「くるり、どうしてだよ!」 展示ブースに入ると、マシンの前にくるりが座っていた。 俺の姿を見たくるりの目には、ぼろぼろと泣いた跡。 なんで……泣いて…? 「……く、くるり、あの…」 「……ぃやぁぁっ!! あっち行って!!」 半ば悲鳴のような声をあげて、くるりが後ずさる。 あまりにも悲壮な様子に俺の足が止まった。 思考も止まる。 くるりは手にしていたコードを慌てた様子で置いてあったマシンに繋げ、震える手つきでコントロールパネルを操作する。 「……うっ…うっ……ひっく、ひっく…」 「え……?」 どうして、今そんな事をするのか? どうして? そんな疑問を抱いたまま、しかし、動けない。 「……うぅぅっ!」 そんな俺を放って、くるりは何も言わずにマシンの中に入り込む。 「く、くるり…?」 この機械――くるりが失敗作だと不満そうにしていたものだ。 どうして、そんなものの中に……?? なんだ、この……こみあげてくる不安な気持ちは。 「くるりーっ!」 くるりの飛び込んだマシンが大きな音を立てた。 そして、大きく光る。 「…っ!!」 耳を塞ぎたくなるほどの大きな音。 目を閉じてしまいたくなるほどのまぶしい光。 けれど、どちらもしなかった。 くるりの事が心配で、どちらもできなかった。 「くるり! くるり!!」 名前を叫ぶ。 大きく響き渡る音のせいで、その声が届いているかわからない。 今すぐこの機械の扉をぶち破りたい気分にかられて、手を伸ばす。 「……あ、熱っ!!」 マシンは信じられないほどの熱を持っていて、とても触れられる状態じゃない。 「くるり……」 なんで突然、こんな機械を動かしたんだ? しばらくの轟音。そして光。 それが止まると同時に、マシンの動きも止まっていた。 どのくらい、それが動いていたのかはわからない。 けれど、それはきっと、ほんの数分……。 いや、数秒だったかもしれない。 「くるり……」 マシンは止まった。 でも、扉は開かない。 くるりは……? ゆっくりと近付いて、マシンの前に座り込む。 中は全く見えない。 どうなっているのか、扉を開いてみないとわからない。 俺が…扉を開けるべきなのか? 「くるり……」 扉を開いたマシンの中。 一目でわかる。そこには誰もいなかった。 「え……」 足元に奇妙な違和感。 慌ててそちらを見ると、さらさらとした砂がこぼれていた。 じっとその砂を見つめる。 真っ白できれいな、キラキラと光る砂だった。 そっとすくい上げると、さらさらと手のひらから零れ落ちた。 指先のほんの少しの隙間からも落ちて行くほど、細かくてきれいな白い砂。 その砂は、マシンの中から落ちてきていた。 「……あ」 マシンの中に目を向けると、砂に紛れて何か別の白いものが見えた。 「…………」 その白いものを取ろうとした。 けれど、それは指先でつまみ上げ、持ち上げようとした瞬間に崩れて白い砂に変わってしまった。 「……」 これ……何だ…? 何が、起こってる? 「………くるり」 目の前で白い砂がきらきらと輝いている。 それは、とてもとてもきれいな砂だった。 さらさらと手のひらの隙間から零れ落ちるほど細かい、きれいな白い砂。 白い、砂―――。 『失敗』 『使った演算が安定してない証拠。だから、3回に1回は失敗して、こうなる』 『この砂みたいな物は、過去に飛び損ねたりんごが別の物質になったもの』 『失敗作なので、くるりんはあまり説明したくないのですよ』 『これを体験させたら大変な事になる』 「………」 零れ落ちる砂を見つめる。 光をはらんで、一粒一粒がきらきらと輝いていた。 夕日に照らされて、やわらかなピンクをその中に宿していた。 「……くるり」 くるりは、今、どこにもいない。 このマシンに入った後、いなくなった……。 「くるり……」 くるりは? くるりは、どこにいったんだ? 「………」 俺はゆっくり視線を落とし、手のひらの上に残った砂粒を見つめた。 「違う……」 砂粒はきらきら輝いていた。 「ちがう……!」 きれいだった。 まるで希少な宝石のように、美しく光を飲み込んでいた。 「……くるり!!!」 音がする。 なんだろう、この音は。 ざあざあと、砂嵐のような音だった。 次第にその音は大きくなって、俺を包み込んだ。 大きな音のうねりの中で、俺はようやく気がついた。 ――これは俺の中に流れてる血の音だ。 今にも飛び出しそうなほど強く脈打つ鼓動。 全身をかけめぐる血流の音。 なのに。 俺の手は血が通ってないように、冷たく、ほんの少しも動かなかった。 「くるり! くるり!!!」 どこかにいるはずだ! くるりはこの中のどこかにいるはずだ! 絶対にここにいる。 ここにいなきゃいけないんだ! いないはずなんかない!!! 「くるり! どこだよ、くるり!!」 置いてある荷物の隙間を覗き込む。 展示してある物をどかしてみる。 小さなくるりだったら、そんな場所にいてもおかしくないはずだ。 絶対にここのどこかにいるはずだ。 この部屋の中にいるはずなんだ!! 「いるんだろ。くるり! なあ、くるり!!!」 聞こえない。 名前を呼んでも、くるりの声が聞こえない。 こんなに呼んでも、叫んでも、くるりは答えない。 どうして……? 「くるり……!」 名前を呼んだ瞬間、頬に何かが流れた。 それを手の甲で拭うと、手の甲が濡れた。 なんだよ、これ。 「……くるり! くるり……」 拭っても、拭っても、流れるものが止まらない。 なんで、こんな事になってるんだ。 「くるり……!」 止まらない。 頬を流れるものが、止まらない。 「くるり……」 あふれ出す。 くるりの名前を呼ぶと、もっとあふれ出す。 「……っ…うっ…!」 泣いてる場合じゃないんだ。 探さなきゃ。 どこかに行ってしまったくるりを探さなきゃあ……。 いくら探しても、くるりは部屋のどこにもいなかった。 どこか、他の場所に行ったんだろうか……。 これだけ探してもいないんなら、他の場所にいるのかも…。 「探さなくちゃ……」 くるりを……。 どうしていいかわからなくて、呆然と廊下に出た。 どこを探したら…いいんだろう。 「……葛木さん」 「すずの……?」 こんなに遅くなったのに、結衣と一緒じゃなかったのか。 「……どうしたんだ? 迷子?」 「違います」 「結衣は? 一緒じゃなかったのか……?」 「葛木さん、聞いてください」 「すずの……?」 じっと、すずのを見つめる。 その表情はいつもと違っていた。 いつもの、何かに不安そうにしているような、怯えているような表情じゃない。 「大事なお話があるんです。一緒に来てください」 すずのが、俺の腕を引く。 その手つきに、いつもの弱々しさは全く感じられなかった。 しっかりと腕を掴み、俺を引いて歩き出そうとする。 「だめだよ……」 「だめです。来てください」 「俺……他の用事があるんだ…大事な…」 「来てください、葛木さん」 「待ってるんだ、くるりが。すずの……」 「………」 探しに行かなくちゃいけない。 くるりを見つけなくちゃいけないのに。 体に力が入らない。 すずのの力にすら抵抗できなかった。 「すずの……どこに行くの?」 「葛木さん……」 腕を引くすずのが階段を上りながら、俺を振り向く。 少しだけ悲しそうな表情。 「葛木さん、泣いていたんですか?」 「泣いてないよ……くるりを、探してて…」 「……くるりさんを?」 「………」 「葛木さん」 「いないんだ……どこにも、いないんだ……っ」 泣いてない、と答えたはずなのに。 くるりの名を呼ぶと、また涙が零れ落ちて行った。 「どうして?」 「い……いなくなったんだ…っ。失敗作のマシンに飛び込んで、そのマシンが動き出して……」 「……」 「マシンが止まったって思ったら、くるりは出て来なくて……扉を…」 俺の言葉と同時に、すずのが屋上への扉を開けた。 「………なんで、屋上に…?」 「扉、開けたんですか?」 「…………開けた…」 「そしたら、中のくるりはいなくなってて……代わりに、白い、きれいな砂が……」 頭の中で、さらさらと白い砂が零れ落ちる音が聞こえた気がした。 白い白い、きれいな細かな砂。 マシンの中には、それだけが……。 その、白い砂は―――。 「……うっ…ぅぅ…っ!」 体がぶるぶると震える。 叫び出してしまいそうになる。 「―――やり直したいですか?」 「え……」 震える体を必死で押さえていると、すずのが真剣な表情をして俺を見つめて言った。 「もう一度、今日の朝からやり直したいですか?」 「やり直したい……? 朝から…?」 「ええ、やり直したいですか?」 「や…やり直したいよ! 当たり前だろ! できるなら、それができるなら…っ!!」 「それなら、一度だけ……たった一度だけ、やり直せます」 「すずの……?」 「これは奇跡でもなんでもなくて、ただの幸運な偶然にすぎません」 「何を、言ってるの?」 「だから、本当に、たった一度だけですよ」 すずのの小さな手が、そっと俺の手を握る。 小さな小さな手。 けれど、その手が何故だかとても大きく感じられた。 まるで、包み込まれているような。 「すずの……?」 「え!?」 ぐいっと強く、すずのが俺の手を引いた。 瞬間、驚くほどの強さで体がすずのに近付く。 すずののどこに、そんな力があるんだろうなんて、そんな事を考えられる余裕もなかった。 ただ、信じられないほどの強さで手を引かれ、そして――― 「うわあああああああぁぁぁぁあぁ?!!!」 気が付くと、俺の体はすずのと共に屋上から浮き上がり、飛び上がっていた。 宙に舞った体がそのまま高く高く昇っていく。 どこまで飛ぶのか? どうして自分が飛んでいるのか? 何もかもわからない、わからない!! 「一度だけですよ」 耳元で聞こえた気がした、すずのの声。 その声が聞こえると同時に、真っ直ぐに空に向かっていた体が重力に引かれる。 「ぅわ………」 宙を舞った体が、落ちて行く。 高い高い場所から、俺の体が、真っ直ぐに地面へと…… 落ちて行く! 「わああああああああぁぁああぁぁ…!!!」 繚蘭祭はいよいよ明日に迫っていた。 一応、初日は内部公開日で外部からの来客とかがないらしいから、少しは気が楽なんだけど。 とは言っても、もちろん明日までに準備は全て終わらせておかないといけない事になっている。 生徒会もその最後の準備中だ。 よくわからない謎の機械を橋まで運んできた俺は、ぐみちゃんが機械にパソコンらしきものを繋げて作業をしているのをじっと見守っている。 生徒会長を含め、残りのメンバーも同じく。 まあ、全員で最後の確認ってとこなのかな。 すずのは朝になると、結衣と一緒に繚蘭会の業務の手伝いをする、と言って部屋に戻っていった。 今頃は結衣と一緒にこっそり飾り付けの手伝いなんかをしているはずだ。 なんて、考え事をしていると、突然カタカタと響いた音で我に返る。 「あれって、何やってるんですか?」 「あぁ。明日の花火の準備だよ」 「花火……」 そういえば、初めてここに来た時も花火がどうとかって……。 随分前のような気がするけど、実際はそうでもないんだよなあ。 「パーっと派手なのをあげるために色々とね!」 「九条にも協力を頼んでな」 「じゃあ、もしかしてかなり凝った作りなんですか」 「ええ。花火を制御するために、ぐみちゃんの専用のプログラムが搭載してあるのよ」 「へえ」 「そのために、装置も独特みたい」 「なるほど」 「くるりんは何をやらせてもすごいのですよー!」 キーボードを打ちながら、ぐみちゃんが嬉しそうに言う。 友達の自慢はいつまでもつきないってとこだろう。 「でも、プログラムって、花火になんで?」 「まずー、このプログラムに打ち上げたい花火の形を設定するんです」 「それは、好きな形でいいの?」 「はい! その設定をすると、その通りの花火が打ち上がるのです」 「へえええ」 「くるりんはすごいのですー。これはちゃんとプログラム通りに花火を打ち上げるメカなのです!」 確かにそれはすごい。頼まれたからってそれを実際に作っちゃうのはすごいなあ。 しかし、危なくないんだろうか。 花火って結構危険というか……爆発するとどうなるか、身をもって知ったからなあ、俺。 ………。 というか、ああこれ! どこかで見たと思ったら、初めてこの学園に来た日、俺が爆発させた機械じゃないか! そうか、もしかして、繚蘭祭用に作り直したのか……。 「これ、安全面とか気になるんですけど」 「………」 あれ。なに、この沈黙。 「あはははー! 大丈夫なんじゃないのー! 今回は!」 「今回はって何?!」 「そうだな。最も大丈夫じゃない人間を監視しておけば、大丈夫だろう」 「そうそう! 監視しておけば大丈夫!」 「いや、あのそれ……」 間違いなく、今この場にいる人というか……。 生徒会長なんじゃないですかって言いたいんだけど、自覚がなさそうだから口にしてもいいものかどうか。 「なに?」 「いえ、なんでもないです」 「いろいろと大変でしょうね…」 「そうですね……」 自覚がないのが一番大変という事か。 生徒会ってやっぱりいろいろ大変だな。……主に会長の世話が。 前からわかってたけど、再確認した気がする。 「……ってそうではなくて!」 「わわ、何ですかしょーくんさん?」 「いやその、その機械、どれだか忘れたけど、ボタンを押したら爆発とかしないの?」 「おぉ〜! よくご存知ですね! 自爆ボタンのことなら大丈夫ですよ!」 「じ、自爆ボタン!?」 「はい。危ないのでちゃんとカバーをつけてもらいました」 ああ、そうか……。 あの時、俺が押したあのボタンは、自爆ボタンだったのか……。 それで危ないから、カバーをつけてもらったんだな。 確かにものすごく危ない。 うっかり押したら爆発するんだもん。 ものすごく納得いった。 「……ぐみちゃん、質問してもいい?」 「なんですか?」 「そもそも、なんで自爆ボタンがついてるの?」 「不審者対策、非常用など色々理由あるけど、基本的には美学のため」 「はい?」 「って、くるりんが言ってました」 「そう……ですか」 「はい! 美学かっこいーですよねー!」 元気に頷いたぐみちゃんはまた機械とにらめっこを始めた。 自爆ボタンの美学とやらはわからないけど……まあ、いいか…カバーあるんなら…。 「あ、そうだ。会長」 「はいはーい。なにー?」 「結局、あの時俺に押し付けたものって何だったんですか?」 「なに? あの時って」 「俺に初めて会った時」 「しょーくんに初めて会った時って、垂れ幕で大歓迎した時の事? 何も渡してないよ?」 「違う…。その前に、橋の近くで茂みから突然出てきて! 勇者よデータを守ってくれーとか言った時の事」 「……なにそれ?」 「……いや、なにそれって…本気で言ってる…?」 「う、うん。覚えないなあ……だって、俺しょーくんに会ったの、垂れ幕の時が初めてだし」 「そんなわけないって。俺はあの時天音に追われてる会長にUSBメモリっぽいものを渡されて、これを橋の機械につっこんでって言われて…」 「うーん……。まあ俺が必死で考えた素敵な花火のデータをプログラムに混ぜたのが天音たちにバレて追いかけられたのは間違いない」 「仕方ないから、直接こっそり設定をしに行こうとしたのも間違いない」 「ほら、ほらー!」 「でも俺、そのときしょーくんに会った覚えはないよ?」 「え……」 今でもはっきりと思い出せる。 俺は確かにあの時、会長にデータと変な手紙を押し付けられて……。 「あの時、俺たちがどれだけ大変な思いをしたか……」 「もう……皇くんが無事だったのだから、その話はもういいじゃない」 「まさか自爆ボタンを押しちゃうとは思わなかったんだよー」 「は?!」 なんで、そういう事になってるんだ? 俺は確かにあの時、自分でボタンを押した。 だから爆発して、吹っ飛ばされて……。 「どうしたの、しょーくん」 「あ…いや…。あの、会長が、爆発させたの? 花火のマシン」 「あー。ちょこっとボタン押し間違えただけなのに、かなり爆発したから、ビックリしたビックリした!」 「だから、それは誰のせいだと……」 「本当に、よく見張っておかないといけないわね」 「え? それ俺の話なの!?」 「他に誰がいると言うんだ」 「……」 あの機械、俺が押して爆発させたんじゃなかったのか?? これ、俺の記憶違いなのか……? もしかして、爆発に巻き込まれたから色々混乱してるんだろうか。 わからないけど……。 そう考えるのが、この状況だと妥当なのかもしれない。 「あのー。しょーくんさん」 「え? あ、はい!」 しばらく考えて込んでいると、一通りの設定が終わったらしく、ぐみちゃんがいつの間にか目の前にいた。 「ぐみ、ひとつ気になる事があるのです。いいですか?」 「どうしたの?」 「本当はこれ、くるりんが自分で取り付ける予定だったのです」 「え!」 そ、そうだったのか? 昨日、全然そんな話聞いてなかった……。 まあ、あの後そのままぐっすり寝ちゃったからなあ。 「いつもなら、自分で用意した物は、最後まで自分でやるって言いますから」 「ああ、なんかそうだね。そんな感じだね」 「はい。でも時間になってもくるりん来なかったのですよね」 「そ、そう……」 「連絡してみたら、熱があるって言ってたから心配なのです…」 「……」 言えない。 前の日に俺とエッチなことしてたからとか、そんな事は言えない……。 「しょーくんさんはくるりんの様子知らないですか?」 「え! えーっとですね……」 「明日、元気になってくれるといいですけど」 「そ、そうだね。本番だしね」 「はい。今までこんな事なかったのになあ……」 そ、そんなにか! くるりが来ないという事は、そんなに重大な事なのか! ……なんかこう、いろいろ恥ずかしいような、どうしたらいいのかわからないような。 「心配です」 「あ、明日はきっと大丈夫だって! うん」 「はい」 今日一日ゆっくり休めば、明日は大丈夫だろう。 完成したタイムマシンの展示もあるし、俺も一緒だし。 一緒だから余計に大丈夫か、若干の不安はあるんだけど。 明日が楽しみなような、怖いような……。 でも、もう明日なんだよな。 今日の夜はしっかりご飯食べて、きちんと備えよう。 くるりにも早く寝ろって言っておかなきゃな。 いろいろと考え込んでいる間に、一通りの設定が終わったらしくぐみちゃんが腰をあげた。 「ふー! これで終わりです!」 「おおー! ぐみちゃん、ごくろう!!」 「はいです! 任務完了なのですー!」 「お疲れ様」 「これで明日を待つのみだな」 「はい!」 機械の設定を終えたぐみちゃんがみんなに褒められている。 なんだか実に満足な、誇らしげな感じだ。 「あの、そういえば九条は? 今更だけど、立ち会ってもらわなくていいの?」 「くるりんは昨日、徹夜で繚蘭祭展示用のマシンを完成させたばかりなのです」 「そうなんだ」 「はい。だから、今はぐーっすり眠ってると思います」 「だからぐみちゃんが色々やってたんだね」 「はいー! 一通りのやり方は聞いてきましたからねー!」 「明日はいよいよ繚蘭祭当日だよー。みんなでがんばろー!!!」 「はいですー!!」 「ぐみちゃん、こういう時はオー! と声に出すのだよ」 「おー!!」 「……」 「はいはい、しょーくんもー。ほたるちゃんも、茉百合ちゃんもみんなでー!」 「おー!」 「……」 「……」 「……」 「あ、あれ?」 「それでは、残りの作業のために生徒会室に戻ろうか」 「あのー。ちょっとー」 「晶くんも戻りましょう」 「あ、はい」 「待ってー。置いていかないでー!」 「待ってくださいですー!」 明日は本当に大丈夫なんだろうかと思わなくもないけど……。 まあ、会長さえ何もしなければ大丈夫なんだろうな。 いよいよ繚蘭祭がはじまるのか。 こっそりすずのと、色々な展示を回ったりはできないだろうか。 結衣が協力してくれば出来るかもしれない。 そんな事を考えていると、さっき会長との会話で感じた違和感はいつのまにかどこかに消えてしまっていた。 結局、いろいろな意見が出たものの話はあまりまとまらなかった。 だからとりあえず、先にできる作業をやろうという事で落ち着いた。 みんなは出展予定の教室をそれぞれチェックしに。 俺は、書類整理を頼まれた。 作業の内容は単純。 ダンボールいっぱいに入っている昔の書類を、それぞれファイルに挟んだり、順番を整理したり。 「むう……」 「繚蘭会の仕事って大変なんだなあ……」 作業自体は単純なものだけど、ダンボールいっぱいの書類整理は結構大変だ。 おまけに順番がちゃんと揃っていないものが結構ある。 これを並べ替えるだけでもかなりの手間だ。 ま、でも、せっかくの仕事だし。しっかりこなさないとな。 「ん?」 書類整理を続けていると、ゆっくりと扉が開いた。 扉の方を見てみると、こそこそとすずのが入って来る姿が見えた。 「あ、あの」 「あ、すずの。どうしたの?」 「お片づけ……?」 「うん。書類整理頼まれたんだ」 「わたしも手伝っていいですか? することないので……」 「ホントに? 助かる」 「はい」 こくこくとうなずいたすずのが、俺の隣に並んでくれた。 じゃあ、とお願いして、書類整理をふたりで始める。 さすがに、量が多くても作業が単純なので、人数が増えると順調に片付けが続けられる。 すずのが来てくれて助かった。 しばらく、ふたりでそうやって書類整理をしていたけど……。 一瞬、ちらりとすずのを見てしまった。 真剣な表情。 その表情を見た途端、昨日の風呂場での事を思い出してしまった。 こ、こんな時に何考えてるんだ俺。 「晶さん?」 「い、いや! なんでもない」 「はい」 慌てて目をそらしてから、またちらりとすずのを見る。 すると、すずのも俺を見て……少し考えてから話し出した。 「あの、昨日はありがとうございました」 「え? 昨日……」 「お風呂、一緒に入ってくれたから」 「あ……は、はい」 今、まさにその事を考えていたのに! 必死に忘れようとしてたのに! どうして、見透かしたようにその話をするんだすずの! 「とっても安心できました」 「そ、そっか」 ああ、これはやっぱり……。 俺は男として意識されていないのかも。 俺はすずのの事、女の子として意識してるのになあ。 なんか、俺だけ一方的に色々ぐるぐる考えちゃって、ちょっと恥ずかしい感じじゃないんだろうか。 いや、恥ずかしいっていうか……むしろ悲しいかも。 「晶さん、どうかしたんですか?」 「え? えーと、な、何がかな」 「だって、なんだか……」 「わからないけど、でもなんだか」 「……」 もしかして、俺が色々ぐるぐる考えていたのが伝わってしまって、すずのなりに心配してくれてるのかな。 別にすずののせいじゃないし、気にしなくて大丈夫なのに。 「別に何も心配することないよ。大丈夫だよ」 「はい…」 「でも」 「あのさ、すずのはさ」 「はい?」 「お、俺と一緒に風呂とか入って、何とも思わなかった?」 「え……? どうして?」 「い、いや、だって俺は男だし、一緒に入るとかってそういうのはどうなのかなあって」 何言ってるんだろう。 こんな事聞いたら、俺が意識してるって言ってるようなもんじゃないか。 すずのはなんともなかったみたいなのに、ひとりでこんな風に考えて。 おまけに何とも思わなかったかなんて聞いて、すずのはどう思ったんだろう。 「あ、あの、嫌じゃなかったですよ! い、嫌じゃないです、楽しかったですよ」 「え? あ、ああ、そ、そう?」 「はい! 一緒だったから、あの」 なんか、この慌てようは……。 もしかして、何か勘違いされてる? 俺が、すずのと入るのが嫌だったんじゃないかとか、そんな風に思われてるような気が……。 「あー、いや、そうじゃなくてね。いえ、嫌じゃなかったのは嬉しいんだけど、そういうんじゃなくて」 「はい?」 「あの、俺も男の子なわけです」 「はい」 「いえ、だから……男の子なわけですから、女の子と一緒にお風呂……とか入ると、その、気まずいなーとか恥ずかしいなーとか」 「……?」 「つまり、昨日はすずのと一緒のお風呂でドキドキしたというわけです……」 「それでなんだか今日落ち着かない、と。それだけ!」 恥ずかしい。 なんだって、こんな事を自らの口で説明を!! いや、でも言わないとすずのが不安そうだったし。 ……でも、説明してもすずのはきょとんとしてるな。 ちゃんと、わかってるのかな。 「あの、すずの。わかった?」 「えっと……」 「もしかして、そういうの考えた事なかった?」 「その、男の子だとか女の子だとか…」 そうだとしたら、ちょっとショックだよな。 俺、やっぱり男として意識されてなかったって事だ。 仮定じゃなくて、確定だと結構辛いかも。 「そうではなくて、えっと」 「うん」 「だって……私、幽霊で…。女の子じゃないと思うので」 「え」 「だから、あの、ドキドキすることはないと思うのです」 「あ、いや……」 そうか。ようやくかみ合わない理由がはっきりした。 すずのはずっと、自分のことをそんな風に思ってたんだ。 だから昨日、一緒にお風呂入っても平気だったし、今こうして俺が話をしてもきょとんとしてたんだ。 なんか、ちょっと納得した。 そういう意味では、俺たちずれていたのかもしれない。 「何も変わらないよ」 「え?」 「俺から見れば、すずのは普通の女の子と何も変わらないんだよ」 「でも……」 「こうやって話もできるし、片付けも手伝ってくれるし……だから、俺は昨日、ドキドキしたよ?」 「……あ」 「晶さん……」 あ、あれ、なんかちょっと……すずのの表情変わった? ちょっと恥ずかしそうな感じが…って、今になって意識しちゃったとか、なのかな。 う、うわ。なんか恥ずかしいなあ。 すずのもちょっと目をそらしたりしてるし、どうしたらいいんだろう。 でも、黙ってるとヘンだよな。 なんか言った方がいいのかな。 でも、どうしよう! さあここで何を言うべきなのか! 「ただいまー」 「ただいま戻りました!」 「あ、あ! お、おかえり」 「は、はう! あううう」 どうすればいいだろうと思っていると、出展予定の教室を見に行っていたみんなが戻って来た。 すずのは慌てて部屋の隅っこに移動している。 そちらをそっと見てみると、不安そうにこっちを見ていた。 「あら、まだ少しお片づけ残ってる? お手伝いしましょうか?」 「もうちょっとだから、大丈夫だよ」 「はい」 「あら、みんなも戻っていたのね」 すずのを気にしながら話をしていると、茉百合さんも戻って来た。 部屋の中が一気に賑やかになって、すずのはじっとこっちを見ている。やっぱり気になるのかな。 「うん。作業の目処が立ったから」 「ふふふ。こちらもよ」 「こっちも何とかなりそうです」 「うん!」 「じゃあ、順調に作業ができそうね」 「はい!」 どこも作業は順調に進んでいるみたいだ。 まあ、茉百合さんや天音がついてるんだから、要領はいいんだろうけど。 こっちもすずのが手伝ってくれたからもう少しで終わるし、今日は早く帰れるかもしれない。 「そうだ、まゆちゃん」 「どうしたの?」 「明日はお休みよね?」 「ええ、そうね」 「これから忙しくなるから、その前にお買い物とかに行かない?」 「あ、そうね。準備が始まると、それどころじゃなくなるもんね」 「ええ」 「あー。そうだね、お買い物したり、美味しい物食べたり!」 「結衣は美味しい物の方が大事そうよね」 「うん!」 「あ、否定はしないんだ」 「ふふふふ」 なんか、こう……。 意識してるわけじゃないんだけど、ここで片付けをしていると自然にみんなの会話が聞こえて来るな。 ちょっとだけ、聞いてていいんだろうかと思ってしまう。 「そうね、悪くはないわね。今のうちに羽を伸ばしておきたいし」 「え、じゃあ!」 「ええ、出かけましょうか」 「うん」 あー。明日は、茉百合さんと桜子は出かけるんだな。 ふたりで一緒って、本当に仲良しだなあ。 聞こえて来る声を耳にしながら、ぼんやり片づけている間に、書類整理は終わっていた。 空になったダンボールや、書類を挟んだファイルを片付けながら、すずのを見てみる。 まだ部屋の隅っこにいるけど、おとなしくしてるみたいだ。 「そうだわ、桜子」 「なあに?」 「せっかくだから、みんなで行くというのはどうかしら。前からやりたいって言っていたじゃない?」 「わあ! すてき」 「天音ちゃんも、結衣ちゃんも一緒にどう?」 「いいんですか?」 「え……!」 「一緒に行きましょう。きっと楽しいわ」 女の子みんなで買い物か。 仲のいい子同士だとそういうのあるんだな。 ……ん? なんか、結衣がちらちらこっち見てるな。 いや、俺じゃない。あれは、すずのを見てるんだ。 あ、そうか。 すずのはいつも結衣と一緒にいるから、結衣が出掛けるとひとりになっちゃうんだ。 それでちょっと困ってるのかも。 「結衣も行くよね?」 「わたしは、えっとぉ……」 困った様子の結衣が、俺に視線を向けた。 その目は『すずのちゃん、どうしよう』と言っているようだった。 そんなに気にしなくても、俺とマックスもいるから大丈夫なのに。 気にしなくても大丈夫だと伝えるように、結衣にひらひらと手を振り、すずのを見た。 すると、すずのも何が言いたいのかわかったらしく、こくこくと頷いている。 俺とすずのを見て、結衣はどういう事かわかったらしい。 安心したような表情を浮かべてから天音たちを見つめる。 「あ、あの。じゃあ、行く」 「よかった! みんなでお買い物なんて初めてです!」 「そっか。それで誘ってくれたんだね」 「はい」 「じゃ、明日はいっぱい楽しもう」 「ええ、そうね」 「とっても楽しみになってきました」 女の子達は明日はみんなで楽しんでくるみたいだな。 準備が始まったらゆっくりできないのは間違いないみたいだし、買い物に行くのも悪くない。 俺も明日は、ゆっくり過ごそうかな。 すずのもひとりになっちゃうし、ふたりで適当にのんびりできたらいいか。 「ん……」 布団のあたたかな感触。 まだもう少しだけ、心地よいまどろみの中で過ごしていたい。 今日は確か、休日だったはずだ……。 だからけたたましいアラームも鳴らないし、俺はいつまでもここで寝過ごしてていいはず…。 「……」 俺の大声に驚いたのか、すずのは小さく悲鳴をあげるとベッドの横に転がり落ちていった。 「はううう…」 一気に眠気はどこかに飛んでいってしまった。 俺は慌てて起き上がり、すずのの手を取って立ち上がらせる。 「だ、大丈夫か? すずの」 「は、はいー」 「ご、ごめん。いるとは思わなかったから」 「す、すいません」 すずのをソファに座らせ、そっと部屋を見回してみる。 ここ、俺の部屋だよな? 寝ている間にすずのと結衣の部屋に入っちゃったなんてことはないよな。 ああうん。よかった。俺の部屋だ。 ほっと胸をなでおろしてから、すずのに尋ねた。 「……どうしたの?」 「あ、あの、結衣さんがみんなと買い物に行かれたんです」 「……あっ」 「それで、晶さんのところに来たんです。でも、晶さんは寝てたし、マックスさんはもういなかったし……」 「それで、どうすればいいのかなって思って、じっと見てたのです」 そうだ、俺何を寝ぼけてたんだろう。 確か昨日、結衣は天音や桜子たちと買い物に行くって、そんな話をしていたじゃないか! だから結衣の代わりに、俺がすずのと一緒に一日過ごそうって思っていたのに。 「やっちまった……」 すずのは一人で部屋に入ってきたはず。 だけど俺はぐうぐうと寝てしまってた……。 きっとすずのはどうしていいかわからず、ずーっとそこにいたんだろう。 「ご、ごめん気が回らなくて…」 「いえあのっ…私こそ、勝手に入ってしまって」 「そういえば、マックスさんは、どうしていないんですか?」 「マックスは、毎朝limelightに行ってるんだよ。あいつ、パティシエとしてケーキ作ってるから」 「すごいですねえ」 「まあ、とりあえずは朝ご飯かなあ……」 「はい」 「ちょっと待ってて、着替えるから」 「は、はわわわ! そ、外出てます」 何気なく時計を見てみると、もうお昼と言ってもいい時間だった。 うわぁ。俺、どれだけ寝てたんだ。 すずのには悪い事をしてしまった……。 ずっと俺の横で、俺を見ながら待っていたのかな。 「………」 よく考えたら、だ。 すずのが俺の寝顔をずーっと見ていたのかと思うと、なんだか無性に照れてきた。 俺、よだれなんて垂らしたりしなかっただろうな。 ごしごしと口元を拭いてみるが、今更やっても手遅れだった。 「お待たせ」 「はい」 寮の中は、いつもと違って静まり返っていた。 何というか、人のいる気配がない。 天音も桜子も、結衣もみんな出かけているから当たり前といえば当たり前なんだろうが。 そういえば九条はどうしたのかな? 一緒に行ったのだろうか。 ここのところ九条とはほとんど別行動だったので、よくわからないけど…。 「とりあえず、談話室に行ってみようか」 「はい」 すずのはこくこくと頷いた。 談話室にも、やはり人の姿はなかった。 やっぱり、九条も一緒に買い物に行ったのだろう。 「今日、ほとんど誰もいないみたいだな」 「確かに、どこか寂しい感じかも…」 「うん。だから、安心してふたりでご飯食べられるよ。すずのは朝ごはん食べた?」 ふるふるふる。 「じゃあ俺と一緒に食べようか」 こくこくこく。 頷いた後に、嬉しそうな笑顔を見せるすずの。 そんな反応をされて、舞い上がらない男はいないと思う。 俺は照れ隠しをするように、すずのを椅子に座らせると調理場に向かった。 「何か探すか作るかするから、すずのは待ってて」 「はい」 調理場には運よく材料がいろいろと揃っていたので、俺はちゃんとした朝食を用意することが出来た。 オムレツにハムをのせたトースト。それからマカロニの入ったサラダ。 俺が次々とテーブルの上にお皿を乗せると、すずのは感心したように見入っていた。 「適当に作っちゃったけど、嫌いな食べ物とかない? 大丈夫かな」 「大丈夫です。なんでも食べます」 「そっか。じゃあ、良かった。いっぱい食べよう」 「あのあの、晶さんと同じ量はちょっと……」 「あ、そうだった。ごめんごめん。結衣とは違うよな。じゃあ、食べられない分は俺が食べるよ」 「はい」 二人だけの食卓だったけど、俺たちは楽しくご飯を食べることができた。 すずのとは、いつもはこんなおおっぴらにテーブルについて食事が出来ないから。 そういえば、すずのはこの談話室の椅子に座るのも初めてかもしれない。 みんながいるときは、部屋の隅っこでおとなしくしているもんな。 そう思うと、誰もいない寮というのも心地よい。 「ごちそうさまでした」 「ごちそうさまでした」 「じゃあ、食器片付けるから」 空になったお皿を、二、三枚重ねて持ちあげると、すずのが慌てたように椅子から立ち上がった。 「あ、あの。お手伝いします」 「そう? 座っててくれてもいいよ、こういうの慣れてるし」 「でも、ご飯も作ってもらったから」 「そっか。じゃあ、残りのお皿運んでくれる?」 「はいっ」 頷くすずのを後に、俺は炊事場までお皿を持っていく。 テーブルには、まだ大きなサラダボウルもある。 手伝ってもらえるとは言えもう一往復はしないとだめだろう。 「ん?」 談話室に戻ると、すずのはテーブルの上でなにやら格闘していた。 「すずの? 一体何してるの……?」 残った全てのお皿を一枚ずつ積み上げて、さらにサラダボウルの上に乗せる。 フォークと、バターナイフをその上に。 「ん……ゆっくり……」 俺は目を疑った。 ぐらぐらと揺れるサラダボウルや皿を、すずのは一度に持ち上げようとしたのだ。 「え?! いや、全部いっぺんに運ばなくても…!!」 「ふえっ?!」 「だ、だいじょう……きゃあ!」 「すずの!!!」 案の定、バランスを崩したすずのは、たくさんの食器を持ったまま床にひっくり返った。 ボウルの上に乗っていたお皿が見事に滑り落ちて、大きな音を立てて割れる。 駆け寄ってみると、すずのは申し訳なさそうに起き上がった。 よかった、見た限りはなんともなさそうだ。 「大丈夫か?」 「だ、大丈夫です。でも、お皿……」 「うん、すずのが大丈夫だったらいい」 「ご、ごめんなさい」 「誰もいないんだし、こっそり片付けておけばバレないよ」 「はい…あの、お片付けします」 すずのは申し訳なさそうに目を伏せて、床にひざまずいた。 床に散らばった破片を拾い集めるためだろう。 俺も一緒になって、破片を集めた。 ……すずのが怪我をしなくてよかった。 お皿、全部運ばなくていいって言えばよかった。 小さな後悔が胸の中でぐるぐるとまわってしまう。 「っ!」 「え?」 「……あう」 小さな声に振り向いてみると、すずのは右手の指をきゅっと押さえていた。 「あ! 欠片で切っちゃった? やっぱり俺が全部やればよかったかな…ごめんな」 「う、うう…ごめんなさいぃ」 すずのは、まるで自分が片付けの邪魔をしているとでも思ってしまったんだろうか。 怒られた子供みたいに目を潤ませている。 「指、見せてみて」 「へ、平気です。このくらい」 「だめだよ、ちゃんと消毒しないと」 そう言うと、すずのはこくんと頷いて右手を差し出した。 「いいから……ああ、ちょっと深く切れたかな。待ってて、救急箱あったから」 「あ、あの」 戸棚を探してみると、救急箱はすぐに見つかった。 そこから消毒液と絆創膏を持ち出して、すずのの所に戻る。 「手、出して」 「は、はい」 「……」 「………」 消毒液をふきかけると、すずのは一瞬だけ痛そうな顔をした。 ティッシュで軽くぬぐってから、絆創膏を貼り付ける。 すずのは俺の手当てを、じっと食い入るように見つめていた。 「これで、いいかな」 「……」 「このままにしとけば大丈夫だから」 「はい」 返ってきた声は、少しだけ元気がない。 お皿も割ってしまったし、怪我までしてしまった。 ごめんなさい、という声が聞こえてきそうな顔だった。 「……そんな顔しなくてもいいのに」 「私、お役にたてなくて」 「ふふ、すずのはそそっかしいよな」 「はうぅぅ」 「でもな、俺、それを煩わしいなんて思ったことなんてないから」 「晶さん……」 「痛くない?」 「………」 「晶さんは、私を心配してくれるんですね」 「なんで? 当たり前だよ」 「だって、私は幽霊です。普通の女の子とは違うのです」 「心配するのは、おかしいです…」 「んー。でも、すずのは俺にとっては普通の女の子と何も変わらないしなあ……」 「こうやって話ができるし、触れるし……ご飯も一緒に食べられるし」 すずのの小さな手をそっと握ってみる。 ちゃんと温度を感じる、あたたかな手だった。 この手が今はもう、この世界に無い存在だなんて、俺にはとても信じられない。 「ケガをすれば血だって出てるじゃないか」 さっき貼り付けた絆創膏の先はほんの少しだけ赤色になっていた。 ちゃんと血も通ってるって事だ。 それなのに幽霊だなんて、どういうメカニズムなのか俺にはわからないけど。 「……」 「やっぱり、すずのは他の子と変わらない、ひとりの普通の女の子だよ」 すずのの目がまた潤んでゆく。 今にも涙が溢れそうな目で、俺をじっと見ていた。 だけどさっきまでの悲しそうな目じゃない。 嬉しいって気持ちが溢れでてしまいそうな、そんな顔。 こんなことでそんなに喜んでくれるなら、いくらでも言ってあげるのに。 「そんなふうに言われると……」 自分でもびっくりするほど、何かがこみあげてきた。 「俺さ、本当何も特別なことなんて言ってないんだからさ」 この子に、俺は時々悲しそうな顔をさせてしまう。 この子が、時々俺にこんな微笑みを見せてくれる。 「だから」 その続きは言葉にできなかった。 胸の内側に湧いてきた何かがとても恥ずかしくなって、俺は少しだけ視線をそらした。 「でも私、いま、胸がいっぱいで」 「晶さんにお礼がしたいです」 「え、お礼? そんな別に…」 俺の声は聞こえていないようだ。 すずのはあたふたと制服のポケットを探るが、何も出てこない。 その後、思いつめたように俺に向き直った。 「でも、私……あ、あの、えっと、私何も持ってなくてこれくらいしか」 「え……」 ふわっとした、いい香りがした。 そのにおいと一緒に近づいてくるのは、すずのの顔。 え……? なんで? 考える暇もない。 すずのの唇が、俺の頬に辿り着いた。 息が止まる。 あまりの近さと、あまりのやわらかい感触に、俺は動けない。 その間に、すずのは恥ずかしそうに離れていった。 「す、すずの……」 「………」 い、今の、俺、頬にキス…されたんだよな? 確かめるように名を呼んでみると、すずのはしばらく黙った後に――。 「はい…」 と、小さく返事をした。 その顔は、見たことがないくらい赤くなっている。 「……うぅ!」 ―――なんて、可愛いんだろう。 そうだ。いつだってすずのは可愛らしい仕草をしていた。 頼りなく歩く姿とか、すぐにどこかにぶつかってしまうところとか。 でもそれとは違う、可愛いって気持ち。 さっきから、胸の内側に湧いてきた感情の名前をその時知った。 それはとてもわがままで、独占的で、格好悪いもの。 だけど止めることなんてできない気持ちだ。 俺はすずののこと、好きなんだ。 今までの可愛いとは違う。 この子がずっとそばにいてほしいという気持ち。 すずのにキスされて、何かが弾けてしまった。 「……」 きっと言葉をなくした俺を見て、困惑してるんだろう。 すずのはほんの少し不思議そうな顔をして、居心地悪そうにうつむいている。 「えっと、すずの……あの、さ」 「え?」 一瞬の出来事だった。 何か言おうとした俺と、どうしたんだろうと不思議がっていたすずのの距離が近づいた。 そのまま身を引くことだってできただろう。 だけど俺はすずのの頬にそっと手を添えた。 もしかしたらすずのは嫌がるかもしれない。 恥ずかしがって、顔を背けてしまうかも。 「……はう」 けれど、すずのは動かなかった。 俺がどれだけ近づいても、じっと目を見開いて、俺を見つめたまま動かない。 「………」 頬に手を添えたまま、俺はゆっくりと顔を近づけた。 すずのが、一瞬だけぴくっと震える。 淡い色の瞳がまっすぐ俺を映していた。 「すずの」 そのまま息がふれあうほどに、近くになっても、すずのは逃げ出そうとはしない。 ほんの少しの迷いはあった。 俺がすずのを想う気持ちと、すずのが俺を想う気持ちは同じものなのかな。 俺はこのまま――自分の思うままに、すずのに触れていいのかな。 迷ったけれど、止められなかった。 すずのも、顔をそらさなかった。 ついに距離はゼロになって――、唇がふれあった。 やわらかくて、たよりない感触。 わずかに出来た隙間から、お互いの息がこぼれていく。 強く押し付けることなんて出来ない。 ただ、軽く、触れ合わせていただけ。 それなのに……。 それだけなのに、どうしてこんなに、胸が高鳴るんだろう。 特別なことを許されたような、そんな気持ちになってしまうんだろう。 ―――不思議だ。 随分と長い間唇に触れてしまっていた気がして、俺は顔を離した。 すずのは、どうしていいかわからない、といった顔をしていた。 目が合うと、示し合わせたように頬を染めてしまう。 いや、多分俺の顔も今、耳まで赤いんだろう。 「……」 「……」 ああ。でも、まだ離すんじゃなかった。 もう少し触れ合っていたかったのに。 そんな気持ちが表に出てしまったのだろうか。 すずのは恥ずかしげに一瞬だけ、微笑んだ。 もう一度。 すずのは、やはり逃げない。 そして今度は……そっとまぶたを閉じた。 震えているまつげが、すずのの頬に淡い影をおとす。 それは触れたらすぐに消えてしまいそうな何かに思えてしかたなかった。 だから俺は、さっきよりも少しだけ強く唇を押し当てた。 何度も、何度も。 ひいては、当て、何度もついばむように、優しく繰り返す。 何度目かの口付けが終わり、ようやく薄く閉じていた目を開けると、同じタイミングですずのも目を開けた。 しばらく、何も言えずに見つめあってしまう。 「……」 「……うぅ」 すずのは恥ずかしそうだった。 だけど、さっきまで触れていた唇の端は、ちょこんと上がっていて。 確かに微笑んでくれている。 「すずの」 「あ…はい…」 ずっとこうしていたい、思わずそう言ってしまいそうになった。 恥ずかしくて、心臓が驚くほど早く脈打ってる。 きっとすずのも一緒だろう。 もっとキスしたい。もっともっと。 今にも溢れ出そうなその言葉を、俺はぎゅっとのみこんだ。 「――!」 「……!」 開けっ放しのドアの向こうから、足音が聞こえてきた。 すずのは慌てて俺から離れ、壁にぴたっとはりついた。 「……むぅ?」 「く、九条」 「……」 振り返ると、そこにいたのは九条だった。 明らかに寝起きという顔をして、いつものジャージ姿だ。 買い物…行ってると思ってたら…寝てたのか…。 「あ……」 九条は、俺の足元に散らばる皿の欠片を見て、何があったのか察したようだった。 ますます機嫌の悪そうな顔になる。 「ご、ごめん。すぐに片付けるから」 「ちゃんと掃除機もかけておけ」 「はい、わかってます」 「よし」 慌てて割れた皿を拾い集める。 九条はそんな俺の様子を少しの間じっと見ていたが、飲み物を持って部屋から出て行った。 「あのぅ」 「あ、ちょっと待って、そこで待ってて」 壁にはりついたまま、すずのはこくこくした。 ささっと片付けて、掃除機を軽くかける。すべての作業が終わってから、ようやくすずのを呼ぶ。 律儀にずっと壁に添って立っていたすずのは、俺に手招きされてようやく壁から離れた。 「あ、あの……」 「お待たせ。片付けたから、部屋戻ろうか。九条がいるとは思わなかったよ」 「はい」 九条は自分の部屋へ戻ったようだ。 あのまま談話室にいてもよかったかもしれないが、念のため俺とすずのも、部屋へ戻ってきた。 ソファに座ったすずのを、じっと見る。 特に泣きそうとか、傷ついたとか、そんな様子はない…と思う。 「……」 「あ、あの」 俺に見つめられたからか、すずのはちょっと恥ずかしそうにもじもじしていた。 顔がまた赤くなっている。 「すずの、あのね」 「は、はい」 「さっきの、あの……キス、嫌じゃなかった?」 「へ! え、あの……」 「嫌だったら、悪かったなって……その」 「や、やじゃなかったです」 そう言いながら、何度もふるふると首を振った。 「そ、そう…か」 今度はこくこくこくと頷く。 可愛らしい。 そんな様子を見ていたら、またしたくなってきてしまうじゃないか。 「じゃあ、またキスしたい」 「え! ……えっと」 すずのは目をしぱしぱとさせて、驚いていた。 「……て思ったのは、だめかな」 今度は思いっきりぶんぶんと頭を横にふる。 「そっか」 いいってこと、なのか。 それっていいってことなんだよな。 「やった、やったー! 俺、さっきすっごい悪いことしてるのかなって思ったんだ!」 びくん、とすずのが体を震わせて、より大きく頭をふる。 違いますよって声にならないくらいに、大きく。 「あはは、わかった。うん。ありがとう」 「い、いえ。そんな、私は何も……」 「はあーでもさっきは危なかったな。もうちょっとで九条に見つかるとこだった」 「は、はう……」 さっきから真っ赤になりっぱなしだ。 もちろんすごく可愛いので、俺には何の文句もないのだが。 でも、こうやって部屋に閉じこもっていても、すずのは退屈じゃないだろうか。 「すずの、結衣たちみたいにどこかに出かけてみる?」 すずのはすぐさまふるふると首を振った。 「どうして? 退屈しないのか?」 「あまり人の多いところに行くと、晶さんが変な風に見られるから」 「…あぁ。そう、か。そう…かな」 「だから、あの。お部屋でいいです」 「でも、せっかくだしな……」 俺の事を考えて、気を遣ってくれているのがよくわかる。 すずのは優しくて、いい子だ。 どうにかして、結衣たちのように外に出かけられるような方法はないだろうか。 「あ、そうだ」 「はい?」 「ちょっと夜まで待とう」 「夜?」 「うん。夜になったら、一緒に出かけよう」 「は、はい」 「そのために、後でちょっとお昼寝をしようと思う」 すずのは、きょとんとしたまま、こくこくと頷いた。 ああ、俺はすごく可愛くて大事なものを手にすることができたんだ。 それはすごく不思議な、心地よさだった。 ベッドの上で眠るふりをしてからどれくらいたっただろう。 すっかり暗闇に慣れた目で時計を見ると、もう真夜中だった。 「ぐーぐー……ぐぎぎ」 「……」 マックスは相変わらず気持ちよさそうな寝息をたてている。 起こさないように注意しながら、俺はそっと着替えると、上着を持って部屋を出た。 「……あ」 「あ、良かった。寝てたらどうしようかと思ってた」 「ど…どうしてですか?」 「いや、あの、部屋の中に入るのはさすがにダメだろ。結衣もいるんだし…真夜中だし」 「……っ!」 「とりあえず、ここにいるのはダメだな」 「は、はい」 「そうだ……あそこ行けるかな」 「あそこ?」 「うん、ちょっと行ってみたいかも」 「……?」 不思議そうな顔をするすずのの手を引いて、俺はこっそりと寮を出た。 行く先は、学校だ。 「確かこっちから登れたはず……」 「う、ううう、こわこわ」 「きゃ、きゃああ」 「わわわっ!?」 突然の風の音に、すずのは怯えてぎゅっと俺にしがみつく。 「ごご、ごめんなさい」 俺の腕にしがみついている指先が、ふるふると細かく震えていた。 「すずの、大丈夫? ほんと暗いのが怖いんだな」 「こ、こわい、です」 「あ、でも結衣の部屋に来る前はずっと保健室にいたんじゃないの?」 「……うん」 夜の保健室の方がよっぽど怖いような気がするんだけど、どうなんだろう。 おまけにたったひとりだったろうし。 「ほ、保健室はですね、夜でもちょっとだけ電気ついてるんです」 「そうなんだ、それは知らなかった」 「はい。あと、おふとんもありますから」 すずのは、保健室がどんなに良い場所なのかを思い出すように小さく頷いた。 明かりが少しでもついてたら平気なのかな。 「はっ! もしかして暗いのは怖いけど、お化けや幽霊は大丈夫とか」 「む、むりむり、こわっこわいっ!」 ぶんぶんぶん。 すずのは思いっきり頭を左右に振った。 「ゆ、ゆゆーれいとかおばけ、いますか? いるんですか!? ここ」 「いや、いないよ。あははは」 「……??」 「ああ、でもここにいるな」 「え、え、ええええ、こわっ、こわい…」 もう一度、ぎゅうっとしがみついてきたすずの。 かわいいなという気持ちと、ごめんという気持ちが交じり合ってしまう。 「すずののこと」 「へ? な、なんのこと?」 「すずの、自分のこと幽霊って言うだろ」 「……」 「幽霊でも暗いのとかお化けとか怖いんだな」 「あ、あああ当たり前じゃないですかー」 いつもおとなしいすずのも、ここだけは自己主張するんだなあ。 お詫びの気持ちをこめて、俺はすずのの頭をくしゃっと撫でた。 「はうはう」 「はーっ、ついたー」 「うう……ここ、いちばん暗いですよ…ね」 「あはは、確かに電灯ついてないもんな」 「ううぅ、こわい…」 俺の横に立っていたすずのをよく見てみると、ぎゅっと強く目を閉じていた。 「すずの、すずの」 「は、はい……」 「ほら、こーして」 すずのの頬を両手で包んでから、ほんの少しだけ手を動かしてみた。 小さな頭をそっと空の方へと促してみる。 「はうう……う?」 「目開けて」 「――わ、ああ」 「ここ明かりないからキレイに見えるんだよな」 「そうなんだ……すごい」 夜空を見上げて、すずのはまるで星を初めて見たかのようにため息をつく。 瞳にははっきりとわかる感嘆の色。 「途中、暗かった場所ばっかりで怖かった?」 「はい。怖かった……」 「それは悪かった。でも夜にしか出られないなら、一番いい気持ちになれる場所に来たかったんだ」 「はい」 「いますっごく気持ちいいです」 「夜の空ってこんなだったんですね」 「星空、見たことないの?」 反応が少し普通と違うような気がしたので、そう聞いてみる。 すると、すずのはちょっと不思議そうに、首をかしげた。 「見たこと――ないのかなあ、私」 「忘れているだけなのかな。でも、キレイだって思う気持ちはほんとです」 「良かった。それなら暗いのガマンして来た甲斐があるよ」 しばらく、ふたりで空を見上げていた。 ふと、手に柔らかな感触を感じて視線を落としてみる。 「……」 「どうしたの?」 すずのの指先はとまどうようにそっと俺の手に触れていた。 夜の空気のせいでか、細い指は少しばかり冷えていた。 ぎゅっと握り締めると、爪のあたりがほのかに桜色に染まる。 「ぎゅっとしてる……んですよね」 「うん、手握ってる。痛い?」 ふるふるふる。 すずのは頭を横に振った後、俺をじっと見つめた。 「痛くないですよ」 「よかった、すずのの手ってちっちゃいからさ」 「……」 「あんまりぎゅってすると壊れるかなって、ちょっと心配した」 「平気です、ぎゅっと…しててほしい…です」 「えっ?」 「な、なななんでもないですっ」 すずのは可愛いな。また赤くなってる。 少し首が疲れてきたので、すずのと一緒にベンチに座った。 軽く寝そべると、また無数の星たちが視界に飛び込んでくる。 「ここはさ、暖かいから」 「はい」 「こうやって、はあーって息吐いても白くならないんだよな」 「白くなる……?」 「うん。まあ、まだそんな季節にはちょっと早いけど」 「昔、親父とこうやって星見に行った時に、やっぱり寝そべって空見上げてたんだ」 「その時、息が白くなってのぼってくのがおもしろくってさ。なんかそんなこと思い出した」 「思い出……」 「思い出ってそういう感じなんですね」 一瞬、記憶がなくなっている、というすずのに悪い事を言ってしまったと焦ったが…。 すずのは、隣で微笑んでいた。 「晶さん、いますごく嬉しそうでした」 「え? う、嬉しそう?」 「とても大事なものを見てるときみたいな」 「思い出って、そういう感じなんですね。なんとなくわかった気がして」 「いつか……私も思い出せたらいいなって」 「思い出せるよ」 「はい」 「晶さんがそう言ってくれたら……そんな気がしました」 「うん」 そのまま飽きもせずに、俺たちは明け方まで手をつないだまま星を見ていた。 時間がゆっくりと流れるような。でもすぐに流れていってしまうような。 そんな名残惜しいひとときだった。 空が明るくなり、朝日が昇り始めるころになって、俺たちはようやく寮まで戻ってきた。 「晶さん、あのですね……」 「あ! ちょっと待って」 「は、はい」 早朝だというのに、寮の前には人影があった。 あれは…桜子と、茉百合さん? 「ありがとう、まゆちゃん。でもまゆちゃんは平気? こんなに早い時間にごめんね」 「心配しなくても大丈夫よ。でももうお薬忘れちゃだめよ」 「はーい、ごめんなさい」 「あら、晶くん」 俺に気づいたふたりが、ほとんど同時にこっちを向いた。 見えていない、とはわかっていても心臓がどきんとはねあがる。 すずのもたぶん一緒だったんだろう。 そっと俺の背後へとまわりこんでゆく。 とんとんとん、と小さな足音が俺の背中からそっと離れてゆく。 「ひとりでお散歩?」 「え、ええ……まあ」 「ゆっくり朝のお散歩っていいなあ、そういうのも。とっても空気がきれいだから」 仲良く話すふたりには、やっぱりだけど俺がひとりでここに立っているようにしか見えないんだ。 わかってる。 だけど、すずのはそこにいる。俺の後ろ、ほんのちょっと離れた場所に。 振り向かなくてもわかる。 幽霊じゃない――そう思っても何にもおかしくない。 そこに温かさがあるから。 だから何度こんな経験をしても、慣れられない。 「桜子は昨日、生徒会寮の方に泊まったの?」 「ええ、茉百合さんの所に。でも朝飲むお薬を持ってくるの忘れちゃったんです」 「そっか、だからこんな早くに戻ってきたんだな」 「そうなの。うっかりしちゃったな…もっとゆっくりしたかったのに」 「気にしなくていいのよ」 「……うん」 自分が忘れ物をしてしまったことを、桜子はずいぶん気にしていたようだ。 いいのよと微笑む茉百合さんに促されて、やっと寮内へと戻っていった。 「それでは、お散歩楽しんでらしてね」 「あ、は、はい」 「……見えないんだよね」 「そっか。幽霊って……こんな感じなんだよね」 「……私って何……」 「すずの、そんなに離れなくても平気だったのに」 「ごめ……なさい」 「すずの?」 泣きそうな顔をして、すずのは俯いた。 どうしてなんだろう。 何でそんな顔を、させてしまうんだろう。 言葉に出して聞くことは簡単だけど、できなかった。 「……あっ」 代わりに――いや、違う。 他に何もできなくて、俺はただ、すずのの手をぎゅっと握った。 俺はその時、すずのが寂しいんだと思ってたから。 「大丈夫?」 「……はい」 「ん?」 「星空、きれいでした」 「うん、きれいだったよな」 「ほんとはいろいろ、もっと楽しいとことか連れてってあげたいんだけど」 なんとかうまく、昼間にもどこかに連れ出してあげられないだろうか。 きっとすずのだって、出来れば明るい昼間のうちに出かけたいに違いないのだ。 「あ、あの! 晶さん」 「私、ほんと楽しかったです! これってその……あの…デ、デ…」 「デート?」 「は、はい。そういうの、できるなんて思わなかったから」 「晶さんは、あの、私のこと…普通の女の子みたいにしてくれるから……」 「すずの」 「……?」 俺は、屋上に行った時にしたように、またすずのの頭をくしゃくしゃ撫でる。 柔らかい髪の毛とか、俺より一回り小さい頭とか。 「はうぅ」 「普通じゃないか、まあちょっとちっちゃいけど」 「……はい」 すずのは嬉しそうに、それからこそばゆそうに微笑んだけれど。 それが、どこか寂しげに見えたのは、俺の気のせいだったんだろうか……。 部屋に戻ったすずのは、昼過ぎになると結衣と学校に出かけていった。 今日は休日だが、繚蘭会の予算会議があるらしい。 昨日の夜中、引っ張りまわしちゃったけど大丈夫だったかな……? 少し心配だったが、当のすずのは至って元気そうだったので何も言わなかった。 もちろん、桜子や九条など他のメンバーも会議に出席している。 今この寮にいるのは、俺と、limelightから戻ってきたマックスとの二人だけだ。 「……むぅ」 こうやってぼんやりとベッドに寝転んでいると、どうしてもすずのの事を考えてしまう。 キス…したんだよな、俺。すずのと。 勢いとはいえしっかりと、何回もしてしまった。 その後、デートのような事もしてしまったし……。 順番はおかしいのかもしれないけど、とてもいい雰囲気だったと思う。 「……」 さっきから一人で思い出しては、頬を緩ませてしまう。 一人の女の子に、こんなに夢中になるなんて、思いもしなかった。 すずのは可愛い。 小さくて、おとなしくて優しくて、なんだかぷるぷるしていて。 守ってあげなければ、という気にさせられる。 だけどふいに、強い意思を瞳の奥に感じる一瞬があったりして……。 多分そんなところが、好きなのかもしれない。 「なあ、晶」 「な、なんだよ」 「なんかお前、ちょっと様子が変だぞ」 「……なにが?」 「ひとりでニヤニヤしたり、ごろごろ転がったり」 「そ、そんなのしてた?」 「してた」 うわっそれ恥ずかしい! マックスがいるってのに、いつの間にそんなことになっていたんだ、俺! 「なんかあったのか?」 「……」 「なんだよー。オレたち親友だろー」 マックスは不満そうに口を尖らせている。 どうしよう、どうしようかな。 誰かに聞いてもらいたいという気持ちは確かにあるのだ。 なんというか、今の俺はちょっぴりではきかないほど舞い上がってしまっているのだ。 マックスだったらいいかな、聞いてくれるかな。 「マックス、俺とお前は親友だな」 「ったりめーよ!」 「じゃあ、あの…今から内緒の話をする!」 「なんだ! 男同士の秘密の会話か!」 「ああ、そうだ」 「わかった! それは誰にも秘密だな」 「うん!」 「よし」 マックスはいかにもわくわくしていますといった様子で、俺に迫ってくる。 「あのさ……昨日、俺すずのと一緒だったんだ」 「そういや、みんなは買い物に行ってたんだっけか?」 「うん。だから、ほとんどふたりだけだった」 「ほうほう。そんで、そんで?」 「そんでさあ、あの……き、キスとかしちゃったわけだ」 「マジかー!!!」 「うん」 「そっかー。すずのは嫌がってなかったのか?」 「うん。その後も、なんかちょっといい雰囲気っていうか、なんか……」 だめだ、恥ずかしくなってきた。 続きがまともに話せない。 そもそも何でこんな恥ずかしい事を人に話してるんだ、俺。 「なんだよ、お前らいい雰囲気なんじゃねーか! いつの間にそんな関係になってたんだよう」 「い、いや、なんかさあ……こう、すずのは前からかわいいっていうか、守ってあげたいみたいなのはあったけどさあ」 「まあ、確かに見てて危なっかしい感じだしな。すぐいろんなとこでぶつかるし」 「うん。そんで、ぴよぴよなってると、ああ守ってやらねば! みたいな感じがな」 「そーか、そういうところか、そうかー。なんだよ、晶ーラブラブかよー」 「な、なんだよ。やめろよ、マックス」 マックスがニコニコしながら俺のわき腹を小突いてくる。 やたら人間くさい仕草に、中に誰かが入ってるんじゃないかと思うくらいだ。 「で、それからどうなんだよ? ん? ん?」 「あ、いや……ほら、今日は結衣と一緒だしさ。それに、顔見るの恥ずかしいとかあってさ……」 「ちゃんと話してねーのか。それはダメだぞ!」 「うん。わかってる」 「まあまあ、結衣とすずのが帰って来たらオレに任せろって! な!!」 マックスはノリノリだった。 そんな風に反応されると、俺もやめろとは言えなくなってしまう。 それからしばらく、俺たちはすずのが帰ってきたらどうするとかバカなことを話し合ったりしていた。 繚蘭祭がもうまもなく始まるからだろうか。 日曜日だというのに、校内の廊下は生徒でいっぱいだった。 すずのは。教室を見て回っている結衣や天音の背中をとことこと追いかけていた。 そして時々足を止めては、にぎやかな周囲をぼんやりと見つめていた。 がやがやと、なにやら言い争いをしている声。 忙しそうに荷物を運んでいく生徒たち。 いかにもお祭りの直前、と言った雰囲気だ。 ――いいな。 ――私も、一緒に参加できたらいいのに。 彼らを横から見ていると、どうしてもそんな事を考えてしまう。 「……あ」 気付いたら、前を歩いていたはずの結衣がいなくなっていた。 慌ててまわりを見回してみるが、わからない。 もしかして、どこかの教室に入ってしまったのかもしれない。 「結衣さん……」 「結衣さ……」 「きゃっ! ご、ごめんなさ……」 「わっ! ……って、あれ? 何?」 すずのにぶつかられた女子生徒は、不思議そうにきょろきょろしている。 ぶつかった、という感覚すらないようだった。 すずのは彼女の、目の前にいるのに。 じっと見つめてみるが、彼女は気付かない。 「気のせいかな?」 「……あ」 とうとう、何も気付かないまま立ち去って行ってしまった。 「……っ」 思わず、周囲を行きかう生徒達を見てしまう。 廊下の中央で、一人で心細そうにまごまごとしているすずのの姿。 少し親切な誰かが見たら、きっと何かしら声をかけただろう。 だけど、誰もすずのに話しかけようとはしなかった。 正確には話しかけないのではなく、誰もすずのに気付かないのだ。 賑やかな廊下で、自分ひとりが取り残されているような感覚に陥ってしまう。 ――やっぱり……。 「……」 「あ、見つけたよ〜!」 「あっ」 結衣がこちらに走ってくるのが見えた。 すずのの姿を見て、結衣は安心したように息をついた。 「すずのちゃん」 「結衣さん……」 「良かった。ごめんね、はぐれちゃったんだね」 「いえ、あの」 「……どうかした? すずのちゃんなんだか元気ないみたい…」 結衣はときどきこんな風に、すずのの気持ちを言い当ててしまう。 心配そうな顔に、すずのはなんだか申し訳なくなった。 「そ、そんな事ないです。大丈夫」 「ほんと?」 「はい」 結衣にこれ以上そんな顔をさせたくなくて、すずのは精一杯の明るい笑顔で返した。 「そっか、すずのちゃんがそう言うなら大丈夫だよね」 「はい」 こくこくと頷くと、結衣もようやくにっこり笑ってくれた。 「繚蘭会の用事、もうすぐ終わるんだ。終わったら、一緒に帰ろうね」 「はい」 今度ははぐれないようにという事か、結衣はすずのの手を引いて歩き出す。 「………」 手を引いている結衣が、前を向いている事を確認して。 それからすずのは、浮かべていた笑顔を消した。 結衣はこうやって手を引いてくれるけれど……。 他の人、例えば天音や桜子には、やっぱり自分の姿は見えないままだ。 どれだけ一緒に楽しみたいと思っても、お祭りには、決して参加はできない。 ――そうだ。私は、ここにいるべき人間じゃない。 やっぱり自分は、幽霊なんだと。 ――昨日までは浮かれていてすっかり忘れていたけれど、私は幽霊だったんだ。 改めて、すずのはそれを思い出した。 そして押し寄せてくる別離の予感に、ただ何も出来ずに目を伏せた。 「はいは〜い」 「あ、マックスくん」 「おう! すずのも一緒か、入れよ。ちょーどよかったぜ!」 「はーい」 「はい」 夕方になって、ようやく学校から帰ってきた結衣とすずのが、俺の部屋にやってきた。 マックスが迎え入れて、二人ともソファに座る。 ちょっと落ち着かないのは、きっとマックスとバカな話をしていたせいだ。 「どうしたんだ?」 「えっとね、昨日の事。お礼言っておこうと思ったから」 「昨日?」 「うん。すずのちゃんと一緒にいてくれたから」 「あ、ああ、それかあ」 「ありがとねっ」 「いや、別にそれくらいはやるよ。うん……」 すずのがすぐそばにいると思うと、どうしてもそわそわしてしまう。 そんな俺を見て、何も知らないはずの結衣がまっさきに反応した。 「晶くん、どうしたの?」 「え! い、いや! あの、ですね!!」 「おいおい、結衣〜。気づいてやれよ」 「なにを?」 「晶のすずのを見る目でわかるだろ」 「……え」 「ちょ、ちょっと! マックス何を!?」 「すずのもな! そうだよな!」 「え? えっと、あの……」 「ここはさ、気を利かせてふたりっきりにさせてやるのがいいんだぜー!」 「そ、そうだったの?」 「なんからしいぜー」 「ああああ! ご、ごめんね! 気づいてなくて!」 ――マックス、気をきかせすぎ! しかも誰にも秘密って言ったのに、なんでもう喋ってるんだ! でも少し、気を遣ってくれて嬉しいと思っている自分がいるのも確かだ。 結衣は俺とすずのを交互に見ると、あわあわと赤くなりつつも、嬉しそうににこにこしていた。 「よーし! それじゃあ出ようぜ、結衣。新しいケーキの相談でもすっか!」 「うん。わかったー! 私の部屋いこー!」 「あの、待って!」 すずのの制止する声は、いつもより数段大きく部屋中に響いた。 「すずの……?」 「すずのちゃん」 「どうしたんだよ」 俺をはじめ、全員が目を丸くしている。 「すずの、どうしたんだ?」 「晶さんに、お話があるんです」 「俺に?」 「あ、あの、それはわたしたちはいてもいいのかな。いない方が良くない?」 「そうだぜ」 「結衣さんとマックスさんにも、聞いて欲しいです」 「そ、そう?」 「そーか?」 「はい」 その瞳は真剣だった。 そんな目をされてしまったら、俺は何も言えなくなる。 結衣とマックスも黙って話を聞こうとしているようだった。 「晶さん」 「はい」 「私……考えました…」 「それで、思ったんです」 「私、幽霊なんです。普通の女の子じゃなくて、人間でもなくて」 「……」 「だから、あなたの気持ちを受け入れる事はできないです……」 「……できない、って…?」 一瞬、言われた意味が理解できなくて、聞き返してしまう。 「昨日みたいなこと、もう、できないって事か?」 すずのはほんの少しのためらいもなく、こくりと頷いた。 そこには、はっきりとした意思が感じられる。 何も言葉が出ない。 結衣とマックスも、自分のことでもないのにひどくショックを受けている様子だった。 「すずのちゃん、でも晶くんは、幽霊だとかそんなこと」 「私は、他の人と違います。晶さんとは絶対に結ばれない、と思います」 「でも……」 「むう」 「晶さんが嫌いなんじゃないです……一緒にいると、とても楽しいって感じる」 「じゃ、じゃあ、なんで?」 「今は一緒にいると楽しくて夢みたいな気持ちだけど、いつか絶対に後悔する時がやってくるから……」 「近づきすぎて、幸せすぎたら、きっと後悔するって思ったから」 「だから、だから……」 すずのの小さな肩が、ぷるぷると震えている。 声も震えていて、今にも泣きだしてしまいそうに思える。 何か言ってあげたい。 今すぐ抱きしめてあげたい。 だけど、すずのの言いたい事は、痛いほどよくわかる。 俺に何も望んでいないこともよくわかるから、俺は何も出来なかった。 「い、今までどおりお友達でいてください」 「……」 「すずのちゃん」 「ごめんなさい、晶さん!」 これ以上は耐えられないとでも言うように、すずのはソファから立ち上がると、部屋の外へと走り去っていった。 「あ! すずのちゃん! 晶くん、あの」 「……」 結衣が慌てたように俺を見ている。 追いかけないのか? と言いたいんだろう。 だけど、俺は動けなかった。 「あの、えっと」 「結衣、お前はすずのんとこ行け」 「え? で、でも、晶くん」 「晶はオレが見てる。だから、すずのんとこ行ってやれ」 「う、うん」 「大丈夫だって、オレと晶は親友だからなー、フォローしといてやるって!」 「わかった」 結衣がすずのの後を追って、部屋から出て行った。 残された俺は、ただ呆然とするしかない。 マックスが心配そうにこちらに寄ってきた。 「晶……」 「……」 「だ、大丈夫。ちょっと、混乱してる…だけ」 「お前、酷い顔だぞ」 「そんな事、ないよ」 「そんな事あるぞ……」 「そうかな」 「うん」 「なんていうか、突然すぎて…びっくりして、よくわからないっていうか」 「……」 「大丈夫だよ……ホントに大丈夫だから」 「晶、あんまムリすんなよ」 「うん…」 すずの、どうして。 どうして一緒にいられないのか。 俺がすずのと一緒にいることは、やがて苦しみに変わるっていうのか。 わからない。 俺がすずのを好きだという気持ちは、すずのを苦しめている? わからなかった。 何もかもが頭の中でばらばらになって、何ひとつ答えは出せなかった。 あれから、毎日が過ぎて行くのが突然早くなった。 ふと気がつけば、繚蘭祭まであと数日になっていた。 生徒会と、繚蘭会の往復。ずっと両方の手伝いで忙しくて、すずのの事を考える暇もないほどだった。 いや、わざと考えないようにしていたのかもしれない。 本当はいろいろな気持ちや、すずのに言いたい事もあった。 だけど俺は、それを準備の忙しさの中にまぎれ込ませてしまった。 そうしないと、とても立ち上がれそうになかったから。 「……」 「なー。晶、これここに置いといていいの?」 「あ、うん。いいんじゃないのかな」 「んー」 「……」 今日は女の子の姿になっているあきらが、大きなダンボール箱を抱えて入ってきた。 もうすぐ繚蘭祭が始まる。 みんな頑張っているし、俺も一生懸命やっている。 「………」 今でもふとした瞬間に、すずのとの事を思い出してしまう自分がいる。 あれから、すずのは今までと変わらず俺や結衣たちと一緒にいる。 まるで何もなかったみたいに。 今までどおりの、優しく、けなげなすずの。 準備の作業も、こっそりと何度も手伝ってもらった。 だけども、決してあの日したキスのように、俺たちの距離が縮まることはなかった。 これで、よかったのだろうか。 すずのはそう望んでいるのだろうけど……。 『私は、他の人と違います。晶さんとは絶対に結ばれない、と思います』 すずのはそう言っていた。 いつか離れることになってより辛い思いをするのは、後悔する、と言っていたすずのの方なんだ。 それが苦しくて、耐えられないと思ったからこそ、すずのはああいう態度をとった。 だったら、今のままでいいじゃないか……。 「……はあ」 それなのに、どうしてため息が出るんだろうか。 「晶」 「なんだよ……」 「元気出せ、な!」 「……」 「確かに失恋はつれーよ!」 「……うう」 「でも、ほら! な! 辛かったら泣けばいいさ! オレの胸を貸してやるから! ほら、どーんとこい!!」 「……」 「まあ、今はちょっと柔らかくて頼りねー胸だけど、ドーンとガッチリ受け止めてやるから、俺の胸で泣けばいい!」 あきらがバンバンと自分の胸を叩きながら言う。 慰めてくれてるんだろうなって事はわかる。わかるんだけど……げんなりするのは何故だ。 「よし! 来い!!」 「いらん」 「えー! なんでだよ! やっぱ、元の体の方がいい!?」 「いや、そうじゃなくてな」 「それなら来い! どーん! と。ドーン!!」 「行けるかよー」 「なんでだよー。オレたち親友じゃねーのかよー」 胸の中に飛び込む事を拒否すると、あきらがぶーぶーと文句を言い始める。 その様子がおかしくて、ほんの少しだけ笑えた。 「あきら、ありがとな」 「何が?」 「ちょっと元気になった」 「そうか?」 「うん。お前、やっぱ親友だよ」 「当たり前だ!」 「ははは」 「……なあ、晶」 「うん?」 「あのな、オレずっと、よくわかんないんだ」 「何が?」 「なんで、すずのは晶を受け入れねーのかな……」 「……」 「すずのは晶のこと好きなんじゃないのか? オレにはそう見える」 「そうだな」 「多分……今も好きでいてくれるんだとは思うよ…」 自信はないけど。 でも、そんな気はしている。 時々感じる視線とか、少し今までと離れた距離とか。 そんなものが、嫌になるくらいすずのの気持ちを気づかせてくれる。 でも、すずのは……。 「じゃあ両想いじゃないか、なんで失恋になるんだ?」 「それは……」 「うん」 「俺とすずのは違うから、だと思う」 「何がちがうんだよ?」 「俺は人間で、すずのは幽霊だから……だから、ずっと長くは一緒にいられなくて、大事になればなるほど、別れが辛くなるんだと思う」 「一緒にいればいるほど、いつか来る別れの時を思って一緒にいる時間が辛くなってしまうんじゃないかな」 「そういうもんなのか……?」 「そうなんじゃ、ないかなあ」 「なんか、よくわかんねえ」 「……」 俺にだってよくはわからない。 でも、すずのはそういう事を俺よりも、もっと重く考えたはずなんだ。 だから、後悔する、と。 一緒にいられないって言ったんだ……。 「俺が一緒にいたいって、どんなに思っても……すずのはそうじゃない」 「きっと、俺と一緒にいるのが辛いんだ」 「――そんなのおかしいよ!!!」 「え……」 「あれ、結衣」 「結衣……?」 「ごめん。聞くつもりじゃなかったんだけど、お話聞こえて……なんとなく出て行けなくて」 「あ、うん。それは、いいけど」 「おかしいって、何が?」 「晶くんが言ってた事」 「俺が?」 「大事になればなるほど、別れが辛くなるって。一緒にいるのが辛いって。そんなのおかしいよ」 「結衣……」 「それだったら、最初から大事なものを何も作れないよ。本当に大切なものって、たとえ離れてもなくならないものじゃないの?」 「大事なものって、そばになくてもいつでも心の中にあるものじゃないの? そういう気持ちを恋って呼ぶんじゃないの?」 「だったら、幽霊だとか、別れが辛くなるとか、そんなの何も関係ないじゃない!」 「……」 「……」 一気にまくし立てるように言った結衣が言葉を途切れさせた。 俺もあきらも、呆気にとられて何も答えられない。 そんな俺たちに気づいたのか、結衣は困ったように笑った。 「……晶くんだって、本当は同じように思ってるんでしょ?」 「お、俺は……」 「すずのちゃんがああ言ったから、そう思い込もうとしてるだけなんだよね?」 「……」 「だって、すずのちゃんを見てる時の晶くんは、そんな顔をしてるんだもん」 「結衣、俺は……」 「うん」 「確かにあれから色々考えて、結衣が言ったように思った事もあるよ……幽霊だとか、別れるのが辛くなるとか、そんなのは関係ないって」 「でも多分、すずのは違う。違う考えだから拒んでるのに、俺の気持ちを押し付けちゃっていいのか……?」 「違うよ晶くん! そうじゃないよ」 「そうじゃない?」 「晶くんは自分の気持ち、すずのちゃんにちゃんと伝えた?」 「……」 「あれから、すずのちゃんとお話した?」 「して…ない……」 その話をすると、きっとすずのを苦しめてしまうと思ったから。 すずのがそれを望んでない事が、俺には痛いほどよくわかっていたから。 繚蘭祭の準備が忙しいからって、それを理由にして。 俺は自分から話しかけることすら、あまりしようとしなかった。 「だったら、ちゃんと伝えなきゃ。ちゃんと伝える前から尻込みしてちゃだめだよ!」 「でも……」 「すずのちゃんはこの頃いつも、どこか寂しそうな辛そうな顔をしてるの。きっと、晶くんの事を考えてるんだよ」 「だから、晶くんはすずのちゃんをどうにかしてあげるべきだと思う!」 「すずのが……」 「ふたりとも同じだよ。お互いを見てる時に、すごく辛そうなの。そんなのおかしいよ」 「だから、すずのちゃんと話そうよ。晶くんの気持ちを伝えようよ! わたし、ふたりがそんな顔してるの嫌だよ」 「……」 結衣の言葉は、なんの飾りもないまっすぐで素直な言葉だった。 すずのの言う事と違って、どこにも根拠はないと思う。 なのに、不思議だ。 どうしてこんなに、その通りだって思うのだろう。 「なんか、結衣はすげーな」 「そ、そうかな?」 「うん!」 「結衣、ありがとう」 「え?」 「なんか、わかった気がする。うまく言えないけど」 「ほんと?」 「うん。……ありがとう」 「すずの、今、どこにいるのかな?」 「え、えっと、学校には来てるはずなんだけど」 「俺、探してきてもいい?」 「いってこいよ、ここはオレたちにまかせてな!」 「ありがとう!」 俺は結衣とあきらにその場をまかせると、勢いよく立ち上がった。 ――そうだ。 俺はまだ、この気持ちを伝えていない。 すずのに伝えなきゃ。 そう思ったら、逸る気持ちを抑えられない。 俺はいつの間にか、走り出していた。 すずのを探して、俺は廊下を走る。 何人もの生徒とすれ違ったが、もちろんその中にすずのの姿はなかった。 どこにいるんだろう……? 結衣とあきらが一緒にいないということは、間違いなくどこかでひとりでいるはずだ。 「ここには…いない」 一番最初にすずのと会った場所。 カーテンの向こうの白いベッドの上には誰もいなかった。 他にすずのがいそうな所は、どこだ? ふと、二人で屋上に上った事を思い出す。 そうだ。すずのが……。 ――まだすずのが、俺の事を好きでいてくれるなら。 いつの間にか、空の色は赤く染まっていた。 繚蘭祭を前に、せわしなく動いている校内。 こんな日の、こんな時間の屋上に、生徒がいるはずがない。 なのに、目の前には。 ぽつんと一人、空を見上げている女の子の姿があった。 「すずの」 声をかけると、ゆっくりと振り向く。 すずのが今にも消えそうな、儚い存在のような気がして、俺は一瞬戸惑った。 「…あ。晶さん……」 「空、見てたの?」 「……はい」 すずのはちゃんとそこにいた。俺の言葉に、ちゃんと返事を返してくれる。 赤い光の中で、少し眩しくてそう思っただけだったのか。 俺はずっとすずのを見つめていた。 すずのも、俺を見ている。 言葉が止まった。 何から言えばいいのかわからずに、俺はすずのに向かって一歩踏み出してみた。 こうやって、二人きりで会うのは本当に久しぶりだ。 「すずの」 「はい」 すずのの声には、少しだけ俺を拒絶するような、怯えの色が見えたような気がした。 だけどそれが、皮肉にも俺に腹をくくらせる。 迷うことなんてない。 一番大事なことから伝えればいいんだ。 「大事な話がある」 「……え、ええと」 「聞いてくれる?」 「は、はい……あの、でも」 「俺、すずのにちゃんと伝えてなかった事あるんだ」 「……え」 すずのは今度こそ、誰にでもはっきりとわかるような困った顔をした。 だけど俺は戸惑わない。 伝えると決めたから。 「俺、すずのが好きなんだ」 「し…晶さん……!」 「好きなんだ」 咎めるようなすずのの叫びを無視して、腕を伸ばした。 すずのは、精一杯の抵抗なのか、その場で俺に背を向ける。 それでもかまわない。 俺は、後ろから抱え込むように、すずのを抱きしめた。 「一人の女の子として、すずのの事が好きになった」 「……あ」 「今まで言ってなかった。一番最初に言うべきだったのに……ごめんな」 逃げはしなかったものの、体がぷるぷると震えている。 多分、どうしていいのかわからないのだろう。 されるがまま、俺に抱きしめられている。 「すずの?」 「私……わからないんです」 「どうしていいかわからなくって、怖い気持ちと嬉しい気持ちが、いっぱいいっぱいになって、ごちゃごちゃになって」 「うん。俺も頭の中がごちゃごちゃしてるかもしれない」 「すずのをこうして抱きしめられて嬉しいけど、また拒絶されたらどうしようって怖くもなってる」 「でも、離れられないんだ。すずのを好きな気持ちが、あふれてくるんだ」 「晶さん、どうしてですか? 受け入れられないって私ちゃんと言ったのに、どうして?」 「自分の気持ちに嘘はつけないから」 「自分の気持ちに……」 「俺がすずのを好き、っていう気持ちだよ」 「でも、だって、私……いつか、明日とか今すぐとか……ぱって消えちゃうかもしれないんですよ。いついなくなるか、わからないんですよ」 「でも、消えないかもしれないじゃないか」 「それは違うんですっ」 「すずの…」 すずのがどんな顔をして、違うというのか俺からは見えない。 だけど、悲痛なその声から何となくは想像できた。 「わかるんです、違うんですっ…そうじゃないんです!」 「なんとなく感じるのです。私、晶さんとずっと一緒にはいられないって……絶対に!」 「すずの…どうして?」 「だって、私は幽霊だから!」 「でも、すずのは俺にとっては普通の女の子だよ」 「それでも幽霊なんです、晶さんがそう言ってくれても、私は人間にはなれないから」 「幽霊だという事はつまり、この世界にいちゃいけない存在だって事だから、だから本当は、こんな風に関わっちゃいけなかったんです」 「恋なんてもってのほかです。もうすぐお別れなんです…! 私は消えなきゃいけないんです!」 「………」 答えるかわりに、俺はすずのをぎゅっと抱き寄せた。 とくとくと、小さな鼓動が伝わってくる。 ちゃんとここにすずのはいる。 すずのの体温が俺の中へと溶け込んでくる。 きっと、きっとすずのも同じように俺の温度を感じてくれているはず。 「わかるんです……長い間、一緒にはいられないって…」 「だから、私、だから……ふくっ…うぅ」 「これ以上晶さんのこと、好きになりたくない……」 しばらく、すすり泣く嗚咽は止まらなかった。 俺には何故かはわからないけど、すずのは頑ななまでに長くは一緒にいられないと信じているようだった。 それは、直感というよりもう確信なのだろう。 なくなってしまったすずのの記憶が、そう叫んでいるのかもしれない。 ――だからこそ、すずのは俺を拒絶する。 そんなことないよ。いつまでも一緒にいられるかもしれないじゃないか。 ……なんて、俺にはとても言えなかった。 何故か、すずのの言う事がとても正しいような気がしたのだ。 俺たちは、ずっと一緒にはいられない。 だけど……。 「……すずの」 「すずののいう通りかもしれない……」 「だったら……!」 「だったら俺は、その日が来ても後悔しないように、いっぱいすずのを抱きしめたい」 「え……」 「好きだって言葉も、言えるうちにいっぱい伝えておきたい。すずのにしてあげられる事を、今のうちに全部する」 「だって、そんなの……」 「長い間、一緒にいられないんなら……後悔したくない」 後悔という言葉が心に刺さったんだろうか。 すずのの肩がぴくんと震えた。 「今すずのを離すほうが、俺は後悔してしまう」 簡単なことだったんだ。 頭の中が真っ白になって、答えをなくしてしまったようにずっと迷っていた。 だけど俺がすずのに言えることは、すずのにできることは最初からたったひとつだったんだ。 「だって、俺はすずのが好きなんだから」 「…っ…」 「このまま何も伝えずに、すずのとお別れする方が俺は悲しいよ」 「……う、うぅ」 「すずの……」 「晶さん……」 泣き声を漏らしながら、すずのがおずおずと腕を伸ばした。 俺の腕に、自分の腕を重ねる。 それを感じて、俺もより強くすずのを抱きしめた。 もっと強く。 この小さな体が、今は俺の腕の中にあるのを確かめるように。 「晶さん……晶さん、私……」 「うん。大好きだ、すずの」 「私……私も……晶さん……!」 「好きです、好きなんです……晶さんのそばに、いたいんです」 「消えてしまう日まで……ずっと、晶さんとぎゅってしてたいです…!」 「うん」 せき止めていた感情が、体からあふれ出す。 それを少しでもこぼしてしまわないように、俺はすずのを抱きしめ続けた。 それからしばらくして、すずのを十分に落ち着かせてから、俺は結衣にメールを送った。 内容は、すずのが見つかったことと、話をした事などだ。 詳しい事は書かなかったけれど、またすずのが俺の手を取ってくれた事は、なんとなく伝わるような気がしていた。 すぐに返ってきたメールには、まるで声が聞こえるような『よかったね』という文字。 そして今日の準備作業はもう終わったから、寮に戻ってもいいよという返事があった。 「すずの、戻ろうか」 こくんと頷いたすずのと手を繋ぎながら、俺は寮へと戻った。 「ただいま……っと」 部屋に戻ると、マックスの姿はなかった。 すずのはきょろきょろと部屋の中を見渡している。 当たり前のようにすずのを部屋に連れて入ったけれど、よかったのだろうか。 でも、あまり手を離したくなかったし。 どんな些細なことでも、少しでも一緒にいたいと思った。 「マックス、どこ行ったんだろ……え?」 すずのが俺の服の裾をひっぱって、テーブルの上を指差す。 そこには一枚のメモ用紙が置いてあった。マックスがいつもよく使うものだ。 「ん……」 『晶へ、オレ今日は結衣んとこ行って来るから。今晩はすずのと一緒にゆっくり仲良くしろよ。マックスより』 「あいつ……」 ちょっと呆れた。 だけど、その気持ちはありがたい。 ロボだけど、あいつは間違いなく俺の親友だ。 苦笑しながらすずのをうながして、ソファに座らせた。 「どうしたんですか?」 「マックス、今日は結衣の部屋に行くんだって」 「え……」 「俺とふたりだけになるけど、いい?」 「あ、あの……はい」 すずのはみるみるうちに、りんごのように真っ赤になった。 その反応があまりに可愛かったので、俺は衝動的に横からぎゅっと抱きついてしまった。 「は、は、うう」 「すずのはかわいい!」 「しょ、晶さん〜」 「だって、そう思ったから」 「は、はい」 ぎゅうっと抱きしめながら、正直、俺はどうしようかな…と少し困っていた。 すずのが喜んでくれるのは嬉しいし、二人きりになるのも嬉しい。 でも、俺も年頃の男の子だ。 俺の部屋で二人っきりで、一緒にゆっくり仲良くなんて言われると、少しいけない事まで考えてしまう。 いやいや、だめだだめだ。 そういうことは、お互いの意思を尊重しなきゃ。 とりあえず今日はぎゅうっとするだけで我慢しよう。 そう考えていた矢先に、すずのが腕の中でもぞもぞ動いた。 「…っ?!」 そして、俺の腕にぎゅうっとしがみつく。 ふわっとした柔らかな女の子の感触が、腕から全身へと伝わっていった。 「す、すずの……?」 「あの、だめでしたか」 「いや、だめじゃないよ? だめじゃない、うん」 そうだ。俺一人が、本格的に意識をしてしまっているだけだ。 すずのには何の落ち度もない。 何とか自分の中のよくない妄想を打ち消さねば! あと、すずのがちょっと心配そうなので、お詫びついでに頭を撫でておこう。 「はううう」 「………」 くしゃくしゃと撫でると、すずのは目を細めて縮こまった。 何をしても反応が可愛い。 俺、本当にこの一晩、我慢ができるのだろうか。 ちょっと自信がなくなってきたぞ。 「あ、あの、晶さん……」 「はっ! え、なに? どうしたの?」 「あの、私……あの……」 すずのは何故か頬を染めて、俺の方に向き直った。 「わ、私………あの」 「うん」 「今、晶さんとできる事…したいです」 「う、うん。できる事ね。うん、何でもしよう」 「………あうぅ」 「……え」 俺の答えに、すずのはますます真っ赤になってうつむいてしまう。 一瞬、何故そんな態度をとるのか理解できなかったのだが……。 できる事を、したいって。 あ、あれ? もしかして、何でもしていいって、事でしょうか? 「す、すずの、それって……その…キスの先を…」 俺も赤くなりながら、おずおずと聞く。 はっきりしたことは言えなかったが、すずのはこくりと頷いた。 「は、はい」 「……」 「……」 火が出そうなほど、真っ赤になっているすずのの顔。 そんな顔を見て、どんなに必死でそれを俺に伝えてくれたのかがよくわかった。 「本当に…いいの?」 「は、はい。私……後悔したくない、から」 確かに、俺は出来る事は今のうちに、すずのが消えてしまわないうちに、何でもするって言った。 すずのは本当に、俺と同じ気持ちになってくれたんだ。 つまりはそういうことなんだろう。 心がじんわりと、熱くなる。 「すずの……」 小さなすずのの体をしっかりと抱きしめる。 本当に本当に小さくて、その体はすっぽりと俺の腕の中におさまってしまう……。 「晶さん」 「小さいなあ、すずのは」 「そ、そうですか?」 「うん。ぎゅーって、こうしてないと、どこかに行っちゃいそうだ……」 「……」 「だから、今だけ……いっぱいこうしていい?」 「はい。いっぱい……今…」 「うん」 抱きしめる腕の力を強くする。 苦しくないだろうかと不安になる。 けれど同時に、腕の中にすずのがいると安心できる。 ずっとこうしていたい。 それは無理だとわかっていても、そう思ってしまう。 今だけでも……ずっと、このまま。 「……」 「晶さん?」 「今、すずのの感触を味わってるの」 「は、はうぅ」 「ぎゅーーってしながら」 「あ、あの、じゃあ、私も」 「うん」 俺が頷くとすずのの腕がおずおずと動き出した。 動き出した細い腕が俺の体に回される。 ああ、本当になんて小さな体なんだろう。 回される腕の細さや、か弱さがますますそう思わせた。 それでも、こうされると嬉しい。 ずっとこうしていたいと思う。 「すずの……」 「はい」 「こっち向いて」 「え……?」 しがみ付いたまま上を向いたすずのの唇に、自分の唇を重ねた。 「ん……!」 柔らかい感触。 重ねて、触れ合っているだけなのに、気持ちいいと感じる。 すずのも同じなんだろうか? 「ふ……あ……」 そっと目を開いてすずのを見つめる。 すると、うっとりした表情で口付けを受けていた。 俺と同じ気持ちなのかもしれないと思うと、なんだか嬉しくなってしまう。 我ながら単純だ。 でも、嬉しいものは嬉しい。 「すずの、ちょっとじっとして」 「あ……」 「うん」 「は、恥ずかしいです……」 真っ赤になっているすずのの制服をゆっくり脱がして行く。 女の子の制服の構造なんてわからないけど、ゆっくりなら問題なく脱がして行ける。 「じ、自分で、あの」 「俺にやらせて」 「でも、あの」 慌てた様子のすずの。 でも、かまわずに俺はそのまま手を進めた。 ブラウスの上に羽織ってあるマントを外して、スカートに手をやって脱がせる。 「は、はうぅぅ」 「……」 ふっと、少し古びた感じのスカートに目をやる。 すると、そこにはどこかで見たような、ぎざぎざになった縫い跡があった。 しかも、その縫い跡は随分と前にできた物のように見える。 なんで、見た事がある気がするんだろう。 俺、すずのの制服をこうしてじっくり見るのは初めてなのに。 「しょ、晶さん……」 「あ! えっと……」 「や、やっぱり、恥ずかしい」 「ごめん」 いや、今はスカートの事より、すずのの事だ。 「自分で脱ぐ?」 「え? あ、あの、えっと」 「じゃあ、やっぱり脱がせる」 「きゃ、あっ!」 スカートを脱がせ、その次にブラウスをはだけさせた。 すずのの真っ白な肌が目の前に現れて少しドキドキする。 「……」 「じっと見られたら、恥ずかしいです……」 「だって」 「……はぅ」 じっと見つめているとすずのの頬が真っ赤に染まる。 そんな姿すらかわいくて、また抱きしめたくなる。 「きゃっ」 小さなすずのの体を抱き上げ、ころんと転がす。 驚いたようなかわいい声。 そんな声に少し微笑む。 「な、何するんですか?」 「だって、なんか……かわいいから」 「あ……」 かわいいと言われたすずのの頬が真っ赤になった。 そんな顔をされたら、またかわいいと思う。 でもきっと、すずのは俺がこんな風に考えているなんて気付いていないんだろう。 「ひゃ、あ……」 はだけさせたブラウスの内側に手をやって、ブラジャーをまくり上げる。 小さいけれど、そこに確かにある膨らみ。 その膨らみにそっと手のひらで触れる。 「ひゃん!!」 「あ、あの! ごめん……」 「あ! あ、あの、大丈夫です」 「本当?」 「はい」 こくこくと、何度もすずのが頷く。 いつもしているみたいに。 こんな時もいつもと同じなんだと思うと、少しだけおかしかった。 「俺、すずのが嫌な事はしたくないから」 「はい」 「だから、嫌だったら言って」 「はい、晶さん……」 今度は、こくんと一度、すずのがうなずいた。 それを見てから、胸の上に乗せた手のひらを動かし始める。 「あ、はぁ……」 小さな膨らみを撫でるように手のひらを動かす。 確かにそこにある柔らかさに頬が自然と緩んだ。 女の子の体は柔らかいんだと、改めてわかった気がする。 「あ、ぁあ、んぅ」 小さく柔らかな膨らみをじっくり確かめるように、手のひらを動かし続ける。 すずのの声が少しずつ漏れ、その声に甘さが増していく。 聞いた事のない声に、自分が興奮しているのがわかった。 もっと、すずのの声を聞きたい。 そう思うと、手のひらの動きは自然と大胆になっていく。 「はぁ、あ……あ、んぅ…」 手のひらを動かしながら、指先をそっと、その先端に移動させて行く。 指先に触れる、柔らかいけれど硬い感触。 「きゃっ!」 その感触を確かめるように、指の腹でぐりぐりと押しつぶす。 すると、すずのはそれに合わせて小さく声を出して震えた。 震える声と体。 自分のしている事ですずのが震える。 それだけで、信じられないくらいの興奮があった。 「はぁ、あ……ふぁ、ふ……」 「すずの、大丈夫?」 「は、はい。大丈夫……」 「良かった」 「ふあ!」 安心すると、また指先が動く。 ころころと転がすように動かし続けると、すずのの声がまた甘くなった。 甘くなった声に安心し、もっともっと指先を動かす。 感触に、聞こえる声に、震える体に、俺の体も震える。 もっと深い場所まですずのを知りたいと思う。 「はぁ、はぁ……」 「すずの、もっといい?」 「……ん」 小さく1度、こくんとすずのがうなずく。 その姿を見つめてから、胸の上にあった手のひらをそっと移動させて行く。 「あ、あ……あぁ……」 胸の上から腹部を撫でて、そのまま下腹部に移動させる。 白くてすべすべした肌。 どうして、俺とこんなに違うんだろうと不思議になる。 女の子はみんなこうなのか? それとも、すずのだからこうなんだろうか……。 「ひゃっ」 移動させた手のひらの動きを止め、下着の上から秘部に触れた。 指先に柔らかな感触。 「あ、あぁあ、あ、んぅ!」 その柔らかい部分で何度も指先を動かすと、すずのの声が今までよりももっと甘く、大きく震えた。 聞こえる声は小さい。 けれど、その声は確実に甘さを増し、俺の神経を刺激する。 「ふ、ふぁあ、あぁ」 指先をその部分で何度も往復させ、すずのが1番大きな反応を見せる部分で執拗に動かす。 「すずの……」 「は、あぁ、はぁ、あ…晶さん……」 恥ずかしそうな声ですずのが俺を呼ぶ。 その声に応えるように、指先をまた動かした。 「ひ! あ、あっん!」 動かした指先を下着にかける。 そのまま、するすると脱がせると恥ずかしそうにすずのが声を漏らした。 そっと顔を覗き込むと、頬が真っ赤になっていた。 「は、う……」 「……平気?」 「は、はい」 こくこくと、またすずのが頷く。 やっぱりそれがかわいくて、頭なんかを撫でてやりたくなる。 「かわいいなあ、すずのは……」 「晶さん……?」 「今、すごくそう思った」 「そ、そんな事……あ! ふぁ、あ、はぁ……!」 答えながら、指先をまた動かす。 今度は柔らかな膨らみに直接触れてみた。 「あ、あぁ……しょ、晶さん、そんな……あ、されたら……あ、はぁっ」 直接触れた柔らかな膨らみは、少しだけ濡れていた。 それは、すずのからあふれて来ているからだと、それくらいは知っている。 その、あふれ出す感触で指先を濡らしながら、更にそこで指を動かす。 「は、ふ、ああっ! あ、あっ、は、恥ずかし……ですぅ! ん、んぅ!」 くちゅくちゅと小さな音が聞こえる。 それは、俺が指先を動かし、すずのが更に奥からあふれ出させているから。 そう思うと背中が震える。 もっと、すずのとこうしていたいと思ってしまう。 「晶さん……あ、あ、ふっ!」 すずのも、まるでもっととおねだりするように俺を呼んだ。 そうして呼ばれる事が嬉しい。 もっともっと、してあげたいと思う。 「もっと?」 「あ、あの……ん…も、もっと……あの…」 俺の問いかけに、すずのは恥ずかしそうに小さくうなずく。 素直なその仕種に自然と頬が緩んでいた。 「じゃあ、もうちょっと」 「ひゃ! あ、あっ、ああ、あぁっ!」 あまり深い場所まで届かないようにと注意しながら、指先を動かし続ける。 あふれる量が多くなり、指先が濡れる感触が増す。 聞こえて来る音も大きく、そして声もどんどんと甘く切なく聞こえて来る。 「はぁ、は、ふ、ああ、あぁあ……」 聞こえる音と声と、感触と、その全てが俺をつかまえる。 もっともっとと望むすずのに応えたい。 けれど、それだけじゃ俺が我慢できそうにない。 この先に進みたい。 でも、進んでも大丈夫なのかと不安に思っている自分もいる。 「すずの……」 「晶さん……?」 「そろそろ、大丈夫?」 「……え?」 「いや、あの……」 どう説明すればいいだろう。 そんな風に思ったのに、すずのは体を抱きしめている俺の異変に気付いたらしい。 そして、大丈夫の意味もそれで悟ったようだった。 「すずの?」 「大丈夫です……」 「無理は、しなくていいんだよ」 「無理じゃないです……晶さんと、したいから…」 「うん……」 そうだった。 今だから、すずのはこうしたいと望んでくれた。 だから、無理じゃないんだ。 すずのが望むから……。 ううん、違う。 俺もすずのとこうする事を望んでいるから。 だから今、俺たちはこうしている。 「あの、いい?」 「……はい」 たった一言聞いただけ。 でも、それでもすずのは、それがどういう事か理解してくれた。 通じ合っているような気がして嬉しくなる。 「えっと、その、力とか抜いた方がいいと思う」 「力を、ですか?」 「なんか、うん。そうみたいだから」 「わ、わかりました」 こくこくとすずのがまたうなずく。 そのすずのから少し体を離し、制服と下着の奥から大きくなっている肉棒を取り出す。 「……あ」 気付いたすずのが小さく声を出した。 困惑して当然だと思った。 でも、その困惑を悟られないようにしているのか、すずのは息を呑んでじっとする。 じっとしているすずのの秘部に、肉棒をゆっくり近付けて行く。 「……あ!」 ふっと先端に濡れたような柔らかな感触がした。 すずのの秘部に辿り着いたからだとすぐにわかる。 驚いたような小さな声。 けれど、その声もすぐに止まり、息を呑み込む音が聞こえた。 色々な事を我慢してくれているのだろうとわかる。 そのすずのの負担にならないように、慎重にゆっくりと、その奥へと肉棒を進めて行く。 「……んぅ!」 「はあ……」 「あ、ん、んっ」 強くきついその中へとゆっくり進んで行く。 ぎりぎりと痛いほどの感触。 でも、それはすずのが初めて誰かを受け入れるから。 そう思うと嬉しかった。 「はあ、は……は、あ……」 ゆっくりと奥へと進めて行くと、すずのは何度も苦しそうに息を吐いた。 大丈夫だろうかと不安になる。 けれど同時に、もっともっとすずのを感じたいとも思う。 「すずの……」 「あ、はぁ、あぁ……」 ゆっくりだったけれど、確実に奥まで進んだ肉棒。 最奥まで辿り着いたとわかると、先端がぶつかったような感触があった。 「全部、入ったかも」 「え……あ、え?」 「うん」 「は、はい」 こくんとすずのがまた頷いた。 ぎゅっとそのまま抱きしめてみると、安心したように息を吐く声が聞こえた。 「動いてみるけど、大丈夫かな?」 「えっと、あの……た、多分」 「ゆっくり動いてみるから」 「え、あっ! 晶さ……あ、あぁ!」 小さな体を抱えたまま、ゆっくりと動き始める。 体を揺らすだけのように、動きすぎないように気をつけて。 すずのの小さな体をしっかりと腕の中で確かめながら、何度も何度も腰を揺らす。 「は、あ……はぁ、あ……あぁ…!」 苦しそうに吐き出される息と声。 負担を与えすぎているのだろうかと心配になる。 でも、すずのは必死で俺につかまって苦しそうな声を抑えようとしているようにも思えた。 今、すずのはどういう表情をしているのだろう。 ゆっくりと、すずのの中で動きながらそんな事を思う。 「すずの、ちょっと」 「え、あ!」 「あ、う……」 すずのの体の向きを変えさせ、片足を持ち上げる。 すると、不安そうに小さな声が出た。 大丈夫だろうかと、また不安になる。 だけど、そんな事を思いながら、すずのの顔が見られた事が嬉しくもあった。 「顔、見たかったから」 「は、はい。わ、私も……」 「うん」 同じように思っていてくれたのが嬉しかった。 そしてすずのは、答えながら俺の体にそっと腕を回す。 抱き合って、お互いの顔を見つめ合っている状態なのが嬉しい。 そんな風に思うと、また自然と頬が緩んだ。 「もう一度、動くよ」 「はい」 うなずいたすずの。 そのすずのの頬に口付けてから、またゆっくりと動き出す。 「あ、はぁ……は、ふ、あっ…」 さっきよりも随分とスムーズに動けるようになっていた。 あふれ出す音と感触も激しくなり、締め付けられる感触も少しだけ柔らかになった気がした。 「は、あ、はぁ、な、中が……は、ふぁぁ……」 大きくゆっくりと腰を突き上げ、何度もすずのの奥へと辿り着かせて行く。 辿り着くたびに締め付けられ、引き抜くたびにねっとりとした感触を与えられる。 受け入れられているのだと感じられて、そう感じるたびに動きは段々と激しくなるようだった。 「晶さん……! あ、あ、ふぁぅ!」 「ん、ふっ!」 「あああっ! あ、っうあ! こんな、あっ! す、すご……来るぅ、奥に……! んぅ」 大きくなる動きにしがみ付かれる力が強くなった。 苦しいだろうか、辛いだろうか。 そう考えるはずなのに、動きが止められない。 それに、すずのの声にも辛さ以外のものが聞こえていた。 だからこそ、余計にその動きは止められずにいた。 もっと奥まで。 もっと深い場所まで。 もっとすずのを感じたい。 「しょ……さ、あっ! 晶さんっ!」 「うん。すずの……!」 「ひ、あっ! あ、ふぁっ! 奥ぅ、奥が、あっ! わ、私……の中、ふぁあっ!」 絡みつくようにねっとりした感触。 すずのに包み込まれているような気がして、その感触をずっと受け止めていたい。 そうしたいと思っているのに、動きが大きく激しくなると、それが叶わないと知っている。 何故なら、すずのが俺をねっとりと包み込むように受け入れてくれていると、限界が近付いてくるから。 「すずの……すずの……!」 「晶さぁ……あ、あぁあ、あっ! こ、こんなの、私、もう、あっ! ああああ、あっ!!」 「もう……んっ!」 もう何度、すずのの奥へと辿り着いたかわからない。 そして、またその奥へと辿り着いた瞬間。 ぞくぞくと背中に何かが通り抜けたような感覚。 それから大きく体が震えた。 でも、震えたのは体だけじゃなかった。 すずのの奥に辿り着いた肉棒も一緒に。 「あ、あああぁぁっ! 晶さん……!」 「……すずの!」 ふっと、目の前が白くなるような感覚。 そんな感覚があったと思うと同時に、体全体から力が抜けたような気がした。 そして、俺はすずのの中に勢いよく精液を吐き出していた。 どくどくと先端からあふれ出す感触。 その感触を感じながら、強く強く、すずのの体をしっかりと抱きしめる。 「あ、はぁ、はぁ……はぁ、は……」 「すずの……?」 「は、はい」 「……大好きだから」 「はい」 しっかりと、離れてしまわないように抱きしめていると、すずのも俺の体に腕を回してしっかりと抱き着いてくれた。 こうしている感触が、すずののぬくもりが、全てが嬉しかった。 結局、すずのはそのまま俺の部屋に泊まることになった。 完全にマックスたちの好意に甘える結果になってしまったけれど、俺もすずのも、満足だった。 一緒にいれる時間を大切にしよう。 そう約束しあって、俺たちは一つの布団で一緒に眠った。 ついに始まった、鳳繚蘭学園の繚蘭祭。 とは言っても、1日目の今日は内部公開のみだ。 色んな模擬店や展示が立ち並び、全生徒数はそんなに多くない学校のはずなのにすごく盛り上がっている。 どこもかしこも、みんなが今まで必死に準備して作り上げて来たものだ。 そんな中でも、我が繚蘭会主催の『出張limelight』はなかなかの注目を集めていた。 何しろ、目玉になっている企画のインパクトが違う。 あのケーキ王選手権で優勝した、桜子の『考えるちょんまげ』が食べられるんだから当然だろう。 あれは……かなりの衝撃だった。 あの衝撃はちょっと普通じゃ味わえないからなあ。 まあ、ケーキはまったく問題なくおいしかったんだけど。また食べたいし。 そもそも茉百合さんと桜子がウェイトレスをしている段階で、全校生徒の注目を集めるのは必至だしな。 俺と結衣は、午前中に出張limelightの手伝いの時間を割り振っていた。 午後からはゆっくりと繚蘭祭を見て回るためだ。 「晶くんおつかれさまー! さあ、はりきって繚蘭祭見て回ろうではないか!」 結衣の後ろからすずのがぴょこっと顔を出し、こくこくと頷く。 二人とも、好奇心に満ちた目をしていた。 「ああ。どうしようかな。どこから見て回る?」 「おまかせです」 「わたし食べ物あるとこがいいなあ」 「じゃあ、表の屋台かな」 「それー!」 「すずのもそれでいい?」 「はい」 「わーい!」 「食べるぞ!」 「食べるよ!」 最初は、食べ物関係のものを見て回る事になった。 俺と結衣がいる以上、当然といえば当然の選択かもしれない。 屋台は美味しそうな店がいっぱいで、どれから食べようか迷うくらいだった。 端から端まで全部順番に見て、お腹いっぱいになるまで食べた。 すずのにも、周囲の生徒達にはわからないようにこっそりとおすそ分けする。 すずのは嬉しそうな顔で、いろいろなものを食べていた。 「じゃ、次は何か展示とかゲームとかしに行こうか」 お腹がいっぱいになった後は、展示を見て回ることにした。 結衣もすずのも賛成とばかりに頷いてくれたが……。 「………」 ……すずのが、空を見ながら悲しそうな顔を一瞬だけ見せる。 本当にほんの一瞬だけだったが。 「すずの?」 「はい?」 その悲しそうな顔はすぐに消えて、いつもの笑顔になった。 気のせいだろうか。でも、その一瞬の表情がなんだか胸に焼きついている。 「あの、晶さん、あれ…」 「え?」 「はぐ、はぐはぐ」 「あー。あれか? 九条とぐみちゃんがやってる展示って」 教室の入り口には、『夢のタイムマシン体験コーナー』という、非常にうさんくさい看板が出ていた。 いかにも、文化祭チックな手書きのものだ。 「たいむましん……?」 「タイムマシンねえ……」 「すごいね! タイムマシンだって!! 行ってみようよ」 「いいけど」 「たいむましん…」 「あれ? もしかして、すずのちゃんは嫌かな」 「いえ、あの。違うんです、そうじゃなくて……たいむましんって何かなって思ったのです」 「タイムマシン、知らない?」 「えっと、知らないというか、なんと言うのか…」 「えーと、なんて説明したらいいのかな。んーと、過去から未来へビューンって行ったり、未来から過去へビューンって行ったりできるマシン!」 「びゅーんって?」 「それはいくらなんでも、簡単な説明すぎませんか結衣さん」 「だ、だって! じゃあ、他にどうやって説明したらいいのかわかんなくて」 「うーんと、そうだなあ……過去とか未来とかの、時間っていう概念を移動できる乗り物ってとこかなあ」 「あんまり変わらないと思うよ……」 「そ、そうか!?」 「時間を、移動できる乗り物」 すずのはよくわかっていなさそうに、まだ考えている様子だ。 やっぱりわかりにくい説明だっただろうか。 でも他にうまい言い方なんて、俺には考えつかない……。 「まあ、多分見ればわかるよ! 行ってみよう」 タイムマシン体験ブースに入ってみる。 マックスを作ったコンビが出す展示物だ、一体どんなものかと期待していたのだが……。 なんか、ダンボールだった。 呆気にとられて動けない俺。 結衣が興味深そうに俺の後ろから教室に入ってくる。すずのもその後に続いた。 すると、九条とぐみちゃんが気付いてお出迎えをしてくれた。 「いらっしゃいませですー!」 「お前、何しに来た」 「い、いや、展示を見に来たんですけど」 「そうか。仕方ないから見せてやる」 「はあ、どうも」 「タイムマシンって、どんなのでしょうか〜?」 「それでは、説明いたしますー!」 「うん」 ぐみちゃんと九条は、二人がかりで結衣になにやら説明をしている。 その間俺は周りの展示パネルやら、過去の失敗作やら何やらを見ていた。 すずのも結衣の背中にひっついて、説明を一心不乱に聞いている。 かと思えば、今度は俺の横までとことこ歩いてきて、展示パネルを眺め出した。 「なんか、一応本格的なんだなあ」 「……」 「すずの、どうかした?」 「……」 じいっと、食い入るように展示パネルを見ている。 九条たち二人は、まだ結衣への説明をしていてこちらには気付いていない。 俺はこっそりとすずのに話しかけてみた。 「……すずの?」 「は、はい!」 「なんか、真剣だね」 「はい。なんだか、すごいなあって……」 「まあ、確かにすごいよな」 「時間を移動……」 「晶くん、すごいよ!! タイムマシン体験しちゃおうよ!!」 「……あー、うん」 「ふふふっ」 俺も体験させられるのかな、ダンボールのタイムマシン……。 そんな事を思っていたのがバレたのだろうか。 すずのには笑われてしまった。 いろいろな展示を見て回り、少し歩き疲れた俺たちは休憩することにした。 すずのの事も考え、人が少ない場所のベンチを選ぶ。 ようやく落ち着いたと思った途端、結衣が勢いよくベンチから立ち上がった。 「それじゃ、わたしは天音ちゃんと約束あるから」 「え…?」 「そうなのか?」 「うん! ふたりっきりで仲良くどうぞ! じゃあねー!」 そのまま、走って校舎の方に去っていく結衣。 もしかして、気をつかって二人きりにしてくれたんだろうか。 まったく結衣には、世話になりっぱなしだ。 「……疲れた?」 「いいえ」 「かなり面白かったなあ、繚蘭祭。食べ物もおいしいし」 「はい。おいしかったです、楽しかったです」 「すずのも楽しそうで良かった」 「はい」 すずのは、ぼんやりといった様子で空を見ていた。 そして、またふっと一瞬だけ悲しい顔をする。 たった一度だけではない。さっきも、今も……。 すずのは今日、もう何度も、そんな悲しそうな顔をしていた。 最初は気のせいかと思ったが、そうではない。 やっぱり聞いてみた方がいいかもしれない。 きっと、すずのはまたいろいろな思いを一人で抱え込んでいる。 「すずの……」 「は、はい?」 「なんか、無理してないか?」 「はい、どうしてですか?」 「だって今、なんだかすずのの顔、悲しそうに見えたから、その。気になって…」 「……あ。ごめんなさい」 「どうしたの?」 「また、不安になったのか?」 すずのはふるふると首をふった。 「お願い……神様に、お願いしてたから」 「お願い? お願いか…そういう時、悲しそうな顔になるんだ」 「……それは。そのお願いが、少し悲しい内容だから」 「……もしかして、少しでも長い間一緒にいられますように、っていうお願い?」 また首をふる。 さっきよりも、少しだけ寂しそうな顔。 「もちろん。晶さんとは少しでも長い間一緒にいたいです」 「でもそうじゃなくて……」 「…私がいつか消えてしまう日が来た時、晶さんを傷つけないでいられたらいいのにって」 「すずの……」 「私がいなくなってしまった後、私の事を全部忘れさせてあげられたらいいのに」 「そんな優しい奇跡があったらいいのに……そんな事をお願いしていました」 俺が、すずのの事を、忘れる。 そんなことは考えた事もなかった。 楽しさの中で忘れていた、長くは一緒にいられないという現実を突きつけられた気がして、どうしても気が沈んでしまう。 「―――すずのは、俺を受け入れたこと、後悔してるのか?」 「そうじゃないの……そうじゃないんです……」 「じゃあ、どうして?」 「私、晶さんからたくさんの気持ちをもらったのに、何もあげられないのが悲しくて……」 「そんなことないよ、すずのも俺に、たくさんの気持ちをくれた」 「でも、私は何も残せません……!」 「私が消えて、ひとりで残るあなたのことを思うと、とても苦しくて」 「私がいなくなることで、あなたを傷つけてしまうのがとても辛い……」 静かに、だけどとても悲しげなその声は聞いているだけでも胸が痛んだ。 どうして、という疑問がいくつも浮かんでは消える。 私のことを忘れて――。 それは残酷な願いだった。 最初から何もなかったように。 こんなに好きだという気持ちも、そばにいたいという気持ちもなかったように。 そんなの、ひどすぎる……だけど。 だけど、それはすずのもわかっている。 「晶さんとの思い出が全部消えればいいとは思ってないです……」 「私、晶さんと今までいっぱい嬉しいことや楽しいことをしてきました。それはとても大切です」 「でも、消えた私や、そんな思い出に縛られてしまって、晶さんがいつまでも幸せになれなかったら…?」 「それは、私にとってとても……つらいことです」 それきり、すずのは黙ってしまった。 そんなふうに。 そこまで俺のことを…想っててくれたんだ。 今更になって、俺はすずのの想いの深さを知った。 すずのは頼りなくて、いつも泣き出しそうな女の子だった。 いつも守ってあげなきゃ――そう思わせる子だった。 だけど本当は違ったんだ。 俺が悲しまないように、傷つかないように、とても大事にしてくれてる。 必死に、そうしようと頑張ってくれているんだ。 「ありがとう」 「…え?」 「そこまで、俺のこと考えてくれて。俺のこと、大事にしてくれて」 俺は手を伸ばした。 すずのの頬に触れると、柔らかな温かさが指先に流れ込んできた。 大きな瞳が俺をまっすぐ見つめている。 すずのは泣かない。 淡い色の瞳の奥に、すずのの強さが揺れていた。 「でも、すずの、俺が思ってる事も聞いてくれる?」 「……はい」 「……俺は、すずのがいなくなったら、多分悲しくて泣いてしまうと思う」 「……」 「それは、すごくつらい事だと思うけど…」 「でも、その後どんな事が起きても、すずのと一緒にいた時間は俺の中で残ったままだよ」 「……どんなことが、おきても」 「忘れた方がいいなんて、そんなことはないよ」 「自分にとって、本当に大切なものは、いつまでも心の奥からなくならないと思うから」 「……それを、思い出に縛り付けてしまうなんて、思わないで」 そう言うと、すずのの顔にわずかな影ができた。 そんな顔はして欲しくない。 うまくできるだろうか。 こんなにも深い想いに、ちゃんと応えられるだろうか。 俺は自分の気持ちをひとつもこぼさないように、丁寧に言葉にのせて、伝えよう。 「俺が忘れなければ、すずのがいた事実は消えない。だってそれは、いつまでも俺の中に残るから」 「だからすずのが、これからいなくなるまでの時間……俺の中でいつまでも残る思い出の時間を……」 「―――それをどうやって一緒に過ごすかの方が大事じゃないかな」 「晶さん……」 「ごめん。なんかわかりにくいかも」 「心配することも、お願いすることもないよって、俺、そう言いたかったんだ」 「いえ、あの…」 「うん」 「晶さんは、すごいです」 「どうして、そんな風に考えられるのかなーって」 すずのの口元に笑みが浮かんだ。 ほんの少しだけ、寂しさがにじんだ笑顔だった。 「すずのがたくさん俺に考える時間をくれたから、かな」 「お友達のままでって言われてから、ずっと無意識にすずのの事考えてたから」 「あ……」 「でも、今は一緒にいる時間の事を大事にして、そのことを考えてたい」 俺も笑った。 心の底からすずのが好きだと思いながら。 そんな俺に応えるように、にっこりとすずのが笑った。 寂しそうな影はどこにもない、心からの笑顔だ。 「はい。そうします。そうしたい…です」 「よし」 「じゃ、明日は何をする?」 「え? あ、明日ですか?」 「ああ、でも食べ物系はほとんど回っちゃったかな。俺は二日目一緒のとこ回っても全然いいんだけど」 「ふふふっ。晶さんは食べる物の話ばっかり」 「いやいや。食べるものは大事だよ」 「はい」 微笑みながらすずのはこくこくと頷いた。 やっぱり、この笑顔の方がいい。 俺も幸せな気分になれる。すずのもきっとそうなんだと思いたい。 明日はどうしようか、なんて話をしながら、俺たちはまたかけがえのない一日を過ごした。 今日は、繚蘭祭2日目。 父兄や外部の招待客も来る日だから、昨日よりも断然人が増えて賑やかだ。 出張limelightも、昨日より人数を増やして対応している。 俺と結衣の二人は、午後に入って随分経ってからようやく休憩時間をとることができた。 ずっと教室の隅で俺たちを見ていたすずのが、ぱたぱたと駆け寄ってくる。 「晶くんおつかれさまで〜す!」 「……」 「うん。結衣もご苦労様ー。よくケーキのつまみぐい我慢したな」 「ふふふっ」 「それより、この後どうするの? 少しだけなら時間あるけど」 「あー。そうだね、あんまり考えてないなあ」 どうしたい? と尋ねるように、すずのの方を見た。 視線だけで何が言いたいかわかったようで、すずのはこくりと頷く。 「あ、はい。考えてないです…」 「そっかー。どうしようかなー」 俺たちがそんな風に話をしている時、ドアを開けて入ってきたのは珍しい顔だった。 「ああ、良かった。しょーくん、いた」 「え? なんですか?」 会長と、八重野先輩だ。 会長はともかく、八重野先輩まで何をしに来たんだろう? ……まさか、ケーキ食べに来たのか? 「葛木に少し話がある。今、時間はあるか?」 「ありますけど…」 「ごめんねー。ちょっと、しょーくん借りてくよ」 「え、あの。はい」 「なんかわかんないけど、ちょっと行って来る」 「うん」 「……」 結衣と一緒に、すずのもこくこくと頷いた。 それにしても、二人が揃ってわざわざ俺を呼びにくるなんて。 何か用事があるんなら、いつもみたいにメールで呼び出せばいいのに。 一体何の用事なんだろうか? 生徒会室には他に誰もいなかった。 ぐみちゃんは展示ブースだし、茉百合さんは今出張limelightでウェイトレスをしているから、当たり前といえば当たり前なんだけど。 促されてソファに座るが、二人の雰囲気は明らかにいつもと違う。 なんだろう……? 少し不安だ。 「話ってなんですか?」 「大事な話なんだけど……どこから話せばいいのかな…」 会長は困っているようだった。 この人がこんなに言いよどむなんて、本当に不安になってくる。 「……」 「――単刀直入に聞こう。葛木、お前は本当は、誰なんだ?」 「……え?」 「お前についてこちらで色々調べたんだが、その結果がどうにも不思議でな」 「不思議って……」 「どこの学校にも君の在籍記録がない。住所も戸籍もない……葛木晶という人間が生きてきた痕跡が、全くないんだ」 「え……」 俺は一瞬、何を言われているのか理解ができなかった。 在籍記録がない。 住所も、戸籍もないって……? 「そ、そんな! そんなはずないです!」 「――お前の父親、確か葛木茂樹と書類に書いたな」 「そうだ。あの、親父に連絡とってもらえればわかります!」 「……それは不可能だな」 「何でですか?!」 「葛木茂樹という名の刑事は、4年前に亡くなってるんだよ」 亡くなっている……? つまり、死んでいるって事か!? あまりのことに呆然とする。 「……そんな事! だって俺、ここに来る前に親父と…」 「で、電話! 電話貸してください!」 八重野先輩がテーブルの上の固定電話を指差す。 俺は慌てて受話器をとると、覚えている親父の携帯番号にかけてみたが……。 『この番号は、現在使われておりません』 そんな無情な声だけが、受話器からは聞こえてきた。 「……繋がらない。そんな…」 「……やっぱり、晶くんにもわからないの? どういうことなのか」 「わ、わかりません。俺、ほんとに嘘とかついてないし……全然わかりません!」 つたない言い訳のようにしかならないのは、混乱しているせいか。 だって、俺には本当に何が起こっているのかわからないんだ。 親父が死んでいて、俺はどこにもいなかった……? そんな夢のようなこと、突然言われたって! 「そうか……」 「じゃあお手上げだな、俺たちもわけがわからないし……」 「…すいません……」 「謝ることはない。いきなりこんな話をされて混乱しているだろう。すまなかったな」 「俺……どうしたら」 「まあ、大丈夫だよ」 「え…」 「君の経歴がまったくゼロでも、当分この学園は君の事守ってくれると思う。だから、安心はしていいと思うよ」 「どうして? だって、こんなの、どう考えてもおかしいし……怪しいし……俺、危険人物じゃないんですか?」 「まぁ、おかしいのはおかしいけど…」 「だったらなんで」 「別に嘘をついているわけでも、何か企んでいるわけでもないんだろう?」 「は、はい!」 「だったら、危険人物じゃあないよ」 「君の主張と現実が食い違うのは、まあ……記憶障害の一種とかそんなものかもしれないけどさ。それも、これから調べればいいだけの事だろ」 「そんな……簡単な話なんですか」 「うん」 会長は軽く頷いたけれど……本当にそれでいいのか? もっと深刻な問題じゃないのか。 全寮制のエリート学校に、出自のまったくわからないあやしい生徒がいるなんて……。 不審に思う気持ちが顔に出たのだろうか、八重野先輩がそんな俺を見て口を開いた。 「納得できないようなら、もう少しきちんと説明しよう」 「え?」 「お前は、九条たちが今回の繚蘭祭で展示しているものを知っているか?」 「えっと、確か……タイムマシン体験ブースとかそんな……」 「あれ、本物なんだよ。展示ブースのやつはなんかしょぼかったけどさ」 「え? 本物って、本物?!」 「そしてこの学園は、あのタイムマシンの開発のために、多大な研究費用を提供している」 「え、えっと、それとさっきの話と、どう関係するんですか?」 「そのタイムマシンの開発に、君の特殊な遺伝子がどうしても必要なんだって」 「え? 特殊な遺伝子……?」 「そう、もともと君がこの学園に残れたのも、特殊な遺伝子の持ち主だったからなんだ。だから毎月検査してただろ?」 「だから、学園には俺を守る理由があるってことですか……?」 「はい、正解です」 「当分は心配する必要がないという事だ」 当分は心配しなくてもいい……。 そうだとしても、親父が死んでいるなんて……。 未だに信じられない。 だって、家を出るまでは普通に目の前にいたのに。 前の学校のことだって、よく覚えている。 それなりに友人だっていたはずだ。 やっぱり、俺には何が起こっているのか、ひとつもわからなかった。 「んー。結局、何ひとつ謎は解決していないけど、もうこれ以上俺たちには手が出しようがないかなあ…」 「そうだな」 「……」 「でも、何かあった時にはすぐに俺たちに言ってくれた方がいい」 「は、はい」 「この事実を知っているのは、俺たちだけだ。できるなら、他の誰にも知られない方がお前のためだろう」 「……それは、わかります」 「賢明だ」 「………」 「話は終わりだけど……どうする? もうちょっと、落ち着くまでここにいる?」 「いえ、あの。行きます……」 「そうか。あまり深く考え込むなよ」 「……はい」 まだ頭は深く混乱したままだったが、ここにいてもどうしようもなさそうだと思った。 やっぱり冗談でした、って笑いながら言われた方がいくらかマシだっていうのに。 会長の心配そうな顔が、事態の深刻さを物語っている。 俺はソファから力なく立ち上がり、生徒会室を出た。 「あ……」 「晶さん」 扉を開け廊下に出ると、すぐ目の前ですずのが待っていた。 とことこと、こちらに走ってくる。 周りに他の生徒の姿は無い。 みんな、展示などをして賑わっている校舎の方にいるからだろう。 「晶さん?」 「あ、うん。ごめん」 すずのがどこか不安そうに俺の顔を見つめる。 おそらく動揺が表情に出てしまってたんだろう。 一緒にいる時間を大事にしようって言ったのに、俺がすずのの前でこんな顔をしていちゃいけない。 心の中の重い何かは消え去りはしなかったが、随分と奥の方へと隠れていった。 「何かあったんですか?」 「ううん、違うよ。たいしたことない」 「……はい」 「ごめん。心配して来てくれたんだよな」 「はい」 「ありがとう。すずのの顔見れて、ちょっと嬉しい」 「あ……!」 頭を撫でると、すずのは恥ずかしそうに顔を真っ赤にした。 ――そうだ。 俺がどんな存在であっても、すずのには……すずのを想い、すずのが想ってくれる気持ちには関係ない。 そう思うと、少しだけ気が落ち着いたような気がした。 「来てくれて、本当にありがと」 「はい!」 「え?」 その時、突然に生徒会室の扉が開いた。 会長と八重野先輩が、部屋から出てくる。 「………誰か、いたの?」 「お前の話し声が聞こえたから出て来たのだが」 二人は、廊下を見回しながら不思議そうな様子だ。 もちろん、廊下には生徒の姿はない。 俺の目の前にいる、すずの以外は。 「えっと、あの……」 「……!」 すずのが申し訳無さそうにしながら窓際まで下がった。 彼女の姿が見えないであろう二人には、俺がひとりで声を上げていたように見えたんだろう。 「………あの、大丈夫?」 「……」 「え、えっと」 「やっぱりショックだっただろうし、あの、保健室とか行く?」 「だ、大丈夫です! なんでもないんで!」 「それなら、良いのだが……」 「あの! やっぱり、色々疲れたので帰ります!」 「え? 晶くん……」 「本当に、大丈夫なのか……?」 これ以上いると、ボロが出てしまいそうだったので慌てて俺は立ち去った。 一度だけ振り返ると、とことことすずのがついて来ている。 そして、会長と八重野先輩は、複雑そうに俺をずっと見ていた。 言った方がよかったのかな……すずののこと。 少しだけ俺は後悔していた。 長いようで短い繚蘭祭が終わった。 最後のお客さんを送り出して、繚蘭祭終了の放送が聞こえた後、一気に疲れが襲って来たような気がした。 「みんな、お疲れ様。これで繚蘭祭は終了よ!」 「無事終わって、なによりだったわね」 「はい」 俺はさっきより、随分と落ち着いていた。 すずのがそっとそばについていてくれているからかもしれない。 いつ、お別れの時が来てしまってもおかしくないと、そんな気がするのだとすずのは言う。 だから残された時間を、悩んでばかりで過ごしたくはない。 会長たちも、当分は大丈夫だと言ってくれたしな。 「しかし、なかなか楽しかったなー!!!」 マックスは例によって九条たちが気をきかせた結果、今日はあきらバージョンでの参加だった。 もちろん本人は嫌がっていたが、今はもうすぐ元の体に戻れるということでテンションが高いみたいだ。 「そうですね。ケーキも皆さんに喜んでもらえたみたいでよかったです」 「ふふふ。そうね」 「今日はみんな疲れているだろうから、このまま着替えて帰って下さい」 「その代わり、明日は全員で撤収・片付け・掃除などの作業をしますから」 「おー! 明日は片付け作業かー!」 「みんなでやれば、きっとすぐよ」 「おーーー!」 「あきらは元気だなあ…」 確かにこれを全部片付けるとなると、結構な大仕事だ。 でも、最後まで自分たちでやってしまわないといけないって事だよな。 「あの、皆さん……実は、明日なんですけど」 「あぁ、そういえば。まだ言ってなかったのね、桜子」 「うん…」 「え? 何?」 みんなに声をかけた桜子の言葉が一瞬止まる。 どうしたのだろうと見つめていると、少し言いにくそうに桜子は俺たち全員に視線を向けて口を開いた。 「私、明日から病院に入院しないといけないの」 「え!?」 「びょ、病院ってなんで? え?」 「オイオイ! なんか大変な事でもあったのか?」 「あぁ、みんな安心して。そんな大変なことではないのよ」 「あの、検査の結果にちょっぴり問題があって、もう少し詳しい検査をするだけだから……」 「検査入院ってこと?」 「はい」 「ちょっと行くだけ?」 「はい。すぐ戻れます」 「なんだー。ビックリしたぜーーー」 「うん」 もしかして、繚蘭祭の準備や当日まででかなり無理をしたんじゃないかと心配になってしまった。 でも、茉百合さんがにこやかな顔をしているし。 きっと本当に、少し検査に引っかかっただけで大丈夫なんだろう。 「お片づけの手伝いができないのは申し訳ないのですけれど……」 「いいのよ! そんなの、こっちでやっちゃえるから」 「そうだよ、大丈夫」 「皆さん、ありがとう」 「こっちは心配しなくていいから、病院終わったらすぐ帰ってこいよー?」 「はい」 皆からかけられる声に桜子が笑顔で頷く。 「明日からのお片づけ、がんばってくださいね」 「俺が桜子の分まで動くから、大丈夫だよ」 「そうそう。なんと言っても、晶くんは男の子ですからね」 「オレだって男だぞー!!」 「ふふ。その姿で言ってもね」 天音や茉百合さんが、そのまま更衣室に向かう。 九条と合流してマックス状態に戻るというあきらをそのまま教室に置いて、俺はすずのと先に寮に帰ることにした。 部屋に戻ってきてソファに座ると、やっと一息つくことが出来た。 なんだか今日は、時間があっという間に過ぎて行ってしまったような気がする。 すずのが横から、申し訳なさげな小さい声で俺に話しかけた。 「ごめんなさい、晶さん。わたしのせいで……」 何を謝っているんだろうと思ったが、すぐにひとつのことに思い当たる。 「もしかして、生徒会室の前でのこと?」 そう聞くと、すずのはこくこくと頷いた。 「大丈夫だよ。気にするなって」 「もう少し、気をつけて話しかけるべきでした……私が見えないから晶さんが……」 「もう気にしなくていいって、本当に大丈夫なんだから」 「はい」 この話はもうやめた方がいいかな、と俺は思った。 すずのを心配させたくない。 「そうだ。明日は一日、繚蘭祭の後片付けなんだよ」 「あ、そうですね」 「また、いつもみたいにこっそり手伝ってもらっていい?」 「え?」 「すずのに手伝ってもらえると助かるし、一緒にいれて嬉しいし」 「本当ですか?」 「うん。もちろん」 「はい…! わかりました、がんばります」 「うん」 すずのはにっこりと笑い、やる気をアピールするようにガッツポーズをとった。 うん、よかった。 「明日は準備の時くらいに忙しいだろうからな、ちゃんと休まないといけないな」 「そうですね」 「すずのもちゃんと寝なよ」 「はい!」 何もわからない自分のことはもちろん気になるし、まるで迷路にでも迷い込んだ気分だったけれど…。 すずのの前では、すずのがいてくれる間は、俺も気にしないでおこう。 今は、すずのと一緒にいる時間が、何よりも大切だ。 俺は心の中で、固くそう思った。 「おーい、晶! 晶ーっ!」 「うう……」 「とっとと起きやがれい〜! 朝だぞぅ!」 「ええ……ああ、うん。眠……」 マックスのけたたましい声で起こされた。 何でいるんだろう、と一瞬考えたが……そうか、今日は、limelightは休みなのか。 ――何だろう……。 高いところから落ちる怖い夢を見たような気がする。 そのせいだろうか、決して寝起きが悪いというわけではないのに、まだ夢を見ているみたいな気分なのは。 「ほらほら、今日は繚蘭祭の後始末の日だろー。寝坊してんじゃねーぞー」 「うう、そうだよな……起きなきゃ」 しぶしぶ起きて、俺はパジャマを脱ぐ。 時計を見る。朝ごはんを食べている時間はなさそうだ。 「お腹減った」 「早く起きないからだぞー! 仕方ないなあ、オレの大事なストックを出してやる」 「ケロリーメイトかよ」 「何言ってんだ! ケロリーメイトは万能食料なんだぜ」 「うう、ひもじいよう」 「なんだよ、特別にもう1本出してやるから元気だしなってばよう」 「……ありがと」 制服に着替えながら、もそもそと口に入れた。 何かをしながら食べられるというのは、この食料のよいところだ。 おかげで、何とか時間も間に合いそうだった。 寮を出て、二、三歩。 そこで、何か無性に焦る気持ちに襲われて、俺は動きを止めた。 「どうした、晶?」 マックスが不思議そうに振り返る。 なんて説明したらいいんだろう。 ――突然、自分の父親の安否が心配になっただなんて。 それを正直に言うのは恥ずかしかったので、俺は誤魔化した。 「いや、まあ、なんか……」 「なんだ? 忘れもんか?」 「うーん。なんていうかなあ……悪い、マックス先行ってて。すぐ追いかけるから」 「わかった、遅刻しないようになっ!」 せっかく間に合いそうだったのに、これでは走らなきゃ間に合わない。 俺はため息をつきながら、寮の中に入った。 談話室の固定電話を借りて、親父の携帯に電話する。 コール音がひとつも聞こえないうちに、即座に反応があった。 「晶くん!!!!!」 「う、うるせー」 「なんだい、なんだい? どうしたの?」 「……いや、その」 ……かけなきゃ良かったかなあ。 「晶くんから電話が来るなんて嬉しいなあ!」 「大げさだなあ」 「何を言う! 父さんはずっとひとりで寂しかったんだぞ。連絡くらいしてくれればいいのに」 「いや、いろいろあったんで……その、ごめんなさい」 「まあ、新しい場所に慣れるのに時間は必要だからね」 「うん」 「で? そろそろ慣れたかい? 楽しい?」 「それなりにね」 「そうか。そりゃ良かった」 「……親父は? 元気なの?」 「それがねー。今、ヒマでヒマで! まあ事件がないっていうのは良いことなんだけどね」 「ああ、そう……」 「あ、そうだ! この間、学園からうちにお知らせが届いてたよ」 「お知らせ? なんの?」 「三者面談のお知らせだよー! 父さん、絶対に行くからね」 「ああ、はいはい」 「仕事に穴をあけてでもいく!!」 「いや、仕事はしろよ、ダメだよ」 「ははは! それくらいの気持ちって事だよ」 「はいはい。じゃあ、切るからな」 「ええええ! もうちょっと話そうよー!」 「また今度な。じゃーねー」 「ちょっと! 晶くん!! 他にも話したいことあるんだよお」 「遅刻するから、もう切るよ」 「うう……遅刻か、それはいけないな……悲しいけど切るよ、切るよおお」 ――俺、何を心配していたんだろうか? 首をかしげながら、がちゃんと受話器を置いた。 少し考えてみるが何も思いつかない。 あ、そうだ! のんびりしている場合じゃないぞ! このままでは遅刻してしまう! 撤収と掃除、片付け作業のため、出張limelightの教室には出展に関わったメンバー全員が揃っていた。 そして、みんなが遅刻した俺を今見つめています。 「どうしたの、葛木くん。遅刻なんて珍しいわね」 「遅刻……万死に値する」 「えええええええ! ご、ごめんっ!!」 「ふふふ。ちょっとだけだから、大丈夫よ」 「よーし! みんなでがんばろうぜー」 「……適当にね」 「そういえば九条」 「なに?」 「ぐみちゃんとやってた展示ブースの方、あっちの片付けはいいのか?」 「大丈夫。やる事はマシンを元の場所に移動させる事がほとんどだし、ぐみは場所も把握してくれてる」 「そっか。それなら良かった」 「そんな事より、遅刻した分働け」 「は、はい」 飾り付けをひとつひとつ丁寧に外していき、掃除をして、別の教室にあった机や椅子を戻してくる。 片付け作業はなかなかの手間だった。 「それにしても片付けも大変だなあ」 「この人数ですものね。余計に大変かもしれないわ」 「でも、できない事はないですよ。準備もお店もできたんですから」 「ええ、そうね」 「機能的に動けばいい」 「よっしゃあ、オレはみんなの3倍働くぜー!!」 「……」 何故かはわからないのだが、この状況に妙な違和感を感じる。 俺は周囲を見渡してみた。 天音。 マックス。 茉百合さん。 そして九条。 なんだか、おかしくないはずなのに、人数が少ない気がする。 「晶くん、手が止まっているわよ」 「遅れて来た上に働かないとは……」 「わー!!! やります! やってます!!!」 「晶も3倍働けよー!」 「お前みたいには無理だ!」 慌てて手を動かして、片付けしていますアピールをする俺。 だけどやっぱり、どこか―――。 「ふっふっふ。困っているようだね、諸君!!!」 「……来た、なんでこんなめんどくさい時に」 「はああああ」 「あらあら」 「ああ、なんかこう……しんどくなるな」 「ばばーん!! 困った時にはお任せあれ! 生徒会です!」 「こんにちはー!」 「やあ」 「何しに来たの!!!」 「ひ、ひどい、天音!」 「邪魔するなら帰ってちょーだい!!」 「ま、まだ何も言ってないのに……」 「どーせロクな事考えないんだから」 「あ、あわわわ! ち、違いますよ、違います! お役に立ちに来たんですー」 「バカイチョーが? 無理」 「くるりんまで!!!!」 「いやまあ、普段の行いを見ていれば……」 「しょーくんまで!!」 「いいから、さっさと本題に入れ」 「あ、そうでした」 「もしかして、お手伝いに来てくれたのかしら?」 「そうです! 繚蘭会のお手伝いに来ました!」 「ぐみとくるりんのブースのお片づけが終わって、時間ができたのでこっちもお手伝いしようと思ったんです」 「ね? ほら、邪魔しに来てないでしょ? ね?」 「……はいはい」 「それじゃあ、お手伝いしてもらってもかまわないかしら?」 「そのために来たのだからな」 「はいです!」 「おうよー」 「じゃあ、ぐみはこっちを手伝って」 「はーい!」 「オレもマミィとダディを手伝うぜー」 「良い子ですね!」 「あったりめーよ!」 九条がぐみちゃんを呼び、マックスがそれについて行く。 まあ、確かにこの3人で動くのが効率がよさそうだ。 恐ろしい勢いで片付きそうでもある。 「八重野君は、こちらをお願いできるかしら?」 「わかった」 「天音ちゃんもお願いしてかまわない?」 「はい!」 茉百合さんは、八重野先輩と天音と一緒に掃除をし始めた。 てきぱきと指示を出す茉百合さんと、それに答えつつ作業をするふたり。 ここも統率が取れてるって感じだ。 しかし、しかしだ……。 「さー! 俺も張り切っちゃうよー」 「……」 「……」 残されているのは会長と俺のみ。 これは、俺が会長に指示を出すという事……か…? 「……じー」 「……」 なんか見られてる。すごく見られてる。 なんでこんなに見てるんだ、この人は。 「じーーー」 「……」 無視だ。無視しよう。 多分、それがいい。この人は役に立たない。 それならじっとしてもらった方がいい。 考えない、考えない。 えっと、これはどこにやるんだったかな。 あっちかな。そうだ、あっちの棚だ。 「……」 「生徒会長は仲間になりたそうにしょーくんを見つめている」 「……」 相手をしちゃだめだ。 相手をしたら、思うツボだ。黙って片づけよう。 「……」 「生徒会長は……」 「………」 「うわーん! しょーくんまで俺を無視するなよー!!」 「うわああああああ!!!!」 特に鍛えているでもない俺が、突然の突撃に対応しきれるわけがない。 俺と会長は、二人してテーブルクロスなどの洗濯物を集めた場所に頭から突っ込んだ。 「ちょ、ちょっと! 何やってんのよ」 「……はあ」 「大丈夫?」 「おい! 晶、大丈夫か?」 ひっくり返った机の下から、よれよれになって出てくる俺。 あと会長。本当に、この人は……。 「いててて……」 「いった……膝打っちゃった」 「かいちょー! ご無事ですかー!!!」 「あー。大丈夫だよー」 「それなら良いのですー! あうあうあう」 「葛木、大丈夫か?」 「あ、はい。なんか、ちょっと頭は打ったみたいですけど」 「頭か。どの辺りだ、痛みはあるか?」 「いえ、そんな大した事ないんですけど」 「え? ホントに大丈夫なの!? 病院行かなくていい?」 「あんたのせいでしょうが……」 「うん」 「いや、頭打ったとか大変だよ! 病院行かないと!!」 「いえ、そんなに大した事ないですから」 「しかし、念のために行っておいた方がいいだろう」 「はあ」 八重野先輩の眼差しは、周りのみんなと違って真剣なものだった。 さっきまでふざけていた会長も、心配そうに俺を見ている。 「ちょっと、連れて行ってくる!!!」 「ついでにお前も膝の打ち身を診てもらえ」 「うん。そんじゃ、しょーくん行くよ」 「え、あ、はい」 あっという間に手をつかまれ、俺は会長に引っ張り出されてしまった。 なんだか二人の態度が、妙に焦っているような、心配しすぎのような……。 「二人とも行かせてよかったんですか?」 「この方が静かで片付けもはかどるだろう」 「ああ。なるほど」 「それに、頭を打った衝撃で何らかの障害が起こっている可能性は否定できない。きちんと検査してもらった方がいい」 「はい」 「それじゃあ、続けましょう」 「うん」 「はーいです」 「オレはやるぜ!!」 病院で一通りの検査をしたが、特に問題はないようだった。 ひとまずは安心と言ったところだ。 会長も院内薬局で湿布か何かをもらったらしく、ビニール袋を提げている。 「いやあ、なんともなくて良かったねえ。安心、安心!」 「検査なんて大げさなんだよ」 「そうかなあ」 「大体、あんたはサボりたかっただけでしょ」 「……んー」 「なんですか?」 「いや、あの時しょーくんの事がものすごく心配だったのは確かなんだよねえ」 「はい?」 「うーん。なんでだろうなあ」 珍しく、真面目な顔をして何を言ってるんだろう、この人は。 でも確かに、俺も心配されていたような気はするのだ。 自分でもなんだかばかなことだとは思うのだけど。 「ま、いいや。帰ろう」 「そうですね」 「片付け少しは手伝わないとねー」 「手伝う気なんかないでしょ……」 「そんな事ないよ! 手伝う気満々だよ!!」 「本当にそう思うなら、じっとしてればいいんじゃないですか」 「ひどいっ! まるで俺が邪魔しかしないみたいに言う!」 「あれ? 雨……かな」 気のせいかと思っていたら、本格的に雨が降ってきた。 さっきまで曇り空だったから、ちょっとやばいかなとは思っていたけど…。 「あっちゃ、やっぱ雨だ」 「本格的に降ってきた」 「病院で傘借りてくるよ」 「あ、はい」 会長は、小走りで病院へ戻って行った。 「……」 雨は、勢いを増していく。 屋根のあるところでしばらく雨宿りした方がいいかもしれない。 会長を追って、俺も病院へと走った。 「いつまで降るんだろ…」 ロビーの椅子に腰掛けて、窓の外をぼんやり眺めていた。 雨が大きなガラス窓を滴り落ちる。 会長が傘のことを聞いてくれたが、この突然の雨で貸し出し用のものが全部出て行ってしまったらしい。 仕方なく、俺と会長は雨が落ち着くまで病院で雨宿りすることにした。 とは言ったものの、あの会長がじっとしているわけなんてない。 会長は雨があがったら戻ってくるなんていいながら、すぐにどこかへふらっと行ってしまった。 「……はあ」 ……なんだか、落ち着かない。 何故かはわからないけれど。 「あ……」 メールの着信音に、ポケットから携帯端末を取り出した。 差出人は天音だった。 『検査どうだった? 大丈夫だった?』 そんな短い文章が画面に表示された。 ちょっと心配性の、天音らしいメールだ。 すぐに『全然大丈夫』と返信して、ふたたびポケットに端末をしまった。 「………なんだ…?」 ぞわっという感覚が、背筋を這い登った。 それは、恐怖に似ている何かだった。 雨……。 そして、端末のメール……。 何だ…? 何故俺はこんなに、怯えながら、焦っているんだろう…!? 「わすれもの……何か……あれ?」 わけのわからない感情の高まりにいても立ってもいられず、俺は病院を飛び出した。 「はあ……はあはあ」 降りしきる雨の中を走って、寮まで戻ってきてしまった。 すっかり濡れてしまったけど、そんなこと気にならない。 それよりも何かが俺を突き動かしている。 何か確かめなきゃいけない気がする。 何をだろう。何? わからない。 廊下を走り、ある部屋のドアを開ける。 室内はがらんとしていた。 そうだ、ここはずっと空き部屋だ。 そんなことわかってたはずなのに――俺は何しているんだろう。 何かを探している気がする。 何かってなんだろう。 自分の中にある違和感が、どんどん大きくなっていく。 「ここじゃ……ない?」 自然と足が向かった先は、学園だった。 体は更に濡れてしまった。 だけど行かなくちゃ。 そう思って走り続ける自分と、どこに行くんだと問いかける自分。 どこに――どこに向かってるんだろう。 中庭には誰もいなかった。 雨が降っているから、当たり前だろう。 そんなことはわかってる。 だけど、だけど――。 校舎の中も人は少なかった。 俺が走りぬけても、誰にもぶつかることはなかった。 「俺は……何してるんだろ、どこへ行こうとしてるんだ?」 わからない。 わからないけど、足は止まらない。 「……」 「ここもちがう……」 ここにも誰もいない。 ここは違う。もっと他の場所を探しに行こう。 「……探す?」 何を? 俺は何かを、探している? それはこの心の奥のざわめきなんだろうか。 教室にも人影はなかった。 おかしな話だ。 何かを探していることだけはわかるのに。 わかっているのに、探しているものが何なのかも、どこへいけばいいのかもわからない。 ただわかるのは、ここにはない事だけ。 それから。 それから――何がなんでも、見つけないといけないという焦りだけ。 走るしかない。 ただ、走るしかなかった。 教室も、中庭も、いろんな場所を駆け巡った。 それでも俺の探しているものは見つからない。 「はあ、はあ……俺、何を探してるんだ?」 指先に力が入らない。 「何、見つけようとしてるんだ?」 ひざが少しだけ震えていた。 「……俺、何を」 わからない。 さっきからその答えが、どうしてもわからない。 でも、今見つけないといけない気がする。 今、探さないと消えてしまう気がする。 「消える?」 何が? わからない。 でも、大事な何かが消えてしまう気がしてならない。 「……」 俺は顔をあげた。 あともう一箇所――行ってない場所がある。 「……何か」 ――雨が降っていた。 そして。 女の子が立っていた。 「………あっ…!!」 じっとこちらを見つめる眼差し。 いつもどこか心配げな、申し訳なさそうな顔。 でも笑う時は本当に嬉しそうに、小さな花が咲いたみたいに微笑む子。 そうだ。 知ってる。 知ってる……だけじゃない。 俺の大事な、一番大事な子が、そこに立っている。 「―――すずの!!」 探していたものが何なのか。 忘れていたものが何なのか。 全部わかった、全部思い出せた。見つけられた。 でも、どうして……忘れていたんだろう。 心の奥に疑問はわいたけれど、それよりも先に俺はすずのに駆け寄った。 「良かった、すずの。ずっと探してたんだ」 「……」 「ああ、ずぶ濡れじゃないか」 すずのは雨に濡れて立ち尽くしたまま、動かなかった。 「ずっと見つからないから、本当に消えてしまったかと思った……」 「……」 「よかった、いてくれて」 こんなに濡れていたら、風邪をひくよ。 早く校舎の中に戻って乾かさないと。 俺もだけど、すずの。 すずのが風邪をひいたら、心配だから。 いろんな言葉が湧き上がった。 でもそのどれよりも早く、すずのに触れたい。 すずのがここにいるんだと、感じたい。 「すずの」 手をのばし、すずのの頬に触れる。 すずのも顔をあげてくれた。 そんな気がしていたのに。 「え……」 雨が指先をぬらしていた。 ぱたぱたと、小さな雨粒がはねてゆく感触。 その先にあったはずの――すずのがいない。 俺の手は、誰もいない屋上で、所在無さげに漂っていた。 誰もいない。 誰もいない。 すずのはどこにもいない。 「……ああ」 思い出した。 すずのは何度も言ってた、もうすぐ消えてしまうって。 本当に消えてしまったのか? それとも、最初からいなかったのか? 俺は何を見ていたんだ? 何を忘れていたんだ? 答えをくれる人なんて、いなかった。 ここにいるのは、俺一人だけだから。 屋上には、誰もいなかった。 伸ばした手の先には、最初から誰もいなかったんだ。 『私が消えて、ひとりで残るあなたのことを思うと、とても苦しくて』 『私がいなくなることで、あなたを傷つけてしまうのがとても辛い……』 「俺……いったよな」 頬を流れるのは、きっと涙だ。 雨の滴じゃない。 涙は俺の体温と同じ熱さだった。 「きっと泣くって……すずのが消えたら…泣くだろうって」 がくん、とひざが崩れる。 雨で冷えたコンクリートの衝撃が、ひざから全身を駆け上っていった。 「……すず……うっ、すずの」 でも痛くはなかった。 そんな痛みなんて、感じられない。 「……すず…の」 きっと後悔するから――。 そう言っていたよな。 いつか私はいなくなるから、と。 そう、すずのを失うのは怖い。悲しい。辛い。 だけど、こんな風にいなくなるだなんて思わなかった。 まるで最初からいなかったように、だなんて。 すずの。 俺は涙を流しながら、何度その名前を呼んだんだろう。 すずの。 コンクリートに降る雨の音すら、どこか遠い。 世界中の何もかもから、切り離されてしまったみたいだ。 「こんな終わり方は……ないだろ、すずの……」 雨はずっと降っている。 体はずっと濡れている。 着ているものが水を吸って、どんどん重くなってゆく。 崩れるように地面についたひざには、まったく力が入らない。 涙が止まらない。 そのまま一体どれくらいの間、うずくまっていただろう。 「……え?」 不思議な感覚が、突然やってきた。 雨粒は相変わらず、コンクリートの上を跳ねていた。 それはもちろん、俺の上にも。 なのに、さっきまであった感覚――雨が自分の体を打つ感覚を、いつのまにか感じなくなっていた。 おかしい。 ずっと濡れていたせいで、何も感じなくなってしまった? それとも、悲しくてそんな風に感じているのかな。 「……」 そっと顔をあげてみる。 やっぱり誰もいない。 だけど、俺は見た。 自分の体の少し上で、雨粒が跳ねて弧を描く姿を見た。 透明なガラスの屋根にあたる雨を、下から見ている感じ。 その不思議な光景を、俺はしばらくぼんやりと見上げていた。 「……なぜ?」 なんだろう……何か変だ……。 この感覚……なんだっけ。 『そうだな、雨粒がお前の背中で跳ねていたというか…なにか見えないものに当たっているような感じだったな』 「……あ」 ―――通り雨が降ってきてさ。そしたら、みんなが俺の背中に、透明な人が見えるって言うんだよ。 「―――すずの?!」 「すずの、いるのか…?」 雨粒が消えていった場所に、手を伸ばす。 指先には何も感じない。 握っても開いても、空気をつかむだけだった。 でも、確かにすずのがここにいる。 そんな気がしてならない。 「ここに……いるんだな、俺の前に……!」 誰もいない屋上で、俺は叫んだ。 「すずの…!」 どんなに滑稽だと思われようとも、かまわない。 どうやってでも、すずのに聞いてほしいから。 「俺、ここに来るまで、お前のことを忘れてしまってた」 「すずのがいないことが、普通になってて、それすら気付かなくって……! 俺、バカだ…!」 「…だからすずのの事が見えなくなっちゃったのかな………ごめん! ごめん、すずの!」 雨はまだ降り続けている。 息を吸い込もうとすると、顔をぬらしている滴が鼻や口に入ってきそうだった。 「……あ」 その時気づいた。 何かが俺を守ってくれているように。 顔の周りの水滴が消えてゆく。 俺の目の前に、ここに確かに、すずのがいる。 「すずの……っ…」 「…え……」 「………」 「……あ…」 「……ちがいます」 ふわり、と見覚えのある姿が現れる。 すずのだった。 すずのは雨に濡れながら、そのか細い腕で俺を抱きしめていた。 「―――す……すずのっ! すずの!」 確かに感じる。 小さくて細くて、それから柔らかい体の感触。 ひざまずいて、俺を守るように抱きしめてくれている。 「晶さん…」 「すずの……! 幻じゃないのか、本当にここに…いるのか…?」 「はい、います…あなたの前に……」 「すずの……っ……会いたかった…!」 「私、も…」 「俺、本当に消えたかって………思って…」 「ごめんなさい……」 「謝るのは俺の方だ、すずののこと忘れて、すずのの事見えなくなって……俺、あんなに好きだって言ったくせに!」 「ごめん、すずの…ごめん」 「謝らないで。晶さんは、悪くないんです……」 「違うんだ、俺が、俺が! なんでなんだ、なんで俺、すずののこと」 すずのは頭をふった。 違いますよ――と。 だけどほんの少し前まで、俺の中のすずのの記憶はすっぽり無くなっていた。 「俺、大事なものを忘れるなんて……一番大事なものが見えなくなるなんて……」 どうしてなんだろう。 こんなにも大切で、何にも替えられないひとを、俺はなんで忘れてたんだろう。 気がつくと、すずのはそんな俺の頭をなでてくれていた。 雨はいつのまにか、あがっていた。 すずのはしばらく俺の頭をなでていたが、やがてゆっくりと体を離す。 「すずの?」 「……顔をあげてください」 「晶さんに私の姿が見えなくなったのは、私のお役目が終わったからです」 「え…?」 「あなたがもう要救助者ではなくなったので、システムの可視対象から外れたんです」 「今、一時的にシステムを切ったので、晶さんに見えている私の姿は他の人にも同じように見えるはずです…」 「………」 「ごめんなさい、いきなりでよく…わからないですよね…」 「すずのは……どこから来たんだ? もしかして、幽霊じゃ…ないのか?」 「…はい。私は、幽霊ではありません。記憶を無くしていて、自分のことを幽霊だと思っていただけだったんです」 「私は……未来から来た人間です。晶さんのことを助けるために、来ました」 「俺を…助けるために…未来から?」 すずのはこくんと頷いた。 いつもと変わらないその仕草。だけどすずのが紡いだ言葉は信じられないようなことだった。 未来? 未来って――今の時間ではなく、いずれやってくる先のことではなく。 俺の知らない時間のこと、なのか? 「ごめん、ちょっと、混乱してる」 「はい……」 「未来から、どうやってきたの?」 「時間と空間を、飛び越える装置を使ってです」 「そ、それって…タイムマシン?」 「はい。フライアと言います。プロトタイプはこの学園で作られたものです。晶さんも、一度見たはずです」 「あ、あれが…?」 ふっと思い出したのは、繚蘭祭で九条たちが展示していた機械だった。 会長たちは本物だと言っていたけれど――やっぱり、本当だったのか? なんだか今でも信じられない。 「えっと…俺を助けるっていうのは……?」 「あなたは昨日まで、違う宇宙…いえ、違う世界にいたんです」 「え、ええ…??」 ぐるりと辺りを見渡してみた。 屋上も、校舎も、ここから見える景色の何もかもが見覚えのあるものだ。 昨日までと何も変わってない。 いつもと同じ光景だった。 「な、何もかも、同じにしか見えないけど」 「わからないのは、仕方ありません。あなたが昨日までいた世界は、今と限りなく近い世界です」 「覚えていますか。この学校に初めて来たとき、花火の爆発に巻き込まれたこと――」 「あ、あぁ、もちろん」 「あのときの爆発で、あなたは違う世界に飛ばされてしまったんです」 「私、晶さんを助けようとしたのですが……一緒に爆発に巻き込まれてしまって…そのショックで、記憶を失ってしまって」 「それで誰にも見えないようになっている自分の事を、幽霊だと思ってしまったのです」 「……じゃあ、あの時手を握ってくれたのは、すずのだったのか?!」 「はい……すみません、私があの時記憶を失ったりしなければ……こんなに長い間、晶さんを違う世界で一人ぼっちにしなくてもすんだのに」 「でも…今は全部思い出しました。自分の使命も、思い出すことが出来ました……」 「だから、こうやってあなたを元の世界に。あなたが本来いるべきだった世界に戻すことが出来たんです」 「……もしかして、俺の戸籍がないとか、親父が死んだとか言われたのは…」 「はい、あの世界は、今とは別の世界だからです」 「………」 信じられない話だったけど――納得のいくこともあった。 今朝親父に電話したら、当たり前だけどちゃんと生きていた。 電話番号だって変わってない。ちゃんと繋がったんだ。 だけど昨日は、戸籍はないとか、親父は死んだとか、確かに言われていた。 その時は何もかもがわからない状態だったけど……。 「世界を飛び越えたときに、時間のずれが出来てしまって……時間が少し戻ってしまったので、晶さんには二度もお掃除をさせてしまいました。ごめんなさい」 「――そうだ」 すずのに言われて、初めて気づいた。 二度目だ。繚蘭祭の片づけをするのは……二度目。 同じ日を二回、繰り返してる。 「……なんか、とても信じられないようなこと言われてるけど…」 「……はい、そうですよね…」 「でも……すずのは嘘なんかつかない子だから……本当、なんだな」 「晶さん……」 「はい、私は…晶さんに嘘はつきません……信じてください」 「うん…」 「俺、すずのに礼を言った方がいいよな。助けてもらったんなら」 「………そんな」 「ありがとう」 「晶さん…」 すずのが微笑んだ。 今にも壊れそうな、また消えていってしまいそうな何かをまとっているのに、何故か嬉しそうだった。 そして、すずのは自分の腕飾りを大事そうにそっと撫でていた。 「世界を飛び越えたとき、晶さんは私の事はすべて忘れてしまうはずだったんです」 「どうして…?」 「こちらの世界にありえないことは、記憶から消えてしまうのです」 「私は、それを防ぐ装置を身につけているので、大丈夫なのですけれど……晶さんは、何も持っていないから」 「……それで…俺、さっきまで、すずのの事を忘れてたのか…?」 「はい…だから、あなたのせいじゃないんです。それに晶さんは、自分の力で思い出してくれました」 「晶さんは健忘現象に耐性のある遺伝子を持っているので……きっかけがあれば、もしかしたら…とは思っていましたけれど」 「…そうだ。すずのがいないことが、当たり前みたいだった……」 「それが、こちらの世界では当たり前ですから……」 「当たり前……なのか…でも、すずのは違う世界って言うけど、俺には何も変わっていないように思える」 「はい。限りなく近い…ですから。でも、違いはありますよ……」 「違い?」 何が違うんだろう。 朝、いつものように起きて、教室へやってきて――。 会長や天音、マックスたちの顔がぽんぽんと思い浮かぶ。 そして、気づいてしまった。 「―――そうだ。結衣と、桜子がいない!」 「……はい」 「どうしていないんだ?! 違う世界だから、なのか?」 「はい。桜子さんは、今病院にいます。こちらの世界の桜子さんは、病気が治っていないから……」 「病気?! 桜子、病気だったのか?」 「そうです。でもむこうの世界では、病気は治っていました。だから元気で、学校に来ていたんです」 「じゃあ、結衣は…?」 「結衣さんは………」 すずのは眉をひそめて、言葉を一度のみこんだ。 「この世界には、存在しません。最初から、いないんです」 「な……なんで……?」 「理由は、結衣さんがいた世界と、ここは違う世界だから……です」 「……そう、なのか…」 結衣はここにいない。 結衣と桜子と、他の皆と楽しく過ごしていた日々。 昨日までそうだったはずなのに……。 今はもう、それが無いなんて。 そのことに、なんだか得体の知れない寂しさが体の中を駆けていった。 だけどここが昨日までと違う世界っていうなら、不思議なことがある。 今朝からさっきまで会った、天音や会長、茉百合さんたちはいつもどおりだった。 昨日までも一緒だったように。 変わらない毎日が続いているように。 俺も、そう思っていた。 「なあ、すずの。俺が昨日まで別の世界にいたんなら、この世界の人が俺の事を知ってるのはどうして?」 「フライアは、ごく近い世界の間でなら、逆転制御現象を引き起こす事が出来るんです」 「逆転制御現象?」 「……よくわからないけど、結衣と桜子がいない以外は、今まで通りでいいって事か…?」 「はい」 「そうか……」 すずのはそこまで言うと、ふっと大きく息を吐いた。 そしてやっぱり切なげな顔で、俺を見つめている。 「すずの…?」 「記憶をなくしていた時……私、本当に自分が幽霊だと思っていました。誰も私のことが見えなくて……気づいてもくれなくて…」 「本当は、フライアの不可視システムでそうなっていただけなのですけども」 「でもそんな事も忘れていたので……晶さんにお会いしたときは、とても嬉しかった…です」 「うん…」 「晶さんは幽霊のような私の事を、普通の女の子として扱ってくれました」 「そして私に、恋をさせてくれました……」 「感謝しています、とても…」 まるで昔話を語るようなその口調に、胸の奥がざわめいた。 嫌な予感だ。 そしてきっと当たってしまう――そんな予感が俺とすずのを包んでゆく。 「すずの……」 俺が何かを言い出すことを避けるように、すずのはそっと目を伏せた。 「私が記憶をなくしたせいで、晶さんにはご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」 「そんな、別に俺は何も……」 「でも、たくさんたくさん、ご迷惑をおかけしました。本来ならば、あってはならない事です」 「……」 なにかがぞわぞわと、体の中をかけめぐってゆく。 それはきっと…… きっとすずのが次に何を言おうとしているかわかっていたからだ。 言って欲しくない。 だけど、すずのはそれを止めないだろうことも、わかってる。 「お話は終わりです」 「そろそろ………お別れです。晶さん」 「……」 ――やっぱり、そうなんだ。 何故、だなんて言えない。 いやだ、とも言えない。 まっすぐ俺を見つめるすずのに、そんなこと言えるわけなかった。 すずのは嘘をつけない子だって、知ってるから。 「私は、もう未来に帰らなければ…いけません」 涙がひとしずく、すずのの大きな瞳からこぼれる。 瞬きもしないまま、あとからあとから涙が溢れてゆく。 だけどすずのは一度も顔をそらさずに続けた。 「本当に、短い時間だったけど…私には夢のような時間でした」 「とても楽しかったです。何気ない毎日が、きらきら輝いてて……かけがえのない時間でした…」 「私はとても、幸せでした。ありがとうございました」 「晶さんのことが……とてもとても好きでした」 「………」 胸の奥で何かが爆ぜた。 あの日に見た花火みたいに、激しく輝いて、だけど消えてゆく光。 大きく息を吐き出してから、俺は言った。 「どうしても、帰らなきゃだめなんだな」 「……はい」 「そう、か……」 俺もすずのをまっすぐ見つめた。 今が、絶対来るって言われてた、『お別れの時』なんだ。 俺は何て言えばいいんだろう。 「……俺…」 「……すずのにもう一度会えるって信じてる、ずっとずっと待ってる。すずののこと、未来で探す」 「晶さん……」 すずのの手をとり、ぎゅっと強く握り締めた。 俺の手の中で、すずのの小さな手は震えていた。 握り返してくれなくても、かまわない。 俺はずっと、ずっとずっとすずのの手を握る。 「すずののこと、忘れない…!!」 「……ふ、う」 すずのの顔が、くしゃくしゃになる。 泣かないで、なんて言えない。何も言えなかった。 ただすずのの顔を、俺はまっすぐじっと見つめていた。 「すずの……」 すずのは嗚咽を我慢するように頭を左右にふる。 そして。 そして笑顔を見せてくれた。 「わ、私は……ずっと、遠くから来たんですよ。ずっとずっと……遠くの、未来から……」 「だから……だから……」 「……すずの」 一瞬、視界が光に奪われた。 それでも、すずのの手は離さなかった。 「う、ひう……う……」 「すずの、俺は」 「だから、そんな……っく、そんな事は言わないで…お願い…」 「………すずの…」 「…っく、私……」 「……最後に言う言葉は、はじめから、決めてました…晶さん」 「……」 嗚咽をもらしながらも、顔をあげたすずのは微笑んでいた。 何も言えない。 何も言えなかった。 あまりにその決意が透明で、美しくて、まっすぐで……そして、悲しくて。 何も言えないままの俺に、すずのは微笑んでくれていた。 「さようなら。どうか幸せになってください……」 光が収まっていき、やがて音もなく目の前に翼が広がる。 小さな唇が、そっと俺の唇に触れた。 ほんの一瞬の、キスだった。 それでも、すずのの温度が感じられた。 温かくて、震えていた。 そして――すずのは消えた。 どこへかは、わからない。 はるか遠い場所へと、消えていった。 「ただいま」 「あ、おかえり葛木くん」 「おう! 遅かったじゃねーかー! 検査なんともなかったんだろ?」 「ああ、うん…」 談話室は、いつもと変わらない様子だった。 テーブルも、椅子も、そこに漂う空気も何一つ変わらない。 ここは俺の知っている場所だった。 だけど、すずのの言葉も嘘ではなかった。 結衣と桜子はいない。 当たり前のように、いない。 きっとその名前を口にしたところで、みんな不思議な顔をするだけだろう。 そして、すずのもいなくなってしまった。 いや、違うんだ。 いなくなったんじゃなく『いなかった』んだ。 寂しいと思うことすら、できないんだ。 そうか。俺が今から生きてく時間は、そういう時間なんだ。 不思議と涙は出なかった。 悲しい気持ちはそこにある。 だけどそれ以上に、胸の奥が冷たくなって……空っぽだ。 「大丈夫? どうしたの、何だかぼーっとしてるみたいだけど……」 天音が心配そうに俺の顔を覗きこんでいた。 きっとものすごく呆けた顔をしていたんだろう。 「あ、うん。大丈夫…かな」 ちゃんとできていたかはわからないけれど、俺は少しだけ笑ってから椅子に座った。 「天音、話戻してもいい?」 「あ、ごめんねくるり、名前の話だったわよね」 「そう。エレクトリックエナジー1895号のままより、その方がいいと言われたから」 「俺にもちゃーんと、名前があるからな! あいつもきっとその方がいいぜ」 「そっか。マックスにとっては兄弟みたいなものなの?」 「少し、違うけれど」 ……何の話をしてるんだろう。 英語だかなんだかわからないけど、カタカナがふたりの間で飛び交っている。 「何の話してるんだ?」 「む……」 「ああ、あのね、くるりが完成させたタイムマシンに、名前をつけなきゃって話になってて」 「コードネーム以外の、かーっちょいい名前をつけてやろうぜって話をしてたんだよ」 「ふぅん……」 九条とマックスはなかなか納得いかないようだ。 なんだか難しい単語がいくつも耳に入ってくる。 だけど何ひとつ頭の中には残らなかった。 さっきからずっと、俺の中にあるものは――すずの。 すずのだった。 『はい。フライアと言います。プロトタイプはこの学園で作られたものです。晶さんも、一度見たはずです』 「フライア……」 「え?」 「フライア?」 「そう。フライア……」 「どういう意味なの?」 「え! えっと、えー…」 「ちょい待て。えーっとな……ふむふむー。『空を飛ぶもの』とか『飛ぶように素早く動くもの』って意味らしいぜ!」 「ふぅん……なんだか、素敵な言葉だね」 「いいんじゃねえの。かっこいいよな、マミィ?」 「……悪くない」 「お? という事は」 九条がこくんと頷いた。 その名前にしよう――そういうことなんだろう。 そうか。 フライア。 すずのがたとえ届かない未来にいるとしても。 俺が何か残してあげられるものは、あるんだ。 いま俺が囁いたこの言葉が、いつか、どこかですずのの声で、音になって。 いつになるかはわからないけど、繋がるんだ。 「……なあ、九条」 「なに?」 「その、タイムマシンの事とかさ……俺も何か手伝いたいんだけど、ダメかな?」 「え……」 「おー? なんだ、急にどうした晶」 「いや、あの……」 「……」 「なんとなく、ほら。名前も使ってもらえる事になったしさ、ちょっとその、これからどうなるかとか気になるかなって」 「ねえ、いいんじゃないの? くるりはただでさえ無理するんだし。寮で一緒の葛木くんもいれば安心かな」 「でも……」 「それに、晶くんだったらマックスとも仲いいし」 「そーだぜ。それにどうせ、そのうち協力してもらうつもりだったんだろー」 「あれ、そうなの?」 「まあ、そうだけど……」 きっとそれは、いつか会長達が言っていた俺の遺伝子のことなんだろうか。 「じゃあ、頼むよ。九条。何でもやるから」 「……わかった。でも、明日からすぐにとかは無理だから、近いうちに手伝えるようにしておく」 「ありがとう」 「おー。良かったなあ、晶。オレも楽しみだぜー!」 九条は少し不思議そうだったけど、了承してくれた。 俺のできることなんてあまりないし、足手まといになるかもしれない。 だけど、手伝いをできることになったのは本当に嬉しかった。 「でも、急にどうしたの? 今まで、そんな素振り見せなかったじゃない」 「いや、まあ、なんて言うか……うーん」 「なに? どうしたの?」 「その……何か、残したいなって思ったから……未来に」 俺が少しでも手伝ったものを、未来ですずのが使うのかもしれないって――そう思ったから。 どんなに先になるかもわからないのに。 何か残せるかなんて、わからないのに、だけど俺はそうするんだって決めた。 未来に何かを。 そんなこと、笑われるかもしれない。 そう思いながら顔をあげると――。 「それ、素敵だね」 天音がまっすぐな声でそう言ってくれた。 「え?」 「自分の手が入った物が、未来でも使われるかもしれないもんね」 「そう考えると、くるりがやってる事ってすごいよね」 「うん」 「うん……そうだな…」 そうだよ。 すずのは未来からちゃんとやって来て、そして俺と出会った。 九条、お前の作ったものはすごいんだよ。 心からそう伝えたかったけど、それはやめておこう。 九条がいつか、絶対に成功させる素敵なものなんだから。 ――すずの。 いつかきっと。 未来にいるすずのに、何かを残したいんだ。 俺が少しでも手伝ったもの。 どんな形であっても、未来で君を探せるかな。 すずのが探してくれるかな。 いつかきっと繋がるから。 待っててくれな、すずの。 いつかきっと、必ず――。 「…………」 ――の、すずの。 「……ん」 ――すずの。 「……んん、わた……し」 ――必ず……だから。 「……あううっ」 「――っ!!」 「はあ、はあ、はあ……ふう」 「雪代っ!」 「はー、ふう、せ、先生?」 「しっかり深呼吸して」 「はい、はーふー…。先生、ここは、いま……」 「無事戻ってきたの」 「戻って、きた」 「そう。トラブルはあったけれど無事任務完了。さあ、立って」 「は、はい」 「28号! ちょっと手伝ってくれる? 雪代の脳波と身体スキャンをするから」 「うぁーい」 「おかえり、すずの。疲れたろ?」 「……はい」 「これはこめかみに――そう、ぴたっと貼り付けて。すぐ終わるから」 「異常なし、うん……うんうん、すべて正常値」 「……」 「データ上問題なし。気分はどう?」 「……大丈夫です」 「そう。でも顔色悪い気がする」 「そ、そう、ですか?」 「そうね。人体に全く影響なしというわけではないから」 「大丈夫か、すずの。くらっときたらオレに寄っかかりな!」 「しばらくは多少の睡眠障害が発生するかもしれない。夢を見ているような感覚…白昼夢のような現象」 「はい」 「できるだけ安静にして」 「はい」 「走ったりするのもなるべく避けて」 「そうだな、すずのはいつもハデにこけるからなあ」 「それじゃ、ワタシは最終的なデータの整理をするから」 「……あ。制服、貸していただいてありがとうございました」 「ん? ああ、いーってことよ! オレはこっちのボディの方が気に入ってるんだからさ」 「あの……長い間借りちゃってたから、痛んでたらごめんなさい」 「ははは、元からそんなキレイじゃないしなあ。あ、このほつれ」 「えっ?」 「これ! うわあ、懐かしい! 確かスカートのフリルが破れたの、晶がなおしたんだよな。もう遥か昔すぎて思い出せねーよ」 「あ……」 『やっぱ、代わろうか?』 『うう……はい』 『……』 『こうやって、こう……な、よしよし』 『なあ、晶』 『なに?』 『お前の縫い目もガタガタガタいってるぞ』 『なっ、何を!』 「ふ……ふふふ」 「すずの?」 「ふ……うう、うー…晶…さ」 「あー、泣くなよ! わかった、腹が減ってるんだな? よしよし食堂へ行こうぜ!」 「うっうう……」 「何食べるの? 持ってきてやるよ!」 「……」 「ここの味は今も昔も変わりなかったろ? 美味かったろ?」 「……はい」 「何でも用意できるぜ」 「何でもいいです……」 「うーん。よし! じゃあすずのが元気が出そうなものを選んできてやる!」 「……」 「空の色は同じなんだね……」 ねえ、たとえば。 待っていてほしいって言えば良かったかな。 でもそれは、だめだよ。 時間を縛ってしまう。 私のせいで、未来のいろんなドアを閉ざしてしまう。 「ごめんね」 ねえ、今はどこで何してるのかな。 もう忘れてるよね。 もうこんなにも時間がたっているんだもの。 「……?」 ――何も食べないの? 「……え?」 ――育ち盛りなんだから食べた方がいいんじゃない? 「……私」 夢なのかな。 さっき先生も言ってたもの。 時間をさかのぼると、睡眠障害みたいになるって。 だからこれは夢なのかな。 とても幸せな夢なのかな。 ――どうしたの。 もしも夢なら、もう二度と覚めないでください。 ――顔をあげて、すずの。 「……っ!!」 「おかえり」 「しょ……晶……さん」 「あー、腹へった。すずのもそうだろ? 長い旅に出てたんだからさ」 「ううん、違う…私は……違うもの」 ふるふるふる。 左右に首を振った後、すずのの瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。 あの頃よりももっと小さく感じるのは、何故だろう。 「泣かない」 「だって、私は……だって嘘ついたから」 「そうだな。でも嘘でよかった。さすがに何百年も待つのはできないからさ」 「うっ、うう…しょ、さん、うう、ううう」 「本当はさ、ずっと怒ってやろうと思ってた」 「んっんんっ、ごめんなさい、わた……し」 「でもな、もういいや。怒ってないよ」 「ごめんなさい、ごめんなさい……晶さん」 「どうして?」 「私……晶さんの人生……めちゃくちゃにしたくなかったのに……」 「すずの」 「……はい」 「めちゃくちゃになんてなってないよ」 「――!」 「楽しかったよ、待ってるのも。ずっと会いたかった、すずの」 「……晶さんっ」 「ごめんなさい…私には……私はほんのちょっとだけの時間だった……でも」 「でも、晶さんは……いっぱい待ったよね……ごめんなさい」 「いっぱい待たせてごめんなさい」 「すずの、ほらもう泣かない」 「……うん」 「笑ってほしいんだ」 「……うん、晶さん」 「待ってる間、ずっと考えてたんだ」 「……?」 「帰ってきたすずのに何を言おうかって」 今日までの、すずのが知らない日々のことを話そうか。 それとも懐かしい思い出話を? あの頃には恥ずかしくて言えなかったことや、まだ本当の意味を知らなかった言葉たちやら。 話したいことはたくさんあった。 そして俺の知らないすずのの事も、聞きたかった。 「でも、まあいいや。やっぱり……これにしよう」 すずのはくすぐったそうに目元をぬぐった。 それでもまた、涙は瞳の端にたまってゆく。 だけどそれは、俺があの日の最後に見た悲しげな涙じゃない。 ずっとずっと待っていた、嬉しそうに微笑むすずのだ。 「おかえり、すずの。やっと俺のところに帰ってきてくれた」 「……ただいま」 「ただいま! 晶さん!」 「これからは一緒だな。一緒の時間で生きていける」 「いっしょ…ずっといっしょ?」 「すずのが嫌じゃなかったらね」 「いっしょが――いいです!」 「……よかった」 「いっしょです、ずっと、ずっとずっと!」 新しい場所とか。 新しい友達とか。 時間はいつだって流れていって、 そこで何かを見つけて、 何かを落っことして、 また探して、 そうして、変わっていく。 どこにいても、どんな場所でだって、いつだって、見つけるよ。 普通で、なにげなくて、あたりまえの 特別なもの。 一夜明け、朝を迎えた校舎。 撤収と掃除、片付け作業のため、出張limelightの教室には出展に関わったメンバー全員が揃っていた。 「それじゃあ、これで全員揃ったわね。撤収作業をはじめましょうか」 「ええ、ささっと終わらせちゃいましょう」 「はいっ」 「おーーーよ!」 「ん」 何故か九条の姿もある。 「あれ、九条? 展示の方は?」 「ぐみがしてくれてる。生徒会と」 「そうなんだ」 「よっしゃあ、オレはみんなの3倍働くぜー!!」 廊下の方をちらっと見てみると、すずのが窓から覗き込んでいるのが見えた。 目が合うと、まるで『お約束どおり私も頑張ります』とでも言いたげに両手をあげてみせる。 あまりに一生懸命アピールしているので、俺はちょっと苦笑してしまった。 飾り付けをひとつひとつ丁寧に外していき、掃除をして、別の教室にあった机や椅子を戻してくる。 片付け作業はなかなかの手間だった。 すずのはあまり手伝える作業がなく、まだ窓からおろおろとこちらを見ている。 「晶くん?」 「あ、はい!」 「申し訳ないのだけれど、ここの荷物を倉庫用の空き教室に運んでもらえないかしら? 場所はわかる?」 「大丈夫です、資材とか色々置いてある所ですよね」 「ええ。大きなものはそちらに運んで、後でまとめて引き取ってもらうことになっているの」 「わかりました。じゃあちょっと行ってきます」 茉百合さんが指差した場所には、飾り付けに使っていた大型のパネルが並んで立ててある。 数が多いので、一度に全部は無理かな。 俺はパネルを何枚かまとめると、抱えて教室を出た。 廊下に出ると、すぐさますずのが駆け寄ってきた。 「晶さん、お手伝いしたいです」 そう言ってパネルのはしっこを持ってくれる。 周囲には、ぞうきんやダンボールを抱えた、掃除中の生徒たちがたくさんいるので、俺は少し声をひそめた。 「無理してない?」 「はいっ、大丈夫です、これくらい持てますから…!」 「気をつけてな」 こくこくこく。 そこまで重いというわけでもなかったが、何しろ横幅が大きい。 一箇所支えてもらうだけで、随分と楽だった。 倉庫教室には、まばらに荷物が置いてあった。 まだ午前中だから、集まってきている荷物も少ないのかもしれない。 俺はパネルを下ろし、邪魔にならないよう奥の方に立てかけておいた。 「…ふぅー」 「はふ。着きました」 「うん、すずののおかげで大分楽だったよ。ありがとう」 「嬉しいです、晶さんのお役にたてて」 今日ようやく役に立ったと、すずのは嬉しそうだった。 「あの、他に何かお手伝いできないでしょうか」 「うーん。じゃあ、あと三回くらい荷物をここに持ってこなきゃいけないから、またさっきみたいにはしっこ持ってくれるか?」 こくこくこくこく! すずのは、すさまじい勢いで頷いた。 多分、幽霊である自分が何かの役に立つことが嬉しいんだと思う。 「あっ!」 急いで教室を出ようとした途端、突き出た大道具のパーツに足を取られすずのはひっくり返った。 その衝撃で、立てかけてあった別の大道具たちが、どんどんとすずのの方へと倒れてくる。 「ああああぶない!」 慌ててすずのと大道具の間に滑り込み、倒れないように必死で支える。 かなり覚悟はしてたけど、そんなに重くはなかった。 気合を入れて押し返す。なんとか大道具たちは、元の場所に戻ってくれた。 「すずの、大丈夫か?!」 「ああ……あぅ…はい…」 「よかった…」 まだあまり荷物が運び込まれていないから、俺一人でも支えきれてよかった。 これが午後だったら、もしかするともっと本格的なドミノ倒しになってしまったかもしれない。 次はすずのをこの教室に入れるのはよそう…。 ……危ないもんな。 そんな事を考えていると、ふとすずのが床にぺたりと座り込んだまま、硬直している事に気付いた。 「……すずの? 本当に大丈夫なのか?」 「………はい…」 「あの……わ…私……」 様子がおかしい。 ぎゅっと、縮こまるように頭を抱えた。 「うううっ!」 「どうした!? 頭打ったのか?!」 「……思い出しそう……私…!」 「私、何かやらなければいけない事が…あったんです……今すぐ、やらなきゃ…」 「とても、大事な事だったんです……」 「思い出さなきゃ、今すぐ思い出さなきゃ……!」 「すずの……」 「っ!!」 そのとき、突然電話のベルの音が部屋中に響いた。 これ、今までも何回か聞いたことがある気がする音だ。 「な、なんだ、これ?!」 「……ぁあ…」 震えるすずのの前に、古い形の電話がすうっと現れた。 何も無いところから。 まさに、現れたとしか言いようがない。 電話のベルは鳴り続けている。 どう聞いても、音の元はこの目の前の得体の知れない電話だ。 「…………」 すずのはしばらく見つめていたが、やがてそろそろと電話の受話器に手を伸ばした。 「す、すずの、待て…」 思わずやめろと言いかける。 だって、そんなわけのわからないものに触って、大丈夫なのか? 受話器を取ったら、何かよくない事が起きる気がしてならないんだ。 だけど、すずのは首をふった。 「わ…私……」 その震える手で、だけどしっかりと受話器はとられた。 同時にベルの音が止まる。 これ、どこかと……誰かと、繋がっているのだろうか? すずのは受話器を耳に当てもしない。 そのまま硬直していた。 「……」 「………」 と、現れた時と同じようにすうっと電話が消えていく! 「き、消えた…?!」 「……あ…」 受話器を持っていた自分の手をまじまじと見つめるすずの。 電話の影はもう、どこにもない。 まるで夢をみていたようだ。 「なんだったんだ、今の……」 「………」 「すずの、すずの?! 大丈夫か?!」 「……ぁ……はい…」 すずのは宙を見つめてぽーっとしていた。 「すずの…」 「…………」 呼んでも答えない。 何かを考え込んでいる様子だ。 大丈夫か…? なんだか、このまますずのを放っておいてはいけないと、強くそう思う。 『2-Cの葛木晶くん、ただちに生徒会室まで来て下さい。繰り返します、2-Cの葛木晶くん、ただちに生徒会室まで来て下さい』 「え……?」 放送で響き渡る声は、俺の名前を呼んでいた。 メールを使わずにわざわざ放送を流したってことは、何か緊急の用事ってことだろうか? でも、このまますずのを放ってなんて行けない…。 「……晶さん、呼ばれてました…」 「すずの」 「そんな顔、しないで下さい。私…大丈夫です」 「本当に?」 「はい……あの、えっと」 「……結衣さんとこに行きます。だから、大丈夫です」 「………でも」 「なんだか、ちょっとぽわってしてるだけなんです……」 「あの、結衣さんと一緒にいますから」 確かに結衣が一緒にいてくれたら、俺も安心だけど。 妙に説得力のある提案に、俺は頷かざるを得なかった。 「わかった……ちゃんと、結衣んとこ行くんだぞ」 こくこく。 「俺、用事終わったらすぐ、結衣探すから」 こくこく。 「気をつけてな!」 「はいっ…」 それにしても、生徒会室に来いって事は、生徒会に呼び出されたってことだよな。 何の用だろう。 昨日の話…の続きなのだろうか。 俺はふと、自分を取り巻く問題を思い出して不安になった。 「………」 と、前から九条が手ぶらで歩いてくるのが見えた。 あれ? どうしたんだろう。荷物を置きにくるなら、何か持っているはずなのに……。 「……葛木?」 「え? 九条? どうしたんだ? 片付けは?」 「……別に」 「別にって…」 九条の胸元には、見慣れない名札のようなものがついている。 いつもこんなもの、つけていたっけ? 目をこらして見ると、そこには『Dr.flyer.kujo』と英語で書かれてあった。 あれ……? くるり……じゃないのか、名前? 「葛木」 「なに?」 「お前はすさまじい苦労性」 「な、なんだそれ」 「でも、報われるときは来る。やがて」 「……? どういう意味だよ?」 「なんでもない。じゃあ……」 「う、うん…」 九条はそのまま、廊下の向こうへと歩いて行ってしまった。 どうしたんだろう。今日はなんだか変な感じだ…。 いつもと違う雰囲気がするというか、いつもみたいに刺々しくないというか。 九条の後姿をぼーっと眺めていたが、すぐに生徒会から呼び出されていた事を思い出し、俺は廊下を走った。 「失礼します」 「あ、しょーくん。よかった、来てたんだ」 生徒会室には、会長がたった一人だけで待っていた。 「八重野先輩とか、ぐみちゃんは?」 「くるりんのブースの片付けしてる。そんなことよりしょーくんさ、これから俺と病院行こう」 「へ? な、なんで??」 「いや……昨日も言ったけど、なんか記憶障害とかかもしれないし……」 「とにかく、一度精密検査してみた方がいいと思って」 「検査って…」 「心配なんだよ」 会長の顔に、ふざけた色は無かった。 本当に心配してくれてるのがわかり、俺はなんだか申し訳なくなってしまった。 「……」 「あの、検査って、時間かかるんでしょうか」 「けっこうかかるとは思うけど。何か用事でもある?」 「うーん…ちょっと待ってもらえますか」 俺は携帯端末を取り出すと、急いで結衣にメールを打った。 『俺は今から病院に検査しに行きます。すずのがそっちに行くはずなので、一緒にいてあげてくれないか』 多分、様子がおかしいことは、すずのに会えば結衣ならすぐにわかるだろう。 俺はそのまま、結衣にメールを送信した。 すると、すぐに『まかせて』と返事が返ってきた。 これでよし。安心して病院に行ける。 「お待たせしました」 「いいかな。じゃ、行こうか」 「はい」 晶を送り出したあと、すずのは一人で廊下を歩いていた。 結衣の所に行こうと思ってはいたのだが、さっき電話の受話器を手に取ったときの、不思議な感覚がまだ治まってくれない。 「………ようやく見つけた」 「え……?」 すずのは慌てて周りを見る。自分に話しかけられたのかと思ったからだ。 けれど、廊下には他に誰もいない。 すずのは目の前に立っている少女を知っていた。 九条くるり。繚蘭会の一員だ。 くるりは、しっかりと、真っ直ぐにすずのの方を見ていた。 「私が…見えるのです、か?」 「何を言ってる雪代、ワタシは開発者なのだから当たり前」 「……え…」 「連絡もよこさないし、こっちからの電話もとらないし……何があったの?」 「え、え…」 「どうして、お前と葛木はまだこんなところにいるの?」 すずのは、呆然としていた。 何を言われているのか、少しもわからなかったから。 「……? 雪代?」 「…どうして……あなたは、私の名前を…知っているのですか…?」 「………」 「まいった。そこからか」 「こんな事なら、ワタシが来るんだった。いくらテストケースだからと言って、こんなにハプニングが重なるとは……」 「てすとけーす…?」 くるりはすずのをじっと見つめる。 その視線を感じると、すずのはさっきの不思議な感覚が体中に広がっていくのを感じた。 「……うぅ、私……私…何か」 「私…何かやらなきゃいけないことが…とても大事な事が…」 「そう、お前はそのために、こんな所までやって来たはず」 「お前はまだ、やらなきゃいけないことを、やり遂げてはいない」 「まだ……まだ……」 「ぅぅ……っ!」 ――頭が痛い。 やらなければいけない事…。 何故かその言葉に感じるとてつもない重みに、すずのは頭を抱えてうずくまった。 俺は病院で一通りの検査を終え、生徒会長と二人で帰路についていた。 「どこにも異常はなかったみたいだね。良かった、よかった」 「はい」 「でも、記憶障害でないとしたら、一体どういう事なんだろう……」 「……」 会長の言うとおり、検査の結果、俺の脳にはどこにも異常が無かった。 現実と虚構がわからなくなるような症状も見られないし、まったくの正常。 だとしたら、俺が見ていた死んだはずの親父とかは、本当にどういう事なんだろう。 「あの、ちょっと。すいません」 「ああ、いいよー。メールみたいだね」 「はい」 端末を取り出して見ると、結衣からのメールだった。 内容を表示して、俺は凍りついた。 『すずのちゃんが来ない、探したけどどこにもいないの、どうしよう』 「……!」 慌てて端末をポケットにしまう。 来ないって。探したけど、どこにもいないって。 ――そんな! 「晶くん、どうしたの?」 「すいません! ちょっと、先に戻ります」 「あ! おーい」 会長をそのままに、俺は走った。 とりあえず学校に戻らなきゃ。そして、すずのを探さなきゃいけない! 俺の心と同様に、空は不穏な色になり始めていた。 ちょうど正門まで戻ってくると、とうとう耐え切れなかったのかぽつぽつと雨が降り出した。 もう掃除の時間はとっくに終了しているから、ほとんどの生徒は帰っているのだろう。 校舎には人の気配がない。 嫌な予感がする。 俺は不吉な考えを振り切るように首を振って、正門をくぐった。 中庭にも、誰もいない。 雨が降ってるから当たり前といえば当たり前だ。 たしか、前にすずのは雨が苦手、雨の日は外に出ないと言っていたことがある……。 それなら、校舎の中を探した方がいいかもしれない。 校舎に入ると、念のため結衣に『先に寮に帰って、もし寮で見つかったら連絡下さい』と、メールを送っておいた。 これで、もし寮に帰っていたら結衣が見つけてくれるはずだ。 俺は校舎内を探すことに専念しよう。 ほとんど誰もいないので、廊下を走っても怒られはしない。 俺は遠慮なく走りつつ、すずのの事を考えていた。 ――すずの。 もう、すずのが言っていた一緒にいられない時が来てしまったっていうのか。 早すぎるよ。 俺はまだ、すずのともっと思い出を作りたいのに。 何もかも早すぎる。 すずのから何度も言われていた事のはずなのに。 目の前に現実を突きつけられると、胸が張り裂けそうだ。 廊下の先を見ても、人の姿はない。 まるで、この校舎が丸ごとどこかに取り残されたみたいだった。 いないだろうとは思いつつ、会議室の扉を開けてみる。 こんなところにいるはずなんて、ない。 そう思ったけれど、俺は丁寧に部屋の中を探した。 繚蘭会室に来てみた。 ここは、俺や結衣についてきてすずのが何度も来ているはずの場所だ。 部屋の中は嘘みたいにしんとしている。 残っている生徒も、もういないようだった。 ……もっと、他の場所を探しに行こう。 どこの教室にも、すずのはいなかった。 それどころか、他の誰もいない。 本当に、俺だけだ。 きっと校舎には、もう誰も残っていないだろう。 かすかにそう思いはしたものの、俺は足を止める事ができなかった。 保健室も行った。 生徒会室も行った。 他の場所も全て探してみたが、すずのはどこにもいなかった。 まるで、初めからいなかったみたいに……。 こんなになのか。 こんなに突然……いなくなってしまうのか? お別れも言えないままに。そのまま。 だからすずのは、あんなに怯えていたのか。 湧き上がってくる絶望感と、俺は必死に戦っていた。 ふと階段が目に入る。 そうだ……まだ、屋上に行っていない。 雨が降っていて、いるはずがないじゃないか。 どこかでもう一人の自分がそう言う。 だけど、そう思いながらも他の教室はひとつ残らず探してきた。 最後まで、諦めない。 そう思いながら、階段を駆け上がり屋上へのドアに手をかけた。 雨で濡れている地面が、ぱたぱたと音を立てている。 下よりもいくらか空に近いからだろうか、雨の勢いが強い気がする。 すずのは、屋上の真ん中でぽつんと立っていた。 まるで、後ろから抱きしめて告白したときのように。 その姿があまりに現実とかけ離れているような気がして、俺はすずのを想うあまり幻でも見たんじゃないかと、そう思った。 だけど……。 「――すずのっ!!」 幻ではなかった。 名を呼べば、すずのは振り返る。 制服も、さらさらした髪も、白い頬も、すべてが雨の中で濡れていた。 「晶さん……」 俺はたまらず駆け寄った。 よかった、よかった諦めなくて。 よかった、ここにまだいてくれて……! 「良かった、すずの。ずっと探してたんだ」 「……」 「ああ、ずぶ濡れじゃないか」 俺は上着を脱ぐと、頭からすずのにかぶせた。 雨にうたれたままだと、さすがに少し寒いのだろう。 すずのは僅かに震えていた。 だけど、何故か黙ったまま、じっと立ち尽くしている。 違和感をかすかに感じたが、俺はふりきって話しかけた。 「結衣が、すずのがいないって心配してて、俺もずっと探してたんだ」 「ずっと見つからないから、……本当に消えてしまったかと思った……」 「……」 「よかった、いてくれて…」 「よかった、本当に」 俺が気持ちをどんなに吐き出しても、すずのは寂しそうに笑うだけ。 「どうして屋上に? ここだと雨に濡れるだろ。確か、雨は苦手なんじゃなかったのか…?」 「いいのです……」 「いいの?」 「雨が降っているから、生徒は誰も来ないだろうから」 「すずの……?」 やっぱり、いつもとはどこか様子が違う。 俺が昼まで一緒にいたすずのとは……何と言うのだろうか、雰囲気が違う。 弱々しかった眼差しはしっかりと強く俺をとらえ、丸まっていた背筋までぴんと張り詰めているようだった。 「晶さん、大事なお話です」 「すずの……?」 「私は、あなたを迎えに来たのです」 「迎えにって、それは俺が……」 「違います。そうじゃないのです」 「この世界が、どこかおかしいって思ったことはありませんか?」 「え……?」 どこかおかしい。 そう言われて、直感的に会長たちにされた話を思い出す。 確かにおかしな事だらけだ。 俺と家でぐだぐだやってたはずの親父は4年も前に死んでいたし……。 俺には帰る家も、それどころか戸籍だって無いと言う。 「晶さん、でも、大丈夫なのですよ」 「大丈夫?」 「今、あなたがいるこの世界は、夢の中みたいなものです。だから目を覚ませばすぐに、あなたにとって元通りの世界になります」 「どういう、事…だ?」 すずのの言っていることの意味は、よくわからなかった。 だけどすずのは、聞き返しても何も言ってくれない。 「私は……あなたを迎えにくるために、あなたを助けるために、ここに来たのです」 「あなたはやっぱり、私にとって特別な人だったのです」 「よく、わからないんだけど」 「それで、いいんです……」 また、せつなそうに、さみしそうに。 すずのは少しだけ微笑んだ。 その表情に、言いようのない不安が、湧き上がってくるのを感じていた。 ……すずののこんな顔を、俺は覚えている。 一昨日、繚蘭祭の最中にしていた表情だ。 「晶さん、私が前に神様にお願いしていたことを覚えていますか?」 「……あ……あぁ…」 そう、それはちょうど『神様にお願いをしていた』時の表情と同じだった。 「はい。私がいなくなってしまった後、私の事を全部忘れさせてあげられたらいいのにって」 「晶さんを傷つけないでいられたらいいのにって……そんな優しい奇跡があればいいのにって」 「……覚えてるよ……」 「良かった」 「何を…言ってるんだ?」 「神様はきっといるのかな、と思います」 「…どうして?」 「その願いが叶うからです」 「すずの……?」 そっと俺の手を取るすずの。 俺はどうしていいかわからずに、すずのの手をぎゅっと握り返した。 そうする事以外、何も出来そうになかったから。 「離さないでくださいね、私の手を」 「離さないよ。離すわけないじゃないか」 「はい」 雨がだんだんとゆるまっていく。 だけど雲間からは、まだ光は見えない。 思わず俺が空を見上げると、すずのが口を開いた。 「それでは、行きましょうか」 「え…?」 すずのの体が、ふんわりと浮き上がる。 いつの間にかその背には、大きな大きな翼のようなものが現れていた。 さっきまで、無かったのに。 そしてようやく、自分の体もかすかに浮いている事に気付く。 すずのの手にはほとんど力が入っていない。 ただ握っているだけだ。 なのに、俺と、すずのは、どこまでも浮いて行く…! 「わ! え!? あ、あああ!!」 「大丈夫。何も心配しないで」 「すずの!?」 「帰るだけだから。あなたがいるべき場所へ」 「そして、何もかもが元通りです……」 「私のことも――……」 ――また。 またその笑みだ。 どうして、そんな顔をするの。 聞きたいのに、驚きと怖れで声が出なかった。 だってもう、屋上はあんなに遠い。 どんどん高く、はるか高くまで浮き上がって……。 周りは空と雲ばかりだ。 もう何も見えない、と思った頃、すずのはゆるりと方向を変えた。 ほんの一瞬のことだったのかもしれない。 だけど、俺にはそれが、ひどくゆっくりに感じられた。 ゆっくり、ゆっくりと……。 俺とすずのは、ゆるやかに落ちていく。 それにあわせるように――意識が遠退いていく。 ゆっくり、ゆっくり……。 「えーっと、アラームはもういらないよね……」 「これでよし!」 「ふふ〜。晶くーん、朝だよー」 「すうすう……」 「晶くん、朝ですよー。朝でござるよー」 「ん、んー」 「すうすう」 「晶くん、よく寝てるなー。気持ちよさそうだなー」 「……すう」 「すぅすぅ」 「起きないと遅刻ですよー」 「……」 「ん、んぅ……むにゃ……」 「……」 「……すう、すう」 「うわああ! 添い寝だよね、これ! 添い寝だ!!」 「わぁあ、なんかドキドキするかも……ああ、でも…晶くんの寝顔、やっぱりかわいい。よく寝てて、気持ちよさそうだし」 「…………」 「ふ、ふぁあああああ」 「……んむ」 「……ふぁあああああ」 「………すぅ」 「……すう、すう」 「すう……すぅ……」 「あ、ああわわわあああ! や、ややっぱりここにー」 「すーすー」 「んんぅ……」 ゆさゆさと大きく激しく体が揺らされている気がした。 でも、なんでだ? いつもなら、こんなのないはずだ。 「ん? んー、ん?」 大きく体を揺さぶられながら、少しだけ目を開けてみる。 「すう、すぅ……」 「晶さん、結衣さん、起きてくださいー。ち、ちちち遅刻しちゃいますからああ!」 「え!?」 「ふ……?」 何!? なんですずのが起こしに来たんだ!? っていうか、どうして結衣が隣に寝てるんだ! しかも制服! 意味がわからない! 俺に今、何が起こっている! マックス! マックスはどうした!! あいつなら俺より早起きだからこの状況に対して的確な事を教えてくれるはず……。 って、あいつは朝は仕込みで、いつもいないんだった!! 状況が全くわからない! どうしたらいいのか!! 「晶さん、結衣さん、早く! 早く!」 「わ、わかってるから。すずの、な!」 いやいやいや。 今、俺が混乱している場合じゃない。落ち着こう。 すずのが早くと言っている。 結衣は制服。俺はパジャマ。 という事は……あれ、もう朝? え? でも、アラーム鳴ってなかった……。 「え? な、なに!?」 「………」 納得がいきました。 事情は全て飲み込めた。これほどわかりやすい説明はない。 まあ、多分本人はよくわかってないだろうけど。 「うん。事情はわかったから……起こしに来てくれたのは、わかった」 「はうあうあううう、ごめんなさいー!」 「いや、いいよ。大丈夫」 「あ……」 思わず結衣の頭をぐりぐり撫でる。 すると、結衣は恥ずかしそうに頬をそめてにっこり笑ってくれた。 かわいいなあ……。 よく考えたら、つい一緒に隣で寝ちゃうなんていうのもかわいい。 こういうのって普通なのかな。なんかいいなあ。 ……いやいやいやいや! 今はそんな事を考えている場合じゃない。 とりあえず準備をして学園に向かわないと! すずのも涙目で俺たち見てるし。 「とりあえず着替える」 「は、はい!! す、すずのちゃん、出てよう!!」 「は、はい」 よし! なるべく早く準備だ! できる事なら、40秒以内!! 急げ! 結衣とすずのと一緒に、急いで教室まで走った。 でも、遅れた時間はやっぱり取り戻せないもので……。 結局、俺と結衣は今日最初の授業に間に合わなかった。 おまけに、教科は数学。 担当は氷川先生……。 揃って遅刻した俺と結衣を見つめ、氷川の表情は明らかに怒っていた。 「ふたり揃って遅刻とは、仲のいい事だ」 「すいません……」 「ごめんなさい」 「謝って済むのなら、世界に罰則は必要ないな」 「はい」 「はい」 「ひとりで遅刻ならまだしも、揃って遅刻とは関係を疑えと言っているようなものだとは思わないかな?」 「いえ、あの」 「そ、そ、そそう言われましても……」 「よろしい。そんなに仲良くすごしたいのなら、罰もふたり同時に行ってもらおうか」 「は、はい」 「はい」 「午後はふたりで会議室の掃除でもしてもらおう。這いつくばって、床の隅まできれいにしろ。塵のひとつも見逃さないように」 「ち、塵のひとつもって……」 「あううう」 「まかり間違っても、掃除の途中でよからぬ事を考えないように。その場合には、私から直々に指導だ」 「……」 「ひぃ……」 「反論は?」 「……」 「……」 「沈黙は罰則に対しての了承と捉える。真面目に掃除をするように」 「はい」 「はい」 遅刻したのは事実だし、言い訳のしようもない。 結局、俺と結衣は放課後に会議室の掃除をする事が決定。 なんとなく、しょんぼりしたまま、授業は始まってしまった。 放課後になって、結衣とふたりで掃除をするために会議室に来た。 今は繚蘭祭の準備中だから、居残りの生徒は多い。 でも、周りの生徒たちはみんな準備をしている。 罰で掃除をしているのは俺たちだけ。 会議室は結構な広さがあるので掃除をするのは大変そうだ。 でも、遅刻したせいだしな。ちゃんとやらなくちゃ。 「ごめんね晶くん、わたしがうっかり横で寝ちゃったから……」 「いや、いいけど…」 「ううう、晶くんの寝顔は魔物だよう」 「な、なんだよそれ」 「見てたら一緒に寝たくなっちゃったの」 「………」 今、ものすごくあっさりとすごい事を言われた気がする。 でも、結衣は多分、そんなつもりないんだろう。 ちくしょう。悔しいけど、かわいい。 「もう、何やってるんだか……」 「あ……天音ちゃん」 「天音」 「ふたりして遅刻して来るなんて、朝ごはんいっぱい食べ過ぎたの?」 「えっと……」 「……」 天音が精一杯、いつも通りを装ってくれているのがわかった。 でも、目元は少し赤いし、笑顔もいつもと違う気がした。 なんだか、胸が痛い。 天音は辛かっただろうし、苦しかったんだろうって、見ているだけでそれがわかる。 「ふたりして、なんて顔してるのよ」 「天音ちゃん」 「あの……」 「結衣と晶くん、おんなじ顔してる」 「え……」 「え……」 思わずお互いに顔を見合わせる。 俺たち、そんなに同じ顔してたんだろうか? 不思議そうに結衣を見ていると、天音が少し笑う声が聞こえた。 そっちを見てみると、天音は笑っていた。 でも、それがまだ無理をしているように見えるのは気のせいなんだろうか……。 「私、昨日あれから泣いたし、悲しかったし、辛かったよ……」 「うん」 「私やっぱり、結衣の事も晶くんの事も好きだなって改めて思った」 「天音ちゃん……」 「天音」 「それにね、今こうやってふたりの顔見てたら……やっぱり、ふたりは大事な友達で、私はそんなふたりの事が大好きだなって思った」 「……」 「……」 「だって、同じ顔して、同じように私の事心配してくれてるんだもん」 言い終わった天音がまた笑った。 でも、今度はさっきまでみたいな、無理をしたような笑い方じゃなかった。 いつもの、俺たちがよく知ってる天音の笑い方。 じっと、天音を見つめる。 すると天音はまた笑った。 「ほら、今も同じ顔」 「そ、そうかな」 「そ、そうかな」 「おんなじ。もー、そんな顔しないの、笑いなさい」 「だ、だって天音ちゃん」 「はーーー」 「天音?」 「泣いてすっきりした後で考えたの。私に気をつかうような事があったら、何か言ってやろうかなんて……」 「でも、そんな気もなくなっちゃった。ふたりして、そんな風に同じ顔するから!」 いつもの笑顔を浮かべながら、天音は結衣の頬をつまんで突然引っ張った。 驚いた結衣は目を丸くして、自分の頬をつまむ天音を見ている。 「ひゃ! あ、あまねひゃん!?」 「ちゃーんと掃除早く終わらせて、繚蘭会室まで来てよ。約束の時間、覚えてる?」 「お、覚えへるよ〜」 「じゃあ、その時間までにね」 結衣の頬を離して、天音はくるりと背中を向けた。 「え? 手伝ってくれないの?」 「どーして? ふたりが罰として教室掃除を言われたんでしょ」 呼び止められた天音は、いつもの表情で振り返って俺と結衣を見ていた。 いつも通りの表情、いつも通りの言葉。 きっと俺たちに気を遣って、いつも通りに振舞おうとしてるんだろう。 「はい。そのとおりです」 「じゃあ、がんばって掃除しましょう」 「うう、はぁい」 「はい」 「じゃあ、また後でね」 「あ、うん! 天音ちゃん、またね!」 「後でな」 去って行った天音を見送ってから、結衣を見てみた。 結衣も同じように俺を見ていた。 もしかして、さっき天音が言ったみたいに同じ顔をしているんだろうか……。 「また、今も同じ顔してるのかな」 「え……」 「なんか、そう思った」 「俺も今、そう思ってた」 「そっか、同じだね。お掃除、がんばろっか」 「そうだな。早く終わらせよう……ああ」 「ん?」 「いや、繚蘭祭の準備で大変な時期なのに、悪い事したなあって思って……」 「あー」 「いや! 今日だけ! もうしないって事で」 「うん! じゃあ、がんばって終わらせよう」 「うん」 うなずき合った後、ふたりで真剣に掃除をした。 かなり真剣だったせいか、かなりテンポ良く、効率良く掃除する事ができた。 そのおかげで、思っていたよりも早く掃除が終わって、確認に来た氷川が驚いていたほど。 でも、本当にちゃんとできていたから、これで終了でいいとちゃんと許可は出た。 氷川が少し残念そうだった気がするけど……。 まあ、あまり考えないでおこう。 掃除は終わったんだけど、天音の言ってた約束の時間よりはまだ少し早いかな。 ちょっと、ゆっくりする時間くらいはあるかも。 「掃除早く終わってよかったね」 「うん」 「どうしよ。もう、繚蘭会室行く?」 「んー。もうちょっと一緒にいたいかなとか、なんか……えっと……」 「あ……う…」 「せっかく、ふたりっきりだし、とか思ってた。ごめん」 「あ、あの! ち、違うよ……あの、わたしも同じ事、ちょっと思ってたよ」 「そ、そっか」 また同じ事考えてたんだ。 なんだろう。すごく嬉しい。 女の子と付き合うのって、こういうものなのかな。 「じゃあ、もうちょっと一緒にいようか」 「うん」 「ちょっとだけなら」 「そう、だよね」 「なんか、したい事とかある?」 「え! し、したい事?」 「そう。なんか、ふたりだけだからさ……俺は一緒にいたいって言ったから、今度は結衣が何かないかなって」 「えっと、そうだな……えと……あ!」 「あった?」 「あの、えっと……うーん、ちょっと恥ずかしいかな、やっぱり…でも」 考えながらもじもじしている結衣。 ちらちらとこっちを見ながら、時々視線を外す。 そんな姿が、なんだかすごくかわいい。 「なんでもいいよ」 「じゃあ、あの、ね……こ、恋人繋ぎ…してみたい」 「恋人繋ぎ?」 「うん。あの、手をぎゅって……」 「手を握ればいいの? こうやって?」 「あ! え、えへへ」 聞きながら、結衣の手を握ってみる。 俺よりもずいぶん小さな手。 手のひらにそのまま包み込めてしまいそうだ。 「あ、それから、ね……こうやって、指を……」 「あ……」 結衣の手を握った俺の手のひら。 その手のひらを、結衣が反対の手のひらで触れた。 そして、指をそっと開かれる。 結衣の細い指が俺の指を開かせる。 そのまま、結衣が動かすままに開かれる俺の指。 そして、その指の間に、繋いだ方の結衣の指が絡んで行く。 「こうして、こう……」 「……」 「えへへへー」 ぎゅっと、指を絡めたまま結衣が強く手を握る。 その感触が嬉しくて、思わず握り返していた。 強く、でも強すぎて痛くならないように注意して、お互いに指先を絡ませたまま手のひらを握り続ける。 「やってみたかったんだ……」 「うん」 手を繋ぎながら、結衣が微笑む。 なんだか、すごくかわいいな。 見てるとちょっとドキドキする……。 「えへへ。ぎゅーって、いいよね」 「うん…いま、結衣と手をつないでるんだなーって、気がする」 「ちょっとドキドキするね」 「結衣もなんだ」 「……」 「……」 目の前で、俺をじっと見つめて、嬉しそうに頬を染めている結衣。 その結衣が、とてもかわいいと思った。 視線は自然と結衣の唇に向かう。 ……キスとか、してみたいなって思った。 してもいいのかな。結衣、怒らないかな。 顔とか、近づけてみようかな……。 「あ……」 「あ……」 そっと顔を近づけると、一瞬だけ驚いたような表情をされた。 でも、すぐにその表情は恥ずかしげなものに変わる。 そして、結衣はそっと目を閉じた。 これって、やっぱり…いいって事、だよな。 「ん……」 そっと、結衣の唇に自分の唇を重ねる。 一瞬だけの、柔らかくて暖かい感触。 ああ、そうか……これが結衣の唇の感触なんだ。 触れるだけの感触をそっと離してみる。 でも、本当はちょっと物足りない。 もう少し、いいかな……したいな……。 「結衣……」 「……んぅ」 名前を呼んで、もう一度唇を重ねてみる。 触れるだけの感触を、今度は軽く、二度、三度と続ける。 「ん、ん」 もっと、もっとこうしていたいと思ってしまう。 だけど……結衣はよかったのかな。こんなにいきなり。 我慢してそっと唇を離すと、同じように目を開けた結衣がいた。 「え、えへへ」 「うん」 「キス、しちゃった」 「うん」 「ちょっと、して欲しいなとか……思ってた」 「俺も、したいなって思った。だから、した」 「一緒だったんだ」 「そうみたいだな」 「なんか、恥ずかしいな」 「そ、そうだな……」 うわー! すっごい今さらだけど、なんか恥ずかしいな! でも、結衣も嬉しそうだし。かわいいし……。 もう一回したい感じかも。 どうしよう。していいかな。 したいな。 「もうちょっと、したいな」 「うん、もう一回……」 もう一度したいって思ってるのはお互いに同じだった。 でも、結衣は恥ずかしそうに時計を見て、そしてその表情が一瞬で慌てたものに変わった。 俺もつられて時計を見る。 「あ!!」 「そ、そうだ、繚蘭祭の準備手伝わなきゃ!!」 「そ、そうだった! ちょっとだけって言ってたのに!」 「急ごう、晶くん」 「そそそそうだな」 も、もう一度とか、そんな事言ってる場合じゃなかった。 そろそろ時間だ、早く手伝いに行かないと!! 「遅くなってごめんなさいっー!」 「ま、間に合った?」 「大丈夫だよ。早かったねー」 「ほ、本当?」 「あ……」 時計にチラりと目を向けると、約束の時間ぴったりだった。 早かったという事は……。 相当掃除に時間がかかると思われてたって事かもしれない。 いやまあ、そうだよな。会議室けっこう広いし……。 「じゃあ、そろそろ始めないとね」 「今日は何するの?」 「書類とかデータの整理。しばらく準備とかで放っておいたんだけど、もうそろそろやっちゃわないと」 「量が量だから、人手は多くないと……はあ」 「なるほど、それで俺と結衣もか」 「そういう事よ、猫の手も借りたいからね」 「だから、ワタシも呼び出された」 「お!? 九条、久し振り」 「そう?」 書類やデータ整理の仕事がすっかりたまってしまっていたらしい。 ずっと研究棟にこもりっきりだった九条までが呼び出されてるんだから、かなりの量なんだろう。 「オレもやるぜー! データ整理ならお手のもんだからよー!」 「マックスもか」 「あったりめーよー!」 「桜子はちょっと別の用事で出てるけど、すぐに戻って手伝ってくれるから。それまでは私たちだけでやりましょう」 「わかった」 「はーい」 「おー」 「はーい」 それじゃあ、気合をいれて整理作業にとりかかるか。 「オッケー、これは全部整理済みね。はい、じゃあこっちのはシュレッダーを」 「これ、こっちでいいの?」 「うん。その棚の高い場所にお願い」 「はーい」 「天音ちゃーん、これは?」 「あ、それはよく使うから、取り出しやすいとこ」 「はーい」 「28号、こっちのデータもバックアップを」 「らじゃー!!」 「それが終わったら過去のデータの確認も」 「どんどんこーい!」 みんなで手分けしてやっているからか、作業は面白いように進んで行く。 それぞれが自分が得意な事に集中しているから、なおさら効率はいいみたいだ。 この調子だと、すぐに片付け終わりそうだな。 開いた扉に視線を向けると、そこには能天気な顔をした生徒会長が立っていた。 いつものようにゆるい表情で、ひらひらと手を振っている。 正直、今この場に来て欲しくない人ナンバーワン。 「やあやあ、諸君! 元気でやってるかーい!」 「……」 「……ちっ」 「あ、会長さんだ! こんにちはー!」 「おっす!」 「あんた、何しに来たんですか」 「はいはい。用事がないなら帰って!」 「ああ、冷たいよ!!!」 「どーせいらないちょっかい出しに来たんでしょ」 「そんな事はない! 今日ここに来たのはしっかりした目的があるんだ!」 「あっ!!」 しっかりした目的って何だよと思っていると、会長はまっすぐ俺の方までやって来た。 「な、なんなんですか」 「またまたぁ、とぼけちゃって。ん? どうなのよ? 最近どーなの?」 「な、何がです」 「もー。転校生同士仲良くなって、結衣ちゃんとお付き合い始めたくせにぃ〜」 「な、なんで知ってんだよ?!」 「俺はしょーくんのコトならなんでも知っているのだよ」 「あ、あんたには関係ないでしょ!!!」 「ダメだ! それではダメだ、しょーくん!!!」 強い口調で言った会長は、有無を言わさない勢いで俺の体をつかんだ。 そのまま、部屋の隅までずずい〜っと連れて行かれる。 「もうやだ……」 「女の子というのはみんな、お付き合いをすれば色々な事を望むものなのだよ!」 「あんたに何がわかるんですか」 「少なくとも君よりは色々わかってる」 「……」 「そーゆー事も女の子は期待しているのだよ! さあ、ほら、せめてもの贈り物を受け取りたまえ!!!」 そう言いながら、会長は俺の手を取った。 そして、ぎゅっと強く、手の中に何かを握らせた。 手の中には、小さなビニールのような感触。 あんまり見たくない気がする。 でも、このまま握っているのも嫌だ。 仕方なく、恐る恐る手のひらを開いてみる。 ―――そこにあったのは、コンドームだった。 「………」 「え、何? 何する物か知らないの?」 「そーじゃなくて!!!!」 「良かったー。そりゃ、知ってるよねー。知らなきゃ、お兄さんゼロから説明しなきゃいけないトコだったよー」 「そういう事じゃなくて!!!」 「ぐっどらっく!!」 「だから、いらん気を遣うなああ!!!」 何考えてるんだ、この人は!! こんなもんをこの場所で渡すとか常識外れにもほどがある! 大体、こんなもの渡してもらわなくても……! い、いや、そういう問題じゃなくて! 「ただいま戻りました……あら、会長さん」 「や! おじゃましてます」 「晶さん……? 手に何を持っているの?」 きょとんとした表情で、桜子が俺の手を見ていた。 ……手? 手って、さっき、会長が押し付けたコンドームが――― 「え!? あ、ああー!!!!」 「え……」 「あ……」 「……最低」 「んー? なんだなんだ?」 手のひらの中には、ばっちりと手渡されたモノが握られている。 おまけに全然、ちっとも、微塵も隠れてない! しかも、この場にいる全員に見られてる!!! 「い、いやいやいや! これはその、えーっとね!!!」 「それはなに?」 「なんだ、晶も知らねえのか? 仕方ねーなー! オレがネットで調べてやるよ!!」 「ちょー! 待てー! 待ていマックス!!!」 「オレの手にかかれば、そのナゾの物体の正体くらいすぐにわかるって」 「いやいい! いいから、調べなくていいから!!」 「えーっとだな、それは……」 「マックスストーップ!!!!」 「え?」 「それも没収!!!!!」 天音が大声でマックスの行動を阻止した。 そして、俺の手の中から勢いよくコンドームを取り上げた。 その、瞬間――― ばらばらときれいに、折りたたまれていたコンドームが天音の目の前に広がった。 あれじゃあまるで、みんなに見せているみたいだ。 いやあ……あそこまで見事だと、驚く事を忘れるなあ。 「あ……」 「あ……」 「……?」 「……」 「……あ!!!!」 全員の視線が一斉に天音に向けられた。 結衣は頬を赤くして、くるりはあからさまに蔑んだ表情。 桜子だけはどういう事だかわかっていないようだ。 そして、事態に気づいた天音の顔が恥ずかしさで真っ赤になる。 あれ……。 これ、もしかしてヤバくない? 天音の顔が真っ赤なのも、恥ずかしいからじゃなくて、怒ってるからのような気が……する…。 「あれはなんでしょう?」 「え、えっと……」 「最低」 「ぶーぶー」 「お……」 「え、えーと。じゃあ、僕そろそろ生徒会室に戻ろうかなあああ」 「あ! ずるい!!」 「お兄ちゃんのバカあああああああ!!!!」 「ぎゃあああああああああ!!!!!」 繚蘭会室での書類整理が終わった後、俺と結衣はふたりでケーキを食べに来ていた。 疲れた後は甘いものがいいから。 というのは建前で、本当はお互いにもう少し一緒にいたかったからかもしれない。 「あぁ。染み入る」 「今日は忙しかったもんね」 「うん、そうだな。掃除から書類整理から………」 「………」 なんとなく……。 さっきから、頭の中に会長から手渡されたコンドームの事がちらちらしてる。 そういえば、キスもしちゃったんだよなあ……。 でも、俺ばっかりそういうの考えてたらどうしよう。 「……」 「う……」 チラっと結衣を見てみると目が合った。 もしかして、同じ事を考えていたんだろうか。 結衣は俺が見つめると真っ赤になった。 「あ、あのさ、結衣」 「う、うん」 「いや、その。えーっと……」 「しょ、晶くん、あのね」 「うん」 「さっきの、アレって、そ、そういう事に使うんだよね……?」 やっぱり同じ事を考えていたみたいだ! どうしよう! なんかドキドキして来た!! 「わ、わたしたちも、そういう事しちゃうのかな……彼氏彼女だもんね」 「え、えと、だ、誰とするの!? ていうか、え!? え、あっ!? ええ!??」 「え! しょ、晶くんとじゃないの!? 晶くんは誰か他の人とするの!?」 「い、いやいやいや! そ、そりゃ結衣としたいけど! いや、いや、そうじゃなくて、なんて言うのか!」 「え、えっと、えっと」 「えーと、えーと」 なんかもう、どうしたらいいのかわからない。 自分の顔が赤くなっているのが、自分でもわかる。 結衣も真っ赤だし……。 また、同じ顔してるように見えるんだろうか。 でも、結衣だってそういう事意識してるんだよな。 そうだよな、だって恋人同士だもんな。 ……って、改めて考えるとむずがゆいっていうか、恥ずかしい。 「で、でも! そ、そういうのって、デートとかちゃんとしてからだと思う」 「そ、そうだな。そういうもんだよな。いきなり過ぎるよな」 「ね、ねー」 「う、うん、もちろん!」 なんだろう、この妙な雰囲気というか、恥ずかしい空気。 なんかすごく落ち着かない。 い、いやいや。あんまり意識しない方がいいかな……。 ああ、でも結衣はどう思っただろう。 「……」 「……」 チラっと結衣を見てみたら、目が合った。 目をそらすのも違う気がする。 な、何か話した方がいいかな。 「え、えーと、ケーキもう1個食べようか」 「じゃ、じゃあ俺は結衣が食べてたプリンにしようっと」 「美味しかったよー」 「俺のもうまかったよ」 結衣がケーキを注文してくれて、席にはすぐに次のケーキが届いていた。 目の前にケーキがあると、やっぱり嬉しくなるな。 よし、とりあえず食べよう。 「んー。美味しい! おいしすぎるぅう」 「うん…」 食べながら、チラっと結衣を見てみる。 本当に幸せそうな顔して食べてるな。 ああ、でも俺も同じ顔して食べてるのかも。 「あ……」 「どうしたの?」 「すごいコトに気付いてしまった」 「な、何?」 「こういうのも、デートになるのかなって」 「え?」 「ほ、ほら、ふたりだけでケーキ食べて、お話してって……なんか、デートっぽいよね?」 「い、言われてみれば確かにそうかも」 じゃあ、これもやっぱりデートになるんだろうか? でも、デートっていうと、待ち合わせしてとか、そういうのが一般的な気が……。 じゃあ、これはデートじゃない? でも、雰囲気的にはデートのような。 ちょっとだけデートっぽいような、違うような……。 「でも、なんだか違うような気もするんだよね」 「してる事は、その、デートみたいな感じだけど……」 「ちょっとデート?」 「え? ちょっとデートって?」 「放課後ちょっとデート。なんか、そんな感じ」 「ああ、うん。なんとなくわかった」 「じゃあ、ちょっとデートだね」 「そういう事にしとこう。うん!」 「あ、でもちゃんとしたデートまだしてないのに、キス……したのは、いいのかな」 「えっ! う……ど、どうなんだろう」 「あ、うううう」 「う、うん」 ああ……。 キスした事いきなり思い出した。 柔らかかったよな、結衣の唇。 良かったのかな。したかったけど。 でも、結衣もして欲しかったって言ってたし……。 「よ、良かったの? そういうのって、大事じゃないの?」 「俺、先走りすぎたかな」 「あ、あの、でもして……欲しかったし……」 「あ……」 また、あの時の感触を思い出す。 結衣も同じみたいで、俺たちはじっとお互いを見つめて黙ってしまっていた。 「そうだー!」 「何?!」 「解決策を思いついたよ、今度のお休みにデートすればいいと思う!」 「そしたら胸張って出来るようになると思うんだ」 「え、な、何を?」 「その……キス……とか…」 「……」 「……」 「け、ケーキもう1個くらい食べようか」 「う、うん! 食べたいなー」 「じゃ、じゃあ、何食べよっか」 まるで、その空気をごまかすみたいに、俺と結衣はメニューを見つめた。 ずらりと並ぶケーキの名前を見つめて、あれもいい、これもいいなんてふたりで話す。 そうしていると、なんだかちょっと落ち着いたような気がした。 俺たち、お互いにちょっと浮かれてるのかも。 今はもうちょっと、ケーキを食べて落ち着こう……うん。 ぼんやりと目を開けると、外は明るかった。 ああ、もう朝か。 ――繚蘭会室での出来事から、もう数日が経っていた。 俺と結衣が付き合ってる事はいつの間にかみーんなに知れ渡っていた。多分、会長のせい。 ホント、あの人は……余計なことばっかりするんだから。 いや、でもいい。今日は考えない事にしよう。 せっかくの休みで、会長の攻撃から逃れられるんだから。 まだ眠いから……もうちょっと寝よう。 休みの日くらいはゆっくり寝てもいいはずだ。 うん………寝よう…。 「すーすー」 「んふふ〜!」 「すーすー……」 「しょーくーん。あーさーですよー」 「んんぅ」 「う、ん? 結衣……?」 「うん! おはよう」 「うう……」 ぼんやりしたままの頭で体を起き上がらせる。 アラームはまだ鳴っていなかった。 ていうか、今日は休みだよな。 さっき確認したはずだ。 「目、覚めた?」 「まだ、ちょっと……どうしたの?」 「え、なにが?」 「だって、今日休みだし。朝早いし」 「うん。準備とか手際よくできてるって天音ちゃんも言ってたから、今日はゆっくりできるんだよね?」 「じゃあ、寝ていい? 眠いです」 「だめだよー。起きて、起きて!! 頑張って!!」 「んー? わかった」 まだ頭はすっきりしないけど、結衣がせっかく起こしに来てくれたんだったら……。 起きて着替えよう。 ああ、でも……ちょっと眠い。 「晶くん、デートしようよ! デート!」 「え? デート?」 い、いきなり? いやよく考えたらいきなりじゃない。前に今度のお休みにデートをするという話をしたはずだ。 でも、どうしてデートをしなきゃいけないのかって話とか、デートしたら胸はってキスできるとか、その後のこととか……。 ……あ、でも結衣の様子を見ているとなんかそれは忘れてるっぽい。 「うん! これ、これ!!」 きらきらした目をしながら、結衣がチラシを差し出した。 受け取って中身を見ると、新しくできた喫茶店の宣伝のチラシだった。 「新装開店……?」 「うん! 今日開店で、限定のスペシャルメニューが食べられるんだって!」 「スペシャルメニュー!?」 「そうだよ! だから、ふたりで食べに行こうー」 「しかもこれって、今日と明日限定か!」 「そうなの! だから、早く行こうよ!」 「わかった!」 「じゃあ、着替え着替え! 晶くん、着替え!」 「わ、わかったから。ちょっと待って」 「あ! だ、だめ! ちょっと待って! そ、外出てるから!」 「あ! わ、わかった」 真っ赤になった結衣が慌てて外に出て行く。 うっかりしてた。全然そんな事考えてなかった。 と、とりあえず着替えて出かけよう。 「えっとね、確かこの辺だと思うんだけど」 「うん。地図だとそうだよな」 「うん。えーっとえっと」 着替えを終わらせて、軽く朝ごはんを食べてから、俺と結衣は目的の店に向かった。 行った事のない店だけど、チラシにあった地図を見ながらなんとなく歩く。 「スペシャルメニュー、どんなだろうね」 「楽しみだよなあ」 「期間限定だから、きっとすごいはずだよ!」 「もしかしたら、全メニュー食べられるとか!?」 「それだったらすごいなんてものじゃないよ!!!」 「楽しみになってきた」 「お、そうかも」 歩きながら結衣が指す先を見つめると、一件の喫茶店があった。 見るからにきれいで、開店したばかりですという雰囲気のその店に向かって俺と結衣は歩き出す。 店内に案内された俺たちは席に着くなり、スペシャルメニューを注文した。 「うわあああ!」 「すっごいな」 「さすがスペシャルだよ〜」 「さすがスペシャルだな〜」 スペシャルメニューの内容は、なんと店内メニューすべてを通常価格の半分で頼めるというものだった。 確かにスペシャルだ! でも、注文するにはスペシャルメニューを注文して、尚且つ全部食べないといけないらしい。 うん。これはちょっと普通は難しいかな。 どっちかというと大勢で楽しむためのものだろう。 まあ、俺と結衣なら余裕だ。 というか、スペシャルメニュー2巡はいける。 「本当に全部頼めちゃったね!」 「ホントだな。しかも、ケーキとか結構種類あるし」 「ドリンクも全部来るみたいだよー! どうしよう、嬉しいな、嬉しいな!」 「とりあえず、食べる前はあれだ!」 「はい!」 「いただきます!」 「いただきます!」 ふたりで手を合わせてから食べはじめる。 ケーキもあるし、パフェもあるし、紅茶もあるし、ソフトドリンクもあるし……。 何から食べればいいのかわからない! なんて幸せなんだ! なんだろう、この幸せ空間! 「おいしいねー」 「うん」 「嬉しいなあ、おいしいなあ。ケーキもパフェも大好きー」 「うん。俺も大好きー! 夢みたいな空間だー」 「でも、今日はそれだけじゃないのかも」 「うん?」 「だって、今日は晶くんと一緒だから、余計においしい気がする」 「あ……」 「なんて思います♪」 そう言って結衣が笑った。 すごくきれいな笑顔だったので、俺は食べるのも忘れて一瞬見惚れてしまう。 「晶くん?」 「いや、あの。えっと、俺もそんな気がする。一緒だと、おいしいよな」 「うん、そうだよね」 また結衣が笑ったので、俺も笑い返す。 こんな風に誰かと一緒だとおいしいって思うのは、なんだかいい。 幸せなことだ。 「あ、晶くんの食べてるのおいしそう。チョコレート?」 「え? あ、そう。食べる?」 「うん。食べたいー」 「えーっと、じゃあ……はい」 「うん! あーん!」 一口分すくって、スプーンに乗せる。 すると、結衣が口をあけた。 まるで小鳥が親鳥に餌をもらってるみたいだ。 なんだかかわいい。 その口にそっとスプーンを運ぶと、大きく開かれた結衣の口が勢いよく閉じた。 「はむ! ん、んむ! おいひい!!」 「だろー。すっごいおいしいんだよなあ」 「はー。おいしいなあ、嬉しいなあ、幸せだなあ」 「なあなあ、結衣のパフェもちょっとちょーだい」 「あ、いいよー。はい、晶くん」 「あー」 スプーンを向けられたので大きく口を開けた。 今度は俺が、さっきの結衣みたいに。 口を開けて待っていると、結衣がスプーンを運んでくれた。 口の中に入って来た感触を確かめて、勢いよく口を閉じると甘い味が広がり、スプーンが出て行った。 「んー! んまい!!」 「でしょ、でしょー」 「何もかもんまいなー。いいなあ」 「はああ。いくらでも食べられちゃいそうだね」 「そうだよな」 「もっと晶くんといっぱい食べたいねー」 「うん!」 お互いに顔を見合わせて、ニコニコと笑いあう。 一緒にいて、おいしい物を食べて、話をしているだけなんだけどな。 でも、そんなことがすごく嬉しい。 結衣と一緒にいると、本当にそんな風に思う。 「ねえねえ、あのふたりかわいくない?」 「あ、ホントだ。仲良しって感じだね」 「すっごい幸せそうでいいな」 「こっちまでなんか笑顔になっちゃうねえ」 「あ……」 「あ……」 近くの席に座っていた人たちの声が聞こえた。 あれって、もしかしなくても俺たちの事か……? 「え、えへへ」 「う、うん」 なんか、改めて気が付くと照れくさくなって来た。 そ、そりゃ、普通はあんなにあからさまにアーンとか人前でしない……か。 でも、なんか当たり前みたいにやってたし。 ああ、でも嫌だったとかじゃなくて……! 「嬉しいけど、なんか恥ずかしくなってきちゃった」 「うん」 「ああ、でもおいしいからずっと食べてたいし」 「い、今はとりあえず食べる!」 「うん! 食べるー」 「これってさ、俺たち以外に注文する人いるのかな」 「うーん……」 「うーん……」 「ま、いいか」 「ま、いいよな」 「えへへ。食べ終わったら、ちょっとお散歩しようね」 「うん」 ふたりでおなかいっぱいまで食べた後、俺たちは近くの公園をゆっくり歩いていた。 さすがにメニュー一巡は量が多かった。結衣がいなかったら途中でギブアップしていたかもしれない。 「食後に体を動かすのですー」 「ん? 何、それ」 「似てない」 「えー、そうかなあ」 「うん。ふふふ…」 「えへへ」 ふたりで並んで歩いて、別になんて事のない話をする。 それだけなのに、どうしてこんなに楽しいんだろう。 あ、ちょっと……手とか繋ぎたいな。 「結衣」 「あ……」 そっと、指先に触れる。 驚いたように結衣が俺を見た。 でも、触れた指先はすぐに絡み合った。 お互いの指先を絡ませて、強く握る。 「えへへ。嬉しいな」 「うん」 「こうやって歩くのって……なんか、いいね。幸せな気がする」 「うん」 照れくさいけど、嬉しい。 手を繋ぐ力が強くなる。 指を絡ませながら、ゆっくりと歩く。 それだけなんだけど……。 その、それだけが何故か特別なことのように思える。 彼女ができるって、こんなに幸せなことだったんだ。 それを教えてくれた結衣に、感謝したい気持ちでいっぱいになった。 一緒にいっぱい食べて、手を繋いで歩いて……。 デートというには少し短かかったかもしれない。 でも、まだまだ繚蘭祭の準備作業もあるから、あまり遅くなるのも駄目だろう……。 そんな風に理由をつけてふたりで一緒に帰って来た。 だけど、なんとなく……。 「……」 「……」 繋いだ手を離せない。 名残惜しくて、もっと一緒にいたいと思ってしまう。 明日も会えるのに。 もう会えなくなるわけじゃないんだ……。 そうはわかってるんだけど。 「えっと」 「うん」 「じゃ、じゃあ、あの、また明日だな」 「そ、そうだね」 口に出して、ゆっくりと手のひらの力を緩める。 結衣もゆっくりと力を緩めて、お互いの手が離れた。 「明日も起こしに行くね、晶くん」 「うん。ていうか、俺が起こしに行った方がいいんじゃない?」 「いいの、わたしが起こしたいの! そういうのやりたいのですー」 「そっか。わかった」 「じゃあね」 「うん」 先に寮の中に入って行った結衣を見送る。 なんだか、少しだけ動けなくてぼんやりしてしまった。 ……俺も部屋に戻ろう。 「……あれ?」 部屋に戻るとマックスの姿がなかった。 どこかに行ったのかな。 いつもなら、この時間は部屋にいるのに。 「あ」 よく見ると机の上に書置きがあった。 そこに書かれていたのは、マックスの字だ。 『晶へ』 『ちょっとオレ、和菓子にも興味出たから、和菓子について勉強してくるわ! 明日はそのまま仕込み行くから、今晩戻らないけど淋しがらなくていいからな』 『マックスより』 和菓子の勉強ねえ……。 どこまでも真面目だなあ、マックス。 あいつはもしかして、本気で超高性能パティシエロボにでもなるつもりなんだろうか。 あ、それはそれでいいかもしれない。 おいしい物とか、作ってもらいたい放題だ。俺、和菓子も好きだし。 「ふう」 それにしても、マックスいないのか……。 少し淋しいな。 マックスがいないのなら、結衣の部屋に行ってみようか。 行ってもいいのかな……。 思ってみるとすごく会いたくなってしまったのだが、よく考えたらさっき別れたばかりだ。 果たして、いいのか。 そんなのでこの先、俺やっていけるのだろうか。 それとも彼女が出来たばかりの男って、みんなこんななのかな……。 「あ、はい」 「あの、晶くん」 「結衣! ちょっと待って、開けるから」 「うん」 「ど、どうしたんだ?」 「あの、部屋に戻ったらすずのちゃんがいなくて」 「え! いなくなったの?」 「あ、ううん。違うの、マックスくんと出かけたみたいで、手紙が置いてあったよ」 「あ、すずのもなんだ……」 もしかしたら、結衣が俺と出かけててすずのがひとりだったから、マックスが誘ってやったのかな。 あいつ、ホントいいやつだからなあ。 「それで、ひとりで淋しいなあって思って……えへへ」 「あのさっき、また明日って言ったのに性懲りもなく来ちゃいました」 「あ、うん。えっと、入る?」 「うん。おじゃまします」 部屋に入った結衣と一緒に座る。 来てくれてすごく嬉しいんだけど、照れくさくもある。 「……」 「晶くん?」 「いや、あの。同じ事考えてたんだなーって思って」 「ホント?」 「うん。俺もマックスいなくて淋しかったから、結衣のとこ行こうかなとか思ってた」 「そうなんだー。一緒だねえ……えへへ」 「うん」 照れくさそうに結衣が笑う。 その表情は、好きな相手だって差し引いてもすごくかわいい。 「あ、そうだ。あのね、晶くん」 「ん?」 「今度またね、行きたいお店があるんだ♪」 「ほんと?」 「うん。週替わりでメニューが変わるお店とか、カップル限定メニューがあるお店とか……」 「結衣はいっぱい知ってるなあ」 「おいしい物の事はいっぱい知ってるよ」 「あはは」 「これからは晶くんといっぱい行くんだ! 今までカップルものは食べられなかったし…」 「うん。俺も、今日みたいに結衣とおいしい物いっぱい食べたい」 「楽しかったね、おいしかったし!」 「そうだな」 「これからずーっと一緒に、ふたりでいろんな物食べたり、いろんなとこ行ったりしたいね」 「できるよ。これからずっと一緒なんだし」 「あ、そっか!」 「うん」 「なんか、不思議だな」 「ん?」 「なんだか、すごく長い間、晶くんとずーっと一緒にいるみたい」 「恋人同士になったのは、この間なのにね……でも、なんだかそんな気がするんだ」 「なんとなく、わかる」 「本当?」 「俺も、結衣と一緒にいるとそんな感じがする」 「一緒にいると落ち着くし、ずっと一緒にいるみたいな安心感があるし……不思議だよな」 「うん。でも、おんなじで嬉しいよ」 「俺も」 「ふふふっ!」 見つめ合うと、結衣が笑う。 その笑顔を見つめていると、くすぐったい気持ちになる。 でも、嫌じゃない。 もっともっと、こうやって笑っている結衣を見ていたい。 「ん? あれ……」 「あ、晶くんの?」 「うん。ちょっと見ていい?」 「うん、いいよ」 端末を取り出して画面を見る。 メール着信の表示と一緒に、あんまり嬉しくない名前が表示されていた。 「……はあ」 まあ、ため息ついてても仕方ない。呼び出しだったらめんどくさいけど……。 とりあえず中身を見てみよう。 『晶くんへ』 『実はちょっと相談したい事がありますっていうか、あの一件以来、天音が俺を無視するんだよう。目も合わせてくれないし、話してもくれないし……』 『どうしたらいいと思う? 晶くん助けて!!』 「………」 あの一件って、この前の繚蘭会室での事だよな。 俺に渡したアレが天音に没収されて……。 いやまあ、自業自得だしなあ。 助けてって言われても、俺には助ける義理はないし。 ……ほっとこう。 「晶くん?」 「ああ、ごめん。会長からだった」 「あ、もしかして生徒会で何かあった?」 「違う、違う。そういうんじゃないよ、大丈夫」 「あー、いいよ。あの一件以来、天音が口きいてくれないから、どうしたらいいって聞かれただけだし」 「……あ!」 あ……。 そ、そうかあれ以来って事は、あれ以来って事で……。 結衣も色々思い出したのか。 そうだよな、思い出さないわけないよな……。 なんかちょっとこう……。 「……」 「……」 お互いにちらちらと見つめる。 結衣の頬は真っ赤になっていた。 多分、俺の顔も赤くなってる気がする。 どうしよう。 なんか、妙っていうか、恥ずかしい空気になってしまった。 でも……そういうの意識するって事は、お互いにそういう相手だと思ってるって事だし。 いいのか悪いのか! 早いのか遅いのか! 彼女が出来たことすら初めてだから、さっぱりわからない。 「晶くん、あの……もうちょっと隣、座っていい?」 「え! う、うん」 「え、えへへ」 ゆっくりと結衣が近づき、少しだけ距離が近づいた。 ほんの少し近づいただけ。 それなのに、結衣の香りが漂ってくるような気がした。 ……今日、ちゃんとしたデートしたよな。 ちょっとデートじゃなくて、ちゃんとしたデートだ。 楽しかったし、もっと一緒にいたいって思った。 そして、今一緒にいるわけで……。 俺の部屋で……。 「結衣……」 「……!」 隣に座る結衣の手にそっと触れる。 一瞬だけ驚いたように結衣が震えたけれど、すぐにその震えは止まった。 かわいい。 今、結衣がすごくかわいいと思ってる。 もっとこうしていたい。 「……」 「晶くん」 「……ん?」 「んーん」 名前を呼ばれて、結衣を見つめる。 結衣は首を振ってなんでもないと伝える。 でも、そんな仕種すらかわいかった。 触れた手を、ぎゅっと握る。 指を絡ませて、強く握ると結衣も同じようにする。 もっとこうしたい。 いや、そうじゃない。 もっと、結衣とこれ以上の事をしたい。 俺だけがこんな風に思っているんだろうか。 そう思うと恥ずかしい。 でも、繋がった結衣の手から、自分の手を離せない。 「結衣」 「晶くん……」 「うん」 しっかりと手を繋いだまま、結衣を見つめた。 すると結衣は、俺を見つめてから目を閉じた。 それがどういう事だか、わからないわけがない。 結衣が俺と同じ気持ちな気がして嬉しかった。 「ん……」 唇を重ねて、二度、三度と触れる。 あの時と同じ、柔らかな感触。 でも、あの時と違うような気がした。 何がって具体的にはわからないけれど、あの時とは違う感触。 「あ……」 触れるだけのキスをくり返す。 結衣の声が漏れて、聞こえて来る声と息に心臓が大きく動く。 もっと、もっと結衣に近づきたい。 「結衣、ぎゅってしていい?」 「うん。して欲しい」 「うん」 どうやったら、結衣の体をしっかり抱きしめる事ができるだろう。 どうすれば、結衣を離さずにいられるだろう。 考えたけれどわからなくて、後ろからゆっくりと抱きしめてみた。 「あ……」 「こうがいいかな」 「うん」 背後から結衣の体を抱きしめる。 顔のすぐ近くに来る結衣の髪から、いい香りがした。 「結衣……」 「あ、んぅ……」 そのまま、シャツをまくりあげるとブラジャーが見えた。 結衣は恥ずかしげに首を振る。 でも、なんかそれが、すごいかわいい。 それに、結衣の体はすごく柔らかい。 女の子って、みんながこんなに柔らかいんだろうか。 もしかして、結衣だからなんだろうか。 どうして、こんなに俺と違うんだろう。 「あ、あの、晶くん……」 「結衣の体は柔らかいな」 「そ、そうかな」 「うん。俺と全然違う」 「で、でも、あの」 「うん?」 「晶くんに……ぎゅってされるの、気持ちいいよ……」 「そ、そっか」 結衣に言われてドキっとした。 そんな事、誰にも言われた事がない。 お互いに違うから、こう思うんだろうか。 そんな風に考える。 「なんか、ずっとこうしたいかも……」 「え……」 「だって、すごい気持ちいいよ」 「んぅ……」 「晶くん?」 「俺は……もっとしたい」 「え! あ、あの、えっと……!」 俺の言葉に結衣が真っ赤になった。 すぐにここまで真っ赤になるのが単純でかわいい。 ああ、でも結衣が嫌だって言ったらどうしよう。 そうしたらショックだな。 でも、ずっとこのままだとちょっと辛い。 だけど、嫌がる事はしたくないし……。 「しょ、晶くん、あの……」 「うん」 「い、いいよ」 「え……」 「晶くんだったら、もっとされても……いい」 「……結衣」 「きゃ!」 ぎゅっと強く抱きしめる。 腕の中の結衣が驚いて声をあげた。 そんな事ですらかわいく思えて、抱きしめる力を強くする。 でも、痛くないように、苦しくないように注意して。 「しょ、晶くん……」 「うん」 「ドキドキ……するね…」 「うん。俺も」 「でも、なんだかすごい嬉しいの」 「俺もだよ」 「一緒だね」 「うん。一緒だな」 「あ……」 頷きながら、結衣のブラジャーをゆっくり外す。 ブラジャーを外すと、形のいい胸が現れた。 「……は、恥ずかしいね」 「ごめん」 「い、いやじゃないの! だ、大丈夫!!」 「うん」 頷いて、そっと胸に手をやる。 体を抱きしめた時よりも柔らかい感触。 女の子の体っていうのは、柔らかい部分ばかりらしい。 ゆっくりと手のひらで胸を包み込んでみる。 大きすぎる事もなく、小さすぎる事もない。 ちょうどいいサイズの結衣の胸。 包み込んだ胸をゆっくりと、手のひらの中で転がすように揉んでみると柔らかさが広がったような気がした。 「あ、あ……」 「結衣の体は、いろんなとこが柔らかいんだな」 「そ、そんな事ないよぉ……」 「そんな事あると思う」 こんなに柔らかい場所ばかりで、女の子は大丈夫なんだろうか。 どこかにぶつかったりしたら、すぐに怪我をする気がする。 そんな風に考えながら何度も手を動かす。 「あ、ん……」 柔らかさを何度も確かめるように手のひらを動かし、指先でそっと先端の乳首に触れてみる。 「きゃ!!」 「あ……」 驚いたような声が出て慌てて動きを止めると、結衣が小さく首を振った。 これは、ダメじゃないって事なんだろうか……。 「へ、平気だから」 「あの、でも……」 「ほ、ホントに、大丈夫」 「うん……」 「あ、ふ! ん、んんっ!」 大丈夫だという言葉を信じて、手のひらを更に動かす。 上に持ち上げて、中央に寄せて、円を描くようにゆっくりと。 「あぁ、あ……晶くん……んん」 何度も何度もそうしていると、結衣の声が少し変わって来るような気がした。 「は、ふ……あ、んぅ、ん、ああぁ」 もっと声が聞きたいと思いながら、手のひらを動かす。 ゆっくりと、けれどしっかりと感触を確かめて。 「はぁ、は……ふ、あ……」 結衣の吐く息が、漏れる声が甘い。 こんな声も表情も、今までに見た事がない。 だからなんだろうか? とても愛しく感じられる。 「もっと、いい?」 「ん、うん」 こくこくと、何度も結衣が頷く。 そうやって頷いた姿を見つめてから、もう片方の手をそっと、下腹部から秘部の方へと移動させた。 「ああ……!」 下着の上から秘部に触れる。 そっと触れてみると、そこはやっぱり柔らかかった。 やっぱり、女の子はどこもかしこも柔らかいのだとわかる。 こんなにも柔らかで気持ちよくて……。 なんだろう、この感触。 「はあ、は……ああ……」 「……」 「晶……くん…?」 「結衣の体って、やっぱり全部柔らかい」 「んぅ……」 いやいやと恥ずかしそうに結衣がまた首を振った。 でも、もうわかってる。 嫌だからじゃない。恥ずかしいから。 「ひ、あっ! あ、あぁん……!」 それがわかっているから、秘部に触れる指先の動きは少しだけ大胆になった。 「ふ、あっ! あ、ぁああ……そ、そんなとこ、さ、触られた事、な……あっん!」 柔らかいそこをゆっくりと指先で押す。 くにゅくにゅとした感触を確かめるように、なんども指の腹でそこを押すと結衣の体が今まで以上に震えた。 「あ、んぅ! ふぁ、ああぁ、あぅ! や、ああ、なんか、変だよぉ……」 今までよりも大きな反応。 そこが結衣の気持ちいい部分なんだってわかる。 指先で何度もそこを刺激させて、結衣の声を震わせる。 伝わる感触と、真っ赤になって震えながら声を出す姿。 そんな結衣を見て興奮していた。 「……こっち?」 「あ! う、うん……」 「うん」 「ひ! あ、あぁぁっ」 頷いた結衣に応えるように、指先を少し奥に進ませる。 下着の上からだから、そんなには進めない。 でも充分にその体を震わせる事はできた。 下着の奥から小さく音が聞こえてくる。 それがどういう事なのかくらい知っている。 結衣の体の奥からあふれて来ているからだ。 なんだかそれが嬉しくて、もっと指を動かす。 「しょ、晶く……あ、ふぁあぅ!」 「もっと、違う場所?」 「ひゃ! あ、あぅ、ふぁ!! や、ああぁ、あんまり、そんな風に……あん、んぅ」 押していた場所から少し指先を動かす。 柔らかだけど、ほんの少し感触が違う場所を見つけ、そこで軽く指先を動かした。 「あ! あ、ああぁっ!」 「え……」 「や、あ……そ、そこ……あ、ああぁあ」 今までよりも大きな反応。 そこが結衣の弱い部分なんだとわかる。 大きくなった反応にドキドキする。 でも、さっきの声をもっと聞きたいとも思ってしまう。 「ひぁ! あ、ああ、あふぁあぅ!」 指先をそこで何度も動かす。 その柔らかな部分を押し潰して刺激するように。 下着の奥からあふれる感触が大きくなっていた。 くちゅくちゅと音がなり、下着がじんわりと濡れてくる。 「結衣、こっち……なんか…」 「あ、ああぁ……やだぁ、恥ずかしいよぉ……」 「でも、すごいかわいい」 「んぅう……」 「もっとしたい」 「や! あ、ふ!!!」 聞こえる音にドキドキしていた。 でも、もっと聞きたくて、指を動かす。 柔らかな部分を押し潰し、割れ目をなぞるように指先を動かして、それからまた元に戻って柔らかな部分を押し潰す。 「あ、あぁっ! そ、そんな……されたら、わ、わたし……」 「うん……」 「はあ、は、あ……晶くんぅ……!」 震える声で名前を呼ばれる。 もう、それだけでダメな気がした。 もっと……もっと結衣を知りたいと思ってしまう。 「結衣……」 「晶くん」 「もっと、いい? もっと結衣の事、見ていい?」 「あ、あう……」 「ダメなら……」 「い、いい。晶くん……」 「うん」 「ふぁっ!」 ベッドの上に結衣を寝かせて上着を脱がせた。 横たわる体があんまりにも小さくて、かわいくて思わずまじまじとその姿を見つめてしまう。 「あ、あんまり見たら恥ずかしいよぉ」 「ご、ごめん」 「晶くんも……見せてくれなきゃ、やだ……」 「え……」 「だって、わ、わたしばっかり……!」 真っ赤になった結衣が目をそらす。 でも、言われた通りだと思った。 俺、さっきから結衣にしてばっかりだ。 「あの、ちょっと待って」 「あ……」 服を脱いで結衣に近付く。 でも、そうするとぷいっと視線をそらされてしまう。 「あ、の……結衣?」 「ううう。ごめん……」 「え?」 「よ、余計恥ずかしい……」 「お、俺だって恥ずかしいよ」 「はう……」 正直な気持ちを口にしたら、結衣が真っ赤になった。 やっぱりかわいい。 そんな結衣の耳元に唇を近付けて、そっとささやく。 「あの、いい?」 「んぅ……いい」 「うん」 こくんと頷いた結衣の頬に口付けをして、手のひらでもう1度体を撫でてみる。 「あ!」 肩から鎖骨へ手のひらを移動させて、胸の上に移動させる。 それから、柔らかな感触をもう1度。 「あ、あぁあ……」 胸の上にある手のひらを動かすと結衣の声がまた震える。 震える声にあわせるように何度も手のひらを動かし、乳首を摘むとまた大きく声が出た。 「ひゃ! あ、ああぁ!!」 そこでしばらく指先を動かす。 漏れる声と息に鼓動がまた早くなる。 結衣も同じなのだろうかと思いながら、手のひらをまた動かした。 「あ、あぁ……なんか、あ、あ…すごい、なんか」 動かした手のひらでお腹を撫でてみる。 すると、さっきまでとはまた違った反応。 「あ、は……ふふ……」 「結衣?」 「ちょっと……くすぐったい」 「うん」 「でも、やじゃないよ」 「うん、わかってる」 くすぐったいと微笑む結衣の表情を見つめていると、自分もいつの間にか微笑んでいた。 お互いに見つめ合って微笑んで、軽く唇を重ねる。 「あ、ん……ん……」 唇を何度も触れ合わせて口付けを繰り返す。 そのまま、手のひらをお腹から下腹部の方へ移動させて行く。 「ん、あ……ふ……」 「んぅ……」 ゆっくりと下腹部へと手のひらを移動させると、結衣の反応がまた変わった。 そのまま、下着の上から秘部へと指を移動させる。 「ああっ!」 唇を離し、じっと結衣を見つめながら指を動かす。 じっとりと濡れた感触のする下着の上から、その部分を刺激させるようにゆっくりと。 「あ、はぁ……はぁ……やあ、そんなとこ…あ、ああ、でも、あふぁあ」 指を動かすたびに、またくちゅくちゅと音がなった。 何度もそこで指を動かすと、奥からもっとあふれて来る。 もっとそうしたいとも思った。 けど、気になる事もある。 「結衣、あの」 「へ? あ、あっ!」 下着に指をかけると、それがどういう事なのか、結衣もわかったようだった。 驚いたように俺を見つめたけれど、抵抗はない。 だから、そのまま下着をするすると脱がせた。 「あ、ふぁあ……」 「……」 「晶くぅん……」 「こ、これ以上、汚れない方が、いいかなって……」 「あ、うぅぅ」 恥ずかしそうな視線で結衣が俺を見つめる。 相当恥ずかしいのはそれだけでわかる。 でも、今こうして結衣を見つめていると、ドキドキする。 「は、恥ずかしい……」 「う、うん」 「ううう……」 「でも、あの……なんか、嬉しい」 「へ……」 「結衣と、こうしてるのが嬉しい」 「晶くん……」 ほんの少し、結衣の表情が変わった気がした。 だから、もう1度指先を秘部にそっと近づけた。 「ふぁあぅ!!」 指先があふれ出す感触で濡れる。 濡れた指先をそこで小さく動かすと、さっきよりも大きな音がなり始める。 「あ、あああ! あ、ふぁあっ! ふ、ああっ」 指を動かし、音を響かせると、結衣の声が大きくなる。 さっきよりもはっきりと指先の感触が伝わるせいか、その反応と声は大きかった。 「は、あぅ! あ、あぁあ、あ……!」 音を響かせ、指を動かし続ける。 深い場所に行きすぎないように、浅い場所で何度も指を動かす。 それだけであふれ出す量は増えた。 どんどんと指先を濡らしながらあふれるそれは、結衣が感じているからだと思うと鼓動がまた早くなる。 「結衣……」 「は、ふ……はぁ、はぁ……晶くん……!」 「………」 あふれる感触も、結衣の声も俺の体を震わせる。 これだけでは我慢できないと思ってしまう。 そして、この先どうすればいいのかも、知識ではわかっている。 「結衣、あの……」 「晶くん……」 指を離してそっと見つめる。 俺の言おうとしている事がわかったのか、少し不安そうな表情を浮かべながら、結衣はこくんと頷いた。 「あ……」 そっと、秘部に肉棒の先端を触れさせる。 小さく音がなり、柔らかな感触が触れ合う。 一瞬、結衣の体が緊張でこわばった。 大丈夫だと言おうとする前に、結衣はじっとこっちを見つめる。 「だ、大丈夫、だよね」 「うん。大丈夫だから……」 本当に大丈夫かなんて確証はない。 でも、そんな気がした。 だからゆっくりと、結衣の中に肉棒を埋めて行く。 「……ふ! ん、んっぅ!!」 「はあ……」 あふれる音を響かせながら、ゆっくりと進んでいく。 強く激しい感触に眉間にしわが寄る。 でも、きっと、結衣の方が辛い。 必死で中に進む感触に表情をゆがめ、手のひらは近くにある枕の端をぎゅっと握っていた。 「ん、ん……ん、ふぅ、あ……!」 奥に進むたび、結衣の声が辛そうになる。 やめてしまおうか。 そう思ってしまうけれど、やめられなかった。 結衣の中にある事が、その表情が、俺の体と心を刺激する。 もっともっと、結衣とこうしたい。 ひとつになりたい。 そんな気持ちの方が強くなる。 「あ、は……はぁ……」 「う、あ……」 ゆっくりと進み続けた動きを止める。 すると、結衣は不思議そうにこちらに視線を向けた。 何が起こっているか、まだわからないらしい。 「しょ……くん……?」 「全部、入った」 「あ、う……」 「わかる?」 「ん、うん」 聞いてみると、結衣は中に埋まる感触に気付いたようだった。 真っ赤になって頬を染めながら、それでも何度も頷く。 「ちょっとずつ、動くから」 「は、はい」 「………ん」 「あ、ひぅ!」 ゆっくりと、結衣の中から肉棒を引き抜く。 中に進む時と同じくらいにゆっくりと。 引き抜かれる感触にも体と声は震え、中に埋まる肉棒を強く締め付けて来た。 「ふ、あ、ぁあ、奥、奥ぅ……ああ、あふ……」 ぎりぎりまで引き抜き、またゆっくりと戻って行く。 もう1度奥に進む時にも、結衣の中は強く強く締め付けた。 「あ、はぁ、はぁあ……は、ああ、ああ……」 「ゆっくり、するから……」 「あ、ああ、は、はい……あ、ああぁ……!」 何度も何度も、結衣の体を気づかいながらゆっくりと動く。 けれど、そのゆっくりな動きに、結衣は少しずつ慣れて行く。 「は、あ、はぁ、はぁ……」 「もうちょっと、平気?」 「わ、わかんないよぉ……そ、そんなのぉ…」 「うん……」 「あ、ふ! んんっ」 わからないと答えてはいたけれど、結衣の体は俺の動きに反応していた。 ゆっくりと動くと声を出し、強く締め付けられる。 ほんの少しくらいなら大丈夫じゃないだろうか。 そんな事を考えながら、さっきよりも少しだけ動きを早くする。 「あ、ああぅ! ん、ああっ!」 「はぁ……!」 「晶くん! 晶く……あ、ああっ!」 少しだけ早くなった動き。 その動きに結衣が大きく反応した。 それに気付いて、そのまま勢いを激しく。 「あ、あああっ! そん、なぁ……あ、あんぅ! 奥、あふぁっ!」 いやいやと結衣が首を振る。 でも、もう抑えられなかった。 もっと奥まで、何度も何度も結衣を感じたい。 そう思うと動きが激しくなる。 「晶く……あ、あっ、あ、ふ! や、あぁあう!」 苦しそうに結衣が声を震わせる。 けれど、もうそれを気づかう余裕はなかった。 「は、ああっ! あ、ふぁあっ! あ、あっ! あぁあ!」 「は、あ……結衣…!」 奥へと辿り着く。 何度も何度も、強く締め付けられる。 けれどそれは拒絶されているからじゃない。 結衣が俺を受け入れてくれているから。 そう思うと、もっともっと……貪欲になってしまう。 「しょぉく……あ、あっ! や、あぁっ! わ、わたし……あ、ふぁっ!!」 「あ、ふ!」 「ふぁあ! あ、あぁあっ!」 ビクリと一瞬、結衣の中で大きく震えた。 何が起こったかすぐにわかった。 慌てて肉棒を引き抜くと、その瞬間勢いよく先端から精液があふれ出す。 どろどろとあふれ出した精液は結衣の体に降り注ぎ、その体を汚していく。 「あ……」 「あ、ふぁ……はぁ、はぁ……」 「ご、ごめん。結衣」 「へ、平気だよぉ……んぅ……」 「うん」 平気だと口にされて安心していた。 でも、そんな結衣の姿を見てドキドキしたなんて、ちょっと言えそうにないと思った。 ぐったりと倒れる結衣と並んで、ベッドで横になる。 さっきまでの余韻のせいか、結衣はまだ動けないようだった。 「晶くん」 「うん」 「えへへ。一緒なの……嬉しいな」 「今晩はずっと一緒にいられるよ。マックス帰ってこないから」 「うん。そうなんだ」 「一緒に寝られるんだよな。俺の布団で」 「うん。嬉しい」 「結衣……眠いなら、もう寝ていいよ」 「でも、もっと晶くん見てたい」 「俺も結衣を見てたいから、俺が見てる」 「ふふふ」 嬉しそうに微笑んだ頬を撫でる。 くすぐったそうに笑う結衣が、俺の手と自分の手を重ねてくれた。 「じゃあ……髪、撫でて欲しいな」 「いいよ」 「ありがと、晶くん」 「うん」 うなずいてから、結衣の髪を撫でる。 柔らかな感触。 撫でられている結衣は嬉しそうに笑いながら目を閉じた。 ゆっくりと、ゆっくりと髪を撫で続ける。 柔らかな感触を傷つけないようにしながら、手のひらを何度も動かす。 髪を撫で続けていると、結衣は目を閉じたまま幸せそうに微笑んでいた。 「ん、んぅ?」 眠っていたのに気だるさに耐え切れず、ぼんやり目を開ける。 ふっと、肌に暖かさを感じた。 なんだろうと思ったけれど、すぐに思い出した。 昨日はずっと結衣と一緒だったんだ。 思い出した途端、頬が緩んだ。 そっと結衣に視線を向けるとまだ眠っていた。 「すぅ、すぅ……」 幸せそうに眠る顔を見ていると、なんだか俺まで幸せな気分になってくる。 昨日、結衣と……。 ああ、恥ずかしいけど嬉しいな。 なんだか不思議な気持ちだ。 「ん、ふふ……」 見つめている結衣が微笑んでいた。 何かいい夢でも見てるんだろうか。 寝顔を見ているだけなのに、なんだか幸せな気持ちになる気がする。 どうしてなんだろう。 本当に単純な事で嬉しかったり、幸せだったりを感じる。 いつもの自分の部屋まで違うように見える。 本当に不思議だ。 差し込む日差しが暖かな色をしているからかな。 「え、あれ……」 暖かな色……? って、今、何時だ!? 慌てて近くにあった時計を見てみると、時間はすでに夕方近かった。 もしかして、昨日あのまま寝て、今まで寝ちゃってたのか?! や、ヤバイ。 とりあえず起きて、結衣も起こして……! 「結衣、結衣!」 「んんぅ……むにゃ、う、ふふ……晶くん、そんなに食べられないよぉ」 「そうじゃなくて、結衣起きろって」 「起きるのぉ? え、ふ……んぅ?」 まだ眠りから覚めていない結衣がぼんやりと起き上がる。 じっと見つめていると、結衣が俺を見つめた。 「晶くん、おはよう」 「残念な事に早くない」 「え?」 まだどういう事かわかっていない結衣が首をかしげる。 仕方ない。 俺だって驚いたんだから、仕方ない。 目が覚めていない結衣に、すぐ理解しろっていうのは無理な話だ。 「晶さあああああん!!!」 「ぬ!?」 「ふぇ!?」 どうやって結衣に状況を説明しようかと考えていると、勢いよく部屋の扉が開いた。 そこから飛び込んで来たのは……半泣きのすずのだった。 「しょ、晶さん! 晶さん、あ、ああううう、結衣さんがあ、結衣さんが戻らないのですぅうううう!!」 「朝戻った時にいないのは、もう準備に向かったからだと思ったのに……夕方になっても戻らなくてええええええ」 「あ、あの、すずのちゃん、すずのちゃん」 泣きながら状況を説明していたすずのだったが、俺の隣に結衣がいる事に気付くときょとんとした顔をした。 涙は驚いて止まってしまったらしい。 結衣はとても申し訳なさそうな顔をしながら、そんなすずのを見ている。 「ご、ごめんね、すずのちゃん」 「あ、ああああぅうううう! 結衣さんがいましたああ!!!」 泣き止んだはずのすずのの目から、また涙がぼろぼろあふれた。 流石に慌ててどうしようかと思っていると、すずのの頭を撫でながら結衣もオロオロしていた。 「ご、ごめん! 本当にごめんね、すずのちゃん」 「ご、ご無事で何よりですー」 「あ、あの、さっき言ってた夕方って……」 「わ、私は今朝、お部屋に戻ったんでひとりで待ってたのです」 「でも、でも夕方になっても結衣さんが戻って来なくて、心配になって……あ、ううう」 「ゆ、夕方……」 「ゆ、夕方です……」 すずのが落ち着き、話を聞いたところで結衣はすべてを理解したらしい。 窓の外は既に夕方の風景だ。 多分、今日の繚蘭祭の準備は終わってしまっている。 窓の外を見つめ、時計を見つめ、すずのを見つめてから、結衣の表情が変わった。 「あ、あああ! だ、だめだよ! こんなんじゃダメだよね!」 「う、うん、ダメ過ぎるな」 「もうすぐ繚蘭祭なんだから、ちゃんとしなきゃああ!」 「あ、明日からはがんばろう! な! うん!」 「うん! すずのちゃんもごめんね!」 「は、はい…えぐ」 本当、明日からはしっかりしよう……。 浮かれすぎてちゃダメだ。 俺も結衣も落ち着こう! こういう時こそ、気を引き締めていかなきゃいけない。 「はあ…。寝すぎで頭いたい」 とりあえず、明日ちゃんと起きれるようにしないとな。 「晶くーん! 朝ですよー」 「う、うう?」 「朝です! お目覚めの時間でーす!」 「あ、はい……」 「おはよう!」 「おはよう、結衣」 明るい声に目を覚まし、ゆっくりと体を起き上がらせると目の前には結衣がいた。 今日も起こしに来てくれたらしい。 そうだな、昨日は夕方まで寝て準備もすっぽかしてしまった。 今日からはしっかりしないといけない! ――よし! 「今日からはちゃんと、繚蘭祭に集中しようね」 「うん、しっかりやろう!」 「がんばろー」 「がんばろう」 「じゃ、じゃあ着替えが終わるまで外で待ってます」 「あ、はい」 別にそばに居てもいいんだけどな。 とは思ったけど、照れてるとこもかわいい。 いやいや、さっき言ったそばからこれじゃだめだ。 もう、結衣にばっかりあまりうつつを抜かしません。 さあ、早く着替えよう。 授業が終わり、午後になってから繚蘭会室で準備を進める事になった。 茉百合さんは今日は生徒会の打ち合わせに呼び出されていた。 マックスもlimelightに行っていて留守だ。 今日は天音、桜子、結衣と四人だけの作業になる。 何をするんだろう? 「よーし! がんばるー!」 「がんばるぞ!」 「はいはい。しっかり、やってね」 「うん!」 「今日は何をするんだ?」 「打ち合わせをしておこうと思って」 「打ち合わせ?」 「うん。当日お店を手伝ってくれる人たちの確認と、その人たちも含めたシフト表の作成とかね」 「はい」 「でー、これが手伝ってくれるメンバーね」 言いながら天音が名前が書かれた紙を出して来た。 結構な人数が揃っている。 これなら、模擬店だけでいっぱいいっぱいにならなくてもすみそうだ。 ちゃんと休憩時間に、繚蘭祭を見回ることが出来るだろう。 「結構手伝ってくれる人集まったんだね」 「まあ、桜子と茉百合さんがいるから」 「あー。納得いった」 「私とまゆちゃんがいると、どうして?」 「そういうものなのよ」 「……?」 「この人数を振り分けるのは結構手間だねえ」 「だから、どうしようかなーって」 「んーっとねえ……」 みんなでわいわい言いながら、シフトを考えていく。 こういうのは、やっぱり手間がかかる。 でもひとりで考えるよりは、何人かで考えた方が意見を出し合えていい気がする。 「あ、そうだ。結衣さんと晶さんの休憩は一緒にできるようにしてみたらどうかしら」 「え!?」 「へ?」 「あ、そうね。せっかくだし、その方がいいわよね」 「あ、ああああの、なにゆえ? だ、だってそんなの、みんなちゃんと考えてシフト」 「そ、そうだよ。別に俺たちだけそんな、特別とか別にしてくれなくても」 「あ、こことかできそう」 「ホントだねー」 「ここと、こっちと……」 「うんうん」 「ど、どんどん話が進んでるー!!」 「ちょ、ちょっと、あの!」 「はい、決定でーす。というわけで、ふたりで繚蘭祭楽しんでね」 「お店、いっぱいだから楽しいですよ」 天音と桜子がふたりして、俺と結衣を見つめている。 その表情はにこにこ嬉しそうだった。 もうこれ以上何かを言おうって気にもなれない。 ていうか、言ってもだめな気がする。 ここは素直に、ふたりに甘えておいていいんじゃないだろうか。 「あ、あの、晶くん」 「うん」 「せ、せっかくだし、いいかな」 「俺もそう思ってた」 「えへへ」 「ははは」 ふたりして笑いあう。 すると、天音と桜子も嬉しそうに笑ってくれた。 こうやってみんな一緒に笑えるのは嬉しい。 「ふたりが好きそうなお店もいっぱいだからね」 「もしかして、食べ物いっぱい!?」 「わ、わわわわ! そうなのかもー! おいしい物いっぱいなのかも!」 「屋台いっぱい出るみたいですよ」 「屋台!!」 「ど、どんなのがあるんだろう。お祭りの屋台みたいなのかな」 「で、でもこの学園の屋台だから、もっと違う物かも!」 「はわあああああ」 「ホント、あなたたちってば……」 「なんだか、すごく楽しそう」 「ほらほら、それじゃあお仕事お仕事」 「は、はい!」 「結衣、これ、のり付けしてくれる? シフト表に貼り付けちゃおうと思って」 「この名前貼り付けたらいいの?」 「うん」 「あ、コピー機を使う準備しときますね」 「はーい」 桜子が立ち上がり、コピー機の方に向かう。 結衣はシフト表とにらめっこしているし……ちょっと手持ち無沙汰だ。 「俺、どうしようか」 「後でコピーしたシフト表配ってもらわないといけないから」 「納得した」 「きゃっ!」 「ん?」 「あ……」 「桜子ちゃん、大丈夫?」 「は、はい」 何かが崩れる音がした。 視線を向けると、コピー機のそばに積んであったダンボールが崩れた音だった。 そういえば、資料の整頓はしたけど、あれだけではまだまだ整頓しきれなかったんだ。 とりあえずダンボールに詰めて隅に置いておいたんだっけ。 「俺、片づけるよ」 「あ、私もやるわ」 「すみません」 「あ、あうー。手伝いたいけど、手にのり……」 「結衣、無理しなくていいよ。大丈夫」 「うんー」 「よっと……」 崩れたダンボールを持ち上げて、また部屋の隅に置く。 今度は崩れないようにしないといけないんだけど……。 また崩れ落ちそうだな。 まあ、でも繚蘭祭が終わるまではこのままじゃないと、まとまった時間は作れそうにない。 「危ないなあ、ダンボール」 「でも、まだ捨てられないですし」 「あんまり積み上げないようにしとくか」 「そうだね」 「んじゃ、これはあっちかな……っと」 「あら……」 「ん?」 「晶さん、何か落ちましたよ」 「え?」 「あ、学生証」 制服の尻ポケットから、どうやら学生証が落ちたらしい。 桜子がしゃがんで拾い上げてくれたらしいけど、拾い上げられた学生証からまた何かが落ちたのが見えた。 あ、あれ……あ!!! 「あの、桜子」 「これって、晶さんのお父さん? そっくりですね」 ああああ! やっぱり親父に渡された写真か! ―――恥ずかしい! 親父とツーショットの写真を持ち歩いてる男子とか恥ずかしい!! やっぱり、こっそり抜いとけば良かった! 今まで慌ただしくて、親父の写真が入ってるのなんてすっかり忘れてた自分を叱りまくりたい……。 「え? 晶くんのお父さん? 見たいみたいー、いい?」 「も、もういいよ、別に」 「かっこよくないよ別に」 「素敵なお父さん……なんだか、とても……」 「桜子?」 「あ、はい。素敵だなって思って」 「だよね」 「うわーん! わたしも見たいよー。でもこれ終わらないー」 「ああ、うん。後で見ていいから、ゆっくりそっちやってくれたらいいよ」 「わかった。うう…」 もっと笑われるかと思っていたんだけど……。 天音たちには、意外と評判はいいみたいだった。 そうか。あの親父はかっこいいのか。 女の子ってわかんないな。 俺にはかっこよくは見えないんだけどな。 家ではだらしないし。すぐに俺にかまうし……。 「晶さんのお父さんって、どんな人?」 「え? うち? どんなって、刑事してるくらいで普通だと思うけどなあ……」 「お父さん、刑事さんなんだ。凄いね」 「そんな事ないって。うち、母親が早くに死んだから、父親とふたりだけなんだけど」 「そうなんだ」 「そのせいか、いつまでも俺にべたべたして鬱陶しい感じ」 「わーん。みんなで何話してるんだろー。わたしも晶くんのお父さん見たいー」 なんか、こうやって話すのは少し恥ずかしいな。 そういえば、この学校に来て家族の話をするのは初めてだ……。 「ふふふ。でも、仲が良さそうですね。こうやって、写真まで持って来ているのだし」 「そうだよね」 「それは親父が勝手に学生証にねじ込んだから!!!」 「晶さんの事、本当に大切なんですね」 「いいお父さんだよ」 「そ……そうかなあ……」 「そうだよ」 何故こんなに好意的に見れるんだろう。 やっぱり女の子的にはかっこいいお父さんが憧れなんだろうか。 でもうちのはなあ。かっこいいのとは違うよなあ…。 「わたしも写真見せてー!」 「あ、終わったんだ」 「後で続きやる。もう我慢できなかった」 「あはは」 「そ、そんないいもんじゃないぞ」 「そんな事ないよ! 晶くんのお父さんだよ! 大事だよ!」 「結衣さん、これ写真」 桜子から写真を受け取った結衣の動きが、突然止まった。 親父の写真を見て、じっとしている。 ……意外とかっこ悪かったので、がっかりしたのかな? 「晶さんのお父さん、刑事さんなんですって」 「かっこいいよね、お父さんが刑事って」 「そ、そうなんだ」 「もしかして、想像よりかっこよくはなかったですか?」 「本当、素敵なお父さんですよね」 「うんうん」 「そんな事ないって。だって、俺がすごい小さい時とか、親父が俺を木登りさせたんだよ。でも、おろし方がわからなくってオロオロしてたりしてたんだから」 「晶さん、すごく高くまで登ったの?」 「いや、高くなかったけど俺は自分で降りられないし、飛び降りられないし、親父も登れないしでさ……しばらく木の上で泣いてた」 「それ、どうやって降りたの?」 「じっとしてるのと泣いたのに疲れた頃に、親父の上に落ちた」 「ええ!」 「ケガはしなかったんですか!?」 「いやまあ、親父がちゃんと受け止めてくれたけどね」 「ちゃんと受け止めてくれたんですね」 「次の日、腕とか痛がってたけどね。その時は、自分一人で登り降り出来なかったのがすごく悔しかったんだよな」 「お、落ちたのにそんな事考えてたの?」 「うん。その後親父に内緒で練習して、ちゃんと木登りできるようになった」 「わぁ、男の子って感じですね」 「でも親父は俺が木に登るたびに、心配してたけどね」 「……結衣、どうかした?」 「う、ううん! なんでもないよ」 「え、結衣さん?」 「あ、晶くん。写真返すね」 「あ、うん」 どうしたんだろう? 結衣の様子が少しおかしい。 でも、おかしくなるような事なんて何もなかったはずだけど……。 「あ! 話してる場合じゃないね、準備進めなきゃ」 「う、うん。わたしも、続きやっちゃうね」 「私もですね」 「あ、俺ここ片づけるよ」 「うん」 結衣のことは気になったけれど、なんとなく話すタイミングを逃してしまった。 今は準備のこともある。とりあえずここを片づけて、残りをやって……。 ――話は帰ってからでも出来るだろう。 シフト作りや、シフト表を配る作業など、今日中にやらなければいけない事はほぼ終了した。 作業中はまた親父の事をちょっと話したり、すぐに違う話になったり……まあ、いつもみたいな感じだった。 結局、今日のメンバーだけで作業が終わったので、みんなで一緒に寮まで帰る事になった。 「今日もお疲れ様でしたー」 「明日もがんばりましょうね」 「うん」 「それじゃあ、明日ね」 「はい」 「じゃーな」 気をきかせてくれたのか、天音と桜子は先に寮に戻って行った。 ……ちょっと嬉しい。 もうちょっと一緒にいたいし、話もしたいと思っていたところだ。 「あのさ、結衣」 「う、うん」 「俺の部屋に来ないか? あ、それか結衣の部屋行ってもいい?」 「へ!?」 「いや、あの。変な意味じゃなくて、もうちょっと晩ご飯まで一緒にいたいなーとか思って」 「あ、えっと……」 「無理だったらいいんだけど」 「あ、うん。えっと、天音ちゃんとちょっと話があるんだ。ごめんね」 「あ、そうなんだ。じゃあ、無理か」 「う、うん。ホントにごめんね」 「ううん。いいよ、いいよ。そんじゃ、後でな」 「う、うん」 「はあ……」 ひとり、部屋に戻ってベッドに寝転ぶ。 今日も疲れたな。 でも、みんなで準備をするのはやっぱりどこか楽しい。 だけど……。 思い返してみると、やっぱり結衣の様子は変だった気がする。 晩ご飯の時にそれとなく聞いてみようか。 話したくなさそうなら、聞かなくても一緒にいてあげたいし。 それで元気になってくれたらいいんだけど。 はぁ。 俺はいつの間にか、わけもわからずにため息をついてしまっていた。 「はーい。今、開けまーす」 「あれ、結衣? どうしたの、晶くんのとこ行くのかと思ってた」 「う、うう……」 「え! ちょ、ちょっと、どうしたの? 結衣?」 「あ、天音ちゃん、どうしよう……どうしたらいいんだろう……」 「結衣? 何かあったの?」 「わかんないの……わたし、どうしたらいいのかわかんなくなって……!」 「と、とにかく中入って! ね?」 「う、うん。うん……」 「ほら、結衣。こっちおいで」 ――結衣の様子がおかしくなってから、二日が経っていた。 あの日からやはり結衣の態度はどこかぎこちなくて、自分の直感が気のせいではなかったのだと感じる。 ちゃんと話を聞きたいと思っているのに、結衣とはあれから微妙にすれ違ってしまっていた。 今日も作業が終わった後に一緒に帰ろうと誘ったが、天音と話があると断られてしまった。 「………はぁ」 ひとりで帰って、誰もいない部屋に戻るのもなんだか嫌だった。 俺はぼんやりと談話室にやって来て、ひとりで座っている。 結衣からはどこか避けられてる気がする。 どうしたんだろう。 あんなに明るくて、いつも素直な結衣が、どうして俺を避けるんだ。 何があったのか知りたい。 ほんの数日前までは、いつもどおりの結衣だった。 このままずっと、何も変わらないのだと思っていた。 それくらい俺は結衣のことが好きで……。きっと結衣も同じくらい俺のことを好きなはずだ。 俺には何もしてあげられないんだろうか……。 ちゃんと、話がしたい。 何か出来ることがあるのなら、何かをしてあげたいのに……。 「……あ」 「あ、結衣」 「え、と……」 ぼんやりと談話室で座っていると、結衣がやって来た。 俺を見て、慌てたような困ったような表情。 ここ数日、よく見せる顔だ。 俺は居てもたってもいられなくなって、結衣に歩み寄った。 「……結衣」 「え、えっと、あの」 「話があるんだ」 「お、お話?」 「うん。大事な話……だめ?」 「だ、だめじゃないよ」 「良かった。じゃあ、座って」 「うん」 戸惑った様子で結衣が椅子に座った。俺は向かいの椅子に座る。 こうして、一緒に話すのは久しぶりな気がした。 そんなに長い時間、離れていたわけじゃないのに。 「どうしたの、晶くん?」 「……」 俺の名を呼ぶ結衣を、しっかりと見つめる。 でも、その視線はすぐに俺から見えなくなってしまった。 結衣がうつむいてしまったからだ。 どうしてまっすぐ見てくれないんだろう。 それとも、まっすぐに見れない何かがあるのか……? 「どうして、俺の事見てくれないの?」 「……」 「結衣が何かに悩んでるんだろうなって、それは俺にもなんとなくわかる」 「……うん」 「でも、何に悩んでるのかはわからない。できれば力になってあげたいって思う……俺には、話せない事?」 「わからないの……」 「わからない?」 「わからないの……わたし、どうしたらいいかわからなくて……」 ふるふると、小さく結衣の体が震えている。 こんな姿を見たいんじゃない。 そう思っているのに、まだ俺にできる事は見つからない。 結衣が何をわからないと言っているのかが、俺にはわからないから。 「いいのかな……晶くんに言ってもいいのかな。それもわからないよ……」 「……結衣」 「う、うん」 「結衣がもしも、俺の立場だったらどう?」 「わたしが、晶くんだったら……?」 「俺が今の結衣みたいに苦しんで、悩んで、でも言えばいいのかわからなくて……もし、そうなってたら結衣はどう思う?」 「わ、わたし……晶くんに聞きたい……話して欲しいよ……」 「うん。同じだよ……俺だって、同じなんだ」 「あ……」 「結衣が悩んでるなら知りたい。一緒に考えてあげたい」 「うん」 「ゆっくりでいいから。結衣が話せる事だけでいいから、俺にも教えて……俺、そんな姿見てると辛いよ」 「うん。晶くん……」 泣きそうになっている結衣の頭をぽんぽんと、軽く撫でてあげる。 すると、ようやく少し落ち着いたようで、結衣は深呼吸をした。 二、三度息を吸って吐いた後、結衣は俺を見つめてくれた。 もう、その視線は俺から外れない。 「晶くん、全部話す」 「話せる事だけでいいよ」 「ううん、大丈夫。全部……話さなきゃいけないと思うから」 「わかった」 「あのね……晶くんは、自分のお母さんの名前、知ってる?」 「母さんの?」 聞かれた事の意味はまったくわからなかった。 でも、結衣の表情は真剣で、冗談なんかで聞いているんじゃないとすぐにわかる。 「俺の母さんは…えっと、『緑』…だったと、思うけど」 母さんの名前を口にすると、結衣の目が一瞬だけ、また伏せられた。 「でも、俺が物心付く前に死んじゃったんだけどさ……」 「ち、違うの! 晶くんのお母さん死んでないよ! 離婚しただけなんだよ!」 「え?」 「まだ生きてるの! 再婚して……私の、お母さんなの、その人……」 「……生きて……る?」 俺の母さんが生きている? 思いもしなかった答えに、一瞬、頭が真っ白になる。 だって、俺の記憶では確か、仕事中に倒れてそのまま…。 親父が言っていたのは嘘だったのか? でも、母さんが死んだ時の感覚は……なんとなく覚えてるのに……。 「私の本当のお父さんは、こないだ晶くんが持ってた写真の人……」 「ちょ、ちょっと待って結衣、それは……」 混乱しすぎて、結衣の言った事に思考がついていかない。 ええと、母さんは生きてて、父さんと離婚した後に再婚してて……それで、結衣の本当のお父さんが俺の親父……? ……ってことか? 「晶くんと私、誕生日同じだったよね」 「う、うん」 「わたし、前にお母さんから聞いたことがあって……あなたには、本当は双子のお兄ちゃんがいたはずなのよって……」 「だから、多分……わたしたち、兄弟…双子……なんじゃないかって」 「ふたご……」 「うん……」 父親と母親が一緒で…誕生日が同じで、俺と結衣は同じ年で……。 だから双子だっていうのか? そんな話、今の今まで俺は一度も聞いた事がない。 どうして……。 どうしてそんな大事な事、親父は教えてくれなかったんだろう。 母さんが生きてることとか……。 双子の兄弟がいるかもしれないとか……。 そんな、たくさん、大事なこと……。 「う、うぅ……」 「ゆ、結衣」 うつむいた結衣が、ぽろぽろと涙をこぼす。 瞳からあふれる涙は止まらない。 「わ、わたし……こんなに晶くんの事が好きなのに……ダメだったのかなって……」 「わたしが晶くんの事、好きになっちゃいけなかったのかなって……だって、わたしと晶くんは双子かもしれなくて……」 「……」 何を言えばいいのか、わからなかった。 涙をぬぐってあげたいのに、抱きしめてあげたいのに、大丈夫だって言ってあげたいのに……。 その全部が、突然、してはいけない事のように思えた。 泣いている結衣を見て何もできない。 言葉をかける事もできない。 何もできない自分が悔しくて、不甲斐なくて、胸がぎりぎりと痛む。 どうして……。 どうして、今更そんなこと……。 「今日も、晶さんと結衣さんはたくさん食べるんでしょうね」 「そうね。見てて気持ちいいくらいの食べっぷりだしね」 「ふふふ。私もそう思います」 「あ……」 「ふ、う……う、ぐす……」 「……結衣!?」 話している間に、いつの間にか晩ご飯の時間になっていたらしい。 天音と桜子が談話室にやって来て、俺たちの様子を見て顔色を変えた。 「結衣さん、どうしたの?」 「あ、天音ちゃん……桜子ちゃ……う、うぅ…」 「泣かないで、結衣。ね? 泣かなくていいよ」 「う、う、うわああああ」 結衣に駆け寄った天音が、しっかりとその体を抱きしめる。 安心したように結衣はその天音にすがりつき、大きな声で泣き出した。 天音は何も言わずに、ただしっかりと結衣を抱きしめている。 それを見ながら、多分結衣は天音には話していたんだろうと思った。 だけど俺には、今結衣に何かをしてあげられる自信がない……。 そしてそれを、結衣も望んでいない……そんな気がする。 「晶さん、どうしたんですか?」 「……」 「大丈夫? 晶さんも、とても辛そう」 「大丈夫……」 「うん」 「桜子、あの……」 「はい」 喉の奥が酷く乾いて、声を出す事に戸惑っている。 伝えなければと、思っているのに。 言ってしまえば真実だと認めてしまうような気がして。 だけど俺は、無理矢理言葉を捻り出した。 「俺と結衣が……双子かもしれないんだそうだ……」 「え!!」 自分でも少し声が震えているのがわかった。 無理に声を出したからだろうか。 気付かないふりをして、そのまま続ける。 「この前見せた親父の写真……あの写真の人、結衣の本当のお父さんなんだって……」 「……」 「小さい頃に親父と母さんは離婚してて、俺たちの母さんの名前が一緒で、親父の顔が結衣の本当のお父さんと同じだって……」 「だから、俺と結衣は双子なんじゃないかって。誕生日も一緒だし、俺と結衣は同じ年だし……だから……」 「そ、そんなのまだ双子だって決まったわけじゃないわよ!」 「そ、そうですよ。もしかしたら、お父さんは離婚して離れてしまった結衣さんの事を思って、同じ誕生日の晶さんを養子にしただけとかかもしれないです」 「そうだね。そういう事だってあるよね」 「だからって、同じ誕生日とか……」 「だから、それも結衣と同じ日の子供を探してきたとか、そんなことかもしれないわよ!」 「……」 そうなると、俺と親父は血が繋がっていないって事になるんだけど…。 いや、今はいい。 とにかく俺も結衣も混乱している。まず落ち着かなければ。 今のところ、俺と結衣が血を分けた双子だという証拠は、どこにもないんだ。 「ただいま」 「かえったぞー!」 「……む」 「なんだ? 何が起こってんだ?」 「くるり、マックス……」 「……泣かした?」 「ち、違うから! くるり、そうじゃないの!!」 「はい! あの違います!」 「……そう」 「あの、もしかしたら晶さんと結衣さんがご兄弟かもしれないって話をしていて……」 「兄弟……?」 「なんだ? なんでだ!?」 訝しげな目で九条が俺と結衣を見つめている。 突然言われても、意味がわからないって表情だった。 「あ! そうだ、くるり! マックス!!」 「うん?」 「おう、どうした!」 「マックスで調べられないの? その、二人のDNAとか」 「あ……!」 「マックスで……?」 「できなくはない。簡易的ではあるけれど、血縁関係の有無くらいなら28号ですぐに判明する」 「おうよー! そのくらいならオレにもできるぜ! ま、さすがに精密なのはちょっと難しいけどよ」 「結衣。ちゃんと調べようよ、これで違うってハッキリするかもしれないよ」 「でも……」 「晶さんも」 「……」 本当にわかるんだろうか。 いや、マックスならきっとちゃんと調べてくれる。 それで、俺と結衣が双子じゃないってわかれば、もうこんな思いをしなくても済む。 でも……。 もしも、結果、血が繋がっていたらどうする。 ……いや、そんな事はない。そう思いたい。 「結衣……」 「晶くん……」 「マックスに調べてもらおう。かもしれない、のままじゃあどうしようもない」 「う……ん……」 天音に抱きしめられていた結衣が小さくうなずいた。 そっと天音から体を離して、マックスの前に立つ。 俺も同じようにマックスの前に立った。 「じゃ、ふたりとも俺の手を握ってくれ。大丈夫だ、痛くしたりはしねーからな」 「う、うん」 「わかった」 そっと、マックスの手を握る。 結衣も同じように俺の真似をした。 俺たちふたりが手を握ると、マックスの中で何か小さく音が聞こえた。 「……」 「………」 「……」 ぎゅっと、マックスの手を握る手のひらが汗ばむ。 こうして結果を待っている間、まるで刃物を首元につきつけられているような緊張感を覚える。 きっと、大丈夫だって信じたい。 本当に俺と結衣は……。 「28号……?」 「……」 「そろそろ、結果が出る頃だと思うけど」 「……」 「どうして返事しない?」 「マックス?」 「マックスさん……」 「………」 マックスがそっと、自分から俺たちの手を離した。 離された手に、まだマックスの冷たい感触が残っている。 ―――どうして、黙っているんだ? その態度が、俺をひどく不安にさせる。 どうだったのかと、聞きたくない。 でも、聞かなければいけない。 どのみち、このままじゃどうすることも出来ないんだ。 俺は覚悟を決めて、マックスに話しかけた。 「マックス、答えてくれ」 「晶……」 「どうだったんだ?」 「……」 「晶と結衣の……」 「うん」 「……うん」 「DNA……一致しちまったよ……」 「そう……」 「ふたりには、たぶん血縁関係が……ある」 「……!」 「……!!」 ――静かだ。 部屋の中は何の音もしなかった。 聞こえてくるのは、わずかに呼吸をする音だけ。 結衣とふたりだけなのに、一緒にいるのに。 俺と結衣は、ふたりでベッドの上でぼんやり寝転がっている。 なんとなく座るのも億劫で、どちらが言うでもなくベッドの上に倒れ込んだからだ。 「……」 「……マックスくんは?」 「結衣の部屋じゃないかな……すずのと一緒だと思う」 「そっか……」 ぼんやりと、頭にマックスの姿が浮かんだ。 答え辛そうにしていたな、マックス。 事実を最初に知ってしまったんだもんな。……悪い事をしてしまった。 頼まなければ良かった。 そうすれば、こんな風にふたりでいるのにぼんやりする事なんてなかったかもしれない。 ああ、でも、そうなれば、いつまでも不安を抱えていたままで……。 どちらが良かったのかなんて、俺にはわからなかった。 「ねえ、晶くん」 「なに?」 「双子でも、手を繋いだりするのはいいのかな」 「手は……繋いでもいいんじゃないかな」 「そっか……」 小さな声で答えた結衣の手のひらがベッドの上で動いた。 ゆっくりと、そろそろと動いた手のひら。 細い指先がそっと、俺の手のひらに触れる。 お互いに、一瞬だけ体が強張った。 けれど、その感触に触れたいという気持ちは同じだった。 どちらともなく手のひらを、指先を動かして、互いの手を握る。 「……」 「……」 ぎゅっと強くは……握れなかった。 結衣の手のひらの感触は温かい。 触れる感触は柔らかい。 この前までと同じなのに。 それまでは、何度も握っていたのに。 それなのに……。 今はもう、何も出来ない。 「晶くんの手、あったかいね」 「結衣の手もだよ」 「こないだまでは、手を繋ぐのが嬉しかったのに……」 「今も、手を繋ぐと嬉しいはずなのに……どうして、こんなに胸が痛くなるのかな。どうして、こんなに切ない気持ちになっちゃうのかな……」 結衣の手は、ふるふると震えていた。 その手を、強く握り返してあげたくなる。 ぎゅっと包み込んで、大丈夫だよって言ってあげたら、結衣はどんなに喜んでくれることだろう。 それなのに、俺は何もできなかった。 「……きっと、手は繋いでもいいけど、抱きしめ合っちゃいけないからじゃないのかな……」 「抱きしめ合っちゃだめなの? 家族でも抱きしめ合ったりするよ」 「……」 そうだ。 家族は抱きしめ合ったりする。 親父なんか、未だに俺に抱きついてこようとするよ。 「でも……俺、今結衣を抱きしめたら我慢できなくなると思う。だから、手を繋ぐ事しかできない…」 「……」 「……」 強く手を握り、抱きしめあいたい。 ほんのささやかな事のはずなのに、今の俺たちには重すぎることだった。 全部……してはいけない事のような気がする。 「でも……」 「ん?」 「私、また晶くんとキスとか……したい……」 「俺だって……。でも……」 「うん……」 「たぶん、もうしちゃ、いけない事なんだよな……」 「…うん……わかってる…」 初めて聞く、結衣の暗い、哀しげな声だった。 すぐそばにいるのに。 こうやって、手を繋いでいるのに、俺にはどうしてあげることも出来ない。 自分の無力さに、胸が締め付けられるように痛む。 双子……。 世界で最も、俺に近い存在。 なのに、彼女は俺に近すぎて、触れることも、好きになることも許されない。 ―――神様は、残酷すぎる。 目を閉じて現実を閉ざしながら、俺は空を呪っていた。 そんな、どうしようもできない状態でも、毎日は過ぎて行く。 俺と結衣の気持ちなんか置き去りにして。 ただ、残酷な現実だけを思い知らされるんだ。 それからの毎日、俺と結衣はぎこちなく、それでもいつも通り生活して行こうと必死になっていた。 それでも、時々どうしようもなく結衣の姿を目で追ってしまう。 そんな時には、決まって結衣も俺の方を見ていて。 俺たちはどちらからともなく、そっと目をそらすのだった。 ……そして、気付けばもう、繚蘭祭の当日になっていた。 「……」 まだ心の整理はつかないけれど……今日だけ、いや繚蘭祭の間だけでもちゃんと動かないと。 あんなにしっかり準備してきた出張limelightは、ちゃんと成功させたいしな。 「よし」 結衣とも、会話がまったく出来ないというわけではない。 ちゃんと話は出来るし、落ち着いてもいる。 俺たちは二人とも、踏ん切りがつかないだけなのだ。 まだどうしていいのか、わからないだけで。 きっと、もう少し時間がたてば、自分たちの中で結論は出ると思う。 大丈夫だ。 何度も何度も頭に浮かべた言葉を、またしっかりと繰り返しながら、俺は部屋を出た。 「おはよう」 「あ、おはよう晶くん」 「おはようございます、晶さん」 「結衣は……?」 「あ、今来たよ。後ろ」 「あ……」 「おはよう」 「うん。おはよう」 「おはようございます、結衣さん」 「うん。桜子ちゃん、天音ちゃん、おはよう」 「今日からがんばらないとな」 「うん。そうだね」 あの日よりも、随分と明るい顔だ。 多分、結衣も俺と同じ気持ちなんだろう。 今日はいろんなことを忘れて、繚蘭祭に集中しようという気持ちになっているはずだ。 それがはっきりと伝わってくるような気がするのは、やっぱり血が繋がってるからなのか……。 「あのね、ふたりとも」 「うん?」 「どうしたの?」 「桜子とも話したんだけど」 「はい、今日のお仕事のお話です」 「出張limelightの事は、私たちに任せておいて」 「え?」 「へ?」 「ふたりで考えたの。晶さんと結衣さんには、めいっぱい繚蘭祭を楽しんでもらおうって」 「あの、でも」 「今日はこっちはいいから、ふたりで楽しんで来てよ、ね?」 「……」 「……」 「大丈夫、ちゃんと人員は確保してあるからね、困ったりもしないわ」 「だから今日だけは、色んな問題は忘れて、とにかく二人でおいしい物食べて、遊んで、楽しんでよ!」 意外な提案に、思わず、結衣と顔を見合わせた。 『いいのかな……』と言いたげな結衣の表情。 俺もまったく同じ気持ちだ。 「ただし、もちろん明日はちゃーんとお仕事をやってもらいます」 「う、うん!」 「そりゃ、もちろん」 「でも、あの……」 「結衣さん、晶さん、今日は楽しんで来てください」 天音と桜子が微笑みながら、俺たちを見ている。 ふたりがあの日から俺たちを心配してくれていたのは、わかっていた。 きっと、ずっとどうすればいいのか、考えてくれていたんだ。 そしてこっそりシフトを調整して、俺たち二人が抜けられるようにしてくれたに違いない。 ……この好意はありがたく受け取っておくべきだろう。 「ふたりとも、ありがとう」 「うん」 「はい」 「晶くん……」 「結衣。せっかく、ふたりが言ってくれてるんだから、今日は楽しもうか」 「あ……」 ずっとずっと、触れることを戸惑っていた結衣の手。 天音たちの気持ちが後押ししてくれたんだろうか。今日は自然と触れられた。 まだ強くは握れない。 でも、俺は自分から結衣の手を取って、握り締めた。 「今日はもう、ややこしい事は全部忘れよう」 「あ……うん!」 大きく頷いて俺を見た結衣は、にっこりと笑ってくれた。 そしてそっと、俺の手を握り返す。 ……ああ、結衣のこの笑顔が見れただけでも。 今日はいい日だ。 俺はそんな気持ちでいっぱいになった。 「じゃ、ふたりとも行ってらっしゃい!」 「いってらっしゃい。楽しんできてね」 「うん。ありがとう、桜子、天音」 「あ、ありがとう」 「よし、行こう。結衣」 「うん……」 繋いだ結衣の手を引いて一緒に歩く。 隣に並んで、こうして歩くのは随分久しぶりな気がした。 本当はほんの四、五日前は、当たり前みたいにこうやって手を繋いでいたのだけれど。 「なあ、結衣。とりあえずおいしい物食べようか。おなかすいたし」 「おいしい物?」 「屋台もあるって、桜子が前に言ってただろ」 「あ……うん!」 「ちょっと見に行こう」 「そうだね」 とりあえず俺たちは、並んでいる屋台を見に行くことにした。 俺がお腹がすいているということは、きっと結衣もお腹がすいているはずだ。 「おー! いっぱいある」 「ホントだ! すごいね、みんなとってもおいしそう」 「お祭りの屋台みたいなのもあるな」 「どうしよう。何から食べよう。ドキドキしてきた」 「よし。端から全部食べよう」 「端から全部?」 「うん。決まり! 最初はたこ焼き」 「た、たこ焼きっ」 目を輝かせた結衣の手を引いて、屋台に向かう。 本当に、食べ物って偉大だ。 おいしいものは、俺たちを幸せで明るい気分にしてくれる。 そして、隣に結衣がいてくれたら……。 結衣と一緒に食べると、もっと幸せになる。 食べ物の味まで変わる気がするんだから、不思議だ。 「おなかいっぱいー」 「うん。さすがに、ちょっと食べ過ぎたかな」 「でも全部おいしかった! 屋台っていいよね、それだけでお祭り気分になるもん」 「そうだな。でも、もう食べられない…よな? 俺もおなかいっぱいだし…」 「じゃあ次は! 展示とか見て回ろうよ」 「何がいい?」 「うーん……」 「あ! くるりちゃんとぐみちゃんの展示は?」 「おー。そういえば、がんばってたみたいだしな」 「じゃあ、行ってみよ! ほら!」 「うん」 随分元気の出てきた結衣が、俺の手を引いた。 引っ張られて歩きながら、結衣に手を引かれることはあの日から初めてだと気がつく。 なんてことはないはずなのに。 手を引く、たったそれだけのことなのに。 俺は今、それだけで嬉しいと思ってしまっている。 たとえ双子の妹だとわかっていても……。 俺はずっと、こうしたかったんだ。 「こんにちはー」 「どうも」 「あ……」 「しょーくんさんと、ゆいちゃんさんです! いらっしゃいませ!!」 九条とぐみちゃんの展示ブースに来ると、九条が一瞬だけ複雑そうな表情をした気がした。 だけど、俺と結衣がふたりでいるのを見て、すぐにいつもの九条の顔になった。 「ふたりとも、夢のタイムマシン体験ですか!」 「夢のタイムマシン体験?」 「はいです! くるりんが開発し、完成させた、正真正銘のタイムマシンです!」 「えー! 本当? それホント! すごい、すごい!!」 「え、そこに置いてるダンボールのそれが……?」 「はい! なんとこれに乗ると、乗った時間から5分だけ未来に行けるのです!」 「ほおおおおおお!!」 「……」 う、うさんくさい……。 超感心してる結衣と、九条とぐみちゃんにはとっても申し訳ないけれど、ものすごくうさんくさい……。 だってダンボールだし。しかもタイムマシンって手書きだし。 でも、きらきらした目をしている結衣、興奮した様子で説明を続けているぐみちゃん、得意げな九条を見ていると、そんな事言えそうにない。 「ゆいちゃんさんも、夢のタイムマシン体験してみますか!」 「したいしたい!!」 「だ、大丈夫なのか、それ?」 「ワタシの作るマシンに不満でも?」 「ないです! 不満などないです!!」 「……よし」 「ふう……」 危ない。あの攻撃だけは危ない。 危ないどころではない。死ぬ。 ここはもう、そっと見守ろう。 結衣も子供みたいにはしゃいで楽しそうだし、俺も一緒に楽しまなきゃな。 ………あのタイムマシンを体験するのだけはちょっと不安だけど。 屋台のものは隅から隅まで全部食べたし、展示ブースも回れるだけ回った。 ずいぶん遊んだせいで、繚蘭祭1日目はもうすぐ終わろうとしている……。 教室に荷物を取りに来たはいいものの、何となく、楽しかったこの気持ちを終わらせるのが忍びなくて。 俺たちはそのまま何となく居座ってしまった。 繚蘭祭は明日もある。多分校舎には、もう誰も残っていない。 窓の外は、夕焼けの赤で染まっている。 きれいな赤。 俺と結衣はぼんやりとそんな空を見つめていた。 「ねえ、晶くん」 「うん?」 視線を空から結衣に向ける。 夕日の赤に染まった結衣はきらきら輝いて見えた。 そうやって微笑んでいる顔の方が、やっぱり好きだ。 「天音ちゃんと桜子ちゃんに感謝しなきゃ」 「そうだな」 「明日はちゃんと出張limelight、手伝いたい」 「うん。きっと、今日はふたりとも大変だったろうし」 「うん。今日の分まで頑張りたい」 「そうだな」 「楽しかったね、今日一日」 「ああ。楽しかった」 「晶くんが……手を引っ張ってくれたから」 「結衣だって引いてくれたよ」 「うん」 「……あのね」 「……」 「わたし、今日ずっと晶くんと一緒にいて思った事があるの」 「うん」 「わたし……」 そう言うと、結衣はさっきまで握っていた自分の手を、ぎゅっと胸の前で抱きしめる。 なにかを迷っているようだった。 そして、それが、どんな事なのか…。 うっすらと俺にもわかる気がする。 「いいよ、言って」 「晶くん」 「言ってくれ」 「晶くんがわたしのお兄ちゃんだとしても、それでもわたし……」 「――晶くんの事がやっぱり好き」 「……結衣」 「一緒にいたいし、一緒に笑いたいし、繋いだ手はぎゅってしたまま、ずっと離したくない……」 「このまま、何もなかったみたいに、友達に戻りたくない。本当はどんな関係だったって……」 「わたし、晶くんの特別な人でいたいの…!」 「一緒だよ。俺だって、結衣と同じ気持ちなんだ」 「今日一緒にいて楽しかった。ずっと一緒にいたいと思った、ずっとふたりで笑っていたいと思った、手を繋いでいたいと思った……」 「晶くん……」 「何も変わらない。結衣と思っている事は同じだ。今更……結衣のことを妹だなんて、思えないよ」 少し離れていた、俺と結衣の距離。 でも、お互いに少し近づいて、おずおずと指先を動かす。 そっと触れ合う指先。 でも、戸惑わずにぎゅっと強く絡めて、互いの手を握る。 今度は強く強く。 離れないように、ぎゅっと強く。 「結衣は……それでも、いいのか?」 「晶くんは?」 「俺は、いい。ずっと、一緒にいたい。兄妹じゃなくて、恋人として」 「わたしも、同じ気持ち」 「うん」 「……」 手のひらから伝わるぬくもりに、胸がぎゅっと締め付けられる気がした。 でも、それはもうせつない痛みじゃない。 こうやって手をつないでいるだけで、結衣のすべてがわかる。 俺と同じ気持ちだとわかったから。 「結衣」 「はい」 名前を呼ぶと、俺を見上げる結衣が目を閉じた。 これまでみたいに戸惑わない。 俺たちの気持ちは一緒だから。 だから、どうすればいいのかわかってる。 「……ん」 そっと、唇を重ねる。 触れるだけの、ほんの少しの感触。 それ以上はいらない。 今はこれだけでいい、と思った。 一緒にいて、手を繋いでいる。 そして、キスが出来る。 なんて幸せなんだろう。 「んぅ……」 触れるだけの感触。 もう少しだけ欲しくて、何度か触れ合わせる。 やっぱり、結衣の唇は柔らかかった。 「あ……」 「あ……」 突然聞こえた大きな音。 少し驚いて唇を離し、音の方を見ると、そこには見慣れた姿があった。 「は、は、はうあああうあうあうあうあ」 すずのがいつものように、机や椅子を巻き込んで転んでいた。 慌てて駆け寄り、すずのを立ち上がらせる。 「す、すずのちゃん?!」 「すずの、大丈夫か?」 「す、すすすすすいませんん〜〜〜」 「う、ううん。いいよ、大丈夫、なんか恥ずかしいな」 「どうしたんだ?」 「あ、あの……結衣さん、ずっと元気がなかったから、元気になって欲しいなって思ってて」 「あ……」 考えれば、当たり前のことだった。 すずのは結衣を一番近くで見ている。結衣に元気がないのも、迷っていることも、全部見ていたんだ。 心配にならないわけがない。 「それで、あの、マックスさんに相談したんです。どうやったら元気になるかなって。だから、ふたりで考えたんです」 「そっか。マックスもか」 「はい。マックスさんも晶さんをすごく心配してました」 「すずのちゃん、ありがとう」 「ううん。私、何もできないから……でも、結衣さんに元気になって欲しくて……」 「それで、あ、あの! ケーキ、考えたんです。結衣さんと晶さんが喜ぶケーキ!」 「ケーキ!?」 「はい。今、マックスさんが作ってるんです。後でお部屋まで持って来てくれます」 「ケーキ! 嬉しいな! 今日屋台ものばっかりだから」 「そうだな」 「あ……良かった。結衣さん、ちょっと元気です」 ケーキの話を聞いて、結衣が嬉しそうに笑う。 すずのも、それを見て安心したように微笑んだ。 明日からは、きっとこうやって、もっと笑えるようになる。 いろんな問題もあるのかもしれないけれど……ようやく俺の腹も決まった。 「よぉし! 今日はそのケーキを食べて、明日の出張limelightをしっかり手伝おう!」 「そうだな。明日は外部からのお客さんも来るし」 どう言えばいいんだろう。 自分の気持ちを偽るのはやめて、したいようにしたから。 気持ちが落ち着いたのかもしれない。 結衣も晴れやかな顔をしていた。 「それじゃあ、帰ろっか。ケーキケーキ!」 「はい」 「おーい。晶ー、結衣ー」 「あ、マックス」 三人揃って寮まで戻って来ると、マックスも戻って来たところだった。 手には大きな箱を持っている。 もしかして、すずのが言っていたケーキかもしれない。 「おーし! タイミングばっちりだな! なんだ、二人ともさっぱりした顔しやがって!」 「ねーねーマックスくん、それもしかしてケーキ!?」 「おう! 二人のための新作だぜ!」 「わー! 早く食べたいなあ」 「俺とマックスの部屋でいい?」 「うん」 「はい」 「よし、それじゃあ部屋に戻ってみんなで食べようぜー」 「わー! ケーキだ、ケーキ! おいしそうー!」 「すっげー自信作だぞ! なんせ、お前らの好みを調べ倒して作ったからな!」 「おおお! すごぉい!!」 「とりあえず4人分に切り分けないとだめだな。ケーキナイフはっと…」 「あ、わたしもやる!」 「んじゃ、切り分けながらケーキの説明してやるな」 「うん! 晶くんとすずのちゃんは、ちょっと待っててね」 「はい、お待ちしてます」 結衣とマックスがふたりでケーキを切り分け始める。 マックスはケーキを四等分しながら、ここはどうとか、こっちはどうとか詳しい説明を結衣にしていた。 そんな様子を見つめていると、今更だけど楽しい、と思う。 好きな人とか、友達とかと……こうやって一緒にいる時間は何よりも大切だ。 そして、そんな風に思える俺は、きっと幸せなんだろう。 「楽しそうですね、晶さん」 「うん? ケーキ楽しみだから! まだー?」 「まだっつーのー! 今ちょっと切ってもキレーに見えるように調整してんだからよ!」 「晶くん、おとなしく待っててくださーい」 「はーい」 「………ふふ」 俺の返事を聞いて、すずのがめずらしく、おかしそうに笑った。 「どうしたの?」 「はい。あの、えっと」 「私、結衣さんを見てるといつも思う事があるんです」 「なに?」 「結衣さんて、なんだかお姉さんとかお母さんみたいって」 「そっか……じゃあ、もしかして俺はお兄さん?」 「違います」 「じゃあ、お父さん?」 「………それも、違う気がします」 「……?」 何気なく聞いただけだったのだけど、すずのは意外にも真剣な瞳で考え込んでいるようだった。 「難しいんです。晶さんは、私にとって他のどの人とも違う気がして」 「……すずの?」 「お父さんとかお兄さんに近い人みたいに感じる時もあるんです。でも、本当はそういう感じじゃなくて、もっと別な……」 「なんて言えばいいんだろう……とても近いけど、そうじゃなくて、たったひとりの特別な感じの……」 「……どういうこと?」 「そう、なんだ」 「不思議な気持ちです。結衣さんを見ている時と、とても似ている時もあるのに。でも、ふと気付くとそうじゃないと思ってて……やっぱり不思議な感じ」 「うん」 すずのも、自分でよくわかっていないようで、ずっと首をかしげている。 俺ももちろん、どう答えればいいのかわからない。 「あんまり考えこまなくてもいいんじゃない」 そう言いながらすずのの頭をゆっくり撫でた。 一瞬、驚いたような表情をしたが、すぐに嬉しそうにすずのは笑った。 「よーし! 切れたよー。ケーキ食べるよー!」 「お! お姉さんが呼んでるぞ」 「はい!」 「うっめーぞー! 心して食えよー!」 「食べるー!!!」 「食べるぞー!」 「はい」 俺と結衣は、お互いに気持ちを確かめ合えた。 そう出来るだけの時間をくれた天音と桜子。 ケーキを作ってくれたマックスとすずの。 みんなの心遣いがありがたい。 口の中に広がる、ケーキの甘みを感じながら俺はあたたかい気持ちになっていた。 明日は、しっかりと働こう。 午前中、俺と結衣は出張limelightで張り切って働いていた。 昨日は一日遊び倒してしまったから、今日はきちんと仕事をしないと、合わせる顔がない。 でも、きびきびと動けるのは、それだけじゃない。 どんな関係であっても、ふたりで一緒にいるって決めたから。 だから、なんとなく開き直れてしまった感じだ。 そんなおかげか、気が付けば手伝いの時間はあっと言う間に終わっていた。 「二人とも、ご苦労様! そろそろ休憩に行ってもらっていいわよ」 「天音ちゃんは?」 「私はもう少し残ってるから。晶くんと二人でまた繚蘭祭、見てきたら」 「まあ、昨日いっぱい回ったかもしれないけどね」 「うん。ありがとう」 「結衣、なんだか昨日より元気になったね。よかった」 「うん!」 「すまないが、葛木と稲羽はいるだろうか」 結衣がうなずいた瞬間、扉が開いた。 入ってきたのは、八重野先輩。と、後ろに生徒会長もいる。 「八重野先輩?」 何の用だろう…? 八重野先輩がいるってことは、ヘンな用じゃないと思うけど。 自然と緊張してしまう。 「何の用ですか、生徒会長……」 「うわっ、そんなに警戒しなくても。しょーくんとゆいちゃんに、ちょっと話があるんだけど……」 「見てわかりません? 今、limelightの給仕中なんですけど」 ぐっと強い瞳で、天音が会長を睨む。 俺と結衣の事を心配して、会長を追い返そうとしてくれているのがわかった。 「それならば、時間が出来たらでいい。生徒会室まで来てくれ。待っている」 「じゃーねー」 でも、ふたりはそれだけを言ってあっさりと帰ってしまった。 あまりにもあっけなくて、少しだけ驚く。 「あれ、すごくあっさり帰っちゃったよ」 「……なんだったんだろ?」 「うーん。八重野先輩も一緒だったし、何か本当に用事があるのかな」 「俺、行ってみるよ。ちょうど今から休憩だし」 「そうだね」 「あ、うん。じゃあね」 そうだ。会長だけってならともかく八重野先輩も一緒だったんなら、やっぱり行っておくべきだろう。 俺は結衣の手を取ると、一緒に生徒会室へと向かった。 「こんにちはー」 「話って何でしょうか?」 「なんだ、早かったな」 俺と結衣の姿を見たふたりは、少し驚いていた。 さっきはまだ仕事中だって言ったから、確かに早すぎるのかもだけど。 でも、それだけじゃないような気がするのは何故だろう。 桜子や茉百合さんから、俺と結衣の話は多分生徒会にも伝わっているはずだ。 そう思うと、何だか少し不安になってくる。 「座ってくれ、少し長い話になる」 「は、はい」 八重野先輩が用意してくれた椅子に座る。 結衣も同じように座り、俺達は目の前の会長と八重野先輩を見つめた。 「………」 ふたりとも、いつもと雰囲気が違う。 八重野先輩だけならまだしも、会長まで静かだ。 いつもの雑用のために呼ばれたんじゃないっていうのは、それだけですごくよくわかった。 俺の緊張が伝わっているのだろうか。 隣の結衣も少し緊張しているみたいだった。 「えっと、どうしようかな。蛍、何から言えばいいかな」 「そうだな……まずは、当面の問題を解決してやった方がいいんじゃないか」 「当面の…問題?」 「…っ!!」 一瞬で、結衣の顔色が変わる。俺も青ざめた。 生徒会室に呼び出されて、この話をされるという事の意味。 つまり、それって倫理的にそういう事はって話か!? ――でも、そうだとしても、俺はもう黙って引き離される気はない! 「そうだったとしても、俺はもう決めたんです! 結衣を……」 「落ち着け葛木。お前達を咎めようとしているわけではない」 「……え、じゃあ、何ですか…?」 「結論から言うと、君たちは双子じゃない」 「えっ…!!?」 「本当に!?」 まったく思ってもみなかった言葉を投げられて、俺は混乱した。 俺たちは……双子じゃない? そんなこと、考えもしなかった。 だって、結衣の両親は、俺の両親で、俺たちは誕生日が同じで……。 それに何より、マックスの検査の結果、DNAが一致した。 それは間違いなく、俺たちが双子っていう証拠のはずだ。 「申し訳ないけど、ちょっと調べさせてもらいました」 「病院の記録や看護士さんたちの証言からも、結衣ちゃんに兄弟はいないっていうのが結論です」 「えと、でも、例えば病院が誤魔化しているだけって事はないんでしょうか?」 「それもない。そもそも、稲羽自身が双子ではないという証拠を持っている」 「え? わたしが? でもお母さんは最初は双子だったって……」 「詳しい説明は省いて、要点だけを言おう」 「双子だった場合、母親の胎内でお互いの細胞が交じり合って、一人で異なった遺伝子を同時に持つという現象がときたま起きるらしい」 「結衣ちゃんは確かに双子だったんだけど、妊娠早期に結衣ちゃんの兄弟は何かの原因で死んでしまって、その遺伝子を吸収して生まれたのが結衣ちゃんなんだ」 「だから結衣ちゃんは、二人分の遺伝子を持っている。結衣ちゃんのお兄さんは、今でも結衣ちゃんの中にいるんだよ」 「…な、なんかちょっと難しくてよくわからないんですけど、とにかく俺と結衣は双子じゃないって事ですよね?」 「そうだ」 「よ、よかったぁ……」 思わず結衣と顔を見合わせる。 気が抜けたみたいに、ほっとした顔。 多分、俺も同じような顔をしているんだろう。 ずっとずっと、俺達が欲しかったもの。 誰かからの否定の言葉。 それをもらえて、今、心から安心している。 「まあ、それはよくわからないんだけど……」 「検査で判断されるDNAは全部のパーツを比べているわけではないからな。まったくの別人が一致することもあることはあるらしいが」 「えっ、そうなんですか?」 「……天文学的な数字で、現実的ではないがな」 天文学的な数字。現実的ではない。 ……そういうものなのか? でも、それでもいい。 俺と結衣が双子じゃないのなら、俺はそれでいいんだ。 これで何の心配もなく、誰に気兼ねすることもなく、ずっと結衣と一緒にいる事が出来る。 「あの、もしかしてわざわざ調べてくれたんですか」 「あっ、そうだよな。ありがとうございます」 「……そういうわけではないんだ」 「え?」 俺はどれだけ感謝してもし足りないくらいだと思っていたけど。 八重野先輩も会長も何故か、少し言いづらそうにしている。 「結衣ちゃんは、晶くんのこと、経歴とか、どれくらい知ってるの?」 「え、え。えっと、晶くんのお父さんが、私のお父さんだったって事くらいしか」 「晶くんは、結衣ちゃんに秘密にしていたい事とか、ない? 席を外してもらった方がいいなら、そうするけど」 「な、ないよそんなの。え、何ですか? 本当に……」 「では本題に入ろう。葛木、お前が前にいた学校のことだ。この書類に書いたとおりで間違いないか」 すっと、八重野先輩が以前に書いた書類を差し出した。 確か、来たばかりの頃に書いたものだ。 簡単に済ませられるようにと、八重野先輩がチェックを入れてくれた箇所にだけ書き込んだのを覚えている。 「はい、間違いないですけど…」 「前の成績証明書を取り寄せようと思って、問い合わせたんだけどね」 「そんな生徒は、在籍していませんでしたって言われたんだよ」 「……へ?」 「お前がここに書いた、他の事も少し調べたらおかしな所だらけだった」 「それで、専門の人に頼んで色々調査してもらってたんだけど」 本題っていうことは、この話をするために俺は呼ばれたって事だろう。 だけど突然すぎて、何の話をされているのかまだよく理解できない。 ……どういう事だ? 「心当たりはないのか」 「え、あの…いまいちよくわからないんですけど。おかしな所だらけって?」 「お前が申告した住所は、今はまったく別の人間が住んでいる」 「へっ?!」 「付近の学校には在籍記録が一切ない。それどころか、葛木晶という人間の戸籍もない」 「――葛木、お前はいったい、何者なんだ?」 「ちょ、ちょっと待ってください、何ですかそれ!?」 「あの、どういうこと…ですか?」 「……俺たちにもわけがわからないんだ。だから本人に聞いてるんだけど…」 戸籍がない……? 在籍記録もない……? そんなことって、ありえるのか? 確かに今まで自分でそういう公的書類とか、出した覚えはないけれど…。 もしかして、親父のやつ公務員のくせに、そういう書類の届け出もしてなかったとか? いやいや、いくらダメ親父でもそこまでは……。 と思いたいんだけど、どうなんだろう。 でも、そんなバカな事は……でも、うーん…。 「俺もわからないです、何がなんだか……でも、もしかしたら親父がうっかりしてたのかも」 「ここの入学許可証も、親父が一週間ポケットに放置してたし…」 「………え…?」 結衣が俺を見て、信じられないという顔をした。 「晶くん、なんで……?」 「え? な、何が…?」 「入学許可証、か。それもわからんな」 「学園の理事にもお偉いさんにも一人一人当たってみたけど、本当に誰も君には入学許可証を出していなかったよ」 「相当に力のある立場の人が、コネを使って強引に出したのだろうと思ってたのだけど……」 「そもそも、本当に住んでいる住所もわからないのに許可証を送れるわけもない」 「晶くんは一体、どこからその入学許可証、手に入れたの?」 「だからこれは、親父が受け取って、一週間ポケットに突っ込んでたんだって!」 「俺は9月23日に親父からそれをもらって、手続き期限が迫ってたから慌ててこの学校に来たんだ!!」 一気に言った俺の言葉を聞いて、その場が静まり返ってしまった。 会長も八重野先輩も、呆気にとられて続く言葉が出ないといった感じだ。 そして結衣までが、俺を見て蒼白になっている。 ―――どうして? 二人はまだわかる。 だけど……何故、結衣はこんな顔をしているんだろう。 「え…何…どうしたんだよ? 結衣まで…」 「晶くん…あの……」 「あの……お父さんは…」 結衣の言葉を遮って、八重野先輩が口を開いた。 「―――葛木、お前が父親だという葛木茂樹氏は、4年前に殉職されている」 殉職……。 つまり、死んだ、ということ。 それを理解して、目の前が真っ暗になる。 ……親父が死んだって事? 4年も前に? だって、親父は、家を出る前まで一緒に――― 「う、嘘だっ!! だって、俺、この学校に来るまで一緒に暮らしてたんだぞ?!」 「確かに4年前、銃で撃たれたことあったのは覚えてるけど、でもちゃんと生きてたよ!」 「嘘じゃない、晶くん。わたし…お葬式に行ったの……棺おけの中も、見た…」 「結衣…」 「で、電話! 電話貸してください!」 携帯に電話をかければわかるはずだ。 仕事で出れない可能性もあるけど、それでも能天気な親父の声の留守番電話ぐらいは流れるはずだ。 それを聞けば、親父が死んでないってみんなにわかる。 生徒会室にある電話を借りて、慌てて電話をかける。 指先が震えて、何度か番号を押し間違えたけれど、ちゃんと最後まで番号を押した。 でも………。 聞こえて来たのは、無機質な『この番号は現在、使われておりません』という声だけだった。 無機質な声はすぐに消えて、ツーツーという音が聞こえて来た。 「……繋がらない…」 ……じゃあ、本当なのか? もう親父は死んでいて、どこにもいないって言うのか? じゃあ今まで一緒に暮らして来た親父は、なんなんだ? まさか、幽霊とか……? そんな。そんな馬鹿な。 そんなこと、あるわけがない……! 「晶くん……」 「……葛木。もうひとつ言っておく事がある」 「まだ…あるんですか…」 「あぁ。……葛木茂樹に、息子がいたという記録はどこにもない。養子を取った事もないし、職場の人間も離婚してからはずっと一人暮らしだったと証言している」 「つまり、葛木晶という人間は、この世界のどこにも存在した痕跡がないんだよ」 「もう一度聞くけど。一体晶くんは、どこの誰で、本当は何者なんだ?」 そんな事を、突然言われても。 俺にはどうすることも、出来ない。 何もわかっていないのは、俺の方なんだ。 「俺、何一つ嘘なんかついていないし、今まで普通に暮らしてきただけ…です…」 「わかりません! そんな事言われても、何もわからない!」 「どうしてこんなに話が食い違うのか、よくわからないけど、晶くんは…!」 「………そうか。わかった」 「葛木も稲羽も、いきなりこんな話をされて混乱しているだろう。すまなかったな」 「……わ、わかったって。それでいいんですか」 「嘘はついていないんだろう?」 「…はい…俺も、わけがわからないです」 「じゃあお手上げだよ、俺たちもわけがわからないんだから」 もっと、問い詰められるのかと思っていた。 そんな事でいいんだろうか…? だって、二人の言う事が真実なのなら、俺の存在は明らかにおかしい。 それなのに、そんなにあっさりと……。 「まあ……なんとなく何も知らないんじゃないのかな、とは思っていたから。納得したよ」 「そうだな」 「俺…このままここにいて、いいんでしょうか……」 「君の経歴がまったくゼロでも、当分この学園は君の事守ってくれると思う。だから、安心はしていいと思うよ」 「え。なんで……?」 「まあ、学園にも色々な事情があるということだ」 「あの、この事は、天音ちゃんとかは……」 「いや、今この事を知っているのはここにいる者だけだ。できるなら、他の誰にも知られない方が葛木のためだろう」 安心していい。 そう言われたものの、俺は宙に浮いたままのような気持ちをどうすることも出来なかった。 「………」 「晶くん」 「あ、うん。ちょっと、頭真っ白っていうか」 「うん……」 「……大丈夫か」 「…はい。あの、とりあえず…帰ります」 「何かあった時は、すぐに俺たちに言ってくれればいい」 「はい。わかりました……」 椅子から立ち上がり、結衣と一緒に生徒会室を出た。 いきなりいろんな事が飛び込んできて、まだ頭が混乱していた。 どうなっているのか、俺にはまったくわからなかった。 生徒会室を出て、ふらふらと廊下を歩く。 結衣が隣を歩いてくれているから、なんとか歩けているんじゃないかと思った。 俺と結衣の周りには、楽しそうに笑っている生徒達の姿がある。 みんな笑って、楽しそうに話して、この状況を楽しんでいる。 そんな中で、俺は何をしているんだろう。 ついさっきまでは、俺だって周りの生徒達と何も変わらない、いつも通りだったはずなのに。 それなのに、突然……。 どうして、こんな事になってしまったんだろう? 前の学校に俺の在籍記録がない。 ここに来る前に、俺を起こして、朝食をせがんで、この学園の封筒を当日になって渡してくれた親父は、もうどこにもいない。 しかも、4年も前に死んでいた。 この世界には、俺が存在していた記録も、痕跡も、どこにもない。 そんな事を、いきなり言われても……。 「晶くん……」 「…あっ…」 ぼんやりと考えていると、結衣が心配そうな顔で俺を見ているのに気付いた。 「結衣」 「ちょっと、休憩する? 何か食べよっか」 「ううん、大丈夫。ありがとう」 「うん……」 結衣はじっと、俺の顔をのぞきこんでいる。 とても心配そうに、じっとじっと俺を見てくれている。 「……そうだ」 「なに?」 「俺と結衣………双子じゃなくって、よかったよな」 「……うん」 「ほっと、したよ。わたし」 昨日まであんなに悩んでいたことなのに……二人で悩んで、答えを出したのに…。 それはあっさりと解決してしまった。 「でも、晶くんは……」 「今、きっと迷子みたいな気持ちなんだよね」 「………」 「双子の方が、よかったかも……?」 「…そんなこと……ない」 「少なくとも、これで、結衣のこと……好きだって、胸をはって言える」 「うん」 「わたしも」 俺は誰だろう。 俺はどこから来たんだろう。 葛木晶という人間では、ないのだろうか。 でも、小さい頃からの記憶ははっきりとある。 前の学校に通っていたときの事も、親父とどんな暮らしをしてきたのかも。 でも、本当の親父は、4年前に死んでいるんだよな……? じゃあ、何だったって言うんだろうか。 この4年間、一緒に暮らしてきた相手は誰だったんだ。 寂しいって言って、無理矢理写真まで持たせて……。 「……!」 そうだ、俺の学生証の中には親父の写真がある。 嫌だって言ったのに、親父が無理やりふたりで撮ろうって言った写真! つい最近撮ったものなんだから、親父が4年前に死んだのならこれは撮れないはずだ。 でも……。 「その写真」 俺が写真を取り出すと、結衣の表情がパアっと明るくなった。 「そうだよ、その写真! やっぱり晶くんは、お父さんと一緒に暮らしてたんだよ」 「うん……でも、親父は4年前に死んでるんだよな?」 「う、……うん」 「それじゃあ、やっぱり、俺の記憶はおかしいって事になる……」 自分の記憶に自信がもてなくなる。 もしかして、これは記憶障害のようなものなのかもしれない。 俺のこの記憶が間違っている。 だとしたら、すべてに説明がつくんじゃないのか? どこまでが本当で、どこまで偽者なんだろう。 この写真も、本物と信じていいのだろうか? 今なら、偽物の写真くらい幾らでも作れるんじゃないだろうか…? 「あっ」 聞こえて来たメール着信音に驚いた。 自分のかと思っていたけれど、それは結衣のものだった。 「晶くん」 「うん、見て」 端末を取り出した結衣は、メールを確認した。 確認し終わると、そのまま端末を片付ける。 大事な用事とかじゃなかったのかな。 「天音ちゃんからだ」 「なんて?」 「今日はもう寮に戻っていいよって。明日の片付け、桜子ちゃんが病院でいないからその分も頑張って下さいって」 「そうか……」 「……帰ろ、晶くん」 「うん」 「はい」 そっと、結衣が手を握ってくれる。 強くて、でも優しい結衣の手。 その手を強く握り返せないのは、まだ俺の動揺が治まっていないからだと思う。 だけど、その結衣の優しさは嬉しかった。 結衣と一緒に、手を繋いで寮の前まで戻って来た。 なんとなく手を離せなかったのは、この手を離すのが不安だったから。 繋いでいないと、俺の記憶みたいに、結衣まで揺らいでしまいそうな気がした。 「……あ」 「あ、すずのちゃん」 「晶さん、結衣さん」 寮の前まで着くと、すずのがとことこと駆け寄ってきた。 「お迎えに行こうかと思ってたのです」 「そっか。ちょっと遅くなっちゃったもんね」 「はい」 こくこくと、すずのがうなずいた。 それから、俺たちを見て安心したように微笑む。 「………」 微笑んだすずのを、見つめる。 すずのは、自分を幽霊だと言う。 ―――幽霊……。 「……? どうされましたか?」 「あ、あの、晶くん……ちょっと、いろいろあって」 「なんだか顔色が悪いです、晶さん…」 すずのは、俺から見れば普通の人間と変わらない。 でも、結衣やマックス以外の他の人たちは、すずのを見る事が出来ない。 だから、すずのは自分の事を幽霊だという。 俺たちと何も変わりはしないのに。 見ることも、触れる事も。物を食べる事だってできるし、結衣と一緒にお風呂だって入っているらしい。 もしすずのが本当に幽霊だって言うんなら………。 「晶くん? どうしたの」 「晶さん?」 「俺も……幽霊なのかな」 「え……」 「晶さん…どうして?」 「すずのと、同じなんじゃないのかな」 「同じって…」 「すずのみたいに記憶がちょっと混乱してて、今、生きてるって思い込んでるだけで……」 「本当は、俺はもうここにいない存在じゃないのかな……?」 「そ、そんな事ない!」 「だって、俺がここにいるって証拠は何もなくて……でも、俺はここにいて……」 「あ、あの、晶さん……」 「すずのと同じなのかもしれない。ただ、すずのと違って誰にでも見えるだけで、俺も幽霊なのかもしれない」 「晶くん…晶くん!」 「そうじゃなきゃ、わからない……なんで、俺がここにいるのか、俺が誰なのか……」 「違うよ、晶くん……お願い、そんな風に思わないで」 「結衣……」 繋いだままの結衣の手が、今までよりも強く強く、握り締められた。 そしてじっと俺を見つめる。 結衣の瞳には、俺はどう写っている? 結衣の瞳に写る俺は、どんな顔をしている? 今、俺がしているつもりの顔が、そのまま見えているのだろうか? そんな事すらも、不安になった。 「晶くんは晶くんとして、ちゃんとここにいるよ。わたしは、晶くんをちゃんと見てる」 「でも……」 「大丈夫だよ。焦らないで」 「結衣……」 「晶くん……わたし」 「わたし、どうしてかはわからないけど! でも晶くんが、ちゃんと納得のいく答えを見つけるまで」 「手伝うから! 一緒にいるから!」 「………」 何もかもわからないのに。 俺が誰かもわからないのに。 どうして、結衣はこんなに強い言葉をくれるんだろう。 結衣の言葉に胸が熱くなる。 熱くて、熱くて、痛みまで持ちそうだと感じてしまう。 「あ、あの、私も……私も、晶さんと結衣さんと一緒にいますから」 「すずの……」 「だから、そんな風に考えないでください」 「ふたりとも……ありがとう」 強く暖かく、俺の手を握る結衣。 その手を、強張りながらもやっと握り返すことが出来た。 結衣とすずのは、俺を連れて自分達の部屋に戻った。 部屋に戻ろうとしたら、一緒に行こうと言われたからなんだけど……いいのかな。 「…なあ、二人とも……俺、ちょっと元気でたよ?」 「いいんです、みんなが帰ってきて晩ご飯するまで、一緒にいるんですー」 結衣が言うと、すずのもこくこくとうなずいた。 多分、俺を一人にしないでおこうと思ってくれているんだろう。 素直に好意に甘えておくことにした。 「そっか…」 「でも、何するの?」 「うーん……」 「のんびりしてたらいいと思うのです」 「そうだよ、一緒にのんびりしよ」 「はぁ、そうか。それもいいかな…」 あんまり深く考えるのもよくないだろう。 思わずそのまま、俺はソファーに寝転んだ。 気持ちいい。ただ、こうしてるだけっていうのも。 「あの、あの私は、お邪魔ではないのでしょうか」 「そんなことないよう、すずのちゃんは私のルームメイトなんだから」 「は、はい」 「あ、そうだ! いいものがあるの」 「……何?」 「ドーナツですか?」 そう言って、結衣は引き出しの中から一冊の本を取り出して来る。 それはとても大きな、絵本みたいだった。 「え、絵本??」 「うん、天音ちゃんが貸してくれたの! すっごい仕掛け絵本なんだよ〜。みんなで見よう!」 「えほん……えほん」 笑顔で言った結衣に、すずのは興味津々といった感じだった。 こういうの、好きなのかな。 「ふふ。すずのは何か子供みたいだな」 「晶くんも、一緒に見ようよ、ね!」 一緒に見るならという事で、3人でソファーに座る事にした。 俺も起き上がって、並んで座る。 結衣が絵本をテーブルに置くと、すずのがそれをまじまじと見つめる。 「『オズの魔法使い』。……魔法使いさんのお話?」 「それは見てのお楽しみですー」 楽しそうな結衣とすずの。 そんな様子を見つめながら、ぼんやりとその話を思い出してみる。 なんとなく、タイトルは知ってると思うんだけど……詳しい話を思い出せないな。 そう考えていると、結衣の手が本を開いた。 開かれた途端、しかけ絵本になっていたページから、物語に沿った絵が飛び出して来た。 「わぁ」 最初のページを開くと、大きな竜巻の中に巻き込まれている家があった。 かなり仕掛けが細かいし、絵もすごくきれいだ。 絵本だっていって、馬鹿にできない感じだな。 「ある日、大きな竜巻に巻き込まれてね、この女の子は家ごと魔法の国に飛ばされちゃうの」 「たいへんです」 素直に驚くすずのに微笑みかけながら、結衣は嬉しそうにページをめくり、話の内容を教えてくれる。 「それで、女の子は自分のお家に帰りたくってね、途中で出会った素敵な仲間と一緒に、何でも願いを叶えてくれる魔法使いの所へいくんだよ」 「わぁぁ、きれいですね、緑色でいっぱい」 「女の子はこういうの好きなんだなあ」 「うん、好きー」 ページがめくられるたびに、次々といろんな仕掛けが飛び出して来る。 そのたびに、すずのはきらきらと目を輝かせた。 「それから、魔法の銀の靴で、女の子は無事にお家に帰ることができました。――で、おしまいです」 「銀の靴を使えば、最初からずっと、いつでもお家に帰れたんですね」 「そうだよー。でもそれだったらかかしさんや、ブリキの木こりや、ライオンさんと仲良くなる事もなかったんだよ」 「みんな願いを叶えたんですね」 最後は無事おうちに帰ることができました、か…。 ふと、俺の家はどこにあるんだろう、と考える。 この話みたいに、いつか帰ることができるんだろうか。 「…………」 「…え?」 ぼんやり考えていると、結衣がじっとこっちを見ているのに気が付いた。 「結衣」 「大丈夫。そんなに不安がらないで」 「……晶さん」 「私も、私も……あの、よくわからないですけど、晶さんの力になりたいです」 「……ありがとう」 「そうだな……わからないことで悩むのは、やめよう」 「ちゃんとわかるよ、きっと」 「ううん、たとえわからなくっても……晶くんは私の大事な彼氏です!」 「……うん」 「はうう」 二人のおかげで、少し気持ちが明るくなった気がする。 ……そうだ。 まだ、自分のことは何ひとつわからなかったけれど。 あんまりふさぎ込むような考えはやめよう。 きっといつか、自分のことも、親父のことも、わかるときが来る。 そう信じて過ごすしかない。 それまでは、うつむいたり、振り返ったりしないように。 自分の中の不安を、俺は心のすみに閉じ込めた。 教室に戻って荷物の移動を終わらせた後、俺は結衣と一緒にすずのを探した。 自分たちの教室にも、最初に会った保健室にも、すずのの姿は見えない。 どこにも、すずのがいる気配すらも見つけられなかった。 「すずの……」 「わたし……」 「結衣?」 「ちゃんと一緒にいてあげればよかった、ちゃんと」 「結衣のせいじゃない……俺だって、結衣にまかせっきりにしてた」 「……すずのちゃん、様子がおかしかったよね」 「ああ」 「どうしてそばにいてあげなかったんだろ、どうして」 「……結衣、まだいなくなったって決まったわけじゃない」 「屋上はまだいってなかったよな」 「寮もだけど……」 「屋上にもいなかったら、寮に戻って探そう。もしかしたら結衣の部屋で待ってるかもしれないし」 「うん」 「………」 そうやって結衣を励ましたものの。 ……俺は無性に湧き起こる不安を感じていた。 もしかしたら、マックスとどこかに出かけただけかもしれないじゃないか。 寮に帰ったら、先に帰ってましたよってひょこっと出てきてくれるかもしれない。 でも何故か、とてもそうは考えられなかった。 何故か、すずのがどこか手の届かない遠くへ行ってしまったような気がしてならない。 だからこそ結衣だって、こんなに必死になっているのだろう。 自分のことも。すずののことも。 どうしていいかわからないことで、俺はいっぱいだ……。 「晶くん……?」 「え……」 「晶くん、どうしたの? 晶くん?」 「だ、大丈夫。なんでもないよ」 気が付くと、結衣が不安そうに俺のことを見つめていた。 いなくなったすずのを心配して、考え込んでる俺のことまで心配して……。 こんなことじゃ駄目だ。気持ちを切り替えよう。 「行こう、屋上へ!」 「うん」 「その途中の教室も、一応全部見て行こうか」 「わかった」 うなずいた結衣の手を握って歩き出す。 自分の事で不安になっている場合じゃない。今は、すずのの事を考えないと。 結衣の手を引いて、ゆっくりと歩き出す。 屋上へ向かって。 踊り場から屋上へ続く扉を開けると、吹き込む強い風に制服や髪が揺れた。 その風を受け止めながら屋上に視線を向ける。 そこには、捜し求めた姿があった。 「すずのちゃん!」 「晶さん、結衣さん……」 すずのは屋上の真ん中でぽつんと一人、立っていた。 誰もいなくなった校庭をただ眺めていたのだろうか。 「よかった…! どこかに行っちゃったのかと思ったよ…っ」 「すずの……」 俺も結衣も自然と安堵のため息を漏らす。 それからすずのに駆け寄った。 「………」 すずのは駆け寄った俺たちをじっと見上げている。その表情はなんだかいつもと違う、見せた事のないものだった。 複雑そうな、寂しそうな、という言葉が一番近いかもしれない。 「すずのちゃん、どうしたの? いつも、これくらいの時間になったら帰ってきてくれるのに……」 「屋上にいたかったの?」 「…………いいえ」 「心配したんだぞ、どこかに行ったのかと思った」 「ごめんなさい」 「あの、晶さん……」 「なに?」 「誰かに、何か、言われましたか」 「え……?」 「昨日、どうして自分がここにいるのか……みたいにおっしゃってたから」 「……う…うん」 「ちょっと…ね、俺の記憶がおかしなことになってるっていうか……」 「と、とにかく帰ろうよ! もう遅いから、ね! おなかすいちゃったよ」 「晶くんの話は……寮に帰ってから、ゆっくりしよう」 「うん、そうだな。すずのには、俺の事もちゃんと話すから、帰ろう」 「そう、ですね……」 うなずいて、すずのが答えた。 けれど、なかなか顔をあげようとはしてくれない。 やはり、すずのの様子はいつもとどこか違った。 早く連れて帰ったほうがいい。気持ちばかりがそんな風に焦る。 「さぁ、帰ろう、すずの」 「そうだ! 3人で手を繋いで帰ろうよ」 「え……?」 「手を?」 「うん。すずのちゃんが真ん中で、わたしと晶くんが、そのすずのちゃんの手を繋ぐの」 「結衣さん、あの」 「はい。わたしはこっち」 「……あ」 俺と結衣ですずのを挟むように並んで立つ。 結衣はにっこり笑ってすずのの手を握る。 そして、俺を見て同じようにしようと目で伝える。 少し恥ずかしい気がする。 でも、まあ結衣がしろって言うなら、仕方ない。 だから、俺もそっと、すずのの手を握る。 「あ……」 結衣よりも小さなすずのの手。 こんな小さな手で、何かひとりで不安でも抱えていたんだろうか。 そんな風に思うと、すずのの手を握る力が強くなっていた。 「帰ろうよ」 「はい……」 「今日は一緒に、たくさん話をしよ。晶くんのことも、わたしのことも、みんなで一緒に」 「ちょっと晶くんにばっかりかまいすぎてたかな、なんて反省してるんだよ、わたし」 ぺろっと舌を出して、結衣がすずのにそう笑いかける。 その仕種がちょっとおかしくて、俺も笑った。 「ペットか何かかよ、俺は…」 「……ふふ」 ゆっくりと、すずのの手を引いて歩き出す。 早くなりすぎないように、結衣とふたりで慎重に。 すずのはゆっくりだけど歩き出してくれていた。 繋いだ手のひらの感触。 あたたかなぬくもり。 3人で一緒に手を繋ぐのって、結衣とふたりだけの時と少し違う。 繋がっているのはすずのの手だけなのに、結衣のぬくもりも伝わっているような、そんな感じがする。 「……晶さん、結衣さん」 「なになに?」 「ふたりは、お互いのこと、どれくらい好きですか…?」 「え…っ!」 突然聞かれたことに、結衣の頬が真っ赤になった。 そういえば、すずのにはこういう事を聞かれた事がなかった。 「え、えっとね、あの、あのなんでそんなこと聞くの?」 「知りたいです」 「どれくらいって、どう例えればいいんだよ……」 なんとなく、恥ずかしい。 どう答えるのがいいのだろう。 結衣が好きだ。 それは確かに間違いない。 でも、どう例えればいいのだろうと、改めて考えてみると難しい。 それにやっぱり、本人の前で言うのは恥ずかしいし…。 「………あのね! えーっと……」 「この空いっぱいくらい、かな。わたしは」 「………」 言われるのも恥ずかしい、って事にやっと気付いた。 そんな大真面目に答えなきゃいけないのか俺も。 もちろん嬉しいことは嬉しいのだが、それ以上に照れが先行してしまう。 結衣も照れているのか、少し赤くなっていた。 「晶さんは?」 「えっ」 「晶さんは、どうですか? どれくらい結衣さんの事が好きですか?」 「お空いっぱいですか? それとも」 二人の、純粋な瞳が同時に俺を見る。 ………。 もう、逃げられない。そんな状況だ。 俺は覚悟を決めて、少し投げやりに叫んだ。 「と、飛び越えるくらい!」 「え……」 「結衣が、空いっぱいって言うんなら。俺は、空を飛び越えるくらい好きだ」 「これでいいですかね! もう二度といいませんよ!」 「………」 「〜〜〜〜っ! うれしいよう!」 「きゃわっ」 喜びすぎた結衣が、腕をぶんぶんと勢いよく振った。 すずのがつれられて、ゆらゆらと揺れる。 気付いた結衣は慌てて腕を揺らすのを止めた。 「あ、ごめんすずのちゃん」 「だいじょぶです。よかったですね、結衣さん」 「うん!! 幸せ!」 「よく、わかりました……」 はっきりとした、すずのの声。 それはいつものすずのの声に違いなかった。 それなのに、どうして、いつものすずのの声と違うように聞こえたんだろう。 思わずそっと、手を繋いだすずのの顔を覗き込む。 そこにいるのは、間違いなく俺達の知っているすずの。 「すずのちゃん?」 「すずの?」 「大丈夫」 なのに、ふっと胸の中に不安が湧き起こる。 なんだろう、これは。 一瞬だけ、すずのの表情が変わった気がした。 けれど、どんな表情になったのかはわからなかった。 すずの、どうしたんだ? そう聞きたくなったのに、声が出ない。 まるでそれをすずのが拒否しているように感じてしまう。 「今、なんて……?」 「すずのちゃ……」 屋上は静かだ。風の音もしない。 なのに、すずのの言葉はよく聞こえなかった。 何を言おうとしたんだろう。 いや、それより、俺はすずのの様子がおかしい事が気になっている。 やっぱり、先にそれを聞くべきじゃないだろうか。 すずの、何かあったのか? どうして、さっき俺と結衣にどのくらい好きかなんて聞いたんだ? そんなこと……今まで聞いたことなかったのに。 そう、口を開こうとして、俺は硬直してしまった。 「……!?」 「え……」 ―――いつの間にか、俺と結衣はふたりで手を繋いでいた。 俺たちの真ん中で、手を繋いでいたすずのの姿はない。 それはまるで、最初から俺と結衣だけが手を繋いでいたようで、すずのの感触もぬくもりも、どこにもない。 手のひらに伝わるのは、結衣のぬくもりだけ。 「すずのちゃん……」 「すずの……」 俺たちの真ん中にあった確かな存在。 それが今、ここにはない。 思わず、繋いでいた手を離す。 結衣は驚いたように手のひらを見つめる。 だけど、すぐに慌てたように周りを見渡した。 誰もいない。 いるのは俺と結衣だけ。 「すずのちゃん……すずのちゃん、どこ!?」 「すずの……!」 「すずのちゃん!! 出て来てよ、ねえ!!」 「どこだよ、すずの……」 「どこ行ったの? ねえ、すずのちゃん! お願い出てきて! すずのちゃん!!」 「すずのちゃぁんーーー!!!」 いつの間にか空は、夕焼けの赤から、夜の黒に変わろうとしていた。 動揺している結衣をなだめ、何とか寮まで連れ帰ってきたが、結衣はすぐに自分の部屋へと走っていった。 多分すずのを探しに行ったのだろう。 ………そして、おそらくそこにもすずのはいない。 もしいたら、今頃目を輝かせて俺の部屋に飛び込んできているはずだ。 「……すずの」 俺は一人でベッドに寝転んでいる。 さっきから考えるのは、すずのと結衣のことばかりだった。 部屋で一人で塞ぎこんでいるだろう結衣が少し心配だったが、ひとりになりたい気分なのだろう、と思った。 多分今の結衣なら、一人でいるのが嫌だったら確実に俺の部屋に来るはずだ。 だから、それがないということは……結衣は、今夜は一人でいたいんだ。 結衣は俺よりも長くすずのと一緒にいた。 一番長い間一緒にいたから、そのショックはきっと、俺よりもずっと大きいはずだ。 すずのは、どこに行ってしまったんだろう。 どうして、いなくなってしまったんだろう。 あんな風に、まるで消えたみたいに……。 「……消えたんだろう、か…」 だからあんなに哀しそうな顔をしていたのだろうか。 もしかして、屋上にいたのは、ひっそりと消えたかったからなのか? 「………っ」 一瞬、ぞっとする考えが頭をよぎった。 俺は、昨日何を考えていただろう? 自分で、何て言っていただろう? 『あ、あの、晶さん……』 『すずのと同じなのかもしれない。ただ、すずのと違って誰にでも見えるだけで、俺も幽霊なのかもしれない』 すずのと俺は同じだ。そう思えば全てのつじつまはあうんじゃないか。 ……なんて事を考えていた、はずだ。 ―――ということは、俺もいつか、今日のすずののように…。 今は天音や桜子や、みんなと話せる。触れ合える。 だけど、いつかすずののように、誰からも見ることが出来なくなって……。 結衣にも、マックスにも俺の姿が見えなくなってしまったら、俺は消えるんだろうか……。 ふっと、最初からなかった存在のように。 「……やめよう」 恐ろしい考えを振り切って、布団に入る。 マックスは今日から数日、メンテナンスで九条のラボに泊まるらしい。 こんなときに限って、話し相手がいないなんて。 考えれば考えるほど、嫌な事しか浮かばない。 明日、もう一度だけすずのを探してみよう……。 振り替え休日だから、明日は授業もない。心配せずに、思う存分すずのを探せる。 大丈夫だ。 きっと大丈夫だから……眠ってしまおう。 そう言い聞かせながら、俺は瞳を閉じた。 繚蘭祭の後片付けも終わり、振り替え休日の今日。 校舎の中は静まり返っていて、どこにも人の姿はなかった。 今日は生徒たちそれぞれが、ゆっくりと休日を過ごしているんだろう。 そんな中、俺は学校に出てきてまたすずのを探していた。 すずのは……やはり、いないのだろうか。 もう、どこにも。 結衣には、寮の自分の部屋ですずのを待っていてもらっている。 「静かだな……」 賑やかな日々が過ぎた学園は、なんだか寂しかった。 それは繚蘭祭が終わってしまったせいだけではない気がする。 いつも当たり前のようにあったものが、そこから抜け落ちているから。 すずのが、いなくなってしまったから…。 どこに行けばすずのに会えるんだろうか。 どこに行けば見つかるんだろうか。 そもそも、すずのはどうしていなくなったんだろう。 ……考え始めるとまた不安になる。 なるべく、考えないようにしようと昨日も思ったはずだ。 探す事だけに集中しなければ。 「……」 昨日、すずのがいなくなった屋上。 踊り場から扉を開けると風が吹き込む。 その風に髪と制服が揺れる。 昨日とまったく同じだった。 何も変わっていないのに……。 扉を開けて、すずのが立っている事はなかった。 保健室もlimelightも会議室も繚蘭会室も、一度でも一緒に行った事がある場所は全部探したが、どこにもすずのはいなかった。 こうなってしまうと……まるで何もかもが最初からなかった事のようだった。 俺と結衣と、マックスだけが見た幻だったとでも言うのだろうか……。 「……」 「あ、晶さん。ただいま戻りました」 「あっ、桜子……おかえり」 「はい」 ぼんやりと寮の前にたどり着くと、桜子と会った。 どうやら、検査入院が終わって病院から帰って来たみたいだ。 「検査、なんともなかったです」 「そっか、良かった。みんなも安心するよ」 「うん」 何事もないように微笑む桜子。 日常がほんの少しだけ戻ってきたような気がして、それに安心した。 「晶さん?」 「え?」 「少し顔色が悪いみたい。大丈夫?」 「あ、うん。平気……」 「繚蘭祭の後片付け、疲れちゃいましたか」 「そんな事ないよ。ああ、でもちょっと寝不足かな」 「お部屋に戻って少し眠ってみたら? ご飯の時間にはまだ早いですから」 「そうだね。そうするよ、ありがとう」 「ううん。無理はしないでね」 桜子は優しい。 何も言わないのに、自然と俺を気づかってくれる。 でも、それは俺がここに存在しているから。俺の事が見えるからだ。 もしも、俺が見えなくなってしまったら。そして消えてしまったら……。 「晶さん?」 「あ……部屋、戻るよ」 「はい」 部屋に戻り、夕食を食べてベッドに寝転ぶ。 いつも通りのことのはずなのに、まったくと言っていいほど落ち着けない。 マックスはまだ九条のところだ。 早く戻ってきてほしい。 一人でいると、どんどんと考えが加速する。 すずのは本当に消えてしまったのか。 もしかすると、すずのの記憶もいつか俺たちの中から消えてしまうんだろうか。 『難しいんです。晶さんは、私にとって他のどの人とも違う気がして』 『……すずの?』 『お父さんとかお兄さんに近い人みたいに感じる時もあるんです。でも、本当はそういう感じじゃなくて、もっと別な……』 『なんて言えばいいんだろう……とても近いけど、そうじゃなくて、たったひとりの特別な感じの……』 「すずの、あの時、何て言いたかったんだろう……」 たったひとりの、特別な……何だというんだろう。 確かに、俺とすずのはどこか似ている気はする。 誰からも見えないすずのと、どこにも痕跡のない俺……。 いつか、わかる日が来るのだろうか。 それとも何もわからないまま……俺はこのまま、すずののように消えてしまうのだろうか。 自分の手を目の前で広げて見てみる。 俺の手だ。ちゃんと、ここにある。 でもこれが、他の人間にもずっと見え続けているって、どうして断言できる? 4年前に死んだはずの親父から、入学許可証を受け取った俺が…。 ここにちゃんと存在している人間なのかなんて、断言できるはずがない……。 「………」 こんな考えはやめようって、思ったはずだ。 首を振って、気持ちを切り替える。 「はい?」 「あの、晶くん……」 「あ! ちょっと、待って」 「……」 「結衣、入って」 「うん。ありがと……」 部屋に入って、ふたりで向かい合わせで座った。 結衣は、見るからに元気がなさそうだった。 「昨日から、少しは眠ったか?」 「うん」 「……そうか、ならいいんだけど」 「……あの、ね。すずのちゃんの事なんだけど……」 「……」 「やっぱり、見つからなかったんだよね」 「ごめん」 「ううん、晶くんのせいじゃない……」 ふるふると小さく首を振る結衣。 その表情は本当に寂しそうで、見ていると胸が苦しくなる。 「わたし……引き止めたのが悪かったのかな」 「成仏しないでって。一緒にいようよって……」 「そんな事ない。すずのだって、喜んでいたじゃないか」 確かに、保健室にいたすずのに『一緒に行こう』と手を差し出したのは結衣だった。 でも、きっとすずのがいなくなった理由は、すずのにしかわからない。 「卒業するまで一緒にいようって言ったのに……それなのに、自分と晶くんとのことでいっぱいになってたのかもしれない」 「もっとすずのちゃんと話をしてあげれば良かった。もっと、ちゃんと見てあげれば良かった……だから、どこかにいなくなっちゃって……」 「すずのは、結衣のこと、好きだったよ」 「一生懸命、結衣の後ろをついていってたじゃないか。だから…一緒にいた事が悪かったなんて、思っちゃだめだよ」 「……うん…ぐす」 俺は、よくすずのにそうやっていたように、結衣の頭を撫でた。 結衣はそのまま、俺の胸の中に顔をうずめる。 「…ううぅう、うぇっ……ふうぅ…」 「………」 そうして、しばらく結衣は泣いていた。 その間、俺は黙って結衣の背中を撫でる。 すずのはいつも楽しそうだった。……最後に会ったときは哀しそうだったけど。 でも、俺たちと過ごしてきた時間が、悪かったわけじゃない。 きっとそうじゃない。 「……ぅ、ごめんね…もう、大丈夫」 「うん…」 「泣いたら、ちょっと落ち着いた、よ」 「そうか」 「うん。すずのちゃん……もし帰ってこれるんだったら、きっとまた帰ってきてくれるよ」 「そんな気がするんだ、私。だから…あまり泣いてちゃいけないね」 「うん……」 結衣は、幾分か安心したみたいだった。 結衣を撫でていると、自分の中の言い知れぬ不安も薄れていくのを感じる。 「………」 俺はそのまま、結衣のためにも自分のためにも、黙ってしばらく背中を撫で続けた。 結衣も何も言わずに、されるがままになっている。 そうやって時間を過ごしていると、いつのまにか気持ちが本当に落ち着いてくる。 結衣も同じようだった。 「晶くんはすごいね……わたし、けっこう本気で泣くと長いんだよ」 「そうだったの?」 「うん…でも、晶くんが撫でてくれると、涙がとまっちゃう」 「そっか」 「きもちいい」 「うん…」 結衣は、まるでお礼だと言うように、俺にぎゅっと抱きついた。 左手が俺の背中に、右手が腰に回る。 「あれ…?」 何故か、結衣はそのまま右手をごそごそと動かし、腰と尻のあたりを触っている。 「な、なにしてんの?」 「あのね、これ……なに?」 すると、結衣は俺のズボンの後ろのポケットから、何かを取り出した。 そんな所に何か入れた覚えはない。 一旦体を離すと、結衣は俺に抜き出したものを差し出した。 見たことのある折り曲げられた白い紙だ。 「あれ、これいつもマックスが置き手紙に使ってるやつだ」 「あいつ、伝言でもあったのかな…?」 「マックスくん、今日はいないの?」 「ああ、九条のとこに行ってる」 紙を広げて、すぐに違和感に気付いた。 ――いつもとは字が違う。 そして、右下には『すずの』という控えめな文字。 「……っ!!」 俺は凍りついた。 思わず、手紙が手からこぼれおちる。 白い紙はぱさっと音をたてて、床に落ちた。 「晶くん……?」 「あ……」 結衣が拾おうとしたので、慌てて取り上げる。 「どうしたの、顔が真っ青だよ!」 「何が書いてあったの? ねえ……」 「………」 どう、答えていいのかわからない。 すずのがいなくなった時のことが、こびりついて離れず頭をぐるぐる回っている。 すずのは消えた。 俺と結衣と、手を繋いだまま。 振りほどく事も、払いのける事もせず、ただ消えた。 俺も、すずのと同じで……。 残された時間、と書いてあるということは…俺も消えるのか……? 今までずっと、ただの恐ろしい思い込みだって思っていたけど。 すずのは、この手紙ではっきりと俺を同じ存在だと告げている。 信じたくない。 でも、きっとすずのは嘘なんかつかない……。 「…くん、晶くん!」 「あ……あ、あぁ……結衣…」 「わたしは、見ちゃいけないの?」 「……これ…?」 手の中の紙切れを見せると、結衣は頷いた。 「………」 見せるべきか、見せないべきか…。 少しだけ迷う。 繚蘭祭の前―――。 双子かもしれないと一人で悩んでいた結衣を見たとき、俺はどんなことでも話してほしいと思った。 それなら……俺も隠すべきじゃない。 無言で紙を差し出した。 「ありがとう」 受け取って、手紙を読みはじめる結衣。 すぐに顔色が変わった。 「す、すずのちゃん……これ…」 「どういう事、なの?」 結衣の手が、俺の手を強く握りしめた。 俺を見る結衣の瞳は、ゆらゆらと揺れていた。 端にはさっきの涙のあとが残っている。 「…………」 「晶くん……?」 「俺……前に…すずのに言われた事があるんだ」 「すずのちゃんに? なんて?」 「あなたは他の誰とも違う、たったひとりの特別な人だって……」 「…特別な…」 「多分、恋愛的な意味で言ったんじゃないんだよ、それって……」 「それって、俺と…すずのが同じだから、そう言ったんだって……思うんだ……その手紙を見たら…」 「………」 「結衣……俺も、消えるのかな」 「すずのみたいに、俺も結衣の目の前からいつか消えてしまうのかな」 「ど、どうしてそんな」 「今はみんな、俺が見えているし話も出来る。でも、俺が生まれてきて、本当にちゃんと生きていたって証拠はどこにもないんだ。俺が誰だか、誰も知らない」 「だから、いつか俺も、自分が誰だかわからなくなって、みんなからもだんだんと見えなくなって……消えるのかな……」 「残された時間、これからどうしたいのか考えろって事は……」 「俺にはもう、あまり時間が残されてないって事じゃないかな……」 「………っ…」 俺の手を握る、結衣の手が震えた。みるみるうちにまた、瞳に涙がたまってくる。 涙をふいてあげたい。 そう思うのに、何もしてあげられない。 「そんなことない、だって晶くんはここにいるもの……」 「ちゃんと見えてるもん、触ったりもできるもん」 「だから、消えたりなんかしない。晶くんは消えたりなんかしない……!」 怖かった。 怖くて、すぐに体が震えそうになる。 本当に消えてしまうのなら、俺はもう結衣に何もしてあげられない。 「わからない……」 「晶くん」 「どうすればいいのか、俺にもわからないよ」 「……晶くん…」 すずのは残りの時間をどうしたいのか考えて、と書き残しているけど……。 そんな事を突然考えるなんて、出来るわけがない。 結衣を残して、どうしたいかなんて。 「わたし……すずのちゃんが消えて……晶くんも消えちゃったら……」 「わたしだってわからない、どうしていいのか…!」 「結衣」 「怖い、怖いの、わたし…」 「晶くんが……ずっとそばにいてくれないと、やだよ! 消えたりなんかしないって、言って……」 「……俺だって、怖い…」 「怖いよ、結衣と離れたくない!」 叫んだ勢いのまま、俺は結衣の手を強く握り返した。 結衣の細くて柔らかい手は、たしかに俺の手の中にある。 こんな感触まで、何も感じられなくなるって言うんだろうか。 「……うううっ、うわああぁぁぁん…」 「やだ……晶くんは、消えちゃいやだ……」 「結衣…!」 「結衣、泣かないで……泣かないで…っ」 「…ううっ、ひっく、うううぅっぅう……」 「ごめん……ごめん…結衣」 「……あ、謝らないで……よぉ…ふぇ」 「……っく」 泣き続ける結衣に引っ張られるように、俺の瞳からも涙が出てくる。 哀しくて、せつなくて、不安でいっぱいだ。 まるで連鎖しあうように、結衣の感情が流れ込んでくる。 やっぱり、結衣と俺とはとてもよく似ている。 「うく……うううっやだよ、やだよ晶くん……」 結衣の感情がどんなものかはよくわかるのに、俺には抱きしめることもできない。 そうすることが余計に結衣を悲しませる結果になるかもしれないと思うと、俺には何も出来なかった。 ただ、もたれあうように体を傾けるので精一杯だった。 「ん……うう、晶く……ん」 「晶くんも……な、泣いてる……」 「……」 俺は結衣の額に自分の額を近づけ、こつん、とくっつけた。 今は、これ以上は近くにはいけない。 結衣はそのまま、泣きじゃくりながら話を続ける。 「うくっ……怖いよ……消えるの……晶くんがいなくなっちゃうの……」 「だって、遠くに行くなら……でもどこかにいるならわたし……わたし」 「頑張って会いに行くよ、絶対に……でも、どこにもいなく……なる」 「晶くんが……どこにも、いないなんて……どうしたらいいの」 「もう思い出せないもん……」 「晶くんと出会う前のこと。ほんの少し前のことなのに……ね」 「こころのなかが、晶くんでいっぱいすぎて……大事なこと、なにも思い出せない」 「どうすれば、いいんだろう」 「俺も同じだよ、結衣」 「結衣のことしか、頭のなかになくて――自分が消えることよりも、そのせいで、俺が消えてしまうせいで」 「結衣が悲しくて、壊れてしまわないかって……それが怖い」 「う、ううっ……ひく、晶く…ん、晶くん……」 「結衣」 「俺、結衣のことぎゅってしていいのかな」 「うくっ……ううう、晶……くん?」 「俺が、結衣を好きなことが、結衣を苦しめてないかな」 「晶く……ん、晶くんっ……ん、んん」 「消えてしまうかもしれないのに、俺…結衣のこと抱きしめていいのかな」 「……ん、うん……ぎゅってして……してほしいよ」 「……結衣」 結衣の言葉をもらって、ようやく俺は結衣を抱きしめた。 ―――あたたかい。 こんなに心が揺れていて、涙もこぼれていても、人の体はあたたかい。 「わたしが晶くんのこと……ほんとに好きなのも…いけない?」 「どこかへ行かなくちゃいけない……晶くんを、苦しめてる……?」 違うよ、と言いたくて俺は首をふる。 こんなにお互い、抱きしめあいたくて抱きしめてるのに、どうして。 どうしてそのあたたかさを、いけないことのように感じてしまうんだ。 もうすぐ無くなってしまうかもしれない、このあたたかさ。 お互いに、この感触を覚えていると、余計に辛くなってしまう気がしてならない。 「晶くん……晶、くん。わたし、わからないよ」 「……うん」 「好きなのに。好きなのに。どうしたらいいのかな……」 「運命とか、そういうの…そういうの」 「そういうものの前じゃ、好きになっちゃいけないのかな……」 「……結衣」 どう答えていいのかわからず、俺はただ結衣を抱きしめた。 それ以上何か言葉を出したら俺まで嗚咽を漏らしてしまいそうだった。 「ひく……うっ、晶くん」 そのまま、結衣は泣きじゃくる。 その間、俺も涙をいくら止めようとしても、止める事が出来なかった。 どこかへ消えてしまうという運命の前じゃ、好きになるのはいけないことだろうか。 結衣の質問の答えをずっと探しながらも、俺は答えられない。 答えが見つからないまま、俺たちはいつの間にか泣き疲れて眠っていた。 ――え? ――誰だろう、よく見えない…。 ――なに? 聞こえないよ、何を話そうとしてる? 『そうだなあ。その答えはきっと、誰にも正解が出せないものだろうな』 ――答え?  ――答えを探してるのかな。 『運命か。そうだなあ。もしも運命ってものが本当にあったとしてね』 ――運命。そうだ。運命ってやっぱりあるんだ。 ――それのせいで、失うんだ。 『その先にあるものが、どんな結果であろうともね』 ――今まで生きてて、一番大切だって思ってたものを、失うんだ。 『大切だって思うものがあるんだね』 ――そう、その人のことがすごく好きなんだ。 ――ずっとずっと一緒にいたいんだ。でも。 『それなら、僕にも伝えられることがひとつだけあるな』 『両手に抱えられるものって、案外少ないんだよ。だから……』 『大事な人の全部を、ぎゅっと抱きしめてあげなさい』 ――でも、それが許されないことだったら? 『誰かに許されたい?』 ――……。 『違うんだよ。自分を許してあげるんだよ』 『精一杯、大事な人から離れないように。ぎゅっとしてあげられるように』 懐かしい声を聞いて、俺は飛び起きた。 夢から突然覚めたように、頭はくらくらとしている。 ……いや、実際に夢から覚めたのか。 そうだ、親父はもう……。 「……」 ふと気付くと、はっとするほど穏やかな表情の結衣がそばにいて、俺の顔をじっと見つめていた。 「おはよう」 「あ、お…おはよう」 「結衣、もしかしてずっと眠れなかったのか?」 「ううん、ちゃんと眠れたよ。ずっと晶くんの隣で眠ってた。起きたのは、ほんのちょっと前だよ」 「そっか……眠れたんならいいよ」 なんだか、少しだけ昨日泣いていたときより雰囲気が変わったような気がする。 結衣はそのまま、微笑んで俺の胸元にふれた。 「わたしは大丈夫だよ。晶くんは? なんだか心臓がどきどきしてるよ」 「……」 結衣の指先には、きっと俺の心臓の鼓動が伝わっているんだろう。 ふと、夢の中で親父に言われた言葉を思い出す。 『その先にあるものが、どんな結果であろうともね』 『大事な人の全部を、ぎゅっと抱きしめてあげなさい』 俺は結衣のそばにずっといたいし、ずっと抱きしめていたい。 だけど俺はもうすぐ消えるかもしれない。 抑えきれない恐怖心が、じわじわと心を焼いていく。 本当にどんな結果でも、結衣を抱きしめていいんだろうか? ――本当に? 俺の勝手な思い込みじゃなくて? 結衣も、そう思ってくれているんだろうか? 「晶くん」 「俺……消えるんだろうか」 「……」 「消えるって、何もかも? 結衣のことや、結衣が好きだって気持ちも?」 「消えるって――なんなんだろ、俺、そばにいたいのに」 「……結衣をずっと抱きしめたいのに」 「――晶くんっ」 結衣は一瞬かなしそうな顔をしたけれど、ためらいもなく俺をぎゅっと抱きしめた。 「大丈夫、だなんて言えないよ…だって同じだもん」 「わたしの心も、すごく、すごくすごくキュウってなってる」 「きっと晶くんと同じくらい……痛いの」 「……結衣」 結衣の顔が見えるように、俺は少しだけ体を離す。 そして、また昨日と同じように、額をくっつけあった。 「心のなか、痛いんだ」 「うん……だって消えちゃうのやだもん。怖いし、悲しいし、ヒリヒリして痛い感じ」 「……同じだな」 結衣の大きな瞳のはしに、すこしだけ涙がたまっている。 ぬぐってあげようとして手をのばすと、結衣はそれを自分でぐいっと拭いてみせた。 それから、結衣は顔をあげてまっすぐ俺を見つめる。 なんだろう、やっぱり、結衣は昨日からどこか変わった気がする。 「でも、ねえ。聞いてほしいんだ」 「ねえ、もしも」 「もしも晶くんの正体が、幽霊や、もしかしたら他の何かだったとしても」 「わたしの一番大事なひとに変わりはないの」 「その気持ちは、なんにも変わらない」 「……結衣」 「もしも晶くんがね、どこかへ行ってしまうひとだとして」 「わたしのことを全部忘れてしまったとしても……好きでいるよ」 「わたしが想ってる。だから、晶くんはどこへ行ったとしても」 「ここにいるの」 大きく手を広げ、結衣は俺を包み込むように抱きしめた。 ふわりと、柔らかな女の子の感触が体中に伝わる。 「……両手に抱えられるものは……少ない」 夢の中で、親父に言われた言葉を小さく呟く。 俺は、結衣の背中に手をまわしてぎゅっと抱き寄せた。 「結衣のそばにいたいな」 「友達とか、大事な人とか、家族とか、何気ないなんでもないものみたいにそばにあるのに」 「特別なものなんだって、気づいた」 「うん」 「全部、すごくすごく大事だけど……結衣のそばにいて、結衣とこうしていたい」 「……嬉しい」 「ありがとう、好きって言ってくれて」 「どうして?」 「どんなことがあっても好きって言ってくれて」 「……好きだよ」 「わたし、晶くんを困らせてなんかない?」 「ないよ、全然」 「よかった」 俺は結衣を好きなだけ抱きしめていいし、結衣も俺を抱きしめていいんだ。 そうだ、離れない。 たとえ消えてなくなってしまうとしても、この気持ちだけは結衣から離れない。 腕の中の結衣を、もっと強く、強く抱きしめる。 すると、結衣が俺の胸元にほお擦りしながら、言った。 「わたしね、不思議な夢を見たんだ」 夢って、どんなだろう。 俺が見ていたような、懐かしくてあたたかい夢なのかな。 ――きっと、そうだ。 なんとなくそう思った。 だって、目を覚ました途端に結衣は、ちょっと変わって見えたから。 「そして、思い出したんだ。いろいろ考えちゃって、悩んじゃって、最初にあった気持ちのこと」 「簡単なことだったんだよ、わたしは晶くんが好き」 「それが晶くんにちゃんと伝わっていれば、今は何も怖がることなんてない……そう思うの」 「俺も……結衣が、好きだ…」 「なんか、すごく……安心する。こうしてると…」 伝わってくる結衣のぬくもりを、体全部で受け止める。 こうやっているだけで、大きな安堵感に包まれていくのを感じた。 「うん。わたしも」 「怖くないよ、何も」 「うん……」 うなずくと結衣が目を閉じた。 そっと顔を近付けて、唇を重ねる。 触れ合うだけのキスを、数回ふたりでくり返した。 「……ん」 「……結衣」 唇を離して、また強く抱きしめる。 もっともっと抱きしめていたい。 もっと強く、結衣を感じたい。 ……ひとつになりたい。 結衣と、ひとつになりたい。 こんな時に、こんな風に思ってしまうのは、俺が男だからだろうか。 「…結衣、俺…」 「うん、わかった……」 「え?」 「わたしも」 「結衣…」 「わたしも、晶くんと同じ気持ち」 ほんのりと頬を赤く染めて、結衣がうなずいてくれた。 まだ何も言っていない。 だけど、確かに俺の気持ちは結衣に伝わっている。 結衣の表情を見ていると、そんな気がした。 俺たちはしっかりと結ばれているんだ。 どんな事が、あったって離れない。 それが確かめられたのなら、もう何も怖くなんてない。 ぼんやりとそんな風に考えて、そっと手のひらを動かしてみる。 ゆるりと、結衣の体を触ると、結衣は少しだけ体を離そうとした。 「え、何…?」 「晶くん、あのね…わたし」 「……え」 なんとなく、結衣が照れている。 うっすら赤くなっている頬が、かわいいなって思った。 「…いいよ、結衣の好きにして」 「あ……うん…」 結衣はうなずくと、ゆっくりと俺の下半身に手をのばして来た。 ズボンの上から、優しくて、あたたかい感触が伝わった。 思わず、前のめりになりそうになる。 「……う」 ぞくぞくと背中が震えた。 撫でられる感触に息が漏れる。 その漏れる息に合わせるように、結衣はゆっくりと優しく手のひらを動かし続けていた。 いいのかな。 結衣に、こんな事をさせて……俺。 「いいの」 「結衣」 「してあげたい、から。わたし……そう思ったから」 「…うん」 ゆっくりと手のひらを動かしながら、結衣がじっと俺を見つめていた。 その目は、もっとしたい事があると告げている気がした。 その、もっとしたい事がどんな事か……。 考えるつもりはなかったのに、自然に頭に浮かんでしまった。 結衣もそう思っているのかな。 そんな風にぐるぐる考えていると、ゆっくりと結衣の手のひらがまた動く。 撫でながらじっと見ていたかと思うと、その手のひらの動きが止まった。 「……結衣…?」 どうしたんだろうと思っていると、結衣は恥ずかしそうにズボンのベルトとボタンをはずし始めた。 驚いている間に、結衣はベルトとボタンを外し終え、ジッパーをおろしていた。 俺は声も出せず、ただ結衣がしてくれている事を見つめるしかできなかった。 そのまま、結衣は下着の奥から肉棒を取り出した。 取り出された瞬間、自由になったそこは結衣を威嚇するように脈打った。 それなのに、結衣はそれを見て頬を染めるだけだった。 そして、そっと体を横にすると、脈打ちながら威嚇する俺の肉棒に舌をはわせ始めた。 「あ、ふ……ん、んんぅ」 「ん!」 そっと、結衣の舌が動き出す。 触れるだけの感触。 それなのに、背中が大きく震えた。 「は、ふ……あ、あぁ、んぅ、んむ……」 おずおずと、少し怖そうに、けれど愛しそうに舌先を動かしてくれる結衣。 「ん、んぅ、んぅ……もっと? 違うかなあ、あ、んぅ、ふ、あ、はぁ、は……ふぁ……」 根元からゆっくりと、先端へと上がって行く舌先。 ねっとりとした感触に、何度も背中が震えた。 「ん、ちゅぅ……ふ……は、あ、んぅ」 ちらりと俺を見つめ、結衣が舌を動かす。 感触だけじゃなくて、その視線にも背中が震える。 そんな俺に気付いたのか、結衣は舌を動かしながら、俺がよくなる部分を探し始めた。 「……んう? こっち、かな……あ、んんぅ、ん、ちゅ、ふ……」 「は、あ……!」 「ん、んぅ、んく、ちゅぅ、ふ、あああ、んんぅ」 まるでして欲しい事がわかるみたいに、結衣は舌を更に動かして、今度は先端から根元へと舐めていく。 ねっとりと動く舌に合わせて息が漏れる。 その漏れる息に合わせるように、結衣はまた何度も肉棒に舌を這わせた。 「晶くん……ん、ふ、んんぅ、はぁ、は……あ、んぅ、ちゅ」 名前を呼ばれる。 結衣が俺を見つめる。 舌先が動く。 そのどれもが俺の体を震わせる。 もっともっと、結衣にこうして欲しいと思わせる。 「はぁ、はぁあ、ああ、いっぱい、もっと、するから……ね。あぁ、んんぅ……ん、ふぅ…」 どうすれば伝えられるだろう。 口に出すのは恥ずかしい。 それなのに、気持ちだけがどんどん大きくなる気がした。 「はぁ、は、あ、んぅぅ。んむ、ちゅ、ちゅ、んんっ」 「ん、んっ!」 「晶く……ん、んんぅ、ちゅぅ、ちゅ、く、ふ、ああ……」 何も言わない。 それなのに、結衣は根元からゆっくり舐め上げてから、先端をその小さな口でそっと咥えた。 咥えられた瞬間、小さく体が震えて息が漏れた。 「は、ふ……ふ、ふ、あ、んんぅ」 「はあ……結衣……!」 「ん、んんぅ、ふ……は、ん、ん、ちゅ、ふ……!」 先端をそっと咥えながら、少しずつ結衣が吸い上げて行く。 指先は優しく根元を支えながら動かし、口と指先での刺激が俺を包み込んで行く。 唇の端からあふれる唾液の感触。 指先で触れられる緩やかな感触。 どちらも俺の体を震わせて、何度も息を漏れさせる。 「は、ふ……は、あ、はぁ、ああ……」 何度も何度も、結衣の口内で刺激を与えられる。 その刺激が嬉しい。 けれど、心配にもなる。 結衣は無理をしていないだろうかと。 もっとして欲しいと思う自分と、無理をしないで欲しいという自分がいる。 矛盾している。 けれど、どちらも本当の気持ちだった。 「あ、ふ……晶くん……」 「結衣?」 しばらく、先端を咥えていた結衣が口の中からそれを離して俺を見上げる。 その頬は赤く、瞳は潤んでいた。 やっぱり、無理をしていたんだろうか……。 「わたし、晶くんにしてあげたいの……だから……」 「結衣……」 「だから、やらせて」 「うん」 「は、あふ、んんぅ、んぅ、ちゅ、ちゅ……ちゅぅ、んぅ、んふ……」 無理をして欲しくないと思っていたのがわかったんだろうか。 そうでなければ、こんな言葉は結衣から出ない気がする。 どうして、結衣には俺の考えている事がわかるんだろう。 それが嬉しい。 「はあ、ん……じゃあ、もっと……」 「うん。晶くんにしてあげたいから……あ、んんぅ……」 「……!」 こくんと小さくうなずいた結衣がまた先端を咥えた。 小さく吸い上げられる感触がまた伝わる。 伝わると同時にまた背中が震えた。 指先がまたやんわりと動き出す。 根元から先端へとゆっくりと動き出し、動き出す細かい動きにまた新しい刺激が与えられているようだった。 「あ、ふ、ふぁあ、あん、ん、ちゅ、ちゅぅ……ふ、んっ」 吸い上げ、舐められる感触が続く。 結衣の口内でそれが行われているのかと思うと、その感触以上によさが伝わるような気がした。 「はぁ、ちゅぅ、は、あ……あ、んぅ、んむ、ふっ!」 音を立て、唾液を絡みつかせながら結衣が肉棒を咥え続けていた。 そんな姿が愛しくて、思わずその髪を撫でた。 「ふ、ああっ……あ、はぁ、ぁあん、ん、く」 撫でられたのが嬉しかったのか、結衣はまた少しだけ視線をこちらに向けて、激しく肉棒を吸い上げる。 「んぅ、ふ、うぁあ、あんぅ……ちゅ、んぅ…!」 嬉しそうな結衣の髪を何度も撫でる。 さらさらと柔らかな髪を、指先ですくい、何度も撫でる。 なんだか、とてもきれいな物に触れているような気がした。 「結衣の髪、きれいだな」 「え、ふ? あ、ふ……」 「今、すごくそう思った」 「なんか、嬉しいな」 「そう?」 「うん……んぅ、ん、ふ、ちゅぅ、んく、んあ!」 「……あ!」 嬉しそうに微笑んでから、結衣がまた肉棒を咥えて吸い上げた。 一旦止まってから、またやって来る激しい刺激。 「は、あふ、んぅ、んぅ」 これ以上されてしまうと、どうにかなるような気がした。 それに、もっともっと結衣の事を感じたい。 これだけじゃなくて、もっと、深い場所で……。 「結衣……」 「……んぅ?」 また、口からそっと肉棒を離した結衣が俺を見つめた。 唇が唾液でつやつや光り、それだけでもドキっとする。 「俺、もっと結衣を感じたい」 「あ……」 「もっと、もっと……」 「わ、わたしも…晶くんにして欲しい」 「うん」 「抱っこして欲しいの……いい?」 「うん、いいよ。おいで」 「うん!」 もっとお互いを素肌で感じたくて、俺たちはどちらからともなく服を脱いだ。 膝の上に結衣がまたがる。 その体をそっと包み込もうとする前に、結衣がしっかりと俺を抱きしめるようにしてくれた。 「結衣……?」 「嬉しいの」 「どうして?」 「わたし晶くんが好きで、こうしてぎゅって抱きしめられて、それだけで嬉しいって思ってるの」 「そんなの、俺だって……」 「一緒」 「うん、一緒」 俺を抱きしめてくれる結衣の体に腕を回し、ぎゅっと強く抱きしめる。 腕いっぱいに、いや体全体で感じる結衣の感触。 離したくない。 もっとたくさん感じたい。 そう思えば思うほど、愛しさが増す気がする。 「晶くん……」 「結衣」 抱き合って、名前を呼ぶだけ。 それだけ。 それなのに、また、どんどんと気持ちが深くなっていく。 結衣への愛しさが増せば増すほど、もっと結衣を感じたくなる。 これは、欲張りなんだろうか。 でもきっと、結衣も同じように思ってくれているはずだ。 「結衣、もっと……」 「晶くん、わたしも」 「うん」 俺が頷くと結衣が抱きしめてくれる体を軽く離した。 互いの体の隙間に手のひらを差し入れる。 「あ、あ……あ……」 すらりとした足を撫で、そのまま付け根の中央へとゆっくり移動させて行く。 「あ、んぅ!」 触れるだけでぴくりと震えた体。 震えた体に応えるように、指先をそこで何度も動かす。 割れ目に沿うように、柔らかな膨らみを撫で、硬くなっている部分を撫でて、また下へとおりていく。 「ふぁ、あっ! あ、あぁっ」 「……ん」 どこをどうすれば、結衣が声を出すのかわかるような気がした。 だから何かを考えなくても指先が動き出す。 「あ、ふ、ああ、あっ、あんぅ」 指が動くと結衣が甘い声を出す。 浅い部分で軽く、時々深い場所まで辿り着かせて、ゆっくりと。 深い場所で動かしていた指先を何度も動かす。 その奥へ進みすぎないように気をつけて、でも、結衣に感じて欲しいと思いながら。 「晶くんぅ……あ、んぅ、んんっ、そこ、そんなに、されたらぁ、ああっ」 指先が動き続けると、結衣の奥からとろりとあふれる感触。 甘く漏れる声と息、そしてあふれ出す感触。 結衣が指先の動きに感じてくれているのだとわかる。 それがわかると嬉しくなる。 もっとしてあげたくなる。 「は、はぁ、はぁ、あっ……」 「……結衣」 「晶くん」 「うん」 「あ、ああっ!!」 何を望んでいるのかがわかる気がした。 だから、ゆっくりと結衣の中に指を埋めた。 「あ、ふぁああ、ああ、あぁ……! や、ああっ! 中、あっ」 埋めた指がねっとりと絡みつかれる。 そこで軽く指を交差させるように動かすと、奥から更にどろどろとあふれ出した。 くちゅくちゅと音をさせながら指を動かす。 結衣の奥まで俺を受け入れてくれている。 そんな気がしてならない。 そして俺も、もっと奥まで結衣を感じたい。 「はぁ、は、あ、ああぁ……晶くん、んぅ……」 「結衣、いい?」 「んぅ、いい。いいよ……」 ぎゅっと強く、結衣の腕が俺を抱きしめた。 その腕の強さに応えるように、俺ももう一度強く抱きしめる。 お互いの感触を確かめ、結衣の頬に口付ける。 すると結衣も、俺の頬に口付けてくれた。 「ふふ……」 「うん」 じっと見つめ合うと、自然と微笑みが零れた。 そんな結衣をじっと見つめたまま、そっとその体を持ち上げる。 それだけで、結衣は理解してくれた。 自分でも軽く腰をあげる。 「大丈夫だから」 「うん」 「晶くん、来てください……」 「わかった」 「……は、あっ!」 結衣の秘部にそっと先端を近づける。 ふっと、その場所で濡れた感触があった。 そこで軽く肉棒を揺らすと、くちゅくちゅと音が鳴る。 「はぁ、はぁ、あ、ああぁ……」 ゆっくりと軽く肉棒を動かしてから、その奥へとゆっくり進ませて行く。 「ふ……! ん、あぁっ!」 「んんっ……」 奥へと進んでいく肉棒。 結衣の中でねっとりと絡みつくようにしっかりと締め付けらる。 「はあ、は、ああ……」 「ん、んぅ……」 ゆっくりゆっくりと、結衣の中に肉棒が埋まって行く。 一番深い場所まで辿り着いた瞬間、動きが止まる。 そして、結衣はまた、しっかりと俺を抱きしめてくれた。 「晶くん……」 「結衣」 「一緒だね。わたしたち、一緒だよね」 「うん。今、一緒だよ」 「うん……」 見つめる結衣の瞳が潤んでいる気がした。 どうして、こんな表情をしているんだろう。 本当は考えなくてもわかってる。 考えずに、わからないふりをしているだけ。 でも、今だけはそうさせて欲しい。 「もっと、晶くん……感じさせて」 「うん」 「あ、あっ、ああっ!」 しっかりと結衣を抱きしめて腰を突き上げる。 浮き上がった体が落ちて来るたび、奥へ奥へと招かれて行くような気がする。 もっと奥へと、そう考えながら何度も腰を突き上げる。 「ふぁあ、あっ! あ、はぁ、はぁ、あっ! いっぱい、来るよぉ、晶くんがぁ、ああっ」 結衣も俺の動きに合わせるように何度も腰を動かす。 まるで、次に相手がどう動くのかがわかるように、俺も結衣も同じように動き続けていた。 どうすれば結衣が喜ぶのか、どうすれば俺が喜ぶのか、なんだか全てわかるような不思議な気持ちだ。 「晶くん! ん、んぅ!」 「結衣! はぁ、は……あっ!」 抱きしめる腕に力が入る。 それは俺だけじゃなくて、結衣も一緒だった。 何もかも同じ気がした。 感じる場所がわかる事も、抱きしめる腕の力が強くなる事も。 嬉しい。 けれど、時々胸が苦しい。 「は、はぁ、あ、あぁ、んぅ……ん、ふぁ、あっ!」 けれど、胸が痛んだ俺の気持ちに結衣が気付いてくれた。 ぎゅっと強く抱きしめる腕の力が緩み、そっと小さな手のひらで体を撫でてくれる。 ああ、どこまでも同じなんだ。 だからこうして、ひとつになっていられるんだ。 「結衣……結衣……!」 愛しい気持ちが大きくなる。 もっと深くまで結衣を知りたい。 「晶くんぅ……ん、ふ……」 「こうしてる。ずっとこうしてるから」 「あ、んぅ! ん、んぅ! ずっとぉ、ずっとこうして……あ、はぁっ」 こくこくとうなずいた結衣をベッドの上に押し倒し、その上に覆い被さる。 さっきよりも近くで結衣の表情が見つめられる。 それがすごく嬉しかった。 「晶くん……」 「顔、すごく見たかった」 「わたしも」 「うん」 うなずいて、じっと結衣を見つめる。 少し恥ずかしそうな表情。 でも、目をそらさない。 お互いの視線が重なり続ける。 ずっとずっと、こうしていたい。 でも、それだけじゃ我慢できない事もお互いに知ってる。 「結衣」 「うん」 互いにうなずきあい、動き始める。 ぐちゅぐちゅと卑猥な音を響かせながら、肉棒が結衣の中で動き出す。 そして結衣も、腰を動かして俺に合わせる。 「あ、はぁ、は、ああ、あっ! あ、んぅ!」 あふれる音、漏れる甘い声、触れる体温、目の前の表情。 その全てが愛しくて、動きが激しくなる。 それは結衣も同じだった。 俺たちは互いを感じるたびに動きが激しくなっていた。 「あああ、あっ! ふぁ、あぁ、ぁあ!」 「は、あ……」 抱き合っている時とはまた違う感触。 もっと奥へと進みやすく、そして貫くように動かす腰の角度も変えやすい。 「あ、んぅ! そ、そっち、あああ! 来る、またぁ、ああっ奥までぇ」 角度を変えて腰を突き上げると、中でぶつかった衝撃で結衣が大きく声をあげた。 あげられた声に応えるため、また角度を変えて今度は反対側へと突き上げる。 するとまた、結衣の体が震えて大きな声が出る。 「ふ、ああっ! あ、あっん、んぁあ!」 大きく腰を引く、また大きく元に戻す。 たったそれだけのくり返し。 それなのに、嫌というほど結衣を感じられていた。 「晶く……あ、ああっ! 晶くん!!」 「うん。結衣、うん!」 「すごい、わかるの! 晶くんが来てるの、わかるの!」 「俺も……わかる!」 嬉しそうに俺を見つめて結衣が声を出す。 俺を感じてくれているのが嬉しい。 自分の体内に俺がいるのがわかってくれている。 それがたまらなく嬉しい。 どうして、こうしてひとつになっているだけで、こんなにも満たされるんだろう。 「晶くん! 晶くん……!」 これはきっと、結衣だからこうなんだ。 結衣とこうしているから、こんな風に感じているんだ。 そんな気がしてならない。 「結衣……」 「もっと……来て、晶く……あ、ふぁっ!」 「わかってる。全部、わかるから……」 「うん!」 結衣の奥深くにまた肉棒を突き入れる。 強くねっとりと締め付けられ、その感触を存分に受け止めたくて、その動きを止めた。 「……」 「晶くん」 「なんか、ちょっとこうしてたい」 「うん」 「こうしてると、結衣の事もっと感じられる気がする」 「わたしも、そんな気がする……」 「結衣……」 「あ、んぅ!」 少しだけ体を動かす。 すると、結衣が小さく声を出した。 ほんの少しだけ驚いたような表情。 それがたまらなくかわいかった。 「や、ああ……」 「かわいい」 「恥ずかしいよ」 「でも、こうしてずっと結衣を見てたい」 「わたしも、晶くんに見られたい……」 「じゃあ、ずっと見てる……」 「あ、あああっ! い、いいよ、晶くんっ!」 少しだけだった動きを大きく激しくし、もう一度結衣の中から大きく出入りする。 「は、ああっ! あ、ふぁっ!!!」 動くたびに締め付けられる。 結衣が俺を受け入れてくれているのだと感じられる。 俺が結衣の中にいるのだと感じられる。 もっともっと奥まで。 ひとつになれるように深い場所まで届くようにと、大きく腰を突き上げる。 「あ、あああっ! 晶くぅ……んん、ん、あああっ!」 「は、ああ……」 深い深い場所へと辿り着く。 絡みつかれて、締め付けられる強い感触。 「……んっ!」 そのもっと奥へ行こうと、更に突き上げる。 ビクンと大きく、俺と結衣の体が震えた。 驚くほどに同じタイミング、同じ瞬間。 俺たちは同時に体を震わせ、互いを見つめた。 「晶くん!! あああぁぁ、あぁっ!!!」 「……結衣っ!」 体が震え、結衣の奥深くまで辿り着いていた肉棒も震えた。 びくびくと脈打つ感触。 そしてそのまま、結衣の中いっぱいにあふれる。 「あ、あぁああ、あっ!!」 「は、あ……はぁ、はぁ……」 中いっぱいにあふれた感触に結衣が震えた。 小さく震える体。 その震えにすら反応して、背中がまた震える。 「結衣……」 「晶くん……」 「うん。どうしたの?」 「わたし……晶くんがわたしのこと好きでいてくれるって、わかる…」 「俺も、結衣が俺のこと好きなの、わかる」 「うん」 嬉しそうに微笑んでくれた結衣。 その結衣の頬をそっと撫で、俺も微笑んだ。 あの後、しばらくふたりでぼんやりした。 当然の事ながら、ぼんやりしているとお腹が減ってくる。 ふたり同時にお腹がなって、さすがに声を出してふたりで笑ってしまった。 その後、ふたりで一緒にご飯を食べた。 一緒に食べるご飯はやっぱり、どんなものでも美味しかった。 「はふー。おなかいっぱいになりました♪」 「うん、美味しかった」 「おいしいものを食べてると幸せだね」 「うんうん」 「晶くんと一緒に食べると、もっと幸せ」 「…うん」 ふふっと声を出して笑いあって、近くにあった結衣の手をぎゅっと握る。 同じタイミングで手を握って、指先を絡めあう。 こうしてふたりでいると、何もかもが満たされる。 ずっとずっと感じていた不安な気持ち。 それはいつの間にかどこか遠くに行ってしまっていた。 それはもちろん、完全に消えたわけじゃない。 でも、結衣とこうしていると、不安な気持ちはどこかに行ってしまう。 結衣がいてくれたら、大丈夫だって気持ちになれる。 「…ふぁ」 「眠い?」 「うん、なんか、ほっこりしちゃった」 「ちょっと寝ようか」 「うん〜」 二人して手を繋いで、ベッドにぱったりと倒れ込んだ。 繋いだ手は離さない。 「………ん…すぅ…」 しばらくすると、結衣から寝息が聞こえる。 なんだか、すぐに寝ちゃったな。 疲れてたのかな……。 寝顔、かわいいな。 まだこうして一緒に寝られる事が嬉しい。 結衣を見ていたら、なんだかすぐに眠れそうな気がする……。 眠いな……俺も、寝よう。 「……ん…?」 メールの着信音で目が覚めた。 薄っすらと目を開けると、部屋の中は薄暗い。 結衣は、隣でまだ眠っていた。 起こさないように注意しながら、端末を手に取った。 メール、誰からだろう。 「なんだ…あれ?」 端末を操作して、メールを確認した。 差出人を確認した途端、頭の中が一気にはっきりした。 差出人は―――稲羽結衣。 「何だ? 届くのが遅れたのか…?」 わけがわからず、メールを開いて中身を確認する。 そこには、短い文章だけが綴られていた。 けれど、その内容は差出人が結衣だという事以上に驚くものだった。 何故なら… 『屋上にひとりで来てください すずの』 と、たったそれだけが書かれていたから。 「す、すずの?!」 すずの……。 俺たちの前から、まるで最初からいなかったように消えてしまったすずの。 今まで、どこに行っていたんだ? 何をしていたんだ? 屋上って……どういう事なんだろう。 慌てて結衣を起こそうとしたけれど、ふっと頭に文面が思い出された。 『屋上にひとりで来てください』 ひとり……。 つまり、他に誰にも言うなということだ。 どういう事なのかは、わからない。 でも、すずのが俺を呼んでいる。 結衣には、後でちゃんと話せばわかってもらえるはずだ。 行ってみよう、屋上まで……。 休日ということもあり、校舎には全くと言っていい程生徒の姿は見えない。 俺は屋上へ向かって、息を切らしながら走っていた。 結衣の端末からメールが来たということは、もしかして結衣の部屋に入って端末を触ったのかもしれない。 それなら、そのまま俺の部屋に来てくれればよかったのに。 どうしてわざわざ、屋上になんか呼び出すんだ。 それに、どうして『ひとりで』なんだろう。 結衣には聞かせられないようなことなのか? ほんの一握りの不安が、心をよぎった。 「すずの!!」 屋上のドアを開けると、すずのの名前を力の限り叫んだ。 「本当にすずのなのか? ここにいるのか!」 「すず……」 そうして、一歩足を踏み出した瞬間―― 「うわっ…?!」 突然、体がふわっと浮き上がるような感覚に襲われる。 そしていきなり上下がわからなくなって…… 「わああああぁぁぁあーっ!!」 まっさかさまに落ちていった。 何も見えない……。 真っ暗のなか、かすかに声が聞こえる…。 「……く…」 「…ょ…くーん…」 「ほらー晶くん、もう朝だぞー?」 「ほらほら、もうこんな時間だよ」 「…………」 「親父…?」 「なんだい? そんなヘンな顔して…」 「い、生きてるの?」 「えっ、どうしたんだ晶くん、怖い夢でもみたのかい?」 「よし! 父さんが抱きしめてあげよう!」 「わあああ! やめろやめろ!」 親父にがばっと抱きつかれて、俺は慌てて両手をばたばたさせて暴れた。 ――だけど、心のどこかでほっとしている自分もいる。 そうだよな。 親父が死んでいたなんて。 もういないなんて、やっぱり夢だったんだ。 「はぁ、もう…」 「そうだ、前の学校のお友達から、電話があったよ」 「今度仲間内で集まるから、晶くんが実家に帰ってきてるなら、一緒にどうかってさ〜」 「そうなんだ…」 「晶くんは人気者だね、父さんは嬉しいよ」 「まあ、俺がいると残飯整理が楽だからだろ」 俺の生きてきた痕跡が無いって……会長たちに言われたこと、夢だったのかな。 いや、それともこれが夢なのかな。 どちらなのか、俺にはわからなかった。 まだ、頭の中がぼんやりとぼやけている。 まぶたが重い。 ゆっくりと目を閉じた。 すると、周囲の音が何も聞こえなくなる。 ―――静かだ。 親父も、これだけ長い間黙ってるなんて珍しい。 そろそろ何か喋ってくれよって泣きついてきそうなものだけど……。 「……親父…?」 ようやく目を開ける。 だけど、俺がいたのはさっきまでいた自宅ではないようだった。 眩しい。光輝くドアが見える。 開かれていたドアが閉められて、光が収まった。 それからようやく、俺はしっかりと周りの光景を見ることが出来た。 「何だ…ここ?」 もちろん、自宅ではない。 それどころか、知っている場所ですらなかった。 「さっきのは……親父は…?」 親父の姿はもうどこにもない。 やっぱり俺が見ていた、都合のいい夢だったのか? 自分がどこにいるのかよりも、そのことの方がショックだった。 俺が愕然としていると、音も無く目の前に影が降り立つ。 「晶さんを……迎えにきました」 「―――すずの!!!」 「はい」 「やっぱり、消えてなかったのか! よかった……どこにいたんだ、今まで! 心配したんだぞ?」 「ご心配をおかけして、すみませんでした」 「どうしても、一度……帰りたかったのです」 「帰るって、どこへ…?」 すずのはにこりと微笑んだが、何も答えない。 少しいつもと様子が違うように思える。 何日かぶりに会うからだろうか。 それとも………。 「なあすずの、結衣も心配してるんだ。すごく、俺よりもっと心配してる」 「それに、あんな手紙を残していくから、俺……俺…」 「晶さん……」 「今のあなたは、夢の中にいるみたいなものです」 「え…?」 「だから目を覚ませばすぐに、あなたにとって元通りの世界になります」 「お父さんがいらっしゃって、お友達がいらっしゃって、ちゃんとあなたの足跡がのこっている世界に」 「……す、すずの…?」 「さっき、ドアの中を見たでしょう?」 「ドアの、中…」 言われて、さっきの夢を思い出す。 親父に起こされて、うっとおしく抱きつかれて。 前の学校の友達から電話があって……。 「懐かしかったですか」 「……ああ、なんだか、とても懐かしかった」 「あなたが願えばすぐに」 「すぐに、夢から目を覚ますだけで……あなたの不安はもうどこにもなくなります」 「本当なのか…? どうして…?」 今は固く閉ざされているドアを見つめる。 本当に……あれが、夢じゃなくなるっていうのか。 今の方が充分夢のような状況だとは思う。 だけど、すずのの様子は真剣で、俺もさっきのように頭がぼんやりしていない。 ―――これは、夢じゃない。 そして、すずのの言っていることは、多分正しい。 直感的にそう思った。 「じゃあ、もう自分が幽霊なのかもしれないとか、消えるのかもしれないとか…思わずにすむってこと?」 「はい、目を覚ませばあなたは、幽霊でもありませんし、消えもしません」 「でも……」 すずのは途中で言葉を切り、かなしそうに目を伏せた。 「なに?」 「でも、結衣さんとは二度と会えなくなります」 「…――え…っ……」 「結衣さんと、お別れをしなければならないという事です」 「な、なんで?」 「どちらも選べはしないからです」 顔をあげると、すずのはしっかりと俺の目を見据える。 だけどその瞳は、やはりどこか物悲しい。 「これは、どちらかひとつしか、選べない選択なんです……晶さん」 「………」 「ちょ、ちょっと待って。やっぱりさっきのはただの夢で、結衣の言うとおり親父は死んでるのか…?」 「それは、これからあなたが決めることです」 「な……」 「なんで……そんな」 ――どうして、そんなことに。 すずのにそう聞こうと思ったのに、喉がからからに渇いていて、声が出なかった。 確かにいきなり女子寮にたたきこまれたり、誰が転校を許可したのかわからなくて混乱したりはしていた。 だけど俺はほんの少し前まで、普通の生活を送っていたはずなのに。 それがどうして、こんな選択を突きつけられることになってるんだ!? わからない。 どこで間違ったんだ。 「……晶さん、ごめんなさい」 「すずの…?」 俺がぐるぐると考えているのが表情から読み取れたのだろうか。 すずのがぺこりと頭を下げた。 「本当は、無理矢理にでもあなたを連れて行くべきなのです」 「そうしたら、誰も悲しむことなんてなくなるのです」 「こうやってあなたを迷わせる事もありません」 「でも………結衣さんと、晶さんが…あんまり、仲が良さそうだから、私……」 「……私、二人が好きだから……」 「………」 状況はよく、飲み込めなかったけれど……。 すずのが、俺と結衣の事を考えてくれているんだ、ということは痛いほど伝わってきた。 「すずの、知っているなら教えてくれ…」 「はい」 「俺は何なんだ? やっぱり幽霊なのか? 手紙ではすずのと同じって書いてあったけど…」 「………晶さんは普通の人間ですよ。でも…そうですね、幽霊という言葉はあなたに近いかもしれません」 「誰もあなたの事を知らない、誰もあなたの事を覚えていない……あなたが今まで残してきた何もかもが、残っていない」 「ここでは、あなたはそういう存在なんです」 「…………」 「でも、あのドアを選べば…」 すずのは、すっと手をあげるとさっきまで開いていたドアを指差す。 「そんなことはなくなります。あなたにとっての全てが元通りになります」 「………でも、結衣とは会えなくなる?」 「…はい」 「…………」 すずのは、その後はもう何も言うことは無かった。 あとは俺に、選べという事なんだろう。 目の前のふたつのドアの、どちらかを。 あの懐かしい扉をくぐれば、結衣にもう二度と会えない。 もうひとつの扉をくぐれば、親父はもういなくなっていて、俺は『幽霊』になる。 ―――両手に抱えられるものは、案外少ないんだよ。 夢でそう言った親父の顔が思い浮かぶ。 どれだけ少なかったとしても、だからと言ってどちらか片方を捨てるなんて俺には出来ない。 出来ないよ………。 「……すずの、俺は…」 『違うんだよ。自分を許してあげるんだよ』 『精一杯、大事な人から離れないように。ぎゅっとしてあげられるように』 選ぶなんて出来ない。 そう言おうと思ったはずなのに。 俺はいつの間にか、もうひとつの扉を指差していた。 親父は、大事な人から離れるなと言っていた。 ああ、俺もそのとおりだと……思うんだ。 もしも俺の正体が幽霊でも、一番大事な人で…その気持ちは何も変わらないと。 結衣はそう言ってくれた。 そして俺も、結衣と同じように思う。 だから―――。 「俺は、向こうのドアを選ぶよ」 「………晶さん」 「だって、結衣は、俺がどこの誰でも、どんな存在でも、好きだって言ってくれた」 「それなら俺も……自分がどんな存在になっても、結衣のことを選ぶ」 それで、間違っていないはずだ。 俺は開いていなかった方の扉に手をかける。 ―――向こうの扉にたくさんの未練はあった。 親父や、元の生活。俺の残してきた何もかも。 だけど、迷いは無かった。 「晶くんっ!!」 階段からドアを乱暴に開け放ち、屋上に結衣が駆け込んでくる。 それで俺は、我に返った。 「ゆ、結衣……」 気がつくと、俺は夕暮れの屋上に一人で立っていた。 他には誰もいない。 すずのもいない。 もちろんあのふたつの扉もなかった。 「す、すずのちゃんからのメール、はぁ、はぁ、見て、それでっ…」 息を切らしながら、必死に話す結衣。 きょろきょろと周りを見回しながら、すずのを探している。 「すずのちゃんは……?!」 「…いない……さっきまで、目の前にいたのに…」 「……すずのちゃん…」 「………」 心配そうな結衣を見つめていると、ふと結衣が視線に気付き、そして驚いた顔をした。 「……どうしたの?」 「え…?」 「晶くん、泣いてるよ…?」 言われて、頬に手をやれば、濡れている。 俺は、初めて自分が泣いていた事に気付いた。 なくしたものの大きさに、感情があふれたのかもしれない。 「あぁ、俺……いいんだ…」 「晶くん…?」 それ以上、結衣は理由は聞かなかった。 黙って、だけど心配そうに俺に近づくと、ふわりと抱きしめてくれる。 「大丈夫だよ、晶くん」 「うん……わかってる……ただ、ちょっと…」 「ちょっと名残惜しかった、だけなんだ」 「うん、うん」 あたたかい。 そして嘘みたいに気が安らいで行く。 結衣が抱きしめてくれると、なんでこんなに安心するんだろう? 世界に自分はひとりだけじゃないんだって、強く思う。 結衣がいてくれるんだって……。 「……っ、俺…。結衣、俺は」 「いいよ。落ち着いてから、話してくれればいいから」 「うん……」 「大丈夫、後悔は…してない」 俺は結衣をきつく、抱きしめた。 この世界で、俺とつながりのあるもの。 それはもう彼女以外には何もないと……そう強く思ったから。 「結衣、俺と…ずっと一緒にいてくれ………」 「………あ…」 「うん…一緒に、いるよ、晶くんと。わたしも一緒にいたいもの…」 「ありがとう…俺……」 「わたしも、ありがとう」 もう言葉は無かった。 俺たちは無言で抱きしめあい続けていた。 赤く傾いた太陽のせいで、影が屋上に長く伸びていく。 もう少し。 もう少しだけ、こうしていたい………。 ふと、夕日の光が大きな影に遮られる。 「…え…?」 思わず顔をあげた。 つられて、結衣も空を見あげる。 「……あっ…!」 「す……すずのちゃん!!」 そこには、背に大きく翼を広げたすずのの姿があった。 すずのはさみしそうに微笑みながら………空に、浮いている! 「すずの!」 「結衣さん、晶さん」 「すずのちゃん、よかった、また会えて…わたし、ずっと会いたかったよ!」 「はい、結衣さん……ありがとうございます」 「でもお別れです、私は……もう、帰らなくちゃ」 「え……どこに…?」 「結衣さん、大変お世話になりました。前回は、別れの言葉もなく去ってしまってごめんなさい」 「すずのちゃん……」 「今日はちゃんと、お別れをしようと思います」 「すずの……」 「晶さん。あなたが結衣さんと……そのまま、結衣さんとの絆を強く保っていれば」 「やがてあなたはこの世界に、いなくてはならない人になります」 「だから……」 すずのはそこで辛そうに声を詰まらせたが、俺には理解できた。 だから……この先、結衣としっかり幸せになってほしい、と言いたいんだろう。 「……あぁ…わかった」 「ごめんなさい」 「どうして謝るの?」 「……私が、結衣さんにも晶さんにも、随分ご迷惑をおかけしたから」 「そんなことないよ! 私、楽しかったよ! すずのちゃんと一緒に暮らして、一緒にすごしたこと!」 「すずのちゃんと、お友達になれてよかった」 「結衣さん、ありがとう……」 「私も、楽しかったです。晶さんや、結衣さんや、マックスさんと一緒に毎日を過ごして……」 「出来る事なら、もう少し、続けたかった……」 苦しそうなほど顔をゆがませた、そのすずのの様子に。 本当にこれで、お別れなんだと……俺は悟った。 結衣も同じ事を考えたらしく、必死に涙をこらえている。 「わたしも、続けて……ほしかった…」 「もっとすずのちゃんと、一緒にいたかった」 こくこく。 俺たちが知っているすずのと同じように、頷く。 「すずの………俺、よくわからないけど、すずのは俺のために何かをしてくれたんだよな?」 「……だから、お礼を言うよ」 「ありがとう」 「……いいえ、いいえ…私の方こそ…ありがとうございました」 「すずのちゃん」 「ねえ結衣さん。晶さんも」 「…っ、何?」 「一緒に絵本、読みましたよね」 「うん、読んだ……」 「あの絵本の最後、主人公の女の子はお家に帰りましたけど…」 「銀の靴を脱ぎ捨てて、そのまま大好きな仲間と魔法の国で楽しく暮らす……」 「私、そんなハッピーエンドが、あってもいいと思うのです」 「………う、うん、うん…」 「もう、そろそろ……帰らなきゃ」 ふわりと、音も立てずに。 すずのはそのまま空高く舞い上がっていく。 「……すずのちゃん!!」 「すずのちゃん、すずのちゃん……」 「さようなら、結衣さん、晶さん。ありがとうございました、本当に…!」 「すずのっ!!」 もう、返事は無かった。 どんどんと白い翼は小さくなり、やがて空の向こうに消えていく。 俺たちは二人ですずのが消えていった空を、いつまでも見ていた。 結局すずのは、何だったのかな。 確かなことはわからなかったけれど……俺たちには、大切な友達だった。 そして、すずのも、俺たちの事を大切にしてくれていたのは、間違いない。 「……っ、うぅ…ひっく」 隣で結衣が泣いている。俺は慰めるように、そっと頭をなでた。 「…っ、晶、くん……」 「いっちゃった、すずのちゃんが、いっちゃったよ」 「うん…」 「もう会えないんだよね…ぐす」 「うん、多分……」 「なんで、最後……絵本の話したのかな……すずのちゃん」 「あぁ……」 ――あぁ。わかっている。 たとえお家に帰れなくても……。 これはハッピーエンドなんですよって。 ………すずのはそう言いたかったんだよな。 「結衣と俺に、お幸せにって言いたかったんだよ」 「……うん…」 そう言うと、驚くほど素直に、結衣は頷いた。 そうだ、これは幸せな結末だ。 俺の隣には、いつまでも大好きな結衣がいてくれるんだから。 じりじりと太陽の日差しが照りつけている。 常夏だったとはいえ、快適だったあの島を出れば自然と衣服は暑さで汗ばんできた。 「えーっと、これに乗るんで間違いないよな」 「うん。路線もあってるし……そうそうこれで大丈夫!」 「よし、乗ろうか」 「はーい!」 「結衣、そのカバン持つよ。ちょっと重いだろ」 「ありがとっ、あ……あれ? カバン、カバン、あああ!」 「い、いっこベンチに忘れてきちゃった! ま、ま、待ってて!」 「ええええっ!?」 「お、おおいっ! 結衣!」 「わー! わあああっ!」 「はー、間に合った間に合ったあ……」 「一体何を忘れたんだよ」 「ばばーん!!」 自分で効果音をつけながら、得意げにカバンを開く結衣。 中には、これでもかというくらいにお菓子がいっぱい詰まっていた。 他のものを入れようという気はまったく感じられない、潔いまでのお菓子カバンだ。 「おおおお!」 「たーべちゃーうぞー♪」 「……これは、忘れてたら泣くなあ」 「晶くんもっ! 好きなの選んでね」 「おおお! ありがとう」 カバンからそれぞれ好きなお菓子を取り出すと、幸せな気分で口に入れる。 「晶くん晶くん、おいしい?」 「うん、俺の好きなやつばっかだし」 「わたしの好きなのもたくさん!」 「おいしいの食べてる時って、なんか幸せな感じだよね」 「うんうん。ご飯とかおやつとか、素敵だよな。いいよな!」 ご飯やおやつは俺に幸せを運んでくれる一番の素敵アイテムだった。今までは。 でも、今は少し違うと思っている。 「でもさ、こうして一緒に食べるのが、一番なのかなって思う」 「うん! 大好きな人たちと一緒なのはね、一番だと思う。わたしも」 大好きな人たち、と言われて、親父の事を思い出した。 今頃、あの扉の向こうの親父は何をしているんだろう。元気でいるのかな。 夢のような出来事だったけど、あの時のことは今でも忘れない。 きっと夢ではなかったのだと信じている。 親父のいる扉を、俺は選ばずに………。 「あの、あのねっ!!」 「え?」 結衣にいきなり話しかけられて、俺は考えをストップさせた。 結衣は俺の手を握ると、握手するようにぶんぶんと上下に振る。 「もう晶くんもうちの家族になっちゃえばいいじゃん」 「は、はい!?」 「この前お父さんと話した時、もううちの子供になっちゃえばいいじゃんって!」 「なななっ!?」 「そしたらチャンバラごっこも暴れん坊老中ごっこも、今までよりリアルにできるよって言ってくれた」 「よりリアルって……」 にこにこしている結衣。 そんな結衣を見ていたらすぐにわかる。きっと、いい家族なんだろうな。 どこの馬の骨ともわからない男が、娘と一緒に帰省することを許してくれたのも、そういう家族だからだろう。 結衣の家族に会うのはやっぱり少し不安だったけれど、なんとなく大丈夫かもという気がしてきた。 「なんかね、晶くんの身長とか聞いてきたから」 「な、なんで?」 「なんでだろー。老中の衣装借りてくるのかなあ」 「え、老中って! 俺なのか!?」 「だって一番かっこいいんだもん♪」 「う、うーん」 「それから、ご飯も一緒にね。食べようね」 「晶くんとわたしだけでもすごく素敵で幸せでしょ? でも家族みんなだったらもっといいかなあって」 「だからね」 「ん?」 「晶くんは自分のおうちみたいに、わたしのところへ帰ってきてくれていいんだよ」 「……結衣」 「ありがと」 やっぱり、俺が親父やあの扉のことを考えていたの、結衣は気付いてくれていたんだろう。 結衣には何でもわかってしまう。 俺がうれしいことも、楽しいことも、かなしいことも、さみしいことも、全部。 そして、一番欲しい言葉を、いつだってくれるのだ。 にこにこと上機嫌の顔のまま、結衣はカバンから新しいお菓子を取り出した。 「あ、晶くん。これこれ! 新しく出た味のやつ。評判いいんだって」 「おおおおー、これはうまそうな」 「でもね、すぐ売り切れるみたいで一個しか買えなかったんだー、だから晶くんにあげる」 「ううん、いい」 「えー、美味しいのにー」 「半分こにしよう」 「えっ、半分でもいいの?」 「いいよ、結衣と半分こしようよ」 結衣からもらったお菓子を半分に割る。 きれいに真ん中でふたつに割れた、その一欠けらを結衣に渡した。 「……ありがとう」 何気ないけれど。 こうやって好きなものを半分に分け合えることが、一番の幸せだよな。 それが、隣に誰かがいてくれるってことなんだ。 だから俺は、いつでも大事な人の全部をぎゅっと抱きしめていてあげたい。 何気ない毎日を、ずっとずっと、一緒に――。 それがきっと、特別なことなんだ。 「限定メニュー…」 いろいろとおいしそうなメニューを想像する。 限定というからには、そりゃもう凄まじいに違いない。一瞬頭の中がスイーツパラダイスになってしまった。 「……あ」 「……あっ」 「……」 何の気なしに、桜子と目が合ってしまった。 だけど桜子はすぐにうつむいて、目をそらしてしまう。 さっきからずっとこうだ。 ちゃんと話をしないと、なんて思ったものの少し不安になってきてしまう。 「わたし、やっぱりドーナツが乗ってないとダメだよね!?」 「ドーナツでタワーを作るか!? 天井まで伸びたドーナツの塔って感じでよ!」 「せっかくの限定メニューなのに、ドーナツだけにするのはもったいないわよ」 「でも、ドーナツは外せないよ〜」 「それならばドーナツは一番上に飾りとして乗せる……というのでいかがかしら?」 「わ、ドーナツの冠だね! それがいいな!」 「桜子はどんなのがいーんだ?」 「おおう、驚かせてすまねぇな。どんな限定メニューがいいのかってぇ話だ」 「お、俺!?」 いきなり桜子が俺の名前を呼んだので、飛び上がりそうになってしまった。 一瞬で頭の中が真っ白だ。 もちろん、何の話をしていたのかなんて、記憶の遥か彼方だ。 「え、ええっと、あの……、何の話だっけ?」 「お前も聞いてなかったのかよー」 「んん? 何か変よ? 葛木くんも桜子も。ボーッとしてるっていうか」 俺と桜子を、不思議そうに交互に見る天音。 「い、いや別にそんなことないって……」 「わたしもいつもと違う気がするよ?」 「うんうん」 「な、なんでもないから気にしないで……!」 「本当に……?」 「とにかく大丈夫ですから」 「う〜ん、桜子がそういうのならいいけど……。何かあったらちゃんと言ってね」 「ありがとうございます、天音さん」 その場は一応納得してくれたのか、天音が桜子のことをそれ以上追求することはなかった。 メニューの話はそのまま続いていたが、何故か俺はまったく集中することが出来なかった。 ……大好きな話題のはずなのに。 気付けばぐるぐると桜子のことばかり、考えている。 結局、いろいろな意見が出たものの話はあまりまとまらなかった。 だからとりあえず、先にできる作業をやろうという事で落ち着いた。 みんなは出展予定の教室をそれぞれチェックしに行っているはずだ。 俺は必要な書類を受け取りに行っている最中だった。 「はぁ……。このままだとダメだよなぁ」 頭の中をよぎるのは、やっぱり桜子とのことだ。 もちろんこのままぎこちない関係でいるなんて嫌だし、桜子にはいつもみたいににこにこしていて欲しい。 「けど、こういうとき、どうしたらいいんだろう……」 頭を悩ませていたら、後ろから駆けてくる足音が聞こえてきた。 「ちょっと、葛木くん!! 待ちなさいー!」 「ああああ天音ちゃぁあーん、まってまって」 「な、何だ?!」 天音と結衣がすごい勢いで俺を追いかけてくる! 俺、何かしたか? もしかして、いらない書類を間違って受け取りそうになってるとか……? 「はぁはぁ、ストップ! 聞きたいことがあるからっ!」 「教室に行ったんじゃなかったのか? どうしたんだよ…?」 天音は少しだけ息を整えると、きっと俺を睨んだ。 「―――桜子に何したのよ!」 「落ち着いて、天音ちゃん! ちゃんとお話聞かなきゃ」 「だから話を聞きにきたんでしょ!?」 「え、な、なになに!?」 桜子の名前を出され、また頭が真っ白になる。 どうも書類がどうのこうのっていう話題じゃなさそうだ。 「桜子、今日ヘンだったでしょ。どうも葛木くんをずっと見てたっぽいんだけど…」 「まさか何か、何か、したんじゃないでしょうね!」 「あ、いや、何かって言われても……」 どう答えていいのか、わからない。 何も無かった、と言えば嘘になってしまう。 心当たりはあるが、それを天音に言ってしまっていいのかどうかもわからないし……。 「なんか気付かないうちにやっちゃったこととかない?」 「桜子は少しくらい辛いことあっても、笑っていられる子なのに……」 「あんな風にぼーっとしてるなんて、余程のことがあったに違いないの!」 「うっ。そ、それは……」 「確かに桜子ちゃん、いつもと違って元気がないの。晶くん、何か知らない?」 「うぅぅ……」 二人から投げかけられる、まっすぐな視線。 本当に桜子のことを心配しているのだとわかる。 だけどどうすればいいんだ。 桜子と話をする前なのに、昨日のことをさらっと喋ってしまうわけにもいかない。そんな気がする。 でも『正直に話さないと、ここから絶対に逃がさないわよ』と、天音が目で言ってる。 困った。すごく困った! 「あ、いたいたー。しょーくん、発見」 「わっ、会長さん?」 「何してるの? 早く行かないと駄目だろ。ほらほら!」 会長はいきなり割り込んでくると、唖然とする結衣と天音を尻目に俺の腕を掴んで引っ張る。 「え、ええ俺!? どこにですか?」 「氷川先生が呼んでるって言ったでしょ? こんなところでフラフラしてたらだめだよー。ほら〜」 両肩をつかまれて、くるりと反転させられた。 い、いきなり強引に、何? いやこの人が強引なのは今日にはじまったことじゃないけど……。 「うわわっ。そんなに強く背中を押さないで下さい」 というか、俺、先生に呼ばれるようなことをした記憶はないんだけど……。 正直あまり行きたくはないが、天音たちの追求から一時でも逃げれるのなら行っておくべきか…。 「数学教諭室にいってらっしゃい」 「わ、わかりました」 「あ、ちょっと!」 「はいはい。天音はお兄ちゃんと……」 「しない!」 「ああ、まだ何も言ってないのに!」 会長の情けない声が廊下に響く中、俺は小走りで駆けていく。 ―――ひとまず、会長には感謝しておきます。 数学教諭室の前には、すぐに着いた。 「あんまりもう入りたくないんだけどなあ……」 桜子とはぎくしゃくしてしまうし、身に覚えがないのに先生に呼ばれたりするし、今日は良いことがない。 ため息をつきながら、ノックするため手を握った。 「失礼します」 「……」 中からは一切返事がない。誰もいないのか? 「葛木ですけどー。先生、いらっしゃいますか? 入りますよ?」 「やっぱりいない……。呼んでおいて、どういうことなんだ?」 しばらく待ったほうがいいんだろうか? けど、勝手に中で待っていても、何だか怒られそうな気もする……。 それなら、外で待っていた方がかしこいか。 振り返って、部屋から出ようとすると、ガラスの向こうに人影が見えた。 部屋の主が戻ってきたのかと思ったけれど、それにしては背が小さいし……。 「失礼します」 おずおずと部屋に入ってきたのは、桜子だった。 口をぽかんと開けたままの俺を見て、桜子も目を丸くする。 「……あっ、晶さん。どうして……?」 「桜子こそ、なんで……?」 どうしてこんなタイミングで、こんなところに……? そう思って、呼びにきた人の顔を思い出す。 ま、まさか……。 「あの俺、ここで先生が呼んでるって、生徒会長に言われて来たんだけど……」 「……私もです」 ―――やられた! どうやって氷川を不在にしたのかはわからないけど、これは明らかにわざとだ! 「くそ! 会長が仕組んだんだな、これ…」 「そう、だったんですか……」 そもそも、桜子とこんな風になってしまうきっかけを作ったのだってあの人だ。 ぎくしゃくしてるって知ってるくせに、どうしてわざわざこんな事を……! 頭を抱えそうになってしまってから、ふと気付く。 ぎくしゃくしてるって知っているから、わざと? もしかしてわざとこういう機会を用意してくれたのか? 「……あの」 桜子も同じ事を思ったのだろうか? おずおずと口を開いた。 今日、初めてまともに話すことになる。 答える声も、意識したつもりはないのに固くなってしまった。 「う、うん」 「ご、ごめんなさい!」 「……え?」 「ほんとに申し訳ないと思ってます!」 桜子は今にも泣いてしまいそうな瞳で、勢いよく頭を下げる。 髪を結うリボンが、ゆらゆらと揺れた。 「ちょっと待って!」 「……」 「ど、どうして謝るんだ?」 「だって、私、昨日晶さんに変なことを言ってしまったから……」 「とっても迷惑をかけてしまったと思うんです、ごめんなさい」 『……私』 『え?』 『私、ただの友達なだけじゃ嫌です!』 『恋人がいいんです!』 『――っ』 うん。あれ…すぐ昨日のことだったんだよな。 鮮明に思い出してしまい、少し照れる。 「確かにちょっとびっくりしたけど……」 「……私」 「……え?」 「いつの間にか晶さんのことばかり考えるようになってしまって……」 「もっと仲良くなりたいな……友達じゃ嫌だなって思うようになってしまったんです」 「でも昨日、晶さんにお友達だって言われてしまって、頭が真っ白になってしまって気づいたら逃げ出してて……」 「あんな事言ってしまって、私の気持ちを押しつけてしまって、本当にごめんなさい」 「……私、晶さんのこと、諦めますから。お友達で我慢します」 桜子は、寂しそうに、そして悲しそうにうつむく。 小さな白い手をきゅっと、胸の前できつく握っている。 とても見ていられなくて、俺はよく考えもしないうちに言葉を出していた。 「い、いや、あの!」 「あの時のことは会長が悪いっていうか、勢いで、友達って言ってしまっただけで……!」 「俺、桜子のこと、友達じゃなくて……!」 ――俺、なにを言ってるんだ。 これじゃあ、まるで好きだって言ってるみたいじゃないか。 顔がぽかぽかと、温かくなってくるのを感じる。 もしかして真っ赤になってるのか、俺?? 「……」 「…………」 桜子は俺の顔を見ている。 そう思うと、ますます温度が上がりそうだった。 俺はヘンな顔をしていないだろうか。 ひどく照れくさくなってくる。 だけど、桜子は俺の言葉の続きを、何も言わずにじっと待っていてくれた。 「あ、あの……」 「は、はいっ!」 「不安に、なったんだ」 「え…」 「昨日、桜子の手を離したら、もうそばにはいられないかもって思って」 「それがすごく不安で……かなしくて」 「だから必死で追いかけて……」 「しょ、晶さん……!」 「今日だって、桜子のことばかり考えていて……俺」 「俺、桜子のこと……かわいいなって思うし、一緒にいたいって思う……」 「これって好き、って事…なのかなって、思ってはいるんだけど……」 「ごめん。俺も勝手なこと聞くけど……」 「桜子も同じ気持ち……でいいのかな?」 「わ、私も! 私も晶さんが好きです! 大好きです!」 「晶さんと一緒にいられないときはずっと晶さんの姿を探しちゃうし……!」 「晶さんと一緒にいられるときはずっと晶さんのことを追いかけちゃうし……!」 「幸せな気持ちになるんです」 「いつの間にか私の胸は……晶さんのことでいっぱいになってしまいました」 「う……」 懸命にぶつけてくる言葉を聞いて、喜びと恥ずかしさで体中が熱くなる。 「う、うん。すごく、嬉しい……」 「俺も桜子の事が、好きだ」 ようやく桜子はいつもの、いや、いつも以上の幸せそうな笑顔を見せてくれた。 ほっと安心して、俺も頬が緩む。 思っていた以上に、桜子の笑顔って力があるみたいだ。 そう思っていた矢先、桜子は不思議そうに首をひねりはじめた。 「あの、これって……彼氏彼女になったということでしょうか?」 「えっ!!」 「あ、ち、違い、ましたか?」 「ううんううん!! その、よかったら、そうなって欲しい」 「な、なります! 私、晶さんの恋人になりたいです!」 「う、うん……」 「あぁ、嬉しいです! 夢みたい! 晶さんが私を彼女にしてくれるなんて!」 「う、うん」 なんだかそこまで言われると、照れずにはいられない。 でも桜子は本当に嬉しそうだ。 そんな顔をされたら、もう何でもしますって気になってしまう。 「……あの、明日はお休みですし、早速デートに行きませんか?」 「で、デート?」 会話の内容のテンポが速すぎて、桜子についていけてない気がした。 普通の恋人同士って、こういうものなのだろうか? すごいな、恋人って。 そうか、デートとか、行ったりするんだ。恋人だもんな。 さっきまで体の中を走っていた熱が、今度はゆっくりと温度を下げて全身にまわってゆく。 ぽかぽかと心地よく、全身を包んでくれるような感じがした。 「あ、なにか用事でもあったかな……」 「ない! なにもない!」 「じゃあ……」 「行く。うん。デートする」 「はい」 答えると、春風みたいにふんわりと桜子は笑った。 それだけで、俺は柄にもないほど舞い上がってしまうのを感じていた。 落ち着くのを――お互いの顔から赤色が消えてから、俺と桜子は繚蘭会室に戻った。 繚蘭祭の準備はせわしなくまだ続いている。 少し離れただけだけど、何をしていいのかわからなくなってしまった。 それともうひとつ。 「まぁ、お付き合いすることに?」 「え、ええ。まぁ……」 「そうなの」 こういうことをおおっぴらにみんなに言うのは、すごく恥ずかしい。 だけど桜子は、茉百合さんや繚蘭会のみんなにちゃんと伝えたかったらしい。 恥ずかしそうに言い出そうとする桜子の手を、応援するように握った。 そして、俺と桜子はふたりで同時に、そのことを口にした。 「恋人同士になっちゃったんだね! すごい。おめでと〜!」 「ありがとうございます!」 「二人ともおかしかったのはそういうことだったの。桜子の恋人が葛木くんかー。ちゃんと大事にしてあげてよね」 「わかってるよ」 「……よかった。本当によかったわ」 茉百合さんは優しく桜子に笑いかけていた。 少しだけ、瞳が潤んでいるように見えるのは、俺の気のせいじゃないと思う。 心から祝福してくれてるのがわかって、また少し照れくささが増した。 「晶くんは……誰よりも桜子に相応しいと思うわよ。本当に…」 「そ、そうですか。茉百合さんにそう言ってもらえて良かった」 「桜子をよろしくね。あなたならきっと……」 「きっと?」 「……そうね。きっと桜子を幸せにしてくれると思うから」 「やだ。まゆちゃん。結婚式みたいだよ?」 「ふふ、ちょっと大げさだったかしら?」 「でも、そのくらい私、嬉しくて」 「ありがとう、まゆちゃん」 「はいはい! じゃあ、お披露目はこのくらいにして出し物の打ち合わせの続き、しましょ?」 「は〜い!」 結衣が勢いよく返事をする。 桜子と茉百合さんも、目を合わせて頷いた。 ようやく、いつもの空気が戻ってきた。 といっても、俺の心はまだ、ドキドキといいっぱなしだったけど。 繚蘭祭の準備にはまだまだ時間がかかる。 浮かれてばかりじゃ、いけないよな。 「……よし」 時計のアラームを消して、頷く。 それからもう一度、携帯端末のメールを確認した。 『待ち合わせは寮の前でお願いします』 待ち合わせの時間や場所を書いたメールが来たのは、昨日の夜のことだった。 いきなりのデートの約束に、俺も桜子も時間のことなんてうっかりして忘れていたからだ。 「時間も大丈夫だよな」 最初のデートで遅刻ってのはやっぱりかっこ悪い。 途中で腹の虫が鳴かないように、チョコをひとつ頬張ってから部屋を出た。 「――桜子」 「あ、お、おはようございます」 「おはよう……っていうにはちょっと時間遅いけど」 照れたような笑顔。 今までも可愛いなあと思ってた。 いや、実際とても可愛い顔なんだけど。 照れてるっていう気持ちがこっちにも伝わってくる感じが、こそばゆい。 「晶さん?」 「えっ? な、なに?」 「なんだかすごく、にこにこしてたから…どうしてかなって思いました」 「あ、な、なんでもない! えーっと。どこ行こうか。実は何も思いつかなくってさ」 「桜子は行きたい場所とか、ある?」 「あの、じゃあ――limelightに行きます?」 「えっ!?」 「いやかな……」 「や、そういうわけじゃないけど」 知り合いっていうか、あのお店の客ってほとんどここの生徒ばっかりだし……天音たちにも会ってしまいそうだ。 別に会ったから悪いってわけじゃないけど。 ちょっと恥ずかしいかな。やっぱり。 「じゃあ、えっと……どうしようかな……ううーん」 「あ、い、いいよ、limelight行こう。一緒に」 「一緒に――はい」 本当に嬉しそうな、はいって声。 桜子はちょっとだけはにかんで、俺の隣に並んだ。 「晶さん」 「――え?」 名前を小さく呼んでから、桜子は俺の手をきゅっと握った。 ほんのり温かくて、柔らかい。 でもびっくりするくらいに、細い指。 俺が強く握り返したら壊れてしまいそうだ。 「こうやって歩いてもいいですか?」 「あ、うん…いいよ」 「嬉しい」 少しだけ恥ずかしい。 だけど、それよりも桜子が嬉しそうに微笑んでる方がいい。 そのまま手を繋いで、俺は桜子と並び歩き始めた。 「わ、やっぱ混んでるなあ」 「ほんとに。やっぱりお昼すぎは皆さんケーキ食べたくなっちゃうんですね」 limelightの店内は、思っていたよりも混雑していた。制服の子もいれば私服の子もいる。 ほとんどが女の子だけど、ちらほらと、俺たちみたいにデートでやってきたみたいな2人組もいた。 「ちょっと落ち着いてって感じじゃないよなあ」 「賑やかですもんね」 「空いてる席はあるかな……」 「あ、まゆちゃん!」 「今日は晶さんと一緒にデートなの」 「――っ」 わずかの迷いもなくそう言った桜子は、にこにこしている。 いや、確かにデートだ。 桜子の言ってることには何の間違いもなかったけど、やっぱりちょっと恥ずかしいな。 「ふふ、そうよね。桜子とっても嬉しそうだもの」 「え、そ、そうかな…恥ずかしい」 「いいのよ、嬉しくってあたりまえだもの。ねえ、晶くん?」 「え、あ、はは、はい」 茉百合さん、案外つっこんでくるんだな。 柔和な笑みだったけど、今この時だけはちょっといじわるされてる気分だ。 「でもお店ちょっと混んでて…どうしようかなあって思ってたところなの」 「そうね、ちょっとゆっくりできる感じじゃないわね」 「そうだわ、先日マックス君に聞いたんだけれど…最近サンドイッチやクロワッサンも作りはじめたそうよ」 「え? ほんとに? いろいろやるんだな」 「それを持ってお散歩にでも行ったらどうかしら? ここよりはゆっくりできると思うわ」 「あらあら、だめよ桜子。そういうのは好きな人にしなきゃ」 茉百合さんの腕をぎゅっとつかんだまま、桜子は顔を赤くしていた。 そして一瞬間をおいてから、limelightの厨房の方へと走っていってしまった。 「あ、桜子――」 止める間もない。 なんだ、俺だけじゃなくて……桜子もちょっと恥ずかしかったりしたんだ。 そっか。 そういうもんなんだよな。 「ねえ、晶くん。ひとつ伺ってもいいかしら?」 「な、なんですか?」 突然話しかけてきた茉百合さんは、何故かさっきまでとは違う、すごく真剣な表情だった。 「あなたはどうして桜子の事、好きになったの?」 「ははははいっ?」 「人を好きになるのに、運命って関係あると思う?」 「う、運命ですか?」 「うーん、俺がこの学園に来て、みんなに仲良くしてもらって……桜子とも会ってっていうのは、運命かなって思ったりもします」 「……」 「運命っていうか、幸運かな? 桜子に会えて嬉しいって思ったから」 「――っ」 「って、なんかくさ! くさいこと言ってしまった!」 「ふふふ、いいんじゃないかしら? きっとそういう事言ってもいい時なのよ、いま」 「うわー、だ、誰にも言わないでください!」 「わかったわ」 自分で自分に大ダメージを食らわせてしまった気分だ。 なんて恥ずかしいこと言ったんだろう。 相手が茉百合さんでよかった……本当に。 うっかり会長なんかだったら、明日から登校できない事態になってたところだ。 「ただいま! まゆちゃんの言ったとおりだったよ。ほら、美味しそうなの」 「でしょ? 良かったわね。さあ、デート楽しんでらっしゃいな」 「うん!」 サンドイッチがつまった箱を嬉しそうに見せる桜子。 その笑顔に茉百合さんまでにこにこしている。 にこにこしながら、俺たちを見送ってくれた茉百合さんだったけど……。 運命とか、好きになった理由とか、さっきなんであんな事聞いてきたんだろう。 やっぱり茉百合さん、桜子の一番の友達だから心配だったのかな。 「はふー、お天気いいですね」 「ちょっと歩いたけど、大丈夫か? 疲れた?」 「大丈夫、これくらいなら」 「そこのベンチに座ろうか」 「はい」 備え付けてあったベンチに座り、桜子は持っていた紙製のランチボックスを嬉しそうに開く。 中からは、レタスやチーズが山のように挟み込んである、おいしそうなサンドイッチがふたつ入っていた。 こういうところで食べるってのも、なかなか新鮮でいいかもしれない。 「えっと……晶さんはクリームチーズはお嫌いですか?」 「うん、何でもいいよ」 「よかった。じゃあこのサンドイッチをどうぞ。生ハムとクリームチーズが入ってます」 「おお、うまそう……マックスのやつ、こんなもんまで作ってるのか…」 「サンドイッチは店員の皆さんで作っているみたいでしたよ」 「へえ〜。じゃあ俺も作れるようになった方がいいんだろうなー」 桜子からサンドイッチを受け取って、さっそくかぶりつく。 「んむ。おいしい! このいろんなモノがいっぱい入ってるとこが豪華でいいなあ」 ぱくっとする度に、具がどんどんとパンの端からはみ出している。 たくさんの食材が入ったサンドイッチは、おいしいことはおいしいのだが、食べるには少しコツがいるのだ。 「桜子、ベーコンはみ出してる」 「……大変、ど、どうしよ」 サンドイッチを両手で持ったまま、桜子はあわあわと慌てた。 反対側からは、レタスをつたってソースがたれ始めて来ている。 「あ、あう、今度はソースが…」 「ちょっとだけ頑張って! はぐっ…」 自分が食べてたサンドイッチを無理矢理口にいれると、俺は桜子のサンドイッチを支えた。 とりあえずベーコンは何とかなるだろう。ソースの方が零れたら問題だ。 ベーコンの側を下にやると、上からしっかりとパンを押さえる。 「んーんーん」 「えっ、な、何?」 「んんん、んぐぐー」 「ええと、この落ちそうな所を食べてって事かな」 「んー」 「かぷっ」 俺が頷いて少しサンドイッチの位置を高くすると、桜子は下からベーコンをくわえた。 はたから見るとかなり行儀が悪いと思うのだが、それが逆に楽しいのかにこにこしながら食べている。 「んぐんぐ…ん〜」 ようやく体勢を立て直し、桜子のサンドイッチの具は何とか無事にパンの中に戻っていった。 「ありがとう晶さん、もう大丈夫だから」 「んー」 「とっても楽しいですね!」 「ん」 まさかサンドイッチひとつでこんなに楽しそうにしてくれるんて、思わなかった。 なんだか俺まで楽しくなってきてしまう。 ようやく自分のサンドイッチを手に持つと、一息ついた。 そのまま勢いよく、ぱくぱくと食べてしまう。 そして残りのサンドイッチを食べる桜子を見ていたが、今度は上手くはみださないように気をつけて食べることが出来ているみたいだった。 「あぁ、すごくおいしかった。私こんな風に楽しく外でご飯を食べるのは初めてかも」 「うん、おいしかった。面白かったしな、あぶなかったけど」 「晶さんはすごくかっこよかったよ」 「えっ、かっこよかったの!?」 「はい、サンドイッチを口に銜えて、かっこよく私を助けてくれました!」 「あはは…行儀悪いだけだろ…」 桜子があんまり真剣に言うので、少し困ってしまう。 まさかこのまま、寮に帰って天音に報告したり、茉百合さんに自慢したりしないだろうな。 それはちょっと……恥ずかしい。 「あぁ、おなかいっぱいで、気持ちいいです」 「そうだなぁ、ぽかぽかしてて気持ちいいし」 「ここ、木がいっぱいで落ち着きますね」 「うん」 桜子は風に揺れる木々を、じっと見ている。 どこか懐かしそうな、まるで我が子をみる母のような、そんな瞳で。 「どうしたの? そんなにじっと見て」 「え…あ、ええ。私ね、ときどき不思議な夢を見るの。その事を思い出していて」 「どんな夢…?」 俺に聞かれた事が嬉しかったのか、桜子は目を輝かせて話し始めた。 「私はね、どこかの野原にいるの。すると、私の目の前を、小さな女の子が走って行くの」 「へえ、女の子?」 「うん。その子がね、私をすごく呼ぶの、こっちに来て、見て欲しいものがあるのって」 「そ、それ、何か怖い夢とかじゃないよね?」 「いいえ、私ね、遊んでいただけなの。そしたらね、その子あっという間にそこにあった木に登っちゃって…」 「そして木から落ちてしまうのよ」 「えっ、あ、あぶないな」 「だから私、急いでかけよって、ぎゅっと抱きとめたの」 「泣いてるその子を抱っこしていたとき、すごく胸が痛かったの」 「ああ、大丈夫で良かったっていう気持ちと、ずっとずっと大事にしなきゃっていう気持ちがたくさん溢れたの」 「そんな夢……何の変哲もないのだけど…」 「それって、親戚か何かの女の子なのか?」 「いいえ、全然知らない子。でもいつも、同じ子が出てくるの……」 「そうなんだ、確かにどこか不思議だな」 「あれは私の夢じゃなくてきっと…」 「きっと?」 「えへへ、なんでもないですー」 「そういえば……」 「ん?」 「今考えてみると晶さんはその子にどこかちょっと似てるかも…」 「えー、でも夢の中の子供って、女の子なんだろ?」 「うん」 「女の子と似てるって言われてもなあ」 それは男としては、ちょっと微妙な気分だ。 そんな事を言われると、苦笑せざるを得ない。 だけど桜子は真剣だった。 かなりじーっと、俺の顔を見ている。 「でもね、ここ! うん。やっぱり目元が」 そう言いながら、そのまますすっと顔を寄せてくる。 え、えええっ!? 「わ、わわ」 「うん、うんうん。あのね晶さん、目元のこのへんが」 「さ、桜子」 「似てるの。そっくりってわけじゃなくて、でもなんだか似てるって感じかな」 「ちかいちかい!」 「え? ひゃ、わわっ」 俺が言ったことでようやく現状に気付いたのか、桜子はびくっと震えた。 そして驚きすぎてバランスを崩したのか、俺の方に倒れこみそうになる。 「あぶ、あぶなっ!」 「ご、ごめんなさ…い。ほんとに、こんな近い…」 桜子の言うとおりだった。 寄りかかってきた桜子は支えたものの、そのせいでさらに顔が近づいてしまった。 思わず見つめあってしまう。 ―――もう何も、言葉が出ない。 「……晶、さん」 桜子の唇が、ゆるく動いて俺の名前を呼ぶ。 近くで見ると、きれいな形をしているのがはっきりとわかった。 慌てて視線をそらし前を見ると、大きな瞳が硬直する俺の姿を映している。 どこに目をやっても、そこには桜子がいる。 何度かまばたきをした後、瞳は少しだけゆっくりと閉じられた。 きっと、あのまぶたはすぐに開かれる。 だから、俺は何もしないでこのまま見つめていた方がいい。 そう思っていたはずなのに……。 俺は目を閉じてしまった。 そして、少しだけ……顔を前に進める。 「んっ」 自分の唇で、そっと桜子の唇に触れる。 たったそれだけの行為なのに、どうしてこんなに心が動かされるんだろう。 唇の先から伝わる感触は、柔らかい。 ふわふわで、少し力を入れれば消えてなくなってしまいそうだ。 「晶さ……ん」 そっと唇を引くと、名前を呼ばれた。 まるで催促されているように感じてしまい、もう一度。 今度はさっきより少しだけ強く、口付ける。 それからようやく、俺は唇を離した。 「……」 「……」 お互い、言葉が出ない。 よく見ると桜子の顔は真っ赤だ。多分俺もそんなものなんだろう。 「え、えっとその! 勢いでとかじゃなくて」 いきなり、キスをしてしまった言い訳をしようと、俺は考えがまとまらないうちに喋り始めてしまった。 自分でも何を言ってるのか、よくわからない。 「えっ? えっ?」 「流れ的にはすっごい勢いに乗ったけど! でもそれだけじゃなくて」 「……うん」 「ほんとに……好きだって思って、それで」 「うん」 うわぁ……。 全然うまく言えやしない。 せめてもうちょっと整理してから話すべきだった! 「わかってますよ、晶さん」 「えっ?」 桜子は強く頷くと、気持ちはわかっていると言いたげに俺の手を握った。 それから少しまた赤くなると、そっとつぶやく。 「その、初めてだから、恥ずかしかったけど……嬉しかったです」 「しょ、晶さん……は?」 「あ、うん。一緒だよ、嬉しい」 「ふふ、嬉しいのいっしょだね」 「……っ」 桜子の笑顔に、心臓が飛び上がりそうになった。 俺……今更だけど…。 この子の事が、本当に好きなんだ。 そう、強く思い知らされてしまった一日だった。 「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」 「いや、俺も…楽しかった」 キスとか、してしまったし…。 そんな事をふと考えてしまって、恥ずかしくなる。 「晶さん、キス…してくれたし……」 「えっ、う、うん」 何とも言えない、こそばゆい空気が一瞬流れる。 しかしその空気を打ち破ったのは、桜子の立てた軽く手を打ち鳴らす音だった。 「そうだ!」 「えっ?!」 「キスのお礼に、私今度のデートではちゃんとどこに行くか、プランを考えてきます!」 「お礼って、いいのに」 「いいんです、私計画立てるの好きだから」 「そう…? じゃあ、次はいつデートするんだ?」 「明日!」 明日!!? あまりにも早い提案に、びっくりする。 桜子らしいと言えば、桜子らしいんだろうけど。 「あ、もしかして明日は何かご予定がありましたか?」 「ない、ないない。ちょっとびっくりしただけ」 「じゃあ安心ね。よかった!」 遠足前の子供みたいにキラキラしてる桜子がおかしくて、可愛くて…。 俺は思わず笑ってしまった。 「ふふ、わかったよ。明日デート行こう」 「はい、待ち合わせは今日と同じでいいですか?」 「わかりました。じゃあまた明日」 「はい、また明日です♪」 「う……」 昨日とまったく同じ時間。 アラームで目が覚める。 よかった、寝坊はしていないみたいだ。 待ち合わせの場所は昨日と同じ、寮の前。 そして昨日と同じ時間。 桜子との初めてのデートは、昨日終わっている。 なのに、どうしてまだこんなに緊張しているんだろう。 キスとか、してしまったからだろうか。 「や、やめよう、いかがわしい事考えるの」 首を振って雑念を追い払いつつ、俺は着替えて部屋を出た。 寮の前には少し早めに着いた。 昨日は桜子の方が先に待っていたのだが、今日はまだ姿が見えない。 ちゃんとプランを考えてくる、って言ってたけれど、一体どんなデートにするつもりなんだろう。 ――桜子のことだから、すごいものを考えてきそうな気もする。 まあ、それでもいいか。 それはそれで楽しそうだし。 「………」 「あれ、遅いな」 携帯端末を取り出して、時間を見てみる。 待ち合わせの時間を、もう5分ほど過ぎていた。 おかしい。 あの律儀な桜子が、待ち合わせの時間に来ないなんて。 もしかして何かあったのか? 心配が抑えきれずに、慌てて俺は寮へと戻った。 「桜子…?」 そっとドアを開けて、声をかけながら部屋に入る。 まずいかとも思ったが、もし緊急事態が起こっていたら困るし……。 返事はない。 足を進めてみると、桜子はベッドの上で倒れていた。 「さ、桜子!!」 驚いてベッドに駆け寄る。 部屋はきれいに片付いていたが、ベッドの周りにはいろいろな雑誌が散らばっていた。 「……すー、すー」 「え? 桜子?」 「すー、すー、しょ…さん……」 「もう…びっくりさせるなよな」 ……なんだ。よかった…。 ただ寝ているだけみたいだ。 ほっとして、一気に緊張がふっとんでしまった。 ベッドの脇に座る。 幸せそうな寝顔だった。 俺が横に座ったので、ベッドが少し揺れる。 それで目を覚ましたのか、桜子がぼんやりと目を開けた。 「んっ、んんー晶さん」 「おはよう」 「あのね、晶さんは一緒に遊べる方がいいのかな…それともいろいろ見たりとか……」 「あはは、どうしたの」 「えーっと、あれれ…あれれ?」 ようやくちゃんと目が覚めてきたのか、桜子は不思議そうな顔をしながら起き上がった。 「………」 そして、きょろきょろと周りを見る。 時計、窓の外、周りに散乱した雑誌、そして横に座っている俺、それから最後にまた時計。 「…!!!」 「わぁあああ! わ、私…ごめんなさい! デートの事を色々考えていたら、いつの間にか寝ちゃってて……!」 「ふふふっ、それで寝過ごしたのか。桜子って結構うっかりしてるんだな」 「ごめんね晶さん、ごめんなさい」 「これ、いろいろ読んでたんだ」 「や、やだやだやだ! わた、私っ」 桜子は慌てて、ばばばっとベッドの周りの本を片付ける。 「昨日、計画立てるって言ってたもんな。ははは、それで一生懸命調べて、寝過ごしたんだ。ふふふ…」 「もう、晶さん笑い過ぎです…」 「昨日はお店とか、どこに行くとか何も考えずに行っちゃったから、今日こそはって思ってたのに……うぅ」 「ずっと勉強してたの? デートの」 「そうだよ。お勉強しなくちゃいけないなって…」 「あははは! 桜子はえらいなあ!」 「もう! どうして笑うの〜?」 「あぁ、ごめんごめん」 「でも、悪いのは私だよね……寝坊しちゃって、晶さんを待たせちゃって」 「いや、いいよ俺は面白かったから」 「むう」 「ああ、笑ったらお腹すいてきたな」 「あぁ、私も。そういえば朝ごはんも食べてませんでした」 「そりゃあ今起きたばかりだし…」 「ねぇ晶さん、朝ごはん、一緒に食べませんか?」 「うん、喜んで」 雑誌をまとめて本棚に片付けると、桜子は俺の手を引いてソファに座らせた。 どうするんだろう? 談話室には行かないのかな? 「ちょっと待ってて下さいね! 朝ごはん、私が用意するから!」 「えっ、いいの?」 「いいの、晶さんはそこで座って待ってて、ね?」 「はい」 頷くと、桜子はぱたぱたと走って部屋から出て行った。 それにしても、桜子の部屋に入るのは初めてだ。 まさかこんな形で入ることになるとは思わなかったけど……。 初めてのデートでキスをして、その翌日に部屋に入って、なんて。 ……順調すぎてちょっと恐ろしい。 いや、多分こんなこと考えてるの俺だけだよな。 雑念は消去しとこう……。いや、やっぱり消去はムリだから、ちょっと端っこに寄せとこう。 そんな馬鹿な事を考えていると、やがて桜子が戻ってきた。 大きめのトレイには、食パンが乗せられたお皿とコップに入ったミルク。 「あ、重くない?」 「これくらいは大丈夫です、limelightで慣れてますから」 そう言いながら危なげのないしっかりした足取りで、桜子はテーブルにトレイを置いた。 おいしそうな焼きたてのパンのにおいがする。 トレイの上には食パンに塗るためのバターやジャムなどは置かれていないようだった。 何も塗らないで食べるのかな? でも、スプーンはひとつ用意してあるんだよな……? なんて思っていると、隣に座った桜子から、どこから持ってきたのか少し大きなビンを手渡された。 「はい、晶さんこれをどうぞ」 「え、わ、ありがとう!」 わけのわからないまま受け取る。 見ると、ビンの中には蜂蜜色のどろっとした液体がたくさん入っている。 「これ……ハチミツ?」 「はい、そうですよ」 「どうするの?」 「パンに塗るの」 「え!? ハチミツ!? ハチミツぬるの?」 びっくりして聞き返してしまった。 桜子は、どうして驚いてるのと言わんばかりにきょとんとしている。 「塗らないの?」 「あ……えーっと、うちではやったことないかな」 「えっ、そうなんですか?! どこのおうちでもパンにはハチミツを塗っているのかと思ってたのに…」 「そうなのかなあ……普通はバターとかジャムとかじゃないのかな…」 「甘くておいしいですよ」 銀色のスプーンを手に取ると、桜子はハチミツをパンの上に丁寧に塗っていく。 そしてにっこりと笑いながら俺に差し出した。 「うーん、感覚的にはジャムに近い感じなのかなあ……。はぐ」 「甘い…」 「はい、おいしいです、はむはむ」 こっちまでつられて幸せになってしまうような、そんな笑顔で桜子はパンを食べている。 そんな彼女が、俺の隣にいることが嬉しくなってきて、俺も頬がゆるんだ。 ハチミツパンは、朝ごはんというよりおやつ感覚だった。これはこれで、なかなかおいしい。 この様子だと桜子はハニートーストとかも好きなんだろうと思う。 「ごちそうさまでした」 「うん、ハチミツもなかなか悪くなかったな」 「そうでしょ? 晶さんも今度からはパンにハチミツ派になってください」 毎日続けたら頭から足の先まで甘くなってしまいそうだ……。 そんな気がしたけど、黙っておいた。 桜子は手早く食器などを片付けてしまい、また俺の横に座る。 「ふぅ」 「やっと落ち着いた?」 「そうだね」 桜子は少し浮かない顔で、さっき雑誌を片付けた本棚を見ていた。 そしておずおずと話し始める。 「あのね、ごめんなさい……」 「なにが? どうしたの?」 「結局デートにいいところ、見つけられなかったの」 「そんなの気にしなくていいよ」 「……うん」 「あはは」 テーブルの端には、いろんなパンフレットがまとめて置いてあった。 桜子は、どれだけたくさんデートの資料を集めてきたんだろう。 ―――ふいに、子供の頃の懐かしい思い出がよみがえってきて、俺は笑ってしまった。 「……? どうして、笑ってるんですか?」 「ごめんごめん、なんかさ…ちょっと思い出すことあって」 「思い出すこと?」 「俺の親父のこと。子供の頃にさ、どこか遊びに行こうって言ってはこんな風にパンフレット広げるんだ」 普通はあんまり興味がないような話じゃないかと思うが、桜子は興味深げに頷いた。 「それから、徹夜してこうやって寝過ごしたりとかあったんだよ」 「へえ…お父様もそんなことあったんですね」 「しかも、何回も」 「ふ、ふふふ。そんな時は、お父様どうなさったんですか?」 「そんな時は……」 懐かしく過去のことを思い出す。 小さな部屋で、俺と親父二人きり。やっと親父の仕事の休みが取れた、休日の一日。 「なんだったかな、特に何かしたって記憶はなかったな」 「……?」 「一緒にゲームしたり、ご飯食べたりとか、ほんっとどうでもいいことばっかりしてたな」 「どうでもいいこと」 「でも、そういうの素敵かもです」 「えっ? す、すてき??」 「はい、特別なことしなくてもいいってすごいなあって」 桜子は感動したように、目をきらきらさせながら何度も頷いている。 そんな反応をされるとは思わなくって、ちょっとびっくりした。 「晶さん」 「ん?」 「私はそういうの、できるかな」 「晶さんといっしょに、なんでもないこと」 言ったあとに恥ずかしくなったのか、桜子は赤くなって顔の前で両手を振った。 「あ、あの! でもやっぱりデートとかの方がいいですよねっ! 私のところ、ゲームとかないですし」 「あはは」 わたわたしてる桜子を、可愛いなと思ってしまう。 親父も、子供の頃の俺を見ていてこんな気分だったのかな? 「いいよいいよ、ゲームなんていらないし、どっか行かなくてもいい」 「それって、あの……なんでもないこと」 「あ、そっか。うん、そういうのでも全然いい」 「いいの?」 しっかりと頷くと、桜子の顔は輝いた。 「はい! じゃあ、今日はなんでもない日を一緒に」 そうして、嬉しそうに手を叩いた。 デートには行けなかったけれど、こういう時間の使い方も幸せだ。 俺はそう思って、桜子の寝坊に少し感謝をしたのだった。 そのまま、桜子の部屋で話をしているとあっという間に夜になってしまった。 晩ご飯の時間が近づいてきたので、二人で談話室まで下りてくる。 「あれ、誰もいない……みんなどうしたのかな」 「ほんとだ、もう晩ご飯の時間だよな」 桜子と時計を見ながら、お互いに頷きあった。 いつもなら皆そろっててもおかしくない時間だ。 「どうしたんだろう」 「あら?」 「誰からだろ?」 それぞれ二人同時にメールが来たみたいだ。 端末を取り出して、お互いメールを確認してみた。 「えっと…天音さんからだわ。会長…お兄さんがなんだろ、大変だから怒ってる??」 「あー、きっと会長が何かやらかしたんだろ」 「まだこちらには戻ってこれないみたい。晶さんの方は?」 「俺の方は結衣からだったよ」 こっちのメールは更に不可解だった。 桜子にも見えるように画面をかたむけてみせる。 『ちょんまげ! ちょんまげの人がきてたの! だからちょっと見てきます!』 「何だと思う? ちょんまげの人が来てるって」 「な、なんでしょう……まさかタイムスリップしてきたとか」 「ない、それはないって!」 「で、ですよね。何だろう…あ、撮影かな」 「またメール?」 今度のメールはマックスからだった。 「あ、当たりだ」 さっき結衣からのメールにあった『ちょんまげ』は、どこかのクラスが作っている短編映画の撮影だったようだ。 きっと繚蘭祭で発表するんだろう。 「結衣たちも学園の食堂で食べてくるって」 「そうなんですかー。くるりさんもたぶん帰ってないですよね」 「だろうな」 「じゃあ、今日はほんとにふたりっきりになっちゃうね」 「そ、そっか……」 彼女ににこにこしながらふたりっきりと言われて、どぎまぎしない男なんているはずない。 俺は胸のドキドキを押さえるのに必死になっていた。 そうか。今日は……この寮、誰もいないのか。 いや、もう少ししたらみんなご飯を食べ終わって戻ってくるんだろうけど。 それまではふたりきり……。 ―――だめだ。 考えすぎだろう、俺。 昼間も思ったじゃないか、雑念は端っこ! 緊張しすぎていたのか、ふたりで食べた晩ご飯の味はどんなものだったのか忘れてしまった。 夕食の後、俺たちはまた桜子の部屋に戻ってきた。 心はさっきより少しだけ落ち着いている。 ……ご飯のおかげだろうか。 「桜子の部屋って、こういうのたくさんあるんだな」 机の上や壁に貼られているのは、いろんな絵葉書だった。 風景のものもあれば、絵本の中の光景みたいなものまで。 俺にとっては珍しいものばっかりだ。 「これはね子供の頃にいーっぱいもらったものなの」 「子供の頃に?」 「小さい頃、ずっと入院してたから…お父さんが仕事で海外に行ったりすると、いつも買ってきてくれたの」 「そうなんだ、こっちは風景だよな。こっちは……あれ、なんか見たことあるかも」 犬を連れた女の子が描かれている絵葉書の一枚を見て、考え込む。 まさにおとぎ話の中のような、幻想的な絵葉書だった。 「あれ、なんだっけこれ――」 「ふふふ、知ってるはずだよ。オズの魔法使い。だって有名なお話だもん」 「うん、見たことはあるんだ。でもどんな話だったかなって」 「ある女の子が、竜巻にまきこまれて不思議な世界へ行くの。とても美しい国だったけれど、女の子はやっぱりお家に帰りたいじゃない?」 「うんうん」 「それで、かかしさんや、ロボットのきこりや、ライオンさんと一緒に、願いを叶えてもらう冒険に出るのよ」 「仲間の人たちも、それぞれ欲しいものがあって……それは心だったり、愛だったり、勇気だったりするの」 「あぁ、なんとなく覚えもあるような……」 「あのね、晶さん。なんだか不思議なの、私……」 「えっ?」 「このお話みたいにね」 「晶さんが転校してきて、いろんなことがあって、こうやって恋人同士になって……ね」 「なんだか、何もかも変わったなあって。まるでオズの魔法使いに出てくるロボットやかかしさんみたいに、大事なものを見つけられたの」 「でも、主人公の女の子は最後に、あんなに仲が良かったみんなと別れてお家に帰っちゃうんだよね」 「うん」 「……そんなふうに、晶さんもある日どこかへいっちゃったらどうしようって思っちゃう」 「あはは、そんなことないよ」 「うん。そんなこと、ないのにね。不思議だな」 桜子が一瞬だけ見せた、寂しそうな顔。 俺の事を想っていてくれるんだと思うと、何故か馬鹿みたいに胸が高鳴ってしまって、俺は桜子の頭を撫でた。 「は、わわっ、なんですか?」 「……なんでもない」 「いま、頭なでなでしたのはどうして?」 「いや、その、なんていうか……」 桜子が寂しそうなのにきゅんとしてしまったから、なんてちょっと恥ずかしくて言えない。 「何?」 不思議そうに小首をかしげる桜子。 ……うぅ、ますます可愛い。 「晶さん、顔が赤い」 「え!? あ、赤いかな!?」 「風邪かもしれないわ。ちょっと動かないで」 桜子の顔が近づく……どんどん近づく……。 息がふれあいそうなまでに。 そして、俺の額と桜子の額がこつんと触れ合った。 「おかしいな〜。普通だね。顔は紅潮してるみたいなのに……」 「あ……うっ……」 整った鼻筋、綺麗な肌、ほんのり桃色の頬。 そして、顔を上げるだけで、簡単に重なってしまいそうな唇……。 ……もう我慢できそうにない。 「少しソファーで休んだ方がいいかもしれません」 おでこを重ね合わせたまま、桜子が心配そうに呟く。 本気で心配しているようだった。 「だ、大丈夫だから」 とりあえず桜子を安心させよう。 くっついていた額を離して、少し深呼吸した。 「本当?」 「赤くなったのは、……その、桜子がかわいいなって思ったから」 「え?! 私が……!?」 「あのさ、桜子……」 細い両肩を、両手でゆっくりと掴む。あまり力をいれすぎないように。 「……あ」 「桜子」 「……はい」 「キス……したい」 「は、はいっ」 「……いいかな?」 「……私も晶さんとキス、したい」 桜子の答えを聞いて、ゆっくりと唇を近づけた。 「……んっ」 マシュマロみたいに柔らかな唇に自分の唇が――触れた。 「んっんん……」 「はぅっふう、ん……しょ、さん」 ふわふわした香りに誘われるように、桜子を抱きしめる。 「あっ、晶さん……」 そして、また唇を重ねた。 もう自分の気持ちを止められそうにない。 「んんっ、んっ……んちゅ……んふっ!」 たぶん、息をしようとして桜子は口を開いたんだと思う。 そのせいで桜子の舌が俺の唇に触れた。 くすぐったい感触に誘われるまま、自分の舌を桜子の小さな舌に絡めた。 「んふっ! んんんっ! あふっ! んん……!」 くちゅくちゅと粘液の絡み合う音が部屋に響く。 「んちゅ……んんっ、はっ、あっ、んんっ、はふぅ、んんっ!」 ……あったかい。 桜子の唇の中はぬるりと温かかった。 「んはっ! はぁ……はぁ……はぁ……」 桜子は大きく肩で息をする。 少し申し訳ない気持ちになって、そっと華奢な身体を抱きしめた。 「……キスは難しいね」 真っ赤な顔で、囁くように桜子は呟いた。 「桜子……」 そのまま、どうしても我慢ができなくて桜子の胸元に手をやる。 「――あっ」 「いや、かな」 「あ、あの……びっくりしたの……」 「あ、ごめん……急に…」 「はい、きゅ、急にです……」 「嫌だったら、が、我慢する……」 「そ、そんな! わた、私、晶さんのこと好きです!」 「え? あ、うん……あ、ありがと……でも」 「だから、好きだから……嫌とか、じゃなくて……んっ」 嫌じゃないという言葉を聞いて、俺は服の隙間から手を滑り込ませた。 「その……あっ、や……んっ……はっ……」 ……指が桜子の胸に沈んでいく。 すごく、柔らかい。 「気持ちいい……?」 「晶さんの手、あったかい……身体がふわふわ浮いてるみたい……あ……はっ……」 桜子の瞳がうっすらと潤んできたような気がする。 「あっ、やっ……んんっ、は……」 「もっと触ってもいい?」 「あ、それは、その……あっ、やっ……ふあ……」 「ま、待って……あの、私……あぁ……」 そんな風に言うくせに、桜子はまったく抵抗しようとしなかった。 だから、柔らかくて大きな胸に触れる手に、少しだけ力を込めてみた。 「……ひゃ! ああっ……だめ……だめなんです……んっ!」 桜子が俺の手首をつかんだ。 けれど、力はあまり入ってない。 「どうしてだめなの? さっき嫌じゃないって」 「はい、嫌じゃないです……んっ、う、嬉しい……でも……あっ!」 ぴくんと桜子の身体が小さく跳ねる。 初めて見る反応だったけれど、感じてるんだなってわかった。 「あっ、はっ……んんっ……やぁ……あぁ……んっ……!」 あまり力を入れないように、ゆっくりゆっくりと揉んでいく。 「……あ、そんな優しく……あぁ……やぁんっ……!」 「力入れると痛いよね? ゆっくりするから」 「だめ……そんな優しくされたら……私、私……あっ!」 「え? 優しいのはダメなの? もっと強くした方が良い?」 「ち、違うの……! あっ、はっ……! んんっ……やっ……!」 「優しくされたら……もっとして欲しくなっちゃう……あぁ……!」 「だから、だめ……あっ、や……んんっ……!」 俺の手首を握る桜子の手に力が入った。 言ってることと、行動がちぐはぐだ。 「もっとして欲しいって思ってるのに、なんでダメなの、桜子?」 「あの……あっ、んっ……ダメなの……やっ、あっ、んんっ……!」 「わかった。恥ずかしいんだ」 「は、はい……恥ずかしい…………こんな、私……!」 「見たいよ。もっと桜子が恥ずかしがるところ」 「やぁ……違うの……あ、やっ、ああっ……だめ、ぐにぐにしないで……!」 少し慣れてきて、触り方を変えてみた。 すると一気に桜子の手から力が抜け、細いからだがますます小刻みに震える。 「恥ずかしい……けど、その、あっ……違うの……そうじゃなくて……あぁ……!」 「ああ、やぁんっ……んんっ……晶さん、ダメ……あぁ……んっ……!」 「お願い……ダメなの……あっ、やめ……はっ、あっ……!」 服の上から触っていることに我慢が出来なくなって、桜子のワンピースのボタンに指をかけた。 「や、それはだめ!」 「え?」 その途端、桜子の声色が変わった。 本気の剣幕と拒絶を感じ取って、反射的に俺は手を引っ込めた。 「ごめんなさい……だめなんです。ごめんなさい……」 「ごめんなさい……ぐす、ひっく……ううぅ……」 綺麗な瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ始める。 「ご、ごめん! 俺……!」 「違うんです……私が悪いの……ごめんなさい……ぐす……」 「桜子は悪くない、俺が悪いよ、ごめん……」 本当に悲しそうに泣いている桜子を慰めたいと、そっと抱きしめる。 「……晶さん、ぐす、うぅ」 「ごめん。今日はもうしない。俺、帰るから」 「ひっく、う……んん」 「……そばにいて下さい」 「え? で、でも……」 「お願い。一緒にいて」 すがりつくような瞳で、桜子は俺を見る。 ………そんなことを言われたら、とても断れない。 だけど一緒にいて、またいい雰囲気になってしまったら……。 今度は自分を抑えられる自信がない。 「じゃ、じゃあ、できるだけ一緒にいるけど」 「ずっと一緒にいて欲しいです」 ぎゅっと、桜子が抱きついてきた。 まるで、俺のことを離さないようにしているみたいに。 「わ、わかったから、あんまり抱きつかないで。そ、その……!」 む、胸があたる……! 泣かせてしまって、妙な気持ちもどこかに消えてしまったのに。 そんな柔らかい感触を押し付けられては、また雑念が湧きだしてしまう。 「ありがとう、晶さん……」 「う、うん……」 それからソファーに座り直しても、桜子は俺の腕に抱きついたままだった。 胸が思いっきり当たっていたが、できるだけ気にしないようにして、しばらくじっとしていた。 そのまま桜子がうとうとし始めると、ベッドに寝かせてからそっと部屋を出た。 「んん……ふわぁ……」 なんとなく目が覚めてしまった。 寝ぼけ眼を擦りながら大あくびをする。 「眠い……」 桜子にしてしまったことが気になって、あまり眠れなかった。 ………悪いことをしてしまった。 おまけに泣かせちゃったし…。 けれど桜子、甘くていい匂いがしてたな。 胸もすごく柔らかかった。 「うあっ、何考えてんだ俺。そんなこと想像してるから桜子に泣かれたんじゃないか」 もっと普通に、そういう行為に及ぶべきだったんでは……。 いや、でも普通ってなんだ? 「……うう、頭が混乱してきた。どういう態度で接すればよかったんだろう」 桜子はかわいい。おまけに無防備だ。 それでつい、欲望に負けて触れてみたくなってしまった。 そうじゃなくて、桜子のことをちゃんと考えて、桜子のことをちゃんと見て……。 それで、本人が大丈夫そうだったらってのをちゃんと確かめてから……。 そうだ。とにかく、焦ったらダメだ。また泣かせてしまう。 「なんとか……自分に負けないようにがんばろう…」 「あ、あれ?」 アラームのついている時計を見ると、妙な時間で針が止まっている。 嫌な予感とともに立ち上がり、机に置いてる携帯端末を見た。 「わあああああ! 遅刻――!」 「きゃあ!」 「桜子!?」 「び、びっくりした……」 「ご、ごめん……」 「お、おはようございます、晶さん」 「お、おはよう……」 超特急で着替えて下りてくると、談話室には桜子がいた。 でも、どうして今ここに桜子がいるんだろう? どう考えても遅刻の時間なのに……。 「……あ、あれ? なんで制服じゃないの?」 「あ、私、今日は病院に行くので…お休みなんです」 「……え? 風邪? どこか身体が悪いの?」 「あ、違うの。ただの定期検診なんです。ちょっと検査するだけだから。大丈夫です」 「そうなんだ。それならよかった……」 実際、桜子の顔色も特に悪くはないし、大丈夫との言葉にほっと安心する。 「えっと、あの……」 「う、うん……」 「……」 な、なんだろう……。 桜子が珍しく言いよどんでいる。 俺もちゃんと謝りたいのに、どんな風に言葉を続ければいいのかわからなくて、互いにうつむいていた。 「あ、あのさ……」 「は、はい!」 「昨日はごめん……」 「あ……。いえ、気にしないで下さい……」 「その、あの……」 「じゃ、じゃあ、寮の外まで一緒に行かないか」 そのくらいしか言葉が出ない自分が情けなくて、ちょっと泣きたい気持ちになった。 「は、はい」 「……」 「……」 寮の外に出たからって、会話が弾むわけでもない。 俺たちは、お互いどこかぎくしゃくしたままだった。 離れがたいような、一緒にいるのが苦しいような、不思議な感じだ……。 けれど、桜子は病院があるし、俺は学校がある。 このままじっと立ち尽くしているわけにはいかない。 「……俺、学校、行くから」 「あ、はい……」 「じゃあ……」 「―――晶さん」 突然、桜子がこちらに近づいてきた。 「……え?」 届くシャンプーのいい香りに戸惑っているうちに、桜子はそっと――。 「……んっ」 俺の頬にキスをした。 「じゃあ、じゃあ、私、行きます!」 すぐに姿勢を戻すと、ぺこりとお辞儀をしてから桜子は小走りで去っていった。 「えっ……? あ、えと……え……?」 ……どうして? 驚きのあまり、遅刻をしてることも忘れてしばらく俺は立ちすくんでいた。 「はぁ……」 桜子のことが気になって、授業なんか頭に入らなかった。 休み時間になっても、俺はこうしてため息をついてばかりだ。 「どうしたの、晶くん。今日、元気ないよ? お腹空いてるの?」 「お腹……そういえば、朝ご飯食べてない……」 「わわ、それは大変だよ! ドーナツ! わたしの分、あげるから早く食べて!」 「うう、ありがとう……」 もぐもぐともらったドーナツを食べつつ、それでも俺は桜子のことを考えていた。 さっきのキスはなんだったんだろう。 ただの挨拶だったのかな……いや、まさか、そんな……。 お詫びとか……今日は続きをしてもいいよとか……。 いや、そんなわけないだろ、それだったら泣かないだろ。 「女の子がわからない……」 「ん? 女の子がどうしたの?」 「女の子がほっぺにキスするときって、どんなとき?」 「んーんー。んー。やっぱり……」 「ほっぺに食べ残しがついてるときじゃないかな!」 「食べ残しなんてついてなかったよ、あのときは!」 「あのとき? あのときって、晶くん?」 「うわあぁ! ななな、なんでもない、なんでもないよ!」 「ふえ?」 「それより、ドーナツ、ありがとう。おいしい」 「でしょでしょ〜! ドーナツは命の源だよ。早く食べて元気になってね」 結衣のおかげで、お腹は少し落ち着いた。 だけど心はざわめいたままで。 ……やっぱり授業中も休み時間も、ずっと桜子のことを考えていた。 夕方になり、やっとロビーに戻って来ることが出来た。 たくさんの無機質な医療機器に囲まれての検査は、何度経験してもぐったりと疲れてしまう。 「ふぅ……」 「検査、いつも一日がかりで大変でしょ? お疲れさま」 「ううん、慣れてるから大丈夫です。でも心配してくれてありがとうございます」 「桜子ちゃんはいい子ね〜。私が男の子だったら放っておかないわ、絶対」 「そ、そんな、私……」 「あ、それとも、もう恋人さんはいるのかしら?」 「……あ」 ――私の恋人。……晶さん……。 知らず知らずのうちに、自分の唇に触れていた。 今朝、去り際にキスをしてしまったことを考える。 「赤くなってる! いるんだ〜。いいな、うらやましいわ」 「でも、恋人がいても私……」 「もしかして、このこと?」 看護師さんは、自分の二つの膨らみの間にそっと触れた。 「……」 「気にしちゃうよね。女の子なんだから」 「……」 『水無瀬桜子さん、水無瀬桜子さん、3番の窓口へお越し下さい』 「あ、呼ばれちゃったか。もう少しお話、したかったんだけどな」 「ごめんなさい……」 「いいのよ。気にしないで。それより、がんばってね、桜子ちゃん」 「……はい」 いつもと同じように。 呪文のように心の中で呟いてから、頭を下げる。 検査を終えた後はいつだってそうしてから、帰る。 だけど――左手が、自然と胸元を押さえていた。 何かを隠すように。 部屋まで戻ってきても、表情は晴れない。 気にかかっていることは、ずっと同じだ。 「……」 思い出すのは、同じ顔。 自分のことを本当に大事にしてくれる、大好きな人の顔だった。 『桜子は悪くない、俺が悪いよ、ごめん……』 「晶さん……」 笑顔や、心配そうな晶の顔が、いくつも浮かんでは消えていく。 昨日の夜は、本当に申し訳無さそうだった。 「……違うの、晶さん」 小さくその名前を呟いてから、立ち上がる。 目の前にあるのは大きな鏡。 いつも何気なく――例えば制服のリボンを直すときに、髪をきちんと結うために。 毎日の中で何度も何気なく覗く鏡の前に、立った。 そして―― 「……っ」 そっと胸元に手をさしこんで、服をはだけさせた。 鏡の前にいる自分も、当たり前に同じように胸元をあらわにさせた。 一瞬、息を呑む。 幾度となく見ている自分の体だ。 ふたつの膨らみの間にある一筋の傷跡。 他の女の子にはない、大きな傷跡だった。 見慣れているはずなのに、とそこへ指をはわす。 少し盛り上がった感触が指先へと伝わる。 「私、弱虫だよね」 「だって知ってるもの、晶さんが、私のこと……傷つけないって」 「傷つけてるのは……私だよ」 「晶さん……」 胸の奥で、心臓がとくんと鳴った。 まるで自分に返事をするように。そんな気がしてならなかった。 「わかってるんだよ、信じてるんだよ」 「晶さんは、この傷もきっと……なんでもないって言ってくれる、そんなひとだってこと」 「でも私……私……」 頬から涙がぽろりと落ちた。 「晶さん……私」 傷を覆うように、手のひらで胸をおさえる。 温かく鼓動する心臓が、確かにそこにあった。 「勇気が……ほしいよ。晶さん……晶…さん」 今日の繚蘭会室は、いつもより騒がしい。 いつもなら、それぞれlimelightの用意だったり、繚蘭祭の手続きや打ち合わせなんかでこの部屋に集まることは少ない。 だけど今日は繚蘭会メンバーが全員そろっていた。 データ整理の仕事がすっかりたまってしまったせいか、ずっと研究棟にこもりっきりだった九条までが呼び出されてる。 おまけに俺と結衣、マックスまでも。 「オッケー、これは全部整理済みね。はい、じゃあこっちのはシュレッダーを」 桜子は、ちょっとした用事があって遅れてくる、とのことだった。 もうすぐこちらに合流する、と言われはしたものの。 俺は正直少し困ってしまっている。 昨日の朝、いきなりキスされて、それっきりだから……。 あぁ。だめだめ。キスとか胸とかそういうのはもう考えないようにしないと! 「これ、こっちでいいの?」 「うん。その棚の高い場所にお願い」 「わかった」 「天音ちゃーん、これは?」 「あ、それはよく使うから、取り出しやすいとこ」 「はーい」 「28号、こっちのデータもバックアップを」 「らじゃー!!」 「それが終わったら過去のデータの確認も」 「どんどんこーい!」 みんなで手分けしてやっているからか、作業は面白いように進んで行く。 それぞれが自分が得意な事に集中しているから、なおさら効率はいいみたいだ。 この調子だと、すぐに片付け終わりそうだな。 開いた扉に視線を向けると、そこには能天気な顔をした生徒会長が立っていた。 いつものようにゆるい表情で、ひらひらと手を振っている。 正直、今この場に来て欲しくない人ナンバーワン。 「やあやあ、諸君! 元気でやってるかい!」 「……」 「……ちっ」 「あ、会長さんだ! こんにちはー!」 「おっす!」 「あんた、何しに来たんですか」 「はいはい。用事がないなら帰って!」 「ああ、冷たいよ!!!」 「どーせいらないちょっかい出しに来たんでしょ」 「そんな事はない! 今日ここに来たのはしっかりした目的があるんだ!」 「あっ!!」 しっかりした目的って何だよと思っていると、会長はまっすぐ俺の方までやって来た。 「な、なんなんですか」 「またまたぁ、とぼけちゃって。ん? どうなのよ? 最近どーなの?」 「な、何がです」 「もー。我が鳳繚蘭に咲く可憐な花、全生徒憧れの的の桜子ちゃんとお付き合いしてるくせに……」 「あ、あんたには関係ないでしょ!!!」 「ダメだ! それではダメだよしょーくん!!!」 強い口調で言った会長は、有無を言わさない勢いで俺の体をつかんだ。 そのまま、部屋の隅までずずい〜っと連れて行かれる。 「もうやだ……」 「女の子というのはみんな、お付き合いをすれば色々な事を望むものなのだよ!」 「あんたに何がわかるんですか」 「少なくとも君よりは色々わかってる」 「……」 「そーゆー事も女の子は期待しているのだよ! さあ、ほら、せめてもの贈り物を受け取りたまえ!!!」 そう言いながら、会長は俺の手を取った。 そして、ぎゅっと強く、手の中に何かを握らせた。 手の中には、小さなビニールのような感触。 あんまり見たくない気がする。 でも、このまま握っているのも嫌だ。 仕方なく、恐る恐る手のひらを開いてみる。 ―――そこにあったのは、コンドームだった。 「………」 「え、何? 何する物か知らないの?」 「そーじゃなくて!!!!」 「良かったー。そりゃ、知ってるよねー。知らなきゃ、お兄さんゼロから説明しなきゃいけないトコだったよー」 「そういう事じゃなくて!!!」 「ぐっどらっく!!」 「だから、いらん気を遣うなああ!!!」 何考えてるんだ、この人は!! こんなもんをこの場所で渡すとか常識外れにもほどがある! 大体、こんなもの渡してもらわなくても……! い、いや、そういう問題じゃなくて! 「遅れてすみません。……あら、会長さん」 「や! おじゃましてます」 「……あ、晶さん」 「桜子……」 思わず見つめ合ってしまい、俺たちの間に微妙な空気が流れる。 「あれれぇ? どうしたの二人とも? 見つめ合っちゃってぇ〜」 「え!?」 「あ! い、いえ、その……!」 慌てた桜子は、ふと何か気付いたように俺の手を見ていた。 ……手? 手って、さっき、会長が押し付けたコンドームが――― 「そ、その、晶さんは手に何を持ってるんですか?」 「え!? あ、ああー!!!!」 「え……」 「あ……」 「……最低」 「んー? なんだなんだ?」 手のひらの中には、ばっちりと手渡されたモノが握られている。 おまけに全然、ちっとも、微塵も隠れてない! しかも、この場にいる全員に見られてる!!! 「い、いやいやいや! これはその、えーっとね!!!」 「それはなに?」 「なんだ、晶も知らねえのか? 仕方ねーなー! オレがネットで調べてやるよ!!」 「ちょー! 待てー! 待ていマックス!!!」 「オレの手にかかれば、そのナゾの物体の正体くらいすぐにわかるって」 「いやいい! いいから、調べなくていいから!!」 「えーっとだな、それは……」 「マックスストーップ!!!!」 「え?」 「それも没収!!!!!」 天音が大声でマックスの行動を阻止した。 そして、俺の手の中から勢いよくコンドームを取り上げた。 その、瞬間――― ばらばらときれいに、折りたたまれていたコンドームが天音の目の前に広がった。 あれじゃあまるで、みんなに見せているみたいだ。 いやあ……あそこまで見事だと、驚く事を忘れるなあ。 「あ……」 「あ……」 「……?」 「……」 「……あ!!!!」 全員の視線が一斉に天音に向けられた。 結衣は頬を赤くして、くるりはあからさまに蔑んだ表情。 桜子だけはどういう事だかわかっていないようだ。 そして、事態に気づいた天音の顔が恥ずかしさで真っ赤になる。 あれ……。 これ、もしかしてヤバくない? 天音の顔が真っ赤なのも、恥ずかしいからじゃなくて、怒ってるからのような気が……する…。 「あれはなんでしょう?」 「え、えっと……」 「最低」 「ぶーぶー」 「お……」 「え、えーと。じゃあ、僕そろそろ生徒会室に戻ろうかなあああ」 「あ! ずるい!!」 「ずるくない! しょーくんにはこれを与えよう!」 「な、なんすか……」 普段のだらだらした態度からは想像もつかないような、ものすごい素早さだった。 会長は俺の上着のポケットに小さな何かを滑り込ませる。 「今度はとられるなよ? じゃー僕はこれで……」 「ぎゃあああああああああ!!!!!」 「書類整理っていっても人手がいるんだな……」 束になった紙は重たくて、女の子には確かにきついだろう。 それ以外にも、シュレッダーにかけてもいい書類かどうかの確認をしたりと、思った以上に大変だ。 俺も、ファイリングされた古いスケジュール表を廃棄していいかどうか、職員室へ尋ねに行くところだったりする。 「まあ、ちょうどよかったけどな…」 桜子と目が合うと、何とも言えない微妙な雰囲気になってしまうし。 みんなに知られたら、変な心配をさせてしまうかもしれない。 それに、さっき『あんなモノ』をまき散らすイベントまで起こってしまうし……。 「……」 ……桜子はあれが何か知らないみたいだった。 それだけ知識がないのなら、やっぱり俺があんなことしたらびっくりするよな。 でも、そのわりには突然頬にキスしたりはするし……。 「うう、わからない。女の子がわからない……」 「晶くん」 「きゃ……! 大声出してどうしたの?」 「す、すみません。考え事してたから……」 「あら、それは桜子のことかしら?」 「え!?」 「ふふふ。晶くんは正直ね」 「……すみません」 「謝らなくていいのよ。でも、ちょうどよかったわ。桜子のことで話がしたかったから」 「少し、お時間をいただけるかしら?」 「な、何でしょう? 少しならいいですけど……」 「そうね。じゃあ、場所を変えましょうか」 「……? わかりました」 「今は人の通りも少ないみたいだから。ちょうどいいわ。ここに座りましょう」 茉百合さんが通路の椅子に座る。 少し緊張しながら、俺は茉百合さんの横に座った。 「緊張してる?」 「あ、いえ、あ、はい」 「そんなに硬くなるような話じゃないのよ。安心して」 「……晶くんならきっと大丈夫だって思っているのだけど、どうしても伝えておきたくて…」 「何を、でしょうか?」 「桜子のことよ」 「……はい」 茉百合さんと桜子は、いつも一緒にいる親しい友人だ。 桜子の様子が少しおかしいことに、茉百合さんも気付いたのかもしれない。 だから、俺にそれを尋ねに来たんだろう。 そう思ったのだけど、茉百合さんは少し違う話を始めた。 「私と桜子はいつも仲良くしてるけれど、それはただお友達だからっていうだけじゃないの」 「もちろん、桜子が私にとって大切な友人であることに変わりはないんだけれど……」 「私には、それ以上に桜子を大切に想う特別な理由があるの」 俺はどう返事をしていいのかわからなくて、戸惑いながら頷いた。 俺の戸惑いを察したのだろうか。茉百合さんは少し困ったように微笑んでいる。 「それをね、よかったら晶くんにも聞いて欲しくて。ごめんなさい。突然こんな話をしてしまって」 「い、いえ! 桜子にとって茉百合さんは大切な人で、それは俺にとっても同じだから」 「ありがとう、晶くん」 俺の言葉に安心したのか、茉百合さんは一度目を伏せてから、思い出すように遠くを見た。 「何と言って話せば……いいのかしら」 「難しい、話なんですか?」 「難しくはないのだけれど……」 「……私にはね、昔とても大切な人がいたの。颯爽と私の前に現れて、私に本当の笑顔を与えてくれた人よ」 「でもその人はすぐに私の前からいなくなってしまって…」 茉百合さんの目は、今まで見たことの無い、はっきりとわかる寂しそうな色をしている。 「桜子は……その人がこの世界に残してくれたたったひとつの忘れ形見なの」 「私にとって桜子は、大切な人の命そのものなの……」 どういう……意味だろう? 「……はい」 疑問は尽きないけれど、今は尋ね返すよりも聞き続けた方がいいと思い、頷いた。 「もちろん、本人は何も知らないのよ。私が勝手に見つけ出しただけだから」 どこか儚げに茉百合さんは笑う。 茉百合さんが、桜子を見るときの目。それは他の誰とも違うと思っていた。 こんな形で、答えを知らされるなんて思わなかった。 そう思ったのだけど、茉百合さんは優しく微笑みながら俺に頭を下げた。 「これからの桜子は、私との時間より晶くんと一緒にいる時間のほうが多くなると思うわ」 「だからね、晶くんも桜子のことを大切にして欲しいの。私の分まで、大切にしてあげて欲しいの」 「……ごめんなさい。これは、私のわがままだと思うのだけど…」 「わかります」 「……えっ?」 「いえあの、詳しいことはわからないんですけど、茉百合さんが桜子のことを大事に想ってるのはわかります」 「…晶くん」 「だから俺、約束します。茉百合さんの分まで桜子のこと、大事にします」 「……ありがとう。やっぱり晶くんは……とてもいい子ね」 「でも、俺、桜子にちょっと嫌われちゃったかもしれないんですけど……」 「え? そんなことはないわよ」 「え? でも、ここ数日避けられてるというか、引かれてるというか……」 「ふふふ。それは初めてのことばかりで戸惑ってるだけよ」 「そう、ですか?」 「桜子は男の人とお付き合いするのが初めてだもの。うまく行かなくて当たり前だわ」 「ちゃんと向き合ってあげて。きっと大丈夫だから」 「いつでも信じていて。あなたと桜子は……どんな時でも、確かに運命で繋がっているわ」 「…運命……?」 俺がオウム返しのように聞き返すと、茉百合さんは力強く頷いた。 不思議と、これまでの不安が和らいでいくのを感じる。 「わ、わかりました。がんばります」 「ええ。がんばって」 「じゃあ、俺、職員室に行ってきます」 「私は生徒会に戻るわね。それじゃあ」 支えてくれる人がいるのはとても嬉しい。 茉百合さんだけじゃない。俺と桜子は、周囲にどれだけ応援されているのだろう。 そう思うと、腹の底から力が湧いてくる気がした。 軽く会釈をして、俺はその場を後にした。 繚蘭祭の準備作業を終えて、俺は自室に戻ってきた。 だけど、今日はここからが本番だ。 茉百合さんにも言われたことだし、桜子とちゃんと向き合わなきゃ。 今から、桜子の部屋に行く。 「………」 緊張はすごくしている。 でも、やらなきゃいけないことだ。 茉百合さんのためにも、何より桜子のためにも。 「……いるかな。とりあえずノックしてみよう」 「はい」 返事が聞こえてきた。 留守だったらどうしようかと思ったが、ちゃんと桜子は中にいるみたいだ。 「どちら様ですか?」 「あ、晶さん……」 「あのさ、今、時間大丈夫かな?」 「は、はい。大丈夫ですっ。ど、どうぞ!」 「えっと……」 「は、はい」 「あの……」 「は、はいっ」 「その……」 「は、はい」 いざ来てみたはいいが、何から話せばいいのか迷ってしまう。 桜子もあたふたとしているみたいだった。 まずは、胸を触ってしまったことを謝ろう。それからだ。 「ごめん! 俺、桜子を怖がらせて、泣かせて!」 「……え?」 「つい雰囲気に流されて、俺、桜子の、む、む、胸を、さ、ささ、触っちゃって……!」 「あっ、あの、それは私が悪いんです! その、突然のことでびっくりして……!」 「だから、驚かせちゃって、ごめん!」 「ですから、晶さんは悪くないの! 私、その、胸を触られるのは特に驚いてしまうっていうか!」 「あ、いえ、もちろん嫌だったというわけじゃなくて! あの、その、ええっと……!」 「やっぱり俺が悪いと思うんだ。ごめん」 「晶さんは悪くありません。私が……ごめんなさい」 ふたりでお互いに謝りあうが、話は一歩も進まない。 ……う、どうしよう、この空気。 「……あ、えっと」 どうしていいか困り、思わずポケットへ手を入れた。 すると、小さな何かがぱさっと床に落ちる。 ………。 「…ってそれ!!!」 「あら? これは昼間に天音さんが持ってたものじゃ…?」 気を利かせて桜子が拾ってくれたが、それは昼間大騒ぎする原因になったコンドーム……! 会長が最後に押し込んでいったやつだ! すっかり忘れてた! 「わああああぁ、それはダメ! ダメだからー!」 「ダメ? 特に危ないモノには見えないんですけど……」 桜子がコンドームを両手でかかげ、凝視する。 ……と、とても不思議な光景だ。 「危なくはないんだけど……いや、使い方次第では危ないのか?」 「これは一体何なのですか、晶さん?」 「――えっ!? そ、それは、ええっと……」 「みんなは知ってるみたいだったし、私だけ知らないのは寂しいな……」 「せめて名前だけでも教えてくれませんか? 自分で調べますから」 純粋な瞳で真っ直ぐに訴えかけてくる桜子。 もう、教えませんとは絶対に言えない空気になってしまった。 ……こ、これはもう敗北宣言するしかない…。 「そ、それはね……」 「は、はい」 が、なんて説明したものか。 ダイレクトにするか、オブラートに包んで説明するか。 ……いや、素直に教えよう。 変なイメージを与えてしまってもいけないし。 「えっと…」 桜子は緊張した面持ちで俺の方をしっかりと見つめている。 別にそんな顔をして聞くほどのものじゃないんだよ……。 「これは……恋人同士が、え、え、え、エッチなことをするときに使うものだよ」 「えっ!?」 「それは薄い膜の風船みたいなものなんだけど……」 「男の人の……なんていうか……大事な、棒? にかぶせる……んだ」 「ひゃ、ひゃあ……!」 「そ、その後、ええと……女の人と繋がると……」 「薄い膜があるから……大丈夫っていうか、繋がってるようで繋がってないっていうか……」 「……わ、わかる?」 「は、はい! 想像はできます!」 「その、なんとなく! なんとなくですけど――!」 「う、うん。わかるよ」 「つまり、この薄いものは……」 「いわゆる避妊具っていうヤツで……名前はコンドームといいます…」 「あ、えっと、あの、その、私……! 私、何てことを――!」 「……晶さんに聞くようなことじゃなかったですね。ご、ごめんなさい…!」 顔中真っ赤にした桜子が、すまなさそうにうつむいた。 それを見て、俺も風呂上がりみたいに顔が火照ってきたのがわかる。 「あ、謝らなくていいよ! 知らなかったんだし! それに、俺がちゃんと教えないといけないことだと思うし」 「晶さんが……?」 「だって俺、桜子の恋人だから……」 「は、はい……」 また、半ばうっとりしたような表情で桜子が赤くなる。 この状況で、その顔はまずい……。 また雑念が湧いてきてしまう。 ―――いや、今日は流されない、流されないぞ! 「あ、あの、これ……」 「う、うん?」 「この、コンドームというものを……開けてもいいですか?」 「ええ!? あ、開ける!?」 「見たことがないので……。ダメですか?」 「……い、いいよ」 桜子は純粋に好奇心から言ってるのだろう。 俺も変な考えは努めてはしっこの方に追いやってから、頷いた。 「では、袋を破ってみます」 真剣な表情で桜子はコンドームを見つめた。 ……なんだか変なことになってきたなぁ。 「えい」 びりっと、コンドームの袋が破られる。 「これがコンドームなんですか……。ゴムなんですね」 「そ、そうだね」 「きゃ……!」 突然、何かに驚いたのか桜子はコンドームを床に落としてしまった。 「どうしたの!? 大丈夫!?」 「ぬ、ぬるってしてました! コンニャクみたいに……!」 「そ、それは、たぶんローションじゃないかなぁ? 塗ってある…んじゃ…」 「こ、コンドームとは、そういうものなのですか?」 「た、たぶん。俺も詳しくは知らないけど……。けど、床に落としちゃったから、これ、もう使えないな」 「……ごめんなさい」 「あ、いいよ。気にしないで。会長に無理矢理、ポケットに入れられたんだよ。もともと俺のじゃないし」 「でも、もったいないことをしてしまいました。高価なモノなのかな?」 「そんなに高くなかったと思うよ」 「……ふう。よかった」 よっぽど心配だったのか、桜子から安堵のため息がもれる。 「でも、私たちもいつかは必要になるんですよね……?」 「ええっ!? そ、そうだね。必要にはなるかも……」 そう答えると、桜子の表情が変わる。 今にも泣き出してしまいそうな、せつなそうな……そんな顔。 俺が胸を触ったときに見せた顔と同じだ。 「………」 「どうしたの?」 「前に晶さんが私の胸を触ったとき……」 「……うん」 「怖かったんです。晶さんが、ではなくて、私のこの胸のことを知られるのが……」 「……胸の…こと?」 「……」 桜子は無言で俺の手を取った。 そして、そっと自分の胸に当てた。 「……えっ!? あ、あの、桜子?」 柔らかい感触に、一瞬飛び上がりそうになる。 だけど、桜子の様子はこわばったままだ。 「私ね、ここに傷があって……」 言われて気がついた。 桜子が少しだけずらした服の下から、少しだけ色の変わった線のようなものが縦に走っているのが見える。 これは……傷跡? 「四年前に大きな手術をしたんです。その時の傷なの、これ……」 「じゃあ、検査があるって病院に行ってたのも……」 「術後の経過をずっと診てもらってるんです」 「大丈夫なのか?」 「あ、はい。とても良好だそうです」 「……よかった」 「あのね……私、この傷のこと晶さんに見られたくなかった。がっかりさせちゃうかもしれないって思ったから」 「でも、でも……このままだとずっと晶さんと距離が縮まらないもの」 桜子は、戻した服の上から傷のあるあたりに触れる。 それから、まっすぐ俺のことを見つめた。 「こんな風でも、触れたいと思ってくれます…か?」 「そ、そんなの、当たり前だよ! って、ああ、そういうと何かダメだな」 俺は一旦言葉を止めると、言いたい事を整理した。 桜子は少し赤くなりながらも、律儀に俺の言葉を待っている。 「あの…あの、な」 「俺…やっぱ男だし、桜子のこと好きだし、彼女だし、その…いろんなことしたいって思うけど」 「い、いろんなこと……」 「いろんなことって言ってもその……ええと。うん、正直に言うよ。触れたいとか思ってしまう」 「……はい」 「でも!」 「桜子に触れたいとか、抱きしめたいとか、そういうのはすごくあるけど」 「でもやっぱり好きな子を抱きしめる時は……心がないと」 「桜子の心がないと、嫌だ」 「晶さん」 「だから、無理はしないで」 「……晶さん。ありがとう」 「良かった、やっと気づいた。ほんとはちょっと怖かったの」 「え?」 「傷のことを言うの。でもね、いま大事なことに気づいたんです。忘れちゃいけないこと」 「この傷は……私の命をつないでくれた大事な傷だったこと」 「それを恥ずかしいとか、思っちゃだめですよね」 「……桜子」 「ここに傷があるから、今こうして晶さんと話したり、好きになれたり」 「抱きしめてほしいって、思えるんだから……」 そう言って笑うと、桜子はそのままふわりと抱きついてきた。 「わわっ、さ、桜子!?」 「晶さん……もう逃げないよ」 「……桜子」 「私のこころ、晶さんのことでいっぱいです…だから」 俺を見つめてくる桜子の瞳は本当に真剣で、ひたむきだ。 「本当に、大丈夫?」 「ええ」 確かめるように聞きなおすと、しっかりと頷く。 「晶さんには、知って欲しいから」 「俺も、桜子の事もっと知りたい」 「おんなじ……ですね」 「そうだね」 ふふっとお互いに笑いあう。 たったそれだけの事なのに、少しだけ緊張がほぐれたような気がした。 「俺、桜子が嫌な事はしたくない」 「晶さん、知ってますか?」 「なにを?」 「晶さんは、私が嫌がる事をしない人なんです」 「え……」 「だから、そんなに心配しないで。大丈夫だから」 「うん」 その言葉が嬉しくて、心がじんわり暖かくなる。 大事にしよう。大切にしようともっと思える。 そう思いながら、桜子の部屋着のリボンにそっと触れた。 「これ、こう……?」 「はい。こうやって……」 「あ……」 桜子の細い指がリボンをほどいて行く。 そのまま、指先は部屋着のボタンにかかり、桜子は自ら部屋着を脱ぎ始めた。 「やっぱり、少し恥ずかしい」 「うん。俺も……」 「晶さんも?」 「うん。桜子、きれいだから」 「そんな事……」 照れたように染まった頬。 その赤みが桜子の表情をまた魅力的にしたような気がした。 けれど、桜子はするすると部屋着を脱いで、その全てを俺に見せてくれた。 「晶さん」 「うん」 大丈夫だとは言っていたけれど、あまり正面から見つめない方がいいだろうか。 そう頭に浮かぶと、自然と桜子の背後から体を抱きしめていた。 「桜子……」 「晶さんは、あたたかいですね」 「そう?」 「今、こうして抱きしめられて、すごくそう思うの」 「桜子も、あったかいよ」 「ありがとう……あっ」 背後から抱きしめる腕の力を緩め、そっと手のひらを動かす。 動かした手のひらを肌の上で滑らせ、胸の上へと移動させる。 柔らかな膨らみを包み込み、そっと手のひらを動かす。 「あ、あぁ……」 「大丈夫?」 「はい」 小さくうなずいた桜子を気づかいながら、手のひらをゆっくり動かし始める。 ふたつの柔らかな膨らみ。 俺と桜子の体で違う部分のひとつ。 柔らかくて、気持ちよくて、どうしてこんなものがついているんだろうと不思議になる。 「あ、あぁ……」 唇から漏れる声に心臓がドキドキしていた。 それ以前に、こうして触れ合って、手のひらを動かしているだけでドキドキしている。 それなのに、手のひらの動きは止められない。 柔らかな膨らみを何度も確かめ、ゆっくりと円を描くように動かし続ける。 「はぁ、は……あ、あ……」 漏れる声に甘さが混じっていた。 俺がこうしている事で、その声が桜子から漏れるのだと思うとたまらなく嬉しいと思ってしまう。 でも、大丈夫なのだろうかと不安にもなる。 「大丈夫、晶さん」 「え……」 「私、大丈夫ですから」 「うん」 まるで見透かされているようなタイミング。 優しい声でそう囁かれて安心した。 だけど、恥ずかしくもあった。 俺はそんなに不安そうな表情をしていただろうか。 桜子を心配させていただろうか。 「晶さんがとても優しいから、私は大丈夫」 「ありがとう、桜子」 「ううん」 首を振る桜子にうなずいてから、もう1度手のひらを動かす。 「あ、ああ……」 温かくて柔らかい膨らみ。 その膨らみにしっかりと、だけど優しく触れる。 手のひらを動かすたびに聞こえる声。 俺がこうしているから、その声は聞こえている。 「はぁ、は……あ……」 漏れる甘い声をもっと聞きたい。 そう思うと手のひらは自然と動き続けた。 柔らかな膨らみに触れていた手のひらの動きをそっと止めて、指先でその先端に触れる。 「あ!!」 「桜子?」 「す、少し驚いただけ……」 「うん」 桜子の言葉を信じて指先を動かす。 硬いような柔らかいような不思議な感触。 それを摘み上げ、指の腹で潰すように刺激させる。 「ふ、あぁ、あ、はぁ……」 さっきよりも甘い声。 指先の動きに合わせて桜子の声が漏れる。 びくびくと震える体。 漏れる甘い声。 俺に体を委ねてくれているから、そうなっているんだと思う。 そう思うと胸が高鳴った。 桜子が今まで以上に愛しいと思った。 「はぁ、は……あ、あぁ……」 何度も執拗に指先を動かす。 桜子の声がもっと聞きたい。 そのためには、どうすればいいだろう。 指先を、手のひらを動かしながら考えていると、桜子の視線が俺をとらえた。 「晶さん」 「どうしたの?」 「もっと、大丈夫ですから」 「桜子……」 「だから、お願い……ね」 「うん」 俺はまだ、どこかで桜子の体を気づかっていたのかもしれない。 でもそれは、桜子を悲しませていたんだろうか。 少し不安になる。 でも、そんな俺に気付いたのか、桜子は優しく微笑んでくれた。 その微笑みに安心する。 そしてゆっくりと、手のひらをまた動かし始める。 「あ、んぅ……」 ゆっくりと、胸の上にあった手のひらを動かして肌の上を滑らせていく。 真っ白な肌の上を滑って行く手のひら。 すべすべとした感触。 その感触を手のひらでしっかり受け止めたまま、ゆっくりと移動させる。 「は、あぁ……あ……」 移動させた手のひらで下腹部を撫で、更にその奥へ進ませる。 「あ! ん、んぅ……!」 今までで一番大きく桜子が反応した。 それが何故かなんて、それくらいわかっている。 けれど、手のひらの動きは止まらない。 指先をその奥へと進ませて、桜子の深い場所へと辿り着かせる。 「ふぁ、う……あ、やぁ、そんな、場所まで……」 辿り着いた指先が、ほんの少し濡れた。 濡れた指先をそこで動かし、細かく刺激を与える。 「は、はぁ、あ、ふ……」 濡れる指先でそこを刺激すると、桜子の声が大きくなる。 体の震えも同時に大きくなり、立っているのが辛いんじゃないかと思わせるほどだった。 でも、俺がそう思うと桜子は視線だけで大丈夫だと伝えてくれる。 何もかもわかってもらえている。 それがなんだか嬉しくて、恥ずかしい。 さっきから、こんな風に思ってばっかりだ。 「晶さん……あ、ふ、ああ、あ……わ、私、こんな事…!」 片腕でしっかりと抱きしめ、もう片方の手のひらを動かす。 崩れ落ちてしまわないようにしっかりと。 「はぁ、は、ふ……あ、ああっ、あっ…」 浅い部分で何度も指先を動かす。 あふれ出す量が増え、桜子の息が荒くなる。 もっと奥まで進みたい。 けれど、ここでこうしていると桜子が辛そうだった。 「桜子、こっち」 「え? あっ」 ベッドの上に桜子の体を横たえ、その上に覆い被さる。 すぐ近くでその表情や体を見つめられる。 その事実に胸が高鳴った。 でも、桜子からふっと視線をそらされた。 それがどういう事か、一瞬戸惑う。 だけど、それが恥ずかしいからだとすぐにわかった。 桜子の頬が真っ赤になっていたから。 「……晶さん、私」 「うん」 「ああ、やっぱり……だめ」 「桜子はとてもきれいだよ」 「え……本当?」 「うん、本当」 「はい」 嬉しそうに桜子がうなずく。 けれど、恥ずかしそうに視線をそらしたままだった。 そんな仕種すらもかわいい。 そう思いながら手のひらを動かす。 「あ、あっ!」 動かした手のひらで太ももを撫でる。 すべすべとした感触。 女の子特有の柔らかさ。 どうして、こんなに女の子は柔らかいんだろう。 そんな事を考えながら、指先を足の付け根の方に移動させた。 「は! あ、んぅ!!」 指先がまた濡れる。 濡れたままの指先をもう1度動かし、音を立てた。 くちゅくちゅと漏れる音。 その音が聞こえる部分に視線を向けると、俺の顔まで赤くなったのがわかった。 「あ、はぁ……は、あ……」 何度も指を動かす。 けれど、もう大丈夫なのかわからない。 「桜子、あの」 「は、はい」 「ちょっと、力抜いて」 「力を……ですか?」 「うん」 「はい」 疑問を口にせずに桜子が体から力を抜こうとする。 でも、やっぱり緊張で少しまだ体がかたい。 それでも、指先をそこから離して、既に大きく反応している肉棒をそっと近づけてみる。 「……ひっ!」 触れるだけの軽い感触。 だけど、桜子は驚いたように声を出した。 「ああ、あの、晶さん」 「桜子、大丈夫」 「はい……私、晶さんを信じます」 「うん」 信じると言ってくれた言葉に大きくうなずく。 怖がらないように、あまり辛くならないように、慎重にゆっくりとその先へと進めて行く。 「……ふ! ん、んぅ!」 先端がゆっくり奥に進んで行く。 痛いほど締め付ける感触に驚きながら、もっと奥へと進ませる。 「あ、はぁ……は、あ、はぁ……」 苦しそうに漏れる声。 本当にこれで大丈夫なのかと心配になる。 けれど、ここまでして止められるわけがなかった。 もっと奥まで、もっと桜子を感じたい。 貪欲にそう思う。 「桜子……はぁ……」 「は、い……」 「ゆっくり、だから」 「はい」 健気にうなずく桜子の頬を撫で、もう1度ゆっくり進んで行く。 強く確実に締め付ける、ねっとりとした感触。 その感触を与えてくれているのは桜子だ。 そう思うと嬉しかった。もっと感じたかった。 「はあ、は……」 「あ、んぅ! ん、ん、ふ……」 ゆっくりと動き続けていたのに、突然、その先に進めなくなった。 どういう事だろうと考えたけれど、すぐに理解できた。 一番奥まで辿り着いたからだ。 「晶さん?」 動きが止まった事に気付いた桜子は、苦しそうな息を吐きながら名前を呼んだ。 突然の事に不安になったのかもしれない。 「全部、桜子の中に入ったんだよ」 「え!」 「ほら、ここに……」 「あ、あ……」 そっと、下腹部に手のひらを当てる。 するとその奥に確かに俺のものが入っているのがわかった。 なんだか不思議な感触。 でもきっと、桜子の方が不思議に思ってるに違いない。 「本当に、私の中に晶さんが」 「うん。そうだよ」 「はい……」 恥ずかしそうな返事。 その返事があまりにもかわいくて、抱きしめたくなる。 「じゃあ、ゆっくり動くから」 「え? う、動くんですか?」 「うん」 「わ、わかりました」 「じゃあ……」 「あ、ふぁあっ!」 しっかりと体を支えながら、ゆっくりと動き始める。 腰を引き肉棒を外に出すようにし、またもう一度奥まで進ませて行く。 あくまでもゆっくりと、桜子が辛くならないように。 「は、あ、はぁ、はぁ……は、んぅ……!」 唇から漏れる声は甘さに混じって辛さが滲んでいた。 もっと激しくしたいけれど、できそうにない。 でも、焦らなくていい。ゆっくりと。 「はあ、は、ふぁ、あっ、あぁ」 長く長く続く、ゆっくりした動き。 段々とその動きに慣れて来たのか、俺も桜子も少し余裕が出て来たような気がする。 ほんの少し、今までよりも動きを早くしてみる。 「あ! あ、あっ!! そ、んなぁ、あっんっ」 あふれる音と声が大きくなった。 けれど、苦しさは随分と減った気がする。 だからもっとと、貪欲に腰を動かし始める。 「ああっ! あ、ふぁああっ! や、ああっ! 晶さぁ、んぅ」 「はあ、は……あ、んぅ」 動きが大きくなっても桜子の声に辛そうなものは混じっている様子はなかった。 それがわかると、俺の動きはもっと大きくなる。 奥へ奥へと貫くように、そして一気に引き抜き、また奥へと進んで行く。 「ふ、ああっ! あ、ふぁあっ! 晶さん、晶さん!」 「桜子……!」 名前をもっと呼んで欲しい。 白くて細い腕で、しっかりと俺を受け止めて欲しい。 何度も動くたびにそう思ってしまう。 もっともっと、体全部で桜子を感じたい。 「晶さ……ん! 晶さん!」 「桜子! んっ!」 桜子の視線と俺の視線が重なる。 その瞬間、胸が痛くなった。 こうしている事が嬉しくて、痛くなった気がした。 桜子を離したくなかった。 ただ、大事にしたくて、こうしていたくて……。 「はぁ、は、あっ! あ、ああっ! 私……あ、ああ、こんな事、あんっ!」 腰の動きを大きくする。 必死にしがみ付く桜子を気づかう余裕がなくなっているような気がした。 大丈夫なのだろうかと不安になる事さえできない。 それでも、この桜子の感触をもっと受け止めたい。 桜子の中を俺で満たしたい。 そんな思いであふれていく。 締め付け、絡みつく、ねっとりとした感触。 受け入れてもらえているのだとわかる、その感触をしっかりと受け止めて動き続ける。 「は、ああ、あ、ふ! ふ、あぁっ! や、ああっ! 何か、奥から、ああ、奥が、あっ」 今まで以上に桜子の声が大きくなる。 その声を聞きながら、また更に腰を大きく動かし、奥へ奥へと辿り着いた。 「晶さ……晶さん! ふぁ、あぁ、ああっ!!」 「んっ!」 桜子の体が大きく震えた。 瞬間、その中に埋めた肉棒が強く締め付けられる。 その強さに耐え切れなかった。 もっと、その中の感触を受け止めていたかったのに、それは叶わない。 そして、桜子の中に勢いよくあふれる、どろどろとした感触。 「あ、あ……はぁ、ああ……!」 「はぁはぁ……は……」 その身で全てを受け止めてくれた桜子も少し辛そうに息を吐く。 大丈夫だろうかとそっと見つめる。 「晶さん……」 「うん」 「ありがとう」 「ううん」 嬉しそうな微笑み。 ああ、大丈夫なんだ。 これでよかったんだと心から思えた。 そして同時に、桜子への愛しさで心が満たされた気がした。 毎日、繚蘭祭に向けての準備が続く。 そんな毎日を、俺は桜子と過ごしていた。 とは言え、俺にとっては初めてのことだらけで、あたふたと慌ただしい。 そんな俺と違い、桜子はいつも一生懸命で次々と案件を処理していく。 すごいなと感心しつつ見ていたら、目があって微笑んでくれたりして、俺が赤くなってしまったりとか。 夕日の射し込む放課後の帰り道、誰もいないことを確認して手を繋いだりとか。 忙しい中にも桜子との小さな幸せを積み重ねていた。 そして、とうとう繚蘭祭の日がやってくる。 ついに始まった、鳳繚蘭学園の繚蘭祭。 とは言っても、1日目の今日は内部公開のみだ。 色んな模擬店や展示が立ち並び、全生徒数はそんなに多くない学校のはずなのにすごく盛り上がっている。 どこもかしこも、みんなが今まで必死に準備して作り上げて来たものだ。 開始30分前なのに、もう騒々しい雰囲気で学園内が満たされている。 繚蘭祭中の俺の役目は、この出張limelightのウェイターだ。 もちろんシフト交代制になっていて、今、店内にいるのは結衣、天音、そして桜子だった。 茉百合さんは午後から合流することになっている。 「あ。もう着替えてきたんだ」 少し早い時間だったが、桜子たちはウェイトレスの衣装に着替えに行っていた。 「お待たせしました」 「……やっぱり似合うなあ。かわいい」 「えっ、あ、うん、ありがとう」 「い、いえ、そんな……」 「はいはい、開店前の準備はまだ終わってないのよ」 「きゃ……!」 「うわぁ! びっくりさせるなよ」 「あなたたちが私に気づかなかっただけでしょ? もう見つめ合ったりして」 「ご、ごめんなさい」 「また桜子ちゃんが真っ赤になっちゃった」 着替え終わった結衣も出てきた。 まずは俺たち4人で、『出張limelight』はオープンだ。 「じゃ、じゃあ、準備するか」 「は、はいっ」 順調に準備も終わった頃、チャイムの音とともに、ついに繚蘭祭が始まった。 我が繚蘭会主催の『出張limelight』は前評判でもなかなかの注目を集めていた。 何しろ、目玉になっている企画のインパクトが違う。 あのケーキ王選手権で優勝した、桜子の『考えるちょんまげ』が食べられるんだから当然だろう。 あれは……かなりの衝撃だった。 あの衝撃はちょっと普通じゃ味わえないからなあ。 まあ、ケーキはまったく問題なくおいしかったんだけど。また食べたいし。 そもそも茉百合さんと桜子がウェイトレスをする段階で、全校生徒の注目を集めるのは当たり前なんだけど。 始まってしばらくは目が回るほど慌ただしかったが、昼前になるとお客の数も少し落ち着いてきた。 みんな昼食を食べに、屋台などに行っているのだろう。 今は数組のお客が残っているばかりだ。 「あ、いたいた! 晶くん、桜子ちゃん!」 「ちょっとお願いがあるの!」 そんな中、結衣と天音が小走りでやってくる。 手にはケーキ箱をたくさん持っていた。 「ど、どうしたの? すごく急いでるみたいだけど」 「出前ケーキをたくさん頼まれちゃって……! 今から持って行くところなの!」 「予定より遅れちゃって! 桜子と葛木くんだけになっちゃうけど、お客さんも少ないし、店番お願いね!」 「いや、あのさ……!」 呼び止めてみたものの、二人はそのままばたばたと店内から出て行った。 「い、行っちゃいました……」 「仕方ない。すぐ戻ってくると思うし、二人でがんばろう」 「はい」 午後からは講堂で何かのイベントをやっているらしく、お客の数は相変わらず少ない。 最後のお客が食べ終わって店を後にして、店内は俺と桜子だけになってしまった。 「……お客さんって来ないときは本当に来ないんだな」 「そうですね」 二人並んで入り口を見つめるも、当然お客は入ってこない。 そもそも廊下に人の気配がしないしな……。 「え、俺? なんで……?」 「いいこと思いついたの。お願い」 「いいけど……」 桜子は、誰もいないっていうのに何だか楽しそうだ。 戸惑いながらも、言われるまま席に着いた。 「いらっしゃいませ、お客様」 「え?」 「メニューはこちらになります。お決まりになりましたらお呼びください」 「……せっかく二人きりだから、晶さんにお客さんになってもらおうかなって」 俺がお客さんで、桜子がウェイトレスってことかな。 そういえばlimelightのケーキはもう何度も食べたけど、桜子に接客してもらったことは無かった。 ちょっとわくわくしながら、その提案に乗ることにする。 「じゃ、そうだなぁ……」 ずらりと並ぶメニューを見る。 どれも美味しそうで片っ端から食べたくなるけど……。 あんまり数を多くすると、いざお客が来たときに困ってしまう。 なんとか食欲を抑えて、俺はひとつ選んだ。 「やっぱりショートケーキで」 「ショートケーキですね、かしこまりました」 桜子はにこにこと笑いながら奥へと入っていく。 今、誰かが来たらどうしようと不安に思ったが、入ってくる生徒はいない。 すると、すぐに桜子がトレイにケーキを乗せて戻ってきた。 「お待たせしました〜」 そっとショートケーキをテーブルに置く桜子。 だけど……。何故か、いつも横についてあるはずのものがない。 「あ、あれ? あの、フォークがないんですけど……」 「フォークはここにありますよ、お客様」 「じゃあ、ください」 「だーめ。お客様はフォークを使って食べてはいけません」 「え? どうして? 手で食べろってこと?」 「違うの。えっとね……」 そう言って、フォークを持ったまま、桜子は向かいの席に腰掛けた。 「こうするの。フォークでケーキを切り取って……」 そして小さなフォークに切り取ったケーキをちょこんと乗せる。 「あーんして下さい」 「ええっ!? 人が来るかもしれないのに!?」 「あ、あーん……」 「はい、どうぞ」 「ん……んぐんぐんぐ……」 甘い香りと味が口の中に広がった。 なんだか照れくさいし、いつ人が来るかでドキドキはするし。 なかなか刺激的な経験だ。 「おいしい」 「じゃあ、次はどこが食べたい?」 食べさせてもらっているのは俺の方なのに、どこか甘えるような声で桜子が言う。 それに照れつつ、とりあえず答えた。 「じゃあ、苺の乗ってるとこ」 「かしこまりました。では……」 フォークで丁寧に苺をすくいあげる。だけど……。 「きゃ……!」 苺はフォークからころころと転げ落ちてしまった。 落ちた先は幸いお皿の上だった。 「ふふ、失敗しちゃった」 「…ふふふ」 失敗したっていうのに、楽しそうに桜子が笑うので、俺も笑ってしまう。 なんだか幸せな気分だ。 繚蘭祭の準備でずっとばたばたしていたから、こんな風に二人だけの時間を過ごせるのは久しぶりだ。 「んしょっと。落ちないでね…」 うまくバランスを取りながら、桜子が苺を俺の口に運ぶ。 「あーん」 俺は、苺を半分だけかじった。 なんだかこれを一人で全部味わってしまうのは、もったいない。 「え? 全部食べないんですか?」 「桜子と半分こ、しようと思って」 「え!? で、でも、それだと、その……」 「どうしたの?」 「か、間接キスになってしまいます……」 「……えっ」 「……」 桜子は真っ赤になるとうつむく。 間接キス、恥ずかしいんだ。 もうキスとか……それ以上のこともしたのに…。 「そ、そっか。じゃあ、俺が食べるから」 「た、食べます! 私、食べます! いえ、食べたいです!」 「え?」 「……あっ、うう、ごめんなさい」 「あはは。じゃあ、桜子。フォークを貸して」 「あ、はい」 フォークを受け取るとき、お互いの手が触れてまた少し赤くなってしまう。 いつまで意識してるんだろうと思いつつ、それでも悪い気はしない。 「ちょっと恥ずかしいかも……」 「あーんして、桜子」 「あ、あーん……」 耳まで真っ赤にした桜子が小さな口を懸命に開いた。 「じゃあ、苺を……はい」 「んんっ」 苺は、ぱくりと食べられた。 「んぐんぐ……」 「うん。おいしい」 「少しだけ晶さんの味がしたような気がしました」 そう言いながら本当に嬉しそうに、はにかんで頬を赤らめる。 もう少しだけ……誰も来なければいいのに。 不謹慎だけど、俺はそんなことを思っていた。 それからすぐ結衣と天音が戻ってきた。 同時に、お客も校舎の方にちらほらと戻って、また忙しくなり始める。 午後からは予想より多くのお客がやってきて、この日はずっと働きづめになってしまった。 軽い休憩を終えると、俺はすぐにウェイターの仕事に戻った。 今日もお客の入りはなかなかだ。 「お待たせしました。モンブランとタルトフロマージュになります」 桜子の声を後ろで聞きつつ、俺は……。 「ホットレモンティーとアイスコーヒーですね。かしこまりました」 別のお客の注文を取って、調理場へ伝える。 今日は昨日と違い、手伝ってくれるスタッフの数も増やしてある。 もしかすると、夕方くらいからは手があいて桜子と繚蘭祭を回れるかもしれない。 予想通り、お昼からは少しお客の数は落ち着いた。 昼から来たスタッフもちゃんと働いてくれているし、今日はもう大丈夫かもしれない。 「ようやくちょっと落ち着いたかな〜」 「そろそろ休憩とっても良さそうね。じゃあシフト通りに葛木くんと桜子から先に休んでもらえる?」 「え、いいのか? 俺、朝もちょっと休憩したけど……」 「私もまだまだがんばれますよ?」 「もう、こっちは気を利かせてシフト組んだのよ? ほらほら、素直に着替えに行きなさいって」 「うんうん。おいしいもの、二人でいっぱい食べてくるといいよ〜」 「あ、ありがとうございます……」 「じゃ、じゃあ、先に休憩してくる」 「いってらっしゃい」 「いってらっしゃい〜」 俺は手早く着替えて制服に戻ると、女子用更衣室になっている教室の前で桜子を待っていた。 あのヒラヒラした服はやっぱり着替えるのも時間がかかるんだろう。 「……うーん」 それにしても、ちょっと遅いんじゃないだろうか。 大丈夫だろうか。何だか心配になってきた。 「晶さん! 晶さん!」 「え?」 今、桜子の声が聞こえた? なんだか慌てたみたいな声が聞こえて来たけど、どうしたんだろうか。 「晶さん!」 やっぱり、声が聞こえる。 何かあったのか? ……で、でも、いきなり中に入るわけにはいかないよなあ。 「桜子? どうしたの」 「あの、あの! た、大変な事に……なってます……」 「た、大変な事!?」 「は、はい。大変なんです」 「え、えっと、あの」 「た、たすけて」 なんだかよくわからないけど、桜子が大変らしいって事だけはすごくよくわかった! でも、この状況で中に入るというのは……こう……。 「な、中入ってもいい?」 「は、はい。お願い」 「わかった!」 よくわからないけど、桜子のためだ! 本人からはお願いって言われたし! よし、中に入るぞ!! 「桜子!?」 「晶さん! 良かった!」 「え!? え、あ、あの?」 更衣室の中に入ると、桜子はまだほとんど着替えていないようだった。 ちょっとあられもない姿だったらどうしようとか思ったが、そんなこともなくてよかった。 何があったんだろう……? 「ど、どうしたの?」 「あの、大変なの」 「何が?」 「背中のチャックが、あの……壊れてしまって……」 「え?」 恥ずかしそうに言いながら桜子が背中を向けると、ほんの少し下がったチャックが止まっているのが見えた。 チャックの隙間からは桜子の白い肌がそっとのぞいている。 「さ、桜子……」 「制服が脱げなくなったんです。お願い晶さん、助けて」 「た、助けてって……これ、下げればいいのかな」 「はい。お願いします」 背中を向けたままで桜子が頷いた。 確かにこのままじゃ着替えはできないし……。 しかし、これを下げると言っても……うーん。 「じゃあ、あの。とりあえずやってみるよ」 「はい」 背中を向けたままの桜子に近付き、チャックの部分をじっと見つめてみる。 確かにチャックのかみ合わせ部分にがっちりと布が挟まっていた。 これはひとりで下げるのは大変そうだ。 「うーん」 「ん……」 チャックを掴み、なるべく服が破れないように注意して、下へと降ろしてみる。 でも、がっちりと挟まった布のせいでチャックは全く動かない。 「どうですか……?」 「がっちりチャックに布が挟まってる」 「取れそう?」 「うーん。どうだろう……」 何度かチャックを上下に動かしてみる。 でも、中々取れそうにない。 「んっ……結構、厳しいな……」 「ごめんなさい、晶さん」 「いや、大丈夫」 「はい」 なんとかしてチャックを動かそうとするが、やはりちっとも動かない。 ………どうすればいいんだ。 というかそれより、時々チラチラ見える桜子の白い肌が気になる……。 「……」 「晶さん?」 「うん」 「あの、下まで降りないようだったら、がんばらなくても大丈夫ですから」 「いや、そういうわけにはいかないし」 「でも……」 白い肌だけじゃなくて、ここから下着も見えるんだな……。 こう、チラッチラと見え隠れする感じがどうにも。 「ごめんなさい、こんな事で呼んでしまって」 「いいよ、別に」 「でも、とても大変そうだから」 「いや、まあ、はい……」 「だから、あの」 もじもじと桜子が体を動かす。 また、白い肌と下着がチラチラと見え隠れする。 「………」 正直……。 色々無理。 この状況はもう……無理! 「桜子……!」 「きゃっ!!」 ぎゅっと後ろから桜子の体に腕を回す。 しっかりと抱きしめると柔らかな感触がした。 それに、なんだかいい香りがする。 女の子っていうか、桜子の香り……。 「ごめん。なんかもう、無理」 「晶さん、どうしたの?」 「あの、えっと……」 抱きしめる腕に力を込める。 自分の体を押し付けるように、ぎゅっと抱きしめ続けていると、桜子は何事かを察したらしい。 「晶さん」 「……はい」 「もっと、ぎゅーってしてください」 「……」 「私、もっとあなたに抱きしめられたいの」 「いいの?」 「はい」 そっと桜子が俺の腕に手を添えた。 触れられるだけの感触。 それなのにそれがひどく嬉しい。 囁かれるように伝えられた言葉が嬉しい。 桜子は俺が嬉しいと思う事ばかりをしてくれる。 「俺、抱きしめるだけじゃ我慢できないかもしれない」 「いい、です」 「本当に?」 「うん。晶さんだから、いいの」 たまらなく嬉しい言葉。 その言葉を聞いて、じっとなんかしていられなかった。 「あ、あっ!」 気付いたら手のひらが動き出していた。 抱きしめる腕の力を緩め、ゆっくりと動く手のひら。 その手のひらは腹部をそっと撫で、それからふたつの膨らみへと辿り着く。 「もう……」 「だめ?」 「ううん」 「よかった」 「あ、あっ、んぅ」 胸の上で手のひらを動かす。 柔らかな膨らみに触れているだけで頬が緩む。 何度も何度も執拗に手のひらを動かしていると、段々と興奮が増していく。 こんな場所でこうしていて、誰か来ないだろうか。 そんな不安がないわけではないけれど、手のひらの動きは止められそうになかった。 「桜子」 「あ、きゃ!」 「あ、あの、晶さん」 「ご、ごめんなさい」 「えと、あの、えっと」 思わず、机の上に桜子の体を押し倒すようにして、背中から覆い被さっていた。 でも、こうせずにはいられなかった。 もう抱きしめているだけなんて無理だった。 「だ、大丈夫。少し、驚いただけだから」 「本当?」 「はい」 「良かった」 「でも、ちょっとドキドキします」 そう言いながら、桜子は少し楽しそうだった。 なんだか、そんな様子がとてもかわいくて仕方ない。 「桜子、なんかかわいい」 「え? そ、そんな事……」 「だって、そう思ったから」 「は、恥ずかしい」 「思った事言っただけだよ」 「きゃ、あ! あ、あぁっ!」 なんだかかわいい桜子の胸の上で、また手のひらを動かす。 柔らかな感触がさっきより大きくなった気がした。 何度も何度も柔らかな膨らみの上で手のひらを動かし、その感触を楽しむ。 「あ、ふぁあ、あぅ、あ……」 「かわいい」 「あ、んぅ」 思わずそのまま胸元をはだけさせて、直接胸に触れる。 恥ずかしそうに桜子が声を出したけれど、嫌そうには聞こえなかった。 「晶さん」 「だめ?」 「ううん」 「うん」 かわいい声。かわいい仕種。 もっともっと、桜子を感じたい。 直接胸に触れながら、手のひらを何度も動かした。 柔らかな膨らみが形を変える。 何度も形を変え、その感触を楽しんでみたけれど、そうしているともっと桜子を感じたくなる。 なんて欲張りなんだろうと思う。 でも多分、これが普通なんだと思う。 好きな子には、こうしてたくさん触れていたい……。 「きゃ、あっ!」 柔らかな膨らみだけじゃなくて、他の場所まで触れたくなる。 手のひらを更に移動させ、スカートの裾をまくりあげてその奥にある脚へとのばしていく。 「あ、ふあ!」 内ももをそっと撫でると、ビクリと桜子が震えた。 ひとつひとつの反応がかわいくて、愛しくて、もっともっと色々したくなってしまう。 「あ! しょ、晶さん……んっ!」 脚を何度も撫で、それから脚の付け根へと指先を移動させて行く。 移動させた指先で、下着の上から秘部に触れる。 「ふぁあっ!」 ビクリとのけぞった背中。 触れられたからそうなったと気付き、下着の上で何度も指先を動かしてみる。 「あ、んぅ! ふぁ、あ、あぁっ……!」 柔らかく小さな膨らみの上で指先を動かし続けると、桜子の声が甘くなる。 ビクビクと震える体。 漏れる甘い声。 そのどちらもが、俺の心と体を震わせる。 「は、はぁ、はぁ……あ、あぁ、んぅ……」 指先を動かしていると、桜子の奥からあふれて来ていた。 じんわりと下着が濡れ始め、指先にもそれが伝わる。 「桜子……」 「あ、ぁあ、んっぅ……」 聞こえる声にぞくぞくと体が震えた。 体も、もう充分に反応している。 でも、ここでこのまま……? そう考えるとふっと動きが止まってしまう。 「晶さん……?」 けれど、桜子は指先の動きを止めた俺に、ちらりと視線を向ける。 まるで続きは? と促されているようでドキドキする。 「桜子、もっといい?」 「は、はい」 「……うん」 その言葉だけで充分だった。 動きを止めていた指先を下着の隙間から奥へと進ませる。 「あ、んぅ!」 進んだ指先が濡れた。 濡れたままの指先をそこで動かしていると、くちゅくちゅと何度も音がなっているのがわかった。 もう、これ以上しなくても大丈夫だろうかと思うと興奮する。 「桜子、ちょっとだけ力抜いて」 「あ! は、はい」 こくんと頷いた桜子が少しだけ力を抜いた。 それを確認してからスカートをまくり、下着をずらす。 それからゆっくりと肉棒を取り出した。 「あの、じゃあ……」 「……はい」 取り出した肉棒を秘部にそっと近づける。 「あ、ふ!」 触れただけで桜子が震えていた。 その震えをおさえようと、ゆっくりとその体に触れながら、先端を奥へと進めて行く。 「あ、あっ!」 「あ、んぅ……」 音を立てて先端が進んで行く。 あふれ出し、締め付ける感触に包まれながら、最奥まで辿り着かせる。 「はぁ、はぁ……」 奥まで辿り着いた事に桜子も気付いたようで、視線だけを俺に向けた。 「動くよ」 「は、はい」 「あ、はぁ……」 「あ、あっ! あ、んぅ!!」 桜子の体に負担がかからないように気をつけながら、ゆっくりと腰を動かす。 「あ、ふぁあ! あ、んぅ、んっ!」 何度も何度も、桜子の中で動き続ける。 机に押し付けすぎないように、桜子が辛くないように。 ゆっくりと、だけど確実に何度も何度も動いて、柔らかく包み込むような感触を受け止めた。 もっと受け止めたくて、感じたくて、必死になって腰を動かし続ける。 「あ、はぁ、は……は、ぁあ、んぅ、んっ! あ、ふぅ、ああっ! 奥まで、届いて……あ、あ、晶さんが!」 その感触と声が心と体を震わせていた。 けれど、ほんの少し物足りない。 それがどうしてなんて、わかっている。 桜子を見つめたい。 じっと見つめて、その表情を知りたい。 だからだ。 「桜子」 「あっ!」 桜子の体の向きを変え、片足を持ち上げながら抱きしめる。 しっかりと目の前に桜子の顔が見えるのが嬉しかった。 「晶さん、こんなの……あ、んぅ…恥ずかしい……」 「俺は桜子がよく見えて嬉しい」 「あ……」 「桜子は?」 「私も、嬉しい……」 「じゃあ、一緒だ」 「うん」 頬を染めて答えてくれた桜子に微笑み、また体を大きく動かす。 奥に届かせ、引き抜き、また奥へと届かせる。 大きくそうして動く事で、桜子の体が何度も震えていた。 「あ、ああっ! また、あ、ふぁあっ! ……んんぅ!」 激しく、大きくなった動きに桜子が声を大きくする。 でも、すぐにこの場所がどこか気付き、必死で声を堪えた。 「ん、んぅ! ん、ふ、あっ!」 そんな桜子をじっと見つめながら、何度も何度も腰を突き上げる。 その体まで貫いてしまいそうなほど強く、激しく腰を突き上げ、桜子を浮き上がらせる。 がたがたと大きくなる音に桜子は驚いているようだった。 けれど、すぐにそれよりも体の衝撃に耐える方に必死になる。 「あ、ふぁっ! 晶さ……あ、んぅ!」 何度も突き上げ、時々角度を変える。 奥でぶつかるたびに引き抜き、また角度を変えて突き上げる。 「は、あ、はあ、は、変、こんな感じぃ、ふ、あっ! あ、んんぅ!」 そうする事で、桜子の体をもっと感じられるような気がした。 だから、何度も何度も同じように突き上げ、引き抜いてをくり返していく。 「はぁ、は、あっ! あ、んぅ!! やあ、おかしく……なる、んぅ」 奥まで何度も届かせると、包み込まれるだけじゃなく、ねっとりとあふれ出す感触も伝わる。 動くたびにぐちゅぐちゅと聞こえる卑猥な音と、あふれ出す感触にすら背中が震えた。 「晶さぁ……ん! ん、んぅ!」 「桜子! んっ……!」 もっともっと、その奥へ。 深い場所へと届かせたい。 そんな思いが動きを激しくする。 「あ、あ、はあっ! は、はぁ、ふぁ、ふ……あ、んぅ!」 動き続けていると、桜子の表情が辛そうに歪む。 大丈夫だろうかと不安になる。 けれど、どうしても動きが止められない。 もっと奥まで桜子を感じたい。 「ああ、ふ! 晶さん……!」 「桜子、辛い?」 「ううん。ちが……の……」 「うん」 「晶さんと……こうしてるの、あっ! 嬉しくて……気持ちよくて……」 「桜子!」 「あ、ふぁあっ!」 嬉しいと微笑んだ表情がかわいかった。 もっと、こうしてあげたいと思った。 もっと、こうなりたいと思った。 桜子のためなら、なんでもできるような気がした。 そしてまた、大きく激しく腰を突き上げ、何度も奥へとたどり着かせて大きく体を震わせる。 「ひ、あっ! あ、ぁああっ!」 震える体の奥で、包み込まれる肉棒が強く締め付けられる。 もっとしてあげたいのに、桜子の体がもう無理だと伝える。 でも、それが伝わっている事すら嬉しいと思う。 だから、最後はもっともっと深い場所で。 桜子の奥の深い、深い場所へと目指す。 「はあ、は、あ、あぁっ! あ、あぁあ、あっ!」 どんどんと奥へ辿り着かせようと、奥へ奥へと進んだ。 そして、1番深い場所まで、また辿り着く。 瞬間、今までと違う大きな感触。 「ふあっ! あ、んぅ! ああぁっ!!」 「っくぅ!」 ビクンと大きく、桜子の中に埋めた肉棒と体が震えた。 堪えきれず、その中に埋めた肉棒から精液があふれ出す。 どくどくとあふれる精液は桜子の中を満たして行く。 あふれる感触が、満たして行く感覚が、ぞくぞくと背中を震わせていた。 「はあ、はぁ、はぁ……」 「ああ、晶さん」 「桜子……」 そっと、表情をうかがう。 すると桜子は優しく微笑んで俺を見つめてくれていた。 なんだか、その微笑みだけでまた愛しさが増したような気がした。 その後、結局壊れたチャックは俺にはどうにもならず、天音や結衣に助けを求めることになってしまった。 ……桜子は相変わらず嬉しそうにしていたけど、さすがに今は少し反省している…。 もう少し理性というものを持つべきだな、俺……。 あっという間に時間は過ぎ、長いようで短い繚蘭祭は終わりを告げた。 最後のお客さんを送り出して、繚蘭祭終了の放送が聞こえた後、一気に疲れが襲って来たような気がした。 ゴミを捨てに行った天音と結衣たちの帰りを、俺は桜子と二人きりで待っている。 茉百合さんは、放送で呼び出され生徒会に戻って行ってしまった。 「繚蘭祭、大変だったな」 「はい。でも楽しいです。とても」 「俺も楽しかったよ。さ、桜子が一緒だから……」 「しょ、晶さん……。ありがとう。私も」 「うん。後は明日の片付け作業と掃除を頑張るだけだ」 俺が何気なくそう言うと、桜子は突然、辛そうにうつむいてしまう。 「……」 「どうしたの、桜子?」 「……明日から入院しないといけないの」 「え!? なに!? 病気!?」 「あの、そういう重い症状ではなく、再検査するだけだから」 「検査って、大丈夫なのか?」 「はい。身体が悪くて入院するんじゃないんです。検査入院で、一日だけですし」 「本当か? さっきの桜子の表情、すごく深刻そうだったけど……」 「あっ、そ、それは……」 夕日を浴びる桜子の頬がほんのりと赤くなった。 「一日でも晶さんと一緒にいられないのが嫌だから……」 「そ、そう! そっか! う、うん。そか」 「……でも、それは俺もだよ、桜子」 「……晶さん」 風に揺られるようにふわっと、桜子が胸に飛び込んできた。 受け止めて、そっと唇をあわせる。 「……んっ、んんっ」 ゆっくりと唇が離れた。 「……晶さん」 潤んだ瞳で、俺を見上げる桜子。 ああ、さっき理性持てって思ったばかりなのに、俺。 もうぐらぐらだ。 「桜子……」 「あー、重かったわね〜、さっきのゴミ」 「途中で八重野先輩に会えてよかったね」 「きゃあ!」 俺たちはすさまじい速さで、お互いぱっと離れる。 「何、どうしたの、二人とも?」 「ん?」 「なななな何でもない! な、桜子!?」 「は、はい! 何でもありません!」 「思いっっっきり何かありますっていう反応なんだけど…」 「晶くんも桜子ちゃんも汗かいてるよ? 暑い?」 「あ、そうかも! 夕日がちょっと!」 「その、それよりも残りを片付けてしまいましょう!」 「そうね。のんびりしてたら晩ご飯に遅れちゃうわ」 テーブルやパネルなどは明日の作業に回して、食べ物や食器の片付けだけは今日中に終わらせてしまう事になった。 みんなでテキパキと片付けを進める中、俺は桜子に小さな声でささやきかけた。 「……首をすっごい長くして、桜子が帰ってくるのを待ってるよ」 「はいっ」 夕日のせいか照れているのか、頬が朱色に染まる桜子の笑顔が心に焼きついた。 繚蘭祭の後片付けは無事終了した。 生徒達はみんな疲れ果てた顔で寮に戻り、明日からの連休をどう過ごそうか思案している。 結局、すずのの姿は学校のどこにもなかった。 心配でたまらなかったが、結衣は笑顔で、寮で待っていればきっと帰ってきてくれる、と言ってくれた。 今までも学校ではぐれた時も、夜になったらちゃんと部屋に帰ってきていたらしい。 それを聞いて、何だか少し安心できた。 しかし、疲れた……。 今日は早めに寝た方がいいかもしれない。 部屋に戻ると、マックスはまだ戻っていなかった。 明日のlimelightの準備をしているのかもしれない。 あいつ、やっぱり真面目だなぁ。 「はあ……」 疲れた体を休ませるため、ベッドに寝転ぶ。 ごろんと寝返りを打って、天井を見上げてみた。 別になにもない。 ただ、こうしてひとりでぼんやりしていると淋しい。 「……」 桜子は元気にしてるだろうか。 今日一日、桜子に会っていないということを今更になって思い出した。 会いたい。 俺がこう思ってるって事は、桜子も同じ事を思ってくれてるのかな。 ……だったらいいのに。 それにしても……眠い。 …………。 ………。 ……。 ぼんやりとした頭で、俺は夜空を見ていた。 なんだろう。 なんなんだろう、これは。 変な感覚が体全体を覆っている。 上から下に何かがスゥっと通り抜けて行くような、そんな感覚。 どうして、こんな感覚を感じているんだろう。 いや、違う。 通り抜けて行くような感覚、じゃない。 これは違う。 そういうのじゃない! 違う、違う! 「うわああああああああああ!!!!」 これ、落ちてる! 夜空が見えるのは、高い空から落ちているからだ! 俺は、どこかに向かって落ちている! しかも、頭から!!!! 動けない!!! 「おち、落ちるうううう―――!!!!」 「わあああああ!!!」 「ああ!!!……あれ?」 きょろきょろと周りを見渡す。 そこは見慣れた部屋の中だった。 さっき、頭から落ちて行きそうになっていたのは……。 夢、だったのか? 「……」 ぼんやりと思い出してみても、やっぱりさっきのはあまりにも現実味がない。 ゆめ…。 夢だったのかぁ。 そうだよな。 あんな高いところから落ちたら、確実に死んでしまう。 「はあ…」 「おうわ!!!」 突然鳴り響いたアラームに、心臓が飛び上がった。 思い切りアラームボタンを叩きながら時計をよく見ると、昼を回っていた。 そんなに寝てたのか? むしろなんでこの時間にアラームが鳴るんだ? 俺がセットしたんだろうか。 まあ、いいか。 今日は振り替え休日で授業もないはずだし。 「うう、眠い」 よく寝たはずなのに、まだ眠い。 おまけに繚蘭祭が終わって疲れてるのか、体が重い。 なんだろうか、このぐったり感は。 「なんか、体だるいなあ」 どのくらい寝てたんだろう。 そんなに寝てたつもりはないんだけどな。 でも、俺とした事が朝ご飯も食べずに寝てたとか……。 一食抜いてしまった。もったいない。 「ふぁあああ」 まあ、いい。さっさと着替えてご飯食べに行こうっと。 ぼんやりしたまま談話室に来ると、天音と九条がいた。 ふたりは寝起きの俺を見ると、表情を少し変えた。 もしかして、寝癖とかついてるのかな。 「あ、葛木くん」 「今、起きた?」 「いや、まあ、はい」 「ふーん」 「昨日、疲れたもんねー」 「そうだな。そのせいか、なんかまだ疲れが残ってるかも」 「朝ご飯も食べないで寝てたのに?」 「あああ……それ言われるとお腹が減る」 「じゃあ、今からlimelightに行かない?」 「え? 今から?」 「うん。繚蘭祭お疲れ様でしたーみたいな感じで、お茶しませんかって話になってて」 「あ、行くいく。みんな行くの?」 「ええ。茉百合さんも来るわよ」 「28号も店にいるし」 「そっか、じゃあ俺も行く」 「朝ご飯はいいの?」 「limelightでケーキ食べるからいい!」 「……理解不能」 「それじゃあ、行きましょう」 「うん!」 部屋に戻って外に出れる格好に着替えると、俺は天音たちと共にlimelightに向かった。 店内に入ると、茉百合さんがもう座っているのが見えた。 マックスの姿が見えないけれど、多分、厨房で作業をしているんだと思う。 それはいい。 でも、どうして生徒会のみんなも一緒にいるのだろう。 いや、他の人はいいんだ。他の人は。 問題はやっぱり……。 「もー。みんな遅いぞー!」 「なんでいんのよ……」 「くるりーん!」 「うん」 「ごめんなさい。私が行くと言ったら、みんなも一緒に行くと言い出したから」 「いえ、それは別に構わないんですけどね」 「ほーら。俺の隣は天音のために空けておいたぞー」 「結構です!」 「一緒に座ろうよう〜」 「八重野先輩、隣よろしいですか?」 「ああ」 「天音えええ!!」 この生徒会長さえいなければ!!! という事だ! 天音に隣に座る事を断られた会長は、ちらりと俺を見る。 嫌な予感しかしません。 「仕方ないなあ。じゃあ勇者しょーくんよ、座ることを許してやってもよいぞ」 「遠慮しときます」 「でも、もう俺の隣しか空いてないし」 「な!!!!」 嫌がっていても仕方ない。 渋々会長の隣に座り、俺はケーキやらサンドイッチやらを注文した。 もちろん飲み物も忘れない。 みんなが呆れていた気がするけど、気にしない。 何故なら、俺のお腹はいま空っぽに近いからだ。 「……よし」 一通り注文を終えた後、店内を眺めた。 テーブルに置かれた花や、ショーケースに並んだケーキたち、いろんなメニュー。 ちょっと前まで、みんなで開店の準備をしてたのが嘘みたいだ。 「ここも随分、落ち着いてきたみたいね」 「そうですね。アルバイトの生徒も増えたみたいだし」 「もう、俺たちが手伝わなくても回ってるもんな」 「うん。マックスの作るケーキも最高だしね」 「28号にミスはないから」 「うんうん! 本当に復活させてよかったね」 新生limelightは、もう俺たちが手伝わなくても、いい感じでやっていけてるみたいだ。 あのまま店がなくなっていたら寂しかっただろうし……。 無事にやっていけてるみたいで良かったな。 「それもこれも、俺の考えたケーキ王選手権のおかげだな!」 「さすがはかいちょーです!!! 素晴らしいのです!!」 「ぐみちゃん、もっと褒めてほめて」 「前から思ってたんだけど、なんでぐみちゃんはそんなに会長の肩を持つの?」 「はい、会長はすばらしいからですっ!」 「えーっとどこらへんがでしょうか」 俺の質問に答えるため、ぐみちゃんは勢いよく立ち上がった。 「会長は、会長はまさに……」 「とにかくもうっ、すばらしいとしか言いようがないのですっ! 残念ながらぐみには他の言葉が許されておりませんっ!」 それはもはや、人を褒めているというのだろうか。 なんだか違う気がするんだけど、どうなんだろう。特に最後の。 俺だけがこんな風に思っているんだろうか? そんな風に考えて、天音をチラっと見てみると、絶句していた。 うん、良かった。 俺の思考はまともだ。 「そんなすっばらしーかいちょーのおかげで、limelightは大繁盛です!!」 「いやあ、そんなに言われると照れちゃうなあ」 嬉しそうに頭をかく会長。 それを見て、満足げにうなずくぐみちゃん。 まあ、このやり取りにもいい加減慣れた感じではある。 「まあ、お前は考えただけで何もしていないがな」 「ひどいっ!!!」 「ケーキ王選手権でもズルしたし」 「くるりんまで!!!」 「みんなが言う通りじゃない」 「何ひとつ間違った事がないな」 「天音としょーくんも!!」 なんだかんだ言って、俺も他のみんなと同じで、この人の扱いに慣れた気がする。 ま、こんなに密度の濃い人なら、短期間で慣れてしまうのも仕方ないかな……。 全然嬉しくないけど。 「大変! 今日入る子、二人も風邪で来れないって!」 「本当に!? どうしよう、今日はギリギリの人数でシフト組んでたのに……」 「他の子にも連絡してみたけど、みんな無理みたいで……もうちょっと他を探してみる」 会長をいじって遊んでいると、店内のアルバイトの子達がなんだか慌ただしくなっていた。 何かあったんだろうか? 「……あら。どうしたのかしら?」 「なんかあったみたいだね」 「シフトがどうとかって……」 「ねえ、ちょっと。何かあったの?」 天音が呼び止めると、呼び止められた子が驚いたような表情を浮かべた。 このメンバーが揃っていれば仕方がないか。 その子は、驚きながら何が起こったのかを説明してくれる。 「あ! あの、実はシフトに入る子が何人か風邪をひいたみたいで来られなくなったんです」 「そうなの、それは大変だわ」 「今日はいつもより少ない人数でシフトを組んでいたから、今急いで代理の子を探してるんですけど……」 「緊急事態」 「なんか、ヤバそうだな」 「ねえ、天音ちゃん」 「はい」 「それなら、私たちが手伝うという事でどうかしら? みんなこの後、特に予定はないんでしょう?」 「え! ええ!? ま、茉百合様たちが!? そんな!!!」 「ああ、そうですね。それが一番早いわ」 「緊急事態なら、それが最善」 「じゃあ、決まりね。私たちでお手伝いしましょう」 「んじゃあ、がんばるか」 「あ、あの! ありがとうございます」 というわけで、俺、天音、九条、茉百合さんで手伝いをする事になった。 こういう時は、みんなでやれば手っ取り早いだろう。 「よーし! じゃあ、俺も!」 「お前は座ってろ」 「かいちょーはここで、見守ってくださるだけでいいのですー」 「あ、そう?」 「食べ終わったら邪魔にならないうちに戻るか」 「はーい」 「んー。人増えたら邪魔かあ」 ひとまず、朝からというバイトの子を休憩に行かせた。 かなり長い間働きづめだったろうから、とりあえず休ませてあげないといけない。 天音達でホールを回してもらって、俺はマックスの手伝いだ。 しばらく手伝っていると、だんだんと店内も落ち着いてきた。 この分だと次のアルバイトの子が来るまで、俺たちで充分回せるだろう。 「注文入りましたー。お願いしまーす」 「おう!」 「確認しまーす。えーと、本日のケーキセットで、ドリンクはハニーティー」 「わかった、ケーキ出してくるぜ」 「ハニーティー……?」 なんだか、聞き覚えのある言葉だ。 頭が、ぐらっとする。 ……何だろう? この、感覚……。 「ハニーティー……」 「……あれ?」 『私、すごくおすすめのメニューがあって、ここで出せないかなあって……小さい頃からずっと、お母さんが作ってくれたの』 『それって、どんなの?』 『ハニーティーです。はちみつが入っていて、甘くて、ほんわかしちゃいます』 突然、懐かしい記憶が頭をかけめぐる。 恥ずかしそうに、でも嬉しそうに、そう言う姿。 彼女のきれいな手から、カップに紅茶が注がれるのを俺は何度も見た。 ………どうして、こんなに懐かしいと思うんだろう? 俺の前で笑っていた女の子は……。 何故か彼女の名前が思い出せない。 俺にとって、とても大切だったはずなのに。 もやがかかってしまったように、記憶の中では白くかすんでぼやけてしまっている。 その子の名前は――。 『サクラ貝です。…これ、晶さんにあげます』 「え、うん」 『とても好きなんです。私と同じ名前で、すごく綺麗な色をしているから』 そうだ。 サクラ貝と同じ名前。 ―――桜子! 「どうして……」 どうして忘れてしまっていたんだろう。 ほんの数日前まで、俺はずっと桜子のことばかり考えていたっていうのに。 不自然だ。 あまりにも不自然すぎる。 でも、自分のことなのに、俺にはうまく説明ができなかった。 「晶くん、どうかしたの? なんだか呆然としてるみたいだけど…」 「茉百合さん、俺、どうして忘れてたんだろう」 「……え?」 「俺、桜子の事を朝からすっかり忘れてたっぽくって……だめだなあ、俺、忙しかったからって…」 「さくらこ……?」 「そうです。今までずっと……なんでだろう。このハニーティーで思い出して……なんで俺、忘れてたんだろう」 「晶くん、あの……ごめんなさい、何を言っているのかよくわからないんだけど」 「何って、桜子の話…じゃないですか」 「……え」 「このハニーティーが好きで、このメニューも彼女が提案してできて……それで俺、ようやく思い出したんですけど」 「え? どういう事……?」 「だから、えっと、このハニーティーが好きで」 「……?」 茉百合さんは困ったように首をかしげたままだ。 どうしたんだろう? 何だか、話がかみあっていない。 それだけじゃなくて……さっきから感じる、この奇妙な違和感は何だろう…。 「ハニーティーできましたかー?」 「あ!」 「ごめんなさい、まだだわ。私が晶くんを呼び止めてしまったの。すぐに用意するわね」 「はーい。わかりました」 「茉百合さん……」 「今はとりあえず、お店が先ね。お客様も増えて来たわ」 「は、はい」 「注文入った」 「わ、わかった!」 「さあ、お話はおしまい」 「お? ケーキなくなって来たな。新しく用意しなきゃいけねーな!」 ちょうど混雑する時間帯になってきて、俺は考え事すら出来ずに店内を走り回っていた。 だけど、慌ただしく動いている間にもつきまとう違和感はずっと消えてくれなかった。 客足が落ち着いたのは、数時間後――。 それぞれ、今日は忙しかったねと口に出しつつ、寮へと戻る。 もちろん俺も同じだった。 「さくら……こ」 寮に戻っても、あの不思議な感覚が消えない。 なんだか心の奥がむずむずしているような、落ち着かないような。 何故忘れてたんだろう。 忘れるなんてありえないのに――。 俺は今朝見た夢を思い出した。 高い場所から放り投げられるような、嫌な夢。 きっとあんな夢を見たせいに違いない。 「……うん、そうだよな」 桜子は……もう病院から戻っているんだろうか。 桜子に会えば、きっとこの気持ちも晴れる、そんな気がする。 そう思うと俺の足は自然と桜子の部屋に向かっていた。 「あれ、天音」 「ああ、葛木くん」 ちょうど桜子の部屋のほうを見た時だった。 小さな掃除機を持った天音が、そこから出てきた。 「天音、何してるの?」 「ああ、ちょっと掃除していたの。あまり長い間放っておくと、ほこりがたまっちゃうから」 「え?」 「そうでないと、次にこの部屋を使う人が困るからね」 「……次に…って」 「……だってそこ、桜子の部屋じゃ…」 「え? 桜子?」 「あの、この部屋、もう使ってるだろ?」 俺があっけに取られたように言うと、天音は不思議そうに俺を見返した。 「何言ってるの? ここはずっと空き部屋よ」 「え……」 「天音、何言ってるんだ。だって、そこは前からずっと桜子が使ってて…」 「?? 桜子って、誰?」 「だから、繚蘭会で一緒で、limelightを再開しようって言い出したのも桜子だったろ?」 「……?」 「……天音?」 天音の言葉を信じることができなかった。 でも、嘘をついているようには見えない。 天音はそういう冗談は言わない。 何よりも、本当のことを言うように、すんなりと不思議そうな顔をしている。 「葛木くん、どうしたの?」 「いや、あの……」 「あ、ごめん、ちょっとくるりと約束あるから。また後でね」 「あ、うん」 天音はそのまま行ってしまった。きっと急いでいたんだろう。 残された俺はただぼんやりと立ち尽くした。 目の前には、閉ざされた扉がある。 俺が何度も来た、桜子の部屋だ。 場所も間違っていない。 間違うはずなどない。 「……」 天音が悪い冗談を言っている――とは思えなかったけど。 ここが空き部屋なわけない。 そう思いながら、俺は扉を開けた。 「…………え?」 俺は息を呑んだ。 目の前にあったのは、見知った部屋とは違うがらんとした空間。 あたたかな色のカーペットも無くなっているし。 たくさんの本が詰まっていた本棚も、空っぽだ。 桜子に見せてもらった、部屋中にあった絵葉書だって一枚たりとも残っていない。 「なんで、だ……?」 入院するからって、片付けたのか? でも、ほんの一日だけだって言ってたのに。 それだけでこんなに何も無くなっているわけがない。 一体、どういうことなんだ。 説明がつかない。 …いや、本当はひとつだけ、説明がつく事があるのだけど……。 つまり、最初から……。 『最初から誰もここにはいなかった』 ―――だけど、そんなことは認めたくない! 認めてしまったら……俺は…。 桜子は……! 俺は耐えられなくなって部屋を飛び出した。 談話室まで下りると、天音と九条が何かファイルを広げながら話をしていた。 「あれ? どうしたの」 「……」 「なあ! 桜子の部屋、どうして空き部屋みたいになってるんだ?!」 「また、桜子って人のこと?」 「……誰?」 九条の言葉に、また衝撃を受ける。 さっきの天音と同じ反応だ。 「だって、繚蘭会のメンバーで、三人でいつも一緒にやってたじゃないか!」 「繚蘭会は私とくるりだけよ? 時々人手が足りないときは茉百合さんが掛け持ちしてくれてるけど…」 「うん、正規メンバーは二人」 「そ、そんな、だって!」 「不可解」 「……葛木くん…大丈夫?」 天音は俺の顔を心配そうに覗き込んだ。 二人とも、本気なんだ。 本気で……桜子のことを知らないって言っている。 認めたくない……。 まだ、認めたくない。 「あの、具合悪いなら寝てた方がいいよ」 「脳の中身を検査した方がいい」 「くるり、それ言いすぎ…」 「そうじゃなくて。頭部強打による記憶障害などの可能性が」 「えっ…! そうなの、葛木くん! 大丈夫?! どこかでこけたりしたの?」 「いや、あの、大丈夫……」 「そうは見えない」 「無理……しない方がいいよ?」 「うん、ありがとう」 このままここにいても、多分どうにもならない。 俺は半ば放心状態のままで、寮を出た。 どうなっているんだろう。 桜子は……どこに行ってしまったんだ。 ほんの数日前までの幸せだった日々が、全部嘘みたいだ。 繚蘭祭のとき、確かに俺のそばにいたのに。 ………でも、その感覚は、今ははるか遠い。 柔らかな体。 ふわふわ揺れる長い髪。 いつもまっすぐ俺を見てくれていた瞳。 何もかもが、まるで夢のように俺の中から消えてしまいそうになっていた。 「……そうだ」 茉百合さんの顔が浮かぶ。 さっきは忙しくて、ちゃんと話が出来なかったけれど……。 茉百合さんなら、もしかして違う答えを返してくれるんじゃないだろうか。 あれだけ、桜子の事を大事にしてたんだ。 茉百合さんなら…。 俺は一縷の望みをかけて、茉百合さんの部屋へと向かった。 「晶くん、どうしたの突然…?」 突然尋ねたにもかかわらず、茉百合さんはすぐに部屋のドアを開けて俺を招き入れてくれた。 「あの、すみません。どうしても茉百合さんに確かめたい事があって……」 「……わかったわ。どうぞお入りになって」 緊張しつつ、部屋にあがらせてもらう。 だけど俺をソファに座らせた後、茉百合さんは席を立った。 「ちょっと待ってくださる? お茶を入れてきますから」 「あ、あの…」 「大丈夫、ちゃんとお話は聞きますわ」 「あ、はい…」 茉百合さんがお茶の用意をしてくれている間、俺はずっと桜子のことを考えていた。 空っぽになっていた桜子の部屋。 天音も、九条も。 桜子なんて子は知らないと言う。 茉百合さんも、俺が桜子のことを思い出したとき、やっぱりおかしな反応をしていた。 やっぱり知らないって言われるんだろうか。 桜子のことをあんなに大事にしていたのに。 ―――どうして。 こんな事になってしまっているのか、俺にはわからない。 それとも、俺が間違っているのだろうか。 もしかして、あの夢の続きを延々と見続けているんだろうか。 もしもそうなら……早く目覚めてほしい。 ぎゅっと目をつぶって、深呼吸する。 「お待たせしました。さぁ、どうぞ」 だけど、何も変わりはしなかった。 茉百合さんが持ってきてくれた、湯気のあがる紅茶が目の前に置かれる。 いい香りだった。 波立っていた心の中が少しだけ落ち着いた。 「ありがとう…ございます」 「それでは、どうぞお話になって。limelightにいた時から、晶くんは何だか様子がおかしかったけれど……そのこと?」 「……はい」 そう返事をしつつ、俺は出された紅茶を飲んでみる。 聞くのが少し、怖かったからだ。 だけど聞かないわけにもいかない。 紅茶を置くと、まっすぐに茉百合さんを見つめた。 「あの、繚蘭会のメンバーって……天音と、九条だけだったんですか?」 「ええ、そうだけれど」 「三人じゃなかったですか?! もう一人! もう一人、女の子がいて…」 「ときたま私がお手伝いに行っているから、三人と言えなくもないわね」 「…………」 やっぱり、駄目なのか。 茉百合さんも。茉百合さんでさえも……。 「晶くん?」 「……桜子が……いなくなってて、部屋にも、どこにも…みんな桜子の事を忘れてて…!」 「……桜子…」 「茉百合さんは覚えてないんですか?! あんなに、仲がよかったじゃないですかっ!」 「桜子の事を大事だって、あんなに言ってたのに!」 「…………」 茉百合さんは、静かに何かを考えている。 他のみんなとは微妙に違う態度のような気がして、俺も黙って待っていた。 「晶くん、その、桜子って子の事…詳しく教えてもらえないかしら」 「…はい」 ほんの一言だけだったけど、茉百合さんが口にした桜子の名前。 やっぱり、他の誰とも違う感じがした。 わずかだけど、何かが繋がった。 そう感じて、俺は桜子という女の子のことを必死で話した。 「桜子は繚蘭会のメンバーで、俺を繚蘭会寮に迎え入れてくれた子です」 「学校中のアイドルで、でも本人にはまったくそんな自覚がなくって。ふわふわの長い、綺麗な髪の毛をしていて、いつも明るくって…」 「けっこう好奇心が強くって、何にでも一生懸命挑戦して……」 「俺の、俺の大事な…はじめて好きになった子です…」 「…………」 「晶くんは、その桜子って子の事が、好きだったの…?」 「はい…桜子も、俺のこと、好きだって言ってくれました」 「それで、俺たち、デートとかもしたし………繚蘭祭だって一緒に…」 茉百合さんの、驚いたような顔。 それを見て話しているうちに、どんどんと自信が持てなくなっていく。 桜子は、いなかったのか? 俺が好きになった女の子は、本当はどこにも存在していなかったのか? 自分に都合のいい夢を見ていただけなのか……? 俺はさっき、この桜子のいない世界が夢なんだと思っていた。 だけどそれは逆で―― 今までの、桜子と過ごした時間全部が、夢だったのかもしれない。 「…わかりません、どうなってるのか……桜子はどこに行ってしまったのか…!」 「俺、どうしたらいいかもわかりません…!」 そこまで言うと、力が抜けてしまって俺はうなだれる。 もう他に、言うことは何もない……。 「そう……なの」 「茉百合さん、本当に桜子の事は知らないんですか?!」 「……ごめんなさい」 その答えを聞いて、さらに力が抜けた。 やっぱり、茉百合さんでも駄目だった。 もう、多分誰に聞いても同じ答えしか返ってこないのだろう。 「わかりました……すみません、でした。変なことを聞いてしまって…」 「いいえ…力になれなくて、ごめんなさい」 「あの、ありがとうございました。帰ります……」 ソファから立ち上がり、外へのドアに向かう。 まだ歩くだけの気力が残っていてよかった、そう思っていると……。 「ねえ、晶くん」 「……はい…」 「明日のお休み、予定は空いているかしら?」 「え…?」 「明日、私に少し付き合ってくださらない?」 「……」 「あなたに、会わせたい人がいるの。ね。お願いします」 「……はい。わかりました」 茉百合さんの意図はよくわからなかったが、真剣な瞳で言われると断ることなんて出来ない。 翌日の朝に待ち合わせの約束をして、俺は寮に戻った。 「……桜子の部屋」 何度もここにやってきた。 俺は、ドアを開けて中に入る。 「やっぱり、何もない」 あの日に見た絵葉書も、デートの行き先を探していた雑誌も、この部屋には何も残っていない。 残っているのは、俺の中の桜子の思い出だけだ。 この寮で、毎日一緒に晩ご飯を食べたこと。 一緒に海に行ったこと。 「……あ!」 その時、海でのことを思い出して、俺は自分の部屋へと走った。 桜子が海でくれたサクラ貝。 小さなビンに入れてしまっていた。 場所はベッドの脇にあるテーブルの引き出しの中だ。 そこに大事に入れておいた。 「えっ」 引き出しの中に手をつっこんだ瞬間、指先から何かが駆け上った。 「………そんな」 確かに、ここにあったはずなのに。 引き出しの中には何もない。 何もなかった。 「…なら」 今度はカバンをひっくり返し、数学のノートを探した。 桜子と茉百合さんに一緒に数学を教えてもらったことがある。 あの時、桜子は俺のノートにかわいい字でいろいろと書き込んでくれたじゃないか。 乱暴にノートをめくり、あの日のページを探した。 「ここだ」 いつもよりも多くの字が書き込まれたそのページ。 ………だけど、そこに桜子の字はなかった。 あったのは茉百合さんが書いたんであろう、整ったきれいな字だけ。 「………どうして…」 何もかもが、俺の頭の中にしか残っていない。 どこにも桜子はいない。 ―――これは、長い夢なんだろうか。 どこからどこまでが現実なんだろう。 わからない。 何もわからない。 出したままだった引き出しを戻すと、かたん、と寂しげな音がした。 昨日の晩は、いつ眠ったのか覚えていない。 気付けば朝になっていた。 マックスはいない。 昨日九条の所に泊まるとメールがあった。 俺は一人で塞ぎこんでいたから、ちょうど良かったのかもしれない。 「………」 まだ頭はぼんやりしていたけど、茉百合さんとの約束がある。 俺はのろのろと着替えると、部屋を出た。 寮の前では、もう茉百合さんが待っていた。 「おはようございます」 「おはようございます、あの、すみません遅れて…」 「いいえ、晶くんは遅れていないわよ、私が早く来てしまっただけなの」 「さあ、行きましょうか。ご家族の方がいらっしゃらない時間に行かないと」 「え…? どこに、行くんですか」 「病院よ」 「びょういん……? どうして?」 「言ったでしょう、晶くんに会ってもらいたい人がいるの」 「は、はい…」 歩き出した茉百合さんについて行く。 何故だろうか。 桜子がいなくなって、まるで心は空洞みたいになっているのに……。 何故かこのときの茉百合さんには、ついていかなきゃいけないような気がした。 学校は振り替え休日で休みだったが、世間的には今日は平日だ。 病院の待合室は、人が多かった。 「あ、晶くん、そっちじゃないわよ。人が多いから気をつけてね」 「あ、はい」 茉百合さんは椅子の横をさっと通り過ぎて、どんどんと奥へ歩いていく。 「失礼します」 茉百合さんが声をかけて入ったのは、入院患者用の病室だった。 「わぁ、まゆちゃん来てくれたの? 久しぶりね」 「……!」 茉百合さんの向こう側から、目の前に現れた女の子。 ベッドに座っていたのは……。 ―――桜子だった。 もう、どこにもいないと思っていた。 だけど俺の目の前にいたのは、間違いなく桜子で………。 「ごめんなさいね、繚蘭祭でずっと忙しかったから」 凍りついたようにただ黙って立ちすくんでいる俺を見て、桜子もぽかんと口を開ける。 「………」 「桜子? どうしたの?」 「ま、まゆちゃん、その人……誰…?」 「…葛木晶……晶…晶さん…」 「…さ………桜子、なのか?」 息をとめて、俺たちは見つめあう。 視線が桜子からそらせない。 確かに、桜子だ。 声も顔も、俺の知っている桜子そのものだ。 だけど、どうしてじゃあ茉百合さんは知らないって言ったのか……。 「あ……あの、今から変なこと言いますね。もしかして夢の中で会ったことがありませんか?」 「え? 夢の…中?」 「夢って、このあいだ来た時に話してくれた、桜子が退院して学校に行く夢のこと?」 「学校に…行く、夢……」 「そうなの、この方、晶さん……いつも夢の中に出てきた人と同じです!」 「すごいわ、まゆちゃん、夢が現実になるなんて…思ってもみなかった…!」 「……そう。不思議なことってあるものなのね」 「晶くん、紹介するわ。私のお友達……水無瀬桜子さん。彼女、ずっと病気で入院しているの」 「あ、あの、はじめまして、でいいのかな。水無瀬桜子です」 「あ……えっと…はじめ、まして……」 ぺこりと軽く頭を下げた桜子に、俺は不思議な感覚を覚えながらも返事をする。 本当に、不思議だ。 桜子と『はじめまして』って挨拶をしているなんて。 「ごめんなさい、晶くんに桜子の話をされたとき、もしかしてと思ったのだけど。確信がもてなかったものだから」 「あ、はい…」 「でも、桜子はずっと入院しているの。学校にはいなかったのは、確かよ」 「だから個人的に知り合いだった私以外は、みんな知らないのは当たり前だと思うわ」 「そう、だったんですか……」 もう一度桜子を見る。 桜子は、きらきらと輝くような好奇心いっぱいの瞳で、俺を見ていた。 ……やっぱり、桜子だ。 彼女は、俺の知ってる桜子そのものだ。 もう何でもいい。 俺の夢の中だけの女の子じゃなくて、桜子とまた会えた。 それだけで充分だ。 泣きたくなるほどの嬉しさがこみあげてくる。 「…あれ?」 メールの音に、慌ててポケットの携帯端末を見てみるが、画面には何の変化もない。 「ごめんなさい、私だわ」 隣で茉百合さんが、同じように端末を取り出した。 しばらく画面を見てから、落ち着いた仕草で端末を持っていた小さなカバンにしまう。 「まゆちゃん、もしかしてお仕事…?」 「いいえ、電話で聞きたい事があるだけみたい。ごめんなさい、少し席を外します」 「桜子、大丈夫かしら?」 「じゃあ晶くん、桜子と何かお話でもしてあげて」 「あ、は、はい!」 茉百合さんは部屋から出て行った。 桜子と、二人きりになった。 でも、俺は今の桜子のことはよく知らない。 なんとなく話しかけていいものか、困ってしまう。 「あの、晶…さん、座って下さい」 桜子はためらいがちに俺の名を呼ぶと、ベッドの横に置いてあった椅子を指差す。 「どうも……」 椅子に座ると、ちょうどこちらを向いている桜子と向かい合うようになった。 桜子はじっと俺の顔を見ている。 どことなく嬉しそうに感じるのは、俺の気のせいだろうか? 「あのっ、晶さんはやっぱり、転校生でいらっしゃるんですか?」 「う、うん。あの、9月の終わりにここに来たんだけど……」 「すごい!」 「え、っ」 「桜子……。あ、桜子、って呼んでもいいのかな」 「はい、そう呼んで下さい」 「桜子は、どんな夢を見ていたんだ? 俺、知りたい」 「本当に……夢みたいな話なんですけど、聞いてもらえますか?」 「うん」 「私、小さな頃からずっとこうやって病気で入院していたんですけど……」 「ある日、病気が治って退院できるようになるんです」 「そして鳳繚蘭学園に入学して、繚蘭会に入れてもらって、楽しく学園生活を送っていました」 「そしたら、そこに晶さんが転入していらっしゃって…繚蘭会の寮で一緒に住む事になるんです!」 「とっても楽しくって……私、毎日が素敵なことばかりでした」 「ああ…その通りだ」 「え?」 「俺も、そんな夢を、見てた……」 「桜子と一緒に、学園で楽しく過ごしてたよ。肝試ししたり…繚蘭祭の準備だって、一緒にした」 「晶さん……ほ…本当に?」 俺がしっかりと頷くと、桜子の表情はみるみるうちにきらきらと輝いていく。 俺の言うことを、全て信じてくれているようだった。 「じゃあ私たち、同じ夢を見てたんですね! 不思議!」 「そうみたい、だね」 「夢の中で仲良くしてた人が本当にこうやって会いに来てくれるなんて……」 「じゃあ私、もしかしてもうすぐ退院できちゃうのかな…?」 にこにこと笑いながらそう言う桜子を見て、俺は嬉しくて、胸がつまるような苦しさを覚えた。 やっぱり、ここにいるのは桜子だ。 何も変わっていない。 俺が桜子と過ごしていた日々は、都合のいい夢かもしれないけれど……。 今目の前にいるのは、間違いなく俺の好きだった女の子だ。 「…………よかった」 「晶さん? どうかされましたか?」 「ううん。桜子に会えて、よかったと思って」 「え……」 「ずっと会いたかったから」 「あ。会っていたのは夢だったのかもしれないですけど、今は夢じゃなくて…。あの、とにかく、嬉しいんです、とても」 「うん。俺も嬉しいよ」 「…はい!」 桜子は布団の中からするすると腕をこちらに伸ばす。 俺もそれに答えるように手を出すと、その手をぎゅっと握られた。 どきり、と心臓が跳ね上がる。 桜子の白くてきれいな手は、少しだけひんやりとしていた。 「会いにきてくれて、ありがとう」 「う、ううん。また来る」 「嬉しい」 優しい声で微笑む桜子の顔を見ていると、胸の鼓動がおさまらない。 ―――当たり前だ。 だって、桜子は、俺の好きな女の子なんだから。 聞きたい。 桜子に、夢の中で俺のことを好きだったのかどうか聞きたい。 俺は、好きだった。桜子のことが。 今だって好きだ。その証拠に、こんなにドキドキしている。 桜子はどうおもっているの? 俺のことを……。 「桜子……あの、俺…」 「はい」 「俺、桜子の気持ちが………」 「ごめんなさい遅くなってしまって」 「きゃっ!」 「ま、まゆりさん! お帰りなさい」 茉百合さんの声に慌てて手を離す。 桜子は真っ赤になって、布団の中に両手を隠してしまった。 「ふふふ、二人とも、私がいなくても仲良くお喋りしていたようですわね」 「もう、まゆちゃん……」 「桜子、そろそろお医者様がみえられる頃じゃないの?」 「え、もうそんな時間なの……?」 「ええ、さっきそこで看護師さんに言われたわ。おとなしく待たせて下さいって」 「そんな言い方したら、私がおとなしくないみたいじゃない」 「晶くん、そろそろ行きましょうか。また来るわね、桜子」 「あ……はい」 「まゆちゃん、晶さん……また来て下さいね」 「うん、絶対来るよ」 「私、待ってる」 まだ名残惜しそうな桜子を置いて、茉百合さんと病室を出る。 すると、すぐに何人かのお医者さんが入れ替わりに入っていった。 「驚いたわね、まさか晶くんの言っていた女の子が、私の知っている桜子だったなんて」 「おまけに桜子まで、あなたの事を知っているって言い出しちゃうし」 「俺も、驚いてます……」 「でも、よかった。桜子に会えて……。茉百合さん、ありがとうございました!」 茉百合さんに向かって、深々とお辞儀をした。 もしこの病院に連れてきてもらわなかったら……。 俺は、あのままずっと空っぽのままで毎日を過ごしていかなきゃならなかっただろう。 そう思うと、どれだけ感謝してもし足りないくらいだった。 「………そんな」 茉百合さんは『そこまでしなくても』とでも思っているのか、珍しく戸惑っているようだった。 「あの、教えてください。桜子の所にお見舞いにいっても大丈夫な時間って、いつくらいなんですか?」 「え?」 「明日も、来たいと思ったんです」 「でも、明日は学校があるわよ?」 「放課後に来ます」 「……わかったわ」 待合室の受付においてあったパンフレットを手に取り、俺に差しだす。 「そこに、お見舞いに行っていい時間が書いてありますから。それから、病室に入る前にナースセンターに寄って聞いておくと、より確実だと思うわ」 「わかりました。ありがとうございます」 「………」 「茉百合さん?」 「え? 何?」 「いえ。何だか考え込んでいたみたいだったから……」 「え、ええ……。桜子と引き合わせて…よかったのかしら、って少し思ったものだから……」 「はい、俺は感謝してます。ありがとうございます」 「……そう。そう思ってくれるなら、いいんだけど」 「桜子、あなたに会えてとても喜んでいたみたいだわ。ぜひ明日も行ってあげて」 「はい!」 茉百合さんに返した返事は、自分でも驚くくらいに気力があふれていた。 今はただ、明日が、待ち遠しい。 一人きりの病室。 大切な宝物が入った小瓶を眺めつつ、桜子は昼間の事を考えていた。 「なんだろう、これ……私、好きなのかな」 元気になって、退院して、学校に行く夢。 楽しくて嬉しくて、何もかもがきらきらと輝いていた毎日。 ――そして、私は恋をしていた。 ふわふわと浮き上がるような、甘くて素敵な恋。 こうやって病床にいる桜子には、到底手に入らないもの。 手に入らないものだったから、神様が夢でくれたプレゼントだと思っていた。 「今日会ったばかりなのに、なんでかな」 「晶……さん」 初めて呼ぶはずだ。 なのに、何故か何度も呼んだ気がして、愛しくてならない。 「晶さん……私、何度も呼んだの? 今日初めてじゃなく?」 「また、来てくれるかな」 「会いたいな……」 「夢じゃないよね、今度こそ――本当に好きになってもいいんだよね」 「どきどきしたり、そばにいてほしいって思っても……いい、のかな」 小瓶をゆらすと、中でちりん、ちりんと可愛い音がする。 ――不思議。まだ夢から覚めてないみたい。 本当に夢だったのかどうか、桜子にはわからなかった。 けれど心は、初めて感じるほど激しく舞い上がっていた。 授業が終わって放課後になるなり、俺は学校を飛び出した。 一人で病院まで来るのは初めてかもしれない。 少し緊張している。 手には、limelightに寄って買ってきたお見舞いのケーキ。 記憶をたよりに桜子の好きなものを選んだつもりだ。 待合室は、診察時間が終わってしまったせいかしんとしていた。 「……よかったのかな。昨日の今日で」 昨日とは違うあまりの静けさに、少しだけ不安になる。 いきなり来てしまって、桜子はびっくりしないだろうか。 ……そりゃ、また来てくださいっては言われたけど…。 「まさかいきなり翌日に来るとは思ってないだろうな……」 茉百合さんも一緒じゃないし。 よく考えれば不安材料ばかりじゃないか。 俺はしばらく誰もいない待合室でためらっていたが―――。 「ここまで来て、帰るのももったいない」 「ケーキももったいない! 行こう!」 意を決して、立ち上がった。 「こ、こんにちは」 多少自信のない声で、そろそろと病室に入る。 すると、桜子が目を見開いて俺の顔を見ていた。 やっぱり、昨日の今日はまずかったかもしれない……。 「素敵!」 「え?」 「きっと今日、また来てくれると思ったの! 晶さんは私の願いを何でも叶えてくれるんですね!」 「……め、迷惑じゃなかった?」 「そんなことありません。私、晶さんを待ってたから」 「そっか。それなら、よかった」 「はい! さぁ、どうぞ」 昨日とおなじように、桜子が椅子をすすめてくれる。 座る前に、持っていたケーキの箱を差し出した。 「あの、これ。お見舞い」 「えっ? 私に?」 「うん。limelightっていう繚蘭会がやってるケーキ屋のケーキなんだけど。おいしいから」 「ありがとう……」 箱を棚の上に置いて、椅子に座る。 桜子は興味深げにケーキの箱を見ていた。 「随分大きいんだね」 「あ、ああ。一緒に食べようかなって思って、ちょっと多めに買ってきたんだけど……」 「私と…?」 「うん」 頷くと、桜子は少し申し訳なさそうな顔をした。 「ごめんなさい、食事制限があって……ケーキは食べられないの」 「えっ………」 「あの、でも、お気になさらず晶さんは食べて。ね?」 「…ごめん! 俺…全然知らなかった…」 「いいの。いいの。晶さんが食べて」 そうだ。当たり前のようにケーキなんか買ってきたけれど、桜子は入院しているんだ。 お見舞いに何がいいのか、せめて茉百合さんに聞いておくべきだった。 お見舞いなんて言って、食べられないものを持ってくるなんて。 桜子には悪いことをしてしまった。 「晶さん、箱、開けてもいいかな?」 「え…?」 「晶さんが買ってきてくれたケーキ、食べられないけれどどんなものか見たくて」 「桜子…」 「そんな顔しないで。私、今、とっても嬉しい」 「このケーキ、晶さんが私に選んできてくれたんだと思うと、胸がいっぱいになります」 ベッドから手を伸ばしケーキの箱を取ると、桜子は付いてあるシールを丁寧にはがす。 そして、ゆっくりと箱を開けていった。 中には、それぞれ違うケーキが4個、入ってる。 どれも桜子が好きで、よく食べていたもののはずだ。 俺はひどいことをしてしまったんじゃないだろうかと心配になったけれど……。 「わぁ……」 「………」 食べられもしないのに、桜子は本当に嬉しそうにケーキを見ていた。 「ケーキって、綺麗だよね」 「え?」 「ひとつひとつ、丁寧に作られて。誰かを喜ばせるために、飾り付けられて……とっても綺麗」 「ありがとう、晶さん。私、綺麗なものが好きなの」 「だから嬉しいわ」 「うん…桜子がそう言ってくれるなら、よかった」 まるでその綺麗なケーキを脳裏にやきつけているように、桜子はじいっと見続ける。 やがて納得したのか、箱の中に入っていた紙皿とフォークを取り出した。 四つの中から、ひとつケーキを選んで紙皿の上にのせる。 ――それは、俺がこの中からどれかひとつを選べと言われたら、間違いなく選んでいたケーキだった。 「はい、食べて下さい、晶さん」 「……え、あ、うん」 「晶さんはケーキがとってもお好きなんですよね、違いますか?」 「ん……違わない」 「じゃあ、私、晶さんが幸せそうにケーキを食べるところを見たいな」 「……うん、わかった」 気を遣っているわけでもなく、きっと本気で言ってくれている。 桜子の顔を見ていると、それがよくわかった。 だから要望どおりに桜子からケーキを受け取り、一気に頬張った。 「どんな味?」 「おいしいよ、とっても。あと、甘い」 「どれくらい甘いですか?」 「食べたときはけっこう甘いけど、後口はすっきりしてる。後に残らないっていうか」 「うん……おいしい。幸せだ」 「晶さん、本当に幸せそう。よかった」 「なんだか私まで幸せになってきちゃう」 「そうだったら、いいんだけど」 「そうだよ」 どきりとするような笑顔を返され、俺はまた戸惑う。 昨日は聞けなかった事を……聞いてみたくなった。 ―――桜子は、どうおもってるの? 俺のこと。 「私、晶さんにお礼がしたくなっちゃった」 「え…?」 「えーっと…」 だけど、桜子は突然視線をそらすと、横の棚の引き出しを開けた。 そして中に手をいれ、ごそごそと探っている。 「い、いやいいよお礼なんて、俺むしろ食べられないもの持ってきて悪かったのに……」 「いいの、ちょっとだけ待っててください!」 「……」 あまりにも強い口調で言われたので、ケーキを食べながらおとなしく待つ。 まあ、桜子がそうしたいって言うんなら別にいいんだけど……。 「あった………」 桜子は何かを手に持って振り返った。 手を見ても、小さすぎるのかよくわからない。 ただ、ちりんちりん、と風鈴のような音が少しだけ聞こえた。 「はい、これ、晶さんにあげます」 「なんだかわかりますか?」 「これ………」 広げられた手のひらには、ちいさなガラス瓶。 その中入っていたのは綺麗なピンク色をした、うすい貝殻だった。 『サクラ貝です。…これ、晶さんにあげます』 「―――サクラ貝だ」 「はい、とても好きなんです。私と同じ名前で、すごく綺麗な色をしているから」 「それ、晶さんにあげます。持っていてほしいの」 なくしたと思っていたけど……。 そうだったのか。……まだ、桜子が持っていたんだ。 もう一度、桜子から同じものをもらえた事に感激して、胸がいっぱいになる。 「ありがとう……」 「俺、すごく…嬉しいよ」 「なくしたと思っていたから」 「え?」 「これ、夢の中で…桜子と海に行ったときに、もらったことがあるんだ」 「でもいつの間にかなくなってて……寮の俺の部屋にあったはずなのに、どこかにいっていて」 「……やっと俺のところに帰ってきたんだな」 「大事に…してくれていたんですね。私のあげたものを」 「桜子からもらったものだから……」 ―――そうだ。だってこれは。 俺の好きな子から、もらったものだから。 「……桜子」 「はい」 もう迷いはなかった。 怖いとか、断られたらとか、そんなことは何ひとつ浮かばなかった。 自信があるからじゃない。 ただもう、俺はどうしても伝えたくなった。 言葉にしなくちゃいけないと、思った。 「夢の中で、俺のことをどう思っていたの?」 「え…?」 「寮の仲間? お友達? それとも……」 「俺は……俺は、好きだったよ、桜子の事が。一人の女の子として」 「しょ…晶さん……」 「今も、好きだ」 「………」 「…っ、わ、私……」 気持ちを告げたとたん、桜子は震えながら目を見張る。 何度か首を振ったが、それは否定の意味ではなく………。 瞳の端に涙を滲ませながら、何か必死に言葉を出そうとしているように見えた。 「私も……私も同じ…!」 「あぁ、夢みたい……晶さんが…本当にそんな風に思っていてくれたなんて…!」 「桜子……」 返事を聞いて、俺はいても立ってもいられずに布団の上に置かれていた桜子の手を取った。 すぐに桜子も強く握り返してくる。 「こんな……私、ずっと病院で暮らしていたから、恋なんてもうできないのかと思っていたの…」 「でも、晶さんが来てくれて……私のこと、好きだって言ってくれて…」 「夢の中だけだと思ってたのに、今も…」 「桜子」 「私、私……」 「桜子、もういいよ。わかったよ」 「晶さん、私…」 なおも何か言おうとする桜子の手を引き寄せる。 椅子から少し腰を浮かせた。 自分の唇で、そっと桜子の唇に触れる。 「……ん…」 柔らかな桜子の感触。 まったく夢のとおりだった。 キスをしただけで、俺の鼓動が一気に早くなるのも、何もかもが同じ。 また桜子と、キスが出来るなんて。 また俺は夢を見ているんじゃないか、なんて思ってしまう。 だけど、このふわふわとした感触と、満たされる気持ちは、夢でもなんでもない。 そっと目をあけて唇を離す。 桜子もすぐに目を開けた。 わずかに頬が赤くなっている。 「…桜子……みんなが桜子の事、忘れてしまっていた時はもう二度と会えないのかと、思っていたけど」 「桜子がいてくれて、本当によかった……」 「はい……」 「晶さん、明日も、来てくれる?」 「来るよ。桜子は、俺の大事な、恋人だから」 「ほんと?」 「うん、もちろん」 「私は……あのね、夢の中の私と、ここでこうしてる私……」 「……?」 「同じくらい、大好きでいられてる? 晶さんのこと」 「――桜子」 「夢がずっと続いてるみたいで、どきどきしちゃう」 「大丈夫、ここにいるよ」 「あ、う、うん」 自分で言って改めて現実を確認してしまったのか、桜子は真っ赤になった。 「初めてです、そういうのするの……」 「う、うん……」 そうだ。 今の桜子とは、会ったばかりなんだ。 言われてはじめて、今更それを再認識する。 なのにいきなり俺、キスなんかして……。 「どこかヘンなところ、なかったですか?」 「な、ないよ。俺のほうこそ急にだったから……その」 「ううん、嬉しかったの。私、ほんとに嬉しい」 「……うん。俺もだよ」 「ふふ、嬉しいのいっしょだね」 桜子は本当に嬉しそうだった。 ほんの数日前までは、桜子は俺の世界のどこにもいなかった。 だけど茉百合さんに連れられて、この病室にやってきて。 俺は桜子と出会う事ができた。 それだけでも奇跡みたいだと思ったのに。 好きな女の子とキスが出来て、相手もそれを喜んでくれる。 それはとても、しあわせな事だと思った。 どうしてだとか、何故という気持ちよりも先に、甘くてふわふわした幸福が俺の胸のなかをいっぱいに満たしてゆく。 もしもまたこれが夢ならば、もう目が覚めなくてもかまわなかった。 ちゃんとした現実のことならば、永遠に続いていてほしかった。 それほどに――桜子は俺にとってかけがえのない子だった。 それからしばらくの間、俺は毎日放課後になると桜子の病室に通った。 学校でどんなことがあったのか、少し話すだけで桜子はとても喜んで聞いてくれる。 この狭い病室と病院の中だけが、桜子の知っている世界だから。 だからそれがどれだけ些細なことでも、自分の知らない世界の話ならば桜子は目を輝かせた。 いつか、あの夢の中と同じように桜子と一緒に学校に通えたらどれだけ楽しいだろう。 そうなるように、桜子が退院できるようにと、俺は祈った。 「晶さん!」 「こんにちは」 「ふふ、今日も来てくれたんだ」 頷きながら、いつも座る椅子に腰掛ける。 その時、ふと横の机に飾ってある花を見つけた。まだ新しい。 「あれ? もしかして茉百合さん来てた?」 「ううん、違うの」 「だよな、生徒会の仕事あるから、俺より早く病院に来るのは無理だし」 「それは、お母さん。さっきまでお見舞いに来てくれてたの」 「そ、そうだったんだ」 もうちょっとで会ってしまうとこだったのか。 別にかまわないのだけど、それはそれでちょっと恥ずかしい。 鉢合わせしなくてよかったかもしれない。 桜子はそんな俺を見てくすくすと笑う。 「ふ…ふふふ」 「な、なんだよ」 「鉢合わせしなくて良かった、みたいにほっとした顔なんだもの。晶さん」 「そ、そんなことないぞ」 ……俺ってそんなに思っている事が顔に出るのかな。 少しばつが悪くなって、目をそらす。 視線の先には花があった。 それを見て、あのケーキ以来自分がいつもほとんど何も持ってきていなかったということに今更気付いてしまう。 「なんか俺、お見舞いっていうのに手ブラだったよな」 「えっ?」 「やっぱ花とか、そういうの持ってくればよか――」 「晶さん」 俺の言葉が終わる前に、すっと桜子が手を伸ばす。 そしてしっかりと俺の手を握った。 「いいの、私は晶さんが毎日来てくれるのが嬉しいもの」 微笑みながら少しのためらいもなくそう言う桜子に、俺は赤くなってしまう。 「それが一番嬉しい、お見舞いなんだもの」 照れくさくて、何も答えられない。 だけど桜子の向けてくるまっすぐな気持ちに、心臓は跳ね上がるほど早く鼓動を打っている。 やっぱり、俺は桜子のことが好きなんだ。 「そうだ、晶さん。今日はちょっと上へ行ってみましょうか」 「うえ?」 「屋上。ここの屋上、結構遠くまで見渡せるんだよ?」 「いいのか?」 「どうして?」 「その、病室から出て、屋上なんか行っても」 「うん。今日明日は検査もないし、ここ何日かとても調子がいいの」 桜子は、ベッドからおりて立ち上がると俺の手を引いた。 その体は、思っていたよりもずっと細かった……。 「よく晴れてる!」 頭上に広がる空に向かい、桜子は大きく手を広げ伸びをした。 あまりに元気そうな仕草が、逆に気にかかってしまう。 「お、おい、大丈夫……なのか?」 「これくらいなら、平気です。もう、心配しすぎなんだから」 「心配するよ」 「えっ」 「だって、こんなに長く入院してなきゃいけないくらい、大変な病気なんだし」 「それにその……心配だ。桜子のこと本当に…好きだから」 「……っ」 「嬉しい」 「心配してくれてありがとう、晶さん」 「でもね、今日はお母さんも顔色いいねって言ってくれたの。お薬も効いてるから、最近発作も少ないし」 お薬、と言われて病室にたくさん置かれた薬を思い出す。 食後に飲むものだけでも、かなりの量があった。 「そっか」 「よく効く薬ができてきてるのかな。たくさん飲まなきゃだけど、それで早く元気になれるなら頑張るね」 「桜子、えらいな」 「えっ?」 「早く、なんて気にしなくていいよ。ゆっくりでかまわないからさ」 「晶さん……」 「うん、そうだよね。早くなくても、ちゃんと治りたいな。うん」 そう言って桜子が屋上のフェンスのそばにまで行く。 つま先立ちになってまで、何をそんなに必死に見ているんだろう? 俺も近づくと、そこからは鳳繚蘭学園の校舎が見えていた。 「晶さんやまゆちゃんが通ってるのは、あそこなんだよね」 「そうだよ」 「行ってみたいなあ」 「あの不思議な夢で見たような、たくさんの友達に囲まれて、いろんなことして…楽しそう」 脳裏に浮かぶのは、夢の中の桜子の姿。 少し体は弱かったり、薬を飲んでいたりしてたみたいだったけど、桜子は元気に学校に通っていた。 たくさんの生徒に憧れられて、愛されて。 そしていつも楽しそうに、いつも一生懸命に毎日を過ごしていた。 フェンスから離れた桜子は、近くのベンチに座る。 少し疲れたのかもしれない。俺も隣に座った。 「ああ、きっと制服とか似合うよ」 「ふふふ、そうかなあ?」 「あとね、海にも行ってみたい! 晶さんは海行ったことある?」 「うん、あるよ」 「気持ちいい?」 「えっ? そうだなあ。泳ぐのも楽しいし、ぼんやり眺めるってのも気持ちいいかもな」 「そっかあ。泳ぐなんて、ほんとに小さな頃うちにあったビニールのプールの中だけだから」 「あはは」 「そういうのって、泳ぐじゃないか……」 「そうだな、桜子と海に行く時は浮き輪もっていかないとな」 「えっ」 思ってもみなかった、という顔で一瞬桜子はぽかんとした。 本当に海へ行けたらどうするかなんて、考えていなかったからかもしれない。 「だって、桜子泳げないだろ?」 「は、はい、泳げないですよ」 「じゃあ、やっぱりいる!」 「ふ、ふふふ、そうですね」 「忘れないようにしないとですね」 遠くに見える、青くてきらきらしている海。 ここは島だ。だから行こうと思えば、すぐに行けるはずだ。 桜子の容態がよくなったら、誘ってみてもいいだろうか? 「早く行きたいなあ、海」 「晶さんと一緒に、いきたいな」 「うん、行こう」 俺たちは、しばらくそうやって遠くの海を見ていた。 すると、隣に座っていた桜子の体が傾き、俺の体にもたれかかってきた。 甘えるように、そっと肩によりそっている。 「……桜子」 「……ん」 「でも、そんなに急がなくていいんだぞ。やっぱりちゃんと体治してほしいから――」 「う……んん」 「さくら…こ?」 ―――ようやく桜子の様子がおかしいことに気づく。 顔を覗き込む。青ざめて意識が朦朧としているようだった。 「桜子? どうしたんだ? 苦しいのか?」 「…………」 「さ、桜子? 桜子!?」 やがて、桜子の体から力が抜けていく。 意識を失って、ぐったりと、俺にもたれかかってくる。 明らかに普通じゃない……! どうすればいいのかわからず俺はおろおろと周りを見た。 誰もいない。 「誰か、誰か呼んでこないと――」 でも、このまま桜子を一人で置いていくなんて……! 突然の出来事に反応しきれず、体が固まってしまう。 「……あら? どうされましたー??」 たまたま屋上にやってきたのか、少し遠くから看護師さんが慌ててかけつけてくれるのが見えた。 ――桜子は、そのままどこかに運ばれて行ってしまった。 俺はもちろん桜子についていく事も許されず、ただ屋上でたたずむことしか出来なかった。 桜子は……どうしたんだろう。 大丈夫だったんだろうか。 何度か通りがかる看護師さんに聞いてみたが、軽く頷かれただけだった。 何もできないもどかしさが悔しくて、俺は一人待合室にやってきた。 「……桜子」 そこで、椅子に座った茉百合さんの姿を見つける。 「茉百合…さん?」 桜子の病室には行かないのだろうか。 多分、まだ桜子が倒れたことは知らないはずだ。 それなのに、どうして病室にもいかず、ただここで座っているんだろう。 「茉百合さんっ」 「――っ!」 「茉百合さん!!」 「……どうしたの?」 茉百合さんは、いつもと違って似合わないやや青ざめた表情をしていた。 どうしたんだろう。 もう桜子の事を知っているのだろうか? 「桜子が――倒れたんだ」 「倒れた……」 「ついさっきまで俺たち、屋上に上って、一緒で、歩いていたし、顔色だって良かったのに」 焦って言葉がうまく出てこない。 茉百合さんはやはり、桜子が倒れたことは知らないようだった。 「お医者様にはすぐに診てもらってるのね」 「あ、ああ、もちろん。たまたま看護師さんが来てくれて、すぐに」 「そう。それなら良かった…」 「だけど! だけどっ!!」 「私たちにできることは、今はないわ」 茉百合さんの言葉に、絶句する。 確かにそうかもしれないけれど………。 自分の無力感がまた増したような気がして、俺はいたたまれなくなった。 やや沈黙のあと、茉百合さんははっとした顔になり、不思議な質問をしてきた。 「ねえ、晶くん。桜子が倒れた時、どんな風に苦しそうだった? いきなり息ができなくなったみたいだった?」 「え……いや、そんなじゃなかった。苦しいっていうよりも、ふっと気を失うみたいな」 「発作ではないみたいね……そう」 俺は茉百合さんの隣の席に座った。 茉百合さんのしている、悲痛な顔が気になったからだ。 「茉百合さん。桜子の病気のこと、詳しいんですか?」 「……」 「教えてください! 茉百合さん何か知ってるんですね?」 「……どうして? 聞いてどうするの?」 「知りたいから、桜子のこと。好きだから。ずっと一緒にいたいって思ってるから!」 桜子への気持ちを吐き出すように並べてみせると、茉百合さんは目を伏せた。 そして、観念したように話し出す。 「……聞いたの。桜子のお母様にね」 そういえば、俺と入れ替わりで桜子のお母さんが見舞いに来ていたんだ。 もしかして茉百合さんは、待合室でお母さんと会って何か話をしたのか? 「ずっと仲良くしてやってほしいって……いつまでかはわからないし、辛い思いをさせるかもしれないけれどって……仰ったわ」 「いつまで……わからないって」 一瞬、言われた言葉の意味を考えるのを躊躇した。 いつまでかわからない……。 辛い思いって………。 深く考えちゃいけないと、心のどこかでもう一人の自分が言う。 「桜子が助かるにはね、心臓を移植するほかないの」 「……え? でも、薬を飲んでだいぶましだって、そりゃ運動したり学校通ったりするのはダメかもしれないけど、でも!」 「生きていけるんじゃないのか?」 「晶くん」 「それはもう……限界みたいなの」 「――っ」 「薬で症状を抑えるにはもう限界なのよ、桜子の心臓は」 「じゃ、じゃあ……桜子は」 その先の言葉を、俺は無理矢理飲み込んだ。 言えばその通りになってしまうような気がして。 ものすごい勢いで迫ってくる胸の重いざわめきに、目の前が暗くなってくる。 その結論に、たどり着くのが嫌だ。 だけど茉百合さんは、宣告をするように話を続けた。 「私、運命って言葉は嫌いよ。でも、桜子の命のリミットまでにドナーが見つかるかどうかは誰にもわからないわ」 「そんな、俺、俺……どうすれば」 「わからないわ」 「私だって、わからないもの」 茉百合さんの瞳から、涙が一筋流れ落ちた。 初めてみる茉百合さんの涙。 夢じゃない。 ―――現実なんだ、これは。 俺はそのことに、くらくらと眩暈を覚えた。 「……ん、ん…あ」 目を覚ますと、桜子は病室にいた。 ――どうしたんだろう……? ――屋上で晶さんとお話していて。その後は……。 何も覚えていない。 「目が覚めた?」 「もう、夜?」 「ええ、そうよ。今日お友達と一緒にいる時に倒れてね」 「あの、晶さ……友達は!」 「そうね、心配していたけれど、きちんと事情を説明したから」 「……」 「水無瀬さん、しばらく就寝中もモニターするから窮屈だけど、がまんしてね」 「はい……」 看護師さんは笑顔でそう言うと、忙しそうに部屋から出て行った。 桜子は、病室に一人残される。 白い天井を眺めながら、ぼんやりと自分のことを考えた。 人と話しているときに意識がなくなったのは、はじめてだった。 本当のところ、そこまで自分の病気のことに詳しいわけではない。 医師から説明をされたことはあったけれど、未知の部分も多いとのことで、結局よくは理解していなかった。 ただわかっていたのは、完治させるには心臓移植を受けるしかないということ。 だけど、病室でおとなしく治療を続けていけば、自由にはなれないかもしれないけれど、ずっとこのまま生きていけるのだと。 ………なんとなくそう、思っていた。 「ずっとここで大人しくしていても、もう治らない……の?」 「……私」 「もしかして、私……」 ――死んでしまうのかな。 ゆっくりと目を閉じる。 すると、突然頭の中が大好きな人たちの顔でいっぱいになった。 ……誰も。 誰とも、お別れなんてしたくないのに。 このまま、全てが消えてなくなってしまうんだろうか。 ふらつく足で寮まで戻ってきた俺は、自分の部屋には戻らなかった。 今は空き部屋になっている、桜子の部屋に入る。 『あ、晶さん……』 『あのさ、今、時間大丈夫かな?』 『は、はい。大丈夫ですっ。ど、どうぞ!』 桜子が、招き入れてくれたことを思い出す。 不思議な感覚だった。 夢の中のことだったのに、妙に現実味があって。 このベッドで、デートを寝過ごしてすやすやと寝ていたこともあったっけ。 初めて会ったときの桜子。 初めてデートをしたときの桜子。 初めてキスをしたときの桜子。 どんな時の記憶だって、色鮮やかによみがえる。 「……っ」 なのに。 なのに、現実の桜子は、ベッドの上で………。 もうすぐ、いなくなってしまうかもしれないんだ。 「そんなの……」 耐え切れなくなって、俺は桜子のベッドに突っ伏した。 「……うぅ、っ」 涙がぼろぼろと零れ落ちて、白いシーツに吸い込まれていく。 もっと泣き喚きたい気分だったけれど、無理矢理口を押し付けて声を殺した。 そのまま、意識が途絶えるまで、俺は誰もいない部屋で泣き続けた。 「………」 アラームの音で、目が覚めた。 頭が重い。 まだ体は眠っているような感覚だ。 昨日……どうしたんだっけ。 どうして自分の部屋にいるんだろう。 ――そうだ。 ようやく頭がはっきりとし始めた。 昨日は、桜子の部屋で寝てしまって……でも夜中に一度目が覚めて。 それで自分の部屋に戻ってきたんだ。 「……」 体がだるくて、重い。 ああ、そうだ。アラームを止めなければ。 そのまま、どさりとベッドから転げ落ちた。 のろのろと立ち上がる。 学校がある……。 早く行かなければ、遅刻してしまう。 重苦しい何かがずっと体を覆っていたが、休んで一人でこの部屋にいるともっと辛くなりそうだったので、俺は登校することにした。 「………はあぁぁぁ〜っ」 教室に行くと、あきらが暗い顔で隣の席に座っていた。 あぁ、そういえばそんな日だったっけ。 「よぉー親友。……なんだ、ローテンションだな。そんなトコまでオレとおそろいかよ…」 「あぁ……」 「ど、どうしたの二人とも。っていうかあきらくんはともかく、葛木くん、どうしたの?」 「……うん、いや、ちょっと…いろいろあって」 「そうなんだ。……大丈夫?」 「うん…」 「あっそうだ、今日の晩ご飯、ちょっといいもの頼んじゃおうか。ね! 葛木くんがそんなだったら、落ち着かないし」 「ありがと…天音」 「うん」 授業は聞いていたのか聞いていなかったのか、よく覚えていない。 気が付けば、とりあえず放課後になっていた。 ……いつもなら病院へ急いでいく時間だ。 「晶さー、病院にいかねーの? いつも慌てて行ってたじゃねーか」 「………」 「あっ。わり、あの、もしかしてヘンなこと聞いちまったか……?」 「…いや、いいよ…」 自分の座席に座ったまま、俺はぼんやりと考える。 『薬で症状を抑えるにはもう限界なのよ、桜子の心臓は』 どうしたんだろう。 桜子がもうすぐ、いなくなってしまうかもしれないって聞いたはずなのに。 なのに、俺は桜子に会うことを怖がっていた。 どんな顔をして、会いにいけばいいのかわからない。 桜子の顔を見て、俺はいつもどおりでいられるのか? どんなことを話せばいいのかもわからない。 ……突然、何もかもがわからなくなってしまった。 「こんなんじゃ、会いにいけないよ…」 「晶…」 「あれ? 二人ともまだ残ってたの?」 「動きが鈍い」 「天音、九条……」 「おおぉマミィ! メンテおわり? 帰ったら元の体戻れる?」 「ん」 「よっしゃあああああぁぁっ! 晶よ、じゃあ今日はかえろーぜ! 天音もメシ豪華にしてくれてっしさ!」 「うん…帰る」 「うん、大丈夫そうね。じゃあみんな揃った事だし、帰りましょうか」 俺はこくりと頷いた。 今日は、気持ちの整理がつかない。 ざわざわとした心をもっと落ち着かせなければ、とても会いになんていけないと思った。 「あっ、生徒会の呼び出しはないの? 大丈夫?」 「あ、うん。繚蘭祭終わってからはね。ほとんどないよ」 「おかしいわね……なんでそんなにおとなしいのかしら…」 「あやしい」 「ふふっ…」 本当は、茉百合さんが会長に事情を話して、極力呼び出しは控えてくれているのを俺は知っている。 天音がやたら疑うのが少しおかしかった。 「何よ、もしかして葛木くん何か知ってるの?!」 「いや、何もないよ。本当に」 「なんか納得できないわ……」 「いーから早くかえろーぜ! 元のボディに戻りてーよー!」 「はいはい」 こんな時間に正門を通るのは久しぶりだ。 明日は、勇気が出るだろうか……。 会いにいけるだろうか。 少し、自信はなかった。 「あ、葛木くんそういえば、明日の事わかってる?」 「え…?」 「三者面談があるのよ。葛木くんは確か明日だったはずだけど」 「ああ…すっかり忘れてた…」 「気をつけてね」 「うん、ありがとう」 じゃあ、親父が来るのか。 それなら、明日も病院に行くのは無理かもしれない。 でも、いい機会だとも思った。 残された時間は決して多くはない、はずだ。 それまでに俺は、しっかりと考えておかなきゃいけない。 桜子とどんな顔をして…話せばいいのか。 ―――残りの時間、どんな風に過ごすのか。 「う、うーん……」 「おーい、晶! 起きろよ、寝坊しちゃうぞ」 「んん……ん?」 アラームの音とマックスの声で、目が覚める。 寝覚めはあまりよくなかった。 悪い夢を見ていたような気がするけど、あまり覚えていない……。 こめかみを押さえながら時計を確認すると、ようやく今日が休日であることを思い出す。 「あれ、なんだ……こんな時間って……待てまて、今日土曜じゃないか」 「そうだぜ、土曜だぜ! お前今日が面談の日なんだろ?」 慌てて起き上がりカレンダーを確認してみた。 親父の休暇に合わせて面談を土曜にしてもらったんだった。 「晶のお父さんも来るんだろ? 遅刻はカッコ悪いぜ」 「あ、ああ、そうだよな」 「ちゃんと制服に着替えろよ!」 「わ、わかった。ありがと、マックス」 慌ててばたばたと制服に着替える。 朝ご飯は食べている時間は……なさそうだな。 仕方がないのでそのまま寮を出て、学校に向かった。 「おおおおい! 晶くーん!」 「……」 「久しぶりだねえ! 元気だったかい? 風邪ひいてなかったかい?」 「……ああ」 「どうしたの? 元気ないなあ。もしかして成績下がったりしたのかな?」 「……」 「お父さん、そんなことで怒ったりなんかしないからな!」 「遅れるから、行くよ」 「うん、案内してくれるかな」 ………………。 …………。 ……。 三者面談は特に何の問題も騒動もなく終わった。 あえて言えば、進路をどうするのかそろそろ考えた方がいいと言われたくらいだ。 「いやあ、良かった良かった。晶くん転校生だからさ、いじめられてないかとか、勉強おいつけなかったらどうしようとか、いろいろ気になってたんだけど」 「……」 「特に気にするようなこと言われなくて良かったよ。父さん安心だ!」 親父には申し訳なかったけど、俺を心配する声はほとんど耳に入っていなかった。 まだ桜子のことを考えていたからだ。 そうだ。まだ俺は……覚悟が決まっていない。 だからこそ、桜子のことが頭から離れない。 「晶くん、お腹すいたんじゃない?」 「え?」 「朝ごはんちゃんと食べてなかったんじゃないかな」 「ん…まー、ちょっと寝坊したから」 「よし、じゃあちょっと遅くなったけど一緒に昼ごはん食べよう。久しぶりに一緒だな」 「え、あ、ああ…うん」 「晶くん?」 俺は半ばうわの空のまま、親父とともに食堂へと向かった。 ―――食堂で昼ご飯を食べ終わった後も、親父はしばらく席から立たなかった。 昼食を食べているときもおとなしかった俺を見て、何か思うところがあったのだろう。 親父は向かいの席から移動して、俺の隣に座る。 「何か悩みごとでもあるのかい?」 「……」 桜子のことを言おうか……いや、言っていいのか、少し迷う。 いろんな言葉が喉元まで出かかっては、飲み込んでゆく。 ―――俺は結局、何も言わないことにした。 ただでさえ過保護な親父だから。 あまり心配はかけたくない。 「……大丈夫だよ」 「晶くん」 俺の言葉に何かを察したのか、親父はわざとらしく明るく話しかけてくる。 「これはなんでしょーか?」 「……?」 「幸運のお守り」 親父が取り出したその袋の中から、ころんと銀色の何かが転がりおちた。 大きさは小ぶりの卵くらいだろうか。 それが平べったく押しつぶされて、いびつな形のコインのようだった。 幸運のお守り。その所以はきっと、真ん中に象られた四葉のクローバーだろう。 「って、それだけじゃわかんないよな。これはな、お母さんに初めてもらったプレゼントなんだ」 親父はそれを手のひらに乗せて、じっと見つめていた。 「晶くんが生まれる前の話なんだよ。ふたりともお互い忙しくって、一緒に暮らしてるのにすれ違ってるみたいだった」 「うん」 「当時担当していた事件がちょうど大詰めでね。徹夜も当たり前の毎日だった」 「でもお母さんの前では大丈夫だよって、いつも笑顔でいようと頑張ってた時だったんだ。これをもらったのは……」 「お母さんはさ、わかってたんだよ。大丈夫じゃないでしょって、これを渡しながら言ったんだ」 「……」 もう、ずいぶんと記憶のすみっこに行ってしまった、幼い頃の思い出。 おぼろげにその内容を思い出す。 そこには、仲睦まじげな両親の姿があった。 「晶くん。無理しちゃだめだぞ。大丈夫じゃない時に、大丈夫って言うのはだめだぞ」 「……」 「だからこれ、晶くんが持っときなさい」 「え? でもこれ」 「僕にはお母さんから言われた言葉がお守りで、宝物だから。だからこれは晶くんにあげよう」 そう言うと親父は俺の手のひらの上に袋ごとコインを置く。 さわってみると、少しでこぼこな感触が指先に伝わってくる。 そのままコインをいじくっていると、いつの間にか言葉が飛び出していた。 「……あのさ」 「例えば。例えばの話――自分がすごく大事にしたい人がさ」 「とても辛い運命を背負ってたとしたら……そんな時どうすればいいんだろう」 「大好きだって抱きしめるのも怖いんだ」 声が震えているのがわかったけれど、どうしようもなかった。 俺は思わず、涙ぐんでしまっていた。 「ずっと一緒にいたいって言葉にすることが…だって、それはだって」 「……」 「それは俺のわがままで」 「その人を……一番苦しめてしまうことかもしれないだろ…」 「晶くん」 「大事な人がいるんだね」 言葉を出せば嗚咽がもれてしまいそうだったので、素直に頷く。 「晶くんの大事な人は、いま何かとても辛い……何かを背負ってるんだね」 「……うん」 「晶くん。これは答えじゃないし、それはきっと誰にも正解の出せないものだけど」 「もしも運命ってあるとして。その先にあるものがどんな結果であろうともね」 「……」 「大事な人の全部を、ぎゅっと抱きしめてあげなさい」 俺は親父の顔を仰ぎ見た。 きっと、死んだ母さんのことを思い出しているんだろうと、なんとなくそう思った。 「それはわがままじゃない」 「全部ひっくるめて、ぎゅっと抱きしめてあげたらいい。悲しい気持ちになっても、辛いことがあっても、それはどんな答えより温かいんだよ」 「……父さん」 「僕はね、いつも何もできなかった――だからかもしれないな。これはお母さんが教えてくれたことなんだ」 母さんがいた頃の記憶は、もう本当におぼろげだった。 だけど不思議と、俺はその存在を遠くに感じたことなんてなかった。 それはどうしてだったのか。 今、わかったような気がする。 親父はいつだって、まるでそれが昨日あったかのように母さんとの出来事を話してくれたからだ。 「……ああ、父さんいつもタイミング悪いな」 「仕事の呼び出し?」 「正解。面談が終わった後でよかったよ。いつもすまないね」 「わかってる」 本当にすまなさそうにしつつ、親父はばたばたと帰り支度を始めた。 俺も席から立ち上がり、食器を返却口に戻しに行く。 席に戻ろうとすると、何故か食堂に入ってきた茉百合さんが親父の前に走り寄って行くのが見えた。 「……!!」 「君は……あの時の、まゆちゃん?」 「……は、はい」 「ああ、やっぱりまゆちゃんだ。すっかり大きくなって」 「は、はい、あの、でも……私、私ずっと」 「あの後、ずっと気になってたんだ。あの事件の後……まゆちゃんは元気だったのか」 「私も…です。あんなケガをされたから、私ずっと、ずっと誤解してました」 「あはは、刑事ってのは案外丈夫なんだよ。おまけに僕は運も良い方だからね」 「生きてらしたんですね、良かった…良かったです……」 急いで席に戻ってみる。すると、茉百合さんが今まで見たことのないような表情をしていて、驚いた。 「茉百合…さん? 親父、どうしたの? 茉百合さんのこと知ってた?」 「ああ、驚いたよ。数年前のほら、ちょっとケガしたろう? あの時に――」 「……と、そろそろ行かないと」 「あ、あの、もし良かったら! お夕食もご一緒できませんか。ここは宿泊施設もありますから、もっとごゆっくりしていってください」 「すまない、もう戻らないといけないんだよ。僕も晶くんやまゆちゃんたちとご飯したいんだけどね」 「そうですか…残念です」 「でもまゆちゃんが、晶くんと同じ学校だったとはね。また今度ゆっくり来るよ」 「はい、ぜひ! ぜひ…いらしてください」 「ありがとう」 茉百合さんは、学校のどこで見るよりも丁寧にお辞儀をして立ち去って行った。 「――晶くん」 「ちょ、ちょっと」 親父は突然、俺の頭を子供みたいに撫でた。 本当に時間が無いのだろう、しきりに時計を確認している。 「それじゃあ、また。今度はゆっくり来るからね」 「……ああ」 「何かあったら、遠慮しないで連絡するんだよ」 「仕事が忙しいとか、そういうのは気にすることないんだからね」 「うん」 俺は親父からもらったお守りの入った袋をポケットから出し、目の前にかかげた。 「これ、ありがとう」 「大事にしてくれるね?」 頷くと、親父は満足げに笑う。 「それじゃあ、体に気をつけるんだよ」 「親父も」 「ははは、僕はいつだって気をつけてるよ」 そして、いつものように名残惜しそうに手をふりつつ、小走りで去っていった。 ―――そうだ。 ようやく俺も、覚悟がきまった。 残りの時間を一秒でも長く桜子と過ごそう。 そしていつでも桜子を……ぎゅっと抱きしめていてあげよう。 お守りを握り締めながら、俺は小さくなっていく親父の背中をいつまでも見送った。 意を決して、俺は桜子の病室へと足を踏み入れた。 ―――三日ぶりだった。 こんなに日を空けてしまうのは、この病室で桜子に出会ってから初めてだった。 「晶さん!」 入るなり、桜子が俺の名を呼んだ。 前に倒れたときに運び込まれていたたくさんのモニターは片付けられていたが、顔色は依然悪いように思える。 「この前、ごめんなさい。急に調子が悪くなっちゃって。びっくりしたよね」 「大丈夫?」 「うん、ちゃんと先生に診てもらったから」 「うん」 まだどこか心の中のとまどいが隠せずに、返す声が少し震えてしまう。 桜子に気づかれただろうか。 桜子は、俺の態度に不自然さを感じていないだろうか? そもそも、二日も来ていなかったのはどう言えばいいんだろう……。 覚悟を決めてここに来たはずなのに、いざ桜子を目の前にすると言葉に詰まってしまう。 「晶さん?」 「え? な、なに?」 「学校、大変なのかな?」 「いや、そんなことないよ……もう慣れたかな。繚蘭祭も終わったから」 「そうそう、それ! もういろいろ振り回されたなあ。生徒会の皆に無茶も言われるし」 「ふふ、まゆちゃんも生徒会なんだよね」 「ああ、茉百合さんはな、いいんだ。茉百合さんは……」 「ただ会長が……もうなんていうか、そこにいるだけでトラブルを起こすっていうか」 「ふふ、ふふふ」 何てことのない、ただの学校の話題だったけれど、桜子は本当に楽しそうに笑う。 ようやく俺も、張り詰めていた息を吐き出すことができた。 いつも通りの桜子だ。 桜子が自分の運命を知っているのか、いないのか、俺にはわからないけれど……。 それでも、もっと桜子の笑顔を見ていたい。 「ね、もっと話して。繚蘭祭のことだけじゃなくって、晶さんのことやお友達のことも」 「……うん、わかった」 それからしばらく、俺は学校の話をいろいろと桜子にして聞かせた。 桜子は何度も相槌をうちながら、俺の話をしっかりと聞いている。 繚蘭祭で出展した、出張limelightの話とか。 繚蘭会や、生徒会の話とか。 「本当に? まゆちゃん、ここに来てくれる時とすごい違うんだね」 「え、そうなのか? 桜子の前じゃ、そんなに違うのか?」 「あ、い、言わないほうがいいのかな。まゆちゃんのためにも」 「えー、ここで止めると気になるんだが」 二日も空けていたせいだろうか。 話は尽きなかった。 茉百合さんの意外な一面や、俺の寮での話とか。 そうだ、一番俺の身近にいる親友のことも話そう。 「……でさ、きっと驚くと思うんだけど…そいつはロボットなんだ」 「え? ロボット?」 「うん、見た目はすっごい、完璧にロボット。それなのにロボって呼ばれたら怒るんだぜ」 「あはは、そ、そうなんだ」 「『オレのことは名前でよべ! マックスだ!』ってな」 「マックスさん!?」 「知ってるのか!?」 「うん、時々まゆちゃんのお話にも出てくるもの。え……マックスさんて、ロボットなんだ」 「ああ、もう、完璧にな」 桜子にメモ用紙を借りて、それにマックスの似顔絵をさらさらと描いてみせた。 ちょっと子供の落書きみたいになってしまったけれど……まあいいか。 「こんな感じ」 「おっかしーだろ?」 「ふふふ、うん、おかしい」 そうして、会えなかった時間を埋めるように、俺たちは学校や寮での何気ない話をし続けて――。 夕日の光が差し込み始めたことで、ようやく俺はそんな時間になっていたのだと気がついた。 さすがに長居しすぎたかなと反省する。 あまり長い間話しすぎても、桜子の体力を奪うだけだ……。 そんな事を考えていたのを悟ったのか、桜子は俺の手を取った。 まるで引き止めるように。 「あのね」 「晶さん、お話しよう」 「え?」 「こっちに座ってもらっていいかな。お話したいの」 「な、なんだよ、どうしたの? 話、してるじゃないか」 「うん。してる。でもね、もっと近くで話したいの」 「話したいこと、あるの」 桜子がくいくいと握っている俺の手を引く。 求められるままに、ベッドの上に座って桜子のすぐそばへと近づいた。 「あのね、晶さん」 「ん?」 「私はもう、あんまり長く生きられないかもしれないの」 「……さく、らこ」 ……あまりに突然に。 だけど、ごく自然にそう言われて、俺は絶句してしまう。 何も言えない。 俺も知っていたよとか、何か言うべきことはあるはずだったのに。 「こんなこと、言わなくてもいいかなって思ったけど」 「でもやっぱり……うん、言わなきゃ。私、謝らないといけないもの」 「謝るって――何を?」 「そんな私のことを好きになってもらってごめんね」 「――っ」 「好きって言ってもらえたとき、すごく嬉しかったの」 「嬉しくって、どきどきして、忘れちゃってたの」 「もしも私が死んだら、晶さんが悲しんでしまうこと…忘れちゃって。好きになってもらって、ごめんね」 「桜子!」 「やっ」 俺は桜子の顔を、両手でふわりと包んだ。 桜子はまるで叱られる子供みたいに身をすくめてから――何があったんだろうと目をぱちくりさせている。 「怒った」 「……晶さん?」 「俺が桜子のこと好きになったのは、俺のせい」 「……」 「桜子が可愛いって、そばにいたいって思ったのは俺の気持ち」 「……ん」 「だから桜子が謝ることなんて、なんにもないんだぞ」 「……うん」 「いま、桜子さ……俺が桜子のことを嫌いになればいいとか、思ってただろう」 「えっ、そ、そんな」 どうやら図星だったらしい。 桜子は自分の気持ちを見透かされて、驚いていた。 「怒ったぞ、ほんとに怒った」 「――晶さん」 「だから、こうだっ」 さっきよりもちょっと強く、桜子の頬をきゅっとはさむ。 ぷにっとした感触が両手に広がる。 どうしたの、と桜子はまん丸な瞳で俺を見上げていた。 「晶、さん……」 「嫌いになんてなれないから」 「うん、うん……晶さん、ありがと……私も」 桜子の腕が俺の背中にまわって、シャツを小さく掴んでいた。 「私も嫌いになんて、なれない。好き、ずっと好き……」 それからしばらく、互いの温度を感じるように抱きあった。 激しく溢れるような感覚じゃなく、ひとつひとつ大事なものをつみあげるような気持ち。 お互いにそれを感じあったあと、唇を重ねた。 「私ね、この前倒れた時から思ってたの」 ベッドに腰掛けて黙っていた桜子が、ぽつりと話しはじめた。 「今までずっと、ほとんど病院にいたでしょ。だから死ぬかもしれないってこと、きっと他の人よりも身近だったの」 「……」 「晶さんと会う前にもね、実は一度大きな発作が起こっちゃったことがあったの」 「そう、なのか」 「苦しくて、先生や看護師さんもばたばたしてて、ああ、本当に死んじゃうんだって思った」 「やっぱり怖かったし、死にたくないって思ったけど……今とは違ったよ」 「今は違うの……ちゃんと呼吸してるのに、心臓も動いてるのにずっと考えちゃうの」 「桜子」 「もう会えないのかな、一緒にいられないのかな。行きたい場所たくさんあったのに、無理なのかなって……それから」 「晶さん、悲しんでしまうかなって」 桜子の指は震えていた。 それを隠すように、俺の手をぎゅっと握り締めた。 「息ができないことより、たくさん検査したり薬飲んだりすることより、そっちの方が怖い」 「怖いって、思っちゃったの」 「……」 自分が死ぬことよりも、怖いだなんて――。 どくんと心臓が鳴った。 俺がこうやって桜子を好きになったのは、いろんな巡り合わせだと思う。 いつだってそばにいて、桜子を支えたい。 それがもしかしたら、桜子を苦しめていたりはしないだろうか。 考えてもしかたないことばかりが頭をかけめぐる。 俺はぶんぶんと頭をふって、そんな考えを追い払った。 「晶さん、また怒るかな」 「どうしたの?」 「私のお願いを聞いてもらってもいいかな」 「ん?」 「見てほしいの」 「見てほしいって、何を」 「見て、触れて欲しいの。私の体……」 「桜子」 はらりと、胸元がはだける。 何もつけていない桜子の肌があらわになった。 まるで光をはらんでるかのような真っ白な肌。 そこだけ熱を帯びたようにほのかに色づいている乳房が、呼吸のたびに小さく揺れていた。 「今はまだ、ちゃんとした恋人同士になれないけれど」 「そんなことない、桜子」 とてもきれいだった。 抱きしめたい、触れたい――そんな気持ちだって湧き上がった。 だけど今はそれよりも、桜子の気持ちのほうが胸につきささる。 「無理……するな」 「無理してないよ」 「そんなこと、しなくていい。ちゃんとした恋人同士だよ、俺たち」 無理に体に触れなくてもいい。 そんなことをしても、心は少しも近づけない。 だけど桜子は、それをわかってくれて……それでも。 ちゃんとした恋人同士。 どんな気持ちで、俺にそう言ってくれたんだろう。 どうしてそんなにも、俺を思ってくれるんだろう。 「……うん、ありがとう」 「でも見てほしいの」 「覚えていてほしいの」 「……桜子」 桜子は自分の胸元を見つめてから、指先でそっとふれた。 ふたつの乳房の間、うっすらと骨がういてしまいそうな繊細な場所だ。 「いつかもし、心臓移植したら……ここに傷がついちゃうから」 白い指先が、ゆっくりそこを撫でてゆく。 何もない、なだらかな肌。 「そのままの私、覚えててほしいな。晶さん。晶さんには――」 「だって私の、初めての恋人なんだもん」 俺はただ頷き返した。 たとえ傷があろうとなかろうと、俺は気にしない。 だけど傷を受けるのは桜子自身の体だ。 俺はそれを消してやることなんてできないんだ。 「……」 「――桜子」 桜子が俺の手を握り、胸元へと導いた。 柔らかなふたつのカーブと、すべすべした肌に触れてしまう。 何故か、触れてはいけないものに触れてしまった気持ちになってしまう。 桜子はそれを察してか、ほんの少し微笑んでから歌うように言った。 「晶さんの手、あったかいね」 「……」 「私の体は、冷たい?」 「冷たくなんかないよ。温かいよ」 「どんな感じ?」 「どきどきしてる、ちゃんと。ここでちゃんと生きてる」 「うん……」 「それから」 「すごくきれいだよ」 「――嬉しい」 「俺さ、何があっても忘れないよ」 「桜子が温かくて、きれいで、俺のこと本当に好きでいてくれること」 「……うん」 「例えばさ、海も学校も、いろんなことができなくっても」 「大きな手術をして……傷跡が残ったとしても」 「……晶さん」 「俺は桜子がいてくれるのは、一番なんだから」 「うん。私も。私もだよ」 「何があっても忘れない。晶さんがそういう風に、思ってくれていることを」 誓いあうように、固く手を握る。 なにひとつ嘘はつかない。 それから、わかったことがある。 女の子の体に傷跡が残ったら、どんなに気にしないといってもそういうわけにはいかない。 だから俺は、桜子がそれを悲しんだり気にしたりしていたら、いつだってぎゅっと抱きしめてあげよう。 大丈夫だよって。 それがたぶん、俺にできる精一杯のことだ。 そのメールが俺の元に届いたのは、ちょうど制服に着替え終えた時だった。 『晶さんへ。おはようございます。お話ししたいことがあるので、放課後よかったら来てもらえますか。』 『今日でないとだめなので、わがままだけど、よろしくおねがいします。』 差出人は桜子だった。 こんな風に書いてくるのは初めてだった。 一体どうしたんだろう。どこか調子でも悪くなったんだろうか。 それとも――。 ひとりでいられないほど、寂しくなったんだろうか。 ざわざわと胸騒ぎがする。 こうなるといてもたってもいられない。 「よし、忘れものはないな。さーて今日も行くか!」 「マックス、先行っててくれないか」 「ん? どうした親友、具合悪いのか?」 「そうじゃないけど…ちょっと行かなきゃいけないところがあるんだ」 「なんだなんだ? じゃ、じゃあ今日は休むのか?」 「わからない、行けたら行くけどな」 「お、おう。連絡はちゃんとするんだぞ」 メールには放課後にって書いてあったけど、俺はまっすぐ病院へと向かった。 「桜子!」 「……晶さん」 病室に入ると、桜子はベッドの上で半身を起こしていた。 急にやってきた俺に驚いたようで、大きな目が何度もまばたきしてる。 「びっくりした…あの、学校が終わってからだと思ってたから」 「あ、うん、どうしても来なくちゃって思っちゃってさ。来ちゃった」 「そっかあ、ごめんね。びっくりしたよね、急にあんなメール送ったから」 「びっくりしたよ、何かあったの?」 「……」 桜子は何か言い出そうとして、迷ってる様子だった。 俺はとりあえず椅子を引き寄せて、ベッドのそばに腰掛ける。 時間はあるんだ。ゆっくり聞こう。 「あのね、私の心臓の話は知ってるよね」 「……うん」 「昨日の夜に、私と適合するドナーが見つかったって連絡があってね」 「えっ!?」 「それで、いろいろ検査を終えたところ…手術するみたいなの」 「い、い、いつ!?」 「たぶん、今晩にでもって。昨日の晩からお父さんたちもやってきてくれて…いま先生と話してるの」 「そう、なんだ……」 思いがけない話に、俺の方が驚いてしまった。 気がつくと指先が震えている。 俺はぎゅっとこぶしを握ってから、顔をあげて桜子を見つめた。 「そうか……良かった、桜子……良かった、助かるんだな」 「……晶さん」 「晶さんには嘘つけないから、きちんと話すね。うまく言えるかな」 「桜子?」 「とても大変な手術なの。今ちゃんと言葉にするね」 「すごく難しい手術だから、もしかしたら……失敗することだってあるの」 手術の失敗……それって、死んでしまうことだよな。 俺は喜んでばかりいて、手術の大変さをすっかり忘れていた。 「でも……手術しないと、もう治らないから」 「死んじゃう、から」 「……桜子」 どちらの先にもある、死という可能性。 それをきちんと言葉に出して言う桜子の健気さに、胸が痛んだ。 桜子は決して悲しげではなかった。 死んでしまうかもしれない…その可能性を自分の中で受け入れていた。 大きくて優しげな瞳にまっすぐ見つめられて、俺の方が涙をこぼしてしまった。 「晶さん、泣かないで。それはわかってるの。この手術をしないといけない事も、手術はすごく大変で…死んでしまうことがあることも」 「……ごめ、ん」 「それはずっとずっと考えてたことだから、大丈夫。怖くないって言うとウソになっちゃうけど」 桜子は静かに俺の手を握った。 「心配しないで、手術は受けるの。もうそれは――決めてるから」 こんなにも強いところがあったんだな、桜子。 ひとりの女の子として、悲しんだり泣いたりしてるところを俺は見た。 でもその奥には、こんな強さを持っていたんだ。 それはやっぱり、子供の頃から自分の病気と闘ってきたからなんだろうか。 「でもね、ひとつだけ……本当に手術をする事になって、誰にもいえない気持ちができちゃったの」 「誰にも言えない気持ち?」 桜子はこくんと頷いた。 さっきまでの強い眼差しが消え、長いまつげの影が頬に落ちる。 「あのね、生きていけるかもしれないってこと…喜んでもいいのかな」 「もちろんだよ、桜子。俺は本当に嬉しいよ、手術は大変だけど……それでも」 「うん。私も生きたい。だってまだ夢で見ていたようなこと、ひとつもできてないもの。やりたいことがたくさん見つかったんだもの」 「……桜子」 「だけど――ね、誰かの命なんだよね」 「……あ」 思わず息を呑んだ。 桜子が本当に聞いてほしかったことは――これなんだ。 自分が死ぬかもしれないという事よりも、ずっと重い事実だ。 桜子が助かる理由の、もうひとつの意味。 「いいのかな、喜んでも。いいのかな……生きたいって、いろんなことがしたいって願っても」 「誰かの命をもらってしまうのに……私」 「……」 正しい答えなんてきっと出ない。 桜子にも、俺にも、誰にだって出せない答えだ。 それは桜子だってわかってることだろう。 俺はベッドのそばに立ち、桜子の体を抱きしめた。 「でもそれって、二人分の命をもらうってことなんじゃ」 「えっ?」 「桜子と、桜子を救ってくれた誰かの……」 「命をとりあげるわけじゃなくって、一緒に生きるって意味なんじゃないかな」 「……晶さん」 桜子の頬を、涙がすべり落ちてゆく。 温かかった。 生きている温度だ。 「桜子」 答えとかではなかった。 俺のわがままなのかもしれなかった。 だけど、桜子が生きてくれるなら。 生きてくれるなら俺も一緒に、桜子を救ってくれた命を支えて生きたいと思った。 「……」 「桜子、苦しくない?」 「……平気」 「あったかい」 「俺はほんとに生きてほしい、ずっとそばにいてほしい」 俺の背中で、桜子がきゅっと手を握った。 すぐそこにある胸の奥の鼓動が、俺にも伝わってくる。 その距離が、あの日に感じた喪失感を思い出させた。 「また夢だったのか、みたいな」 「あんなふうに、自分がまるで世界中からはじかれたみたいな思いはしたくない」 「晶さん……」 「わがままだよな。でも」 「でも?」 「桜子に生きててほしい。笑っててほしい」 「……うん」 「すっごいわがままだけど、好きだって気持ちは……そういう感じなんだ」 「……うん。うん。わかる。私もそうだもん。わがままだよね」 「あのね、晶さん。ごめんね。きっと私、怖かったんだと思う」 「怖かった?」 「手術が失敗することじゃなくて、誰かの命をもらって、生きていくことが」 「でも…怖がっちゃいけないよね。大事にして、笑顔で生きていくことのほうがいいんだよね」 俺は頷いた。 強く、何度も何度も頷いた。 「晶さん」 「聞いてくれてありがとう」 「誰にもいえなかったことなの。だけど、話せてよかった」 「ああ」 「私、がんばるね。晶さんも応援…してくれる?」 「もちろんだよ」 「何にもできないけどさ、桜子が無事でありますようにって祈っとく!」 「ありがとう、晶さん……大好き」 本当に、無事でありますように。 桜子の手を握り、心の底からそう願った。 たとえ俺が桜子にとって何も関係のない人であったとしても……願っただろう。 長い間、病気に耐えてきたんだ。 誰もが当たり前にできるたくさんのことを、我慢してきたんだ。 そんな桜子の願いがひとつでも多く叶いますように。 桜子の笑顔が、一点の曇りもないものになりますように。 桜子が苦しくならないように気をつけながら、もう一度だけ強く抱きしめる。 俺が部屋を出る時、桜子は寂しそうな顔はしなかった。 にこにこと穏やかに微笑んで、手をふってくれた。 「……あれ?」 ロビーまで降りてきた時、俺は予想外な人影を見つけた。 茉百合さんだ。 「晶くん」 「茉百合さん、どうしたんですか? もしかして、茉百合さんも桜子から連絡をもらって?」 「……連絡?」 「心臓移植の話です。桜子が、桜子が助かるんです」 もちろん、さっきまでの話を忘れたわけじゃない。 手術は簡単ではなく、終わった後だって予断は許さない。 だけど今はただ、それが無事であることだけを考えていたかった。 「そう、そうなの……桜子、良かった……」 「今朝メールが来ていて、俺、どうしてもすぐ駆けつけたくて――」 その時になって、俺はやっとその疑問にたどりついた。 茉百合さんは桜子のことを、俺が言うまで知らなかったようだった。 まだ昼休みには早すぎる。 どう考えても授業している時間のはずだ。 俺と同じ理由で――桜子の移植のことを喜んでやってきたんじゃないなら、どうして茉百合さんがここにいるんだろう。 「茉百合さん、どうしてここに」 最後まで言う前に、近づいてくる足音に気づいた。 会長に、八重野先輩までいる。 「見つかった」 「え? あの、なんで?」 「探してたんだ、教室まで行ったけどいなくて、マックスに聞いたらどこかへ行ったっていうから」 「白鷺さんの言うとおりだったな。病院だったのか」 話がまるで見えてこない。 ただ生徒会の皆が俺を探していたことはわかった。 そして茉百合さんが、俺が病院にいるかもしれないと予想していたことも。 「メールくれたら、すぐ戻ったのに。皆そろって、どうしたんですか?」 「晶くん」 「……??」 「そんなんじゃダメな話なんだ。ちゃんと会って伝えなきゃいけない話なんだ」 「な、なに? どうしたんですか」 「……その、連絡があって」 「会長?」 「ごめん、何からどう話せばいいのか俺、頭混乱してる」 「何が……あったんですか? 茉百合さん?」 振り返って茉百合さんの方を見ると、ただ黙って目を伏せるばかりだった。 唇を噛む苦しそうな顔は、いつもの茉百合さんじゃない。 いや、茉百合さんだけじゃない。 会長も俺をまっすぐ見つめたまま何も言い出せずにいる。 悪ふざけでもなんでもなく、凍りついたように佇んでいる。 「俺が話そう、奏龍」 「…………」 「――八重野先輩」 「ついさっき、連絡が入った。……お父様が亡くなったそうだ」 「え?」 「正確に伝えよう。昨日のお昼すぎらしいが、職務中に事故にあわれたそうだ」 「すぐ病院に運ばれて――ずいぶん頑張られたらしい。だけど深夜に息を引き取られたとのことだ」 「……」 「叔父にあたる方はわかるか?」 「……はい」 「なにぶん急だったことと、葛木の連絡先がわからず混乱されていた。そして最期に間に合わせることができなかったことを大変悔やんでいらした」 「早く、行ってあげて」 「だけど」 「こっちでのことは何も気にしなくていい、俺たちがみんなやる。だから…少しでも早くお父さんのもとへ行ってあげて」 それはわかっていた。 だけど体が動かない。 桜子が一番大変な時に、俺は――。 「茉百合さん――お願いがあります」 「……ええ」 「桜子はこれから大変な手術をするんだ」 「だけど俺はそばにいてやれない。だから茉百合さん、俺の代わりに……なんて言えないけど……どうか」 自分の声が震えてるのがわかった。 茉百合さんはそんな俺を見て、何もかもわかってくれたようだった。 「わかったわ、あの子が元気をなくすことなんて、何もないように……うん、わかった」 「ごめん、茉百合さん……ごめん」 「晶くん。お父様を――きちんと見送ってさしあげて」 目が覚めたのは、リビングのソファだった。 ぼんやりと天井を眺めていると、何もかもが夢だったような気さえしてくる。 正確に言うと、何も頭の中に入ってこない。 動かしようもない現実が無理やり頭の中に入ってこようとして、俺はそれについてゆけなかった。 きっとそうなんだろう。 これは夢じゃなく、現実だ。 『桜子の手術は無事終わりました。まだ眠っていますが、容態は安定しているようです』 茉百合さんからだった。 短いメールだったけれど、驚くほどにほっとしている自分がいた。 ありがとうございます――と短く返信してから、深く息をはいた。 そうだ、もう起きないと。 心配していた桜子の手術は無事終わったんだ。 後は時間にまかせればいい。 きっと全部――そうするしかないんだから。 『ほーら! こっちみて! ここの木の上に作ったんだ!』 『……待って、そんなに走っちゃ危ないわ』 『だって見せたいんだもん、秘密基地! 宝物が隠してあるんだ! すっごくいいもの!』 『そんな高い場所に登っちゃ危ないわ』 『平気だよ、ねえ、ここにあるもの…――に、あげたいんだ』 『えっ? なあに?』 『わああっ!!』 『危ない!』 『うわあん、えぐ、えぐ……えーん』 『泣かないで。ね? ほら大丈夫』 『えーん、ごめんなさい、ごめんなさい――……』 何もかも終えて、この場所に戻ってくるまで――2週間がたっていた。 早かったような気もする。 だけど。 自分だけが取り残されたような緩慢な時間は、永遠に続いてしまうんじゃないかとも思った。 お葬式や、いろんな手続きはほとんどを親戚の叔父さんがやってくれた。 俺はちっとも知らなかったけど、親父は自分の体が役に立てばと、いろんなドナーに登録していたらしい。 仕事の時はしっかりしてて、厳しい人だったのかもしれない。 だけど俺の知ってるその人は、どこかうっかりしてるところのある、心配症で、優しい人だった。 「そうか……親父らしいっていえば、らしいよな」 俺はただ次々とやってくる親父の同僚だった人たち、ずいぶん長い間会っていなかった親戚たちに挨拶をするだけ。 そのうち親父もこっそりその列に並んでるんじゃないかな。 なんて思ってしまった。 悲しいというよりも、不思議だった。 だから俺は、あの家にいる時にこれを読むことができなかった。 「……」 それは、もしも親父に何かあったら――と託されていたらしい手紙だった。 簡単に糊付けされた、薄い封筒。 そう何枚も便せんが入っているようには思えない。 もしかしたら、たった1枚かもしれない。 だけど、それを俺はずっと開けられなかった。 今なら読めるだろうか。 親父の残したこの手紙と向き合うことを、怖いと思わないでいられるだろうか。 「ここにいたのね」 「――っ」 俺は慌てて手紙をポケットにしまいこみ、振り返った。 「……茉百合さん」 「今日戻ってくると伺っていたから」 「連絡ありがとうございました、桜子のこと」 「いいえ、どうしようか迷ったけれど…やっぱり知らせておきたくて」 「助かりました。手術……成功して本当によかった」 まだ病院には行っていない。 桜子の顔を見たいと思う気持ちと、こんな今の自分を見せたくない自分もいるから。 どうしようか。 会いたい。 だけど。 「あなたは怒るかもしれないけれど、聞いてくれるかしら」 「えっ?」 「お父様がお亡くなりになったこと、もう桜子は知っているわ」 「――!」 「目が覚めてすぐ、最初に聞いてきたもの。晶くんのことを」 「そんな……桜子……あんなに大きな手術した後なのに……」 「お父様のことをお話したら、悲しんでいたわ。だけど、晶くんのために早く元気にならなきゃって」 言葉にならなかった。 信じられないほどの痛みもあるだろう。 胸に残った傷跡をなんとも思わないわけないだろう。 そんな何もかもを置いて、桜子は俺を思ってくれている。 「もう面会は許されているから、行ってあげて」 「……はい」 「……」 ちょっとした風邪だったり、誰かのお見舞いだったり。 様々な人たちが行き交う病院のロビーは、2週間前と変わりはなかった。 変わったのは、誰で、何なんだろう。 桜子。 桜子に会っても、今の俺が会ってもいいんだろうか。 何度も頭の中でその声がした。 だけど、会いたいんだ。 何から話せばいいかわからないけれど。 俺の足はゆっくりと、桜子の病室へ続く階段をのぼっていった。 「……桜子」 「晶さん……来てくれて嬉しい」 桜子はまだベッドの上で横たわっていた。 にこりと微笑むその頬は、ほんの少しまだ青ざめている気がしてならない。 それでも桜子は、いつもと変わらないような笑顔を俺に見せてくれた。 それから。 「あのね、晶さん…私、まゆちゃんから聞いたの」 とまどうような、でも決して同情じゃない声色。 「親父のことだよな」 「……うん」 俺の感じたことを全部、話そう。 そう決めたら、まるで栓をされていたようだった心の奥からいろんなものが溢れだしてきた。 家にたどりついた時のこと。心配してくれた叔父夫婦の顔。 びっくりするくらい何も変わらない姿で、眠っていた親父のこと。 この2週間であったこと、思ったこと、感じていたこと。 何もかもが言葉になっていた。 そして桜子はそれを静かに、聞いてくれていた。 「……桜子が大変な時に、そばにいられなくてごめんな」 「ううん、平気だよ。手術は無事に終わったし、ほら、もう自分で息だってできるの」 「うん」 「ご飯ももう食べられるんだよ」 細い指をぎゅっとにぎりしめて、桜子は控えめなガッツポーズを見せてくれた。 ベッドの上でできる、精一杯の元気だ。 「良かった。でも無理するなよ? 大手術だったんだからな。痛かっただろ?」 「……ちょっと」 「うそ」 「……嘘。すっごく痛かった! でもね、もう平気」 「うん、良かった。ほんと良かったよ」 桜子。桜子のいる場所に戻ってこれてよかった。 声にできなかったから、俺は手を伸ばした。 シーツの上に広がる柔らかな髪、それからふわりとした頬。 触れると、温かい。 ちゃんと血が流れて、息をして、生きている温度がそこにあった。 最期に親父に触れた時にも思った。 本当はこんな風に温かいんじゃないかなって。 でもそれは俺の夢で、現実は驚くほど冷たかった。 だからこれが幸せな、俺が見たいと思っている夢だったらどうしよう。 触れたとたんに消えてしまう、幸せな夢だったら。 だけど桜子はきちんとそこにいて、生きている。 大丈夫。それだけで大丈夫と思える。 何かを失っても――。 「……あ」 手のひらに熱い何かが触れた。 「桜子、どうしたんだよ」 じっと俺を見つめている桜子の瞳から、涙がこぼれていた。 「……」 「なんで泣くの? 大丈夫だよ」 桜子は静かに頭を横に振った。 「ねえ晶さん。無理はしないで? 本当は大丈夫じゃない時に、大丈夫だなんて言わないで」 「えっ……」 桜子の大きな瞳の中に、俺が映っていた。 「私にとってはいつでも大事な人なんです、晶さんは」 「――…」 「だからちゃんと、悲しんで。我慢しないで」 どうしてなんだろう、と不思議だった。 まるで俺の何もかもを見透かすような言葉。 ちゃんと、悲しんで。 桜子の言葉が体の中で響いてゆく。 俺はポケットからあの手紙を取り出した。 桜子は、自分の手をそっと俺の手のひらに重ねてくれた。 そしてそっと頷いてから、ずっと開けられなかった手紙の封を切った。 俺は。 俺は今どんな顔してるんだろう。 たぶん、泣いてる。だけどそれもわからない。 涙がこぼれているような感覚はあったけれど、わからない。 ただ。 ただどうしていいかわからずに、俯くことしかできない。 「晶さん、いいですよ」 「……」 「見せてください。とても辛くて悲しくて誰かに頼りたくてしかたない晶さんも」 「桜子」 一瞬だけ顔をあげたその時。 目の前にあったのは桜子の笑顔だった。 ここへ来るまでずっと、どんな顔で桜子に会えばいいんだろうと思ってた。 違ったんだ。 どんな顔をしていても、いいんだ。 「どんな晶さんも、好きです。どんな晶さんも大事だからです」 「全部、好きだから」 柔らかな手のひらが、ゆっくりと俺の頭を撫でてゆく。 何度も、何度も。 「私ね、手術のあと眠っているとき、不思議な夢を見たの」 「……夢?」 「小さな子供と遊んでいたの。その子がね、とても危ないことをしたの。だから私、走って走って……」 「ぎゅっと抱きとめたの」 「泣いてるその子を抱っこしていたとき、すごく胸が痛かったの」 「ああ、大丈夫で良かったっていう気持ちと、ずっとずっと大事にしなきゃっていう気持ちがたくさん溢れたの」 手のひらから伝わる優しさが、俺のなかで溢れだすように、涙が止まらなかった。 「晶さん……悲しくないよ、私が一緒にいるよ」 「うん…違うんだ、悲しいからじゃ、ないんだ」 「晶さん?」 まるですっと氷が溶けていくようだった。 悲しみよりももっと深かった、喪失感。 もう二度と戻らないものを、なくした――そんな気持ちが溶けてなくなった。 俺は何もなくしてなんかいない。 それはずっとここにある。 「変だよね、私。こんなに弱い体なのにね」 「晶さんのこと、ずっと守ってあげたいって思ったの」 「だから、晶さんの泣きたいときも笑いたい時も一緒にいたいの」 「私は、あなたの家族になりたい……晶さん」 答えは、言葉にできなかった。 そのかわり、強く強く頷きかえす。 桜子の手がほんのわずかだけとまどうように、震えていた。 「いいのかな、私。そんな風に思ってもいいの?」 「いいよ。嬉しいよ。そんな風に思ってくれているのが、嬉しい。桜子、ずっと一緒にいよう」 顔をあげて、桜子の手を握る。 不安にさせちゃいけない。 大事なものがここにあるんだ。 「一緒にいよう」 「うん……ありがとう」 「あなたと会えたから――私の生きてる場所、素敵になったの。ありがとう」 「大丈夫? ずいぶん歩いたから疲れただろう」 「平気よ。ここはとっても眺めがいいのね」 「そうだね、もう少し行けば明るくて広い原っぱがあるんだ。そうしたら、もうすぐ」 振り返ると、立ち並ぶ屋根たちがずいぶん遠くに見えた。 ――ここはとても眺めがいいけれど、ちょっと不便だね。 そうだ。 この墓地へと続く小高い丘の階段をのぼり終えると、いつもそう言っていた気がする。 幼い頃は、背中におんぶしてもらって。 それからは、ふたりで並んで。まるでピクニックみたいに母さんに会いに来ていた。 それから。 しばらくはずっと、ひとりで来ていた。 そして今日、やっともう一度『ふたり』でここを訪れることができた。 桜子とふたりで。 「……こんにちは、はじめまして」 「久しぶりになっちゃって、ごめんな」 花を添えて、ふたりで手を合わせる。 桜子は一度も俺の親父に会えなかった。 それでも、たくさんの思い出を聞いてくれた。 「いろいろ考えたんだけど、やっぱりここで渡したかったんだ」 「晶さん?」 桜子は不思議そうな顔で、俺の方へと視線をうつす。 もしも親父がどこかで見ていたら、きっと恥ずかしそうに笑ってるだろう。 俺も同じで、恥ずかしくて、思わず目をそらしそうになってしまう。 だけどまっすぐ、俺は桜子を見つめた。 「これ、桜子に……」 「あっ」 「手、出して」 「はい」 「なんかさ、親父だったらきっと言うから。早く指輪はめてやれって」 「……ふふふ」 白い手が、陽光を浴びて柔らかく輝いている。 温かくて柔らかい手。 俺に優しさをくれたもの。 その細い指先に、そっと指輪をはめた。 「きれい」 目を細めて、桜子は自分の指先を見つめていた。 嬉しそうな微笑みが、桜子を包む空気にまで広がって見えた。 「ありがとう、晶さん。嬉しい…」 「俺もだよ」 「私もね、晶さんに渡したいものがあるの」 「……えっ?」 桜子がそっと取り出したのは、ずいぶん錆びた小さな缶だった。 「秘密にしていてごめんなさい。実は私、一度だけこの場所に来たことあるの」 「そうだったの? 親父の墓参りに?」 桜子はゆっくりと頭を横に振った。 微笑みを浮かべたまま、静かな歌を紡ぐように桜子は唇を開いた。 「ねえ晶さん。私が木登りしたっていったら驚くでしょ」 「それは……驚くな」 「木登りっていうほどじゃなかったけれど」 「……?」 「じゃあ、もうひとつ。晶さんが小さい頃、木から落ちた時のことは覚えてる?」 「覚えてる」 あれはいつのことだっただろう。 ずいぶん幼い頃のことだ。 木の上から落っこちたのを親父に助けてもらった。 自分の痛みよりも、動揺した親父の姿にびっくりしていた記憶ばかりが残ってる。 「……秘密基地」 「――あっ」 おぼろげな記憶の向こう側。 この墓地の近くの野原だった。あの頃はとても高いと思っていた木。 太い幹にできた隙間を、俺は自分だけの秘密基地にして喜んでいた。 「晶さんはこれを渡したかったんだね」 桜子は静かにその小さな缶を、そっと俺の手のひらに乗せた。 「…………」 「――これは」 中から出てきたのは、折りたたまれた画用紙だった。 お父さんと、お母さんと、男の子。 クレヨンで描かれた家族の絵。 ずいぶん色あせて痛んでいたけど、見覚えがあった。 「晶さんが描いたの?」 「そうだよ。そうだ…これ、あの日に渡そうと思ってたんだ」 「小さい頃の晶さんと、ご両親でしょう?」 「そう、家族の絵」 「とても上手」 渡せなかった、ずっと昔の宝物。 クレヨンで描かれた家族を、桜子はそっと撫でた。 「とても上手だよ、ありがとう」 「――え?」 「きっとそう、仰ったはずよ」 「……ああ。そう、だな」 ずっと忘れられていた宝物を、桜子は愛しげに何度も撫でた。 大丈夫。 俺はそっと呟いた。 宝物はなくしてなんかいなかった。 これからまた作っていくんだ。 だから、大丈夫。 「さて、お茶でもいれましょうか」 いろいろな意見が出たものの、いまいち、まとまったのかまとまってないのかわからない会議だった。 茉百合さんもそれを察したから、お茶にしようって言い出したんだろう。 「……何?」 「えーっとごにょごにょごにょ」 「それなら、ラボに置いてあった。アレって28号の忘れものだったの」 「まいったな、取りにいかないと」 「ラボに行くなら、ワタシも一緒に行かなきゃね」 「……すまない。オレとマミィ、ちょっとぬけるな」 「あらあら、大事なものなのね。いってらっしゃい」 「まゆちゃん、お茶いれるの手伝うよ」 九条とマックスは何かを取りに出ていっちゃったし、茉百合さんと桜子はお茶の用意をしてる。 残された俺と結衣と天音は、さっきまでの慌ただしさをため息と一緒に吐き出した。 「ねえねえ、晶くん」 「ん? なんだー?」 「くるりちゃんって、なんだか最近ちょっと不思議だったよね」 「あー……なんだかなあ、アレは何だったんだろう」 「なんかね、くるりちゃんが晶くんのことすっごく好きになったのかと思ってびっくりしたよー」 「ちょ、それはないって! 九条が俺を好きとかないないない」 思わず椅子から半身を起こしてしまった。 確かにここ最近の九条は俺にやたらと近寄ってきていたけど、何かが違う。 好きとかそういうんじゃなく、別の理由のような気がする。 まあ、それももう飽きたのか、もういつもの九条に戻っていたけど。 「そっかー。そうなんだ」 「……」 結衣がほっとしたように、すうっと長い息を吐いた。 俺も同じ気持ちだ。 まったく九条のアレは、何の気まぐれだったんだろう。 「だいたい葛木くんがモテモテっていう現象が、ありえないでしょ」 「え? あ……そうかな?」 「うわ、ちょっと今なにげにヒドイ事言ってないか?」 「私とのことも、お芝居なんだからね」 「うん。天音ちゃんも大変だよね……いろいろ」 「ほんっとよ! 毎日疲れちゃうんだから」 「頼んできたのは天音の方なんだからなー」 「それもわかってる!」 「は、はい」 なんだ、俺は叱られてるんだろうか。 小さな理不尽を感じたけど、もう飲み込んでおこう。 天音はそれっきり頬を膨らませて横を向いたし、結衣はその横でただにこにこしていた。 女の子ってどうして、こんなにくるくる変わるんだろう。 「こっちにいるの? なんだか急ぎだったみたいだからね」 「おう、なんでオレがウソつくんだよ」 「うわ、お兄ちゃん……」 「しっつれいしま〜す」 「たっだいま〜。おーい、結衣! なんか届いてたぞ」 「え? なになに? 私に?」 「そうそ、さっきねぇ学園に届いたばっかり。なんかほら、ここに速達って書いてあるから持ってきたんだよ〜」 会長は持ってきたダンボールを、どさっと机の上に載せた。 結衣がぱたぱたと駆け寄ってきて、そのダンボールに手をかける。 ガムテープを破り、蓋をあけると…。 中から、綺麗に包装された箱が出てきた。 リボンの間にはさんであるカードには、『ハッピーバースデー』の文字。 「わあ! お誕生日プレゼントだあ!」 「おお! なんか豪華な箱だな」 「ご両親から……みたい。結衣さん、良かったですね」 「うんうんっ、ねえ、今開けてみてもいいかな?」 「ええ、もちろんよ」 結衣は箱にかけられたリボンを、丁寧にほどいていった。 女の子が好みそうなピンクの包装紙も、破れてしまわないようにゆっくりと開く。 結衣の仕草を、周りにいる俺たちはじっと見つめてしまった。 「……美味しそう」 「うわ、ほんとだ。美味しそう……」 結衣が開いた箱の中には、ひと口で食べれそうなチョコレートやマカロンがころんと入っていた。 「ちょっと待ちなさい。あなたたち、それは食べ物じゃないわよ」 「へ?」 「……はあ。ほら、これはね」 「――わっ!」 「ええっ!?」 天音が箱からそれをそっと取り出した。 チョコレートはストラップ、マカロンはネックレス。 お菓子の形をした、アクセサリーだった。 「もうちょっとで食べるところだったでしょう」 「お、俺も……」 真っ赤になりつつ、結衣はネックレスを目の前に持ってきた。 「お母さんが選んでくれたんだろうな」 「可愛いわね」 「うん、お母さんもね、すっごい可愛いもの好きなんだ」 ダンボールを覗き込んだ桜子が、底にあったもうひとつの包みを指差す。 さっきの可愛らしい包装とは違った、なんだか渋い袋に入ったものだ。 「あら、結衣さん、こちらはお父様から?」 「ほんとだー。こっちも開けてみよう」 結衣が袋から箱を取り出す。 そして出てきた白い箱を開けた途端、結衣の目がきらきらと輝いた。 「わああああ!」 「ゆ、結衣さんっ!?」 「ちょ、だ、大丈夫か!?」 「見て! 見て! これすんごーく手に入らないものなの! 撮影所でしか買えないの!」 箱にはよく時代劇で見るような小道具のストラップやら、十手や手裏剣のレプリカが入っていた。 これ、年頃の娘にやるものなのかな……。 そう思いつつ顔をあげると、結衣の目はありえないほどキラキラしていた。 「これは……そうね、結衣が好きそうなものね、うん」 「確かにレアだな。こんなの売ってるの見たことない」 結衣はすっかり陶酔して、十手にほお擦りしていた。そこまで好きなのか。 まあそこまで好きなんだったら、十手も本望だろう。 盛りだくさんの時代劇グッズにうっとりしている結衣の横から、会長がもの珍しそうに箱の中身を覗き込んでいた。 やっぱり普通に考えて、そういうもんだよな。 時代劇に出てくるものなんて、なかなか注目しないよな。 ふと、会長が箱の底に手をやった。 「ねえね、ゆいちゃん。まだ入ってたよ。なんだろうこれ――」 白い紙に包まれた何かを、そっと持ち上げる会長。 なんだか柔らかそうだけど……。 「――あっ」 その包みは会長の手から滑り落ちて、ころんと机の上に転がった。 白い紙の間から、ちらりと覗く黒いそれは……。 ―――髪の毛?! 「なななな生ちょんまげ!?」 どうみてもホラーなそれに、会長と天音の二人が軽く悲鳴をあげる。 結衣は目から光でも飛び出しそうな勢いでそれを手に取ると、何のためらいも無く白い包み紙を開けた。 「あ、あの、さ、それは……一体なに?」 「生ちょんまげです♪」 「生ちょんまげ……うん。わかった。でも何故それがプレゼント?」 「あら、結衣さん。これはお手紙だったみたいですよ」 箱に入っていた巻物を桜子が取り出す。 プレゼントのグッズのひとつだと思っていたけど、表には『結衣ちゃんへ』と書いてあった。 メッセージまで気合が入った仕様だな。 結衣はするすると巻物を開いて、中に書かれた文字を読みあげ始める。 「結衣ちゃんへ……撮影で使うカツラが新調されるので、担当の人に言ってちょんまげをいただくことができました」 「これは結衣ちゃんの大好きな『暴れん坊老中』で実際に使われたものです」 「結衣ちゃんへのプレゼント、いろいろ悩んだけど、お父さんこれが一番いいなって思ったんだ。喜んでくれたら嬉しいな」 「う、嬉しいよおお! お父さんありがとおお!」 「ちょんまげ……嬉しいんだ」 「うんうんっ♪」 「……本当に時代劇好きなんだな」 「大好きっ!!」 「結衣さん、ほんとに嬉しそう。きっとお父様もすごく喜ばれるわ」 結衣は巻物を慌てて元に戻そうとあたふたしている。 そこへ、茉百合さんが人数分のカップをお盆にのせて戻ってきた。 「うふっ。素敵な贈り物、良かったわね」 「はいっ、宝物にしちゃいますよー」 「結衣ちゃんはご両親ととても仲がいいのね。見ていてすごく幸せそうだもの」 「きっと赤ちゃんの時から娘にメロメロなパパとママだったんだろうな〜」 「あ、お父さんは赤ちゃんの頃のわたしは知らないの」 「えっ?」 「お父さんとお母さんは再婚なんだ。だからお父さんとは血が繋がってないのね」 「……ごめん」 結衣のその言葉は予想外だった。 いつも人をからかうような会長の顔がふっと真面目になる。 その顔に一番驚いていたのは結衣自身だったみたいだ。 「え? えっ? あの、わたしお父さんと仲良しですよ? 時代劇の話とかいっぱいするし、たまにわたしが老中役やっても相手してくれるし」 「……そっか」 「だって、わたしとお父さんは親子だもん」 「……うん。なんかいいな、そういうの」 「……」 「はっ! そうだ! わたしのせいですっごい話がそれちゃったよね」 「……お話し?」 「そうね。出張limelightの限定メニューのこと、もう少しまとめないといけないわね」 「いけない、そうだったわ」 「なになに〜? limelightのことなら、この僕も一肌脱がないといけないねえ」 「会長は帰ってくださいっ!! お届けものは済んだでしょ!」 「えええええー! わ、こらっ! 押すなよお! うわーん、追い出されるー!」 天音がぐいぐいと会長の背を押してドアの方まで追いやっていく。 相変わらず、兄に対してはすごいパワーだ。会長は問答無用でドアから追い出された。 「さて、これで静かになったわ。本題に参りましょう!」 その後、俺たちはしばらくlimelightのメニューについて話し合った。 話が形になった頃には、もう外は夕方になっていた。 「おう結衣、部屋まで運ぶの手伝ってやろうか?」 「ありがとー! 助かるね」 プレゼントの箱を、マックスは器用に腕の中に挟んだ。 結衣は嬉しそうな空気を漂わせながら、マックスとともに部屋へと戻っていった。 「……あ」 「くるり、戻ってこないからどうしたのかと思った」 「ラボに行ったらいろいろやること思い出したから」 「そっか。limelightの限定メニューのこと、私たちで進めちゃったけどいいかな」 「うん、大丈夫。あとね、さっき――」 九条が何か言い出そうとした時だった。 たぶん、その人の名前を言おうとしたんだろう。 それより先に気づいたのは、天音の方だった。 「理事長」 「……天音」 「ちょっと、ごめん」 珍しいところに珍しい人が来ていて、少し驚く。 廊下の先に現れた理事長のもとに、天音が慌てて走っていった。 「今日は運営の用事じゃないのよ。これをね、天音に渡そうと思って」 「……なに? これって、何のチケット?」 「明日中央公園でおもしろいショーがあるんですって。あの彼といってらっしゃい」 「な、なによ! そんなの別にいいのに!」 「恥ずかしがらないの。晴れた日に一緒に過ごすのはいいものよ」 「だ、だからって、でも!」 「それじゃあね」 理事長は満足そうに笑うと、何か言いたそうな天音を置いてそのまま廊下の先へと歩いていった。 そして、天音が複雑そうな顔をしながら、こちらへ戻ってくる。 「……ほんとにもう」 「どうしたんだ?」 「これよ。明日ふたりで遊びにいってらっしゃいって」 天音が手にしていたのは、何かのチケットだった。 同じものが2枚。天音の指先に挟まれてゆらゆら揺れている。 「誰と?」 「あっ、そ、そっか」 「でもダメだわ! だって繚蘭祭の準備もlimelightのこともあるのに、遊んでる場合じゃないもの」 「あら、大丈夫よ。私たちにまかせてください! せっかくお母様が手を尽くしてくださったんですし」 「でも、やっぱり……」 「大丈夫よね、くるりさん」 「ワタシのぶん、茉百合さんがいるから」 「…………」 くるっと振り返った天音が、俺の顔をまっすぐ見つめた。 怒ったように唇をきゅっと結んでるけど、こういう時俺は何て言ったらいいんだろう。 行こうよって言うべきか。 そんなに気を遣わなくってもって言うべきか。 「そうよね」 「え、なな、なに?」 「恋人同士だったら、デートのひとつでもしておかないと怪しまれるわ」 「んー、まあそうだけど」 「それじゃ明日デートだから。言っとくけど、これも婚約者のフリの一環だから勘違いしないでよっ」 「はいはい」 「返事は1回! あとで詳細はメールします」 「わかったよ」 天音はこんなときでも会議のときみたいな口調だ。 なんだか大変だなあ……。 どうなるのかなと少し不安だったが、逆に楽しみだとも思ってしまう自分もどこかにいる。 明日、ちゃんと早く起きなきゃな。 そう思いつつ、俺は部屋に戻った。 「び、びっくりしたー」 突然鳴り響いた目覚まし時計の音。 おまけにいつもよりも五割増しの大きな音だった。 どうやら誰かが時計を耳元に置いていたようだ。誰かと言っても、思い当たるのはたったひとりなんだけど。 「おいマックス! なんのイタズラだよ!」 叫んでみたものの、部屋にはマックスの影はなかった。 隣のベッドにも、いつも引っ付いてくるはずの俺のベッドにもいない。 「いないのか……ん?」 目覚まし時計に、いつかの時のような綺麗な字の書かれたメモが貼り付けてある。 『おはよう、親友! デートに遅刻は禁物だぞ!! いつもより早めに設定して枕元に置いておいたからな! 二度寝禁止!!』 「……まったく」 おせっかいだけど、あいつらしい気の使い方ではある。 苦笑しながら俺は身を起こした。 せっかく早く起きたんだからな。きちんと準備して出かけよう。 すずのはまだ、布団の中ですやすやと眠っている。 そんな中、部屋を訪れたマックスと、結衣は小さな声で相談をしていた。 話の内容は、今日の天音と晶のデートのことについてだ。 「……でも、そんなのいいのかなあ」 「どうして?」 「だって晶のヤツ、デートって初めてじゃねーか?」 「そうなのかな」 「昨日だってよ、明日はデートっていうのになーんも用意せずぐーぐー寝てたしよ」 「うーん、男の子ってそんなものなのかな。わたしだったら、いろいろ…着ていく服とか悩んじゃうかも」 「だろ!? とりあえず遅刻だけは避けろって感じで手は打ってきた」 「う、うん」 「オレだけだとさ、天音の気持ちとかわかんねーじゃん。だから結衣、一緒に行こうぜ」 「……うん。わかった」 結衣は大きく頷くと、こっそりと二人のデートを見守るというマックスの提案を受け入れた。 マックスのおかげで、恋人のフリとは言え初めてのデートの待ち合わせに遅れずにすんだ。 遅れたらまたカカト落としをくらっていたかもしれないし…やっぱりマックスには感謝しておこう。 俺と天音は一緒に公園まで来ていた。 「ちょっとここって、前すぎないかな」 「だよな……天音のお母さんが頑張って取ってくれたんだな」 「うーん」 昨日天音のお母さんがくれたチケットは、この公園で行われるショーのものだった。 いろんな国の大道芸の有名な人たちが集まって、様々な技を見せてくれるようだ。 公園の真ん中に立てられた野外テントのまわりに、ぐるりと席が作られている。 その一番前の、ど真ん中が俺たちの座る場所だった。 「あ、始まるよ」 「一体どんなのかしらね。初めて見るわ、こういうの」 大きな拍手とともに始まったショーは、ピエロに扮した人やシルクハットをかぶった人。 まるで魔法使いみたいなマントをかぶった人まで出てきた。 「おお、なんか本格的なんだな」 「わああ、すごい」 次々に出てくる大道芸人に、子供みたいに天音ははしゃいでいる。 こういうの、あまり見た事がないのかな? まあ俺もそんなにあるわけじゃないけど……。 「わわ、見てあの人……あれってどうなってるのかしら」 「え? あれ? たぶん足のところだけに竹馬みたいなのはいてるんだろうな」 「すごいよね、あんなの! 普通に歩いてるみたい」 全員が一列に並んで礼をすると、同時に芸をやり始めた。 一人、狭そうによろよろと歩いている足の長いピエロが、隣の人にぶつかりそうになる。 「きゃ、あ、危ない」 「おおっ」 天音は思わずそうなったんだろう、目を覆って顔をふせてしまう。 そんな正直な反応がちょっとおかしくて、俺は苦笑してしまった。 「天音、おーい天音」 「……え?」 「さっきのはわざとだって。ほらほら」 ピエロは失敗したふりをしただけだった。 足を高くあげて、片足で芸人たちの狭い間を縫うように飛んでいく。 ようやく意図を理解した天音が顔を赤くした。 「わかってる!」 ぷいっとばつが悪そうに向こうをむく天音。 「あはは、天音って驚いた時あんな顔するんだな」 「な、なによ、びっくりしたら誰だってそうなるわよ!」 「はは、ごめんごめん、そっか……教室とかじゃ見ないよな」 「あたりまえでしょ」 「うん、そうだよな、なんかいつもしっかりしてるし。驚いたり焦ったりとか、あんまりないよな」 「う、うん。そうよ?」 「やっぱ繚蘭会長、だからだよな。皆に頼りにされてる感じするからさ」 「……あ、ありがと」 照れているのか、天音はまたそっぽを向いた。 こんな一面もあるんだなぁ。やっぱり、女の子だもんな。 少しだけ天音の素顔を見れたような気がする。なんだか得をした気分だ。 ショーを見終えた俺たちは、二人で公園のベンチに移動していた。 さっきまでたくさんいた観客たちはもういなくなってしまっていて、公園の中はとても静かだ。 それにしても、天音がそわそわと自分の荷物を気にしてるように思えるんだけど…。 「あのね、お昼ごはん」 「もうそんな時間か〜、そういえばお腹すいてきたな」 「ほんと? それなら良かった。お昼ごはん、作ってきたから」 「えええ! 天音が作ってきてくれたの!?」 「ちょ、ちょっとそんなに驚かなくてもいいでしょ! ふ、ふつうでしょ、こういうの」 「そんなことないってば、びっくりした」 「もちろん!!」 「……」 「なかなかうまくやってるみたいだな!」 「……うん」 「お、見てみろよ! 晶のやつよっぽど腹減ってたのかがっついてるぞ」 「ちょ! しょ、晶くん!? のど! のどつめちゃったの!?」 「ののの飲み物、えとえっと、はい! 飲んで! はやくはやくっ」 「天音ちゃん…」 「あっぶないあぶない。天音が気が利くから良かったよ」 「……」 「結衣? どうしたんだ、ちょっと顔色悪いぞ」 「ほんと。疲れたのか? それとも結衣も腹減った? 何か食いにいくか?」 「大丈夫だよ、心配しないで」 「それならいーんだけどさ」 「うん! 大丈夫!」 天音のお弁当はあっという間になくなってしまった。 どうやら思っていたよりもお腹がすいていたらしく、かなりのスピードで平らげてしまったからな…。 お腹が落ち着いて一息つくと、なんとなく言葉が止まってしまう。 天音も黙ったままだった。 どうすればいいのか、お互い困っているのかもしれない。 「……あのさ」 「え?」 「さっきのお弁当、おいしかった」 「そ、そんな、だってあれほとんど手間かけてないし、ばばばーって作ったんだし」 「え? そうなのか?」 「……うん。あんまり凝ったのなんて、急にできないでしょ」 「でもちゃんと作ってあったよ。美味しかったし、それに」 天音の持ってきたお弁当を思い出す。 今はもう俺のお腹の中におさまってしまったわけだけど、開けてみたときはおかずとご飯が並べられた、ちゃんとしたお弁当だった。 そしてそのお弁当を見て何よりも思ったのは――。 「なんていうか、普通っていうか」 「普通!?」 「あ! 悪いとかそんなじゃなくて! 天音って結構お嬢さんだろ?」 「――え?」 「だけどさ、お弁当…なんていうか、ほんとお母さんが作るやつみたいっていうかさ。家庭的! そう、家庭的な感じでよかった」 そう言った途端、天音が一瞬で顔を真っ赤にした。 「……あれ? ど、どうしたの?」 「べ、別に」 いつも蹴ったりするときもこんな感じだよな。 俺、なんか怒らせるような事言っただろうか。やっぱりあれか、普通はまずかったか。 かといって今更とっても素晴らしかったです! なんて言えないし……。 あー。どうしたらいいんだ。 またもや気まずい沈黙が流れる。 天音の顔をちらりと盗み見てみると、赤い顔をしたまま何故か茂みの向こうに見入っていた。 「あ、あのね、えっとその、デートだし、やっぱりこれデートだから」 「ああいうの、したほうがいい?」 天音が見ている先には、膝枕をしている仲睦まじげなカップルがいた。 ああいうのって……膝枕ってことか!? 「ななななんで!?」 「なによ! 嫌なの!? だってちっともデートっぽくないじゃない、今のままだと」 「そうかな?」 俺には十分、デートだと思えるんだけど……。 それとも世間的には違うのだろうか。 「ショー見て、お弁当広げて食べてるだけだし、これって友達と同じじゃない?」 「い、いやま、そう言えばそうかもだけど…でもデートって言ったらデートじゃないか」 「う、うーん。そうなの? そうなのかな…もっと特別なことする感じなんだと思ってた……」 あ、そうか。 さっきから黙ったりしていたのは、別に怒ってたわけじゃないのか。 天音も緊張して、どうしていいのかわからなかったんだろう。 「別にそんな考えこまなくていいってばさ」 いろいろ焦っていたのが恥ずかしいのだろうか、俺がそう言うと天音はまた真っ赤になった。 「あ……」 少し遠くから、マックスの声が聞こえてくる。 売店に行ったのだから、きっと何か食べ物を持って戻ってきてくれたんだろう。 けれど、結衣はしばらく眼前の二人から目が離せなかった。 「おーい、結衣! これ食おうぜ! ほら、こういうの好きだろ?」 結衣がよく知る天音の表情。 そのどれもが、今の天音には当てはまらない。 まだこの学園に来て、ほんの少ししか経ってないけれど。 天音がどんなに他人の事を思いやる、優しい子なのかはよく知っている。 いつも一生懸命で、真面目で。 たとえ演技だとしても、恋人の役と言われれば、きっちりと計画をたて、よく考えて上手にこなしてみせるだろう。 ――でも、今の天音ちゃんはちがう……。 恋人のフリで来ているはずなのに、恋人のフリをしていない。 「結衣?」 「あ、ご、ごめん。ありがとね」 「やっぱりなんかヘンだぞ?」 「……」 「お腹痛いのか?」 「……うん。ちょっとだけ。だから今日はもう…帰ろうかな」 「わかった! 寮までちゃんと帰れるか!?」 「うん、大丈夫。ごめんね」 「気にするなよ、オレの方が誘っちまったんだしさ! さあ、早く帰ろう!」 「……うん」 「天音さ、そんなにいろいろ考えなくても――」 「じゃ、じゃあ! 何か買ってくる! だって晶くんさっきのじゃ足りないよね、お昼ごはん」 「いや、まあ……でも平気だって」 「いいよ。私行ってくる、だって、ほら、やっぱりデートってそういうものでしょ?」 天音はパッと立ち上がると、そのまま走っていこうとした。 その時だった。 「あ、あぶなっ――」 石でも踏んだんだろうか、かくんと足を取られたように天音の体が傾いた。 「いててて」 「あ、ご、ごめんなさい!!」 「足は大丈夫?」 「うん、ちょっと何かに引っかかったみたい…ひねってはないわ」 「よかった」 こけそうになったからなのか、俺の上に思いっきり転げたせいなのかわからないけど……。 「こんなので走りまわっちゃ危ないよ」 天音のはいてる靴は、女の子らしいころんとした可愛らしいものだった。 可愛いけど、走るには向いてない。ましてや草の上や石が落ちていそうなこんな場所では。 「今日の天音、いつもと違うぞ」 「それは!」 「だってデートでしょ? デートって言ったらやっぱり相手に楽しんでほしいし、いろいろしてあげたいし」 「わかんないんだもん」 「ちょっとさ、待ってて」 「え?」 「ここで座ってて。俺が行ってくるから、売店」 天音をもう一度ベンチに座らせると、俺は走って売店に向かった。 「天音、これ」 売店で買ってきたほかほかのたいやきを、袋ごと天音の前に差し出した。 「え……? 私に?」 「そうそう。甘いものってさ、食べると頭の回転よくなるんだよな?」 「ん? ま、まあ…確かに糖分はそういう作用があるってよく言うけど」 「だから天音に。いつもよりなんだか迷走してるみたいだったから」 「迷走? 私が?」 「無理すんなよ、天音。無理やりカップルみたいなことしなくても、普通に仲良くしとけばいいんじゃない」 「……いつもみたいにさ」 そう言って笑いかけると、天音の頬がさっと染まった。 「――!」 「ほら」 「う、うん……ありがと」 その顔にゆっくりと笑顔が広がってゆく。 今日やっと初めて見られたような気がする、いつもの天音だ。 やっぱり、天音も相当緊張していたんだろう。 そりゃあいきなりウソの婚約者としてウソのデートだなんて、女の子としては緊張するのも当たり前か。 なんだか少し申し訳なくなってきた。 「天音、あのさ」 「もっと気軽にしたらいいよ」 「えっ?」 「なんだかんだ言ってもさ、恋人のフリなだけなんだし」 「…………」 瞬間、何故か天音はぴたっと止まってしまった。 「……天音?」 そのまま、天音の目はまっすぐに俺を見つめてる。 俺を見ているのか、何かを思い出したのか、それとも俺の向こうを見ているのか。 俺にはわからなかった。 やがて―――。 「……うん」 一瞬、何が起こったのか俺にはわからなかった。 ぽろぽろと、その瞳から涙がこぼれたからだ。 「えっ、なんで……天音? どうしたんだ?」 「うん、わかってるわ。そうよね……」 「……うっ、うう、うん、私が言ったんだもん……」 「天音、どうしたんだよ」 「別に、なんでもないから」 「なんでもないって、泣いてるだろ?」 「……ん、気にしないで」 「だってフリなんだから、気にしなくていいんだから」 「……ごめん」 「……」 天音は俺に背をむけて、ゆっくりと頭を横にふっていた。 それからハンカチを出して目元をぬぐっていたようだ。 こういう時、俺はどうすればいいんだろう。 「天音、座ろう」 「……」 こくん、と頷きだけが返ってくる。 そばにあったベンチに並んで座ってみたけれど、天音と俺の距離はすごく遠かった。 ほんの数十センチの距離だったけど、届かない。 「……はむ」 「……はむはむ」 「食べれない?」 こくん。 こっちを見ないまま、天音は小さく頷いた。 「ごめん、俺買いすぎたよな」 「……」 「いいよ、半分」 「えっ?」 「残った半分、俺食べるから。無理すんなよ」 「……でも」 「このたいやきって、普通よりちょっと大きいのかもな」 天音の手に残っているたいやきを手にとると、ぱくっと口の中にいれる。 広がる甘い味はおいしかったけれど、どうしてか素直に喜べなかった。 「……ごめんね」 「ぜんぜん平気。うん、もう1個食べても大丈夫なくらい」 そう言うと、天音はほんの少しだけ笑った。 だけど距離は変わらない。 どうしていいかわからなかった。 けど、せめて俺が笑ったり楽しそうにしていれば、いいんだろうか。 無理しなくてもいいのに。 いつもと同じで十分、俺は楽しかったのに。 たくさんの言葉が浮かんだけど、どれも上手に伝えられそうになかった。 「晶くん。今日はお付き合いありがとう」 「……天音」 「疲れたでしょ、たくさん歩いたから」 「あのな、天音。聞いてほしんだけど」 「頼まれたからデートしたって感じかもしれないけど、それだけじゃなくて」 「……」 「天音がいろいろしてくれたり、ショー見てさ、天音がすっごいびっくりしたりしてた所とか……えっとさ」 うまく言えてない。それはわかってる。 天音は自分の手をぎゅっと握ったまま、うつむいていた。 「つまりは、その、単純だけど……今日すっごい楽しかったんだ」 「……うん」 「だから、天音のこと泣かせてごめん」 「……もう大丈夫だから」 天音はやっと顔をあげてくれた。 その顔はもう泣き顔ではなくて、にこりと微笑んでくれていた。 だけど、わかってる。 今朝見たような笑顔じゃない。ずっと俺にいろいろしてくれてた時の顔でもない。 もちろん、いつも教室で、廊下で見かける天音の笑顔でもない。 初めて見るような、ちょっと無理したような笑顔。 俺がさせてるんだ。 「天音」 「そろそろ戻ろうか。足、ちょっと痛くなってきちゃったから。ゆっくり伸ばさないとね」 「――あっ」 天音は俺の呼び声を避けるように、先に寮の中へと入っていってしまう。 俺も慌ててその背中を追った。 「あ、天音ちゃん」 「……!」 「おかえりなさい! 今日、ずっと晴れててよかったね!」 「うん…ありがとう」 「……ただいま」 「おかえりなさーいっ、あ、なんだかいい匂いがする…」 結衣の明るい声に、少しだけ気持ちがほっとした。 だけど天音は、居心地が悪そうに結衣の横を通り過ぎていく。 「私、もう部屋に戻るね」 「えっ、あっ、うん。じゃあ」 「…………」 「……」 「あ、そうだ」 「さっき言ってたいい匂いってこれだろ、たぶん」 「たいやき。ちょっと冷めてるかも」 「い、いいの? お土産? もらっていいのかなあ」 「天音と一緒に食べようって買ったんだけど、やっぱ多かったみたい」 「そうなんだ…お腹いっぱいになったのかな」 「半分だけ食べてた。だけど――全部食べられなさそうだったし、残りは俺が食べた」 「……うん」 結衣に袋ごとたいやきを差し出す。 いつもの結衣なら、飛び上がるくらいに喜んでくれるはずだ。 だけど、結衣の反応は薄かった。 「…ありがと」 俺が渡したたいやきを、結衣はぱくんと口にした。 俺も1個だけ頬張ってみる。冷めてたけど、甘くて美味しかった。 「これ、いいアンコなんだろな。冷めても美味しい」 「……うん、おいし」 どうしたんだろう。 いつもならもっとキラキラした目で美味しいって言ってくるのに。 なんだかちょっと違う。何がって言われたらはっきり答えられないけれど。 「もしかしてさ、たいやき嫌いだった?」 ぶんぶんと頭をふってから、結衣はがぶりとたいやきに噛み付いた。 半分以上を食べられたたいやきは、アンコの詰まったしっぽをふりふり振っている。 「けほ、けほけほ」 「ちょ、大丈夫か!? 飲み物取ってくるか!?」 「びっくりした、そんなに慌てて食べなくてもさ」 「あ、慌ててないよー! 美味しかっただけだもん」 ああ。やっぱりいつもどおりの結衣だ。 そう思うと、ほっと力が抜けていく。そんな俺を、結衣は不思議そうに見ていた。 「晶くん? どうしたの?」 「ちょっとだけ、結衣がいつもと違うのかって思った。気のせいだったかもだけどさ」 「気のせいだよ、うん。いつもと同じだよ」 それなら良かった。 だって、結衣がいつもと違うと、どうしてかとても落ち着かないから。 もちろん、それは結衣だけの事じゃない。 天音だって、そうだ。 いつもと違う、子供っぽい素顔……それは見れてよかったと思う。 だけど……あんな泣き顔まで見てしまうなんて。 「――晶くん」 「えっ?」 「晶くんこそ、なんか違う。いつもと違うよ。何かあったの?」 結衣の瞳は信じられないくらいまっすぐで、思わずどきっとした。 結衣は、確信している。何かあったのと聞きながら、何かがあったのだとわかっている。 どうしてわかったんだろう。そう思いつつも、俺は話していた。 「今日さ、天音とデート行ったのは知ってるよな」 「う、うん、昨日聞いたよ、中央公園行ったんだよね」 「一緒にショー見たりとかさ、公園でぶらぶらしたりさ、楽しかったんだよ。でも天音がすごく気を遣ってるのもわかったんだ」 「そうなの?」 「きっと、俺が無理してデートしてるって思ってたのかもな」 「だから、そんな無理すんなって言ったんだ。恋人のフリだけなんだし、本当のデートしてるわけじゃないんだし……って言ったら」 「言ったら?」 「天音が、泣いたんだ」 「――っ!」 「なんか悪いこと言ったのかな…俺わかんなくて。結衣なら天音と仲いいし、わかるかなって思って…」 「……」 「……結衣?」 「……」 「結衣? どうしたんだよ、え? なんで?」 俺には何もかもがわからなかった。 結衣の目から、涙がぽろりとこぼれる。 悲しげな顔ではなかった。 ただ何も見えてないように、呆然とした表情のまま……涙をこぼしていた。 「……あ」 「おかえりなさい」 「――んっ」 かけられた桜子の声に、結衣はとっさに涙をぬぐう。 だけど、その表情までは隠しようがない。 「晶さん、デートは楽しかったですか?」 「あ、う、うん……」 「う、うん、おいしいの、うん」 「結衣さん、もし良かったら私もいただきたいですわ。よろしければ私のお部屋でご一緒しましょ?」 「……桜子ちゃん」 桜子はこくんと頷いて、結衣の肩にそっと手をやった。 結衣はまた泣き出しそうな顔をしていた……気がする。 だけどくるっと背中を向けた結衣の顔はもう見えない。 大丈夫、かな。 そんなわけないよな。泣いてたんだから。 でも、俺にできることはなかった。 背中を向けた結衣にできることなんて、なにもない。 「私に任せてくださいね」 「あ、ああ……」 部屋に一人戻った俺は、ベッドに横たわってぼーっと天井を見ていた。 マックスはいない。多分limelightに行っているんだろう。 一人でいると、どうしてもぐるぐると考えてしまう。 天音の涙。 結衣の涙。 泣かせてしまうような事を言ったつもりはなかったけど……。 俺がどんなに悪気がなかったとしても、何気なく言った一言が傷つけてしまったということはあるだろう。 いつもきちんとしていて、人の事を考えてて、何でも一生懸命な天音。 明るくって、常に笑顔で、思わずこちらも笑顔にさせてくれる結衣。 彼女達がどんなことを考えて涙を流したのか、今の俺には知りようがない。 どれだけ考えても、きっと知りようがないんだ……。 「どうぞ、座ってくださいね。お茶しましょうか。たいやきにだったら、やっぱり日本茶の方がいいかな」 「……うん、ありがとう」 ことん、と置かれたふたつのカップ。 それから桜子は、袋の中に残っていたたいやきをお皿に乗せた。 「いただいてもいい?」 「あ、うん! どうぞどうぞ」 「うふ、いただきます」 「……」 いつもならきっと、にこにこしながらたいやきを頬張るはずの結衣。 だけどその口からこぼれたのは深いため息だった。 「お腹すいてなかったかな」 「ううん、そんなことないの……」 「じゃあこれは結衣さんの。ね? 私、結衣さんが美味しそうに食べてるところ見るのが好き」 ぽろぽろと流れ落ちた涙を見ても、桜子は『どうして』は言わなかった。 ただ黙ってハンカチを渡すと、涙が止まらない結衣を静かに見つめていた。 「あのね……ぐすぐす、あの……えっとね」 「うん」 「……うう、好きなの……だめだよね…えぐ、うう」 「大事な友達が辛くなる…しれないの…そんなのダメだよね……好きになっちゃ、ダメだよね」 「結衣さん」 ふっと結衣が顔をあげると、桜子の手がすぐそこにあった。 少し冷たい温度のてのひらが耳の斜め上をゆっくりとなでてゆく。 不思議と心の中が温かくなるような仕草だった。 「どんな結果になっても、ひとを好きになる気持ちに 『いけない』ってないと思うの。決して」 「桜子ちゃん……」 「だけど、だからこそきちんと向き合って、その気持ちに責任をとってあげなくちゃ……ね?」 瞳のはしにたまっていた最後の涙のひとしずくをぬぐってから、結衣は大きく息を吸った。 「わかった。ちゃんとする…だってどっちも私の……大事なひとだもん」 ―――今日は日曜日だ。 少しだけ朝寝坊して、談話室へおりてゆく。時間が合えば誰かいるかもしれない。 天音と結衣は……どうしているだろう。 そんな事ばかり考えていたせいだろうか。談話室には、天音がいた。 日曜日なのに、制服にきちんと着替えている。 「……」 「天音、おはよう」 「おはよう」 「今日も繚蘭祭の準備?」 「そうね、それもあるけど――いろいろあるの」 「何か俺も手伝お……」 「大丈夫よ」 「……」 「繚蘭会の仕事もあるから」 大丈夫、という天音はそっと顔をそらしていた。 言葉どおりに、本当に俺にできることなんてない。 もしもそれなら、それでいい。 だけど。 そうじゃなくて、昨日のことをずっと引きずったままだったら。 「それじゃ」 「うん、頑張ってな」 天音は俺を避けるように立ち去っていった。 やっぱり……まだ、気まずいのかな。 どうにかしてあげられないのだろうか。 何もわかっていない俺が思うことではないのかもしれないけれど……。 そのまま談話室で軽く朝食を取っていると、ドアの向こうから珍しい人が現れた。 「晶くん、ちょうど良かったわ」 「茉百合さん、どうしたんですか?」 「急で申し訳ないのだけど、生徒会の方でどうしても手伝っていただきたいことがあるの」 「本当に急だから、メールでお願いするのも悪いかと思って……今日は何かご予定あるかしら」 「いえ、大丈夫です。じゃあ俺、着替えてきますね」 「ありがとう、本当に助かるわ」 ささっと制服に着替え終わった俺は、廊下に出てふと立ち止まる。 ――結衣のいる部屋を見た。 しんとしている。 まだ寝ているのだろうか。 この時間なら、朝ごはんを食べにおりてくるはずなんだけど……。 心配しながら振り向くと、そこには結衣が不思議そうな顔で立っていた。 「あ、晶くん。おはよう、どうしたの?」 「いや、あの。なんでもないよ」 「そっか」 天音と違って、結衣はそこまで気まずい様子ではなかった。 昨日…泣いたよな? あれはどういう事だったんだ。 ごめん、俺にはわからなかったんだ。だから教えてください。 もしかして、結衣ならば聞けば答えてくれるかもしれない。 淡い期待を抱いて、問いを投げかけてみる。 「あのさ、結衣」 「うん、どうしたの?」 「昨日さ……あの時、泣いて…」 「寝不足?」 あくびとかじゃなくて? 寝不足で、涙って出るのか? なんだか誤魔化されているような気がする。 「あのさ、結衣」 「ごめんね、もう行かなくちゃ。今日は色々頼まれごとがあるんだ」 「あ、うん。そっか…繚蘭会の?」 「ううん、違うよ。晶くんは?」 「俺は、生徒会。茉百合さんがわざわざ来てくれたから」 「そっかー。じゃあ、お互いがんばろう。じゃあね!」 「あ、結衣」 「……」 結衣も天音も、本当にどうしたんだよ。 そう叫んで聞きたかったけど、それも出来なかった。 ――そうだ、茉百合さんを待たせちゃいけない。 しばらくぼんやりしていたが、ようやくその事を思い出して、俺は急いで茉百合さんの元に向かった。 日曜日でも生徒会のメンバーは忙しい様子だった。 相変わらず会長はソファに座ってゲームしてるみたいだけど……。 俺はパソコンで頼まれたデータ修正の作業をしている。 よく事情のわかってない俺にやらせるくらいなんだから、今日は本当に忙しいんだろう。 だけどときどき、どうしても手が止まってしまう。 天音と結衣の事を思い出して、ぼんやりしてしまう事があった。 「……」 「なんだか、今日は静かなのね」 「ちょうどいいくらいだ」 「今日はレベル上げの最中なのですよ〜」 「毎日そうだといいのだがな」 「ふふふ」 「うううむむむ……」 「かいちょー、どうしたのですー?」 「飽きた!!!」 「あらあら」 「ふう」 「ちょっとしょーくーん! レベル上げやってよー」 「……」 「しょーくーん?」 「……」 「どうしたの、あれ?」 「しょーくんさん、来てからずっとああなのです」 「だからあまり考えなくていい作業を与えてある」 「ふむぅ……」 「深刻そうだから、少し心配なのだけど」 「まあ、確かに今日はあんまり深入りしない方がよさそうかも」 「かいちょーはお優しいのです!!」 「そんな事もあるかな! あはは」 「で、それはどうするんだ?」 「んー。仕方ないから自分でやるか」 周りで会長達が何か喋っているのはわかっていたけど、まるで遠くの会話みたいだった。 天音は俺に気を遣ってるんじゃないのかな。 俺がデートなんて嫌がってるって思って、申し訳なくて泣いた……とか? それも違う気がする。そもそも嫌だとは一度も言ってないし。 結衣はどうなんだろう。天音が泣いたって言ったら、結衣も泣いたんだよな。 …友達だから? だけどそれで泣くのか? やっぱり、どれだけ考えても俺には二人が何故泣いたのかわからない。 多分俺が泣かせたんだとは思うのだけど……。 気付くと、手はすっかり止まっていた。 駄目だな。わざわざ茉百合さんが迎えにきてくれてまで頼まれた仕事だ。 俺は次々と浮かんでくる疑問を振り切りつつ、作業を再開した。 繚蘭祭のために使われる教室は、例年厳しい飾り付けのチェックが行われる。 そのため、許可をもらうまで何度もチェックを受けるブースも少なくなかった。 天音は、ひとり残って最後のチェックを行っている。 「壁部分はクロスを貼り付ける。釘は使うのかしら?」 要望書を独り言のように読みあげながら、室内を見て回る。 そこへ騒がしい足音が駆け込んできた。 「わ、わわわ、わああ」 ドアを開ける時に引っかかってしまったのか、教室に入ってくるなり、結衣は持っていた紙束を落としてしまった。 「えっ? ええええー!?」 驚く暇もなく、たくさんのコピー用紙が床に散らばる。 ちらりと見てみると、セリフとト書きが書いてある。何かの台本のようだった。 「大丈夫? 結衣も今日来てたの?」 「う、うん。これ…あのね、ちょっと気になる舞台をするクラスがあって」 「へえ、時代劇かあ……そっか。結衣は時代劇好きだったものね」 「うん! それでちょっと見に行ってみたら、台本とか設定をぜひ見てくれって言われて」 「それがこれなのね」 「通し番号がふってあるから、後でまた元に戻せそうよ?」 そう言って、天音は床に散らばった紙を拾った。 結衣も慌てて一緒に拾い出す。 「ああう、ごめんねえ」 一枚一枚丁寧に拾うと、机の上に並べて紙の番号を見比べた。 真剣に紙を並べ替える作業をしている結衣を、天音は横目で見ていた。 そしておずおずと話しかける。 「ね、ねえ、結衣。ちょっとヘンなこと聞くんだけど」 「なになに?」 「晶くんって、どう思う?」 「えっ!?」 「なんか彼ってさ…うーん、なーんかヘンだと思わない?」 「……??」 「その…なんていうか、いきなり優しかったり、でもたまにつき離した感じだったりとか」 「そ、そうなのかな?」 「気まぐれ……ではないと思うんだけど…実はなーにも考えてないとか」 「そんなことないと思うよ、友達のこと大切にするし…天音ちゃんのことだっていろいろ心配してたよ」 「そうかな……そうだったら……」 ――そうだったらいいのに。 天音はそう思って、伏目がちにため息をついた。 昨日から、気がつくとため息ばかりだ。 ふと顔をあげると、結衣がこちらを見ている。 瞳が少し揺れているように見えるのは、気のせいだろうか? 「天音ちゃん」 「……ん?」 「天音ちゃんが話したいことって……」 結衣は、珍しく少し言いよどんでいるようだった。 しばらく待っていると、何かを決意したような強い眼差しと共に、言葉が続けられた。 「他にあるんじゃないかなって思った。だって、なんだか苦しそうなんだもん」 「えっ、あの……うん」 自分の気持ちを見透かされているような気分になって、天音は驚く。 そもそも、結衣はときどきふっと鋭いことを言うことがある。 もしかして、何か気付かれてしまったのかもしれない。 一瞬だけ心配になったが、すぐにそれでもいいと思った。 結衣には相談してもいいかもしれないと、天音は思っていたからだ。 「晶くんって、一体どんな人なのか……わかんなくなっちゃったな」 「それで、どんな人なんだろうって考えちゃうんだよね…ずっと」 「晶くんがどんな人か――そうだなあ」 「確かに何にも考えてないのかなって思っちゃうことや、勢いにのってばばばーっていっちゃう時もあるけど」 「うんうん」 「でもね、すっごく優しいんだと思う」 「……ん」 「例えば、自分では解決できないかもしれないことでも、友達が困ってたり悩んでたりしたらね」 「ばーんって飛び込んでいって、何とかしてあげたいって…そう思ってるんじゃないかな」 「わたし、そう思うんだ……そういうところが、すごく」 「すごく?」 「……あ」 「……??」 「…………」 「結衣?」 結衣の言葉が止まった。 何かを迷っているように、少しの間唇が開いたり閉じたりしている。 言おうか、どうしようか。 まるでそう考えているみたいだった。 けれど、やがて伏せられていた瞳はまっすぐに開かれた。 「わたし――」 「わたし、晶くんのことが好きだ」 「――っ」 思いもしなかった言葉を投げかけられて、天音は焦る。 何か答えないと。 結衣は大切な友達だ。だから、気付かれてしまう前に返事を返さないといけない。 「そ、そうだったんだ。ごめんね、なんか私そういうのニブくて」 「全然気づかなくって」 「婚約者の身代わりになんかに引っ張り出しちゃって、ほんっとごめん」 「天音ちゃん?」 「あの、なんでもないから! だって嘘の婚約者なんだもん」 「……」 「だから、今までの私と晶くんのこととか、ほんっとに気にしないでね」 「天音ちゃん!」 「――えっ?」 結衣は、何故か怒ったような真剣な顔で天音を見つめる。 天音にとっては、初めて向けられる表情だった。 「……そうだよね。怒るよね。私のワガママで、婚約者のこととか……」 言葉は、途中ではっきりとまっすぐな意思をもった声に遮られた。 「違うよ!」 「それじゃ、なくて!」 「ゆ、結衣?」 「今の天音ちゃんは、わたしの知ってる天音ちゃんじゃない!」 「天音ちゃんはね、いつもまっすぐで、嘘つかないひと」 「……」 「天音ちゃん。天音ちゃんも晶くんのこと、好き……なんだよね?」 「――っ!!」 「間違ってたら、ごめんなさい。でも、そうだと思ったの」 自分の気持ちなど、とっくに気付かれている。 天音は、結衣の言葉と強い意志に愕然となった。 けれど結衣は、途端にその表情を緩めてみせる。 「そうだとしたら、嘘をつかせちゃったのは……わたしかもしれない」 「だって天音ちゃんは、優しいひとだから」 「……」 「もしも、わたしのことを傷つけない様にって思って嘘ついてくれてるなら……ごめんなさい」 「……ゆ、結衣」 「ひっ、ひ…ぐすっ、ううううっ」 「だって…私……私だったら……結衣みたいに…そんなふうに思えな…かもだから……うくっ」 結衣の、純粋で線のとおったきれいな想いに比べて、自分はどうだろう。 想いを隠さなければなんて、考えて。 天音は情けなくなって、涙が止まらなかった。 「天音ちゃん! あのね!!」 「えっ…うん」 「わたしは晶くんが好きだよ」 「でも、天音ちゃんが晶くんが好きっていう気持ちも大事だと思う!!」 「ゆ、結衣……」 「だから! だからね、だめ!!」 「自分の気持ちに嘘つく天音ちゃんは、わたしの好きな天音ちゃんじゃないもん!」 「ゆ、ゆゆ結衣、しーっ! しーっ!!」 「はっ!」 「そんな大声だしちゃ、誰かきちゃう」 「ひゃわわ、ごめ、ごめんねっ」 慌てて、自分で自分の口を押さえてもがもがとする結衣。 その様子を見て、天音はさっきまで泣いていたというのに、おかしくなって笑ってしまった。 「あは…はは、結衣ったらもう」 「ごめん……でも、さっきの話はほんとだよ」 「うん……わかってる」 「だって結衣って、ちょっと晶くんに似てるんだもん」 「え? うそうそ! なんで? 腹ペコだから?」 「ふふ、違うの」 「なんだか、いろんなことにまっすぐなとこ」 そう言いながら、天音の瞳からはまた涙がぽろっと出てきた。 「そういうの……憧れる…。まっすぐなの…うん、ごめん」 「天音ちゃん」 結衣がそっと、天音の肩に手をやる。 そして、しっかりぎゅっと、抱きしめた。 「ねえ、がんばろ? わたしのも天音ちゃんのも…『好き』って大事なこころだもん」 「うん、うん……ありがとう」 「ありがと、あと、ごめんね」 「ん?」 「嘘、ついたこと」 「もうついちゃヤダよ」 「わかった」 微笑んで頷く天音の瞳は、もう揺れてはいなかった。 生徒会室でのデータ修正を終えて寮まで戻ってきた時には、もうすっかり夜になっていた。 「ああ、腹へった……今日は何なんだろ、晩ご飯。あれ?」 談話室のテーブルの上には、いつもずらっと並べられているはずの食事がほんの少ししかない。 俺の分は見た感じいつも通りだけど、この横のちょびっとだけの晩ご飯はなんだろう? しかも、他の席には器すら置いてないし……。 「お疲れ様でした。今日は生徒会のお仕事だったんですね」 「うん、大変だったよー…って、みんなは?」 「それが――」 「気をつけてな、もう暗いから、迎えにいくからな――っと、よし」 器用にメールを打ちながら談話室に入ってきたのは、マックスだった。 「よー、おかえり親友! 晩ご飯の手配はぬかりなくやっておいたぞ!」 「あ、これってマックスが用意してくれたんだ」 「そうそう、今日は私たちだけでご飯なんです。結衣さんも天音さんも、繚蘭会のほうでもう少しお仕事が残ってるみたいで」 「今日は私がどうしてもお手伝いできない日なので……なんだか申し訳ないです」 「気にするなってば! マミィも今日はラボにこもりっきりだしなあ」 「あ、そうなんだ。じゃあ、ホントに3人だけなんだな」 「おうよー。ま、俺も今から天音と結衣を迎えに行くけどな」 「あ、そうなんだ」 「わりーけど、片付けしといてくれな」 「わかった」 「はい」 「んじゃあ、行ってくるわー」 マックスはそう言って談話室から出て行ってしまった。 部屋には、俺と桜子のふたりが残される。 いつもの大人数からすると、少し寂しい食卓だ。 「それじゃあ、食べよっか」 「そうですね」 「いただきます」 「いただきます」 ご飯をかきこみながら桜子の方を見ると、本当にちょっぴりの量しか口にしていないようだった。 いつもはこうじゃないよな? 今日に限ってどうしたんだろう。 「晶さん、どうしたの?」 「いや、桜子のご飯少ないなあって。いつも少ないけど、今日特に少なくない?」 「ええ、明日検査なんで…あんまりたくさん食べてはいけないの」 「それは……お腹すいて大変だな」 「ふふふ、晶さんならきっと大変ね。私はもう慣れてますから」 「そうなのか。でも、大変は大変だよ」 「戻って来たら、ちゃんと食べれますから」 「そうだけどなー。やっぱ、俺だと無理だなあ」 「ふふふ」 他愛ない会話をしながら、晩ご飯はゆるやかに過ぎて行く。 天音と結衣を迎えに行ったはずのマックスは、なかなか帰ってこなかった。 気になったのでメールを打ってみると、すぐに『今、外でメシ食ってる』という返事が返ってきた。 とりあえず心配する必要はなさそうだ。 「それじゃあ、晶さん。おやすみなさい」 「あ、うん。おやすみ」 桜子は手をふりながら部屋に帰っていった。 俺も部屋に戻ろう。 廊下で一人たたずみながら、また天音と結衣の事を考える。 一人で悩んでも答えの出ない問いなら、もう本人たちに聞いてみるしかないかもしれない。 だけど、せっかくその気になったというのに、天音も結衣も、すぐには帰ってこなかった。 結局昨日は会えなかったけれど、今日は授業がある。 二人とは、嫌でも教室で顔をあわせるはずだ。 そう意気込んで教室に入ると、結衣と天音はやっぱりそこにいた。 「おはよう」 「お、おはよう」 「うん」 「……」 「……」 挨拶の後が、続かなかった。 俺が何かを言えばいいはずなのに、そうできなかった。 結衣と天音もお互いに顔を見合わせて、複雑そうな表情をしてる。 やっぱり、あの時の事か。 ふたりは大丈夫って言ってたけど、やっぱり泣いたのは俺のせいで……だから、ふたりはいつもと違う? それなら、その事を聞かなきゃいけない。 「えっと、あの」 「う、うん」 「うん……」 「……」 聞かなきゃいけないのに、何て言っていいのかわからなくなってしまった。 泣いたのが俺のせいかもと思うと、余計に話しにくい…。 どうしたものかと固まっていると、明るい声が割り込んできた。 「おーっす! みんな、おはよう!!」 「あ、ああ。おはよう、マックス」 「お、おはよう」 「おはよう、マックス」 「ん〜? みんな元気ないか?」 「そんな事ないよ」 「大丈夫」 「うん」 「そっかー。ならいいけどな。腹減ってんなら、いつでも言えよ! ケロリーメイト出してやっから」 「うん。ありがとな」 「ありがと、マックスくん」 「あ、あの、そうだ。結衣、あの聞きたい事あるんだけど」 「えっと、ノート見ながら」 「あ、うん」 マックスと話している間に、天音が結衣を引っ張って席に戻って行ってしまった。 少しぎこちない感じもする。 もしかして、まだ俺とは話したくはないって事なんだろうか……。 さっきも会話が続かなかったし。 うーん。もしそうだったら……。 ちょっと頭を抱えるぞ。 こうやってなかなか踏み出せないまま、いつのまにか午後になっていた。 昨日、もう本人たちに聞いてみるしかないって思ってたはずなのに。 いざ目の前にすると、うまく動けないものだ。 困っている間に、また天音と結衣の二人は、連れ立ってどこかに行ってしまった。 「あ……」 もはや間抜けな声しか出ない。 これからどうしたらいいのかと考えあぐねていると、突然残っていたクラスの生徒達がどよめいた。 見てみると、皆の視線の中心には茉百合さんが立っている。 「晶くん、いいかしら?」 「あ、茉百合さん。どうしたんですか?」 「天音ちゃんに、今日の午後は晶くんとふたりで作業をするようにって言われたのよ」 「あ、そうなんですか?」 「ええ、そうよ。今から大丈夫かしら」 「あ、はい。大丈夫です」 「繚蘭祭用のメニューを作っておいて欲しいと言われたから……繚蘭会室を使わせてもらいましょうか」 「はい」 もうそんな時間になっていたんだ。 茉百合さんが迎えに来てくれるまでさっぱり気づかなかった。 そうか。今日は桜子がいないから、俺と茉百合さん二人でなのかな………。 ということは、結衣と天音はもしかして別の作業をしに行ったのか。 別に避けられてるわけじゃなくって? ……うーん。わからない。 あふれ出てくる考えを振り切りながら、俺は茉百合さんと一緒に繚蘭会室へ向かった。 繚蘭会室は、他に誰もいなかった。 淡々と二人で作業を進める。お客に見てもらう、繚蘭祭用の特別メニューの作成だ。 もちろんテーブルの数だけ用意しなければならないから、結構な数になる。 「ひとつずつ作るのは、なかなか手間がかかるわね」 「そうですね」 「でも、こういう事をしていると、お祭りという感じがして、私は好きですけれど」 「……」 「晶くん?」 「あ、はい!」 「どうかしたのかしら。考えごと?」 「え! あ、いや、その……」 「ふふふ。お腹が減った時とは、少し違うように見えたから」 「そ、そうですか」 「ええ」 茉百合さんは、優しい瞳で俺をじっと見つめていた。 年がひとつしか違わないのに、思わず俺はどこか母親の面影のようなものを感じてしまう。 一人で考えてもわからない事なら……同じ女の人になら、わかるだろうか? 「茉百合さん、聞きたい事があるんですけど、いいですか?」 「そうね。作業の手を止めなければ、多少のおしゃべりは許されると思うわよ」 「あ、はい…」 「どうかしたの? 何か問題でもあった?」 「いえ、あの……」 茉百合さんは、焦らなくてもいいとでも言う様に、にっこりと微笑んだ。 俺も、意を決して口を開く。 「女の子が泣いちゃうのって、やっぱり悲しい時ですよね……?」 「悲しくないのに泣いちゃうなんて事、ないですよね…」 うまく伝えられなかったかもしれないけど……今はこう言うのが精一杯だ。 急にこんな事を言われて、茉百合さんは変だと思わないだろうか。 「晶くんは、誰かを泣かせてしまった?」 「え! あ、あの……は、はい」 「それは女の子?」 「……はい」 「ふふふ。そうでなければ、さっきのような事は聞かないわね」 「でも、どうして泣いたのかわかんなくて……どうしたの? って聞いてあげたいのに、それも聞けない気がして」 「どうすればいいのか、わからないのね」 「はい」 「それは多分、女の子が泣く時は、悲しい時だと晶くんが思っているから。だから、どうすればいいのかわからなくなるんじゃない?」 「え! だ、だって、そうじゃないと泣く理由がわからないし」 「晶くんは悲しい時にだけ泣くのかしら」 「違います」 「女の子もそうよ。悲しいだけで泣くわけじゃないの」 「だけど、俺のせいで泣いたと思うから」 「でも、もしかしたら晶くんのせいじゃないかもしれない」 「……」 「どうして泣いていたの? って、ちゃんと聞いて、原因を知らなければ何もできないわ」 「はい」 「まずは、きちんとお話をしないといけないわね」 「そう思います」 「きちんとお話をして、泣いたのが晶くんのせいだったら謝らなければいけない。そうでなければ、晶くんがしてあげられる事をしてあげないといけない」 「俺が、してあげられる事ですか」 「泣いてしまうほどだから、きっと何か事情があるのよ」 「はい。話をして、それから……俺にできる事を、ちゃんとします」 「ええ。きっと、それがいいわ」 「はい」 「それじゃあ、作業を続けましょうか。少し手が止まっちゃったから」 「わ! そ、そうだった」 「ふふふ、天音ちゃんたちには内緒ね」 そうだ。茉百合さんの言う通りだ。 やっぱり、話をしないと何もわからない。 ためらっている場合じゃない、先延ばしにするのもよくない。 きちんと今日のうちに、二人と話をしよう。 それが、俺にできる最善の手だ。他には無い。 そう強く決意をしたら、少し心が晴れた気がした。 放課後になり、limelightでバイトをする時間がやってきたので作業は一旦中断となった。 まだ学校に残って、繚蘭祭の準備をしている生徒は大勢いる。 天音と結衣もまだいるのかな。 寮に戻ったら、それぞれに話を聞きに行かなきゃ。 今日のうちにって決めたんだから、どうしても今日のうちに片付けたい。 「あ……」 「あ!」 「あ……」 探していたはずの結衣と天音は、ウェイトレスの制服に着替えてlimelightにいた。 二人とも揃って、今日はバイトの日だったらしい。 茉百合さんと話をして、腹が据わったおかげだろうか。 朝のときみたいに、おどおどと話しかけたりはせずに済んだ。 「結衣と天音も手伝い入ってたんだな」 「う、うん。晶くんもなんだね」 「ああ」 「すいませーん。注文いいですかー」 「あ! はい、うかがいます!」 お客からの呼び声で天音は慌てて去っていく。 「わたしもフロア出て来るね」 「あ、うん」 結衣もフロアに出て行った。 確かに今は仕事中だ。話をしている場合じゃない。 俺もとっとと着替えよう。 話は後だ。多分……どこかで、手が空く時間がくるはずだから。 「………」 気がついたら、閉店の時間になっていた。 最後のお皿を綺麗に洗って、食器棚に並べる。 「結局何も聞けなかった…」 いや、今から聞けばいいだけの話だ。めげるのには早い。 今は片付け作業で残ってるのは俺と天音と結衣の三人だけだし。 何もかも好都合じゃないか。 「あの、晶くん。ちょっと、いいかな」 「あ、うん」 結衣に呼ばれて振り返ると、その横には天音がいた。 二人の表情や動作から、緊張した空気がひしひしと伝わってくる。 それとも俺の緊張が向こうに伝わってるだけなのか? 「話は、私と天音ちゃんのふたりからなの」 「う、うん。そう」 「うん」 ここ数日間、天音と結衣のことをずっと考えていた。 二人を泣かせたことに、関係があるんだろう。 だからきっと、二人ともこんなに真剣な目で俺を見てるんだ。 天音と結衣は、お互いに視線を合わせて、しばらく話しづらそうにしていた。 気持ちはわかる。俺だって、朝話しづらかったし……。 しかしやがて、結衣がきっと顔を上げると、まっすぐに通る声で話し出した。 「大事なお話があります」 「うん」 「はい」 「私と天音ちゃん、どっちにとっても大事な話なの」 「どっちも?」 「うん。そうだよね、天音ちゃん」 「う、うん。とっても、大事な話」 「わかった」 はっきり頷くと、結衣と天音は顔を見合わせて小声で話しはじめた。 まるで、最後の確認といった感じだけど……。 「……たしから……いいの?」 「う、うん……やっぱり、……かしいから」 話がついたらしい。結衣が俺の前に一歩踏み出してきた。 「晶くん、あのね」 「はい」 「わたしは、晶くんを男の子として意識していて……お友達となんか違ってて……だから、あの……」 「晶くんの事が好きです!」 「え……!」 頭が一瞬で混乱を起こした。 多分俺が泣かして、謝らなきゃいけないって思ってたのに、あれ? 「あ、あの! 晶くん」 「は、はい?」 「あの、私……私も、晶くんが好き……です!」 「え……!」 混乱がさらに増した。 驚きすぎて、何が起こってるのかよくわからない。 喜んでいいことなのか、そうじゃないのか、どうしたらいいのか、何もしなければいいのか。 「ゆ、結衣と同じで……男の子として晶くんを見てて、あの、だから……す、好きです!」 「あの、えっと」 「突然すぎるのはわかってる。ごめんなさい」 「ごめんなさい」 「でも、どうしてもちゃんと伝えなきゃいけないって、わたしたちにも昨日わかったの」 「うん」 「昨日……」 「わたしも天音ちゃんも、同じ気持ちだったから……だから昨日、ふたりで話をしたの」 「同じ気持ちだってわかったから、ふ、ふたりで一緒に言おうって」 「………」 頭の中はまだぐるぐるとパニックを起こしていたけれど。 ようやくものを考えられるだけの理性が戻ってきた。 二人が泣いた事を思い出す。 えっと、じゃあ、あれは……。 俺が好きで、泣いた……ってことだったのか…? 「答えを早く出して欲しいなんて思わないから……わたしたちの事、ゆっくり考えてください」 「ふたりで、答えが出るの待ってるから」 「は、はい」 「答えが決まったら、出来ればふたりに一緒に話してください」 「お願い、します」 「はい…」 「本当にごめんなさい。突然で……」 「でも、待ってるから」 「はい……」 「じゃあ、わたしたち先に帰るね」 「あ、あの、じゃあね」 「あ、うん。また……」 天音と結衣は、手を取り合いながらlimelightを出て行った。 その後姿を呆然と見送る。 結衣が俺の事を好きだ、と言って……。 天音も同じように好きだと言った。 泣いた事についてちゃんと聞かなきゃいけないと思ってたのに、まさかこんな話になるなんて……。 こんな風に好きだなんて言われたのは、もちろん初めてだ。 頭が真っ白で、何も考えられない。 いや、女の子から好きなんて言われたんだ。嬉しい…はずなんだけどな。多分。 パニックでそれどころじゃないというか。 天音と結衣は……俺のこと、そんな風に思ってたんだ。 今頃になって、ようやく心臓がばくばくと響き始める。 凍っていた時間が動き出したようだった。 「と、とにかく」 「……俺も帰らなきゃ」 そういえば、まだ着替えてもいなかった。 limelightにはもう、俺一人しか残っていない。 慌てて着替えをし、戸締りを済ませて俺も寮に戻った。 いつまでも悩んでいたからだろうか。 いつもより少し早めの時間、アラームが鳴りだす前に目が覚めてしまった。 はっきりと目は覚めたのだけど、まだ起き上がる気がしない。 昨日の事がぼんやりと思い出される。 俺…。夢でも見てたんじゃないだろうか。 あまりの現実感の無さに、そんな気までしてきてしまった。 だって、なあ。 天音と結衣から、一緒に告白されるなんて。 なんか、都合のいい夢みたい。 ――だけど、学校に来て二人の顔を見ると、そんな考えは一瞬でふっとんでしまった。 俺を見て、恥ずかしげに顔をそらす天音。 少しだけ遠慮がちに笑う結衣。 二人の態度が、あれは夢なんかじゃなかったんだって、俺に教えてくれる。 「おーっす晶」 「おはよう、マックス」 「なんか今日、雰囲気違うぞ?」 「そうかあ?」 「んー。悩みとかあるなら相談しろよ、な?」 「大丈夫だよ。ありがとな、マックス」 「何言ってんだよ〜」 顔に出るほど深く考えていたのかな、俺。 マックスは相談しろと言ってくれたが、多分これは一人で考えて、答えを出さなきゃいけない事だ…。 そう思ったので何も言わなかった。 昼休みになった。 俺は、誰とも会わずに一人で学食に来ていた。 今日だけは、一人で考えたかったからだ。 「……」 ぼんやりと、目の前にならぶ昼ごはんの跡を見つめる。 まだ少し、お茶碗にご飯が残っていた事に気付いた。 でも、今はそれよりも……。 『晶くんの事が好きです!』 『あの、私……私も、晶くんが好き……です!』 ――考えた事もなかったな。 二人が、俺の事を好きだったなんて。 もちろん、女の子として可愛いとは思ってたし、いい子だなとも思ってるし…。 二人それぞれに、確かに好意は抱いていると思う。 天音も結衣も好きだ。 でも、俺が考えなきゃならないのは、そういうただの好意の感情じゃない。 それはよくわかっている。 わかっているからこそ、朝から……いや、昨日あれから何度も考え続けている。 考えたからって、答えがすぱっと出るわけではないとは思うけど。 答えを引き伸ばしても、二人にとって良い結果にはならないだろうから。 俺の気持ちは、どうなんだろう。 俺はどうしたいのか……。 女の子を好きになるってどういう事だろう。 一緒にいたいとか? ぎゅって抱きしめたいとか? 優しくしてあげたいとか? 甘やかしてあげたいとか? ドキドキするとか? ……その全部なのかな。 『うん、わかってるわ。そうよね……』 『……うっ、うう、うん、私が言ったんだもん……』 ああ、今更になってやっとわかった。 あの時、俺は天音に何て言った? 『恋人のフリなだけだから、気軽にしたらいい』 そう言ったんだ。 天音にとっては、そうじゃなかった。 恋人のフリなんかじゃ、なかったんだ……。 あんなに一生懸命で、必死だったのは、婚約者を演じようとしてたわけじゃない。 全部、俺のためだったんだ……。 『……』 『結衣? どうしたんだよ、え? なんで?』 ああ、今更になってやっとわかった。 あの時、俺は天音とのデートから帰ってきて、結衣に聞いたんだ……。 『恋人のフリって言ったら天音が泣いたんだ、なんか悪いこと言ったのかな』 それを聞いて、結衣は察してしまったんだろう。 俺への気持ちと。天音の気持ちを。 自分の感情が抑えきれなくって、きっと涙として溢れてしまったんだ。 なんて鈍感だったんだろう。俺。 こんな簡単な事にも気付かなかったなんて。 自分の中で、確かな答えらしきものが、浮き上がってくるのを感じた。 俺と、結衣と、天音の三人は、今日もlimelightに来ていた。 昨日から引き続き、バイトが入っていたからだ。 シフト表でそれを確認した俺は、二人に答えを言うにはここでしかないと思っていた。 閉店後、他のスタッフが帰っていくのを見ながら、昨日のように三人きりになるのを待ってから、声をかけた。 「天音、結衣」 「……え!」 「あの、ちょっと話が」 「……」 「あ……」 二人とも、居心地悪そうだった。 どちらにとっても大事な答。 だけどそれは、必ずどちらかを傷つけてしまうことがわかっていたからだろう。 「あの。昨日の話なんだけど」 「ふたりに、ちゃんと言わなきゃいけない事があるんだ」 「うん」 「は、はい」 二人の表情は、もうおびえてはいなかった。 しばらく、結衣と天音を見つめてから……俺は決意して、口を開いた。 「俺、ふたりに言われるまで全然そういうの考えた事なくて……でも、ちゃんと考えなきゃって思ったんだ」 「うん」 「晶くん……」 「ふたりとも大事な友達だと思ってたけど、それだけじゃだめだって、言われてよくわかった」 「友達って言葉だけじゃダメな時があるっていうのも、わかった」 「そんなのはふたりにもっと辛い思いをさせるだけだから、はっきりと答えを探しました」 「……はい」 「う、うん……」 「その前に、最初に謝らせて欲しいんだ。ふたりとも、ごめん」 「え……?」 「晶くん」 「俺、ふたりに色々辛い思いさせてただろうから。だから、ごめんなさい」 これはどうしても最初にやっておきたかったことだ。 俺は深々と頭を下げた。 顔を上げると、そんな俺を二人がじっと見ている。 「これだけは、最初に言わなきゃいけないって思った」 「ありがとう、晶くん」 「晶くん、何も悪くないよ」 「でも、謝らなきゃって思ったから」 「あのね、晶くん」 「何…?」 「ちゃんと、考えてくれたんだよね」 「うん。ちゃんと、答えを」 「それなら、何も謝ることなんてないよ!」 「……そ、そうだよ」 「うん……。ふたりに答えを、聞いて欲しい」 「はい、聞きます。天音ちゃんもだよね」 「う、うん。晶くんが出してくれた答え……聞かせてくれますか?」 「――俺は……」 「……」 「………」 結衣と天音をじっと見つめる。 俺にとっては、どちらも大事な友達だ。 だけど、どちらかを選ばないといけない。 だから俺は―――。 「俺は、天音が好きです」 そうはっきりと、答えを出した。 「……」 「……」 「結衣が想ってくれている事も嬉しいけど、俺は……天音が好きだって思った」 いつも他人の事を考えてて、頑張っている天音。 そんな天音が、俺を想ってお弁当を作って、可愛い靴で売店まで走ろうとしてこけて。 あの時の事を思い出すだけで、胸がきゅんとなる。 俺は、天音を選びたい。確かにそう思うんだ。 「うん」 「あ……」 「結衣、ごめん」 「ううん……だって、晶くんは答えをちゃんと出してくれたから……」 「あ、あの、結衣……」 「結衣……」 「うん! じゃあ、大丈夫!」 「結衣?」 「ちゃんと、晶くんの気持ちわかったから」 「……ごめん」 「……」 「じゃあ、私は帰ります!」 「……」 「晶くん」 「はい」 結衣は、じっと俺を見つめた。 いつものように、まっすぐな瞳で。 「ちゃんと、天音ちゃんを見ててあげてね」 「……!」 「じゃあね、ふたりとも! また明日」 最後まで笑顔のままで、結衣は帰って行く。 その背中がちょっと寂しげに見えたのは、きっと気のせいじゃない。 きっと心の中はすごく痛んでるに違いない。 それでも、俺たちを気遣ってくれる結衣の気持ちはありがたかった。 そしてもうひとつ。 俺にはもうひとつだけ、天音に言わなきゃいけないことがある。 「天音。俺、ひとつ謝りたいことがある」 「は、はい」 「今まで、天音の気持ちも知らずに、無神経な事を言ってごめん」 「婚約者のフリしてるだけ、って、何度も言って……悪かった」 「晶くん……」 「で、でも、それは私が頼んだから」 「でも、それで天音に辛い思いをさせた」 「……」 「だから、ごめんなさい」 さっきと同じように、もう一度深々と頭を下げた。 顔を上げて天音の表情を見てみると、何故か不安そうだった。 多分、まだ……婚約者のフリっていう事を気にしているんだとわかる。 例え天音の事を好きだって、俺が言ったとしても。 本当に婚約者となると、それはまた別の話だって、そう思ってるんだろう。 「あの、でも……」 だから、俺は天音の言葉より先に口を出した。 「出来たら……これからは、本当の婚約者のつもりでいる、事にする」 「もちろん、天音が……よかったらだけど」 「あ、あの、それって……」 「天音の事が好きだから」 「……!」 「ちゃんと、天音に伝えようって思った」 「は、はい」 天音の表情が見る見るうちに変わっていく。 たとえるなら、嬉しくて仕方ない。そんな顔に。 「晶くん!」 突然抱きついてきた天音に、心臓が飛び上がるかと思った。 柔らかい体が、俺をぎゅっと抱きしめる。 「ありがとう。ごめんなさい、ありがとう」 「ありがとうか、ごめんなさいか、どっちだよ」 「どっちも。だから」 「本当はもっと伝えないといけない事がある気がするの。でも、どう伝えればいいのかわかんない」 「うん」 「いっぱい、いろんな事考えてた。自分の事も、晶くんの事も、結衣の事も……」 結衣の事……。 それを言われると、どうしても切なくなってしまう。 俺は思わず、腕の中の天音を抱きしめ返していた。 「嬉しいの、本当に嬉しいの。でも、胸も痛いの……結衣の事思うと、切なくて胸が痛いの……」 「うん」 「嬉しいのに、どうしよう。ごめんなさい」 「でも、もうわかんない。なんだか、本当じゃないみたい」 「それは、困るかも」 「え……」 天音の背中を、そっと撫でる。 一瞬ぴくりと反応したから、きっと驚いたんだろう。 でも天音は、怒ったりはせずに、ただなすがままだった。 「俺もすごく考えたから、だから本当じゃないと困る」 「うん……」 抱きしめていて顔は見えないけれど、嬉しそうな声が聞こえた。 俺の答えに、喜んでくれたこと。それが素直に嬉しい。 天音のこと……ちゃんと大事にしよう。 「結衣の事、大丈夫……だと思う」 「晶くん?」 「あんまりうまく言えないけど……あの、確かに結衣の事も俺は大事に思ってる。それは間違いなくて」 「うん」 「でも、俺が恋人にしたいって思ったのは天音で、結衣もきっといつかそれをわかってくれると思うから……ああ、ごめん。やっぱりうまく言えないや」 「ううん。そんな事ない……ありがとう」 明日から、今までどおり結衣と話が出来るといいんだけど。 天音もきっと、そう思っているよな。 ――嬉しさと、小さな不安。 誰もいなくなったこの場所で、俺と天音はそのふたつを互いに抱きしめた。 「俺は、結衣が好きです」 そうはっきりと、答えを出した。 「……」 「……」 「天音が想ってくれている事も嬉しいけど、俺は……結衣が好きだって、思った」 結衣の泣き顔が、今でも心から離れない。 いつも笑顔だったからだろうか。あの涙に、俺は強く揺さぶられていたのだと思う。 天音が傷つく事も、わかってはいたけれど……。 それでも俺は、結衣が好きなんだ。 それが正直な気持ちだった。 「うん」 「あ……」 「天音、ごめん」 「あ、謝らないでよ」 「天音……」 「晶くんは、ちゃんと私たちに答えを出してくれたから。だから、そんな、謝らないで欲しいよ」 「あの、天音ちゃん……」 「私、大丈夫だから」 「天音」 「ちゃんとわかったから、大丈夫だから!」 天音は、意外にもしっかりと俺の目をみつめてそう言った。 俺も目をそらしたりしなかった。 「……ごめん」 「だから、謝らないで」 「うん」 「それじゃ、私は先に帰ります」 「あの、天音ちゃん」 「結衣、晶くん」 「は、はい」 「はい」 「ふたりとも、ちゃんとお互いを見つめていてね」 「……!」 「天音ちゃん……」 「じゃ、また明日ね」 天音は最後まで、明るい口調で帰っていった。 でも、その小さな背中からは、無理をしているって悲鳴が聞こえてきそうだった。 俺は、結衣が好きだと答えを出したくせに、天音の事が心配で仕方なかった。 「晶くん」 「結衣……」 「天音ちゃんの事が心配?」 「……ごめん」 「どうしてあやまるの?」 「だって俺、結衣の事が好きって言ったばかりなのに、天音を気にしてるから……ごめん」 「違うよ、晶くん。そうじゃないよ」 「え……」 「わたしも晶くんが考えてる事わかるの。……だって、わたしも天音ちゃんが心配なんだもん」 「うん……」 「今ね、きっと同じ事考えてた。晶くんに好きって言ってもらったばかりなのに、天音ちゃんが心配なの」 「結衣」 結衣の瞳は、いつもの通りにまっすぐだ。 そこに嘘はない。 俺たち、同じ事を考えているんだ。それがよくわかる…。 「きっと天音ちゃん、わたしたちの事を応援してくれる。わたし、そう信じてるから大丈夫」 「結衣……」 「だって、今までずっと一緒に仲良くしてたんだもん。天音ちゃん、きっとわかってくれる……」 「うん。結衣、ありがとう」 「ううん」 同じように天音を心配していた結衣の、きっとわかってくれるという言葉。 不思議だった。いつのまにか、俺も結衣の心に同調するように落ち着いていた。 天音とは、明日からちゃんと友達に戻れるだろうか。 ――きっと大丈夫。そんな気がする。 何も言わなかったけれど、俺の気持ちを察したのか結衣も力強く頷いた。 それから、ようやく思い出したように頬を染める。 「わたしこそ、ありがとう。わたしを選んでくれて……」 「すごく、嬉しかった。今も嬉しい!」 「う、うん……あの」 真正面から言われると、どうも照れてしまう。 こういうの、初めて…だからな、俺。 「わ、わたし初めてだったから、男の子を好きだなんて、思ったの。だから…あの」 結衣も同じように照れていたみたいで、赤くなりながらあたふたと説明している。 そんな結衣の様子に、俺は嬉しさで胸がしめつけられるようで、居てもたってもいられなくなった。 「俺も、今すごく嬉しい。ありがとう……好き」 「え! あ、あの……」 「今、俺もすごく思った。好きって。俺も初めてだ、女の子を、好きだなんて思ったの」 「晶くん……わたしも、好き」 「うん」 「うん」 気持ちのままに、結衣の手をとってぎゅっと握り締めた。 結衣も、笑顔でしっかりと握り返してくれる。 指先から、好きだという気持ちが互いに流れ込んできそうだった。 不安も嬉しさもまるで同じ。 そのどちらをも手にしながら、俺と結衣はずっと見つめあっていた。 ――朝。 ぼんやりと目が覚める。 真っ先に考えるのは、やっぱり昨日の事だ。 天音を選んだ俺。 嬉しいけれど、結衣の事を思うと胸が痛いと答えた天音。 そして、笑顔で帰っていった結衣。 マックスはいつもみたいに仕込みに行っていていない。 ひとりだから、少しだけぼんやり昨日の事を考えられた。 でも、あまり考えている時間もないかな。 今日も授業があるんだから、早く用意をして行かなくちゃいけない。 「あ! 晶くん、おはよう」 「あ――おはよう」 教室に入って最初に声をかけてくれたのは、結衣だった。 マックスも天音もまだ教室には来ていない。 結衣はまっすぐこっちを向いて、ポケットから何かを取りだした。 「ぽーいっと、ぱくん」 手のひらからふわっと浮き上がったのは、色鮮やかなチョコレートの粒。 空中から落ちてきたチョコレートは結衣の唇の中に吸い込まれていく。 ぽりぽりと小気味いい音を響かせたあと、ごくんと結衣の喉もとが波打った。 「えへへ、おーいし」 結衣は、いつも通りに見える。 もぐもぐとチョコレートを食べている姿は元気だ。 だけど――。 「あれー? なんか顔色悪いよ。朝ごはんはちゃんと食べた?」 「食べたよ、ちょっと起きるの遅かったら急いだけど」 「そっか、そっか。じゃあ、良かった。ご飯はちゃんと食べないと元気が出ないもんね」 「ああ、そ、そうだな」 「な、なんだよそれ。大丈夫だって」 「だったら良かったー」 本当に、いつも通りに見える。 結衣は俺が驚くくらいに、いつも通りにしてくれている。 きっと意識をして、そういう風に振舞っているんだろうなという事はわかる。 だけど、そんな結衣に何を言えばいいのかわからない。 「あ……」 「あ! 天音ちゃん、おはよう」 「う、うん。おはよう、結衣」 結衣に何を言えばいいんだろう。 そんな風に迷っていると、天音も教室にやって来た。 多分、さっきまで繚蘭会の仕事をしていたんだろう、手には何かの書類を持っている。 教室にやって来た天音は、結衣を見て戸惑ったような表情を浮かべていた。 「天音ちゃんも元気ない? ご飯はちゃん食べた?」 「朝から忙しくてあんまりちゃんと食べられてないかも……」 「えー。ダメだよ、ちゃんと食べなきゃ」 「朝からそんなに食べられないわよ」 「ちょ、ゆ、結衣!」 「食べて食べてね〜」 「もちろん! いーっぱい食べたよ。今日も繚蘭祭の準備いっぱいしなきゃだもん」 明らかに天音は戸惑っているけれど、そんな天音を見ても結衣はいつも通りの表情を崩さなかった。 そんな結衣に安心したのか、天音も徐々にいつものペースを取り戻していた。 なんだか少し安心したけど……複雑な感じでもある、かな。 「……うん」 「わたし、大丈夫だよ!」 「……」 「……結衣」 「うんとね、なんとも思ってないとか、悲しくないとか、そう言ったらウソになると思うの。好きだった気持ちは本当だから……でも」 「わたしがふたりの事を大好きなのも本当なの」 「結衣、ありがとう……!」 「えへへ……なんか恥ずかしいね。以上、発表おわり!」 照れたように結衣は笑っていた。 俺は、笑いかけていいものかわからなくて、ただ、天音と結衣を見ていた。 「結衣、ごめんね。さっきまで私、結衣に会った時どんな顔すればいいのって思ってた。もう前みたいに話したり笑ったりするのって、できないと思ってたの」 「そんな風に思ってたこと、ごめん」 「ううん、そんなの当たり前だよ。わたしが天音ちゃんだったら絶対そう思っちゃう」 「……結衣」 「でもね、天音ちゃんはそういうのから逃げない人だってのも知ってるから。ちゃんと向き合って、ちゃんと話してくれる」 「ええ、そうよ。逃げるのは……嫌い」 「良かった、わたしの好きな天音ちゃんだ」 「いけない、席に戻りましょ」 「わ、もう先生来ちゃうよね」 「晶くん、晶くん――」 「え、な、なに?」 席に座ると、結衣が俺に向かって小声で話しかけて来た。 突然なんだろうと焦っていると、結衣は真剣な表情をする。 「晶くんも、天音ちゃんみたいに、まっすぐわたしに向き合って」 「……ああ」 「あと、天音ちゃんってほんとはきっと……」 「おはよう」 タイミング悪く――いや、チャイムが鳴ってるんだから当たり前か。 結衣の言葉は教室に入ってきた氷川によって途切れてしまった。 本当はきっと、の続きは何て言いたかったんだろう。 結衣の方を見てみたけれど、もう真面目な顔してノートを開いていた。 「……?」 突然机の上に落ちてきた、小さな紙切れをこっそりと開いてみる。 そこにはこう書いてあった。 『天音ちゃんって、ほんとはけっこー寂しがりやさんだからね!』 「んあー! やっと放課後だぜ」 「……ほんと、お前は疲れ知らずだな」 朝からlimelightの仕込みに出たのは、俺が起きるよりも早かったはず。 ロボだから疲れなくて当たり前と言われればそれまでだけど。 「おうよ、いろいろやる事あるからな! 疲れてるヒマなんてないぜ」 そういえば、結衣と天音は別教室で選択授業だ。 もうすぐ戻ってくるのかな。 ふたりが一緒で、なんだか安心した。 今まで通りといえば、今まで通りなんだけど。 「そういえば結衣たちはもうすぐ戻ってくるよな」 「そうだな、カバンあるし。一度はこっちに戻ってくるだろう」 「ただいま〜っと」 「お、ちょうど話してたところだったんだぞ! おかえり」 「あ、そうだぁ。そういえば今日の放課後にってコトだったよね」 マックスと結衣は何かもう予定があったんだろうか。 そわそわとしているマックス、結衣はっていうと慌ててカバンにテキストやノートを突っ込んでいる。 「なんだなんだ?」 「ん? あのね、今日の放課後にマックスくんのケーキの試作品食べにいくんだ」 「おうよ、ちょっと再現が難しいレシピでな。やっと納得いく感じに仕上がったんだ」 マックスは得意げにガッツポーズを作っていた。 完璧に味を覚えるとかいうすごい機能をもってしても、難しかったなんて…どんなものなんだろう。 「晶も来るか? みんな忙しくってなかなか時間が空かないみたいでな」 「本当に? いいのか」 「おうよ、やっぱ人数が多いほうが」 「だめー! ブーだよ! 晶くんはだめなの」 「え、ええー!? なんでだよ」 「そ、それは、えーっと。ダメなものはダメ! だってあの、ダメだから!」 「わ、わかったよ」 「うーん、なんかよくわかんねーが…じゃあ結衣、行くか」 「えっと。イジワルじゃないからね」 「えっ?」 「天音ちゃんが、何か考えごとしてたみたいなんだ。だからきっと晶くんに聞いてほしいんだよ」 「……え?」 「そういう時、天音ちゃん……何か話したい時なんだもん」 天音が何か話したいことがある。 不思議な感覚だった。 結衣がそう言うと、まるで俺がそんな天音を見ていたような気持ちになってしまう。 天音はどこにいるんだろう、今。 「あっちあっち」 「えっ?」 「さっき向こうの校舎の廊下のところで見たの」 ちょっとだけ心配になって、何があったんだろうと胸の奥がざわざわとする。 顔をあげると、結衣もまた同じような顔をしていた。 「不思議だね、わたしもすごく心配」 「うん、わかった。いってくる」 「おーい! 結衣〜、来ないのかよ〜」 結衣に言われた場所まで来ると、天音の姿があった。 遠くから見ても、天音が何か考え込んでいるみたいだとよくわかる。 「――天音!」 「……っ!!」 「しょ、晶くん……どうしたの? なんでここに」 「え、あ、えっとその」 「ちょっとお腹いっぱいだから運動、みたいな感じかな」 「……あはは。ほんとに?」 「ほんと、そんな感じ。だからお腹すいてきたかな」 「ふ、ふふふ、お腹すくの早すぎるよ」 「そうかなあ。あ、それはどうでもよくってさ、天音…何してたの」 「えっ! ん……あの、えっと」 少し迷っているように、天音はうつむいた。 やっぱり何かあるんだ。 聞きたい気持ちをぐっと抑え、天音が何か言ってくれるのを待つ。 しばらく待っていると、天音はゆっくりと顔をあげた。 「晶くん、ちょっといい?」 「天音?」 「いいから、ちょっと来て」 「ああ、うん」 いつもと少し、雰囲気が違う。 そんな天音に連れられてやって来たのは、音楽室だった。 真っ赤な夕日に照らされた音楽室の中、天音はピアノの前に立って俺を見つめる。 「あのね、ちゃんと練習したから聴いてほしくて……」 「もしかして、この前の肝試しで弾いてた曲…?」 「うん。どうしようか迷ったけど…だけどやっぱり聴いてほしくて」 「もちろん、聴くよ」 俺が微笑みながらうなずくと、天音もすこし恥ずかしそうに笑う。 そして、ピアノの前に座った。 ゆっくりと、鍵盤にのせられた指先が動き出す。 奏でられる音は、前に聴いた曲と同じもの。 けれど、あの頃よりも随分とうまくなっているのがわかった。 天音の指先が軽やかに動き続ける。 音によどみがない。 途中でつまることもない。 すごくきれいな曲だというのがよくわかる。 ……どう言えばいいのかはわからない。 ただ、もっともっと、天音がこうして奏でてくれる音を聴いていたい。 そう思いながら聴いていると、天音の演奏が終わった。 「俺、ピアノのことはよくわからないけどさ、この間よりうまくなってるって思った」 「それでも充分うまかったと思うよ」 「うん……ありがとう」 「きっと残りもすぐ弾けるようになるよ」 「……残り」 「天音?」 「昔はちゃんと全部弾けたのよ。でも、もう弾くなって言われたから……それから、弾いてないの」 「弾くなって、ピアノの先生か何かに言われたの?」 「………」 答えられずに天音が口ごもった。 天音がこんな顔を見せるなんて、と俺は驚く。 もしかすると、聞いちゃいけない事だったのかもしれない。 やっぱり言わなくていい、って言おうか。 そんな風に俺が言いだすより先に、ゆっくりと天音の口が開かれた。 「―――お兄ちゃんによ」 「え……」 天音の表情は真摯なものだった。 だから、その言葉が冗談でもなんでもない事はすぐにわかる。 でも、なんで会長が……? 「私がピアノ、始めたのはね……お兄ちゃんがやっていたからなの」 「か、会長が?!」 「うん、嘘みたいでしょ。でもね、お兄ちゃん、すごくすごくピアノうまかったのよ…」 『うまかった』という言葉に、少し引っかかった。 明らかな過去形だ。 じゃあ、今はピアノを弾いていないって事だろうか。 「さっきの曲ね、お兄ちゃんがよく弾いてた曲だったの」 「……そうだったんだ」 「すごくきれいな曲で、お兄ちゃんが弾いてるともっときれいに聴こえた。私、その曲がとても好きだったの」 「それで、あんな風に弾きたくて、羨ましくて、聴いてもらいたくて……こっそり練習したの」 「今みたいに?」 「うん……でもね」 「ある日、練習しているのを見つけられちゃって、そしたら―――、…」 また、天音の言葉が止まってしまった。 そして、またあの、弱々しげな、頼りない表情。 俺が初めて見る天音だ。 本当に聞いていい話だったのかと、少し不安になる。 「………」 「お兄ちゃん、すごく怒ってね……その曲は二度と弾くなって、怒鳴られたの」 「……どうして?」 「わからないの。なんでって聞いても、何も答えてくれなかったから……」 「このこと、絶対に誰にも言うなって、その時言われたんだけどね。今のでどっちの約束も破っちゃった」 天音は少し寂しそうに笑った。 「なんだか、随分理不尽な話に思えるんだけど…」 「うん、私もね、その時はお兄ちゃんがあまりにも怖かったから、言う事を聞いてたんだけど」 「え、そ、そうなの?」 今の二人を見ていると、とても信じられなくて聞き返してしまう。 「うん…。今のお兄ちゃんを見てると、何だか信じられないでしょ」 「う、うん」 「でもその頃は、本当に別人みたいだったの」 「その後すぐ、逃げるように家を出て行って……ここの寮に入って」 「あんなに上手だったピアノも止めて、大事にしていた楽譜もみんな捨てちゃったんだ」 「それで、私も…なんだか続けるのが悪いような気がして。こんな風にこっそり練習するようになったの」 「……だから、前にピアノ弾いてるの見た時に、黙っててなんて言ったんだ」 「うん。ごめんね」 「いいんだ、そんなの」 首を振って答えると、天音が少しだけ微笑んでくれた。 きっとすごくすごく、言いにくかっただろう。 俺に言うだけでも、もしかして辛い思いをしたんじゃないだろうか。 「あのさ、天音」 「はあ、晶くんに言ったら少しすっきりしたな」 「え……」 だけど、天音の顔は本当に少し晴れやかな色になっていた。 「今まで本当に、誰にも言った事がなかったから」 「それは、誰にも言うなって言われたから?」 「それもあるけれど。お兄ちゃんって今はあんな感じでしょ? なんか、いつの間にか流されちゃったっていうか…」 「いつまでも私だけが、あの時のことを引きずってて前に進めてない気がして」 「なんだか、この曲にこだわるのが、とても悪いことみたいに思えちゃって」 そう言いながら、天音はゆっくりとピアノの鍵盤を撫でる。 その指づかいは愛しそうで、本当にあの曲が好きなんだなと思った。 「そんなこと、ないよ」 「晶くん…」 「この曲、好きなんだろ?」 「うん。とても好き」 「じゃあ、こだわってもいいんじゃないのかな。好きなんだし……」 「うん……」 天音は、本当に嬉しそうに笑いながら頷いた。 ……なんだろう、この気持ち。 今、目の前にいる天音を……すごく、抱きしめたい。 「晶くん、ありがとう」 「……天音」 「きゃっ!」 何も考えられなかった。 ただ、目の前にいる天音が可愛くて、愛しくて仕方なかった。 恥ずかしがるだろうか。 嫌がらないだろうか。 なんて、そんな事は考えられなかった。 ただ、目の前にいる天音を強く抱きしめたかった。 だから、強く強く天音の体を抱きしめた。 「晶くん……?」 「ごめん、急に」 「う、うん…びっくりした。でも、あの平気……びっくりしただけ」 「でも、なんか無理」 「え……?」 「今、可愛いと思った、天音のこと」 「え! あ、あの!?」 「そしたら、こうやってぎゅーってしたくなった」 「晶くん……晶くん? どうしたの?」 「うわ、俺いますっごいバカなことしてる?」 「ううん、違う、えっと、あの。すごく、嬉しい……どきどきする」 「本当?」 「うん」 腕の中で天音がほんの少し動いた。 そして、その細い腕がゆっくりと俺にまわされる。 小さくて柔らかい感触。 ああ、今こうして触れ合っているんだって分かり合える感触。 胸がドキドキする。 嬉しくて、恥ずかしくて、でもこうしていたくて。 「晶くん」 「うん」 「なんだか、恥ずかしい。でも恋人同士ってこういうこと……するんだよね」 「天音……」 「えっ?」 抱きしめる腕の力を緩めて、じっと見つめる。 不思議そうに俺を見つめる表情。 頬が赤いのは夕日のせいなんだろうか。 ぼんやりそんな事を考える。 考えたって仕方ないのに。 「……」 「……え」 気が付いたら、天音の顔に自分の顔を近付けていた。 それから、唇を重ねあわせた。 触れるだけのキス。 けれど、唇の柔らかさは充分に伝わって来ていた。 何度か、触れるだけのキスを繰り返す。 触れるたびに天音が震えているのがわかった。 でも、それすらもかわいいと思ってしまう。 ああ、俺は本当に天音が好きなんだ。 そうやって震えたのを感じただけでそう思う。 「あ……」 「ん……」 「……」 もっともっと、天音にキスしたい。 触れるだけでいいから、柔らかさを唇に伝えたい。 でも、できるなら……震えずに、天音にもこの感触を受け止めて欲しい。 「ん、んん…しょ、しょー…く」 「……」 「……」 「……」 唇を離して顔を見つめると、天音の顔が真っ赤になっていた。 夕日のせいだけじゃないって、すぐにわかる。 「……晶くん、顔赤いよ」 「天音だって」 「え、ほ、ほんと……いやだ」 「はははっ」 「……もう! もうもう!」 お互いに照れくさい。 でも、こんな感じが嬉しくて仕方ない。 じっと見つめていると、天音は照れて顔を真っ赤にしたままピアノに向かって座りなおした。 そんな姿も可愛いと思ってしまう。 なんだか俺、さっきからそればっかりだ。 ……でも、いいかな。それでも。 「……しかし、会長がピアノ弾いてたのか」 「……」 「言っちゃ悪いけど、世界一似合わないな」 「ふふ、そうだよね」 笑いながら天音は頷いてくれた。 でも、それもどこか少し寂しそうな気がした。 天音の中の会長は、きっと今でもピアノを弾いているのかもしれない。 ふとそう思う。 「……あのさ、天音」 「俺には昔の天音の事も、会長の事もわからないんだけど」 「うん」 「でも、今の会長は、天音の事を大事に思ってるだろ……」 「………」 「その曲、聴いてもらいたかったんだろ? じゃあもう一回、ちゃんと聴いてもらったらいいと思う」 「……でも、二度と弾くなって言われたのよ?」 「だけど、それから随分経ってるんだろう?」 「そうだけど……」 「俺も一緒にいるよ、もし天音がひとりだと嫌だって言うなら」 「本当? そんなの、いいの?」 「ああ、もしまた怒るようだったら俺が逆に怒ってやる!! ほんっとに!」 「ふ、ふふっ、晶くんなら本当に怒りそうね」 「怒るよ、本当に。だって天音、一生懸命だからさ」 「……ありがと。でも、聴いてくれるかな。どうやって、聴いてもらったらいいんだろ」 そういえば……。 結衣がもうすぐ天音の誕生日だと言っていた事を思い出す。 「そうだ。天音、もうすぐ誕生日だよな」 「う、うん」 「もしもさ、会長が天音にプレゼント用意するとするだろ。そのお礼にってことでピアノを弾いてあげたら」 「え……でも、プレゼント忘れてたら?」 「その時は、逆にこっちからプレゼントだ! とか言って弾いてしまえばいいかなって。どう?」 「ふふ、ちょっと強引ね」 「……ダメか」 「ううん、ちょっとくらい強引じゃないとダメだよね」 「天音」 「うん。私、それまでにちゃんと弾けるように練習する」 頷きながら答えた天音。 それから、さっそく練習するのかもう一度鍵盤に手を置いて……。 そこで、動きが止まった。 何かを思いついたように、はっと表情を変える。 「……?」 天音は手にしていた楽譜を閉じて、少し恥ずかしそうに俺を見た。 「……じゃ、じゃあ、これはちゃんと弾ける曲」 「え? なになに?」 「……」 天音が弾いた曲は、さっきまでよりもずいぶん簡単そうなメロディだった。 だけどどこかで聴いたことのあるような感じだ。 何だっけ……この曲。 「これだけ、なんだけど」 「あ、おしまいなんだ。短めの曲なんだな。聴いたことあるんだけど…何だっけ?」 「えー、知らないの? 『虹の彼方に』だよ」 「虹の彼方に? そんなタイトルだったんだ」 「あ、でも英語の方が有名かも『オーヴァー・ザ・レインボー』だったかな」 「でも、私が弾いたのは子供むけアレンジの簡単なやつなの。子供の頃教えてもらったままだから」 「へえ、アレンジとか変わるんだな」 「原曲はもう少し難しいと思う。今度はこの曲もちゃんと弾けるようにしたいな…」 「ちゃんと弾けてたと思うよ」 「違う違う、原曲でって意味で。だって、今ね、私これ」 「……?」 天音の頬が急にさっと赤くなった。 一瞬、それがどうしてかわからなくて、俺は窓の方に目をやった。 夕日の赤がピアノの前にいる天音のもとまで差し込んできたのかと思ったからだ。 「この曲は、晶くんに……弾いてたの」 「え、そ、そうだったのか」 「ええ、そうよ。だってさっきの――お礼」 「さっきの?」 「……もう、知らないっ」 言い終わった天音は恥ずかしそうに立ち上がった。 楽譜を手にしてそっぽを向いた天音は、ピアノから離れてしまう。 なんだか、今日の練習はこれでおしまいって言ったみたいだった。 今日の繚蘭会室は、いつもより騒がしい。 いつもなら、それぞれlimelightの用意だったり、繚蘭祭の手続きや打ち合わせなんかでこの部屋に集まることは少ない。 だけど今日は、桜子以外の繚蘭会メンバーが全員そろっていた。 データ整理の仕事がすっかりたまってしまったせいか、ずっと研究棟にこもりっきりだった九条までが呼び出されてる。 おまけに俺と結衣、マックスまでも。 「オッケー、これは全部整理済みね。はい、じゃあこっちのはシュレッダーを」 「これ、こっちでいいの?」 「うん。その棚の高い場所にお願い」 「はーい」 「天音ちゃーん、これは?」 「あ、それはよく使うから、取り出しやすいとこ」 「はーい」 「28号、こっちのデータもバックアップを」 「らじゃー!!」 「それが終わったら過去のデータの確認も」 「どんどんこーい!」 みんなで手分けしてやっているからか、作業は面白いように進んで行く。 それぞれが自分が得意な事に集中しているから、なおさら効率はいいみたいだ。 この調子だと、すぐに片付け終わりそうだな。 開いた扉に視線を向けると、そこには能天気な顔をした生徒会長が立っていた。 いつものようにゆるい表情で、ひらひらと手を振っている。 昨日の天音の話を思い出して一瞬だけドキッとしたが、会長はいつも通りに明るい声で機嫌よさげに笑った。 「やあやあ、諸君! 元気でやってるかーい!」 「……」 「……ちっ」 「あ、会長さんだ! こんにちはー!」 「おっす!」 「あんた、何しに来たんですか」 「はいはい。用事がないなら帰って!」 「ああ、冷たいよ!!!」 「どーせいらないちょっかい出しに来たんでしょ」 「そんな事はない! 今日ここに来たのはしっかりした目的があるんだ!」 「あっ!!」 しっかりした目的って何だよと思っていると、会長はまっすぐ俺の方までやって来た。 「な、なんなんですか」 「またまたぁ、とぼけちゃって。ん? どうなのよ? 最近どーなの?」 「な、何がです」 「もー。我が妹とお付き合いしてるくせに……」 「あ、あんたには関係ないでしょ!!!」 「ダメだ! それではダメだよしょーくん!!!」 強い口調で言った会長は、有無を言わさない勢いで俺の体をつかんだ。 そのまま、部屋の隅までずずい〜っと連れて行かれる。 「もうやだ……」 「女の子というのはみんな、お付き合いをすれば色々な事を望むものなのだよ!」 「あんたに何がわかるんですか」 「少なくとも君よりは色々わかってる」 「……」 「そーゆー事も女の子は期待しているのだよ! さあ、ほら、せめてもの贈り物を受け取りたまえ!!!」 そう言いながら、会長は俺の手を取った。 そして、ぎゅっと強く、手の中に何かを握らせた。 手の中には、小さなビニールのような感触。 あんまり見たくない気がする。 でも、このまま握っているのも嫌だ。 仕方なく、恐る恐る手のひらを開いてみる。 ―――そこにあったのは、コンドームだった。 「………」 「え、何? 何する物か知らないの?」 「そーじゃなくて!!!!」 「良かったー。そりゃ、知ってるよねー。知らなきゃ、お兄さんゼロから説明しなきゃいけないトコだったよー」 「そういう事じゃなくて!!!」 「ぐっどらっく!!」 「だから、いらん気を遣うなああ!!!」 何考えてるんだ、この人は!! こんなもんをこの場所で渡すとか常識外れにもほどがある! 大体、妹の彼氏にこんなものを渡すなんて……! い、いや、そういう問題じゃなくて! 「ただいま戻りました……あら、会長さん」 「や! おじゃましてます」 「晶さん……? 手に何を持っているの?」 きょとんとした表情で、桜子が俺の手を見ていた。 ……手? 手って、さっき、会長が押し付けたコンドームが――― 「え!? あ、ああー!!!!」 「え……」 「あ……」 「……最低」 「んー? なんだなんだ?」 手のひらの中には、ばっちりと手渡されたモノが握られている。 おまけに全然、ちっとも、微塵も隠れてない! しかも、この場にいる全員に見られてる!!! 「い、いやいやいや! これはその、えーっとね!!!」 「それはなに?」 「なんだ、晶も知らねえのか? 仕方ねーなー! オレがネットで調べてやるよ!!」 「ちょー! 待てー! 待ていマックス!!!」 「オレの手にかかれば、そのナゾの物体の正体くらいすぐにわかるって」 「いやいい! いいから、調べなくていいから!!」 「えーっとだな、それは……」 「マックスストーップ!!!!」 「え?」 「それも没収!!!!!」 天音が大声でマックスの行動を阻止した。 そして、俺の手の中から勢いよくコンドームを取り上げた。 その、瞬間――― ばらばらときれいに、折りたたまれていたコンドームが天音の目の前に広がった。 あれじゃあまるで、みんなに見せているみたいだ。 いやあ……あそこまで見事だと、驚く事を忘れるなあ。 「あ……」 「あ……」 「……?」 「……」 「……あ!!!!」 全員の視線が一斉に天音に向けられた。 結衣は頬を赤くして、くるりはあからさまに蔑んだ表情。 桜子だけはどういう事だかわかっていないようだ。 そして、事態に気づいた天音の顔が恥ずかしさで真っ赤になる。 あれ……。 これ、もしかしてヤバくない? 天音の顔が真っ赤なのも、恥ずかしいからじゃなくて、怒ってるからのような気が……する…。 「あれはなんでしょう?」 「え、えっと……」 「最低」 「ぶーぶー」 「は……」 「え、えーと。じゃあ、僕そろそろ生徒会室に戻ろうかなあああ」 「あ! ずるい!!」 「お兄ちゃんのバカあああああああ!!!!」 「ぎゃあああああああああ!!!!!」 繚蘭会室の片付けが終わった後、俺は天音とふたりで教室に戻って来た。 放課後の教室は静かだった。 まるで、そこだけ切り取られているみたいな感じだ。 もっとも、静かなのは天音がさっきから怒ったままだからっていうのもあるんだけど……。 怒っている理由は、もちろんさっきの一件だ。 「……」 「天音?」 「……なに?」 「まだ怒ってる?」 「あたりまえよ! 何あれ、信じられない!!」 「いやまあ、怒りたくなる気持ちもわかるけどさ」 「本当、あんなのが兄だなんて嫌になる!!」 「まあまあ、そんなに怒らなくてもさ」 まあ気持ちはよくわかる。 なだめるように言いながら、思わず天音の頭を撫でた。 ゆっくりと柔らかい髪を撫でてあげると、天音は嬉しそうな表情を浮かべてくれた。 でも、はっとすると、すぐに怒ったような表情に戻る。 さっきまで、あんなにうっとりしてたのになあ。 あの顔、かわいかったのに。 「こ、子供扱いはやめて」 「してないよー」 「だって、頭とかなでるし」 「じゃあ、やめる」 そっと手のひらを離してみると、天音がじっと俺を見た。 ちょっと寂しそうな表情。 やっぱり天音は、かわいい。 「あ……」 「やっぱりやめない」 もう一度頭を撫でてみると、天音がくすぐったそうに笑う。 でも、すぐにまた拗ねたような顔をした。 「も、もう! どっちでもいいんだから」 「かわいいなあ」 「き、急に何言うのよ……」 「だってかわいいから」 「も、もう……知らないっ」 天音は頭を撫でられながら、ぷりぷりと怒ってる。 やっぱり、そんな姿すらかわいくて仕方ない。 彼女って、みんなこんな可愛いものなのか? 頭撫でてるだけで、満足できるわけない。 「……天音」 「うん?」 「もっとぎゅーってしていい?」 「え! え、え?」 「したくなった」 「うん。ありがと」 恥ずかしそうに言った天音の体をぎゅっと抱きしめる。 抱きしめた天音の体は柔らかい。 小さくて、柔らかくて、ぎゅーってしてると気持ちいい。 女の子ってみんなこうなのかな。 「はあぁー」 「晶くん……?」 「……天音」 なんかもう、こうしてるだけなんて無理かも……。 もっと触りたい…。 いいよな……気持ちいいんだもんな。 天音、怒るだろうか。 でも、怒られてもいい。 「え! あ、あ……」 天音の感触が気持ちよくて、手のひらをそっと動かして、胸に触ってみた。 いきなり触られて天音は驚いたみたいだったけど、その感触はすごく気持ちよかった。 さっき抱きしめた時の感触なんて、比じゃないくらい。 柔らかくて、気持ちよくて……なんだろう、これ。 手のひらを何度も動かすと、天音の表情が変わる。 恥ずかしそうな、でもくすぐったいような表情。 かわいくて仕方ない。 もっともっと、この感触に触れて、もっと天音の顔を見ていたい。 「あ、あの! しょ、晶くん……! んぅ!」 もっと……。 もっと触りたいなと思って、手のひらをまた動かしてみた。 「だ、だめー!!!!」 「ええ!??!?」 何が起こったかわからなかった。 でも、ほっぺが痛くて、目の前で天音が手を上げていて。 ……ひっぱたかれたんだって事はなんとなくわかった。 「う、うう……」 「な、なんで…」 いや、天音は真っ赤だし、恥ずかしがってるのはわかる…。 でも、どうしていきなりこんなに嫌がられたのかわからない。 さっきまでは、うっとりした顔をしててくれたのに。 「だって、なんかこんなの……お兄ちゃんに乗せられてるみたいで、嫌だもん」 「そんなんじゃないのに……」 「で、でも、なんだか嫌なの!」 「はい……」 天音が言う事の意味も…まあ、わかる。 でも、やっぱり……ちょっと残念だ。 俺は別に会長に乗せられたつもりはないし、ただもっと触っていたかっただけなのに。 ……ほっぺも痛いし。 「……」 「……」 「わ、私、ピアノの練習してくる!」 「あ、俺も行こうか?」 「い、いい」 「え……」 「あ、あの、そういうんじゃなくて……な、なんか恥ずかしいから、ひとりがいい」 「あ、うん」 「ご、ごめん。あの、えっと」 「大丈夫だよ。行ってきな」 「うん。あ、ありがと」 そのまま、天音は練習に行ってしまった。 ひとりがいいって言われたから、追いかけることもできずにその場に残される。 ……やっぱりちゃんとムードとか考えてあげないといけないんだな。 女の子って、すごく繊細なんだ。 もっと、考えて行動しなきゃ……。 次は、ちゃんとしてあげられるかなあ。 いや、ちゃんとしてあげたいけど……はあ、帰ろう。 「ただいま……」 「おー、おかえり!」 なんとなく、天音との事を気にしたまま部屋に戻ると、もうマックスが帰っていた。 マックスは机に向かって、予習をしていた。 ……こいつ本当に真面目だ。 「うんー?」 「はあああああ」 「なんだなんだ? どうしたんだ晶。元気ねーじゃねえか」 「いや、まあ……」 「悩みがあるならオレに相談してみろよ! な!!!」 いつもの調子でマックスが相談しろと言うが……。 いや、しかしどう言っていいのかわからない。 どう考えても、俺が先走りすぎましたってだけだしなあ……。 「どうした? どんと来い!」 「んー。女の子って難しいなあ……」 「なんかあったのか?」 「……」 「なんだ哲学的な話か!? それならマミィに頼んで哲学ジャンルの情報をインストールしてもらってくるぞ!」 「いや、哲学じゃないよ……たぶん」 「ふむう」 俺のためにマックスはいろいろ考えてくれているようだった。 わざわざ考えてもらうほどの問題でもないっていうのに。 ホントいいやつだな、こいつ。 はあ………。 なんだか、ちょっとせつない。 少し女々しい気持ちで、俺はそのまま寂しく晩ご飯の時間を待つのだった。 今日は休日だ。 昨日は天音とは、ほとんど二人きりで会えなかった。 だって、ピアノの練習とか繚蘭会の仕事とかで、全然会わせてくれなかったんだもんなあ。 まあそれだけじゃなくて……。 あの時に胸とか触っちゃって、恥ずかしかったからっていうのも理由にあるんだろうけど。 今日は会えないんだろうか。 また、繚蘭会の仕事で、学校に行っているのかな? 別に特別何か約束してるとか、何かプランがあるとかじゃないけど…。 なんだか、すごく天音に会いたいと思ってしまう。 会いたいって、メールをしたら嫌がられるだろうか。 準備があるからダメです! とか言われるかな。 ……メール送ってみようか。送るだけならタダだ。 いいよな、それくらい。 俺と天音は付き合ってるんだし。 カチカチとメールを打つ。 『会いたいです。デートとかしたいです』 ……。 ちょっと女々しいだろうか。 迷ったが、素直な気持ちなのは間違いないと開き直って送信ボタンを押す。 返事はすぐに帰ってきた。 『別にいいよ。繚蘭会の仕事は予定通りにきっちり進んでるから』 「……あれ、大丈夫なんだ」 さすが繚蘭会会長様。予定通り進んでるなんて、えらいな……。 感心する気持ちと、デートとか誘っても嫌じゃないんだという気持ち。 ふたつがぐるぐると胸の中でうずまいたけど、嬉しいほうが勝った。 どこへ行くとか、何も考えてないけど――。 「迷ってるより、いいか」 「なんか、急に誘ってごめん」 「別に大丈夫よ、今日は何の予定もなかったから」 「そ、そっか。なら良かった」 なんか、ちょっとつんとしているっぽいような……。 やっぱり、少し怒ってるのかもしれない。 あんなデートの誘い方したからだろうか。 「よかったっていうか…いや、やっぱ怒ってる?」 「晶くん!」 「は、はい」 「彼氏と彼女だし、休日予定ないんだし、デートしてもおかしくないでしょ!」 「あ……」 言い終わった天音は真っ赤になっていた。 そうか。 怒ってたんじゃないんだ。……照れてたんだ…。 「そっか、おかしくないよな。うん」 「どこ行こうかな、実はさ天音に会いたいって思ったんだけど、その先何も考えてなかった」 「天音は?」 「私? 私は…うーん、うーん、そうだなゆっくりできるとこがいいかな」 天音は首をかしげながらそう言った。 このところ繚蘭祭の準備でもいろいろ駆け回ってたし、少し疲れてるのかもしれない。 ゆっくりできて、空気もきれいで、気分が良くなれる場所ってなかったかな。 「あ、そうだ。あそこ行こうか」 「えっ? どこ?」 久々にやってきた海水浴場は、土曜日というのにずいぶん空いていた。 やっぱり繚蘭祭が近いせいもあるんだろうか。俺や天音と同じ年代の子はほとんど見当たらない。 小さな子供をつれた家族や、散歩途中といった感じの人たちばかり。 これなら騒がしくもないし、ゆっくりできるだろう。 「さすがに泳いでる人はいないわね」 「ほんとだな…天音、泳ぎたいとか?」 「まさか!? そんなわけないでしょ」 答えた天音は砂浜に座った。 俺もその隣に座って、ふたりでぼんやり海を見た。 人の少ない海はやっぱり静かで、少しだけ吹いてくる風も気持ちいい。 「はー、海ってこんな風に静かなのもいいわね」 「この前は皆で騒いでばっかりだったもんな」 「うん、それはそれで楽しかったけど」 「こんな風にふたりで静かな場所来るのって、初めてかも」 「この間のデートは、公園で騒がしかったもんな」 「あ、そ、そか……」 改めてそう言われると、なんとなく恥ずかしい。 そうだよな。 あの頃はまだ、婚約者のふり……だったから。 ああ、でも今はそうじゃなくて、ちゃんと恋人同士、なんだ。 「あ、この貝殻。見てみて、ちょっとうちの制服のボタンに似てる」 砂浜に落ちていた貝殻を指差して、天音が言った。 ひし形の巻貝だったけど、うまく模様が十字になっている。 「ほんとだな」 「これをこうして……まるっと」 「……?」 天音は貝殻をまっすぐに置くと、指でぐるっと円を描いた。 黙ったままぐいぐいと、円の中に四角や丸を書き足してゆく。 何してるんだろう? やけに真剣な眼差しで砂浜に指を走らせる天音を、俺はじっと見ていた。 「ふー」 「え、なにこれ」 「……マックス」 「え? 似顔絵?」 「マックスって、いつもこんな風にネクタイしめてるでしょ」 「あー、そういえばそうだな」 さっきの貝殻を、ネクタイのところに見立ててるようだ。 そういえば、確かにマックスの似顔絵に見えるけど……。 「もうちょっとこんな感じだろ、マックスは」 「ええー」 「目の辺りはこんな感じで、ほら」 天音の描いたマックスの横に、俺の描いたマックスが並ぶ。 「むー」 「毎日顔合わせてるからな、嫌でも描けるようになるよ」 天音はぷうっと頬を膨らませて、今度は海の方を向いてしまった。 「……天音?」 「……」 「天音さーん」 「………」 「怒ってる?」 「怒ってません!」 やっぱり怒ってる。 でも、そう言うと怒るんだろうな。 でも、そういうちょっとした所が可愛くて、少し笑ってしまいそうになる。 「だけどこれはもう没収します!」 「えっ!? こ、これって?」 何の事だ? と思って見ると、天音は持って来ていたカバンの中から小さいバスケットを取り出した。 その中から出てきたのは、小さくて白いパンだ。 なんか、こういうのテレビで見た事あるかもしれない。美味しそう。 「昨日、作ってたの」 「作ってた? え、何のこと?」 「けど、もう没収しまーす」 「うわああ、ごめんなさい! 似顔絵うまく描けて調子のってました! ていうか!」 「昨日、作ってくれたの? これ……すごい美味しそうなんだけど」 「え、うん、そう。でもひとりじゃないわ、マックスに教えてもらいながらよ」 もしかして昨日ろくに顔をあわせられなかったのは、そのせいなんだろうか。 なんだかそう思うと、余計に嬉しい。 天音はずっと横を向いてたけど、頬は赤らんでいた。 「食べていい?」 「……」 「すっごいお腹すいてきた」 「……」 「天音の作ったパン、すっごい食べたいんだけど!」 「……もう」 相変わらず天音の頬はぷうっと膨らんだままだったけど、真っ白な丸いパンは俺の前に差し出された。 近くのお店で飲み物を買ってきて、砂浜にふたり並んで座る。 時々遠くから聞こえてくる子供の声と、波の音以外は何もない。 何もないけど、退屈じゃない。 「おいしい?」 「うん、おいしい」 「焼いたのは昨日だけど、味は1日置いた今日の方がいいんだって。焼きたても美味しそうだったけどね」 「そうなんだ」 「こっちのジャムはlimelight用に作ってるの、特別にもらってきちゃった」 「これも手作りなんだよな。すごいな」 天音が作ってくれたパンを食べた後、ふたりでゆっくり時間をすごした。 パンが美味しかったとか、繚蘭祭の話とか……。 話したい事はたくさんある。 考えれば、こうやってゆっくり過ごすのってあんまりなかったかもしれない。 たまにはこんなのも悪くない。 いや、悪くないどころじゃないな。すごくいい。 「あのさ、天音」 「……」 「俺、ちゃんと――」 「……す、すう」 気が付くと、天音は俺にもたれたまま、うたた寝を始めていた。 このところ、毎日が忙しかったからだろうか。 疲れてるならそう言ってくれてもよかったのに……。 でも、俺のそばでこうやって休んでくれるのなら、いいかな。 しばらく寝かせてあげよう。 今はまだ日も高いし、体も冷えないだろう。 「――!!」 「あ、起きた」 「え、うそ…私、もしかして寝てたの? な、な、何時?」 「天音、落ち着けってば」 「だって、やだもう、私のバカ…」 「俺、気持ちよかったんだけど」 「え……?」 「天音がずっと俺の肩によりかかって、寝てるのが」 「そ、そんなのウソよ! だって重いでしょ、おまけに何も話さないじゃない」 「俺も最初は…何か話さなきゃとか、何話したらいいんだろってずっと思ってたけど」 「う、うん」 「なんだかもう、話さなくても大丈夫だし、天音が俺の横にずっと座ってるの気持ちいいって思った」 「………うん」 俺、変な事を言ってるかな。 天音は少し黙りこんでしまった……。 「こういうのって、おかしいかな」 「べ、別にそんなこと、ないんじゃない?」 「そっか、それなら良かったけど」 「……ごめんね」 「えっ?」 「……」 「なんでもない」 謝らなくてもいいのに。 そう思ったけれど、天音が黙っているので、俺はそれ以上何も言えなかった。 なんとなくぎくしゃくした感じのまま、俺と天音は手を繋いで寮まで戻る事にした。 もうすぐ、日が落ちかける。 手を繋いで戻って来ると、空はもう赤くなり始めていた。 「今日は急につきあわせてごめん」 「ううん、私も」 「私もたぶん、会おうって言ってたわ。たぶんね」 天音のその言葉が、嬉しくて。 繋いだ手を離したくなくて、でも離れそうな手のひら。 だから思わず、その指先をぎゅっと握った。 もう少しだけ一緒にいたい。 「……」 「しょ、晶くん?」 「……今」 「えっ? えっ? なに?」 「えーっと、何でって言われたら困るんだけど……もっと天音といたい」 「――っ!」 「とか、思ってしまった。今」 「で、でもでも、私、あの……」 答えられない天音の指先が迷っているみたいだと思った。 ゆっくりと動く指先が、答えるべき言葉を見失っている。 そんな気がして仕方ない。 「……晶くん」 繋いでるのは指先だけだ。 なのに、それは温かくて柔らかで、絶対的に俺と違うものだってことが伝わってくる。 その先にあるものが、天音の気持ちが、俺のことを好きだと思ってくれたこと。 安心したように、俺の肩に頭を乗せて眠っていたこと。 いろんなものが頭の中をぐるぐるかけめぐってしまう。 「……」 「……」 本当は指先だけじゃなくて、もっと触れたい。 触れてもいいのだろうか。 天音はどう思っているのかな。 もっと、いろんなところに触りたい。 そう思いながら指先をそっと動かすと、天音は驚いたように指を引いてしまった。 「だ、だめ」 「えっ」 「私、私、ピアノの練習するから!」 「えっ、あの」 恥ずかしそうに一気に言った天音は、背中を向けて寮の中に入って行ってしまった。 あ……。 うん。そうだよな。 音楽室に行くから、一度制服に着替えるために寮に戻ったんだよな。 俺が嫌だから咄嗟に練習するなんて言ったわけじゃない。 そうだ。うん……。 「……天音」 ああ、でも。 わかってるけど寂しい……。 ひとりでこうしてても仕方がない。 なのに、余韻にひたるように俺はしばらく寮の前で天音の部屋を見上げていた。 部屋に戻ってきてみると、中には誰もいない。 なんだか今日くらいはにぎやかなマックスの声で出迎えて欲しかった感じだ……。 こんな時にひとりの部屋に戻って来るなんて、淋しすぎる。 「はああああああ」 深いため息が漏れる。 なんだか、何をする気にもなれない。 思わずベッドに飛び込み、その上でごろごろしてしまう。 「ああああああ」 あの時、天音はどう思ったんだろう。 ちょっといい雰囲気かなとか思ったのに、突然ピアノの練習に行くとか言っちゃったし……。 俺が悪いのかな……。 触りたいとか思ってるから。 いや、元を正せば会長が悪い気がするんだけど。 ああああ、でも、今さらそんな事言っても……!!! なんだろうもう、こんな事ばっかり考えても何も解決しないのに。 ああ、天音早く帰ってこないかなあ。 部屋に行ったら怒られるかな……。 「はあ……」 ぼんやりとベッドの上でごろごろして、うだうだと考えているうちに時間だけが過ぎて行ったらしい。 なんだか、部屋に戻って来た時よりも外が暗い。 何をしてるんだ、俺は……。 バカっていうのは、こういう事なんだろう。多分。 「はあ」 「あ……」 「おう! ただいま!」 「おかえり……って」 扉が開き、マックスが帰って来た。 しかし、なんだか大荷物を抱えている。 お前はいつも、もっと身軽だろう。 おまけに、格好も違う。 普段limelightにいるときのまま。わかりやすく言えば、コックさんバージョンのマックスだ。 「なんだ、それ」 「ふんふ〜ん♪」 「いやいやいや! 楽しそうにしてる場合じゃなくてね」 こいつ鼻歌まで歌えるのか! 高性能にもほどがある。 それにしても、なんでこんなに楽しそうなんだろう。 「まあ、ちょーっと待ってろって! オレが今から超すっげーケーキ作ってやっからよ!」 「は? ケーキ? 俺に? 食べていいの?」 「ちっげーよ!! 晶にじゃねーよ!」 「えええ……」 「大丈夫だ。あとは仕上げだけだからさ」 「そうじゃなくて…」 俺の話を全く聞かず、マックスは荷物の中から何かを取り出し始めた。 「そーっと、そーーっとな」 「……?」 荷物の中から出てきたのは、作りかけのケーキだ。 まだ未完成とはいえ、ちゃんとケーキの形はしている。 でも、これを作ってどうするつもりなんだろう。 「ふんふん♪ ふふふ〜ん♪」 「おーい、マックスー」 「ふふふふ〜ん♪」 鼻歌を歌いながら、マックスが持っていた絞り袋からクリームを搾り出し、器用にケーキを飾り付けていく。 さすが毎日limelightのケーキを作っているだけはある。 ものすごい手際の良さだ。 おまけに見た目はすごくいい。 やっぱり、高性能にもほどがある。 いやいや、そうじゃない。 そうじゃないだろう。 マックスがこうしている意味がわからないって事が言いたいわけだ。 「あの、マックス君」 「おう! どうした、待ち切れねーか?」 「いえ。全然意味がわからないんですが。俺が食べていいケーキじゃないんだよね?」 「なんだよ、鈍いなあ」 「な、何がだよ」 マックスに言われると無性に腹立たしいのは何故だろう。 というか、説明されてないのにわかるわけがない。 「あのな、このケーキは天音の好み100%で特別に作ったやつなんだよ」 「へ?」 「あいつ、最近いっつも繚蘭会でがんばってんだろー。だからよ! 辛い事もひとりでしょい込んでるかもしれないじゃねーか」 話しながらマックスは器用にケーキを仕上げ続けている。 その動きは止まる事はない。 なんだか、本当に職人みたいだ。 「だからな! これ天音に食わしてやれって!!」 「えーっと……」 もしかしてこれ、この前マックスに女の子は難しいってぼやいていたからなんだろうか。 天音のピアノの事は誰にも言っていないし、それしか考えられない。 つまり、マックスは俺の話を聞いて色々考えて、天音との事で何かあったと思ってくれたって事か……。 「あのさ、なんでケーキ?」 「なーんだよ、晶は知らねえのか? 女の子ってのは甘いもんが好きなんだぜ」 「それは知ってるけど」 「そんでな、それを好きなやつと食うのがもっと好きなんだぜ!!」 今、マックスがすごいカッコイイ事言った! なんだ今の! マックスすごい! 俺、そんな事考えもしなかったのに! 「よし! これで完成だ」 「おおおおお」 完成したケーキは本当においしそうだった。 見た目もきれいで、女の子が喜びそうな気がする。 カッコイイ事言うし、こんなケーキまで作るし……。 マックスは本当にすごいな……。 「後はこれを箱に入れて……」 「え? 箱まであるのか?」 「あったりめーよ! 贈り物は包装も大事だぜ」 「ほー……」 ケーキから離れたマックスは、持って来た荷物の中からきれいな箱を取り出した。 それはケーキを入れるのにちょうどいい大きさ。 そして、見た目もかわいらしい。 準備万端でここまで来てくれたのか。 「そーっとな、そーっとだ」 マックスがケーキを箱に入れて丁寧に口を閉じる。 中身が無事な事を確認すると、マックスはその箱を俺に差し出してくれた。 「これでよし! ほら、天音んとこ行ってやれ!」 「マックス……」 そっと、ケーキを受け取る。 できたばかりのケーキには、マックスの気持ちが込められているのかもしれない。 こいつ、いいやつだ。本当に。 ……ロボだけど。 「途中でこけるんじゃねえぞ?」 「ありがとう、マックス」 「いいって事よー!」 「じゃあ、ちょっと行って来る」 「おう!!」 マックスに送り出され、天音にケーキを届けるために俺は部屋を出た。 マックスに手渡されたケーキを持って、天音の部屋の前までやって来た。 すると、天音もちょうど校舎から戻って来るところだったのか、部屋の前で鉢合わせる。 「あ……」 「あ、晶くん」 「あ、えっと」 「うん…」 どう話せばいいだろうか。 そう考えながら、ちらちらと天音を見つめる。 天音も少し落ち着かない様子だった。 果たして話しかけてよかったものか、少し後悔する気持ちが心をよぎる。 でも、せっかくマックスが俺を心配してくれて、天音と一緒にってケーキまで作ってくれたんだ。 ここでためらっている場合じゃない。 「あ、あのさ!」 「うん!」 「今日、デート、楽しかった。付き合ってくれてありがとう」 「う、ううん。そんなに、私も楽しかったし」 「また、デートしてくれる?」 「それはいいけど。でもまだ繚蘭祭もあるし……」 「終わってからでも、そんな、いつだって行けるよ」 「そ、そうだけど。うん」 「うん……」 「……」 「えっと……」 さっきから、天音は居心地が悪そうにもじもじとしていた。 早く部屋に入りたいのかもしれない。 なんだか、どうすればいいのかわからなくなりそうだ。 でも、ケーキだけでも渡しておかないといけない。 「あの! 天音、お腹減ってる?」 「え? あ、うん」 「そ、そっか。じゃあ、あの良かった」 「どうして?」 「あの、これ……」 そっと、手にしていた箱を取り出す。 マックスが用意してくれた、ケーキの入った箱。 見た目もきれいでいかにも女の子が好きそうなものだ。 マックスがさっき『贈り物は包装も大事』って言っていたのを思い出した。 箱を差し出された天音は、少し驚いたようだった。 「……?」 「マックスがさ、ケーキ作ってくれたんだ」 「え! な、なんで?」 「天音が、最近がんばってるから……?」 「え? い、いいの? もらっていいの?」 「うん。天音の好み100%って言ってたから」 「わあ!」 ケーキと聞いて、嬉しそうに天音の表情が緩んだ。 ぱあっと、表情が明るくなる。 笑ってる天音の顔は、すごくかわいい。 でも、今日はだめだ。 我慢しないと。 さっきだって恥ずかしがられたし、流されるみたいのは嫌だって前に言ってたことも忘れちゃいけない。 「あの、じゃあ」 「え! じゃあって、あ、あの、晶くん、帰るの?!」 「はい」 「何で帰るのよ!」 「な、なんでって……いや…」 一緒にいると色々したくなってしまうからです! だって男の子ですから! ………なんて答えられるわけがない。 どう答えるべきかともごもごしていると、天音も同じように目の前でもじもじしていた。 「だから……その…い、一緒に食べよ……」 「え!?」 「ひ、ひとりじゃ、こんなにいっぱい食べられないし……」 「い、いいの?」 「あ、あの! そういうんじゃなくて、変な意味じゃなくて、一緒にケーキ食べたいなーっていうだけで!!」 「う、うん」 こくこくと何度もうなずいてから気が付いた。 これって、天音の部屋に入るって事……だよな? そ、そうだよ。 一緒にケーキ食べるって事はつまりそういう事で……。 「どうぞ、お入りください」 「は、はい」 って考えてる間に天音は部屋の扉を開けた。 それから、頬なんか赤くして俺にどうぞって言ってくれる。 今からホントに天音の部屋に入るんだ! ど、どうしよう! 緊張して来た。 天音に通されて、部屋の中に入った。 ふんわりと甘い香りが通り抜けて行った気がする。 けれど、これは勘違いなんだろうか。 女の子の部屋に入ったのなんて、初めてだからわからない。 「あの、適当に座ってね」 「あ、うん」 適当ってどういう事だ!? どこのこと? と思っている間に、天音は手にしていたケーキをテーブルに置いた。 そのまま、ちょっと待てと言われたので、ケーキが置かれた机の前に座る。 天音は包丁とフォークとお皿を持ってやって来て、ふたり分ケーキを切り分けてくれた。 その表情は、ちょっと楽しそうだった。 目も、なんだかきらきらしている。 女の子って、やっぱり甘いものが好きなんだな。 「わー。すごいなあ、本当に美味しそう」 「うん!」 「これって、私のためだけにマックスが作ってくれたんだよね」 「って、本人は言ってたけど」 「どうしよう。嬉しいなあ」 目の前にあるケーキを見つめて、天音がまた笑った。 にこにこと緩んでいる頬が、嬉しそうに笑う目元がかわいい。 「はい。こっちが晶くんのね。大きいのにしておいたから」 「ありがと。いいの? 天音ちっちゃいので」 「だから、結衣じゃないんだからそんなに食べられないの!」 「あ、はい…」 「………」 「でも、嬉しいな、一緒に食べられるから」 「そ、そう?」 「そう!」 うんうんうなずいてから、お互いに『いただきます』をしてケーキを食べ始めた。 口と鼻いっぱいに甘い香りが広がる。 舌に乗せた味に、ほっぺが落ちそうだと感じる。 やっぱり、マックスの作るケーキは美味しい。 「美味しい〜! すっごい美味しい」 「確かに美味い」 「本当に私の好きな味がしてる。マックス、すごいなあ」 ほっぺを押さえながら、天音が幸せそうな表情をしていた。 とろけそうな表情ってこんな風なのかなって思った。 こんな表情を見ていると、俺まで幸せを感じてしまう。 「………」 じっと天音を見ていると、天音も俺を見つめた。 ちょっと恥ずかしそうに。 「なに?」 「あ、あのね、晶くん、えっと……」 「うん?」 「……はい」 恥ずかしそうに、天音がフォークに乗せたケーキを差し出してくれた。 でも『はい』と言われてもどうしたら……。 「え!? え!??!?」 「だから、あーん! って」 「あ……!」 「……」 そ、そういう事!? なんですぐに気付かない俺! 真っ赤になった天音がじっと見ている。 恥ずかしいんだろうなってよくわかった。 うん。俺も恥ずかしいです……。 でも、どっちかと言えば、やってみたいという気持ちの方が大きいです。 だから、めいっぱい大きく口を開けた。 「あー」 「……はい!」 「はぐ!」 差し出されたフォークに乗ったケーキを一気に食べる。 もぐもぐと口を動かすと、甘い甘い味と香り。 さっきよりもいっぱいに広がった気がしたのはどうしてだろう。 天音が食べさせてくれたからかな。 なんだかそんな気がするから、そういう事にしておこう。 天音はまだ恥ずかしそうだった。 でも、嬉しそうな笑顔。 その笑顔を見て、俺までにやついてしまいそうだ。 「じゃあ、あの、晶くん」 「うん?」 「……」 なんだろうと思っていると、天音は真っ赤になったまま自分を指差していた。 えーと。 つまりそれは。 その、多分、間違いなく。 俺も天音に『あーん』をやれという事ですか。 というか、それしかないわけだけど。 「あ、あの……天音も?」 「してくれないの?」 「いや、あの……」 「結衣とは、おかずのとりかえっことかするくせに……」 「え、ええ?」 「私もして欲しい」 ぷぅと拗ねたように膨らんだ頬がかわいい。 それと合わせるように真っ赤になった頬もかわいい。 ど、どうしよう。 もう、何もかもが可愛くて……。 「晶くん」 「は、はい」 こんな顔をされて、無理ですとは言えない。 ここは可愛い天音のために、俺も『あーん』してあげるべきだ。 少し震えそうになる指先を必死に押さえる。 天音がしてくれたみたいに、フォークにケーキを乗せて、そっと差し出してあげた。 さすがに、恥ずかしくて『あーん』とは言えなかった。 「はむ!!」 「お、美味しい?」 「うん! すっごく」 幸せそうな表情を浮かべている天音。 ちょっとびっくりするくらいに、幸せそうだなって思ってしまう。 でも、その時にふっと、マックスが言っていた事を思い出した。 『なーんだよ、晶は知らねえのか? 女の子ってのは甘いもんが好きなんだぜ』 『そんでな、それを好きなやつと食うのがもっと好きなんだぜ!!』 あれは、こういう事だったんだ。 あの時はただ、マックスがすごいかっこいい事言ったくらいにしか思ってなかったけど……。 今だったら、あの言葉の意味がすごく理解できる。 「ふふふ……」 「……」 天音は俺と一緒にケーキを食べてること、嬉しいって思ってくれているのかな。 だから、こんなに幸せそうに笑ってくれてるのかな。 だったら、今の俺もすごく幸せだ。 「晶くん? どうしたの」 「へ?」 「い、いや! あの、えーっと……!」 やっぱり無理だ。 だって俺、こんなに天音がかわいいと思っている。 かわいい天音を見て、好きだって気持ちでいっぱいになってる。 こんな状態でここにいたら……理性を抑えきれる自信がない。 やっぱり、このままじゃ多分天音に色々したくなってしまう。 多分、そんなことまで天音は望んでいないし、望んでない事はしちゃいけないだろう。 だったら、やっぱり……! 「あ、あの、天音」 「うん」 「そろそろ、帰るよ」 「え? もう? ど、どうして?」 「いや、あの……」 「もしかして、嫌だった? 無理やり、あーんとかさせたから……」 「そ、そうじゃないんだけど」 「じゃあ、どうして?」 「いや、それはあの……」 はっきり言った方がいいんだろうか? でも、言ってしまうとまた天音を驚かせてしまいそうだし……。 そう思うと、今の俺の状況をはっきり伝えられない。 けれど、天音がこんなに不安そうな表情をしていると……。 「……」 「晶くん?」 やっぱり、天音はかわいい。 こんなに可愛い顔で、俺と一緒にいたいとか言うのはずるいだろう。 ずるいっていうか、うん、我慢できるわけがない。 やっぱり、ちゃんと伝えてないと納得してくれないだろう。 「あの、天音」 「うん」 「俺、このまま天音と一緒にいると色々我慢できなくなりそうで」 「だから、えっと、帰るよ。なんか、天音がそんな気持ちじゃないのに、俺だけこんなだし……」 「あ……」 「そういうのは、やっぱりちゃんとした方がいいと思うから」 名残惜しい。 そんな気持ちがもやもやと心の中に湧き上がっている。 でも、天音を傷つけるのはもっと嫌だ。 見つめていると決意が揺らぎそうになる。 だから、なるべく天音を見つめないようにして立ち上がった。 でも、それはうまく行かなかった。 俺の服の裾を、天音が強く握り締めていたから。 「しょ、晶くん」 「天音……?」 天音の手のひらに力が込められているのはすぐにわかった。 服の裾を握り締める力が強くて、手のひらが白くなっていたから。 ぎゅっと服の裾を握りながら、天音は上目づかいで俺を見つめていた。 「い、いいから」 「え……!」 「か、帰らなくていいから」 「あ、あの、それって……」 「……だから」 「どういう……」 「き、聞かないでよ!!」 天音の顔が真っ赤になっていた。 目をそらして視線をそらす姿に、俺はもう無理だと思った。 このまま帰るなんて、こんな天音を見ていたらできるわけがない。 「じゃあ、帰らない」 「あ……!」 服の裾を掴む天音の手を握り、しゃがみ込む。 そのまま、体を抱き寄せるようにして唇を重ねてキスをした。 「あ、んぅ」 キスをしても天音は逃げなかった。 それどころか、自分から唇を押し付けてくれる。 触れるだけの感触。 けれど、それだけで満足だった。 「あ、はぁ……晶く……ん」 何度も何度も、キスをした。 それがとても大事な事のような気がして、止められなかった。 「はあ、は……あぁ……」 唇から漏れる甘い声と息に心臓が高鳴った。 そっと唇を離して天音を見つめる。 「晶くん……」 見つめた天音は頬を真っ赤にして、瞳を潤ませていた。 かわいくて、きれいで。 女の子ってこんなに、胸を高鳴らせてくれるんだ。 「……いい?」 「ん……」 はっきりとした返事じゃない。 けれど、小さな声でそっとうなずいてくれた。 それだけで充分だった。 手のひらをそっと、天音の体の上に移動させていく。 触れるだけのぎこちない動作。 たったそれだけなのに、緊張していた。 「は、あ……晶くん……」 ゆっくりと手のひらを動かして行く。 服の上から、ゆっくりと柔らかな膨らみに触れてみる。 「あ!」 「いや…?」 「う、ううん」 「…うん。天音、大丈夫だから……」 「あ……」 大丈夫なんて言葉にどれだけの意味があるのか、そんなものはわからない。 でも、そう言う以外に何もできなかった。 「……あ」 指先まで震えそうになるのを落ち着けさせたい。 けれど、それはできそうにない。 「晶くん……」 「うん」 柔らかな膨らみに触れているだけで我慢できるわけがない。 もっともっと、天音に触れたい。 そう思うと自然と手のひらはさらに動き出した。 ゆっくりと、あまり肌に触れないようにしながら天音のベストを脱がせる為に指先を動かす。 「……」 「やだったら、言って」 「ううん。やじゃない……」 「うん」 脱がせたベストを側に置き、ブラウスのボタンに指をやる。 さっきよりも指先が震えそうだった。 ひとつずつ、ゆっくりとボタンを外す。 ボタンを外すたびに白い肌が目の前に現れる。 ゆっくりと、その白い肌が見えるたびに鼓動が早くなる。 高鳴る鼓動と、荒くなりそうな呼吸。 どうして、こんなにも愛しいのだろうと、たったそれだけで思う。 「あ……」 「……」 ボタンを全て外し終わると、天音の肌がよく見えた。 白くて透き通るような……っていうのは、こういう時に使う表現なのかもしれない。 そっと天音の表情を見つめると、頬を真っ赤にしていた。 恥ずかしくてこっちを見ていられないのか、その視線は少しうつむいている。 けれど、そんな仕種や表情すらかわいいと思える。 そんな風に考えながら、そっと下着の上から胸に触れる。 「あ……」 この前は嫌がられたけど……。 今日もまた、嫌がられたら? そんな風に思ってしまうけど、手のひらの動きは止められない。 「あ、あ……」 柔らかい感触。 その感触に触れ、手のひらを動かすたびに天音が声を出す。 拒絶はされない。 たったそれだけなのに嬉しくなる。 「晶くん……」 「うん」 「あ、ん……」 手のひらを動かし続けると、天音の声が震える。 耳元で囁くように聞こえる甘い声に背中がぞくぞく震えたような気がした。 もっと聞きたい。 もっともっと、天音とこうしたい。 そう思ったのに。 「晶くん……あの……」 「うん」 そっと、天音が俺の手を取る。 もしかして、やっぱり嫌だったのだろうかと不安になる。 嫌な事はしたくない。 でも、ここまでして、この状態になって、俺……。 「あの、あのね……嫌じゃ、ないの…」 「うん」 「私も、あの……晶くんに……」 「え……」 天音が口にした言葉を理解する事が、一瞬できなかった。 何を言い出すんだろうとすら思ってしまう。 でも、さっき、天音は……。 「上手に、できないかもしれないけど……」 「あ、天音?」 驚いている間に、天音はちょこんと俺の脚の間に座った。 これってつまり、その……。 そういう状態ってやつ……だよなぁ……。 だめだ! それだけでちょっと緊張した! ていうか、なんかもう! どうしていいか! 「しょ、晶くん……ど、どうしたら、いいかな……」 「えっと、普通は……出すんじゃない……ですかね」 「え? ふ、普通って?」 「いや、だから、あの……」 「こ、ここ?」 「あぅ!」 「きゃ!」 そっと、天音の手が俺の股間に触れた。 瞬間、恥ずかしいくらいに反応していた俺は、それに対してビクっと震えてしまう。 あたりまえの事ながら、天音はそれに驚いて手を離す。 「えっち! えっち!!!」 「い、いや、だって……」 「なんで、こんなになってるのよ!!」 「す、好きな子とこうしてたらなるの!!」 「え……!」 「あ、天音が好きだから、こうなったの!」 「そ、そんなの、だって、あの……」 天音が真っ赤になっておろおろしている。 やっぱり嫌なんだろうか。 それとも、嬉しいんだろうか。 でも、嫌だったらもっと怒ってるよな。 「あの、じゃあ……えっと……」 「……」 天音の手がゆっくりと動く。 俺の様子を見ながらその場所を撫でて、天音はそっとジッパーに手をやった。 「……んと」 恥ずかしそうに俺を見つめてから、天音の指先が動き出す。 「……う」 恥ずかしい。 やっぱり、恥ずかしい。 でも、やめて欲しいとか、そういうんじゃない。 もっと……。 「わ、うわぁ……」 「あの、あんまり見られたら恥ずかしいです……」 「ご、ごめん! だ、だって……なんか……」 頬を真っ赤にして天音がそっと手のひらをのばす。 その手が何をしようとしているのか、すぐにわかった。 天音の手のひらはそっと、大きくなっている俺の肉棒に触れた。 その瞬間、さっきよりも大きく反応してしまう。 「……ん!」 「ご、ごめん! 痛かった? 痛い?」 「ち、違う。そうじゃなくて……」 「ホント? 良かった」 「あ、いや、あの……」 良かったと言われて喜べばいいのかどうか、わからない。 というか、気恥ずかしい。 でも、この状況で『やっぱ、いいです』なんて断れない。 というか、断れる男がいるなら教えて欲しい。 どういう心境で断るのかと。 「あ、あの、これから、どうするの?」 「い、いや、どうするって……」 「だ、だってした事ないんだもん!」 「うん」 した事あるって言われたら、それはそれでショックかも。 いや、ないとはわかってるけどね。 そもそも、俺だってこんな事された事なんかない。 どうしたらいいかって聞かれて、どう答えればいいんだ。 「と、とりあえず、したいように、してみたらいいんじゃないのかなあ……」 「えっと、こ、こう……?」 「……!」 頬を真っ赤に染めながら、でも興味津々と言った感じで天音は手のひらで肉棒を触り続けていた。 ぎゅっと握る感じでもなく、手のひらでゆっくりさするような。 気持ちいいっていうか、なんていうか……。 くすぐったいような、微妙な感じ。 「あ……」 「……」 それでも、やっぱり俺の体は反応してしまう。 それに気付いた天音は驚いたようにそこをじっと見つめる。 正直、そうやってじっと見られているだけで……ドキドキする。 でも、天音は少しずつ慣れて来たのか、手のひらの動きを大胆にしはじめて来た。 「こんな風になってるんだね」 「う、うん」 「もっと、こう……かな」 「……!」 恐る恐るだが、天音の手が肉棒をぎゅっと握った。 でも、そうしてからどうすればいいのか、わからないらしい。 ぎゅっと手のひらで握ったまま、俺を見上げる。 だけど、どう答えればいいのかわからない。 ただ、もどかしくて緊張して、答える言葉を探す事すら困難な状態になっている。 「んっ、と……」 肉棒を握ったままの手がゆっくり動き出す。 わからないなりに、そっと、優しく……包み込むような感触で手が上下に動き出した。 刺激の少ない感触なのに、また体が震え、声が出た。 「う……」 「こう? こんな感じで合ってる?」 自分がしている事が正しいのかどうか、天音は不安らしい。 でも、こんな感じかって聞かれても……わからない。 自分でしてるならまだしも、してもらってるからなあ……。 「そ、そうなんじゃないかな……」 「え! も、もしかして、してもらった事とか……」 「な、ないよ! ないない!!」 「そ、そっか。うん、そっか……」 「いや、だから、あの……はい……」 「すごい、なんか……ドキドキする」 俺の方がもっとドキドキするよ……。 天音の顔近いし。 手はさっきからずっと動いてる。 手のひらだけじゃなくて、時々、指も動いていた。 指先がほんの少しだけ先端に触れたりして……そのたびに震えながら反応してしまう。 先端に触れられ、指先でそっと撫でられる。 そのまま、手のひらがゆっくりと上下に動いた。 「あ、なんか……」 「……う」 「あぁ、こうなんだ」 今までよりも反応がよくなった事に天音が気付く。 そして、手のひらの動きが今までより激しくなった。 そ、それは……。 そんな風にされるとダメなんだけど。 いや、ダメじゃないけど……。 「あ、天音……」 「うん」 「……あ!」 もう少しゆっくり……と伝えたかったけれど、天音はそうは受け止めなかったらしい。 手のひらの動きはさっきまでより早くなる。 痛いような、そうでないような感触。 天音がじっとそこを見つめて、白い手のひらが動いていて……。 見ているだけでドキドキする光景。 でも、ドキドキする以上に体は反応している。 「天音……」 「晶くん……?」 「ご……」 「え?」 「きゃっ!!!」 「あ……」 我慢できなかった。 こんなに天音が一生懸命で、こんなにされて、我慢なんてできるわけがなかった。 で、でも……これは自分でもどうかと思う。 女の子の顔に出すとか……最低じゃないか。 「あ、やだぁ……」 「ご、ごめん」 「え! あ、あの、いいの。大丈夫……だ、大丈夫……」 でも、ちょっとドキドキしてる。 なんか、エッチだなあとか思ってる自分がいる。 天音が知ったら怒るかな……。 「ホントに大丈夫?」 「う……ほ、ホントは、大丈夫かも、わかんない」 「うん」 そりゃそうだよな。 俺だって、こんな事して良かったのかなんて、わからない。 でも、これは全部、大好きな天音がしてくれたからの事で……。 嬉しいけど、複雑だし、恥ずかしい。 「でも、すごくドキドキしてる」 「そんなの、俺も一緒だよ」 「うん」 こくんとうなずきながら、天音は顔にかかったものを拭い取る。 その仕種にもドキドキして、思わずベッドの上に天音の体を倒れ込ませていた。 「あ、きゃっ!」 「ご、ごめん……」 「しょ、晶くん……」 「あの……」 俺を見つめる天音の表情が少し不安そうだった。 大丈夫なんだろうか? さっきまで何度も考えていた事が、また頭に浮かぶ。 それでも、目の前にいる天音の乱れた姿を見るとじっとはしていられそうになかった。 「あ、あの……や、優しくして…ね?」 「がんばる」 「うん」 コクンと小さく頷きながら答える。 すると、天音の表情が少し和らいだ気がした。 そんな天音の頬をそっと撫でる。 「あ……」 「あの、こ、こういうの初めてだから……あの」 「……うん」 「うまく、できなかったらごめん」 「ううん。平気」 優しく、少し微笑みながら言ってくれたのが嬉しかった。 不安がないと言えばウソになる。 だから、ゆっくりと、天音が嫌がらないようにしてあげたい。 「……いい?」 「うん……」 頷いた天音をじっと見つめる。 見つめているだけで、ドキドキする。 けれど、もっと見たい、触れたいという欲求は増す。 「あぁ……」 スカートをゆっくりずり下げて、ブラジャーをまくり上げる。 恥ずかしさで天音の頬が真っ赤になった。 「は、恥ずかしいよ……」 「ご、ごめん」 「あ! あ、あの、い、嫌とかじゃなくて……」 「大丈夫、わかってるから」 「あ……」 答えながら、そっと天音の胸に手をやる。 柔らかい感触。 その感触をじっくり確かめるように、手のひらを動かす。 「あ、ああ……」 手のひらを動かすと天音が小さく声を漏らす。 それは今までに聞いた事のない声だった。 柔らかい感触と甘い声に、鼓動が早くなる。 「はぁ、あ……晶くん…!」 「平気?」 「ん、大丈夫……」 「うん」 大丈夫だと答える天音に頷き、更に手のひらを動かす。 「あ、ん!」 手のひらを動かすと、柔らかい感触が形を変える。 形を変える事。 その感触が気持ちいい事。 天音の声が甘くなる事。 その全部が嬉しくて、愛しくてたまらない。 「あ、あぁ……あ、晶くん……」 「痛かった?」 「ち、ちが……んぅ!」 小さく首を振る天音。 それがどういう事か、わからないわけじゃない。 そんな仕種を見ると、天音がもっともっとかわいく思えてしまう。 なんだろう。 こんな風に思うのは初めてだ。 「はぁ、あ……」 また手のひらを動かし、柔らかな感触を確かめる。 けれど、それだけでは物足りない気がした。 「晶くん……?」 不安そうな天音を見つめ、指先でそっと乳首に触れてみた。 「きゃ! あっ!」 今まで以上に驚いたような声が出て不安になる。 けれど、逃げ出そうとしていないのに気付いて安心する。 ゆっくりと、指先でその部分を弄ってみる。 少しずつ硬くなるそこにドキドキする。 「あ、はぁ……な、なんかぁ、変だよ……」 「そ、そんな事、ないよ」 「ほ、ホント?」 「うん」 変なんかじゃない。 すごくかわいい。 もっと知りたい。 もっともっと、天音を見たい。 「天音……」 「あっ!」 天音への気持ちが抑えられなかった。 下着に指をかけするすると脱がして行く。 天音は少し驚いていたけれど、素直にじっとしてくれていた。 「……は、恥ずかしい」 「う、うん」 今までより、もっともっと天音の頬が赤くなった。 でも、その顔もかわいいと思う。 「あの、えっと」 「い、いいよ……大丈夫…」 「うん」 「……あ!」 手のひらをゆっくり動かす。 胸の辺りから、腹部を撫でて、そのままもっと下へ。 下腹部の辺りで動きをゆっくりにすると、天音が少し震えた。 「あ、あ……」 「……」 ゆっくりと動かしていた手のひらを、下腹部よりももっと先に進ませる。 「……ん!」 そっと、秘部の方まで指先が辿り着く。 瞬間、天音の体が大きく震えた。 触れてはいけない場所だろうかと思うのに、その動きは止められない。 「あ、あ、はぁ……」 指先をそこから少しだけ奥に進ませる。 奥に進むと、指先がじんわりと濡れたのがわかった。 「天音、ここ……」 「や、あ……い、言わないで……」 「ご、ごめん」 「ん、んぅ……」 謝罪の言葉を口にして、また指を動かす。 動かすたびに奥からとろとろとあふれ出す感触がする。 「はぁ、あ……あ、あ……」 恥ずかしそうに頬を染めながら、それでも時々、チラチラと俺を見つめる天音。 その視線はもうやめてと告げているのか、それとも、もっともっとと告げているのか、わからない。 それでも、指先の動きを止められない。 もっと天音を見たい。 もっと知りたい。 「晶くん……晶く……」 「うん」 「こんな……なんか、変だよぉ……」 「へ、変じゃないよ。あの……かわいい」 「ほ、本当?」 「うん。すごいかわいい」 「あ……」 かわいいと告げると天音がまた頬を染める。 俺の言葉に、行動に、頬を染める天音が愛しい。 もっともっと、天音が欲しい。 「天音、あの……」 「晶くん?」 「……その、俺」 「あ!」 言葉にできない。 もどかしくて、どうしようと思っていると、天音の視線が俺の下半身に向いた。 どういう事だか理解できたらしく、また頬が赤くなる。 もうこれ以上は赤くならないんじゃないだろうかと思うのに、天音の頬はもっともっと赤くなる。 「あ、あの、晶くん、あの……」 「嫌だったら……やめる」 「う、うん」 「でも、あの、俺……」 「い、いい」 「え……」 「晶くんだから、いいの……」 「うん」 「あ……」 天音の体をおろし、ベッドに寄りかからせる。 不安そうにこっちを見ているけど、多分、大丈夫。 「あの、ゆっくりするから」 「う、うん。信じてる」 頷く天音の頭を撫でてから、そっと腰の辺りに近づく。 手のひらで触れた瞬間、大きく震えたのがわかった。 不安になっているのはよくわかる。 だって、俺だって不安だから。 「……あ、あぁ」 小さく漏れる声。 その声をなくしたい。 けれど、そのためにどうすればいいのか、わからない。 不安なまま、そっと、天音の秘部に指を這わせる。 「ひ! あ、あ……!」 あふれ出す、くちゅくちゅという音がなる。 もう大丈夫なのだろうかと思うけれど、はっきりわからない。 「天音、力抜いて」 「は、はい……」 「うん」 俺に従って天音が力を抜く。 どうすればいいのか、知識では知っている。 でも、初めてで戸惑う。 なるべく天音を怖がらせないように、ゆっくりと、秘部に肉棒を近付けた。 「……ひ!!」 「あ……」 そっと、先端が触れた。 それだけで天音が不安そうな声を出す。 「だ、大丈夫……」 「わかった」 本当に大丈夫なんだろうかと思う。 でも、ここまでやって止められそうになかった。 ゆっくりと少しずつ、天音の中に肉棒を進めて行く。 「……ん!」 「はぁ……」 「い……! あ、ん、んぅ……!」 強く拒絶されているような感触。 その感触に抗うように、肉棒を奥へと進ませる。 痛いような、苦しいような感触。 でも、天音はもっと苦しいんだと思う。 「あ、はぁ……はぁ……」 奥に進むたびに天音の声は辛そうになる。 でも、やめてしまおうかと動きを止めると、小さくふるふると首を振る。 「だ、大丈夫……だからぁ……!」 「うん。天音」 「あ! ん、んぅ!!」 大丈夫だと言ってくれる言葉を信じて、肉棒をもっと奥に進ませて行く。 「……ん! あ、あ……」 天音の声が辛そうだった。 でも、止められない。 奥へ奥へと、そう考えながら先に進ませて行く。 「あ、はぁ……」 「はあ……」 もっと奥へと進ませようとした時、もうこれ以上は進めない事に気が付いた。 つまり、これって……。 「天音」 「は、はい」 「奥まで、届いた」 「あ……!」 耳元で小さく、囁くように伝えると驚いたような声が出た。 「ほ、ホント?」 「本当」 「あ、んっ!」 「……ん!」 答えながら、小さく腰を動かしてみる。 すると、天音の声が大きく震えた。 中で締め付けられるような強い感触。 その感触に、俺まで声が漏れる。 「はぁ、はぁ……」 「動くけど、平気?」 「そ、そんなの、わかんない……」 「あ、うん……」 「が、がんばるから」 「え……」 「あ、あの、嫌とか、そうじゃ……なくて」 「う、うん。じゃあ、あの」 「……うん」 しっかりと天音の体を支える。 そのまま、ゆっくりと腰を引いて、肉棒を動かし始める。 「あ、あぁ……あぁ……! あ、んぅ! ほ、本当に……奥までぇ! あ、ふああっ!」 「ん……」 ぞくぞくと震えるような感触。 今までに感じた事のないほどの感触に、自然と声が出た。 でも、それは天音も同じようだった。 俺が動くたびに声を震わせて、しっかりとベッドのシーツを握り締める。 「あ、はぁ……あ、あっ! 晶くん、こんな奥、いっぱい……来て、あっ!」 そんな天音を気遣いながら、腰をぎりぎりまで引く。 それから息を吐き、またゆっくりと肉棒を根元まで埋める。 「ふ、あ、あぁ……あ、ぁあ……」 奥に進むたびに強く締め付けられる。 でも、拒絶するような強さはない。 強いけれど、包み込むような、そんな感触。 受け入れられているのだとわかると嬉しくなる。 そう感じながら、ゆっくりとゆっくりと腰を動かす。 「あ、ん! ん、んぅ……! あ、ああっ…」 さっきより、天音の声にも余裕が出てきた気がする。 まだ辛そうだけど、少しくらいなら動きを激しくしても大丈夫かもしれないなんて思う。 「はあ、は……晶くん…!」 「天音……」 「ふぁあっ! あ、あっん!」 激しくなった動きに天音の体がこわばった。 嫌がられているのだろうかと思っても、動きは止められない。 ただ、もっと深く天音の奥まで届きたくて、何度も腰を動かす。 「あ、んっ! 晶く……あ! あ、こんな、ああっ!」 「はぁ、ん……」 どこまで大丈夫なのかわからない。 それでも、ただ一心に天音を感じるために動き続ける。 「ん、くぅ……ん、ん! あ、あふぁっ!! 奥が、こんな……すごい、よぉ……!」 甘い声。 その声がもっと聞きたい。 そう考えながら、奥へ奥へと進んで行く。 これ以上先まで辿り着けない場所に届き、もう一度引き抜いて奥まで届かせる。 「はぁ、は……ふぁっ! あ、んぅ!!」 もっと、もっと。 感触を確かめるたびに貪欲になる。 もっと天音の声と感触が欲しくなる。 優しくしたいのに、大事にしたいのに。 それができなくなってしまう。 奥へと、どんどん奥へと肉棒を辿り着かせ、天音の体を震わせて声を聞く。 「ああ! あ、あふぁあっ! や、ああっ! こんな……続いたら、私……私、ああっ!」 もっと……。 そう思っているのに、体がそれを許してくれない。 奥深い場所まで辿り着くと自分の体も震える。 それがどういう事かくらいはわかる。 でも、もっと貪るように……。 そう思いながら、深い場所まで肉棒を辿り着かせる。 「天音……!」 「晶くん……あ、ああ、んぅ!」 深い場所に辿り着いた瞬間、今までにない感触が体中を通り抜けて行った気がした。 「あ、ああ! ふぁぁあっ!」 「ん!」 ビクビクと体が震えた。 一気に肉棒を引き抜いた途端、天音の体に精液がかかってしまう。 「あ……」 「はぁ、はぁ、はぁ……」 ぐったりしている天音はまだ気付いていないのか、しっかりとシーツを握り締めたまま息を整えている。 ああ、でも……。 こうしてぐったりしてる姿もかわいい。 とか、思ってしまうのは重症なんだろうか。 でも、好きな子なんだからそう思ったってしょうがないよな。 「天音……」 「晶くん?」 「ごめん。平気?」 「謝っちゃ、やだ……」 「うん」 「……」 「あの、さ……」 「うん」 「もうちょっと、一緒にいていい?」 「私も、一緒にいたい」 「うん」 真っ赤になった天音を抱き寄せる。 このままの状態でいるのが恥ずかしいとも思うけど、離れたくないって思いの方が大きかった。 もうちょっと、このままでいよう……。 「ん……」 そろそろ朝なのかなと思いながら、ごろんと寝返りをうった。 けれど、いつもと少し違う感触。 どうしてなんだろうと、薄っすらと目を開く。 「すぅすぅ……」 「あ!」 開いてすぐに見えたのは、天音の寝顔。 当たり前だ。 昨日、あのままふたりでベッドでごろごろしてたんだから。 その後、そのまま、泊まってしまったんだった。 「んんぅ〜」 「……」 天音は少し疲れているのか、まだ寝ている。 寝顔もかわいい、なんて思ってしまう。 なんだか、あんまりかわいいから寝顔にキスしたい感じだ。 ちゅーってしたら、起きるかなあ。 でも可愛いしなあ。寝てるから大丈夫かなあ。 ……しちゃうか。 「んぅ」 ちゅ、ちゅって何度かしてみたけど、天音は起きなかった。 それどころか、少しくすぐったそうに笑った。 なんですか、このかわいさは。ずるくないですか。 せっかくだから、もう一度してみよう。 そんな風に思いながら、また顔を近づける。 「あ!」 「あ……」 「お、おはよう」 「え……あ、あ!」 顔を近づけた瞬間、天音は目を覚ました。 目を覚ました天音は、目覚めてすぐに俺の顔が近くにあった事に驚いていた。 何度もぱちぱちとまばたきをして、俺をじっと見つめている。 ごめん、天音。だってかわいかったから。 あと、驚いてる顔もかわいい。 「そ、そっか、そうだよ……ね?」 「うん」 多分、一瞬何が起きてるかわからなかったんだろう。 でもすぐに、昨日の事を思い出して、一緒に眠った事まで思い出したらしい。 もじもじしながら、天音はちらちら俺を見ている。 「えっと、あの……おはよう、晶くん」 「うん。おはよう、天音」 恥ずかしそうにもじもじるする天音。 さっきも寝てる間にしたんだけど……。 ここでおはようのキスをしてはだめだろうか。 だめかな……やってみようかな。 「えっと……えと……」 「ん?」 「な、なんでもない」 「うん」 じっと見つめていると、天音は真っ赤になって目をそらした。 なんとなく、どういう事だかわかった気がする。 俺がおはようのキスがしたいと思ったんだから、天音がしたくなっててもおかしくない。 じゃあ、ご期待通りにやってしまおう。 目をそらした天音をそっと抱き寄せる。 すると、天音は驚いたように俺を見つめて、すぐに目を閉じた。 だからそのまま、そぉーっと唇を重ねて、軽いキスをする。 「ん……」 「……」 触れるだけの軽いキス。 わざと音を立てて、2回くらいしてみると、天音が恥ずかしそうに震えたのがわかった。 そっと唇を離して見つめると、天音は真っ赤になっていた。 そのままじっと見つめていると、そっと開いた目が俺を見る。 「な、なんだか、恥ずかしいね」 「でも、俺は嬉しい」 「も、もう!」 「だって、起きたらすぐに天音がいたから。天音は?」 「……わ、私だって、起きてすぐに晶くんがいて……う、嬉しかった…けど…」 「一緒だ。良かった」 「もー!!!」 天音は恥ずかしいとすぐに拗ねてしまう。 でも、そういうとこもかわいいなーと思ってしまう俺は、天音が好きすぎるのかな。 でも仕方ない。かわいいと思うのは確かなんだから。 ああ、もっと一緒にいたい。 もうちょっと一緒にいられたらいいのに。 そういえば、今日は休日だったはずだ。 でも、天音は色々仕事とか多そうだし……。 一緒にいたいというと、俺のわがままになってしまうかな。 「あのさ、天音」 「うん?」 「えっと……もうちょっと、一緒にいたいかな。今日、休みだし」 「あ! わ、私も」 「なんか準備とか、今日もしなくていいの?」 「大丈夫よ、順調だもの」 「天音はしっかりしてるなあ! 好きだ!」 「きゃっ…」 準備が順調なのは天音たちががんばっているから。 それは充分わかってる。 だけど、休みの日に俺と一緒にいたいからって理由もあるのかなんて考えが浮かんでしまう。 なんだか浮かれた気分だ。 調子に乗って、ぎゅーって抱きしめてみたりする。 そしたら、天音も俺にぎゅっと抱き着いてくれた。 お互いの体温とか感触とかを分け合ってるみたいで、これだけの事がなんだか嬉しい。 「じゃあ、朝ごはん食べて、それからどうするの」 「そうだなあ……あ!」 「うん?」 「天音がピアノ弾いてるとこが見たい」 「だって、練習してるとこはずっと見せてくれなかったし、久々に……見たいなーって」 「で、でも、まだまだ間違えるし、きれいに弾けないし……聞いてても楽しくないかも」 「んー、ちょっと違うかなあ」 「え?」 「俺、天音がピアノを弾いてる姿が見たいんだ」 「あの、それって……」 「がんばってピアノを弾いてる天音見るのが好きだから」 「……!!!」 「だから見たいんだけど……だめ?」 抱きしめるのをやめて、じっと天音を見つめる。 見つめた頬は、また真っ赤になっていた。 やっぱり、ちょっと無理かな。 「い、いいよ」 「本当?」 「で、でも、本当にまだうまく弾けないから。だから、あの」 「だから、いいんだって」 「う、うん」 「じゃあ、朝ごはん食べたら練習?」 「そうだね。そうする」 こくんとうなずいてくれた天音が少し嬉しそうだった。 これは、俺の勘違いじゃない気がする。 なんだか、それがちょっと嬉しかった。 朝ごはんを食べた後、天音とふたりで校舎にやって来る。 音楽室に来るために歩いていると、準備中の生徒の姿があった。 まだ準備が終わっていないところがほとんどだから、校舎内は休みの日でも賑やかだ。 音楽室までやって来ると、天音はピアノの前に座ってから深呼吸をした。 それから、ゆっくりと演奏を始めてくれる。 天音は真剣な表情でピアノを弾き続けていた。 指先は軽やかに動いて、きれいな音が奏でられる。 どうやって弾いているんだろう。 どうすれば、こんな風にきれいな音が奏でられるんだろう。 そばで見ているのに、そんな事ばかりが浮かんでしまう。 ピアノを弾いている時の天音は、やっぱりいつもと違って見える。 俺の知っている天音なのに、違う天音みたいだ。 それは真剣な表情だからだろうか? それとも、奏でられる音がとてもきれいだからだろうか? 不思議だな。 天音の音を聞いていると、いろんな事を考えてしまう。 全部、天音が聞かせてくれているからなのかな。 そんな事を考えながら、じっと見ていると演奏が終わった。 天音は視線と指先を鍵盤から離して、俺をじっと見つめた。 「ど、どうだったかな」 「やっぱり、すごいなあ。どうやったら、そんな風に弾けるのか、全然わかんないけど、すごいなあって思う」 「だけど、やっぱりまだうまく弾けないとこもあるから……」 答えながら、天音が下を向いた。 俺にはうまく弾けない場所がどこかはわからない。 でも、天音の中ではそれが引っかかっているんだろう。 「でも俺、天音の弾くピアノ好きだよ」 「え……」 「今聞いてて、天音がこうやって聞かせてくれる音が好きだって思った」 「本当? 晶くん」 「うん」 下を向いていた天音が俺を見つめた。 だから、俺もじっと天音の姿を見つめる。 見つめあっていると、天音が好きだっていう気持ちがどんどんと増す気がする。 「晶くん、ありがとう」 「なんで?」 「そんな風に言われた事、もしかしたらあんまりないかも」 「そうなの?」 「うん。音が好きって……ふふふ、なんだか嬉しい」 「でも、そう思ったから」 「ありがとう」 笑いながら見つめてくれた天音。 少し不安そうに話していたのも、今はどこかに行ったみたいな気がした。 俺の言葉で安心してくれたのかなと思うと嬉しくなった。 そっと、肩を抱き寄せると天音が目を閉じる。 いいよの合図。 その合図に合わせるように、軽く触れるだけのキスをする。 「ん……」 今日だけで何度もした、触れるだけのキス。 またくり返してから、唇を離して目を開ける。 天音も目を開けて、照れたように微笑んでいた。 「今日、ちょっとのんびりしちゃったね」 「そうだな」 「明日からまた、準備がんばらなくちゃ」 「うん。天音の誕生日って、繚蘭祭の前日だよな」 「あ……うん」 「大丈夫、誕生日は絶対一緒にいるから。会長にピアノ、聴かせるんだろ?」 「うん…ありがとう」 「それまでは忙しくて中々一緒にいられないかもしれないけど、全部終わったらまたゆっくりしよう」 「うん。約束ね」 「うん」 「がんばろうね、晶くん」 「そうだな」 これから繚蘭祭が終わるまでふたりだけの時間を作るのは少し難しいかもしれない。 でも、繚蘭祭が楽しみなのは間違いないし、準備も大変そうだけど頑張らないと。 それが終われば天音とふたりで、昨日や今日のようにゆっくりデートをしたり、ごろごろしたりできるはずだ。 好きな子と一緒に一日過ごせるなんて、なんて幸せなんだろう。 俺は、そんなことを思いながらゆっくりと天音に笑い返した。 慌ただしく準備に追われている間に、とうとう明日は繚蘭祭という日付になってしまった。 授業も無しで一日中作業が出来るのはいいが、間違いなく今日が一番忙しい。 最後の準備で大変な日。 でも同時に、とても嬉しい日でもある。 それは―――。 「こんにちは。準備中にごめんなさい、天音はいるかしら?」 「まあ、理事長。おはようございます」 珍しい訪問者に、その場にいた誰もが驚いた。 でも、わざわざここに理事長が来た理由は、多分、みんなが知っている。 「おはようございます、理事長さん」 「おはようございます」 「おはようございます」 「えっ、わざわざここに来るなんて、どうしたの?」 すっと差し出されたのは、両手に乗りそうなくらいのリボンがついた四角い箱。 それを見て天音は驚いたように顔を赤くした。 「いいい、いいわよ! もう子供じゃないんだから! こんな……みんなの前で……!」 「ごめんなさいね。でも、今しか渡すタイミングがなかったから」 「恥ずかしがってないで受け取れよ、天音」 「う、うん」 ちらちらと天音の視線が理事長に向かう。 そのたびに、ますます顔が赤くなった。 「あ、ありがとう」 「いいえ。繚蘭祭の準備、がんばってね」 「うん。ありがとう、お母さん」 「――ええ」 お母さん。 そう呼ばれると理事長は幸せそうに、天音を見つめて笑う。 なんだか、少し羨ましい。 「みなさんもがんばって下さいね」 「は〜い!」 「はい」 みんなの返事に合わせるように、俺はこくんとうなずいた。 理事長はみんなの顔を見て微笑んでから、繚蘭会室から出て行く。 「じゃあ、お母さんが渡したんだし、わたしたちも……。ね、桜子ちゃん?」 「ええ、そうですね。そうしましょ。ふふふ」 「え? ええっ!?」 見つめ合った結衣と桜子がくすくすと笑いながら離れていく。 何をするんだろうと思っていると、ふたりは自分たちのカバンの中身をがさごそとやっていた。 なるほど、そういうわけか。 「やっぱり天音はみんなから好かれてるんだな」 「ど、どういうこと?」 天音があたふたと焦っている間に、結衣と桜子は戻って来た。 そして、ふたり同時に両手を差し出す。 「お誕生日おめでとう、天音ちゃん。はい、プレゼント」 「結衣さんと一緒に選んだんです。気に入って頂けないかも知れませんけど……」 結衣の手にも、桜子の手にも、両手より少し大きいくらいの箱。 その箱は、やっぱり女の子らしくてかわいい包装で、リボンまでかわいい色だった。 「も、もう! みんなして! そんなの気に入らないわけないじゃない!」 差し出されたプレゼントを見つめながら、天音は耳まで真っ赤になっていた。 「あ、ありがとう。本当にありがとう」 ふたりからプレゼントを受け取ると、天音の両手はいっぱいだ。 持ちにくそうだけど、すごく幸せそうに天音は笑っている。 「開けるのは部屋に帰ってからでいい? ここで開けるのは恥ずかしいから……」 「うん。もちろんっ」 「はい。天音さんの好きなときでいいですよ」 女の子同士の微笑ましいやり取りに和ませてもらいながら、俺はそっと天音の耳にささやいた。 「天音」 「な、なに?」 「……俺はケーキ、用意してるから」 「う、うん。ありがとう」 「なぁに? 秘密の会話?」 「ふふふ。お邪魔しちゃいけないですよ」 「か、からかわないでよ! もう!」 くすくすと笑われてまた真っ赤になる天音は、からかいたくなる気持ちもわかるほどかわいい。 ………会長は、来ないのかな。 ふと、気になることが頭に浮かんだ。 あの妹煩悩の塊みたいな会長が、天音の誕生日なんて格好のイベントを逃すはずがない。 それにしては、一向にやってくる気配がない……。 「……おかしいな」 会長が天音にプレゼントを渡して、そして天音がお礼にピアノを弾いてみせる。 そういう手順を考えていたものだから、会長が来ないと話が進まない。 「天音。俺、ちょっと会長を捜してくる」 「え? ど、どうして……?」 「……ピアノ、聴いてもらうんだろ?」 「そうだけど、で、でも!」 「なになに? どうしたの?」 「準備の途中でごめん。俺、すぐ戻ってくるから。天音はここで待ってて」 「い、いきなり今から?」 「早いほうがいいだろ?」 「……う、うん。わかった」 「だから、ごめん。ちょっと抜ける」 「大事なことなんですよね。大丈夫です、準備は進めておくから気にしないでくださいね」 その言葉に甘えて、俺は繚蘭会室を出た。 「たぶん生徒会室にいると思うんだけど……」 廊下には誰もいなかった。みんな教室棟の方にいるんだろう。 小走りで廊下を駆けていく。 生徒会室まではもうすぐだ。 ……と思ったら、こんなところに会長がいた。 「ううぅ、ぐす、うう……」 「なんで泣いてるんですか」 「しょーくーん!」 「うわぁ! いきなり抱きつくなぁ!」 「聞いてよ、聞いてよー!」 「聞く、聞くから離れて、放して!」 俺の言葉を素直にきいて、会長は離れてくれた。 ……よかった。そのまま話されたらどうしようかと思った。 「で、どうしたんですか。一体」 「うっかりしていて……うう……」 「うっかりしていて?」 「天音の誕生日プレゼント、準備するのを忘れちゃったんだよー!」 「はぁ!? 何で!?」 「生徒会の仕事って忙しいんだよ! 大好きな妹のことでも忙殺されて、ちょっと頭の隅の方に行っちゃうことだってあるんだよ!」 「はぁ。そうですか」 「そうですかって、そんなあっさり!」 「大事なことだけど、会長が言うとつい」 仕事に忙殺される会長とか想像できないし。 というか、俺はこの人がいつ仕事してるか全然知らないし。 どうせ、ゲームでもしてて忘れてたとしか思えない。 「いいさ、別に! とにかく忘れちゃったんだよ!」 しかし、ちょっと困ったことになってしまった。 プレゼントを用意してないのなら、考えていたお礼にピアノを聴かせるってプランが全く役に立たない。 でも、天音は繚蘭会室で待ってるだろうから……。 とにかく連れて行くか。 連れて行けば、多分なんとかなるだろう。 「じゃあ、何も用意しなくていいから一緒に繚蘭会室まで来て下さい」 「え、ええ!? どうするの!?」 「天音が待ってるんです」 「い、嫌だ! 会いたくない! プレゼントを準備してからにさせてー!」 会長はその場に座り込んで動きそうにない。 これは、説得するより連れて行った方が絶対に早い。 「ああ…もう、まったく手のかかる……」 俺は会長の手首をつかんで、半ば無理やり廊下を歩き出した。 いやいやといった感じだったけれど、会長はついに観念して俺の横を歩き出した。 「わあん、このまま会いにいくなんてかっこ悪いよおお!」 「別にいつものことでしょ」 「ひどい! あんまりだ!」 「何もいらないよ、今日は」 「え…?」 「黙って天音と一緒に音楽室に行ってくれればそれでいいから」 「音楽室?」 会長がぴたりと足を止めた。 思わず俺も立ち止まって、会長をじっと見つめる。 「なんで?」 「え…あの、天音がさ、ピアノを聴いてもらいたがってて」 「ピアノ?」 「ええと、曲名は知らないんだけど……」 「会長も知ってる曲だと思いますよ、なんか天音が昔弾いてたって言ってたから……」 「……」 「……どうしたんですか?」 会長はしばらく黙って立ち尽くしていた。 どうしたんだろうと思ったとたん、突然会長は俺の腕を振り払った。 「え!?」 「か、会長!」 全く意味がわからなかった。 会長は俺を置いて、いきなり駆け出した。 慌ててその後姿を追いかけるが、全く追いつけない。 こっちは全速力だっていうのに、離されていくばかりだ。 ――どうしたんだ、いきなり!? 少し遠くで勢いよく扉が開く音が聞こえた。 多分繚蘭会室に入ったんだろう。 俺も会長を追って部屋に飛び込んだ。 「わぁっ?! び、びっくりした」 「……お、お兄ちゃん」 部屋の中では、天音が緊張した様子で会長と向かい合っていた。 「天音!」 「は、はい」 「プレゼントを忘れたので兄の抱擁で許してくれないか!」 「え、な、なに? おにい――」 「……きゃあっ!」 勢いよく、会長が天音を抱きしめる。 そんな事しても、また蹴られるだけなのに……。 「お…兄ちゃん……」 ――そう思ったのに。 天音の様子はいつもと違った。 おとなしく抱きしめられて硬直している。 ……あれ? 誕生日だから、サービスしているんだろうか……? 「……え?」 「……」 それはほんのわずかな時間だった。 さっきまでぎゅっと抱きしめていた天音から、会長はあっけなく離れた。 「じゃあ、そういうことで。またね」 そしてそのまま、ひらひらと手を振りながら、部屋から出ていってしまった。 「………? 会長さんもう帰っちゃったよ?」 「うーん…? なんだったんでしょう?」 「あ、あれ? なんで帰るんだ…?」 「……」 「天音?」 「……私」 天音はうわの空だった。 まさか抱きしめられるとは思わなくて、驚いているんだろうか。 俺もかなり驚いたけど……。 「私、ちょっと荷物の確認に行ってくる」 「え?」 「ちょ、ちょっと待てよ、天音? 天音!」 天音は部屋を飛び出していった。 必死に隠しているみたいだったけど、その横顔は真っ青だった。 ――追いかけないと。 何があったのかはわからない。 だけどただ事ではないことはわかった。 ――どうして? さっきの抱擁は、一体なんだったんだ? 「天音!」 「……」 「どうしたんだよ……いきなり走り出すからびっくりしたよ」 「……うっ」 「あま……ね?」 俺の顔を見て、何故か天音は瞳を潤ませた。 やがて我慢ができなくなったように、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていった。 「天音? どうしたんだ!」 「うっ……うくっ……うう」 泣き顔を見られないようにか、天音は顔を背けた。 駆け寄って天音の手を握る。 「天音、ちゃんと話してくれ!」 「うう、う……うう」 「俺が聞いちゃいけないことなのか?」 泣いて答えられないのか、天音は首をぶんぶんと振って否定した。 そして、嗚咽の間から何とか俺に答えようとして―― 天音はとぎれとぎれに言葉を紡ぎだした。 「天音」 「しょ、しょう……くん」 「さ、さっき……お兄ちゃ……、私に…に……」 「会長が何かしたのか?」 「ううん、何も…さっき、ぎゅって…してくれて……」 子供のように泣きじゃくる天音を前に、俺はひどく動揺するのを感じていた。 「知ってるって…知ってたんだって……」 「知ってる? な、何のことだ?」 「私が、ピアノ、こっそり弾いてたこと……うっ、ううっ」 「――っ」 「でも、それはいいって……ピアノするのは、いいって……」 そこまで言われて、ようやくわかった。 ―――会長が、天音を抱きしめたあの時。 きっと耳元で何かを言われていたんだ。 だから天音は、あの時ただ黙って立っていたのか……。 でも、ピアノを弾いていいと言われたのなら、どうして天音はこんなに泣いているんだ? 「でも……でも」 「やっぱりダメだって」 「あの曲は……弾いちゃ……ダメだって……」 「――えっ」 「なんでなんだろ…やっぱ…り、私のこと嫌いなんだよね……」 「違う、違う!」 「違わないよ……あの曲弾くなって…昔と同じこと」 「あの時と何も変わってなかった!」 それだけ言うと、天音は感情が噴き出したように泣き出した。 「う、うわああん……うっううっ」 「……天音」 どうすることも出来なくて、俺はとにかく天音を抱き寄せる。 昔の話だと思っていた。 ピアノの曲を弾くな、と兄に言われた事が。 ――こんなに。 こんなに天音を傷つけていたとは、思わなかった。 そして、そのことが今も同じように、天音を苦しめているなんて……。 「うぐっ、う……しょ、晶くん……」 「……」 「うっ、うう……うぐ」 しっかりと抱きしめていると、だんだんと落ち着いてきたのか、泣き声がおさまっていく。 腕の中で、ただ静かに泣いている天音を見て、俺は無性に自分に腹が立った。 そしてそれ以上に――。 「天音、どこにもいくなよ。どっか行くなよ!」 「……え?」 天音をぎゅっと抱きしめてから離すと、俺は部屋を飛び出した。 ――どこだ。 どこに行った、生徒会室に戻ったのか? 会長の姿を探して、廊下を走り回る。 天音を泣かせた相手に、どうしても直接気持ちをぶつけないと気がすまなかった。 やがて、廊下の先の使われてない教室に入っていく後ろ姿を見つけて、後を追って教室に飛び込んだ。 「――っ」 「はぁ、はぁ……」 息を切らして飛び込んだ俺を見て、会長は目を丸くする。 「お前」 「なんだ、晶くん。どうしたの?」 「なんでなんだよ」 「どうしたの? 何怒ってるんだよ」 「なんで天音にあんなことするんだよっ!!」 俺がそう叫ぶと、会長はようやく俺が怒っている理由を理解した、という顔をした。 「……驚いたな、天音、話したのか」 「思ったよりずうっと天音に信用されてるんだな、晶くんは……」 「そんなことどうでもいい! 天音がピアノの練習、こっそりしてたこと知ってたんだろ」 「……ああ、だから?」 「別に珍しくないじゃないか、ピアノなんて。みんなやってる」 「違う! なんのためにやってたのかって事だよ!」 「……」 「あいつ、ずっとずっと気にしてたんだ!」 「あんたに昔、ピアノを弾くなって怒鳴られたことに、すごく傷ついてたんだ!」 「そのわだかまりを無くしたかったから、こっそり練習してたんだろ! なのに…」 「へえ、そうだったのか」 「へえって……」 あまりにも呆気ない返答に、思わず言葉が止まってしまう。 そのまま何も言えないでいる俺を、会長はしばらくじっと見ていた。 そして――。 「………」 「俺はそんなこと、別に望んでないよ」 「……え…?」 まるで別人のように冷たく言い捨てる。 俺の知っている、明るくて人懐っこい会長の姿は、もうどこにもない。 「だから別に、わだかまりがあろうがなかろうが、どっちでもいいって事だ」 「……じゃ、じゃあ、何なんだよ」 「今まであんなに…あんなに天音のことかまってて、好きだって言ってたのに、なのにどっちでもいいっておかしいだろ!」 「言葉なんて、なんとでも言えるだろう?」 「――は?」 「頭ん中と、口に出す言葉が一緒じゃなきゃダメなわけ?」 「……」 言われている意味がよくわからなくて、俺は言葉を反芻する。 言葉なんて、なんとでも言える。 頭の中と、口に出す言葉は違う。 ――ちょっと待て。 つまり、この人が言いたいのは……。 「好きなふりなんて簡単じゃないか」 「な、な……」 「そのほうが、何かと都合いいだろ?」 「なんだと思ってるんだ!!」 一瞬で感情が沸騰して、俺は会長の胸倉を掴みあげた。 冷めたようになすがままの会長に向かって、怒鳴りつける。 「どうしてそんな、ひどい事言えるんだよ!!」 「天音がどんなにあんたのこと慕ってて、心配してるのかわからないのかよっ」 「……ああ、本当にいい子みたいだね」 「みたいって――何言ってんだ!!」 「……」 どうして、伝わらない。 天音の気持ちも、俺の気持ちも……! どうしてこんなにたやすく踏みにじれるのか、俺にはわからない! 「あのピアノの曲のことなんだな」 「だから?」 「あの曲がなんだっていうんだ! なんでそんなことにっ」 「そんなこと? ああ、本当にどうでもいいことだな」 「どうでもいいことなんだ、俺と天音のことなんて」 「っ……いいわけないだろ!」 「仲良く見えただろ? 現に天音だって信じてただろ?」 「なに!?」 「さっき言っただろ、俺のためにって。俺を喜ばせるためにって」 「全部俺が『そんなふり』してるんだよ、なかなか上手だろ?」 「……お前」 「一生それでいいじゃないか? 何熱くなってるの?」 「じゃあ天音のこと、本当になんとも思ってないのかよ!」 「だから言ってるだろ!」 「大事にしてるふりは、十分にしてるつもりだ」 「そんなので、いいわけないだろ!!」 「それで何の不都合があるっていうの?」 「まさか本当に心と心で通じ合ってないといけないわけか!」 「そんなの俺はごめんだね!」 「――お前っ」 何かが弾けた。 真っ白な光を放って、爆ぜる何か。 それが怒りだということに、俺はわずかの間気づけなかった。 「どこまで天音の気持ち、踏みにじるんだ!!」 押し寄せてくる憤りを抑えることが出来なくなって、俺は会長を突き飛ばした。 こんなことは初めてだった。 ケンカをするのは初めてじゃない。 殴りあったことだって幾度かあった。 けれど今までのどれとも違う感情だった。 俺は右手の拳をかたく握り締めると、激昂した感情にまかせて殴りかかった。 「ちっ」 「ぐっ」 俺の拳は当たらなかった。 代わりに、思いっきり容赦の無い蹴りが腹に打ち込まれる。 痛みに言葉が何も出なくなり、床にうずくまることしか出来ない。 「バカだなあ、天音が護身術やってるの知ってると思ってたけど?」 「俺も一緒にやってたんだよ。いきなり殴りかかってきたから、手加減できなかった。悪かったね」 「げほ、げほげほ」 何度か咳き込むと、ようやくまともに息ができるようになった。 重苦しい痛みが体の中心に陣取っていたけれど、俺は痛みをこらえて立ち上がった。 こんな痛みなんてどうでもいい。 俺は許せなかった。 天音のことを思うと、どうしても一度ぶん殴らないと気がすまない! 「許さない!」 「――っ」 それなりのスピードが出たはずなのに、ひらりと身をかわされる。 「そんなんで天音を守ってるつもり?」 「っ」 「そういうのね、俺――」 「大嫌いなんだよ」 「げほっ」 「く……うう、絶対、許さない……」 無様に倒れた俺を、無感情な瞳が見下ろす。 そう、何もなかった。 例えば憎しみとか、軽蔑とか、そういったもの。 何かを否定する時にはきっと、そんなものがあるはずなのに――。 会長には、何もなかった。 「別に」 「別に誰にも許してもらおうなんて、思ってない」 「――!!」 物音を聞きつけたのか、教室に入ってきたのは天音だった。 床に倒れてる俺を見つけて、息を飲んで駆け寄り、抱き起こしてくれる。 「しょ、晶くん!!」 「あま……ね」 声がうまく出ない。 天音は俺をしっかりと抱きしめつつ、目の前にいる兄を信じられないという目で見た。 「どうしたの? ねえ、これって……お兄ちゃんが……」 「……」 「……そう、だよね……だってさっき……」 俺を抱きしめる天音の体はがくがくと、小刻みに震えている。 俺がこんな目にあったから怖がっているのかと思ったけれど……。 悲愴な色をした瞳を見て、そうじゃない事はすぐにわかった。 ――もしかして、さっきの話を聞いていた……? そう聞きたいのに、声が出ない。 痛みで体も動かない。 「なんでなの、なんでこんなことするの……」 「――…」 「何も言わないの!?」 「言っても、仕方ないだろ?」 「許さない、お兄ちゃん」 「ああ、そう」 「いやよもう、こんなの……こんなの!!」 「もう一生許さない! お兄ちゃんなんて、だいっきらい」 「―――だいっきらい!!!」 「わかったよ!!」 「……っ」 逆上したような叫びを返されて、天音がびくんとこわばった。 そのまま会長は何も言わずに教室を出て行く。 しばらく、俺の荒い息だけが教室に響いていた。 「ごめんなさい……晶くん、ごめんね」 「っ、天音が謝るなよ……」 「だって、だって私のせいだよ……」 「大丈……げほ」 涙をためる天音を何とかしてあげたいと思って、俺は体を起こそうとした。 だけど、激痛が走って力が入らない。 「晶くん……ごめんなさい……ごめん」 「……天音」 「痛いよね……ごめんね」 天音の涙が、頬にぽたぽたおちてくる。 「――っ」 「ごめん……なさい……」 「天音……」 「ご……め、なさ…………」 何とかしてあげたいのに。 体から力が抜けてしまって、俺を抱えたままうなだれる天音を見ている事しか出来なかった。 「あ、天音っ!?」 開きっぱなしのドアから顔を覗かせたのは、九条だった。 珍しく狼狽しながら教室に入ってくる。 「…………」 「なに? 何があったの?」 「ごめ…九条」 「――!?」 「ちょっと、手、貸してくれるか」 「……う、うん」 さすがにこの状況では、九条も素直に返事をしてくれた。 倒れた俺に手を差し伸べてくれる。 「……ありがと」 「……」 「天音……」 「保健室のセンセ、呼んで来る」 「ごめん」 「さっき、あいつが走って出て行った…じゃあさっきのは……」 「あいつ…! 天音を泣かせて、絶対許さない!」 その後、簡単な手当てをうけて俺たちは寮に戻った。 天音はずっとうなだれたまま、黙り込んでいた。 時々、俺に向かって何度か小さく謝る。 ―――多分、今日は天音にとって最悪の誕生日だ。 繚蘭祭がついに始まった。 一日目の今日は内部公開のみだ。 色んな模擬店や展示が立ち並び、全生徒数はそんなに多くない学校のはずなのにすごく盛り上がっている。 どこもかしこも、みんなが今まで必死に準備して作り上げて来たものだ。 でも、天音の様子はそんな華やかな雰囲気とは程遠いものだった。 あまりにも沈んだ様子に結衣や桜子が心配して、休憩時間を多く設定してくれた。 少しでも気がまぎれればと、俺は天音を連れて繚蘭祭を見て回る事にした。 昨日殴られた所は、まだずきずきと痛む。 でも、きっと天音は……俺よりもっと痛みを感じているんだろう。 「天音、展示とか見に行こうか。時間まだあるし」 「うん……」 「ほら、行こう。なんか食べよう」 「うん」 あまり乗り気ではなかったみたいだけど、天音を連れて強引に外に出た。 何もしないでふさぎこんでいるよりも、その方がいい。 一緒に繚蘭祭を見てまわれば、少しは楽しい気分になるかもしれない。 「あ……」 「……!」 どこに行こうかと歩いていると、前から会長と八重野先輩が歩いて来る姿が見えた。 天音が隣で息を呑み、硬直する。 引き返そうかとも思ったけど、多分もう間に合わない。 「勝手にどこかに行くなよ」 「もぉ〜わかってますよ〜」 会長に対する怒りが収まったわけではないけど、一晩たって俺の頭は大分冷えていた。 だからこそ、こんな状態で何を言えばいいのかわからない。 天音にも、会長にも。 どうすればいいのだろうと思っていると、向こうも俺達に気が付いた。 「……」 「……」 「あ……。ああ」 天音はきっと、会長をにらみつけている。 けれど、会長は気にしないようないつもの表情。 そして、そのまま何も言わずに俺と天音の前から行ってしまおうとする。 「――待ちなさいよっ!!」 「……」 強い天音の声。 その声に、会長は一応立ち止まってくれた。 「私のこと、どう思ってようとそっちの勝手だけど……でも、晶くんに乱暴した事は謝りなさいよ!」 そして、ゆっくりと天音の方を振り向く。 「なんで?」 「な、なんでって……!」 「最初に手を出したのはそっちでしょ。正当防衛だよ」 「せ、正当防衛って! あれだけケガさせたくせに!」 「恥ずかしくないの! 何も出来ない晶くんに、あんなに一方的に暴力ふるっておいて! 謝りもしないなんて最低よ!」 「………」 「―――天音。お前が約束を破ったからだろ」 「……!」 またあの、冷たい態度。 その会長の様子に、天音は何も言えなくなってしまった。 「誰にも言うなって言っただろう、俺は。なのに他人に話したりするから、こんなことになるんだよ」 「それを捨て置いて、人には謝らせようっていうのか? それなら先にお前が頭を下げろよ」 「…っ…!!」 「……奏龍」 「あーはいはい。わかりました。俺ちょっとトイレ行ってきます」 一瞬で、会長はいつもの顔に戻った。 そのまま、飄々とした態度で去って行ってしまう。 まるで、何事もなかったみたいに。 「……」 「天音……」 「……晶くん、ごめんね。わ、私、私もちょっと」 「あ……」 「だ……大丈夫。ちょっと頭冷やすだけだからっ」 泣くのを我慢してるみたいな顔。 そんな顔で、天音は走り去って行ってしまった。 少しだけ追うのをためらった俺は、結果、八重野先輩とふたりでその場に残される。 思わずちらりと見てみると、先輩は少しだけ険しい顔をしていた。 「……災難だったな、葛木」 「八重野先輩……」 「だいたいは聞いている。体は大丈夫か?」 「はい…」 「あの……八重野先輩から、会長に何とか言ってもらえないんですか」 「……何とか、とは?」 「だから、その。会長に……天音の事とかを」 「………」 すぐにわかったと答えてくれるものだと思っていた。 だけど、いつもと様子が違う。 何がとは、はっきり言えない。 八重野先輩は、どう答えていいのか考えているようだった。 「――お前が思っているほど、簡単な事じゃない」 「え……」 「俺にはどうにも出来ないという事だ」 「な、何でですか? だって、八重野先輩の言うことだったら、会長だってちゃんと……」 「………」 普段だって、饒舌な人じゃない。 けれど、こんな時に黙るような人じゃないはずなのに。 「八重野先輩……」 「そうだな、俺もそう思っていた――変えることなんて、簡単なんじゃないかと」 「……」 「だが、ままならない事もある。他人の思惑なら、なおさらだ」 「結局は……何もできないのかもしれない。そう思ってしまったんだ俺は」 よく、わからない。 まるで、今度の事じゃなくて、違う話をされているような気がして、俺はどう答えていいのか混乱した。 八重野先輩はそのまま、遠くを見るように避けていた視線を俺に戻し、尋ねた。 「お前は、どうにも出来ない事でも、どうにかしたいのか」 「………」 「俺は嫌です」 「葛木?」 「俺にとっては天音は大事だし、天音にとっては会長は大事な兄だから」 「悲しい顔も辛い思いもさせたくない」 「……」 「だから、できることを探したいんです」 八重野先輩は何も言わず、まっすぐに俺を見つめていた。 何を思われているのだろう。 どうにも出来ないことだと言ったはずだ、とでも思われているのだろうか。 「俺はバカなことを言ってるかもしれないけど」 「いや、そうじゃない…」 「……俺は諦めたくない」 「お前の気持ちはわかった。だが、今はあいつも頭に血がのぼっている。少し落ち着くまで待った方がいい」 そう言われ、認められた気がして、俺は少しだけ嬉しくなった。 「はい」 「葛木、一番に行ってやらなきゃいけない所があるだろう」 「……そうだ、はい。天音のとこ、いってきます」 俺は小さく、八重野先輩に頭を下げてから走り出した。 天音を探しに行かなければ。 きっと、人の少ない所にいる。 今、この学園内で人が少ない所と言えば―――。 屋上にやって来ると、天音がぼんやりと立っていた。 空を見上げるみたいに視線を上に向けて、ただぼんやりと。 「天音、ここにいたんだ」 「晶くん……」 「よかった、見つけられて」 「うん…」 そっと、天音のそばに近付く。 ふと不安になった。 もしかして、天音はひとりになりたかったのだとしたら、どうしよう。 「今……、俺、天音のそばにいて大丈夫?」 「え?」 「一人になりたいとか、そんなじゃないのかなって思って」 「もしそうじゃないんなら、そばにいたいんだ。天音の」 「うん……。そばにいて…」 「ありがと」 「うん…」 うなずいた天音の手をそっと握った。 抵抗はない。 でも、力ない小さな手のひらに不安になる。 「………」 やわらかな天音の手を、またぎゅっと握る。 俺の手のひらには、天音のぬくもりが伝わっている。 俺のぬくもりも、天音には伝わっているだろうか。 少しでも、伝わっていればいいと思う。 「私、ね…」 「…ん?」 「ばかだったわ」 「お兄ちゃんが……私のこと、嫌いだなんて…思ってもみなかったの…」 「天音……」 「…っ……そんなこと、あるわけないって、どうしてか、信じきってたの…!」 ぎゅっと強く、天音を抱き寄せた。 天音はただ俺に身を任せている。 そんな天音を、腕の中で痛いほど強く抱きしめる。 強く抱きしめないといけない気がした。 そうしないと、どこかに消えてしまいそうで。 「もういいよ! そんなこと、考えなくていい」 「うっ……うぅ…」 「だめなの、いっぱいなの! 頭の中、昨日の事でいっぱいで……」 「考えちゃだめって思ってるのに、同じ事ばっかり考えて……こんなのやなのに!」 「天音、俺のこと考えて」 「晶くん……」 「今だけは、他の事忘れて……俺の事だけ、考えて」 「大丈夫、もう少しだけ時間が経てば。きっと色々考えられるようになる」 「天音、好きだ」 「晶くん……私も好き…」 抱きしめる力を少しだけ緩める。 そっと、天音を見つめると不安そうな顔。 こんな顔、見たくない。 大好きな天音には笑っていて欲しい。 でも、どうすればいいのかわからない。 だからただ、唇を重ねた。 「ん…」 触れるだけの口付け。 けれど、それを何度かくり返した。 少しずつ、天音が腕の中で落ち着き始めたのがわかった。 「天音」 「もっと……晶くんのことだけ、考えていたいの…」 「うん…」 「わ…私……」 俺にしがみつく天音の手のひらの力が強くなった。 ぎゅっと、強い感触。 天音はそっと俺を見上げて、頬を真っ赤に染める。 「いっぱいにしてほしいの。晶くんだけで……」 天音が自分の手でスカートをまくりあげる。 白い脚がすらりとのび、その奥にある下着がちらりと見えた。 「あ、はぁ……」 自分のしている事に軽く興奮しているのか、天音の表情はいつもより魅力的に見えた。 そして、俺もその姿を見て興奮している。 挑発的にも見えるその姿にドキドキしていると、天音の指先が下着にかかる。 そしてそのまま、指先がゆっくりと下着をずらした。 「天音……」 下着をずらせば、天音の秘部がしっかりと見える。 そこから目が離せない。 じっと見つめてから、天音の顔を見つめる。 その頬は赤く染まり、恥ずかしがっているのが嫌でもわかる。 「ど、ドキドキする……」 「うん」 「でも、こう…したくって」 指先にかかった下着が更にずらされる。 天音の頬はさらに真っ赤になっていた。 自分のしている事に緊張しているんだろうか。 でも、止められないみたいだった。 そんな天音を見ている俺もドキドキしている。 ああ、お互いに何も変わらないんだと気付く。 そして思う。 俺が、天音にしてあげられる事はなんだろう……。 「……」 「天音、かわいい」 「うん……」 自分でしているのに、恥ずかしそうに頬を染める。 そんな姿が本当にかわいいと思う。 もっと、そんな天音が見たいと思う。 どうすれば、天音がしたい事をしてあげられる? どうすればいい? ああ、でも……。 こんな姿を見せられたら、見ているだけなんてできそうにない。 「天音……」 「あ……」 そっと近づき、指を秘部に近づける。 戸惑っているような天音の頬にそっと口付けながら、指先を秘部にはわせて動かし始めた。 「あ、あぁ……あ、んぅ……」 指先を浅い部分でかき回す。 まだ小さくしかならない音。 だから、あまり深い場所まで辿り着かないように注意しながら、そっと奥へ進ませる。 その間も、何度も頬に口付ける。 「は、あぁ……」 口付けていると天音は少し落ち着くのか、体から力が抜けていくのがわかった。 だから、指先を動かしながら何度も口付けをくりかえす。 柔らかい頬。 女の子っていうのは、体中全部が柔らかいみたいだ。 「平気……?」 「はぁ、あ……ん、大丈夫……」 「うん」 指先を浅い部分で動かし続けていると、小さく音がなり始める。 それと同時に指先が濡れ、あふれて来るのがわかった。 あふれ出す感触を確かめるように指を動かす。 奥からかき出すように、もっとあふれ出すように。 「ふぁあ、あ、ああっ……!」 「天音、いっぱいあふれてる」 「あ、あ……や、だぁ……」 「でも、いっぱい」 嫌だと口にする天音の中でもっと指を動かす。 すると、更に奥からどんどんあふれ出す。 あふれる音と感触、そして天音の声。 その全てに、一瞬自分たちがどこにいるのか忘れそうになる。 「あ、はぁ……はぁ、あ、んぅ……」 そんな事を思いながら、天音を見つめて指を動かす。 すると、遠くから聞こえてくる生徒の声。 そうだ、今は繚蘭祭の真っ最中なんだ。 意識すると途端に鼓動が早くなる。 こんな時にこの場所でこうしている。 それだけで妙な興奮があった。 「あ、ああ……わ、私、こんな……とこで……んんぅ!」 天音にもその声や賑やかさが伝わったんだろうか。 声が少し震え、あふれ出す量も増えたような気がする。 意識するとその音や声はすぐ近くで聞こえた気がした。 それでも、ここにはふたりで一緒にいる。 だから大丈夫。何も怖くない。 そう伝えるように奥へと指を進ませた。 そしてまた、奥からどろりと熱いものがあふれ出す。 「あ、んんぅ……あ、あぁ……はあ、あ、ふ」 「天音……俺もいるから」 「あ、ん。晶くん……」 声をかけると天音が小さくうなずいた。 そんな天音を見つめて、そっと口付ける。 「ん、んんぅ」 「ん……」 ゆっくりと触れるだけ。 それだけの口付けをくり返し、音を立てる。 その間も指の動きは止めない。 「あ、ん、ん……お、くぅ、入って……来るぅ!」 唇を離してじっと見つめる。 天音の頬が真っ赤になっていた。 愛しくて、大切にしたくて、じっと見つめたまま、また埋めた指を動かす。 「あ、あふぁ……あ、あぁ……中、動いて、ああっ!」 あふれる音が大きくなる。 動かす指先がどんどん濡れていく。 もっともっと奥へと指を進ませて、かき回す。 中で指先が締め付けられると、天音が感じてくれているのだと思えて不思議だった。 「晶く……あ、あぁ……」 「大丈夫、一緒だから」 「あ、ふ! ん、んぅ……!」 奥深くに届いた指を引き抜くと、とろりとあふれ出す感触。 その感触を押し戻すように、また奥まで指を進ませる。 ぐちゅりという音と、熱い感触。 ねっとりと包み込まれる感触に包まれて、指を奥まで進ませてそこで軽く動かす。 「は、はぁ……」 奥で動かすたびに音がなる。 あふれる感触が多くなる。 天音が感じているのだとわかると、指の動きは自然と激しくなる気がした。 「晶くん……あ、あんぅ……」 もっと天音のために。 そう思ったのに、天音は俺の手にそっと、自分の手のひらを重ねていた。 どうしたのだろうと見つめると、天音は不安そうに俺を見つめていた。 「天音?」 「晶くん、あの、あのね……」 「うん」 「私、自分で……」 「え……」 「自分で、したいの……」 「うん。わかった」 天音に頷き、抱き寄せる。 それだけで天音は安心したように体を俺に預けてくれた。 そんな天音の体を抱き寄せたまま、そっとその場に座り込む。 俺の膝の上に座った天音は制服をはだけさせ、じっと見上げる。 どうして欲しいのだろうと思ったけれど、きっと何もしなくていいんだと思った。 「あ、あぁ……」 「天音……」 天音は自分で秘部を広げると、ゆっくりと俺の肉棒に近付けて行くようにする。 「あ、ふぁ……」 先端と秘部が触れ合い、互いに体が震えた。 けれど、天音に戸惑いはなかった。 そのまま、ゆっくりと秘部の中に肉棒が埋まって行く。 「……ん! あ、ぁあ」 「んっ!」 音を立ててゆっくりと、天音が自ら俺を、奥へと導いてくれる。 不安そうに、けれどそれを悟られまいとしているんだろうか。 天音の表情は真剣で、そしてどこか切なげに見えた。 「……はあ」 「天音……」 「あ、あぁ……お、奥……届い……た?」 「うん。天音がしてくれたから」 「う、ん……良かった…」 頷いた天音をじっと見つめる。 すると、ほんの少しずつ天音が体を動かし始める。 「あ、あぁ……はぁ……! 奥、までぇ、もっと…あっ」 ゆっくりと動き出した天音の中で、肉棒が締め付けられる。 強すぎないその刺激は体中を通り抜けて行くようだった。 必死で動く天音の体を支えながら、見つめていると、一生懸命なのがわかってぞくぞくした。 「あ、ん! あ、ぁあっ! あ、ふ! ふぁあっ!!」 天音の頬は真っ赤になっていた。 恥ずかしいけれど、必死で動いているのだとわかる。 そんな姿もかわいい。 もっともっと、天音の望む事をしてあげたい。 そんな風に思わせる。 「天音……!」 「あ、んっ! 晶くん……!」 名前を呼ぶと不安そうに見つめられる。 どうしたんだろうと思っていると、動きが少し止まった。 ああ、名前を呼んだから不安になったんだとすぐわかった。 何も不安にならなくていいのに。 天音のしたい事をすればいいのに。 不器用だな、なんて思ってしまう。 「大丈夫、だから」 「うん」 「天音がしたいようにしていいよ」 「う、ん……する、もっと……奥…」 頷いた天音はまた秘部を広げ、もっと奥へと肉棒を導こうとした。 音を立てながら肉棒はさらに奥へと進む。 もうこれ以上は無理だというように、どんどんと奥へと。 「あ、はぁああ……!」 「んっ!!」 奥まで進んだ肉棒を締め付けるように、天音がまた動き出す。 そして今度は、俺もそれに合わせて腰を動かす。 「はぁ! あ、ふぁああっ!! はぁ……!」 「ここ……?」 場所を確認するように、体の奥へと突き上げる。 突き上げた瞬間、天音が大きく震えて声をあげる。 それと同時に中で強く肉棒が締め付けられ、俺の声も震えた。 「ここ……あ、あ……ん! そう、そこが! あ、あぁ!」 「んっ!」 突き上げた場所が正しかったと教えてくれる天音。 その天音のもっと奥へと、その場所へともっと辿り着くように何度も腰を突き上げる。 「もっと、動いていい?」 「いい、よ」 「うん」 「あ! は、あぁっ! あっ! す、ごいよぉ……!」 答えをもらえた事が嬉しく、さらに天音を突き上げる。 天音もそれに応えるように、自ら体を動かす。 俺が動いて、天音も動く。 お互いが動くたびに体が大きく反応する。 中で締め付けられ、あふれ出し、どんどん深い場所へと、どんどん奥へと辿り着く。 「は、あ……はぁ、はぁ……晶くんっ!」 「天音……!」 じっと俺を見つめる天音の表情は必死だった。 忘れたいんだろうとわかる。 だから俺も、天音のために必死だった。 忘れさせてあげたい。 だからこの場所で、天音にしてあげられる事は全部してあげたい。 そう思っているのに、時々、ふっと自分の欲望だけをその体に叩き付けてしまいたい衝動に駆られる。 「はぁ……」 「晶くん! あ、ふぁ……はぁ、はぁ……あっ!」 けれど、その衝動は天音が俺を呼ぶ声で消える。 もっともっと、奥深くまで、天音のためにと必死になる。 そして天音も、俺と同じように必死に動く。 「こんな、すご……あ、んっ! でも、もっと……」 昨日の事も、繚蘭祭の喧騒も、今だけは忘れたい。 それはいつの間にか、天音だけじゃなくて俺も同じだった。 もっともっと、天音の事だけを感じたい。 ここでひとつになっている事だけを感じていたい。 「もっと……もっと、あ、あっ! 奥……晶くんっ!」 「うん……!」 聞こえていなかった。 何もかも。 耳に届くのは甘い声と、あふれ出す音。 奥深くまで届いては遠のく感触と、抱きしめるたびに感じる柔らかさ。 もっととお願いされるなら、それを叶えたい。 ただそれだけ。 天音を抱きしめて、奥深くまで貫いて、甘い声を響かせる。 「はぁ、はぁ、は……あ、あぁっ!!」 もっとしてあげたい。 もっとこうしていたい。 そう思っているのに、天音の体はそれを許してくれない。 動きが激しくなるたびに強く、痛いほどに締め付け、離さない。 「晶くん……晶く……!!!」 「天音……あ!」 そして、奥深くに何度目か辿り着いた瞬間。 大きく体が震えた。 それがどういう事かなんて、考える前にすぐにわかる。 「……ん!」 「あ、ああっ!!!!」 「うっ!!」 天音の体が震えた。 瞬間、堪えきれずに奥深い場所で肉棒が脈打つ。 そのまま、天音の中で精液がどくどくとあふれ出す。 「あ、はぁ、はぁ……はぁ……」 「はあ、はぁ……」 中いっぱいにあふれた感触に、天音の表情が少しうっとりしたような気がした。 そして俺も、初めての事に少し頬が緩んだ気がした。 少しは、天音に色んな事を忘れさせてあげられただろうか。 そんな風に考えながら、まだしっかりと埋まる感触を確かめながら天音の体を抱きしめた。 「晶くん……」 「うん」 「うん……ありがと……」 「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」 「あ、ふたりです」 「はい、かしこまりました」 「……」 昨日の今日で、天音は大丈夫だろうかって不安になっていたけど、いつもと変わらない様子だった。 少し無理をしているんだろう、とはわかっている。 でも、昨日とは違い、みんなの前ではいつも通りの天音で少し安心した。 「晶くん、注文入ります」 「あ、はい!」 「ボーっとしてちゃダメだよ」 「うん」 「すいませーん」 「はーい、うかがいまーす」 注文のために呼ばれた天音は笑顔で行ってしまった。 大丈夫だろうかと不安になる。 けれど、天音はいつもと変わらない笑顔を浮かべて対応していた。 無理は……してるんだろうな。 でも、天音は笑っていた。 心配しすぎてもしょうがないのかもしれない。 きっと時間がたてば、落ち着いてくれる。 わかっているはずなのに、気がつくと天音の姿を探してしまう。 俺も、少しだけ落ち着こう。 天音を心配しすぎて、給仕が疎かにならないように。 その後、特に大きな問題も起きず、繚蘭祭は無事に終わりを告げた。 終了のチャイムが鳴り響いた瞬間、出張limelightの中は和やかな空気に包まれた。 「おつかれさまー!」 「うん! みんな、お疲れ様でした!」 「終わったんだなあ」 「なんだか、あっという間でしたね。名残惜しいです」 「うんうん! そうだね」 「そういえば、ケーキは?」 「全部売り切れたぜ!」 「わあ、すごい」 「あきらくんのケーキ、美味しいもんねー」 「あったりめーよ!」 みんなが賑やかに話し始める。 大成功で終わったのだから、当然といえば当然だろう。 でも、その中で時々、天音はぼんやりとした表情を見せていた。 「天音?」 「な、なに? 晶くん」 「えっと……」 「もー。明日からは撤収と掃除があるんだから、まだまだ終わりじゃないよ」 「そうだった」 「あの、皆さん……実は、明日なんですけど」 「あぁ、そういえば。まだ言ってなかったのね、桜子」 「うん…」 「え? 何?」 みんなに声をかけた桜子の言葉が一瞬止まる。 どうしたのだろうと見つめていると、少し言いにくそうに桜子は俺たち全員に視線を向けて口を開いた。 「私、明日から病院に入院しないといけないの」 「え!?」 「びょ、病院ってなんで? え?」 「オイオイ! なんか大変な事でもあったのか?」 「あぁ、みんな安心して。そんな大変なことではないのよ」 「あの、検査の結果にちょっぴり問題があって、もう少し詳しい検査をするだけだから……」 「検査入院ってこと?」 「はい」 「ちょっと行くだけ?」 「はい。すぐ戻れます」 「なんだー。ビックリしたぜーーー」 「うん」 もしかして、繚蘭祭の準備や昨日と今日でかなり無理をしたんじゃないかと心配になってしまった。 でも、茉百合さんがにこやかな顔をしているし。 きっと本当に、少し検査に引っかかっただけで大丈夫なんだろう。 「お片づけの手伝いができないのは申し訳ないのですけれど……」 「いいのよ! そんなの、こっちでやっちゃえるから」 「そうだよ、大丈夫」 「皆さん、ありがとう」 「こっちは心配しなくていいから、病院終わったらすぐ帰ってこいよー?」 「はい」 皆からかけられる声に桜子が笑顔でうなずいていた。 「明日からのお片づけ、がんばってくださいね」 「俺が桜子の分まで動くから、大丈夫だよ」 「そうそう。なんと言っても、晶くんは男の子ですからね」 「オレだって男だぞー!!」 「あ、そうだった」 「明日は元の体に戻って、みんなの3倍働くぜー!」 「晶くんもがんばってね」 「うん」 「よーし、明日もがんばるぜー」 「がんばりましょうね」 「おー!」 「はい」 ――まだ少し、天音の声には元気がなかった。 本格的な片付けは明日なので、その日はみんなで一緒に寮に戻った。 晩ご飯を食べ、明日に備えてゆっくり眠ることになった。 俺はどうしても天音の様子が心配になって、部屋を訪れてみることにした。 「はーい」 「あ、晶くん」 「えと……」 「あの、うん。どうぞ、入って」 「ありがとう」 天音の部屋に入って、ふたりで適当に座る。 ちらちらと、天音がこっちを見ていた。 「晶くん、どうしたの……?」 「えっと……」 「…もしかして、心配して、来てくれたんだ」 「う、うん」 「…ありがと」 ありがとうって言うその顔は、やっぱりどこか物悲しい。 なんだか、見ていられない気持ちになった。 そう思ったら、目の前の天音をぎゅっと抱きしめていた。 「あの、天音」 「あ……」 「大丈夫だから。天音には、俺がついてるから」 「晶くん……」 「今日は、よく頑張ったな」 「あ……ちゃんと、見ててくれたんだ」 「うん」 「あの、難しいかもしれないけど、俺と一緒の時くらい力抜いていいと思う。無理しないで」 「あのね……」 「うん」 「晶くんが昨日言ってくれたから……だから私、今日は晶くんの事とお仕事の事だけ考える事にしたの。そしたらほんとにちょっと元気でたの」 「そっか」 「本当だよ。やっぱりほら、いつも通りってわけにはいかないけど…」 「うん。わかってる」 「晶くん」 「俺、一緒にいるから」 こくんと小さく、無言で頷いてから、天音も俺に抱き着いた。 頼られているみたいで嬉しくなる。 俺はこんな小さなことでも天音の役にたてているのだと思える。 「ありがとう、晶くん」 「俺、他に何もしてあげられないから……」 「違うよ、晶くん」 「え?」 「晶くんは私に、今、こんなに安心できる事してくれてるもの」 「本当に?」 「うん。私に元気をくれてるよ、だから私、がんばれる」 「良かった。でも、あんまり無理しなくていいから」 「大丈夫。してないよ」 「……うん。今はしてない。晶くんに…甘えてるし」 「いいよ、もっと甘えて」 「うん…」 もっともっと、強く抱きしめたくなって腕に力を入れた。 苦しくないだろうかと少し不安になったけれど……。 でも、強く抱きしめてあげたい。 このくらいで、天音の不安と悲しみはなくならないだろう。 もっと他に俺にしてあげられる事はないのか考えてしまう。 「天音……今日、ずっと一緒にいていい?」 「うん。私も、一緒にいて欲しい…ずっと」 「ずっとって、朝まで?」 「……うん」 「じゃあ、天音とずっとこうしてる」 「ふふふっ。ずっと?」 「うん、ずっと」 きっと口では大丈夫だと、天音は言うだろう。 だったら、俺も何も言わない。 でも、何も言わなくてもいつでも天音をこうして抱きしめていよう。 腕の中の天音は安心したみたいに体を俺に預けてくれる。 「じゃあ、ずっとぎゅーってしてて」 「うん」 天音の体は柔らかくて、気持ちがいい。 漂ってくる天音の香りはほんのり甘い。 でも、この前みたいな気分にはならなかった。 大事にしたいと、守ってあげたいと思う。 「ありがとう、晶くん」 天音が体をすり寄せながら、抱きついてくる。 それだけ俺を頼ってくれてるのだと思うと、やっぱり嬉しかった。 明日も、こうやって天音のそばから離れないようにしよう。 今はそれが一番大切なことだと、俺はそう思った。 「おち、落ちるうううう―――!!!!」 「わあああああ!!!」 「……ん…んう?」 気がつくと俺は空の上ではなく、柔らかなベッドの中にいた。 すぐ隣には、天音がすやすやと眠っている。 「あ、天音!? なんで?! え?」 「………んん…」 慌てて、周りを見渡した。 オレンジ色のソファに、花柄のカーペット。……天音の部屋だ。 え? どうして……俺、ここにいるんだ? さっきまで、病院にいたはずなのに…。 「わっ」 「ん……」 アラームの音に驚いて声をあげると、ごそごそと布団から天音の腕が伸び、時計の後ろのボタンを押した。 けたたましかった目覚ましの音が止まる。 「ふぁああああ」 「あ……天音…?」 天音は、あくびをしながら起き上がる。 俺はまだ事態がよく飲み込めずに、変な声をあげてしまった。 「あ……」 「あの、天音」 「おはよう」 「お、おはよ。あの」 「なに?」 「な、何で俺、ここにいるの?」 「……! な、なによそれ! 朝までずっと一緒にいるって言ったの晶くんじゃない!」 「病院にいたんじゃ……?」 「びょ、病院? どうして?」 「………」 少しくらくらとしてきた頭を抱え込む。 どうなっているんだろう。さっぱりわからない。 「晶くん、あの、どうしたの? 大丈夫…?」 「今日、学校行ける? 休む?」 「今日学校あるの?」 「そうよ、今日は繚蘭祭の撤収作業の日だって言ってたじゃない。学校行ってもずっとお掃除だけど、ちゃんと片付け作業もこなしてこそイベントは…」 撤収作業の日、と聞いてぼんやりとしていた頭が一気にクリアになる。 「今日、片付けの日なのかっ?!」 「え、う、うん」 「天音……どこもケガしてない?」 「うん…してないけど」 「よかった!!!」 「きゃあっ!」 俺がいきなり強く抱きしめたので、天音は随分驚いているみたいだった。 だけど、今だけは我慢してほしい。 今の俺は、恐ろしい夢から覚めた安堵感でいっぱいなんだ。 「ななな、なに?! どうしたの! 恥ずかしいよ…」 「ごめん、俺、さっきまで凄く怖い夢見てて……」 「え、夢…?」 「うん、よかった、天音」 「……晶くん。大丈夫だよ」 「うん」 甘えるように頭をすりつけたら、天音が背中をなでてくれる。 しばらくそうやってふたりで抱きしめあっていたら、俺の心は随分落ち着いてきた。 さっきまでの不幸な出来事が、夢のようだ。 いや、あれは全部、実際に夢だったんだろう。 ――本当によかった。 「学校行けそう?」 「大丈夫。行くよ。天音のそばにいるって言ったしな」 「今日も1日、がんばろうね」 「ああ」 顔をあげると、天音はにっこりと笑ってくれた。 一昨日よりも随分元気になってくれたみたいだった。 ほっとしながら、俺はベッドから降りる。 これから制服に着替えて、学校で掃除と片付けだ。 朝を迎えた校舎。 撤収と掃除、片付け作業のため、出張limelightの教室には出展に関わったメンバー全員が揃っていた。 九条とぐみちゃんは、自分たちの展示の片付けがあるから不在。 まあ、今までと同じって事だ。 「それじゃあ、これで全員揃ったわね。撤収作業をはじめましょうか」 「ええ、ささっと終わらせちゃいましょう」 「おーーーよ!」 「………」 「あん? どーしたよ晶、ぼーっとしてさ」 「あ、い、いや」 ――この流れ、夢の中とまったく同じだ。 俺は今朝の夢の内容を、奇妙なくらいによく覚えていた。 いつもなら、起きてしばらく経つと夢の内容なんて忘れてしまうのに。 もしかして夢じゃなかったんだろうか。 ふとそう思うと、あの目を背けたくなる結末の記憶が甦ってきて、背筋を悪寒がかけぬける。 これが幻覚だったら、どうしよう。 これはやっぱり夢で……起きたら病院だったら…。 恐る恐る自分の手の甲をつねってみたが、痛みは感じる。 夢でも幻覚でも、ないようだった。 思わず安堵のため息がもれる。 「なんかね、晶くん昨日すごい悪夢を見たんだって。それで朝から何だかぼーっとしちゃってるの」 「まあ、体調は大丈夫なのかしら?」 「いや、大丈夫ですよ。えっと、荷物運ぶんですよね」 「えっ……?」 「あの、あそこの荷物を倉庫用の空き教室に持って行くんじゃないんですか?」 俺は飾り付けに使っていた大型のパネルを指差した。 茉百合さんが、目を見開いて驚く。 「え、ええ。確かに今それを頼もうかと思っていたところなのだけど」 「じゃあ、ちょっと行ってきます」 確か何往復かしなければならない。 始めるなら早いほうがいいだろうと、俺はパネルの方に向かう。 茉百合さんはまだ、半ば呆然としていた。 「どうしたのかしら。私、まだ何も言ってなかったわよね…?」 「さっすがオレの親友だぜ! 使えるオトコだよなー!」 「けっこう距離、あるんだよな…」 パネルはそこまで重いというわけでもなかったが、何しろ横幅が大きい。 周囲には、ぞうきんやダンボールを抱えた、掃除中の生徒たちがたくさんいる。 そんな中を、大型のパネルを持って移動するのはなかなか大変だった。 倉庫教室には、まばらに荷物が置いてあった。 まだ午前中だから、集まってきている荷物も少ないのかもしれない。 俺はパネルを下ろし、邪魔にならないよう奥の方に立てかけておいた。 「…ふぅー。結構重労働だったな。夢の中ではこんなに疲れてたっけ…?」 一息ついてから、ようやく気付く。 「……ここって」 夢の中で、会長が荷物の下敷きになった場所だ。 今はあの時よりも、まだ全然荷物が少ない。 会長が倒れたときは、もっと重そうで大きそうなものがたくさん置いてあった。 これから全クラスの出し物の荷物が集まってくるんなら、夕方には同じ状態になるのかもしれない。 「……そうだ。会長…」 ――無事なんだろうか。 いや、あれは夢だったんだから、無事に決まっている。 だけど、俺の脳裏には、ここでぐったりと倒れてる姿とか、真っ赤な血とかが未だに焼き付いていて――。 そう思ったら、確かめずにはいられなくなった。 少しだけ、確かめたらすぐ戻るから! そう心の中でみんなに謝ってから、俺は生徒会室へと走った。 「すみません!」 「なんだ、葛木か。どうした」 少し驚いた様子の八重野先輩。 生徒会室の中を見回してみるが、他には誰もいない。 「早河なら、自分のブースに行ったぞ」 「違います、会長はどこですか?!」 「奏龍は……」 そう言って、先輩はちらりと奥のソファを見た。 「いるんですか!? 会長!」 「あぁー…何、もう……?」 だるそうな声と共に、ソファの背から会長が顔を出す。 そして、俺を見て不機嫌そうにため息をついた。 「……なんだしょーくんか」 「会長っ!!!」 俺はものともせずに、大声を出して駆け寄る。 いきなりのことにさすがに驚いたようで、会長はびくっと震えた。 「な、何」 「どこもケガしてませんか!」 「は、はぁ?! どーしたのいきなり…」 「よかった……よかった」 「葛木、一体何があったんだ? お前の様子、尋常じゃないぞ」 「夢を……夢を見て…」 「ゆ、夢?」 「でもよかった、やっぱり夢だったみたいだ」 「とにかく少し落ち着け。そこに座れ」 まだ俺は夢と現実の境が曖昧になっているみたいだ。 八重野先輩に促されるままに、俺はソファから起き上がり座りなおした会長の前に腰を下ろした。 「どんな夢見たかは知らないけど、天音はほっといていーの? なんで俺のとこ来るんだよ。自分の立場わかってんの?」 呆れたようにそう言われて、俺はようやく、今この人と天音の関係がどうなっているのか思い出す。 天音のことを大事に思っていないと言われて、殴りかかってしまうくらい頭にきた。 だけど。 何故か今はそうは思えない。 あの夢のせいだろうか…? 「…………」 「わかってます、俺は、会長と天音に仲直りして欲しいんです、できれば今すぐに、どうしても今日中に!」 「仲直りって……小学生のケンカじゃないんだから…」 夢の中で、八重野先輩に聞いた話を思い出す。 『あいつは、妹と不仲であることが母親の為になると思っている』 あれはあくまで、夢の中の話だ。 ……自分でも馬鹿みたいなことをしているとは思った。 でも、聞かずにはいられなかった。 「教えてください」 「―――なんで天音と仲違いをすることが、お母さんのためになるんですか」 「!!」 言った途端、眼前の二人の顔色が一瞬で変わった。 どう見ても尋常な反応じゃない。 「…な…なにそれ。どういう意味」 沈黙の後にようやく出てきた返事は、動揺が色濃く出ていた。 本当か嘘かなんてわからない……俺はそう思って、一か八かで聞いたのに。 ――あれはやっぱり、ただの夢じゃなかったのか? 俺は少し怖くなりながらも、言葉を続けた。 「……だから、会長が天音に冷たくするのは、お母さんのためなんじゃないんですか」 「………」 「……葛木、お前、それをどこで知った」 「どこでって言われると非常に困るんですけど……だからその、夢の中で…」 「ゆ、夢の中でって……お告げでも聞いたって事…?」 言っていいのかどうか、一瞬だけ迷ったけど……。 どちらにしろ話さないわけにはいかないだろう。 信じてもらえるかどうかは二の次だ。俺は、包み隠さずに全部話すことにした。 「違います、夢の中で八重野先輩に聞きました」 「会長が大怪我をして、それで八重野先輩が、誤解したままじゃ辛いだろうって教えてくれました」 「………」 「ちょっと、待ってくれよ。あの…あのね。それ夢の話でしょ」 「でも、あまりにもリアルだったんです。それがあまりに酷い結末だったんで、俺、やり直したいって思ったら、起きたら朝に戻ってて……」 ―――そうだ。 もし、仮に本当にやりなおせているんだとしたら。 俺が何もしなければ…またあの時と同じ結末になるってことじゃないか? 「だから、もしかしたらまた、あんな酷い事になるかもしれないから!」 「だから俺、どうしても会長と天音には仲直りしてもらわなきゃ困るんだ!」 「………」 とても信じられない話だと、自分でも思う。 でも俺の耳には、昨日聞いた天音の悲痛な泣き声がまだ残っている。 呆気にとられたままの会長の横で、八重野先輩が考え込むように腕を組んだ。 「葛木、その夢の中とやらで俺に聞いた話を全部言ってみろ」 「ちょ、ちょっと、蛍…」 「でたらめにしては、言う事が的を得すぎている。聞いてみる価値はあると思うがな」 「わかりました。ええと……」 夢の中、病院で八重野先輩にしてもらった話を、記憶の限りに話してみせた。 会長が天音を否定するような事を言っても、本心では無いこと。 天音の弾こうとしてたあの曲は、弾いたら母親を傷つけてしまうので、弾くのを止めたこと。 会長は昔母親の大事にしていたものを壊してしまったらしいこと……。 俺が話し終えると会長は観念したようにため息をついた。 「……まいったな。ほんとにそれ、夢の中で聞いたの?」 「はい」 「その肝心な点をうまく隠してあるところが、すごいリアルだ……確かに蛍が説明したとしか思えない」 「まあ確かに、俺が葛木に事情を言うなら、そういう形をとるな」 「……信じてもらえますか」 「―――考えるに、葛木のそれは一種の予知夢のようなものではないのか」 「よ、予知夢…?」 「『朝に戻っていた』んだろう? 今日一日の流れを〈予〉《あらかじ》め夢で見ていた、とは考えられないのか」 「そんな非現実的な……」 「いや、あり得ないとも言い切れないぞ。葛木がこの学園に入学を許された理由、お前も知っているだろう」 「…し、新型遺伝子、ですか。…まあ、こうやって事実を突きつけられると…否定はできないけど……」 その口調と態度から、やはり俺が聞いた話は真実だったんだと確信する。 つまり、じゃああの時の冷たい態度は、全部嘘で……。 やっぱり天音は、嫌われてなんかいないってことだ! 「じゃあやっぱり、会長は天音の事が嫌いってわけじゃないんだよな?!」 「なら頼むから、今すぐ仲直りして下さい! 天音には俺からうまく説明します!」 ―――よかった! 落ち着いて話せば、天音にうまく説明する自信はある。 何より、真実を知れば、天音はどれだけ喜ぶだろう。 兄に嫌われていたという事に、ひどく傷ついて泣いていた天音。 そんな天音にもう、痛々しい顔をさせずに済むんだ。 「………はぁぁー。あーあ、話すつもりはなかったのにな……」 「え?」 一人で浮かれている俺とは逆に、会長はどこか冷ややかな様子だった。 八重野先輩も、隣で黙ったままだ。 「……なんて説明するの?」 「え…だから、お母さんのためにやったことで、天音を嫌ってるわけじゃないって……」 「なんでそんな事をしたか、理由を聞かれたらどう答える?」 「え、えっと……」 「さっき、なんで仲違いをすることが母さんのためなんだって聞いたね。答えてあげようか」 「俺と天音が仲良くし過ぎると、母さんが苦しむからさ」 「…どうして」 「俺は、父さんが他所で作ってきた子供だから」 「え…」 「俺が壊した母さんの大事なものって、晶くんは何だと思ってたの? お高い壷や花瓶ってわけじゃないよ?」 「愛する夫との関係、幸せな結婚生活、夫婦としての絆、そういう類の『大事なもの』だ」 「母さんはね、本当に父さんの事が好きでたまらなかったみたいだよ。結婚する前からずっとずっとね」 「だけど可哀想に、父さんが愛していたのは俺の母親たった一人で……彼女が亡くなった今、その愛情は子供の俺一人に向けられているというわけです」 「報われないよね、せっかく結婚にまでこぎつけたのにね」 「……そういう言い方はよせ」 「……じゃ、じゃあ、理事長と会長は…」 「ああ、血が繋がってない」 「天音とは……」 「父親は同じだよ。半分だけは繋がってる」 一気に言葉を吐き出して疲れてしまったのか、会長はソファに深くもたれかかった。 「弁明しておくけどね、母さんは立派な母親だったよ。俺と天音を何の分け隔てもなく育ててくれた」 「夫の愛情を失った苦しみも悲しみも、原因である俺にぶつけようともせずにひた隠しにしていた」 「だから俺は……これ以上母さんから大事なものを取り上げる事なんて出来ないんだよ」 「大事なものって……」 「だから天音でしょ。たった一人の娘だからね。夫を失えば、後は娘しか残ってないだろ」 「…………」 「天音は、知ってるんですか?」 「何も知らない。だからね、これをいちいち説明するんですかって話ですよ」 「……でも、うまく説明すれば天音だって、わかってくれ――」 「だから根本はそこじゃない。結局のところ、二人の幸せを考えれば、俺はもうあの母娘に近づくべきじゃないんだ」 「そんなこと…」 「あるよ。どう考えたって、俺抜きでやるのがいちばんうまく行くんだよ」 「どんなに愛おしく思ったって……いつも自分自身が拒否をする。もう引き裂かれそうだよ」 「……そんな」 「それに……天音を疎ましく思うのがまったくの偽りってわけでもない。俺は多分心のどこかで天音に嫉妬しているから……」 「………」 ―――そう言われたら、俺はもう何も言い返せなくなってしまう。 そんなのおかしいって、思ってはいるのに……。 会長の言葉が何故か重く圧し掛かってきて、あとは黙ることしか出来ない。 「…はぁ、疲れた。ごめん、ちょっと寝る」 会長はそのままソファに寝転がると、俺に背を向けた。 もう話を続ける気はなさそうだった。 そのまま何も出来ずに動けないでいると、八重野先輩がそっとソファから立ち上がる。 「………だから、簡単な事ではないと言っただろう」 「八重野先輩」 「もう、そろそろ戻れ。繚蘭会の撤収作業を手伝っていたんだろう?」 「……はい」 そうだ。 早く戻らないと、まだ作業は残っている。 足取りは重かった。 多分、思った以上に落胆が激しかったのだと思う。 さっきまでの俺は、簡単に仲直りしてもらえると思っていたから……。 ならせめて……。 「……八重野先輩、あの、今日、防災シャッターの誤作動に注意してください」 これだけでも伝えておこう。 何か変わるかもしれない。 八重野先輩は、笑うこともなく真剣な眼差しで頷いてくれた。 「……わかった。早河に頼んでシステムに異常がないかチェックしておいてもらおう」 「はい、お願いします」 俺にはもう、どうしていいかわからない。 だけどせめて、あの夢の状況と同じ事にならないようにしないと。 「すみません、話…ありがとうございました」 そう言って生徒会室のドアに手をかけると、ソファの向こうから声が聞こえてきた。 「晶くん、ひとつだけ頼みがあるんだけど」 「な……何ですか…?」 「天音が弾こうとしていたあのピアノ曲……あれは、俺の本当の母親がよく弾いていた曲だったんだよ」 「母さんにとっては、悲しみに暮れた思い出しか甦らない、忌まわしい曲だ」 「だから、あれだけは。天音に弾かせないでほしい」 多分ソファに寝転んだまま喋っているんだろう。 会長の顔は見えない。 どこかさみしそうな声だけが耳に残った。 「……わかり、ました」 早く教室に戻らないと。多分、みんなが心配している。 まだ重く感じる足を一歩踏み出そうとした時に、後ろから呼び止められた。 「葛木」 振り返ると、八重野先輩が生徒会室から出てくる。 わざわざ俺を見送りに来てくれたようだった。 「あまりあいつの話にのまれるな。お前は、出来る事なら皇の立場から考えてやれ」 「……八重野先輩」 そうだ。 ……俺は、天音のために何ができるのか、まだ考えていない。 どうにもならない事でも、天音のためにできる事を探したいと。 俺は繚蘭祭の時、この人にそう言ったじゃないか。 「ありがとうございます。俺……諦めません。できることを、探します」 「そうか。それでこそ、葛木だ」 「はい、失礼します!」 少しだけ足が軽くなった気がして、俺は廊下を走り出した。 考える時間はまだ残っている。 ――早く天音の所に戻ろう。 俺が生徒会室に寄っていたせいで、少し荷物の移動には手間取ったが、何とか片付けと掃除は無事終了した。 九条も無事展示ブースの撤収を終え、途中から手伝ってくれていた。 「終わったぜええええ!! いやーやっぱ片付け終わるとスッキリだなー!」 「皆さん、お疲れ様でした」 「茉百合さんこそ、今回はお手伝いどうもありがとうございました」 「感謝します」 「いいえ、私もとても楽しかったですわ。それでは、まだ少し生徒会の業務が残っているので先に失礼しますね」 茉百合さんは上品に頭を下げると、元通りになった教室から出て行く。 「私たちもそろそろ帰りましょうか。結構遅くなっちゃったね」 「じゃ、帰る」 「あっごめん、みんな先に正門行っててくれ、すぐ追いかけるから!」 「あっ、晶くん?」 俺はあたふたしている天音たちを置いて、カバンを抱えると教室から飛び出した。 ――ずっとどうすればいいか考えてたけど、とにかくまず忘れ物だ! 天音が取りにいくはずの、楽譜を先に取りに行こう! まだ時間はあるはずだ。 天音と一緒に校舎に閉じ込められないようにしたら、あんな所で言い争いをすることもなくなる。 まだ本当にシャッターが下りるのかどうかなんてわからないけれど……。 出来ることはしておくべきだ。 そう思いながら廊下を走った。 天音が探していた場所を必死に思い出し、同じように一枚一枚楽譜を見ていく。 「………あった! これだ!」 『虹の彼方に』と描かれた楽譜を手に取り、安堵感でいっぱいになった。 楽譜をカバンの中に慎重に入れ、慌てて天音たちの所に戻ることにする。 とりあえずこれで大丈夫なはずだ…。 正門前では、みんながわざわざ待っていてくれた。 「おー、なんだよ晶! 何か忘れモンだったのか?」 「ああ、ちょっとね」 「じゃあ、帰りましょうか。明日は連休だから、ゆっくりできるね」 「おー! 疲れた体をおもいっきり休めるぜ!」 「ワタシは、ちょっと戻る」 「え?」 「ちょっと用事」 「まだ仕事あったのかよマミィ?」 「………」 「……くるり? どうしたの? 何か…」 「なんでもない。じゃ」 「………」 そういえば九条、このときに校舎に戻ってたんだっけ。 でも閉じ込められたときには講堂にいなかったはずだ……。 ということは、多分あの誤動作事故には巻き込まれないんだろう。 そう思いながら、俺は九条の後ろ姿を眺めていた。 「………」 すると、天音も、ずっと何かを考えるように校舎を見ている事に気付く。 ―――そうだ、天音に伝えなきゃ。 楽譜は取ってきたんだよって。 「あの、天音…」 「あっ!」 「え?」 「ごめんなさい、私忘れ物してきちゃった」 「えっ、あの、だから…」 「取りに行ってくるね! みんなは先に帰ってて!」 「ま、まてよ、天音、おい」 「すぐ戻るから」 「天音! ちょ、待って、あま……」 俺が止めるのも聞かず、天音は校舎に戻って行ってしまう。 まずい、追いかけないと! 「悪いマックス、先帰っててくれ!」 「お、おう、どーしたんだよ晶〜?」 「じゃあな!」 「……?」 「天音ーっ!」 「あっ、晶くん…!」 俺が追いかけてきた事にようやく気付いて、天音が立ち止まる。 「わ、忘れ物、忘れ物……! まってくれ、これ」 あたふたと、カバンの中から楽譜を出す。 「え? しょ、晶くんこれ……」 「取りに戻るのってこの楽譜だろ? 『虹の彼方に』の……」 「ええっ、どうしてわかったの?!」 「そ、それはその、えっと」 しまった、何も言い訳を考えていなかった。 何と言おうか戸惑ったが、もうあまり時間が無いことに気付く。 「うん、まあ、その何となく…。とにかく! これで忘れ物ってなくなったろ? 早く校舎から出よう」 「あの、ちょっと教室に寄ってもいいかな?」 「え…?!」 「楽譜も取りに行こうと思ってたんだけど、もうひとつ晶くんに見せようと思ってたもの、教室に忘れてきちゃったから」 「え……あ……もうひとつ?」 「そう」 「な、なんでだ」 「……?」 「なんで…楽譜だけじゃなかった……のか?」 「ごめんね、ついうっかりしちゃってた。だから先に帰ってて」 「な、なにを忘れたの? 大事なもの…なのか?」 天音は俺がどうしてそんなにこだわるのか、よくわからない様子だった。 ……当たり前だ。 これから防災シャッターが降りて、閉じ込められるかもしれないなんて。 まだ本当にそうなるかもよくわからないのに。 「ひとりでも大丈夫、そんなに心配しないで」 「だ、だめだ」 「……??」 「俺もいく、俺も一緒に――」 「え…? うん、いいの?」 「あ、ああ」 ……どういうことだ? 前は楽譜だけだったのに……。 もしかして、俺が楽譜を取りに行ったから、何かが変わってしまったのか…?? 「あ、あった。これ……」 天音は自分の席から、嬉しそうに大きい本を取り出した。 「よかった」 「それ……何?」 「『虹の彼方に』って童話の『オズの魔法使い』のお話で流れる曲なのよ。これはその物語の書かれた本……」 それは仕掛け絵本だった。 天音がページを開けると、大きな竜巻の中に巻き込まれている家が飛び出てくる。 かなり仕掛けが細かいし、絵もすごくきれいだ。 「ほら、すごいでしょ」 「休みのうちに、晶くんと一緒に読もうかな……なんて思って。あの、私、好きだから、このお話」 「………」 「あ、もしかして、もう読んだことあるのかな?」 「え…あ、いや、知らない…名前は聞いた事あるけど……」 「そっか、良かった」 天音は、嬉しそうにページをめくりながら話のあらすじを教えてくれる。 「竜巻で違う国に飛ばされた女の子がお家に帰ろうとする話なんだけどね」 「天音……」 ただの絵本のはずなのに。 天音のあまりの真摯さに、俺は早く校舎から出ようと言えなかった。 「途中で、それぞれ勇気と、知恵と、心を欲しがっている仲間に出会うの」 「でも、いろいろな冒険の間にみんなそれぞれ成長していってね、最後にわかるの」 「ほんとうはわかってないだけで、勇気も知恵も心も、自分の心の中にちゃんとあったのよ……」 「…………」 「……何だかね、そんなのっていいな、って思うんだ…」 「天音…」 「私も……そんなだったらよかったな……」 そう小さく呟く天音は、本当に寂しそうで。 俺は一瞬、会長に聞いた話を口に出してしまいそうになった。 ――そうだよ、本当は、天音は会長に嫌われてなんていない。 ピアノの話だって、ちゃんと理由があるんだよ。 「………」 ……でも、あんなこと、勝手には言えない。 多分俺がそうするって思ったからこそ、会長も話したんだろう。 じゃあ何だ。 他に俺が言えることは、何かないのか。 少し考えて俺は口を開いた。 「―――今、天音の欲しいものは、何?」 「え……?」 「天音の欲しいものを手に入れる方法、本当は自分の心の中にちゃんとあるんじゃないのか?」 「だって、そんなの無理なんだもん……」 ぱたん、と本を閉じると天音は目を伏せる。 「もしもそうじゃなかったらって考えると、私…どうしていいのかわからない」 「ご、ごめんね、何言ってるかわかんないよね」 「自分でも、わからないの。ごめん……」 「天音」 「……!」 俺は、両手で天音の手をぎゅっと握り締めた。 「天音、きいてくれ。信じないかもしれないけど、すごい変なことを言ってるかもしれないけど」 「晶、くん? どうしたの?」 「会長はお前のこと、お前が思ってるより大事にしているし、お前も自分が思ってるより、ずっと会長のこと好きだと思うよ」 「……晶くん…」 「俺はそう思うんだ。だから、天音……」 「もっと、ちゃんと気持ちを伝えるべきだよ」 「……でも、お兄ちゃんは、きっと何も言ってくれないって、そう感じるの」 「……それがすごく深い溝に思えて、私……それが、とても…」 「素直になって、伸ばした手を跳ね除けられるのが怖い?」 「………」 「大丈夫、俺がそばにいるから。俺が後ろで支えててやるから」 「晶くん…」 「怖いよな」 「……うん」 「だけど、大事なことってすごいわかりにくいことだから」 「……うん、そうだね」 「ほんとにまっすぐに、言葉にして伝えたりしなきゃ、わかりにくいことだから」 「……うん」 「その時がきたら、天音……」 「―――っ!!!」 「なに?! これ……警報ベル?!」 「天音、早く本をしまって! 校舎から出るぞ!」 「えっ、あ、晶くん!」 焦りながら、俺は天音の手を引いて教室から飛び出した。 「こんなにたくさんのベルが一度に鳴るなんて、何かあったのかも…」 「いいから走って、天音!」 「でも、トラブルだったら何か手伝った方が……」 「ダメだ!」 「晶くん、どうしたの? 何かあるの?!」 「とにかく早く、校舎から出ないと……」 「あっ…」 「これ、防災用のシャッターだわ!」 あの時とまったく同じだ。 夕焼け空が見えていた窓に、轟音と共に黒い影がどんどんと降りていく。 間に合わなかった。 やっぱり、あの夢はただの夢なんかじゃない。 ここに来て俺は確信していた。 「さっきの警報ベルのせいかも……」 天音は厳しい顔をしたまま、まだ注意深く周りを見回していた。 「くそっ……!」 「晶くん…?」 「どうしたの本当に、何だか今日はヘンだよ?」 「天音…俺……」 ―――全部言うべきだろうか? 夢のことも、俺たちがこのあとどうなってしまうのかも。 でもそうなると、天音と口論していて、会長が大怪我をしたことも言わなきゃいけない…。 それを伝えてしまえば……。 何だか、あのときと同じように天音を深く傷つけてしまうような気がして…。 「……い、嫌な予感がするんだ」 ……結局、こんな言葉でしか言えなかった。 「ご、ごめんなさい、私が本なんか取りに戻ったから」 「違う、天音を不安にさせたいわけじゃない」 廊下の真ん中だったが、かまわず俺は天音を抱きしめた。 「ひゃっ…、ちょ、ちょっとここ学校…!」 「天音、お願いがあるんだ」 「これから、寮に無事に戻れるまで……何が起きても俺のそばから離れないで」 「う、うん…」 「絶対だぞ」 「うん…」 「でもあの、それより早く校舎から出なくていいの?」 「いや、多分、もう出られない」 「え…?」 体を離すと、非常階段のある方向を振り返る。 するとやはり、廊下の先は厚い壁に塞がれていた。 「防火シャッターが下りてるだろ」 「本当だわ、じゃあ正面玄関に回らないと……」 夢の中では行く途中の通路に防火シャッターがやっぱり下りていたんだけど…。 でも、行くだけ行ってみよう。 楽譜の件といい、内容は微妙に変わってるみたいだし、もしかしたらまだ校舎から出られるかもしれない。 「よし、行ってみよう、天音」 「うん」 ……結局、正面玄関の手前にも防火シャッターは降りていた。 俺たちはやはり、閉じ込められることになってしまった。 「一体どういうこと? 火災ならスプリンクラーが動いてるはずなのに……」 「火災じゃないと思う、煙もないだろ、変な匂いだって」 「そうよね、でもじゃあどうして防火シャッターが下りたんだろう、窓の防災シャッターも一斉に下りるなんておかしいわ」 天音もさすがに少し不安そうな顔色になっている。 これがもし夢と同じなら………。 そろそろ茉百合さんの放送がかかる頃だ。 『校舎に残っている生徒にお知らせいたします。ただいま、防災システムの誤作動で校舎内全てのシャッターが誤って降下しております』 「茉百合さんだわ。やっぱり、防災システムの誤作動だったのね…」 『校舎内に残っている生徒は、ただちに講堂に集まってください。繰り返します、校舎内に残っている生徒は…』 「……天音、講堂に行こうか。さっきのお願い、覚えてる?」 「え、う、うん」 前を見据えたまま、天音の手をぎゅっと握る。 「わ、わ、晶くん…」 「離れないでくれよ。その、俺、さっきから相当ヘンな事ばかり言ってるかもしれないけど」 「ううん…晶くんが私の事、心配してくれてるのわかるから」 きっとわけがわからないだろうと思う。 なのに天音は、少し笑うと俺の手を握り返してくれた。 「天音……」 ……俺は、ちゃんとこの子を守ろう。 そして、この子の願いをかなえてあげたい。 きっと俺なら出来る。 だって、俺は知っている。 本当は見えていないだけで、天音の欲しいものはすぐ目の前にあるのだ。 少しだけ勇気を出して、お互いが手を伸ばせば届くのだ。 その手を伸ばす事が出来るように、精一杯の手助けをしよう。 講堂には、数十人くらいの生徒が集まってきていた。 「……」 「まだこんなに生徒が残ってたんだ…」 きょろきょろと、天音は周りを見回す。 俺も同じようにした。 会長が寝ていたのはどこだっただろう。 ……そうだ、右側の奥の席のさらに向こう。 「あ、茉百合さん!」 茉百合さんを見つけて、駆け寄っていく天音。 俺たちに呼ばれ、茉百合さんは驚いた顔で振り返った。 「晶くん、天音ちゃんも。二人ともまだ残っていたの」 「どうなっているんですか? 外部との連絡は、取れないんですか?」 「ええ……。今、ぐみちゃんが何とか連絡を取ろうとしてくれてるわ」 「何か手伝えることは?」 「いいえ、もう今は私も手を出せないのよ。歯痒いけれど、私が出来るのは残った生徒を落ち着かせることくらい」 「……そうですか…」 「大丈夫よ。そんな顔しないで。椅子にでも座って、ゆっくり待っていてちょうだい」 すると、入り口の大きなドアが開いて八重野先輩が入ってきた。 「早河、他に生徒はもういないようだ。外の電力を切ってかまわないぞ」 「はいっ、了解しました!」 「葛木……」 八重野先輩は俺の姿を見つけると、一直線にこちらにやって来た。 「すまない、注意を受けていたというのに、お前の言う通りになってしまったな」 「い、いえ……」 楽譜は忘れなかったというのに、天音と俺は結局こうやって閉じ込められてしまった。 それを考えると、どうあがいても同じ結果になってしまうのかもしれない。 一瞬、夢の中の結末を思いだして、背筋がぞっとした。 「晶くん、気分悪いの…?」 「……いや、大丈夫。ごめん」 自分の気持ちを奮い起こすように、後ろから天音の手をとってぎゅっと握る。 少し驚いたようだったけど、天音はためらいがちに握り返してくれる。 「八重野くん、講堂の照明も念のため一番弱いものにしておいた方がいいんじゃないかしら」 「そうだな。では照明室に行ってくる」 前と同じように、茉百合さんは壇上に立って生徒達を座席に誘導し始めた。 その間、天音はまたきょろきょろと周りを気にしている。 「………」 ……そうだ、天音は会長を探してるんだ。 「…………」 これからどうするべきだろう。 天音と会長を、話し合わせなきゃいけないと思うんだけど――。 夢の中では、寝ている会長を見て天音は逆上していた。 そんな状態では話し合いも何も出来ない。 まずはちゃんと事情を話しておいた方がいいだろう。 「天音」 「うん?」 「その、会長な。えっと、八重野先輩から聞いたんだけど、体調があんまり良くないみたいなんだ」 「えっ……」 「だからあっちの座席の奥で寝てる」 「そんなに、悪いの?」 「そこまでってわけじゃないと思うけど…とにかく、えっと……」 「私、お兄ちゃんのとこに行きたい」 「天音…」 繋いだままだった俺の手を、天音は引く。 昨日はまだ残っていた、表情の儚げな色は消えていた。 「晶くんがそばで支えてくれるって言ったから……もう一度聞いてみたい、お兄ちゃんの気持ちを」 「…うん」 座席の向こうまで行くと、やっぱりそこに会長はいた。 毛布をかぶって横になって眠っている。 体調が悪いとわかっていて見ると、確かにぐったりとしているようだった。 「………お兄ちゃん」 「………う…」 天音の声で起きたのか、会長は呻きながら起き上がった。 「お兄ちゃん大丈夫?」 「……なんだよ」 「――っ」 「…………」 そのまま不機嫌な瞳を、俺のほうに向けてくる。 『余計なことを喋っていないだろうな』と言われたような気がして、俺はとりあえず小さく頷いておいた。 「お兄ちゃん。私聞きたい事があるの」 「……なに」 「いま、今聞いておかなきゃって――どうしても」 「この間から晶くんのこととか、私の……こととか、なんでなの? 何か理由があるの?」 「別にない」 「それは、私や皆を困らせようとしてるってこと?」 「はは、そんなだったら、いいよな」 「………」 「お前と俺は違う……」 「え…」 「違うんだ、天音。俺はお前みたいに良心的じゃないし、誠実でもない」 「お前が当たり前みたいに持っているもの全て、俺にはないんだよ」 「何が無いの? 何が私と違うって言うの……どうして? お兄ちゃんまるであの時と同じ……」 「―――うるさい! なんでなんでって、鬱陶しいんだよ!」 「…っ!」 いきなり怒鳴りつけられ、天音はびくんと震えた。 どうしてこうなってしまうんだ。 天音は穏やかに聞いていたし、大丈夫だと思っていたのに! 「会長…!」 俺が咎める声をあげる前に、天音のほうが先に今にも泣き出しそうな声で叫んだ。 「だって! なんで? お兄ちゃんいつも私のこと聞いてくるのに、私がお兄ちゃんのこと聞こうとするといつもそう! どうしてなの!?」 「お前には関係ないことだ!」 「どうして、関係ないとか……どうして……やっぱり答えてくれないんだよね……もういい」 「……」 「もういいっ!」 「あ、天音っ!! 待て!」 天音は踵を返して走り出す。 あの時とまったく同じ流れに、俺は必死で天音をすぐに追いかけたが……。 「きゃっ!」 「わぁっ、ご、ごめん」 運悪く生徒とぶつかってる間に、あっというまに天音は講堂から出て行ってしまう。 「天音ーっ!」 俺は迷い無く廊下への扉を開け、天音の後を追った。 「……くそっ!」 ―――結局、こうなるのか! 結局、俺は何もできないのかよ! 精一杯の手助けをしようって思っていても、何も出来ていない! 焦りと後悔で、心がいっぱいになる。 「天音ーっ!!」 返事はない。 廊下の先は静かだ。 一旦足を止めたことで、少しだけ頭が冷えた。 「…そうだ、倉庫教室!」 突然、廊下の電気が点灯する。 窓を見ると、閉まっていたシャッターがどんどんと上がっていった。 「早い! もう電気がついたのか…!」 「頼む、間に合ってくれ……」 「はあ、はあ……天音」 「だからいい加減分かれよ! 俺にいちいち説明させるな!」 「何も言ってくれないのに、分かるわけないじゃないの! ちゃんと言ってよ! お兄ちゃんは何を考えてるの!」 教室の中からは、兄妹が言い争う声が聞こえてきた。 まだ、間に合うか? ――頼むから、間に合ってくれ! 「…っ…」 「やめろっ!!」 「っ、晶くん…」 叫びながら教室の扉を開ける。 天音は一瞬だけ俺の方を見たが、会長はかまわずにそのまま言葉を続けた。 「どうでもいいだろそんな事! 俺が何を考えてようが、お前には関係ない!」 「なんで、なんで関係ないのよ! なんでそんなひどいこと、平気で言えるの?!」 「どうして私の気持ち、わかってくれないの!!」 「そうやって自分の気持ちばかり、俺に押し付けるな! 俺はお前とは違うって言ったはずだ!」 「じゃあどうしたらいいのよ、私、どうしたらいいの!? どうすれば満足なの?!」 「やめてくれって……やめろってば!」 「もうわからないよ!!」 一瞬、全員が電気の明滅に気を取られてしまう。 そして電気が消え、部屋は一瞬で真っ暗になった。 「――きゃっ!!」 「天音!」 「いや、こないで!」 「天音、あんまり動きまわるな! ここは危ない」 「あっ――」 「……!?」 「二人とも、動くな―――っ!!!」 俺は暗闇の中を走った。 ――ここで助けなきゃ、何のためにやり直してるんだ! 無我夢中で二人の手をとると、思いっきり自分の方に引き寄せる! 勢いをつけすぎて、床に転がった。 そうして、すぐに電気がつく。 たくさんある大道具はあの時と同じように倒れていた。 だけど、誰も下敷きにはなっていない。 「………あ…」 「……っつつ……あっ」 手をしっかりと掴んだままの二人は、息をのんで俺の顔を見る。 「しょ、晶くん! やだ、晶くん…!」 天音が真っ青になっている。 こめかみのあたりから、だらりと生温かい感触が伝わってくる。 ちりちりと痛みを感じるから、多分道具の端で切ったのかもしれない。 でも、それだけだ。頭は打っていないし、意識もしっかりしている。 「天音、どこも打ってないか? 大丈夫?」 「大丈夫、私は、でも晶くんが……血が…う…」 「大丈夫、ちょっと切っただけだ。大げさに血が出てるだけだから」 「会長は? 大丈夫?」 「あ……あぁ…」 「はぁ。よかった」 ひとまず安堵のため息がでる。 ―――これでひとまず、最悪の展開だけは免れた。 でもそれで終わらせる気はない。 ここまでやったんだ。きっちりと話し合ってもらう。 呆然と床にぺたりと座り込んでいる二人の腕を、俺はまだ握ったままだった。 二人の腕をぎゅっと掴む。そして大きな声で叫んだ。 「天音っ!」 「は、はい」 「しっかりしろ!! こんな言い争いがしたいんじゃないだろ! 俺がちゃんとついててやるから、自分の気持ちを素直に言うんだ!」 「本当に伝えたいことをしっかりと伝えなきゃ、あとで後悔するだけだぞ!」 「……晶くん……うん…」 俺と天音のやりとりを聞いて、居心地が悪そうに会長が目をそらしたので、今度はそちらを向く。 「あんたも!!」 「あんたもしっかりしろよ! 何でそうやって、そういう言い方しか出来ないんだ!」 「あんた結局、色々言い訳つけてただ天音と正面から向き合う事を避けてるだけじゃないのかよ!」 「……っ…」 「本当はあんただって、仲直りしたいって思ってるはずだ!」 「だからこれから天音が言う事、素直に聞いてもらうからな! わかったか!」 「……う……うん」 俺の勢いに押されたのか、会長は小さく頷いた。 「ほら、天音……」 「……」 「……お兄ちゃんは私のことなんでも知ってるよね」 「こういうとこに隠れることも、ピアノのことも、何が好きで、何が嫌いなのかも」 「……お前がわかりやすいからだよ」 「なのに、お兄ちゃんは何で隠すの? どうして何も言おうとしないの?」 「そんなに……嫌いなの? 私も…周りの何もかもも」 「………」 「お願い、教えて。知りたいの、私、お兄ちゃんのこと……」 「もし私のこと、本当に嫌いになってしまったんだったら、せめてその理由を教えて…」 「………違う」 「……え?」 「俺が嫌いなのは、俺だ」 「――っ」 「何の関係もなかったお前にひどい事をして、それからはもう二度と手を伸ばしたりしないって思ってたのに」 「いざお前がこの学園に入ってくると、その気持ちが緩んで……惜しくなって」 「それじゃ駄目だから、今度こそお前との関係を断ち切ろうと思ってたはずなのに、こんな風にたやすく誓いを壊されて……」 「何もかも、誰に対しても中途半端な、自分が嫌いだ」 「………お兄ちゃん…」 天音は、それ以上何を聞いていいのかわからない様子だった。 困ったように、言葉を詰まらせる。 「天音……」 俺は、少し考える。 そうだ。結局のところ……解いておかなきゃいけない根本的な誤解はひとつしかない。 「―――天音は、会長がいなかった方が、幸せだったって思ってるか?」 「思ってないよ。そんな事…全然思ってない」 「じゃあ、これからも? 会長がいない方が、幸せになれると思う?」 俺の質問で兄の意図を察したのか、天音は顔色を変えて会長に詰め寄った。 「お兄ちゃん、そんな事思ってたの? だから、私にわざとあんな態度、とったの…?」 「違う、わからないんだ、やつあたりだったり……嫉妬だったりも混じってる、そこまで綺麗な感情じゃない」 「そんなの、兄妹だったら当たり前じゃない! 私だって、お兄ちゃんにやつあたりしたことあるよ!」 「でも私、口では何て言ったって…本当にお兄ちゃんがいなくなればいいなんて、思った事一度もない!」 「だからさ……」 「つまり、天音の幸せには、あんたが必要なんだよ」 「………」 「そうだよ、私……」 「私、お兄ちゃんのこと、大切だから」 「…天音……」 まっすぐに真摯な瞳で天音に見つめられて、会長はうなだれる。 そしてしばらくの沈黙の後、小さな声で呟いた。 「……ごめん」 「お兄ちゃん………!」 天音の瞳にみるみるうちに涙がたまっていく。 でもそれは、もう悲しみがあふれ出たわけじゃない。 そのまま涙もふかずに、天音は会長の首元に抱きついた。 会長も何も言わず、黙って妹を受け止めている。 小さくすすり上げる声が止むまで、二人はそうやっていた。 ………。 なんだか天音の彼氏としてはちょっと複雑な気分もするけど、……でもよかった。 そう思っていると、天音を抱えたまま会長が俺の方を向く。 「…晶くんも、ごめん」 「いいよ。俺…なんだかんだ言って、あんたのこと結構好きだし…」 「………あ、そ、そうなんだ」 「これから天音を泣かせるような事しないでくれれば!」 「そういうの、こっちのセリフだと思うんだけど……」 一通り天音が落ち着いて、ようやく身体を離すと会長はようやく立ち上がった。 「…天音、立って」 「……うん」 「晶くんも。一緒に講堂へ戻ろう」 「講堂へ…? あ、荷物置きっぱなしだからか」 「それもあるけど……講堂はさ、ピアノ置いてあるだろ」 「え……」 「聴くよ。天音のピアノ」 「えっ…!」 「本当…?!」 「ああ、だけど……他に誰にも聴かれないようにしたいんだ。だから生徒がいなくなった今が、ちょうどいい」 ――誰にも。 その言葉に天音がまた少し、不安な顔をする。 「やっぱり……私はあの曲、弾かない方がいいの?」 「……晶くんや俺の前ならいいけど、人前では。理由は……今は、言えない。でも…いつか、話すよ」 「うん。わかった……待ってる…」 いつか、という言葉がもらえただけで充分だったのだろう。 天音はとても満足げだった。 「か、かいちょおおおお〜! 天音さんも! しょーくんさんも! ご無事でなによりです〜!」 講堂に戻ってくると、ぐみちゃんが今にも泣きそうな顔で走ってきた。 茉百合さんと八重野先輩もやってくる。 「ああ、ぐみちゃん。防災システムの解除、早かったなぁー、さすがぐみちゃんだよ」 「よかったわ、心配したのよ。天音ちゃんが飛び出して行ったときは真っ暗だったから」 「はぁー…」 講堂に他の生徒の姿は見えない。 シャッターが上がったから、多分帰宅させたんだろう。 俺たちを待っていてくれたのだとわかって、天音がぺこりと頭を下げる。 「あの、ご迷惑をおかけして、すみませんでした」 「いいのよ、天音ちゃんたちが無事だったのならそれで……」 「生徒はみんな帰ったの?」 「ああ、防火シャッターも全て解除済みだ。……お前、この始末どうするつもりだ?」 「か、会長、あの………」 「ああ、いいんじゃないの? 誤作動って事で。まあぐみちゃんからきつーく言い聞かせておいてくれれば」 「は、はい! わかりました! ありがとうございます!」 「しかしそれでは……」 「蛍は悪いんだけどさ、ピアノ出してきてくれないかな。天音が弾いてくれるんだってさ」 「………決着はついたのか。……わかった。誤作動の話は後日にする」 「ええっ! なんと、天音さんがピアノをお弾きにですか?! それは楽しみなのです!」 「まあ、天音ちゃん、ピアノ弾けたのね。全然知らなかったわ」 「ちょっ! ちょっとお兄ちゃん、さっき人前ではって言ったばかりじゃない!」 「いいんだよ、ここにいる人は。それとも何、観客が増えるのは恥ずかしいの?」 「……う、そ、それは…」 答えにくそうにもぞもぞとしている天音。 練習のときの付き添いをあれだけ嫌がった天音だ。 いざ、何人もの前で弾けと言われると、きっと自信がないんだろう。 「天音。大丈夫だよ」 「う、うん……」 八重野先輩が、舞台の袖からピアノを引き出してきた。 音楽室のものより、少し立派に見えるのは気のせいだろうか。 「ほら、行こう。ずっと聴いてもらいたかったんだろ?」 「うん…」 少しだけ気後れしている天音の手をひいて壇上にあがる。 生徒会の面々がそれに続いた。自然とピアノのまわりに集まる。 「な…なんだか緊張するな」 天音は恐々と椅子を引き出して座り、ピアノの蓋をあけた。 「…………」 そのまま、流れるように鍵盤に手を置く。 だけど、すぐにその手をまた膝の上に戻してしまった。 どうしたんだろう。 やっぱりちょっと練習したいのだろうか? そう思っていると、天音は顔を上げた。 「お兄ちゃん、もうひとつだけ聞いてもいい?」 「何?」 会長の返事は優しかったけれど、それでも天音はためらっているみたいだった。 やがて意を決して口を開く。 「お兄ちゃんが、ピアノを止めちゃったのは…私のせい? 私があの曲を弾いたから…だから止めてしまったの?」 「………天音」 「ずっとそう思ってたのか…?」 少し涙ぐみながら、こくりと頷く。 会長は首を振りながら答えた。 「お前が何をしてもしなくても……俺はピアノを続けられなかったよ。だから天音、お前のせいじゃない」 「私…私ね、お兄ちゃんのピアノが、大好きだったの……だから…ずっと……」 「…………本当は……」 「…天音…」 「………あ…」 「……っ、ごめんね、えっと、弾くね」 涙をさっと拭い、切り替えるように息を吸うと、天音はそっと鍵盤に手をおく。 「まっ…待ってくださいいいい!!!」 「きゃあ!」 その瞬間、ぐみちゃんが天音に後ろからぎゅっと抱きついた。 天音は驚いて両手をばっと上げる。 「ぐみちゃん?!」 「なななな、何?!」 「ぐみ…ぐみ、すっかり忘れてました! 天音さんの誕生日もう過ぎていたのですよね!」 「え、う、うん」 「日ごろお世話になっている天音さんにプレゼントも渡せないなんて、なんという失態でしょうか!」 「ちょっと来て下さい!」 「今?!」 「今です!」 「い、いやぐみちゃん、あの今はちょっと…」 「いいんじゃないかしら。私も天音ちゃんにプレゼント、あげられなかったですしね」 「茉百合さんまで?!」 「いや、あの、ちょっと……」 「こっちです! こっちに来てくださいなのです!」 ぐいぐいと引っ張るぐみちゃんに負けて、天音は席から立ち上がる。 そのまま連れられて、舞台から降りていった。 ど、どこに行くつもりなんだろう。 「こっちです天音さん! ここに!」 「あぁ、…今せっかく天音のピアノを…」 「晶くん、あなたもいらっしゃい」 「ええ? なんで…」 茉百合さんが微笑みながら、手招きをする。 下では、天音がぐみちゃんに無理矢理座席に座らされていた。 「……まぁ、そうだな。確かに早河の言う事も一理ある」 しばらく考えていた八重野先輩もそう言うと俺の横を通り、壇上から降りた。 そして天音の近くの席に座る。 俺は、わけのわからないまま壇上に突っ立っていた。 天音のピアノを聴くはずだったのに、どうしてこんな事になっているんだろう。 というか、俺はこれから一体どうすれば。 「晶くん、天音ちゃんの隣に行かなくていいの?」 「い、行きますけど……え?」 茉百合さんに促されて、俺は天音の隣に座った。 隣の天音が、こそこそと話しかけてくる。 「晶くん、あの、どうなってるの?」 「俺にどうなってるって言われても……」 前を見ると、壇上に一人残っている会長がおろおろとしている。 すがるようにぐみちゃんや茉百合さんをちらちらと見ているが、二人は笑顔を返すだけ。 無言で八重野先輩が座席の床を蹴って足を鳴らした。 その音に、会長はびくっと震えた。 「…………」 「わかったよ、もう……」 「え……」 「たしかに、俺が謝らなきゃいけないのに、先に天音に弾かせるのもおかしいな」 「…―――!」 会長が、ピアノの前に座った。 ぴんと背筋をはって息を吐き出してから、指先が鍵盤へとおりてゆく。 ゆっくりと奏でられてゆく旋律が俺や天音や、この場にいる人みんなを包んでゆく。 この曲には聴き覚えがあった。 天音が弾いていたのと、同じ曲だ。 だけどほんの少しだけ印象が違った。 ピアノのことはよくわからない。 けれど、天音が弾いていたときよりも深く――大きな波が寄せてくるような感覚があった。 「……この曲」 会長があんなにも嫌っていて、天音に弾くなといったあの曲だ。 なのにどうして会長は、こんなにも美しく深くこれを奏でられるのだろう。 強弱を繰り返しながら奏でられる旋律は、長い夜の中で見ている夢のようだった。 嫌っていたり、憎んでいたり……そんな感情はどこにもなかった。 本当にこの曲を嫌っていた人が、こんなにも優しく切なく弾くことなんてできるだろうか。 この人は――何を思い出しながら、この美しい曲を弾いてるんだろうか。 『おにいちゃん』 『……あまね』 『ピアノ、好き』 『ありがとう』 『ここ座ってもいーい?』 『いいよ……あのな天音、さっきはごめん』 『うん』 『天音も一緒にひこうか』 『うんっ!』 『ど、ど、れ、み、そ?』 『ほらほら、指はこっち。こういう風に弾いてみ?』 『ああう、まちがっちゃった』 『もういっかい。ゆっくりやったらできるよ』 『できないよー、とどかないもん』 『よーく見てみて、ほら、こう』 『……えっと、1番の指をこっち? あれれ?』 『ゆっくり、こっちに』 『あーん、できないよう。だってお兄ちゃんみたいに上手じゃないもん』 『できるよ』 『できない、できないっ、だってお兄ちゃんはピアノもとからうまいんだもん』 『そんなことないよ? 僕にピアノ教えてくれたのはお母さんなんだから』 『ほんと?』 『うん、お母さんがちゃんと教えてくれたから、上手になれた』 『あまねもできるようになる?』 『うん、できる』 『わーい、じゃあずっといっしょに、お兄ちゃんと弾けるね』 「――そうだった、ずっと忘れてなんてなかったはずなのに」 「――もともとピアノを教えてくれたのは僕の本当の母じゃなくて、今の母さんだった」 「――結局ピアノを捨てられないってことは…家族を捨てられなかったってことなのかな」 流れていたピアノ曲が、静かに最後の章を終えた。 会長は再び深呼吸をしてから、立ち上がった。 「………あぁ、うそ」 「本当にやめてたんなら、そんなに弾けるはずない……お兄ちゃん……!」 「あぁ……無様にもがいたあげく、とうとう捨てきれなかったんだよ。ピアノは……」 「ピアノは、俺にとって家族との思い出だから」 「……うっ…ううう…私…」 「さあ、次は天音の番だ。ほら俺に、聴かせてくれよ。どれくらい上手くなったのか、楽しみだ」 「……っ、ずるいよ、そんなの、お兄ちゃんの方がずっとうまいに決まってるじゃない…」 天音の頬が、涙でぬれていた。 だけどそれは悲しい涙じゃなかった。 嬉しいときに流れる、温かな涙だ。 「うまいとか、そんな事は関係ないだろ。俺は天音のピアノが聴きたいんだから」 「……うん…うん…」 涙でくしゃくしゃになった顔をごしごしとこすりながら、天音は壇上に向かった。 俺は、ぐみちゃんや茉百合さんの言ったプレゼントの意味がようやくわかった。 「……茉百合さんたちは、知ってたんですか?」 「何をかしら?」 「会長がピアノ弾けること」 「ふふふ、ぐみちゃんが、最初からずっと言っていたじゃない」 「そうですよ! 会長はどんな曲でも完璧にやりこなすし、すーっごく楽しい気持ちにさせてくれるし、その演奏の魅力はまとめきれません!」 「ぐみは会長のピアノは、本当にすっっっっばらしいと思うのです! だからそんな演奏が出来る会長は、素晴らしい方なのです!」 「は…はぁ…」 「どうも早河は人格と演奏を切り離して考えられんらしい」 「ひどい言い方するなぁ」 「か、会長…」 舞台に上がっていった天音と入れ替わりで、俺の隣に座る会長。 その横顔を見て、俺はひとつの記憶を思い出していた。 「………」 「……会長の欲しいものも、本当はわかってないだけで、ちゃんともう、そばにあるんじゃないですか?」 「え? 何の話…?」 「俺、会長が大怪我する夢を見たって、言いましたよね。理事長…会長のお母さん、病室の前で泣いてたよ……」 「本当に嫌いなら、誰も見ていない夜の病院なんかで、そんなことしないと思う」 「………」 「え?」 そう言われて前を向くと、天音がピアノの前に座っていた。 まだ少し涙のにじんだ目で、俺の方を見る。 「晶くん」 「…うん?」 「私、晶くんのおかげで、この曲をもう一度練習できた……晶くんのおかげで、お兄ちゃんとも仲直りできたよ。ありがと、本当にありがとう!」 「うん……」 「聴いてくれる?」 天音は頷くと、ピアノを弾き始めた。 背筋はまっすぐで、深呼吸してから奏でるその姿。 それはさっきまでそこにいた兄と同じ。 天音は一瞬だけ、不安げな眼差しを俺に向けた。 俺は大丈夫と、小さく囁いた。 声が届かなくても、きっと天音には何かが伝わったはず。 小さな微笑が、天音の顔に広がっていたから。 ――ねえ、天音。 天音のピアノを聴きながら、俺は言った。 天音。 きっと天音の抱えていたことは、俺が何かしてうまくいったんじゃない。 結局は天音自身がぶつかって向き合って、兄妹ふたりで解決したんだよな。 俺はそんな強さを本当にすごいと思うし、そんな天音のことが本当に好きだ。 ピアノはいつまでも続く。 心地よいゆるやかな旋律は、ずっとずっと流れていく。 俺と天音の間に流れる時間も、そんなふうであってほしいと――強く強く願った。 いろいろなことが終わって、数日が経った。 繚蘭祭の後の久しぶりの休日、二人きりでゆっくり過ごしたくて、俺たちはデートに行くことになった。 「おはよう、晶くん」 「おはよう、俺、遅かった?」 「ううん、時間はぴったりだよ。私がちょっと早く起きちゃっただけ」 「そっか」 「ねえ、晶くん。あれからお母さんともいろいろ話したんだ」 「うん」 「お兄ちゃんと、お母さんも一緒にご飯食べたりしたの」 「そうか、この前寮に戻ってこなかった時?」 「そう。本当はダメなんだけどね、外泊」 「外泊っていっても、理事長なんだからさ。別にいーんじゃないか?」 「そ、別にいーよね」 天音の顔は晴れやかだった。 以前までの、生真面目なほどの融通のきかなさがなくなったような感じにも思える。 「そういえば、その時に話してたんだけどね。晶くんってうちのお母さんも助けてくれたんだよね」 「え? お母さんも? なんだろ…何かした、俺」 「覚えてないのー? ここに来る前、引ったくりにあいそうになったのを助けてもらったって、お母さん言ってたよ」 「あ、あ、ああ!」 そういえば、確かにそんなこともあったな……。 「え、あれが理事長!?」 「うん」 「あの時は必死だったし、俺もすっころんだし、何より警察にも話聞かれたりだし……すっかり顔忘れてた」 「そうだったんだ」 ――あれ? じゃあもしかして、この学校に来れたのはやっぱり理事長のおかげなのだろうか? 天音の言葉で、考えは途中で遮られた。 「ねえ、晶くん」 「ん?」 「晶くんって、魔法使いみたいだよね」 「は、は、はいーっ!?」 「あはは、そんなに驚かなくってもいいじゃない」 「や、何が、どうなって、魔法使い??」 「んー、えっと、ちょっと恥ずかしいんだけど」 「魔法使いってとこでもう恥ずかしいってば」 「そういう意味か」 「そういう意味」 「でもさ、天音だって頑張っただろ。天音が頑張ったから、いろいろうまくいったんだと思うよ」 俺がそう言うと、天音は一瞬きょとんとしたあとににっこりと微笑んだ。 「晶くん」 「すっごく、好き」 「えっ、な、なに」 「ふふふっ」 二人で足並みを揃え、仲良く寮から出る。 すると、騒がしい足音が近づいてきた。 「しょ、しょ、晶く―――ん!!」 「な、なななんでっ!?」 「……?」 親父!? どうしてここに!? 今? 「なんだよもう、もうそういうことはさ! なんでもっと早く教えてくれないんだよっ」 ダッシュしてきた親父は、いきなり俺の肩をつかんでがくがくと揺さぶった。 「ぜんぜん連絡くれないし、たまにあっても『別になにもー』なんて言っちゃってさあ!」 「う、げほげほっ」 「別に何もなくないじゃないか!! もんのすごく大事件じゃないか!!」 「ちょ、お、おち、落ち着け」 「あの、あのー…」 遠慮しがちな天音の声に、ようやく親父は手をとめた。 あぁ……天音がすごく、不審な目で見てるよ…。 「しょ、晶くん、この方は……どなた?」 「残念なことに……俺の……」 「父です! 葛木茂樹です! やー、いきなりごめんね」 「――っ!!」 親父は俺の肩からまたたく間に手を離すと、目をきらきらさせて天音のほうを見る。 「君が天音ちゃんだったんだね!! はじめまして〜そっか、この子かあ」 「……親父?」 「もう、こういうことはさー、一番に教えてほしかったぞ。恥ずかしがらなくっていいんだぞ〜」 「はあ?」 「晶くんに彼女ができたなんて、もう、父さん休暇とって駆けつけてきちゃったよ」 「なっ!?」 「天音ちゃん、どうぞよろしくね。晶くんはちょっと早とちりしやすいけど本当に優しくって良い子で――」 「ちょっとまった!! まったー! なんで知ってるんだ? 親父、誰から聞いた!」 「誰って、晶くんの親友さんからだよー」 …親友って………? 嫌な予感がして、俺と天音は周囲に視線をめぐらせる。 「お兄ちゃんっ!!」 「はっ!」 そばに隠れてこちらを窺っていたらしい会長が、天音に名を呼ばれると出てきた。 とことこと駆け寄ってきて、何食わぬ顔をして親父に話しかける。 「いやあ、葛木さん、ここまで迷ったりしませんでした?」 「奏龍くんが送ってくれた地図がわかりやすかったから、大丈夫だったよ」 「……まさか」 「お兄ちゃん、なにか隠してるでしょう」 「か、かか隠してなんかないよ? 嘘もついてない」 「ただ、その、晶くんの近況報告をちょこーっとお送りしただけ!」 「そうだよ〜、晶くんちっとも連絡くれないんだもん」 「かーいちょー……」 低い声を出してにじり寄ると、会長はあとずさる。 「こらこら! ケンカはいけないぞ」 「わかってます、晶くんのことは僕がいっちばんわかってます」 「うんうん、良かったねえ晶くん。お友達っていうのは青春時代で一番大切なものなんだよ」 「そうなんですよね、僕も晶くんにいろいろと教わってます」 「そうなのかい!? いや、そういってもらえると嬉しいなあ。男手ひとつで育てたけど、本当に良い子になるよう、頑張ったんだよ」 「お父さん……」 やけに意気投合する二人。そうだよな、ちょっとテンションが似てるもんな……。 ――って、そんなことよりも! 「ちょ! いまお父さんって言った!」 「だって、最終的にはそうなるでしょ?」 「お、おに、お兄ちゃんっ」 「ならないの?」 「ならないの?」 「だーかーら!!」 「なんだ…結婚したくないんだ…ないんだ……」 「結婚するのはイヤじゃないってば!」 「――っ!!」 勢いでそう言うと、隣で天音が火が出そうなほど顔を真っ赤にしていた。 そ、そっか。 これって、ある意味―― 「え……今のって、今のって」 「どうしよう奏龍くん、僕たちこんな素敵な現場に居合わせちゃったねえ」 「ちょ、ちょっとちょっと!!」 「で、ですよね! わあ、どうしようこれ、いっそ学園をあげてのお祝いでも……」 「晶くんっ!!」 「天音?」 「もう、デート行くんでしょっ」 「あ、ああ」 「ほら、もう行くのっ!!」 「う、うん」 「天音ちゃーん! 後で! 後でゆっくり話ししよーねえ!」 「お、おーい!! 俺も一緒でもいいー!?」 「もう、騒がしいんだからっ!」 「天音、怒ってる?」 「怒ってない」 「ほんとに?」 「怒ってない! だってさっき……言ってくれたんだもん」 「……あ」 ―――さっきの。 結婚するのは、嫌じゃないってあれだよな……。 勢いよく言ったけど、あれって実質プロポーズ的なセリフだったんじゃないだろうか。 うわ、そう思うと恥ずかしいし、情けないし、せめてやりなおしたい……! 一体どう思われているのか一瞬不安になったけど。 だけど、恥ずかしそうではあったものの、天音は嬉しそうにはにかむ。 「嬉しかったよ」 「急にごめん、あんなこと言って」 「私も、同じなんだからね!」 「同じなんだから! わかった?」 小さくて、温かくて、とても愛しいひとの感触。 何があっても、たとえケンカしたり、寂しかったり悲しかったりしても。 いつまでも変わらず、俺はこの手を離さずにいよう。 返事のかわりに、俺はぎゅっと天音の手を握り返した。 「――大丈夫かな、お母さん。早く良くならないかなあ」 「――え!?」 「お、お母さん!? どうしたの?」 「お母さん……お母さん」 どうしたんだろう――それが最初に湧きあがった気持ちだった。 そのひとは頭を抱えるように床にうずくまってる。 「どうしたの? 頭痛いの?」 「……ああ、ごめんね……お薬……」 「お薬ないの?」 「……ん、んんっ」 うんうん、と頷こうとすることですら、苦しそう。 急がないと。 急いで助けないと。 何ができるだろう。 何がいまこのひと――お母さんにとって一番なんだろう。 「ぼ、僕、とってくる! お薬とってくるね!」 「……お母さん、お薬」 どうしたの――なんて言葉は喉の奥にひっこんでしまった。 目の前にあることが、なにひとつ信じられない。 優しげで、微笑んでいて、いつだって『きちんと』してる人。 それがお母さん。 なのに。 そのひとは床に倒れて、まるで何も見えないように手足をばたつかせていた。 「いやぁ!」 「お母さん!? おかあさ……」 「やっ、いや! こないで!」 細くて白くて、長い指。 きれいな手――その手が、乱暴に振りかざされた。 せっかく急いで持ってきたのに。 大事な薬と、水の入ったガラスのコップが床に落ちて粉々になってしまった。 「……えっ?」 「来ないで! もう来ないで!!」 「だって、だって……」 「どうして帰って来たの! どうして今さら帰って来たりするの!!」 「え……」 「どうして私の大事なものばかり奪って行くの! もう取らないで……私から何も奪わないで!!」 「お母さん? ど、どうしたの?」 「近寄らないで……来ないで……! いや!」 「お母さん、大丈夫? どうしたの?」 「いや、もういや……見たくない! あんたなんか見たくない!!」 「……え?」 「いや、いや……いや、いやよ……ねえ、香奈さん、知ってるんでしょ」 「――っ!!」 香奈さん。 どれくらいぶりに、聞いたんだろう。 たとえ何年聞かされなくても、忘れることなんてないその名前。 本当のお母さんの名前だった。 「ねえ、あの曲、あのひとが好きだもの。ねっ? 香奈さん、そうなんでしょ?」 「知ってるんでしょ? 香奈さん……本当はずっと、ずっとあなたのこと……あのひと、愛してる……」 「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……!」 「聞きたくない……聞きたくない!」 「香奈さん……香奈……あなたなんか、あなたなんか……」 「ごめ……ごめんな……さっ……」 「……えて」 「え……」 「消えて……」 「ごめんなさい……ぼ、僕がいるせいで……」 「あなたなんか、もう消えて!! 消えて! 消えて……!!」 「ごめ……ごめんなさ……ごめんなさい……」 ごめんなさい。 ごめんなさい。 何度頭を振っても、耳をふさいでも、聞こえてくる。 罵倒しているお母さんの声じゃない。 ただずっと謝っていた自分の声だ。 それが頭から離れないんだ。 ごめんなさい。 どうすれば――許してくれるの? ごめんなさい。 「はぁっ……はぁ…はぁ……」 「やっと起きたか。…今日は長かったな」 「……はぁ……はぁ…」 「とりあえずその汗と涙を何とかしろ」 視界を覆ったのは柔らかい白いタオルだった。 指先がうまく動かない。 頬に手をやると少しだけ熱かった。 さっきの音は、ここを叩かれたんだということがやっと理解できる。 この痛みは初めてじゃなかった。 何度かあの夢を見てうなされるたびに、こうして無理やり目覚めさせられる。 汗をぬぐってから、ため息をついた。 「……いま…何時?」 「4時前だ」 「…はぁ……ごめん」 「俺にまで謝るな」 「……うん…はぁぁ……」 「顔色が悪いな」 「……あんまりまともに寝れてないから…」 「熱があるんじゃないのか」 「さぁ…」 「今日は休むか?」 「……行く…一人でいると、気が滅入る……」 「―――お前のそれ、ここ数日酷すぎるぞ」 「…………」 「だから、悪かったって」 「謝れと言っているわけじゃない。何とかならんのか」 「……なんとかって言われても」 「せめて、葛木に軽く事情を話してはどうだ。あいつは信用できると思うがな」 「………」 「嫌なのか、葛木に話すのは。お前が言いにくいのなら、俺がうまく話してもいいぞ」 もう一度、ベッドに倒れこんで天井を見上げた。 さっきの夢よりも鮮明に思い出されるのは、自分の話を唯一全部吐き出した時のことだった。 ただひとり、それを教えた相手だからこそ、あの悪夢から無理やり引っぱたいて起こしてくれる。 「蛍はさ……なんで俺があの時、お前に自分のこと全部話したのかわかってるの?」 「……病院での話か?」 「そう」 この学園に入学してきたばかりの頃だ。 生真面目な完璧主義者と、のらりくらりと何でもやりすごす正反対の二人は何かと相性が悪かった。 ただでさえピアノを止めたばかりで、気持ちも生活も荒れていた頃だ。 ぶつかりあうまでに多くの時間はかからなかった。 結局、大ゲンカのあげく病院送りになってしまったのは自分の方だった。 「自分を完膚なきまでに叩きのめした相手に対する、ささやかな意趣返しの嫌がらせだと思っていたが、違うか」 「わかってるんじゃん。じゃあ俺が晶くんに何も話したくないのもわかるでしょ」 吐き捨てるように語った、自分の中の感情。 嫌がらせのつもりだったのかもしれない。 わかっていた。 自分の過去はきっと、人を傷つけることしかできない。 「俺はねー。晶くんの事、すごく気にいってるんだよ。好きなの。重い話してドン引きさせたくないの」 「大人気ない八つ当たりで怪我をさせたくせによく言うな」 「あれは………ついかっとなって…」 自分の手のひらを見てみた。 血の気がなく、真っ白だった。 あの時のお母さんの手にそっくりだ。 うらやましかったのかな。 あんなふうに、人の中へとまっすぐに飛び込んでこようとする何かが、うらやましくて、うとましくて――。 「……まあいい。お前の気持ちはわかった。義理は立てる、葛木には何も言わない」 「うん。……大丈夫。もう少し経ったら……落ち着くと思う…たぶん」 「あの時のように馬鹿な事をしなければ、それでいい」 「……しませんよ、ずっとはり付いてるくせによく言うな」 「お前が心配だからだろう」 「………」 「落ち着いたのなら、少しでも寝ておけ。登校はするんだろう」 「うん…」 「ん? あれ……」 聞きなれない音で目を覚ますと、なんだかいつもと違う感触。 見える景色も違う。 オレンジ色のソファに、花柄のカーペット。 そうだ、天音の部屋だ。 昨日、あのまま泊まったんだっけ……。 「ん……」 この音はどこから鳴っているんだろう。 と思っていると、ごそごそと布団から天音の腕が伸び、置いてあった時計の後ろのボタンを押した。 「ふぁああああ」 「天音」 「あ……」 「おはよう」 「うん。おはよう」 挨拶を交わすと、天音は少し照れくさそうに笑う。 その表情に、暗い影はもうほとんど見られない。 「今日は後片付けだな。がんばらないと」 「そうだね。準備の時よりも大変かも。でもちゃんと片付け作業しないと、イベントは終わった事にならないものね」 「だな」 「しっかりやる。元気も出たし……」 「そうか、よかった」 「……ふふふ」 「なに? どうかした?」 「あのね、目が覚めた時に目の前に晶くんがいたのが、ちょっと嬉しかったの」 「あ……」 「恥ずかしいけど、なんだか嬉しい」 「うん、俺もそう思う」 「今日も1日、がんばろうね」 「ああ」 顔をあげると、天音はにっこりと笑ってくれた。 一昨日よりも随分元気になってくれたみたいだった。 ほっとしながら、俺はベッドから降りる。 これから制服に着替えて、学校で掃除と片付けだ。 一通りの片付けと掃除が終わって、俺たちは正門の前に集まっていた。 九条も無事展示ブースの撤収を終え、途中から合流している。 「みんな、今日はご苦労様でした。明日からは連休だから、しっかり休んでね」 「おー! 疲れた体をおもいっきり休めるぜ!」 「28号はlimelightの仕込みがある」 「うおぉぉぉ、そうだった、忘れるとこだったよマミィ! 明日もがんばるぜー!」 「どっちなんだよ……あ。そういえば茉百合さんは?」 「まだ生徒会の仕事が残ってるんだって。生徒会は、繚蘭祭終わってからの方が忙しいから…」 「そうなのか。大変だなあ……」 「じゃあ、寮に帰ろっか」 「うん!」 「ワタシは、ちょっと」 「え?」 「ちょっと用事」 「まだ仕事あったのかよマミィ?」 「………」 「……くるり? どうしたの? 何か…」 「なんでもない。じゃ」 「………どうしたんだ、九条?」 「………」 「あ、あの、どうする? 帰らないの?」 九条の様子もちょっと気になったが、それ以上にすずのの事が気になって俺は結衣に近寄る。 少し声をひそめて話しかけた。 「すずのは? 見つかったのか?」 ――結局、俺は教室の片付けに手間どって、すずの探しを手伝う事が出来なかった。 一人で探していたらしい結衣には申し訳ない。 「ううん、いなかったけど…多分先に寮に帰っちゃったんだと思う。スペアの鍵も渡してあるから」 「そうなのか。それならよかった……」 「………」 「天音?」 「え? あ、何?」 「大丈夫? 何かぼーっとしてたから」 「おいおい、働きづめで疲れちまったんじゃねーのか? ちゃんと見ててやれよ晶よー!」 「あ、違うの、大丈夫よ。あのね、晶くん……」 「何?」 「………」 話しかけたものの、俺が聞き返すと天音は黙ってしまう。 ―――何かここでは話しにくい事があるんだ。 すぐに理解した俺は、天音の手を引いた。 「マックス、結衣。ごめん先に寮に帰ってて」 「え?」 「俺、ちょっと忘れ物したんだ。天音と取りに行って来るよ」 「あ…う、うん」 「なんだよ忘れ物かよー。気をつけろよー! 寮で待ってるからな!」 「うん、じゃあ」 マックスと結衣と別れ、俺は天音をつれて校舎に戻った。 ほとんどの生徒が帰宅し、人気の無くなった校内。 きっとここでなら、天音も話してくれるだろう。 「天音、どうしたんだ?」 「弾いたって、ピアノ…?」 「すごく、簡単で短い曲……なんだけど」 「あ! えっと……『虹の彼方に』だっけ?」 「うん…。覚えててくれたんだ。それの、原曲の楽譜をね。音楽室に置いたままにしてて……」 「取りに行きたかったのか?」 「うん……」 ……そうか。 ピアノの話だから、みんなの前では言いにくそうだったんだ。 そうだよな。 ……ピアノというと、どうしても会長との事を思い出してしまうだろうし。 「わかった。じゃあ、音楽室に行こう」 さっきしたように、もう一度天音の手をぎゅっと握る。 「わ、わ、晶くん。ここ学校…」 「もうほとんど誰も残ってないよ」 「ほら、取りにいこ」 手を引っ張ると、天音は恥ずかしそうにしながらも歩き出してくれた。 誰もいない廊下なのに、学校で手を繋いで歩くのは何だか俺も恥ずかしい。 だけど、手を離す気は無かった。 音楽室の楽譜置き場の、端の方に置いてある楽譜をひとつひとつチェックしていく。 しばらくごそごそとしていると……。 「あ、あった。これ……」 そう言って、天音が嬉しそうに楽譜を取り出した。 「よかった」 「寮に持って帰るの?」 「うん……休みの間にちゃんと…練習しようかなって」 「そっか」 ピアノは学校にしか無いけれど、天音は楽譜を部屋でじっくりと見直したいのかもしれない。 ――まだピアノを弾こうとしている。 それがわかって嬉しかった。 まだ、あのたどたどしいけれどきれいな音を聞くことが出来るんなら、俺は何だって手伝いたい。 そんな気持ちが伝わったのだろうか、天音はこっちを見て、ふわっと笑ってくれた。 ……その笑顔が、今までのどんな天音よりも儚なげだったから。 どこか危ういものを感じてしまう。 「天音……」 「なに?」 聞き返す天音の表情は、もういつもどおりになっていた。 ……気のせい、だったのかな? 「あ…ううん。なんでもない。じゃあ、帰ろうか」 「そうだね」 昇降口までのしばらくの間、二人で廊下を歩く。 その間天音はずっと、大事そうに楽譜を胸に抱えていた。 「その曲、ほんとに好きなんだな」 「…うん」 「ピアノではわからないけど、歌詞も素敵なんだよ」 「どんな歌詞なの?」 「……『虹の彼方の空の上に、子守歌に出てくるような、願い事がみんな叶う夢の国がある』…」 「そんな感じだったかな。元は英語だから、間違ってるかもしれないけど」 「へえ、なんかおとぎ話みたいだな」 言ってから、よく考えたら童話の歌だと気付いた。 何を言ってるんだ、おとぎ話で当たり前じゃないか、俺。 だけど天音はそれとは違う部分で何か面白かったらしく、くすくすと笑っている。 「晶くんだったら、ずっとご飯出してもらいそうだよね」 「………そんな。ずっと食べ続けるのはさすがにムリだ」 「ふふふ」 「えっ?! なんだ!?」 「これ……警報ベルだわ!」 突然高らかに鳴り響いたベルの音。 前からも後ろからも、上も下も、どこからも聞こえてくる気がして、一体どこのベルが鳴っているのかまったく判断がつかない。 「どこで鳴ってるんだ?!」 「わからない! 全部のベルが鳴ってるのかも……」 「どこか、見に行った方がいいか? もしかしたら何かあったのかも」 「うん! でも、こんなにたくさんのベルが一度に鳴るなんて!」 「あ、止まった…」 けたたましかったベルの音が止まり、少しだけ安心する。 天音は厳しい顔をしたまま、まだ注意深く周りを見回していた。 「晶くん、生徒会室に行きましょ。トラブルかもしれない」 「え…でも……」 生徒会室に行けば、もしかしたら会長がいるかもしれない。 そのことが心配で素直にはいとは答えられなかった。 「……大丈夫。何か手伝えること、あるかもしれないし。私は大丈夫だから!」 「天音…」 確かに、何かあったのなら手伝いがいるかもしれない。 そう思っていると―――。 廊下の向こうから、激しい音がどんどんと近づいてくるのを感じた。 「な、何だよ今度は!?」 見ると、夕焼け空が見えていた窓に、轟音と共に黒い影がどんどんと降りていく。 「防災用のシャッターだわ!」 「ええっ?」 「さっきの警報ベルのせいかも……」 呆然と見守っている間に、窓のシャッターは全て降りきってしまった。 さっきまで赤く光り輝いていた廊下は、まるで夜のような雰囲気になっている。 「窓、全部閉まっちゃったけど……防災用って、何か起きたのか?!」 「わからない、火災ならスプリンクラーが動いてるはずだし……」 「一回、外に出たほうがいいんじゃないか?」 「うん……でも…」 天音は音楽室のあった方を振り返った。 確かその先には非常階段があったはずだ。 俺もつられて見ると、廊下の先にはいつのまにか大きな壁が出来ていた。 「駄目だわ、防火シャッターが下りてる。ここからは出られないから、正面玄関に回りましょう」 「わかった、行こう」 「……ごめんなさい、私が楽譜を取りに戻ったから…」 「何言ってるんだよ。むしろ一緒について来ててよかったよ」 「え…」 「天音を一人にしなくてすんだ」 「晶くん…」 「さあ、行こう」 「うん」 校舎内の様子を見に行っていた茉百合が、小走りで戻ってきた。 その表情は、珍しく緊張の色が濃く見えている。 「駄目だわ、どの階の窓も全部防災シャッターが下りてしまっていて」 「玄関や非常階段、外へ出られそうな場所にも防火シャッターが下りてます」 「つまり、閉じ込められたということか」 「……どうやらそのようね。携帯端末も繋がらないし」 「早河、防災システムにはやはりアクセスできないのか?」 廊下の壁のボックスから出たケーブルを、ノートパソコンに繋ぎしばらく画面を見ていた恵が困り果てた顔で言った。 「だめです、校舎内からのアクセスにはかなり強力な制限がかかってます」 「生徒会としてのアクセスでも無理なら、どうしようもないって事かしら?」 「後は理事会のアクセス権を使えば何とかなるかもしれないですけど……理事長のお部屋のある棟には行けないんですよね?」 「ええ、そこも防火シャッターが下りているわ」 「どうも作為を感じるな。誤作動というよりは、誰かが故意にやったとしか思えない」 「………」 「どうしたの、ぐみちゃん?」 「…こんなこと、故意にできるのって……」 今日は教員集会のため、ほとんどの教職員が午後から学校を出ている。 加えて、生徒の中で防災システムに干渉できるのは開発に関わったものと、生徒会、繚蘭会のメンバーだけだ。 黙ってしまった恵を見て、その場にいた二人にはおおよそのことが推理できた。 「………九条か。しかし、何故だ」 「わ、わかりません……ホントにくるりんがやったのかも、わからないですし」 「元気を出して、ぐみちゃん。まだくるりちゃんがやったと決まったわけじゃないんだもの。ね」 茉百合が恵の肩に優しく手をそえた。 するとそれまで、廊下の横で黙って座っていた影がのそのそと立ち上がる。 「ごめん。多分、俺のせいだと思う……」 「わ、わわわ会長! ご気分が優れないのに、あまり無理をなさらないで下さい!」 「皇くん? どうしたの、何か心当たりでもあるの?」 「天音とちょっともめたから、それで怒らせたんだと思う……あの子、昔から俺のこと嫌ってたし…」 「では、お前に報復するためにやったということか?」 「ああ……生徒会で問題が起きたら、最終的に責任とるの俺だからね」 確かにこのまま長時間生徒が閉じ込められるような事にでもなれば、大きな問題になる。 立場的に言えば、管理責任を問われるのはトップの人間だ。 「でも、いつも冷静なくるりちゃんにしては、あまりに短絡的すぎる気もするけれど……」 「人間、頭にきてるときはそんなもんだよ」 「くるりん……」 「……誰が仕組んだことであろうと、まずはこの状況を解決しなければどうにもならん」 「そうね。校舎に残っている生徒も混乱しているでしょうし」 「早河。なんとか突破できないのか」 「無理矢理防災システムを解除することは、出来なくもないですけど……でも今、非常電源に切り替わっちゃっているので」 「多分、先に電力がなくなっちゃうと思います……強行突破にはそれなりの時間がかかりますから」 「電力が無くなってしまったら、問題ね。シャッターが下りているから、校舎内はほとんど暗闇になってしまうわ」 「では、外部と連絡をとることは可能か」 「……そうですね。難しいですけどそちらの方がまだやりやすいかもです」 「確かに、制限のかかっていない外部からならシステムは簡単に解除できるかもしれないわね」 「そのうち外の誰かが異変に気付いてくれる、という期待ももちろん出来るけど……」 「だが、すでに殆どの生徒が寮に帰っているからな。知っての通り、教職員もほぼ全員が島内の教員集会に参加している。下手をすれば深夜まで誰も気付かないぞ」 「そうね、ならばあとは時間との勝負かしら」 「早河、校舎内の電力供給は操作できるか?」 「あ、はい。校舎内ならできます」 「では残っている生徒を一箇所に集めよう。他は電力供給を断って維持させるしかあるまい。一番作業がやりやすい場所はどこだ」 「白鷺さん、放送を入れてくれ。誤作動で防災シャッターが下りたから、校舎外に出られなくなった。残った生徒は講堂に集まれとな」 「わかったわ」 「俺は他に生徒がいないか軽く見て回る。早河、先に講堂に行って作業をしておいてくれ」 「あー…俺も見て回ろうか…?」 「お前は早河と講堂に行っておとなしく寝てろ。この状況で倒れられては困る」 「はぁい…」 「はいっ、会長のことはぐみにおまかせ下さい、がんばります!」 あちこちで降りた防火シャッターのせいで、俺たちは正面玄関にも行けなかった。 動きが取れずに困り果てた時に聞こえてきたのは、茉百合さんからの放送。 『残った生徒は講堂に』とのその放送を聞いて、俺は天音と共に講堂までやってきた。 講堂には、数十人くらいの生徒が集まってきていた。 「まだ結構生徒が残ってたみたいだな」 「そうね……でも、防災システムの誤作動なんて…今までなかったのに」 きょろきょろと、天音は周りを見回す。 すると、見慣れた黒髪が生徒達の向こうに見えた。 「あ、茉百合さん!」 茉百合さんを見つけて、駆け寄っていく天音。 俺たちに呼ばれ、茉百合さんは驚いた顔で振り返った。 「晶くん、天音ちゃんも。二人ともまだ残っていたの」 「どうなっているんですか? 外部との連絡は、取れないんですか?」 「ええ……。今、ぐみちゃんが何とか連絡を取ろうとしてくれてるわ」 「何か手伝えることは?」 「いいえ、もう今は私も手を出せないのよ。歯痒いけれど、私が出来るのは残った生徒を落ち着かせることくらい」 「……そうですか…」 「大丈夫よ。そんな顔しないで。椅子にでも座って、ゆっくり待っていてちょうだい」 「わかりました。天音、行こう」 「うん……」 天音を促して席に向かおうとすると、入り口の大きなドアが開いて八重野先輩が入ってきた。 「早河、他に生徒はもういないようだ。外の電力を切ってかまわないぞ」 「はいっ、了解しました!」 「八重野くん、講堂の照明も念のため一番弱いものにしておいた方がいいんじゃないかしら」 「そうだな。では照明室に行ってくる」 そして、舞台の奥に姿を消した八重野先輩と入れ替わるように、茉百合さんが壇上に登る。 残っていた生徒たちが茉百合さんの姿を見てざわめいた。 「みなさん、今から照明が少し暗くなりますけど、あまり心配せずに少しの間我慢していただけますでしょうか」 「もし暗くて何か問題があった場合は、すぐに私たちに言って下さい」 「それから、立ち歩くと危ないので、出来れば前の方の座席に座っていただければ嬉しいですわ」 よく通る声で茉百合さんがそう言うと、生徒達はぞろぞろと座席に座り始める。 「茉百合さんは凄いわね……」 「そうだな」 「………」 茉百合さんが舞台の端に下がった後も天音は落ち着きなく、目を泳がせていた。 きっと、会長を探してるんだろう。 なんとなくそう思う。 「大丈夫だよ、ここにはきっといないんだろう」 「う、うん……そうよね。こんな大変な時なのにいないなんて…」 「まあ、あの、大変だから、いない方がいいかもよ?」 「……そう……かも…」 いつもの役に立たない会長の姿を思い出したのだろうか。 天音はちょっと笑ってくれた。 「ほら、そっちの端っこの席に座ろう」 「うん」 指差すと、天音は素直に奥の方の席へと歩いて行った。 いなくて嬉しいというと語弊があるが、今は顔をあわせなくてすんでよかった。 「あの、晶くんちょっといいかしら?」 「あ、はい? 何ですか?」 「天音ちゃん、晶くんをちょっと借りて行ってもいい?」 「は、はいっ、そんな、あのわざわざ私に聞くことなんて」 「ふふふ、ありがとう」 「じゃあ天音、ちょっと座って待ってて」 「うん」 茉百合さんに呼ばれて、壇上の奥までついていく。 そこには、見たことのない器材が高く積みあがっていた。 「ごめんなさいね。この荷物をちょっと横にずらして欲しいんだけど…少し重くて」 「わかりました。よっ…と、大丈夫です」 器材の横では、ぐみちゃんがノートパソコンを広げて何やら作業をしていた。 確かにこれはちょっと重いかもしれない。俺は力を込めて荷物を動かす。 「これでいいですか?」 「ありがとうございますしょーくんさん! そこにケーブルの繋ぎ目があると思うので、それを…」 ぐみちゃんが床を指さした瞬間、叫び声が講堂に響き渡る。 「――――――何してるのよっ!!」 「い、今の…」 ――天音の声だ! 俺は慌てて立ち上がり、天音を探す。 「天音!」 天音は一番奥の席の前で立っていた。 席の向こうの床を睨みつけてる。 「何で、こんな時にっ!! こんな時まで! 何もしないでそうやって平気で寝てられるわけ?!」 「あんたの神経が信じられないわ!」 「あ、天音! どうしたんだよ!」 俺が天音に駆け寄るより早く、壇上から飛び降りてぐみちゃんが走っていく。 慌てて後を追うと、座席の向こうから見慣れた人影が起き上がるのが見えた。 「……うるさいなあ…」 「うるさいって、当たり前でしょ! 何でみんながこんなに必死に頑張ってる時に! 一人だけ他人事みたいな顔して寝てるのよ!」 「あんた生徒会長でしょうがっ! 自分の立場に責任とか、少しも感じないの?!」 「ま、待ってください天音さん! 会長は、会長は悪くないのです!」 「悪いわよっ! こういう時にまで、何もしないとは思わなかったわ! そこまで最低な男だと思わなかった!」 「違うのです、ぐみが寝ててくださいって言ったのです!」 「ぐみちゃんがそう言ったからって、なんでその通りにするのよ! ちょっとは手伝おうとか何かしようとか言う気はないの?!」 「天音、落ち着け!」 「…っ、晶くん…」 「…………」 「…気は済んだ? なら、うるさいから向こうに行ってほしいんだけど」 「―――っ!!」 会長の言葉に怒りを抑えられなくなったのか、天音は小さな拳を握り締めて大きく振り上げた。 そこに、ぐみちゃんが横から滑り込む。 「待って! お願いします! 本当に会長は悪くないんですっ!」 「ぐ、ぐみちゃん…」 「天音ちゃん、落ち着いて。皇くんは本当に体調が悪いのよ、私も休んでいてって言ったの」 「……どうして!」 振り上げた拳の行く先を無くして、天音はふるふると震えた。 「ご、ごめんなさい…ぐみがちゃんと説明できなくて」 「……」 「天音ちゃん、大丈夫? 顔色が……」 茉百合さんの気遣いを拒絶するように首を振る。 そして、必死にこらえていた気持ちが零れ落ちてしまったように、天音は叫んだ。 「この間から晶くんのこととか、私の……こととか、なんでなの? 勝手なことばっかり!!」 「……」 「何か理由があるの? それともただの気まぐれ?」 「……違う」 「じゃあ、何なの? 私や皆を困らせようとしてるの?」 「はは、そんなんだったら、いいよな」 「……?」 会長の様子は、今までとは少し違っていた。 前のときのように、冷たくはねのけるものでもない。声は本当にだるそうだ。 天音もそれに気付いたようで、少し言葉を止める。 「お前と俺は違う……」 「え…」 「違うんだ、天音。俺はお前みたいに良心的じゃないし、誠実でもない」 「お前が当たり前みたいに持っているもの全て、俺にはないんだよ」 「おにいちゃ……」 「何言ってるんだ? 会長、どうかしたのか?」 虚ろな目で天音を見ている会長の様子は、何かがおかしい。 「何か、あったのか?」 「別に」 「……」 黙り込んでしまった天音を心配したのか、茉百合さんが横から口を挟んだ。 「皇くん、もう少しお休みになったら? ここ数日疲れてるみたいだから」 「そうです、眠れないのは一番ダメなんです…っ」 ぐみちゃんの言葉に、即座に天音が反応する。 声からは一瞬で怒りが抜けていた。 「…眠れないの? どうしてそんな、私知らな……」 「何でもないし、俺はいつもこんなんだけど?」 「お兄ちゃん……? どうしたの…?」 「何かおかしいよ、今日のお兄ちゃん……どうして? あの時と同じ……」 「うるさいな」 「――!」 そんな言い方はないだろう……! と、言おうとしたとき、天音のほうが先に今にも泣き出しそうな声で叫んだ。 「だって! なんで? お兄ちゃんいつも私のこと聞いてくるのに、私がお兄ちゃんのこと聞こうとするといつもそう! どうしてなの!?」 「お前には関係ないことだから」 「どうして、関係ないとか……どうして……うん、答えてくれないんだよね……もういい」 「……」 「もういいっ!」 「あ、天音っ!! 待て!」 自分の感情を制御しきれなかったのか、天音は踵を返して走り出す。 俺が止める声も聞かずに、そのまま講堂の出口から出て行ってしまった。 「天音ーっ!」 すぐに廊下への扉を開け、天音の姿を探す。 だけど外は真っ暗で、たたたた…という足音だけがかすかに聞こえてきた。 これでは、廊下のどちらへ行ったのかがわからない。 「天音……」 「しょーくんさん、天音さんは…」 「わ、わからない。とにかく俺、後を追うから!」 だけどどちらに行けばいいんだ、と俺は少しまごついた。 すると騒ぎを聞きつけたのか、後ろから八重野先輩が顔を出す。 「どうした、何を騒いでる」 「八重野くん、天音ちゃんが飛び出して行っちゃったのよ」 「皇が? ……奏龍がまた何か言ったのか…。早河、お前はとにかく戻って作業を続けてくれ」 「あ、はい、わかりました!」 「白鷺さんは残った生徒を頼む。葛木、手分けして皇を探すぞ」 「は、はい!」 「わかったわ、二人とも気をつけて」 八重野先輩と共に、俺は暗い廊下に飛び出す。 電気がないせいだろうか、突然言い知れぬ不安に襲われる。 あとは頼むからすぐに見つかってくれと、ただ祈りながら走るだけだった。 「………大丈夫かしら…天音ちゃん」 「……俺も探してくるよ」 「え、皇くん?」 「何もしてないって文句言われたし……人数は多い方がいいだろ」 「大丈夫なの?」 「うん、ちょっと寝たし…大丈夫。じゃあね」 廊下は、最初に思った以上に暗かった。 ほとんど夜中と同じだ。 そもそも今が何時なのかもさっぱりわからない。 これは、あまり本気で走ったら危ないかもしれない…。 「天音ーっ!!」 そう思ってとにかく叫んでみたけど、答えはなかった。 「どこに行ったんだよ…!」 俺は携帯端末の薄い光を頼りに、近くを探し回る。 「……天音」 「はぁ、はぁ……」 「…………」 この校舎のどこかに、天音がいるはずなんだ。 防火シャッターが降りているから、行ける範囲は限られている。 何か聞こえないだろうか? 自分の息を殺し、耳をすましてみる。 「………」 …………。 ………。 どこか遠くで天音の声が聞こえたような気がする。 「天音、天音っ?!」 返事はない。 先に進んだら天音がいるような気がして、俺はまた走り出した。 突然、廊下の電気が点灯する。 窓を見ると、閉まっていたシャッターがどんどんと上がっていく。 「もしかして、ぐみちゃんが直してくれたのかな」 廊下は明るくなって、見通しもかなり良くなった。 「あとは天音を探すだけだ」 遠くの方から、何か叫ぶような声が聞こえてくる。 今度こそ、気のせいじゃない。 「天音……?」 「………晶くん…?」 「ごめんね、王子様じゃなくて」 「…っ!!」 「天音は何かあるといつも、こういうごちゃっとした所に来るよな……」 「何で今更! そんな優しい感じで言うのよ!!」 「もうわけがわかんないわ!! お兄ちゃんが何を考えてるのか全然わかんない!」 「だからうるさい……人に責任がどうこう言ったくせに、自分は迷惑かけてるの、わからないのか」 「―――じゃあ答えてよ!! 何であの曲を弾いちゃいけないの!」 「………」 「どうして、どうして私には何も答えてくれないの! 何でそうやって黙るの! やっぱりあの時と一緒じゃない!!」 「この学校に来て、いつもふざけてて、楽しそうにしてるのは何だったのよ!」 「あの時から、お兄ちゃん何も変わってない! どうして歩み寄ろうとしてくれないの!!」 「歩み寄る必要なんて、無いからだよ」 「じゃあ、いつも私にかまってくれたのは、何だったのよ!!」 「だからいい加減分かれよ! 俺にいちいち説明させるな!」 「何も言ってくれないのに、分かるわけないじゃないの! ちゃんと言ってよ! お兄ちゃんは何を考えてるの!」 「どうでもいいだろそんな事! 俺が何を考えてようが、お前には関係ない!」 「なんで、なんで関係ないのよ! なんでそんなひどいこと、平気で言えるの?!」 「どうして私の気持ち、わかってくれないの!!」 「そうやって自分の気持ちばかり、俺に押し付けるな! 俺はお前とは違うって言ったはずだ!」 「じゃあどうしたらいいのよ、私、どうしたらいいの!? どうすれば満足なの?!」 「もうわからないよ!!」 「はあ、はあ……天音」 廊下を進むうちに、さっきから聞こえてくる声は大きくなってくる。 間違いなく、天音の声だ。 「もうわからないよ!!」 「――!?」 天音の叫び声がはっきりと耳にとびこんできた。 「……あま、ね?」 「どうしたらいつものお兄ちゃんに戻ってくれるの!!」 「な、なんだ!?」 再び聞こえてきた天音の声と同時に、突然目の前が暗くなった。 自分の足元に伸びる影がいきなり濃くなって、飲み込まれそうな感覚にめまいがする。 何度か続いた明滅に、俺はその時――体を強張らせてしまった。 「――きゃっ」 「天音!」 「いや、こないで!」 「天音、あんまり動きまわるな! ここは危ない」 「あっ――」 「――天音っ!!」 「えっ、あ、ああ――」 「な、なんだ、今の音」 天音の短い悲鳴、それから何かが崩れるような大きな物音。 背筋を悪寒が駆け上ってゆく。 なんだか、とても嫌な予感がする。 ほんの一瞬、照明に気を取られていたことを悔やみながら、俺は教室の扉に手をかけた。 「――っ!!」 教室を見渡して、俺は思わず息をのみこんだ。 たぶんどこかのクラスが繚蘭祭で使っていたんだろう。 それらの様々な大道具が倒れてきて、めちゃくちゃになっていた。 そんな室内で、天音は呆然と床にへたりこんでいた。 「天音、だ、大丈夫か!?」 「しょ……晶く……いたっ」 「ケガ、ケガしたのか? どこだ!? 天音、しっかりしろ」 「ん…ちょっと足首ひねったみたい……」 「足先、ちゃんと動く? しびれてない?」 天音はこくんと頷くと、足先を動かしてみせた。 痛みはあるようだけどちゃんと動くようだ。 「他は平気なんだな? 手は? 頭打ったりしてないか?」 天音の顔を見て、俺はそう言った。 なんだか目がうつろだ。 倒れてきた物で頭を打ってしまったんじゃないだろうか。 不安を振り払うように、俺は天音の手をぎゅっと握る。 だけど、天音は力なく指先を動かすだけだった。 「他は、平気……うん……」 「天音」 「私は……平気、私は……」 「お兄……ちゃん」 「――っ!!」 ゆっくりと天音の視線が床に落ちてゆく。 天音が座り込んでいた場所より奥……ちょうど大道具が折り重なるように倒れている場所だった。 大きく見開かれた目が、左右に小刻みに揺れた。 まるでそれを見たくない、と言っているように。 俺も同じだった。 すぐそこへ行って助けださないとって思うのに、体は凍り付いていた。 会長がそこに、倒れている。 ぴくりとも動かないけれど、まっすぐ伸びた手が天音をかばっていたことを教えてくれた。 さっきの大きな音はこの大道具が崩れてきた時のものだったんだ。 そして会長は――妹をかばった。 ここで起こったことがようやく頭の中で組み合わさった。 目の前にある現実が、倒れて動かない会長が教えてくれた。 「い、いやあああああ!」 「天音、危ない!」 天音が散乱している木材をおしのけようと、手をのばした。 うまく歩けない足がもつれて、今にもその中に倒れていきそうだった。 「俺がどけるから!」 「いやっ! いやああっ!」 「……くっ」 天音を抑えて、俺は必死に会長の体の上に覆いかぶさった大道具をどけた。 重い木材と床に挟まるように倒れていた会長をひきずりだすことはできたけれど、意識はなくぐったりしたままだった。 持っていたハンカチで流れていた血を抑える。 出血だけはなんとか止まってくれた。 「お、お兄ちゃん!? ね、ねえ! お兄ちゃん!」 「だめだ、頭を打ってるんだ!」 「――っ」 会長を揺さぶろうとした天音が、びくんと強張った。 「動かすのはダメだ、とにかく、早く……誰かを呼ばないと」 「あ……わた…し、私のせい……」 「天音! 今はそんなこと言ってる場合じゃない! しっかりしろよ」 「いや、いやああああああああ!」 天音の絶叫が響く。 悲しいとか怖いとか、そんな言葉では表せない感情だった。 「天音! 天音っ!」 俺はただ抱きしめることしかできなかった。 何かを掴もうとして、ぴんと伸びた指先。 だけどその先で横たわる会長は、ぐったりと横たわったままだった。 天音の中に何かが途切れる音がしたような気がした。 俺の腕の中でゆっくりと、天音は崩れ落ちてゆく。 「天音……」 気を失った後も、俺は天音をぎゅっと抱きしめた。 ――ここは、どこだろう…。 目を覚ますと、天音はどこか見慣れない場所に寝かされていた。 周囲を見回してみる。病室のようだ。 誰もいない。 「…病院……? どうして…?」 ベッドから起き上がって立ち上がろうとすると、足に鈍い痛みを感じた。 足には包帯が巻いてあった。ベッドの横には歩きやすいようにと杖が立てかけてある。 天音は戸惑いながらも杖を手にした。 「………」 どうして自分がこんな怪我をしてて、ここにいるのか思い出せない。 病室はしんとしている。 ――とても静かだけど、誰もいないのかな…。 なんだか無性に怖くなってきて、部屋から出たくなった。 ――晶くんは、どこにいるんだろう…? ――いないのかな。寮に帰っちゃったのかな? そのまま歩いていくと、廊下の向こうから静かな話し声が聞こえてきた。 天音は、そっと声の方に向かった。 「………」 俺は、半ば呆然と待合室の椅子に座っていた。 夜の病院は静かで、当たり前だけれど他に人はいない。 ときどき看護師さんがばたばた走っていったりはしてるみたいだ。 「……天音、大丈夫かな…」 様子を見に行ってみようかなとも思ったけれど、椅子に座ったままの体は重く動いてくれなかった。 「………」 うつむいてると、ゆっくりとこちらに近づく足音が聞こえてくる。 足音が自分の前で止まったので、顔を上げる。 「八重野先輩……」 「他は全員寮に帰した。葛木、お前は帰らないのか」 「……俺は…」 「天音がまだ、目を覚まさないから…待ってます」 「…そうか」 八重野先輩は、ゆっくりと俺の隣に座った。 「今、冷静に話を聞ける状態か」 「……一応」 「ならば、お前に話しておきたいことがある」 「今、ですか」 そんなつもりじゃなかったけど、少し咎めるような言い方になってしまった。 だけど、八重野先輩は何も言わずに頷いた。 「後悔している。こんなことになるのなら、奏龍に義理立てなどするべきではなかった」 「………」 どんな返事をしていいのかわからず、俺は黙り込んでしまう。 でも、このまま沈黙が続くのにも耐えられなかったので、正直に今の気持ちを話した。 「俺も、……何て言っていいのか、わかりません」 「皇が目を覚まして、落ち着いたらでいい。今から俺が話す事を話してやってくれ」 「天音に…?」 「あいつが皇に何を言ったのかよくは知らないが……もし、否定的な事を言っていたとしても、それは本心じゃない」 「え……」 「本心は、お前が今まで見てきたとおりのものだ」 「会長は……天音を嫌ってはいないって、ことですか」 「ああ」 「じゃあ、どうして。ピアノの事だって……」 思わずそう言ってから、しまったと思った。 天音のピアノの話を、八重野先輩が知っているわけがない。 なのに、先輩は顔色ひとつ変えずに返事をした。 「母親のためだ」 母親って、理事長のこと? どうしてそこで理事長が出てくるんだ? 俺が困惑している事が表情でわかったのか、八重野先輩は付け加える。 「皇が演奏しようとしていた曲があるだろう」 「えっ……あ、はい」 やっぱり、八重野先輩は知っている。 天音がピアノをひいていることも。それを会長に聴いてほしがってたってことも。 「あの曲を皇が弾くと、母親を深く傷つけてしまうそうだ」 「……だから弾くなって言ったって事ですか?」 「そうだ」 「それだったら、そう説明してくれれば……なんでわざわざ、あんな態度を」 「それは、母親から妹を取り上げないためだ」 「え……よく、意味がわからないんですが…」 「あいつは、妹と不仲であることが母親の為になると思っている」 「だって、そんな……会長はいつもは天音にずっとかまってたじゃ……」 「だが、皇本人は奏龍がかまうのを嫌がっていただろう? それに…」 「皇は、昔あいつにピアノの演奏を咎められた事に、随分こだわっていたのではないか?」 「それは、はい、確かに……」 「妹がその溝にこだわっていることが、あいつにとっては唯一の免罪符だった」 「だから、妹の方から溝を埋めようとすれば、拒否せざるを得ない。そういうことだ」 突然、天音への態度をひるがえした会長は……確かに、俺がピアノの話をしてから様子がおかしくなった。 あのピアノの曲は、あの人にとって、触れてはならないものだったんだ。 でも、どうして……。 どうしてそうなってしまうのか、俺にはまだ理解ができない。 母親のために、妹との仲を悪くしなきゃいけないなんて、どう考えてもおかしい。 「な、なんでそんなにややこしい事になってるんですか?」 「俺にはそもそも、お母さんのために天音と仲良くできない、ってのがわからないです」 俺が詰め寄ると、八重野先輩も複雑そうな顔をして頷いた。 「そうだな……正直なところ、俺にもそれが理解できん」 「だが、奏龍は母親のためにそういう行動をとらなければならないと強く思い込んでいる」 「それも、他人がとやかく言ってもどうにもならん程に強くな」 「どうしてそんな…?」 「………昔、母親の大事にしていたものを壊してしまって以来、ずっとそうらしい」 「罪悪感で、頭があがらんそうだ」 そう言ってから、まるで話は終わりとでも言いたげに、八重野先輩は席を立つ。 俺は、もう少しだけ話を聞きたくて、先輩の後を追って立ち上がった。 「なんで、俺にそんな話を…?」 「このまま、いつまでも誤解をした状態では辛いだろうと思ってな。勝手だが、話させてもらった」 「そう、ですか……」 「……出来れば、会長の口から聞きたかったですけどね…」 立ち上がった事で、ロビーの奥の病室が少し見えてしまい、俺はうなだれる。 「あいつが話せるようなら……俺も何も言わん」 「………」 そのまま奥に足を進める先輩に、俺はついていく。 一人ではそこに行く勇気が持てなかった。 通りかかる看護師さんに聞く勇気も持てない。 足を止めると、初めて見るような苦渋の表情で、八重野先輩はガラス張りの病室の中を見た。 「会長……大丈夫ですよね…?」 「……」 「だって、いつもすごい丈夫だったし……いつも叩かれたりしてるし…」 「そう、だな……」 その返事が、いつもの口調ではないことに気付いて、俺はどうしようか迷った。 ……でも、どのみち後でわかることだ。 なら、後回しにするべきじゃないだろう。 「……ほんとの所は、どうなんですか…?」 「……昏睡状態だそうだ。かなり頭を強く打ったらしい」 「目、覚めますよね……? すぐに…」 「今は深く眠ってるだけで……きっと大丈夫ですよね?」 「……」 八重野先輩は一瞬口を開け、何かを言いかけてから、やめた。 「八重野先輩…?」 「………いや、何でもない」 「何ですか。言って下さい」 そのまましばらく八重野先輩を見つめていると、やがて観念したように小さく呟いた。 「……。――お前は、あの横の機械が何か知らないのか」 「え」 言われて室内を見ると、たくさんのスイッチがついていていくつかの数値が表示されてる機械が見える。 何の機械だと言われても、知っているはずもなかった。 「し、知りません。普通はわからないと、思いますけど…」 「あれは人工呼吸器だ」 「……人工呼吸器って…それ…」 「つまり、あいつは今、自発呼吸もできない状態だということだ……あまり、楽観視はしない方がいい」 「それ……どういうことですか…」 「そういうことだ」 「そういうことって……」 突然の音に驚いて振り返る。 ふるふると震えながら真っ青になって立ちつくす天音が、そこにいた。 足元には、落とした杖が転がっていた。 「あ、天音……!」 天音の視線の先は、病室の中。 まっすぐ見てる視線の先には、たくさんの機械に囲まれて白いベッドに横たわっている、会長の姿。 「……あ……あ、あ…」 「……――っ!」 「天音! 待って!」 天音はすぐさま、振り返って逃げ出した。 だけど怪我をした足のせいで、足がもつれて今にも転んでしまいそうだった。 「あまねっ!」 すぐに追いついた俺は、後ろから天音を抱きしめる。 俺の腕から、天音はなお暴れて逃げようとした。 「いやっ! いや! いやいや! 離してっ!」 「天音! 落ち着いて!」 「いやああああああああっ!!」 「天音…っ」 「私のせいだ! 私…私!!」 「違う! 天音のせいじゃない!」 「違わない! 違わないよぉ! 私のせいよ!!」 「おにいちゃん……うわあぁぁぁっ! うわああぁぁああぁん!」 「天音……そんなこと、誰も思ってない!」 「なんで! なんでこんな事になったの?! 私はただ…お兄ちゃんと、仲直りしたかっただけなのにっ!!」 「天音、俺の声を聞いて、頼むから!」 「やだぁ、やだああああぁ!! おねがい、だれか助けて!! おにいちゃんを助けて!」 「大丈夫だからっ! 天音!」 「ごめんなさい、ごめんなさいっ! お兄ちゃんごめんなさい…!!」 「離して、離してよぉっ! いやだ、もうやだあああぁぁぁ!」 「天音…」 ―――駄目だ。 何を言っても、今の天音は何も聞いてはくれない。 もう俺の声が届かない。 絶望感に打ちひしがれ、一瞬全身の力が抜けかけた。 「葛木、そのまま抑えていろ!」 「えっ…」 声に正気に戻った俺は、慌ててまた暴れる天音を強く抱きしめる。 すると廊下の向こうから看護師さんが走ってきて、手に持った注射を天音の肩に打った。 「……ぁっ…」 「天音、しっかりして…」 「……うぅ……」 天音の身体から、ようやく力が抜ける。 そのまま崩れ落ちた天音を、看護師さんが一緒に支えてくれた。 薬で落ち着かせた天音をベッドに寝かせて、俺は横の椅子にぼんやりと座っている。 天音は、すやすやと息をたててベッドで眠っていた。 今はまだ、夢の中だ。 だけど起きたらまた、この残酷な現実と対面しなくちゃいけない……。 その時、俺は天音を支えきる事が出来るんだろうか……。 「………」 静かに扉が開かれ、病室に八重野先輩が入ってきた。 「皇は大丈夫か」 「はい、今は眠ってます」 「すまない。立ち聞きされていること、気付くべきだった。いや、そもそもあんな場所で話すべきではなかったな」 「いえ……仕方ないです…どのみち、わかることですし…」 知らないままでなんていられないだろうし、きっと知ってしまえば天音は同じ反応をするんだろう。 優しくて、思いやりがあって、責任感の強い天音。 俺は天音のそんな所が好きだったけれど、そんな性格だからこそ、きっと自分のした事に耐えられないんだろうと思う。 きっと天音は、自分を責めて泣くだろう。 責めて、責めて……。 そう思うと、先のことなんて、考えたくなくなった。 「……すいません、あの、俺ちょっとトイレに行きたいんですけど、天音の事見ててやってもらえますか」 「ああ。わかった」 「おねがいします」 俺は、しばらくの間だけ、病室から離れることにした。 少し一人になりたい。 そう思って、もう一度誰もいないロビーの椅子に座った。 静かだ。 もう、随分遅い時間じゃないだろうか。 いろんなことが一気に押し寄せすぎて、自分の中でどう処理していいのかわからなかった。 そのまましばらくぼんやりとしていると、廊下の向こうからパタパタと足音が聞こえてきた。 看護師さんだろうかと思った足音は、一直線に会長のいた病室へ走っていき、そのままくずれおちた。 「こんな、こんな事になるなんて……奏龍…」 「私が間違っていたわ、もっとあなたと、きちんと向き合うべきだった……!」 ―――理事長だ。 廊下の向こうから、泣き声が聞こえてきた。 俺は居たたまれなくなって、また席を立った。 夜空の風の音が聞こえる。 理事長が来たんなら、多分天音のところにも行くだろう。 そう思って、俺は誰もいない屋上に来ていた。 だけど考えるのは、後悔ばかりだ。 ……どうしてこんな事になってしまったんだろう。 もっと早く事実を知ってたら。 講堂から飛び出した天音を見失わなかったら。 いや、もっと早く天音を見つけられてたら…。 そもそも、俺がピアノを聴いてもらったらどうだ、なんて言わなければ……! 「考えても、どうしようもないことなのに……」 それでも、考えずにはいられない。 あのとき、俺が電灯の点滅に気をとられずに部屋に飛び込んでいれば。 俺が少しでも違う行動をとっていたら。こんなことにはならなかったんじゃないのか。 天音をここまで苦しませる結果になんて、ならなかったんじゃないのか…。 今更どれだけ後悔したって、あのときには戻れない。 それはよくわかっている。 それでも、俺は頭の中で、何度も何度もあのとき、あのときと繰り返してしまう。 ………。 ――もう一度、やりなおしたい……? ふと、後ろから誰かの声が聞こえたような気がした。 振り返りもせずに、空に向かって答える。 「やりなおしたいよ!」 「出来る事なら、やりなおしたい! 俺は、みんなを助けたいよ!」 「天音も会長も! 誰もひどい目になんか、あってほしくない!」 すると、今度は。 はっきりと耳元で声が聞こえた。 「やりなおせますよ?」 「えっ…」 俺が声に驚いて振り向くより早く、体が浮き上がった。 いきなり、ものすごい力に引っ張られて、俺は宙に投げ出される。 「うわっ…な…」 気がつけば、足の下には床はなかった。 俺は空の上で……。 まさか、嘘だろ? 夢を見ているんじゃないのか? 「うわああああああああああ!!!!」 結局、いろいろな意見が出たものの話はあまりまとまらなかった。 だからとりあえず、先にできる作業をやろうという事で落ち着いた。 みんなは繚蘭会室で必要な器材のチェックなどを。 俺は、空き教室で書類整理を頼まれた。 作業の内容は単純。 ダンボールいっぱいに入っている昔の書類を、それぞれファイルに挟んだり、順番を整理したり。 「繚蘭会の仕事って大変なんだなあ……」 作業自体は単純なものだけど、ダンボールいっぱいの書類整理は結構大変だ。 おまけに順番がちゃんと揃っていないものが結構ある。 これを並べ替えるだけでもかなりの手間だ。 ま、でも、せっかくの仕事だし。しっかりこなさないとな。 「………」 一人でこうやって黙々と作業をしていると、どうしても昨日の茉百合さんの事を考えてしまう。 今日会った茉百合さんには、あの時のような刺々しさはまったくなかった。 あまりにもいつも通り。あまりにも和やかで、優しい茉百合さん。 俺、もしかして夢みてたんじゃないのかなー…なんて、馬鹿なことまで思ってしまう。 いけない、あまりぼーっと考え事をしていると、手が止まるものだ。 まだ全然進んでないじゃないか……。 「晶くん、こちらの書類も分けておいてもらえるかしら」 「!」 その当人がいきなり目の前に現れたものだから、必要以上にどきっとしてしまった。 あ、だめだ。言葉が出ない。 「……どうかなさった?」 「あ、はいっ」 「これ、よろしくお願いしますね」 「は、はい」 茉百合さんが差し出す書類を受け取り、ファイルに挟む。 その間に、茉百合さんは昔の書類が入っているダンボールの中を見ていた。 なんだろう? 何か探しているのかな? 顔を上げた茉百合さんは、少しだけおかしそうにふっと笑った。 「あの、何か間違ってましたか?」 「いいえ。ただ…」 「ただ?」 「―――随分と手際が悪いと思ったのよ。お前、本当に無能なのね」 「うっ!」 優雅に髪をかきあげながら、現れた表情はまさに嘲笑だった。 や。やっぱり……夢なんかじゃなかった……。 「何を今更そんなに驚くのかしら」 「い、いや…」 さっきまで、あんなに優しくて上品だった人と同じとはとても思えない。 柔らかかった声は、底冷えするように冷たい。 昨日のように唖然としたままになりそうになったが、どうにかして言葉をひねり出す。 「そんだけ豹変されれば、誰だってびっくりします」 「あら、昨日よりはまともに喋れるみたいね。安心したわ」 うう。 身を切るような視線と言葉が、ざくざくと突き刺さる気がする。 俺はあまりにも無防備だ。 「その割には私の言ったことが理解してもらえなかったみたいだけれど」 「え、えっと、なんでしたっけ」 「わざわざもう一度言わなければいけないの?」 「す…すみません、お願いします」 「つまらない男に時間を割きたくないから、私にもう関わるなと言ったのよ」 「………」 ああ、そんな事言われてた気がしなくもないけど。 茉百合さんの変貌ぶりのインパクトが強すぎて、言われたことあんまり覚えてないんだな俺。 なんて言ったらまた無能って言われそうだから黙っておくが。 「生徒会にも近寄るのはやめてくれる? 鬱陶しいから」 「今後は自分の立場に注意しつつ、行動して頂きたいわ」 うっとうしい、って言われたのか、今。 俺、茉百合さんにそんな風に思われていたんだ……。 茉百合さんの豹変が、まるで別人のようだからだろうか。 どこか他人事のように聞こえてしまう。 生徒会…と聞いて、ふと疑問がわいた。 「あの…生徒会の人は、知ってるんですか……? 茉百合さんの、そういうとこ」 「少し考えたらわかることだと思うけれど」 「あそこの人たちは、私にとって有益な人物ばかりよ。友好的な態度をとるに決まっているでしょう?」 「は…はぁ」 友好的な態度って、つまりはいつもの茉百合さんってことなのかな。 「まだ、何を言われているのか理解していないみたいね」 「え」 「つまり、お前は私にとって取り繕う価値もないって事よ? わかる?」 「………」 うぅ。もうぼろぼろだ。 これが格闘技だったら、俺きっと立ち上がれない。 「――私がお前を何故今まで生徒会に置いてあげていたか、教えてあげましょうか」 「…え?」 「無理やりに入学許可証を発行できるような、立場の高い人間が推薦した生徒だったからよ」 「うまく管理下におけば、よい繋がりができるかもしれないものね?」 「でも、俺は何の心当たりも……」 「そうね、結局誰があなたを呼んだのかはわからないままだわ」 「そうしたら、次は特殊遺伝子の話が出てきたというわけ。それで、少しは有意義なのかと思っていたのよ、お前に付き合うのもね」 「と、とくしゅ?」 そういえば、前にこの学校に残っていいという話をされたとき、そんな事を言われたような……。 俺が不思議な顔をしていたせいだろうか、茉百合さんはにっこり笑って説明をしてくれた。 もちろん笑顔の種類が違ったので、多分、ただの親切じゃない…のだと、思うのだが。 「二卵性双生児の遺伝子が交じり合い、性染色体の構成は女性なのに男性型になったことで遺伝子のひとつに突然変異を起こした、ということらしいけど」 「は、はあ…」 「でも、問題の遺伝子さえなければ、後はただのなんの面白みもない凡庸な人間だったわね」 「わざわざ私が気を遣って接するような価値など、何も無いわ」 「………」 遺伝子がどうとか、まったく知らなかった。 俺個人は普通の人間だし、これといった特殊能力も無い。 それでこの学校に残れていたなんて、思ってもみなかった。 特殊遺伝子……。 ふと、突然、幼かった頃の記憶が鮮明に蘇ってくる。 どこか白い、そして天井の高い場所だ。 俺は誰かに手をひかれて、そこを歩いていた。 柔らかな女の人の手。 俺の手をとっているのは、随分前に死んだ母さんだ。 小さな俺が問いかける。 『ねえ、なんで毎日ちゅうしゃをされるの? びょうき?』 『違うわ。あなたの体の中にはね、ちょっとだけ特別なものがあるからなのよ』 母さんは、ふんわりと笑う。 そして、まだガーゼの貼り付けてある俺の腕を優しくさすってくれた。 特別なもの……それってなに? ずっとそう聞こうと思っていたのに。 その後、母さんは倒れてしまい、その答えは聞けないままだった……。 と、廊下の向こうから派手な足音が聞こえてくる。 その音で俺は我に返った。 「晶くーんー! ちょっと待たれよー!」 「な、何だ?!」 勢いよく教室に飛び込んできたのは結衣。 ダンボールの中と、整理した書類と、どっちを見ていいのか困った様子だ。 「うううぅーん。これ全部見直すの、タイヘンだよね」 びくっ! 茉百合さんが、いつもの茉百合さんに戻ってる! 「それなら、多分このあたりね」 茉百合さんは優雅にダンボールから紙束を取り出して、ぱらぱらと手早く確認した。 「――これじゃないかしら?」 「わぁ! ありがとうございます〜! やっぱり茉百合さんすごいっ!」 「ふふ、いいのよこれくらい。今度からは気をつけて管理しなきゃダメよ?」 「あまりじろじろ見ないで頂ける? 不快だわ」 「う…」 だって切り替え、早すぎるだろ! このあまりの落差に、どうしていいのかわからなくなるのは俺だけじゃないはずだ。 どういう態度をとっていいのかもまったくわからない! 「い、いや、あの、慣れないから」 「みんなだって、茉百合さんがこんなだって知ったら、びっくりすると思いますよ」 「別にいいのよ? どこの誰に言いふらしても」 「な、なんでいいんですか?」 「愚問ね。私とお前の言う事、この学園の生徒はどちらを信じるかしら?」 「みんな計算の上って…事ですか…」 確かに、俺一人が茉百合さんはほんとは怖いとか言っても誰にも信じてもらえなさそうだ…。 本当によくできたシステムだな、これ……。 茉百合さんは、言いたい事をすべて言い終えたのか、もう用はないとばかりにドアに向かう。 扉に手をやってから、最後に一度だけ振り返った。 「もう一度だけ、念のために釘を刺しておくわね」 「ただの凡庸な人間のお前にうろちょろされるのが不愉快なの。もう生徒会に近づかないで」 「それでは、ごきげんよう」 今度こそ、茉百合さんは行ってしまった。 ……。 残りの仕事、しよ……。 このままでは、あまりにも寂しいというか、しょんぼりというか、そんな気分になってしまう。 肩を落としながら、俺はファイル整理に考えを向けることにした。 「…………」 休日の朝だというのに、勝手に目が覚めてしまった。 すっきり清々しい目覚め、というわけでもない。なんだか微妙な気分だ。 マックスはいないようだ。きっと今日もlimelightの仕込みに行ったんだろう。 「どうしようかな……とりあえず、朝ごはん…」 仕方なくのろのろとベッドから起き上がる。 「…ん?」 端末にメールを受信した音だった。 このタイミングって、いつものアレな気がするんだけど…。 「………やっぱり」 『おはよーしょーくん! 今日はお休みかな? 暇してる? 暇なら生徒会室においでよ! おやつでも食べながら楽しく語り合おうじゃないか! 生徒会長より』 「…………」 いつもだったら。 この間までだったら、どうしよっか、また会長の相手するのか、とか考えるんだろうけど……。 『生徒会にも近寄るのはやめてくれる? 鬱陶しいから』 「…行かない方がいいのかな……」 茉百合さんに言われた事が鮮烈によみがえる。 思い出して、また少し微妙な気分になってしまった。 『つまり、お前は私にとって取り繕う価値もないって事よ? わかる?』 「………」 でも、何だろう。 どうしてそこまで言われるのか、少し不思議だった。 茉百合さんにとっては、例え素顔がどうであれ友好的な態度をとっている方がいいに決まっているのだ。 なのに、どうしてわざわざ俺にはあんな態度をとるんだろう。 そこまで悪い事をしてしまったのかな…。 知らないうちに、茉百合さんにとってはとんでもない事を言ってしまったのかもしれない。 どうしてこんな状況になったのか、俺にはわけがわからない。 「…やっぱり、行こう」 確かめてみたくなった。 どうして茉百合さんが、俺にあんな事を言ったのか。 俺は重い腰を上げて、ハンガーに無造作にかかってあった制服を手に取った。 「おはようございます!」 意を決してドアを開ける。 と、中には生徒会メンバーが全員揃っていた。 「おはよう」 「わぁ、しょーくん来てくれたんだ! ありがとー!」 「しょーくんさんご苦労様でーす! 今おやつお持ちしますね!」 「……。おはようございます」 茉百合さんは、いつもの優しい茉百合さんだ。 やっぱり、他の人のいる前ではあの顔は見せないんだろうな。 ぐみちゃんがとことことやってきて、満面の笑みで紙袋を差し出す。 今日は詰め合わせなのかな。ありがたくもらっておこう。 「それで、今日は何で呼び出されたんですか?」 「実は今日は、しょーくんに相談があるのだよ。ぐみちゃん、例のものを!」 「はぁーい!」 ぐみちゃんは元気よく返事をすると、今度は戸棚から分厚い青いファイルを持ってきた。 ファイルはどん、と俺の前の机に置かれる。 「なんですかこれ?」 「実はですね、繚蘭祭の時の正門の飾りつけをどうしようか迷っているのですよ」 「正門といえば、学園の顔だからな」 「それでだな、俺たち最上級生は今年が最後ということもあり、ぱーーっと大掛かりな飾り付けをしたいと思っているのだよ!」 「なので、なんかアイデア出して」 「ええっ…そんな、いきなり言われても」 ファイルを開くと、中にはいろいろな写真と説明書きがあった。 大小さまざまな風船が飾り付けてある写真だ。 「これ、風船?」 「はいっ。バルーンアートです! 大型となると、やっぱり風船がよいのかと思いまして」 「ねー。しょーくんはどんなでっかいものにしたらいいと思う?」 つまり、風船で何か飾り付けをしたいんだけど、具体的に何をしていいか困っているとそういう事か。 そんなこと突然言われてもなあ……。 「………うーん。なんかあの、今年のテーマとか無いんですか」 「無い。繚蘭祭は毎年各々のクラスが好きにやっていいことになっている」 「う、うーん……」 「まゆりちゃんは?? 何かない?」 確かに、ファイルの中身を見る限り、頼めばどんな形の風船でも作ってくれるみたいだ。 多分、普通に飾り付ける、というのでは物足りないんだろうなあ。 「……ドーナツとか」 結衣の顔がなんとなく浮かんで言ってしまった。 「しょーくんはどうやっても食べものに行くのかい…」 「いや、風船は食べないですよ、さすがに」 「いや……そんな当然のように言い切られても…」 「うーぬーぬー」 うんうんと唸っているぐみちゃんの横で、ファイルを興味深そうに覗き込む茉百合さん。 こうやって見ていると、やっぱりあんな態度をとられたのなんて夢みたいに思えてしまうのに。 でも、夢じゃあなかったんだよな。 しばらくそうやって考えていたが、有効な意見は何も出なかった。 会長がやっぱりというか、真っ先に音を上げてしまう。 「なんでだ」 「ふんふふ〜ん♪ きっと俺が帰ってくる間にナイスアイデアが出ているに違いないのだ!」 会長はスキップしながら廊下に出て行ってしまった。 「違いないのだって……」 「まあ、あまり深刻に考える必要は無い。何も出なければ業者に頼めばいいだけの話だ」 「でも、皇くんの、自分達で考えたものでやりたいという気持ちはわからなくもないわよ」 「………」 そういえば、俺も寮から急いでここに来たからな……。 何となく、むずむずしてきた。 「すいません、俺もちょっとトイレ行ってきます」 そう言って席を立つと、ぐみちゃんが手をふってくれた。 「お気をつけていってらっしゃいませです!」 いや、あまり気をつけることなどは無いと思うのだが。 これもぐみちゃんの性格なのかな? そんなどうでもいい事を考えながら、俺は生徒会室を出た。 トイレを済ませ、特に気をつけるような事もなく、俺は無事に戻ってきた。 途中、会長に会うかと思ったけど、会わなかったのは何故だろう? どこか他の場所に行っていたのかもしれない。 そんな事を考えながら、生徒会室に向かっていると……。 目の前に、廊下を遮るように、茉百合さんが立っていた。 休日の生徒会室の前。 教室のある棟ならともかく、ここは静まり返って生徒の姿は無い。 あ、これ…まさか…。 「あれだけ言ったのに、よくぬけぬけと来れたものね」 「……」 ……やっぱり、怒られた。 心の準備はしてあったので、前よりはびっくりしなかったけど。 「わかるわよね、私のいる場所には来ないで」 「呼ばれたから来ました、暇だったから」 「……」 俺が反論した事に驚いたのだろう。茉百合さんは少し目を見開いている。 そうだ。俺は確かめにきたんじゃないか。 茉百合さんの豹変に呑まれている場合じゃない。 「それに、来ないと会長に文句言われそうだったし」 「別に文句は言いはしないわよ。そんなくだらない事で来たのなら、今すぐ帰りなさい」 「もし皇くんに何か言われるのが嫌なのなら、うまく言い訳はしておいてあげるわ」 「だから、もう二度と来なくて結構よ」 生徒会室に戻れば、茉百合さんはきっといつもの優しい人に戻ってしまう。 だから、聞くなら今しかない。 そう思って、俺は一歩踏み出した。 「茉百合さん」 「茉百合さんはどうしてそんなに、俺を目の敵にするんですか」 「俺、何か悪いことしましたか」 「気づかずに何かしてたなら、謝りますので教えてください」 「………」 「そんなこと、どうして私が答えなければならないの?」 「だって、わからないじゃないですか」 「人の気持ちなんて、やっぱり全部わからないから」 「――!」 ―――だから、相手の気持ちがわからなかったら、いつでも聞いてみたらいい。 昔、親父がそう言っていたのを何となく思い出していた。 多分、今の俺には一番ふさわしい助言なんだと思う。 「だから教えてください」 もう一歩踏み出した。 茉百合さんは、俺が踏み出すのに合わせて、一歩下がった。 どこか、戸惑いを隠せていない様子だった。 「……だから」 「お前、図々しいのよ」 「……」 不機嫌そうに踵を返して、茉百合さんは戻っていった。 何だろう……? 突然、ずいぶんと動揺していたみたいだったけど……。 ぐらぐらと揺れる瞳が、何故か印象深く残っている。 何故だろう。それが俺には……。 今まで果てしなく遠かったと思っていた茉百合さんとの距離が、一瞬だけ、縮まったように思えたのだ。 生徒会室に戻ると、いつの間にか戻っていたらしい会長が、ソファの上に立ち上がって高らかに宣言していた。 「な、なんだ?」 「おぉ、女神様とはいずこにおられるのでしょうか!」 「僕たちの身近にいるじゃないか、こないだも才能あふれる凄いケーキを作っていたじゃないか!」 「ま、まさか桜子の事?」 「ぴんぽぴんぽぴんぽーん! 桜子ちゃんのあふれでるアイデアを借りよう! そしたらきっと凄いものが出来るに違いない!」 「いや……すごいものは出来るかもしれないですけど…」 桜子が作ってきたケーキ、どんなだったか皆わかってるだろうに。 凄すぎる方向に行ってしまいそうな予感がする。ひしひしと。 「でも、桜子は今繚蘭祭の準備で忙しいのよ? あまり無理をさせるわけにはいかないわ」 「そうだな。確かに水無瀬はあまり丈夫な方ではないからな」 「まゆりちゃん繚蘭会の出展手伝うんだろ? ちょっと聞くだけとかでいいからさぁ〜」 「そうね……。わかりました。聞くだけでいいのなら」 「わぁーい! 楽しみだなー! どんなアイデアが出てくるのかなぁ〜」 「………」 茉百合さんをちらっと盗み見る。 ……さっきの様子はやっぱりおかしかったけど、一体どうしたんだろう。気になって仕方がない。 なにげなく目があっても、自然と逸らされてしまった。 うーん。 これって、無視されてるって事なのかな。 俺が意識し過ぎなんだろうか。 「あらら? あーらら?」 茉百合さんの事を考えていたら、突然会長が目の前に現れてかなり驚いた。 普通に出てくることはできないのかよ、この人! 俺が文句を言う前に、会長は肩を掴んで俺を部屋の隅まで引っ張っていく。 そして声をひそめながら、衝撃的な発言をした。 「ちょ!!」 「いや! わかる! わかるよしょーくん!」 「ちょ、ま、まて! まてー!」 「む、むががっ!?」 会長が声をあげたので、他のメンバーは不思議そうにこちらを見ていた。 もちろん、茉百合さんもだ。 じーっと見てました、なんて会長にばらされたら、またうっとうしいとか言われてしまうじゃないか! もがく会長を押さえつけ、不吉な口をどうにか塞ぐ。 「こ、声が大きいんだよ!」 「もふもふもふがふが」 「………静かに喋ってくれる?」 「ふぁい」 会長は一息ついてから俺の耳に口を寄せると、そっと囁いた。 「しょーくん、さてはまゆりちゃんの事が気になるんだ。ドキドキしてるの? 青春なの?」 「…は? え……」 「ようーし。じゃあ俺がしょーくんの恋の橋渡しをしてあげよ」 「え。えっ」 何かを言う暇もなかった。 俺からばっと離れると、会長はよく通る声で茉百合さんに話しかける。 「まゆりちゃーん! 確かさ、明日買出しに行くんだよね?」 「え? そうだけど…」 「女の子一人じゃ荷物持ちがいるだろう? しょーくんと一緒に行ってきなよ!」 「え…?」 「しょーくんはついでにさあ、新しいゲームソフト買ってきて! はいこれ予算とリスト!」 「えええええええ」 「皇くん、私は一人で…」 「ダーメ! これは会長命令です! 二人で行ってらっしゃい!」 「……八重野くん」 「………」 何かを言いたげに、茉百合さんは八重野先輩を仰ぎ見る。 八重野先輩は、手元のメモ用紙に何かすらすらと書いた後、それを茉百合さんに差し出した。 「これも頼む。男手があるのなら多少荷物になってもかまわんだろう」 「……」 無言で紙を受け取る茉百合さん。 そう言われては反論できないのだろう。 確かに八重野先輩の言ってる事は合理的だとは思うけど……。 でもさあ! 二人でって! 会長たちは、なんにも知らないから、そんな事が言えるんです! 「そういうことでーす。じゃ、頑張って行ってらっしゃーい!」 「行ってらっしゃいませー!」 どうなるんだよ。いいのか!? これ下手したらすっぽかされるって事もあるかもしれないぞ? 何も口を出せないまま決まってしまった予定に、俺は呆然とするしかなかった。 茉百合さんと二人きりで、買出し。 会長としては、デートを演出してやったぞという所なのだろう。 しかしあの素顔を知る俺としてはデートどころではない。 ――どうなることやら、と心配で、あまりきちんと眠れなかった。 会長が細かく決めてくれた待ち合わせ時間まであと少しだけど、茉百合さんほんとに来るのかなあ…。 と、思っていると、規則正しい足音と共に茉百合さんが姿を現した。 「あ……」 「――時間には遅れていないわね」 うわ……。 いきなりこの茉百合さんだ。 そうか、今、他に誰もいないしな。そうだよな。 負けそうになる心を奮起させ、俺はできるだけ笑顔になってみた。 「あの、わざわざ来てくれたんですか…」 「そんな鮮やかな勘違いが出来るなんて、おめでたい頭ね」 「一度頼まれて引き受けた事だからよ。嫌な相手と一緒だからって、今更断れないでしょう」 「うっ…」 「早く解放されたいから、さっさと行きましょう」 茉百合さんは一度も俺の方を見ようとせず、すたすたと歩いていく。 俺は慌てて後を追った。 まあ、わかってた事だよな。こうなるとは思ってた。 でもせっかく会長がくれたチャンスだ。聞きたいことはちゃんと聞いておかねば。 気合を入れて、腹に力を込める。 「茉百合さん!」 呼びかけると、茉百合さんはいかにもうんざりといった顔で振り向いた。 「……何かしら。あまり必要の無い会話はしたくないのだけど」 「俺は…その、もうちょっと話をしたいと思ってます」 「………ふぅ」 「あのね、皇くんは何だかお前と私を仲良くさせたがっているみたいだけど」 「あ、それは…」 「冗談じゃないわ」 「迷惑なのよ、そんな事をされるのは。だから近づくなと言ったのに」 「本当に私の言う事は何も聞いてくれないのね」 「……あの!」 「もう一度同じ事聞きますけど。俺、茉百合さんを何か怒らせるような事をしましたか?」 「………」 茉百合さんは、しばらく何かを考えるように黙っていた。 「いいえ何も」 「…!」 何も……? なのか? てっきり、何かやってしまっていたのだと思っていたから、予想外の答えだ。 「言ったでしょう。お前のような無能に私の周りをうろつかれるのは不快だから、わざわざ取り繕うのをやめただけよ」 「……俺が取り繕ってる、って言ったからではないんですか」 「関係ないわ」 「…そうですか、よかったです」 俺の言葉に、茉百合さんは不審そうに眉をひそめる。 「一体何がよかったのか、聞かせてもらえるかしら」 「いや、気付かないうちに、何かとんでもなく悪い事をしたのかと思いました。自分でそれがわからないなんてのは最悪ですし…」 「そうじゃないのなら、まあまだよかったのかなと」 「それにとりあえず、どうやら今のが素の茉百合さんだってのはよくわかったので」 「………」 「凡庸なくせに厚かましいわ、そういうところが気に障るのよ」 捨て台詞を残して、また茉百合さんはすたすたと歩いて行ってしまう。 その後姿を見ながら、何故か俺は、海に行ったとき茉百合さんと話をしたことを思い出していた。 あの時……俺と、茉百合さんの間に置かれていた、茉百合さんの左手。 どこか拒否されているような、そんな気がしていたけど。あれはやっぱり、気のせいじゃなかったんだ……。 茉百合さんは頼まれた買い物を次々と終わらせていく。 実に手際よく、まだ午前中なのに頼まれものはもうあと少し。 「……」 茉百合さんの顔を見てみると、穏やかな笑顔だった。 それは俺のため……なわけない。 店員や他の誰かがいると、茉百合さんは実にたくみに、いつもの茉百合さんへと変身する。 騙されてる――なんて言い方はよくない。 俺はそのことを不快に思うよりも、何が茉百合さんをそこまで変身させるんだろうかと不思議で仕方なかった。 「晶くん? どうしたのかしら、疲れてしまったの?」 「……いえっ、全然疲れてないですよ!」 「そう。荷物、持たせてしまってごめんなさいね。やっぱり私がそちらを持ちましょうか?」 「いえっ、俺が全部持ちますよ」 体よく荷物を押し付けられた気もするが、まあもともと荷物持ちで来てるんだしな。 持たせたら持たせたで、絶対後で文句言われそうだし。 これも計算どおり、ってことなのかなあ。 「あっ! 茉百合さんに、晶くんだ!」 「え?」 「ほんとだ、まゆちゃーん! こっちですよ〜」 「桜子と、結衣…?」 道の向こうから、結衣と桜子が走ってきた。 二人で出かけてるなんて、ちょっと珍しいかもしれない。 「こんにちは!」 「こんにちは。偶然ね、こんなところで出会うなんて」 「そうですよね、なんだかとっても得をしちゃった気分です」 「桜子、どうしたの? 結衣ちゃんと二人でおでかけ中?」 「そうなの、結衣さんが、喫茶店のパフェを一緒に食べないかって誘ってくれたの!」 「ええと、なんだったっけ……でら…でら…」 「デラックスツインパフェでーす!」 「そう! デラックスツインパフェでした!」 「………おいしそう…」 「そうだったの。でも、あまり食べ過ぎちゃだめよ? 冷たいものなんだから」 「うん、気をつけるね」 「茉百合さんも、晶くんと一緒におでかけですか? 何かご用事?」 「えぇ、生徒会の買出しなのよ。晶くんは荷物持ちでわざわざついてきてくださったの」 「へぇ、そうなんだ……」 桜子は、いつもの好奇心に満ち満ちた目で、俺と茉百合さんを見比べた。 そしてにっこりと笑いながら、無邪気に口を開く。 「まゆちゃんと晶さん、なんだかお似合いですね。カップルみたいです!」 「えっ!!」 「あ……そうかしら?」 「ええ、今、とってもそう思ったの。ね? 結衣さん」 「え、うん。ほんとだね、そうかも!」 「………」 数日前の俺なら、わぁ、照れるなあ、なんて舞い上がったりしていたのだろうが……。 今はとてもそんなこと思えない。むしろこれ、後で絶対怒られる。 桜子は全然悪気ないんだろうけど。それはよくわかるんだけど! 「あの、二人とも…」 「あまりお二人の邪魔をしてはダメですよね。結衣さん、そろそろ行きませんか?」 「あ、うん! わかった。それじゃあ失礼します」 「ちょっと、桜子…」 「またね、まゆちゃん〜」 茉百合さんが制止する声も聞かずに、桜子と結衣は連れ立って行ってしまった。 多分、カップルに見えてしまった俺たちに気を遣っているんだろう。 ああ、それが本当にそうだったら良かったのに。 茉百合さんの顔を見るのが恐ろしい。 「…………」 「…………」 「…………」 気まずい……。 というか、怖い。どうしよう。 恐る恐る茉百合さんの様子を伺ってみる。 「…………なに、その態度は。不愉快だわ」 「……す、すいません…」 「………」 もう、俺には興味がありません、とでも言いたげに、茉百合さんはいつまでも桜子の後姿を見ていた。 その視線は、やっぱり誰に対してのものとも違う。 桜子に対してだけは……茉百合さんの壁は無くなってしまう。 「茉百合さんって、桜子には本当に優しいですよね」 「本当に、ってどういう意味?」 「いや、桜子に対しては、何だか違う気がするというか……本当に優しいんだなあって思うんです」 「……」 茉百合さんは答えなかった。ただ、黙ってこちらをぎろっと睨む。 「あ、すいません。はい、もう余計な事言いません」 「お前は、桜子の事をどう思っているの?」 「え?」 「答えなさい、どう思っているの」 どうって、言われても。 まさかそんな事を聞かれるとは思わなかった。 頭の中でぐるりと桜子の姿を思い出す。 「寮の友達の一人ですけど……」 「たったそれだけ?」 「あ、あと可愛いな、とは思ってるけど…」 「他は」 「あとはそうだな、時々だけど妙にほっとけない気がします」 「なんか桜子って、おっとりしてるように見えて、時々おもいっきり大胆なことするじゃないですか」 おっちょこちょいな部分のある結衣とも違う。 てきぱきと計画をたてて物事を進める天音とも違う。 いろんな意味でまっすぐって感じがするんだよな。 「何かを感じはしないの?」 「な、なにか?? えっと、さあ…よくわからないですけど」 「…そう」 残念なのか、ほっとしているのか、よくわからないような表情で茉百合さんは目を伏せる。 そんな茉百合さんが気になって、俺は思わずじっと見つめてしまった。 その無遠慮な視線は、本人にすぐに気付かれてしまう。 「じろじろと見るのは失礼よ」 「す、すみません…あ、ま、待ってくださいー」 俺など眼中にないように、茉百合さんはすたすたと歩いていってしまう。 「……はあ」 そんな茉百合さんを追いかけながら、俺は思った。 やっぱり、桜子は茉百合さんにとって、何か特別な存在なんじゃないだろうか。 桜子も茉百合さんのことは慕っているし、大事な友人と思ってるだろう。 だけど、茉百合さんは――何か違うような気がする。 とてもとても大事な友達……だけじゃない。 俺の気のせいなんだろうか? もっと強いもの。もっと強い絆のようなもの。大切な何か。 そんなものが、隠れているような気がしてならなかった。 「これで、頼まれたものは全てね。後は帰るだけ」 「そうですね」 買い物を終えて、茉百合さんはにっこりと微笑んだ。 やっとこれで俺から解放される――とか思ってるのか。 悲しいけど、その予感は当たってそうだ。 「……はあ」 両手に荷物を抱えながら歩いていると、いつのまにかlimelightの店先を通りがかっていた。 本日のケーキセットの食品サンプルが、ウィンドウに飾られている。 「ケーキ食べたいなあ…」 「あっ!」 店の中から出てきたのは天音だった。 limelightの制服を着てるってことは、今日は天音が店番なのか。 「お疲れ様、今日は天音が手伝ってるんだな」 「ええ。一通り買い終わったから、今から帰るところよ」 「お疲れ様です、茉百合さん。よかったら、ケーキでもどうですか?」 「ケーキ?!」 「ええ、ちょうど今お客さんが落ち着いている所なので」 「ケーキ…」 「……そう、それじゃあ、ちょっと寄らせて頂こうかしら」 「やった! ケーキ!!」 茉百合さん、早く帰りたいって言ってたから、てっきり丁重にお断りするのかと思ってた。 もしかして茉百合さんも、ちょっとは甘いものが食べたくなったのかな。 やっぱり疲れた時は甘いものだ。 両手の重みもいっきに軽やかになってゆく。 ケーキ万歳だ。 「どうぞどうぞ。いらっしゃいませー」 席につきしばらくすると、天音がケーキと紅茶をトレイに乗せてやってきた。 お待ちかねのケーキセットだ。 「ケーキセットお持ちしました」 「やった、久しぶりに食べれるな、ここのケーキ!」 「はい、茉百合さんはショコラフランボワ、晶くんはタルトフロマージュね」 「ありがとう、天音ちゃん」 テーブルにそっとケーキを置く天音。 チーズケーキのいい香りがする。上にのった生クリームもおいしそうだ。 どうしても顔がほころんでしまう。 「それでは、ごゆっくりどうぞ」 一礼をすると、天音は奥に戻っていった。 店内には、俺たちのほかにお客さんはいない。 この時間帯はちょうどお客さんが少ないようだ。 「いただきまーす」 うきうきとフォークを差しこみ、ふわりと切り離された一片を口の中へ。 柔らかな口当たりと甘さが、同時に広がってゆく。 今日一日の疲れが羽をはやして飛んでいきそうだ。 「ああ……うまいっ!」 茉百合さんも、上品にケーキをフォークで切り分けて食べていた。 「……」 「お前がここまで、図太いとは思わなかったわ」 「んぐっ」 すぐ横のフロアに天音がいるからだろうか、茉百合さんの声は抑え目だった。 「……散々、関わるなと言ったのに聞きもしないんだもの」 「……あの」 ケーキを飲み込んでから、顔をあげた。 声が抑え目だからじゃない……茉百合さんの言葉はいつもよりも少しだけ、刺々しさが抜けている。 疲れてる? そうにも見える。 だけど、なんだかそれだけじゃないような気がしてしまう。 「えっと、ですね」 言おうかどうか、少しだけ迷った。 だけどこれはいつか――いつかきっと、茉百合さんに聞かなきゃいけないことだと思うから。 紅茶をひとくち飲んでから、俺は続けた。 「どういう意味?」 「自分と他人の線引きがきっちりしてるっていうのかな…」 どう言えば正しく伝わるだろう。 俺の中でもそれはもやもやしている疑問だ。 うまく言えないかもしれないし、うまく言ってもきっと嫌な顔されるだろうな。 だけど、言おう。 「……誰にでもにこやかで優しいっていうのは」 「他人からの印象は良くしておいた方がいいから、そうしているだけ」 「それだけじゃなくて」 茉百合さんがぴくんと眉をあげて、俺を睨んだ。 「誰にもそばによらないでほしいって言ってるみたいな気がするんです」 茉百合さんは一度だけ目を伏せて、まるで何もなかったように再びケーキを口に運んだ。 今俺が言ったことなど聞いてなかったように。 上品で優雅な動作でケーキを食べてゆく。 「そういうの、寂しくないですか」 「思わないわ」 「俺は、茉百合さんがなんか……気になります」 「何、それ」 「人の気持ちなんて、全部わからないって言いましたよね」 「もし誰にも自分の気持ちが言えないとしたら、それはとても辛いことじゃないですか」 「――!」 持っていたフォークがお皿の上に落ちて、大仰な音を立てる。 茉百合さんは、呆然と俺を見ていた。 ―――あの時と同じだ。 瞳が揺れている。 すごく、動揺しているような。 戸惑っているような。 なんて表現していいのかわからないけど…。 まるで、ありえないものを見ているような顔だった。 だけどその戸惑いと動揺は、すぐに茉百合さんが自分でかき消した。 「………帰るわ。気分悪い」 テーブルの上に料金を置くと、茉百合さんは席を立つ。 そのまま無言で、店から出て行ってしまった。 「………」 言ってしまったことに、後悔はない……ないんだけど。 きっと茉百合さんにとって一番腹立たしいことだったに違いない。 胸のうちに広がってゆく不安と一緒に、俺は残っていたケーキを頬張った。 でも、どうしてだろう。 やっぱり、戸惑っている茉百合さんは……今までのどの茉百合さんよりも、近い。 そんな気がして。何故か黙っておけないんだよな。 そうだ。放ってはおけない。 後を追いかけなきゃ。 「天音ー! ごめん、急ぐからここにお金置いていくー!」 「えっ、もう帰るの?!」 「うん、ごめん!」 両手いっぱいの荷物を持って、俺は慌てて茉百合さんを追いかけた。 「………」 「―――茉百合さんっ!」 「っ?!」 やっと追いついた。 両手の荷物のせいでなかなか早く走れなかった。 息を整えて顔をあげると、茉百合さんは眉をひそめてじっと俺を見ている。 「はあ、はあ……追いついた」 「えっ!!」 慌てて口元をぬぐう。 急いで食べたから、全然気付かなかった。 「取れました?」 「はぁ」 「―――色々と馬鹿馬鹿しくなったわ」 呆れたようにそう言うと、茉百合さんはポケットから、白い綺麗なハンカチを取り出した。 そっと俺に近づくと、そのハンカチで頬をぬぐってくれる。 ハンカチごしに、茉百合さんの指が俺の頬に触れた時――。 そのあまりの近さに、心臓がばくばくと脈打った。 今だけは、茉百合さんも、俺を拒絶していない。 見せかけの優しさじゃなくて、計算でもなくて。これまでで一番、茉百合さんとの距離が………近い。 「はい、取れた」 「……何て顔をしてるの」 「いや…その…どうも、ありがとうございます」 「………」 「やっぱり茉百合さん、面倒見のいいとこは素なんですね」 「…っ!!」 そのハンカチを、乱暴に顔に投げつけられた。 また怒らせるような事を……言ったか。言ったよな。ああ。 「いらないわ、それ。捨てといて」 茉百合さんはそのまま背中を向ける。 「ま、まってくだ」 「あと、もうついて来ないで」 「うぐっ」 ぴしゃんと言われてしまい、動けなくなった。 今度こそ、茉百合さんは振り返らなかった。 「……はあ」 俺と茉百合さんの間にある壁、一瞬だけ低くなったと思ったのに。 その後ろ姿に、再び高く分厚い壁がそそり立っていた。 ――どうしたと言うんだろう。 今まで、どんな時だって、誰が相手だってうまくやっていけてたのに。 あんな本心を、さらけ出した事なんてなかった。 あの時から、自分の心を、自分で制しきれなかったことなんて、一度もなかった。 いいえ、本当はわかってる。 本当はどうしていちいち戸惑ってしまうのか、覆い隠す事が出来なくなってしまうのか、わかっている。 どこまで私は、あの人にとらわれているのだろうか。 「―――ちゃん……まゆちゃん、どうしたの?」 「…あっ……」 「まゆちゃん」 心配そうなその声に、ようやく我に返る。 二人はいつものように、一緒に夕食を食べていた。 休日はこのまま桜子が泊まってゆくこともある。楽しい一日……今日もそんな一日のはずなのに。 「どうしたのって、まゆちゃんなんだかぼーっとしてたみたいだから」 「そう…?」 「そうですよ! もう…いっつも私のことは心配心配って言うくせに」 「それは、だって、桜子が危なっかしいからよ」 「ねえ。聞いて」 「このごろ、まゆちゃん何だか少しヘンじゃない? どこか、体の調子でも悪いの?」 「いいえ、どこも悪くないわよ」 「本当に大丈夫…?」 桜子は心の底から心配そうだった。 きっと自分の体が強くはないから、他の人の体調には人一倍敏感なのだ。 それはよくわかっていることだった。 そんな桜子をなるべく安心させるように、柔らかな笑みを顔いっぱいに広げた。 「本当に大丈夫です。ちょっとね、気にかかる事があるだけなの」 「何でもないのよ」 「気にかかる事……」 ひと思案した後、桜子の表情がぱっと明るくなった。 「わかった! それ、晶さんの事でしょう!」 「えっ」 「今日もとても仲が良さそうだったもの。私、二人は本当にお似合いだと思うの!」 「…………」 「誤解だわ」 「まゆちゃん…?」 「……晶くんの事は、本当になんとも思っていないの。ただの後輩の男の子よ」 「そうなの…? 私、晶さんなら…まゆちゃんと本当に仲良くしてくれると思ったのにな…」 まるで自分のことのように、寂しそうに桜子は言う。 ――何故だろう。 心の底から不思議に思ったけれど、答えはすぐに見つかった。 ――ああ、まだ、私のことも……晶くんのことも、心配してくれているんだ。 暖かな何かが心を覆うのを感じた。 けれど、それは自ら跳ね除ける。 それは自分のそばにあってはならないものの……はず。 「そんな事、してもらわなくてもいいの」 「ダメよそんなの」 「私には、あなたがいるから…それでいいのよ。それで充分。他には何も…必要ないわ」 「まゆちゃん……」 食事をする手を止めて、部屋においてある植木鉢に視線を向けた。 自分を戒めるように。 忘れてはならない。 それを自分のそばに置いたとたん……駄目になってしまう。 またそうなったら、今度はきっと――。 「むしろそれは……望んじゃいけないことなの…」 その小さな囁きが聞こえたのかどうかはわからない。 桜子は、心配そうな眼差しをずっと傾けていた。 午前中の授業が終わり、昼休みになった。 午後からはまた、繚蘭祭の準備が始まるけど……その前に、寮においてきた買出しの荷物を一旦取りに帰らないといけない。 それを生徒会に届けて、任務完了だ。 昨日茉百合さんに投げつけられたハンカチも、洗って持ってきたし。 これもちゃんと返そう。 「あ、うん」 「そう。茉百合さんも今日は来れないみたいだし、ちょっと忙しいのかな」 「そうなんだ」 じゃあ、生徒会室に行ったら茉百合さんがいるのか…。 またどうして来た、って怒られるのかなあ。 それでも行く気になるのが、自分でも不思議だ。 「天音ちゃーん! ちょっとちょっと〜」 「わかった」 頷くと、天音は結衣のところに駆けていった。 繚蘭会会長は、さすがに忙しそうだ。 よし、俺も昼ごはんをさっさと食べて、生徒会に行くか。 「こんにちはー」 「おおよくぞきた勇者よ! 俺の頼んだゲームソフトはどこだ!」 「会長のは荷物の一番底です」 「いやぁあぁ、そんなのつぶれちゃう〜!」 悲鳴を上げながら、荷物を順番に引っ張り出していく会長。 うん、こうすれば会長も率先して仕事をしてくれるんだな。いいこと学んだ。 「ご苦労だったな葛木。白鷺さんも繚蘭会との掛け持ち中にすまない」 「いいえ。掛け持ちしたいって言い出したのは私の方ですしね」 「そういえば、バルーンアートの件はその後どうですか?」 「だけど?」 「……思いもよらない単語が出てきてしまって。桜子らしいといえばそうなのかもしれないけれど」 『え? バルーンアートで何を作るかだよね?』 『そうだ! アメーバとかどうでしょう?!』 『アメーバの語源って、ギリシャ語で『変化』なんですって。みんなで様々なことをするこの繚蘭祭にぴったりかとおもって』 「………」 「………」 「……あめーばですか」 「いいじゃないかアメーバ! さすが桜子ちゃんは言う事が違うなー」 「いいのかよ」 すぱっとデートって言っちゃったよこの人……。 茉百合さんの反応が少し心配だったが、そっと見てみると。 さすがというか、にこやかに受け流している様子だ。 「ええ、とても楽しかったわよ?」 「じゃあ今日も二人には一緒のお仕事をお願いしちゃおうかな!」 「えっ!」 「え…」 これは予想外だったのだろう。茉百合さんも言葉をなくしている。 会長は生徒会が発行している『繚蘭祭の準備において』というプリントを持ってきた。 そして校内の見取り図を指差す。 「ここにね、繚蘭祭用の大型の器材が運び込まれてるんだ。これ、とってきて!」 「ちょっと、皇くん…」 「どれを動かしていいのか、まゆりちゃんならわかるだろ〜? そして男の子の手があれば運搬もラクラクだ!」 「おおぉぉ、なんというナイスフルなアイデアなのでしょう! 会長〜!」 「何だ、珍しくまともな意見だな」 「……八重野くんが一緒に来てくれれば、すむことじゃない?」 「ふむ。俺としては、葛木に行ってもらう方が有難いが」 「あ、そうよね…今日は繚蘭祭の申請書類の処理があるものね……」 「……」 「……」 「はぁい! 行った行った!」 八重野先輩が言うからには至極まともな意見なのだろう。茉百合さんもそれ以上抵抗できないみたいだった。 会長は黙ったままの俺たちをぐいぐいと生徒会室から押し出した。 「お二人とも行ってらっしゃいませー!」 「最悪ね」 ようやく、この落差にも慣れてきました。 素で返事を返せるようになるなんて、俺も成長したものだ。 「まあ、あの、会長は言い出したら聞かないから……」 「お前も少しは抵抗しなさい、突っ立っているだけで何の反論もしないで…」 「―――嫌だとか、迷惑だとか、言えばいいのよ」 「いや俺は別に嫌でも迷惑でもないし…」 「………」 俺が呟いた一言に、茉百合さんはものすごく意外そうな顔をした。 しかし、すぐに顔を背け、俺に背を向ける。 そして一言。 「私が、嫌で、迷惑なの」 「………は、はあ」 黙って背中を向けたまま。茉百合さんはそれ以上何も言わなかった。 どうしたのか、随分と態度に余裕がないように思える。 それとも、俺が落ち着いてきただけか? どちらにしろ、言われた言葉と同じほどの拒絶感は感じなかった。 「……あぁ、そうだ」 「茉百合さん、これを返そうと思ってたんです」 「……」 ポケットから茉百合さんの白いハンカチを取り出した。 ちゃんと初めて見たときのように、それは丁寧に折りたたんである。 「寮に帰ってからちゃんと手洗いしましたんで、きれいになってると思います」 「昨日は、ありがとうございました」 そう言いながら、ハンカチを差し出した。 茉百合さんは、見ようともせずに手で跳ね除けた。ぱさっと音をたてて、ハンカチは床に落ちた。 ……まあ。 こういう反応をされるんではないかと、薄々は思っていました。 落ちたハンカチをそっと拾う。 「えっと、じゃあ、これ…俺がもらっておきますね」 「……」 茉百合さんは、また目を見開いたが、俺はかまわずにハンカチをポケットにしまった。 もったいないしな。思い出の品ということで大事にしよう。 「誰があげるって言ったの、捨てろと言ったのよ私は」 「だって、もったいないですし……」 「返して、それ」 形の整った手を、すっと差し出してくる茉百合さん。 ここで返してしまったら、後で絶対捨てられてしまう。何だかそんな気がする。 そう思うと、このハンカチはどうしても渡したくない。 「返しなさい」 「……いや、あの、捨てたんなら、別にどうなってもいいですよね」 「よくないわ、お前に持たれていると気分が悪い」 えっ、これ、実力行使ってこと? あわてて教室の机を盾にして逃げる俺。 「に、荷物持ったんだから、これくらいくださいよ!」 俺たちは、荷物が置いてある狭い教室の中で、子供のようにばたばたと追いかけっこをした。 なんでそこまでこだわるんだろ。 茉百合さんがむきになっているのがよくわかって、俺はちょっと、正直、楽しくすらなってきた。 たかがハンカチにやけに夢中になって、こだわる茉百合さん。 なんだか茉百合さんらしくないけど、これはこれで面白いんじゃないか? いつの間にか、俺の顔には笑みさえ浮かんでいた。 しかし、追いかけっこは長くは続かなかった。 ついに制服のすそをひっつかまれてしまう。 おまけにかなり強い力で引っ張られて、俺は一気に体のバランスを崩した。 「捕まえたわよ!」 「ちょっ、ちょっと待っ…! あぶ…っ!」 「きゃっ…!?」 そのまま、俺と茉百合さんは荷物の中に倒れこんでしまった。 立てかけてあった大きな看板が、俺たちの上に倒れかかってくる。 「わあっ!」 俺は慌てて両手を伸ばした。 倒れてきた看板が、俺の手で支えられる程度の重さだったのは不幸中の幸いだ。 「は、はぁああ……よ、よかった」 派手な音はしたけれど、看板の直撃はまぬがれた。 床に打ち付けたお尻はかなり痛かったけど、たいしたケガじゃないだろう。 ほっと息を吐いた後、俺はやっと気づいた。 すぐそばに、茉百合さんの顔があった。 俺の上に、まるで伸しかかるように倒れこんでいる。 近い。 すごく、近い。息もかかりそうな程だ。 そのうえ、柔らかな感触が、しっかりと触れ合っている事を教えてくれた。 茉百合さんは、何が起こったのかわかっていないみたいで、まだ呆然としている。 「………」 「……あ、あの、大丈夫…?」 「――っ!!」 俺が話しかけると、我に返ったのかすぐさま慌てて後ろに飛びのいた。 でも、その先にはやっぱり荷物が置いてあり―――。 「あ、っちょっと待っ……」 「…!!」 「あ……」 やっちゃった。すごく、痛そうだ。 茉百合さんは、勢いよく飛びのき過ぎて、荷物に後頭部をぶつけてしまった。 ぶつけた箇所を手で押さえながら、茉百合さんはその場にへなへなと座りこんでしまう。 「………ま、茉百合さん…」 「………」 相当痛かったのだろう。まだ少しだけぷるぷると震えている。 まるで、壁にぶつかったときのすずのみたいだ。 「………」 「…ぷっ! ふふふ、ふっ…」 笑い事じゃないのはわかってるけど、つい我慢が出来なくて俺は笑ってしまった。 すずのを思い出したのはよくなかったな。 ぴよぴよ目をまわすすずのと、茉百合さんなんて、縁の無い二人のはずなのに。 その二人が同じように重なってしまうなんて、やっぱり笑えてしまう。 「くくく…ご、ごめ…茉百合さんがそんな、失敗するとこなんて、初めて見たから、つい!」 「だ、大丈夫ですか?」 「…――っ!」 茉百合さんはうつむいたままで、おもむろに右手をあげた。 そのまま大きく後ろにふりかぶって……。 「うわわっ! あぶなっ!」 俺の頬を狙って平手打ちをしようとする。 慌てて避けたので、茉百合さんの手はきれいに空を切った。 「それ、何も叩こうとしなくったって……!」 文句を言おうとした言葉は、茉百合さんの顔を見て止まってしまった。 顔をあげて俺を睨んでいる茉百合さんの目には――うっすらと涙がにじんでいた。 「………」 痛いから、だけじゃない。 なんだか悔しいような情けないような、何かが内側から溢れるような涙。 茉百合さんの目からこぼれる涙はそんな色をしていた。 「茉百合さん……」 今更、笑ってしまった事を後悔した。 もしも痛かっただけなら、そこを撫でてあげることだってできる。 でもいまきっと茉百合さんがほしいのはそんなんじゃない。 茉百合さんの涙を止められる方法はそんな簡単なものじゃない。 「ごめんなさい」 手をとろうとすると、ぱちんと叩かれる。 だけど、何故かその手にはあまり力が残っていないようだった。 「あまり動かない方がいいよ」 俺は茉百合さんの頭に手を伸ばした。 そして、多分ずきずきと痛んでいるのだと思われる箇所に手を添えた。 茉百合さんは嫌がるように首を振ったが、俺の手をはねのけることはなかった。 涙はまだ止まらない。 これが茉百合さんの望んでいることなのかはわからなかった。 だけどいま俺にできることなんて、これだけしかなかった。 「人の手を当てると、ちょっとだけ痛みが和らぐんだ……て、親父が言ってたから」 痛みだけでなく、できることなら茉百合さんの涙の本当の意味も撫でられたらいいのに。 「………」 俺の気持ちは伝わったのだろうか。 茉百合さんの手は抗うことをやめて、固くその指先を握っていた。 優しく、羽根にさわるように慎重に茉百合さんの頭を撫でる。 それから改めて顔を見てみると、茉百合さんの目からは、またぽろぽろと涙がこぼれていた。 「茉百合さん……」 それはさっきまでの苦い感情の塊があふれだしたものじゃない。 ぽろぽろと、すごくキレイで儚い何か。 そんな何かに変化していると俺は信じたかった。 「……っ…」 「泣かないで」 ポケットから、茉百合さんのハンカチを取り出す。 それでゆっくりと涙を拭った。 「これ、返すから…泣かないで」 茉百合さんはもう何も言わなかった。 ただ黙って、ハンカチを受け取り、それで顔を覆ってしまう。 泣き顔は見られたくないんだと思う。 そう思いつつも、茉百合さんから目が離せない。 俺も黙って、そのまま彼女の頭に手を添えていた。 「………」 こうやって見てると、何も普通と変わらない、ただの女の子なんだよな……。 びっくりして、頭を打ったりもするし。 失敗だってするし、泣いたりもする。 特別な事なんて何も無い……。 こんなに近くで、こんなに長い間、茉百合さんを見るのは初めてだった。 俺は飽きもせずに、茉百合さんをずっと見ていた。 しばらくたってから、ようやく落ち着いたのか、茉百合さんが顔を上げる。 「………」 「………」 そして、まだ少し潤んだ瞳で俺を見た。 俺はもちろん、ずっと茉百合さんを見ていたので、自然と目が合う。 「………ぁ…」 ――えっ……。 「うわっ!」 一瞬で、添えていた手も何もかも跳ね除けられる。 な、なんだ、今の顔! 赤くなってた、よな? 茉百合さんが!? はねあがる心拍数とは逆に、何も言葉が出てこない。 「……そこの、三番目のダンボールが持っていくものだから!」 「他は片付けておいて!」 「えっ、あ」 「茉百合さん!」 俺の呼び声も無視して、茉百合さんは教室から出て行った。 「…………」 まだ、心臓がばくばくと言っている。 昂ぶりがおさまらない。 たかが目が合って、少し驚いただけのはずなのに。 どうしてあんな顔を見ただけで、こんなに動揺してるんだ、俺は。 確かに初めて見た顔だったけど。恥ずかしそうに、赤くなる茉百合さんなんて……。 また心拍数があがってしまいそうになったので、俺は頭を振ってその記憶を隅に追いやった。 そうだ。片付けしなきゃいけない。 だいぶ派手にひっくり返してしまった。 それから、ダンボールを持っていくんだったよな。 立ち上がって、荷物の位置をひとつひとつ直していった。 結局、その後生徒会室に戻っても、茉百合さんに会う事は出来なかった。 具合が悪いので早退すると、すぐさま寮に帰ってしまったからだ。 戻って茉百合さんの姿がなかった時。 残念なような。ほっとしたような。 俺はそんな、よくわからない気持ちになっていた。 今日も校舎内には、繚蘭祭の準備をする生徒達が溢れている。 繚蘭祭は11月1日と2日の二日間。 もうあと十日程で本番ともなると、みんなの動きも慌ただしくなってくるというものだ。 「晶さん、どうかしましたか?」 「あ、ああ、はい」 今日の俺は、ここ数日とはうってかわって繚蘭会の作業を手伝っていた。 桜子と仲良く繚蘭祭用のメニュー作りをしている。 同じ部屋にいる天音と結衣、茉百合さんは、三人で何か真剣に打ち合わせをしているようだった。 「天音たち、何の話をしているのかなって」 「ああ、限定メニューの扱いについてですよ。大物ですから、どうやってお客様に分けるのか打ち合わせしてるそうです」 「ふーん…」 ちらちらと茉百合さんの方を見てしまう。 昨日から、ずっと落ち着かない俺と違って、茉百合さんは至って普通だった。 まぁ、ちょっとやそっとの事では動じないか、茉百合さんは…。 『………ぁ…』 「………」 もしかして俺、ものすごく貴重なショットを見てしまったのかもしれない。 嬉しいのは嬉しいんだけど、何故か無性に照れる。 俺の方が赤くなってしまいそうだ。 ふと気がつくと、桜子が俺をじっと見つめていた。 「……なに?」 「ねぇ晶さん、晶さんはまゆちゃんのこと、どう思ってるの?」 「えっ?!」 「だから、まゆちゃんのことです」 「ど、どうって……」 「そういえば、それ茉百合さんにも同じ事聞かれたな」 買い物に行ったとき。 桜子の事をどう思っているのか、と真剣な顔で聞かれた事を思い出す。 「え? 同じ事って…?」 「あ、いや。それは何でもなくって。茉百合さんのことだよね」 「はい」 「………」 「…どう思ってるのかなあ。よくわからないな…」 「そんなの駄目」 いつもにこやかに笑っている桜子が、きっとした強い表情で俺を見ていた。 その真剣さに、少し驚く。 「晶さんはまゆちゃんのこと、もっと真剣に考えてあげるべきなの」 「え…っ」 「もっと、真剣に考えて下さい」 「……う、うん…」 「私、晶さんなら――まゆちゃんと仲良くできると思うの。ほんとよ?」 「…ん、でも…俺、茉百合さんにはあまり好かれてないと思うよ…?」 何しろ、あれだけ近づくなとか邪魔だとか、いろいろ言われたからなあ。 そういえば俺、あそこまで言われたのにどうしてしつこく会いに行ったりしてたんだろう。 心配だから。いや、それはちょっと違う。 茉百合さんといる時に一番よく浮かぶのは『どうして』って気持ちだ。 それが知りたくて、会いに行ってしまう……のかな。 だんだんわからなくなってきた。 「……ふふふっ」 首を傾げて悩みだした俺を見て、桜子は微笑んだ。 「どうしたの?」 「晶さんは何にもわかってないのね」 「本当にまゆちゃんが晶さんのことを嫌いだったら、こんな所で一緒に仲良く繚蘭祭の準備なんかしないし、ましてやデートなんか行きません」 「い、いや誤解してるよ、あれはさ、生徒会の仕事で、頼まれたから仕方なく」 「初めてだったのよ? まゆちゃんが、仕事であっても、男の人と二人っきりでどこかに出かけるなんて」 「え……そうなの?」 「ええ。いつもなら、ヘンな誤解させるからって断るもの。とっても上手にね」 「だから好かれてないなんて事はありません」 「きっとまゆちゃん、晶さんのこと好きだと思う」 「好き………」 好き、って。 茉百合さんが、俺の事をか。 一瞬で頭が真っ白になった。 いや、違う。多分桜子が言っているのは、そういう意味の好きじゃないよな。 それに本人から面と向かって言われたわけでもない。 なのに、何で俺はこんなに舞い上がってるんだ!? 「……晶さん?」 『………ぁ…』 なんでそこであれが出てくるんだ! なに思い出してるんだ俺は! 頭の中を駆けめぐった茉百合さんの顔を何とか消そうと、あたふたと立ち上がった。 いつの間にか俺の顔の方が赤くなってる。 なんでだ! 何をそんなに動揺してるんだ、俺! 「晶さん、どうしたの晶さん! しっかりして!」 「あ、あ、いや、大丈夫」 「でも…」 桜子は、突然真っ赤になって立ち上がった俺がよっぽど心配だったのだろう。 大丈夫と言ったのに、納得が行かないという顔で覗き込んでくる。 「どうしたの桜子? 葛木くんがどうかしたの?」 「わぁあ、晶くんどーしたの? 顔がすごく真っ赤だよぉ」 「本当だわ」 「もしかしたら熱があるのかも、具合が悪いのかもしれません」 「いや、そんなことない」 うわっ、当の茉百合さんまでこっちに来てしまった。 ますます心臓がうるさく鼓動を響かせ始める。 そんな浮き足立った思惑とは逆に、全員が心配そうな顔で俺を見ている。 「でも、顔がほてってるみたいよ。気分は悪くないの?」 「ちがう、ちがう。悪くない」 「この顔色、普通じゃないと思います。病院に行った方が……」 「はっ、救急車とか呼んだ方がいい?!」 「あのそんな」 茉百合さんの手を叩く音で、一旦全員が静まり返った。 俺の鼓動も、少しだけ落ち着く。 「はい、みんな落ち着いて。晶くんだって困ってるでしょう?」 「ま、茉百合さん……」 「とりあえず私が保健室に連れていきますから。安心して」 「もしそれで具合が悪くなるようだったら、病院に運びます。心配しないで作業を続けて」 「さあ、晶くん立てる? 保健室に行きましょう」 「は、は、は、い…」 「晶くん、気をつけてね」 「お大事にして下さい」 結衣たちを安心させるように、こくこくと頷いた。 頷いたのはいいものの……。 俺、茉百合さんと今から保健室行くのか。二人でか。 だ、大丈夫なのか。俺。 さっきからうるさい心臓の鼓動がさらに高まるのを、俺は他人事のように感じていた。 頼むから保健の先生――今日はいてください。 そう思っていたのに、予想通り今日も保健室は誰もいなかった。 とりあえず、俺は置いてある椅子に座った。 「かかりつけの先生、今はいらっしゃらないみたいね」 「……はい」 ちらりと茉百合さんの顔を見てみた。 さっきまでとは違う、冷たい眼差しが保健室をぐるりと見渡していた。 「………」 なんて答えていいのかわからない。 さっきから、もう心臓が勢いよく跳ね上がってる。 桜子があんなこと言うから……茉百合さんが俺のことを……。 ああ、さっきからずっとその言葉が頭の中をぐるぐるまわってる。 追い払わなきゃ。 頭の中から出ていけ、さっきの言葉! 「………」 「――っ」 頭をぶんぶんと振ってると、茉百合さんが眉をひそめながらこっちを向いた。 変なやつ、だなんて思われてるんだろうか。 それとも万に一つの可能性で、心配してくれてたりしてるのか。 ああ、だめだ。それこそさっきの事が頭から離れてない証拠じゃないか。 心配なんて、そんなムシのいい話……。 「……はあ」 相変わらず俺を見つめる茉百合さんに、いてもたってもいられなくなりそうだ。 何も言わなくても、何か言ってもどっちもダメな気がする。 ほんとに具合が悪くなりそうなくらい、頭の中がぐるぐるしてる。 「本当に熱があるの? 気分は?」 「………」 「聞いてるの?」 「あ、はいっ、なんですか」 「熱はあるのかと聞いたのよ」 「あぁあ、いや、その…」 「…はっきりしないわね、もういいわ」 呆れたように言いながら、茉百合さんは俺の方へと近寄ってくる。 「えっ、えっ、あの」 「動かないで」 「……っ…」 茉百合さんの白い腕が伸びる。 俺の前髪をかきあげて、額へと―――。 俺は思わず飛びのいてしまった。 自分の頬がめちゃくちゃ熱くなってる。 「ま、ま、まゆりさん?」 何するんですか――って言おうとした時に気づいた。 もしかして、熱を測ろうとしてくれた? 「………」 茉百合さんはぽかんとしていた。 冷たいというよりも、純粋に驚いたような顔だ。 そりゃ…そうだよな。 さっきの俺の態度って、まるで触れられるのを嫌がってるみたいだったもんな。 「……」 「そう、ね。私では落ち着かないでしょうね…」 「他の人を呼んでくるわ」 「あ……」 俺のそんな態度に、茉百合さんは何か勘違いしてしまったのか。 ぷいっと背を向けて、保健室から出て行こうとした。 違うんです、さっきのは―― そう言うよりも先に、体が動いた。 「待って!」 引き寄せた茉百合さんの背中は、思っていたよりずっと小さかった。 俺の腕が簡単にまわせてしまえる。 ほんのちょっと不思議な感覚だった。 「ちょっ! ちょっと! なにを!」 「何してるの!?」 茉百合さんが振り返るように俺を見つめた。 その顔が赤く染まってる。 さっきまでとは違う、その表情。 怒ってるんだって感じよりも、恥ずかしいって気持ちが伝わってくる。 そんな茉百合さんの顔を見て、自分の心の中にふわっと何かが広がった。 「俺、茉百合さんのその顔、可愛いと思う」 「……えっ?」 ぎゅっと、腕の中の茉百合さんを抱きしめる。 ずっとわかっていたことだ。 茉百合さんがこんなに細くて、柔らかくて――うん。 本当に、たったひとりの、女の子なんだ。 冷たい眼差しをしている時も、誰からも尊敬される存在の時も、変わりはない。 茉百合さんはたったひとりの女の子で、俺の腕の中にすっぽり抱きしめられる存在で、俺はこのひとを離したくないんだ。 「その顔、好きだ」 「な、なに言ってるのいきなり!? 離して!」 「離しなさいっ、お、大声出すわよ!」 俺の腕をほどこうとして、茉百合さんの手に力が入った。 だけどその抵抗は言葉よりも弱く、とまどっているようにも感じられた。 「えっと…もう一回ちゃんと言い直すよ」 「なにを…」 「俺、茉百合さんが好きだ」 びくん、と肩が震えた。 俺の言葉が唐突すぎたんだろうか。 「茉百合さんのこと、離したくないって思った」 「――っ! そんなの、わけがわからないわ! どうして……」 「茉百合さんが……俺の腕の中にいてほしいって思うんだ」 「は、離してとにかくっ! でないと、誰か人を呼ぶから!」 「待って、ちゃんと聞いてくれ」 「じゃあ離しなさいっ」 「嫌だ!」 「なっ……」 「離せって言われて離すなんてできない! だって好きだから、俺…茉百合さんのことが」 「だから、何を言ってるのか……」 「――」 どうしたらいいんだろう、どうしたらわかってもらえるんだろう。 いや、わかってもらえるなんて思わない。 俺はただ、伝えたくて――その方法がわからなくて。 たとえどんなにひどく顔を打たれてもいいと思いながら、茉百合さんと向き合った。 「――ごめんなさい」 「……!」 茉百合さんの大きな瞳に、驚きと戸惑いが広がってゆく。 さっきまで俺の体を突き放そうとしたした腕がこわばっていた。 だけど茉百合さんは俺の腕の中から飛び出すことはなかった。 それは許されたのか、それとも本当に恐れられたのか。 キスしたまま、俺と茉百合さんは固まっていた。 「…………」 茉百合さん。 どうしてなんだろう。 こんなに頑なで、誰も近くに寄せ付けない強さと賢さを持ってるのにどうしてこんなに……壊れそうなんだろう。 それが知りたくて、俺はこんなに茉百合さんのことを好きになったんだろうか。 いや、俺が好きになった理由なんてどうでもいいんだ。 茉百合さんの中にあるこの脆さに、茉百合さん自身が気づいてないのかもしれない。 それが、俺は怖かった。 「……」 唇を離した後も、茉百合さんはとまどいを隠せないまま、身を固くしていた。 「……よかった」 「…………何が」 「もっと抵抗されるかと思った」 「…………」 「…熱があったんじゃなかったの?」 「あ……それは、その…茉百合さんと二人っきりになったから。どきどきした」 「何、それ……。お前の考える事は本当に理解できないわ……」 「なんで?」 「な、なんでって」 「好きな人と一緒にいたら、みんなそうなるんじゃないの?」 「………」 再び、茉百合さんの目が大きく見開いた。 こんなに驚いてる顔は初めて見る。 そう、さっき俺が好きって言った時よりもだ。 「茉百合さんは……そういう時ないですか」 俺は茉百合さんをまっすぐ見つめた。 その言葉を口にするのは、ほんの少し怖かった。 だけど、伝えないと延々と茉百合さんとの距離はこのままになってしまいそうだ。 「な、何でそんな事聞くの!」 「気になるからです」 「何で気になるの! 気にしなくていい!」 「……好きだから。俺は茉百合さんを好きだから!」 「お前の方が無茶苦茶だわ、い、いきなりこんな事して!」 「それは、ごめんなさい――さっきも言ったけど」 「言ったからって、キスをされるとは思わなかったの!」 「だけど」 俺の言葉に、茉百合さんはびくんと体を震わせた。 「茉百合さんは俺を引っぱたいたり、押しのけたりしなかった」 「あまりびっくりしたから、忘れてたのよ!」 「それは、今も?」 「……っ」 「茉百合さん、俺は茉百合さんのそういうとこ――好きなんだ」 茉百合さんをもう一度、抱き寄せた。 今度こそ引っぱたかれるかと思ったけど、茉百合さんは迷子の子供みたいにきゅうっと体を丸めてしまう。 「わかった、わかったんだ。俺、そういう茉百合さんを抱きしめたくなるんだ」 「俺のこと、本当に嫌なら引っぱたいて、押しのけて、思いっきり遠くへ突き放してくれていい」 「………」 「だけど、本当に嫌じゃないのなら……俺はこうしていたい」 茉百合さんは何も言い返さなかった。 「…と……とりあえず…そろそろ体を離して…」 「もう少しだけ」 「誰か部屋に入って来たらどうするの……」 「困る、かな」 「困るわ」 「じゃあ離すけど……もうちょっとだけ抱きしめてたい」 「もうちょっとって、どのくらい」 「5分くらい」 「な、長すぎるわ」 「じゃあ4分50秒」 「10秒しか変わってないじゃない……」 「……だって、離したくないんだ」 「だ、だから困るって言ってるのに! どうしてそんなに言う事聞いてくれないの!」 「……」 「来るなって言ってるのに、近づいて来るし! 離してって言ってるのに、離してくれないし……」 茉百合さんは怒ったような弱ったような顔をして俺を見てから、そっと視線を外した。 「だって好きだから」 「………わかった、わかったから…だから離して…」 「本当に、先生が帰ってくるかもしれないから……」 「茉百合さん」 もう一度ぎゅっと抱きしめて、俺は顔をよせた。 だけど今度は拒否するように茉百合さんは横を向いた。 「あ、ごめん。やっぱりだめだな、こういうの」 「……」 「離したら、もう二度とこうやってキスしたりできないかも――なんて思ったんだ」 きっと茉百合さん、笑うだろうな。 こんな身勝手でわがままなの、茉百合さんは一番嫌いそうだ。 そう、思い苦笑いした時だった。 「したら、ちゃんと離してもらうから…」 茉百合さんが顔をよせてくれた。 嘘だ、そんなわけないって気持ちと反比例して、茉百合さんと俺の距離が重なった。 「……ん」 さっきの強張ったキスとは、ほんの少しだけ違った。 体中に茉百合さんのとまどいが流れこんでくるような感じだった。 だけどそれは嫌じゃない。 ほんの少し近くなれただろうか。 そう、思ってもいいのかな。 そう思えるキスだった。 「あ」 「!!!」 「!!!!」 「は、はや――っ!!!! そこまで進んでたなんて!」 「やー若いっていいね! 邪魔してごめん!」 「………」 「………」 「………」 「………」 よりによって……。 よりによって、あの人か。 他にいろいろあるだろう。なんでわざわざ、おみくじで言うとこの大凶なんだ。 「………だから」 「だから、早く離してって言ったのに」 「……う」 うわ、茉百合さんの声、すごく怒ってる……。 「反省しなさい」 「は……はい……」 降参したようにばっと手をあげる。 茉百合さんはいつもの棘を刺すような雰囲気を復活させつつ、俺から離れた。 「…ああ、もう」 「あ、あの」 「煩い」 「うっ……」 「先に戻るわ。お前、少し頭を冷やしてから戻ってきなさい」 「は、はい…」 保健室からつかつかと出て行く茉百合さん。 さすがに、また引き止めるなんて事は出来そうになかった。 あぁ。バカだ。俺はバカだ。 調子に乗りすぎてしまいました。 ごめんなさい、茉百合さん。 だけど俺は本当に、茉百合さんのことが好きなんだ。 茉百合さんは、どうなんだろう。 あのとまどいは、ほんの少し距離が近づいたっていう答えなんだろうか。 「はあ……」 一人になると、俺は大きなため息をついてしまう。 あれからしばらく、茉百合さんとはまともに話をしていない。 繚蘭祭の準備で、ずっとてんやわんやだったというのももちろんあるんだろうけど。 茉百合さんは意識をして、俺と二人きりにならないようにしていたふしがある。 そんな気がする。 今日もそれとなく話しかけてみたら、一人で空き教室に追いやられてしまった。 いいけどね。茉百合さんがやれって言うならやるけどね! 俺が調子にのってキスしちゃったうえに、それを会長に見られちゃったから、怒ってるんだろうけど……。 「……はあ」 ああ、でもキスしたんだよなぁ。茉百合さんと。 まるで夢みたいだ。 ほんの十日ほど前の出来事とは、とても思えない。 俺がほわぁんと甘い思い出にひたっていると、扉が無遠慮に開かれた。 「やあやあ、しょーくん。お仕事がんばってる〜?」 「……」 ――よりによってまたあんたか。 俺が露骨に嫌な顔をしたのが見えているだろうに、会長はにこにこ笑って隣に座る。 すりすり寄ってきて、うっとうしいことこの上ない。 「ところでさー。まゆりちゃんとはその後、どうですか? いちゃいちゃやってますか?」 「……」 「ちゅーまでしたんだから、順調なんでしょ〜? いいね羨ましいねー!」 「……うう」 「どうなのよ? ねえねえ」 「あんたのせいで、さっぱりだよ!!!」 思わず本音を叫んでしまうと、会長はきょとんとした。 「え、そうなの?」 「当たり前だろ! キス見られて怒ってて、全然まともに相手してくれないんだぞ」 「あら〜。それは悪い事しちゃったなあ」 「そう思ってるならもうほっといてくれ……」 「うん。それは本当に悪い事をしてしまった…」 「……」 「お詫びにいい物をあげよう! うん!!」 有無を言わせず、俺の手をがっと取った会長は、手のひらに何か握らせた。 なに、これ? なんか小さいビニールみたいな……。 「しっかり使いたまえ!」 「……」 あんまり見たくない気がする。 でも、このまま握っているのも嫌だ。 仕方なく、恐る恐る手のひらを開いてみる。 ―――そこにあったのは、コンドームだった。 思わず…手がぷるぷると震え出してしまう。 「何に使うかは知ってるよねー? じゃ、がんばってー!」 「……何考えてるんだ、あの人は!!」 こんなもんを渡すとか常識外れにもほどがある! 大体、こんなもの渡してもらわなくても……! い、いや、そういう問題じゃなくて! ………。 でも俺、茉百合さんとキスしたんだよな。 もしかしてこの先……使うことに…なんて……。 なったら、どうしよう。 嬉しいけど。すごく。いや、でも、なんか想像がつかない。 つかない、よな。 ――なんかドキドキしてきたかも。 「ん……?」 「……失礼します」 よりによってこんな危ないものを持っているときにぃ! ……荷物を持って、当の本人である茉百合さんが入ってきた。 とりあえずもらったコンドームをポケットに乱暴にねじ込む。 ちゃんと入ったかどうか確認する余裕もなかったが、これ以上ポケットに手をやればきっと何かを隠した事がばれてしまうかもしれない。 どうしよう、何か話しかけないと。 俺が口を開く前に、茉百合さんはこちらをぎろっと睨んだ。 「な、何…でしょう?」 「お前のせいでこの一週間、皇くんに散々からかわれたわ。すこしは反省した?」 「あ、はい…すいません…でした」 そうだ、あの人があんなネタを目撃しておいて、黙っておくわけないよな……。 だからあんなに怒っていたんだ……。 …あれ? じゃあ、キスをした事自体はそんなに怒ってはいないって事かな? 会長に見られたのが恥ずかしくて、相手をしてくれなかったって事か? そうだよなあ、だってそれだったら、自分からキスなんてしてくれないだろうし。 これって、俺の都合のいい勝手な考え、かな……。 それとも……。 「…何か言いたい事でもあるの?」 「えっ! あ、あ、えっと」 「あの、俺もちょうどさっき会長にからかわれました……」 「あらそうなの、なんて言われたのかしら?」 「えーっと、その後どーよ? みたいな感じで……」 「ふぅん、それだけ?」 「………」 ……コンドーム渡されましたなんて、とてもじゃないけど言えません。 「何故、黙るのかしら?」 「……」 そんな事を言われても、言えないものは言えない。 言ったらまた、茉百合さん怒るだろうし。 うっ、でも見てる。すごく俺の方を見てるよ! 何もかも見透かされそうな視線に、いたたまれなくなって俺はそっと目をそらしてみた。 「……」 「あの…」 「…いきなり迫ってきたり、避けてみたり、私にはお前の考えている事がまったく理解できないわ」 「……」 そらしていた視線を戻すと、今度は茉百合さんが顔を横に向けた。 複雑そうな、少し寂しそうに見えもする横顔。 もしかして、俺が答えなくて、目をそらしたから……? 俺が三歩ほど踏み出すと、茉百合さんは驚いたのか少しあとずさった。 「だから、ずっと茉百合さんの事を考えてた!」 「茉百合さんが今まであんまりかまってくれなかったから寂しかったし、嫌われたのかなとか……そんなことしか考えてなかったよ、俺は!」 最初は俺の剣幕に驚いていたようだった。 しかし流石というか、茉百合さんはすぐに落ち着きを取り戻した。 「…っ、仕方がないでしょう、私も繚蘭会と生徒会を掛け持ちしていて忙しいのよ」 「そもそもゆっくりと顔を合わせる暇もなかったし……」 じゃあ、俺にこの教室での作業を押し付けたのは、会う機会を作るためだったのか? もしそうなんだとしたら……。 どうしよう、すごく嬉しい! そんな気持ちが顔に出たのだろうか、茉百合さんは眉をしかめた。 「……あまり自惚れた推測はしないで」 「俺、まだ何も言ってないよ」 「お前が考える事なんて、その腑抜けた顔を見ていればわかるわ」 「俺の考えてる事がわかるんだ!」 「な、なにを喜んでいるの?」 「だって、俺まだ何も言ってないのに」 「お前は人の話を聞いているの?」 聞いてはいる。聞いてはいるけど。 今、俺は嬉しくて、茉百合さんのことを抱きしめたくて、仕方がなくなっていた。 「な、なんなの」 「いま、今俺の考えてることってわかりますか」 「わからないし、わかりたくもないわ」 「茉百合さんのこと、やっぱ可愛いなって思って、抱きしめたくなりました」 「……や、やめて」 「えー」 明らかに嫌そうな言い方をしたけれど――茉百合さんはぷいっと顔をそむけたままそこに立っていた。 教室から出て行くとか、俺を引っぱたくとかそんなことはしない。 どちらかというと、すごく恥ずかしい…そんな気持ちが伝わってきた。 そういうとこ、俺は可愛いって思ってしまう。 「あ……あわあああ!!!」 茉百合さんの方へと一歩踏み出した時だった。 ねじこんでいたコンドームがポケットから滑り落ちた。 「………」 「………」 「………」 「それは、なに?」 「な、なんでもないです」 「そんな事は聞いていないわ。それは、何? と聞いているのよ」 「つ、つまらない物ですよ!」 「出しなさい」 「ま、茉百合さんには全然全く必要のない物で……」 「さっきポケットに入れた物を出しなさい」 「………」 「…………」 最終的に、無言で手を差し出す茉百合さん。 目が、怖い……。 早く出せと、ものすごく雄弁に語ってらっしゃる。 「は、はい」 観念して、俺はポケットから問題の代物を取り出し、茉百合さんの手におずおずと乗せた。 「……これ…」 「そ、それ違う…! 俺のじゃなくって! さっき会長が!」 「……は、はい…」 「晶くん、これは没収よ。もちろん、いらないわよね?」 茉百合さんがいつもみんなに見せるような、とても優雅な微笑みを浮かべた。 逆に怖い。『いります』なんて絶対に答えられない雰囲気だ。 「は、はい……いりません」 「はい。よろしい」 茉百合さんは満足そうに笑うと、コンドームをささっと片付けた。 きっとあれ、後でこっそり捨てるんだろう……。 「明日、繚蘭祭がんばりましょうね?」 「は、はい」 「それじゃあ、ごきげんよう」 「……」 一度も振り向かずに、茉百合さんは行ってしまった。 そして一人残された教室でうなだれる俺。 「茉百合さん……」 せっかく、ほんの一瞬茉百合さんが俺のそばにいてくれたのに。 可愛いって思える仕草を見せてくれたのに。 会長め、どこまで計画を練って俺の邪魔をしようとするんだ。 「茉百合さん、きっと怒ってたよな」 優しい微笑みが逆に怖かった。 だけどいつまでも引きずってはいられない。 明日からは、いよいよ繚蘭祭だ。 出張limelightではまた茉百合さんのウェイトレス姿が見れたりするんだろう。 楽しみな反面、このままではいけないという思いもある。 このまま茉百合さんのペースに流されては、きっとまたうまく逃げ回られてしまう。 もうこうなったら、デートでも何でも無理矢理にでも取り付けるしかない。 俺は繚蘭祭のお祭り騒ぎに、一発逆転をかけて望むことにした。 ついに始まった、鳳繚蘭学園の繚蘭祭。 とは言っても、1日目の今日は内部公開のみだ。 色んな模擬店や展示が立ち並び、全生徒数はそんなに多くない学校のはずなのにすごく盛り上がっている。 どこもかしこも、みんなが今まで必死に準備して作り上げて来たものだ。 そんな中でも、我が繚蘭会主催の『出張limelight』はなかなかの注目を集めていた。 何しろ、目玉になっている企画のインパクトが違う。 あのケーキ王選手権で優勝した、桜子の『考えるちょんまげ』が食べられるんだから当然だろう。 あれは……かなりの衝撃だった。 あの衝撃はちょっと普通じゃ味わえないからなあ。 まあ、ケーキはまったく問題なくおいしかったんだけど。また食べたいし。 そもそも茉百合さんと桜子がウェイトレスをしている段階で、全校生徒の注目を集めるのは必至だしな。 「いらっしゃいませ。2名様ですか?」 「きゃ、茉百合先輩がウェイトレスを!?」 「すごくお似合いです、茉百合さま〜!」 「ふふふ。ありがとう。さぁ、こちらへどうぞ」 スカートをふわりとなびかせながら、茉百合さんは二人の女子生徒を案内した。 ……はぁ。 思わずため息が出てしまう。 ウェイトレス姿の茉百合さん、やっぱりかわいい。 普段はきれいな人っていう印象の方が強いけれど、こういう可愛い服も似合うよなあ。 「あ、晶さん! 接客お願い!」 入り口のドアを見ると、緊張したような面持ちの女子生徒が何人か立っていた。 また桜子か茉百合さんのファンの子かもしれない。 「は、はい! いらっしゃいませ!」 「………はぁ」 ようやく激務から解放され、思わずため息が出てしまう。 茉百合さんと桜子のウェイトレスは男女ともに大好評だったらしく、一日中お客の足が途絶えることはなかった。 常にお客さんの中心にいた茉百合さんとは、もちろん落ち着いて話をすることなんて出来やしない。 何もできないまま、とうとう初日が終わってしまった。 「結衣、そこの残り物、仕分けしてくれる?」 「は〜い! あ、じゃあ、ゴミ袋取って来なきゃ」 今は皆で片付けをしつつ、明日の準備をしているところだ。 茉百合さんはシフト表を見つつ、明日の予定をチェックしているようだった。 ……何か言うなら今しかないよな、きっと。 「ねえ、茉百合さん」 話しかけると、茉百合さんはにこやかにこちらを振り向いた。 「どうしたの、晶くん?」 「明日、シフトが空いたら模擬店を回りませんか?」 「私と?」 「もちろん。俺、茉百合さんと二人で見て回りたいんだ」 「……今日の様子を見ていてわかるでしょう? そんな時間がどこにあるの? ずっと忙しかったんだから」 「でも、お客さんが少なくなる時間帯はあったじゃないですか。それに、明日はスタッフも増えるんだし」 そう、明日は外部からのお客も入ってくる公開日だ。 当然お客さんの数も増えると予想されるため、今日よりもスタッフの数は多くなるようシフトが組まれている。 だからもちろん、休憩時間も多くとれるようになっているはずだ。 「無理よ。明日から手伝ってくれる子たちに教えないといけないこと、たくさんあるんだから」 「茉百合さんだったら、そんなの午前中だけで終わっちゃいますよね」 「………」 「……どうしてそんなにしつこいの…」 少しうんざりしているのか、茉百合さんは皆がいる教室の中だというのにちょっとだけ地が出てしまっている。 でもそっちの方が俺としてはやりやすい。素直に自分の気持ちを伝えられるからだ。 「だって、せっかくの繚蘭祭なのに、茉百合さんと二人だけの時間がないのは嫌なんだよ、俺」 「……っ!」 茉百合さんは俺の言葉に赤くなって動揺してるみたいだった。 最近わかってきたんだけど、どうも茉百合さんにはストレートな表現の方が効果がある気がするな。 あとはこの勢いで、押して押して押しまくるしかない。 「どうせ、色んなものを食べたいだけなんでしょう? それなら私と一緒じゃなくても……」 「一緒じゃないと嫌だ」 「……別に一人でいいじゃないの」 「そんなの楽しくない。一人でいたってずっと茉百合さんのこと考えるし、俺は茉百合さんと一緒に楽しく食べたいんだ」 「……っ!」 「わかったわ、わかりました……」 「本当に?!」 茉百合さんはため息をつくと、もう一度シフト表を確認する。 「……じゃあ、午後からにしましょう。それならいいわよ」 「やったー! 茉百合さん、ありがとう!」 「………」 ……あ、茉百合さんがあんま調子に乗るなって視線で言ってる。 「で、でも、嬉しいものは嬉しいから」 「……っ!」 「ふう。もういいわ。早く片付けましょう」 やっと、約束を取り付けることが出来た! 茉百合さんはどこか納得がいかなさそうだったけど、それでもOKは出してくれたんだからいいって事だろう。 明日のことに胸を高鳴らせながら、俺は茉百合さんの側で片付け作業を続けた。 お待ちかねの午後の休憩時間がやってきた。 俺は約束どおり、茉百合さんと一緒に繚蘭祭を見て回っていた。 半ば無理矢理連れ出した感もあるけれど、茉百合さんは案外おとなしくつきあってくれている。 約束は約束、ってことなのかな。 それとも本当は俺と一緒にいるの、悪くはないって思ってくれたりしてるのかな。 隣で歩いている茉百合さんを見るたびに、そんな淡い期待を抱いてしまう。 しかし、この人と連れ立って歩いてると、周りの視線がすごいな…。 「茉百合先輩、どうして男の人と二人で歩いてるのかしら…」 「あの人、生徒会の人よ。きっとお仕事なのよ」 「そうなのかなあ…」 さすが全生徒のアイドル、茉百合さんだ。 生徒達は茉百合さんを見ると、誰もが目を輝かせてその姿を追う。 そんな人が俺と一緒に文化祭を回ってくれてるんだと思うと、俺は顔が緩むのを抑えられなかった。 「晶くん……どうしてそんなにニコニコしているの?」 「嬉しいから!」 「おかしな人ね。何がそんなに嬉しいの?」 「茉百合さんと一緒に繚蘭祭を回れるからに、決まってるじゃないですか」 「晶くんが無理矢理約束させたようなものじゃない」 「でも嬉しいです。ちゃんと来てくれたし、ちゃんと回ってくれるし」 「……」 「それで、私達はどこから行くのかしら?」 「えっと……なんか食べたいです!」 「そうよね。そう言うと思ったわ……」 「屋台もあるんですよね? そっちに行ってみたいです」 「………晶くんの好きな所に行っていいわよ」 「じゃあ、行きましょう!」 「あーおなかいっぱい!」 せっかく隣同士で一緒に回ってるんだし、何か素敵な……例えば。 例えば、可愛らしいりんごあめなんかをひとつ買って、ふたりではんぶんこなどがしたい。 なんて思ったりもしたけど、それは贅沢すぎる希望だ。 いや、希望というより妄想に近かった。 答えは明らかだった。 俺がその言葉を言い終わらないうちに、茉百合さんの目が否定的な光をはなっていた。 まあ一緒に屋台を回れただけでもよしとするか。十分だよな。 「晶くんは本当によく食べるのね」 「そりゃ、育ち盛りですから!」 「その範疇を超えていると思うわ……」 「あ、それにあれだ! 茉百合さんと一緒だから」 「え?」 「好きな人と一緒だと、美味しい物はもっと美味しくなるから。だから、いっぱい食べられるってことで」 「……っ!」 「茉百合さんは? いつもより美味しかった?」 「そ、そんなの変わらないわ。いつもと同じよ」 「そっかなー。美味しそうに食べてたけどなー」 「あ、あのね……!」 「ふふふ」 人込みの中から、桜子がぱたぱたと軽い足取りで走ってくる。 「どうしたの?」 「私も今から休憩なの、よかったらまゆちゃんたちと一緒に回りたいなって思って」 「お邪魔じゃないかしら?」 「うん、いいよ」 「嬉しい! ありがとう、まゆちゃん、晶さん」 まあ、俺は全然いいんだけど……。 なんか周囲のうらやましそうな視線がさらに増えてしまった気がする。 ……あんまり意識しないようにしよう。 「それじゃあ、桜子はどこに行きたいの?」 「んーと、えーっと……」 「あ、はい」 「屋台って、食べる物以外にも何かあった?」 「うん。お祭りの夜店みたいなのもあったよ、輪投げとかヨーヨー釣りとか」 「ああ、そう言えば」 「まゆちゃん、私それに行ってみたい」 「そう? 桜子がそう言うのなら、行きましょうか」 「うん!」 「じゃ、屋台に戻ろうかー」 たくさんある屋台で射的や輪投げなどのゲームをしばらく楽しんでから、俺たちは展示に向かうことにした。 いつもより茉百合さんが楽しそうだったような気がしたのは、やっぱり桜子がいたから…なのかな。 それとも、俺がいたことも少しは楽しく思ってくれていたんだろうか。 それだったらいいんだけど。 「まゆちゃん、晶さん、見てみて。ほら」 桜子は、さっきから嬉しそうに自分の腕を空に何度もかかげている。 その腕には、ピカピカと光る可愛らしい腕輪がはまっていた。 「もう、さっきから何度も見ているわよ」 「でも、まゆちゃんとお揃い。嬉しいから」 「喜んでもらえてよかった」 「はい! 晶さん、ありがとうございました!」 それは、俺が屋台の射的で二人分取ったおもちゃの腕輪だった。 ボタンを押したらピカピカといろいろな色に光る。 何度も何度も茉百合さんにそれを見せ、お互いの腕輪を確認し、それをまた俺にも見せ、桜子は笑っている。 「こんな物、子供だましよ……?」 茉百合さんはそんな桜子の様子に苦笑していた。 でも、子供だましと言いながらもその腕にはちゃんと腕輪がはまっている。 桜子とお揃いだからか、笑顔を見ているとまんざらでもなさそうなんだよな。 少しは喜んでくれているのかな。だったら俺も嬉しいんだけど。 「ふふふ、桜子ったらさっきからそればっかり」 「ほら、まゆちゃんも晶さんにお礼を言わなきゃ」 「えっ…わ、私も?」 「そーいえば俺、茉百合さんには言ってもらってなかったかも」 「………」 「あ……」 茉百合さんの視線が『調子に乗るな』と言っていた。 だんだん声なき茉百合さんの気持ちが読めるようになってきた。 それっていいことなのか、悪いことなのかどっちなんだろう。 「や、やっぱりいいです」 「え? どうして?」 「いやあの…ほら! 茉百合さんにはいつもお世話になってるし、いいや! みたいな!」 「えぇ、そうですか? 遠慮することなんてないのに…」 「ふふふふ…」 自分でそう差し向けたくせにいきなり態度を翻した俺がおかしかったのか、茉百合さんはまた笑っていた。 そして腕輪を桜子と同じように掲げてみせる。 細くて白い指が腕輪のボタンを押すと、赤や青色のライトがついて色とりどりに光り出した。 「確かにきれいね、これ…」 「うん、そうでしょ! 晶さんからもらったものですもの、大切にしなくちゃ」 「……そうね」 「ありがとう、晶くん」 茉百合さんはこちらを向くと、俺の名をはっきりと呼びにこやかにお礼を言った。 「ま、茉百合さん……」 それだけで、俺は舞い上がるほど嬉しくなってしまう。 例え桜子との会話の流れで言ってくれたのだとしても、それでもいい。 俺があげた腕輪を身に着けてくれて、それに対してお礼を言ってくれるってだけでもう…。 やっぱり俺、茉百合さんの事が好きなんだ……。 「……あら?」 「桜子?」 俺が一人感動にひたっていると、桜子が何かを見つけたみたいだった。 視線を追ってみると、結衣とすずのが荷物を運んでいる。 「あれは、結衣さん」 「本当。ひとりで大変そうね」 そうだった。二人にはすずのの姿は見えないんだった。 すずのは後ろからこっそり、周りに気付かれないように荷物を運ぶのを手伝っているようだ。 なので、普通の目にはどう見ても結衣が一人で重そうな荷物を抱えているようにしか見えないことだろう。 「おーい、結衣ー」 「……」 すずのにも目配せを送っておく。すると、こくこくと頷いて返事をしてくれた。 二人とも大変そうだけど……大丈夫だろうか? 「荷物運んでるのか?」 「うん。これ、倉庫教室まで運んでって頼まれたから」 「ひとりで大丈夫ですか? お手伝いした方が……」 「本当に? あまり無理をしないでね。女の子なんだから」 「はい、わかりました!」 「ホント、無理そうならすぐ言えよ」 「だーいじょうぶ! 晶くんと茉百合さんと桜子ちゃんは、休憩を楽しんできてくだされぃ」 「いや、うん…」 「じゃあ、すぐに終わらせてお店戻るよー」 「あ、うん」 「結衣さん、気をつけてー」 「前をしっかり見てね」 「はーい」 結衣とすずのは、少しだけふらふらしながらあぶなっかしそうに去って行った。 大丈夫かなあ……やっぱり手伝った方がよかったかなあ。 「………!」 と、茉百合さんが突然硬直したように立ち止まった。 「ま、茉百合さん?」 「え、まゆちゃん…どうしたの?」 茉百合さんは少し怯えたような、驚愕した瞳で、人込みの向こうを見つめている。 俺と桜子の声にも返事をせず、ただ立ち尽くしていた。 「…?」 やがて、上品そうな和服に身を包んで背筋をぴんと伸ばした、白髪のおばあさんがこちらに近づいてきた。 何人かの男性に、守られるように取り囲まれている。 「どうして……」 茉百合さんは小さく呟いたが、次の瞬間にはそのまま2、3歩踏み出すと優雅にお辞儀をしてみせた。 「謹んでご挨拶申し上げます、お祖母さま」 えっ……? あの人、茉百合さんのお祖母さんだったのか? 確かになんだか雰囲気は似てると思ったけど…。 横を見てみると、桜子も驚いた顔をしていた。 桜子も知らない事だったのか。 自分がたやすく入り込めない雰囲気を感じて、俺は後ろで黙って見ていた。 「……茉百合。わざわざこんな所まで足を運んだのは、お前の婚約者に会うためです」 「…婚約者、とおっしゃいますと。皇くんの事ですか」 「卒業を待って話を進めるという事でしたが、事情が変わりました」 「え…」 「お前には皇家の跡継ぎと、今すぐ結婚してもらいます」 「……まさか、本家で何か問題があったのですか?」 「末席のお前には関係のない事です。さっさと案内しなさい」 「―――はい、申し訳ありません」 おもむろにお祖母さんがこちらを見る。 茉百合さんの連れであった俺と桜子を順に見比べているみたいだ。 その視線は厳しく、背筋に氷を落とされるような気持ちになった。 厳しい言葉を俺に浴びせる茉百合さん――よりももっと威厳がある。 抵抗しようとか、何とか取り繕ってみようとか、そんな気すら起させない。 睨まれてるわけでもないのに、むしろとても品のある佇まいの人なのに、そんな怖さを感じさせる人だった。 「……茉百合。少しは慎みなさい」 「婚約者のいる身で、他の男と連れ立って歩ける立場だと思っているのですか」 「連れ立っていたわけでは……」 「…はい、申し訳ありませんでした。以後慎んで行動いたします」 「………」 何も言えない。 俺が口を出せば、もっと話がややこしくなるような気がしていた。 「あなた。素性を聞いておきましょうか」 「お祖母さま。彼は、私が所属している生徒会の後輩です。疚しい関係では…」 「は、はい、あの、そうです。葛木晶といいます」 「葛木……」 「え…?」 名前を言った瞬間、お祖母さんは一瞬で顔色を変えた。 茉百合さんも目を見開いて、硬直している。 どうしたんだ? 俺の名前なんか、茉百合さんはとっくに知っているはずなのに。 今更どうしてそんな……。 お祖母さんは茉百合さんに向き直ると、さらに厳しい瞳を向けた。 「茉百合、お前……まさかあの刑事と関係があるのではないでしょうね?」 「ありませんわ、ただの偶然です」 あの、刑事…って…俺の親父のこと、なのか? 俺が不思議に思う前に、茉百合さんは首を振って否定してみせた。 たくさんの疑問が頭の中にわきあがったけど、今は何も言わないほうがいいんだろう。 「………いいでしょう。とにかく、案内しなさい」 「はい」 お祖母さんは校舎の方へ歩いて行った。周りの人たちもぞろぞろとついていく。 最後に残った茉百合さんが、こちらを振り返った。 「ごめんなさい、今はお祖母さまと一緒に行くわ。また後でね」 「まゆちゃん……」 「大丈夫よ」 茉百合さんはにこやかに笑うと、お祖母さんたちの後を小走りで追っていった。 桜子はまだ心配そうに茉百合さんの後姿を見ている。 俺だって心配だった。 さっき、お祖母さんが言っていたことがずっと引っかかっていたからだ。 それから茉百合さんが言った『ただの偶然』という言葉。 お祖母さんは俺の名前を聞いて、明らかに不快な顔をしてみせた。 ただの偶然――そこに繋がる言葉は何なんだろう。 考えてみても、答えなんて出てくるはずはなかった。 「…な、なんだ?」 その時、突然周囲がざわざわと妙に騒がしくなった。 「あっ……晶さん、あれを見て。風船が!」 「あっ!」 校舎の入り口の所に飾っていた、バルーンアートの大きな風船がぐらぐらと揺れていた。 ついている飾りが重かったのだろうか、やがて耐えられずに落ちてくる。 その先には…模擬店の尖ったポールがあった。 「あ…割れちゃう!」 「……ぅわっ!」 その場の全員が黙ってしまうような、大きな破裂音。 割れる、と思って見ていた俺もさすがにびっくりした。 「……―――きゃあぁあぁぁっ!」 えっ……? 突然の悲鳴に驚き、校舎の方を振り向く。 茉百合さんが、その場に縮こまるように崩れ落ちていた。 お祖母さんの連れの男の人が、慌てたようにその体を支えている。 「まゆちゃんっ!!」 「茉百合さん!」 桜子と共に茉百合さんのところへ走る。 俺が茉百合さんに手を伸ばすのを見て、連れの人は体を引いた。 ずっしりと、体重が腕にかかる。 「茉百合さん、どうしたんですか!」 呼びかけても反応がない。気絶しているようだった。 「まゆちゃん、まゆちゃん……」 「……面倒な子ですね」 「……っ! あの、すみません!」 さっきまで泣きそうに茉百合さんを見ていた桜子が、雄々しく立ち上がった。 お祖母さんから俺と茉百合さんをかばうように前に出る。 「会長さんなら、生徒会室にいると思います!」 「場所は生徒さんに聞いてください、私と晶さんは茉百合さんを保健室に連れて行きます」 「茉百合さんの目が覚めて大丈夫そうだったら生徒会室にお連れします! それでどうか、許してもらえませんか!」 お祖母さんは桜子の剣幕に少し驚いたようだったが、納得してくれたのか頷いた。 一言だけ言うと、お祖母さんはそのまま校舎の中へと歩いていった。 俺の腕の中の茉百合さんを一度も見ようとせずに。 「………ふぅ」 桜子が安堵したように、一息つく。 正直驚いた。桜子でもあんな態度をとることがあるんだ。 「さ、桜子、どうしたんだ?」 「うん、あのね、まゆちゃんは、前からああいう大きな音がとてもとても苦手なの…」 「きっと、大事な話なんかできないよ、ゆっくり休ませてあげなきゃ…!」 「そうだったんだ…」 「晶さん、まゆちゃんを……」 「わかってる、保健室だろ」 気合を入れて茉百合さんを抱き上げる。 女の子の一人くらい全然平気、って言えるくらい鍛えてはいないけど、これくらいは役に立ちたい。 そうして俺は、桜子と共に保健室へ向かった。 茉百合さんをゆっくりとベッドに寝かせ、布団をかけた。 顔色はまだよくなかった。 桜子が横で、心配そうに見守っている。 「まゆちゃん……大丈夫かな…」 「うん…」 横たわる茉百合さんを見ながら、思い出すことがあった。 少し前に、limelightで天音と結衣が誤って俺と茉百合さんの方へケーキを飛ばした時のことだ。 あの時、皿が派手な音をたてながら砕け散った。 そういえば茉百合さんが素顔を見せたのも、あの時が初めてだった。 「なあ、茉百合さんってずっと大きな音…さっきみたいな風船割れる音とか、苦手なのか?」 「うん。初めて会ったときから、ずっと……ずっとそう」 「きっと、何か辛いことがあるのよ。いつもまゆちゃん、こうやって倒れても泣かないように我慢してるみたいだから」 「……」 当たり前だけど、俺、茉百合さんのことは何も知らないんだな……。 あんな厳しそうなお祖母さんがいたのも知らなかったし。 桜子に少し聞いてみてもいいだろうか? そう思って見ると、桜子は落ち込んだ様子で時計を見ていた。 「どうしたんだ?」 「あぁ、だめ…私、今日はそばにいてあげたいのに」 「え?」 「……晶さん、ごめんなさい。私、これから病院に入院しに行かなくちゃいけないの」 「えっ、入院?! 桜子、どこか悪いのか!」 「違うの、ただの検査入院だから。どこも悪くないですよ」 「健康診断の結果にちょっぴり問題があって、もう少し詳しい検査をするだけだから……」 「そうなのか、よかった……」 「明日のお片づけの手伝いもできなくて申し訳ないのだけど……」 「いいよ、そんなことは」 「はい。まゆちゃんのこと、お願いしますね。ちゃんとそばにいてあげてね」 「わかった」 名残惜しそうに席を立ち、ドアに向かう。 桜子はドアのところで少し立ち止まると、振り返って言った。 「―――きっと、まゆちゃん…晶さんの事、大好きだと思うから」 「桜子…」 桜子が出て行ってしまい、部屋は静まり返った。 壁にかけられた時計の音だけが、やけに大きくかちこちと聞こえてくる。 「………」 「……ぅ…」 「茉百合さん……」 茉百合さんはうなされているみたいだった。 大丈夫だろうか。 こんなに苦しそうな茉百合さんは初めてだ。 俺は茉百合さんの手をしっかりと握りながら、どうかこのぬくもりが届くようにと祈った。 ――ここは、どこだろう。 真っ暗で、何も見えない。そこにたったひとり立っている。 何も見えないというのに、何故か恐怖はまったく感じなかった。 どこかから、小さな声が聞こえてくる。 『……っく、うっ、うっ、うううぅ…』 「だれ…? 泣いているの…?」 『…うっ、うええぇ…』 「どこにいるの…? 何も見えない」 「っ!」 くしゃりと、何かを踏んでしまった。 柔らかな何かを押しつぶしてしまった感覚に、悪寒が走った。 何を踏んだんだろうと目をこらしても、暗闇しか見えない。 『……わあああぁぁ…!』 突然大きくなった少女の泣き声に、体がびくんとはねた。 どうしてと尋ねる前に気づいた。 きっと今、自分が踏んでしまった何かが原因なんだろうと。 ゆっくりと足をずらし、手探りでその何かを拾い上げる。 それは……くしゃくしゃになった一輪のきれいな花。 とてもよく、見覚えのあるもの。 育った家にある小さな花壇で咲いていた花だ。 「……っ!!!」 「いやっ!!」 すぐさま、花を投げ捨てた。 この花はもう見たくない。 もう二度と、見たくないのに……。 力なくうなだれていると、今度は遠くからけたたましい音が聞こえてきた。 心がざわめく。耳鳴りのように、頭の中で反響し続ける。 「いや……」 少女が泣き叫んでいた。 サイレンを追って、追いつけもしないのに走り出していた。 『……あああぁ、いや! いやあ! いかないで…!』 『…おねがい……! いかないで! やだ、やだよ!!』 「やめて!! もう叫ばないで!」 『……いやあぁぁ、おねがい…うううぅ…』 さっき捨てたはずなのに。 幾十もの花弁が、髪や肩にふわりと落ちる。 「あぁ……やめて、お願いだから…」 自分の体を守るように抱きしめた。 目を閉じてもぐらぐらと体が揺れているようだった。 そして、何かがどさりと倒れたような感覚が足元に広がった。 震えながら目を開けると、さっきまで美しく咲いていた花が千切れて飛び散っていた。 『……えっく……ぅうう…おねがい、ひとりにしないで……かえってきて』 「帰ってこない…」 「誰も、帰ってこないのよ、だからもう……」 「泣くのをやめて! 耳障りなの!」 うずくまったまま耳を塞ぐ。目もきつく閉じた。 これで、何も聞こえなくなるはずだ。 何も見えなくなるはずだ。 「………」 「……?」 どれくらい時間がたったのだろう。 もう随分と長く、そうやって目と耳をふさいでいたように思う。 ふと耳から手を離してみた。 泣き声も、何の音も聞こえなくなっている。 もう泣き止んでくれたのだろうか。 そんな事を願いながら、おそるおそる目をあけてみる。 醜く飛び散っていた花びらも、きれいになくなっていた。 残るのは暗闇だけ。 「…あっ」 その中に、ぼんやりとたたずむ光。 ――さっきまで泣いていた少女だ。 姿も見えないというのに、それが誰なのかはすぐにわかった。 『……どうして叶わない夢をみるの?』 少女はもう泣いてはいなかった。 しっかりと目の前に立っている。 その目は冷たかった。 「…夢…?」 『あなたはまた夢をみて、誰かに手を伸ばそうとするの?』 「私は…」 『もう、懲りたんじゃなかったの?』 『おまけに、未練がましく相手にすがって』 「やめて、違う…」 『あの人が誰なのか、わかってるんでしょう? 愛されようなんておこがましい』 「そんな事思ってない……」 『跳ね除ければよかったのよ。いくら似ているからって、許してはいけなかったのよ』 「だから、跳ね除けたじゃない!」 『でも大丈夫、お祖母さまが来たもの。結婚しなさいって言われたもの。これでやっと離れられるわ』 『これで安心、これでまた、私は一人でいられる。そうだよね?』 「…………」 「…そうだと、思うわ……」 「これで、やっと……離れられるのよね」 安堵のため息とともに、そう返事をする。 気がつくと、目の前には誰もいない。 ……きっと最初から、ここには誰もいなかったのだ。 ――他には誰も。 「涙は……」 確かめるように、自分の頬に手をやった。 鏡がない暗闇だったので、そうしないと泣いているのかどうかがわからなかったから。 頬は乾いていた。 「よかった、出ていない……」 「………あ…」 目を覚ますと、周りはもう暗かった。 あんなに騒がしかったお祭りはとっくに終わっていて、校舎の中は静まりかえっている。 ベッドから身を起こして、自分が保健室にいる事にようやく気付いた。 ―――部屋には誰もいない。 「誰もいないのね……そうか、桜子は、病院だったかしら…」 確か今日から検査入院のはずだ。 あんなことで倒れなかったら、付き添うこともできたはずなのに。 いや、どのみち祖母が来ていたのだから、それは無理だっただろう。 「………」 しばらく、呆然と白い布団を見つめる。 ――今、何をしなければいけなかったか……もう一度、整理して考えなければ。 「…帰らなきゃ」 寮の部屋に帰って、祖母にお詫びの電話をして。 あとはどうすればいいだろうか? どうすれば、一番うまく行く? 霞がかかっていたような思考が、ようやく回り始めた。 そしてばっと自分にかかっていた布団をめくりあげると、昼間もらった腕輪が目に入った。 安物の、子供だましのおもちゃの腕輪。 「……」 しばらくじっと見ていた。 ボタンを押してみる。 ぴかぴかと光った。赤色、青色と、色とりどりに点滅している。 きっと真っ暗になった外で光らせたら、もっときれいだろう。 ゆるく微笑みながら、そっと腕輪を外した。 ベッドをきちんときれいに直し、制服のしわを正す。 保健医のために、体調が直りましたので帰ります、とメモを残しておく。 さようなら。 何故そんなふうに呟いたのかは、わからない。 ゴミ箱の中で、腕輪はずっときらきらと輝いていた。 …………。 ………。 ……。 ぼんやりとした頭で、俺は夜空を見ていた。 なんだろう。 なんなんだろう、これは。 変な感覚が体全体を覆っている。 上から下に何かがスゥっと通り抜けて行くような、そんな感覚。 どうして、こんな感覚を感じているんだろう。 いや、違う。 通り抜けて行くような感覚、じゃない。 これは違う。 そういうのじゃない! 違う、違う! 「うわああああああああああ!!!!」 これ、落ちてる! 夜空が見えるのは、高い空から落ちているからだ! 俺は、どこかに向かって落ちている! しかも、頭から!!!! 動けない!!! 「おち、落ちるううううう―――!!!!」 「わあああああ!!!」 きょろきょろと周りを見渡す。 そこは見慣れた部屋の中だった。 「…………」 マックスはいない。 いつもどおり、limelightの朝の仕込みだろう。 ………。 部屋には、ひとりベッドで布団にくるまっている俺だけ。 ゆ…。 夢だったのかぁ。 ――よかったー…! 死ぬかと思った。いや、夢じゃなかったら確実に死んでたな…。 「……あれ」 でも、俺…保健室で茉百合さんに付き添っていたはずなのに、どうして部屋にいるんだろう。 あれからの記憶が無い。 布団で寝てるし。ちゃんと。 確か、誰かに呼ばれて保健室を出たような気がするのだが……。 「…………」 「なんでだ。思い出せない……」 おまけに繚蘭祭が終わって疲れてるのか、体が重い。 なんだろうか、このぐったり感は。 「なんか、体だるい…」 休みの日に、ほぼ1日寝ちゃった時の感じに似てるかもしれない。 そんなに寝ていたはずもないのに。 「……茉百合さん…大丈夫だったのかな」 昨日、真っ青になって倒れていた茉百合さんのことを思い出す。 ――そうだ。 心配ならとりあえず学校に行けばいいんじゃないだろうか。 まだ早い時間だから、もしかして生徒会室に行けば会えるかもしれない! 「色々聞きたいこともあるし……」 「よし、行こう!」 「おはようございます!」 勢いよく生徒会室に飛び込む。 もしかして、昨日保健室に茉百合さんを放っておいたことがばれて、怒られるかもしれないと思ったけど…それはそれだ。 死ぬ気で謝ろう。そしたら何とかなる気がする。 「なんだ、葛木か。どうした」 生徒会室の中を見回してみる。会長と八重野先輩の二人だけのようだ。 ぐみちゃんがいないのは、きっと展示ブースに行ってるからなんだろう。 「茉百合さんは?」 「まだ来ていない。珍しいことだがな、いつもは俺たちより早いのに」 「昨日大変だったからじゃないの〜……はぁ〜」 「そ、そうだ! 昨日! あの、会長のとこに茉百合さんの……」 「白鷺のご当主様でしょ、きたきた」 「け、けっこんって!」 「あぁ〜……」 「お前のような暴れ牛を婿にとは、狂気の沙汰としか思えんな」 「やっぱり! 茉百合さんと結婚するんですか?!」 「するわけないだろっ! あと牛ってなによ!」 そんな風に正面きって『するわけない』と言われると、それはそれで何か腹が立つのは男のワガママなのだろうか。 「そんな顔するなよ〜。いや前も言ったけどさー、ただのカモフラージュの口約束してただけだったんだよう」 「本当に…?」 会長には、まったく結婚という気はないらしい。 まあ、普通そうだよなあ。 会長にもその気がないのなら、意外と何とかなりそうだ。ちょっとホッとした。 「しょーくんも考えてよ!」 「なんでだよ!」 「なんでって、まゆりちゃんとつきあっちゃってるクセに、なに言ってんの〜、え〜?」 「今だって心配で来たんだろ〜? んー? ホーントかーわいいなーしょーくんはー!」 「う……うう」 「いやそれはだね、俺がアホのフリをすれば向こうの家がドン引きして、断ってくるんじゃないかと思うんですよ」 「茉百合さんのおばあさんが来たとき、会長どうだったんですか。猫かぶってたんですか」 「いや、いつも通りだった。先方は特にドン引きとやらをする様子も無かった」 「じゃその案は無理ですね」 「ちょっとなにそれ! どういう意味!」 「どうって――」 そんな軽い言い争いをしていた時。 扉がゆっくりと開けられ、ゆっくりとしめられる。 茉百合さんがいつものように優雅な佇まいで、生徒会室に入ってきた。 「おはようございます。ごめんなさい、遅くなってしまって」 「茉百合さん!」 「……あら、晶くん。おはようございます」 「あ、お、おはようございます」 流れるような動作で挨拶をする茉百合さんに、何故か俺は違和感を感じた。 いつもよりどこか繊細というか、お嬢様らしいのは気のせいだろうか? このごろ、素の茉百合さんばかり見ていたからそんな風に思ってしまうのかな。 「破談? それは何のことかしら?」 「だから、会長と茉百合さんの結婚の話で」 「……あぁ。昨日の件ですわね」 茉百合さんは持っていた荷物を机の上に置くと、にっこりと優しい笑顔で笑いながら言った。 「ちょうど良いので、私の考えを申し上げます」 「本家が決めたことでしたら、私は逆らえません。皇くんには、私と結婚して頂きますわ」 「――っちょ?!」 「えええっ?!」 会長が驚きのあまり、だらしなく座っていたソファから転がり落ちる。 「ちょっちょ、ちょっと待って! 口だけだって言ってたじゃん!」 「ええ。大変申し訳ないのですけれど、事情が変わりましたから」 「だ、だってまゆりちゃん……」 会長がちらっと俺の方を向く。『どうすんの?』とでも言いたそうな顔だ。 そ、そうだ。ぼおっとしている場合じゃないぞ俺。 「そ、そうだよ、あの、茉百合さん俺……」 「何か問題でもありますかしら?」 「問題でも…って……」 茉百合さんはあまりにもにこやかに、あまりにもさらっとそう言った。 ――どうして? 困惑のあまり、目の前がちかちかとする。 昨日までは、不満そうにしながらもなんだかんだで俺と一緒にいてくれてて…。 楽しそうにしてくれてたと思ってたのに……。 あれは、全部俺一人の勘違いだったのか…? 「問題がないのでしたら、こちらも話を進めさせていただきますね」 「…………い、いや、あの…まって」 「まだ何か?」 「……結婚は嫌だとお断りするのは……」 おそるおそる言う会長に、さっきと同じように有無を言わせない微笑みが返された。 「私の部屋のスペアキー、返してもらえますか。結婚もしないのに持っているのはおかしいですわよね」 「……っ…!」 「……やっぱり、そう…来ますか…」 「あら、そうですか? 私が出した条件を呑むというお約束で貸し出しているはずだったのでは?」 「その条件は、すでに許容を越えているとしか思えない。白鷺さんらしくない乱暴なやり方だな」 「八重野くん、口を挟むのはもちろんあなたの自由だけれど、それで困るのは皇くんだという事をお忘れなく」 「……しかし」 「………はぁ」 会長は重いため息をつきながら、ソファに撃沈してしまった。 どうしてかはわからないけど、八重野先輩も黙ってしまっている。 二人にはもう、どうすることも出来ないのだろうか。 まさか、本当に会長と茉百合さんはこのまま結婚してしまうなんて事に……。 それは嫌だ。 このまま黙っていることなんて、俺には出来ない。 どこかで茉百合さんと二人きりで話がしたい! 「ま、茉百合さん!」 「……はい?」 「あの、今日はどこの片付けをするんですか?」 「なら、ちょっと早いですけど、今すぐ行きましょう!」 「えっ……」 「一緒に行きましょう! 会長、茉百合さん連れてっていいですよね!?」 「あ、はい、どうぞ!」 「きゃっ」 俺は茉百合さんの腕を掴むと、半ば強引に生徒会室から連れ出した。 ここでは駄目だ。 どこか二人きりになれるところに行かないと! 「しょーくーん、頼むから頑張っておくれ〜」 俺は茉百合さんの腕を引きながら、どこか二人きりになれる場所を探していた。 茉百合さんはいきなり生徒会室から連れ出されて随分と戸惑っているみたいだった。 だけど今はまだ。素直についてきてくれている。 「あの、そろそろ腕を離してもらえないかしら」 「嫌だ!」 「……ではせめて、力を緩めて下さらない? 少し痛いのだけれど」 「えっ、あ。ごめんなさい」 そんなに力を込めていただろうか。 無意識に力みすぎてしまっていたのかもしれない。 俺は慌てて手を離した。 強引すぎて茉百合さんを傷つけたんじゃ意味がない。 「あの、ちょっと話があります」 「……何でしょう?」 「出来たら、どこか人のいないところで……」 まだ朝が早いとはいえ、廊下にはぽろぽろと登校している生徒の姿が見える。 他の人間の目があるような所では、きっと茉百合さんの本音は聞くことが出来ないだろう。 だから、どうしても二人きりじゃないと駄目なんだ。 「わかりました。では屋上に行きましょうか」 「は、はい!」 屋上――確かに朝は人のいない所だ。 つまり、俺と話をする気はまだあるっていう事だろう。 よかった。 話もしてくれないのではないかと、少し心配だったんだ。 ほっと緩みそうになった心を引き締めて、俺は茉百合さんとともに階段を上った。 屋上の空気は澄んでいた。 朝の時間だということもあり、やはり誰の姿もない。 これなら茉百合さんも、ちゃんと本音を話してくれるに違いない。 そう思って見つめてみたが、茉百合さんは優しい笑顔を崩そうとしなかった。 「では、お話をどうぞ」 「…………」 「どうなさったの?」 いつもと違う様子に少し面食らったが、ここで引くわけにはいかない。 俺の気持ちを伝えないと。 本気で会長と結婚する気があるのか、それを聞かないと! 「本当に会長と結婚する気なんですか」 「ええ。さっきもそう言ったはずよ」 「どうして!」 「茉百合さんは、会長の事が好きなのか?」 「そうね、そこまで嫌いじゃあないわよ。でもそんな事は関係ありません」 眉ひとつ動かさず、茉百合さんは言った。 自分のことなのに。それも冗談や遊びじゃない、自分の一生に関わることかもしれないのに。 「そんなんでいいのかよ!」 一瞬、茉百合さんの肩がびくんと震えた。 「俺は、茉百合さんがほんっとに会長のこと好きならそれでいいって思った」 「だけど違うんだろ? 好きだからじゃないんだろ?」 「………」 「誰と結婚するかなんて、本人の自由じゃないのか?! どうして茉百合さんが、そんな…一生の相手まで人の言うこと聞かなきゃいけないんですか!」 「………」 「……そうね、あなた、ドラマなどは好き?」 「え? な、なんですか急に」 「例えば、とある由緒正しいお家が舞台はどうでしょう。本家と呼ばれる家族が絶対的な権力を持つ、閉鎖的な集合」 「そこのご主人様が奥様以外の女に手を出してしまいました。それも、使用人。これを何て言うかご存知?」 「……」 「身分違い。お約束のように子供が生まれたけれど、そんな身分違いの恐ろしい子供は『なかった』ことにしましょう」 「そう『なかった』ことのように、あたりまえに本家の奥様の娘として育てられてゆく娘の話など、どう? おもしろそうでしょう」 「……茉百合さん」 「低俗ですね。本当に低俗なドラマだと思いますわ。ふふ、おかしいですね」 「どうぞ、笑ってくださっていいのよ? 私がいるのは、そういう家なの」 「どうすれば自由なんて言葉が私の口から紡げるのでしょう」 「俺は――」 「あなたが口にするような小さな自由ですら、私には禁句なの」 「家に結婚しろと言われれば結婚せざるを得ないのです」 「だから、自由なんて軽々しく私の前で口にしないでくださいね? おわかりいただけたら嬉しいわ」 「………」 一瞬、何も答えることが出来なかった。 ……あまりにも違いすぎて。 俺の立っている所から、手を伸ばせば届く位置にいるはずの茉百合さんが……。 あまりにも遠くにいるように思えた。 気づかないうちに、俺のひざは微かに震えていた。 茉百合さんのいる場所は、俺が考えていたよりももっと深く冷たい場所なんだ。 茉百合さんが崩そうとしないその壁は、自分を守るためじゃないんだ。 自分が壊れてしまわないため。 自分のいる場所がどんなに辛いところなのか気づいて、悲しくなって、壊れてしまわないためなんだ。 「お話は終わりでよろしいかしら」 「……」 また、何も言えない。 茉百合さんはまだ微笑んでいる。そのまま、ゆっくりと俺に背中を向けようとした――。 ――駄目だ、茉百合さんが行ってしまう! 引き止めたい。 何か言え。考えろ。 そうだ、俺は引き止めたい。 茉百合さんが好きだから。 俺にはそれしか言うことなんてないじゃないか。 「…え?」 「好きなんだ、だから、他の男と結婚するなんて、俺は嫌だ!」 「茉百合さんを取られたくない。誰にも渡したくはない!」 「………っ」 「茉百合さんだって俺と同じ気持ちじゃないの? キスをしても、抱きしめても、ちゃんと俺を受け入れてくれてたじゃないか」 「いくら表面的にはねのけたって、お嬢様を気取ったって、俺にはわかる」 「茉百合さんはどこにでもいる普通の女の子だ! だから、普通に恋をして、普通に幸せになるべきだ!」 「自分の好きな人は、自分で選ぶべきだよ!」 「………晶くん…」 「あなたは何もわかってないのね」 「……え?」 言いたい事を全てぶちまけると、茉百合さんを取り巻く雰囲気が少しだけ変わった。 さっきまでの、他人行儀なお嬢様ではない……とりつくろっただけではない、本当に優しい声。 だけどそれは、同時にどこかはかなげで弱々しくも見えた。 「もしも……もし私が、あの家を捨てて好きな人を選ぶことがあったとしても」 「ねえ、それがあなたである事は絶対にないわ」 「あなたはとってもお馬鹿さんだから、本当のことを教えてあげましょうね」 「私、皇くんと結婚したいわけじゃないわ。でもちょうどいい機会だとは思ったの」 「あなたと離れたいのよ」 「あなただけは絶対に駄目。私はあなたを絶対選んじゃいけないの」 「……俺を…?」 「そうよ。最初から、あなたは駄目だったのよ。だから言ったじゃない、関わるなって……」 これ以上、私に関わるな。 確かに俺は、茉百合さんが初めて素顔を見せたころよくそう言われていた。 親しげにまとわりつく俺が、気に入らなかったからじゃなかったのか? 今更、そんな事を言われるとは思わなくて、頭が真っ白になってしまう。 どれほど俺は立ち尽くしていたんだろう。 声を出そうとした時、喉の奥がいやに乾いて音をたてた。 平静に言ったつもりだったのに、俺の声は震えていた。 「……何故、俺が駄目なんですか。そんなに俺のことが嫌いですか」 「……」 「言ってください。それが本当なら、俺はもう……諦めます」 そう言うと、茉百合さんは俺に向かって優雅にお辞儀をしてみせた。 前のように俺をはねのけたのではない。 本当に優雅で、誰も真似のできないような美しいお辞儀。 だけどこれは、茉百合さんからの懇願のしるしだ。 今までに言われたどんな厳しい言葉よりも、痛く胸につきささる。 ――だから、俺は何も言えない。 何も言うことなんて出来なかった。 そのまま立ち尽くす俺を置いて、茉百合さんはドアを閉めて階段を下りて行ってしまった。 「………」 どれくらいそうやっていたのだろう。 階下からはざわざわと、生徒たちの声が聞こえる。 もしかしてもう掃除は始まっているのかもしれない…。 ……戻らなくちゃ。 そうだ、生徒会を手伝ってって言われたんだっけ……。 俺は屋上のドアを開けると、生徒会室に戻ることにした。 ――ドアはやけに重かった。 どこをどうやって戻ってきたのか、よく覚えていない。 途中何度も、階段を踏み外しそうになった。 廊下はぞうきんやダンボールを抱えた掃除中の生徒たちがたくさん行き来していて、ぼんやり歩いているとぶつかりそうになった。 「失礼します……」 部屋に入った俺の姿を見て、会長が駆け寄ってくる。 どうやらずっと戻ってくるのを待っていたみたいだった。 「……しょーくん? まゆりちゃんは?」 「……」 「俺だけは、絶対に駄目だそうです」 「え? 駄目って、何のこと? ちゃんと最初から話してくれないとわからないよ」 俺はとまどった。 今あったことを、どう説明すればいいのかわからない。 嘘をつくことも、うまくごまかすこともきっとできない。 全部、そのまま伝えるしか――できないから。 「……聞いてもいいなら聞く。聞いてほしくないなら、別にそれでもいい」 「……話します」 「茉百合さんは、別に会長と結婚したいわけじゃ…ないそうです」 「そんなの、わかってる」 「茉百合さんは」 「茉百合さんは俺と離れたいんだそうです…俺だけは、絶対に選んじゃ駄目だそうです…」 「……絶対に」 「白鷺さんは、もしかして葛木の事を知っていたのか…?」 「え?」 それまで、何も言わずに話を聞いていただけの八重野先輩が口を出した。 でも、どういうことだろう? 言われている意味がよくわからない。 「お前は何も知らんのか。白鷺さんのことを」 「な、何がですか? 茉百合さんのことって……」 「お前の父親とのことだ」 「親父……? なんで親父?」 会長も納得したように頷く。 そういえば、茉百合さんのお祖母さんもそんな事を言っていた。 刑事って言われて……俺は親父のことじゃないかと、思っていたはずなのに。 これまでのごたごたですっかり忘れていた。 「一体どういう事なんですか? 教えてください。お願いします!」 「………いいのかな」 「教えてやればいいだろう。その後どうするかは葛木が決めることだ」 「そっか。わかった」 「晶くんのお父さんね、4年前職務中に重傷を負われたことがあるだろう」 「は、はい。確か警護中に拳銃で撃たれたとか……」 「…えっ……? お、親父が?! 茉百合さんを?!」 「その頃の白鷺家はかなり悪質な脅迫を受けていたようでな、それで何人かの刑事が身辺警護についていたというわけだ」 「お前の父親は、白鷺さんと一緒に家の庭に出ている時に彼女をかばって撃たれたらしい」 「………だから」 『あなただけは絶対に駄目。私はあなたを絶対選んじゃいけないの』 「だから茉百合さん、あんな事を……?」 ざわざわと、飛び交う人の声がする。 いつもよりもそれは多くて、とてもうるさい。 いつだって誰の声も聞こえてはいなかったけれど―― 『君がまゆちゃん?』 『……』 『確か一番下の妹さんだね? 僕は葛木といいます。しばらくお家が騒がしくなってしまうけど、ごめんね』 『……』 家の中にやってきた沢山の人間が、警察関連の人たちである事を知ったのはずいぶん後だった。 誰も教えてくれなかったからだ。 何かの事件にこの家が巻き込まれているという話すら、どこか他人事だ。 何もかもが無関心のまま、ただ時間がすぎてゆくのを待っていた。 それがいつものやり方だった。 だけど、たったひとつ――いつもと違う何かを感じる瞬間があった。 『ねえ、まゆちゃん』 『あの、その呼び方やめていただけますか』 『あ、ごめん…ごめんね! ご家族の方から茉百合さんって名前を聞いて、じゃあやっぱりまゆちゃんって呼び方がいいかなって』 『……』 『ちょっとなれなれしかったよね。でも……もしよかったらそう呼ばせてくれないかな?』 『……何故?』 『何故って、そのほうが早く仲良くなれそうだから』 『仲良くなんて、なってどうするんですか』 『え、あの、だめかな』 『……』 『きっと仲良くなったほうが、いいかなって思ったんだよ』 『なんの得にもなりません。あなたはお仕事でいらっしゃってるのでしょう』 『そうだね、仕事できているよ』 『だけど、ちょっと気になったから…。まゆちゃん、いつもひとりでいないかい?』 『――!』 『僕は家族じゃないし…その、学校のお友達みたいにはなれないけどね。でも友達になれならいいなって思ったんだ』 『はー…ごめん。おせっかいだよね……ああ…おせっかいだ』 『け、刑事……さん?』 『実はいっつも怒られるんだよ。余計なことばっかするなってさ。ああ、なんだか僕のほうこそまゆちゃんに話聞いてもらってるな』 『……ふ、ふふ』 『おかしな人ね、刑事さん』 『葛木茂樹、良かったら覚えておいてくれるかな』 『……葛木さん』 『はい!』 『私、記憶力はいいんです。覚えておきますわ』 『ありがとう!』 『――それから、葛木さんは私がひとりでいる時いつも話しかけてくれた』 『自分の心がまるで氷みたいに冷たく固まっていたことを、私はその時初めて知った』 『それでもかまわないと思っていた、自分にも。でも、本当は違ったんだ。ずっとずっと、そうじゃないって叫んでる自分がいたのに、気づかなかっただけ……』 『あの、か、葛木さん』 『なんだい?』 『見せたいものがあるんです』 『見せたいもの? なんだろう? そういうのなんかドキドキするんだけど』 『……ふふ』 庭の中にある、ささやかな花壇。 ほかの場所とは明らかに違う、手作りのその場所。 指差した先にあるその場所を教えた時、何故か胸の奥がほんのりと熱くなった。 『ここ、私の一番大事な場所……』 『おお! きれいだね!』 心の中に浮かんだ言葉、自分の感じた気持ち。 自分の方へとまっすぐに飛び込んでくるそれらに、嘘はない。 ――この人はそういう人なんだ。 そのことに気づいた時、驚くほど嬉しさがこみあげてきた。 『僕にはね、息子しかいないんだよ。こういう風に花を眺めるなんて、なかなかなくってね』 『そうなんですか?』 『ほんとだよ、すぐ洗いものは溜まるし、洗濯物は山になるし、もうそんなことでいっぱいいっぱいだ』 『ふふふ』 楽しいとか嬉しいとか、おかしいとか……ずっとどこかに押し込めていたような気持ちが、ぽろぽろとこぼれ落ちる。 それはまるで心をくすぐられているようで、思わず笑ってしまう。 『まゆちゃん。ちゃんとそうやって笑える子なんだね』 『……え?』 『安心したよ。本当に笑えなくなってるんじゃなくて…我慢してたんだね』 『……』 『大丈夫?』 『う、うん……』 『ちゃんと泣いていいんだよ。泣くのはとても大事なこと』 頭をなでられた。 思っていたよりも、大きな手のひらだった。 『それなら、また笑えるよ。甘えたり笑ったりできるんだよ、まゆちゃんは』 『……うん』 『それがわかって良か――』 『えっ?』 花壇の上に、人が倒れていた。 それは、さっきまで隣にいて、頭を優しく撫でてくれた手の持ち主だ。 空を切った乾いた音は何だったのか。 どうして大事な花壇を覆うように、この人は倒れているのか。 倒れたその人の悲しげな顔は、どういう意味なのか。 『ごめ…まゆちゃ……ん』 『えっ? どう、して?』 『花…つぶしちゃった……かな、ごめんね…せっかく見せて……』 『どうして? どうして?』 その人の体の下から広がる赤色は何なのか。 一生懸命育てていた花をぬらす、赤い色――それが血だと気づいたのは、どれくらい後だったろう。 騒がしい音とともに、この家にいた他の刑事たちが駆け寄ってくる。 誰かが乱暴に腕を引っ張って、部屋の中へと連れ戻される。 何もわからないまま、ただずっと考えていた。 『どうして?』 誰も聞いていない。 誰も答えてくれない。 そして何も聞こえない。 『――それは私が自分を許そうとしたから』 『――他人に甘えるなんてこと、許されるはずないのに。求めてしまったから』 ――しばらくの間、俺は会長と八重野先輩に茉百合さんの昔の話を教えてもらっていた。 茉百合さんが名門の旧家の、末の子供だったこと。 親父が茉百合さんの家に仕事で通っていたこと。 そして、少しおせっかいをやいていたようだったこと。 茉百合さんと仲良くしていたせいで家人と間違われたらしく、庭で撃たれてしまったこと。 「……話はよく、わかりました。教えていただいて、ありがとうございました……」 「それで、お前はどうする」 八重野先輩が、まっすぐに俺を見る。 いろいろなことを一度に知りすぎて、自分でもどうしていいのかはわからない。 少し迷ったが、正直に話すことにした。 「………。わかりません…ちょっと、混乱してて」 「まあそうだろうな。今日一日、掃除でもしながらゆっくり考えたらいい」 「ここに戻ってきたって事は、生徒会のお掃除手伝ってくれるのかな?」 「あ、はい…」 「そーかそーか。まあ頑張ってくれたまえ」 「他人事みたいに言うな」 そう言って八重野先輩が会長をソファから追い立てる。 会長はしぶしぶソファから腰をあげると、隣の部屋からモップを二本持ってきた。 そしてひとつを俺に差し出す。 とりあえず、俺もこの部屋の掃除を手伝えばいいのかな。 モップを受け取りながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。 そういえば会長たち、やけに茉百合さんと親父のこと詳しかったけど……。 モップをのろのろと動かしていると、ふと疑問がわいてきた。 「あの…そういえばちょっと不思議だったんですけど」 「んー?」 「会長と八重野先輩はどうして、茉百合さんと親父の事知ってたんですか? この学校ってそんな事まで調査するんですか?」 「なんで俺の親父のことを?」 話の途中で、会長はいきなり首をかしげはじめる。 まるで、突然自分でもわけがわからなくなってしまったみたいだった。 「蛍、なんでだっけ??」 「だよね?」 「……??」 二人はしきりに不思議そうにしている。 結局、俺にはどういうことなのかよくわからないんだけど……。 もしかして、俺の転校のことに関係があるのかな? 「あの、それって、俺が謎の転校生だったからじゃないんですか?」 「へ? なになに、謎の転校生って」 「えっ……だ、だから、俺をこの学校に呼んでくれたのが誰かわからなくて…」 話の途中だというのに、二人とも突然ぎょっとした顔をした。 「葛木、お前……まさか知らなかったのか?」 「えっうそ! とっくに知ってると思ってたよ!」 「えええ!? 会長たちこそ、知ってたんなら教えてくださいよ?!」 「お前の転入を推薦したのは、皇理事長だ」 「え、ええええええ?!? 理事長って、会長と天音のお母さん?!」 「そ、それだったら最初から言ってくれればいいのに……わざわざ審議会とかしなくても…」 「あれ…??」 なにかがおかしかった気がする。 ――するんだけど……。 一体何がおかしいのか、俺にはよくわからなくなっていた。 「なんでもない、です。えっと、掃除…します」 「……あまり深く考え込むなよ」 「はい…」 廊下は掃除と片付けをしている生徒でごった返していた。 邪魔にならないように隅を歩きながら、俺は持っているゴミ袋を抱えなおす。 生徒会にはいらない書類をシュレッダーにかけた紙くずが大量にあって、ゴミ袋は重くはないものの結構な量になっていた。 「………」 歩きながら、ずっと考えている。 なんだろう、変な感覚だ。 夢をみていたような、夢からさめたような。 茉百合さんにあんなことを言われたからだろうか……。 「……茉百合さん…」 そうだ。 どうして、俺だけは駄目だと言われたのか、その理由はなんとなくわかったけど。 「俺……これからどうしたらいいんだろう…」 親父のことなんか、俺は気にしていない。 茉百合さんが気に病む必要はないんだ。 もちろん俺はそう思っているのだけれど……。 茉百合さんを縛っているものはそれだけじゃない、そんな気がしてならない。 今までひどいことを言われた事は何回かあったが、どれも今日ほどの拒絶は感じなかった。 それくらい、茉百合さんの瞳は真剣だった。 近づかないで欲しいと、お辞儀までして頼まれた。 拒絶ではなくて、懇願だ。 今までのような表だけの態度とは違う、本当の気持ちだとわかる。 だからこんなに、居たたまれない気持ちになるのかもしれない。 「茉百合さん…」 「ねえ見て、茉百合さまよ。やっぱり華がおありになるわぁ」 「歩き方も優雅ですよねえ。お掃除していても様になるなんて」 「お声もかけてもいいのかしら?」 周りの反応が一気に色めきたったのを感じ、下を向いていた顔をあげる。 何人かの女子生徒たちの向こうから、茉百合さんが荷物を持って歩いてくるのが見えた。 慌てて物陰に隠れる。 隠れる必要なんてないのだけど、思わずそうしてしまった。 「あら、みなさんどうしたの? そんな所で立ち止まっては危ないですよ」 「あの茉百合さま、お荷物お持ちしましょうか?」 「ふふ、これくらい大丈夫よ。今日はお掃除の日ですものね? 私も働かないと怒られちゃうわ」 「茉百合さんは毎日、生徒会と繚蘭会のお仕事を頑張ってらっしゃいますわ」 「そうですよ、今日くらいは私たちにお手伝いさせて下さい」 「はい、もちろんです!」 何人かの女子生徒を引き連れて、茉百合さんは優雅に歩いていく。 よかった、俺には気づかなかったみたいだ。 やがてその後姿が校舎の向こうに消えてから、俺はようやく物陰から出た。 「……」 優雅で、きれいで、誰にでも優しい。 本当に茉百合さんはみんなから好かれ、慕われている。 俺の前で子供みたいに泣いたり、赤くなって焦ったりしていたのなんて、今思うと現実じゃなかったみたいだ。 ……茉百合さんも、そんな自分にはもうなりたくないのかな……。 俺と一緒にいることで、これ以上心をざわつかせたくないんじゃないのか。 だからこそ『もう私に近づかないで、お願いします』なんて言葉が出てくるんじゃないのだろうか。 ――わからない。 わからなくなってしまった。 茉百合さんのために、俺はどうするべきなんだろう。 抱え込んでいたゴミ袋を捨て、両手が軽くなった。 ……生徒会室に戻らないと。 そう思っているのに、足取りは重かった。 茉百合さんのことを考えると、足だけじゃなくて体が重くなるように感じる。 「俺は……」 俺は茉百合さんの事が好きだ。 それは間違いない。 だけど、どんな理由があるにしろ、茉百合さんが俺のそばにはいたくないと思っているのも確かだ。 そう、あのお辞儀をしたときの目――。 あれは本気で懇願してる目だったと思う。 「…………」 諦めた方が、いいのかな…。 思考と同時に、足も止まる。 生徒達が、どんどんと横を通り過ぎていく。 ざわざわとしているはずなのに、何も聞こえない。 その時、甲高い声が突然俺を呼び止めた。 「ちっ」 「くるりーん! いきなり舌打ちは失礼ですよ〜!?」 「あ……」 「こ、こんにちは」 「…ん?」 「なに…?」 「何だかとてもお疲れのご様子なのです、だ、だ…大丈夫でしょうか?」 「どうせまたバカイチョウに扱き使われただけ」 「あぁ…うん」 「………」 「……だ、大丈夫じゃないっぽいです」 「………かなり憔悴状態」 二人は、すごく心配そうに俺の顔を覗き込んできた。 ぐみちゃんだけじゃなく、九条までだ。 「とりあえず、これ」 何かが手の上に置かれた感触。 見てみると、一本のケロリーメイトだった。チョコレート味だ。 「それを食べてちょっとでも元気出してください」 「貴重な一本をわざわざやるんだから、ありがたく食して」 「ありがと……」 「は、はい、頑張ってください」 「………重症」 俺がもらったケロリーメイトをポケットにそのまましまい込むと、九条とぐみちゃんはその場で顔を見合わせた。 何か言いたそうだったが、今は早く生徒会室に戻らなきゃいけない。 ゴミ捨てに随分のんびり時間を使ってしまっていた。 多分考え事をしていたせいだ。 「あの、じゃあ…俺、行くよ」 そう二人に告げると、俺はすごすごと廊下を歩いて行った。 「ゴミ捨ててきましたー…」 生徒会室のドアを開けると、会長がソファの向こうから顔を出した。 「う、うわー晶くん、何て顔してんの?」 「……え?」 さっきもぐみちゃんたちに同じようなことを言われたな。 そんなにひどい顔をしていたんだろうか、俺。 「とりあえず、ここに座りなよ」 ぽんぽんとソファーを叩く会長。 掃除中なのにいいのかなと思って部屋を見回してみると、八重野先輩の姿はなかった。 「……八重野先輩は?」 「こっち落ち着いたから、繚蘭会の方手伝いに行った」 「そうですか…」 会長の隣に座る。 気分に引っ張られたのか、自然と頭がうなだれてしまった。 横からいつもより、随分と優しげな声が聞こえてくる。 「……なんか、考えれば考えるほど気が滅入っちゃった?」 少し驚いた。 ああ、そうか、俺……茉百合さんのことを考えすぎてて…。 いつのまにか暗い考えがぐるぐると回っていたような気がする。 「…はい」 「考えれば考えるほど、茉百合さんのことがわからなくなって…」 「でもそれでも好きで、俺、どうしたらいいのか」 膝を動かすと、ポケットの中でくしゃっと音がした。 手をやると、さっき九条にもらったケロリーメイトが入っている。 そっと取り出すと、包装をやぶって口にいれた。 ぱさっと乾いたクッキーのような感触と、少し甘い味が広がる。 そういえばチョコレート味だったんだよな……。 「晶くんはどうしたいの?」 まったく関係ない事を考えていたのに、会長の一言で、現実に引き戻された。 「どう、って……俺は、茉百合さんが好きだから……茉百合さんのそばにいたい」 「でも、……俺がそばにいると、茉百合さんを苦しめてしまうのかなって思ったら…」 「それだったら自分は、身を引いたほうがいいのかなって…」 「じゃあまゆりちゃんのこと、諦めるの?」 「でも俺、茉百合さんの事が好きなんです! 諦めるなんて嫌なんだ!」 「……でもその気持ちが茉百合さんには重荷なのかと思うと、なんかもう、どうしたらいいかわかりません…」 「………そっか。わからないのか」 「これ以上、俺の事で茉百合さんを苦しめたくないなら……諦めるしかないのかな…」 かじっているとぽろぽろと零れそうになるので、俺はケロリーメイトを丸ごと口の中に入れた。 もさもさと味わって食べる。 でも、いつものような嬉しさは感じなかった。 いつもと同じ味のはずだ。おいしくないわけじゃあない。甘い味がする。 こんな風に食べ物を味気ないと思ってしまうなんて……。 ――女の子を、好きだと思ったのは初めてだ。 だから、あんな風にきっぱりと拒否されたのも初めてだった。 初めての衝撃に耐え切れずに、俺はこんな風にぽっかり穴のあいたような気分になっているのかもしれない。 今はこんなだけど、時間がたてば、俺も元通りになるんじゃないんだろうか。 みんなこうやって失恋の痛みになれていくのかな。 そして、茉百合さんも……。 いつもと変わらないように優雅で、綺麗で、お嬢様として、みんなに慕われて。 今までと何も変わらず、過ごしていくんじゃないだろうか。 俺はそれを黙って、見守ってあげるべきなんじゃないだろうか。 どんなに本心がそんなのは嫌だとだだをこねても……。 だって、これ以上茉百合さんを苦しめるわけにはいかないから。 「――別に、苦しめたっていいんじゃないの?」 「…え?」 それまでずっと黙っていた会長が、俺の考えをさえぎるように言った。 「晶くん勘違いしてるよ。晶くんがいう恋愛って、何か俺は違うと思う」 「人を好きになるんだからさ、苦しんで当たり前じゃない? 本気の恋愛ってそんなもんじゃないの?」 「そ……そうなん、ですか?」 「俺が今まで知り会った女の子の中で、まゆりちゃんほど人との距離の取り方がうまい子は他に知らない」 「でもそれって、常に他人と自分とを一線引いてるからできるんだよね」 「そんな彼女が今、一線越えて誰かを好きになろうとするかどうかの瀬戸際にいるんだよ?」 「もしここでまた線の『向こう側』に彼女を追いやったらどうなると思うの?」 「きっともう誰も彼女のそばにいけない。それで、本当に幸せになれると思うの? 晶くんは」 確かに、俺の前では茉百合さんは他の誰にも見せないような顔を見せてくれた。 だけど……。 「それが、茉百合さんが望んでいること…なんでしょうか」 「望むとか、そういうんじゃないよ。だって晶くんはさっき言っただろ? 諦められないって」 「……はい」 俺は――どうすればいいかわからない。 茉百合さんの中にある辛いこと、俺が楽にさせられたりできるなんてわからない。 俺なんかが癒せるものじゃないって思う、だけど。 「俺……どうしようもないくらい、茉百合さんのそばにいたい」 「じゃあ最初から、結論なんて決まってるんじゃないか」 「決まってる……」 「それにさ、自分の一番大事だと思うものは、手放してしまったら絶対に後悔するよ……」 「取り戻すべきだ。どんなにみっともなく這いつくばってでもね」 「はい…!」 膝に置いた手をぎゅっと握り締める。 なんだか、さっきまで抜け落ちてしまっていた体中の力が戻ってきた気がした。 「会長、俺、なんだか腹が据わった気がします」 「おぉそうか! それはよかった!」 「会長もたまにはまともな事言うんですね」 「誰にでも同じ事言うわけじゃないからね。勝算無かったら諦めろって言うよ」 ありがとうございます、と俺がお礼を言いかけると会長は何故か突然にやにやと笑い出した。 「でもしょーくんはさあ、保健室で仲良くちゅっちゅしてたぐらいだもんね〜?」 「………」 「あのガードの固いまゆりちゃんにそんな事出来るんだから、きっと大丈夫だよ! ねっ!」 「……なんか、イマイチ不安になってきた」 「失礼します!」 「どもー。晶ぉ、いるかあ」 「天音、マックス……」 突然の訪問に、俺はぽかんと口を開いてしまった。 天音は俺の方をじっと見た後、何故か怒ったように会長に詰め寄った。 「もう、今度は何をしたの? くるりから葛木くんが元気ないって聞いたから気になって来たのよ」 「え、お、俺のせいなの?」 「他に何があるって言うんですか?」 「あ、違う違う、天音違うから」 「え、違うの? うそ」 「なんだよもー晶! マミィが言うよりかはちったあ元気そうじゃねーか、安心したぜ」 「あぁ、ありがとマックス」 「もう掃除終わったわよ、一緒に帰りましょう」 「え、そうだったんだ。わかった」 「晶が元気になるよーにさ、ケーキ作ってやるよ! 晩飯の後に食おうぜ!」 「晩ご飯もちょっと豪華なの頼んであるわよ」 「えっ…そ、そうなの。ありがとう…うん。嬉しいよ」 「よかった、元気そうで」 天音が、安心したように微笑む。 それを見ると、一方的に落ち込んでなんていられないと強く思った。 俺はソファから勢いよく立ち上がる。 帰って、豪華な晩ご飯とケーキを頂こう! 「じゃあ会長、失礼します」 「はいはい、今日はご苦労さまでした」 「ありがとうございました。俺、明日茉百合さんともう一度話をしてみます」 「そっか。頑張ってくれたまえよ。なにしろ俺の将来もかかってるんだからね」 「将来ってなに?」 「いやぁ、いくら天音にでもこれは言えないなー。男同士の秘密だよ」 「ちょっと何よそれ!」 「えっじゃあオレには教えてもらえるんだよな? な? 晶!」 「…失礼しまーす」 なんかややこしい雰囲気になりそうだったので、俺はさっさと生徒会室から逃げ出してきた。 でも、みんなの気持ちはとてもありがたい。 何だか心が温かくなって、気力が湧いてくる気がする。 心配をしてくれたみんなにはどれだけ感謝をしてもし足りないくらいだ。 明日、茉百合さんに会いに行こう。 もう一度。 もう一度、自分の大事なものを取り戻すために、俺は精一杯のことをしよう。 時間が早すぎないように気をつけつつ、俺は茉百合さんの部屋へ向かった。 だけど、部屋は留守のようだった。 最初、居留守をされているのかとも思ったが、なんとなく本当に人の気配が無い感じがする。 仕方なく、俺は一旦寮まで戻ってきた。 とりあえず少し待って、もう一度訪ねてみよう。 こんなことで諦めたりしない。 「あれ、しょーくんさんじゃないですかー」 「ぐみちゃん!」 九条のところにでも遊びに来たのだろうか、寮の前にはぐみちゃんの姿があった。 もしかしたらぐみちゃんだったら、同じ生徒会だから茉百合さんの行方を知っているかもしれない。 俺は一縷の望みをかけて、ぐみちゃんに聞いてみた。 「あの、今日茉百合さんは部屋にいるのかな?」 「茉百合さんですか? あ、今日はいつものお見舞いに病院に行ったみたいですよ」 「お見舞い?」 「はい、なんでもお友達が入院していて、休日には時々お見舞いに行ってらっしゃいます」 「そうだったんだ……ありがとう」 「いえいえ、しょーくんさんも行くんですか?」 「うん…。行くよ」 「お気をつけて!」 ぐみちゃんはにこにことしながら、大きく手を振ってくれた。 いつもと変わらない笑顔に、ほんのわずかだけ、心が温まった。 病院――ここからはそんなに遠くないはずだ。 茉百合さんはまだそこにいるだろうか。 俺は、間に合うだろうか。 不思議だった。 何かがざわざわと胸の奥で湧き立ってる。 明日も、明後日も、教室で、廊下で、生徒会室できっと会えるはず。 なのに今会って、話をしなければいけないって気持ちが俺を追い立てていた。 ………………。 …………。 ……。 「……はい。間違いありません。お気の毒ですが……」 「そう…ですか。ありがとう……ございました」 寮から病院の近くまで、思いっきり走ってきた。 茉百合さんはまだ中にいるんだろうか。たしかお見舞いって聞いたけど……。 「……はあ、はあ、はあ」 その時の感覚を何ていうものなのか、わからない。 何かが呼んだ、という感じだろうか。 それとも、俺の何もかもが茉百合さんを探していたからだろうか。 俺は、見つけた。 「茉百合さん」 「…………」 「茉百合さん! 待って!」 「……」 どうしてなんだろう。 茉百合さんはほんのわずかも、動きはしなかった。 ゆっくりと、歩みをすすめている。 だけど、いつもの茉百合さんではない。 本当の、茉百合さんの中にあるこころを見た時にも。 皆の前の、誰からも愛され尊敬されている姿の時にも。 茉百合さんはいつだって、まっすぐと背筋をのばして、白くて長い指先までもぴんとはりつめていた。 だけど、今は。 ありとあらゆる力が零れ落ちながら。 茉百合さんは力なく歩いていた。 俺の声にも、まったく気付いていないみたいだった。 「茉百合さん!」 「……っ!」 「――嫌」 「っ」 茉百合さんの声はあまりにも弱々しく、まるで俺が追い詰めてしまっているような気分になる。 思わず足が止まった。 だけど、負けずにその場から大きな声で話しかける。 今度は絶対に諦めないって、昨日から何度も決意したはずだ! 「なら、このままここで言うよ!」 「俺、もう一回茉百合さんと話がしたいと思って、それで、探してたんだ!」 「………」 茉百合さんは、俺の言葉にもろくに反応を返さなかった。 半ば呆然と、ただ聞いているだけ。 「もう……何も、話すことなんてないわ…」 「茉百合さん……?」 やっぱり、明らかに様子がおかしい。 心配になってきてしまって、何も言わずに足が思わず駆け寄ろうとする。 「来ないで!」 「でも」 「来るなって言ってるでしょ!」 だけどあまり力が入らなかったのか、軽くて飛ばなかったのか、花束は届かずちょうど俺の足元にあっけなく落ちる。 「花……」 少し歩み寄って、花束を拾い上げた。 何本かの花は抜け落ちて、地面に散らばってしまっている。 ピンクとオレンジの色とりどりの花が集められた花束。 茉百合さんが自分で選んだにしては、少し可愛らしすぎる気がする。 お見舞いの相手の好みに合わせたのだろうか。 そこまでしてせっかく用意した花束なのに。 「どうして…」 「……それ、拾わなくていいのよ。もういらないの」 「いらないって……」 「いらなくなったの」 茉百合さんは、そのまま俺から逃げるように背を向け、歩き出した。 せっかく少しだけ近づいた距離が、また離れてしまう。 慌てて花束を持ったまま、追う。 「ちょっと待って!」 「たくさんの人にもっと愛されて生きなきゃいけない子が死んで、私が生きてるなんて、おかしな話」 「茉百合さん……」 「……代わってあげられればよかった」 「な…」 力なく呟く言葉には、なんの飾りも意図も感じられなかった。 ――本気で言っている。 「何言ってるんだよ! なんで!」 このまま放っておいたら、本当にどこかへ消えてしまいそうで。 俺は、茉百合さんを捕まえたくて、我慢が出来なくて、思わず駆け出した。 「どうして来るの!」 「もう、お願いだから放っておいて!」 「嫌だっ!!」 「……いや…!」 茉百合さんは俺が走り出したことに気付き、焦ったように逃げ出した。 「何で逃げるんだよ! 茉百合さん!」 「……っ」 返事はない。 もう、俺の方を振り向きもしない。 俺から完全に逃げるためか、茉百合さんはおもむろに方向を変えると、道路を横切ろうとした。 向こうから、バスが走ってきている――! だけど茉百合さんはまるで何も見えていないように、道路に飛び出した。 バスはこの島に来る時に乗った、無人のものだ。 もちろん運転席には、誰もいない。飛び出す茉百合さんを見ている人も……いない! 「茉百合さん! 待って! バスが…危ない!」 「……あ」 「―――茉百合さん!!」 俺は、そのまま車道に飛び出した。 放り出した花束が、転がっていく。 やがてバスのタイヤの下に轢き込まれて、くしゃくしゃになった。 道路には、ピンク色の花びらが飛び散っている。 体中が、ヒリヒリと痛い。 「…はぁっ、はぁ、はぁ……ま、茉百合さん!!」 腕の中の茉百合さんを必死に呼ぶ。 車道に飛び出し、茉百合さんを抱きしめてそのまま転がったから、体のあちこちが痛む。 多分、擦り傷が山のように出来ているんだろう。 顔をあげると、バスはちゃんと少し手前で停止していた。 「茉百合さん、茉百合さん!」 「………」 茉百合さんは目を閉じてぐったりとしていた。 俺の呼びかけにも、少しも反応しようとしない。 もしかして、さっき頭でも打ったんだろうか。 もしも。 もしもこのまま、目が覚めなかったらどうしよう。 このまま――。 「……っ…」 泣いている、と気づくよりも先に涙がこぼれていた。 今までこんな経験はなかった。 悔しいとか悲しいとかで流れる涙じゃない。 あまりの喪失感に恐れて、涙がぼたぼたとこぼれるんだ。 「茉百合、さん……っ、っく、目を……覚まして」 茉百合さんはぴくりとも動かない。 「……っう、ううっ…」 このまま茉百合さんを失ってしまったらどうしよう。 俺は一体何をしてきたんだろう。 支えてあげることも、守ってあげることもできなかったのか? とめどなく溢れてしまう涙が、茉百合さんの頬に落ちていった。 「……んっ、うう」 「ま、茉百合さん…? 茉百合さん! しっかりして!!」 「……ん……」 「茉百合さん!」 長いまつげがふるふる震えてから、茉百合さんはゆっくりと目を開いた。 俺の顔、情けないことになっていただろうけど、涙をぬぐう余裕もなかった。 「………」 「…な、何……?」 「あぁ、よかった!! よかったよ……目を覚ましてくれないかと思った…っ!」 「ううぅ、うう…」 「どうして……泣いてるの」 「…っく、だって、茉百合さんが……一瞬、もう動かないのかと思った、からっ」 「……俺、それで……っ」 「………」 ふっと温かな何かが頬にふれた。 ゆらゆら揺れる視界が晴れてゆく。 茉百合さんが、静かに俺の涙をぬぐってくれていた。 「茉百合、さん…」 「私がいなくなっても、よかったのに」 「…え?」 「ごめんなさい」 「……茉百合さん…?」 ごめんなさい――そういう茉百合さんの顔が曇っていた。 どんなに罵倒されている時よりも、胸の奥が苦しくなってしまう表情だ。 泣かれるよりも、怒鳴られるよりも、無視されるよりも辛い。 それは、予感がしたからなんだろうか。 茉百合さんが思っていそうなこと。 こんな顔をしながら、きっと俺に言いそうなこと……。 「私がいなかったら……あなたがこんなに苦しむこともなかったのに」 「―――っ!!」 予感は当たった。 何よりも強い、拒否に似た言葉。 俺は誰にも苦しめられてない。ましてや、茉百合さんになんて……そんなわけない。 自分で選んできただけなんだ。 なのに茉百合さんはそれすらも背負いこもうとしてる。 茉百合さんに怒ってるのか、思いを伝えられない自分自身に怒っているのかわからなかった。 湧き上がってくる怒りをどこにも持っていけなくて、俺は思い切り地面に拳をふりおろしていた。 「…っ」 「しょ、晶くん? どうしたの…」 「なんでだよっ!!」 「っ」 「なんで全部、全部自分のせいにするんだよ」 「晶くん……どうして、そんなに」 「なんでいなくなってもいいだなんて、思うんだよ!」 「………な、何って…だって、私がいたから、晶くん、こんなに……」 「全然わかってないな! 俺は茉百合さんの事、好きだって言ってるじゃないか!」 「……っ」 「なのに、茉百合さんがいなくなっていいなんて思うわけないだろ!」 「今茉百合さんを失ったら、辛くて、悲しくて、これから先あんたのこときっとずっと忘れられない!」 「俺のこと嫌いなら、それでいい。そう言ってくれたらいい。だけど」 「だけど茉百合さんがいなくなったら幸せだったなんて、そんなのあるわけない」 「……あ、あ…」 「そんなこと……言わないで……くれよ」 湧き上がってくる気持ちは、ひどくわがままだった。 今までの茉百合さんにそれを伝えたら、きっと軽蔑するか、さらりとかわされてしまいそうだ。 だけど、言わずにはいられなかった。 「……っ…ほんとさ…」 「俺はすごくわがままなこと考えてるんだ。でもそれを言わないのは、茉百合さんが好きだから」 「……う」 「俺が……俺は本当に思ってることは、すごくわがままなんだよ、茉百合さん。こんなケガなんてどうでもいいんだ」 体の奥から、苦くて熱い何かが湧き上がってくる。 だけど今自分の中のものを全て伝えないといけない気がしてならなかった。 「他の男と結婚なんてするな! もうどこにも行かないでくれよ! 近づくな、とか言わないでよ!」 「ご、ごめんなさい……」 「好きなんだ、どうしようもなく……茉百合さんが、好きなんだ!」 「あっ」 茉百合さんの体を、ぎゅっと抱きしめた。 たとえこの一瞬が最後になったとしても、この気持ちが拒否されてもかまわない。 ただ。 ただ、俺が茉百合さんを好きだという気持ちが正しく伝わればいいと思う。 「……」 茉百合さんの体は、腕の中で弱々しく震えていた。 「……晶、くん…」 「俺は、ただの一人の女の子の、茉百合さんと恋をして、茉百合さんと幸せになりたいんだよ!!」 「他の誰でもだめだ、茉百合さんじゃなきゃだめだ!」 「……っ、でも…」 かみ締められた唇が何かを言いたげにしていたから、俺は腕を緩めた。 茉百合さんは小さく首を振っている。 「…でも、私は…晶くんにはふさわしくないのよ……」 「そんなこと、何で思うんだよ!」 「だって……だって、私…あなたのお父さんを……」 「――親父は関係ないだろ!」 「茉百合さんが今、俺の手をとるかどうかって事に、親父は関係ない!」 「関係あるのは茉百合さんの気持ちだけだ!」 「………」 「俺は決めたんだ。茉百合さん。茉百合さんのそばにいる。茉百合さんが過去を振り切りたくて走るなら、その横をついてく」 「茉百合さんが悲しいことを抱えてうずくまってたら、隣でずっと立ち上がるのを待ってる」 「子供みたいにワガママいったり、泣いたりしてもいい、だけど――」 「だけど最後には、好きなひとには笑っててほしいんだ」 茉百合さんは、ずっと黙っていた。 何かを言おうとして言い出せないでいた。 その戸惑いと動揺は、痛いくらいに感じられた。 俺と同じ……それ以上のものが、茉百合さんの胸の中にある。 せめて何かしてあげたくて、俺は茉百合さんの頭に手をやった。 滑らかな髪の感触が指先に触れた。 「………あ…」 『ちゃんと泣いていいんだよ。泣くのはとても大事なこと』 『それなら、また笑えるよ。甘えたり笑ったりできるんだよ、まゆちゃんは』 「……っ、っ」 そっと頭をなでたとたん、茉百合さんの瞳から涙がこぼれた。 「…あ、あぁ……うぅ…」 「茉百合さん……」 「…私……私も…本当は、あなたのことが、好き……」 「普通の女の子のように恋をして……普通の女の子のように幸せになりたい…」 「でも…そんなこと、求めてもいいのかって……」 「誰だって、恋をして、幸せになりたいよ。求めちゃいけないなんてこと、ない」 「…っ、ううぅ」 「本当に…?」 「じゃあ俺と幸せになろうよ! 俺がんばるから!」 もう一度、ぎゅっと茉百合さんを抱きしめる。 もう、その体は震えていなかった。 「……晶くん……晶くん…!」 「どこにも、行かない……?」 「行かない、茉百合さんのそばにいる」 「行かないで……っく、いやなの、ひとりは……」 「俺が一緒だよ」 「うん……うん…」 まるで子供のように泣きじゃくった茉百合さんが落ち着くのを待ってから、俺たちはゆっくりと帰ってきた。 病院にいこうかとも思ったけれど、茉百合さんは部屋に戻ろうと言った。 俺のは擦り傷だけだから、大丈夫だ。 それよりも茉百合さんが心配だった。 「……茉百合さん」 落ち着きを取り戻した茉百合さんは、俺を椅子に座らせた後、棚の中から薬箱を取り出した。 「こんなに傷を作って……」 「だって、夢中だったから。茉百合さんがバスに轢かれる! って思って……」 「無人のシステムなんだから、そんな事故が起きないようにセンサーがついているのよ」 「えっ?」 「だから、ちゃんと止まっていたでしょう?」 「…………」 そう、だったのか。 何も知らなかった。あんなに走って、わめいて、おまけに思いっきりコケた。 俺ばっかりが、焦って先走ってたってことか…恥ずかしいな。 「…ふふ、おばかさんね」 「ま、茉百合さんは、ケガは大丈夫なのか? 本当に病院に行かなくてよかった?」 「それに病院は……今は、いいわ。行きたくないの……」 「………そうか」 「………ええ」 「茉百合…さん?」 俺を拒否するような強さはそこになく。 誰かに甘えたいような気持ちでもなく。 目を伏せた茉百合さんは、ただ悲しげだった。 ――あの花束。 茉百合さんが持っていた花束が、いらないって言っていたことと関係あるんだろう。 どうしたの、と聞きかけて俺は言葉を飲み込んだ。 「…大丈夫よ、そんな顔しないで」 「うん」 「あ…」 「え?」 そっと、茉百合さんが手を伸ばした。 そして俺の手首に触れた。 「った!」 「ここも擦りむいていたのね」 「あの……」 茉百合さんが触れた部分をよく見ると、擦り傷ができていた。 あの時にできた傷みたいだったけど、まったく気づかなかった。 「私よりも、あなたの方が」 「あ、あの……」 ふっと茉百合さんの瞳が動いた。 上目づかいな視線が、まっすぐ俺を捉えている。 いつものどこか遠くを見ているような眼差しじゃない。 今までのどの茉百合さんとも違う、すぐそばにいるような感覚。 確かに茉百合さんはそこにいる。 でもその近さとは違うような気がする。 胸の奥が痛くなる。 「……ん」 「あ!」 茉百合さんは俺の手首を見つめて、それから唇を寄せた。 柔らかな感触だった。 「ん……」 「あ、ああ、あの、えっと」 「痛くはない?」 「ま、茉百合さん」 二度、三度と続けて、唇が触れる。 傷口を気づかいながら、ゆっくりと。 痛みは感じない。 ただ、茉百合さんの柔らかな唇の感触だけが伝わる。 くすぐったかった。 そしてさっきまでの胸の奥の痛みが、ふわりと広がって消えていった。 「茉百合さん……」 「大丈夫?」 「あんまり、大丈夫じゃないかも」 「え?」 「……無理です」 「あ!」 顔を上げた茉百合さんをぎゅっと抱き寄せる。 驚いたような吐息がもれたけど、気にしない。 だって、あんな事されてじっとなんてしていられない。 「晶くん、離して」 「やだ」 「……」 「茉百合さんが悪い」 「どうして?」 「あんな風に手首にちゅうとかするから」 「傷ができていたからよ」 「でも、無理です」 「あ……!」 腕の中で抱きしめていた茉百合さんの体を離して、じっと顔を見つめる。 見つめた茉百合さんは真っ赤になっていた。 かわいいって思った。 そしたら、キスしたくなった。 「あ、ん……」 そっと、茉百合さんにキスをする。 触れるだけの軽いキス。 本当はもっとしたいと思ったけれど、できなかった。 しちゃいけない気がした。 「ん、ん」 触れるだけの軽いキスをくり返すと茉百合さんが小さく声を漏らす。 その声を聞きながら本当はもっとしたいと思っている。 でも、これ以上は茉百合さんが怒るかもしれない。 これ以上は茉百合さんが嫌がるかもしれない。 「……あ」 なんていうのは建前だった。 これ以上してしまったら、俺が我慢できなくなる。 だから、これ以上のキスはできない。 それに、明日になったら……。 また離れろって言われるかもしれない。 そう言われたら、怖い。 「晶くん……」 「あ……!」 唇を離そうとした瞬間、すっと茉百合さんの舌が進んで来た。 ねっとりと絡みつくような感触が口内に広がる。 「あ、ん、んぅ」 唾液の音をさせながら口内をかき回されて、うかうかしている間に舌を絡め取られる。 けれど、どこかぎこちないようなその動き。 その動きと感触に背中が震える。 「あ、はぁ……あ、んぅ……」 ぎゅっと目の前の身体を強く抱きしめて、自分も舌を動かしてしまいたい衝動。 でも、そうするといろんな事が我慢できない気がした。 だから、抱きしめたいのを必死で我慢して、茉百合さんのキスを受け続ける。 「はあ……」 ふっと、口内から、唇から感触が途切れた。 その瞬間、思わず抱きしめていた腕も離した。 でも、目の前には茉百合さんの顔がある。 俺を見つめてじっと黙っている茉百合さん。 「茉百合さん、あの」 「はい」 「ごめんなさい。無理です」 「何が?」 何を口走っているんだろう。 情け無いにもほどがある。 自分からキスしといたのに何が無理なんだろう。 でも、頭の中で臆病な俺が告げている。 無理だって。 これ以上やって嫌われたくない。 「茉百合さんはケガしてるし……」 「もう大丈夫だと言っているじゃない」 「それに、俺は男の子なので……」 「うん」 「これ以上されると、いろいろ我慢できなくなります」 バカな事を口にしている。 茉百合さんもきっとあきれている気がする。 したいです。 茉百合さんと色んな事がしたいです。 正直に言えた方がよっぽどいいんじゃないのか。 そう思っているのに口に出せない。 「それに、俺がしたい事をすると茉百合さんが傷つくかもしれない」 「どうして、晶くんがそれを決めるの?」 「え?」 「私が傷つくかどうか、それを決めるのは私」 「……」 「あなたが決める事じゃないわ」 「茉百合さん……」 「だから、私が傷つくなんて勝手に思わないで」 「でも」 でも、そう言い訳をしないと俺は茉百合さんにいろいろしたくなるんです。 今だって、そう言われてドキドキしている。 茉百合さんをじっと見つめて、そんな風に言葉にされると緊張している。 だから、ここで終わらせておくのがいい気がしている。 俺のためにも、茉百合さんのためにも。 「私のためだなんて、勝手に思わないで」 「え……」 心臓が酷く大きく動いて、痛んだ気がした。 言葉にしていないのに、伝えていないのに、茉百合さんは俺が考えていた事を口にする。 茉百合さんのため。 そんなものはやっぱり言い訳だった。 だって、茉百合さんはそうしてくれと口に出して望んでいない。 「私は、どうすればあなたに信用してもらえるのかしら?」 「茉百合さん……」 「本当よ」 「ま、茉百合さん」 ゆっくりと、茉百合さんの指先が動き出す。 それは身に着けていた服を脱ぐためだった。 まるで、それは神聖な儀式のようだった。 ひとつずつ、茉百合さんの体から服が落ちていく。 はらり、はらりと。 小さく音がして服が床の上に落ちて、俺の目の前に茉百合さんの肌が晒されて行った。 服を脱いでいる。たったそれだけの事だった。 それなのに、茉百合さんのその行為は、最後まで神聖な儀式のようだった。 「あ、あの……」 「……」 目の前に茉百合さんの真っ白な肌が晒されていた。 柔らかそうな体と、すらりとのびた腕と脚。 どうしてこうなっているんだろう。 茉百合さんは、どうしてしまったんだろう。 そう思っているのに、目の前の茉百合さんから目が離せない。 「茉百合さん、あの」 「やっぱり、恥ずかしいものね……」 そう言う茉百合さんの頬は赤く染まっていた。 言葉だけじゃなくて、本当に恥ずかしいのだとわかる。 「でも、こうすれば晶くんが私を信用してくれるかしらって思うと……不思議ね、なんでもできる気がする」 「あ……」 茉百合さんの言葉に心臓がどくんと大きく跳ね上がった。 どうして、こうも的確に俺の心をわしづかみにするんだろう。 「茉百合さんは、ずるい……」 「どうして?」 「そんな事言われたら、俺はドキドキする」 「そんなの、私だって一緒」 本当? って聞いてみる前に、茉百合さんの手はまた動いていた。 するりと、茉百合さんの肌からひとつ何かが落ちる。 「……」 目の前の茉百合さんは、胸を曝け出していた。 さっきまで、そこには下着があったはずだ。 でも、今はない。 俺の前には肌を露出させて頬を染める茉百合さんの姿がある。 「ま、茉百合さん……」 「やっぱり、傷つかないと思うの」 「え……」 「私は、あなたの前でこうしても傷つかない」 「うん」 「不思議ね。むしろ、もっと見て欲しいと思っている」 「見てもいいの?」 「聞こえていなかった? 見て欲しいと思っているのよ」 「聞こえてた」 じっと、目の前の白い素肌に視線を向ける。 茉百合さんの肌は白かった。 透き通るようなんて表現は陳腐だと思っていた。 でも、今の俺の中にある言葉の中で、茉百合さんの白い素肌を表現するにはそれしか浮かばない。 透き通るような白い素肌。 あの表現は間違っていなかった。 それだけがよくわかる。 「ああ、でも……恥ずかしい」 「でも、見たいです」 じっと見つめていると、茉百合さんの頬がもっと赤くなる。 俺に見られて恥ずかしがっているのだと思うとドキドキした。 白い頬が赤くなる。 たったそれだけの事でドキドキするなんて思わなかった。 「あのね、茉百合さん」 「はい」 「もっと見たいって言ったら……だめ?」 「もっと?」 「うん」 もっと。 これだけじゃなくて、茉百合さんの全部。 贅沢な事を言っているのはわかってる。 それなのに、どうしても全部見たい。 許してもらえるんだろうか。 やっぱりだめって言われるんだろうか。 どっちなのかわからない。 「いいわ」 「え……」 「あなたになら、全てを見られてもいいと思ってる」 「あ……!」 都合のいい言葉を頭の中が作り出した気がした。 でも、確かに茉百合さんは唇を動かして答えてくれていた。 そして、細い指先が下着にかかり、それはするするとおろされていく。 茉百合さんの肌が、俺の目の前で晒されている。 白くて透き通るような肌。 ぼうっと見ていると、きらきらと輝きだすんじゃないかって気がした。 「晶くん?」 「あ、あの、えっと……」 じっと見つめて、何も言わない俺を不思議に思ったらしい。 茉百合さんはそっと、こちらをうかがうような表情を一瞬だけ浮かべていた。 けれど、その表情はすぐに消える。 その表情が消えた瞬間、視線は茉百合さんの顔から、体に移動していた。 きらきらと輝くような、白い肌。 きれいだった。 でも見ているだけなんてできそうにない。 だって、見ているだけで我慢できるようには、俺はできていない。 「晶くん?」 また、茉百合さんが名前を呼んでくれた。 けれど、それに答えられそうにない。 頭の中には違う考えがぐるぐる回っていた。 「触りたいです」 「え……!」 「茉百合さんに触りたいです。そう思いました」 「……ふふっ」 「だめ?」 「ふふふふっ」 「茉百合さん」 「だって、突然だったから」 「だって、思ったから」 何気ないやり取り。 やっぱり、突然過ぎておかしかっただろうか。 触っちゃだめなんだろうか。 なんて思っていたのに。 「いいわよ」 「え!」 「晶くんになら、触れられてもいいって思うから」 「じゃあ、触る。だめって後から言っても、やめない」 「言わないわ」 「うん」 茉百合さんの言葉を信じて、そっと手のひらを近づけた。 「……あ!」 どこから触ろうかと考える事もなく、手のひらは茉百合さんの胸に触れていた。 柔らかい感触を包み込むと、茉百合さんが声を出す。 「あ、んぅ」 手のひらを動かすと声が漏れた。 聞いた事のない甘い声。 「あはぁ……」 包み込んだ柔らかな感触を確かめるように、手のひらをもっと動かしてみた。 「ああ、晶くん」 手のひらをもっと動かして、それから指先を少しのばす。 のばした指先で、先端のぷっくりとした、ほんのりとした硬さに触れる。 「ふぁっ!」 「あ……」 指先でそこを何度も押しつぶしてみる。 すると、茉百合さんの声はまた甘くなり始めた。 「あ、晶くん……あまり、されると……」 「やだ。やめないって言った」 「あ、んっ!」 指先を動かす。 時々、手のひらを動かすと声はもっともっと甘くなる。 もっと聞きたい。 茉百合さんにもっと触れたい。 たくさん触れて、甘い声をもっと聞きたい。 「あ、ふぁあ」 どうすればもっと声が聞こえるか、なんとなく知っている。 だから、その知識のままに手のひらを動かした。 「あ……」 するりと白い肌の上を滑った手のひら。 その手のひらは、柔らかな膨らみの上から下腹部に移動する。 そしてそのまま、そのもっと奥へと進ませた。 「ひ……!」 一瞬、怯えたような声。 ふっと視線を向けると、強い瞳が俺を見つめていた。 「大丈夫……って言いたいの」 「うん」 「でも、少し怖い。見つめられたいと思ったのは本当なのに」 強気だった茉百合さんが見せた、ほんの少しの弱気。 ちょっと嬉しい。 「大丈夫です……」 「本当?」 「……多分」 曖昧な言葉で答えると茉百合さんの表情が少し緩んだ。 だから、その隙に手のひらをそっと奥へ進ませて、指先で柔らかな部分に触れてみた。 「あ!」 「あ……」 「あ、ああ、そんなとこ……!」 「茉百合さんって、いろんなとこ柔らかいんだね」 「いや……」 それが拒絶の意味のいやではなくて、恥ずかしくていやなのだとすぐにわかった。 それがわかった事がなんとなく嬉しくて、指先でもっと奥まで触れてみる。 「あ、んぅ!!」 奥まで指先が届いた。 届いた瞬間、茉百合さんの声が高く大きくなった。 その声に心臓が高鳴る。 もっと聞きたいという欲求が更に大きくなる。 「ああ、あ、そんな風に……するのはやめて……」 「どうして?」 「ど、どうしてって……」 指を動かして柔らかな感触を確かめ続けていると、茉百合さんが恥ずかしげに言った。 どうしてって聞かなくてもわかっている。 わかっているのに聞きたくなる。 今の茉百合さんにはそんな雰囲気がある。 「ずるいわ」 「え……」 「晶くんは、ずるい」 「どうして?」 思わず動かしていた指を止めた。 じっと茉百合さんを見つめると、その頬は赤くなったままだった。 「私だけ、こんな風に見られているもの」 「だって、それは茉百合さんが……」 「私だって、あなたの全てを見つめたいのよ?」 「あ……」 胸が高鳴って、頬が熱くなった。 恥ずかしげに口にされた言葉が嬉しかった。 「それなのに、あなたは何も見せてくれない」 「それは……」 「私はあなたに見て欲しいけれど、あなたを見つめてもいたいの。それはいけない事かしら」 「……違います」 「本当?」 「見つめていたいと言われて嬉しかった」 「じゃあ、私にもあなたの全てを見せて」 「……はい」 こくりと、その言葉に素直にうなずいていた。 茉百合さんの前で自分を曝け出す事に抵抗がないわけじゃない。 でも、茉百合さんが俺を受け入れようとしてくれている事が何よりも嬉しかった。 だから、素直にうなずけた気がした。 服を脱ぐと、茉百合さんは驚いたような表情をした。 仕方ない。 もう体はさっきまでの茉百合さんの感触と声で反応してしまっていたんだから。 でも、驚いていた茉百合さんは、すぐに優しい表情を浮かべて俺の前に膝をついた。 「え!!」 「してもらってばかりでは、だめでしょう」 「あ、あの、えっと!?」 状況が理解できていなかった。 何が起こっているのか目で見えているのに、頭がそれに追いつかない。 「あ、んぅ」 手のひらを添えて支えられた肉棒。 そして、その根元に唇がそっと触れる。 柔らかい感触に直接触れられて背筋が震えた。 「ああ!!」 「ん、ふ……こう…?」 時々そっと上を向いて、俺の様子をうかがう視線。 それから、唇の感触がゆっくりと移動して行く。 「は、う……」 触れるだけの緩やかな感触。 それなのに、震える体と声が止められない。 他人に直接触れられる事が、こんなにぞくぞくする事だと思わなかった。 「ふ……ん、んぅ……」 優しく、とても優しく触れる唇。 様子をうかがうように、俺が感じているか探るように、そんな風に感じながら唇の感触を受ける。 ぞくぞくしていた。 驚くほどぞくぞくして、驚くほど震えていた。 「あ、はあ……」 触れているだけなのに声が漏れそうになる。 それを聞かれるのが恥ずかしい気がして、必死に声を堪えた。 「晶くん……ん、ちゅぅ……ちゅ、ん…」 名前を呼びながら、キスされる。 さっき唇にしたのとは違うキス。 同じキスなのに、場所が違うだけで受け取り方が変わる。 そんな事、今まで知らなかった。 キスしたのも、茉百合さんが初めてだけど。 「茉百合さん……」 「もっと、かしら?」 「う!」 ちらりと俺を見上げながら、唇からそっと舌が差し出される。 その視線と、その動きだけでまたぞくぞく震える。 そんな風に俺が震えていると茉百合さんは気付いていない。 だから、差し出した舌でゆっくりと肉棒を舐め始める。 「あ、んっぅ……ん、んぅ……」 ねっとりとした感触が上下に移動して行く。 根元から先端へと動いて、先端で少し止まって、また根元へと戻って行く。 「はぁ、ふ……ん、んぅ……」 ゆっくりとした動きなのに、どうしてこんなにもぞくぞくと震えるのだろうか。 捕らえられて離してもらえないように、茉百合さんの動きに目が離せなくなる。 盛らす声を聞き逃したくなくなってしまう。 「あ、んぅ……こう、ね……んぅ」 たどたどしい動き。 慣れていない感じがする。 それが嬉しくもある。 そのたどたどしさが、余計に体を震わせている気がした。 「これで……ん、んぅ…いい、の? はぁ……」 「あ、はぁ」 「あ、んんぅ」 もっとです。 本当はもっとして欲しいです。 そう言えれば楽なのかなと、もやがかかったみたいな頭で思った。 でも、言葉が口に出せない。 「は、あ、はぁ、は、ああ、んぅ……」 そんな風に思っている間に、茉百合さんはもっともっとキスしたり舌で舐めたりしてくれる。 優しい感触。 背中がぞくぞく震えるような、声が漏れるような感触。 「これが、正しいかなんて……わからないの……」 「茉百合さん……?」 「でも、晶くんにしてあげたいって……はぁ、ん、そう思ったら……こうできるの」 上目づかいでまた茉百合さんが見つめる。 そして、舌がそっと動いて先端まで辿り着いた。 緩やかな感触。 ぞくぞく震えるけれど、それ以上の事が起こらない感触。 もどかしい。 もどかしいけれど、もっとそうされたい。 もっとそうされたいのに……。 その先が欲しくなっている。 「茉百合さん……」 「あ、はあ……晶くん?」 舌の動きが止まった。 そっと見上げる視線。 俺を見据える瞳。 ああ、茉百合さんの瞳はきれいだな。 こんな時に、こんな風にされているのに、そんな事を思った自分が少しだけおかしい。 「茉百合さん」 「もっと?」 「あの、そうじゃなくて」 「じゃあ、どうしたの?」 手のひらがそっと肉棒の根元を支え続けていた。 温かくて柔らかな感触が触れ続けている。 「もっと……」 「もっと、なに?」 「だから、もっと」 「もっとすればいい?」 「ち、違う、そうじゃなくて」 「じゃあ、どうして? 言ってくれないとわからない」 「そ、それは」 はっきり言ってしまっていいんだろうか。 もっともっと、その先が欲しいですって。 でも、言ってしまうと茉百合さんは困らないだろうか。 それこそ、傷つかないだろうか……。 「教えて、晶くん」 「俺は……」 「私はあなたが考えている事が知りたいわ」 言い訳だった。 茉百合さんが傷つかないだろうかって、そんなのは言い訳だった。 さっき、茉百合さん自身が言っていたじゃないか。 自分は傷つかないって。 茉百合さんが傷つくのを怖がるのは、自分が臆病なのを隠すための言い訳だ。 「教えて。あなたが今、何を考えているのか」 「したい……です……」 「なにを?」 「今してる事の、もっと先」 「本当に? 私と?」 「茉百合さんじゃないと、嫌です」 「じゃあ、いいわ」 「え!」 「私はあなたが望むものをあげたいの。望みを叶えてあげたいの」 立ち上がった茉百合さんが、トンと軽く俺の体を押した。 あっけないくらい簡単に押し倒された体は、茉百合さんのベッドの上に倒れこむ。 「う、あ……」 そして、俺の上に茉百合さんが乗っていた。 「あ、あの、茉百合さん」 「ええ、どうしたの?」 「なんで、上に乗ってるの?」 「晶くんの顔がよく見たいからよ」 「はい」 至極当然のように言われた。 でも、それなら別に俺が上でもいいんじゃないだろうか。 それにこの状態はちょっと情けないんじゃないだろうか。 ああ、でも……。 「あのね、茉百合さん」 「ええ」 「こうしてると、俺も茉百合さんがよく見えるよ」 「……」 伝えると頬が赤くなった。 かわいい。 こんな無防備な感じがかわいい。 「じゃあ、こうしているのはとてもいい事ね」 「え?」 「あなたの全部を見せて欲しいから、私の全部を見せてあげたいから」 「あ、の……」 「だから、これでいいわよね」 にっこりと優しく微笑んだ茉百合さんの手のひらが動いた。 体を撫でて、ゆっくりと下腹部へ移動していく。 そしてそっと、さっきまでキスしていた肉棒に添えられる。 「茉百合さん……?」 「うまくできるかなんて、本当はちっともわからない」 「うん」 「でも、あなたが望むから、もっと先まで……」 茉百合さんの手のひらが肉棒を撫でていた。 思わず声が漏れそうになる。 そんな姿を見つめて茉百合さんが微笑んでいた。 まるで、我慢しなくていいと言っているようだった。 「晶くん……」 「は、あっ!」 この先はどうすればいいの? そう瞳が伝えているような気がした。 だからそっと、柔らかな手のひらが触れたままの状態で腰を突き上げた。 「あっ」 つっと、先端に触れた感触。 一瞬だけなのに伝わって来た、ねっとりとした感触に頬を緩めてしまう。 「ここ……ね…」 不安そうな声で茉百合さんがささやく。 それは俺に伝えるためじゃなかった。 自分が平気だと振舞うための言葉に思えた。 けれど、そんな姿すらかわいかった。 「あ、あ……」 震えたら体がおそるおそる、俺を受け入れようとしていた。 そそり立つ肉棒の上に腰を下ろして、その中に招き入れようとしていた。 けれど、そんな事が簡単にできるはずがなかった。 「……んぅ!」 くちゅりと、小さく音がなって先端が触れ合う。 それから時間をかけて、先端がその奥に進んだ。 感触は、きつい。 「あ、はぁ、はぁはぁ……」 目の前の茉百合さんをじっと見つめる。 瞳には涙がたまっていた。 「茉百合さん、平気? 大丈夫?」 「へい、き……んん、んぅ!」 全然平気じゃなかった。 声にも返事にも、大丈夫なんてニュアンスはない。 痛みが伴っているのが、目に見えてわかる。 それなのに、ゆっくりと奥へ進んで行く感触に頬が緩みそうになっている。 「は、はぁ、はぁ……」 「茉百合さん」 「大丈夫……だから……」 全然、大丈夫じゃない。 それなのに、茉百合さんは大丈夫だと口にしながら、もっと奥へと俺を招き入れようとする。 「あ、ああ……!」 きれいな顔が痛みに耐えているようだった。 苦しい苦しいと伝えているようだった。 でも、茉百合さんは俺にそれを伝えてくれない。 平気そうな顔をして、俺を招き入れようとしている。 「茉百合さん……」 「全部……入った?」 「もう、ちょっと」 「あ、はぁ……もう、少しね……」 痛いなら無理をしないで。 俺、大丈夫だから。 そう伝えた方がいいのかなと思った。 でも、無理です。できません。 俺の上で、必死でこうしている茉百合さんを見ていると、そんな言葉は出てこなかった。 ただもっと、奥に進みたい。 「ああ、あ、んぅ!!」 「あ……」 苦しそうな、辛そうな、茉百合さんの動きが止まった。 そして、肉棒は全てその中に埋まっていた。 締め付けるような強さ、痛み。 でも、それは茉百合さんが俺に与えてくれているもの。 「入った?」 「うん」 「そう……良かった」 苦しそうに、辛そうに、茉百合さんが微笑む。 辛いって言えばいいのに言わないのはどうしてだろう。 「はあ、はあ……」 「苦しい?」 「え……」 「辛い?」 「晶くん……」 俺の問いかけに、茉百合さんが瞬いた。 何を聞かれているんだろうと思っているのだろうか。 じっと俺を見ていた茉百合さんは、頬を撫でてから微笑んだ。 「辛くない、苦しくないって言うとウソになる」 「うん」 「でも、これは全部、あなたが私にくれているもの」 「茉百合さんも、俺にくれてるよ」 「本当? あなたの欲しいものをあげられている?」 「もらってる」 たくさん、たくさん。 きれいな瞳で見つめられる事も、内側をさらけ出してくれる事も、触れ合うだけじゃないその先も……。 「茉百合さんは、たくさん俺にくれてるよ」 「良かった……」 「茉百合さん、動いていい?」 「動く……の?」 「だめだったら、しない」 このままでじっとしているなんて本当は辛いけど。 でも、茉百合さんがだめだって言うなら我慢しよう。 なんとなく、そんな風に思った。 「いいわよ」 「本当?」 「晶くんがそれを望むなら、いいわ」 「ありがとう、茉百合さん」 お礼を言ってから、小さく腰を突き上げてみた。 本当に小さく、茉百合さんが驚かないように。 腰を突き上げると、中からあふれる音が聞こえて、茉百合さんの体がこわばった。 「ひ、ああ!!!」 「あ……」 突き上げた瞬間の茉百合さんの声は思っていた以上に大きかった。 驚いたような、怯えたようなそんな声。 その声を聞いて、思わず動きを止めてしまう。 「はあ、あ、どう……したの……?」 「だって」 「動いていいのよ」 「だって、茉百合さんが」 「大丈夫、だから」 大丈夫だと伝える声が苦しそうだった。 本当に大丈夫なの? と伝えたかった。 でも、言えない。 茉百合さんの瞳はじっと俺を見つめている。 伝えたい言葉がそれだけでわかってしまう。 「早く」 「茉百合さん……」 「私は、あなたにあげたいの……たくさんのものを……」 「うん」 「私もあなたから欲しいの……嬉しいも、楽しいも、悲しいも、辛いも、苦しいも……あなたからたくさん、たくさんよ」 「俺も、茉百合さんにあげたいよ」 「じゃあ、動いて」 「でも」 「私にくれるんでしょう?」 「……うん」 じっと見つめながらうなずいて、また腰を突き上げた。 そうする事しかできなかった。 突き上げた瞬間、またあふれる音が聞こえた。 「あ、あ、ぅあ!」 ビクリと、茉百合さんの体がはねて、声が震えた。 苦しそうなのに、それを我慢するような声。 正直、その声にぞくぞくした。 もっと声が聞きたかった。 「はぁ、は、ああ……晶くん……」 声が聞きたくて、内側の深い感触を知りたくて、腰を何度も突き上げる。 「あ、ひぅ! ふぁ、ああっ!!」 辛そうな声。苦しそうな声。 けれど、茉百合さんは嫌とは言わない。 それどころか、その声は、表情は嬉しそうにも思えた。 「晶くん……! 晶く……!」 「茉百合さん……」 もっとあげたい。 俺があげられるものを、茉百合さんが欲しがっているものを全部あげたい。 どうすれば、それを全部あげられるんだろう。 「もっと、もっとよ……!」 「うん……!」 体を突き上げるたび、茉百合さんの中で強く締め付けられる。 それは拒絶されているからじゃない。 受け入れてもらっているから。 だから、どんなに苦しそうな声を出されても、どんなに辛そうな声を出されても、もっともっと突き上げる。 「あ、ああっ! あ、ふぁ、ぅう!! こ、んな……こんなの、あ、ああっ」 嫌じゃない。 苦しいんじゃない。 辛いんじゃない。 茉百合さんの瞳はそう伝えてくれている。 茉百合さんの内側は俺を受け入れて伝えてくれている。 「わかってるよ、茉百合さん、俺わかってるよ」 「晶くん……! ああ、ど、して……そんな風に……」 「茉百合さんが、くれてる……!」 締め付ける強い感触も。 ねっとりとした暖かな感触も。 あふれ出して濡れる感触も。 全部、茉百合さんが俺にくれている。 「あ、はぁ、はあ……! 私は、あげられている? あなたに、あげている……? ねえ、晶く……んぅ!」 「うん……うん!」 「あ、ふぁああっ!」 うなずきながら、角度を変えてまた奥へと突き上げた。 大きく茉百合さんの体が震える。 茉百合さんの中の肉棒が締め付けられる。 「ひ、ああっ」 声が一層大きく震えた。 苦しいだけの、辛いだけの声じゃなかった。 それは悦びさえ含んだような声だった。 「あ、ああっ、な、に? 今の、ああ、あ……」 「こう?」 「ふぁっ! あ、やぁっ!」 同じ場所をまた突き上げると、茉百合さんが同じように震えた。 内側で、またきうきうと肉棒が締め付けられる。 まるでもっと欲しいとおねだりされているような気がした。 「晶くん……変、こんなの変だわ……」 「変じゃないよ。茉百合さん、かわいいよ」 「あ、ああ、ふ! いや……自分じゃ、ないみたい……」 突き上げて、角度を変えて腰を引いて、また突き上げて。 くり返しているうちに、茉百合さんが悦ぶ部分がわかってくる。 どこを突いてあげれば、きうきうと締め付けられるかわかる。 「全部、茉百合さんだよ。俺の好きな茉百合さん」 「あ、あっ、ああっ!」 答えてくれない代わりに茉百合さんが俺を見つめる。 瞳で訴えてくる。 内側で答えてくれる。 嬉しくてたまらない。 もっと欲しい。 茉百合さんにたくさんもらいたい。 「ちょうだい……私にも、ああ、あっ! 晶くんを、いっぱい……あ、ふぁあっ!」 「うん。あげるから……!」 「ひ、ああっ!」 俺が今あげられるものを、また茉百合さんにあげる。 大きく突き上げて、深く奥まで届かせて、声を響かせる。 茉百合さんが震えていた。 小さく震える体に、また深くまで届かせる。 腰を引いて奥から離れると、一緒にあふれ出す音が聞こえる。 「晶くん……! はあ、はぁ、あ……晶く……!」 辛い。 苦しい。 でも、欲しい。 茉百合さんの瞳が語っている気がした。 同時に、勝手に決めないでとまた言われるような気がした。 もっと欲しい。 あふれる感触が欲しい。 締め付けて欲しい。 招き入れて欲しい。 「茉百合さん……はぁ、あ……」 たくさん欲しくて、どんどんと突き上げる。 何度も何度も、茉百合さんを見つめながら。 「あ、あ……いや、いや……」 「茉百合さん……?」 「いや、こんな……ああ、私じゃなくなるみたいな……あ、ああっ! こんな、ああ……」 動き続けていると、茉百合さんが戸惑うような声を出した。 どうしたのだろうと思いながら、それでも突き上げる。 「い、ひぅ! ひ、ああ、あっ……」 声が、体が震え続けていた。 茉百合さんは、自分に訪れている感触に耐えているようだった。 ああ、そうかって、何となくわかった。 「晶くん……こんなの、私、あ……どうすれば、いいの……」 「それは俺があげてるんだよ」 「晶くん、が……? あ、ああっ!」 「俺が茉百合さんにあげてるの。だから、もらって」 「こんな、でも……! こんなの、あ、ああっ!」 「……んぅ!」 ぐっと強く、腰を突き上げて、深くまで届かせた。 瞬間、茉百合さんの中で、今まで以上に大きく締め付けられた。 「あ、ああああっ! あああっ!」 「……くぅ」 締め付けられた瞬間、大きく茉百合さんの体と声が震えた。 そして、俺もそのままの状態で、大きく体を震わせていた。 どくどくと、あふれ出す感触。 茉百合さんの中に、全てが注ぎ込まれていく。 「あ、ふぁあ……はぁあ……」 受け止める茉百合さんの体が小さく震えていた。 自分の体に何が起こっているのかわかっていないみたいだった。 「晶くん……晶くん……」 「茉百合さん……」 きれいな瞳が俺を見つめていた。 だから、思わずそっと頬を撫でてみた。 「あたたかいのね……あなたは……」 「茉百合さんもだよ」 頬を撫でた俺の手のひらに、茉百合さんがうっとり微笑んでくれたのが嬉しかった。 「………ん…」 目が覚めて、まず気づいたのは天井の違いだった。 それから、シーツの感覚。 自分の部屋と違うってことに、ゆっくりと気づいてゆく。 ここは茉百合さんの部屋だ。 「…あれ?」 横を見ると、茉百合さんがいなかった。 慌てて飛び起きる。 もしも今までの何もかもが夢だったら。 すごく幸せな夢が覚めてしまったとしたら――なんて思ってしまう。 そんなわけない、と思いながら俺は飛び起きた。 「茉百合さん、茉百合さん!」 きょろきょろと部屋を見渡しても、誰もいない。 不安にいっぱいになっていると、ふわりとカーテンが揺れた。 「おはよう晶くん。お寝坊さんね」 カーテンの向こうから現れたのは、茉百合さんだった。 何故かスコップを持って、長い髪をゆったりした風にまかせながら歩みよってくる。 「茉百合さん…よかった……!」 思わず、俺は茉百合さんの体をぎゅっと抱きしめた。 「…きゃ? どうしたの?」 「茉百合さんがどっか行っちゃったのかと思った」 「ぜんぶ、俺の都合のいい夢かと……」 「うん……」 「じゃあ、ちょっと待ってて、今作業の途中だったのよ」 「作業?」 茉百合さんがテラスの方を振り向く。 「それが終わったら、朝ごはんにしましょ」 「それ……」 茉百合さんは頷きながら、鉢植えを手にした。 テラスにいくつか並んでいた、可愛らしい花が咲いているあの鉢植えだ。 「…これね、葛木さんが……あなたのお父さんが、撃たれた時に植えていた花なの」 「――っ」 「忘れないようにって、こうやって鉢植えにして置いておいたのだけど」 「そう、だったんだ」 「やっぱり花壇の方がいいと思って」 「植え替えに行くの?」 「ごめんなさいね。何だか思い立ったら、すぐやってしまわなければいけない気がして……」 「俺も行く、一緒に」 茉百合さんが顔をあげた。 びっくりしたように小さく唇を開いた後、微笑んでくれた。 「す、すぐに準備しますから」 「……ええ、ありがとう」 慌ててシャツを掴んで、袖を通す。 思わずボタンを掛け間違いそうになる俺を見て、茉百合さんが笑っている。 その笑顔は、あの優しい笑み――初めて会ったときのあの茉百合さんでもない。 誰からも距離を置こうとしているための笑顔でもない。 「いきましょうか!」 俺は、頷いた茉百合さんの手を取った。 「――わ、晴れてるな」 茉百合さんの横に立って、空を仰いだ。 よく晴れた真っ青な空が広がっている。 俺も茉百合さんと同じようにしゃがんで、鉢植えのひとつからそっと花を取り出した。 根を傷つけないように、土と一緒に手のひらに乗せる。 それから、スコップで柔らかくした土の中へと戻してあげる。 俺と茉百合さんはふたりで並んで、同じように手を動かしていた。 「なんだか、不思議……」 「何が?」 「こうやって、この花をあなたと植えていることが」 「そうなの?」 「こんな日が来るなんて、思いもしなかった……あの日から、私の時間は止まったままだったから…」 「………そうか」 茉百合さんの時間、動きだしたんだろうか。 俺は最初、茉百合さんがそんな辛いところにいることすら気づかなかった。 気づいた後も、俺はただまっすぐ茉百合さんに向かうことしかできなかった。 茉百合さんが自分で歩き出したんだ。 俺はその横で、できたら同じ歩幅でいられたらいい。 「ねえ、茉百合さん、親父にもさあ、俺にやったみたいなきつい事言ったの?」 「きついことって……」 「『お前、帰りなさい』みたいな」 「葛木さんはずっと年上で、しかも警護でいらっしゃってたのよ。あなたとは違うでしょ」 「そうですか……」 「……くすくす」 ふと、茉百合さんが手を止めた。 「ねえ、晶くん…」 「何?」 「私、これからはもっと自由に生きていくわ」 鉢植えから自由になった小さな花たちが、ゆらゆらと揺れている。 「ちゃんと自分の言いたい事を言って、幸せになるわ……」 「うん」 「そのためにはまず、結婚のお話から何とかしないとね」 「あ、そ、そうだ! 何とかしないと! え、何とか!?」 「晶くんが何とかしてくれる? 結婚式に乱入して、私をさらっていってくれるかしら」 「さ、さらってゆく!?」 そんな映画あったような気がする。 花嫁をかっこよくさらって走りぬけてゆく場面。 「ちょ、それは強引すぎませんか!?」 「そういうの、ちょっと憧れだったのよ」 「いや、結婚式まで何で飛ぶんですか。その前にちゃんと話を止めましょうよ」 「うちのご当主様ね、本当に怖い人なのよ。晶くんがどこまで頑張れるのか、楽しみだわ」 「…………」 「あら? まさか物怖じなんてしないわよね? 私が好き〜ってぼろぼろ泣いてたのに」 「それは! いや、茉百合さんだって同じだったじゃないですか!」 茉百合さんはただ笑っていた。 鉢植えはからっぽになって、花たちはみんな土の上で揺れている。 花弁がみんな上を向いて咲いていた。 茉百合さんはそんな花たちと同じように、空を仰いだ。 「ああ、なんだかとても気持ちがいい」 「うん…」 茉百合さんは名残惜しそうに、花に触れた。 いつか言っていた、花が嫌いという言葉が思い出された。 だけど、それはきっと違う。 本当はこの花を大事に大事に、いつだって愛でていてあげてたんだ。 「ありがとう、本当に……」 「……ん?」 「この花をこんな気持ちで見ることができたの……本当に久しぶり」 「こんなにきれいだったなんて、すっかり忘れてたわ」 愛おしさが、その指先からこぼれおちていた。 茉百合さん。 茉百合さんはいつだって、そういう人だったんだね。 どんなに固く指を閉ざしていた時でも、その中にちゃんと大事な、温かな愛しさを持っている人なんだ。 だから、好きになった。 後ろをついてゆくのでも、隣を歩くのでも、ほんの数歩前をゆくのでもいい。 だけどずっとそばにいたい。 心の底から、本当にそう思う。 「茉百合さん――」 うん、と頷いてから、茉百合さんは立ち上がった。 「お腹がすいたわね。晶くんお待ちかねの、朝ごはんにしましょうか」 「うん、おなかすいた!」